ヒトとして生まれて・第6巻

はじめに

 私の人生の第1ステージを「純国産ジェットエンジン」の設計時代
とすれば、生産事業部における田無事業所と瑞穂事業所における活躍
の場を第2ステージと位置付けることが出来る。

 そして、生産事業部におけるビデオを活用した管理工学(IE)の
導入こそが、私にとっての人生航路を決定づけた黄金時代の幕開けで
あったと云える。

 私にとっての幸運の始まりは石川島播磨重工業(IHI)の入社式
において、新入社員の名前が一人ひとり順番に呼ばれて土光敏夫社長
とアイコンタクト、私の名前が海運関係者であれば誰でも知っている
超有名人の潜水艦艦長「佐久間 勉」と同じ名前であったためか?

 土光社長からのアイコンタクトの時間もより長くレーザービームの
ような眼光は私の脳内にたしかな養分として注入された。したがって
土光イズムの「学歴不問・適材適所」の経営方針は容易に脳内に格納
されて、企業生活における羅針盤となった。

 そして、新入社員として配属された航空エンジン事業部の設計部門
では、部長の今井兼一郎氏のディスクの前で、他の新任設計要員5名
と共に、最近の学校においては 「内申書に成績を盛るのかい?」と
いうジョークが添えられて暖かく迎えられた。

 私は、設計部門では、純国産ジェットエンジンの量産設計の設計陣
の末席に加えていただき、その後は、エンジンの推力増強と強靭化に
向けて、本格的な設計要員として参入、P2J対潜哨戒機への換装に
当たっては、航空機メーカーとの調整なども任された(時に24歳)。

 そして、田無工場の土光陽一郎工場長とは、テニスコートにおいて
運命的な遭遇、週末のコート整備は誰しも敬遠しがちであったが、私
は軟式のテニスコートにおいて「一人・テニスコートのローラーがけ」
土光工場長も硬式のテニスコートで「一人・テニスコートの整備」と
いう状況の中、約6か月後に生産事業部の田無工場に純国産ジェット
J3エンジンの技術支援のための異動となり土光工場長から田無工場
の事務所内において、生産技術スタッフに紹介いただき、田無工場の
仲間として加わった。

 その後(3年後)、瑞穂工場の新設に伴い27歳の時に、引っ越し
プロジェクトのメンバーの一員として選任されて、土光工場長から、
その後の瑞穂工場の運営についても、仲間と共に将来を託された。

 瑞穂工場の操業開始と時を同じくして、今井本部長からは・・・

「現在、航空エンジン事業部の売り上げは全社的に約5%の売り上げ
にも満たないが、将来の屋台骨を目指すからには、小なりと云えども
収益的に黒字化を目指したい」ということで、生産事業部の田無工場
と瑞穂工場に向けて生産性の向上を目指す様に指示が出された。

 これを受けた、田無工場と瑞穂工場の生産管理課では具体策を検討
する過程で「能率管理」の導入が課題として挙がった。能率管理とは
作業毎の標準時間に照らして実績時間を対比させる方式で職場を鼓舞
する方式をとっており、この時に「標準時間の設定」が重要になって
くる。

 この時に、私は、新設された瑞穂工場内のレイアウトの設定などを
担当していて、生産管理課の所属であったことから、標準時間を設定
する役割を課せられて、その任に当たることになった。

 当時、私は、その任に当たるのであれば、管理工学(IE)の分野
での学びが必須と考えて「管理工学便覧」を熟読した。

 そして幸いなことに、当時かつて純国産ジェットエンジンの草創期
における設計者の一員であった田村克男氏から「ワークファクタ」と
銘打った文献のコピーをいただいた。

 この文献によれば、個々の詳細な動作について予め標準時間が定め
られていて、これを個々の作業に当て嵌めて、標準時間を定めて行く
ものだが膨大な業務量が想定された。

 そして個々の詳細な作業の分析については手足の動作をキメ細かく
記録用紙に書き留めて、時間を当て嵌めて行く方法が、管理工学便覧
に記されていたが、不器用な私には不向きと考えた。

 私が思案の挙句に考えた方法論は、当時は装置一式で100万円も
する高価格であったが、この作業分析の記録方法としてビデオ機器が
導入出来ないかと考えた、そこで街中に出向き電気店においてビデオ
機器を手に取って、自分で操作してみた「これなら行ける」と考えた
私は社内に出入りしている電気機器の販売店に「ビデオを貸して」は
いただけないか、と、頼み込んでみた。

 電気機器の出入りの業者の方からは「いいですよ」と快諾が得られ
て「我がビデオIEによる標準時間設定」の活動が開始となった。
 
 それでは「ビデオIE」導入によって我が人生の華を咲かせた、
サクセスストーリーを、順次、紹介して行くことにしよう。



001   ビデオIEの創案が新しい人生航路を開拓

 ビデオ機器を活用した管理工学(IE)の実践については、当初は
電気店からの借り物で試行していたが、社内の設備投資部門の了解も
得られて、自分たちの専用機器を購入して本格的な活動を開始した。

 先ずはジェットエンジンの組立作業工程の標準時間の設定から取り
掛かり組立工程を細分化してそれぞれの作業区分毎にワークファクタ
の動作分析に示されている、標準時間を当てはめて、標準時間を設定、
妥当性を確認した上で標準時間を設定して行くのだが、標準時間設定
までに、たいへんな時間を要することが分かった。

 自動車産業などにおける流れ作業での標準時間の設定などにおいて
は、作業工程が既に細分化されていて標準時間設定の対象も小刻みに
細分化されているので標準時間の設定も容易だが、ジェットエンジン
の組立作業については部品入手から総組み立てまで一連の作業として
進めて行くため、作業の流れを観察する側で小さく区分して行く必要
がある。しかしそれだけにビデオIEでは繰り返し見直しが出来るの
で観測者にとっては有利だがなにせたいへんな業務量になってくる。

 それに加えて瑞穂工場内における全作業についての標準時間を早急
に設定して行くには俊敏性も求められる。その様な状況の中において
過去の作業時間の実績値から、標準時間を求める統計的な計算処理の
方法として、アトキンス分析法なる手法を管理工学(IE)便覧から
見出し、代表的な作業工程について、統計処理をしてみた。

 そしてサンプリング的に、その統計処理で求めた対象工程について
の作業時間と、ビデオIEで求めた標準時間とを対比、それぞれの値
が近似していることが確認されて、それぞれの技能者にとっての標準
時間としての時間感覚的にも妥当性が確認されて、瑞穂工場における
工程毎の標準時間設定は、アトキンス法によって一挙に進んだ。

 ビデオIEによる標準時間設定の実証実験は、日常的なオフィイス
では他のスタッフの業務の邪魔になるので会議室を借りて進めていた。
その日は、たまたま標準時間の設定の方向付けを行うために、当時の
造修計画課長(後の生産管理部長)と、私と二人で検証作業を行って
いた。その会議室のドアを開けて入ってきたのが、今井兼一郎本部長
であったので、少々、驚いたことを今でも覚えている。

 私が新入社員として設計部門に配属になった時に、お世話になった
元今井設計部長なので懐かしい思いもあったが、突然の再会には少し
驚いたものの、造修計画課長のO氏を訪ねて来て、O氏の机上の行先
が第一会議室であったので、会議室のドアを開けたのであった。

 今井本部長から「何の試みですか?」と訪ねてきたので・・・

「管理工学(IE)導入の方法論として、ビデオを使って作業工程の
標準時間設定を試みています」と二人で応えると、

 今井本部長から「欧米の管理工学(IE)の活用の実態はどの様な
方法論を活用しているんだろうね?」と、いう問いかけがあり、
「O課長が、近々、欧米のエアラインや航空エンジンメーカーに出掛
けるので、君も、同行すると良い」と、O課長に向けて問い掛けた。

 O課長からも「是非、そうさせて下さい」ということで、ほとんど
即決で、私の欧米における管理工学(IE)の実態調査が決った。

 私の欧米における管理工学(IE)の実情調査のための海外出張の
手続きは、即日、行なわれて、東京吉祥寺の英会話スクールへの入学
手続きも俊敏な措置で準備が行なわれて、翌週には、英会話スクール
に通うことになった。

 吉祥寺の英会話スクールでは、アメリカ人の校長が出迎えてくれて
歓迎会では、早速、街中のレストランに出掛けて、食卓マナーの概略
説明から授業が始まって、実際の教室でのレッスンは翌日から始まり
個人レッスンの形式で日常会話の習得からスタートした。

 テキストは”Modern English an oral approach"と銘打ったもので
Unit 1から17までのシリーズもので、約3か月の猛レッスンであった
が、実際に消火出来たのは、シリーズ5までであった。

 個人レッスンは、男女交互の講師で、いろんな出身地のアメリカ人
との会話練習の積み重ねであったために、会話そのものの習得を越え
て、アメリカ人としてのさまざまな人種との交流にも違和感なく対応
出来るようになったことが、その後の約1か月間の欧米における出張
において、強力なコミュニケーション能力の習得に寄与した。

 実際の現地における会話では、同行させていただいた造修計画課長
のO氏を介して、理解を深める機会が多かったが、その分、会話を通
じての勘は良く働いた。
(管理工学的に、そんな筈がないといった、繰り返しの確認である)



002   アメリカの風土に我が人生の故郷を観た

 初めての海外出張で、最初に降り立った空港はサンフランシスコで
あった。空港で、最初に眼に入ってきた印象は「原色系」の鮮やかな
風景であった。

 日本で観る都市の風景は、昼間はコンクリートのグレー系の風景の
中に観る淡い色彩という印象だが、サンフランシスコの原色系の色彩
から受ける印象は華やかなポジティブカラーだ。

 これから体験学習を重ねる当時(1970年代)の欧米の航空学に
おける領域は、日本よりも遥かに先進的で、学ぶことが多いと感じて
いただけに、街中の原色系のイメージは、我々の知見を越えた世界が
そこにはあることを予見させた。

 今回の海外出張の大まかな旅程は、アメリカではジェットエンジン
メーカーのGE社においては、東海岸地域から西海岸まで三つの地域
における事業所での管理工学(IE)実践の実情調査、エアラインに
ついては、アメリカン航空やデルタ航空といった大手エアラインでの
オーバーホールなどの整備事業における管理工学(IE)の実情調査
と過密なスケジュールが組まれていた。

 欧州においては、英国におけるRR社の航空エンジン部門における
管理工学(IE)の実態調査、ドイツでは大手航空会社ルフトハンザ
におけるオーバーホール事業の実態調査、そして、ジェットエンジン
メーカーとしては、MTU社における管理工学(IE)の実態調査と
盛りだくさんなスケジュールが組まれていた。

