桜狐 (さくらこ)

 桜尾山(さくらおやま)には男を食い殺す化け物が住んでいる。
 元禄時代の江戸で、そんな噂が立っていた。なんでもその化け物は、山に入ってきた男を見つけると美しい女の姿で現れて誘惑し、殺すという。
「かぁーっ、おっかないねぇー!」
 芝居小屋の楽屋で化粧を落としながら白髪交じりの座長が言った。
「美女は見てぇが、殺されたらおしめぇだ。俺は古女房の畳みてぇな皺だらけの顔を拝んでりゃ、それでいいや!」
 それを聞いて古株の役者がかつらを外しながら言った。
「まあ、おカミさんの顔を拝んでいりゃ、確かに死にはしねぇが、あたしだったら三日で病気になっちまいますけどね、へへ」
「馬鹿野郎! あいつだって若い頃はな、部屋を暗くして頭から布団を掛けりゃ、そりゃー、夜はいい女だったんだよ!」
 楽屋にいた役者達が一斉にどっと笑った。が、一人だけ笑わない役者がいた。それは女形(おやま)役者の美之助(みのすけ)だった。
 元禄文化が真っ盛りの頃、江戸では美之助の女形姿が評判になっていた。美之助の演じる女形姿は、その優美さ、しなやかさが本物の女以上と評判だった。彼の美人姿を目にした者は、老若男女を問わず、思わず息を飲み、芝居中に失神する者が続出した。上方で女形役者の技量を積み、江戸にやってきた美之助は、江戸の女形役者にはない独特の色っぽい歩き方や振袖の扱い方をしていた。そのため、江戸の女達はこぞって彼の歩き方やしぐさを真似し、それが噂を呼び、彼のいる一座の芝居はいつも満員御礼となっていた。
 美之助の年の頃は二十七、八。男の色気も女の色気も両方持ち合わせた中性的な顔立ちをし、役者をするために生まれてきた顔と言っても過言ではない。
 芝居を終えて大勢の役者と共に楽屋に戻った美之助は、正座をしたまま化粧も落とさず、鏡の中に写る美人姿の自分の顔を見つめていた。そのまなざしはどこか暗く、何か思いつめたものがあった。
「おい、美之助」座長が美之助に声をかけた。「さっきから、なに、ぼうっとてめえの顔に見とれてんだい。何か考え事かい? それとも、江戸で三本の指に入る女形と言われたてめえの美しさに、自ら恋わずらいかい?」
 座長のその言葉に他の役者達が化粧を落としながら笑った。
「いえ、そんなんと違います」
 美之助は座長の方を向き、首を横に振った。
「なら、さっさと化粧落として着替えちめぇな。今回の興行は今迄で一番の大入りだったんだ。今日はパーッと花見酒と行こうじゃねぇか? 心配するねい、もちろん今日は俺のおごりだよ。屋形船に乗って、隅田川の満開の夜桜でも見ながら、浴びるほどうめぇ酒、飲もうじゃねぇか」
「はあ……」
「おうおう、遠慮するなよ、美之助」古株の役者が言った。「おめぇさんがこの一座に入ってから、その女形姿に惚れ込んだ客が老若男女、町人、侍、武家の後家さんを問わず、次から次へと新しい客を呼び込んでいるんだ。いやいや、謙遜するんじゃねぇよ。これは全部おめぇのおかげだ。お世辞じゃねえ。ここにいるみんなが、それは認めているこった。なあ、みんな?」他の役者達もにこやかにうなずいた。
 座長が楽屋にいる役者達に言った。
「今日は思う存分どんちゃん騒ぎだ。おめえら、気ぃ失うまで飲ませてやるぞ!」
「おぉ、そりゃーありがてぇ」
 役者達が一斉に沸き上がった。
「…………」
 美之助は突然、畳に額をこすりつけんばかりに座長に向かって土下座した。
「座長、すんません。しばらくおひまをいただけませんやろか?」
「な、なんだって?」
 楽屋の中がしんと静まり返った。
「わがままなのは重々承知しとります。流れ者のあたしを、快く一座に受け入れてくれて、しかも看板役者にまでしてくれた座長さんやみなさんの優しいお気持ち、心から感謝しとります。そやけど、どうしても行かなあかん場所があるんです」
「行かにゃならん場所があるって、いったいどこだ?」
