bye bye, peter

 きみは転校生だった。
 ぼくたちの町は田舎としか言いようのない場所で、転校生なんてとても珍しかった。だからみんな、きみを転校生と呼んでいた。そうさせていたのは、きみがまとう外の空気に対する興味というより、きみという人物に対する好奇心と言ったほうがふさわしかった。知らない土地の匂いがするふわふわの茶色の髪に、こはく色の大きい目。血管が浮き上がるくらい白い肌。細い首すじ。見たことのないメーカーの文房具を使うきゃしゃな手。
 きみが初めて学校に来て、自己紹介をした日の休み時間。
 あのことを言い出さなければあるいは、すべては違っていたのかもしれない。

「ぼくは、飛べるんだ」

 誕生日はいつ、好きな食べ物はなに、新しく住む家はどこ。
 あふれかえる他愛ない質問の中にこっそり紛れこんだ、残酷な「得意なことはなに」の問い。
 得意だなんて、世界で一番上手なわけはないと分かっているのに、好きなだけとか周りよりほんの少し上手いだけだっていうのに、ぼくらは自分の得意なものがすぐに言えないと後ろめたくなってしまう。
 きみは生真面目に一つ一つの質問に答えて最後に満面の笑みで皆を見渡し、そう言ったのだった。
「飛べる? 鳥みたいに、空をってこと?」
「うーん。鳥とは少し違うんだけどね。ぼく、前いたとこでは一番飛び方が上手だって褒められたの。だからこの町でも、みんなと一緒に飛びたいんだ」
「なに言ってるの。人間は空を飛べないよ。当たり前だろ? そんなの夢とか物語の中だけじゃん」
「……え?」
 そこできみはにこにこ顔を引っ込めて、とまどったように目を丸くした。
 周りに集まっていたクラスメイトたちも、そんな表情に困ってしまったみたいだ。中には露骨に眉をひそめて、その場から離れていく人もいた。
 分かってるんだ。願いごとを神様あての手紙に書きつづっても、ヒーローになりたくていくらその真似をしても、結局、叶う願いには限界があるってことを。そうじゃなかったら願いごとは成立しない。実現できることだったら、顔も知らないやつに願いやしない。もう少しだけ夢を見ていたくて、あるいはおとなが喜ぶような夢を仕立て上げたくて。ぼくらは、うつろに願望を口にする。
 空を飛ぶことは、そんな望みの一つだと。
 ぼくたちはそう思い込んでいた。
「みんなは飛べないの?」
 きみはしんそこ不思議そうに首を傾げる。
「この町の人たちは、もしかして誰も飛べないの?」
「なに変なこと言ってるんだよ。……気持ち悪いやつ」
 そうして、転校生のきみの周りからはだんだん人が離れていった。
 こうしてきみは、ひとりぼっちになった。
 ぼくはその様子を、遠くから眺めていた。

「――と、最先端技術を集結させた乗り物がこの、新型のエアロビークルです。皆さんも見学にいらっしゃったことがおありとのことでしたが、ここから少し先の東の丘にあります、モトラド工場に併設された試験場では――」
 今日の二限は地域学習の時間だってことをすっかり忘れていた。
講師の先生は、学校からも見える大きなモトラド工場の女性社員さん。白いシャツにグリーンのベストとそろいのボトムは、学校の中だと浮いて見える。胸元に光るバッジはモトラドの車輪と鳥の羽を組み合わせた、ぼくらにとっておなじみの工場のシンボルだ。
 どうしておなじみなのかというと、ぼくらの町はこの工場ありきの町だからだ。
 こんな田舎が医療特区と呼ばれる高度な医療システムを備えた地区として認定されているのも工場のおかげだと、父さんが前に教えてくれたことがある。
大衆向け軽車両、通称モトラドのほかにも、エアロビークルという今までにない機械を作っているからこそ、どんな事故やケガにも対応できる仕組みが必要なのだそうだ。実験をしていて万が一、ってこともあるからだろう。
ぼくの父さんも母さんもモトラド工場で働いている。部品を作ったり、他の会社と常に連絡を取り合ったり、商品を買ってもらえるようにウリコミをしたり。同じ工場にいてもやっている仕事は全然違うらしい。二人が言うには、ぼくがもっと小さかったときに連れられて工場見学をしたことがあるらしい。そんな話をされても、覚えていないものは覚えていない。一つ違いの妹、ユリクトはずるいとむくれていたけど。何がずるいのか、正直よくわからなかった。
「――おい、エギナル!」
 斜め後ろから声が飛んできて、いじっていたペンシルから目を上げる。