 その他にも、フランスでの実態調査も計画されていたが、フランス
の航空管制官のストライキで、エアライン訪問は中止となった。

 もちろん、今回の海外出張の主役である造修計画課長のO氏の役割
は、各社への表敬訪問が主目的であり今井兼一郎本部長の代行として
の挨拶も兼ねているので、訪問先での歓迎ぶりは丁重を極めていた。

 イギリスのRR社訪問時などは、宿泊先のホテルまで、まさにRR
社の自家用車であるロールスロイスでの出迎えに始まって昼食は郊外
の一流レストランでの歓迎など至れり尽くせりの歓待であった。

 それだけに、日本に帰国してからの上層部の期待感は、想像以上の
もので、ちょうどその頃に、今井本部長の一番弟子ともいえる飯島氏
が設計部門から瑞穂事業所の工場長として着任されていて、工場長室
において、私の帰国報告時に・・・

「早速、瑞穂事業所内の収益改善に取り組むように、もし成果が出な
い様であれば、海外出張に要した100万円は返す様に」と、早速に
喝が飛んで、我が家に帰ってから、貯金通帳の残高を確認したことを
昨日のように覚えている。

 しかし、後になって気が付いたことであるが・・・

 入社当時に「土光敏夫社長から、アイコンタクトで眼光鋭く、土光
イズムを受信して『学歴不問・適材適所』のガイダンスをいただき」

 今井兼一郎本部長からは「設計部門でジェットエンジン設計におけ
る神髄としての『エンジン設計は、設計に始まり、設計に終わる』と
いう航空マンとしてのプライドを伝授され」

 土光陽一郎工場長からは 「瑞穂工場の創業は自分たちの手で」と
いう大きなチャンスをいただき、

 さらに今井本部長からは「欧米における管理工学(IE)の実体験
という、貴重な経験をさせていただき」

 飯島工場長からは「海外出張における成果が出なければ100万円
を返せと云う、云い換えれば『思い切りKAIZENに取り組め』と
いうパスポートをいただいた訳で、これ以上の好条件は望めない。

 早速、私は猛烈な勢いで「KAIZEN」に取り組むととになるの
だが通勤の社用バスの中で、次の様な会話を交わすことになる

「佐久間さんそんなに猛烈に働かなくてもすぐに課長になりますよ」
(時に、30歳の頃)



003   米国GE社の地域における経営感覚の違い

 ビデオIEを活用した標準時間の設定を通じて、目視感覚で標準的
なスピード感を眼に焼き付けていた私はGE社のオンタリオ事業所の
組立工場を拝見させていただいて、自社における組立技能者と、ほぼ
同じスピード感で作業していることに、興味を持ち、エンジン組立に
要している総時間を工場案内者を介して教えていただいた。

 結果、同じ、最新鋭F104戦闘機用のJ79ジェットエンジンの
組立作業において、ほぼ・同程度の工数(人数×時間)で総組み立て
までもっていっていることが判明、これならKAIZEN(改善)を
加えることで、総工数における勝負に勝てると考えた。

 また、当社でビデオ機器を使った管理工学(IE)の導入を始めて
みたがオンタリオの事業所で、同様の試みをしたときに、どのような
反応が予想されますか? と問うたところ・・・

「この工場ではいろいろな人種の人達が集まって作業をしているので、
翌朝にはビデオ機器のレンズがなくなっているでしょうね?」という
ジョークめいた返事が返ってきた。

 次の訪問地は、同じGE社のイーブンデールの事業所であったが時差
ボケから脱却しきれていなくて、冒頭のプレゼンテーションでは眠気と
の闘いに苦戦したが、工場に出てからは眠気も吹っ飛んで有意義な交流
を図ることが出来たので、本来の管理工学(IE)についての実情把握
に集中出来た。

 工場案内のスタッフに「英語でのコミュニケーション能力が、劣って
いて申し訳ありません」と伝えると、案内者からは「私も日本語は話せ
ませんので、気にしないで下さい」という答えが返ってきて、いくぶん
交流が容易になった気がした。

 組立工場内は設備なども良く工夫されていて、組立作業中のジェット
エンジン周りは、余計な踏み台などもなく、組立技能者も効率よく動き
回っていた。

 管理工学(IE)の実践面では、管理工学(IE)エンジニアの部屋
に案内されたが、GEオリジナルのワークファクタ的な基準時間を保有
していて、拝見させていただいたが、例えば、ジェットエンジンの作業
には必須の「からげ線」に関する基準時間などが、細部にわたって設定
されており「これは門外不出のもの」であり、このシークレットな場所
で見てていただくだけですとの説明が加えられて、一部のデータさえも
持ち出し禁止の優れものであった。
(さすがGE社のIEエンジニアといった印象であった)

 我が社にも大学で管理工学(IE)を専攻した先輩が存在するものの
ここまでの集積データを構築している話は聞いたことがない。

 当時は、まだトヨタのカンバン方式に代表される管理工学(IE)の
実践例が世の中に出回っていなかったためだろうが、せっかくの大学に
おける管理工学(IE)の学びを社内で生かしきれていないのは、IE
技術者たちが少数派の存在だったということだろうか?

 帰国後、飯島工場長から、KAIZENに向けて「檄を飛ばされて」
私が最初に取り組んだのは瑞穂工場の組立作業への取組みであった。

 当時の組立工場の責任者(課長)は、M課長、まだ私が田無工場で
P&Mマネジャとして、純国産ジェットJ3エンジンを総組立完了後、
瑞穂地区の総運転試験場に送り込み、総運転試験場でエンジンレバー
を握っていたのが、東大で航空学を極めた天才肌のM氏、瑞穂工場の
操業開始に伴い、組立工場の総責任者として組立作業から総運転試験
まで一貫してマネジメントする総責任者となった。

 瑞穂工場長として設計部門から着任したばかりの東大卒の飯島工場
長の後輩であり、同じ事務所内にディスクを構える様に指示されたが、
組立作業の現場こそ執務場所として、こだわりを貫いた強者である。

 私も当時、ビデオIEの推進にあたり、専属スタッフを一人付けて
貰って、二人で組立作業の標準時間設定のために現地に出向いていた
ので、M課長とは日常的に顔を合わせていた。

 そして、私の海外出張前に、M課長も米国のGE社に出張していて
「どうやら、我々の組立作業の時間は、GE社における組立作業時間
と、同レベルと思われる」という事前情報をいただいていた。

 そのような、日頃からの意志疎通もあり、自然派生的にビデオIE
のパイオニア的な適用先は、J79ジェットエンジンの組立作業とし
て、視野の方向が、そこに向かっていた。

 その時期には、瑞穂工場内の全工程について標準時間の設定は完了
しておりビデオIEの活用はKAIZEN(改善)に向かっていた。

 ビデオIEによるKAIZEN(改善)のメリットは、ビデオIE
を推進する立場からも、作業を担当する技能者の立場からも、一緒に
なってビデオ画面を分析できるので・・・

 お互いに納得感のある「問題点の把握」や「課題の把握」ができる
ので共感を持ちやすく「改善案」の共有も容易な点にある。

 組立工場のM課長と我々ビデオIEを活用したKAIZEN支援側
の共通課題は、当然「米国GE社のオンタリオ工場を追い抜こう」と
いう、具体的なテーマであり、それはJ79ジェットエンジンの組立
作業の総工数(人数×時間)において追い抜こうということだ。

 当然、最初に、行ったことは、J79ジェットエンジン組立作業の
「あるがままの実態」における組立作業工程のビデオ撮影である。

 結果、分かったことは・・・

◯ 最初の発見はビデオ撮影のファインダーから組立技能者が消えて
部品庫まで、小部品を取りに行っている光景が目に入ってきた
(組立ショップから部品庫までの距離は約100メートル)

◯ J79ジェットエンジンは大型エンジンのためエンジン外周部の
機能部品の取り付けのために、組立技能者がエンジン両側の踏み台を
昇り降りしている姿が撮影された

◯ 組立技能者は総勢5名が作業に当たっていたが、それぞれ手空き
作業が散見され、約3名でも作業をこなせると推測した

 なお、ここで加筆しておく必要のある事項として、この外装作業の
前段において、大型エンジン本体の縦組み作業を行っているが、この
作業については、田無工場の時代から、縦組みの大型エンジンを面前
で作業出来る様に、エンジンピットを掘って、油圧で上下させて最適
な作業を可能にするKAIZENを、土光陽一郎工場長のアイデアで
実現させており、これは米国GE社にも高く評価されていた。

 それだけに、大型エンジンを横にしたときの外装作業への取組みに
ついては、作業性の面から問題点が山積しているように見えた。

 ここで前述のエンジンを横に据えた外装作業に話を戻すが・・・

◯ 組立技能者が、小部品を部品庫まで取りに行く問題は、我々生産
管理部門の問題であり、このビデオIEによる気付きをヒントにして
全機種を対象とした「部品管理センター」を設けることで、生産管理
課長との共通課題として「組立工場内の中央部にオフイス」を設けて、
全機種の組立ショップに向けて、部品編成を済ませた部品台車を供給
する様に改め、小部品については、組立ショップサイドに配置する様
に改めた

 そして、私の所管業務として「部品編成要領」なる規定を制定して、
部品管理センターには、全機種に目配り出来る職長を生産管理課長の
指示によって配置した。

◯ 組立作業の形態については、大型エンジンであるゆえに外装作業
のための踏み台を使用していたが、これを、組立工場課長M氏による
決断とアイデアで廃止、作業フロアーにピットを掘り、目の前で横に
なったエンジンを回転出来るようにしてエンジンの縦組み作業と同様
に、眼前で作業出来るようにした

◯ 組立技能者を、5名編成から3名編成に最適化する工夫について
は組立技能者が自ら作業編成を工夫して「ムリのない」「ムダのない」
組立手順を編成した

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 これらの、KAIZENを適用した、組立作業をビデオで撮影して
組立工場課長と、組立技能者、そしてビデオ分析者で映像確認したが
お互いに「ムリのない」「ムダのない」作業動作が確認出来た。

 合わせて、組立作業ラインへの部品供給についても、組立サイドの
上流からフローラックを活用して、大型部品の見える化を図り、組立
技能者は部品供給の心配をすることなく作業に専念できる体制にした。

