蛋白石の断片 -2-

凍実 永

以前に書いたものの続きですが、まとまっていないので整理して追加しています。まだ途中です。

021. 黄 レミ・ナニガシ

 今朝は、奇妙な音のする機械の中で40分横になっていた。最初の二曲はSmoke gets in your eyesとMy funny Valentieで、他にもいくつか親しみのあるフレーズを意識で追いかける。お陰で腕に針が刺さっている割にはリラックス出来た。昔持っていたCDと、一緒に聞いた人を思い出す。曲名がわからないのは、勿論MRIはうるさいからとかいいわけは出来るが、僕が忘れやすいせいもあるのだろう。腕に針が刺さっていた。愛想のいい技師の青年が、では造影剤をいれますねという。ヒンヤリした感覚が腕の内部をかけ上った。それがひんやりと体を駆け巡って僕に混ざり込む。ヴァイオレット、ローズ、バジル、ウィリアム。長い間機会のなかに横たわり、夢とも現実ともつかないなかをふわふわと漂う感覚で目を閉じ続けていた。
 あれから、十年くらい経った。僕は相変わらず冴えない日々を送っていて、けれど、ここに落ち着くまでには色々とあった。まあ、ロレンスが使った言葉なら、みみっちい苦悩と幸せをいくつか重ねて、自分を取り巻く環境はいくつか変えながら、そのくせあまり成長もしないで現在に至る。別に、それはそれで、不幸ではないと思いたいし、たぶん、幸福ではある筈だ。不満といえば、自分が出がらしの茶葉になったような気がするというくらいだ。そう、そのくらいだ、と、思う。僕の人生は、オパールとの関わりが唯一変わっているくらいで、至って平々凡々としている。今日の病院ですら、ひどく平凡な日常の一幕だ。
 ようやくに撮影や会計の長い待ち時間が終わると、もう昼食時も過ぎていた。午後からの出勤を諦め、どうにも行き場をなくした午後。家に帰れば同棲中の恋人に問い質されて何かいわれるかもしれない。地元のチェーンの喫茶店に逃げ込み、本を読んでいた僕の前に、いつの間にか、唐突に、彼女は立っていた。音をたてない白い猫のようだ。僕は言葉が浮かばず本に栞を挟んで閉じる。
「老けたな。」
オパールは呟くようにそう言った。そして、僕の向かい席に置いてあった荷物を床の籠に勝手に移して座る。僕はその置き方が決して乱暴ではないことを嬉しく思う。彼女は音をたてない。
「オパール。よく見付けたね、このお店は初めて来たんだ。」
彼女は特に返事をしない。その代わりに目をあわせて少し頷く。その意味するところはわからないが、拒絶ではない。
「元気してた、て、言うのも変かな。」  
オパールは僕のことを何故か気に入ってくれたようで、何年かに一度、変なタイミングでお茶を飲む。と、言うよりは、僕が喫茶店にいるときに、勝手に来る。そうして、小さなオパールの石を渡して行く。僕はそれを小さな袋にいれて持ち歩く。そして、気が付くとそれが袋からなくなっている。僕にはその石の記憶はほとんど読むことはできない。ただ、その石は僕自身の記憶を持って行く。これは、彼女がロレンスと持っていた関係に近いのだろうか。オパールの石に僕の記憶とそれが規定する彼女の在り方を載せて渡す。彼女は僕のどんな記憶を読んでいるのだろう。そして、今日の記憶も彼女は受けとるのだろうか。僕の今日の記憶。僕はオパールを恐れなくなっていたし、それが生存本能の麻痺だともわかっていたが、いつの間にか彼女に会えるのが嬉しくなっている。古い友人のように感じていたし、その好意が彼女の許容する範囲内に保たれているように気を付けてもいる。だから、おそらくは僕は随分嬉しそうな顔をしていたであろうけれど、オパールが瞬間動きを止めるのを見て、その笑顔を引っ込める。けれど、この僕の友情めいた感情は僕の大切な一部なので、オパールを遠ざけない限りは大切に保とうと思っている。
「元気の定義によるかな。安定はしている。」
「そう、それはよかった。こっちは相変わらずさえないよ。」
「冴えていたことがあるのかい」
オパールの声はさほど響かないので、まるで空気そのものが台詞を言ったかのようにも感じられる。
「手厳しいね」
「それは君の判断だ。わたしはこの十年間、君の口から聞いてきたことを繰り返しているに過ぎない。君が冴えていると思っていたら冴えているねと言う。」
彼女は完全には無表情ではない、と、僕は思う。なにかしら人間味のある瞬間もある。それでも、オパールは僕に対して彼女の主観的な評価ほとんど下さない。老けたのは純然たる事実だし、さえないのは実際、僕自身の自己評価だ。彼女は僕を僕の評価で語る。それが彼女の在り方なのか、自分が他者の主観的な規範にのっとってしか在れないことの痛みからくる優しさなのか、それすらも僕が彼女に与えた規範なのか、僕には推し測りようもない。チェーン店にしては感じよく薄暗く、量産品ながらも懐古趣味的なランプの灯りが素敵な背景に、彼女は白く馴染んで絵のように表情なく座っている。
「うん、冴えてるって思えたことはほとんどないね。やっぱり、こうあるべきなんだろうなってとこに沿えないと、自分でもさえないって思う。」
「それは、こう在りたくない、に沿っているより、ましじゃないのか。」
そう言うと、オパールは通りかかったウェイターを手でとどめて、ウェイターの方を見もしないで、ココア、と小さな声でひとこと言って注文する。今どきの若者である様子のウェイターは若干気を悪くした様子なので、僕は笑顔で「お願いします」と付け加える。ウェイターは僕の伝わりにくい謝罪を受け入れたのかどうなのか、なんにせよ、表情なく伝票にココア代を書き付けて去った。オパールも無表情ですましている。彼女の無表情にが何かしら詩的なものがあるのに対して、あの若いウェイターの様子は表情を欠くことによる攻撃のような刺がある。そう思うのは年をとったせいか、冴えない日々のもたらす被害妄想か。
「こう在りたいに沿えないのは、こう在りたくないに沿うよりまし…うん、そうだね。不幸ではないんだよ。さえないだけ。」
「まあ、君はこう在りたくない、に沿っているようにしか、見えないけど。」
「…ほんとに手厳しいなぁ」
「それは君が手厳しいと考えているからだ。」
僕は彼女もロレンスも手厳しいと思っているし、何ゆえにか、手厳しくすらあって欲しいと思っている。けれど、こうあって欲しい、がどのくらい彼女に与える規範に影響を与えるかはわからない。こうあって欲しい、が、彼女の在り方に影響を与えるのであれば、もしかしたらロレンスやウィリアムやローズの持っていた希望にも沿った在り方だって彼女にはできたはずだ。けれどもそうでなかったのだから、はじめからきっと彼女は手厳しいのだろう。人やかつて人であった彼女も、こうあってほしい、にはそんなに簡単には沿えないのだと思う。だから、こうありたい、に沿えなくて、こうありたくない、に沿っているのは僕も彼女も同じなのだろう。あるいは、同じだから手厳しいのかもしれない。僕にはよくわからない。彼女は僕の評価を僕に突き返すだけなのかもしれない。
「…そうだね。」
僕は曖昧に笑うと、改めてオパールを眺めた。そうは在りたくない在り方に、ずっと沿っている割には、彼女には僕のような情けない感じがないのは、老ける事ができないからだろうか。素材のよさそうなふんわりとした白いニットに、きちんとセットした短い金髪。いい生活はしてるらしい。僕にとっての、こうありたい、を思わせる姿。
「最近はどうしてるの」
「色々と。」
「まさか、僕みたいに二束三文な給金で働いてる訳でもないでしょう。」
「仕事なら、骨董品鑑定とか、昔ながらの暗殺とか。」
「暗殺…物騒だなぁ。」
「別にそうでもない。」
「そうなの…なんだかシークレットエージェントみたいだね。」
「君の案だよ。」
そうだったろうか、そんな案を出した覚えはない。僕は何一つ案など出していない。ただ、持ち歩いていた小さなオパールの石が僕の持つ彼女の在り方を写して持っていっただけだ。
「そんな事いったかなぁ。」
「君の持っているわたしの印象がそうさせる。石の記憶がわたしを造る。」
「僕の持ってる貴女のイメージは、スカラベのブローチが見せてくれたものが元だよ。そこから、実際に会って、少しは変わったのかもしれないけど。…いくらなんでも、君の職業は想定してなかったし…。」
彼女の在り方が何であるにせよ、単独では存在できない。他者の持つ彼女の在り方のイメージに沿って彼女は自分をかつて在ったものの灰から再構成する。存在の設計図のようなもの、様態の規範。かつて在ったものや、魂の持つ本質と異なるから魂は葛藤するのだろうか。
「規範は状況に沿ってその時々に発露する。君が実生活を想定せずとも現実は具体的で、具体に対する選択に規範は適応される。結果的にこうなっている、それだけの事だよ。」
「…そうか。なんか、面倒かけてたらごめん。暗殺とか、嫌じゃないの。」
「面倒か。よくわからない。暗殺はわたしの在り方に適した言い訳になっている。」
「言い訳?ああ、まあ…血は要るんだものね」
僕は物騒な話題に少し声を抑える。オパールはそれ意に介さずに僕の顔をじっと見て言う。僕はMRIの中のふわふわとした現実離れした感覚に再び襲われる。オパールの目には色んな色が煌めいている。
「しかし、君の規範は、楽だ。そう、楽だな。確かに、わたしは殺す相手を選んでいる。死が必要な人間もいれば、生きる資格のない奴も沢山いる。しかし、それならば是であるとする君は甘い。わたしを生きている人間のようにしか捉えられない、君のお人好しで感傷的な考え方は、しかしながら、楽だ。」
そう云って、驚いたことに、彼女はほんの少し、片笑んだ。それが僕にはあまりにも意外で、嬉しかったのに、何か、漠然と不安になった。僕が知っているオパールは、こんな風に笑わない。笑えない筈なのだ、ここにいてはいけないと、彼女が、思っているその事だけが、彼女の唯一保ってきた彼女なのだから。にもかかわらず、僕は、やはり彼女の笑顔に心を奪われている。いかにも嬉しそうな顔をしてしまったのだろう、それを見てオパールはまた表情を失ってしまった。メニューに目を落とし、それを読み上げているかのように平板な声で言う。
「君の規定は、楽すぎる。君の神の考え方は、放蕩息子の父親そのものだ。なら、何故、わたしは帰れない。娘だから?」
時々、オパールは僕にもわからないことを言う。僕が彼女から預かって、彼女を造るべく、彼女の規範を送り込んだ石は、結構な数になるのではと思うのに。
「…娘…うん。それは、わからないよ」
「そうか。」
彼女はテーブルに肘を付いて重心をかけ、もう一度僕の目をじっと見る。僕はその光彩の色相を把握しきれない。僕がまた夢見心地と現実世界での居心地の悪さの狭間を彷徨い出す前に、彼女は言う。
「わからないのは、自分も裏切り者だからか。」
「裏切り者?」
「放蕩息子は結局、同じ者としては帰れないんだよ。」
「そうかな。」
「あの恋人はどうした。」
「…別れたよ。そうだね、僕は裏切り者かもしれないね、うん、別れたんだ、ずっと昔に。今は別の…」
「あれはやめた方がいい。」
「いつ…」
彼女は返事をしない。ただ、またいつもの表情のない顔に戻って、僕の顔をじっと見る。僕は頭の中で溢れる言葉をつかみきれず口に出せない。
 彼女はおもむろに目を逸らして腰をあげ、尻のポケットから何かを取り出した。それは薄い木の箱で、彼女はその中から紙くずを取り出して、テーブルの上にのせ、僕の方へすいと押し出した。紙くずは薄く白い紙に黒い文字がうねり、それが乱雑に丸められた跡のようなしわの上で文字が抗議するように歪んで見える。そのなかに、ちらと銀色の光沢が見えた。なにかをくるんであるらしい。
「開けて。」
何か物騒なものでも入っているのかと思いながら、おっかなびっくりとその包みを持ち上げ、広げてみると、そこには二本の長い銀の棒がついたオパールが入っている。そのオパールには魚の形が刻んである。
「きれいだね。かんざしかな。君が着てたガウンみたいな魚。」
「意匠は気にするな、わたしとは関係ない。」
「客?何の客?」
その質問を黙殺して、彼女はウェイターが持ってきたココアを、彼の方を見ずに受け取って量産品のカップに口をつける。真っ白い腕には白銀色の腕時計が光っている。いかにも人間的だが、それが手首から前腕の半ばずり落ちるほどの細さに、人間らしからぬところがある。ストローを伝って彼女に届けられるココアは、その土からできた体の中で、どこへいくのだろう。僕は、今日、自分の腕を伝って脳に上がっていった、奇妙な薬品のことを思い出した。造影剤。それが血管を伝って上がってくるのを感じた。僕の身体物質性を感じるあの感覚。血管に感覚があるのだろうか。彼女は、あんな感じでココアが体を巡るのを感じるだろうか。しかし、目の前の宝石はそれとは関係はない。
「気にするなって言われても…」
「意匠はどうでもいい。問題に関係しない。これはもともと、ウィリアムの友人が持っていたものだ。」
「あのローズのおじさんの友達が?このかんざしを?」
「それがウィリアムやローズや、そのローズの友達へと回った。」
「あちこち回るなあ、スカラベみたいだね。」
「説明はないほうがいい。どうせこれも君は読むだろ。」
オパールは、僕が石の持ってい記憶を読み取ることを、読む、と言う。それは人様の日記を盗み見るようで、あまり誇れることでもないのは承知で、だからそれを言われると非常に居心地悪い。
「そりゃ、まあ、興味はあるけど…でも、どうして…」
「これはスカラベほど馴染みはないんだ。最近また見付けた。わたしに影響を与える前に、どんなものか見てほしい。」
彼女が僕に表情を見せることはそんなに多くはないが、だからこそ僕もそれを読むのには慣れている。そして、彼女の表情は少なくともその内容に対して、非常に高い関心を持っていることを告げていた。ふと、その今日受けてきたMRIの検査結果を待つ、僕の気持ちに近いものがあるのかもしれない、と思う。
「まあ、いいけど…随分信頼されてるんだな、ありがとう。」
「君はわたしを信用していないようだが。」
「そんなことは…ないと思うよ。」
「良性の小さな腫瘍だ。検査結果を早く知りたいだろ。」
僕は驚いてオパールをじっと見た。今日、検査に行ったことをしっているとは思わなかったのだ。驚いた事に、やはりオパールの顔には若干の笑顔に似たものがある。
「別に詮索はしていない。君に預けていた石で知った。石は君の記憶と思考とその依って立つ場所の情報を保持する。」
「では、恋人の事も…僕がダメだと思ってるのかな」
オパールは笑顔に似た表情筋を解除し、ココアに目を落とした。
「違う。君何も判断していない。それはわたしの判断だ。」
「え…」
「君は惨めたらしい。惨めたらしい気分にさせる人間を周囲に置くな。脳腫瘍の検査に一人で行かせる人間と付き合うな。お前の体は物質だ、それが損なわれたら死ぬ。」
オパールは極彩色の瞳でカップのココアを見ている。そこに僕の運命でも読むように。
「まあ、今は死なないだろう。」
「そうなの…ありがとう。」
オパールはココアのカップを無言で置くと、つめたい手で僕の掌を掴む。そして、魚の意匠のオパールを握らせた。
「頼んだよ。」
それが、魚のオパールの事なのか会計の事なのかもはっきりさせないまま、彼女は席をたって背を向け、店を出ていった。頼んだよ、と彼女は言った。誰も重要な事を任せない僕に、何かしら大切なものを託してくれた。僕は、多分オパールの方でも僕を友人として認めてくれているんだろうと思い、ありがとうと呟き、目頭を押さえて息を大きく吸った。そして、かんざしの包みを開き、その金属の先がずいぶんとがっていて黒ずんでいることに気が付いた。
「なんだよ、とがっているとか教えてよ。」
僕は少し笑いながらつぶやいた。

022. 紫 ヴァイオレット・グレイ

 私は一体、何をしていたのだろう。確かにあの人はハンサムでセクシーだった。キスは巧く、腕のまわし方もさりげなく。私は浮かれていたのだろうか。心の通わない男性と、心が通っていたのにそれが忘れたいものになってしまった男性とは、どちらがましだったろう。私は何をしていたのだろう。必死に戦うと日々の感情の記憶は薄れるものなのかしら。ようやくに家も信頼も建て直したと思った時に、あの人は、今度は口紅をしてやって来た。重い睫毛に囲まれた瞳に、最初に見た老人と少年と、見出だしたくなかったものを見いだした。きっと最初に見かけた時からあって、認めたくなかったもの。娘が泣きながら話してくれた、彼女の正体と、その正体にどうしようもなく惹かれる私。娘の初恋の終わりが、私の認めたくない恋の始まり。馬鹿馬鹿しい。この化け物は娘を泣かせたの。心許すわけにはいかない。

「何をしにいらしたの。」

「頼み事があって。」

「すごい声ね」

その人はしゃがれた声で云うと、スカーフを僅かにずらし、そこから耳の下への伸びる傷を示した。

「聞き取りづらくてすまない。なおすのに時間がかかっていてね。私の石が少しでも残っていれば返してくれないか。」

私はその傷と、傷のある喉元の白か目が離せない、半ば口を開けて、彼女の瞳とその傷を何度も見比べる。

「石は、あるわ」

失礼いたします、お茶をお持ちしました。

ごめんなさい、この方はココアなの、作れるかしら。

少し時間がかかりますが、ええ、大丈夫ですわ。

ありがとう。

物怖じしない秘書のアイリスが、せっかく淹れた茶をもって下がる。彼女の集めてくれた資料が私の野心を掻き立てる。それはただの宝石店のオーナーとしての野心であったのに。この目の前の人に、深く関われそうな気がする。

「石は、あるわ。全部。でも、簡単には返さない。」

「もうローズには会わないよ。彼女も会いたくない筈だ。」

その人は微笑みに似たものを浮かべる。私は私の野心と欲望をもて余している。そのような私と清浄な天使である娘とを、どうしても同じ世界に置きたくはない。私はこの店よりも広い場所を必要としている。新しい鉱脈、遠い大陸、その場所なら。