「すんません。何も聞かず、半月、いえ、十日ほどでいいんでおひまを、どうか、どうかおひまを」
「美之助……」
 ただひたすら頭を下げる美人姿の美之助を、座長はじっと見つめていた。
 座長が美之助の肩にそっと手を添えて言った。
「美之助、今夜の酒は、しばしの別れ酒になるなぁ」
 美之助は顔を上げ、座長に再度、深々と頭を下げた。

 次の日の朝、美之助は化粧道具や芝居の衣装一式を荷物にまとめて背負い、足早に江戸の町を離れた。そして、西へ西へとひたすら歩き、江戸の町人達の間で化け物が出ると噂になっている桜尾山へと向かった。
 江戸を離れて二日ほど歩いたところで美之助は桜尾山に入った。
 桜尾山の山頂には大きな一本の桜の樹が生えている。江戸の桜が満開なら桜尾山は少し散り始めている頃かもしれない。美之助は一年前に山頂の桜の樹の下に行ったことがあり、そこは忘れられない場所でもあった。
 山頂に向かう途中、美之助は山道に朽ちかけた地蔵を見つけた。そして、そこで立ち止まり、手を合わせ、一年前この桜尾山であったことを静かに思い出した。

 今から一年前、季節は今と同じ桜の頃、美之助は上方から箱根の山を越え、江戸へと向かうため、この桜尾山の山道を歩いていた。山道は狭く、周りには背の高い木々がうっそうと茂り、茶店や人家もまったくないさびしい道だった。そんな山道で美之助は年のころは十五、六歳位の娘と出会った。娘の姿はどう見ても旅姿でも、山の中に何かを採りに入る姿でもなく、そしてさほど美人でもない普通の町娘の格好だった。
 美之助は即座にこんな山の中に似つかわしくない格好の娘を怪しく思った。
「旅の人、こんな山道を一人で歩くのはさびしいでしょ。旅は道連れ、私がお供しますよ」
 娘はそう言うと美之助の隣に並んで歩き始めた。
 美之助は前を向いたまま、隣で歩く娘の匂いに意識を向けた。
「旅の人、その背中に背負っている荷物はなあに?」
 娘が微笑みながら言った。
「これは、あたしの商売道具です」
「へー、商売道具ねぇ。旅の人、あなたの商売道具は鉄砲かい?」
「いいえ、あたしは猟師ではありません」
「へー、そうなんだ」
 娘はにんまりと笑った。
「ところで、娘さん。こんな山道を娘さんはなんでまた、一人で歩いているんですか?」
 すると娘がさびしそうにうつむいた。
「母(かあ)さまとはぐれてしまって、途方にくれておりました……」
「ほう、それは大変ですなー。一緒に探しましょか?」
「いえ、もうあきらめました……」
 娘は足取りを緩めると、美之助の後ろを歩き始めた。
「娘さん、なんであたしの後ろを歩こうとするんですか?」
「え、いや、あのー、新緑がきれいだったもので。へへ」
「そうですか、じゃあ、私もゆっくり歩いて新緑を楽しみましょ」
 美之助がゆっくり歩くと、娘はさらにゆっくり歩いて美之助の背後に立とうとした。
 美之助がそれに気づいてさらにゆっくり歩くと、娘もさらにゆっくり歩き、やがて美之助も娘も立ち止まってしまった。
「娘さん、なぜ止まる?」
「いや、ほら、あそこにおいしそうなきのこがあったもので」
「それ、毒キノコですわ」
「いや、あの、山菜が……」
「それは雑草」
「え、あ、そう。あはは」
 美之助は大きなため息をつき、娘に言った。
「あんさん、狐やろ?」
 娘は目を丸くして驚いた。
「あんさんからは、女の匂いというよりは獣の匂いがする。それに、さっきからかわいい尻尾が、お尻からちょこちょこ出てまっせ」
「えっ!」
 娘は一生懸命後ろを振り返り、自分の尻を見ようとくるくるとその場で何度も回った。  
 そんな娘の姿を見て美之助が笑った。
「だ、だましたなー!」
「何を言うんや。先にだまそうとしたのは、あんさんやろ」
「うるさい、だまれ!」
 ぼん、と白い煙のようなものがたちこめた瞬間、娘は小さな仔狐の姿になった。
