選ばれざる英雄の前日譚


 イズリが家の内を覗き込むと、幼馴染のポトが、炉に火をくべているのが見えた。くしゃくしゃの髪、つぶらな瞳、愛嬌のある低い鼻、よく見知ったその少年は、静かに一人、食事の支度をしていた。
「ポト。お母さんから、夕飯もらってきたよ。一緒に食べよ」
 イズリはそうポトに声をかけながら、返事も待たずに、勝手に家に上がり込んだ。家といっても、穴を掘って柱を立てて、骨組みを作り、その上に藁をかぶせただけの簡素な家である。今時こんな貧相な家に住んでいるのは、この里ではポトくらいだった。
「ああ、イズリ。いつも、ありがとう。でも、俺に気なんて遣わなくていいんだよ」ポトは申し訳なさそうに言った。
「何言ってんのよ。きっとポトはもうすぐ私の家族になるんだから。あと少しで、お父さんを説得できると思う。だから、もうちょっと、待っていてね」
イズリの言葉に、ポトは何か言いたげな顔をしたが、途中で言うのを諦めて、炉の鍋にイズリが持ってきた大きな椀の中身を移し替えた。
 しばらくすると、鍋から湯気が立ち上り、きのこと山菜の良い香りが室内に立ち込めた。
 ポトは、自身で食べるつもりで焼いてあった川魚を二つに分け、お頭側をイズリの、尻尾側を自分の葉皿に乗せた。そして、鍋の中身を二つの小さな木の器に取り分けて、手際良く支度を整えた。
 二人はまだ熱い山菜汁に息を吹きかけては冷まし、次々と頬張った。
「さすが、イズリの母さんだね。とっても美味しいや」ポトが顔を綻ばせて言った。
「ううん、それが違うの。今日はイズル姉が作ったんだよ」イズリはにやりと笑って答えた。
「え、イズル姉が。また珍しい」
「いよいよ、嫁入りが決まったんだってさ。お母さんに手料理叩き込まれてるんだ」
「それは、めでたいね」ポトは手を叩いて喜んでくれた。
 イズリもにっこりして、礼を述べた。
「イズル姉は、いくつだっけ」
「十六だよ」イズリは言った。
「もう、そんなにか。まだ俺たちより子どもっぽい気がするけどな、もうそんな歳か」ポトは可笑しそうにくくっと笑った。
「私たちだって、秋にはテルヤだよ。もう子どもじゃない」
 テルヤとは、その年に成人する者たちのための里の祭儀で、男は身体に墨を入れ、女は八日間テイダと呼ばれる小屋に籠ることで、正式に里の一員として迎えられる。
 ふと思い出したように、ポトが言った。
「テルヤが終われば、俺だって、みんなと狩りに行ける。そしたら、一人でだって生きていける。だから、イズリ、俺のことなんか心配しなくていいんだよ」
 イズリは、思わず、ポトから目を逸らした。
 おそらく、ポトは狩にはいけない。
 ついこの前の冬、ポトの一家を乗せた馬車が崖から転落した。ポトだけが救い出されたが、そのポトも、足に怪我を負ってしまった。狩りについて行くことは難しいだろう。
 ポトだって、それがわからないはずはなかった。
「ポト。うちにおいでよ。うちに来たって贅沢な暮らしはできないけど、こんなところで一人で暮らすなんて、寂しすぎるよ」
 ポトは力なく笑った。
「ありがとう。その言葉だけで、俺は充分さ。でも、そうなることはないんだよ」
「大丈夫。私が説得してみせるから。安心して。ね、あと少しだから」
 ポトは首を振った。頑なであった。
 しばし気まずい沈黙が続いた後に、イズリは言った。
「ねえ、何で駄目なの」
「もう、大人だからね」
「まだ十四だよ」
「俺は充分に大人だよ。少なくとも、みんなが思っているよりはね」
「みんながまだポトを子どもだと思っているなら、絶対に迎え入れてくれる家があるはずだよ」
「いや、ないね。俺は大人だから知っているんだ」
「あんたも、たかが十四の子どもでしょ」
 瞬間、ポトは顔を真っ赤にして、けれども、開きかかった口をつぐもうとした。しかし、結局堪えきれなくなって、堰が切れたように、立ち上がって叫び出した。
「なんで、俺が受け入れられないかだって。それは、俺の家族が里を裏切ったからだ。馬車が転落? 違う。みんなで貯めた風車を作るための金を持って、夜逃げしたんだ。俺は、あの日、何が何だかわからないまま馬車に乗せられた。途中で、里を出たことに気がついて、戻りたいって暴れたんだ。暴れた時に、俺は馬車から落ちた。でも、馬車は止まってくれなかった。きっと後ろから、里の追手が近づいてきていたからだ。俺は落ちた時に頭をぶつけて、気づいたら長老の家で寝ていた。長老は、俺が何も覚えていないと思って、ただ、馬車が転落したって俺に言った。なんで、あんな時間に馬車を走らせる必要があるんだ。俺が聞いたら、長老は、森にでも呼ばれたんだろうって。誰が、そんな迷信、信じるっていうんだ。そしたら、次の日、会合が開かれていて、盗み聞きしたら、風車の金について話し合っていたよ。馬鹿だって、わかる。俺の家族が何をしたか。里の者だって、俺に非は無いってわかってる。けれども、俺がここで受け入れられるはずはないんだよ」
 イズリはただ呆然とその話を聞いていた。勝手に涙が溢れてきたが、声は出なかった。
 ポトはしばらく荒い息のまま、座り込み、まだ火の燻る炉を睨んでいたが、やがて、悔しそうに言った。
「イズリ、急に声を荒げたりして、ごめんな」
イズリは何も言えず、かぶりを振った。
 ここ数週間、ポトを家に迎えたいと言った時の父母の様子を思い出していた。イズリがお願いすると、父も母も何とも言えない切ない顔で首を振るのだった。元来、父も母もポトのことは、自分の息子のように可愛がっていた。だから、そんな顔をするのは変だと思っていたのだ。
理由があった。
 父も母もポトに何の非もないことくらいわかっている。しかし、里の者の目を考えると、家に呼ぶことは難しいだろうし、そもそも父や母だって、ポトを見ているだけできっと悔しい気持ちになるだろう。
 風車を建てるという目標は、里の大きな希望だったのだ。ようやく建設費が集まったところだった。それが無になった。
「イズリ、そんな顔するなって。俺はイズリが思っているほど、落ち込んじゃいないさ」ポトは妙に元気になって、イズリの肩を叩いた。
 イズリはポトの顔を見つめた。見慣れた優しい顔を見ると、余計に悲しくなって、ぽろぽろ涙が落ちた。
 ポトは笑顔を作って見せて「こんな話をして、悪かった」と言った。
「ちょっと、風に当たってくる」イズリはポトから顔を背けて言った。
「それなら、一緒に散歩しよう」そう言って、ポトもイズリについてきた。


 初夏の夜はまだまだ涼しく、歩くのに丁度良かった。しかも今日は雲一つない満月で、二人は月明かりに照らされた川の少し離れたところを、その川の形に沿って歩いた。沢の音が耳に心地良かった。
 しかし二人は川には近づき過ぎないようにした。夜の川には近づくなと言われて育った。夜の川には物の怪が集まってくるので、下手に近づくと、あちらの世界に引っ張られてしまうというのだ。
 ポトは足に怪我があるので、あまり速くは歩けない。踏み固められて草が生えなくなった小道を二人でのんびりと歩いた。
 イズリは時々ポトの様子が気になって、横目で眺め見た。いつものように穏やかな表情をしている彼に、安心もしたし、本当は強がっているのではと心配もした。
 ふと、イズリはポトの背が伸びたことに気がついた。ついこの間までは、私の方が高かったのに。ここ二年ほどは、イズリの方が背が高かった。ところが、冬のあたりから急にポトも伸び始め、今や、目線は同じところにあった。抜かされるのも時間の問題だろう。
 そんなことを考えていると、ある時、急にポトが立ち止まって、イズリの袖を引っ張った。
「イズリ、あれ」ポトが指差した先は川の丁度真上の辺りで、いくつもの緑色の光がちらちらと瞬いていた。
「もしかして、ルルーホ(尻が光る虫の舞)?」イズリが呟くと、ポトは小さく頷いた。
「もう、そんな時期か。どうしよう? 歌う?」
「そうだね、歌おう」
 ルルーホは里の良き死者の魂が、この世に帰ってきた時の姿だと言われている。だから、ルルーホを見た時は、夜でも川に近づいて、感謝の歌を贈らなければならない。
 イズリもポトもそれほど信心深い質ではないが、そうは言ってもそれが習いなら従うし、何よりルルーホは美しかったので、二人は草むらを掻き分け、岩場に手をかけ、川辺に降りて行った。
「うわぁ、きれい」川辺に出てすぐ、思わず感嘆の声が漏れた。無数の柔らかい緑の光が、あちこちで瞬いている。川原の草に、空に、奥の森に、と決して数えることのできないたくさんの光が、ここに集う命の数を表していた。二人は歌うことも忘れて、しばらくその光景を眺めていた。
「歌わなきゃ」少し経ってからイズリは呟いた。ポトも我に返って頷いた。
―ルールールーホールールー……―
 目を薄ら瞑り、二人は各々慣し通りに一息で感謝の歌を歌い切った。
 イズリは目を開き、そっとポトの横顔を見つめた。ポトはぼんやりとした顔で眼前の川の流れを見るともなしに眺めていた。
 ポトは今何を考えているのだろうか。イズリに真実を打ち明けたことは、ポトにとって良いことだったのか。打ち明けて多少でも気が楽になったのなら、それで良い。しかし、余計に辛い思いをさせていたら。しかも、打ち明けてくれても私にできることなど、何もない。
 ポトの歩まねばならない道が険し過ぎて、イズリは切なくなった。
 ふと、ポトが大きく目を見開いた。見開いて、前を向いたまま、イズリの衣の袖を掴み、引っ張った。
「ね、聞こえるよ! 聞こえるだろ」ポトが興奮した声で囁いた。
「何が?」イズリは耳を澄ましたが、川のせせらぎ以外は何も聞こえない。
「そんなはずない。俺にはしっかり届いているもの。ほら、聞こえないのか」
「聞こえないよ」見えない何かに歯を出して笑うポトの様子は明らかにおかしかった。ポトの豹変にイズリの背筋が冷えた。
「ねぇ、何が聞こえるっていうの」イズリはポトの肩を掴んで揺さぶったが、ポトはイズリの方をちらりとも見なかった。
「聞こえる。本当に聞こえるんだ。ほら、まただ。……森が呼んでるんだ!」遂にポトは叫んだ。
「行こう」不意にポトは川の中に足を踏み入れて、そのまま向こう岸に向かって進みはじめた。イズリは慌てて腕を掴んだが、ポトの力は強く、イズリの制止に意味はなかった。イズリは、怖くてたまらず、ポトを追いかけ一緒に川に入った。
 この辺りは深いところでも膝までの水かさしかなく、流れも決して激しくはないので、明るければ恐れるような場所ではない。けれどもこの月明かりしかない夜に、水藻の生えた岩場を、足を滑らせぬように気をつけながら進むのは簡単ではない。足の怪我にも構わず、何の躊躇いもなく目の前の森に向かって進み続けるポトの様子は、明らかに異様だった。
「ポト、ねえ、ポト」イズリは何度もポトを呼んだが、ポトはそれが聞こえているのか、森が呼んでいると繰り返すばかりであった。
 二人はあっという間に川を渡りきった。川を渡りきったところで、イズリはいよいよポトをしっかりと掴んで前に立ち塞がった。
「ポト! しっかりしな」大声で叫ぶと、ポトはようやくイズリに気がついた顔をして、イズリを見つめた。そして、大きく深呼吸して、再び口を開いた。
「イズリ、でも、本当に森が呼んでいるんだ。俺は行かなくちゃ。父さんや母さんも、本当に森に呼ばれただけかもしれない。俺が証明しないで、誰が証明するんだ」そう言って、またイズリを押し除け、目の前の森に向かって進み始めた。
 イズリはもう何も言えなかった。状況から察するに、ポトの家族が持ち逃げをしたのは、おそらく真実だった。けれども、それを信じたくないポトの気持ちも痛いほどわかった。
 イズリは引き留めることもできず、ただただポトの手首を掴んで、その後を追って森に入った。 
しかし、イズリはすぐにポトを止めきれなかったことを後悔した。
 この森は里の外にある。一度入ると出てくることはできないから、決して踏み入れてはいけない。里の子なら必ずそう教えられた森だった。
 森に入ると木々で月明かりが遮られ、さっきより一層闇が深くなった。歩いているところは、草も少なく、どうも誰かに踏み固められたような硬さがあったが、ひょっとするとこれは獣道なのかもしれない。遠くで、山犬の遠吠えが聞こえた。
 イズリは、ポトに戻ろうと何度も声をかけたが、ポトは聞く耳を持たなかった。かといって、ポトを置いて自分だけ戻ることなどできないし、そもそもこの暗闇の中、一人で歩いて帰るなんてことも、とんでとない話だった。
 どれだけの間、そうしてポトに付き従っていただろう。かなり長い間、続いたように思う。そして、不意に少し広い一本道に出て、その先に一軒の小屋があるのを見つけた。その小屋の小さな窓から灯りが漏れていたので、すぐに気がついた。
「ポト、家があるよ! 今日はここで休もう。ねえ、明日また森に入ろう。ねえ、ポト」
 ポトがイズリの話を聞いているようには思えなかった。このままでは、小屋の横を通り過ぎてしまうかもしれない。イズリは、とにかく自分一人ではどうにもできないと思って叫んだ。
「ごめんくださーい、ごめんくださーい。どうぞ一晩泊めてください」小屋まではまだ少し距離があったが、静かな森でイズリの声はよく響いた。
 叫んで間もなく、小屋の中から誰か人が出てくるのが見えた。少しずつ近づいていくにしたがって、その姿がはっきりとわかるようになった。小屋の前にいたのは、小柄で、しかし抜け目のない感じのする、老婆であった。
 イズリは瞬間、この老婆に近寄り難いものを感じた。もし、ここに他の人間がいたら、きっとそちらを頼っただろう。しかし、今頼れるのは、あの老婆だけなのだ。
「ごめんくださーい」イズリは叫び続けた。
 いよいよ、イズリたちは小屋の前に辿り着いた。けれどもやはり、ポトは小屋を無視して通り過ぎようとしていた。
 イズリは必死の眼差しで、老婆に訴えかけた。しかし、老婆はイズリを見もしなかった。代わりに、しわの刻まれた険しい顔で、ポトの怪しげな様子を睨んでいた。
 そして、不意にポトに歩み寄ったかと思うと、その肩を片手で掴み、急に表情を和らげて言った。「今日は、この宿で休みなさい」
 途端にポトは目をとろんとさせて、頷いて老婆に誘われるまま、小屋に入っていった。
「あんたもお入りなさい」老婆はちらりとイズリを振り返って言った。
イズリもそれに従った。


