丹那隧道(丹那トンネル大崩壊事故)

              1 予兆



 日暮れ前に業務を終了した多田班の5~6名が、風呂上がりの焼酎を手に集っている。
トンネル掘削は昼夜兼行の交代制のため、通常は3交代、岩盤のもろい難所は4交代、出水の激しいところは6交代になるのだ。
今までは山が悪くて崩落危険地帯が続き、工夫(こうふ)たちは4交代作業に従事して来た。
明日からはそれが通常の3交代8時間体制になり、いちおうの難所は越えたことになる。
アルコールの作用で雄弁になった馬場周蔵(ばばしゅうぞう)が額にしわを寄せてまくしたてる。

 「って、まぁ、おらっちょは気に入らねえワケよ。こないだからのあの湧き水の音。な? 不思議なことにまるで口笛そっくりだ。節まで付いてやがる。イヤな予兆だ。あれはまずい。山の神の使い奴(つかいめ)の山犬がな、ご注進ご注進、人間どもが丹那山に穴ぁ掘りよるぅって告げ口しやがるぜ」
口笛は人間しか吹けないので、こんな話が生まれたのだろうが、大正10年の当時としてもいささか因習深い気がする。
彼らは鉄道省の威信をかけた東海道本線丹那隧道(トンネル)工事の従事者、つまり、日本有数の精鋭たちなのだ。
「まさか。だって、ちゃんと坑口の上に山の神さんを祭ってる。契約はすんでるってわけだよね。いくらバカな山犬だって水の噴き出す音を人間の口笛とは聞き違えまいよ」
26歳の上之屋盛吉(うえのやせいきち)が異を唱える。
年こそ若手だが、早くから三菱の端島や愛知県崎戸炭鉱などで機械抗堀の経験があったため、現在では『号令(現場監督)』にとりたてられている。
これはノウハウのある青年には早期に地位と責任を与え、機械化の進展著しい業界の一翼を担わせようとの会社側の意向らしいが、号令の威信が届くのは穴の中だけで、一旦、娑婆に出ればただの青年としか扱われない。
そのため、盛吉は時として自分を軽んじる先輩たちの信頼を早く得ようと、暇さえあれば土木関係の書物を読みあさったり、生の経験談を聞いて回ったり、坑内にはだれよりも早く入って細々した準備をしたり、作業終了後の風呂ではせっせとみんなの背中を流したりと、八面六臂の活躍を自分に課していたのだ。

 それをよく理解し、眼をかけてくれたのがベテラン『斧指(よきし)』の馬場周蔵だった。
『斧指(よきし)』とは聞き慣れない呼称だが、掘り進んだトンネルを仮支えする『支保工(しほこう)』の組み外しを担当する熟練工のことだ。
また、『支保工(しほこう)』は強靭な松の板や柱(難所は古レールや鋼管も用いる)で、たわみやねじれ・収縮によく耐え、油を含むため水や湿気に強い。

 「バッカだなぁ、おめえ。そこが犬畜生の浅ましさよ。山の神のお覚えめでたくあらせられれば、だ。どんな報告だってする。なにしろ神の威光を嵩に着た権力の走狗だからな」
権力の走狗という馬場には似つかわしくない近代的な言葉に、周りが声をあげて笑った。
「お、剛毅だねぇ。周蔵さんは参議様みたいだ。ま、ちょっくら小汚ないけど」
上之屋が馬場をからかう。
彼の態度も言葉も本当は絶大な尊敬の裏返しだ。
それを馬場周蔵も十分承知だから、とろけそうな目を向ける。
「まぜっかえすな、トンチキ。そもそも、山の神自体、契約なんか守らねえもんよ。なあ、おめえらもさんざ経験しているはずだ。いいわ、いいわっつうんでしけ込んだら、肝心の時になって、いやよいやよ。なにせ、山の神さんも女神(おんながみ)だ」
「う~ん……確かに。そりゃあるな」
一同がニヤニヤと賛同する。
それぞれに多かれ少なかれ経験があるのだ。

 「ま、おらっちょの言うことにウソはねえ。つらつら鑑みるにだ、工夫(こうふ)不足ってことで女工夫(おんなこうふ)をつかってるだろ。元凶はあれだな。山に女は厳禁だ。不浄だし、女同士ってことで山の神さんが張り合っちまうんだな。だから、この工事はしょっぱなからとんでもねえ難工事になっとる。穴掘り開始が大正7年4月、お偉方の話じゃ7年で完成っつうが、今年でもう、丸3年だ。そんでもまだ『底設導坑(トンネルの基部となる部分)』が4千4百16尺(約1,3キロ)しかすすんでねぇ。全長2万7千尺(約8キロ)に喃々とするものがだぜ。おらっちょの見立てではあと10年たっても鉄道は開通せぬな」
「……」
確かに機械化が進みつつある現在、あと10年は少し大げさに思えるが、会社側の言う7年では到底完成はしない気がする。
それが水流の口笛と人手不足ゆえの女工夫のせいかはわからない。
彼らとしてはただただ工事の安全と無事故を祈るしかないのだ。