 結果、J79ジェットエンジンの組立総工数(人数×時間)はGE
オンタリオ工場よりも「約15%低減」させ初期の目標を果した。

 そして、成果確認の際に、生産管理課の課長から云われたことは、

「今回の成果は組立課による改善として」扱って欲しいとうことで、
私からの答えは「もちろんKAIZEN(改善)のアイデアは多くが
組立課の彼らによるものであり、当然です」と答えた。

 そして、この時に、脳裏に浮かんだのが「アラビアのロレンス」の
映画であった。ロレンスは、アラビアの砂漠地帯に出掛けて、土地の
有力者と共同戦線を取って闘い、自らは支援者に徹して、成果や手柄
は全て土地の有力者に譲って戦果を拡大させていった。

 今、飯島工場長から海外出張で修得して来た方法論などは瑞穂工場
内のKAIZENとして早急に普及させるようにという課題も・・・

「ロレンスの方法論を取り入れれば、早急に、拡大発展出来る」

 この方式は、自称「SAKUMAブランド」として、航空事業本部
が、品質管理の最高賞デミング賞を獲得する1976年(昭和51年)
まで約6年間の歳月を経て続くことになる。

 しかし想定外の出来事としてエンジン組立課長のM課長が成果報告
の際にこの成果は自分たちだけの活躍でなく生産管理課でビデオIE
によるサポートをしてくれた佐久間君たちの協力による部分も大きい
と報告したものだから、これが今井本部長の耳にも届き私を管理工学
の欧米における実態調査に送り込んだこともあって・・・

 日本インダストリアルエンジニアリング(IE)協会で、発表させ
たらどうかという話になり、丁度、青山学院大学の理工学部の佐久間
章行教授が管理技術の最先端事例として「ビデオIEの事例発表」を
計画されていて、協会から、即、発表要請があって、突然、発表会に
のぞむことになった。

 発表会は盛況で、即、日本IE協会が主催される、異業種交流会と
しての「IE実践研究会」への加入要請があり、当時のIHIも協賛
企業であったので、月々の例会への参加が決まった。

 この研究会でお世話になったのがIE実践研究会の主査を担当され
ていた、芝浦工業大学の津村豊治教授で、青学の佐久間章行教授とは
「作業研究」を共著されている、関係で、以来、津村教授には社会人
ゼミの様な位置付けで、私が定年退職するまでの長きにわたりお世話
になることになった。



004  能率の父と云われた上野陽一博士の存在感

 当時(1970年代)、芝浦工業大学の津村豊治教授との出会いは
衝撃的なものであったという記憶が鮮明に脳裡に残っている。

 東京渋谷の日本インダストリアルエンジニアリング(IE)協会は、
JR渋谷駅からも近く「IE実践研究会」にも参加しやすいことから
月例での異業種間による事例研究会への参加がスタートした。

 初回の研究会では、メンバー同士の自己紹介から始まり、津村教授
からは「皆さんが、今、IEエンジニアとして・困っていること」を
紹介して下さいという挨拶があり、順次、紹介することになった。

 私からは・・・

「現在、IHI瑞穂工場において、生産性向上運動を進めていますが、
具体的に能率管理における、標準時間の運用などについて、各技能者
からの理解を得る段階で『IE』という言葉を使うとIEという語彙
の理解に議論が進んで行き、この段階で、お互い話が噛みあわなくて
困っています」と説明をしたところ、

 津村教授からは・・・

「私が進めているKAIZEN(改善)活動では、IEという言葉は
使わずに『上手な困り方』という表現で皆さんに話を進めています」

「今回も、これから『上手な困り方』の著書を配りますので、詳しい
説明は『ムリ・ムダ・ムラ』の発見というところから、説明を始めて
行くことにしましょう」ということで具体的な実践研究会が始まった。

 私も津村教授からの説明を聞きながら・・・

「たしかに、これであれば、IEという言葉の翻訳からのスタートは
不要であって、我々の日常的に身近にある『ムリ・ムダ・ムラ』から
ディスカッションが始まるので話は早い。

 実際のIE実践研究会では渋谷の日本IE協会のオフィスにおける
ディスカッションばかりではなく、年間で約3回くらいは、協賛会社
やメンバー会社の事業所や工場の見学などもあり、その後の意見交換
も含めると、まさに話題満載な実践研究会と云える。

 その後の経緯を、今、振り返ってもトヨタ自動車に代表される日本
企業の約50社を超える規模で実地見学をしており、欧米の航空関連
会社における知見に加えて、まさに知的財産の効果的獲得といえる。

 当時、上司である生産管理課長からは・・・

「我が社の公認の遊び人として、日本IE協会に、派遣しているので、
いざという時には、重要任務を背負ってくれよ」と、云われ続けたが
まさに、今井本部長からの「推薦」がなければ中長期に渡っての継続
は難しかったかもしれないと考えると、有難いことである。

 津村教授が主宰されるIE実践研究会には「アフター研究会」なる
存在として、日本IE協会のオフイスでの研究会終了後に夕刻に渋谷
の飲み処に寄っての「当日の反省会」なるものがあって津村教授から
は「直伝の秘策の伝授」が行なわれていた。

 初回の研究会の後で、私は、生涯を通じて役立つ、直伝を授かった。
当時、私は瑞穂工場で「能率管理」における統括部門としての責任者
でもあったのだが、まさに「目から鱗が落ちる」伝授であった。

 その著書は「能率の神髄」について、上野陽一博士が論じたもので、
私が「肝として受け止めた内容」は、次の様な骨子からなる。
 
 べろべろに酔っぱらって帰った旦那を迎えた奥様の対応・・・

 翌朝、朝食の時に、食欲のない夫を前にして「昨夜は、たいへんで
したね」と、妻からのねぎらいの言葉、夫からは「親友との付き合い
とは云え、ちょっと呑み過ぎ、食べ過ぎだったかな」と。
(先ずは良妻賢母からの上手な困り方の初見対応からスタート)

「友達付き合いもたいせつにしなきゃいけないけど、気持ち悪くなる
ほど呑んで食べて、そんなにムリして身体でもこわしたらたいへんよ。
受験勉強中のあの子(長男)も、遅くまで起きていて、心配して貴方
のこと待っていたわよ」
(良妻は、ひたすら、ムリしないでと声をかけている)

 この場合に「ムリ・ムダ・ムラ」の視点から観たら・・・

◯ 今夜も、梯子・梯子で、呑みまわったなら、お金のムダ使い

◯ 夜中に、バカ食いをして、朝食が喉を通らないのは、ムラ喰い

◯ 年齢的にも、中年ともなれば、身体にムリがかかる

 ここで、能率の父「上野陽一博士」が提言している重要な指摘は
「ムリ・ムダ・ムラ」は、同居しているということだ。

 そして、良妻賢母は、夫の身体を気遣って「ムリをしないで」と
優しく語りかけている・・・

 ここで、能率の父と云われた上野陽一博士の重要なアプローチは
「ムリ・ムダ・ムラ」が、混在しているなら、相手の立場に立って
「ムリに着目・ムリを排除すれば」自ずとムダもムラもなくなる。

 これこそが「上手な困り方の神髄」と津村豊治教授は問うてきた
のだ、以来、瑞穂工場においては「ムリを取り除くこと」に専念。



005   アメリカン航空における親しみとプライド観

 アメリカの大手航空会社であるアメリカン航空とデルタ社における
管理工学(IE)の実情調査においては、エンジンのオーバーホール
などのメンテナンス作業におけるヒントが満載の企業訪問であった。
 
 アメリカン航空での印象深い知見はオーバーホールマニュアルなど
に書かれている「作業時間」についての見解であった。

 アメリカン航空で、社内の案内役を担っていただいたのはキング氏
であった。キング氏は造修計画課長のO氏とは、GE社における研修
において同席した仲間でもあり、裏話的なことも教えていただいた。

 キング氏によれば、オーバーホールマニュアルなどに書かれている
作業時間は「ドクタータイム」と云われている時間であり病院におけ
る医師(ドクター)が手術などの際に、看護師によるサポートを受け
ながら、医師はその場からいっさい動かずに、手術に集中できる状態
での施術時間であり、まったく「ムリのない・ムダのない」状態での
時間を指すのだという。

 これを意識してのことか? アメリカン航空のエンジンショップに
おいては、ショップサイドに専用治工具などを使いやすく立てかけ用
のボードに納めて、作業環境を整えていた。

 また、エンジンショップ内のレイアウトにおいても通路のコーナー
等においては、角部を、大きな円を描いて運搬車が曲がりやすい様に
していたり、ショップ全域においても、良く整理・整頓され、清掃も
行き届いている印象で、さすがに、超一流のエアラインと云う佇まい
であった。

 これを後に学んだ、芝浦工業大学の津村教授の「上手な困り方」論
に当て嵌めて考えてみれば・・・

◯ 上手な困り方においては作業工程を「段取り」「本作業」および
「後片付け」に、明確に層別、一流の技能者ほど、この段取りを工夫、
一流企業ほど後片付けに注力しているという

 考えてみれば、私が新入社員として設計部門に配属になったときに、
当時の今井設計部長から 「設計は、設計に始まって、設計に終わる」
とご教示いただき、設計図面に沿って製造を行い製造段階で得られた
造りやすさの工夫などは、必ず図面改定として、当初の図面に反映さ
せておく、これなどは、一流の証の「後片付け」といえる。

 また、これは、父親から聞いた話だが、祖父が前橋で絹の製糸工場
と販売を一貫して営んでいた時代に、フランスなどへの海外出張など
が、即決で決まった時に、いつでも海外に飛んで行けるようにカバン
一式に必要な器材を詰め込んでおき、即、出掛けられるようにしてい
た話などは、上手な「段取り」作業といえる。

 身近な処では、定年退職後のスポーツなどへの取り組みおいて、私
よりも先に管理職に就いた家内は、さすが、前日には、玄関先に荷物
一式をおいて、翌朝は、持って出掛けるだけにしているが、これなど
も、段取りの良さの典型例といえるだろう。

 小学校の生徒が、朝の出掛け前に、突然、体育着に名前を描いてほ
しいといわれる段取りの欠如とは大違いであり、これも賢いお母さん
は、前日にしっかりと翌朝の準備をさせており段取りの重要性を意識
した人たちは、人生を一歩先取りしていると云えるだろう。

 帰国後、飯島工場長に「檄を飛ばされた」私はもちろんのこと工場
内のショップサイドに専用工具を使いやすく配置するように提案して
使いやすい立て掛け具なども提供していった。