「もう疲れたから元の姿に戻る。妖力、もう切れてきたし!」
「なんや、あんさん、いや、お前、仔狐かいな。人間の女に化けるのが下手やわー」
「な、なんだと!」
 仔狐は美之助に牙を向き出しにし、威嚇していた。
「ええか、ちょっと待っとき」
 そう言うと美之助は背負っていた荷物を地面に降ろした。そして、荷物の中から手鏡を取り出し、化粧をし、女のかつらをかぶり、女物の着物に袖を通した。
 美しい女の姿に化けた美之助は、しなやかに仔狐の方を振り向くと、流し目で甘ったるい女の声色で言った。
「女に化ける言うんはな、こういうことを言うんや」
 すると、仔狐はぽろぽろと涙を流し、突然美之助の胸に飛び込んだ。
「母さまっ、母さまーっ!」
「おおっ、なんやなんや!」
 美之助は胸に飛び込んできた仔狐の勢い押され、その場に倒れた。
 仔狐は涙を流しながら、美之助の顔を何度も何度も舐めた。美之助の顔の化粧が落ち、かぶっていた女物のかつらが外れて地面に転がった。そこで、ようやく仔狐が我に返った。
 美之助はわけがわからないので、とりあえず仔狐に事情を聞くことにした。
 桜尾山の山頂に生える大きな桜の樹の下で、美之助と仔狐は並んで腰をおろした。頭上には満開になった桜の花が春風に揺れ、その隙間からはあたたかな春の陽射しが花びらが敷き詰められた地面にさんさんとこぼれ落ちていた。
「母さまは、人間の、猟師の男に殺されました……」
 仔狐がうつむきながら言った。
「母さまは、美しい人間の女に化けるのがすごく上手でした。さっき旅の人が化けたみたいな……」
「あたしのことは、美之助って呼んでいいよ」
「あ、はい。美之助さんが化けたみたいに、母さまは美しい人間の女に化けることができました。それで、この山を通る人間の男を化かしては、私のためにおいしい食べ物をよく取ってきてくれました」
「そやから、あたしの女形姿に」
「はい。母さまの化けた人間の女の姿にそっくりだったもので、つい……。母さまは、あたしにも化け方を教えてくれましたが、あたしはまだ幼かったので、今よりも全然うまくできなくて。母さまはいつも人間に化けるお手本として、さっき美之助さんが化けたみたいな、美しい人間の女の姿に化けて、あたしのことをいつも見守ってくれていました。でもある日、山にやってきた鉄砲を持った猟師の男を騙そうとした母さまは、そのまま、そのままその男に!」
「…………」
「母さま、母さま……。あたし、母さまともっと一緒にいたかった。もっと母さまに化け方を教わりたかった。もっと、もっと母さまに遊んでもらいたかった。母さま、母さま……あたし、母さまに会いたい……」
 仔狐のうつむいた瞳から透明な涙がぽろぽろとこぼれ落ち、足元に敷き詰められた桜の花びらにとめどなく染み込んでいた。美之助はそんな仔狐を哀れに思った。
 美之助は荷物から手鏡を取り出すと、また化粧をし始めた。
「おい、仔狐。あたしにはお前の母さまに会わせるような神通力はない。そやけどな、ええ考えがある」
 美之助は手鏡を見ながら化粧をし、かつらをかぶると、女物の着物に袖を通し、あの美しい女の姿にまた化けた。
「母さま、母さまだ!」
「おい、仔狐。あたしが化けられる姿はこれだけや、この女形の姿だけや。この姿がお前の大好きな母さまの姿に見えるんやったら、お前がこのあたしそっくりの姿に化けられるようになればええ。それで、このあたしの手鏡をあげるから、好きなときに自分でこの姿に化けて、鏡の中の母さまに会うとええ。どうや、ええ考えやろ?」
 美之助がそう言うと仔狐は、「母さまにいつでも会える。母さまにいつでも会いたい!」と大喜びをした。
「ただな、あたしが教えるんは妖術やない、芸や。女形の芸や。そやからお前は一時的に、あたしの弟子になって芸を学ぶわけや。そやけど、名前がいつも『おい、仔狐』じゃ、締まりがない。お前、名前は?」