 講師の人が困ったように微笑んで(もしかしたら怒りをこらえているのかもしれない)ぼくの方をじっと見ていた。
「質問があったらどうぞ、だってよ。ぼーっとしてたから」
 親切に教えてくれた友達―こいつの父親も工場で働いている―に目でお礼をして立ち上がる。ろくに話も聞いていなかったから、質問なんて一つも思い浮かばなかった。
「……っと、エアロビークルの具体的な利点? って、何ですか?」
 それを聞いた講師は「先程もお話しましたが」とほほえんだまま続ける。聞いていなかったのが丸分かりで、ちょっと気まずい。
「現在開発中の機体は、従来型とは異なり人間を運ぶためのモデルになっています。これまでは荷物を運ぶための車両として制作されていましたからね。プレーンやシップスと比較して生産コストを抑えられるので大量生産が可能ですし、高度な人工知能を搭載した制御装置、ディレクタによって運転状況を継続的に監視するシステムも完備しています。ですので、大事故を防止することができるというのも大きなメリットの一つですね」
「あ、ありがとうございます。ちゃんと聞いていなくて、すいませんでした」
 講師はいいえ、と言い、反対にぼくに質問してきた。担任が「あいつに質問してやってください、話、聞いてなかったんですから」と言うのが聞こえた。こういうときだけ気が利くから困る。
「ほかに、エアロビークルでどんなことができると思ますか?」
 なんでもいいからと付け加えて、講師は「皆さんで考えてみてくださいね。所長にもお伝えしますので」と声を張った。
 なんでも、って。この人はぼくらをいくつだと思ってるんだ。中等科に初等科と同じような質問をするのかよ、と心の中で舌打ちした。
「どうかな。思いついた?」
「……人間が、空を飛べる」
「ええ?」
「空想の話じゃないでしょう。人間を運べる機械が開発できるのなら、近い将来人間が飛ぶための機械だって――」
クラス中が急にしんとした。
 しかめ面に仁王立ちだった担任も口を真一文字に結び、更にシワの寄った顔を作る。
 そうだ。空を飛ぶ、が禁句みたいになってたんだっけ。
 転校生に対するあからさまな無視が始まってからだいぶ経つ。
ぼくは面倒ごとに関わりたくなかったから、最初から自分から話しかけたりはしてなかったけど、その子はぼくの隣の席なのだ。給食や移動教室のときは会話せざるをえない。そっと盗み見た転校生の表情は、薄いカフェオレ色の髪に隠れて見えなかった。
 静まり返ったクラスに音が戻る。たいしてきれいでもない教室の床に、誰かがペンシルを床に落としたようだ。
「あの、プレーンを最初に作った人もそうだったと思うんですけど、空を飛びたいっていうのは多くの人が考えるんじゃないですか。鳥みたく空を飛んでみたいって。そういう素朴? な感じで。何かの役に立つとかじゃなくて。プレーン……ええと、大型輸送機だと、自由に飛び回っている気分にはなれない。でもエアロビークルはもっと、飛んでる気分になれると思う……ん、ですけど」
「……なるほどね。面白い考え方ですね、ありがとう。確かにモトラドを元にしているエアロビークルであれば、そういうことも考えられますね。将来はサイクルのように手軽な乗り物になれば、と私達も考えております」
 講師の人は一人で満足げに頷いて、他にも質問がないか尋ね始めた。ぼくがじつに微妙なことを言ってしまったので、担任は当たり障りのない質問をしそうな人を選び始めたようだ。ううん、話はしっかり聞いておかないとな。場の雰囲気が自分のせいで悪くなるのは、気分が良くない。
 最後に、成績優秀な委員長やさっきぼくに耳打ちしてくれたハイリたちが質問し終わり、ちょうど鐘が鳴った。
 隣を見ればきみは窓の外、空を眺めていた。ぼくの見た限りでは、きみはつまらない授業のときは決まって空を見ている。何が楽しいのか不思議に思っていたけれど、やっと分かった気がした。きみは、空が飛べると本当に信じているんだ。
 その姿に少しだけいらついて、同時にほんの少し尊敬したくなった。転校してきてもまだこの時期なら、もう一度皆の輪に入ることもできるだろう。あの発言を撤回もできるはずだ。だけどきみは脇目もふらずにひたすらに空が飛べると信じている。その姿はどこか、とうとい。
「では講話はこれで終了とさせていただきます。皆さん、機会がありましたら、ぜひ工場の見学にいらしてくださいね」
 つまり、親の職場を見に来いって?