 そして、その際に「整理・整頓・清潔・清掃・躾」の5Sの励行を
推奨してそれぞれの意味付けも浸透させて行った。

◯ 整理とは、自分のショップ内で使った道具などを、片付けること

◯ 整頓とは、次に使う時のことを考えて、使いやすく保管すること

◯ 清潔とは、道具類を綺麗に拭いて、所定の場所に戻すこと

◯ 清掃とは、ショップ内の床などを、綺麗に拭いておくこと

◯ 躾とは、これらのことが身に着くまで、徹底して指導をすること

 この躾の実践については、口頭での伝達だけでなく、毎月、給料日
の昼休みの後、午後の仕事に取り掛かる30分程度の時間を活用して
いっせいに、床掃除を行うことで、エンジンショップに限ることなく
事務所内においても、いっせいに清掃作業を行うように習慣化した。

 この清掃による清潔感は、アメリカン航空における一流企業として
のプライド観に見習ったものだともいえる。

 そして、アメリカン航空のキング氏は、とてもフレンドりーな方で
訪問日が週末であったということもあって、訪問後、自宅に招待して
くれて、お手製のママレードのジュースなどをご馳走になり奥様とも
お会いして、親交を深めた。

 面白体験としては、私が、東京吉祥寺の英会話スクールで一生懸命
に学んだ、会話を披露したところ、今、アメリカにおける世間話では
「そんなに格式ばった会話はしないわよ」と、云われて大笑いした。

 そして週末は造修計画課の課長O氏のカリフォルニアの親戚である
写真家のお宅を訪問して、近郊のカリフォルニアの市内や公園などを
ご案内いただき、あまりのご親切に対して夕食におけるレストランの
支払いは私に担当させていただいた。

 欧米における、管理工学(IE)の視察旅行は、約1か月間に渡り、
凡そ2~3日間で、次の訪問先に段取りが組まれていて、観光地での
日程を組む余裕はなくアメリカ訪問においては、このカリフォルニア
の市内観光が、唯一の寛ぎの時間であった。

 カリフォルニアでは市内のあちこちに公園が完備されていて公園内
では、当時、既に、ウォーキングする姿が散見された。

 その後、我が家でも飼い犬を伴って彩の森入間公園をウォーキング
することになったが、彩の森入間公園がアメリカ軍のジョンソン空軍
基地の付属エリア的に寛ぎのための公園として設営された経緯がある
だけに彩の森入間公園を飼い犬と歩いていて、時々、カリフォルニア
での公園巡りを思い出すことがある。

 そして、その時の海外出張があまりにも管理工学(IE)の実情調査
一辺倒であったためか? 

 その後の、家内とのフルムーン的な海外旅行である「ハワイ旅行」に
始まっての「ニュージランド」「中国四川」「香港」「シンガポール」
「イタリア」などにおける旅がいかに観光三昧であったのかは、あの時
の過酷なストイックな海外体験の反動であったのかもしれない。
(その後の海外旅行では楽しむだけ楽しんだという印象)



006   デルタ航空における東洋的な雰囲気

 アメリカン航空の次に訪問したデルタ航空においては東洋的な雰囲気
を感じ取った。要はアメリカ感の薄いエキゾチックな印象なのである。

 ビルの屋上には”Flight DELTA”という大看板が掲げてあり、
デルタ社で合流した民間整備技術課のI氏と、造修計画課長O氏と私と
三人で「あの大看板の意味付けは、どの様に解釈したらいいのかね?」
ということで、顔を見合わせたことを覚えている。

 解釈の一つ目は、デルタ航空の社員に向けて「大空に向けて羽ばたこ
うぜと云っているのか?」

 解釈の二つ目は、顧客に向けて「是非、デルタ航空で飛んで下さいと
いっているのか?」

「どちらにも解釈出来るね?」ということになったが、さすがに顧客に
向けて、これは、云わないだろう? ということになって、社内向けに
「檄を飛ばしているんだろうな?」ということで見解は落ち着いた。

 そして、建屋内に入った時の印象がエキゾチックな東洋的な雰囲気で
あり、次いで、エンジンショップを案内され、説明を聞いて驚いた。

 我々が、エンジンオーバーホール期間短縮のための秘策として練って
いた方法論を、既に、実用化していたのだ。

 そして、マテリアルハンドリング(マテハン)と称する身近なところ
の運搬機器に様々な工夫が観られ、ショップ内に置かれたの部品台車に
ついては、部品棚が手前に引き出せるように成っていて技能者にとって
は使い勝手の良い工夫が施されていた。

 この日は、我が社の各々の専門分野のスタッフが、近郊の各社を訪問
していて、夕食時に、一同が、同じホテルに集合して情報交換した。

 偶然だが、集合メンバーには瑞穂事業所のテニス同好会のメンバーも
多く、会話も今回の訪問先でのエアラインにおける話題やテニスの話題
などに行ったり来たりしたが、共通の話題は瑞穂工場のオーバーホール
事業における、近未来の実行計画として描いていた多くの施策について
デルタ社では既に実現させており眼前で具現化したその姿を目の当たり
にしていることに、お互い、感嘆と共鳴の声を挙げた。

 話題も一段落して私がホテルのフロントで日本円をドル紙幣に変えよ
うとしている時のことだ・・・

 ホテルのフロント譲から「日本のエアラインのパイロットですか?」
と問われた。すると、ロビーで一緒に懇談していた仲間が跳んで来て、
「ノーノー(違う違う)」と云って会話に参入してきた。

 フロント譲は髪がブロンドで、しかも、プレティーガールとあって、
会話に参入してきたのだろうが成り行きで、フロント譲を囲んで全員
がカメラに納まった。

 かくして、帰国後、飯島工場長に、檄を飛ばされた私は、これから
導入される予定の民間向け新鋭機種の部品台車として技能者にとって
使い易い部品棚が手前に引き出せる部品台車の設計図を描いて新機種
の導入に備えた。

 そして、極め付きは、私がP&Mマネジャを努める純国産ジェット
J3エンジンのオーバーホール期間の短縮について我々が秘策と考え、
既にデルタ社で具現化していたノウハウを十分な基礎調査の上で実現
させて、オーバーホール期間を約30%短縮した。

 そして、この短縮の成果を、飯島工場長に報告、今井兼一郎本部長
には、造修計画課長のO氏を経て、成果報告書としてレポートした。

 後に今井本部長からは「思わず嘘だろ?」という感想が寄せられて
当時の品質管理課のスタッフが確認に来たことを覚えている。

 当時、私は、統括グループのまとめ役をしていて「瑞穂工場の負荷
の算定」と、それに伴う「人員計画」および 「生産性向上運動」の
旗振り役「能率管理におけるビデオIEを活用した標準時間の設定」
「瑞穂工場内の全体レイアウトの調整役」など多忙を極めていたため、
実機の機種担当は純国産ジェットJ3エンジンのP&Mマネジャのみ
であったため、その時点では、民間エアラインのオーバーホールなど
については対象外で、後に、急遽、会議室に呼び出されるまでは民間
エアライン向けエンジンのオーバーホール期間短縮には縁がなかった。

 しかしながら、品質管理課のスタッフが純国産ジェットJ3エンジン
のオーバーホール期間短縮についての快挙や、当方で進めていた生産性
向上運動の一環としての小集団活動などにつても、今井本部長に向けて
報告が行なわれ、品質管理における賞としては最高賞の「デミング賞」
への挑戦について、手応えのようなものを感触として持つに到ったこと
には、微力ながら、その一翼を担ったのかも知れない?

「デミング賞へのチャレンジが宣言されたのは間もなくのことである」

 その後、デミング賞へのチャレンジが正式に決定され、推進事務局に
は、早稲田大学で経営学科を学び、管理工学(IE)にも精通したT氏
が事務局の統括として就任、そして、事務局の実行部隊の責任者として
かつて、私が新入社員の時代に設計部門で設計の基礎から教えていただ
いたH女史が就任、哲学と数学を専攻された才女だけに、航空事業部門
のデミング賞への挑戦については、最適な人選といえる。

 このお二人が揃って瑞穂事業所の私の処を訪ねてきて、私に・・・

「デミング賞に挑戦する事務局スタッフとして活躍してみませんか?」
と打診してきた。

 この時、私は瑞穂工場の生産性向上に向けて、各種の実行計画を抱え
ていたので、私としては「KAIZEN(改善)活動の実践を通じて、
デミング賞への挑戦に役立ちたい」として返事をさせていただいた。

 今にして、考えてみるとあの時に「人生の大きな分岐点」があったの
かもしれない。



007   アメリカの西海岸の風景

 アメリカにおける管理工学(IE)の現地視察も、西海岸における
GE社リン事業所への訪問が最終コースとなった。

 リン工場では、ヘリコプターなどに搭載する小型エンジンを中心に
して製造を行っている事業所であり、同じGE社内でも大型エンジン
を製造する事業所とは、なんとなく異なった印象を受けた。

 当時の瑞穂工場では大型および中型ジェットエンジンを中心とした
製造やオーバーホールなどの整備事業に携わっており、小型エンジン
については、従来通り田無工場において、エンジンの組立てから総合
運転試験までを一貫して扱っていた。

 しかし、田無工場の部品製造分野の拡大のため小型エンジンの組立
および運転についても、瑞穂工場に向けた引っ越しが計画されており、
現在の瑞穂工場の東側の空き地に、新たな工場エリアを増設する計画
があり、まだ基礎の段階だが概案の設計図が描かれていた。

 そのような近い将来的な計画を含めてリン事業所における作業実態
の把握は重要であった。そして自分たちのかつての田無工場における
経験から、小型エンジンの組立てエリアは、正方形のショップ形成が
好まれていたが、リン事業所においても、小型エンジンの組立エリア
では正方形に近いショップ構成になっていた。

 我々が田無工場から瑞穂工場に移転するときには土光陽一郎工場長
から、若手メンバーを主体にして引っ越しプロジェクトを任せて行き
たいということで、引っ越し日程の設定と合わせて、工場全域の図面
が白紙の状態で引き継がれて、造修計画課長のO氏と私に、工場内の
白紙のレイアウト図が渡されて各エンジンショップの配置を設定して
行く様にと、全面的にレイアウト設定が任された。勿論、各ショップ
との調整は不可欠であり、各々のショップ内の細部の機器の配置など
は各ショップの才覚によって、詳細のレイアウト設定を進めた。

 この時に、我々が最初に行ったことは、田無工場から瑞穂工場への
引っ越しに際して、引っ越し先のエリア表示の案内のために、周囲の
壁に、アルファベットと数字を使って、大きく表示、荷物類の行先を
明確に示せるように工夫した。