 老婆の家は思いの外、心地の良い場所だった。置いてある寝床や炉など生活に必要な物は、どれも簡素なものであったが、この部屋を最も特徴づけているものは、窓と対の壁に設えられた大きな棚であった。棚には多くの酒壺のようなものや無数の本が並べられていた。また、棚には多くの引き出しがついていた。
 部屋には、イズリの知らない匂いが薄らと漂っていたが、決して不快なものではなかった。
 老婆はイズリとポトを木の椅子に座らせると、まず棚の引き出しから何らかの葉を出してきて、それを別々の器に入れて湯を注ぎ、さらにそれを濾したものを湯呑みにいれて二人に差し出した。どうやら、イズリとポト、それぞれ別のものらしい。イズリのものは、赤茶色をしていたし、ポトのものは、イズリのよりずっと青みがかっていた。
「お飲みなさい。危ないものじゃないよ」
 イズリは甘い香りのする液体に恐る恐る口をつけた。香りほどの甘さはなく、口当たりの良い飲み物だった。身体に染み渡る温かさで、一口ずつ飲みすすめるに従って、今まで張り詰めていた緊張が良い具合に抜けていくのを感じた。
 ポトは横でうつらうつらし始めた。
 イズリは、この老婆が一体誰であるのか、もう思い出していた。じっくりと話したことこそなかったが、見たことは何度もある。イズリが知る限り、私たちをどうこうしようというような、悪人ではない。
 老婆は薬草汁を飲んで眠りに落ちつつあるポトを、今、また顔をしかめて、その胸や頭を指でなぞったり軽く叩いたりしながら、何かを調べていた。やがて一通り調べ終わると、眠そうなポトを抱え込むように立たせてそのまま、自身の寝床に寝かしつけた。そして、一つ大きな溜息をついて、机に戻ってきて、ようやくイズリを見た。
「挨拶遅れて、すまんかったね。あたしゃ、呪術師をしているナガルだよ」
 イズリは頷いた。ナガルは、二十日に一度ほど、里へ降りてきて、薬草を売ったり、病の者を見たり、不幸が続く者を占ったりしていた。
「あんたは、イゼラのところの娘だね。実は昔、あんたのことも、この子のことも視たことがあるんだよ」ナガルが自分やポトのことを知っているのは意外であったが、イズリは黙って頷いた。
「こいつをよく私のところに連れてきてくれたね。礼を言うよ」イズリは一体どうして礼を言われたのかわからなかったが、しかしそれをどう尋ねればいいのかわからず、やはりただ黙って頷くことしかできなかった。
 イズリが黙っていることを良いことに、ナガルは一人話し続けた。
「あんたはよい子だねえ。よい子だから、これから言うあたしの話を、聞かなきゃあいけないよ。茶を飲んだばかりなのに、悪いとは思うんだけれどね、ただね、あんたは、今すぐここから帰らなきゃいけないんだよ」そう言ってイズリの太腿に衣の上から、すっと触れた。途端にイズリは何だか歩きたい気持ちになって、そのままナガルに誘われて、入ってきた扉に向かった。家の外は心地良い風が吹いているだろう。木の扉をぐっと押して外に出る。家に帰るんだ。その気持ちがイズリを動かした。
 しかし、扉を閉める時、その一瞬に、床に横たわるポトの姿が目に入った。
「待って!」イズリは急にはっとして叫んだ。
「ナガルさん待って。私帰らない。ポトと一緒じゃないと帰りません」
 ナガルはポトを憐むような目で見た。
「やっぱりあんたは勇気のある子だね。けれども、あんたは帰らなきゃならないんだ」
「どうして、ポトは一緒に帰れないのですか」
「あんたには帰るところがあるからさ。帰るところがあるなら、きちんと帰らなきゃいけないんだよ」
「ポトだって、私の家に帰ればいいんです」
そう言うと、今度こそ、確かに、ナガルは哀れみの目でイズリを見て、首を振った。
「本当にそう思うかい」ナガルの言い方は決して乱暴でなかった。けれども、イズリの心にじんわりと染み込んできて、毒のように指先に痺れを感じさせた。
 イズリだって、わかっている。もう子どもじゃない。親が里を裏切ったというのが、どういうことか、足を怪我したまま里で一人生きていくというのがどういうことか。
 ただ認めたくないのだ。ポトはイズリの大切な友人で、仲間で、ポトを失うことはイズリにとって大きな痛みなのだ。
 でも、もしここでならポトが幸せに暮らせるというのならば、どうだ。いや、本当はそれでも悔しい。ポトのいないこれからなんて、イズリには考えられない。けれども、それはイズリの痛みであって、ポトの痛みではない。
「ナガルさん。ポトをよろしくお願いします」イズリは震える声で言い切った。
「本当に賢い子だねえ」老婆はイズリを優しく抱きしめ、そっと頭を撫でた。
「ナガルさん、ポトとはこれからも会えますか」はっとしてイズリは尋ねた。
 ナガルは少し考えて、イズリにそこで待つように言って家の中に戻っていった。そして、暫くして、何かを握り締めて帰ってきた。ナガルはそれをイズリの掌の上に落とした。イズリの掌には、淡い桜色の石に紐をかけたものが乗っていた。
「ポトが里に行く時は、この石が教えてくれるよ。その日のおやつ時に、ソヨタの川原に来なさい」
 イズリはそれを首にかけ、大切に衣の中に仕舞い込んだ。それを見届けたナガルは、突然急かしてこう言った。
「さあ、おまえさんは、これ以上ここにはいられないよ。あそこに、二つの丸い光が見えるかい。あの光を追いかけて帰れば、家に帰れるよ」確かに森の奥に小さな二つの光る点があった。
「あれは、なんですか」
「それは今知らなくても大丈夫なことだよ」ナガルはそう言って教えてくれなかった。
「さぁ、振り返らずに行きなさい」
 突然二つの光が消えて、いくらもしないうちに遠ざかったところにまた光った。
 イズリは慌ててそれを追いかけ、巨大な闇に向かって駆け出した。


 追いかけているうちに、光はイズリと一定の距離を取っていることがわかった。イズリが近づくと一度光が消え、また少しして先の所で光るといった具合だ。光は、イズリがどれほど走っても、決して近寄らせてくれなかった。
 イズリはただただ光を追いかけた。というよりも、光を追いかけるしかなかった。
 月が低いところに降りてしまったのだろう、森の中は辺り一面真っ暗闇で、ほとんど何も見えなかった。どの方角を向いているかなんて、当然わからない。光のある方向が前だと信じるしかなかった。
 光の進みは、意外と速くて、何度か見失いそうになった。その度に目を凝らして、点の光を探し出した。
 光はイズリが近づくまでは、じっと動かず待ってくれた。イズリは正体が知りたくて、何度も走って追いつこうとした。けれどもそれは無駄なことで、イズリが速く走れば、その分向こうも速く動くだけだった。
 どれほどそうしていただろう。行き道より、ずっと長く感じた。来た時は、ポトと一緒だったし、ポトを引き留めることで必死だった。しかし、今は一人だ。どうしたって恐怖と向き合わなければならなかった。
 怖い。恐ろしい。どうしよう。どうにもできない。
 イズリはただこの時間が終わることだけを祈った。けれども、いつまで経っても森の中だった。やはり、行き道よりは随分長くかかっている……と思う。けれども、本当にそうなのかもわからない。もしかすると、小屋を出てからまだ、それほど時間は経っていないのかもしれない。
 方角も時間も、自分の感覚が丸ごとどこかへ行ってしまったような気がして、気味が悪かった。
「あっ」小さな叫び声を上げて、イズリは転んだ。木の根に足を引っ掛けたらしい。転ぶのもこれで五度目だ。今回こそ完全に膝を擦り剥いた。辺りが暗いので、よく見えないが、きっと身体のあちこちから、血が出ていることだろう。さっき木で擦った左頬も痛い。ぶつけた肘も痛い。
 イズリは、こんなにも転ぶのは、ついつい無駄に駆けてしまうからだとわかっていた。行きは転んだりなんかしなかった。
 しかし、動いていないと怖いのだ。誰かに見られているような気がする。今にも物の怪が飛び出してくる気がする。猪が、山犬が、襲ってくる気がする。一人がこんなにも怖いとは。
 恐怖が頂点に達すると、今度は怒りが沸いてきた。なぜ、私は一人で帰らねばならなかったのか。明日、日が昇ってからで良かったではないか。今頃ポトは小屋の中でぬくぬくと寝ているのだろう。そのことに気がつくと腹が立って仕方がなかった。
 私が追っているあの光だって本当に道を案内しているのか怪しい。やはり、行きより時間がかかっている気がする。もしかすると、森の奥へ奥へと連れ込んで、迷わせるつもりなのかもしれない。
 だとすると、とても危険だ。信じられるのは自分しかいない。あと、少しついて行って、辿り着かないようなら、あの光について行くのは止めよう。
 そう思い始めた矢先に、光が完全に消えた。ふざけるな。イズリは最後に光が消えた辺りに駆け寄ってその場で地団駄踏んだ。が、その時、ふと耳に水の流れる音を聞いた。音のする方に歩いていくと、急に目の前が開けて川と橋が現れた。そして、川の向こうには見慣れた里の影があった。


「真っ暗で、山犬に食べられるかと思って、もう本当に怖かったんだよ」さっきから、何度同じ話をしているのだろうか。しかし、イズリが同じ話をする度に、里の子たちもまた、何度も感嘆の声をあげた。
 イズリは里の子らと共に川釣りに来ていた。昨晩、帰ったのが遅かったので、昼前までは寝ていたが、起きてからは、いつもと同じように、先に家を出ていた家族と合流して、豆の収穫を行い、昼過ぎから里の子たちと川釣りに行くという、普段と変わらぬ一日を送っていた。
 昨晩、何人かの里人は、ぼろぼろになって帰ってきたイズリを見た。イズリが家に帰って来ないという家族の報を受け、里人たちがイズリとポトを探し回ってくれていたのだ。
 イズリは川を渡って直ぐに里人に見つけられた。そして、里人に連れられて、家に帰された。里人たちは何があったか知りたがったが、無理やり聞き出そうとはせず、先に家族の下に連れて行ってくれた。
 イズリはまだ、頭の中を整理できていなかった。色々なことがあった。里人に何があったか尋ねられた時、正直まだ混乱していて、何を答えたら良いのかわからなかった。
 そして、ようやく、家から驚いた表情で出てきた母の姿を見た時、安心したやら、今更恐怖が戻ってきたやらで、人目も気にせず、自分の歳も忘れて、ただ幼子のように泣きじゃくった。そして、それがひとしきり落ち着いた後、何があったか、一つ一つ思い出して、ポツポツと語った。
 おそらく、その様子を見ていた里人はあったのだろう。
 ポトが森に呼ばれ、呪術師ナガルに引き取られたという噂は、次の日の昼には、里全体に広がっていた。
 里の子ども達も、何かがあったことは、察していて、川釣りが始まるや否や、釣りそっちのけで、イズリの話を聞きたがった。
 イズリは変に噂が回るのはごめんだと思ったし、気心知れた仲間たちなので、なるべくそのままに話すようにした。勿論、ポトから聞いたポトの家族の話については、何も触れなかったが、ポトが森に呼ばれたこと、呪術師ナガルの家を訪れたこと、暗い森の中を一人で帰ってきたことなど、具に語って聞かせた。
 里の子たちは、良い聞き役だった。イズリは元々、あまり語りは得意ではなかったし、尾鰭はひれ付けてしまわぬよう、言葉を慎重に選びながら語ったので、かなり辿々しかったに違いない。けれども、里の子たちは、一生懸命耳を傾けてくれたし、時々息を呑んだり、溜息をついたり、イズリから話を引き出すのが上手かった。
「ていうことはなんだい、ポトは本当に森に呼ばれたっていうのかい?」一番年長で兄貴分のマルフが言った。
「そうだと思う。ポトが森が呼んでるって、そう言ってたから」
「森が人を呼ぶなんてそんなの迷信だと思ってたわ」いつでも元気のよいミッチが言った。
「私もそう思っていたよ」
「でも、帰りは、イズリ一人だったんだろ。本当によくあの森の中を一人で帰って来られたね」パルチが心配そうにイズリの擦り傷のある頬を見ながら、言った。
「さっきも言ったけど、光の道標があったから、迷いはしなかったよ。でも、本当のこというと、怖かったよ」
 子どもたちは口々にイズリの勇気を称えた。
 周りの友の感嘆の声を聞くと、本当に怖かったことは事実だけども、なんだが自分が大きな冒険を乗り越えたような気がして、そう悪いことではなかった、なんであれば、素晴らしい経験をしたのではないかという思いさえ生まれている自分に気がついた。
「でも、ポトとはいつ会えるんだろうか。そのうち会えるって、婆さん、言ってたんだろ」
 その声にイズリははっとして、自分の中に出てきた思いを打ち消した。ポトにとっては、きっと何も起こらない方が良かったんだ。冒険して楽しかっただなんて、思ってはいけなかった。
「うん、ナガルさんは、ポトが里に来ることがあるっていうような言い方をしていたけど、はっきりとは……」
 みんなの顔が少し沈んだ。勿論、ポトのことを気にしてのことではあるが、イズリのことを心配しての顔でもあろう。
 イズリにとってポトは特別であった。イズリとポトは、里唯一の同年生まれだった。毎年多くの子が生まれる里であったが、十二年に一度「エノヒの年(危うき年)」は、子が殆ど生まれない。またこの年に生まれた子には災難が降りかかると言われていて、古い謂れを信じる老人などは、エノヒの年の子を忌み嫌ったりする。イズリとポトはこのエノヒの年の子であった。
 エノヒの年の子だからといって、虐めてくるようなやつは殆どいなかったが、とは言え、結婚相手に進んでエノヒの年の子を受け入れたいと思う家はそうあるまい。
 元来仲が良かったこともあって、イズリとポトは誰もが二人で一組のように考えていた。
 イズリ自身は迷信なんて気にしない質だし、エノヒの年の子だろうが、そんなことは関係ないとは思っていたが、唯一の同い年であるポトとは、兄弟のように何かと共に行動することが多く、一緒にいて一番気楽で楽しい存在であった。
 そのポトと会いたい時に会えなくなるのは、辛いことであった。

 その日の釣りの帰り道、みんなと別れたあと、イズリは家に帰るのに、寄合所の裏手を通りかかった。寄合が終わったばかりらしい。
 垣根越しに、縁側に出て寛ぐ男たちの声が聞こえてきた。そのいくつかのざわめきの中に、ふと「やっぱり、エノヒの年の子だな」という声を聞いた。ポトのことなのか、イズリのことなのか、どういう流れで出た言葉なのか、それはわからなかったが、イズリは少し寂しい気持ちになって家に帰った。


 ポトが里を出てから暫く経った。イズリは、次にポトに会ったら、あれを話そう、これを話そうと、そればかりを考えて毎日過ごしていた。少なくとも、一人暗闇の森を帰った話は、絶対に話さなければ、気が済まない。ポトが呑気に寝ている間に、どんな冒険をする羽目になったか。どんな危険を潜り抜けたか。ポトが驚いてイズリの勇気を称え、また微笑みながら頷いてくれる様子がありありと浮かんだ。
 だか、待てどもポトが戻ってくる様子はなかった。ナガルからもらった石にも、なんの変化もなかった。イズリは自分が石の合図を読み誤っているのかもしれないと思い、何度かおやつ時にソヨタの川原に行ってみた。しかし、行ってみたところで、ポトが帰ってくる気配はなかった。
 イズリはポトに会いたかった。いつも一緒だったのに、会えなくなって、寂しかった。心配もした。そうしている間に既に二十日ほど経った。ふと、このまま一生会えないのではないかという考えが頭を掠めて怖くなった。こちらから会いに行こうとも思ったが、里の人は誰もナガルの家がどこにあるのか知らなかった。
 ようやく石にそれらしい変化が現れたのは、三十日以上経ってからのことだった。ある日の朝、突然、懐に微かな熱を感じて、懐から石を取り出してみると、もらった時は桜色だった石が、紅く変化していた。
 イズリは、小躍りしてそれを喜んだ。嬉しくて仕方がない。畑仕事の最中の気もそぞろで、何度か危うく鎌で指を切りそうになったが、気にしなかった。
 昼ご飯を家族と畑で食べた後、まだおやつ時には早かったが、イズリはすぐにソヨタの川原に向かった。
 仕事がなければ、いつもは里の子どもたちと、釣りをしたり相撲をとって遊んだりする時間である。
けれども、待ちきれないイズリは、まだ日が真上にあるのに、一人川原にやってきた。
 ソヨタの川原は、ちょうどあの日、ポトと川を渡った場所である。川が浅瀬になっていて、森に渡りやすい。川釣りはもっと上流だし、洗濯はもっと下流なので、よく来る場所というわけではなかったが、たまに仲間と水遊びに訪れることはあった。
 イズリは真夏の太陽を避けるべく、対岸がよく見える大きな木の下を陣取って座った。対岸には薄黒い森が広がっている。ポトがどこから出てくるかはわからなかったが、あの森がナガルの住む森だった。あの気味の悪い森を今頃一人で歩いているのだろうか。イズリは時々、森を一人で歩くポトの姿を想像して、想像しては、自分が夜に森を駆け抜けた時のことを思い出して、落ち着かない気持ちになった。
 家族にも仲間にもポトが帰ってくるかもしれないということは伝えていない。二人でゆっくりと話したかったというのもある。そして、ポトが本当に帰ってくるのか、自信がなかったというのもあった。
このままポトが帰ってこなかったらどうしよう。待つ時間は不安を膨らませる。
 次第に日が傾き、そろそろおやつ時という頃合になった。イズリはもう立ち上がって、首を伸ばして、森からポトが出てくるのを今か今かと待ちわびた。
 その時、背後から誰かが駆けてくる音がして、イズリが振り向くと同時に、その影が自分に飛び込んできた。
「イズリ!」聴き慣れた声がそう叫び、イズリを強く抱きしめて、背を何度も撫でた。
「ポト!」イズリは顔をあげ、ポトの顔をはっきりと見た。
 そうして二人はしばらく会えた喜びを分かち合っていたが、イズリはふと照れ臭くなって、ポトの腕を解いて言った。「ポト。久しぶり。てっきり、私は森から来るかと思ってたよ」
「さっきまで、師匠について村に薬を売りに行っていたんだ」ポトは言った。師匠というのはナガルのことだろう。
「なんだ、それじゃあ、他の村人には、もう先に会ったっていうこと?」
「そうだよ。イズリがいないかって、ずっときょろきょろしていたら、仕事に集中しろって師匠に怒られたよ」ポトがそう言ってけらけら笑ったのにつられて、イズリも思わず笑った。
「それにしても、随分と待たせてくれたね」イズリは少し怒ってみせながら言った。
「それ。その話だよ。戻ってきただけでも誉めて欲しいんだ」そう言うと、ポトはイズリと離れてからのことを、息急き切って語り始めた。