「はい、母さまからは、『桜の下で生まれたかわいい私の子』と呼ばれていました」
「名前が長いわぁ。よし、あたしが芸名をつけたる」
 そう言うと美之助は腕を組んで上を見上げた。 桜の枝が春風にゆれ、花びらの何枚かが美之助の顔にはらはらと舞い降りてくる。
「よし、お前は今日から桜の狐で、桜狐(さくらこ)や。一生懸命、師匠であるあたしの言うことを聞いて、上手に美人姿の母さまに化けられるようになるんやで。そして、あたしがいなくなっても、いつでも母さまに会えるよう、しっかりと学ぶんや、ええな?」
「はい、母さま!」
「あ、あのなぁ。ま、ええわ」
 こうして、美之助は桜狐に美女姿への化け方、美女の立ち振舞い方、歩き方、しゃべり方など、自分が持っている女形の芸を山頂の桜の樹の下で教えたのだった。

 桜尾山の山道脇にある地蔵に手を合わせ終えた美之助は、一年前の桜狐とのことを思い出しながら、またゆっくりと山頂を目指して歩き始めた。
 夕方を過ぎ、夕焼けに赤く染まった桜尾山の山頂につくと、美之助はあの大きな桜の樹の下で腕組みをし、桜狐が現れるのをひたすら待った。
 やがて、日が暮れ、夜になると、美之助は持ってきた提灯に火を灯し、桜の枝にかけ、地面には付近に落ちている木々を集め、焚き火をした。
 満月の、静かな夜だった。
 ぼんやりとした提灯の明かりと焚き火の炎に照らし出された夜桜は、どこか不気味で、どこか妖艶だった。
 桜の樹にもたれかかりながら、美之助は地面にあぐらをかいて座っていた。
「桜尾山には、美しい女の姿に化けて男を食い殺す化け物が住んでいる」
 焚き火の炎を見つめながら、江戸で噂されている真相を美之助は知りたかった。
 一年前、ここで女形の芸を仕込んだあの仔狐の桜狐が、まさか……。
 満月が厚い雲に隠れた。焚き火の赤みを帯びた明かりが届かない周囲が、すべて深い闇へと覆われてゆく。
 その時だった。
 うっそうと茂った木々の向こうの闇から、小枝を踏む足音のようなものが聞こえてきた。
「桜狐! 桜狐、お前やろ。あたしや、美之助や!」
 美之助がそう叫んだが、暗闇からは何の返事もなかった。だが、その足音はゆっくりと確実に美之助の方に近づいてくる。
 やがて、暗闇の中から出てきたのは、抜き身の刀を杖がわりにし、ぼろぼろに切り裂かれた着物を身にまとった血だらけの中年の侍だった。
「あの、ば、化け物が……!」
 侍はそうつぶやくと炎の明かりがほのかに届く薄暗い地面に力尽きて倒れた。
 美之助はとっさに倒れた侍に駆け寄り、声をかけた。
「お侍様、お侍様、しっかり!」
 美之助は桜の樹の下に戻り、水筒を手にし、再度侍に駆け寄った。そして、侍の口に水を含ませた。
 中年の侍は虚ろな眼差しで、声を振り絞って言った。
「わ、悪いことは言わん。早く逃げろ。あいつの妖力はすさまじい。人間の男をもてあそんで殺すのが、あいつの生きがいだ。山道での行き倒れだと思い、介抱していたら……む、無念だ……」
 侍はそうつぶやくと静かに目を閉じた。侍の全身から一気に力が抜けた。
「お侍様、しっかり、しっかりっ!」
 侍が美之助の言葉に答えることはなかった。
 やがて、光の届かない暗闇のずっと、ずっと向こうの方から、地面の小枝を踏む音が聞こえてきた。そして、その足音の主は、けだるさを帯びた甘ったるい若い女の声で美之助に言った。
「おや、まあ、また人間の男が現れたのかい?」
 美之助が驚いて声のする方を向くと、うっそうと茂った木々の闇の中から、桜色の両肩を露わにした乱れた着物姿の若い女が現れた。地面につきそうな長い黒髪を揺らし、どこか遊女のような艶っぽい笑みを浮かべ、切れ長で涼やかなまなざしを美之助に向けている。すらりと伸びた指先の鋭い爪から、真っ赤な血が滴り落ちてい。
 美之助はその不気味な妖艶さに恐怖を覚え、思わず後ずさりをすると、すぐさま焚き火から炎をまとった太い木を持ち、女に突きつけながら叫んだ。