 そして、その時の延長上で、小型エンジンを田無工場から瑞穂工場
に迎えた時の東工場の新設と同時に全体調整も、造修計画課長のO氏
と私に任された。

 当時の基礎調査の段階では、現在の西工場と東工場の地盤の問題と
して、大きな段差があり、現行の地盤の上に、そのまま建屋を建てた
場合に、両工場間で大きな段差が生じるために、その間をいかにして
スロープなどでつなぐか? など、段差の解消が課題となっていた。

 その様な状況の中で、我々は管理工学(IE)の原則として通路は
出来れば「一直線」で「同一のフロアー」という考え方があったので、
現行で西工場は東西に向けて二本の中央通路を設けており、この通路
を東工場にも繋がる様にして、同じフロア―レベルで揃えたいとして
主張を繰り返していた。

 これに対して、設備計画部門からは土地のかさ上げに費用がかかり
過ぎると云う問題が提起されたが、我々としては、段差のある工場を
建設してしまったら、両工場間を行き来する際に段差を日々のことと
してこなさなければならないことになるので、長期的に考えたら禍根
を残すことになるとして、一時、建設計画は棚上げとなっていた。

 そしてGE社のリン事業所を観たときに我々が経験則として感じて
いた「小型エンジンには正方形のショップが最適」という感覚に世界
共通のものという感想を持つに到り、我々が西工場と東工場をつなぐ
経緯においても、自分たちの管理工学(IE)に向けた常識観として
両工場は「同一フロアー」で南北の通路も一直線で繋ぐことの重要性
に確信を持ち、設備計画部門に向けて、土地の嵩上げで建設費が割高
になっても「そうしたい」といって揺るぎのない考えを伝えた。

 そして、面白かったのは、リン事業所の敷地内の巡回において資材
部門で、部品管理の方の説明に聞き入った時に、担当の方の自慢気な
話に引き込まれた。

 当時も、資材管理に関する、システム管理としてコンピューターに
よる管理が主流になっていたが、資材担当の方の「ツービン方式」と
いう自慢げな話題提供には聴き入るものがあった。

「ツービンという考え方は、日本語に訳せば『二つの瓶』というもの
であり、エンジンに用いる小物部品類などは、同じものを二つの瓶に
入れて置き、一方の瓶が空に成ったら、部品調達をする。したがって
コンピュータの世話にならなくても部品の調達管理は抜かりなく出来
という考え方である」

 資材管理の方があまりにも自慢げに説明するものだから、いつまで
も耳に残ったので、繰り返し脳裏で反復することになったが帰国後に
思いがけず、次々と「ヒント」が浮かぶことになった。

 日常生活のあらゆる場面で、この「ツービン方式」は、私にとって
大いに役立つことになる。

 例えば、マイカーの給油において、ガソリンの残量が半分になった
ら給油をする。この方式をとれば、かつて友人宅を訪問した時に彼の
車で近郊まで一緒に出掛けることになって車に乗せてもらったのだが、
坂道を登る途中でエンストになった。なんとガソリンがゼロになった
のだった。二人で、ガソリンスタンドまでガソリンの購入に行ったの
だが、あのようなまことに危険な行為をしなくて済む。
(うっかり者には最適なツービン方式だ)

 さらに、ツービン方式を応用した「半分主義」を考え出して、なん
でも半分やっておく「後はその後の変化も見越して一気に仕上げる」
という具体的な方法論も編み出した。

 そして、極め付きの話題だが、今や、人生100年時代と云われる
時に、私は50歳にして、管理職(課長)に昇進した。まさに人生の
半分にして「俺の眼の黒いうちはアイツは管理職にしない」と云われ
ていた、私が課長に昇進したのだ。

 絶対にあり得ないと考えていた50歳での課長昇進に尽力していた
だいたのが、私が、最初に、ビデオIEによるKAIZEN(改善)
の対象職場に選んだところの瑞穂工場組立課の元M課長であった。

 私が50歳の時に、M氏は、航空宇宙事業本部の技術開発センター
のセンター長として重役の任にあった。元々が東大の航空学科出身の
天才肌なので、当然の出世である。

 一方で、当社では、管理職(課長)昇進は50歳までという規定が
あり、50歳を超えると課長への任用はいっさいない。

 その時の実情は、私が47歳の時に、かつての造修計画課の課長で
あったO氏が、航空宇宙事業本部の本部長に、就任、民間輸送機用の
ターボジェットエンジンについて、五か国共同開発エンジンが、実機
として採用されて我が社でも製造を分担、当時の円高の影響もあって
コストを半減させないと、ビジネスとしてやって行けないという事情
もあって、全社的な業務革新が必要となり、当時、本部長に就任した
ばかりのO氏がアメリカのGE社を訪問、GE社では画期的なコスト
低減策として、トヨタのカンバン方式を導入、ドラスティックな成果
を挙げていることを知り、帰国後、社内の主要メンバーに報告した。

 当時、我々は、O本部長の発案で発足した業務革新プロジェクトの
メンバーであったのでこの話題はいち早くO本部長から伝えられた。

 そして、GE社にトヨタのカンバン方式を教示したコンサルタント
会社の名前を知るに到り、当時も、私は、芝浦工業大学の津村教授の
社会人ゼミに参加していて仲間のE氏が自社のKAIZEN(改善)
活動においてコンサルタントを受けているチームであることを知り、
E氏を介して該当のコンサルタント会社をご紹介いただいた。

 当時は、新規申し込みの場合は実際にコンサルタントを受けるまで
に、約3年待ちと云われていた時代である。

 この辺の事情を、当時の業務革新プロジェクトの上司であるK部長
に報告したところO本部長からは、即刻、コンサルタントを受ける様
にしたいということで管理工学(IE)仲間のE氏に相談したところ
「すぐに、コンサルタント会社のトップに相談していただいて」調整
に時間がかかったが、約2か月後に、我が社への導入が決まった。

 次に、KAIZEN(改善)の対象として、早急な取り組みが必要
になったのが、従来、聖域部門と云われた「研究・開発・設計部門」
であった。

「私も、生産事業部門の収益改善については、能率管理やビデオIE
を通じてのKAZEN(改善)などを中心に生産性向上運動を進めて
きたが、自分自身の設計部門での業務経験から、生産事業部における
能率管理などをベースにおいた考え方は馴染まないのではないか?」
と考えた。

「そのような折に、能率管理を推奨して来た日本能率協会は、どのよう
な発想で、研究・開発・設計部門 のKAIZEN(改善)に取り組ん
でいるか?」に興味が湧いてきた。

 そして、出会ったのが「技術者の知的生産性向上」というプログラム
であった。早速に、問い合わせたところ、お試し受講があることを知り
実践体験に臨んだ。

 具体的なプログラムは「技術KI計画」と云われるもので国際的な
プログラム紹介は ”Knowledge Intensive staff Inovation plan"
と銘打ったもので画期的な管理技法という印象を受けた。

 自分自身の設計部門における経験からも、当時、この様な方法論が
採用されていれば「より良い設計業務が展開できたな?」という実感
が実践体験した印象として伝わって来て、これなら我々の技術者にも
知的生産性向上の道しるべとして勧めることが出来ると確信した。

 早速、業務革新プロジェクトの担当部長に相談したところ、早急に
技術開発センターのMセンター長(事業部長)の処に持ち込んで導入
を働きかけようということになった。

 Mセンター長とは、瑞穂工場における生産性向上運動が最盛期の
時代にビデオIEを駆使して、大型ジェットエンジンの組立作業に
ついて、共にKAIZEN(改善)を進めて来た経過もあり、私が
単独で相談に行くことになった。

 私からは、技術KI計画のプログラムの全貌について説明、自分
の設計業務体験からも、お勧めの管理技術であることを説明・・・

◯ その骨子は、従来の設計手順であるところのスタッフが設計図
 を書き上げて主任・課長に押し上げて行く方法論を脱して

◯ 最初に、スタッフも主任も課長も(部長も)チームとして参集
 して、最初に「完成イメージ」を創り上げて、それを実現させる
 ためのマイルストーン(道筋)を明らかにして行く

◯ 当然、その過程で、新規に開拓や開発する必要のある難所も
 明確に成って来る

◯ そして、それぞれのイベント毎に、担当スタッフや主任の役割
 を割り当ててプロジェクトの進行に合わせた調整を加えて行く

 これによって、経験豊かな主任や課長(部長)の見識や考え方が
初期の段階で取り込めるので、大昔の様な「初めからやり直し」と
いうムリやムダは事前に取り除ける。

 そこまでのプレゼンで、Mセンター長の見解は・・・

 現在、新機種の設計をI課長が進めているが、今や、日々の心労
で胃が痛む思いの連続なので「彼の胃痛が止まる様なら」全面的に
展開することを考えても良いと快諾いただいた。

 これらの事情を日本能率協会の統括責任者のO氏に説明、早速に
コンサルタントチームが編成され、私も社内コンサルタントとして
陣容に加わり、具体的な活動がスタートした。

 この時期には、私も業務革新プロジェクトの社内コンサルタント
として、旗振り役だけでなく、積極的なアドバイスが出来るレベル
まで研鑽を積んでいたので当然の成り行きであった。
(当時ボストンコンサルティングのVPからのアドバイスに感動)

 さて話を元に戻すが・・・

◯ 具体的に、技術開発センターのI課長の「胃痛は止まったのか?」

◯ 胃痛が止まったことは勿論のこと、開発プロジェクトも完遂されて
 次の開発段階にステップは進められていった

 この段階で、技術開発センターへの技術KI計画の全面導入が決まり
航空宇宙事業本部の「研究・開発・設計部門」への全面展開も事業本部
として決定されて、武道館で、知的生産性向上に向けて、全部門を対象
にしたキックオフ講演がスタートした。

 この時に、技術KI計画の導入・推進については、日本能率協会による
コンサルタントと我々社内コンサルタントが帯同、「的を外さない」導入
に最大限の留意を図る様にした。
(社外のコンサルタントに頼り切らず、我々の叡智も加えて行く)

 かくして、聖域と云われていた研究・開発・設計部門の生産性向上
の道筋は、Mセンター長からも明確に示されて、導入は成功した。

 その後のことである。私も業務革新プロジェクトの主任業務に加え
て、技術開発センターの兼務要員として迎えられて、Mセンター長の
ご尽力もあって「50歳にして課長職に昇進した」のである。