 それこそ初等科の宿題みたいな話だった。


 授業の余韻は中休みになってもまだ教室中にひしめいていた。
 自由自在に空を飛べる大型貨物機。空に引かれたライン上をステアホイールの操作なしに走り回る自動車。陸も空も、気軽にあちこちを走り回れる高アシスト機能搭載の軽小型車。何が一番すごい乗り物か、自分がおとなになったらどんなものを運転してみたいか。
 でもぼくらはなんとなく、それらを自分たちが使う日は来ないような予感がしている。「あんな高いもの、都市の人たちにしか買えない」なんてことばをおとなたちから聞いたのは一度や二度じゃない。
デジタルでもアナログでも、広告媒体で見る値段はどれもゼロが多すぎて数えられない。いや、数えられることは数えられるんだけど。情報を手に入れること自体は自由で簡単なのに、ウェブサービスなしでソリッドの商品が実際に手に入ることは滅多にありえない。
 この町は医療特区として、ほかの地方よりずっと優遇されていると社会科で習った。たぶん、医療体制が整っているだけじゃなくて、教育制度とか経済的なこととか、様々な面で。それでも、だ。田舎は田舎に変わりはない。情報化の自由なんてものは、きっとことばの上だけだ。
「しっかしさあ、エギナル」
 と、話しかける声がした。取りたてて仲がいいわけでもないグループのやつらが数人、ぼくの席にやって来る。こいつらはいつもニヤニヤと笑ってばかりで何を考えているんだかさっぱり分からないから正直苦手だ。でも、それは向こうにしたって同じことだろう。ぼくみたいなタイプの人間と馬が合うわけがない。
「お前よくあんな質問ができたよなぁ。いくら話聞いてなかったっつっても、なんか他にあったんじゃねーの?」
「転校生がまた居心地の悪い目にあうじゃん」
 やつらのうちで一番背の高いやつがきみの方を向く。
 きみは伏せた目でちろりとぼくを見て、「へいきだよ」と言った。
「はぁ? 平気じゃねーだろ、文句あるならちゃんと言った方がいいと思うなぁ?」
「でないと、エギナルにまたいじめられんぞ」
 馬鹿丸出しの喋り方にぼくは怒るより呆れてしまって、でも言い返そうと椅子から腰を浮かす。転校生も転校生だ。みんなが無視を続けているのをいいことに事あるごとに絡んでくるこいつらに構うことなんてないのに、律儀に反応を返すから、こういうことになるんだ。
 そりゃあ、ぼくにもきっかけを作った自覚はあるけれど。
 すると、隣でひっそりと成り行きを見ていたらしいハイリの日焼けした浅黒い手が伸びてきて、ぼくの体を無言でおさえつけた。
「あのさ。エギナルの質問はすっげえビミョーだったよ。でも、お前らも同じだ」
 ハイリはバスケに野球、水泳に陸上とあらゆるスポーツが得意で、体も声も(おまけに態度も)大きい。そしてケンカも強い。
「そういうのカッコ悪くね? 単純に」
「なっ、なんでお前が出しゃばんだよ。おれらはエギナルに」
「オレは出しゃばってるつもりはないんだけど」
「ちっ……うるせえなぁ」
 やつらは言い捨てて、ぞろぞろとぼくの席から離れていく。
 謝るとハイリは「落ち着けよ」と目を細めてにんまりする。
「お前、ケンカ弱いくせに突っかかってくんだもんな。あいつらすぐに手が出るの知ってるだろ?」
「わ、悪かったって」
「へっ。もっと感謝してくれたっていいんだぜ」
スポーツ万能なのを抜きにしても腕っぷしの強いハイリ。優等生なのになぜ「そう」なのかというと、本人いわく「兄貴も弟もめちゃくちゃだから」だ、そうだ。
「あ、そういえばよー」
 教卓を乱暴に殴りつける音とともに、わざとらしく張り上げた声の主はさっきのやつらだった。教室を出ていこうとする直前、偶然思い出した風を装った顔でこっちを向く。その視線が捉えているのはハイリでも転校生でもなく、ぼくだった。やっぱりあいつらには弱い者いじめがお似合いだ。いや、ぼくが弱いと認めたわけじゃない、断じて。