「ローズには近寄らせない。でも、あなたは、私の友人になるの。」

「友人」

「ロレンスさんとは少し違うかも知れないけど。」

「あなたもわたしを留め置くの。」

「そうよ。」

私は、常時店にいるようになってから増設した私の部屋のカーテンを閉める。それから、ドアに鍵をかける。そんなつもりで付けたつもりではない鍵。私は、机の鍵を開けて引き出しから小箱を取り出す。そこから、まだら模様のオパールを一つ、取り出す。

「スカーフを取って。」

わたしはその人の隣へ腰かける。そのつもりで置いたのではないソファに。そして、小箱から取り出した小さなオパールをその人の冷たい手に握らせる。数秒で何かが変わる。私は彼女の首の傷痕を近くで見つめ、そこへ指先を這わせ、冷たさを指で確かめる。その指の意図を図ろうとこちらへ向けられた瞳は、光彩が千変万化なのに対して、どこまでも黒い。その下の形のよい鼻先から、赤く彩られた唇。傷口が耳の下まで伸びているのはバランスが悪い。残すなら、この辺りまで。

「きれい」

そう言って、私はその頬へ手を持っていく。もう片方の手も反対側の頬へまわし、こちらへ向ける。色素沈着のない肌に絶妙な張りの頬。生え際の産毛と、不揃いな毛先の白に近い髪色。頬からの視線で一周すると、そこから指を這わせて赤い唇の端に触れる。赤色が指にうつるのも構わずその形を人差し指で確かめ、それから中指も使って持ち上げる。犬歯が見える。その顎が僅かに開く。私は指を離してソファに置き、顔を傾けてその唇にキスをする。唇は私を拒否しない。唇が合わさって舌が伸び、お互いに触れあってから絡み合う。私はソファに置いた手を舌の向こうの後頭部へ移してその人に腕も舌のように纏わりつかせる。そして、僅かに舌先が離れた拍子で、わざと鋭い犬歯で舌を傷付ける。血の味が広がる。私と彼女の息が混じりあう。その息は荒い。ああ化け物とはいえ、息はしているのね。私は彼女の体をソファの上に押し倒す。その上に身を傾けると、しゃがれた声が小さく問いかける。

「あなた、こういうのがいいの。」

「ええ。」

もっとよ、と考えた時に、ドアを叩く音がする。私は立ち上がりながらハンカチで口の回りを拭く。押し倒されていた人がソファに座りなおすの確認して、ドアへ歩く。

ココアをお持ちしました。

ありがとう、入って。ああ、紹介がまだだったわね。こちらはオパールの鑑定士の…失礼、お名前はなんだったかしら。

「ユディート・べイン」

そう、ユディートさんよ。

ごきげんよう、べイン様。

ささ、暖かいうちにどうぞ。こちらのクッキーもおいしいですの、是非召し上がれ。

ありがとう。

私に盆を渡してしまうと、小柄なアイリスはにこやかに一礼し出て行った。

「今はユディート・べインなの」

「名前なんて考えていなかったから。」

「ユディトは首を切る方よ」

聖書の中では、ユディトは敵方の大将の首を切り落とした女性だ。では、彼女の首を切ったのは誰だろう。ロレンスのような気がする。私が撃った傷で死んでいなければ。

「ロレンスさんは。生きてるの」

「おそらくね」

「そう。よかった。」

返事がないので、私は「ユディート・ベイン」をじっと見つめる。あの男性はこの人と、どんな関係を持ったのだろう。一箱の宝石で飼い慣らす、猛獣のような何か。いにしえの魔術に縛られた女性。この人は、生き延びるために、何をしてきたのだろう。ロレンスは、彼女に何をしたのだろう。
 私は何度か関係を持ったロレンスの身体を思い出す。瑞々しさが消えた年齢なりの肌の下の引き締まった肩、形のいい脚と臀、法令線と首の香り。結婚を嫌って身を投げる少女でさえなければ、大抵の女性は喜んで彼を受け入れるだろうけれど。けれど、それが意に反して与えられた者だったら、生存の条件だったら。私はどうするのだろう。その意に反して。その意?その意をも、私はつい先ほど、小石ひとつで変えたように思う。それとも、変えてなどいないのか、元からキス程度は受け入れる下地はあるのだろうか。この人はどこまで作り替えられるのだろう。作り替える基準は、規範は、その身体を維持する構成要素は。ケイ素と水分で人体を維持するなど奇妙なお話。私は考えられる要素を頭のなかで箇条書きにしていく。それに、調べないといけない要素がいくつかある。条件を変えて実地で観察する必要もある。その好奇心と、それに伴走する欲望。そして、この人は美しい。

「今夜、私の部屋へ来て。こちらにも家があるの。」

「今、連れて行ってよ。」

「ダメよ、用事があるの。」

「そう」

そういうとその人は真っ白い蜥蜴に姿を変えた。私が質量保存の法則との齟齬に思考を巡らせている間に、蜥蜴はドアの下の隙間へ消えて行った。私は、用事をキャンセルしなかったことをほんの少し、後悔する。

023. 灰 ウィリアム・グレイ

 彼の白はいい。よくわからない光り方をする。世の画家の例に漏れず裸の女の絵ばかり描いているが、実際に描きたいのは肌であり布であり皿である。彼はそれを特に恥じもしない。
「皿も布も女も好きだが、売れるのは女の絵です。売れなきゃ国に帰るしかない。」
そういって彼は、大きなキャンバスに細い筆で黒い線を引いていた。僕はこの黒髪をひっつめた丸い金縁眼鏡の画家の描く乳白色の肌に衝撃を受けた。あの白なら、描きたいものが描けるんじゃないか。葦の向こうに立つ幽鬼を描けるんじゃないか。僕はその絵を舐めるように見て、その白の上には影しか乗っていないことを知る。
「すごくマットなのに光っているな、この色は下地の色?」
「いったん体だけ白でベタ塗りするんです。」
「へえ、絵の具は?」
「アンタさん、カキは好きですか。」
「なんだそれ」
「食って削って、粉にしてつかうんですよ。あの衝立の向こうに道具があります。しかし、なんでそんな事が知りたいんです?アタシの絵の技法を使っても、アナタじゃうけないと思いますよ。」
彼は完全なる円形の二枚のガラスの向こうから、東洋人の黒とも茶色ともつかない目で僕を見る。まだ気配しかない法令線をわざと際立たせるように口を横に引っ張り、笑顔の前段階のような顔をしている。その表情は警戒よりは好奇心を表している。
「何故って?」
少し時間を置いて彼はキャンバスへ向かい、僕の目はその細作りな背中と艶のある黒髪を眺める。
「アンタさんじゃ、東洋の神秘とか、分かりやすく売れる雰囲気を作れんでしょう。なのになんで、アタシの絵の物真似がしたいのかなと。」
言いながら彼は細い線を引き終わった後に、数歩下がって仕上がりを見る。軽口とひっつめ髪と夜通しのばか騒ぎ、それに光る白にあわせた墨書きのような線で、自分と自分の絵をうまく売り出した男だ。その売り出し方は絵の魅力を伝えきれているとは言いがたいようにも思えるが、売れなければ絵は存在しないに等しい。彼の立場からすれば、そのやり方が結局は正しいのだろう。
「僕は別に売れたくはないんだ。描きたいものがあるだけだよ。」
「なるほど、アナタにとっちゃ絵は金持ちの道楽なんですね。アナタ、嫌な人だねえ。」
「貧乏暮らしに慣れた金持ちなんだよ。でも、僕はいい奴だろ。」
「はは、確かに人好きはするお方だ。別にアタシはかまいませんよ、教えます。で、代わりに何か教えてくれますか。」
「僕には教えられる技法はないな。下手なんだ。代わりに、酒と酒飲み話なんてどうだい?」
「おや、そりゃちょっと安くはないですか。」
「それじゃあ、姪の肖像もお願いするよ、ちゃんと代金は払うし、美人だぜ。」
「美人はいいですね、美人に見えるように頑張って描かずに済む。痩せてます、肥えてます?」
「着衣で描くんだよ、布、好きだろ。」
それで、彼はにこりと笑うと「ウイ」と返事をした。そして、絵筆を丁寧に洗って干し、手袋と首から膝までを覆っていたエプロンを外すと、衝立の前のキモノ掛けに引っ掛ける。そして、鏡の前でつややかな黒髪を整えて「では、いきますか」という。
 街に出ると、夕方の空の色が見事で、西の方の赤が、南の方へはピンクとして伝わるものの、その少し上は紫だ。刻一刻と変わる色彩が、やがて明度を失って夜に近くなる。僕は口を開けて歩いていたらしく、金縁眼鏡をかけた画家に「虫を食べるんですか?」と笑われる。にやりとしてそちらに目をやると、彼の背景には感じのいいカフェがある。彼はそこから動かないで言う。
「ここでも構いませんか?実は、下戸なんで。」
「へえ、毎夜飲み歩いているってのは?」
「飲まずに歩いてるんです、場所が好きなんで。それにあの家で夜に聞こえる音には気が滅入る。なに、珈琲も沢山飲めば酔えますよ。」
それで僕らは通りを眺めるのにいい場所に腰を落ち着ける。黄色っぽい壁とテラスの上の布屋根に灯りが照り返されて、心地いい黄金の空間を作っている。珈琲に軽いつまみを並べて、しばらくは絵の話をする。
「僕は本当は光の様子をキャンバスに写す連中も好きだし、荒い筆遣いも、モノをあちらこちらから眺めて、それをそのまま絵にしてしまうのも面白いと思う。でも、それは最初にやらなきゃ意味が無いんだ。今じゃ既に陳腐化されたもののなかに埋もれて息苦しい。」
「アタシの白も陳腐化しはじめてますよ。牡蠣の殻もバレてます。もうすぐ飽きられる。でも、それまでを楽しんでいようと思いますよ。」
「君のは君自身が作り出した白だからな、飽きられる流行とは違うんじゃないか」
「アタシがつくったんじゃありません。」
「へえ。」
通りすがりの誰だかが、遠くから彼の名を叫ぶ。彼はそれに答えて椅子の上に立ち上がり、両手を降って答え、大声で軽口を交わし、やがて大袈裟な会釈をして別れを告げ、元の椅子に収まる。
「アタシの白は、流行ですよ。流行ってもらわなきゃ困る。しかし、貴方は埋もれるのが息苦しいのに、何故アタシの白が欲しいんです、何を描きたい?」
「なんというのかな、墓石とか、お化けかな。」
「お化けを?アタシの白は色っぽい肌として評判なのに?」
「うん、そうなんだけどね。古い大理石の白がいいんだけど、それも少し違う気がする。哀しいんだ。古くて、朽ちて、でも優しくて、厳しくて、残酷で猛々しくて寂しいんだ。」
「なんか忙しいですね。」
「うん、大仰だろ。難しいんだ。詩人じゃないから、言葉には出来ないんだよな。」
「大仰かはまた置いといて、それはアタシの白じゃないな。アタシのは艶かしい白ですよ。」
「そうかな、僕には皿に見える。」
「では、皿のようなお化けが描きたいと。」
「はは、皿じゃ怖くないじゃないか。」
「皿にまつわる怖い話なら、ありますよ、アタシの国の話ですが。」
「へえ、どんな。」
夕闇は濃くなり、やがて青はプルシャンブルーになり黒に近づいていく。ウキノは皿と幽霊の話をまるで見てきたかのように語る。その語り口ときたら一人で何人もの役を演じる役者のようだ。僕はしばし夢中になってそれに聞き入る。ちらちらと、彼が話の端々で見せる手の動きが妙に艶かしい。僕はコーヒーにリキュールを追加し、彼の絵と話があまり似ていない事を不思議に思う。リキュールの暗色はすぐにコーヒーのより深い暗色に消え、同じように僕の印象もほかの思念に紛れてしまう。彼の話の印象は、彼の女の絵にも、皿の絵にも似ていない。皿の幽霊は、もっと白が暗くて、青い。
 僕はその感想を言葉では表現しきれず、ワインも頼んでオパールの事を話し出す。ワインは蝋燭に照らされて赤黒い色をガラスの艶に乗せる。僕は吸血鬼の話をする。土に撒かれた宝石に、光る小鳥に、梟の化け物。賢しげな痩せこけて青ざめた少年に、悲しくて残酷な女。妹の初恋の相手に、可哀想な年上の親友。バジルにとっては大切な者を脅かす敵であり、僕にとっては捉えきれない不確かな、何かだ。僕はバジルとは違って、オパールに魅せられている。
「そうすると、それはアナタのファム・ファタル的なものですか。」
「運命の女か・・・世紀末的な意味でのってのなら、僕にとっては違うんだ。僕は女性が好きだが、その親しみや明るさが好きなんだ。君の絵のような明るい色彩に、豊満なタイプがいい。ああいう、陽光でつつみこむような。だから、なんて言うのかな、隙あらば噛みつかれそうなのは怖い。君のお化け話のようなのは怖い。でも、オパールは噛みつかれるほど距離が近くもないんだよな。どっちかというと、近くに寄るなって感じの噛みつきだ。でも、面白いんだ。」
「それと白とどう関係が?」
「よくわからないけど、僕にとって白で表現したくなるテーマなんだ。何色とでも言えるけど白に近い。でも、いろんな色があるんだ。こんな風に。」
そうして、僕はポケットからブローチ取り出した。それをテーブルの灯りに近付けると、様々な色がちらちらと蠢く。オパールの石は様々な色を宿している。
「それは、話してたスカラベのブローチのようですね。なくなったんじゃなかったんですか。」
「うん、ふらりと寄った故買屋にあったんだ。そうなんだ、バジルのスカラベだよ。」
「ふらりと故買屋に立ち寄るってのもどうかと思いますよ。」
「仕方ないだろう、貧乏なんだ。」
「貧乏人はこんな高価なもの買えやしませんよ。」
「そこは金持ちの友達に借りるのさ。」
「ふつう、貧乏人には金持ちの友達はいやしませんよ。しかし、よく見付けましたね。」
「そうなんだよ。」
故買屋が言うにはこのスカラベのブローチは田舎の屋敷から盗まれたものだったが、その屋敷には僕の知る者は誰も関わりがない。詰まらないコソ泥が開いている窓から入って手近なものを盗んで逃げた。僕は盗んだ者を尋ね、何杯か飲ませて屋敷の場所を聞き出す。こそ泥は、僕がカモを探している詐欺師だと思って色々と話す。それから、盗まれた先を尋ね、外国訛りに眉をひそめられ、下働きの女の荷物運びを手伝って、ハンサムな別の外国人の話を聞く。その色男はブローチを屋敷の人間に渡して、かわりにいくらかの金を手にして去ったそうだ。女の話を聞きながら描いた似顔絵からすると、ロレンスは僕の姉に撃たれた傷では死ななかったようだ。似顔絵を渡してやると女はおおいに喜んで、僕の絵の腕を誉めた。
「僕が人物を描いて酷評されなかったのは希なんだけどね。聞いた言葉に似せるという作業は貴重な体験だったよ、自意識が入らず、話す女の目になろうとするんだ。」
「へえ、面白そうですね。アタシもやってみたくなりますね。」
「そうだ、じゃあ、僕のお化けを描いてみてくれよ。」
「遠慮しますよ、アナタの話を聞いていると、それこそ大事なアタシの白に青や赤を置きたくなりそうだ。」
「へえ、青や赤を。昔流行ったような。」
「そら、このブローチに光をあてて見るといい。非常に19世紀的ですよ、その石の色は。色彩と光学の科学的魔術です。」
「難しい事言うなあ」
「派手な看板は大事です」
東洋の画家はにこりとして眼鏡をちょいと持ち上げた。東洋人の顔はいくつになっても子供っぽさが残るというが、この男はその中でも童顔なのだろう。丸い顔に丸い眼鏡、しかし、表情には幼さはない。それでいてなんというか、いい奴だ。人好きのする男だ。それに、眼鏡の向こうの目があまり歪んで見えないあたり、きっと目もあまり悪くない。彼の眼鏡の硝子は薄い。
「ところで、さっき、僕は似顔絵を描くのに女の目になりきったと言ったろう。」
「ええ。」
「実はね、他に、殺された女の目にもなったんだ。」
「レイディキラーのロレンスに惚れたって事ですか。」
「そういう女殺しじゃないよ。オパールに会った夜にね、僕の小屋の隣の池で女中見習いの遺体が上がったんだ。可哀想に。赤毛の可愛い子でね、とても良い子だった。大人しくて控え目な子だった。
 僕は何度か家を追い出されては戻ってるんだが、二回目にこっそり家に戻った時にちょうど働きはじめていてね。僕は彼女に、最初は不審がられて避けられてたんたが、少しずつ話すようになった。パンやらパイやらをこっそり分けてくれて、デッサン用のパンもわざわざ分けて取っておいてくれた。声が小さくてね、いい子だった。その子を、オパールが殺したんだ。僕はね、その、女の子の目になった。」
「え、殺されたんですか。恐ろしいですね。」
「どうかな。でも、とても、なんというかな、つらかった。僕はあんなに押し潰されそうな気分になったことはないよ。僕は彼女になって、お屋敷の勘当された坊っちゃんの、まあつまり僕なんだが、坊っちゃんの絵描き小屋にいた。うん、僕はぼろっちい絵描き小屋を持ってるんだ、昔は林の管理人が住んでいたんだけどね、もういうない。古い小屋さ。その赤毛の女の子には以前に色々届けてもらった事があったから、場所は知っていた。僕はまだバジルと都会にいてね。」
「すみません、今、アナタは誰でどこにいるんですか。」
「僕の小屋だ。」
「誰が」
「赤毛の女の子が。」
「それでは、その女の子になりきって下さい。絵を描くつもりで。」
「はは、難しいな。まあ、こうだ。
 あたしは薄暗い部屋にいる。何故かベッドの上に土が撒いてあって、その中で何かがキラキラしている。でも、あたしは梁に縄をかける。椅子にたって縄をかけて輪を作りながら、その輪が壁に作る丸い影をみる。それから、自分の影をみる。窓の向こうの暗闇を見る。梁の上にわだかまる闇を見る。ランプの灯りに黒くなった影を見る。静かなようで、色々な音がする。胸が早くなる。死ねばこういう闇だろうか。音はあるだろうか。生きてはいられない。早く済ませないといけない。お腹の子が大きくなる前に。」
「妊娠しているんですか。」
「そうだ。」
「でも、死ぬことはないのに」
「それがさ、酷い話で、恋人の子じゃないんだ。この女の子、町の肉屋が恋人なんだがね、まだプロポーズもされていないらしい。で、じゃあ、誰の子かって、ろくでなしで酒浸りの兄貴の子なんだよ。」
「それは酷い。」
「それで、彼女は僕の絵描き小屋で死のうとしていた。森で死ぬのは怖い、一人で死ぬのは怖い、でも死ぬのは一人じゃないからもっと怖い。あたしが死ねば二人死ぬ。可哀想な子、生まれたら可愛いだろう、でも産めない。ごめんなさい、一緒に消えましょう。死後の世界はあるだろうか、無い方がいい、私は地獄行きだしこの子は親無しで煉獄へいく。でもそんなものはない、だから大丈夫、眠るだけ、きっと永久に眠るだけ。
 目を閉じる。そして、肩に何か当たってびっくりして叫ぶ。拍子に、椅子からベッドに落ちる、とっさに腹をかばう、部屋の角に小さい鳥、ほっと一息ついてから泣く。突っ伏して泣くが涙は出ない。腹の中で何かが動く。感じるのを拒否する、死のうと思う。死ぬ前に鳥を窓の外へ逃がそうと目を上げる。すると、裸の女が立っている。その女の体はぼんやり光っている。」
「女なんですか」
「兄貴に力ずくで凌辱された女の子から見たら、オパールは女だったみたいだ。僕にとっては少年だったのにな。赤毛の女の子から見たら、自分を害する男じゃない。凶器も筋肉もついていない、女さ。痩せ細った、髪の毛の短い、でも綺麗な女。
 普通ならこんなに痩せた女は気持ちが悪いと思ったろう、でも死神にはぴったりだったから、あたしは死神が綺麗な女の人で良かった、と思ったし、そう言った。あなたがわたしの死神なのね、綺麗な人で良かった。よろしくね。震えながらオパールの手を取って引き寄せる。短く刈り込まれた金髪、骨格の見える額と鼻筋、きめが細かく乾燥した肌、色々な色が見える瞳。肋骨の見える胸には膨らみはないけれど、あたしを圧倒する厚みもない。あたしはそこに両手を回して抱きついた。抱き付いて、啜り泣いた。死神の体は冷たい、あたしの涙は熱い。死神はあたしの頭にキスをしてから、何事か呟いて首筋に唇を移し、少し舐めた。少し痺れた。そして、そこにじっくり歯を立てた。痛くはない。一人でもない。眠くなる。ただ、腹の中の子と同じ闇に落ちる。ごめんなさいね。お腹に手を当てる。そこで記憶は途切れた。」
僕は語り終えると妙な罪悪感を感じた。誰かの非常にプライベートな内容の日記を、大声で読み上げたかのような罪悪感。ウキノ十云う画家は眼鏡をテーブルに置いて、目頭を指で拭う。僕は気まずくなって云う。
「可哀想な女の子の役をするのはすごく後ろめたい気分になるなぁ。」
「ええと、蚊みたいなもんですか。」
「蚊?」
「麻痺させてから噛みつくんでしょう。」
「蚊だと痒くなるじゃないか。」
「なるほど。しかし、あれですね、可哀想ですね。」
そして暫くの沈黙が流れ、「痛くないのはよかったです、そんな不幸な子が痛いのは可哀想です。」と呟くと眼鏡の画家は溜め息をついた。
「可哀想だよな。本当に可哀想だ。」
「お腹の子も。」
「全くだ。」
そして、暫くは沈黙が流れて僕はその他人の記憶を反芻し、東洋の画家はメニューの裏に万年筆を走らせて何かを描く。あまり見かけない、綺麗な緑の万年筆だ。そちらに彼の意識が行っている間、僕は考える。
 あれを絵にするなら何かの邂逅の図に近い構図にするだろう。赤毛の女の子の記憶ではあまりにオパールは美化されていて、優しい母親か、恋人のようだった。母親からは欠け離れた存在なのに。恋人のようなエロスを受けつけることのできなくなった、二つの存在であるのに。
「しかし、その『目』にはどうやってなったんですか。女の子が語ってくれたんなら、幽霊に話は戻りますが。」
僕が考え込んでいる間に絵を仕上げた彼は、僕に僕の似顔絵を向けながら笑った。なるほど、ボサついたカールの髪の男が中空を見上げている。
「はは、似てるね。」
「似顔絵、好きなんですよ。」
「それで、僕に君の白をおしえてくれるかい。」
「良いですけど。じゃ、一緒に皿を描きましょう。」
「皿を描きたいのは君じゃないか。」
「描いてる内にアナタも素朴な皿の良さがわかるようになりますよ。」
「ふうん、そんなもんかな。」
「そういうものとの出会いはいつも個人的なものです。でも、必ず普遍的なものが宿るんです。」
「ふうん、そんなものかな。」
「まあ、受け売りなんですけどね。アタシの国には皿と神秘主義を絡める不思議な思想家がいるんです。」
「なんだい、それは。」
僕は皿と神秘主義におおいに心惹かれた。実際のところ、可愛そうな女の子の記憶の体験の記憶にはほとほと参っていた。彼女の記憶は肉体的に死ぬ前に既に半ばは死んでいたのではなかろうか。オパールは仕上げをしただけだろうか。それとも、ただの気の迷いにつけこんだ殺人だろうか。自分は彼女を助けられなかった。死んだ後に死にたがっていることを知ったのだから、不可抗力だ。そして、オパールほど彼女を助けた者はいなかった。彼女をそこへ追いやったのは誰だろうか。僕は考える。自分は知らぬ間に、彼女に死を選ばせるのに、荷担しなかったろうか。僕はしかし、その思考と共に沸き上がる感情に時々どうしようもなく悲しくなって、一人でこっそり涙を流す。
「すまないが、トイレ」
「アタシのハンカチも貸しますよ。ただし、涙しか拭かんで下さい。」
僕にできることはなかっただろうか。そんな問いを、皿は忘れさせてくれるだろうか。
「ムッシュ・ウキノ!ちょっと聞かせて欲しいの。」
僕が席を離れたとたん、流行りの服を着込んだ男女が画家を取り囲む。僕はウキノが何か云うと彼らがわっと笑うのを聴きながらトイレへ逃げ込んだ。