「さ、桜狐! お前やろ、お前なんやろ! あたしや、美之助や!」
「美之助、さん?」
「ああ、そうや、美之助や! お前に人間の女への化け方を、お前の母さまに似た美女への化け方を教えた美之助や、思い出しておくれ!」
 暗闇から現れた若い女は、美之助の言葉を聞いて歩みを止め、悲しそうにうつむいた。
「お前、やっぱり桜狐なんやろ?」
 すると、女は静かにこくりとうなずいた。
「なんでや! なんでお前、人間の男を襲って食い殺すやなんて、バカなことを!」
「…………」
「あたしがいる江戸の街でも、お前の話で持ちきりや。そのうち、お前を退治するために、お上が本気で動き出すに違いない。そうしたらお前の命なんてすぐになくなるんやで。こんなバカなことはやめて、さっさと別のところへ逃げて……!」
 すると顔を上げた桜狐が美之助を睨みつけて言った。
「逃げる? いったいどこへ逃げて、そこでどうしろっていうの?」
「どうしろって、お前、どこかへ逃げて、そこで静かにひっそりと暮らせばええやろうが!」
「静かにひっそり暮らせですって? なんで私がそんな生き方をしなきゃならないの!」
「そ、それは、人間の男を何人も殺して罪を犯したんや、そうやって生きるのがスジってもんやろうが!」
 桜狐が悔しそうに唇をぎゅっとかみ締めた後、叫ぶように言った。
「私の母さまは人間の、猟師の男に殺された! 私の母さまを殺した猟師の男は、その罪から自分の住みかを離れさせられ、ひっそりと暮らしているのか!」
 桜狐の目は怒りで満ちていた。
「人間は動物を殺す! 人間は動物を殺そうと、食べようと、どこへも逃げも隠れもせず、自分の住みたいところに住み、おてんとさまの下、いつも堂々と我が物顔で暮らしているじゃないか!」
「そやからって、別に人間の男をいちいち襲って食わんでも!」
「人間の男の肝を食べると、妖力が増すの」
「妖力が?」
「そうよ。妖力が増せば、それだけずっと長い間、人間の姿でいられる。人間の姿だけど、大好きな母さまに、たくさん会える」
 桜孤は着物の袖の中から手鏡を取り出し、鏡の中に写る美女姿の自分の顔に目を細めた。  
 その手鏡は一年前、美之助が桜狐にあげたものだった。
「桜狐、母さまにいつでも会いたい気持ちは、あたしもわかる。そやけどな、いくらなんでも男を、人間を殺すのはあかん!」
「私が母さまに会えなくなったのは、人間の男が母さまを殺したせいよ! それなら、私が母さまに会うために人間の男を殺したっていいはず!」
「さ、桜狐……」
「人間は狐を、他の生き物を殺してもいいの? でも、狐や他の生き物は人間を殺しちゃいけないの? 誰がそんなこと決めたの?」
「人間が……決めたことかもしれへん」
「じゃあ、私は人間じゃないから、人間の決めたことになんて絶対に従わない!」
 桜狐は美之助の目を真っ直ぐに見つめ、強い口調で言った。
「これからも私はこの山に入ってきた人間の男を、この女の姿で何べんでも化かしてやる。この姿に鼻の下を伸ばす男を化かして、この爪で引き裂いて、殺して、その肝を食らってやる! そして私はいつでも、どこでも、好きな時に、この手鏡で母さまと会うんだ!」
 美之助は桜狐に手鏡を与え、美女に化ける芸を教えたことを心から悔やんだ。
 手鏡の中に写る美女姿の自分を、うっとりと見つめ続ける桜狐。
 そんな桜狐の姿にある種の絶望感を感じた美之助は、やがて説得することをあきらめ、心の中で何かを決めた。
「桜狐、お前が人間の男を殺す理由は、その化けた女の姿に、母さまの姿にいつでも会うためって言うんやな? けど、いつもいつも鏡の中の母さまにしか会えへんいうんは、さびしないか?」
 その言葉に桜狐の表情が曇った。その表情はどこかさびしげに見える。
「本当は鏡の中やない母さまに会って、あたたかい温もりの胸に抱きしめてもろうて、優しい言葉をかけてもらいたいんと違うか?」