「転校生の親父って、東の丘の工場の所長なんだってな。親子で空を飛ぶとか言っちゃってんの!」
「妄想やばいな。普通じゃねー!」
「まぁそんなの分かりきってたけどよ!」
 ぎゃははは、という笑い声だけが教室に残る。残されたクラスメイトは皆、ぽかんとした顔でこっちに顔を向けた。
 ハイリは肩をすくめて、その視線を全身で受ける――たぶん、転校生に刺さるのを防ぐために。転校生が小さく呼びかけたのもたぶん聞こえていない。こいつは、そういうやつなんだ。
「あー、ごめんな? 大丈夫か?」
 にっぱり笑ったハイリは転校生に声をかける。頷いた転校生は「ごめんね」と、これまで聞いた中では一番大きな声で答えた。
「は、ハイリくんに迷惑かけちゃって」
「いいのいいの、ああいうのはすぐに調子に乗るタイプだから。俺はなーんも気にしてないし」
 そう? を眉を下げた転校生に「そうだよ」と返したのは一部始終を見ていた委員長だ。やつらの暴言に飛び出しそうになっていたのを、周りから止められていたのがさっき見えた。
「また変なこと言われたら教えてね、何とかするから。絶対よ」
「う、うん」
「注意して、駄目だったら先生に相談して、それも駄目だったら親御さんにも伝えてもらって……」
「ちょっとちょっと、目が怖いよ、委員長」
「だってそうでしょ」
 と委員長は黒のセミロングを揺らして反論する。
「あたしが言ったって聞いてくれないんだもん。もう何回も言ってるのに。ハイリが一発くらい殴ってやったほうが効果あるよ」
「殴って、って。それが委員長の言うことかよ!」
「拳で語りあえば意外と分かってくれるかもしれないでしょ?」
「ないない。委員長、マンガの読みすぎ!」
 あちこちでやわらかく笑いが漏れて、緊張がふっと和らぐ。
 皆がきみを無視するのも、きみのことがよく分からないからなかなか話せないのであって。そしてきみも、硬い空気を自分から崩せるほど自己主張が激しくはなくて。なんとなく出来上がった空気を変えるのは、実はものすごく難しくて。クラスの大半は基本的に、きみのことを嫌ってはいないのだ。―例外はまぁ、あるにせよ。
 だってきみは、転校前とは範囲も進度も違うテストで高得点を取ってしまうくらい頭が良くて、運動は見た目通りできなさそうだったけど、そんなうわべだけのあれこれを取り去っても、どこか他人を惹きつけてやまない魅力があった。
 ハイリはそのまま、ボールと三角コーンを持った何人かと連れ立って校庭へと飛び出していった。サッカーでもするんだろうか。クラスのほとんどが教室以外の場所で過ごしているのか、教室にはぼくと転校生と、ほかの数人しか残っていない。夏休みが待ち遠しくなるこの暑い中、外に出ようと思えるのが信じられない。
 ぼくは外に出る気にはならなかったので、本の続きを読もうと自分の席に座る。
きみはぼくとドアとのあいだで視線を何度も行き来させている。皆のあとを追いたいのに戸惑っている、という風ではなかった。周りに合わせて外に行くのが当たり前だから行かなきゃとは思っているけど、本当は行きたくないからぼくが残っているのを口実に自分も残ろうか、と考えている感じ。
とうとうぼくと目が合うと、困ったような笑い方で、
「行かないの? 今日、晴れてるし」
「これは暑いって言わない?」
「あはは。それもそうだね」
「……」
 最初の自己紹介からだ。きみの笑い方には特徴がある。笑っているのに楽しくなさそうなのだ。
それどころか、困っているようにさえ見える。他にどんな表情を浮かべればいいのか分からないから、とりあえず笑っているみたいに。
 同じ言葉をそっくりそのまま返してやろうかとも思ったけど、それじゃあんまり意地悪だ。冗談のつもりで言ったのを本気にされても困るし、さっき嫌な思いをしたばかりだろうし。
