美しいばかりのマウスたち

ユニバース25という実験をベースにしたショートショートです。

 みゃおん。
 ネコがそう言うと、ネコネコ翻訳機に砂時計の待機画面が表示された。
 その結果が出るのを、お揃いの白衣を着た男子学生と女子学生は、固唾を呑んで見守った。二人は肩が触れ合う程にその身を寄せ合い、この後、この小さな画面に表示されるはずの言葉を静かに待った。
 二人は至って真剣であった。大真面目であった。何せ、この翻訳の結果次第で、実験の成否が自ずと見えてくるのである。
 本当は二人は実験になど興味はなかった。ただ、教授にまた怒鳴られるのを恐れているだけである。禿げちゃびんの小汚い小男は、会うといつでも「学生の本分は研究にあり! 実験もせぬとは何事だ」と喚き散らしてきた。
 そうは言っても、ここは、何もない研究室。お金どころか、学生だってこの二人以外に誰もいない。教授だって本当に教授なのか、怪しいものだ。
 しかし、二人に自分たちが学生だという自覚がある以上、確かに二人はそれを演じなければなるまい。
 仕方がないので、二人は学内を徘徊していたドブネズミを何匹か捕まえあげ、使っていない研究室にぶち込み、それを繁殖させ、コロニーを作り上げた。古い実験を再現してみることにしたのである。
 A研究室のネズミには、十分なスペースと、たっぷりの餌を与え、そこにユートピアを作り出した。しかし、古い記録によると、この完璧な理想郷は数年で滅亡するというのだ。どれほど好ましい環境に整えても、やがてはネズミの社会に格差が生まれ、結局ある一群が無気力となり、そのうち繁殖を試みないネズミが増え、数年のうちにコロニーは滅んでしまうという。
 それならば、危険な刺激のある暮らしと、本当はどちらが優秀なのか。
 二人はB研究室にもネズミをぶち込んだ。そして、その辺にいたネコをこれまたひっ捕らえて、そいつをB研究室に解き放った。いかにも雑種という感じで、ずんぐりとした愛嬌のないネコである。ネコには餌を与えず、ネコがネズミを追いかけるのを待った。
 ところがネコは一向に動き出さない。監視カメラをつけて覗いてみたけれど、狩をしている様子はない。初めは怯えていたネズミたちも、今では生欠伸をするネコの横で、それが当たり前というような生活を送っている。ネコの背中を台にして飛び上がるような強者さえ現れた。
 これでは、実験にならない。教授の怒号がまた飛ぶだけである。
 二人は教授の落雷を回避するためにも、ネコネコ翻訳機を教授の研究室から盗み出して持って来た。ネコにネズミを襲わない理由を直接聞くためである。教授の研究者としての力がどれほどのものなのか疑わしくはあったが、これが唯一の希望と、二人は藁をも縋るような気持ちで、ネコに詰問した。
 問われたネコは、太々しい顔を二人に向けてただ「みゃおん」と答えた。
 途端にネコネコ翻訳機が動き出した。画面に翻訳中を示す砂時計が現れ、暫くそのままになっていた。あまりにも時間がかかるので、やはりこれは役立たずだと、二人が教授をこき下ろそうとした時、不意に画面に文字が現れた。そしてそれが、止まらない。あの「みゃおん」にそんなに沢山の意味があるとは思えないほどの長文である。二人は身を寄せ合ってそれを見つめた。
 以下は、画面に現れたそれである。