 「馬場くん。東京府まで行って大正博覧会を見てきた君にしちゃ随分、大時代的じゃないか」
いきなり後ろで笑いを含んだ声がする。
「あっ、多田技手……。後ろで聞いていたなんて、人が悪りぃや」
馬場周蔵が首をちぢめて頭をかく。
彼は大正3年の東京大正博覧会を見学していて、常々、自慢げに語っていたのだ。
当時では非常に珍しかったエスカレータやケーブルカを見たり、国産自動車やオートバイの展示に触れて、日本の近代化を大いに堪能したのだった。
馬場がしょげるのを見て多田はちょっと頭を下げる。
「すまん、すまん。でも、山の神だって日本の八百万の神々のひとつだ。鉄道省並びに日本国の意向に従わないわけはあるまいよ。それにここは富士火山帯の真っただ中だ。断層を突っ切り、温泉で化学変化した青粘土層を除去し、高圧地下水脈を排水する。山の神がじゃましなくとも難工事だよ。このデモクラシーの時代に、口笛だ女工夫だ言ってるんじゃ馬場くんらしくもない……」
わざとしかめつらしく言って、なにやら後ろ手に隠していたものを差し出す。
「と、まぁ、小言はこれまでにして、ぼくも混ぜてくれたまえ。ほら、いい焼酎が手に入ったんだ」
周りから歓声が上がり、一同がいそいそと席を空ける。
多田清輝(ただきよてる)はうれしそうに彼らと肩を並べて座った。

 トンネル熱海側を施工する鉄道工業会社の『技手』で、馬場周蔵のような『斧指(よきし)』や削岩機を使いダイナマイト爆破を担当する『削岩夫』、コンクリート外壁にたずさわる『畳築工(じょうちくこう)』、掘り出した土壌岩石を廃棄する『ズリ出し夫』、彼らを束ねる上之屋盛吉『号令』などのさらに上に位置する。
技手さんと呼ばれ、自分の氏名を冠した多田班を指揮するが、ブルーカラーではなくホワイトカラーだ。
人情味があって正直、誠実で義理がたい日本人気質の代表のような工夫(こうふ)たちに心底惚れて、事あるごとに彼らの中に身を置きたがる。
また工夫たちも、この偉ぶらない上役へ大いに信頼を置いていて、彼らは理想的な上下関係を築いていたのだった。

 ただ、馬場周蔵の名誉のために言うなら、これより13年後、丹那トンネル開通時の昭和9年、女性記者が取材に来たことがある。
会社側は彼女をトンネル内に入れるか否かで非常に困惑し、苦肉の策として男装させた上で取材を許可した。
工夫たちは彼女の去った後、トンネル内に酒や塩をまいて清め、山神社に詣でて慰撫に努めたという。
命の危険と隣り合わせの彼らは、昔からの言い伝えや自然、超常的なものに常に謙虚で慎重だ。
これを一概に否定はできないし、人間の持つ本然的な危険回避の思想はこれからも受け継いでいくべきだろうとも考える。


                2 救命石


 丹那トンネル工事は完成までの16年で延べ250万人、通常は200名ほどが24時間体制で従事する。
大正10年4月1日16時20分ごろ勃発した運命の大崩壊の数分前に、重要な意味を持つ椿事が起きていた。
その日は朔日(ついたち)の公休日であったため、おおかたの作業は休みで、少数の者が坑道先端部の作業や、丁度、山の悪いところにさしかかっていて、休止できないコンクリート巻きなどに当たっていたようだ。
ただ、これには諸説あり、この日が着工満3年の佳節で祝日であったからとする説、ちょうど動力が故障していて必然的に少人数になったとする文献もあって、定かではない。
ひょっとしたらこうしたことが複合的に重なっていたのかも知れない。

 多田清輝(ただきよてる)率いる多田班数名も、坑口から300メートルほどの『頂設導坑(トンネル天井部のアーチ形を形成する部分)』にいて、そろそろ交代のために『底設導坑』に降りようという頃だった。
突然、騒ぎが起こった。
掘りあげた『ズリ(土砂や岩石)』を『底設導坑』に待機しているトロッコ電車(架線式と蓄電池による電気機関車があった)に落とそうとした矢先、大きな石が漏斗状の排石口につまり、使用不能になってしまったのだ。
当然、放っておくわけにはいかない。
多田班のほか、『切りあがり(『頂設導坑』と『底設導坑』の中間部でズリを廃棄するための排石溝がある)』で帰り支度をしていた者たちが集まり、なんとか石を取り除こうと努力を始めた。
大崩壊が起こったのは、まさにその時であった。

 最初は小さな揺れ、同時に土砂がパラパラと落ちる音。
はっと一同が身構える中、文字通り耳を弄するばかりのゴウゴウ、ガラガラ、バリバリ、ドードーという大音響の複合体が、膨大な岩石の落下する衝撃波のような爆風を伴って襲ったのだ。
坑口より270メートル付近、折しもトンネルの外周をコンクリートで巻き終わり、『セントル』と呼ばれる足場を取り外そうとした瞬間だった。
一瞬にして約70メートルが坑口方向に崩れ、その真下で作業をしていた『畳築工(じょうちくこう)』16人が生き埋めとなり、辛くも1人が逃れたものの重傷を負っている。
座って監督していた『号令』が、そのままの形で埋没していたほど崩落のスピードは速かったのだ。

 坑道全体が地震のように鳴動する中、落石排除のために排石溝に取りついていた17人は難をのがれていた。
だれもが崩壊土砂の巻き起こす落下風で吹き飛ばされ、身体のあちこちを打撲したが、骨折や裂傷を負うものがなかったのはせめてもの幸運だった。
それでも喜ぶ者は1人もいない。
坑口と完全に遮断された今、全員が漆黒の坑内に孤立したのだ。
果たして自分たちは助かるのだろうか?
まさか、全員死んだものとして、この地底に見捨てられるのではあるまいか?
いつもは屈強な工夫たちが川辺の芦のように震えている。
当時の彼らは知る由もなかったが、これが救出までの8日間にわたる艱難辛苦の始まりだったのだ。
その模様は次章にて詳しく触れる。