 この聖域部門には「俺の眼が黒い内はアイツは管理職にしない」と
いう毒牙は届かないのだと云うことが都市伝説として届いた。

~ アメリカ西海岸の風景とツービンオジサンの笑顔が懐かしい ~


008   イギリスのロールスロイス社に観た職人魂

 アメリカ西海岸からイギリスに渡航しての訪問先はロールスロイス社
であった。ロールスロイス社への訪問には特別な意味があった。

 我が社にとって国内の民間エアラインの大手であるANAが、最新鋭
の航空旅客機としてトライスターの導入を計画しており、搭載エンジン
としては、最新鋭のターボファンRB211エンジンが確定していた。

 そして、このエンジンのオーバーホールなど整備事業の受注に向けて
国内のライバル企業M社との壮絶な受注合戦が繰り広げられていた。

 IHIでは、かつて二代目の森本部長の時代に民間エアラインANA
からのターボファンJT8Dエンジンのオーバーホールなどの整備事業
について超難関といわれた受注合戦において僅少差で勝ち取ったのだが、
まだまだ顧客との間で盤石な絆という関係性にまで発展出来ている状況
にはなく、これからの受注合戦の見通しでは危機的な状況にあった。

 ライバル関係にあったM社においても、将来的に民間航空機に向けた
自社での取組みが視野にあったため、民間向けのターボファンエンジン
を手掛けておきたいという目論見もあったため、新機種エンジンの受注
に向けた攻勢は熾烈を極めていて、顧客であるANAの社内にもM社の
ファンを増やしつつあった。

 それだけにロールスロイス社で、実機における作業の実態を管理工学
(IE)的な視点から観て望ましい作業形態を想定、その状態における
作業工数(人数×時間)を見積もり受注合戦に寄与して行く。このこと
が念頭にあったので取り組みは真剣勝負そのものだ。

 新機種エンジンを目の当たりに観て、第一印象は芸術作品という印象
を持つに到った。エンジンが輝いて観えた。そこにはイギリスの職人魂
が結実しているという印象をもった。

 しかし、実態としてのエンジン組立ての状況を観て「少し違うな?」
という印象を持った。彼らはエンジンモジュールを横組みしていたが、
我々の常識からすれば、縦組みの作業にしてピットを活用したほうが
作業性は、はるかに高いと感じたのである。

 会議室では、彼らの管理工学(IE)への取り組みについて熱弁を
拝聴したが、とても迫力がありエネルギッシュで、映画の世界で観る
海賊と話しているような印象をもった。

 いずれにしても、これらの組立工場を拝見させていただいて、見積
工数(人数×時間)の概観は把握出来た。

 帰国後、すぐに新機種エンジンの受注合戦に参戦したが顧客である
ANAから見積もり合戦で追い込まれている様子が伝わってきた。

 そのような折に、飯島工場長が呼んでいるので、工場長室に来る様
にと秘書の方から電話があった。

「海外出張の成果が出なかったら100万円を返してくれ」と云われ
たことのある工場長室なので、少し緊張して工場長の処に向かったが
ドアは解放されていて、飯島工場長の姿が確認出来た。

「KAIZEN(改善)の成果が出ているようだね」と予想外の言葉
が飛んで来て、君の日程に都合が付けば、この講習に参加してみては
どうかね? と云って講座受講の案内書が差し出された。

「習熟性工学」という講座で、慶応大学の工学博士である師岡孝次氏
によるものであり、国際的には ”Dynamic Evaluation" と称されて
いる学問分野で、私は喜んで参加させていただくことにした。

 飯島工場長の説明によれば、当初「自身での出席予定であったが」
緊急の会合が入ったために、参加出来なくなったのだという。

 実際に受講して見て画期的な講習会であり、実践的で、その後は
「管理工学(IE)」と、並んで「習熟性工学」のお世話にもなる
ことになった(飯島工場長に感謝)

 そして、その理論と考え方は、国内大手エアラインANAからの
新機種エンジンの受注合戦において、受注成功への決め手となって
いった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 次に訪問した、ドイツの大手エアラインであるルフトハンザ航空
とジェットエンジンメーカMTUにおける管理工学(IE)実践の
調査では、衝撃的な出来事が連なった。

 ルフトハンザ航空において、作業の標準時間をどのような考え方
で運用しているか? 訪ねたところ・・・

「ルフトハンザ航空では、エンジン整備における標準時間の設定は
飛行の安全性の面からいっさい設定がない」という。

「これは国民性を鑑みてのことか?」

 良く云われる国民性の例え話に「ドイツ人は、毎日、庭に水を
撒いておいてくれと頼まれると雨が降ってる日でも水を撒く」と
揶揄されているが、ドイツ人に、標準時間を提示したら、時間に
固守して安全性が損なわれるということか? そのようなことは
想像できないが・・・

「ルフトハンザ航空では、エンジン整備における標準時間の設定は
飛行の安全性の面からいっさい設定がない」ということについての
詳細は、残念ながら、それ以上の深掘りは出来なかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ドイツのエンジンメーカMTUの工場視察においては、案内者が
造修計画課長のO氏とは親しい間柄で「アメリカ企業に学ぶばかり
でなく、我々日独でも連携を深めて技術力を共に深めて行こうよ」
とおおいなる語りかけがあり、工場案内をしていただいたが・・・

 工場見学を終わって会議室に戻った時に、自分の手荷物のカバン
に異変を感じ取った。中身が上下で入れ替わっていたのだ。

 映画鑑賞が好きな私は「スパイものの映画のシーンを思い出し」
我々がアメリカからイギリスを経てドイツに入国したものだから、
興味を持った人物が「カバンの中の資料をコピーしたのか?」と
半分はジョーク気味に想像をしたが「そんなことがある筈がない」
と考えて、その場は、そしらぬ顔で通した。

 ところが、ホテルに帰ってから、同宿のO氏から・・・

「読みかけの文献の間に、栞の代わりにドル紙幣を挟んでおいたの
だが知らないか?」と、問われて「知りません」と答えると、同じ
問いを三度も繰り返された。

 その時に、私は「心底では信頼されていないんだな」と考えた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ここまで書いて、私は定年後の66歳の時の事件を思い出した。
あの時の「私への不信感が根底にあって毒盃を勧めたのか?」と、

 あれは、定年退職後、66歳の時に「昔の造修計画課のメンバー
でOB会をやろう」ということになって、喜んで出席したものの、
帰り際に、おちょこで一杯のお酒を恩人でもあるO氏に薦められて
口にするも、更に薦められても困ると考えて、少し口に付けたもの
の止めて盃をテーブルの上に置いて急ぎ足で帰った。

 そして、帰宅後に体調不良と成り、翌朝、かかりつけ医のところ
に行ったところ「念のため血液検査をしましょう」と云われ、結果
は驚くことに、微量の水銀を含めた毒物が検出された。

 疑似症状としては「多量のアルコール摂取の状態」に近いという
診断が下された(前日は少量のビールきりで酒は呑んでいない)

 その時に思ったことは、O氏の心底に、大昔からの不信感が住み
続けているのであれば「さもありなん」という印象であった。

◯ あの年は、かつての造修計画課長O氏からの年賀状に、昔の
 造修計画課のメンバーでOB会をやろうという話がでているが
 参加しませんかという文面が記されていた

◯ 私は、即、Eメールで、是非、やりましょうと返事を出した

◯ しかし、その後、返事はなく、半年が経過して、造修計画課
 のOB会はU君とK君が幹事をやるので、是非、参加して下さ
 いという連絡があったのでU君に「先ずは世話人会をやったら」
 として当日のOB会の前に世話人の人選と顔合わせを提案した
 
◯ 世話人会には、7人が集まり、百名規模のOB会の準備会が、
 O氏が行きつけの新宿の飲み処に集合この時に仲間の一人から
 新宿の街中で、元本部長のT氏の親衛隊K氏の姿をみかけたよ
 という情報が寄せられて、私の心のなかに、警戒心が走った。
 あの「俺の眼が黒い内は・・・」のT氏絡みになにやら不穏な
 空気を感じ取ったのであった

◯ そして宴も進み、OB会の本番でのお互いの役割も確認して
 散会となり、帰りがけに、O氏から私にあの毒盃が勧められた
 のであった

◯ やがて3週間後にOB会の本番が瑞穂工場の見学会も兼ねて
 開催された。私を含めてかつての3人の管理職が出席していた
 ので、O氏から、それぞれ3人の過去の活躍などが披露されて
 も良いのだが、私の話題はまったくなく、無視されている印象
 すらあった

◯ そして、翌年のOB会は、鎌倉のプリンスホテルでの開催が
 決って、O氏からは私に執拗なほどに誘いの電話があった

◯ 私にとっては、新宿での毒盃の体験もあって、冗談ではなく
 就寝中に鎌倉の海に沈められても困ると真剣に考えて、不参加
 の意志表示をしたのだが、繰り返し何度もお誘いの電話がO氏
 から寄せられた

◯ 欧米における管理工学(IE)の実態調査から始まったとこ
 KAIZEN(改善)の快進撃は、チームワークよろしくO氏
 と私による好プレーであったと考えるがそのことには、一言も
 触れることもないというのも不自然な話ではある

◯ あの毒盃が、元本部長のT氏による指示を後輩にあたるO氏
 が忠実に受け止めて、実行したものであるとすれば、その主旨
 はなんであったのだろうか?

◯ 私が企業の中枢で働いていて機密情報を知り過ぎていたから
 というのであれば、それは、まったく当たらないと考えるが、
 今後の人生においても執拗な攻撃は続くのであろうか?
(U君も深層の事態を承知している一人なのだろうか?)

◯ 万一に備えて信頼のおける弁護士に、想定可能な実情は文書
 にして預けてあるが、必要性のないことを祈るばかりだ

◯ そして書籍に挟んだと云うO氏のドル紙幣はどこに消えたの
 だろうか?