―本当に大変だったんだよ。もしかしたら、二度とイズリと会えなかったかもしれないんだ。イズリとあの日、森に行ったことは、正直あんまり覚えていなくて、ただ所々ぼんやりと、森が呼んでいたこと、その声に惹かれて森に入ったこと、森が暗かったこと、イズリが戻ろうと声をかけてくれたこと、そんな記憶が途切れ途切れにあるだけなんだ。だから師匠の家に着いた時のこともあまり覚えていなくて。これは師匠から聞いた話なんだけど、イズリが帰った後、俺は高熱を出して三日三晩寝込んだらしいんだ。師匠は俺の周りに結界を張って、俺をそこに閉じ込めたって言っていたよ。俺は俺で変な夢を見た。森の呼び声に従ってどんどんと奥に入っていくと、その向こうにそれはそれは美しい女性が立っていて、俺を呼ぶんだ。たぶん女神様だったんじゃないかって思うよ。そして、俺がそこに行くまで、女神様は待っていてくれたんだ。近づくと一層美しかったよ。今思えば、森に陽の光なんてなかったはずなんだ。でも、女神様は眩かった。きっと光を放っていたんだね。純白の衣の間から見える手足は白く嫋やかで、髪は今まで見たどんな色より深い青色だったよ。長く長く艶やかで、実は俺は、その後別れる前に一度だけその髪を撫でたのだけど、絹よりもずっと滑らかだった。顔……。はっきりとは思い出せないけど、鼻の形はイズリに似ていると思った記憶があるよ。でも、どんな目だったかは、覚えていないなあ。とにかく、俺は女神様としばらく一緒に歩いたよ。女神様が歩きたがったんだ。俺に手を差し出すように言って、その上に自分の手を重ねたんだ。これまで見たこともないほどの美しい人を連れて歩いたわけだから、俺は舞い上がってしまったよ。歩きながら得意気になって、俺は女神様を見上げたんだ。そうだ思い出した。その時に、イズリの鼻に似ているなと思ったんだ。そして、女神様が野草の冠をかぶっていることに気がついたんだ。その冠は、蔦を編んで作ったものだったのだけれども、何か小さな赤い実が二つ、ついていたんだ。俺は急にその甘酸っぱさを想像してしまって、口の中が唾でいっぱいになったんだ。そうして、その実を食べたくなった。美しい女神と歩くことよりも、その実を食べることの方が重要な気がしてきたんだ。俺は咄嗟に女神様の手を振り解き、冠から実を一つ引きちぎった。そして、逃げ出した。直ぐに後ろで、人とは思えない唸り声が聞こえたよ。恐ろしかった。でも、一度も振り返らなかったよ。そんな余裕もなかったんだ。きっと振り返ったら殺されていたと思う。俺はどこまでも走った。夢の中だから、どれだけでも走れたんだ。方角なんてわからないし、闇雲に走ったけど、どこまで逃げてもそいつは追ってくる。ずっと、唸り声が後ろをつけていたからね、そうわかったんだ。俺はいよいよ倒れそうだと思って、握りしめていた実を食べた。後ろから叫び声が聞こえたよ。辛く悲しい嘆き声だった。地の果てにも届きそうな大きな声で長く泣いていたけれども、そのうちそれは小さくなって、最後はすっと、消えてしまったよ。俺はようやくに安心してその場に座り込んでしまった。けれども、その安心は間違いだった。赤い実は毒だった。人が食べてもよいものではなかったんだね。胸が溶けるような吐き気に襲われた後、身体が燃えているみたいに熱くなった。いや、たぶん本当に燃えていたと思う。どれだけ燃えていただろう。夢の中だから、時間の感覚がないんだ。それで、何百年も燃やされていた気がしたよ。最初はこの苦しみからなんとかして逃れようとした。でも逃れられなかった。そして、そのうち俺は気がついた。俺は人だからこの実を食べられなかったのだと。それならば、俺は人であることを捨てればよいじゃないか。女神の姿を思い出したよ。あんなにも美しい何かになれるとは思わなかったけれど、俺は俺から生まれる熱をもっと強くしようとした。熱くなれ、熱くなれ、そう願った。そうすると、黄色い眩い光が俺の内側に生まれて膨らんで、ついには弾け飛んだ。俺はそこで意識を失った。気がついたら師匠の家の床の上さ―
 イズリにはポトの話に引き込まれていた。頷くことも忘れ、時々息を飲みながら聞いた。
 また、ポトは、目覚めた後も数日は身体が動かなかったことも話した。
「ナガル師匠は流石だよ。瞼すら思うように動かせず、碌に声も出せない俺に向かってこう言ったんだ。『あんたは、生まれ直したんだ。だから、それくらいのことは当然だ。慌てなさんな。そのうち何とかなるから、でんと寝転がっときな』って。本当に師匠の言う通り、しばらくしたら、少しずつ動けるよつになってさ。三日寝込んで、起きて、動けるようになるまでに、十日ほど。あと、動けるようになった後も、急に森に呼ばれて倒れることがあったんだ。だから、森に呼ばれても引っ張られないように、ちょっとした修行をしないといけなくてさ、それでさらに十五日ほど。ほら、全部足すと大体今日になるのさ。よく帰ってきたって褒めろよ」そう言って、ポトは笑った。
 イズリも力なく笑い返した。「大変だったね。また会えて良かったよ」
「本当に」
「じゃあ、これからはいつでも会えるの」
「修行もしなきゃならないし、いつでもってわけにはいかないけれど、師匠と薬を売りに来るから、二十日に一度くらいは会えると思うよ」
「まあ、会えるだけ良かったよ」イズリはポトのよく知った横顔を眺めながら、そう言った。少し寂しかったが、仕方のないことだった。
 不意に背中に腹に響く声が届いた。
「ほれ、ポト、帰るよ。」
「あ、師匠」ポトが振り返る。
 大きな麻袋を載せた背負子を歳に似合わぬ力で背負った老婆が、よいこらとこちらにやって来た。
「ほれ、あんたも一つ持ってくれ」ポトに荷を分けると、ナガルはイズリを見た。
「嬢ちゃん、久しぶりだね。元気そうで良かったよ」
「ナガルさん、ポトを看病して下さってありがとうございます」
「なあに、あたしも師匠になっちまったからね。なっちまったものは仕方がないんだよ」
 ふとイズリは思いついてナガルに尋ねた。
「ナガルさん。ポトに会いに行きたいのですが、森の道を教えてくれませんか」
「残念だが、それはできないよ。私たちの家は人が来るところじゃないんだよ」ナガルはぶっきらぼうに言った。
「さあ、帰るよ。ポト」二人はイズリに別れを告げ、川に足を踏み入れかけた。その時、ナガルは不意に振り返って、イズリに言った。
「嬢ちゃんや、間違えても、追ってこようなんて考えてはいけないよ。手前勝手に入ると死ぬよ。森というのは、そういうところだよ」
 イズリは考えていたことを見透かされ、渋々頷いた。
 二人はやがて川を渡り、森へ分け入り帰っていった。
 イズリはその帰り道、夕焼けの空を眺めながら、ポトに自分の話を聞いてもらい損ねたことを思い出した。

―お母さん、聞いて。今日ポトに会ったよ―
 イズリはそう言って、家に飛び込もうとした。けれども、どうやら家の中はそんな雰囲気ではないと、飛び込む前に気がついた。何と言っているかまではわからなかったが、姉の喚く声が家の外まで響いていた。
 イズリは何事かと思い、恐る恐る家の内を覗いた。と、丁度、戸口正面の炉の後ろにいた母と目があった。母は小さく首を振って、右奥にいる姉のイズルを顎で示し、苦笑して、イズリに家に入ってくるよう視線を送った。
 イズリが藁草履を脱ぎ敷物に上がると、母の隣にいる父もちらりとこちらを見た。腕を組んで難しい顔をしていた。
 姉は薄暗い室の隅で、床の上に座り込んで、泣き腫らした目で両親を睨んでいる。
「ねえ、何かあったの」イズリは母の側に寄ると、耳元で囁いた。母は肩をすくめて、やはり苦笑いしただけだった。
「おい、イズル。いつまでも、子どもじゃないんだから、そう拗ねるもんじゃない」父が姉に向かって言った。
「いやよ。私、もう結婚なんてしない。あんなおじさんだとは思わなかった。なんで、あんな人選んだのよ」イズルは枕を振り回しながら喚いた。枕に詰められた藁が辺りに飛び散った。
「おじさんって、たった五つしか離れていないだろう」父が返す。
「五つもよ。もっといい人いたでしょう」
「おまえが、早く探せと言ったのだろう」
「だからって、こんなのないよ」
 イズリは家族の会話から大体の事情を察した。きっと、姉の夫となる人が、この里に野菜でも売りに来たついでに、家に立ち寄ったのだろう。
「イズル、お父さんはこの辺りの里を探し回って、見つけてきてくれたのよ。その里でもこんなに働き者の青年いないって。お父さんは、娘を預ける人を適当に選んだりしないわ」母が言った。
 話は長く続いたが、いつまで経っても平行線だった。けれども、今更破談にするなどという選択肢がないことは、イズルも当然わかっていた。それでもどうしようもないので、ただ泣くばかりだった。

 その夜、イズリは姉のイズルのことをあれこれと考えた。
 父も母もイズルも何も言わなかったが、イズルの婿探しが難航したのには、私の存在もあったのではないか。エノヒの子を家族に持つ姉を嫌がった家も多いのではないか。
 勿論、たとえそうだとして、イズリだけのせいだとは思わない。本当かは知らないが、イズルは自分で、里の年頃の男から、幾つもの誘いを受けたと言っていた。誘いかけるということは、誘った側は、ある程度先に家に話を通して、イズルの了解さえもらえれば、結婚できるよう手筈を整えていたはずだ。
 誰が声をかけてきたかまでは知らなかったが、歌の上手いイズルなら、多くの誘いがあったとしても、おかしくはない。
 イズルが言うには、里の人間は子どもっぽいからそれらは全て断った、というのだ。
 里の人間は嫌だ、けれども、早く結婚したい。だから、早く探して欲しい。
 父母はそれで一生懸命探したに違いない。そして、ようやく探してきたら、気に食わないとは、親二人して、全く振り回されたものだ。
 ただ、姉を我儘な人間だと言い捨てることも、イズリには難しかった。
 イズリは数年後の自分を考えた。成人の儀であるテルヤを済ませてしまえば、自然と結婚は見えてくる。数年の猶予はあるだろうが、たかが数年だ。そして結婚さえしてしまえば、今度は人生が見えてくる。それこそ、里の内で結婚してしまえば、今と殆ど変わらない、ただ朝は田畑を耕し、夜に着物を繕って、たまに狩りを手伝うくらいの短調な生活が訪れることが目に見えている。
 母は、結婚とはそんなに単純なものではないと言うけれども、イズリからすると、人生の終着点のように思えたし、だからこそ、姉が残りの人生を共にする相手に特別さを求めるのも、わからなくはなかった。
 数年後には自分も……。考えたくもなかった。
 その数日後、姉は隣の里に嫁いで行った。


 ポトは一度里に戻ってきて以来、十日から二十日に一度くらいは里を訪れるようになった。いつも、ナガルと里に来ては、薬草を売って、それが終われば、ソヨタの川原でイズリたちと時間を過ごした。
初めのうちの何度かは、一緒に遊んできた仲間たちも、川原に集まったが、何度か繰り返すうちに、会いに行くのはイズリだけになってしまった。
「まあ、仕方がないよ。みんな色々あるだろうし。薬草売りの時に、買いに来てくれれば、少しは話せるしね」いつもの川原でポトは言った。
「そうだね。少しずつ米の収穫も始まっているし、次の時は、私も来られないかもしれない」イズリは内心、みんなが来ないのはそれぞれの親からポトの家族のことを聞いたからではないかと疑ったが、そんなことは関係ない、農作業のためだと思い直すことにした。
「もう実りの時期か。イズリもここへ来られなかったら、薬草だけ買いに来てくれよ。そうしたら会えるよ。慌ただしい季節が来るね。それに、イズリはテルヤじゃないか。こりゃ、濃い秋になるな」
 テルヤはその年、十四を迎えた里の子らが、正式に里の一員と認められるために行う儀式だ。男は手首に鎖模様の墨を入れる。イズリら女は八日間、小屋の中に閉じ込められる。毎年、幾名かの里人がこの儀式を受けるが、ポトが里を出た以上、今年テルヤに参加するのはイズリだけだろう。
「ねえ、ポト。やっぱり、ポトはテルヤを受けないの」
「受けないさ。本当は墨を入れるの、怖いし嫌だったんだ。ちょうど良かった。それに、俺に似合わないだろ」ポトは自分の拳を突き上げて、手首を見回して笑った。
 ポトはもう里人ではない。そのことが切に感じられて、イズリは一人悲しい気持ちになった。
「修行の方はどうなの。進んでる?」話題を変えたくて、イズリは尋ねた。
「直ぐには進まないってことがわかったよ。師匠みたいになるのに、何年かかるか。まずは、師匠の目を持つ練習からなんだけど……」
「師匠の目を持つ?」
「師匠が見ているものを、同じように見る修行なんだ。でも全然できなくて」
「何それ。面白そう」
「やるは難しだよ。できる気がしないよ」
「私も、やってみたい」
「うーん、毎日修行している俺でも難しいからなあ。あ、でも、魂を浮かすくらいなら、イズリでもできるかも。やってみるかい」
「もちろん」イズリは興奮して答えた。
「師匠には内緒だぜ」
 そういうとポトはイズリを連れて岩場を降り、足を下ろすと川の足首まで水に浸かるくらいの岩に、イズリを座らせ、手を膝の上で組ませた。足から感じる水は思っていたより随分と冷たかった。
「魂を浮かす時に一番大切なことはね、自分を失わないことなんだ」ポトは真剣な面持ちで、しかし、少し得意気に言った。
「足を水につけるのは、ここにイズリ自身を保つためなんだよ。まずは、少しずつイズリを形作ろう。ねえ、今何が見える?」
 イズリは言われるまま、横に立つポトから視線を離し、目の前をぼんやりと眺め見た。
「川……。流れている川が見える。」
「どんな色をしている? 正確に言えるかい」
「深い緑」
「もっと、よく観察して」
「同じ緑だけど、手前より奥の方がより深い色をしている。あと、時々光る。たぶん魚の背鰭の動きだと思う」
「とてもいいよ、その調子。他に何が見える」そう言って、息を弾ませたポトが横からイズリの顔を覗き込んだ。
「ポト。ポトの顔がよく見える」イズリが何となく、そう答えると、ポトは慌ててイズリの視界から消えた。そうして、恥ずかしそうな咳払いが聞こえた。
「そうしたら、今度は目を閉じてみて。何が聞こえる?」
「川のせせらぎ、鳥の声……、鳥はカラカラ。あと森の木が、風に擦られる音」
「いいね。そしたら、今、イズリの体はどうなっている?」
「岩に腰掛けて、足首は水に浸かっている」
「そうしたら、もっとそれを感じられるかい。水の冷たさ、自分の温もり、周りの世界、もっと輪郭を際立たせてごらん」
 輪郭を際立たせるとは、どういうことかよくわからなかったが、イズリはそれなりに自分の身体を感じようと努力してみた。まずは、足を感じてみる。足が水に浸かっているので、これはわかりやすい。冷たいのが足、そう思えば良い。足を感じると、今度は、足で冷やされた血液が身体を巡っていることに気がついた。少し冷えた血が、頭から指の先まで、運ばれている。つまり、この血が流れるところが私の範囲なのだと思った。鼓動の度に、血が動く。私という人間は生きている。
「たぶん、感じられたと思う」イズリは目を瞑ったまま、呟いた。
「よし、いいぞ。イズリ。そしたら、今からイズリの魂を少しだけ浮かすぞ。浮いても、身体の感覚を失わないこと。きちんと帰ってくること。これが、大切だからな」ポトの声が頭の裏に響いた。
「さあ、始めるぞ。まずは、しっかりと息を吐いて」ポトはイズリの耳元で、低く穏やかな声で語りを始めた。それは、眠気を誘うような心地良い響きだった。イズリはぼんやりとその声に耳を傾けた。
「イズリ、今君の身体はソヨタにある。岩に腰掛け、足を水に浸けている。君が今まさに感じている通りだよ。でもね、もう、君の魂は、少しずつ浮かび始めているんだ。今、ちょうど頭のてっぺんに乗っているよ。魂は何にでもなれるが、今日の君は、白く光る玉だよ。とても輝きが強くて、眩しいくらいだ。君の生命の強さだね。そして、ほら、少しずつ高くなっている。昇るよ、昇る。今、君の魂は、君自身を上から見下ろしている。目をそっと開けてご覧。君が真下に見えるから」
 言われた通り、イズリはゆっくりと目を開けた。確かにイズリは眼下にいた。地上から離れて、木登りの木くらいの高さから、イズリはイズリの黒髪を見下ろしていた。
 どうも変な感じだった。私はここにいるが、あそこにもいる。一体どうなっているのだろう。そんなことを考えていると、眼下のポトがイズリの背に手を当てた。
 そして、また耳にポトの声が響いた。
「イズリ、帰っておいで。もう一度目をつぶって。ほら、僕の手が感じられるかい。君の足は水の中にあるよ。冷たいだろ。ほら」ポトの声を聞くうちに、イズリは自分がどこにいたのかを思い出した。そして、ある瞬間、辺りがどっと賑やかになって、手足の感覚が戻ってきた。
 イズリははっと目を見開き、ポトを見た。
 ポトが、これ以上ないというほど目を輝かせ、上気した顔で叫んだ。
「凄いよ。イズリ。君には才能があるよ。一度でできるだなんて」ポトの声を聞いて、イズリもようやく、魂を浮かせた実感がでてきた。
「凄い。私、魂浮かせちゃったよ」座っていただけとは思えないほどの汗が身体から流れ出たが、疲労感を上回る感動があった。
「とても、不思議な感覚。ねえ、もう一回試したい」イズリはポトに懇願した。
「そうだね。そしたら、次はもっと遠くまで飛ばしてみよう。きっとイズリならできるよ」
 ポトは懐から小さな巾着を取り出して、中から赤い実を三粒取り出した。
「これは、ラッグの実だよ。これを噛むと、さっきよりもずっと遠くまで魂を飛ばすことができるんだ」そう言って、ポトはラッグの実の使い方を教えてくれた。ラッグの実は一気に飲み込まずに、口の中で一粒ずつ順に噛んで、少しずつその実を味わうのだそうだ。 
「後はさっきと同じだよ。絶対に自分を見失わないように。まずは、先に自分の身体の輪郭を作る。輪郭ができたら、僕が合図を出すから、そうしたら、一粒ずつ実を噛んでくれ。実の皮は後で吐き出すから、絶対に飲み込まないこと」
 イズリは三粒の実を口に入れ、そのまま薄く目を瞑って、先程と同じように自分の身体の感覚を探った。二回目である分、先ほどよりずっと上手くいき、直ぐに、自分の存在を意識できた。
「そうしたら、一粒ずつ実を噛んで」ポトが耳元で囁いた。
 イズリは奥歯で一粒目を潰した。中から実と思しき苦くて酸っぱい汁が出てきて、口の中にそれが広がった。美味しくはない。あまりの酸味に唾液が口の中に溢れ出て、その苦い汁と混ざり合った。イズリはそれを飲み込んだが、その時についつい、潰した実の皮を飲み込んでしまった。ポトの皮は吐き出すという言葉を思い出したが、今更どうしようもなかった。
「そうしたら、二粒目を噛もう」ややあって、またポトの声がきた。イズリは声に従った。
 小さな変化は、その辺りから起こり始めた。イズリは、まず、皮膚の表面が冷めていくように感じた。そしてその内側に燻る熱を感じた。しかも、それは段々と激しさを増してきて、腹の底で起こった炎が、やがて大きくなり、ついにはその炎の舌先が胸の上の方まで届いたように感じられた。初めはそれが不快だった。決して身悶えするほどの苦しさではなかったが、胃液が上ってくるような感覚もあり、気分が悪かった。しかし、身体の中の熱いものが上へ上へと迫る中で、それがいよいよ顔に辿り着いた時、その不快感がやがて引いていくのを感じた。
 その時の感覚は、朝の二度寝に似ていた。ぼんやりと自分自身を感じながらも、心地良い世界に引き摺り込まれていく、あの感覚。この流れに身を任せてしまえば良い。
 すうっと意識が遠のいて、イズリは夢を見た。そう思った。
 夢の中で、イズリは森の上にいた。随分と高いところから、黒々と先まで広がる森を見下ろしていた。ふと、風がイズリの頬を撫でた、とイズリは思ったが、イズリに風を受ける頬はなかった。それどころか、手も足も、体もどこにもなく、ただ視点だけがそこにあった。
 イズリはふと、この森を探せば、ポトの家に辿り着けるのではないかと思った。
 イズリは森に近づけないか、色々と試してみた。最初は上手くいかなかったが、頭の中で思い浮かべることができれば、視点は動かせるということが段々とわかってきた。
 イズリは森を見つめ、そこに行くことを想像した。するとぐっと森が近づいてきた。イズリは鳥のように移動できるようになった。
 イズリは高度を下げ、木々の間を縫うように飛び回った。その中でイズリは森に、たくさんの生き物がいることを知った。穴から抜け出た狐、木に住むリス……。山犬の一群を見た時は流石に驚いた。森から聞こえる遠吠えは、本物の山犬だったのだ。動物たちにイズリが見えていたかは、わからない。ただ、どの動物たちもこちらを見たりしなかった。一度、力強く飛ぶ烏を追い越した時に、その烏がこちらを見て目を見開いたような気がしたが、それはただの偶然か気のせいかもしれなかった。
 しかし、どれだけ辺りを探しても、あの夜訪れたはずのナガルの小屋は見つからなかった。
 イズリは諦め、仕方なくまた飛び上がった。森を上へ突き抜けると、急に青空が広がった。美しい。どこまでも澄んだ青い色を見ると心が舞い上がった。もっと先へ行ってみたい。天の、その上を見てみよう。そう思うと、これまでよりずっと速く上昇し、イズリの周りに渦ができた。イズリは、その渦の中心で、流れに乗ろうと意識を集中させた。どんどんと速さが増して上昇してゆく。さあ、行けるところまで行ってみよう。そう考えている時に、ガンッ。
 不意に激しい衝撃が身体を襲い、身体が硬い地面に叩きつけられた。あまりの衝撃にイズリは暫く何も分からなかった。地面に打ちつけられた左半身が痛く、鈍い痺れも感じた。
 その硬い地面が、魂を飛ばす前にイズリが座っていたあの岩だと気がついたのは、少し経ってからだった。
 戻ってきたのだ。それが分かると少しずつ、身体の感覚が増えていった。川に浸かった足が冷たい。身体に触れる岩は少し温かい。川の流れる音がする。人の喚く声がする。
 イズリは薄らと目を開けた。少し離れたところにポトとナガルの背中が見えた。顔は見えずともその背中からナガルの怒りが見てとれた。
 ようやくそこで、イズリははっきりと目を覚ました。
「この馬鹿弟子が。こんなに馬鹿なやつだとは、一度だって思わなかった。信じられないよ。命をなんだと思っているんだい」ナガルの声は、少し離れたイズリのところまでもはっきり聞こえるくらいの大声だった。その一語一語に怒りが滲んでいて、どんな猛者だって怯んでしまいそうな、そんな剣幕だった。
 また、イズリはポトが泣いて謝っていることにも気がついた。なんと言っているか、はっきりとは聞こえなかったが、その動きで大体のことは察することができた。
 イズリは力のまだ入りきらない体で、慌てて立ち上がって、二人の下に駆け寄り、ポトを弁護しようと声をかけた。
「ナガルさん。本当にすみません。ポトは悪くないんです。私がやってみたいと言って。本当にすみません」
 一瞬、ナガルは振り向き、イズリの上から下までを眺め見た。しかし直ぐにそっぽを向いて、冷たく言い放った。
「私は今、馬鹿弟子と話しているんだ。あんたには関係のない話だよ」
 ナガルの奥でポトは平手を地面につけて、縋るように謝っていた。その憐れな様子に、イズリはポトに声をかけようと思ったが、間にナガルが立っていて、近づけなかった。
「本当になんてやつなんだい。お前みないなやつを一度でも弟子に取ったことを後悔しているよ。呪術師が一番してはいけないことはね、命を軽んじることなんだよ。そんな当たり前のことを、お前は守れなかった。そんなやつは、今すぐ破門だよ。破門だ。里にでも戻って、勝手に暮らせばいい。お前は今日から破門だよ」ナガルはそう言い切ると、怒りのまま、ざぶざぶと大股で川を渡り始めた。
 ポトもイズリが声をかけるよりも早く、川へ入り、こちらを振り返ることもなく、ナガルを追いかけて行ってしまった。
―どうか、破門しないでください。捨てないでください―ポトの泣きつく声が、川辺にいるイズリの耳にも届いた。
 そうしてイズリは一人、取り残された。

