ヒトとして生まれて・第1巻

第1巻・父親の存在感

はじめに

 私にとって1995年の放送大学との出会いは、人生観を変えるほど
の衝撃的なものであった。私にとって入学試験や入社試験などに対する
トラウマ意識は生涯の禍根としていまだに心中に棲みついている。

 義務教育の終盤における15歳の春の大失敗は父親からの言葉・・・
「人間万事塞翁が馬」によって、窮地を脱することになるのであるが、
本文で、その経緯を詳しく物語ることにする。

 当時(1995年頃)は、リカレント教育など人生学び直しの機運が
高まりつつあった時期で超一流企業のエリートたちには会社の業務から
離れて、海外における学び直しなどが稀有ではあったが存在していた。

 その様な時に私も人生の季節の変わり目の気配を感じ取って心理学の
権威であるユング博士の唱える「人生の午後」における有意義な過ごし
方を強く意識していた。

 最近の学び直しで知り得たことであるが、放送大学は日本政府が仕掛
けた高等教育の機関であり、そこにはセフティーネット的な意味合いが
あるというのである。

 私が放送大学の存在を知ったのは、当時、IHIの大手町本社に転勤
となり、その通勤途上で電車内の広告を目にして強い印象をもったこと
がキッカケであった。

 そして来年(2022年)傘寿(80歳)を迎える、私宛に・・・

「最近、貴方は放送大学においてⅢ期連続で受講を止めておりますが、
このまま、Ⅳ期連続で受講申込みがなければ除籍となります」という
通知文が届いた。

 実は、新型コロナ禍の影響で、放送大学の受講を止めていたのだ。

 既に 「心理と教育」専攻を修了してNHKホールにおける卒業式
にも出席しており、最近は 「人間と文化」専攻で、面接授業を主体
にして受講を進めていた。

 放送大学は、まだまだ、知名度的に認知度が低く日本における国民
からの関心も低いが私が主として面接授業に通っている東京文京学習
センターは、東京茗荷谷の筑波大学との合同学舎として、その風情は
威風堂々としており、何よりも清潔感が際立っていて、私には学び舎
としての郷という親しみ感がある。

 そのような、私にとっての学びのベースキャンプを新型コロナ禍の
ために失うことは、まさに、学びのためのセーフティーネットを取り
外す様な行為であり、賢明な選択とは云い難いと考えた。

 その様な局面で、面前に現れたのが 「オンライン授業」の存在で
あった。オンライン授業の目次を捲ると・・・

「生涯学習を考える」と題する授業が眼に入った。主任講師は、今年
(2021年)放送大学の学長に就任された岩永教授であり、かつて、
私が「心理と教育」の卒業研究でお世話になった担当教授である。

 私は、定年退職後に、ビジネスコンサルタントとして契約の4年間
を超えて約6年間も就業、一生涯学生作家として、星空文庫で活動を
始めたのも岩永教授がキッカケの人である。

 今回のオンライン授業 「生涯学習を考える」で最終稿のレポート
において、私は次のような文章を記した。


オンライン授業 「生涯学習を考える」 放送大学 岩永教授担当
   ~ 第15単元のレポート ~

【設 問】今回の15回の講義全体を振り返り、生涯学習について
あなたが学び・考えたことを、800字以内で述べてください。

【レポート】
☆ヒトとして生まれ・人とのかかわりを通じて人間として成長して行く
という社会化の基本を知り、そこに生涯学習の意義があると学んだ。

☆それでは、自分が実際に「どの様な人々」に出会い、どの様な影響を
受けて育って来たのか、自分自身の「来し方を・振り返り」これからの
「行く末」について考えてみることにする。

☆先ず、私を「ヒト」として産んでくれた、母親とのかかわりは、私の
清濁(善悪)をすべてそのまま受け入れてくれた「プラットフォーム」
的な存在として、それは大地の様な存在感であった。

☆15歳の春の大失敗において・失意のどん底にあった・私に・・・
「人間万事塞翁が馬」という言葉によって再起動を仕掛けてくれた父親
は学問のすすめにある福沢諭吉の示唆に則り、私を工学系機械科の道に
ガイドしてくれて、結果、実社会への門出においては、稀有な・純国産
ジェットエンジンの設計部門に送り込む段取りを付けてくれた。

☆社会人としての第一歩では、当時、IHIの土光敏夫社長から・・・
「学歴不問・適材適所」という人生の羅針盤ともいえる指針をいただき、
人事部長からは 「上司は・まとめ役であって・偉い人ではない」ので
なんでも気楽に相談するようにと云われ、素直にそのまま・呑み込んで
以来、定年退職まで実証実験的な人生を送り完遂することが出来た。

