ヒトとして生まれて・611

011  テレビドラマからの大いなるヒント

 昨年、話題になったテレビドラマ ”VIVANT”の最終回を
もう一度観賞して気付いたことがある。最終場面に、行く末を暗示
するシーンが仕込まれていたのだ。

 そこには発信する側からの「気付いてよね」という思いのような
ものが分かりやすく工夫されていた。このドラマには全体を通じて
視聴者が最終場面で、気付きやすい伏線が仕込まれていた。

 振り返り場面の重要シーンは、最終場面で主人公の父親が重鎮と
共に、主人公によって射殺される場面が報じられたが他局のテレビ
で、貫通度の高い銃弾を使用して、命にかかわる身体部位を外して、
銃弾を貫通させれば、その後の緊急的な救命措置によっては、生還
の可能性が高まることを知った。

 しかも”VIVANT”の重要シーンを振り返れば主人公が仲間
を一瞬にして射殺する場面があったが、その後、別班の仲間全員が
病院で救命措置を受けて、生還していることが確認されている。

 これらのことを統合して推論を働かせれば、主人公の父親と重鎮
は射殺されたシーンの後で、秘密裏に病院に搬送されて緊急手術を
施され、無事に生還、療養後、モンゴルに帰り、モンゴルでは義弟
が引き続き企業経営にあたっているので、その陰の重鎮として復帰、
義弟の企業活動を支えることに繋がったのではないかと?

 そして、更に深層部分の重要人物として、主人公の父親と重鎮が
主人公の銃弾に倒れた後で、病院までの救出ルートを用意したのは
なんと主人公と多くの場面で協力関係にあった公安のあの人物だと
思わせるシーンが最終場面にあった。しかも主人公の父親と重鎮の
焼死体まで偽装していることが想像できるシーンまであった。

 これらのことはビデオを再度、繰り返して観て気付いたことだが
テレビドラマ ”VIVANT”は、そこまで計算して演出してい
るところが、なかなかに、優れた演出と云えるだろう。
(あくまでも私の推論だが、この辺が醍醐味なのだろう)

 テレビドラマから振り返って気付くことの醍醐味に気付いた私は
自分が長年にわたって航空マンとして働いてきた職場を振り返ると
いう意味で「航空宇宙30年の歩み」として、かつてIHIの社史
ほどの規模ではないが、当時、昭和62年(1987年)に発刊さ
れたところの航空宇宙30年の歩みの見開きページを観て驚いた。

 今から、37年も、前に、記した航空宇宙事業本部の歴史だが、
目次を振り返って驚いた・・・

 目次を捲った時に章建てとして、第1章に「田無工場の誕生」は
あるのだが、我々が活躍した「瑞穂工場」の章建てがないのだ。

 発刊時の昭和62年(1987年)といえば、田無工場の誕生は
昭和31年(1956年)に稼働を開始しているので既に31年間
が経過しており、第1章の章建てになるのは当然のことだ。
 
 一方で、瑞穂工場は昭和45年(1970年)には稼働開始して
おり、航空宇宙事業本部史の発刊のタイミングでは、既に17年間
が経過しており、第1章「田無工場の誕生および瑞穂工場への伸展」
として章建てをしても良い位置付けにあると云える。

 しかも、航空宇宙事業本部史としての編纂の経緯として、編集者
の変遷を照査した時に、初期の段階では、編集委員長は副本部長の
I氏で設計部門でジェットエンジン技術を長年にわたって牽引して
きて、その後、瑞穂工場長の任務にも着任されており完成エンジン
を責任をもって出荷して来た立場からも事業本部史を最終的に監修
する立場からは最適任であったといえる。

 しかし、航空宇宙事業本部史として、発刊の直前に、I氏が他界
されたために編纂委員長も、I氏から、O氏へと引き継がれ発刊に
当たっては、当時の本部長であったT氏が編集に当たっての監修的
なイニシアチブを持つに到った。