 その八日ほどあと、ポトはナガルと共に里へ薬草を売りに来た。それで、なんとか破門は免れたらしいということはわかった。ただ、イズリは収穫の仕事が忙しく、すぐに戻らなければならなかったので、いつものように後で、ゆっくりと二人で話す時間は取れそうになかった。
 イズリは、葉で指を切った時などに使う薬草を買いながら、ポトにそのことを伝えた。イズリはナガルのいる前でポトに話しかけることを気まずく思ったが、ナガルは何も思わぬ顔をしていた。
 ポトはイズリの決まりの悪そうな顔を見て小さく苦笑したが、それに関しては何も言わず、次に会うときは、きっとテルヤの後だろうから、頑張っておいでと言っただけだった。


 むんと蒸し暑く暗いこの部屋の中で過ごし始めて、七日が経った。といっても、昼も夜もないこの部屋において、時間はあってないようなものだ。食事を何回取ったのか、もう、わからない。そもそも、眠くなったらそのまま寝て、目が覚めたら起きるという暮らしなので、七日目の朝にふるまわれることになっているソボソの果汁を飲むまで、正直、今朝が七日目だということも気がつかなかった。
 テルヤに使われる小屋テイダは、全く光を通さない。戸口の辺りにも幾重にも幕が張られ、誰かが食事を持ってきた時でさえも、イズリは先に光があることを僅かに感じる程度で、この七日間は何も見えない状態が続いていた。
 しかし、七日間も経てば、部屋のどこに何があるかは大体わかるし、これといった問題はない。
 テイダの内部は簡素で、入り口付近に用を足すための蓋のされた陶器と、清めのための水の入った木の器があるが、それ以外には、殆ど物がない。寝床すらもない。代わりに、敷物は何の毛なのかはわからないが、ふかふかしていて、そのまま寝ても、辛くはなかった。
 だが、恐ろしく退屈であった。この部屋ですることといえば、石磨きだけだ。石を磨いていて眠くなったら寝る、それだけの日々だった。
 小屋に入る前に掌ほどの大きさの石をもらった。この暗闇の中で、ただその石を磨き続けるのだ。磨くための道具は、時々新しいものが差し入れられる。最初はザラザラした石のようなものであったが、次に草のようなものが渡され、一番新しく渡されたものは海綿のような触り心地だった。
 闇の中で永遠にこれを磨き続ける。手触りで、かなり滑らかになっていることはわかった。顔も映るかもしれない。テルヤが終わるまではわからないが、上手く磨けていれば、鏡になっているはずだった。
 母はかつて自身がテルヤで作った石鏡を今も大切に使っている。とても美しく滑らかで、イズリもあれくらいのものを作りたいと思っていた。
 ただ、ひたすらに石を磨き続けるというのは、恐ろしく退屈な作業である。
 イズリは起きている時はずっと石を磨き、そして色々なことを考えた。このテルヤのこと、将来のこと、昔のこと、ポトのこと、ポトの家族のこと、姉のこと、父母のこと……。
 ただ続く闇の中で、時間の感覚も奪われ、考え事をするのは、何か嫌な感じがした。考えようと思って考えているわけではないが、勝手に浮かんできてしまうのだ。普段考えないようなことまで……。いや、正しく言うと考えたくないようなことまで突発的に思い浮かんでくることもあった。また、ふと寝てしまって、夢を見て、そしてまたぼんやりと考え、今考えたものは夢なのか、それとも違うのか、それすらわからなくなったりもした。そして、そういえば、さっきは何を考えていたのだろうと、考えたことを忘れたりもした。それくらい、全てが曖昧だった。
 もし、ソボソの果汁が運ばれてこなかったら、未だに今日が何日目なのかわからずにいただろう。里でよく食べられるソボソは酸味の強い柑橘で、汁を啜った瞬間、それとわかった。七日目の朝がソボソの果汁だとなぜ事前に教えられていたかが、よくわかった。
 ずずずと戸が引かれる音がして、その後、がたんと何かが置かれる音がした。そして後に戸が閉まる音がした。食事が運ばれてきたのであろう。今朝が七日目の朝なら、今はその夜だと思われる。テルヤで取る最後の食事だ。
 イズリは音の方へ向かい、手を水で清めた後、手で探って盆を掴み、部屋の良い位置に持ってきて、食べ始めた。
 イズリはしきたり通り、まず初めに三つある器の中で一番大きな器に入っていたものを手で掴んで食べた。肉だ。大きく逞しい肉の塊は噛み切るのが大変であったが、イズリは少しずつ歯で引き千切りながら時間をかけて食べた。
 次に中くらいの椀に手をつけた。芋を潰したものだろうか。ところどころ、中に何か小さい実が混ぜ込まれているようで、たまにその実が潰れて実の苦味と酸味が広がった。イズリはこの味を知っている気がしたが、何の実かまでは、思い出せなかった。最後に口にしたのは、一番小さな椀で、一番小さな椀にはいつも汁物が入っていた。指を入れてみて、今日も同じように汁物だということはわかったが、いつもと比べて遥かに椀が小さかった。これなら、一口で飲めてしまうだろう。
 イズリは零さないようにゆっくりと口元まで運んだ。くさい。口に近づけた途端、つんとした、嫌な臭いがイズリを襲った。しかし、飲まないわけにはいかない。イズリは舌をつけてみた。臭い通りの苦味と辛味を感じた。
 意を決して、椀の中身半分ほどを、口に含んで飲み込んでみる。瞬間、かあっと喉や腹が熱くなった。イズリはその熱が収まるのを待って、残りを飲んだ。一回目に飲んだ時よりは、ずっと、飲みやすく感じた。
 食事を済ませたイズリは盆をもとの場所に置き、給仕が来た時に持って行けるようにした。
 そして、立ち上がり、また、石磨きを始めた。感触でそれなりに滑らかになっていることはわかっていたが、どれほどのものになっているかは、わからなかったので、止めることはできなかった。
 相変わらず石磨きはつまらなく、すぐに飽きたし、いつもに増して早く眠気を感じた。しかし、ほんの少し、うとうとしたかと思うと、ある瞬間から突然頭が冴えてくるのを感じた。
 さっき食事を取ってから、何かが少しずつ変だ。まず、身体が熱い。熱がある時のような内から外に向かう熱さで、それでいて不快でない。寧ろ心地よくさえある。ただぼんやりと、今なら何でも成し遂げられるという、直感があった。イズリは石を置いて、少し踊ってみたりもした。
 しかし、この心地よさは長くは続かなかった。暫くすると、今度は頭の奥の方が痛くなり、胃の辺りから込み上げるものを感じた。
 イズリはうずくまった。本当に熱があるのだろう。悪寒もして、震えが止まらなかった。
 イズリはふと、うずくまったまま、ポトの話を思い出した。ポトは森に見初められ、呼ばれたあの日の夜、熱を出したと言っていた。そして、ナガルにおまえは生まれ変わったのだと言われた。
 今のイズリにそっくりではないか。この苦しみの先に、大きな変化が訪れるのではないか。
 それで、イズリはテルヤとは何であるのか、理解した。生まれ変わりだ。今までの自分ではなくなるのだ。何がどう変わるかはわからない。けれども、それは一つの希望であった。
 イズリは森での出来事を生き生きと語るポトの姿を思い出した。ポトは里でいた時より、ずっと幸せそうだった。
 もしかすると、イズリだって、見えないものが見えるようになったり、感じられなかったものを感じられるようになったりするかもしれない。
 そのためにテルヤがあるのだ。明日から私は私ではなくなる。退屈な人生が、少しずつ動き出すに違いない。
 イズリはそんな希望を胸に、夜をやり過ごした。

 ガタンと戸が開く音がして、イズリは目を覚ました。昨夜はなかなか寝付けず、辛かったが、それでも一眠りはできたらしい。嫌な夢を見た気がする。だが、どんな夢だったかは思い出せない。まだ若干頭に鈍痛はあるが、それも昨夜より幾分かましになっていた。
 すると幕が外された音がして、部屋が薄明るくなった。そこに村の巫女らが入ってきて、寡黙なままイズリの身を整え始めた。
 この辺りの流れは事前に聞かされていたので、イズリは巫女らに身を任せた。
 イズリは、大袈裟な衣を着せられ、髪を結われ、首にはイズリの磨いた石鏡がうめられた首飾りがかけられた。顔には白粉と頬紅、そして最後に唇に紅を引かれ、この後のお披露目に備えた。イズリ自身は自分の顔がどうなっているかなど、見られるはずもなく、ただ、されるがままになっていた。
 と、イズリは背を巫女に叩かれた。
 さあ、お披露目だ。
 イズリは重い衣を引きずって、戸口に向かった。そして戸に手をかける。
 一気に戸を引き開ける。目が眩もうとも、間髪入れず一歩前へ出て、両手を広げて太陽に差し出す。
途端、周りで大きな歓声が上がった。
 イズリは習わし通り、暫くそのままでいた。巫女からは、心の中で五十数えなさい、数えたら一礼して捌けなさいと言われていた。
 久しぶりの太陽は偉大であった。何よりも強い光であった。イズリは太陽によって殆どの視界を奪われていた。しかし、あの青空に浮かぶ眩い光を半ば想像で感じ取って美しいと思った。今まで見たどんな景色よりも美しいと思った。
 五十数えるうちに、少しずつ目が慣れてきた。周りの様子にも気がつき始めた。
 里の皆が、私を見ている。祝福している。顔を動かさずとも、大きな歓声が聞こえ、熱い眼差しを感じた。イズリは、太陽に向かって手を広げる自分の姿を想像した。今日の私は、きっとこれまでの人生の中で一番美しいに違いない。
 それで、イズリは、昨晩自分が考えたテルヤは生まれ変わりの儀式だということを改めて思い出した。私は今日、生まれ直した。今日からまた何かが変わっていく。面白い人生が、ここから始まってゆくのだ。
 里人の祝福の声の中で、イズリはそんなことを考えた。


 そんなに容易く人生は変わらない、ということに、イズリもテルヤを終えて三日目くらいには、気づかざるを得なかった。
 テルヤを終えたその日は、里の人に祝福してもらったり、いつもより豪勢な夕食を食べたり、初めて酒を注いでもらったり、特別な一日になった。しかし、次の日からは、いつものように収穫に行かなければならなかったし、収穫したものを保存のために加工したり、綿から糸を紡いだり、とにかくそういった様々な当たり前のことを、当たり前のこととしてしなければならなかった。
 勿論、そんなことはテルヤの前から当然のこととしてイズリだってわかっていたし、不満はなかったが、ただそんな仕事の合間に、何か不思議な力を手に入れたり、大きな秘密を知ったり、そういった変化がないか、ほんの少しとは言え、期待してしまう自分がいた。
 しかし、当然、そんなことは起こらなかった。
 テルヤから十二日経った今は、もう、そんな期待もせず、秋の忙しい労働に身を投じていた。面倒で、面白くない日々だった。けれども、それも今日で大方終わりだ。
 明日から収穫祭だ。
 収穫祭の期間は働かなくて良いばかりか、屋台がたくさん出るし、楽団もやって来る。楽しいことがたくさんある。
「イズリ、ほら。できたわ。ちょっと着てみて」母がイズリを呼んだ。
「わあ。綺麗。お母さん、ありがとう」イズリは母から宴用の翡翠色の衣装を受け取ると、すぐにそれに着替えてみせた。
 収穫祭では、里のあちこちで幾つもの宴が催されるが、その中の「若人の宴」は、特に大きな宴の一つである。テルヤを終えた者しか参加できないし、また、結婚している者や、テルヤを終えて十年以上経った者も参加できない。まさに若人のための宴なのだ。
 そして、その宴の開宴の際には、その年のテルヤを終えた者が、「開宴の踊り」を務める……つまり、皆より先に踊り出すのが習わしであった。例年、十数名の者がテルヤを受けるが、今年はイズリしかいないので、皆の前で一人で踊らねばならない。
 緊張もするが、楽しみでもある。それは、親も同じようで、母は丹精込めて衣装を拵えてくれた。
「イズリ、ちょっとそこで回ってみなさい」母が言う。
 イズリが、片足で回ってみせると、母は首を傾げた。
「回った時に裾がもう少し広がった方が綺麗ね。切り込みを深くしましょうか。肩も少し余ってしまっているわね。少しだけ詰めましょう。それと、激しく動くと装飾が取れてしまいそうね。もっと強く括り付けないと」
「お母さん、もう充分素敵だよ。そんなに拘ってどうするの。私より張り切って……」イズリが苦笑して言うと、母は真面目な顔をして答えた。
「だって、後何回あなたに贈り物ができるか、わからないもの。テルヤを終えた娘はね、ちょっと風が吹くとふわふわあって綿毛みたいに飛んでいっちゃうのよ」
「私は、そんな直ぐには出ていかないよ」イズリは、少し顔を赤らめ、もごもご言ったが、母は信じていないようだった。
 そんなことを話しているうちに、父が寄合から帰ってきた。
「今日、里長のところにブルドゥ様の一向が到着したそうだ」父が言った。ブルドゥはこの辺り一体を収める地方役人の長で、数年に一度、自ら里を訪れ、視察して回る。会ったことはなかったが、イズリもその存在は知っていた。
「収穫祭の時期にだなんて、この里に重きを置いてくれているということね。ありがたいお話」母が言った。
「それだけ風車作りを重く見ていたということなのだろう。実際、かなりの額の援助をいただく予定だ。次の春には優秀な技術者を派遣してもらうことも決まっている。だが……」父は俯き続けた。
「だが、今回の一件で里の資金は無くなってしまった。里で支払う分を更に減らしてもらうか、そうでなければ、せめて三年は建設を待ってもらわないと、どうにもいかない」
 ポトの家族が風車建造のための資金を持ち逃げしてしまったということは、今ではもう里内で周知の事実だった。父もイズリの前でそれを隠そうとはしなくなっていた。
「ブルドゥ様は聡明な方よ。きっと里に悪いようにはしないわ。事情が事情ですもの。きっと、何か融通をきかせてくれるはずよ」母が言った。
 父も頷いた。
「私もそう思う。ブルドゥ様ほど賢い方はいない。ブルドゥ様が治めるようになってから、里の暮らしはずっと良くなった。今回のことも、親身になって相談に乗ってくれるはずだ。里長が先に文を送っているらしい。収穫祭の合間を縫って、交渉となるのだろう」
 イズリはそんな大人の話を、大人の話として、ポトの家族の部分以外は、自分には関係のないものと聞いていた。