☆配属先では、今井兼一郎設計部長からジェット・エンジン設計の神髄
を教わり、生産部門に送り込まれてからは、本部長に昇進された同部長
によって海外派遣の機会をいただき欧米における管理工学のエンジニア
の方々との間で、約1ケ月間の交流機会をいただき、自身創案のビデオ
活用による管理工学の世界を構築した。

☆その後は、芝浦工業大学の津村豊治教授の主宰される社会人ゼミにも
参加、異業種の管理工学のエンジニアとの交流を重ねた。

☆管理職昇進後は放送大学における教授陣や学友との交流の場で心理学
や人間学に学び、人間的にも、成長の機会をいただき実践的に役立てる
ことが出来た。

☆これからの「行く末」を考えた時に学習意欲に燃える孫たちに、私の
生き様を文書化して、いつでも・解読出来る様な環境を整えて、彼らの
生涯学習にとって、少しでも役立つ事が出来れば幸いと考えている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 前掲のレポート文は、本稿への掲載の際に読み易く推敲しているため
授業に際しての提出文にいくぶん加筆しているが、主旨とするところは
踏襲している。

 ここまでレポートして、私は、人間的には、まだまだ未熟かつ未完成
であり発展途上にあることを考えると・・・

 かつて、大昔に「人生とは?」と、深く考え始めときに、大先輩から、
この書籍に目を通してみなさいと掲示された「人間の運命」芹沢光治良
著を座右に置いて、今「ヒトとして生まれて」と題した長編小説に取り
組む必要性を感じた。

 そして、第8巻まで、投稿した段階で、星空文庫の編集方針の変更に
よって全巻を監修する必要性が発生したが・・・

 これも名作に飛躍するきっかけとなって「人間万事塞翁が馬」の例え
に繋がれば幸甚と考えている。



第1巻・父親の存在感

001 父と子と孫と

 私としては、狭山湖から近い 「竹亭」 の暖簾を初めてくぐった。

 本日の案内役の家内は、埼玉県の主宰によって運営されている「生き
がい大学」の、仲間たちと来たことがあり、彼女のお薦めのお店だけに
鎌倉ファミリーや、西東京市ひばりが丘ファミリー衆も、店の雰囲気が
すっかり気に入った様子であった。

 竹亭周辺は東京都と埼玉県の県境で、私と家内と二人で自宅の入間市
から竹亭周辺を経由して、東京都武蔵村山市まで、文明堂の工場直営の
カステラ販売所を目指して、自動車を走らせるとき丘陵の下りの道では
マイカーのナビが・・・

「東京都に入りました」
「埼玉県に入りました」
と頻繁に繰り返すほどに、東京都と埼玉県の県境が入り組んでいる地域
である。

 そして竹亭から近郊の狭山湖沿いの道路は、私が32歳の頃に東京都
東大和市から丘陵越えをして、現住所の入間市に引っ越して来た道でも
ある。

 竹亭のランチ・テーブルは、新型コロナ禍への安全対策が良く工夫さ
れており、個々にマスクの収納袋が配られたり、食事が終わった時点で
のマスク着用の義務化などがテーブル上の小看板に明示されていた。

 テーブル席では、孫たちと大人のグループが分かれて座り、既に私立
中学の3年生の孫と今年のコロナ禍の中で私立中学に合格した孫が情報
交換をしていた。
(まだ小学校5年生の孫は、傍で黙って、そのやりとりを聴いていた)

 当然、大人たちからも孫たちの学校の近況などについて、質問が飛ぶ
ことになる。

「中学3年生の孫たちは通常なら3年生になるとニュージーランドでの
ホームステイを経験できる段取りになっていたがコロナ禍のために急遽、
九州四日間の旅行に変更になった」と云う。

「中学1年生の孫は、入学後、間もなくして学園内でコロナへの感染者
が1名出てしまったため、学園閉鎖を経験することになった」と云う。

 竹亭でのランチ・テーブルを囲んでの会話を通じて私が感じたことは
「鎌倉の若旦那にも、ひばりが丘の息子にも、父親としての存在感」を
感じ取った。

 そして、私の思いは郷里(上州)の自分の父親への「たいへんだった
ろうな」と云う思いに飛んだ。

 あれは私が中学3年生の卒業式の翌日の出来事(ハプニング)である。

 放送大学のオンライン授業 「生涯学習を考える」でおさらいをした
フロンエンド教育、日本国民が日本と云う国家を支えるための国家的な
事業として、日本では、義務教育が行なわれており、小学校の6年間と
中学校の3年間を終わると、職業としての適性検査が行われ、国家的な
事業として個々人の行く末について方向付けが成される。

 私の場合は、職業の適性検査において、商業・工業・文学面といずれ
にも適性があることが確認され学業成績も優秀であったので、父親との
間では群馬大学の工学科系を視野に置いて将来展望が交わされていた。

