五月雨艶聞散花様《さみだれえんぶんさんげよう》①

五月雨艶聞散花様
《さみだれえんぶんさんげよう》

世間様にて時折耳にする“存在に恋をする”とは如何なる心模様であるのか。
それを突きつめたく思い、書き始めた物語です。

よろしくお願い申し上げます。

1・落花曇天を背負う

 一切有為法 如夢幻泡影
 如露亦如電 応作如是観
 (いっさいのういのほう
 むげんほうようのごとし
 つゆのごとく、またかみなりのごとし
 まさにかくのごときかんをなすべし)

           ──金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)


       **


 時に。
 と()る中都市にて、若い女がポツネンと1人淋しげに窓の外を眺めていた。
 見るともなしに曇天の行方を追っているようだった。

 閑散極まりたる室内には、初夏の(ぬる)微風(そよかぜ)がサワサワと吹き込んでおり、彼は(かわ)誰時(たれどき)()うに過ぎ去り、女の心だけを置き去りにして街が徐々に目覚めてゆく。
「はぁ……」
彼女自身が吐き落とした(いき)()の、途切れる間際の(かす)かな()が、人形のように整ったその美しい耳へと、不規則に、しかし確かに漏れ聞こえている。
 女は、(おと)の少ない揺れのない空気を目一(めいっ)(ぱい)に詰め込んだ小箱の如きその居室の隅にある掛け時計の秒針が規則的に室内へ零してゆく侘びしさを懸命に(こら)えながら、心淋(うらさび)しく虚ろな表情を一切隠すこともできずに、ただひたすらに玲瓏と、簡素な窓辺にじっと座り続けていた。
 はたして彼女は、いつからそこに座っていたのだろうか。
 窓外(そうがい)に見える青藤色(あおふじいろ)の空に浮かぶ、途方もなく大きな灰白色(かいはくしょく)の雲塊を、飽きもせずにそして身動(みじろ)ぎもせずひたすらに眺め続けているその姿は、サルバドール・ダリの名画を想起させる。
 そうしてそのうちに、灰白色の大雲(たいうん)のわずかに下を鉛色をした乱層雲が疾風(はやて)に乗り次々と駆け抜け始めた。
 するとふいに、
「嵐が近いのかしら」
などと、少しばかり悪戯な口調で、女がポツリと呟く。
 次いで、自嘲の笑いを浮かべた彼女は、儚げに視線を横へと流した。

 女の名は、華崎(はなさき)碧里(みどり)
 現在は身魂(しんこん)疲弊しきっており世を(いと)う思いに心縛られていたが、本来ならば誰よりも高潔な(たち)の女であった。

       **

 ややあって、些か疲れてしまったのか、碧里は出し抜けに曇天から目を逸らして、隣に建っているビルの屋上庭園をそっと見やった。
 美しい純白の半夏生(はんげしょう)は開花の時期を過ぎており、目下のところ屋上庭園にて咲いているのは、千歳(ちとせ)震わす美を携え(ほころ)ぶ桔梗クレマチス鶏頭ジニアルドベキア。
「空に飽いたら、花を眺める……」
 その麗しき屋上庭園の観察は、日々繰り返し空を仰ぎ見るより他には何も趣味という趣味を持ち得ぬ碧里にとっては、慣れ親しんだ愛すべき“暇潰し”の1つであった。
 なにしろ、庭園の在る商業ビルは3階建てで、碧里の住む部屋は4階──つまり、彼女の部屋の窓から表を覗くと、はからずも季節ごとに違う美しい木々や草花の繁る素晴らしき屋上庭園と間近に相対する事のできる形となっていたのであるから、まるで自分の為に(しつら)えられたようだとの錯覚を碧里が内心覚えていたとしても無理からぬ話だった。
「籠の中の蝶々は、花に飽いても空に飽いても、別の場所には()まれないのよ。私の気持ちなんて、誰にも解らないのだろうけれど……多分」
諦念(ていねん)漂う表情を浮かべ、途切れ途切れに、碧里はボソボソと独り言つ。
「私って何の為に生きているのかな──」
そうして何かに気がついた。
「あれ、誰だろう?」
 彼女の視線の先では、徐々に風が強くなってきたせいか、近づきつつある嵐の被害を見越して大切な植物を守らんと屋上へと出てきた人影が1つ、右へ左へと忙しなく動き作業を行っていた。
 隣家のビルの屋上庭園に人が出て来るのは、随分と珍しい事である。
 どうやらその人影は、背格好から察するに、若い青年のようだった。
「人が居るのなんて初めて見た」
 碧里は、滅多にない変化に見る間に釘付けとなってしまう。
 青年の姿がよく見えないせいかコクンコクンと小首を傾げるその姿は、潔白で真っすぐで美しく、もしも誰かが目にする事があれば、間違いなくその(こころ)の芯を強く打ったに違いなかった。
 そう、まさしく。
 今この瞬間、目を白黒させながらも電動車椅子の上にて彼女が無邪気に微笑む様は、まるで幼子のように混じり気のない清らかさを放っていた。
 ──碧里は、14の時分に不運な事故により両腕と片脚を無くしていた。ゆえに、自力のみでは一切歩く事ができない──。
「あ、隠れちゃった。あゝ……よく見えなくなっちゃったよ」
 そのうちに、夢中になり過ぎた碧里は、知らず()らず、(チン)操作式の電動車椅子のコントローラーから不必要なぐらいに遠くまで(あご)を離してゆく。
 それはとても危険な行為だった。
 車椅子上で座位のバランスを欠くような体勢を取る事は、決してよろしくはない動作だ。
「屋上庭園のお世話って、普通のお世話といったい何が違うのかな」
 穿つように夢中で一点を見つめ続ける彼女。だが、青年と碧里2人の視線が偶然絡まった、まさにその次の瞬間、遂に悲劇が起きた。
「──あ」