 収穫祭が始まってから、里は常に賑やかだった。里の楽しげな空気につられて、イズリの心も浮き立っていた。収穫祭の二日目には、姉が里帰りをしてきて、一緒に屋台を回った。あれだけ結婚を嫌がっていた姉であるが、こちらから聞いてもいないのに、惚気話なんかを話してきて、聞く限りは、それなり以上に楽しく暮らしているようだった。そして姉は次の日に、迎えに来た夫と仲良く一緒に帰って行った。
 やがて、若人の宴が催される祭の三日目がやって来た。
 日が傾き始めると、里の若者たちが、続々と広場に集まってきた。イズリも母に拵えてもらった新しい祭衣装を纏い、広場の隅で宴の開始を待った。
「頑張れよ」「緊張しているの?」「楽しみにしているから」いつも共に遊んできた年長の仲間たちが、次々とイズリの背や肩を叩き、声をかけてきた。
 イズリはぐるりと広場を見渡した。ざっと、六、七十人といったところだろう。集まった人々は自然と大きな輪を作っていた。西日が広場とそこに集まった人々を赤く染めていた。
 突然、太鼓がとととと、と鳴りだす。急に人々が静まった。宴の始まりだ。
 イズリは円の中心に歩み出た。そして構える。
 皆が自分を静かに見つめているのを感じた。深く息を吐き、呼吸を整える。緊張しているつもりはなかった。開宴の踊りを務めるのも決して初めてではない。小さな宴では何度も踊ってきている。だが、こんなにも大勢の前で踊るのは初めてであった。
 自分が僅かに高揚しているのを感じた。誰よりも美しく舞いたい。本当にできるかは別として、そんなことを思った。
 笛が奏で始める。イズリはその音に合わせて、身体をゆっくりとしならせ始めた。
 この里の踊りは三つに分けられる。今イズリが踊り始めた「ラタ」はゆったりとした音の中で、決められた型通りに踊るもので、どこまでも繊細であることが求められる。振りは勿論、身体の重心の位置、身体の角度、途中の小唄の節回しと、何から何まで決められている。指先一本気を抜けない。美しく繊細であること。それがラタにおいて大切なことだった。
 イズリは三つの踊りの中で、ラタが最も苦手だった。決められた通りにというのが難しく、今日も自信はなかった。踊りながら、姉ならもっと上手く踊り、唄うだろうと思った。
 けれども、歳上の仲間たちから、どんな踊りでも踊るときは自分が一番だと思いなさいと教わった。そうすることで、身体に軸ができ、美しく映えるのだそうだ。
 イズリは、自身が上手い踊り手になったつもりで舞った。ふと、足元を見るとイズリから長い影が伸びていた。そしてその影の振り上げた腕がイズリの目にも美しく、本当に私も上手く踊れているのかもしれないと思った。
 そうこうしているうちに、笛太鼓が少しずつ早くなってきた。二つ目の踊り「ラタン」だ。ラタンはラタほど型がしっかりしているわけではないが、それでも足で拍子を踏むそのやり方や、幾つかの振りなど、決まったところがあり、その中でどこまで表現できるかが腕の見せ所だ。ラタンは宴の三つの踊りの中で最も定番のものである。
 イズリを囲む輪から手拍子が起こった。イズリはその拍子に合わせて舞った。徐々にあちらこちらから囃子声も上がり始めた。
 イズリは少しずつ心が放たれていくのを感じた。身体を捻ると腕が風を切り、とても心地が良い。この心地良さのもっと先に行きたい、そんなことを考えさせられる瞬間だった。
 いよいよ歓声が騒ぎ声になり、それに合わせて太鼓もこれまでよりずっと激しく打たれた。「ランダ」だ。イズリが一番得意とする踊り。全て即興で、音価に合わせ、ただ、激しいことだけが求められる、そんな踊り。
 イズリはもう、自分を取り囲む人々の声など聞いていなかった。ラタンを踊り始めたあたりで、誰に見られていようと、いつも通り、踊ることを楽しもうと決めていた。
 イズリはこれでもかというほど、高く飛び、腕を伸ばし上げ、大きく宙を掻いた。
 激しい動きに少しずつ息が上がっていく。楽しみたいとはいったものの、ランダではそれよりも先に苦しみが来る。きっといつも以上に激しく踊っているのだろう。脚の疲労、呼吸の乱れが、イズリのランダの勢いを殺そうとしてくる。しかしイズリは、力一杯踊ることをやめようとはしなかった。ランダの心地良さは、この後に来ると知っているからだ。この苦しみを乗り越え、それでも踊り続けた先に、なんとも言えぬ快楽がやってくる。そのために、舞うことを止めてはいけないのだ。
 きっとあと少しだ。イズリは自分にそう言い聞かせ、そのまま身体を大きく動かした。
 しかし、いよいよ、吸う息の足りないことが気にならなくなり、あともう一歩で心地良く踊れると丁度思ったその時、割れんばかりの歓声が起こったかと思うと、イズリを囲む輪が崩れ、どっと内へ流れ込み、皆が思い思いの場所で踊り始めた。
 開宴の踊りが終わったのだ。笛太鼓の音もランダからラタンに落ち着き、イズリもそれに合わせて、先ほどより身体の力を抜いて踊った。
 あともう少し長ければ、と思ったが、ラタンを踊り始めて、身体の疲労の大きさに気がつき、これでよかったのかもしれないとも思った。
 イズリが気づかない間に、陽が落ち、広場の中心に火が灯されていた。
 その後、笛太鼓はラタから、ランダまでを行ったり来たりしながら、若者たちを踊らせた。
 イズリも疲れたら輪の外に出て少し休んで、暫くしたら、また戻って踊るという流れを幾度も繰り返しながら、他の若者たちと同様、宴を楽しんだ。
 開宴の踊りこそ、一人で踊ったものの、本来、踊りは対になっているものであり、イズリも馴染みの顔を見つけるたび、誘ったり、誘われたりして一緒に踊った。
「開宴の踊り、なかなか良かったぜ」
「ラタは相変わらず、硬かったけどな。緊張してたか」踊りの合間に仲間たちが次々と声をかけてきた。気心知れた仲間と軽口を叩くのは楽しかった。
 イズリはそうして長く宴を楽しんだが、やがて流石に一度しっかりと休もうと思い、広場を抜け、水汲み場に向かった。この水汲み場は、広場から坂を下ったところに、ひっそりとある。岩場を削って作った六段の階段を降りた先に湧水が溜まっている。里には幾つも井戸があるが、ここの湧水は特に美味しいのだ。
 夜は入口から漏れ入る月明かりしかないので、月があっても真上にある今は、物の怪でも出るのではないかというほど暗かった。流石のイズリも、臆病心が出てきて、手すりを持ちながら、恐る恐る階段を降りた。湧水の手前に着くと、イズリはしゃがんで、水を手で掬った。そして飲む。冷水が喉を潤した時、ここまで来て正解だったと思った。踊って火照った身体に、この冷たい水は沁みた。
 イズリは、もう一口飲むため、屈んだまま、また手を伸ばした。と、その時、水面に、黒く大きな影が映るのを見た。
「誰?」イズリは恐怖を押し殺して、影に向かって言った。首を冷や汗が伝った。
「誰、じゃねえよ。俺だよ、マルフだよ」よく知った声がして、イズリは胸を撫で下ろした。そして、物の怪かと少しでも怯えた自分が悔しかった。
 マルフはいつも一緒に遊んできた仲間の一人だ。仲間の中では一番年長で、また小さい子らの面倒をよく見る気のいい男だった。
「まったく、驚かせないでよ。マルフも水を飲みに来たの」イズリは立ち上がって振り返った。仁王立ちをしていたマルフがゆっくりと降りてくる。
「うん、まあ、そんなところだよ。ところで、イズリ、この間の川釣りの話なんだけれども……」それは、今話すことか? 急な川釣りの話に、イズリは、どこがと、はっきり言うことはできないものの、小さな違和感を覚えた。
 イズリは少しばかり不気味に思って、また面倒にも思って、早く立ち去ろうと考えた。
 しかし、マルフはイズリがマルフの右を抜けようとすると右に来て、左に抜けようとすると左に来て、イズリの行く手を立ち塞いだ。
「何やってんの。川釣りの話なんて、別に今しなくてもいいでしょ。私、広場に戻ってもう一踊りしようと思っているのに」
「じゃあ、別の話でもいい。ちょっと話さないか」
「何なの、もう。私は、今は特に話したいことはないよ。何か言いたいことがあるなら、まごまごしないで、さっさと言いなよ」マルフのはっきりしないところをイズリは思い出した。もう、マルフを怪しく思う気持ちはなくなっていた。大方何かやらかして、私に謝りたいか、尻拭いをして欲しいといったところだろう。祭りの時にする話じゃない。
「ええと、だから、言いたいのはな」
「前置きはいいから、早く」ぴしゃり。
 マルフは、ううと唸って、それから息を飲んで頷いた。そしてそのまま一気に口を開いた。
「わかった。じゃあ、俺と結婚してくれ」
「はあ!」思わず声が出た。イズリは一瞬何を言っているのかわからなかった。
「冗談はやめてよ」
「冗談じゃねえよ。俺はずっとお前が好きだったよ。宴の後に声をかけたのはお前が初めてだ。俺は昔からお前一筋だって、それが本当だってみんな知ってるよ」マルフは勢いのまま喋り続けた。
「別に今すぐ結婚して欲しいだなんて思っていない。俺は二年でも三年でも待てる。これまでも、ずっと待ってたんだ」
「ちょっと待って。あんたと私は友達で、これからもきっとそうで。結婚するなんて考えられないよ」
「じゃあ、ポトは違うのか」不意にマルフが言った。
「なんで今ポトの話が出るのよ」
「ポトは友達じゃないのか」
「ポトも友達だよ」
「じゃあ、俺でもいいじゃないか。それに、どっちにしたって、ポトはもうここにはいないんだ」
「なんで今ポトの話なんてするの。関係ないでしょ」
「大ありだよ。ポトはいないんだ。お前を幸せにはできない。俺は絶対にお前を幸せにする。ずっと前からそう思っていたんだ。もう家族だって説得してある。エノヒの子だからって、悪口を言う奴なんて、俺の親戚にはいない。実際、エノヒの子を受け入れてくれる家は多くないんだ。イズリ、お前にとっても、悪い話じゃないはずな……」そこまで言って、流石に言い過ぎたと思ったらしく、マルフは慌てて口をつぐんだ。そして、恐らく謝ろうと口を開いたはずだ。
 しかし、イズリにそれを聞く気はなかった。
「何、私が、かわいそうだから? 情けをかけるつもりで? 結婚してやる? 何様のつもり。あんたにいちいち面倒見てもらわなくても、私一人で充分だよ。だから、そこをどいてくれる」イズリは、マルフを睨んだ。
 けれどもマルフは引かなかった。イズリの腕を掴んだ。
「直ぐにとは、言わない。けれども、少しだけでも考えてみてくれ。もし、考えを聞かせてくれると言うなら……、明日の晩、ニイナの広場で、何人かで宴を企画しているんだ。それに来て欲しい。そこで、返事を聞かせてくれ」
「もう一度言うよ。そこをどいて」
 マルフはイズリの腕を離した。イズリはマルフの方を一度も振り返ることなく、その場から駆け去った。

10
「あら、戻ってきたの」物音で目を覚ました母が床から言った。
「起こして、ごめん。ゆっくり寝るには、やっぱり結局家が良くってさ」イズリは履物を脱ぎながら答えた。
「お母さんが、あなたくらいの頃は、収穫祭の時期に、家なんか帰らなかったわよ」
「眠いの。ゆっくり家で寝たい」イズリはそう言い、寝支度をすると床に入った。母はそれ以上は何も聞いてこなかった。
 イズリが家に帰ったのは、ちょうど空が白み始めた頃だった。
 イズリは昨日のマルフとの一件の後、暫く林に入って、一人木陰に座っていた。宴に戻る気分にはなれなかったし、かと言って、家に帰るにも心の整理がついていなかった。
 イズリは長い時間、考えていた。時々、その近くをイズリに気づかぬ様子で、若い男女が通り過ぎて行った。皆そうして、恋い語らい、愛を育んでいくのだろう。
 若人の宴が何のためにあるのか、それを深く考えず、呑気に参加した自分が情けなかった。
 結局、どうしようもなくて、夜明け前に家路に着いたが、その帰り道、ようやく少し落ち着いて、マルフに悪いことをしたと思った。マルフのことは、昔からよく知っている。兄貴肌で、口は少し悪いが、曲がったことが嫌いで、でも、意外と繊細で、そして、誰に対しても親切で優しい。悪いやつじゃない。今日だって、誠心誠意自分の気持ちを伝えようとしてくれたではないか。
 けれども、それでも、マルフと結婚するという想像はイズリにはできなかった。
 そうしてイズリは家に辿り着き、床に就いたのだった。疲れていたのだろう。思いの外、すぐに眠りの世界に落ちていった。

 イズリの目が覚めたのは、昼過ぎだった。父が寄合から帰ってきて、その声で目が覚めた。
 父の声は随分と機嫌が悪い。
「里長の交渉は失敗だ。ブルドゥ様は、これっぽちも譲らなかったらしい」
 イズリは身を起こさずに、床の中で身動きし、父母の様子を見守った。
「風車を作れないってこと」母が父に尋ねた。
「それなら、また、お金を貯め直すだけだから、まだ良かったが……。建設の予定は変えられない、里の負担も当初のまま減らさない、と。持ち逃げの件は関係ない、自分達で尻を拭えという話だ」
「ブルドゥ様らしくないご判断ね」
「北の地の実りが良くないらしい。風車を作って、一刻も早くこの土地にかける税を増やしたいのだろう。この調子では、風車ができたところで、私達の取り分は少ないかもしれない」
 イズリは、そんな話を、大人は大人で大変だなと思いながら聞いていた。今は収穫祭。楽しむ時。老若男女、誰であろうと、踊り、歌い、呑み明かす季節。しかし、現実はそんなに単純ではないらしい。
「ああ、あいつが持ち逃げさえしなければなあ」不意に父が呟いた。どうしようもなく、口をついて出たのだろう。
 父の言葉を聞いてイズリは静かに苦しかった。