 この事故ののちに語られた救出体験では、漏斗状の排石口につまった大石は『救命石』として特別な意味を持っている。
この石がもし漏斗に詰まらなければ、17人は坑口に向かうトロッコ電車に乗り込んでいて、時間的に丁度、崩壊個所を通っていたことになるのだ。
人間万事塞翁が馬ではないが、まさに何が幸いするかわからない。
彼らは心からの感謝と畏怖をもって、この石を来宮駅坑口(熱海口)上の丹那神社内に祭り、今に伝えている。
丹那神社奉賛会によると、そもそも人命を救助した石であるから、人生全般の難事、つまり学業や心願成就などを念じながらこの石に触るだけでも利益があると言う人もいるそうだ。
隠れたパワー・スポットかもしれない。


                3 暗黒の8日間(1)


 大崩落の轟音と衝撃波、土砂の乱舞が収まってからも、多田技手をはじめとする17人はその場で動けずにいた。
意識はあるのだが、カンテラの明かりがすべて消えた闇の中では、自分がどのような格好でどんな所に倒れているのかも認識できない。
わずかに坑口方向に三日月形の隙間が見え、夕暮近い坑外の明かりがもれていたが、やがてそれも埋まってしまった。
最初の崩落から10分後の16時半ごろのことだった。
「おい、みんな、けがはないか? 助けは必ず来るから落ちつけよ」
責任感が多田の意識を強引に覚醒させる。
ともかく暗闇から逃れるべくマッチを擦り、消えていたカンテラを点けた。
改めて部下の顔を見回すと同じ川畝(かわせ)組配下でも、多田班でない者がけっこういる。
「よし、点呼を取る。馬手(めて=右手)から番号、氏名、出身戸籍を言ってくれ」
多田清輝(ただきよてる)はそのすべてを手帳に書きつけた。
「いいか、カンテラのガスを作るカーバイドが残り少ない。明かりは1つにする」
当時はまだ乾電池はなく、炭化カルシウム(カルシウムカーバイド)に水を滴下することにより、アセチレンガスを発生させて手持ちのカンテラを点灯するというもので、個々のヘルメットに付けて使用するまでには至っていなかった。
それでも電燈より強い光を得られるので重宝されている。

 今はとにかく湧き上がる懸念をひとつひとつ潰していかねばならない。
「敵情視察をする。だれか崩落地点の現状を見て来てくれ」
「ようがす」
斧指(よきし)の馬場周蔵(ばばしゅうぞう)が身軽に立って、上之屋盛吉(うえのやせいきち)を振りかえる。
「上之屋号令、いっしょに来てくだせぇ。こんな経験はめったに出来ねえから、後学のためだ」
「はい。行きます」
たったひとつのカンテラを彼らに渡すとあたりは黒々した闇に閉ざされ、湧水の流れこむ音だけが耳に付く。
「技手さん、高圧地下水脈で坑道が水没ってこたぁないっすよね? 溺れるのはイヤだぁ」
だれかが懸念の一つを質問してくる。
「心配するな。こんなこともあろうかと『下水(排水溝)』は作ってある」

 そうなのだ。
トンネル着工時から異様に多い湧水に危機感を抱いた多田は、上之屋とともに上層部に排水を願い出ていた。
「いいことだと思う」
担当の竹村技師は即答し、この事故のほんの数日前、厚さ2寸(6センチ)の板で深さ1尺(30センチ)、幅2尺(60センチ)の立派な『下水(排水溝)』が完成していたのだ。
まさに備えあれば憂いなしだった。
だが、懸念はある。
当時は毎秒1,5立方尺(=42リットル )程度であったものが、この崩壊で明らかに水量が増し、おまけにせっかくの『下水』が埋まってしまっている。
と、いうことは必然的に水位は上がって来てしまう。
多田はこののち計算をし直し、6日程度は十分間に合うという結論を出している。
やがて戻ってきた馬場と上之屋も朗報をもたらした。
それは要約すると、
「崩落現場は今のところ安定し、さらなる大崩壊の可能性は低く見える。なぜなら、支えの『支保工(しほこう)』が足元をさらわれたように一定方向に倒れているからで、それは山の悪いところに引きずられるように、山のいいところ(坑奥)が先に崩れたからだ。悪いところが落ち切ってしまった今、性急な心配はないように思える」
と、いうことだった。

 まあまあの安全確認を得て、次に気になるのは外部との連絡が可能か? ということだ。
坑内には削岩機に圧縮空気を送るために直径10センチほどの鉄管が通じている。
それをジョイント部で切断して下部は排水溝として利用し、上部はそれに口をあてて叫んでみたり叩いてみたりしたのだが、ウンでもなければスンでもない。
彼らの中にまたまた、全員死亡したと思われているのでは? という恐ろしい疑念がわいてくる。
事故時の工夫たちの献身的で粘り強い救助姿勢を知っているくせに、いざ、自分が埋まってしまうと疑心暗鬼の塊になってしまうのだ。
ともかく、18時・18時半・19時・19時半と鉄管を乱打して音響信号を送った。
あいかわらず応答はないものの、坑内の摂氏16~7℃の気温では泥水に浸かったゴム合羽とひざ丈のゴム長靴ではいささか寒い。
あたりに散らばる松板を集めて棚のような寝床を作って、水流から逃れるために全員がそこに移動した。
17人はまだ元気で「まな板の鯉だ」などと笑いながら板の上に転がり、カーバイドの節約のために21時消灯、そのまま就寝する。
その後は23時と午前2時に最後の信号を送るもやはり返事はなく、4月1日の夜はそのまま更けていった。


                4 暗黒の8日間(2)     