「そ、それは! それは、そうだけど……それが、それが出来ないから、私はこの姿に化けて、手鏡の中の母さまに!」
「わかった。じゃあ、ちょっとお待ち」
 そう言うと美之助は桜の樹の下に腰を下ろし、荷物から手鏡や化粧道具を取り出した。そして、慣れた手つきですばやく化粧をし、口に紅を塗り、女物のかつらをかぶり、女物の着物に袖を通し、帯を締め、しなやかにそっと立ちあがった。 桜の枝に吊るされた提灯の明かりと、足元の焚き火の炎に、美女姿の美之助が甘く照らし出されている。その完璧なまでの美女姿は、美之助得意の若い女の妖艶さというよりは、今は穏やかな母性に満ちた優しい母親の表情に見える。
 そんな美之助の姿に桜狐は胸が締め付けられ、苦しくなった。
「か、母さま……いや、けど、けど!」
 美之助はスッと桜の小枝に細い指先を伸ばし、桜の花をつまむと、それを鼻先に近づけ、香りを楽しみ、涼しげに微笑んだ。そして優しく、温かなまなざしを桜狐に向けた。
 美之助は子供を慈しむ母親の感情を、自分の心の奥からこみ上げさせると、それを顔のすみずみまで浸透させ、母性あふれる穏やかな表情を作り上げた。そして、しばらくの沈黙の後、桜狐に心から申し訳なさそうに、慈愛に満ちた声で言った。
「ずっと、ずっとひとりぼっちにさせてごめんよ」 
 そう美之助が言った瞬間、桜狐が美之助の胸に吸い込まれるように飛び込んだ。
 美之助は両腕で桜狐を包み込むように抱きしめると、本当の母のように、胸の中で泣きじゃくる桜孤の髪を慈しむように何度も撫でた。
「母さま、母さまだ。いつも鏡の中でしか会えない母さまだ。いつも触れられない母さま。いつも触れてもらえなかった母さま。あったかいあったかい、私の大好きな母さまだ」
 美之助は完璧なまでに桜狐の母親になりきっていた。桜狐に向けるそのまなざしは、春の陽射しのように温かく、髪を撫でるその指先は小さな赤子を撫でるように深い愛に満ちていた。
 美之助は自分の胸の中で泣きじゃくる桜狐の露わになった両肩を隠すように、乱れた着物をそっと直してあげた。
「こんな格好で夜風に当っていたら、悪い風邪を引いてしまうよ。かわいい、かわいい、桜の下で生まれた、かわいい私の子」
 そう美女姿の美之助が優しい声で言うと、桜狐はさらに大粒の涙をこぼして泣いた。
「母さま、母さま。もうひとりぼっちはいや。私、母さまと一緒にいたい。さびしいのはいや。この山では誰も私を見てくれない。誰も私にかまってくれない。私は風景じゃない。私は生きている。母さま、母さま、もう、私をひとりぼっちにしないで」
 美之助は何も言わず、優しいまなざしを桜狐に向けたまま、何度も何度も慈しむように髪を撫でた。
「母さま、私、すごくさびしかった。母さまがいなくなってから私、ずっとこの山でひとりぼっちだった。人間の若い女の姿に化ければ、人間の男は私に寄ってくる。私を見てくれる。私に触れようとしてくれる。でも、私が欲しいのはそんなまなざしじゃない。そんな触れ合いじゃない。人間なんて、母さまを殺した人間の男なんて!」
 自分の胸の中で取り乱している桜狐に、美之助は優しく諭すように言った。
「大丈夫、もう大丈夫。これからはずっと、ずーっと一緒だから。かわいい、かわいい、桜の下で生まれた、かわいい私の子」
「母さま、これからはずっと一緒にいてね。もう、私をひとりぼっちにしないでね。お願いだから、もうどこにも行かないでね。大好きな大好きな、私の母さま」
 桜狐が美女姿の美之助の顔を見上げ、嬉しそうに微笑んだ。
 そんな桜狐に美之助は優しく微笑んで言った。
「ああ、もちろんさ。これからはこんな人間の姿ではない、本物の母さまにも会えるようにしてあげるからね。桜の下で生まれた、かわいい、かわいい私の子!」