 結果、編集後記における最終的な編纂委員長は当時の田無工場長
のO氏となった。しかも最終段階で編纂に強い影響力をもったT氏
は、O氏の大先輩であり、T氏も、元々の出身は田無工場長であり
実質的に「田無工場の30年の歩み」という色合いになっても当然
な結実と云える。

 したがって、第1章に「田無工場の誕生」という章建てが来ても
自然な成り行きといえる。

 ただし我々従業員の立場からは航空宇宙事業本部史として30年
の歩みを語るときに、次の「三つのスプリット」が強調されている
必要があると痛感する。

◯ 一つ目は、日本の航空業界にあって、最初の純国産ジェット機
の開発と実用化において、その主軸となる純国産ジェットエンジン
開発と実機への搭載飛行において、エンジンとしての性能に問題点
が多発して、通産省と防衛庁との肝いりで、エンジンの担当を1社
に絞り込むことになった。

◯ この時に「火中の栗」を拾う覚悟で、手を挙げたのが、当時の
石川島播磨重工業(IHI)の土光社長であり、自らガスタービン
を手掛けた経験から、将来のジェットエンジン専業メーカーとして
シェアーを独占する覚悟で、種蒔きをした功績は特筆に値する

◯ そして、土光社長が拾った火中の栗を、自ら率先して我が国初
のジェットエンジンとしてまとめあげ実機での飛行試験も成功させ、
IHIの航空分野における成長分野に育て上げたのが事業本部長と
しては、初代の永野治氏であった

◯ 二つ目は、二代目の森糾明本部長の功績であり、我が国の民間
輸送機における、ジェットエンジン整備分野において競合他社優勢
の状況の中で形勢を逆転させて、受注に成功した点は特筆に値する
出来事であり、その後も他社の猛追のなかで瑞穂工場の総力で受注
活動に競り勝ち、やがて、襲い来る全社的な不況のなかで他の事業
本部からの余剰人員受け入れに貢献した

◯ 三つ目は、三代目の今井兼一郎本部長の功績であり、航空事業
部門として独立採算で利益が確保出来るよう「生産性向上運動」に
尽力、その後は、顧客に向けた品質保証を、絶対的なレベルにまで
引き上げるために品質の優秀性を保証するデミング賞にチャレンジ
して、顧客の信頼を絶対的なものにした

 これらの三つのスプリットが盛り込まれてこそ航空宇宙事業本部
史と云えるのであって、昭和62年(1987年)発刊の書籍には
これらのことが網羅されているかというと疑問である。

 発刊当時まで暦を遡って考えた時に、編纂委員長として、当時は
石川島汎用機械株式会社の社長であった土光陽一郎氏に頼み込んで
委員長を懇願、O氏が委員長代理を努め、I副本部長の後任として
継投する道はあったと考えるが、そこまでの思考は及ばなかったの
だろうか?

 我々従業員の立場からの考察として・・・

◯ 前述の一つ目のスプリットにおいて、土光陽一郎氏であれば、
純国産ジェットエンジンの実機における飛行試験の成功にも関与
しており、航空宇宙事業本部史にも生々しい記事が書かかれたの
ではないか?

◯ 前述の二つ目のスピリットにおいても、当時、田無工場長で
あった土光陽一郎氏が、民間輸送機などのジェットエンジン整備
に向けた瑞穂工場への伸展に向けて、若手を瑞穂工場に送り込む
ことを考えて、実践に移し、田無工場に次ぐ若い工場を育て上げ
たのが、当時の土光陽一郎氏であったことを考えると、親工場の
立場からの展望を記事に出来たのではないか?

◯ 前述の三つ目のスプリットでは、田無工場・瑞穂工場に向け
て、生産性向上運動の燈を最初に掲げたのは土光陽一郎氏であり
当時の熱烈な思いが語られていたら、後輩にとっても楽しい記事
になっていただろうと考えると惜しい?

 いずれにせよ、当時、T氏とO氏にとって、土光陽一郎氏は
お二人にも共通の恩人であったと考えるが「そのような発想」
はなかったのだろうか?

(続 く)

ヒトとして生まれて・611

ヒトとして生まれて・611

テレビドラマからの大いなるヒント

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-01-03

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