 
 2日目も音響信号の乱打で始まった。
午前4時・9時半・12時・14時半……。
この時点で全員が非常な空腹を覚えていた。
「腹が減った。腹と背中がくっつくぞ」
「自分の胃液で胃に穴が開きそうだワ」
こんな嘆きがあちこちで聞こえ、15時ごろだれ言うともなく、ついに替えの草鞋(わらじ)をかじり出す。
カサカサ、パサパサの藁など通常ではとても食えたものではないが、空腹には耐えられず湧水に浸してしばらく揉み、軟化したところを口に運ぶ。
もちろん、美味くはないし、繊維は消化できない。
ただ、気を紛らすことはできるので幾分の効用はあるのだ。
22時、体力気力の消耗によりフラフラし始めた身体に鞭打って、30分間鉄管を打ち鳴らす。

 3日めは午前5時より鉄管信号を送るが、これにも全く返事がなく、気は滅入るばかりだった。
全員が口数少なくなり、蝸牛のような時間の進行にもイラ立つ気力もない。
ただ座っているだけでは心身ともに衰えるだけなので、多田は最も弱っていると思える遠藤号令にワザと敵情視察を命じた。
案の定、与えられた仕事に対する責任感と意欲がわき、目に勢いが出て身体もシャキッとしたようだ。
数分後、彼のもたらした報告は、多少の落石等はあるものの現状に変わりなしということだった。
予測された答えではあったが、多田はおそらく救出まで5~6日はかかるだろうが、それまで坑道は十分もち、水位も懸念するほど上がらないに違いないと断言して元気づけた。
そしてその後の午前10時ごろ、なにかに突き動かされるように全員で崩落個所を見に行ったのだ。

 その時、空耳だろうか?
『矢板(やいた)』という先をとがらした松板を崩壊部分に打ち込む音がかすかに聞こえる気がする。
「救助だ。この4~5日中にはきっと来る」
「いや、なにも聞こえねえ。おめえは幻を聞いているんだ」
2つの説が飛び交い、全員が顔や体が泥まみれになるのもいとわず岩壁に耳を押しつけたが、残念ながらどちらも確証はとれなかった。
それでも希望がよみがえったのは事実で、彼らは笑みを浮かべながらお互いをいたわり合った。
「これは天祐だ。きっと助かる」
多田清輝の声に工夫たちはそれぞれにうなづく。
「おうともよ。おれたちはきっと大丈夫だ。男一匹、しょげてなんかいられねぇぞ」
「そうだ、そうだ」
その勢いに力を得て弱った体を無理に引きずり、寝床をさらに高みに移動する。

 ♪日露の戦争大勝利……♪

 音頭をとるだれかの歌声に、全員が自然に唱和していた。
ただ、気にかかるのは空気中に二酸化炭素の含有量が増えたと見え、マッチがつきにくくなってくる。

 午前1時、芳俣三平(よしまたさんぺい)が突然、腹痛を発症した。
みんなでさすったり、手で温めたり看護に努める。
もう、藁を噛む力もない身体に、水に含まれるミネラルが非常に美味く感じるので飲みすぎたのかもしれなかった。
だれもが30分に1度くらいは小便に行く。

 そんな折の午前2時、再び『矢板』を打ち込む音がする。
今度は全員に聞こえる。
期せずして歓声が上がった。
ベテランの原口哲平(はらぐちてっぺい)に敵情視察に行かせると、
「救出工事の進行、明白なり。このぶんでは5日中にも貫通の可能性あり」
と報告してきた。
一同、元気増大してほんの束の間、冗談や流行り歌などを口ずさむなかで、馬場周蔵はめまいを生じ、小倉熊吉(おぐらくまきち)は横になったまま起き上がれなくなった。
湿度100パーセントの穴の中では、全員の体力の消耗は著しいものがあり、若い上之屋盛吉が率先して音響信号を送り続ける。

 4日目、午前7時に信号を発するも、相変わらず音信不通。
せっかくの送風管も物の役には立たない。
多田はこの鉄管さえ通じていれば外部との連絡も容易で、たやすく遭難人数と場所を知らせることが出来、管を通じて食べ物、たとえば卵などを得ることが可能なのにと考え、残念でたまらなかった。
その一方で工夫たちの強靭な精神力・団結力・協調心・犠牲的精神には尊崇すべきものがあるとあらためて感じ、彼らを一兵たりとも損じることなく、この暗黒地獄を脱したいと願うのだった。
工夫たちは一様に弱っていて、特に年配者は衰弱が激しく足元もヨロヨロし、小便には這っていくありさまなのに、みんなで寝床を組む時などは死に物狂いでその中に加わった。
「じゃまだ。いいから座ってろ」
「バカッ。若輩のおめえらなんぞにはまかしておけねぇ。ほれ、そっち持てっ」
「頑固ジジイは嫌われるぞ。まったく、自分用すらろくに足せねえくせに。じゃまだっつってんだろ、いいからおれにまかせろ。あんたの寝床ぐらいおれが作ってやらぁ」
「断るっ。おめえこそじゃまだ。老いたりといえども若造の手なんか借りるかっ」
言葉も態度も荒いが、その中にはお互いを思いやる慈愛と自己犠牲が透けて見えていて、多田はいつもひそかに目頭を熱くした。

 その日はいよいよ空気も濁り、マッチもつかず、カンテラのカーバイドも残り少なくなったので、明かりのあるうちに沸き出す水のすぐ上に寝床を張った。
湧水には多少の空気が含まれ、いがらっぽい喉や熱っぽい身体もいくぶん回復する気がしたからだ。
13時、たまり水が少し減っているのを目にし、送風管の下部が順調に排水していることを確認する。 
18時、乏しい明かりがついに消えてしまった。
今まではお互いの顔を見る事が出来たのに、今はなにも見えない。
寂しいことを『まるで灯が消えたようだ』というがまさにその通りで、声はすれども姿が見えない心細さは筆舌に尽くしがたかった。 


               5 暗黒の8日間(3) 