◯ 今年のO氏の年賀状には「昨年の暮れは終活のための整理を
 していたら、貴殿の替え歌のメモが出てきました」との言葉が
 添えてあったが「私への思い出はそれだけなのか?」と、ただ
 ただ驚くばかりだ



009   夏目漱石の小説に見る非人情の世界

 映画「こんにちは、母さん」山田洋次監督の作品を家内と観てきた。
最近では「怪物」是枝裕和監督の作品も鑑賞、まだ脳内で未消化部分
もあるが、山田洋次監督の最新作は自分が映画「こんにちは、母さん」
の主人公に近い年代で、苦悶を重ねて来た経験もあるので、気持ちと
して共感するところも多く、作品が訴えるところにも自分の姿を重ね
やすいため、非人情の世界についての理解が容易であった。

 映画の主人公は、50歳前後の企業人として立ち位置の難しい年代
といえる。役職は人事部長、役職から想像しただけでも、波乱万丈が
伺える立ち位置と云える。

 かつて我が社でも・・・

◯ 土光敏夫社長の時代は、社長が先頭に立って世界中を飛び回って、
 海外からのあらゆる注文を獲得して来て、企業体に仕事をもたらし
 社員を養ってきた

◯ 田口連三社長の時代は、あらゆる面から、社内の合理化を行って、
 企業の利益体質の強靭化を図った

◯ 真藤 恒社長の時代は、独特の船体構造を考案するなど、製品に
 特化したIHIらしさを生み出していった

◯ 生方泰司社長の時代は、経営面からの舵取りを率先して経営基盤
 の強靭化に尽力した

◯ 稲葉興作社長の時代は、急激な円高の影響および造船事業などの
 急激な受注減少により、氷結の時代に突入、企業存続に尽力した

 このような企業内の変遷の中で、我々の立ち位置は・・・

◯ 映画「こんにちは、母さん」山田洋次監督の作品の主人公と同じ
 年頃の50歳代であり、希望退職を募らざるを得ない不況真っ盛り
 の企業環境にあった

◯ しかし、実情が少し異なるのは、我々の企業体にあっては全社的
 には不況の真っ盛りにあるも、航空宇宙事業本部にあっては、当時
 土光敏夫社長の「航空機用ジェットエンジンの専業化」という着眼
 が花開き結実してIHIを背負う「屋台骨的存在」に成長していた

◯ また、その過程で、今井兼一郎本部長が、打ち出した生産性向上
 運動による収益改善およびデミング賞獲得を介してのエンジン品質
 の信頼性の向上などにより「収益基盤」も格段に向上していた

◯ しかし、国際協力による民間エアライン向けジェットエンジンの
 5か国による共同開発のエンジン製造については急激な円高の影響
 もあり「コストの半減」が求められていた

 この様な状況の中で、私は、当時、47歳、航空宇宙事業本部本社
地区で業務革新プロジェクトに所属して活動を始めたが・・・

 それからの3年間は、事務局として、総論的な業務革新の必要性を
説いて廻ったが「総論賛成・各論反対」の実情に接して、新チームと
して刷新の必要性を痛感、事務局も本社地区から武蔵野地区に移して
武蔵野地区の実働部隊と合体、活動の一本化を図った。

 そして、チーム編成も、統括リーダーの部長K氏と推進役の2名に
集約化を図った。

 それまでは、本社地区における統括部長W氏と私の2名、武蔵地区
は部長K氏とU氏、お互いに連携をとって進めていたが、結果的には
総勢で3名に集約化した。

「総論賛成・各論反対」の空気を読み取ったのは、私が事務局活動を
していて肌感覚で感じ取ったものだが、武蔵野地区の活動についても
軌道に乗っている状況ではなかったので、この打開策については全員
総意で賛成であった。

 新たな統括メンバーの各論への取り組みの骨子は次の通りであった。

◯ 生産事業部門のコスト半減のための「トヨタのカンバン方式」の
 導入については、芝浦工業大学の津村豊治教授の社会人ゼミで私の
 研究会仲間のE氏から紹介していただいたコンサルタントを本格的
 に導入、革新メンバーは製造ラインのスタッフで構成して行く

 また、製造コスト半減の統括指揮は生産事業部スタッフに全面的に
任せることにする。ただし、コンサルタントの適否の判断および契約
やコンサルタント料金の支払いなどは、業務革新プロジェクトが前面
に出て、予算確保などに尽力して行く。

◯ 研究・開発・設計部門に導入の「技術KI計画」の推進について
 は、技術開発センターにその運用を全面委譲、コンサルタント費用
 の支払いや、継続か・否かの判断などは、業務革新プロジェクトが
 分担して担当して行く

◯ 各論での「業務革新」については「部単位」を原則として・・・

 業務革新プロジェクトの統括部長と課長(2名)で全域を巡回して
 ミッションマネジメントにおける「設定課題とスケジュール」など
 を見合わせて、具体的なコンサルタントを実施して行く

 この「ミッションマネジメント」については、生産性本部において
私が学んできたもので、かつては、TQC(全社的品質管理)による
マネジメントとして運用していたものを改変、全社的には、半期毎の
本部長によるTOP診断を基本においたものであり、これに業務革新
プロジェクトによる巡回を加え、必要な部門に、的確なタイミングで
コンサルタントを加える方式を取っている。

 コンサルタントの内容は「GE革命」を革新的に進めたジャック・
ウェルチ会長の行動指針なども参考にして、我が社にも導入出来る
内容にアレンジしてコンサルタントを実践した。

 当時の業務革新プロジェクトの統括部長であったK部長もかつて
アメリカのGE社に出張して「加工技術」や「品質管理」について
学んだ経験があり、私も30歳代の時に、瑞穂工場の生産性向上に
向けた管理工学(IE)の実情調査で、GE社の優秀性には学んで
きており、ジャック・ウェルチの「GE革命」の記述にはお互いに
大いに共鳴するところがあって個別の部門訪問でのコンサルタント
においては阿吽の呼吸で取り組むことが出来た。

 また私自身、40歳代の時に、IHIの全社的な不況の中で多く
の優秀な先輩たちが、希望退職に率先して応募して行く姿勢をみて、
次にまた不況が押し寄せてきた時には、自分自身で、困らない様に
例えばコンサルタントとしての稼業も視野に置けるように・・・

◯ ボストンコンサルティング社からの学び

◯ 放送大学における心理学や人間学からの履修

◯ プレジデント社発刊の「経営大学院(商品名)」からの段ボール
 2箱分の学びなどを重ねていたので

 これらの学びが社内におけるコンサルタントとして役立てられるの
であれば、これはベストの選択といえる。

 したがって、全社的には、不況の最中で他事業部が喘いでいる中で
航空宇宙事業部門は、着々と、業務革新を進めていたといえる。

 そして、この「総論賛成・各論反対」の状況を脱して、約5年間
で、一時は民間用エアラインのエンジン製造に加わって赤字を計上
していたものの「V字型の業績回復」を果たして、本部長のO氏は
副社長に昇格された。

 さてここまでは絶好調であったのだが、私が55歳の管理職定年
に達した時に、奈落の底まで転げ落ちる罠が待っていたのである。

 まさに前述した映画「こんにちは、母さん」山田洋次監督の作品
と同じ様な過酷な場面への遭遇といえる。

 航空宇宙事業本部が 「V字型の業績回復」を果たして本部長の
O氏は副社長に昇格されて、後任の本部長には、東大の航空学科を
優秀な成績で卒業、民間航空航空機用のターボジェットエンジンの
5か国共同開発にも、設計部門からのエースとして参加したI氏が
本部長に就任した。

 ただ、残念なことに業務革新プロジェクト統括部長のK氏が定年
退職、前任者が優秀だっただけに後任の部長がなかなか見つからず、
暫定措置として、管理部部長代理や生産事業部の副事業部長などが
兼務で役割を繋いでいたが、全社的な不況対策としての希望退職を
募る体制が動き出して、我々の業務革新プロジェクトも組織改編と
なった。

 要は、航空宇宙事業本部は業績好調で基調的には事業拡大の傾向
にあったが、IHIの造船事業部を始めとした他事業部は、軒並み
人余りの状況に陥り、従来にない規模で希望退職を募ることになり
航空宇宙事業本部も他の事業本部と足並みを揃えて希望退職を募る
ことになった。

 ただし航空宇宙事業本部の当時の状況としては、子会社など関連
企業においては人員増強を求めるところもあり事業本部の本体から
の出向や移籍を求める声も出ていた。
 
 その様な状況の中で、関連企業としてはパソコンなどに精通した
要員への要望が多く、これに応えるために、業務革新プロジェクト
の部署に、電算チームを併設して出向予定者に向けたパソコン教育
を行い、関連会社の期待に応える編成に改変することになった。

 この両者の期待に応えることの出来る新任部長としてM氏が選任
されて、我々の業務革新プロジェクトに赴任、従来業務をそのまま
引き継ぐことで、新しい組織が発足、活動がスタートした。

 そして、新しい部長が着任するや、映画「こんにちは、母さん」
山田洋次監督の作品の映画シーンに似たような場面に、私自身が
遭遇 「仕事をさせてもらえない」まるで針の筵に座らせられて
いるような状況に遭遇することになる。

 その時に私は55歳、管理職定年に該当する年齢と成り、従来
であれば管理職の任を解かれるのだが、当時は希望退職を募って
いる時期なので、管理職としての立場とその任は解かずに、給与
のみが10%削減され、それは3年間続き、累計では30%削減
されることになった。

 その様な状況の中での「針の筵」状態であったので、日々困惑
が続いた。この時は事情がまったく理解できないままの3年間で
あり、打開策も見つからないまま「三年念仏」を唱えていた。

 ここで「三年念仏」とは相性の悪い上司に遭遇して不遇な日々
が訪れたときには「三年」「三年」と念仏を唱えて、日々を過ご
して行けば、やがて上司が出世することで平和が戻るという先輩
からの人生訓である。

 この経過は本稿の「第5巻」に詳しく記述したので、ここでは
繰り返しの書き込みは避けるが、今、振り返って当時の上司M氏
が着任して早々の仕打ちは周到に用意された復讐劇であることが
後日に分かってきて、それが事前に分かっていたら、対応の仕方
も容易であったろうな? という思いはある。

 当時のM氏は、着任前に、私に完敗していたのだ・・・

〇 私が技術開発センターのセンター長(事業部長)に向けて対面
 で「技術KI計画」導入の提案をした時に、当時のM部長は技術
 管理部において、設計合理化の推進役を担っていて、設計工数の
 実行予算に対して設計工数などの実績把握をしながら全体を把握
 して、研究・開発・設計部門の生産性向上に寄与していた

〇 それが「技術KI計画」の導入により該当部門内の活動に明る
 い職場の雰囲気も醸成されて活動としても軌道に乗った。そして
 全社的な組織的要望もあり、M部長は業務革新プロジェクト(兼)
 電算グループとして、出向者候補へのパソコンレテラシー教育役
 に抜擢されることになり複雑な心境のまま我々の部署に着任した

〇 しかもかつて設計部門在籍の頃に純国産ジェットJ3エンジン
 の世話役をしていた時代に、エンジンの軽量化に着目して圧縮機
 の軽量化を狙って鋼製のディスク(圧縮翼をつなぎとめる回転体)
 をチタン材に設計変更、結果、試運転において、ディスクの剛性
 がエンジンの推力に耐え切れず、ディスクそのものが反り返ると
 いうバックリング現象が起きエンジンは、急遽、シャットダウン
 するという事態を招いた