「遊べる体調じゃない。そっちは?」
「ん、……えっと、ね」
 どうしようか。
 例の笑いに声を混ぜてきみは言う。
「行きたくないなら、行かなきゃいいよ」
 嫌々遊んだって楽しくないよ、と付け加える。きみも、きっと相手も、とは心の中にとどめて。
「……何かすることないの?」
 じっ、と注がれる視線に耐えられずに提案してみた。きみは、驚いたような、うろたえたような顔をする。新鮮な顔だ。
「でもぼくの席きみの隣だし、ここにいたら読書のジャマかな、って、ええっとー、ううん……」
 いいのかな。
 呟いて、きみはそれからもモゾモゾと尻を動かしてみたり教室の掲示板を眺めたりしていたけれど、いつものように空を眺めることにしたみたいだった。
 今日は文字通り雲ひとつない空だ。毎日この時間に聞こえてくるプレーンの音に加えて、校庭ではしゃぐ声もする。
「……吐きダコ?」
 ぼくは思わずきみに目を向けた。無意識にもう片方の手で、右手の甲を隠す。きみはあ、まずい、という顔で、それでもぼくの指に注目したままだった。
 医療特区のとされているだけあって、この町では、美容のためではなくて健康のためであれば、症状に合わせて効き目も絶大なピルやクリームが簡単に手に入る。でも「これ」は治せない。当然と言えば当然だ。吐くのをやめない限り消えない傷。絆創膏を貼るの、忘れてたんだ。
 ペットにかまれたとかで誤魔化せたのに、なぜかぼくはとっさにウソをつけなかった。
 小さい頃からの友達ならともかく、転校生のきみに言われるとは思わなかった。これが吐きダコだと分かる人もそういないだろうし、きみが踏み込んだことを聞いてはこない気がしていたから。
「体調悪いって、それのこと?」
「まぁ。ごめん、気持ち悪いだろうけど、見なかったことにしてくれると」
「気持ちわるくないよ。ぼくの母さまもそうだったから」
「そう、なん、だ」
 だった、と過去形にした意味。
 その響きに言い表せない嫌な感じがして、ぼくは黙ってしまう。
「給食も、少ししかもらってなかったね」
 そういえば、なんて、軽い言葉を付け足してきみは言う。
「……食えない量もらっても、しょうがないから」
 校医さんが言うには、粘膜を強くする薬のおかげで声は普通に出せるものの、ぼくの消化管は口から胃腸まで、あちこちがとんでもないことになりかけているらしい。歯もそうだ。
 だけど何度医者にかかっても、理由ははっきりしない。本当なら入院して精密検査を受けるべきだそうだ。それを強く勧めないのは、校医さんが町立の総合病院をあまり良く思ってないからだろうか。
 ただの風邪なのに四種類や五種類もの薬を渡される。軽い捻挫の治療に一ヶ月以上かかる。ちょっと貧血気味だと診断されれば、お腹いっぱいになるほどのサプリメントを摂らないといけない。そんな話があちこちにあふれている。
 最新医療を受けられることを特区外にもアピールしているのを抜きにしても、やっぱりおかしい。
 変わってしまったのはいつからなのか。おとなに聞いても知っている人はいない。気付いたらこうだった、の一点張りだ。
「……あの、きみも飛べないんだよね。空」
「空? ぼくが?」
 唐突に言われて少し戸惑う。でもきみにとっては唐突じゃなかったのだろう。きみは授業中でも、窓から見える鳥を目で追っている。隣の席のぼくにはその様子が必ず目に入る。
 正直、あの自己紹介も半分くらいは冗談だろうと思っていた。そう、キャラ付けみたいなもの。キャラが他の誰かとかぶらないように、そういう振りをしているのかと思っていた。
 でも今ぼくを見つめるきみの目つきは、明らかに本気だった。
「残念だけど飛べないよ。他の人もそうじゃないのか。仮に飛ぶ人がいたら、あっという間に噂が広まってるだろうし。小さい町だから」