  5日目、偶然にカーバイドの小片1個を見つけ出し、全員がまるで救出されたかのように元気づいた。
大切に温存してすぐには使用しないことにする。
この日は落石が激しく、近いものは多田たちの寝床のすぐそばに落ちて水しぶきを上げている。
これが3時間も続いたのだ。
顔に派手に振りかかったり、身体を濡らしたりする暗闇の中で、崩落の音を聞き続けているのは身も世もないほどの寂しさだった。
古参の者が何とか気を引き立てようと、
「そんでも、今はいいぜよ。ズリ出しだって電車や機関車だ。近代化は便利だよ。電化の前は『ズリ出し』に馬や牛を使ってたんだ」
と、しわがれた声で思い出話を始める。
「うん、そうだった。最初は馬だったが、暗闇を怖がってよく暴れたもんだ。馬方が蹴られたり、馬自体も足を折ったりな。坑口の所で猟銃で殺処分するんだが、可哀想でなぁ……」
同じように昔を知る者たちが一様にしんみりする。
それじゃぁ、いけないと他の者が、
「でも、すぐに丹波牛に変わったで。だけんど、牛はベタベタの糞が臭うて臭うて。踏みゃあ滑るし。うっかりすりゃクソの中に転がっちまう。な? ああしてしらばっくれているが、そこの本田なんかクソで顔を洗っちまった口だ。それに比べりゃ今は極楽じゃ」
と、笑わせようとする。
絶望的状況の中でも、なお、犠牲になった動物を想い、笑いの中に希望を見出そうとする彼らの心根に、多田はいつもながらに教え導かれる気がした。

 6日目になった。
午前5時半、過去の実例から救出はおそらく6日目になるだろうと踏んでいたので、最後のカンテラをともす。
やつれ果てて土気色の顔に、目ばかりギロギロと動くさまは、地獄の亡者と変わらない浅ましさだった。
そんな彼らを具体的に励ますために、
「今日あたり、きっと救助は来るから取り乱してはいけない。その時が来たら万歳三唱し、軍歌を歌って勇ましく出よう」
と、申し合わせた。
だが、そのまま午後になり、夜になっても何の気配もない。
次第に失望が絶望に変わり、さすがの工夫たちの中にも悲嘆のあまり自暴自棄になる者が出てきた。
「なぁ、みんな、どう考げえたって助かりっこねぇ。潰れていっぺんに死んだ連中がうらやましい。こんな思いまでしてあんまりだっ」
ひとりが叫ぶと、
「そうだ。ひと思いに死んじまおう。ツルハシだって、ゲンノウ(振りかぶって使う大型のカナヅチ)だって、ホッパー(クワのようなも
の)だってある。外の連中に迷惑がかからなければ、ダイナマイトだってあるんだ」
たちまち賛同する者が出てきた。

 危険な兆候だった。
「あっはははぁっ。先輩たちは意気地がねえなぁ」
かすれた声で笑い飛ばしたのは『号令』の上之屋盛吉26歳だ。
「先輩らはいつも炭鉱夫より、国家の威信のかかったトンネル掘りのほうが上等だって言うけど、おれは端島や崎戸なんかの経験から炭鉱夫のこともよく知ってるんですよ。炭鉱ってのは、1本棒のトンネルと違って、古くからの坑道なんかがそのまま埋められずに残ってる。聞いた話だけど、新しい坑道を掘りながらそんなのに行きあうと、林の中を風が吹きすぎるような音をさせて、何かがものすごい勢いで外に出ていく。そんな坑道は決まって、その昔に事故があって生き埋めが出た穴だ。何事もなかった坑道はシンと静まりかえっているそうだ」
上之屋はそこで言葉をきった。

 「ね、先輩方、これから話すことをよく聞いておくんなさい。そんな穴に行きあった人の話によると、周りを見回すってえとだれもいないはずの穴の中に10人ばかりの人の姿がある。ギョッとしてよく見るとみんな死蝋化しちまったミイラなんだ。たぶん、誰かの班だったんだろうね。中心者を真ん中にしてみんな車座になってる。そうして救助を待ちながら、やがて死んでしまったんだね。だれも取り乱さず、輪をきちんと崩さずに。そのまんまでひとりひとり、櫛の歯が欠けるように亡くなって行ったんだ。死に臨んで取り乱さない。それこそ立派な日本人気質じゃないか。武士道だ。先輩方を見ていると、おれは恥ずかしいよ」
切々とした言葉に弱いため息が帰っただけで、具体的な返事はなかった。
だれもがひと言もなく俯いて、自分と対峙していたからだ。
「上之屋、よく言った」
多田清輝はまず、彼をねぎらってから言葉を継いだ。
「おまえたち、盛吉の言うとおりだ。おれたち17人がなぜ助かったか? まだまだ社会や地域や家庭に、何か成すことが残っているからだ。自分から死のうなどという臆病者はこの中にはいないはずだ。トンネル掘りの誇りはどこに行った? 恥を知れっ」

 ♪四面海なる帝国を
 守る海軍軍人は
 戦時平時のわかちなく
 勇み励みて務べし♪

 大正3年に作られた軍歌『艦船勤務』だ。
率先して歌う声に全員が声を振り絞るのに時間はかからなかった。
彼らは座ったまま肩を組み、お互いのやせ細った体に涙ぐみながらも、せいいっぱい歌い続けた。


                6 救助側の辛苦


 そんな形で埋没工夫たちの日々は過ぎて行ったが、救助側も決して手をこまねいていたわけではなかった。
崩壊の腹の底に響く振動と大音響は、当然、坑外をも揺るがし、だれもが恐怖に硬直した。
「大変なことが起きた……」
乾いたくちびるをワナワナと震わせながらも、工夫たちは仲間の安否確認のために、まだ崩落が続いている坑内に入っていく。
だが、土砂岩石の落下は激しく、手にしたカンテラの灯が爆風のたびに消えてしまう。
その恐怖たるや、彼らの最も腹の据わったものでさえ、紙のごとく白くなった顔で子供のように泣き出すのだ。
それでも這うように前に進んでいく。
坑道がどれくらい崩れ、中に取り残された人数は何人だろう?
生きている者やけがをした者は?
そして運悪く埋没した者は?
とにかく坑内の様子を知り、連絡を取りたい。