 イズリはその日の昼過ぎには家を出た。あまり家に長く入り浸ると、親は心配するだろうし、それであれこれ聞かれたりするのも面倒くさい。
 まだまだ露店が出ているから、誰か仲間と巡ってもいいし、あちこちで催されている宴に適当に参加しても良い。
 しかし、どうも気が乗らず、ポトが来るわけでもないのに、ソヨタの川原で時間を潰すことにした。収穫祭の時に、こんな場所に来る人はいないので、イズリは川原の大きな石の上に腰掛け、いたずらに時間を過ごした。
 ポトが来ないかと、懐のもらった石を何度も確かめたが、石には何の変化もなく、ポトが訪れる兆しはなかった。
 イズリは今の自分の気持ちがどういうものか、自分でもわからなかった。靄のかかった、ただ何となく重く、不快な気持ちだった。
 とは言え、マルフには何かを伝えなければいけない気はしていた。マルフは一生懸命言葉を尽くして伝えてくれた。それに報いるだけの、努力はするべきだと思った。ただ気が進まないのも確かで、イズリは日が沈むまで、そうしてそこで、ただぼんやりと考えながら過ごした。
 空が暗んで、いい加減マルフに応えにいかなければと、イズリは渋々立ち上がった。
 マルフが指定したニイナの広場に近づくと、その辺りから笛太鼓の音と騒ぎ声が聞こえてきた。もう始まっているのだろう。マルフたちは、たくさん人を集めたようだ。イズリが想像していたより、ずっと多くの人影が見えた。あまりに人が少ないと、周りから目立って、マルフに返事をする機を見つけるのが難しくなるので、この人だかりは好都合ではあったが、また、今のこの気分であの陽気な輪の中に入りたくはなかった。
 もう少しだけ宴が落ち着くのを待ってから行こう。イズリは、そう考えて、脇の林に分け入り、丁度良い切り株を見つけて、また腰掛けた。
 イズリは落ち着くのを待ちたいと思ったが、始まったばかりの宴は、当然勢いを増すだけだった。
 しばらくしてから、イズリは、仕方なく腰を上げたが、しかし、またすぐに別の考えが、イズリの足をその場に留めた。
 そうだ。一踊りして気を盛り上げてから向かおう。
 広場からラタンの太鼓の打音が聞こえてくる。イズリは、地を足でならしてから、音に合わせて足踏みを始めた。少し軽く飛んでみて、それに腕の動きを合わせてゆく。軽快な拍子に合わせて舞い踊る。誰に見せるわけでもない、自分のための踊り。音は段々と激しくなってゆく。それに合わせて、イズリは、漠然とした今の不安をぶつけるように踊った。囃子はより一層強く激しくなり、ラタンはいよいよランダになった。イズリは、呼吸が苦しくなるのも構わず、遮二無二に舞った。足が疲れてもつれそうになり、腕だって千切れそうに痛かったが、止めようとは思わなかった。
 イズリは踊りながら考えた。自分がマルフの嫁になりたいのか、なりたくないのか、この先どうするのか、どう生きたいのか。わからない。わからないんだ。私はどうすればいい。どう生きれば良い。誰か教えて欲しい。私には私がわからない。誰か導いて欲しい。私のことを一番良く知っている人は誰? ポト。ポトだ。ポトに会いたい。思い返せば、テルヤの前から会っていない。会いたい。ポトに会いたい。
 いよいよ疲労は頂点に達し、僅かに吐き気すら覚えたが、目を閉じてそれに堪え、イズリは踊り続けた。
 目を閉じて暫くすると、ふと身体が軽くなっていることに気がついた。限界まで踊り続けると、時々このようなことが起こるというのは、イズリも経験で知っていた。しかし、今日はとりわけ軽い。身体の感覚がなくなってしまったみたいだ。今、回った、今、飛んだということは、何となくわかるのだけれども、どうも掌が空を掻いている感じがしない。心地良い陽気の中を飛ぶ綿毛になったみたいだ。
 イズリはそっと目を開けてみた。
 イズリはイズリを見下ろしていた。イズリは、遥か下の方で自分自身が踊っているのを見た。
 そして少し前に目を向けると、林を抜けた広場がぼんやりと明るく、人がそこに集まっているのがわかった。
 イズリは以前にも同じようなことがあった気がした。そして、それが、ラグの実を食べた時だったということを思い出した。ソヨタの川原で、ポトに教えてもらって魂を浮かせたあの時……。ということは、今、私は魂を飛ばしている?
 なんだか、夢の中にいるように、ぼんやりとして、それ以上のことは、考えられなかったが、おそらくそうなのだろう。
 肉体を離れたイズリはずっと自由だった。恐ろしく身体が軽く、イズリの思うように、空を移動することができた。
 イズリは直ぐにソヨタの川原を越えてゆき、黒々と広がる森を上から見下ろした。
 この森のどこかにポトがいる。そう思うと元気が湧いてきた。これで遂に会いにいけるのだ。
 イズリは森の上を高く飛んだり、森の中に入ってみたりして、ポトを探し回った。
 途中、闇に光る獣の目と視線があった気がしたが、イズリは気にかけなかった。イズリは前に訪れたナガルの小屋を探そうとした。あれが夜の森にあるならば、きっと目立つはずだ。けれども、小屋はどれだけ飛んでも見つからなかった。大きな声で、ポトの名を呼ぼうと思ったが、声は出なかった。
 魂を飛ばすうちに、それには、かなりの体力を使うということが段々わかってきた。最初の頃より、ずっと動きが重くなっている。今はもう水の中を走って移動しているような感じで、前に中々進めなかった。
 しかし、ここで諦めたなら、ポトには会えない。なぜそう思うのかはわからなかったが、今すぐに、ポトに会いたかった。魂の姿でポトに会って、どうなるのかはわからなかったが、ポトなら気がついてくれるとも思った。
 今やポトに会うという、その思いだけで、そこに存在していた。けれども、それもいい加減、限界だった。底に引きずるような眠気が襲ってくる。意識を保つのが難しくなってきた。
 イズリは前に魂を飛ばした時のことを思い出した。戻る身体を忘れてはならない。このまま眠ってしまっては、いけない気がする。
 イズリはもう落ちるという瞬間、林で踊る自分の足を意識した。確かに足はあった。そして、身体に魂が戻るのを感じた。
 が、戻る直前、魂のイズリがポトを見つけた。ポトは不意に森の闇の中から姿を出して、あんぐり口を開けてイズリを見つめた。
 それでも、イズリはこれ以上そこに留まることはできなかった。
 身体に着地したイズリは、そのまま引き摺り込まれるようにして、夢の中に落ちていった。

11
 イズリがあまりの寒さに目を覚ましたのは、空が白み始めた、まだ暗い頃だった。大木に背を預けて寝ていた。かなり長く寝ていたのだろう。身体が痛い。誰かに見つからなくて幸いだった。酔い潰れて寝てしまったと思われるのは、恥ずかしい。
 昨日のことは、はっきりとは覚えていない。
マルフに返事をするため、ここにやってきた。少し踊ってから行こうと思い、踊った。魂を飛ばした気がする。そして、ポトを見た気もする。しかし、どこからが夢なのかわからなかった。
 イズリは身震いをして立ち上がった。
 ここに居続けても仕方がない。イズリは、せっかくの夜明けなのだから、日の出を見に行こうと思った。ソヨタの川原を上流に向かって登っていった先に、里を見下ろせる高台がある。イズリはそこから見る日の出が好きだった。
 里の奥に広がる山脈の向こうから、少しずつ太陽が姿を現す。それに従って里も光を浴び、少しずつ色づいてゆく。年に何度か早起きして見に行くほど、イズリの好きな景色だった。
 先程より空が大分明るくなっていたので、イズリは早足で向かった。せっかくならば、山から日が顔を出す前に高台に着きたい。歩くうちに、寒さは気にならなくなった。
 川に沿って山道を登り、ようやく高台が見えた頃、そこに先客がいることに気が付いた。立ち姿から想像するに、少し大柄な男だ。離れたここからでは、まだ誰かわからない。誰かが里を見下ろしている。後ろ姿なので断言はできないが、あの姿に見覚えはなかった。イズリは、徐々に近づいていった。
 ふと、男の腰に提げられた飾太刀が、目に止まる。あの飾太刀は……。
 イズリは、見晴らしの良い高台に上がるのは諦め、坂の途中で立ち止まり、そこで日の出を待とうとした。
 と、不意に男がこちらを振り返り、よく通る大きな声でイズリに呼びかけた。
「里の者、私に構わず、ここで日の出を見なさい」
 イズリは驚いた。気づかれないくらいには、充分に距離をとっていたつもりだった。気まずくは思ったが、声をかけられて無視をするのも失礼だと思い、イズリは男の横まで坂を駆け登った。
「ブルドゥさんですよね……」顔を見ながら、おずおずと尋ねる。
「いかにも」ブルドゥは答えた。
 彼こそが、この地方一帯を治める役人の長、ブルドゥであった。ブルドゥが腰に提げている飾太刀がその印であることは、イズリも知っていた。長と聞いてイズリは年老いた里の長老のような人を想像していたが、実際には四十くらいの、まだまだ精悍な男であった。淡い紫の衣を纏い、静かに里を見下ろす彼の様子を、イズリはなぜか美しいと思った。
「あの、ブルドゥさんはどうしてここに」
「君と同じ理由だ。日の出を見に来たのだよ」落ち着いた低い声は、決して大きくはないけれども、それでも朝の澄んだ空気によく響いた。
「君の名前は」ブルドゥが問いかけてきた。
「イズリです」
「イズリ……。もしかして、先日の大きな宴で、開幕の儀を務めた舞手じゃないかな」
「え、私のことをご存知なのですか。おそらく、それは私のことだと思います」イズリは驚いた。広場にいたら目立つであろうブルドゥの姿はなかった。
「見ていたのだよ。里を見渡せる場所はここだけではないからね。里長と話をした場所はとても見晴らしの良い場所だった。丁度そこから、広場が見えて、良い舞手が見えた。それを里長に話すと、色々と君のことを話してくれたよ」
 里長が自分の何を話したのか……。エノヒの子ということをなのか、ポト一家と仲が良かったということなのか、気にはなったが、それでも、良い舞手として、ブルドゥの記憶に残ったのは、心から嬉しかった。
 それから二人は黙って日が昇るのを眺めた。辺りには、鳥の囀りと穏やかな風の音だけが響いていた。
 初め、線のような光が山の向こうから漏れ出した。やがてそれが太くなり、弧になり、姿を現し始めた。こうなると、太陽の姿は、眩すぎて殆ど見ることはできない。しかし、本当にイズリが見たいのは、太陽そのものではなく、それによって染め上げられる里であった。
 何度見ても溜息が出るほど美しい。朝靄に包まれた里が、朝日に照らし出され、徐々に浮かび上がってくる。茅葺き屋根の里人の住まいも、収穫を終えた田畑も、堅牢な石造りの砦も、全てが淡く輝いて見える。暫く眺めていると、人々が目覚め、朝の活動を始めるのがわかる。朝食を作る煙があちらこちらから上がる。そして、ああ、里にはたくさんの人が暮らしいているのだと気付かされる。
 そんな光景をイズリとブルドゥは、ただ静かに見守った。
 やがて日が昇りきり、それでイズリは充分に満足したのだが、ブルドゥがまだ動こうとしないので、先に立ち去るのも気まずく、イズリはブルドゥに声をかけた。
「あの、ブルドゥさん。どうして、こんなところに一人で日の出を見に来たのですか」
「どうして、か。日の出は美しいからね」ブルドゥはイズリを見て優しく微笑んだ。
「長である方が、警護もつけず一人で、ですか」
イズリがそういう言うと、急に顔を崩して吹き出し、くくくと笑った。なぜ吹き出したのかはわからなかったが、イズリは役人もこんな顔をするのかと驚き、また僅かに親しみも感じた。
「あ、いや、失礼。実は私もかつて、同じ質問をしたことがあってね。君と違って、先王にだが。今思えば、王にこんな質問するなんて、随分不躾なことをしたもんだ。その時のことを思い出して、笑ってしまったんだよ。あ、いや、君のことを無礼だと思っているわけではない。王様と私じゃ全く立場が違うかね」イズリが顔を曇らせたのを見て、慌ててそう付け加えた。
「昔ね、私が通う学校を先王が視察にいらっしゃったことがあったんだ。その時にね、以前噂で耳にした、遠出をすると平民にやつして、その街の朝日を見に行くというのは本当か、本当ならどうしてかと尋ねたんだ。大人たちは驚いていたよ。王が子どもたちに声をかけることがあっても、子どもたちから話しかけることは想定していなかっただろうから」
「それで、怒られたのですか」
「後で怒られたが、誰も本気では怒ってこなかった。それほどまでに王の答えは美しかったからね。みんな聞けてよかったと思っていただろうよ」
「王様はなんて?」
「随分と昔のことだからね、多少違うところがあるかもしれないが、大体はこうだ。『これは、私の父から言われたことだがね。国を見て回るときは、その地の日の出をご覧なさい。そして、朝日はきっと美しい。この国を、この地を美しいと思えなければ、王などという務めは、ただ辛いだけのものだよ、そう父はおっしゃった。だから、私はその言葉を信じているのだよ』これが王の言葉だった。王家に伝わる家訓なのかもしれない。いや、もしかすると王家への畏敬の念を育ませるための作り話だったかもしれない。しかし、かつて少年だった私には、充分過ぎるほど響いた。それで、私は役人として方々へ赴くたび、その地の日の出を見て帰るのだ」ブルドゥは、穏やかに語った。
 イズリはブルドゥのいう美しさがわからず、その話を寧ろどこか冷めた気持ちで聞いていた。何かが引っかかるのだ。そして、やがて何に引っかかったのかに気がついて、気がついてしまうと、無性に腹が立って、嫌味っぽく言ってしまった。
「つまり、あなたはこの土地が好きなんですね。豊かに実る田畑がある土地が。税がたくさん手に入る土地が」
 ブルドゥが何か言いたげに口を動かしたが、イズリは構わず言い続けた。役人の長に、このような物言いをするなど、とんでもない無礼だと分かっていたが、ポトのことを思い出せば思い出すほど、怒りを抑えられなくなって、勝手に言葉が飛び出した。
「あなたが愛すのは、人じゃない。豊かな土地だ。もっと税金が欲しいから、風車の建築を急ぐんだ。今この里に風車を作る余裕はない。ポトの家族が盗んだからね。けれども、あんたたちは、風車の建築を止めることを認めてくれないし、お金もこれ以上は援助しないと言っている。この里の人のことなんて、何一つ考えてくれちゃいないんだ」そこまで言って、流石に言い過ぎたと思ったが、引くに引けずギロリと睨んだ。
 ブルドゥはイズリの剣幕にほんの少し驚いたようであったが、しかし、深く溜息をついて俯いた。
「否定しないのですね」イズリは詰めた。
「否定しないわけではない。しかし、君の言う通りだと認めざるを得ないところもある」
 イズリはブルドゥの目に憂いが浮かぶのをみた。決して傲慢ではない、寧ろ弱々しく悲しげな目。そんな目を役人の長であるブルドゥがするとは思っていなかったので、イズリの怒りはそれで一気に削がれてしまった。
「ああ、そういえば君はあの一家の息子と仲が良かったんだね。そう里長から聞いたよ。無茶な風車建設となれば、里が苦しくなる。そうすれば、あの一家への恨みは、より一層強くなる。側でそれを見ている君は、さぞ辛いだろう。申し訳ないと言う気持ちは、私にもあるよ」
「じゃあ、なんで……」
「君は、私が土地を愛していると言ったが、それは誤りだ。私は確かにこの地と、この地に住む人々を愛している。しかし、また同時に隣の地に住む人々も、その隣も、同じように愛している。私はこの国の民を平等に愛しているのだ。君は知っているかい。北の地では、冷夏ばかりで、不作が続いている。それから、西の地の先にある新興国が怪しい動きをしている。戦争が起こるのではないかと、辺境の地では慌ただしく準備が進んでいる。そんな中で、この地は、食糧確保の要なのだ。この地が潤わないと、どこかで民が死んでゆく。この地はもとから豊かだ。たとえ、風車の建設を強行したとしても、民は苦しい思いはすれども死にはしない。風車が完成し、灌漑設備が整い、更に開墾して、実りが増えれば、この里はもちろん、国も豊かになる。だから、この里に負担を強いるしかないのだ。いや、君は、それなら我々が負担を肩代わりすれば良いと言うだろう。確かに、どこかの豪家から、寄付を募れば、多少資金は集まるだろう。だが、それだけ、豪家が里の運営に口を出すのを聞かねばならない状態になるということだ。それは、国が負担しても同じことだ。自分たちの力で建てない限り、この里は搾取される側になる。私は里にそんな未来をもたらしたくない。たとえ、里の者の恨みを買ったとしても、大きな視点で見た時に、この一手が最善の手だと私は信じている」
 里を見下ろすブルドゥの眼差しに嘘偽りは感じなかった。イズリは、父母がブルドゥを聡明な人間だと評していた理由がわかった気がした。里の物知りな長老たちとはまた違う、内に秘めた熱を持つ強く賢い人間なのだと感じた。
「先程は酷い言い方をしてすみません」イズリはおずおずと謝った。
「いや、あなたたちの私への恨みは当然なのだ。風車を今造るのは、里の都合ではないからね。君たちの犠牲のもとに造るのだ。先ほどは、これが最善の一手だと言ったが、本当はそうではないのではないかと、ふと怖くなる時があるのだよ。さっきも、そうだった。君が登ってくることに気がついた時、里の者が私を闇討ちに来たのではないかと恐ろしくなった。殺意も何もない少女だとわかった時、どれほど安堵したことか。いや、襲われるのが怖い訳ではない。たとえ里の者が三人がかりで鎌を持って襲ってきても、倒せるくらいの武術の鍛錬はしているのだ。けれども、私を襲った者はたとえ私が殺さずとも、ただではすまない。それが怖いのだ。私の一つの判断で、誰かを殺すことになるのが、とてつもなく怖いのだ」ブルドゥはそこまで言って止めて、イズリを見て微笑んだ。
「余計なことまで喋ってしまったね。私から聞いた話は、里人には語らず、心に閉まっておいてもらえるかい。私だってこんな話が広まろうものなら、恥ずかしくて仕方がないからね。さあ、お行きなさい」
 イズリはこくりと頷いた。
「ありがとうございました。こんなにも里のことを考えてくれる人がいたなんて、初めて知りました。どうぞ、里をよろしくお願いします」イズリは、一礼し、坂を駆け降りた。