 美之助がそう言った次の瞬間、桜狐の瞳が大きく見開いた。桜狐の背中に、美之助の右手に握られた短刀が深々と突き刺さっていた。
「母さま、母さま、どうして?」
「大丈夫、大丈夫よ……もうすぐ本物の母さまと、ずっと一緒にいられるようになるから!」
 美之助は母親のような優しいまなざしを桜狐に向けたまま、何度も彼女の背中に短刀を突き刺した。桜狐の着物の背中が鮮血で紅く染まり、やがて彼女は全身の力が抜けるようにして地面に崩れ落ちた。桜狐の着物の肩口と裾が大きく乱れ、桜色の両肩と胸元、そして膝下があらわになっている。
「母さま、私の大好きな、母さま……」
 桜狐が遠くを見つめるようにつぶやいた。
「母さま、見て。桜の花が、きれい……」
 桜の花びらが敷き詰められた地面に仰向けになった桜狐が、頭上の桜の枝を見つめて言った。
「母さま、知ってる? 桜ってね、つぼみのうちは上を向いているの。おひさまの方に向かって、つぼみはいつでも向いているの。でも、花が咲くとね、花は、下を向くの。それに桜の花びらってね、ひんやりとして冷たいんだ。私、知ってるんだ……」
「へぇ、そうなのかい?」
「うん……私、母さまが私のために、ご飯を取りに行ってくれているとき、いつもこの桜の下で待っていたから……。ずっと母さまのことを待っていたから、この桜の樹のこと、私、たくさん知っているんだ……」
 美之助は血が滴り落ちる短刀を右手に握り締めたまま言った。
「そうかい。いつも待たせてばかりいて、ごめんよ」
 美之助は優しい口調で桜狐にそう言うと、短刀の柄を強く握り締めた。
「母さま、好きよ。お願い、もうひとりぼっちにしないで……」
 桜狐の目から涙がとめどなくこぼれ落ちていた。
「ああ、もちろん。これからはずっと、ずっと一緒だよ。桜の下で生まれた、かわいい、かわいい私の子!」
 美之助は桜狐の左胸に力任せに短刀を突き刺した。
 桜狐は一瞬大きく眼を見開き、やがて、ゆっくりとまぶたを閉じた。桜狐の閉じられた瞳から流れる涙は、地面に敷き詰められた桜の花びらに、吸い込まれるように染み入った。
 美之助は短刀が胸に突き刺さったままの桜狐から後ずさりをすると、桜の樹にもたれかかり、気が抜けたようにへなへなと腰を下ろした。美之助の顔はさっきまで演じていた優しい母親の顔から、芝居を終えて楽屋に戻ってきた、疲れきった役者の顔になっていた。
「お、お前がいけないんや!」
 美之助の金切り声が山中の闇に響き渡った。
「お前が、どこで誰を殺そうが、誰の肝を食おうが、それはあたしの知ったことやない! そやけど、そやけどな! あたしの芸で、あたしが血のにじむような努力をして身につけた美しい女形の芸で、男を惑わして殺すやなんて、それだけは、それだけは絶対に許せないんや! あたしの芸はな、人殺しのための道具やない! お前が芸の道に外れたことをするから、こういう目に遭うんや! あたしは、あたしは悪くない! 桜狐、お前が一番悪いんや! それに、それにな!」
 美之助が天に届けとばかりに叫んだ。
「狐の、獣畜生のお前一匹を殺したところで、あたしは何の罪にも問われへんのやっ!」
 夜空に向かって大声でそう叫んだ後、美之助は頭に昇っていた血の気が一気に引いた。
 いつの間にか満月が雲に隠れていた。月明かりのない真っ暗闇の中に浮かび上がる焚き火とちょうちんの赤みを帯びた明かり。その明かりにぼんやりと照らし出される、桜の樹と地面に転がる血だらけの若い女姿の桜狐と、中年の侍の死体。さっきまでの喧騒がまるで嘘のような、存在するもの全てを飲み込もうとするような静寂が美之助を大きく包み込む。
 美之助は急に身体が小刻みに震え出した。目の前に広がる芝居ではない現実の惨状に、美之助はとにかくこの場にいるのが怖くなった。
 美之助は美女姿のまま、化粧を落とすことも、着替えることもせず、震える手であわてて自分が持ってきた化粧道具や荷物をまとめ、この場からすぐに立ち去ろうとした。