 黄昏の熱海の町に緊急サイレンが鳴り響き、鉄道病院の大テントのもと、医師や看護婦が詰めかけ、地元の消防団や在郷軍人などが「お役に立てれば」と集合してくる。
さらに安否を気遣う工夫の家族や特ダネが欲しい新聞記者などでごった返す中、埋没者は33名であることが判明し、選りすぐりの屈強な者130人体制で昼夜を問わず救助坑を掘ることが決定した。
現場の工夫たちはその経験上、崩壊個所の真上に救助坑を掘ることを上申したが、技師や学者たちはさらなる崩壊を懸念し、坑道に沿った両脇に2本の穴を掘ることを主張した。
これは結局、次の日に駆け付けた三島側担当の鹿島組親方、伊藤が「これじゃあ、ダメだ」と真上からの掘削を決行し、都合3本の穴を掘ることになったのだ。
救助坑については工夫側の判断が正しく、のちに多田清輝自身、
「坑道が上からのみであったなら、労力の関係上、2日くらいは早く救助されたのでは」
と言っている。

 余談だが、この救助坑問題はのちに工夫のストライキにまで発展した。
「現場の声をなぜ聞かない?」
この不満は技師や学者だけでなく会社側や鉄道省への不信となって表面化したのだ。
机上の理論に傾きがちな上層部は、現場の声を貴重な他山の石と認識するべきで、現在に至るまでの良い教訓とすべきだろう。

 一方、多田たちが唯一の望みを託して、再三、音響信号を送った送風管は、外部の工夫からも大きな望みを持って注目されていた。
彼らも遭難者たちと同じように繰り返し鉄管を叩き、大声を上げて呼び掛けていたのだ。
後で判明したことだが、この管は途中でゴム管でつないであり、その部分が崩壊の圧力で強く折れ曲がり潰れて、送風管としての役目を果たしていなかった。
これでは空気の流通どころか、声も打ち鳴らす響きも聞こえない。
全員の死亡が懸念されて暗雲が漂う中、困難な救出作業は同僚たちの涙ぐましい努力で続けられていた。
だれもが精根の限りを尽くして穴掘りに挑んで行く。
休憩時間が来ると彼らはやっとの思いで片隅に這って行き、そこに腰を下ろすや疲労困憊のあまり寝入ってしまう。
そうなったが最後、ちょっと蹴られたくらいでは目を覚まさない。
坑道周辺にはそんな連中が死体のように転がっていたのだ。

 当時の朝日新聞のカコミが残っているが、記事は案外正確さを欠き、『生死不明者50名』『百度近き地熱に蒸されつつ果して生息し居るや』『生埋め工夫は終に全滅か』、などと事実とは程遠いセンセーショナルな文字が躍っている。
いつの世もマスコミとは無責任なものらしい。


                7 埋没遺体の惨状


 大崩壊事故が起きたのが4月1日。
陽春のころで、これから季節は初夏に向かって行く。
生存者の探索は、同時に埋没遺体の発見・搬出でもあった。
急がないと遺体は腐敗し、遺族の悲嘆が増すばかりでなく、衛生上の問題も生じてくる。
しかし、どんなに急いでも掘り進む坑内は重い松材、古レール、鋼管、コンクリートなどが複雑に折れ曲がり、絡み合い、その隙間に巨大岩石や土砂がギッチリ詰まり、二次崩壊の危険もあって遅々として進まない。
多田ら埋没生存者のいらだちに負けず劣らず、救助者側の焦燥もつのって行った。

 それでも崩壊後3~4日後あたりから犠牲者16名がぼちぼち発見され始めた。
資料にはその様子がいくつか書かれているが、現場に従事した者の証言ほど当時の悲惨を伝えるものはない。
よってここに貴重な談話のいくつかを紹介する。

 1)『F君は崩壊と同時に埋没せられたのですが、しばらく埋もれたままに生存して居たのです。救助坑が進むと中で人声がする。それで坑奥の声のするほうに掘り進めていくうちに、やがて、声がなくなりました。ようやく、F君に近づいてその様子を見ますと、丁度、材料の隙間に身を潜めており、足は土砂に抑えられて、事切れておりました。この様子から見ると、上半身から頭は自由になるので、両腕で落ちてくる材木を差し上げる様に、支えながら、救いを求めてゐた所、救助坑の掘進で山がゆるみ、材料が段々に強く押し下って来て、支える手は次第に下がってぢりぢりと空隙を縮められ、遂には頭、頚、胸と順次に押され、漸く努力した救助隊が到達した時には、遂にペチャンコになって押しつぶされて居ったのであります』

 2)『A君を発掘した時のことであります。救助隊の1人が掘り進んでゆくと、もう、この時は崩壊後十一日目ですから、死体は腐敗して異臭が鼻をつきます。見ると桃色の綺麗な太も々が出てゐます。埋没者の中に女人夫が居る筈ですから、それはきっとそのWさんの死体であろうと、外部にWさんの死体発見と報告し、外部では直ちに役場の方の手筈も致しまして、いよ々発掘してみますと、男の死体でした。即ちA君の死体なので驚きました。桃色の太も々、それは悲惨にもその部分の上皮が剥けてゐたのです』