〇 このディスクを設計担当したのが、私であり、純国産ジェット
 J3エンジンの推力向上およびエンジン強靭化のためのエンジン
 前方部のダブルベアリング化のために、第1段ディスクの側面の
 改造を設計したのが私であり改造後の第1段ディスクについては
 高速での回転スピンテストも行っており、その後の実機において
 も不具合は起こっていない

〇 当時、私は、軽量化のためのチタン材の使用などという事態は
 知り得ない部署で業務にあたっており、もし、仮に知っていたら
「常識的にはあり得ない」ストレスメンバーへのチタン材の使用に
 はストップをかけたと考える

 その様な当時の状況から、新任部長のM部長は、こちらの状況は
立場上すべて自覚しており実情を知らない私にしてみれば・・・

 映画「こんにちわ、母さん」のシーンで観るような「仕事を取り
上げられる」状況に直面した私は、ただただ、茫然とするばかりで
あり、M部長は有利な立場で周囲のスタッフをすぐさま味方につけ
ているので、私はまったく孤立無援な状況に置かれた。

 しかもM部長にしてみれば、前職で5名を退職させており、実績
を挙げているので「やめさせる」ことについては勢いに乗っている
状況にあった。

 また当時は全社的に希望退職を募っている時期でもあり、これは
都市伝説だが稲葉社長が「非情でなければ経営幹部には向かない」
と発言したという噂が広まっていた時期でもあり・・・

 まさに、映画「こんにちは、母さん」に描かれている様な状況が
日々身近に迫っていたので、M部長からのアプローチには、辟易と
するものがあった。

 ある日、あまりにも、M部長からの仕打ちが苦なので、その晩、
俳句仲間の投稿欄に 「はらわたの煮える思いに寒の水」と投稿
したところ、社内にも俳句のファンが多いことから、あっという
間に、この俳句が知れ渡った。

 そして、一か月後であった、業務革新プロジェクトの前部長が、
久々に我々の職場を訪ねてきて「元気でやってる」などと言葉を
交わして久々に親交を温めさせていただいた。

 その後のことである・・・・

〇 M部長から「たまには、親交を深める意味で寿司でも食べに
 行きませんか」ということになって、業務革新プロジェクトに
 在籍していた私とN氏の二人の課長が武蔵境駅に近い寿司屋で
 食事を共にした。この寿司屋は、M部長の行きつけの寿司屋で
 当日は「のどくろ」が入荷したばかりといってご馳走になった

〇 そして、業務面では私は業務革新プロジェクトに課長として
 在籍したまま、M部長が兼務していた瑞穂および田無のデータ
 センターを引き継いで兼務となり、徐々に私はデータセンター
 に業務をシフトさせていった

〇 というのもM部長が5名の人員削減をしたという職場は削減
 の前提とした業務改革は、頓挫しており、その上で人員削減を
 決行したものだから、職場は混乱状況にあった
(K部長が兼務を継続させたのも頷ける状況にあった)

〇 該当の職場からは「みんなが泣きながら職場を去っていった」
 のだという声が寄せられ、当面は、業務革新のための電算化を
 推進しながら、2名の増員を早急な課題として実現させた

 かつての生産事業部における生産性向上運動においても「ムリ」
を取り除くことからのKAIZEN(改善)がその第一歩であり、
2名の増員によって幾分のムリを取り除いたことから業務革新は
全員一丸となって進み始め後に「革新的な業務改善事例」として
全社的な表彰を受けることになった。

 そして、先日、映画「怪物」是枝裕和監督の作品を観たときに
主人公の教師が「ことなかれ主義の学校の管理職に振り回されて」
自分を見失って行く様子を観て、その後も脳内に違和感を残した
ままであったが・・・

 最近、テレビドラマ「最高の教師」において、映画とは真反対
な情景で教師が事なかれ主義に対決して行く姿が描かれているが、
最終章が楽しみな展開で毎週の展開に魅入っている。


010   欧州(オランダ)からの帰国時の難問

 GE社リン事業所におけるツービーンオジサンの熱弁を思い出して
話題が人生百年時代の半分のところまで飛んでしまったが・・・

 心理学におけるユング博士は、人間の一生を、日の出から昼までを、
人生における午前中と位置付けて、昼から夜までの午後の時間を人生
の後半に例えている。

◯ 人生百年時代においては太陽が南中する昼の時間は人生50歳頃
 と云うことか?

◯ それだけに50歳の頃を終日で見て行けば、昼時の多様な物事が
 起死回生する時間帯だけに波乱万丈も起こり得るということか?

 さて、話題が30歳代から50歳代まで、一気に、飛んでしまった
ので話の展開を元に戻すことにしよう。

 欧米における管理工学(IE)の実情調査のための海外出張も終盤
となりドイツにおける実情調査を終わって、帰国ルートはオランダ発、
日本行きとなった。

 オランダ航空のカウンターで航空チケットを提示すると、たいへん
な事態が判明した。チケットがダブル・ブッキング(予約)と成って
いて、先客が搭乗手続きを済ませていた。
(帰国後の日程は過密であり、この便での帰国は必須であった)

 造修計画課長O氏の「なんとしても、この便に搭乗する必要がある」
という訴えにカウンター譲の対応は、最初、冷ややかであったがO氏
の強い口調に対してカウンターの主任が駆けつけて、なかば喧嘩腰で
迫るO氏の真剣な眼差しに対してカウンター内で調整が始まった。

「機体の後部座席となるが、搭乗員の席があるので2名分の席として
空けるが、そこでも良いか?」と聞いてきた。

「この飛行機に搭乗できるなら、どこでも良い」ということで搭乗の
手続きが行なわれて、帰国の手筈が整った。

 かつて、吉祥寺の英会話スクールの校長が「喧嘩出来るレベル」に
なったら英会話も卒業レベルと云っていたが「このことか」と、納得
座席に着いた時には、安堵で、思わず目を閉じた。

 離陸後にやがて何故か? 機内食と共に数の子が大量に提供された。
食事後はO氏は文献に目を通していた。私は少し疲れたこともあって、
軽く眼を閉じ、今回の欧米における旅程での食事のあれこれを思い出
していた。

 今回の旅程は過密で、前述した様に、2~3日で次の訪問先に移動
する日程であったために、その日の訪問記録を、その晩の内に書き留
める必要があり、睡眠時間を削って、その時間に当てた。

 また旅程が長丁場であったため、その睡眠不足を補うためには食事
をしっかりと摂って、エネルギー補給をしておく必要があり、これを
短時間で済ませるために、アメリカではビーフ・ステーキを主体的に
選択して摂る様にした。

 当時は、まだ若く休日にはテニスに精出していた時代でもあったの
で、体力維持のために、ビーフ・ステーキを好んで食べていた時代で
あり、アメリカにおける肉類摂取にも違和感はなかった。

 ただ、アメリカ各地で食したビーフ・ステーキも、その様は多様で
その「ビッグサイズに驚いたり」サイズは小さいものの「網模様」の
焼き方が美味であったり、お店ごとに特徴があった。

 朝食は、スクランブル・エッグにチーズを解け込ませたものやパン
(いわゆるブレッド)にアメリカンコーヒーや、オレンジジュース、
アメリカンコーヒは日本で呑む紅茶に近く薄口で呑み易かった。

 なんといっても西海岸では、カルフォニアのオレンジジュースは、
目が覚める様な美味しさで、今日も元気で頑張るぞと思えるような
印象だった。

 対して東海岸では、ワシントンのレストランで食した牡蠣が美味
であった。そしてワシントンから飛び立ったイギリスの食事は総じ
て美味しくなかった印象があったが、時間をかけて探せば美味しい
ところもあるとは考えるが旅程から云って、その余裕はなかった。

 フランスには、航空管制官のストライキで行くことが出来なくて、
代替案としてスイスに行ったが、日程的に寛ぐまでの時間はなくて
登山電車に乗るまでの時間は取れないために、地下街に、大き目な
レストランを開店しているところを地図で見付けて、地下に向けた
階段を降りて行くと、階段の途中で「日本からのお客様」が見えま
したというアナウンスがあって少し驚いた。

 地下への入り口で、レストランの係員が会釈をしていたので彼か
らの伝言が場内の係に伝わるシステムになっていたようだ。

 テーブルに着くとアコーデオン奏者が「さくらさくら・・・」の
曲を引き始めて、注文係がお薦めのメニューを提示してきた。

 珍しいエスカルゴ(蝸牛)の料理が美味なのだと云う、お薦めに
合わせていくつかの料理を注文、エスカルゴは美味で初めての試食
であったが想い出話には善きお薦めであった。

 ドイツでは航空エンジンメーカーの視察後は欧州一帯の現地業務
をこなしている駐在員の方と合流して夕食はビヤホールを体験した。
生ビールのジョッキは呑めない下戸の私でも美味しいと思った。

 若い女性がビールのお代わりの注文に来るのだが、他のメンバー
は美味しいビールなので、追加注文、私はこの後のレポート書きに
支障が出ると困るので ”No thank-you" と答えると、親切に
テーブル周りを片付けてくれたので思わず”thank-you”と言葉を
返してしまったため、お代わりのビールが運ばれてきた。
(ドイツ語圏内における拙い英会話の失敗例だ)

 そして、レストランを出たところで、O氏と私の前に、地図を
広げた二人の女性が立ち塞がり、地図上に指を差しながら、なに
やら話かけてきた。

 後ろから駐在員の方が二人の背中を叩くので振り向くと・・・

 二人の女性は、いわゆる、高級コールガールなので、相手に
しない様にと云われて、難を逃れた。
 
 そして、翌日の昼食は、ドイツには珍しい、本場インドの
極上カレーという看板を見つけて、極めて辛口でこれも有料
の水を飲み干して、あまりの辛さにO氏と大笑いした。

 オランダから日本に向かう機内の座席は、狭苦しかったが
そんな思い出を脳内で反芻している内に眠りについた。

 その後、家内と出掛けたニュージランドの旅程では、北半球
に住んでいる私が南半球に出掛けて体内の血流がリフレッシュ
されたような印象を持つに到ったが、この欧米の旅ではその様
な印象はなかった。

 ただし欧州での管理工学(IE)の実情調査の旅を経験した
後は、社内の生産性向上運動においても、渋谷の異業種交流会
においても、自分でも驚くほどよく喋るようになった。
(吉祥寺の英会話スクールにおける副次効果か?)

(続 く)

ヒトとして生まれて・第6巻

ヒトとして生まれて・第6巻

実証実験的な人生

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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