024. 若竹色 コッタガワ・基清

「ああ、お噂はかねがね。ちょっと待ってて下さいな。」
ウキノと名乗る画家は、窓の方を一瞥して云うと、また手元に視線を戻した。二つ並べた椅子の上に横になり、膠を塗ったキャンバスを下に、篩で粉を落として行く。篩の中に大きな粒は残り、粉砂糖のような細かい粒子だけが下へ静かに落ちて行く。窓枠に留まった白い梟は跳ねながら床に降り、数歩ほどは歩くと、キャンバスの手前で止まり、じっと作業を見ている。窓の外では下手な管楽器と誰かの怒鳴る声が聞こえる。
 やがて、篩が空になり膠がすっかり見えなくなると、ウキノは椅子の上で篩を持ったまま身を転がして上向きになり、「よっ」と声を出して身を起こした。
「なるほど、白いですねえ。」
キャンバスの隣に座った生き物が、今度はウサギになっているのを見て、ウキノは呟く。ウサギの毛は柔らかく、動いても気配がない。その影に妙な色のヒダがある。ウキノはウサギに語りかける。
「お気遣い痛み入ります、そんなら粉が飛びません。どうですか、アンタさん、ココアお好きなんでしょう。買ってありますよ。」
ウキノはキャンバスの横に大きな衝立を動かすと、その向こうに見えるテーブルの方へ椅子を動かす。部屋にはあまり物は多くはなく、彼は向こうへ行って手と顔を洗ってしまうと、椅子に畳んで置いてあった丸首のシャツを着る。それから、鍋に水を汲み、火にかける。
「ああ、あの四角いセンチコガネなら、ここにあります。持っていって下さい。グレイさんには謝っときます。」
彼はテーブルの上の木箱の蓋を持ち上げて、ハンカチにくるまれたブローチを取り出す。ウキノそのハンカチをずらして、ウサギに中味を見せる。
「お高いコガネムシですねえ。コガネムシは金持ちだ、金蔵たてたくくらたてた、こどもに…」
どこかで聞いたようなメロディに聞きなれない言葉をのせてウキノは歌い、途中で何か思い出したように小さく息をついてブローチをテーブルに戻す。
「アンタさん、無口なたちですか。まあ、ウサギはたいがい無口だ。ウサギ、ウサギ、何見て跳ねる、十五夜お月さん見て跳ねる。」
「ジュウゴヤ」
声に振りかえると、今度は人間の姿をしている。キャンバスの横に痩せたウサギのようにしゃがんで、それをしげしげと見ている。
「うい、十五夜。アンタさん、思ってたより若いですね。享年は17くらいですか。」
「忘れた。その歌はまじないか何かか。」
オパールは立ち上がり、ウキノに向き直る。ウキノは笑顔で答える。
「いいや、童謡です。月のウサギの歌ですよ。翻訳すると、こうです。」そういって即興で歌詞を翻訳して聞かせたあと、「もう一度歌いましょうか。」と問い掛ける。
流行りのドレスを着たオパールはわずかに首を傾けた。それを頷いたと見なして、ウキノはオパールにウサギの歌をもう一度歌って聴かせる。
「気に入りましたか」
「月のウサギってなんだい。」
「アタシの国じゃ、月にいるのは男や女神じゃなく、ウサギなんです。可愛いでしょう。まあ、こちらにお座り下さい。何か進めようにも、アンタさん、お菓子を食べる人じゃないですね。」
「お菓子は食べない。君の血なら貰ってもいい。」
「冗談いっちゃいけない。アタシの血は大事なんです。アタシが望むよりも大事なんで、あげられないんです。」
ウキノが笑って返すので、オパールは彼が次に何を言うかを見ている。彼はテーブルの向こうでオパールに向き合って座り、肘をついて黒っぽい目でじっとオパールを見ている。
 おもむろに、彼は体勢を崩し、胸の前へ両手を持ってきた。そして、何かを小さく呟き、ぱん、と胸の前で一回、両手をあわせて叩いた。オパールは動かず、同じように丸首のシャツを着た男を見ている。
「ああ、やっぱり消えないか。」
「今度のはまじないか」
「ええ。でも、冗談みたいなもんで。」
「冗談」
「アタシの国の小咄にこういうのがあるんです。」
「君はわたしのことは怖くないんね。」
「アタシは多分、アンタさんみたいなのが怖くて、怖いけれど好きなんです。それに、」
いつの間にか沸騰し始めた鍋に目をやって、ウキノは席を立つ。オパールはそれを目で追う。ウキノは笑顔で振り返り、いつもの抑えた感じの穏やかさで云う。
「大丈夫、こんなのをアンタさんにかけたりしません。だから、アタシを殺さんでやってください。」
ウキノはスプーンで陶器の椀に粉を入れ、熱い湯を少しずつそこへ注ぐ。スプーンで粉を丁寧に少しずつ混ぜ、すっかり溶けると、また湯を足す。そして、片手の指先をほんの少し添えて、オパールが今まで見たことのないブラシで勢いよくかき回す。暫く無言でかき回した後にブラシをひくと、隣にひっくり返して立てる。
「あち、あちち。はい、どうぞ。」
東洋の椀には取手がなく、ウキノは熱いと言いながらもそれを手に持ってテーブルの上に乗せる。そして、くるりと両手で椀の方向を変えて、オパールの方へ押し出した。
「ココアにはミルクが入るんだよ。」
「え、そうなんですか。」
「君の国の人は多分、君ほど変わってはいないんだろうな。」
「よくお分かりで。」
「もう一度ウサギの呪いをやってよ。」
「歌です、ウサギが秋の月を見て跳ねるって歌です。」
「ウサギは月にいるんじゃないのか。」
「確かに。気にしたことなかったな。ウサギ、ウサギ、何見て跳ねる、十五夜お月さん見て跳ねる。月の仲間を見て跳ねるのかもしれません。この歌、気に入りましたか。」
「修道士の歌う歌のようだ。」
「ええ、なんだって。子供の歌う歌ですよ。」
「へえ。」
オパールはミルクの入らないココアを手に取ると、一口飲み、椀をしげしげと眺めた。黒い、不規則な形に、一部白みがかった光る部分がある。
「あたたかい」
「お湯でつくってますからねえ」
「土で作ってある。」
「陶器は、そうですね。土です。銘は若竹。」
「ワカタケ。」
「その白いところが、葉だそうで」
「白い葉の木か。」
「いいえ、緑です。」
「白いのに。」
「形でしょうかね。きっと、謎かけみたいなもんです。」
「君の絵よりも面白いな。」
「ええ。でも、これじゃ売れないでしょう。」
「絵を売りたいのか。ウィリアム・グレイとはずいぶん違うんだな。」
「名はある内に金に変えてしまわないと。どうしたって必要な時にないと困りますんで。ところでアンタさん、アンタさんの血は薄めても薬にはなりませんかね。」
「君も死にたくないたちか」
「アタシじゃないんです。死んでほしくないだけです。」
「恋人か。」
「赤の他人の子供です。」
「その子は上の階の子か。」
「アンタさん、上の階へ行きましたか。」
「君があの夫婦を殺したの。」
「ええ。子供を…殴るんで。」
「もっと早く来れば良かったかな。こういう界隈ではよくある話だ。あの子は、とりわけひどかったが。」
「やっぱり死んでいましたか。」
「いや。だからミルクがあればよかったのに。これは苦い。あちらの白い椀に湯をくれ」
オパールは「若竹」をテーブルの上に突き返す。ウキノは、黙って棚にあった白い茶碗を取り、そこに湯と水を入れる。
「磨かない大理石みたいだ。これは、何の木なんだ。」
「新月って名前です。」
「新月は暗いが。」
「さあ。たぶん、無限は無に似ているんです。」
「ふうん」
オパールは、その器に一口、口をつけると、そのままテーブルの上に置いた。そして、三度、器を回すと、赤くなった飲み口をウキノの方へ向けた。その赤が湯にとけだして橙色が拡がる。
 ウキノはそれを恭しく受けとると、急いで部屋を出ていった。オパールは、キャンバスとは別の衝立の向こうに乱雑に置いてあった血塗れの服を見付けると、着ていたドレスを脱いでそれに着替えた。そして、「若竹」をテーブルに置く。そして、そこにあった木の箱を手に取ると、ウサギ、ジュウゴヤ、と呟きながら部屋を出て、階段を下った。

025. 青 ロレンス・コールドウェル

 部屋は暗く、臭かった。辺り中に汚れた服と皿と酒の空き瓶があり、生暖かい空気と共に虫が飛び出して目の前で羽音を立てる。それを手ではらってロレンスがドアから中へ一歩踏み込むと、すぐそこのテーブルでは男が突っ伏しており、床には女が倒れている。彼らには動きはなく、呼吸はしていないようだ。ドアから二歩ほどのところに突っ伏した男の首には黒い斑点がいくつもあり、背中にはゴキブリがいる。ゴキブリは触覚を盛んに揺らし、その体は戸口からの光を反射している。壁の方ではネズミらしきものが穴に戻り、別の隅には男が座り込んでいる。男は床に胡座をかいているようだ。そのひときわ乱雑になった一角に座った男に気が付いたのは、男が何かを小さい声で呟き続けていたからだ。

 男は小さく何かを呟きなら、胡座の上の何かを撫でている。それは何か、絨毯のような塊だ。そして、もう片方の手で床の白い椀を引き寄せ、その指を突っ込み、影になって見えない胴のほうへ持っていく。胡座の上からは何かを絨毯のようなものが見える。男はそれを撫でている。

「ムッシュ・ウキノ。」

ロレンスは声をかける。

男は返事をしない。ロレンスはもう一度部屋を見回す。死体は二つ、酒の瓶と汚れた服の山、編み籠、派手な安物の下着、靴、ベルト、皿、虫、煙草、扉が半ば空いた戸棚、奥の部屋へ通じるドアは閉まっている。床の上のパンと、ドアの隣には吐瀉物。

「ムッシュ・ウキノ。白粉の件で伺ったんだが…」

実際のところ、それは半ばは本当の話だった。ウキノ氏は新規気鋭の画家として最近有名な東洋人だが、ビジネスにも関心がない訳ではないと聞く。女たちに可愛がられながら幾つか商売を始めていたロレンスは、つかの間の恋人からの噂でウキノの絵の具の魔法に関心を持った。それと同時に、彼は古里を離れたウィリアム・グレイらしき人物とも交流がある様子だ。だから、いささか警戒しつつも、ウキノには貝の粉と化粧品についての話をしたかったのだ。今日の午後、約束のカフェで半日ほど待たされ、奇妙に思っていたところに、「あちらのレディから」とエスプレッソと紙片が渡された。さては自分の見つけた商機に横槍でも入ったかと目で探したが、レディは見当たらなかった。エスプレッソに添えられた紙片には、住所とウキノと書いてあった。

「どんなレディだ」

「背の高い、今時の」

「今時の?」

今時のレディも背の高いレディも沢山知っていたが、妙な予感がして来てみたらこの様だ。この臭いや暗さは自分の死んだ小屋を思い出させる。あるいは、死んでいなかったのかもしれないが。
 ロレンスは男に近寄ってその肩越しにのぞき込む。そして、男の膝の上に、その子供がいるを見た。そして、目をそらして身を起こし、腕を組んでため息ともなんともつかぬ声を漏らす。顎に手をやって数秒考えた。薄暗く汚い部屋と死体と泣く男、この、子供。白い椀。ロレンスは咳払いをして、敬称を変える。