 荷物をまとめ終えた美之助は、忘れ物がないか周りをあたふたと見渡した。
 すると桜狐の胸に突き刺さった自分の短刀が目に入った。
 美之助は、小刻みに震える右手で短刀を握り締め、抜こうとした。が、なかなか抜けなかった。美之助は短刀を両手で持ち、力をこめて引き抜いた。短刀が抜けた瞬間、桜狐の返り血が美之助の顔に飛び散り、それに驚いた美之助は自分の左の掌を短刀の刃で切ってしまった。
「ちくしょう、ちくしょう!」
 美之助は苛立ちの声を上げた。
 その時、美之助は暗闇の向こうに気配を感じた。
「だ、誰や、そこに誰かおるんか!」
 しばらくして、暗闇の中から足早に一人の若い侍が駆けてきた。
「ち、父上? 父上っ!」
 若い侍は地面に転がる中年の侍の死体に駆け寄ると、死体の左胸に耳を当て、眉間にしわを寄せ、首を横に振った。そして、美之助の足元に転がる桜狐の無残な姿に目をやると、怒りの表情をあらわにし、太刀を抜いた。
「よくも、よくも父上を! それに、父上が介抱していたこの若い娘の命まで奪うとは……私が水を汲みに行っている間に……許せん! この化け物が、成敗してくれる!」
 美之助は若い侍の言葉に思わず自分の姿を見た。化粧をした美女姿に、返り血を浴びた着物と顔。手には短刀を持ち、左の掌から流れた血が爪の先からぽたりぽたりと地面に滴り落ちている。そして、足元に横たわる、無残な姿の桜狐と侍の死体。それは、江戸で噂されている桜尾山の化け物に間違えられても、おかしくない状況だった。
 美之助は慌てて大声を上げた。
「ちょ、ちょっと待っておくれ、あたしは人間っ!」
「黙れ、化け物!」
 若い侍は鋭く太刀を振り下ろした。
 とっさに美之助は身体を大きく避けた。が、避けきれずに左の頬がざっくりと斬られ、勢いよく鮮血が噴き出した。
「あ、あたしの、あたしの商売道具の顔が!」
 美之助は四つん這いになり、バタバタと桜の樹の下まで這うと、すぐさま手鏡を手に取り、自分の顔を見た。焚き火の炎に照らされ、鏡の中に写る美之助の赤みを帯びた顔は、頬がざっくりと裂け、血だらけの傷口の奥に白い歯がちらちらと見えた。
「あたひの、あたひの美しい顔がーっ!」
 美之助の握り締める手鏡の中に、怒りの形相で太刀を振り上げる若い侍の姿が入り込む。
「この化け物がっ!」
 次の瞬間、美之助の首は胴体から離れた。

 数年後、江戸の町にある噂が立った。それは、桜尾山の山頂にある桜の樹の下に、美しい母娘の幽霊が出るという噂だった。時期は決まって桜の花が咲く頃、夜になると山頂の桜の樹の枝にどこからともなく人魂が現れ、青白い光で周囲をぼんやりと照らし出す。そして、その明かりに照らされ、母娘の幽霊が美しい舞いを見せる。二人の舞いを目にした者に、危害を与えるようなことは一切せず、ただ桜の樹の下で舞い、夜が明ける頃になると、さびしげな表情で静かに消えてゆくという。そんな二人の幽霊の姿を見る者は春になると毎年現れた。しかし、この二人が本当に母娘の霊なのかは、誰も知る者はいない……。

桜狐 (さくらこ)

電撃文庫の二次選考で「ストーリーが地味」と言われ、落とされました。でも、私は意外と好きです。

桜狐 (さくらこ)

時は町人文化が真っ盛りの元禄時代。 江戸の町人たちの間では、桜尾山に現れるという、男を食い殺す美女の化け物の噂で持ちきりだった。その噂を耳にした江戸でも三本の指に入る美人女形役者の美之助は、気が気でなかった。 やがて、彼は商売道具である、化粧箱と手鏡を持って桜尾山へと向かうのだが……。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2010-07-22

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