 ヒュウ

 強風に煽られた長い園芸ロープに足を絡め取られ、碧里と目を合わせたままで、不運な青年は、外れた屋上のフェンス諸共(もろとも)に地上まで真っ逆さまに落ちていった。
「きゃあああ!!」叫ぶ碧里。
「いや! 嫌ああっ!!」
パニックになり、ひたすらに叫び続ける碧里。
 そうして、思わず身をよじった拍子に、車椅子ごと激しく転倒をした。
 動けない。
──痛い。痛い。痛い。
刹那の間、痛みで感情が埋め尽くされる。
 しかし必死で体を捻り引きずり動き、碧里は懸命に助けを求めた。
「だ……誰か助けっ、お願い、助けてあげて、助けて! 助けてあげて!!」
 叫び声を聞きつけたのか、彼女の担当看護師が大慌てで駆けつけた。
「どうしたの?! 碧里ちゃん?」
「お、落ちたの! おち、おっ……人が落ちた! 屋上から。落ちたのよ!! た、助け……」
「ああ……うんうん。解りましたよ。夢を見たのかな。大丈夫だから落ち着いてくださいね、碧里ちゃん。大丈夫よ。とにかくベッドに戻りましょうね」
「私、ずっと目が合ってた。死んだ。あの人、きっと死んじゃった。死んじゃったよ。死ぬところ見ちゃった!」
「窓の外は見なくても大丈夫ですよ。すぐに先生が来てくれますからね、大丈夫。ね、今は1度眠りましょうよ。きっとそんなの……幻覚ですよ」
 看護師の女性は碧里に対し穏やかにそう伝えると、慣れた手付きで重症・身体機能障がい者向けのナースコールに向かって声を出して応援を呼んだ。

       **

 美しい純白の半夏生は開花の時期を過ぎており、目下のところ屋上庭園にて咲いているのは、千歳(ちとせ)震わす美を携え(ほころ)ぶ桔梗クレマチス鶏頭ジニアルドベキア……。

 花弁が、1枚、2枚、3枚、と、もはや曇天を見つめる事しかできぬ青年の視界を塞ぐようにして切なげに落ちてくる。

 屋上では、沢山の花々が吹き荒ぶ疾風に揺れ動き、不幸にも落下してしまった青年を見下ろすように花首をもたげていた。


              ──次話へ

五月雨艶聞散花様《さみだれえんぶんさんげよう》①

拙作をお読みくださり誠にありがとうございます。

※作中のダリの名画とは、『窓辺の少女』ではなく『後ろ向きに座る女』の方です。

三日月

五月雨艶聞散花様《さみだれえんぶんさんげよう》①

五月雨艶聞散花様 《さみだれえんぶんさんげよう》 世間様にて時折耳にする“存在に恋をする”とは如何なる心模様であるのか。 それを突きつめたく思い、書き始めた物語です。

  • 小説
  • 掌編
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  • 青年向け
更新日
登録日
2023-09-20

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