「ん。そっ、か」
「……きみが前いたところって」
「港街……ここから遠いとこ。すごくきれいな海が見えるんだ」
「へえ。本物の海は見たことないな」
「あのね、すごいよ空と同じ色のね、真っ青な海。大きいんだとっても。魚もたくさんいるし」
「あ、きみ、泳げるんだ?」
 今週の体育はずっと見学していたけど。
「あはは、ぜんっぜん! すぐに沈んじゃうの。どうしてかな、空と海とじゃ違うのかなあ。空の上だとあんなにさ……あっ、こっちに来たからには山にも詳しくなりたいよね。山に囲まれてるんなら、魚はいなくても、鳥や昆虫はいるもんね」
「虫? このへんも、大体がレプリカらしいけど」
「そうなの? そっか、ちょっと残念だなぁ。でっでもさ、一匹もいない、なんてことはないよきっと! 本物の昆虫、見てみたいんだぁ……探したい。標本とかじゃないの、生きてるの」
「ぼくもあまり見たことないな。その、見て楽しげなのは」
「え? なぁんだ、そんならきみに案内は頼めないね」
「そもそも外は好きじゃない」
「見た目で分かるよ」
「お前……ズバズバ言うんじゃん……」
 さっき、ハイリが庇う必要はなかったんじゃないのか。
 ぼくがからかうみたいに言うと、きみは一気に表情を曇らせて唇をかんだ。
迷惑だったよね、と言う表情も珍しくはあったけど、できればそんな顔はあんまり、見たくなかったと思う。余計なことをした。
「ごめん。おしゃべりしすぎたね」
「別に……皆ともそのくらい話せばいいんじゃない。自分から話しかけるとかさ。雑談っていうか」
「それは……緊張するから……」
「ぼくはいいのかよ」
 一体何が違うんだろう? ぼくなんかより性格のいいやつも面倒見のいいやつもノリが良いやつもいるのに。
「なんでだろ。エギナルくん、いろいろ話しかけてくれるからかなぁ」
 いやいや、事務的な連絡がほとんどだし、隣の席なのに全然会話をしないのも気まずいじゃないか。
 と口に出すかわりに、「ふうん」とあいまいな相づちを返す。
「それにね、エギナルくんの声は優しいから」
「声? って、どういうこと」
「えーとね、優しい……」
「初めて言われる……あ、君付けしなくていいよ。皆そうしてるから」
「ほんとに?」
 きみはなぜか、恐る恐るの顔になる。
「良いって。あ、でも、強制じゃないぞ」
「……そうする。ありがとうね、エギナル」
「うん」
 きみははにかむ。同い年の、同級生の顔で。
 そうか、きみは、おかしなことばかり言う変な奴じゃないんだ、とぼくは思った。ぼくらにはぼくらの世界とルールがあるように、きみにはきみの世界とルールがあるんじゃないだろうか。それに気付けないで、知ろうとしないと、お互いがお互いに分からないままなんだ。
 知りたいと思った。きみの知っている、見ている世界はどんな世界なのか。ぼくのものとはどんな風に違うのか。
「……あのさ。ぼくは空、飛べないけどさ。興味がなくはないよ」
「――飛ぶことに?」
「と、いうか、飛んで見える景色……が、一度で良いから体験してみたいかな、って、思わなくもないというか。うん、見てみたい」
 ぼくは、このときのきみの表情を、いつまでも覚えているだろう。
 どんなに精巧な造花よりも計算ずくの夜景よりもはなやかで明るい笑で、きみは言った。
「じゃあ見せたげる。
ぼくが見せたげるよ、飛べる世界!」

bye bye, peter

つづき→
https://slib.net/113496

bye bye, peter

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • SF
  • 青年向け
更新日
登録日
2022-08-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1
  2. 2