「ウキノさん。」

ウキノは振り返らずに小さな声で答えた。

「アタシです。ええ。そこで吐いたのはアタシです。殺したのもアタシです。もういいんです。この子は...死んでしまいました。」

ウキノはそれから、声にならない声でごめんね、を何度も繰り返しながら鼻を啜った。ロレンスはあまり多くを見すぎないように、身を屈めてもういちど慎重にウキノの肩越しに覗き込む。ウキノの伏せた顔からは涙が滴り落ち、あちら側に置かれた白い器には僅かに黒っぽい染みがある。そして、視界の隅に入る子供の足は枯れ枝のように細く、片足は奇妙な具合に曲がっている。もつれた汚い絨毯のようなものは子供の髪の毛で、大きなアザのある額からそれにかけてを、ウキノが優しく繊細な手付きで撫でている。

 ロレンスはすぐに再び、溜め息とも声ともつかないものをしぼり出し、腕を組み、それから顎に手を当てた。

「その器は。」

「オパールさんです。血をくれました。でも、遅かったみたいです。」

その声はその声は小さくて聞き取りにくいが、最後に、「もう冷たいんです」と付け加えた。

「あああ、お節介め。」

ロレンスは思わず声に出したが、その語気は自分が思っていたよりも強く、ウキノは子供に身を被せるような動きを見せる。死んだ方が楽だったのに。しかし、もう遅い。

「これだけじゃ駄目だ。」

ロレンスはもう一度唸るような声を上げながら、床に転がった女に近付く。足でそれを転がすと刺さったナイフを引き抜き、ハンカチを取り出すとそれを丁寧に拭きながらウキノに取って返す。ウキノは泣き腫らした目を上げてロレンスを見つめ、子供を庇うように抱き締める。その目は混乱している。

「それだけじゃ駄目だ。その子は弱りすぎている。」

そういって床にあったほぼ空になった「新月」を手に取ると、「利き手は」と聞く。

「右です」

「じゃ、左の親指を出せ」と云う。

ウキノは後ろに向き直りもせず、子供を抱いた腕もゆるめないまま、左手だけを差し出す。ロレンスはそれに傷をつける。

「いてっ。何をすんですか。」

「その血を子供の唇に。」

「ええ?」

「いいから。」

ロレンスが脅すように云うので、ウキノはその指の傷から溢れた血を子供の唇に垂らす。

「何も変わりゃしません。」

その間、ロレンスは「新月」に数滴だけ落ちたウキノの血を見ている。

「いいんだ。それは道しるべだ。お前の部屋へ移るぞ。ここは汚い。動かせるだろう。」

「ええ。軽いんです。すごく。」

「その、ええ、どこか取れたりはしないかと云う意味だ。」

「ああ…繋がってはいます…」

そう云うと、ウキノは血の流れる親指で子供の唇を撫で、動かすよ、とつぶやきながら子供を抱き、そのまま立ち上がる。

「泣くな。そんな暇はないんだ。」

ロレンスはドアを開け、頭で出るように促す。

「お前の部屋でお前と俺の血をこの子に…その、どこか、傷口があれば…」

「ああ…上半身ぜんたいですね…火傷でただれて…あと、この足は開放骨折です…」

ロレンスはそれを聞いたことも、ここに来たことも後悔した。

「では、そこに塗り込め。既にオパールの血が入っているなら、すぐに馴染むはずだ。」

云いながら、ロレンスはドアの取っ手をハンカチでこすり、現状できる限り指紋を薄くする。それから、二人は無云のまま階段を下り、ウキノの部屋の扉の前に来る。ロレンスは、ウキノが入れるようにドアを持ちながら彼を通し、そのままそこで云う。その階段はうるさかった。どこかの部屋で、管楽器を練習する音がする。

「いいか、俺は見たくない、関わりたくない。だから、世話を焼くのはこれが最後だ。お前に会うのも最後だ。その子を部屋に移して、お前の血と俺の血を傷口に染み込ませたら、できるだけ清潔にして病人のように扱うんだ。骨は正しい位置に戻し、毎日体を拭き、毎日お前の血を与えるんだ。徐々に人間の飯に戻せ。わかったら、いいから、早くその子をベッドに置いてこい。」

ウキノが素直に従って衝立の影の寝台に消えると、ロレンスはドアを開けたまま階段を数段登り、「新月」をその途中にの壇に置いた。階下では、相変わらず管楽器が肝心なところで音を外しては同じフレーズを繰り返している。ロレンスは上着のボタンを外し、溜め息をつき、数年前に銃弾があたったあたりを手で撫でた。

「ここだな。」

そこに上の階から持ってきたナイフの刃先を当て、「間抜けな体勢だ」とひとりごちてから、そのまま階段の手摺へ身を押し当てた。それから、階段に倒れ混み、ナイフの取手を引き抜きながら「新月」で流れる血を受ける。「新月」はその白い肌を赤く染め、ひとり分のスープ皿を満たす程度には赤黒い液体を満たす。荒くなった息でポケットからハンカチを引き出すと傷口に当てて押さえる。作業中に思わず漏らした声に気が付いたのだろう、ウキノが怪訝な顔でドアから覗いた、そして、泣き腫らした目を見開いて「ジョーンズさん!」と声をあげる。若干なりとも明るいところで見ると、ウキノの束ねた黒髪は乱れて幾筋も額にかかっている。

「ああ、なんてことしてんですか。やめてください、いったいなんなんですか。」

ウキノという人物はもっと人を小馬鹿にしたようなやつだと思っていたのに、先程からの取り乱し様はなんだろう。とはいえ、俺は子供を見ることができなかった。俺にも直視できないものがあるなんて事に嫌気がさす。

「医者を呼ばないと。」

「いいから、早くこれを持って部屋へ入れ。お前の血を入れるのを忘れるな。化け物の血だけじゃ駄目だ。」

「化け物って、アンタ。」

「お前、知らないのか。俺は、オパールと同じだ。」

ロレンスは、傷口を押さえていない方の手で胸ポケットを探り、バジルのブローチを取り出した。それは絹の小さなハンカチに包んであったが、ポケットから取り出すと包みがほどけて床に落ちる。それを拾いながら、問いかける。

「お前、これを見ただろう」

「ええ、触ると見えるんで、嫌でして…すぐにくるんで箱にいれてました。悲しいことは、嫌なんです。」

「そうか…」

ロレンスは何かしら残念な気がする自分に驚きながら、早くも痛みが薄まっていることに気が付いた。

「俺は死なない。死ねない。ボケっとするな、この血を持っていけ、早くあの子供をどうにかしてやれ。」

ロレンスは云いながら、まだ瞼が腫れぼったいながらも、ウキノの顔付きが変わっているのに気が付いた。

「アンタさん、コールドウェルさんですか。」

「そうだ。」

「恩に着ます。そのブローチ、お返しします。」

そう云って傍らにロレンスの赤黒い血が波打つ「新月」を置き、踊場の床に手をつき、深々と頭を下げる。

その下げた頭にロレンスは少しの間沈黙を守ってから云う。

「ジョーンズだ。俺はトーマス・ジョーンズ、化粧品の商談に来た。お前は絵に夢中で気づかなかった、いいな。俺は、俺は背の高い女に刺されたんだ、だが、お前はそれを見ていない。だから、俺がここにいることも知らない。いいな。」

ウキノは顔を上げ、ロレンスをまっすぐに見て頷く。それから素早く立ち上がり、もう一度頭を下げると膝をついて「新月」を手に取り、素早くたちあがると部屋へ消えて行った。錠を下ろす音を確認すると、ロレンスは大きな叫び声を上げる。

「誰か!」

答えるものはおらず、下階では下手な管楽器の音が続いている。

ロレンスは階段に横たわりながらしばし頬杖をつき、移動した方が良いだろうかと考える。いや、それでは商談に行った部屋の前で刺された男、という役柄にブレが出る。「新月」に受けきれなかった血の痕もここに残る。

「誰か!」

「うるさい!」

「誰か来てくれ!刺された!」

人生何度目かの芝居をしながら、今回は死体を片付けなくてよいから幾分かは楽だ、と考える。下の方から足音が上がってくるのを聞き、気を失ったふりをする。後は傷口がふさがる前にいかにして病院から逃げ出すかだ。今日はこんなにつもりではなかった。まったく、こんなつもりではなかった。

026. 黄 レミ・ナニガシ

 手術は、その日僕は二番手だったようだ。一人目が終わってからということで、昼過ぎのどこか、ということで待っていた。朝、昼と食わず、両親と世間話をして待った。僕は面会用の眺めのよい部屋で、両親の肩越しに何度か部屋の出入口をみた。待っている人は、来なかった。部屋へ戻り、それから、まずは着替えた。奇妙な下着の代用品を着け、あとは手術用の服を着て、ストレッチャーに乗っての移動だったと思う。歩いていったのかストレッチャーだったのか記憶が何故かあいまいなのだが、あんな裸に一枚羽織ったような格好でうろつくわけはないし、たぶんストレッチャーだったのだろう。そして、手術室の入り口までついてきた両親と、そこで別れ、手術室の集まった棟みたいなところへ入っていった。

ストレッチャーの上から、何度か扉というか、大きな区切りみたいな場所を通りすぎるのを眺め、手術室が左右に三つずつぐらいは並んでいるような、随分と清潔そうな区画にはいった。そこの印象がなんとなく、昔の映画の宇宙船みたいだなと思ったのは、使ってあった色彩なんだろうか、それとも、各手術室への大きな引き戸が、金属っぽい光沢だったように思うからだろうか。右手にある方向へストレッチャーに乗ったまま手術室に入り、手術台に移され、主治医の先生が頑張りましょうねと声をかけた。

全身麻酔については、点滴で眠くなる薬を足したような気がする。それを足してから数十秒、まだ起きてるなと確認しながら、何度も繰り返し、寝入ってしまうまでまばたきをした。最初に眠くなる薬、寝てから注射で全身麻酔と聞いていたので、注射嫌いとしては、起きてる内はそれを主張して、意識のない時に注射をしてくれとのつもりだった。まばたきをしながら、立派な反射板が四つくらいついたライトが二つならんでいるのを見ていた。とても明るそうなライトで、ついたら眩しいんだろうなと思ったような気がしないでもない。そこからゆっくり、眠くなっていって、意識がなくなったのだろう。本格的な全身麻酔は聞いていたように、意識がなくなってから、左手首からいれていたようで、今でもけっこうな大きさの青いアザが残っている。横4センチ、縦10センチくらいだ。

意識が戻ったのは、手術室で、「終わりましたよ」と声をかけられた気がする。偏頭痛のような頭の痛さと、ひどい眠さで、まだ起こさなくてもいいじゃないか、寝かしておいてくれよ、と思いながら、ストレッチャーに移され、部屋までそれで運搬してもらい、どこかのタイミングで母が「無事証明」の写真を撮った。中指を立てた写真、親指を立てた写真。

当然のように夜は頭痛が酷く、尿管は入っているわ、暑いわであまり快適ではない。しかし、鼻から内視鏡を突っ込んで何かを切り出したのだから、快適でない程度なのがありがたいものなのかもしれない。真夜中に、何度も看護師さんに氷枕を換えてもらった。自分でできないのが口惜しいなと、尿管がとれて、点滴をもって歩けばうろつけるようになれば、と幾度も思う。

「明後日から大部屋だそうね。」

真夜中に、待っていた声がした。

「オパール」

「生きているね」

「うーん、死ぬような手術じゃないからね」

「そうか」

「君に会いたかったよ。」

「そうか」

オパールはもう一度云うと、僕の伸ばした手に指先をのせてくれた。

「冷たい。気持ちいい。」

僕はそう云って手のひらを引き寄せ、頬に当てるに。オパールは心持ち身を引く。ロレンスに首を切られたことを思い出したのかもしれないし、僕が親しみを求めたからかもしれない。僕は親しみを許容してもらおうと前者の確率にかける。

「大丈夫、僕は何も持ってないよ。」

「氷枕を頼んだ方がいい。」

僕が何も答えないので、オパールはベッドに腰掛ける。ベッドはわずかに軋み、僕は何故か少し鼓動が早くなる。

「ごめん、まだ魚のかんざしは見てないんだ。こわくて。」

オパールは返事をせず、もう片方の手のひらを僕の額に乗せた。僕はうつらうつらし始める。かわいらしい仔猫が僕の頬を踏み、額に乗る夢を見る。僕は、ずるいと思いながら意識を失う。僕は、それから、また誰かの記憶がやってくるのに気が付く。僕は、ここではない病室にいる。夜ではなく昼間で、騒がしい。足音が聞こえる。


 「まさか、あなたがねえ。」

ウィリアム・グレイは日当たりの良い病室に入るなり、手近にあった椅子に腰掛けて笑った。その笑いには、嫌みがあるわけでもなく、恨みがこもっているわけでもなかった。彼は眉を上げて驚き呆れたように笑った。そして、持ってきた紙入れをベッドサイドテーブルに載せる。ベッドでは、素肌に包帯を巻いたロレンス・コールドウェルが憮然としている。病室の外の廊下では、大勢の女性がなんやかやと声を上げている。喧嘩腰な声もあれば笑いあう声もある。ウィリアムはそれを色の洪水のように心地よく感じる。ウィリアムと共に入ってきた刑事と巡査らしき二人がドアから覗き込む女性を閉め出し、その波長は閉めだされた。

「もういい、名前を聞いたら身長が低いのは帰せ。」

「帰せって云ったって…勝手に来てるんですよ。」

「彼が元気だと伝えれば皆落ち着くだろう。」

刑事二人の会話にウィリアムが明るい声で口を挟む。

「うん、元気そうです。」

「で、あなたは。」

「はあ、ウィリアム・グレイと云います。友人の使いです。」

「被害者を殴らない?」

「多分大丈夫です。」

ウィリアムがベッドに椅子を近付けながら明るく云うと、刑事は目で釘を刺して巡査と話し始める。ロレンスはそれを黙殺し、腕を組み直す。そしてウィリアムの方を見ないようにして刑事に云う。

「俺はもう退院したいんだが。」

「そりゃこの状況じゃわからんこともないんだが、ジョーンズさん、あんたにも嫌疑がかかってるんです。」

「なんの。」

「強盗殺人。」

「俺が貧乏横丁で殺人するほど金に困って見えると。」

「私見としてはあんたは強盗殺人とは無関係だ。あんたは後ろから刺すタイプじゃないし、編み棒なんか使わんだろう。が、調書は録らんと。どう
せ、あんたを刺したのは廊下の美人さんのうちのどれかじゃないか。」

刑事は疲れた様子でロレンスの仏頂面に話し、そこへドアの外を覗いていた巡査が口を挟む。

「じゃ、外のレディはみな、容疑者ですか。身長が低いのも家に帰せませんか。3名ほど居ますが。」

「俺を刺したのは誰だっていい、俺がかまわんのならいいだろう。」

「そういうわけにもいかんのです。」

ロレンスと刑事の押し問答がしばらく続くので、ウィリアムは紙入れから適当な大きさの紙片を取り出しながら、頭の中では建設的な解決法方を模索する。刑事はロレンスをジョーンズと呼んだ。ロレンス・コールドウェルは故国では行方不明で死亡と推定されている。高齢の母親が死亡の宣云を早々に受け入れ、遠縁の男性があれこれとまとめて相続する予定だと、ローズが送ってくれた新聞の切り抜きに載っていた。ジョーンズさん、と呼ばれたこと、廊下の女性はスミスさんだのカーターさんだのと呼んでいたことからすると、この国ではいくつかの偽名を使い分けているのだろう。ウキノからは化粧品の話を聞いている。トーマス・ジョーンズ氏。女性によって使い分けているのかもしれないが、なにも廊下の女性全員にたいして違う名前を使っているわけでもないだろう。

ウィリアム・グレイはポケットから鉛筆と木炭片を取り出すと、サイドテーブルの上でロレンスの似顔絵を描き始めた。それに気づいたロレンスが不審げにその様子をうかがうと、ウィリアムは朗らかに語り掛ける。

「とんだ目にあったようですねえ。で、ジョーンズさん、刺されたのはどこですか」

「何描いてるんだ、やめろ。」

「外のガールフレンド達をこれで追い払えるかもしれないよ。」

「ガールフレンドじゃない。ああ、面倒くさい。」

「さっき、マリーさんとフロレンスさんが掴みあってたよ。あと、レイラさんとクロエさんは気があったようで、一緒にお茶を飲みに行った。で、刺されたのはどこ。」

「見りゃわかるだろ、腹だ。」

「いや、どこをじゃなくて、どこで。」

「階段だ。そこで」

「背の高い女に、ねえ…。髪は長くしておくよ。」

ウィリアム・グレイは鼻歌を歌いながら鉛筆を動かす。ロレンスはそれを呆れて眺める。彼は突然舞い込んだウィリアム・グレイの真意を図りかねている。この男は何故、かつて自分を陥れようとした男の傍らで楽しそうに絵を描いているのだろう。あるいは、そこに残酷な意図があって、自分の素性を暴露して国へ送り返すのか、背の高い女の正体を問い詰めるのか。数年経ったとはいえ、あの騒動は簡単に忘れられるものではないだろう、とロレンスは考える。すると、急に自分がシャツを着ていないことに落ち着かなくなる。これでは左腕の古傷まで丸裸だ。

一方のウィリアムは紙片にデッサンをし終え、今度は新しいページに鉛筆を走らせている。彼の黒っぽいカールはだらしなく頭に被さり、太い眉毛の下からこちらを見上げては紙へ戻る目は明るいブラウンだ。目が合うとウィリアムは、少し微笑んで笑った。笑うその頬の無精髭はやはり黒っぽい。ロレンスは先ほどからウィリアムに怒りが見えないのを不気味に思う。不気味に思われた方の男は、相変わらず熱心に鉛筆を動かしている。

「何を描いてるんだ。やめろ。」

「なあ、あの赤毛の子」

「赤毛はレイラだ。でも犯人じゃない。」

「レイラさんって云うのか、チャーミングなひとだよなあ。でも、廊下の彼女じゃなくて、オパールが殺した子。」

「ああ、あの娘か。」

ロレンスは思いがけない追想に鼓動がひとつ飛んだような感覚を覚えるが、ウィリアムは警戒と云う言葉を知らない様子だ。あるいは水を向けられたのだろうか。ロレンスが素早く刑事の方へ視線をやると、刑事は首だけこちらへ向いて問いかける。