 3)『K女を発掘した時の話です。坑内は大分水に浸っています。その水に女の髪がゆら々と浮いています。それに気づいた救助隊の一人が髪をつかむとドロドロと頭の皮ごと剥けてしまゐました。何しろ、死体の発掘を終わったのは六月の始めです。実に二ヶ月半に亘る死体捜索には従業員一同へとへとになりました。しかも陽春の候でありました為に、人間の腐敗する事が早くて異臭鼻をつくと謂う様な生易しいものではありませんでした。とても生きた心地がしませんでした。死体の異臭を一時でも消すために山椒油、片脳油、樟脳水其他いろいろのものを撒いてみました。けれど、何れも失敗、矢張り線香を焚くのが一番良い様でした』

 4)『救助隊の人々は其の当時、烏賊の丸煮、鯖の煮付、それに味噌汁などは食べられませんでした。何故烏賊の丸煮や何かが食べられなかったかと云ふと、これも悲惨な話ですが、埋没死者のH君は、支保工材に頭の頂点を垂直に押され、為に頭も顔もみな両肩の中に埋め込まれて仕舞って、丁度烏賊の丸煮のような工合になってゐたのです。ですから烏賊の丸煮を見ると、当時の様子をまざまざと眼の前にさらけ出されると云ふので堪らないのです。鯖の煮つけも皮がよく剥けるので、それを見ては食べる所か、思わず顔をそむける事になるのです。全く死体の皮は一寸でもふれるとずるずると剥けるので猛者揃いのトンネル工夫もこれを見てはかないません。味噌汁は当時の坑内の水は人間の油と、死体捜査のためににごる赤味の土とのために、丁度味噌汁の様になって、ゆるく流れ、あるいはよどむと謂ふわけで、これ亦その様を再び見る思ひで、味噌汁に箸を取る勇気は出ないのです。当時いかに油が流れたかは、死体全部を収容し、しかも土砂を取り片づけた後も、その付近は異臭を発し、数年の間入梅時になると二三寸(6~10センチ)のくらいのカビが生えたものです』


                8 救出


 一方、坑内生存者たちは7日めを迎えていた。
カーバイドは消費してしまったから、また暗闇に逆戻りだ。
もう、昨日のように自分の状況と将来に悲観して「死のう」と激昂するような感情も湧いてこない。
彼らはだれ言うともなくこれまでの来し方を想い、懺悔を始めた。
「ああ、思えばおれぁ、女房に苦労ばかりかけた。酒が飲みたくなると止められねぇ。真冬の寒い夜中、何度酒買いに女房を走らせたか知れねえんだ。天罰だ。酒で身を滅ぼすったぁ、このことだぜ」
「おれは女だな。色街のいい子に惚れちゃぁ、うちに帰らねえ。仕事もしねえで女んとこに入り浸っちゃうから、女房がお袋と一緒に呼びに来る。その女房を何度ひっぱたいたか。おれはクズだよ」
「おらっちょはケンカだ。女は殴らねえが、3日にあげずケンカでお巡りに引っ張られちまう。そのたんびにもらい下げに来てもらうんだが、うっかり病院送りになんかしちまうと治療代もこっち持ちだ。宵越しの金は持たねえから借金ばっかかさんでなぁ」
「おれは親の意見に背いてここに来たんだから、自業自得だ。金にはなってもあぶねえからって親父もお袋も大反対だった。どんなことになっても文句は言えねえや」
「ぼくは子供の学校だな。丹那隧道みたいに工期が長けりゃいいが、1~2年の所が多いからそのたんびに転校だ。父としては仕事だからどうすることもできないんだけど、不憫と言えば不憫だったよ」
世間的に見れば他愛ない話だが、本人や家族からしてみれば切実な問題だ。
彼らはひとしきり自らを省みて反省したり涙を流したりした。
そして思いのたけをしゃべりつくしてしまうと、自分の信仰する神仏に祈りをささげ、それに安心したものか自然に寝入ってしまったのだ。
体力の極限までの消耗を感じ、すべてを空の彼方に任せ切った達観もあるのだろう、だれもがグウグウと不敵ないびきをかいているのだった。

 8日朝、多田清輝はいつもと違い、居住まいを正して工夫たちに告げた。
「いいか、みんな。落ち着いて聞いてくれ。ぼくは救助の進展を計算し直してみたんだ。そうしたら、8日、つまり今日だ。坑が届くと出た。『矢板」の音の感じと言い、おそらくこれは確実だ。その時が来たら首に掛けた手拭いで目隠しをするんだ。闇に慣れた目にはカンテラの明かりすら毒だからだ。万歳三唱を忘れるなよ」
「へい」
だれもがうなづいたが、それっきりで特別なリアクションはなかった。
衰弱のあまり、なにを言われても夢うつつのような状態で実感がなかったからだ。

 その瞬間は意外に早く来た。
午前10時頃だったろうか。
バラバラと落石の音。
ボガッっという案外くぐもった貫通音とともに、カンテラの光がたまり水に映って見えた。
17人は一瞬、茫然としたが、とにかく万歳を三唱し、衰弱し切った彼らは救助隊に子供のように背負われて、坑内にある救護所に向かったのだ。
夢にまで見た救出でもいざとなると現実感がなく、勇ましく歌うはずだった軍歌も出てこない。
その時の様子を新聞はこのように伝えている。

 『泥水を飲み草鞋を食ひ生き埋めの17名が八日に亘る大惨苦』

『熱海線丹那山隧道東口の生き埋め工夫救助掘り出し工事成功し八日午後十一時二十分遂に17名の工夫が救助されたことは朝刊記載の通りだが遭難者は悉く隧道内の一隅に急設した天幕張りの救護所内に横臥して東口出張所高井技手及び鉄道省山縣医師らの介護を受けつつ静養してゐるが埋没以来八日間、此間十七名の遭難者は一粒の米をも口にせず各が穿いてゐた草鞋を食って露命を?いでゐたのであるが、十七名が斯く危い命を今日まで取止めてゐたのは生埋中の一人たる鉄道工業会社の技手○田氏の沈勇な動作の賜であったのだ、氏は埋没以来暗い不安の隧道内で別項の通り日記まで手落なく書き続けてゐた、今朝鈴木技手と共に救護所に○田氏を訪づれると氏は光線を遮る為めの目隠しを外し鈴木技手及び記者と堅い握手を交しながらホロホロと嬉し涙を流しつつ悲壮を極めた埋没中の光景を語り出した』