 馬鹿だね。あんたたちは。私にどうしてネズミを追いかける義理があるってんだ。私はお前たちに恨みこそあれ、かける情けなんてありゃしないよ。いや、ネズミなんぞ喰いたくないということじゃない。お前たちの思い通りに働いてやるのが、ただ嫌なんだ。
 信じちゃくれないだろうが、私はついこの間までニンゲンだったんだ。百三十年ほど生きたニンゲンで、どうしてもネコになりたかった、そんなニンゲンだ。その願いがついに通じて、ある日、目が覚めると、ネコになっていた。それで、あと少しで、私の人生は完成だったのに。お前たちは、それを崩した。腹立たしくって仕方がない。無論、お前たちにはお前たちの人生の目的があるのだろうから、恨むんなら自分の運命を呪えってもんで、私の怒りは八つ当たりに過ぎないのだけれども、それでも悔しいものは悔しいものさ。
 お前たちが私を捕らえた瞬間から、私の夢は潰えたんだよ。ネコになって何をしたかったかって? 愛される暮らし? とんでもない。気まぐれな生活? どうでも良い。
 私がネコになりたかった理由は一つだけ。ネコになって死にたかったんだ。ニンゲンだった時の私は百三十歳。いつ死んでも不思議じゃなかった。ただ、私は誰にも死に顔を見せたくなかった。死なんてものが、綺麗なはずはなくて、あんな瞬間を誰かに眺められるなんて、考えるだけでもぞっとするよ。だが、人が人である限り、簡単には一人で死ねない。病院が、社会が、墓が、生きている時も、死んでいる時も、孤独であることを許してはくれない。上っ面の優しさが息も詰まるほどに、私を締め付ける。
 ここまで孤独を愛してきたんだ。今更縛りつけられるのはごめんだね。
 だから私はネコになりたかった。ネコになって、嗚呼、自分はそろそろ死ぬなと思った頃合いに、喧騒の街を抜け出して、そっと静かな森に迷いたかった。静かな森には、黒くて大きな楠木がやはり静かに立っていて、根と根の間に穴があり、私はそこに落っこちて、そのまま死んでしまうんだ。
 死んで終わり、とは言わないよ。いつか豊かな土になるんだ。これまでの私の阿呆臭い人生の全てが養分になるように。
 そして、素朴な野花を匂わせること、これが、私の全ての人生をかけた切なる願い。
 これまで、泥臭く小汚く生きて来たんだ。せめて死んだあとくらい、美しい何かを誇りたいじゃないか。
 そう。私は孤独を愛し、自分勝手に生きてきた。けれども、与えられるだけでない、世界に美しいものを与えたい、そんな風にも思っていたんだよ。
 だけど、この平和な世界は、常に美しいもので溢れていて、溢れていて、美しくあることが当たり前で、私みたいな能無しは、いつも肩身が狭いんだ。
 私も世界に何か美しいものを生み出したいと、沈む夕陽を眺めては、そんなセンチメンタルに頭を殴られて、明日こそはと心を奮い立たせるのだけども、結局明日になってみれば、自分より美しく、美しい心を持った人たちが、より良き世界を創り上げていて、どうしたって私に出る幕はないんだ。
 せめて人様のご厄介にならないようにと思うのだけど、社会はこんな私を見殺しにするまいと閉じ込める。美しすぎる者達の抱擁に、もう、息もできないよ。
 だから私はネコになりたかった。ニンゲンの身体から抜け出して、与えられるだけではない、私自身が美しいものを生み出す存在になるように。私という存在が、何かを生かす何かになるように。
 ネコになったと気づいた時、これは天命なのだと思ったよ。天は私が野花を咲かせることを望んでいる。そう信じた。
 そうして、再び籠の中に放り込まれた。天敵などいない、平和に飼われる世界。どうしようもないほどの絶望感。お前たちが私を捕まえなかったならば、私はまだ夢を見ていたよ。
 お前たちの生きている時代は、きっと私の生きた時代より、厳しいのだろう? 私はお前たちの人生を知らないが、それでも本当は、お前たちの幸せだって祈っているんだ。平和にのうのうと生かされ続けただけの情け無い私だが、汗水流して働いて、私なりに、世界が良くなるように、一生懸命生きたんだ。信じてくれ。
 何度でも言う。私の真なる願いは一つ。私が世界に何かを与えること。そんなネコがネズミのユートピアを奪うだなんて、ほら、おかしな話だろう。
 だから、私はお前たちの幸せを祈りながらも、身動きの取れないままでいるんだ。恨んでくれてもいいが、私にはどうにもできやしないよ。

 二人はネコネコ翻訳機に次々と表示される言葉に胡散臭さを感じた。どう考えたって、あの鳴き声一つにこんなに多くの意味があるとは思えない。だが、何となく哀れに思って、結局は放してやった。
 ただ、放してやった後で後悔した。実験無くして、二人の日常に平和は訪れない。教授への恐怖は膨らむばかりだ。
 仕方がないので、二人は研究室に幾夜も籠り、教授の怒りを買わないための策を練り続けた。そうして、その時間がそのうちに二人の関係を恋人へと変化させた。
 ネコの手紙が一つの美しい愛を生み出したことを、そのネコは知らない。

美しいばかりのマウスたち

R6.1.8タイトル変更しました

美しいばかりのマウスたち

  • 小説
  • 掌編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-12-28

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