「殺した?」

「ああ、違うんです、ええと、絵の話です。殺されるかと思ったかって。」

ウィリアムは数枚ノートのページを戻ると、そこに描かれた絵を刑事に見せる。そこには、歴史画さながらのリアリズムと陰影で、劇的に刺された男と髪を振り乱した女が描かれている。女の顔は闇にまぎれているので判別が付かないが、ロレンスの方は驚いた顔で大袈裟にのけぞって描いてある。ロレンスは、下手くそだと思っていた画家の画力に少し驚き、同時にその描かれた踊り場の様子がずいぶんと本当の現場に近いのに気がつく。

「犯人の女性は背が高くて豊満で、髪が長かったそうで。」

「でもマレーヌじゃない。」

「はあ、マレーヌさんね。あんた、女性は何人いるんだ」

「俺は断るのが下手なんだ。」

「はい、これ、あげます。」

ウィリアムはそう云ってノートからページを引きちぎり、その劇的な事件現場の絵を刑事に手渡す。

「ああ、ありがとう。」

刑事は当惑した表情で受け取り、それからに感心したように熱心に見入り、巡査も呼んで話し始める。

「へええーあんた、うまいねえ。」

「はは、そうでもないです。」

ロレンスはまたノートに戻り、ロレンスはウィリアムがまたこちらを見ては紙へ目を戻す動作に移ったので、明るい窓の向こうへ目をやる。生け垣、狭い庭、おそらく低い塀がその向こうにあるだろう。傷の治りは途中から鈍化し、傷口は消えないが、激しく動かなければ痛みはほぼない。逃げるなら窓からだ。廊下の騒動に耳を傾ける。女性達がこんなに集まるのは意外だったが、全員がお互いに仲良くというわけにもいかないだろうから、しばらくはこの町にもいない方が良さそうだ。

「はい、できた。このくらいでいいかなあ。」

ウィリアムはひとり呟いて、おもむろに腰を上げる。身構えたロレンスに笑みの残る視線を向け、テーブルに広げた荷物を取りまとめる。刑事が向き直って問いかける。

「おや、画家さん、お帰りですか。」

「ああ、すぐ戻りますよ。これを廊下で売ってきます。」

「では、私もお供します。ええ、売ってもいいんですかね。」

巡査が刑事に訪ねるが、刑事は手を振るだけで目を絵に戻す。ウィリアムはドアの取っ手に手をかけながら、ロレンスに笑顔で云う。

「戻るからね。」

「もどらんでいい。」

ロレンスが云うと、ウィリアムはにやりと笑い、「どうかな。」と答える。

 ウィリアムが部屋のドアを引くと何人かの女性が覗き込み、巡査がドアを押さえる。ロレンスは寝たふりをする。ウィリアムが何か冗談を飛ばし、絵を見せたのかいくつか歓声があがり、つづいてさざめくように誉め言葉や楽し気な笑いが聞こえてくる。それから、朗らかに値段の交渉が始まる。ロレンスは、あいつは俺よりもよほど厄介な男だと考える。刑事がウィリアムの絵を元に持論を語り始める。背が高くて豊満な女、ロレンスに想いが報われなかったのであろう、激情的な女性という犯人像。オパールとはかなり違った犯人像だが、仕方あるまい。
「あんなもねえ、気を付けなさいよ。年に何回かあるんだ、複数の異性と交際して刺されるのが…」
刑事が説教をはじめると、ロレンスはさきほどウィリアムが絵を描いていたテーブルに目をやる。そこに置いた筈のブローチがない。代わりに、何やら木の箱が置いてある。

「あいつめ」

ロレンスは笑いだした。包帯の下の癒えかけた傷が僅かに痛んだ。治りが思ったより遅いのは、何故だろう。

「あの時は血が足りなかっただけだ」

僕は急に我にかって息を大きく吸い込んだ。驚いて起き上がろうとするか肩を押さえられる。

「起きるな、傷が開く。とはいえ、鼻じゃわからんな。」

僕は目の前にロレンスを見て、腕に刺さったままの点滴用の針を見る。ああ、僕は手術を受けたんだった。脳の傷は腹の脂肪で塞いである。

「ロレンスさん。」

「元気そうじゃないか。」

「ウィリアムさんが。」

「ああ、あの時はいたな。そしてベッドにいるのは俺だった。」

ロレンスは楽しそうに笑うと、僕の傍らにあった木の箱を、ベッドサイドのテーブルへ移した。

「大丈夫だ、俺はあいつみたいなことはせんのだ。ひどい顔だ。寝てろねてろ。」

僕は再び眠くなり、今度は夢をみなかった。

027. 紫 ヴァイオレット・グレイ

 大学にひとりで立ち入ると奇妙な目でみられる。図書室の場所は教えてもらえなかった。旅行社では上室に通されて内密な雰囲気で話が交わされる。いいわ、私が不貞の旅を計画する資産家の妻という想定されたストーリーにのって差し上げる。代わりに、必要なものを頂戴。そう、船の部屋と、存在しない愛人が見学したがっている鉱山へのアクセス。水先案内人、ガイド、写真、案内状、なんでもいいの。とりあえず、すべての情報を頂戴。私と店の女性たちで、あとは整理して分析して、作戦を立てて実行するわ。アイリスもきっといい情報を持って帰ってくれることでしょう。
疲れきってオフィス戻ると、青い顔をしたアイリスがソファに座っている。今朝、あの人キスをしたソファ。そこに座っているアイリスの目元には流れて真っ黒になったマスカラが涙の軌跡そのまま残っている。
「アイリス、どうしたの」
私は内心の恐れを悟られないように声を抑えて尋ねる。あの人とのことを見られたのだろうか。まさか。ここには鍵がかかっていた。
「す、すみません…」
私の恐れに反して、アイリスは私の顔をまっすぐ見てハンカチで目をぬぐい始めた。そこに少しの微笑みを交えて私への歓迎を表現する。
「ああ、すみません、ほんとに、あの…資料を探していたら。」
そして視線を落とし、またアイリスは口元を押さえる。その手元にあった紙入れが床に落ち、何枚か小さい写真が落ちる。私はそれを拾おうとして、手を止めた。何人もの、腕のない子供、足のない子供がうつっている。色のない写真でも、その子供たちの濃い肌の色がわかる。そのあどけない瞳がわかる。私はそれを裏返す。
「なんなのこれは…」
「新聞社で…あの、違う土地のものなんですけど、わたし、同じことが他のところでもあったら…それで、調べてて…でも、これが…頭から離れなくて…もう、あの、他のことが調べられなくなって・・・」
アイリスは泣きながら、彼女の掴んだ情報をできる限り整理して伝えてくれた。この子供たちから手足を切り落としたのは親の「働きが悪い」から。これが他国の植民地のさるプランテーションで日常的に行われていること、これは支配の手段として有効だとされていること。これを告発した男性は死に、今は写真がそういう嗜癖を持つ物の間でとりひきされていること。幼い頃に妹を亡くしたことのあるアイリスにはことのほか堪えたのだろう、彼女は震える声で話しながら、幾度もしゃっくりをした。
「こんな小さな子供を…手足をですよ、罰に切ったり、逃げられないようにって…かわいそうに、どんなにか痛かったことか、恐ろしかったことか、かわいそうに…同じ人間のすることでしょうか…」
「ひどいわね…」
私は衝撃に目が回るような思いだった。頭を殴られたか、毒でも盛られたかのように鼓動は早まり、吐き気がする。私は死んだ夫をはじめ、人間の弱さやバカさ加減を知っている気でいた。夫は詐欺に引っ掛かり屋敷を失いかけた。その時にやけで向こう見ずに飛ばした車で小屋の男の子を事故死させた。そこから酒に溺れた。いい人だったのに。私は彼を「病死」させた。人間は時々、箸にも棒にも引っ掛からないくらい、下らない。だが、人間には、もっとずっと下があるのだ。こんな小さな子供を。「支配」というものは、人をどこまで屑にするにだろう。そう、その万能感は。神になったような感覚。私は、床に落ちて起き上がれなかった男の姿を思い出す。自分が言った言葉を思い出す。私は、見なかった事にしただけ。そこから、いつも見なかった事にしているだけ。それにだって技術がいる。そして、いつからか、今度は正しく見る事を忘れる。
私は「すみません」を繰り返しながらしゃっくりをあげるアイリスを抱き寄せる。娘が小さかった頃、ほんの時折、そうしたように。アイリスは若くて美しくて有望で、いつか娘がそうなるような強い女性だ。私が味方になって、背中を支えねばならない女の子だ。私は娘が大きくなってからは店の若い女の子をそういう目で見ることはやめていたが、アイリスの背中を軽く叩きながら、オパールのことも諦めねば、と考えた。少なくとも、石を使って支配しようとするのは止めよう。私は、悪魔にはなりたくない。
つらい思いをさせたわね、大変な調べごとをさせてしまった。
「いえ、いいんです。私は、知らないといけないんです。新しい鉱山にはこういうことがないってことを知らないと、働けません。知らずに悪魔を養うわけにはいかないんです。」
アイリスは化粧が溶けて黒くなった縁取りに赤い目で、私をじっと見つめて云うと、今度は手元のハンカチに目を落として付け足した。
「あの国のことは、私にはどうしようもありません。力がないことは、こんなに悔しい事なのですね。」
ええ、そうね。悔しいわね。私は心から共感して、そう呟いた。悪が同じ空の下のどこかにあること、それを止めようがないこと。そして、いつかその悔しさが無力感になり、世界は汚れたものとして認識され、やがて鈍磨して自分もその一部になっていく。そして、いつか悪魔の片棒を担ぐことになるのだわ。私は、それが嫌なの。だけど、私はには力がない。
「私、やはり奥さまの秘書になって良かったです。」
アイリスが意外な事を言うので、私は驚いて手を離した。若い、きめの細かい肌に崩れた化粧。そして、笑顔。
「新しいことができるんです。そこに、悪いものがないことを私がチェックできたら安心です。それに、私にいろいろ任せてくれるし、今日もこんなことで取り乱しても叱らないし…」
「あらまあ」
私は、アイリスが娘のような気がしてきてつい笑ってしまう。アイリスは明るくて賢くて、強い。ローズは明るくはないが、聡明で思慮深い。不機嫌な子供だったローズはオパール出会ってから大人になってしまった。彼女は図書室の本を片っ端から読んでいる。私に店を拡大しろと勧めたのも彼女だ。私は、彼女の母親としてはあまり役に立たなかったかもしれない。ここからは、どう生きればいいのだろう。
「さあ、もう遅いわ。送っていくから、その写真も資料もこの引き出しにいれて、鍵をかけておきましょう。嫌なことは、今夜は忘れましょう。」
私は言いながら、痛ましい写真と資料を引き出しに入れる、そして、小さな無数のオパールが入った小箱を取り出す。これは返してしまおう。私は彼女の支配者になりたくない。私は、私自身を治めたい。だから、このオパールはあの人に返してしまいましょう。
そう思っていたのに。私が家に帰ると、彼女はその申し出を断った。
「そう。でも、今はあなたが持っててよ。」
ベッドの上で、オパールは答える。彼女はその上に広げられた土の上にいる。声は、静かに空気に染み込む。声がきれいになっている。
「こんなたくさんの土、どこから持ってきたの」
私は、ローズが両手いっぱいの枯れ葉をベッドに持ち込んでいたときのことを思い出して、つい、吹きだす。それから、家の世話を頼んでいる婦人の不機嫌な顔を想像して、笑いが止まらなくなる。笑いながらも、これは不愉快な1日の反動なのだろうとどこかで考える。オパールはそれを両眉を持ち上げて見ている。
「あはは、ごめんなさい。止まらないの。」
私は笑い続け、しばらくそのままでいる。
「楽しそうでよかった。」
オパールは少し笑って言う。
「あなた、声が良くなっているの」
「これ、あなた趣味なの」
オパールは、ちょうど私が思い描いた大きさに残っている傷跡を指で指示していう。
「ああ、そうね、ダメね…」
本来なら、綺麗に元の状態に戻るべきものを、私の美意識が妨害して傷だけ残った残ったのだろう。私は、その影響力の大きさに少し恐れを成していう。
「ごめんなさい、嫌ならいいのだけど…調べたいことがあるの」
私は、小箱をベッドに置きながら話し出す。

028. 白 

 君はねずみの姿でその聖堂の中へ入り込むと、人の形に戻り、水盤の前で立ち止まる。水盤には旅人と道とについての言葉がある。君はそこで手と顔を洗うと、ポケットからハンカチを出して顔を拭う。そのハンカチには几帳面にアイロンがかけてあったが、君はその折り目通りには畳まずにポケットへ戻す。そして、血まみれのシャツのまま、人から犬へ姿を変える。犬は圧倒的な大きさの建物の中を、今度は犬から猫へ姿を変えながら、ゆっくりと主祭壇の方へ歩みを進める。猫の姿で見る聖堂がいちばん明るい。君が歩みを進めると離れた壁にあるステンドグラスが僅かに音を立て、そこに何かしらの刺激が加えられたことを示唆する。しかし、そこに傷はひとつも付かない。左右に配された巨大なバラ窓や大きな窓を囲む見事な石の細工を君は動物の姿で見上げ、暗い天井が地上からは遠いこと、ほんの少しの物音でも、その天井の下の空間が拾いあげて増幅することを観察する。君はまた人の姿に戻り、主祭壇の前に立つ。

「質問がある。」

君は石の床に腰を降ろすと、静かな声で云う。空気が震えてその振動は天井で反響する。

「あなたは、自分の息子が死んだ時に吐いたか。」

君は、問いかけた相手が悪かったろうかと考えて質問相手を変える。

「あなたは、自分よりもひどい目に逢って死ぬ子供がいることをどう思う。」

君の目は十字架にかけられた男の両手や脚を見る。確かに酷い刑だ。死因はショック死か失血死だろうか。30代の健康な男性、大工ならばそれなりの体格であったろう男が死ぬ拷問。鞭打ち、嘲笑、十字架を運んで登る坂道。彼が感じていたのは絶望だろうか、希望だろうか。酸いぶどう酒が退けられる希望か、それに耐え得る存在であろうとする希望か。

「あなたには原罪がないという。だが、あなたが産まれた時に沢山の子供が死んだそうだ。わたしのせいではない、というのであれば、わたしだって下らない木の実なんか食ってはいない。あの子供に至っては、ただ、そこにいただけだ。なんの罪もない。我々の罪はなんだ、子供の原罪とはなんだ。ただ、産まれただけ、それで罪になるのならそれは世界の方がおかしい。あなたの世界の決まりの方がおかしい。

あなたには聖母がいた、彼女はあなたに煮えたぎる湯をかけなかったし、その背にウジがわくまで放置などしなかった筈だ。枯れ枝のように細い脚が折れても構わずに男と飲み暮らしたりなぞせず、あなたを守るために産後間もない体でエジプトまでの長い道程を逃げた。それは大変なことだ、場合によっては彼女の命にも関わるほどのことだ。あなたの養父はあなたに煙草の火を押し当てたりせず、まともな寝食と愛を与え、手に職を得るまで立派に育てた。大工だ、健康な男性の仕事だ。そんな風に育つには、何がいる。苦しめられず、喜ばれ、生かされる。あなたが天の国と呼んだ、ごく当たり前のものは、この化け物のようなわたしにすら、かつて当然のように与えられていたものだ。何故、あの子には無かったんだ。何故、あんな事ができるんだ。なんであんな人間がいるんだ。いつから、あんな人間になるんだ。わたしも、あれの仲間か。」

君の問いかけは呟くように紡ぎ出され、さざ波のように空気を揺らし、暗闇の中に融けていく。その問いかけに対する答えは、いつものように、ない。

「そうだな、わたしは子を腹に宿した娘を殺した事がある。あの娘も、あの哀れな子供のようなものだろう。わたしも赤の他人が義憤で刃を向けるほどの事をしたのだろうか。また、慈悲のつもりで重大な間違いを犯したのだろうか。あの子供は、生き永らえない方がよかったんじゃないだろうか。わたしはあの椀に血を分けた。その上、ロレンスを差し向けた。彼はあの子供を救うだろうか。あの子供を生き延びさせるのは救うことになるだろうか。あの体で生き延びることをあの子供は望むだろうか。絶望のなかで苦痛に苛まれる記憶と共に長い時間を過ごす事もまた、終わりのない苦痛ではないだろうか。それとも、あの悲しそうな東洋の男が共にいれば、少しはましなのだろうか。あなたは何故答えないのだろう、あなたはいつも答えない。わたしの過ごす日々のあらゆる事がその答えだとするのならば、それは複雑で難解すぎる。あのよく喋る悲しそうな男が言っていた、無限は無に似ていると。あるいは、この世界の有象無象の凡てがあなたで、過ぎ行くもので、それがあなたの無限を構成する部分なのだろうか、この問いはいつもむなしい。」

君は高いところに掲げられた磔刑の姿から、石造りの床に目を落とし、軽いため息をついた。

「ヴァイオレットが言っていた、わたしの身体をくまなく改めて。あれがない、これもない、と。わたしの身体は侵犯されている、身体を通して魂まで奪われている、と。わたしの身体や魂は、誰に奪われているのだろう、あなたにか、あなたを奉る者達にか、ただすがりつく正しさを求める純朴な者にか。わたしは善悪の彼岸など求めない、求めていないのに、まるでそんな場所に居るようだ。そして、どちらを向いても善など見当たらないのだ、何を選んでもそこから腐臭がする。悪はどこにでもあって、まるで…」

それから、君は言葉を切って、少し考えた。真っ暗な天井を透かし見る。暗闇に慣れた目で、その天井に形をかろうじて追う。そこから、夜闇に色彩を失ったバラ窓へ目を移す。そこに描かれた人物の数人の中に、誰かの顔が重なる。

「魂が侵犯される。誰かが侵入する、誰かが奪う。あの子供は魂まで奪われてしまったのだろうか。魂とはなんだろうか、身体抜きに存在しえない、ただの生起し活動し消滅する一連のなにがしかか、あるいは、独立して成立しうる実体なのか。わたしは、身体のなかにいる魂しか知らない。その身体に左右される魂とは、そんなに繊細なものなのか。あるいは、魂は独立して完全なものであり、身体は、魂を不完全に映す鏡なのか。あの子の鏡は、ひどく害されていた。