12
 懐にあるポトからもらった石が温かくなっていることに気がついたのは、ブルドゥに会った日の昼頃だった。イズリは、あの後一旦家に帰り、朝食を取り、しばし休んでいた。そして、今日こそはマルフに話に行こうと決意し、今の思いをどう伝えるか、あれこれと想像していた。
 ようやくこの言葉でいこうと決めた頃、石が熱を持っていることに気がついた。今日、ポトがこの里を訪れるのだ。
 ポトに会うのはいつぶりだろう。前に会ったのは、テルヤの前で、しかも店先で、ほんの少ししか話すことができなかった。その前は……、ああ、魂を飛ばした時だ。そんな前からきちんと話せていないのか。イズリは迷うことなく、ポトとの再会を選んだ。マルフには明後日でも会える。
 ポトが来るであろう頃合いになると家を出て、ソヨタの川原に向かった。
 川原に着くと、既にポトがイズリを待っていた。何か落ち着かずに、木の下で地面に足を擦り付けている。
「ポト、久しぶり」イズリが手を振って近づくと、こちらを見て、ポトがふっと肩の力を抜いた。
「久しぶり。元気そうでよかった。急に俺を呼びに来るんだから、何かあったのかと思ってびっくりしたよ」ポトが言った。
「え、私、ポトを呼んだの? ということは、やっぱり、私、昨日魂を飛ばしたんだね」
「まあ、そういうことになるね」ポトが苦々しく頷いた。
「私も呪術師の才能あるんじゃない?」イズリがそうふざけて言うと、ポトはそれをきっぱりと否定した。先日イズリに魂飛ばしをさせた際、ナガルにこっぴどく叱られたのだろう。絶対に同じ過ちは繰り返すまいという強い意志が感じられた。
「誰だって、ふと思いが大きくなった時に、魂を飛ばすことはあるんだ。特にイズリは一回飛ばしたことがあるから、飛びやすい状態になっていたんだと思う。けれども、呪術師の才能とそれは別物だよ」
「はいはい、わかったって」イズリが渋々頷くと、ポトは小さく意地悪く笑った。
「まあ、俺を羨ましく思う気持ちはわからなくもないけどね。呪術師は面白い」
「その言い方、腹が立つ。でもね、ポトと違って、私はテルヤも終えたし、若人の宴の開宴の踊りを一人で務めたし、それをブルドゥさんに褒められたし」
 イズリはそうして、今朝ブルドゥと会ったこと、そして、そのブルドゥが話したことをポトにも話した。ブルドゥは、里人にこの話をしないように言っていたが、里人でないポトなら良いだろう。
 ポトはその話を感心して聞いていた。
「世の中には、すごい人もいるもんだね。俺らよりも、ずっと世界が広いんだろうな」
 その後は、最近釣った魚のこととか、そういう幾つものたわいない話をして、その間に時間が経っていった。
 だが、ポトはイズリが取り留めもない話だけをしに来たとは、思っていないようだった。話の間合いから、イズリもそれを感じ取りつつ、くだらない話を幾つも挟んだ。
 いざ、聞いて欲しかった話をしようとすると、どう話せば良いかわからなくなってしまったのだ。
しかし、いい加減、ポトも痺れを切らしたのだろう。いよいよ単刀直入にイズリに尋ねてきた。
「なあ、おい。イズリ。魂を飛ばしてしまうくらいのことがあったんだろ。それを聞いて欲しくて、俺を呼んだんだろ。言えよ。俺のせいで誰かにいじめられたか」
 ポトの言葉に思わず目を見開いて吹き出した。ポトがそんなことを気にしていたなんて、考えもしなかった。もしかすると、悪口の一つや二つは言われているかもしれないが、それは大多数ではないし、言われたところで気にするような、そんなやわな人間であるつもりはない。
「違うよ、全然」イズリは腹を抱え笑いながら答えた。
「じゃあ、なんだよ」
 さて、一体どう答えようか。
 イズリの専らの問題は、マルフへの返答だった。断るには断るつもりであったが、充分な理由はない。断ることが本当に良いことなのかもわからない。
 そもそも、自分にとってまだ遠いもののように感じていた恋だの結婚だのの話が、急に降ってきて、狼狽えているのだ。イズリはマルフへの返答より、ずっと手前の段階にいた。これから、どう生きれば良いのか、ポトに教えて欲しいのは、そういうことだった。
 けれども、そういうことをポトに相談するなら、マルフから申し出があったことをポトに話さなければならない。
 それを聞いた時のポトの反応が気になった。マルフの申し出を受けるべきだと言われたら、なんだか嫌だ。けれども、受けないで欲しいと言われても困る。どんな答えが返ってきたとしても、気分は良くない気がする。
 結局イズリは「しばらく会えてなかったから、会いたくなっちゃったんだよ」と答えた。
「だからさ、いつもみたいに話をしよう。ね、何か面白い話はない?」イズリがそう言うと、ポトは少し肩をすくめてみせた。
「本当に何もなかったの。大丈夫? 別に無理に聞き出そうって魂胆はないけどさ」
「いいからさ、最近あった面白い話」
「面白い話か……。あ、最近、修行が進んで、森の獣にも魂を乗せられるようになったんだ。面白いよ。鷹に乗せるとね、とても高いところから、景色を見渡せるんだ。それにとっても速いね。風に乗って空を飛ぶのは心地良いよ。山犬に乗せたのも面白かった。山犬に乗ると色んな臭いを感じられるようになるんだ。獣たちは、こんな風に森を感じているんだと知って、驚いたよ。俺たちの見えている世界のなんて狭いことか」
 そういう話を聞きたいわけじゃない。イズリは思った。
 イズリを楽しませる話をしたかったというのは嘘ではないだろう。けれども、ポトはポトで誰かに話を聞いてもらいたかったようで、ポトは生き生きと修行の話を語って聞かせてきた。これは、ただの自慢じゃないか。イズリの心には、ポトに対する苛立ちが生まれていた。
 ポトはとても楽しそうな修行をしている。これからも、不思議で好奇心をくすぐられるような経験を重ねていくのだろう。イズリが見ることのない、多くのものを見てゆくのだろう。
 イズリに起こったこの嫌悪感が、羨望以外の何でもないということに気がつくのに、時間はかからなかった。気がついて、自分のことが自分で嫌になったが、理解していても、羨ましいという思いは止められなかった。
 イズリは精一杯、気持ちを抑えながら、そして、こう言ってもポトは応えてくれないとわかりながら、口を開いた。
「ねえ、私も魂を獣に乗せてみたい」
「絶対にだめだよ」案の定の答えが返ってくる。
「どうして。いいじゃない。ちゃんと練習もするよ」
「誰にだって出来ることじゃない」
「私は既に、何度か魂飛ばしているんだよ」
「イズリ、君が思っているより、魂を扱うことはずっと危険なことなんだ。森の許しなく、むやみに飛ばすものじゃない」
「何、あんた、自分だけは許しを得たっていうの」
「そうだよ。森に呼ばれたあの時、許しを得たんだ。君は許しを得ていない」
「じゃあ、ポトは自分が選ばれた人間だって、私たちを見下しているわけだ」これ以上は言ってはいけないと思っていたのに、言葉が出てきてしまった。羨ましくて、憎らしくって仕方がなかった。
 これから私は、その辺の里人と結婚して、田畑を耕し、たまに狩りに行って、それくらいしかない、もう見えた人生が待っている。息苦しくてたまらない。それなのに、ポトの前には面白そうなことがまだまだ転がっている。八つ当たりだとわかっているのに、言葉が止まらなかった。
「誰がさ……」不意にポトが呟いた。
「誰が好き好んで森に選ばれたっていうんだよ。森に住むってことは、もう俺は里人じゃないんだ。テルヤだって、受けなかったんじゃない。受けられなかったんだ。そもそも何で森が俺を選んだのか、嫌でもわかる。里に居場所がないからさ。家族は逃げていない、家族のせいで憎まれ者、おまけに足の怪我があるから仕事の役にも立たない。情けだけで生かされていたけど、里の厄介者だったってことくらい、自分でわかっていた。きっと森は、ちょうどいい孤児(みなしご)がいるっていうんで、俺を拾い上げたんだ。呪術師になるっていうのは、そういうことさ。逸れ者として、生きる覚悟を決めさせられるということなんだ」ポトの叫びは悲痛で、確かにイズリはポトを憐れに思った。けれども……。
「それでも、やっぱり、羨ましいんだよ」イズリはぽつりと言った。
 ポトはそれ以上何も言わず、踵を返して、川を渡り、足を引き摺りながら、森に帰っていった。
 ポトが去った後、イズリは色々と考えた。まず、気がついたことがある。イズリは、マルフと結婚したくないわけではなかった。結婚することで、人生が決まってしまうような気がして、それが嫌だったのだ。
 イズリはテルヤを終え、大人になると何かが変わるかもしれないと期待していた。もちろん、頭ではそんなことは起こらないと理解していた。けれども、世界には何か大きな秘密があって、それを解き明かしたり、勇気を持って冒険に赴き、大きな困難に立ち向かったり、そういう未来に希望を持っていた、
 ポトが足を踏み入れた世界は、まさにイズリが望むそれだった。見えないものを見て、獣に魂を乗せて冒険する。ああ、羨ましい。
 だから、イズリは腹を括った。
―私は里を捨てることになろうとも、呪術師になる―
 ポトは呪術師になるには森の許しが必要だと言ったが、現にイズリはそんなもの得ずとも魂を飛ばせたわけで、つまりは、実際呪術師になるために必要なものはナガルの許しだろう。そう思ったイズリは、ポトを追ってナガルの家まで行ってやろうと決意した。

13
 前に一度入ったことがあるとはいえ、ナガルの住むこの森は不気味なところであった。まだおやつ時を過ぎたばかりだというのに、木々で天井が覆われて薄暗い。湿った土の匂いが、ずっと鼻から離れない。
 森に入ったことがポトにばれたら、追い返されるに違いなかったので、追いつくわけには行かなかったが、ポトが通った道を探すのには苦労した。ポトは右足を引き摺って歩くので、そういう跡が付いているところを辿っていくのだ。土の上は良かった。イズリの目から見て明らかに確認できた。ぬかるんでいるところなんかは、左足の足跡も見つけられて、イズリは正しい道を進めていると安心した。
 しかし、ポトは途中で道を逸れ、草むらに入っていった。最初、それに気がつかず、そのまま道なりに進んで、途中で跡がなくなっていることに気がつき、慌てて引き返した。そして、跡がなくなる場所を探し、その辺りでよく目を凝らすと草むらの草に少し倒れている箇所があるのを見つけ、それで、ポトが道を逸れたことに気がついたのだった。これには、良く気がついたと思わず自分で自分を褒めた。とは言え、草むらで跡を辿るのは特に難しく、イズリは、何度も腰を屈め、目線を低くして倒れた跡のある草を探した。けれども、それを重ねるうちに、次第に自分に自信がなくなっていった。
 少しずつイズリの心に恐怖が生まれてきた。今更引き返すことはできない。引き返すにしたって道がわからない。
 これしきのことで、挫けているようでは、呪術師にはなれないぞ、そう自分に言い聞かせて、前へ前へと進んでいった。
 けれども、険しい山道だったり、片側が崖になっていたり、本当にポトが通ったのかと、疑うような道が増えてきた。これがポトの通った跡だと思っている薄い跡も、本当にそうなのか、信じられなくなってきた。
 そして、遂にある時、その薄い跡すらすっと完全に消えてしまった。茂みの中の広場のようになっているところであった。
 どうしようもなくてイズリはその場に座り込んでしまった。もう日が落ちるまで、間はない。
 ふとどこかで山犬の遠吠えが聞こえた。その時初めて、イズリは死を意識した。このまま夜が来たら、山犬に食べられてしまうかもしれない。
 勇気を出せ、イズリ。自分にそう言い聞かせ、なんとかナガルの家に辿り着けるよう、腰を屈めて低い位置から、もう一度跡と思しきものを調べてみた。
 やはり、ふつりと切れている。
 落胆しかかった時、イズリに一つの考えが浮かんだ。四方八方を見渡してそこで跡がなくなっているということは、上、つまり木に登ったのでは? イズリはとても良いことを思いついたと、意気揚々と目の前の太い木を目で辿り、そのまま枝を仰ぎ見た。
 と、そこに居座っていた山犬と目があった。ギラリと光る狩人の目。
 山犬はイズリに気がつかれたことを悟ると、イズリの喉元に向かって一直線に飛びかかってきた。
 ああ、このまま食い殺されるのか。襲いかかる山犬がゆっくりと動いて見えた。
 きっと日が落ちきるのを、狩りの時間が来るのを、ああして木の上で待っていたのだろう。
 イズリの背後からも何かが飛び出す気配があった。山犬は集団で狩りをする。
 イズリが勝てるはずはなかった。
 イズリは、驚きと恐怖で何も出来ないまま、襲いくる山犬をただ見つめていた。どんどんと山犬の顔が近づいてくる。剥き出しの鋭い歯がよく見える。イズリを噛もうとその口が開いた。獣の匂いがする。イズリは思わず目を瞑った。
 と、ギャンという鳴き声がして、山犬がイズリから逸れた。誰かかが松明を投げつけたらしい。広場の奥に火のついた松明が転がっていた。イズリはそれを目の端で捉えたが、後ろから襲いかかる別の山犬に気づき、その腹を思いっきり蹴り飛ばした。すると今度は、その隙に別の山犬が襲いかかってきて、イズリはぎりぎりのところで、それを避けた。
 やられるのは時間の問題だ。そう思った時、不意に近くで遠吠えが聞こえた。
 すると山犬たちはその遠吠えに高らかに応えたかと思うと、イズリのことなど忘れたように、声の方角に向かって走り出した。
 どうやら助かったらしい。ほっとすると同時に力が抜け、しゃがみ込み、立ち上がれなくなってしまった。
 しばらくぼんやりして、手を握ったり開いたりしながら、ようやく身体の感覚を取り戻し、立ち上がった時、奥の茂みが揺れて、そこからポトが姿を現した。きっとさっき松明を投げてくれたのはポトだったのだろう。
「ポト」イズリは嬉しさのあまり名を呼んだが、その呼びかけなど聞かず、ポトは目を血走らせて、つかつかと歩み寄ったかと思うと、高らかにイズリの頬を平手で打った。
「なんで森までついてきたんだよ。おまえ、もう少しで死ぬところだったんだぞ。俺、もし、イズリが死んだら……、死んだら……」そう言ってイズリにしがみつき、抱き締めておいおい泣いた。
 イズリは、申し訳なく思った。自分のことしか、考えていなかったこと、ポトまでも危険に巻き込んでしまったこと、そうしたことを、本当に情けなく、そして、恥ずかしく思った。
「ごめん」そう呟いた。