 多田は救出までの8日間、簡略な日記を付けていたのだが、それでも談話と食い違うところがいくつかある。
おそらく感極まって気が動転し、記憶に齟齬が生じたのだろう。
救助直後は一時、呆けたようになっていた他の16名も、救護所内ではそれぞれに流行節(流行歌)を放吟して看護婦に叱られたり、新聞社の写真に写りたがったりと普段の彼らにしてはかなり躁状態になっていた。
ともあれ、次の日の9日、トンネル内救護所を出た時には圧死した16名を念頭に置き、その訃報を悼んでいる。


                9 終わりに


 丹那隧道は16年の歳月の末、昭和9年(1933年)6月19日11時40分に貫通した。
この熱海側大崩壊の後にも三島側での出水や、断層に手を付けたため起こった北伊豆地震などで、総犠牲者67名(うち熱海口31名、函南口36名)を出す、トンネル史上に残る難工事であった。
計画の発端は、当時、御殿場廻りだった東海道線を短絡化させるために丹那盆地の真下、熱海~函南間 7,840メートルを複線隧道にすべく着手したもので、急勾配でしかも遠回りという難点を一挙に解決するものだった。
富士火山帯を通過し、膨張性の温泉余土、断層群、大量の高圧地下水脈を水抜きし、当時、まだまだ未熟だった技術は完成までに多くの犠牲を強いたのだ。
それでも、セメント及び薬液注入、圧気工法、シールド工法、側壁先進導坑、電気ロコ等の最新技術を導入し、この経験が日本のトンネル技術を世界レベルに引上げたのも事実だった。

 当時の読売新聞は開通の様をこのように伝えている。
『アヽ待望の處女列車!霜凍る夜空にドンと花火が打ち上り通過列車を全町の隅から隅まで傳へた、熱海驛や隧道入口に群がる人々、手に手に小旗をもつてドッとあがる歓聲だ、歓聲だ、(中略)停車する毎に町の人々は驛に押しかけて万歳を浴せかける、車窓から出る顔々々「お目出度う」「お目出度う」微笑み交す人々の心の美しさそのどの顔も、丹那隧道工事十六年を心から無言のうちにたゝへて居る』

 なお、西側三島口を担当した鹿島組は昭和5年に株式会社となったが、その時の取締役桜井金作氏はこう語っている。
『感想?そんなものはないね、強いて言えばよくやってきたなァという一言に尽きる。これも組長(鹿島精一氏)のお陰、今更手柄話でもないよ。随分議論も戦わしたし強情も張ってきたさ、それでも出来上がればいい。苦労はお察しに任せるばかりだね。日本でもこの位のものは出来るという自信がついただけでもいい。米国から技師をという話もあったが今日から見れば夢の様、ただ尊き殉職者に対して僕は死ぬまで冥福を祈るばかりさ』

 また、この工事で思いがけない犠牲が生じたことも忘れてはいけない。
丹那隧道は図らずも、その真上にあった緑豊かな丹那盆地の保水をすべて抜いてしまったのだ。
そのため水田で農業を営み、ワサビを作って収入を得ていた丹那村は一挙に水不足、飲み水にすら事欠くありさまで一時は離村の危機すら叫ばれた。
現在にいたってなお水不足のこの問題は、補償金によりひとまず解決を見て、村は酪農により生計を立てることとなったのだ。
村民は素朴で、よそから来た人々におおらかで親身であったという。
トンネル技師たちは測量時の村人の親切な対応を忘れられず、丹那山隧道とする命名案を、村の名を冠した『丹那隧道』に変えている。
せめてもの罪滅ぼしだろうか。

 現在、我々がいともたやすく三島や静岡を訪れたり、新幹線の新丹那トンネルが4年という意外な早期に完成したのは、こうした悲劇の積み重ねの上にあるのだ。 
時間があれば慰霊碑を訪れてみてはいかがだろう?

 1)三島側(西口)函南駅慰霊碑。

函南駅を熱海側に戻ると、小さな案内板がある。
それが『工事殉職者慰霊碑』に詣でるための入口で、目立たないので見落とさないこと。
道なりに行くと左の線路とは反対側の山の中腹に鹿島組が建てた立派な慰霊碑がある。
古色蒼然たる石組に荘厳な雰囲気が漂う。

 2)熱海側(東口)来宮駅慰霊碑

まさに東海道線を見下ろす正面に『丹那トンネル殉職者慰霊碑』のレリーフがある。
鉄道省の建てたもので、来宮駅から熱海梅林に向かう道の脇を下った先にあり、三島側『工事殉職者慰霊碑』よりわかりやすい。
真ん中の銅盤には67名の殉職者の氏名が刻まれ、奉賛会の人々により例大祭も行われている。
ちなみに、結果的に17名を救った『救命石』はここにあるので、心願のある人は詣でてみては?

 丹那隧道(丹那トンネル大崩壊事故)

 丹那隧道(丹那トンネル大崩壊事故)

大正7年に着工されたものの、落盤、出水、崩壊と数々の困難に見舞われた、丹那隧道(丹那トンネル)。 多くの犠牲者を出しながらも果敢に完成に漕ぎ付けた男たちの、喜びと悲しみの赤裸々な物語。

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-06-19

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