 ヴァイオレットがわたしから奪われている、と言ったもの。性に関わる器官。わたしにはいつからそれがないかわからない。ロレンスに出会った頃にはもう、わたしはこういった身体だったし、そのままで今まである。ヴァイオレットが言うように石によってわたしの身体が変わるのかもわからない。この身体はロレンスが望み続けたものなのだろうか。ロレンスは自分でも何を求めているのかわかっていない。それは彼の世界での矛盾と兄たちの誤った愛とが彼を変えてしまったからなのだろう。わたしはローズに触れることはない。その関係は友愛といったものに近いだろう。だが、その身体への誤った判断で彼女自身の人格まで見誤った。他者の魂とその他者の身体との関係を見誤れば、それは即ちその他者全体を見誤る事にもなる。だが、その誤解も侵犯と言えるのか。わたしには何がどこまで侵犯なのかわからない。けれど、あの暴力は、確実な侵犯であり、悪なのだ。あの画家をもっと早く訪ねるべきだった。無垢なものを虐げて悦ぶことは絶対的に悪だ。もっと早くわたしは行くべきだった。ああいうものを殺すのは、わたしの役目だった。」

そして、君は、しばらく言葉を止めた。聖堂は静かで、君の声の反響が消えると、沈黙が続く。君は、「わたしの」と呟く。そして、十字架の男を見上げる。

「あなたは何かしらの贖いなんだろう。そういう役割だ。行って、やるべき事をしろと、裏切り者に言ったのもあなただ。わたしにも同じ事を言うのだろうな。」

君はこの、返事をしない男にどこかうんざりしてきた。君は抑えた声で古い歌を歌う。

「“Bye bye, lully, lullay”。
無垢なものの犠牲はただ悲しい。なにかひとつでもいい、わたしが存在し続けているということ以外の奇跡を、見せてくれ。たまには。」

君は、ふと、いつからここで言葉を語れるようになったのだろう、と考える。それもまた、奇跡だろうか。そうであるなら、ずいぶんとつまらない奇跡だ。君はそれでもないよりはましだと考え、立ち上がり、目礼し、甲虫に姿を変えると、闇の中へ飛び出した。

029. 群青色 ロレンス・コールドウェル

 結局、戻ると言っていたウィリアムは戻ってこなかった。夜になると廊下は静かになり、刑事たちは明日また来ると言い残して出ていった。看護婦が剥がした包帯の下を医者が検分し、信じられないと三度ほど繰り返した後に化膿止めだけ処方して出ていく。恰幅のよい看護婦が笑顔で傷口を消毒して、若いと回復も早いですねと言いながら新しい包帯を巻いて出ていく。ロレンスは、傷口を見ながらその回復の遅さに苛立った。オパールならもっと早く治るだろう。あの人なら土でも詰めて寝ておけば良いのだ。自分はどうすれば回復が早まるだろう。自分が一度死んだのか死んでいないかは知らないが、回復には食事と、自分の常態を記録した石があればいいのだ。ところが、病院食は足りないし、ブローチはウィリアムが持っていってしまった。手元に残ったのは、オパールの持っていた小さな石を内側に嵌め込んだ金の指輪だけだ。その指輪をいつも人差し指にしているのは、付き合う女性たちの誤解を買わないようにだ。真夜中の病院は静まり返り、この階のどこかでは誰かが大きないびきをかいている。そろそろ、ここを抜けだそう。そう考えて身を起こすと、ウィリアムが置いていった箱が妙に気になる。ロレンスはそれを開けてみる。絹のハンカチに包まれた、オパールの髪飾りがはいっている。カンザシという、東洋のものだ。全体に白っぽい丸い大きなオパールに、背景の岩や遊色を生かすように見事な魚の飾り彫りがしてあり、それが先が二股に別れた銀の棒に貫かれている。銀の棒の先は尖っていて、太い針のようだ。
「ああ、これか」
ロレンスは、あの臭い部屋に入ったときに見た男の死体を思い出す。毛深い太い首にあったいくつもの黒っぽい点。その間隔はこの銀に光る金属の針と同じくらいだろう。あの男の首にあった点はこれだ。しかし、よほど正確に刺さねば頸椎に走る神経は刺せまい。だからこそのあの傷の数か。ロレンスは取り乱した様子のウキノという男を思い出す。こういうことができる男なのだろうか。東洋のことはよくわからない。わからないながらも、疑問が一つ解けたような気にはなる。そして、昼間のウィリアム・グレイののんびりとした様子が思い出される。
「あいつめ」
つまり、ウィリアム・グレイは凶器をわざわざ病室に届けたという事だ。これは、彼を殺人の容疑者に仕立て上げたことへの復讐だろうか。しかし、そこまで策略を巡らすような男にも見えなかった。ロレンスは昼間、すぐそこで彼をスケッチしていた時のウィリアムの目を思い出して、あいつは多分そういう奴ではない、と結論を下す。あいつは、ごくごく珍しい、善人とやらなのだろう。それに、あの赤毛の娘の事を言っていた。自分でさえ忘れかけたあの娘。あの部屋の男も赤毛の娘も、俺が殺したんじゃないんだがな。殺したのは、そんな無関係な人間ではない。個人的な関わりのある人間だ。だが、あの小屋の悪夢は思い出さないようにしている。ロレンスはその硬い切っ先を触る。
「髪に挿すものじゃないのか」
カンザシは一時期女性の間で流行したが、こんなに硬くて太い軸だったろうか。母は華やいだものは身に付けなかったし、他の女性たちの髪飾りはそこまで観察をしたことがない。そういう場面では、髪飾りは女性自身が外すことが多いからだ。そして、この石。オパールはオパールだが、何かが違う。ロレンスはそれをよく観察する。遊色を生かすにせよ、よくもこの見事な石に刃を当てる気になったものだ。その魚に触れると、石が語り出す。
 ベッドの隣に、誰かの気配がして、緊張感が走る。そこにウキノの背中が見える。彼が身を起こしながら云う。
「それは人にあげるつもりであつらえたもんです。でも、死んじまいました。だから、いんですよ、返さなくて。あげます。」
彼が身を起こした向こうに、小さな頭が見える。髪をきれいに短く整えられ、ウキノはそれを片手で撫でる。
「その石には馴染みがないんだ。」
暫く聞いていない声がサイドテーブルの上から聞こえ、ロレンスは振り返る。オパールが、青年のスーツを着て、そこに足を組んで座っている。そのスーツは、少し大きいように見え、オパールは口紅をしているように見える。
「馴染みとか、あるんですか」
ロレンスの隣で、ウキノが手元から目を上げて云う。その目はまっすぐオパールを見ている。そして、心持ち微笑んでいる。ロレンスは、二人を見比べる。
「あるよ。だから、知るには時間がかかる。だけど、そこには君の物語が流れている。わたしに要るのは、わたしの形を保つものだ。君の愛した人も、君の親しんだ芸術も化け物たちも、わたしには関わりがない。わたしは君の物語に親しめる余裕が、今はない。君はわたしに君が幼い頃に信じていた化け物や愛した女性の面影を見るのか。」
「ハツカさんをですか。」
「そして、山や木の精や、水のドラゴンを。」
「いいえ。アンタさんは…アタシの命は助けていない。あの子は助けてくれたけど…アタシに、恩を返す機会を与えてくれた、天女ですよ。天女って、わからんでしょうねえ…優しい妖精みたいなもんですよ」
それを聞いて、オパールは笑った。それは嘲笑でも自嘲でなく、気の利いた冗談を聞いた時のような短い、機嫌の良い笑いだった。そして、ロレンスは急に何かしらの痛みを感じて我に返った。しかし、目の前には、誰もいないし、無論いた形跡もない。そして、痛いのは腹でも腕でもなかった。
「こういうのは、嫌だな。」
ロレンスは呟くと右手で先ほどウキノが見えた辺りをさわってみる。リネンは当然のようにひんやりしている。そして、サイドテーブルにも誰もいない。ただ、カンザシを包んであった絹のハンカチと木箱がそこにあるだけだ。ロレンスは暫くサイドテーブルを眺めていた。そこに座っていた人を思い浮かべ、そこに姿を思い描いてみる。あのスーツは、ウキノのものじゃなかろうか。何故あいつのスーツを着ているんだ。何故、あんな風に親しげに話すのか。痛みは嫉妬だったろうか。ロレンスは数年前に、ほんの小さな少女に狂ったように嫉妬していた自分を思い出す。あの苛立ちはなんだったのだろう、気が付くと止められないほどに行動がエスカレートした。あの苛立ちが、今度はやって来ない。代わりに、どういう訳か、自分の内臓を食っていた悪魔を思い出す。二人の兄の顔。そして、林で馬の尻を鞭で力任せに叩いた時の顔。崖の下の茂みを覗きに来た時の顔。慣れた手付きで押さえつけ、シャツを脱がす時の顔。傷を確認して、頷き合うときの顔。その記憶が自分を包み込む前に、ロレンスはオパールの短い笑い声を思い出す。明るく短い笑い。めったに聞かない、何故か好きな笑いだった。自分といる時にはもう少し皮肉ではあったが、それは少なくとも楽しげではあった。ロレンスはもう一度、オパールの顔が見たくなった。手に持ったままの、魚の刻まれた石をしばし眺める。そして、今度は大の字に寝て、目を閉じ、右手で持ったカンザシの石を親指でさぐる。
「君はどこかの金持ちの息子だ。妾の子で、次男坊だ。艶やかな母親と、酒宴のもてなしをする女たちの間に育った。それから、流行り病で母親が亡くなり、父親の屋敷へ行った。だが、正妻にもう一人息子ができると、今度は母方の祖母のもとへ行かされた。君の祖母は古い家の出で学があるので、君にもそれなりの素養は身に付いた。そこで君はハツカに出会った。彼女は土を焼いて器を作る家の子だ。短くなった服の裾から引き締まった脛が出ていた。
 君は川で溺れかけたのをハツカに助けられた。ハツカは、この川には化け物がいるから入るなと君に言った。ハツカは君よりいくつか年嵩で、いつか君を婿にとると言っていた。彼女は父親と祖母と暮らしていて、子供は彼女一人だった。父親は他の仲間と共同で窯を持っていた。窯の近くには池があって、君たちはそこで時々泳いだ。ハツカは服を全て脱いで泳ぐから、君はそこで女性の体が自分の体とは違うのだと知った。池を囲む木々は濃く生き物が多かった、そこだけ、木々が切れて青い空がよく見えた。水の精霊のための祭壇があって、その祭壇は小さな家の形をしている。この池にはドラゴンが住んでいるとハツカは言った。幼い君はハツカがその化身だと思っていた。
『おれの家には男がいねえ、おかあが死んだから産まれねえ。だからムコが跡取りだ。いつか、おめえをおれのムコにもらってやる。おれが土をつくって形をつくる、おめえは絵がうまいから絵付けをする。おばあに習え。そしたらうちの窯で焼くんだ。』
彼女はよくそう言った。泣いているのか。」
「ハツカさんの言葉を女の人の声で聞くと、どうも。」
ウキノは鼻をすすった。
「わたしの声はやはり、女の人の声なんだな。」
「ええ、ハツカさんも低めでした。もう少し、色っぽかったですがね。こんな具合です。おれの家には跡取りがいねぇんだ、だからぁ…」
ウキノはまるで恋慣れた女のように声でしなを作り、身振りまでまぜてみせる。それでその後に小さく笑う。オパールが神妙な面持ちで云う。
「それは難しい。」
「大丈夫です、ほんとはアタシもハツカさんも子供だった。それに、ハツカさんもぶっきらぼうでした。」
そうして、二人は笑った。ロレンスは、奇妙に思った。自分もそこにいたいと思っている。それは叶わない願いだ。自分は彼女を裏切ったのだ。その首を掻き切った。裏切った人間は、裏切られた人と同じ朗らかな空間にはいられない。朗らかか。オパールが朗らかだったことなんてあるのか。あの少女といる時でさえ、朗らかであったころなどないように思う。あるいは、自分の石の持つ規範から自由になったせいか。それなら、なおさらオパールは自分とはもう居たがらないだろう。それでも、あの時、背の高い女がメモをよこした。ウキノを助けるためだけにでも、自分を頼ってくれたという事だろうか。思考が情景を追い払い、幻は消えてしまった。ロレンスは手のひらを広げて、魚の彫り物がついた石から親指を離した。このカンザシは返してしまった方がいいのだろう。しかし、この石を返してしまったら、もう二度とオパールには会えないかもしれない。いやこれだって会っているわけではない。しかし、彼女の姿を見、声を聞きたい。ロレンスは鼻から息を吸い込むと大きくため息をついた。
「忘れたんじゃなかったのか」
忘れられるわけが、ないじゃないですか。アンタさん、誰のためにその腹を刺したんですか。今度はどこから聞こえたわけでもない声が云う。それは思考に入り込んだ思考だ。畜生、なんでウキノの声なんだ。お兄さん方の声よりいいでしょう。そんな言葉が思考の糸を手繰る。ロレンスは、ベッドに身を起こす。手に尖ったカンザシを持っている。もう一度、オパールの姿が見たい。それから、周囲に耳をすます。どこかの部屋のいびきは相変わらず元気だ。ロレンスは昼間刑事が使った灰皿に目を落とす。そこで、思考に幾つかの要素が加わり、何かが切り替わる。
「よし、逃げるか。」
ロレンスはカンザシを注意深く絹のハンカチにくるむと、箱に戻した。そして寝間着の上にガウンを羽織ると、そのポケットに横に倒して入れる。こうすれば、ポケットの内側に引っ掛かって、落としたりはしないだろう。枕カバーを外すと、身の回りのもの一切をそこへ放り込む。靴は、ベッドの下にある。靴下が欲しいところだが、病院に担ぎ込まれて以来、見ていない。来客用の椅子に差し入れのかごがいくつかあるが、そこにもきっとないだろう。
「さて、誰のところへ行くかな」
ロレンスは裸足のまま靴を履くと、窓を開ける。
「俺も変身できれば便利なのに。」
ひとりごちて、窓枠に足をかける。