14
 ポトは家に着き、ナガルに、イズリがポトをつけてきていることを言われ、慌てて迎えに来たらしい。もし、ポトが後少し遅かったら、本当に死んでいただろう。
「家の周りに結界を張っているんだ。そう簡単に俺の家は見つからないよ」まだ少し不機嫌そうなポトが言った。
 暫くポトの後ろをついて行くと、やがて見覚えのある小屋が姿を現した。暗い森の中で、光を放つその小屋はとても良く目立った。
 イズリは、前にナガルがポトを叱った時の激しさを思い出し、自分は何と言われるのかを想像し、体を強張らせた。けれども、ここが正念場だとも自覚していた。ここに来ることができたからには、どんなに断られようと、弟子になりたいとはっきり伝えなければならない。
「ただいま帰りました」小屋に辿り着くと、ポトは扉を開いた。イズリもその後に続く。「おじゃまします」
「いらっしゃい。こんなところまで、よく来たね。ポト、あんたも疲れただろ。いいから、まずは食べなさい」ナガルは、怒鳴るわけでもなく、かと言ってその声に歓迎している様子もなく、淡々とした口調で言った。
 二人とも、服は泥だらけであったが、清めの水で手の汚れを落とすよう言われただけで、その後はそのまま、食卓に案内された。
 食事は、鹿肉らしい肉と山菜の鍋で、温かく美味しかった。食べるまでは、お腹など空いていない気がしていたが、少し腹に収めるとどんどんと食欲が湧いてきて、何度も器によそい直した。
 ただ、ポトは始終寡黙で、とりわけ会話もないまま、静かに気まずい時間が過ぎていった。
 ひとしきり食べて満腹になり、弟子になることをどう願い出ようか考えていた時、ナガルが言った。
「さあ、ポトや。おまえさんは、今日は西の祠に篭って、修行の続きをしておいで。このお嬢さんは、あたしに話があるらしいからね」
 ポトは素直に頷くと、よく洗濯された純白の衣に着替え、すぐに小屋を出ていった。
 小屋にナガルと二人になった。
 ナガルは、面白そうにイズリを眺めると、先ほどの卓に着くように促した。イズリはおずおずと椅子に座り、ナガルが向かいに座るのを待った。
 ナガルは座ると、悪戯っぽい目でイズリを見つめ、「さあ、どうぞ」と言った。
「どうぞ、弟子にしてください」イズリは頭を下げた。
「残念ながら、それはできない相談だね」ナガルはそう言ったが、イズリも初めから、良い返事をしてもらえるなんて、甘い期待はしていなかった。
「弟子にしていただけるまで、私は帰りません。弟子にしていただくためなら、なんだってします。どんな雑用だっていたします。辛い修行でも構いません。里を抜ける覚悟は出来ております」イズリは顔を上げて、目を逸らさず言った。ナガルのことは少し怖かった。けれども、これが一世一代の大勝負だと思っていた。ここまで来て逃げ帰ることなんてできない。
「なんで、呪術師なんてなりたいんだい」ナガルが問うてきた。
「ポトから聞く話で己の見聞の狭さを知ったからです。私に見えていない世界が、確かにそこにあって、私はそれを知りたいのです。当然、呪術師になるための修行だけではない、それ以外の厳しさもあることは知っています。それでも、この覚悟は本物です。どうか、弟子にして下さい」イズリはもう一度頭を下げた。誠心誠意、心を込めた言葉なら伝わるかもしれないと思った。
 しかし、ナガルは静かに言った。
「どれだけお願いされてもね、できないものはできないよ。呪術師というのはね、なりたくてなるものじゃないんだ。自分じゃ、どうにもできない大いなる力に振り回されて、気がつくとなっている、そういうものなんだ。『森が選ぶ』なんて言い方を良くするが、それはそういうことなんだ。選んで呪術師になりたいというおまえさんに、呪術師は務まらない。そういうものだと理解するしかないね」
「でも、私も魂を飛ばしました。何度も修行をすればきっとできるようになります」
「全く力がないというわけではないのだろう。確かに修行すれば、呪術の一つは使えるようになるかもしれない。けれどもね、魂を飛ばしたり、獣に乗せたり、そういったことは、全て手段であって、目的ではないんだ。大いなるものは、おまえに力を与えようとはしていない。そういう者が力を手に入れた時に待つのは不幸だけだ。おまえさんは、呪術師になってはいけないんだよ」
「じゃあ、どうして、ポトは選ばれて、私は選ばれないのですか。ねえ、どうして。もしかして。私が呪術師になったら不幸になるということは……。ポトは私より不幸だから選ばれたの。不幸にならないと、選ばれないの」イズリは叫んだ。
「そうさね。それは、半分当たっているし、半分間違っている」ナガルは穏やかに言った。
「大いなるものが、誰をどうして選ぶかは、あたしにはわからない。けれどもね、ポトにしても、あたしにしても、それしか道がなかったんだ。選べる者は選ばれないのが呪術師さ。それを幸と呼ぶか不幸と呼ぶかは、語る者次第だよ」
「だから私は、呪術師にはなれないということなのですね」
 イズリは何日でも何年でも頼み込む覚悟でここに来ていた。しかし、ナガルの口振りからそれは意味のないことだと悟った。どれほど願っても、真剣であっても、手の届かないものがあることをイズリはようやく受け入れた。イズリは項垂れた。悲しさ、悔しさ、情けなさで胸はいっぱいだった。
 ふと、ナガルがイズリの頭を撫でた。細長く皺くちゃな指であったが、とても温かった。
「イズリや。顔をお上げなさい。今、おまえさんが思う、つまらない人生というのは、入口こそ狭くつまらなく見えるが、奥が深く底の知れない、それこそ本当に面白いものなのだよ。あたしはその人生を味わえなかった。だが、呪術師として人と関わり、その片鱗を知ることはできた。きっとずっと、おまえさんが思うより複雑で良いものだ。いずれそのことに、おまえさんも気づくだろう。けれどもね、今、おまえさんが、それでも別の道を歩みたいと思うなら……。さっき、おまえさんは、自分が選ばれなかった人間だと言ったね。けれどもね、おまえさんは、自分で選び取る力がある人間なんだよ。そういう勇気を持って生まれてきたんだ」
「私に勇気なんてないよ。山犬に襲われた時、怖くなって、何にもできなかった。口だけの勇気だよ」
ナガルは首を振った。
「山犬がいる森に一人で分け入ろうと思うなんて、誰にでもできることじゃない。おまえさんには、自分で自分の運命を選び取り、道を切り開く力がある。おまえさんが本当にしたいことは呪術師になることかい。おまえさんは、さっき、自分の知らない世界を見たいと言った。世界は知らないことだらけだ。呪術師にならずとも、おまえさん自身で、そういう道を選び抜けばいい」ナガルはもう一度イズリを撫でた。
 ナガルの言葉はすっとイズリに染み込んでいって、徐々に心の中に温かいものが広がるのを感じた。そうしてナガルの言葉を何度も反芻するうちに、自分が今なすべきことが、見えてきた。
 そうだ。それがいい。そうすればよかったのだ。
「ナガルさん。私、今すぐここから帰らないといけない」
 ナガルはにっこり笑った。
「そうかい。夜明けを待たずにあんたを帰そう。だが、そう焦らずとも少しだけ、お待ちなさい」そう言って、前にナガルの家を訪れた時のように、薬草を幾つか煎じて湯呑みにいれ、イズリに手渡した。
 良い香りのする飲み物で、イズリはそれに息を吹きかけ冷ましながら、少しずつ飲んだ。はやる心が落ち着きを取り戻し、安らいでいくのを感じた。
 きっとこれで大丈夫。これからする私の選択を信じて良い。たとえ、正しくなくても、それを私の力で良いものに変えていけば良い。
 やがて夜更けに、ポトが修行を終えて帰ってきた。
「ポトや。イズリを里まで送っていきなさい」ポトが扉を開けるや否や、ナガルが言った。ポトは、一度イズリを見て、何かを察したように、一瞬、小さく息飲んだが、ナガルに何も聞かずに頷いた。そして再びイズリの目を見て言った。「行こう」
 二人は直ぐに支度を整え、小屋の外に出た。
 外に出ると、後ろから出てきたナガルがポトに言った。
「ポト。おまえさんが、この修行の中で一番丹精込めて整えた物をイズリにあげなさい」
 ポトは、はっとして頷いた。
 そして、イズリにも言った。
「それはね、ポトが念を込めた物だからね、この場所の記憶を持つんだ。だから、おまえさんが、再びここに来たいと願う時は、それを使っていつでも来ることができる。ここはね、結界を張っているから、磁石も効かない、普通に来ようたって来ることができない場所なんだ。だからね、もし、またここへ来る時は、それを頼りにしなさい。進むべき道を教えてくれる。ただし、そうだね。おまえさんが、ここへ戻ってきたいと思うのは、きっともう少し先のことだろう。それまでは、ただ大事になさい」
「はい。ありがとうございました」
「じゃあ、行くよ」ポトに声をかけられ、イズリは頷き、共に歩み始めた。
 しばらく背にナガルの視線を感じていたが、振り返ることはしなかった。
 まだ星の残る空であったが、ほんの少しずつ白み始めていた。夜明け前に、里に戻りたかった。
「ちょっと危ないけれど、近道しようか」ポトが言った。
 そこからは、楽しい冒険だった。二人で交替で松明を持って道を照らし、岩場に登る時は、先にポトが登って、手を差し出し、イズリを引っ張り上げてくれた。そうだ。昔はこうして良く遊んだのだ。懐かしい思いに駆られながら、幾つものとりとめもない話もした。ポトと二人でいるのは楽しかった。
 楽しい時間はあっという間に過ぎ、夜明け前にはソヨタの川原に辿り着た。川を渡れば、そこはいつもの里だ。
「イズリ。これが、師匠の言っていた、俺からイズリに渡すものだ」
 そう言って、ポトは背にかけた袋から鞘に収まった短刀を取り出し、それをイズリに差し出した。深い色をした木の柄と鞘で、これといった装飾はないのだけれども、よく磨かれて、艶々と光っていた。短刀を鞘から抜いてみると、こちらもまた鈍く光り、美しかった。ただ、刃文がなく、おそらく、実際に切ることはできないだろうということもわかった。
「師匠のところに来てからずっと磨かされていた。本当は、なんでこんなことしなきゃならないのかと思っていた。もっと面白い修行ばかり続けば、って思っていた。でも、きっと、師匠はいつかイズリが来るって、わかっていたんだと思う。俺はイズリについて行けないけれど、きっとこれが俺の代わりにイズリを守ってくれるよ。短刀というのは、切り開くもの。道なき道を切り開いてくれるのが短刀だ。イズリの勇気を形にしたものだよ」
 イズリは、はっとした。
「ありがとう。ナガルさんにもおんなじこと言われたよ。ポトにも私の未来が見えたの?」
 ポトは首を振った。
「師匠はそうかもしれない。でも、俺は違うよ。何年一緒にいたと思ってるんだ。さっき、修行から帰ってきて、イズリの目を見た時にこれからイズリが何をするつもりなのかわかったよ。頑張れよ」
「ありがとう」イズリは繰り返した。ポトが背中を押してくれている。それだけで、前に進める気がした。
 そして、さあ行こうと決心した時、ふと懐にある石を思い出した。イズリはそれを取り出してポトの首にかけた。その時に、ポトの背が、もう自分よりずっと高いことに気がついた。
「この石、返すね。今度は私が帰ってくる番。上手くできるかわからないけど、私の訪れをポトに知らせてくれるかもしれない」
 ポトはにっこり笑って頷いた。
「そうしたら、行くね」
「いってらっしゃい。また会おう」
 イズリは川の浅瀬を歩き、渡りきった。向こう岸にポトが見える。
 一度だけ振り返って手を振り、踵を返し歩み始めた。
 そのまま、イズリは家には帰らなかった。

15
 この里に来てはや数日が経った。予想していたこととはいえ、風車の建設継続の話は、里からの反発が大きかった。当然のことだ。建設継続は、里の都合ではない。国の都合だ。無理やり継続させることで、里の人々はしばらく苦しい生活を強いられる。しかし、風車を造り、この土地をもっと豊かにしなくては、更に多くの人が飢え苦しむことになる。誰かが里に負担を押し付けるこの汚れ役を担わなければならない。
 ブルドゥは大きな溜息をついて、目の前にあった大きな岩に腰掛けた。腰掛けて、やがて日が昇る里を見下ろした。
―朝日はきっと美しい。この国を、この地を美しいと思えなければ、王などという務めは、ただ辛いだけのものだよ―
 自分は王ほど、背負うものはないし、まだまだ気楽な立場に違いない。それでも、こうして里に無理を強いるのは辛い。こんな役目辞めてしまいたい。何度思ったことか。
 だが、故郷においても、この地においても、朝日はとても美しい。守らねばならぬと確かに思うのだ。
 先日、この話を里の娘にした時に気がついたことがある。先王が旅先で日の出を見に出かけると言う話は、やはり、王としての真の言葉だったのではないか。そう思えてならない。ただ単に、王の責務は辛いと言う、そういう話ではない。この地の美しさを、地に暮らす人々の尊さを知る人を育てたい、目の前にいた私に伝えたい、そういう思いだったのではないか。少なくとも、私はそういう思いで、彼女に話をした。彼女の純粋で真っ直ぐな目を見ていると、なぜか、国を憂う心を知って欲しいと思ってしまったのだ。気恥ずかしさから、咄嗟に里人に言うなと言ってしまったが、せめて彼女には、いつかこの思いが伝わるとありがたい。
 ああ、つい今日もまた朝日を見に来てしまった。
山の端から、光が差し込み始めた。
 と、ふと、背後に鋭い気配を感じた。知った若者の気配だった。
 突然、首筋に冷ややかなものが押し付けられ、若者が叫んだ。
「ブルドゥ殿とお見受けする。私は、この里で生まれたイズリという者だ。私をこの里から連れ出せ。連れ出さなければ、今ここで、おまえの首を掻き切る」
 ブルドゥは、彼女が何をしに来たか気がついて、くくと笑った。今や見ることのない随分と古い慣習だ。なんと気の強い娘であるか。その激しさは、時に諸刃の剣ともなるが、そういう若さゆえの激しさは嫌いでない。
 彼女は、国の未来などといった、何かそんな大きなものを考えてここに来たわけではないはずだ。なぜ己を選んだのかもわからない。だが、ブルドゥはそれでも自分を選んだこの娘に己の全てを伝えたいと思った。
 ブルドゥは静かに言った。
「弟子入りを望むのだろう。そんな礼儀知らずな頼み方があるか」
 イズリは短刀を鞘に収め、脇に置くと、地面に膝をつけ、頭を下げて言った。
「どうぞ、弟子にしてください。私の知らない世界を見てみたいのです」
ブルドゥは一つ頷いた。

 その後ブルドゥは、イズリを連れて、親戚一同、里の幹部と、方々に挨拶をしてまわり、イズリを正式に弟子に取った。
 その合間を縫って、イズリはマルフと二人で話をする時間を設け、それから、イズリは旅立った。

16
 イズリは腰に提げた短刀の柄を指でなぞった。こうすると、ポトの住む小屋までの行き方がなぜかわかる。イズリは日が暮れる前にと道を急いだ。昔は何も知らず分け入ったこの森だが、今ではその恐ろしさがよくわかる。遊説家となり、国中を飛び回る日々ではあるが、この森ほどの難所はそうない。この短刀がなければ、今のイズリでもポトのところには辿り着けないだろう。
 しかし、逆に言うと、追手のかかる身となった今のイズリにとっては、身を隠せる数少ない安全な場所でもあった。
 ブルドゥの弟子になってもうすぐ二十年。初めの数年は、里に戻ることなどなかったが、大事な仕事の前や、近くに寄ることがあった時など、今では少なくとも半年に一度くらいは、訪れている。
 森の奥に見慣れた小屋が見えた。ポトの家だ。
 近づいてゆき、その小屋の前に立つと、イズリが戸に手をかける前に、ポトが内から扉を開き、出迎えた。
「おかえり。そろそろ来ると思っていたよ」ポトが言った。よく知った顔だ。
「ただいま。こうもぴったり扉を開けるとは。すっかり呪術師だね」
「立派になったもんだろ」
「嫌味で言ったんだよ。なんでもかんでも、見られているかと思うと落ち着かないよ」
「何でも見られるわけじゃないさ。安心しな」
 軽口を叩きながら家に入ると、既にいい頃合いの鍋ができていて、イズリが数日滞在できるよう寝床も整えられていた。
 訪れを先に知らせたわけではなかった。この森には手紙など届かないので、何か言伝がある場合は、里に預けるしかないのだが、最近何かと身の危険を感じることも多く、里に手紙を出すわけにも行かなかった。
 イズリが荷物を下ろし、手を水で清め、食卓につくと、いつもの通り、ここ暫くのお互いの話が始まった。
「ナガルの婆さんは、まだ帰って来ないの」
「ああ、遠くの町に薬を売りに行ってから、長らくだよ。こういうことは、ちょくちょくあったが、今回はちょっと長いな。新たな居場所を見つけたか。この世にいないってこともあるかもしれないがな。もし生きていたら、そのうち、ふらっと帰ってくるさ。まあ、でも、師匠なら、どっちの世だって楽しくやっているだろうよ」
 イズリは、豪胆で逞しい老婆を思い出してふふと笑った。
「それはそうと、イズリ、次はどこに行くんだい」
「それも、とっくに知っているんじゃないの」
「なんでも分かるわけじゃないって言ったろ」
「次はいよいよ西の国だよ。西の国が起こそうとしている戦争に利がないことを説きに行かなければいけない」これが遊説家を始めての一世一代の大仕事であることは、わかっていた。だからその前にここに来た。
「そうか。イズリが西の方角に向かうことは凶と出ているんだが、そういうことだな。刺客くらいはいるかもしれない。俺として止めることを勧めたい。でも、行くなと言っても行くだろう?」
「やめられないんだよ。説きに行くのは私の案じゃない。ブルドゥの考え。まさか、ブルドゥが宰相にまで出世するなんてね。おかげで、面倒くさい仕事がどんどん降りてくる。私は遊説家なんぞ名乗っているけど、実質は、ブルドゥの駒。駒は従わなきゃならないんだよ」
「そうやって、自分には正義感なんぞないみたいに振る舞うのが、イズリの悪い癖さ。戦争を回避させたいんだろ」
 イズリは肩をすくめてみせた。
「さあね。でも確かに、誰の駒になるかは、自分で決めた」
 ポトは暫く指先で机を叩き、何かを考えていたが、やがて口を開いた。
「急いでいるのはわかるが、先に一度北に向かえ。その後に西の国へ行け。その方がいい」
 イズリは素直に頷いた。理由はわからなかったが、ポトの助言が裏目に出たことはない。そうしようと思う。こうして、頼れる人がいることは、本当にありがたいことだとイズリは思った。
 里を出てから、十七年。色々なことがあった。そして、色々なことがあったのは、あの日にブルドゥについて行くと決心したからであり、そうしなければ、イズリはきっと、今もこの辺りの里で、ありふれた里人として暮らしていただろう。
 里を出たことが、良い選択だったのかは、今となっては、正直わからない。大人になるにつれ、あの頃、ひどく退屈でつまらなく見えたあの生活の尊さを理解できるようになっていた。
 けれども、その、人々の暮らしの尊さを教えてくれたブルドゥに出会えたこと、彼の弟子になれたことは幸運と言わなければならない気がするのだ。
 仁義に厚く政治も上手いブルドゥは一地方役人の長で収まらず、王国の宰相にまで出世した。王からの信任も厚い。イズリは、ブルドゥが宰相に任命された時から表向きには独立し、遊説家となった。そして一枚岩ではないこの王国の諸侯たちを説得し、取りまとめてきた。また、一部の豪家などに富が独占されぬよう、巧みに人を動かしてきた。
 その手腕は、国中で噂になり、国内のどの里を訪れても、大抵丁重にもてなされた。
 しかし、イズリの裏に常にブルドゥがいることは、裏の者ほど、よくわかっていた。
 そして、それは時に後ろ盾になり、また我が身を暗殺の危険に晒すものにもなった。
 そんな危険を孕んだ日々を良いと言えるのかは、わからない。しかし、あの時ブルドゥについて行くことを決めたことに、一切の後悔はない。
 いよいよ、今度は他国を訪れ、戦争回避のための交渉だ。上手くやれば、英雄だなんだともてはやされるに違いない。だが、今回の戦争で一儲けしようとしている一派にとっては、イズリは確実に邪魔な存在だ。西の国に着く前に殺されるかもしれない。
まあ、それはどうでも良い。そう簡単にはやられない自信もある。
 本当に恐ろしいのは、この交渉に失敗することだ。戦争が始まったら、多くの人が死ぬ。それがイズリの怖いことだった。人には言わずとも、何度も悪夢を見た。
 だから一度ここへ帰ってきた。
 ここに来ると、昔の自分を思い出す。好奇心だけで動く、冒険に燃えたかつての自分を。今の状況を、過去の自分が聞いたら心を躍らせ、立ち向かって行くことだろう。
 ふとこの場にはいないナガルの言葉が思い出される。
―おまえさんには、自分で自分の運命を選び取り、道を切り開く力がある―
 さあ、イズリ。腹を決めろ。この国の生き延びる道を切り開け。
 イズリはそう自分に言い聞かせると、一つ頷いた。そして、ポトを見て言った。
「明日、里に日の出を見に行きたいんだけど、付き合ってくれる?」
「もちろん」
 あの高台から、日の出を見よう。そして、この里の日の出が美しいことを思い出そう。そして、それを守るために、覚悟を決めよう。イズリは、そう思った。

選ばれざる英雄の前日譚

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選ばれざる英雄の前日譚

里に住む十四歳の少女イズリは、ある初夏の宵に幼なじみのポトと散歩をしていた。ある時、ポトは森が自分を呼ぶ声を聞きき、川を渡って里の外に出てしまう。それを追いかけたイズリも一緒に森の中に入り、迷い込んでしまう。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-29

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