030. 灰 ウィリアム・グレイ

「ノン、ダメです、返していらっしゃい。」
その口調に母親か乳母の口調が思い起こされて、僕は手にしているのが本物の甲虫か、それとも蛙かのような気分になる。ウキノは作業着のキモノを着ていて、膝に座った無表情な子供に指を噛らせているから、どこか異国の子連れのお母さんに見える。ウキノは手首から先だけは女性的で美しい。他は骨ばった男で、背はオパールとかわらないか、
おそらくそれよりも小さいが、骨が彼女より太いし、肩が広い。それを支えるなりの筋肉はあるのだろう、膝の上の子供は彼の腕にもたれたまま安定している。
「うーん、僕もちょっと悪いなと思って、さっき病院にいってきたんだけどさ。いないんだよ。」
「よかった、退院ですか。」
「どちらかと言うと、逃げたというか…」
「おやおや。」
 ウキノは呆れたように笑い、「仕方がないですね」と呟く。彼には髪を直す時間がないようで、いつもより艶のある黒髪が束になって額に垂れかかっている。一方の膝の子供の様子はきれいに整えられて、人形のように華やかな服を着ている。しかし、その服は心持ちだぶついている。元々が枝のように細い子供だったから、それはそれで別にそう云うものかもしれないが、その割には少しだけ子供らしい肉は付き始め気がする。頬に丸みがある。しかし、やはり、数日前に見た時より全体に小さい気がする。
「変なことを云うようだけど…その子、縮んでないかな」
「アンタもそう思いますか。ええ、ちっと縮んだ気がするんです。傷が消えてきたのいいんですが、年齢が戻ったような。こういうのって普通でしょうかねえ。」
「普通なことは何もないと思う。でも、かわいい子だね。」
「ええ、可愛らしい子です。」
僕が近くに寄ると、ウキノは嬉しそうに子供を座らせ直して正面を向かせ、頭を撫でる。髪は短く整えられ、カールのかかった細い毛を通して白い地肌が見える。はじめは視線を向けるだけで心が引き裂かれるようだった火傷の痕は、今はうっすらと色素が残るだけとなっている。以前は黒ずんだ痣ばかりが目立った額はミルクのような暖かい血になり、その下の栗色の薄い眉と睫は、一本いっぽんが柳のような線を描いている。ローズの眉毛は、この頃は本当に色が薄くて何もないようだったが、この子の眉は驚いたような弧を描いている。
「かわいいねえ」
僕が撫でようと手をゆっくり持ち上げると、それを子供は表情なく目で追う。その目はとても彩度と明度の高い青だ。僕は二度ほどゆっくりをその髪を撫で、その柔らかさとひんやりとした感覚との何かしらの差に手のひらが当惑しているように思う。体温は低いようだ。
「子供から赤ちゃんの終わりへもどったくらい、戻ってる気がする。ローズが…しゃべれるようになった頃くらいかな。反応も変わったね。こないだは、僕が撫でようとしたら身を庇っていた。やっぱり、縮んでる気がする。」
「これ以上小さくならなきゃいいんですが。いなくなっちまいそうで怖いですよ。」
ウキノは膝に抱いた小さい人の頬を撫で、抱き直すのにはずしていた親指をまた咥えられる。子供は小さな手でウキノの手を握っている。その仕草は赤子のようで、はじめにウキノの部屋で見たときの様子とはかなり違う。痛々しい記憶がもたらす凄みが薄れ、僕の姪の記憶を引き寄せて、とても可愛らしく見える。赤子に近い子供の、あのおぼつかない身振り。歩き方がしっかりしてきても、思うようには動かせていないであろう、手の動き。それに、大きく見開いた目、なんでも口に入れるその少し間の抜けた姿。
「なあ、ウキノくん、指、噛られてないか?」
「いいえ、吸ってるだけです。もっとも、小さい傷があるんで時々血は出ますが。生きてる証拠です。」
ウキノは妙に嬉しそうで、それが彼の様子や散らかり放題の部屋とあわさってどうにも狂気じみている。もっとも、僕が会ったことのある女性でこのくらいの子供を育てている人はだいたい狂気じみた上機嫌だったので、きっと満足なのだろう。
 この前まできちんと部屋を区分けしていた衝立はもはや視界を遮ることはない。部屋の隅に追いやられ、床には畳まれた布が重ねてある。その布はきちんと折り目正しく畳まれてはいるが、テーブルと棚の中間の床に放置してあるので、漂流する小舟のような印象だ。牡蠣の貝殻と篩はすべて僕にくれてしまったし、絵はすべて売ってしまったそうだ。かわりに、部屋の隅には衝立に寄せて色とりどりの子供服や、いくつかのぬいぐるみが、大小の籠に入ったまま置いてある。
「アンタさん、いろんな女の人にこの子の話をしたでしょう。かわいそうな孤児をアタシが保護したって。レディからおかみさんまで、ひっきりなしでしたよ。」
「ああ、ロレンスのガールフレンドさんたち。お子さんのいる方もいるからねえ。」
「まあ、ありがたいことです。そういや、ロレンスさんの行方はわかったんですか。」
「いや、病室の窓から逃げてからはてんで足取りがつかめないって刑事さんが言ってたよ。なあ、僕にできることある?お金とか友達にせびってこようか。」
「ああ、いや。絵もわりかしにいい値で売れたんで、しばらくは描かんでも大丈夫でしょう。部屋代もかからないから、貧乏長屋から引っ越さなかった甲斐もあったってもんです。」
「でも冬も来るぞ。ここじゃ寒いんじゃない。」
「国に帰りますかねえ。でも、この子じゃ国では目立つ。ロレンスさんみたいに女性でも頼りますかねえ。」
「心当たりでも?」
「ないですねえ。ところで、アンタさん、皿を洗って拭いて片付けるって芸当はできますか。」
「それくらいはできる。」
「皿にみとれやしませんか。」
「ああ、なるほど。じゃあ、むずかしいかもしれない。」
言いながら僕は台所に立ち、木桶に沈められた青い皿を取り出す。白地に川縁の風景。目玉焼きがちょうどよく乗る大きさ。
「これはウキノっぽくないなあ、でも僕は好きだ。」
「ああ、銅版で捺したベロ藍のやつですね。ウチの国の風景でもないのに、ウチの国で作ってます。機械化の最たるものです、でも、妙に気に入りましてねえ。汚れにくいし。」
「こっちの不規則な形のボウルは?」
「チャカイ、儀式っぽいお茶に使うお高い一点ものです。」
「儀式?なんだかこわいな。」
「ああ、そういうのじゃあ、ないんです。金持ちの社交と物持ち自慢の儀式です。実家から盗んで来ました。」
「へえ、高いのか。ずいぶん素朴にみえるけど。なあ、この白いのからはシミが取れないんだが。」
「ああ、それはいいんです、とれんのです。それは、オパールさんの血です。」
「飲み口と底と…」
「ええ、それが血の痕です。底のマルが景色になっちまってて、月みたいで良いでしょう。アタシは好きです。それはイツカのお粥用にしてます。」
「イツカちゃん、お粥は食べるの」
「ミルク粥ならなんとか」
「眠るのかい」
「ええ、抱っこしてれば、だいたい寝てます。ほれ、ユリカゴのツナをキネズミが揺らすよ、ねーんねこねんねこねんねこや。」
ウキノはゆっくりと歌い、うとうとし始めた子供を、自分の和服の襟元を開けてたくし込む。そして、片手で器用に色のついた太い紐を使って、キモノの外側から体に結び付ける。少し腰を上げると、衝立に引っ掛かっていたオビを取る。手慣れた様子でその太めの綺麗模様の布を、小さな体の体重を支えられる位置に巻く。
「これでいいかな。さて、両手は自由になった。」
寝てばかりの子供はおとなしく思えるが、体から離せないとなっては、動きも制限されるのだろう。奇妙な体勢で床の漂流船のような布を拾う。
「ベッドで寝かさないんだね。」
「置くと起きて泣くんです。アタシが動けるのは夜中くらいですねえ。ああ、そこの棚の小さい皿。」
「なんだい、これ。ああ、芋虫に枝が…ああ、ウサギだ。へたくそ…じゃないな。すごい。」
僕は手を止めてじっくりとその皿を眺める。
「お好きだと思いました。沢山あるんで、ひとつあげます。二束三文の雑器ですが、今はもう手に入りません。お気に召しましたか。」
「うん、すごく。最近見た絵の中で一番好きだ。描いた画家にあってみたいな。」
「画家じゃありません。貧しいポッターの絵付けの筆です。70代のお婆さんでした。もう、亡くなりました。」
「惜しいな。」
「惜しいですよ。土雪崩でね、窯ごとやられちまいました。その孫がハツカ、そっちの小さい方の皿を描いた女の子です。」
「こっちはなんだか、うん、でも僕は好きだよ。」
「あの子はあまり絵が好きじゃなった。それで、アタシにやらせるつもりだったんです。でも、窯がなくなっちまってね。芸妓になりました。アタシより年が上でしたから、言い交したって言ってもアタシにはなんとも。そのうち、病で死にました。ついに本当の名前は知らずじまいです。」
「ハツカさんじゃないのか」
「それはアタシがつけた名前です。市、マルシェの日でね、毎月20日、le vingtに開かれるんですが。そこに焼き物を売りに来ていてね。20日を、ハツカっていうんです。それで、またハツカになればあえる、ハツカ、ハツカさんって。言ってる内に本人が気に入ってくれて。」
「ツカってのは20の意味なのかい。」
「いいえ、でも、カは何日目って意味ですね。」
「イツカも?」
「ええ。イツカは月初めから数えて5日目です。この辺の市も5日目に立ちますんで、いいかなと。それに、アタシの国の言葉は同じ音に色んな意味を持たせるんでね。イツカにはアンタさんの国で云うsomedayって意味もあります。un jourだとone dayになりそうで、そいつぁツイタチなんでちょっとちがいますがね。
「Somedayね、サムデイ。いいな。サム。」
「女の子ですよ。」
「女の子でもサムって言うよ。」
「へえ、そうですかい。」
「なあ、ところで。」
「なんですかい。」
「僕の国に来ないかい。じいさん、ばあさん、子供好きなんだ。それに、ローズも姉さんが大陸へ行って寂しいみたいだ。」
「おや、そうですか。では、ありがたくお邪魔しましょうかね。どうだろうね、サムや。」
ウキノが眠る子供を背中に移動させながら語りかける。子供は静かに眠っている。下手くそな管楽器の音がどこからか響いてくる。僕はウキノの背中から覗く眠る子供と、不器用な様子で立つウキノに指で額縁をつけて囲ってみる。そこに、東洋のおばあさんか、長い黒髪の女性を添えてみたくなる。二人ともでもいい。そこに、さっき拭いた青い皿の風景のような背景を描きたい。でも、あの皿の風景は自分の国ではない、とウキノはいった。僕は、その国へも行ってみたいと思った。
「あれ、そういえば、あの茶碗は金持ちのものだって、君、言わなかったか。」
「ええ。」
「君は僕を嫌な金持ちのボンボンだっていってなかったか。」
「ええ。」
「君も嫌な金持ちのボンボンなのか。」
「ええ。ついでに、アタシはメカケの子で次男坊です。跡取りの保険です。生きてりゃいい。生きてる内は、目立たん方が良いのです。」
「しかし保険なら、外国のこんなとこにいていいのかい?」
「ほんとはいない筈なんですがねえ。家出したんです。」
「またなんで。」
「イツカの窯をつぶしたのが、実家の事業での事故だったと知りましてね。学校を卒業して、そのまま古里へ戻らずこちらへ来ました。」
「家の事業?」
「鉱山です。」
「鉱山って、それは…」
「あと、兄があれこれと手広く。」
僕は東洋の鉱山と、貧しい陶工の女の子と、色の白いキモノの男の子を想像する。ウキノ、聞いたことのない名前だが、きっとその国のその土地では名士なのだろう。
「アンタサンとオパールさん、コールドウェルさん。返せない借りばかり増えますなあ。」
「僕はいいよ、いつか君の国に遊びに行ければ。」
「先に有名になってくださいよ、あの国じゃ肩書きが全てです。」
「ええ、困るなあ。ああ、あと、コールドウェルはここに泊めてあげたらどうだろう。もし、来ればだけど。」
「そうさねえ…」
ウキノはちらと窓の方に目をやる。白い大きな蛾がいる。それは部屋の光を受けて光っている。僕にはそれが、いつか、昔に公園で見た小鳥の色と似ているように思える。
「来れば、ですかね…」
僕はそれで、洗い終わった皿をテーブルに並べ、それを造形物として鑑賞し始める。僕は、これは描くよりも作ってみたい、と思う。
「なあ、そういえば、君んとこのモノと神秘主義の繋がりってなんだい。」
「ああ、それですか…」
ウキノはゆっくりと背中の子供を揺らしながら、モノの美しさと無名の人々の無作為とについて語り始める。窓辺には大きな蛾が、毛の生えた触覚だけ揺らしながらそこに留まっている。

031. 檸檬色 レミ・ナニガシ

 僕は古本屋も好きだが、新しい本を扱う本屋も好きだ。とはいえ、最近はとんと本は読まなくなり、その棚と棚の間を巡ると、「なんで読んでくれないの」という声と「久しぶり」なんて言葉が背表紙から聞こえる。古本屋街でわざわざ新しい本を扱う店に入り、知り合いの子供の誕生日プレゼントを買ったついでに、フラフラとまるで馴染みの店へよるような感覚で出版社ごとの棚などを巡る。そうするとその内、僕は好きな作家の本を手にしている。どうせ買うなら、もう一冊くらい、と思っていくつかの書棚の前に立ち止まったり進んだりを繰り返していると、あちらから来た若い女性に突然、声をかけられる。
「その作家さん、楽しいですか」
「ああ、これは…美味しいものと鉄道が好きなら…」
「そいつぁ妙な組み合わせですねえ。」
真っ青な大きな瞳が黒い縁取りに囲まれており、その目は黒い前髪の下できらきらと光りながらまっすぐに僕を見ている。僕はこの若い女性に気圧されて半歩後ろに下がる。軽くうねったブルーブラックのウルフヘア、黒い革のジャケットに豊かな胸元が透けるニット、親指に幅広の銀の指輪。明るく愛想のいい声、やはりこっちを見据える、目。
「ええと、そうですね、あと、貧乏話とか。」
「鉄道と貧乏がお好きで?」
「あ、いえ…」
「なんだ、好きじゃないんですかい。じゃあ、美味しいものの方ですか。」
「そうかもしれないですが…」
「どんな話ですか。」
彼女はきっと学生であるのだろうが、僕に対して微塵も気おくれを感じている気配がない。僕は逆に、その目が青すぎて、見続けることができない。そのせいか、僕はこの人には親切にしないといけないと命令されたかのような奇妙な感覚を覚える。そして、素直に本の紹介をする。
「ええと、そうですね、昔のおじさんの日記です。親しかった作家さんについてとかも、書いてます。」
「おじさんの日記ですか、ふふ、アンタさん、不思議なものが好きですねえ。」
「ええ、でも・・・」
「どれ、そんならアタシも読んでみるとしましょうかね。」
そう言って彼女は、私の手にしていた本と同じ作者の別の本を棚から抜き取ると、艶然と微笑む。そして、表紙をめくって、最初の一文を読み上げる。読み上げると、僕をまた見据えら聞く。
「どうですか、おじさんらしかったですか。」
「え、あ、えと、お上手で・・・」
「あはは」
そして彼女は、嫣然と微笑み、そこから「ではまた。」と踵を返し、背中を見せながら軽く手を振りそのまま歩き去る。僕が呆気に取られてその黒い革のジャケットに包まれた背中と、ショートパンツから伸びる引き締まった脚を見送っていると、振り返りもせず手を挙げて、「トゥルル」と言いながらこちらへ手だけ振って見せた。僕は、夢でも見ていたかのような気分でしばらくそこに立っていた。彼女は、どこか懐かしい感じがした。それが恐らく学生時代の友人達の面影を一緒くたにして過去への憧憬を追加した感情が原因だろう、と僕が片笑みながら歩きだすのと、聞きなれた声で呼び止められたのは、ほとんど同時だった。
「レミ。」
「ああ、ロレンスさん。」
僕の声に妙にうれしそうな響きを感じたのだろう、ロレンスは少し鼻白んだ様子でそこに立っている。三つ揃いのスーツに、少し寒さが増してきた季節にふさわしい、絹の襟巻。
「やめといたほうがいい。」
「やめとけって、この本ですか。」
「本は知らんが、今、追いかけようとしなかったか。」
「追いかける?」
ロレンスが無言で、平積みの本の上に落ちている小さなハンカチを示す。それは、5センチ四方に小さくたたんである、見事なレースの縁取りのあるハンカチだ。僕がそれを拾い上げると、レースに編み込まれたレモンのモチーフにぴったりの柑橘の香りがする。
「これ、あの人のですか。」
「そうだ。なんだ、気付かなかったのか。」
「有名な小説のワンシーン、ハンカチ版みたいです。」
「どんな小説だ。」
「うーん、でも、レモンよりあの人の方が色彩に溢れていたというか…あの人、お知り合いですか。」
「知り合いというか、まあ、そうだな。」
「きれいな方ですね。」
「そうだな。犠牲者は多い。男女問わず。」
言いながらロレンスは僕をレジへ促し、会計が終わると今度は店の外へと促す。そこには大きな黒い車が待っている。その表面は滑らかに光り、窓は黒っぽくて中が伺い知れない。
「あの方、名前はなんと言うんですか。」
「君はあのカンザシを持っているのか。」
ロレンスは大きな黒い車のドアを開けながら僕に尋ねる。僕は質問を質問で返されて、きっと答えたくないんだなと思いながら頭を下げてそこへはいる。僕が奥へ詰めると、今日は珍しくロレンスも後部座席へ入ってくる。運転席との仕切りを軽く叩いて、車は動き出す。僕はロレンスの青白く高い額と、その下の色の薄い青い瞳、そこから法令線へと目でなぞる。僕も彼の年齢に近付いている。少なくとも、見た目だけは。僕はヴァイオレットさんが彼にひかれた理由がなんとなくわかるような気がする。
「カンザシ、少しだけ読みました。」
「では、コッタガワ・モトキヨを知っているか。」
「コッタガワ?」
「ウキノと名乗っていた。」
「ウキノさん、お元気なんですか。」
「1937年に死んだよ。」
「そうですか…」
僕は夢で見るウキノさんがなんとなく好きだった。あまり垣間見る機会もないが、記憶ではいつも妙に明るかった。それが奇妙な感じを与えて、でも僕はその在り方がなんとなく好きだった。僕にはあんな風に振る舞う元気はない。そして、僕はさきほど話した女性の正体にはたと気付いた。あの口調、ゆるい巻き毛、きっとウキノさんが引き取った子供だ。
「さっきのは…ウキノさんの子供?」
「そうだ。コッタガワ・イツカ。50年前はアオヤギ・カナデ、20年前はサファイア・ヘルファイア、最近は何をやっているのかは知らんが、随分とファンのいる仕事のようだ。」
「アオヤギ・カナデ、少女漫画家の?」
「君の年ならサファイアの方が有名かと思ったが。」
「ええ、サファイア・ヘルファイア、知ってます。ビター・アースとか、好きでした。でも、同じ人物だとは…」
「同じだ。多分ね。」
「多分?」
「彼女は…よく変わるからな。」
「はあ…」
僕にはロレンスの言う意味があまりよくわからなかった。可哀想なイツカちゃん、若くて美しいイツカさん。ウキノさんが乗り移ったような話し口の女性。
「あなたが助けたんですよね。」
「助けた、か。どうかな。お節介だったかもしれん。」
僕はロレンスがあの踊り場でナイフを腹に突き立てるところを思い出す。意外といい人じゃないか。むしろ、彼は八割方は好い人だ。おそらく。いや、ローズさんにひどく当たったのだから、もっと割り引かないといけないかもしれない。六割くらいだろうか。車の窓の外の景色はどんどん変わり、やがて高速道路にはいる。僕は今が3連休の初日でよかったと考える。でも、明後日は予定がある。
「イツカさん、ウキノさんに似てますね。」
「ウキノはもっと、善人だったがね。」
「イツカさんは悪人なんですか。」
「いや…ただ、一定じゃないんだ。彼女は若くて美しいし、コッタガワの財産も在るんで金に不自由もない。なのに、いつの時代も苛ついている。」
「キレイな女性だからかな」
「体質の事は俺にはわからん、いや、わからんと言うか…」
「…あれだけきれいだと、きっと大変でしょう。彼女も、あの、痛みを与えるって言う力はあるんでしょうけど。」
「おや、女性の美人は有利だと思っていたが。」
「まさか。すぐに恋愛対象になってしまって、友達が減りますよ、怖い人も寄ってくるし。可哀想なくらいです。僕の友達でもいまだに…」
「君もイツカは恋愛対象かい」
「いいえ。僕は…そうですね…」
僕は、ロレンスの薄い青の瞳をチラリと盗み見る。僕はイツカさんはなんとなく怖い。オパールは怖くなくなったのに、イツカさんは怖い。それよりは、ロレンスがいい。そして僕は、病室の外に沢山いた女性たちを思い出した。僕もロレンスに恋すれば、あの女性達の中のひとりになるのだろう。そして、そうなれば彼の友人は一人、失われる。僕は、二度と会いたくなくなった大昔の友人を思い出す。僕は友人としてのその人がとても好きだった。それなのに、いつからかそれが恋愛関係になってしまった。僕の裏切り、相手のもらい事故になった恋愛。
「僕は、もう、恋愛はいいんです。」
「そうか。では、イツカの友人になれるか。」
「ロレンスさんは友人じゃないんですか。」
「私は親代わりだ。」
「ああ…1937年…」
「ウキノと呼ばれた男は、まだイツカが若い頃に死んだ。イツカは年齢としては大人だったが、見た目はまだ小さかった。彼女の成長は人の何倍も遅い。イツカは、俺の娘としてしばらくは預かっていてな。」
「色々お父さん役をするんですね」
僕の言葉に、ロレンスは虚を突かれたように言葉を無くす。僕は、そのつもりではなかったので、申し訳なく思う。僕がなにかしらのいい言葉を思い付く前に、ロレンスは苦笑いをする。
「…本当の子供とは縁が切れて久しいのに、皮肉だな。まあ、いい。で、イツカの最後の友達が死んでから、ずいぶん経つ。君なら、彼女の事情もわかるだろう。」
「僕ですか?友達に?」
「いいじゃないか、彼女が興味を示していたのだし。」
「それじゃあ、何故さっきは止めたんですか。」
「言っただろう、彼女は危険なんだ。おそらく…君は一部を見ただけだ。君は、彼女は誰に似ていると言ったかな。」
「え、ウキノさんに…あの、話し方とか、雰囲気とか…」
「今度会うことがあったら、もう少しよく見てみるといい。血の繋がらない父親の、肌の色や手のかたちをしている。」
「そんなことってあるんですか」
「ない。私もオパールも、誰かの特徴を拾うなんてことはない。ないと思う。しかしイツカは…」
それから、暫くは沈黙が続いた。僕は、大きな車で載る高速道路は怖くないんだな、と追い抜いていく車を眺める。黒い車は追い越し車線を離れない。
「いったい、どこへ行くんですか。」
「南だ。半日はかかる。」
「困るなあ」
「何が」
「いいんです。」
僕は、困ると言いながら、楽しくなってきていた。ロレンスはなにやら紙入れから書類を取り出して目を通し始めた。
「私はこれに目を通さねばならん。君は退屈だったら、さっき買った本でも読んでいてくれ。ああ、ここに行き先のガイドブックもある。」
ロレンスは椅子の下から付箋の貼られたガイドブックを取り出すと僕に渡してくれる。
「この付箋は?」
「コッタガワの土地と屋敷のことが軽く書いてある。」
「意外とマメなんですね。」
「秘書に頼んだよ。」
「ああ、そうですか。」
僕は興味をひかれてそれを広げる。豪華な古い屋敷、近代遺産郡、コッタガワ家の歴史と財閥と会社。
「古津田川基吉。教科書で見たかな。ウキノさんが載ってませんよ。」
「ウキノはコッタガワ・モトキヨ。あまり知られていない。」
「売れっ子だったのに。」
「まあ、もっと売れた画家が多かったんだろう。それに、同じアパートで殺人があったと聞いた後に兄のモトヨシが手を回してな。」
「なんか、この人似てませんね。ウキノさんに。」
「異母兄弟だからな、似ないこともあるだろう。」
「ウキノさんの写真が見てみたかったなあ。すみません、ちょっと車に酔ってきたみたいです。寝てますね。」
僕はあまり寝る気もなかったが、車の揺れと心地よい車内温度が心地よくて目をとじる。さきほど出会ったイツカさんの姿を思い浮かべる。それから、サファイア・ヘルファイアと、その音楽を薦めてくれた友人。彼女は、今、どうしているんだろう。大好きだったのに、いつの間にか、進む道は離れて、気がつけば連絡先すら知らない。そうして、僕は、今、どこへ向かっているんだろう。ロレンスともう少し話がしたいが、話せば娘の扱いに困る父親のようなロレンスを見なくてはならない。僕はそこにはいいアドバイスは持ち合わせない。そして、僕はぼんやりと、茶色い、冷たい石の床のイメージに包まれる。嫌な予感がするが、僕はそこから離れられない。
寒い。どこかで扉が開く音がする。息を飲んで跳ね起きる。足音は聞こえない。部屋の隅で身を凍らせたまま、息を潜める。耳をそばだてて音を聞く。遠くで誰かの生活音がする。その緊張は次第に緩んでくる。身体中の緊張感が抜けてゆくと、鼻から息を吸って吐く。身体が冷えきっている。寒い。寝具を引き寄せて、思うに任せない体を休める。世界中でここにしか居ることのできる場所はないが、ここにいることは怯え続けることでもある。体がもう少し動くようになったら。そう念じて、目を閉じる。そして、また、今度はもっと、大きな音がする。空気の振動が心臓を揺さぶる。鼓動が早くなり、胸郭全体を揺さぶる。肘の先までが心臓になったように波打つ。思考が消える。

032. 若竹色 コッタガワ・基清

 日が木の間から地上に届くようになると、肌が暖かい。その光は春先の木立の間にも入り込んで、池の水の底の、去年の落ち葉を視線の先に浮かび上がらせる。水面には絶えず小さな水紋が浮かんでは消え、そこに小さな生き物の気配を知らしめる。分解されないのままの茶色い落ち葉から、目をあげると、遠方の蝋梅の黄色が目に入る。今日は季節を一月は進めたように暖かい。通りすがりの黄色い蝶に驚いてから、それを目で追って天を仰ぐ。空は曖昧な色をしている。
 「キヨ。帽子をかぶりなさい。」
待ち合わせ場所に少し早く着いた兄の基吉は、さらに早く着いていた基清に挨拶あいさつ代わりの小言を言う。
「いやあね、今日は妙に暖かいもんで。どれをかぶろうか思案しながら出てきたら、帽子そのものを忘れて来てしまいました。」
「ほんとに、あたたかいですねえ。」
「ウキさんもなんか言ってやってください。キヨは体が弱いのに、全然気を付けないんだ。」
体格のいい基吉の後ろに、萌葱色の着物の若い女性がいる。年の離れた兄弟の、間くらいの年齢で、ほん少し上気した頬をショールの群青が引き立てる。
「こんにちは、キヨちゃん。」
「ごきげんよう、浮舟さん。」
「キヨちゃん、髪が伸びたわね。」
「それも切れと言うんだが。画学生になるのには長い方がいいんだと。」
基吉はチョッキからポケットを引き出しながら言う。
「そうなの、キヨちゃん。お侍さんみたいね。」
「おや。その視点はありませんでしたねえ。」
浮舟と基清のやり取りを、基吉は満足そうに眺めている。この時、基吉は浮舟を妻に迎えたい旨をどう切り出そうか迷っていたに違いない。基吉は弟が浮舟とおなじような立場の女性だったことを知っていたし、それを自らの父がどのように扱ったかも知っていた。それが故に、基吉は浮舟を正式な妻に迎えたいと思っていた。基吉には、弟が浮舟というこの女性に、淡い想いを寄せていることも知る由もなかった。弟に、幼き日に行方知れずになった許嫁がいたことも、それが浮舟かもしれないと考えていることも知る由もない。
「今日は何を観るんでしたっけ、あるいは聴く?」
「いいえ、キヨちゃん。今日はお食事ですってよ。」
「へえ、何故、芝居に行かないんですか。」
「友達に会うんだ。お前も会っておいた方がいい。」
「ウサミさんですか。」
「そうだ。今度、学校の寮を建てるんだそうだ。」
「はあ、学校の。」
「美術の大学だ。お前、行きたいんだろう。」
「そうですね。」
基清は基清で、兄が兄の親友の鵜沢水敬三に会うのに、芸者を連れて行く事を疑問に思わない。基吉は鵜沢水に浮舟を会わせて祝福が欲しいのだろう。基吉は父の横暴を自分の所業のように後ろめたく感じているように振る舞う。耶蘇教の信者である鵜沢水は、そのよき相談相手であったようだ。
「耶蘇教の方って、どんなお食事かしら。」
「ウサミは普通の田舎紳士さ。奥さんが外国人だが。」
「奥さんもいらっしゃいますかねえ。」
「お前、話せるか。」
「アタシができるのはレコオドの物真似だけです。」
「へえ、何ができる」
「ツゥヒルフェ、ツゥヒルフェ、ゾンヌストイッヒフェルローレン」
「ほほほ、なあにそれは」
「助けて、じゃないと僕はおしまいだって歌です。」
「はは、うまいじゃないか。」
三人は談笑しながら公園を抜け、明るくなってきた季節の陽の光に何かしら新しいものを期待する気分に満たされる。そして華やいだ気分のまま、瀟洒な煉瓦造りの洋食屋に入る。
「やあ、ウサミ。」
「ひさしぶり。やあ、モトキヨくん、大きくなったねえ、いくつだい?」
「十六です。」
「もうそんなかい。すごいねえ。こちらは、僕の娘。ヴァィオラ、四つなんだ。」
小さな茶色い巻き毛の女の子が、敬三のトゥラウザーの影から顔を覗かせる。
「まあ、まあ、なんと!」
驚いて振り向くと、浮舟が目を潤ませて腰を屈め、女の子と目を合わせようと笑顔を湛えている。
「まるでお人形だわ、かわいい。」
「ははは、ありがとうございます。恥ずかしがり屋で。さ、お姉さんにご挨拶なさい。」
無言の子供が前に押し出され、浮舟は事もあろうか着物の袖を肘まで捲って、女の子をひょいと抱き上げる。
「ああ、懐かしい。妹もこんな感じで…こんなにお人形のようではなかったれど。」
「おねえさん、いいにおい。」
「そうかねえ、うふふ」
16歳の基清は、4歳の少女を抱いたままその父親と話す女性から目を逸らす。その腕が白かったからばかりでなく、今、はからずも彼の幻想が音を立てて弾けたからだ。ハツカさんに妹はいない。ハツカさんのお母さんは早くに死んだのだ。ハツカの腕はあんなに白くない。ハツカは山を駆けて土を捏ねる人だった。同じ地方や首のほくろや懐かしい唄を知っていても、やはり、6歳が恋した10歳の娘ではない。
「ヴァイオラちゃん。」
「僕はすみれと呼んでいます。ここで暮らすなら、名は呼びやすい方がいい。」
「すーちゃん」
「はい、すーちゃん」
「すーちゃん、私は大人のお友達と、芝を散歩してくるね。お姉さんとここにいられるかな。」
敬三が基吉と共に、広くとられた庭へ出ていく。彼らは煙草に火をつけながら、向こうのすみに置かれたベンチまで歩いていく。その様子を窓から眺めながら、基清は彼らの会話の内容を考えてみる。実は、彼女と。きれいな人だね。優しそうだ。いいと思うかね。勿論。
テーブルの向こうでは、浮舟がすみれに、女児の手遊び唄を教えている。それは基清も4歳か5歳の頃、ハツカに教えてもらったことのある手遊び唄だ。だが、言葉が端々で違う気がする。

やーまのあなたのまだとおく
さいわい すーむとひとのいう
訪ねていきましょ いきましょか
それひとやま にーやま
さんやま よーやま
ごーやま ろくやま
ななやま はちやま
きゅっーとしめての 
そら じゅうで ばあん! 

「幸いを撃っちゃ駄目じゃないですか」
「さいわいって、もののけじゃないの」
「ああ、それなら…」
それを聞きながら浮舟は鈴を転がすような声で笑う。おかしくてたまらないと言った様子だ。すみれがそれに合わせて笑いだし、曖昧な笑いをそこに加えた基清は、それが止まらなくなって三人で特に理由もなく笑う。基清は、浮舟という人物が実はそれはそれでとても魅力的な人物なのではないかとはたと思い至る。ハツカさんじゃなくても、でも、これが記憶喪失のハツカさんでないのなら、やはりハツカさんは死んだことになる。基清は窓の外の兄に視線を投げる。
 窓の外では、二人の男が腕組みをしたり煙草の煙を勢いよく吐き出したり、顎に手をやってみたりと、室内の朗らかさとは対照的に、どこかものものしい。とはいえ、そこに降り注ぐ木漏れ日はきらめき、彼らが着ている真っ白いシャツが眩しい。
「何を話しているんでしょうねえ」
「どうせ政治と経済です。すみれちゃん、クッキー頼もうか。」
「クッキー?いいの?」
「お昼ちゃんと食べるなら」
「食べるよ、病気になるのいやだから」
「えらいわね」
それで浮舟は手を挙げて給仕を呼び、クッキーとミルクとソーダ水を2つ頼む。
「浮舟さんには妹さんがいるんですね」
「生きてればキヨちゃんと同じくらいよ。五つの時、川で溺れてしまったのだけど…」
「川で。」
「ええ。キヨちゃんは谷上にいたことがあったと言ったわね。竜神池の下流の辻堂へ行く道沿いは知っているかしら。穏やかに見えたのだけど。」
「そこは…ああ、すみれちゃん、だめ」
大人と少年の会話に退屈したのだろう、ヴァイオラが椅子の背に手を掛けて身を伸ばし、浮舟の簪に手を伸ばす。
「ああ!」
次の瞬間、すみれは椅子ごと後ろに倒れ、大きな音を立てる。
「ああ、すみれちゃん!大丈夫?!」
浮舟は聞いたことのないような大きな声を出して、慌ててテーブルのそちら側にまわった基清を驚かせる。当のすみれ、ヴァイオラは、簪を手にしたまま驚いたようにきょとんとしている。その手には、薄紅色の珊瑚の簪が握られている。それを浮舟は慌てたようにひったくり、そのとたんに小さな女の子は泣き出した。
「ああ、ごめんね、ごめんねえ。これは危ないから。ああ、こっちをあげるから。」
言いながら浮舟は小さな鞄のがまぐちをあけ、その底を漁って、もっと小さな瓶を取り出す。それは目の覚めるような青で、小さな小さな金色の蓋がついている。浮舟はそれをテーブルにおくと、胸元から小さなを取り出して女の子の顔をぬぐう。用意のいい人だ、そして瓶もハンカチも小さい。女の子も小さい。女の子はもう瓶の方に興味を津々だ。
「いい匂いって言ってくれたでしょう。これよ、さ、開けて、ちょびッとだけ手首に付けてみて。」
基清が椅子を立て直すという一つの動作だけでもたついていつるところへ、浮舟は女の子を椅子へ戻し、泣き止ませて、次の遊びへ意識を向かせるまでをやってしまった。基吉は、自分の母もこんな風だったろうか、と考えながら自分の席へ戻る。
「そうそう、手を見せて。ああ、お上手。この瓶はすみれちゃんみたいにちっちゃいから、すみれちゃんにあげようねえ。」
さて、自分の席へ戻る数歩を浮舟に視線をむけ向けたままで行った基清は、浮舟が手のひらに小さなハンカチを握りしめているのに気が付いた。先ほど女の子から取り上げた簪が、中途半端に小さい鞄に押し込まれている。基清が自分の席に着くと、角度が変わって、その押し込まれた先までがよく見える。可愛らしい珊瑚の簪は、そこに花の浮き彫り施してある。そして、がま口の鞄の奥で、品のよい紫の風呂敷を貫いている。基清は、簪が布を貫くとは思わず、てっきり簪が折れてしまったものと思い、それに手を伸ばす。
「あ、だめ。」
浮舟はがまぐちの口を押さえたが、珊瑚の簪は既に抜き取られている。
「ああ、折れてませんね、よかった。」
言いながらも、基清はその簪の先が千枚通しのようにとがっているのに驚いている。女性の簪とは、かほどに危険なものなのか。きっと挿す時に黒髪をうまく掻き分けるのにはこのくらい尖っていないといけないのだう。
「ああ、だめよ、それは。返して。」
「あ、はあ…お洒落ってのは、危ないものなんですね。アタシも、もっと世の中の女性のお洒落に敬意を示さにゃなりませんね。」
生真面目に基清が言いながら珊瑚の方を向けて差し出すと、浮舟は怪訝そうな表情でそれを受け取って、ハンカチでくるんでがまぐちに戻した。がまぐちの金色の金具がぱちりと音を立てて閉じられ、臙脂色の革向こうに薄紅の珊瑚の簪が消えると、浮舟は問いかけるように基清に目を向ける。
「アタシはお母様の仕度のことはあんまり覚えてないんです。小さかったし、それに…」
「ああ、ごめんなさいね…」
「いえ、謝るようなことじゃ。黒髪を守る、よい工夫です。」
「黒髪を…?」
「ええ、尖ってるから、髪を引っかけて切らないでしょう」
浮舟は目を丸くして臙脂色の鞄を引き寄せ、それを膝の上に乗せながら考えるように目を巡らせる。
「あなた…簪が皆、あんなに尖っていると考えてるの。」
「はあ。」
基清は何か奇妙な事でも言ったろうかと浮舟の顔を見つめる。白塗りでなくても白いかわいた肌に、三つほど撒いたようなほくろ白粉の向こうに透けてみえる。黒い睫毛の中に栗皮色の瞳があり、その真ん中に瞳孔が小さく黒く鎮座している。ああ、最近読んだ宇宙の本にあった重力源だ。と、その周囲の囲いは乱れて浮舟の目元はほころび、吹き出す。
「ほほ、ほほほ。ああ、可笑しい。」
「ええ、何故ですか。」
「ほほほ、ごめんなさい。でも、違うのよ、私の簪だけよ。」
「そうなんですか。」
「でも、あなたのお兄様しかご存じないの。だから、キヨちゃんも誰も言っては駄目よ。」
「はあ、でも…」
「それはまた今度教えるわ。ちいさな子供のいる前で話すことじゃないから…」
浮舟は背筋を伸ばして微笑み、基清は戸惑ったまま、窓の向こうで兄と鵜沢水がこちらへ歩き出したのを見守った。ヴァイオラは窓からの光に青い瓶を透かし、基清はヴァイオラの髪が同じ光に透けるのを見る。この子は、こんな茶色い髪の色では、すみれなんて名乗れないだろう。可哀想に。基清は、そんなことをぼんやりと思った。

蛋白石の断片 -2-

蛋白石の断片 -2-

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2022-12-13

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Copyrighted
  1. 021. 黄 レミ・ナニガシ
  2. 022. 紫 ヴァイオレット・グレイ
  3. 023. 灰 ウィリアム・グレイ
  4. 024. 若竹色 コッタガワ・基清
  5. 025. 青 ロレンス・コールドウェル
  6. 026. 黄 レミ・ナニガシ
  7. 027. 紫 ヴァイオレット・グレイ
  8. 028. 白 
  9. 029. 群青色 ロレンス・コールドウェル
  10. 030. 灰 ウィリアム・グレイ
  11. 031. 檸檬色 レミ・ナニガシ
  12. 032. 若竹色 コッタガワ・基清