 そして、そこに行く過程では、高校も工業系を選択して、工学系への
積み重ねを重視、当初は、伊勢崎工業高校の機械科を狙っていた。

「しかし、受験直前に工業高校では化学科を専攻して大学で機械工学系
を狙うことにすれば、多面的な学習ができるのではないか?」
として作戦変更した。
(この作戦が失敗だったのか否かはいまだに答えを得ていない)

 しかし、その後、中学校の卒業式の当日から翌日にかけて、天国から
地獄への苦渋を味わうことになる。
(当時、誰も、予想していなかったハプニングであった)

 中学校の卒業式においては、優等生の表彰を受け通知表も5段階評価
で「オール5」の快挙を成し遂げた。

 それまでは体操だけが、1月生まれと云うハンディもあって競技種目
などでは同級生にはかなわずいくら踏ん張っても、4レベルがやっとで
あったが、学年末の運動科目においてその競技種目が得意の鉄棒となり、
体操においても念願の5レベルに達したのであった。

 これには父親も喜んでくれたが卒業式の翌日の高校への入学試験発表
で「不合格」の通知となったのである。この発表には中学の担任の先生
も驚愕して、夜になって我が家に来て下さり、父親に向かって・・・

 学校でも、来春の受験期まで、応援しますので、父親からも、支援を
続けて欲しいと、わざわざ丁寧な応援要請が行なわれた。

 父親からは 「中学校の先生も、応援してくれる」と云っているので
「また来年の受験に向けて学び続ければ良い」と、云ってくれたのだが
私があまりにもショックを受けていたためか?

「それ以上の励ましはなかった」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 それから1週間が経過、母親から、日々の私の状況を聞いていた父親
から、週末になって庭先でのキャッチボールを誘われた。

 父親は地元の群馬県前橋市の草野球チームのピッチャーをやっていた
ので、私の胸元にピシッとボールが飛んで来る。私も以前からキャッチ
ボールの時には投げ始めはゆっくり、相手の胸元を目がけて投げるよう
にと父親から云われ続けてきたが、父親の投げるボールの様には上手く
は胸元に決まらない。

 第二次世界大戦中に、群馬県太田市の中島飛行機に、軍需要員として
引っ越して来てから、草野球をやったという話は、聞いたことがないが
若い頃のピッチャーの経験は衰えることなく、私の胸元にボールを決め
て来る父親に感心しながらも私の気持ちは不思議にもほぐれて行った。

 やがて、部屋に戻ると、母親が、父親と私に、サイダーを運んで来て
くれた。

「お昼は、ラーメンでいいかい」と父親と私に聞いてきた。この母親が
作るラーメンはラーメン屋さん並の旨さなので私の大好物でもあった。

 父親が、私に「『人間万事塞翁が馬』という言葉を知っているか?」
と聞いてきた。

「人間万事塞翁が馬」とは・・・

 と、当時、中学生の私にも分かるように、いろいろな具体例も交えて
説明してくれて、私なりに明るい気分になって行ったが、細部の説明に
ついては今では覚えていない。

 今になって、広辞苑を手繰れば・・・

「人間万事塞翁が馬とは、世の吉凶禍福は転変常なく何が幸で何が不幸
か予測しがたいことを云う」とあるが、この言葉を父親が自ら学んだの
か、親しい友人や知人から聞いたのかは知らない。

 ただ、私に明言出来る事は・・・

 父親 竹次郎の場合は明治42年に生まれてから20歳代に到るまで
群馬県前橋市萱町一丁目一番地で生糸の生産工場と海外への販売を兼業
していた家業を、次男でありながら次期社長として修業を積んでいたが、
第二次世界大戦直前に家業が廃業となり、戦時中は軍需要員として中島
飛行機に勤めるようになった経験からすれば 「人間万事塞翁が馬」の
言葉は、その後の人生も含めて説得力のある言葉として父親自身が痛感
していた言葉に違いない。

 父親の立場からすれば、そこまでは云わなかったが、受験の失敗も後
に幸運につながることもあるよ、と、いうくらいの感慨であったのかも
しれない。

 たしかに私からみても父親の生涯は波乱万丈であったが、その生き方
に揺ぎをみたことはなかった。

 それから、1週間後に、中学3年生の卒業時に隣のクラスに居た友人
M君の家族から思いがけない話が持ち込まれた。
(偶然にも優等生であったM君も同じ工業高校の受験に失敗していた)

 友人M君の父親が、群馬県桐生市で、親戚筋の印刷会社に勤めていて
印刷物の納入先の桐生工業高校の先生から、同じ勉強をするなら・・・

「今更、中学の勉強の復習をするよりも夜間部の機械科に進んで、学び
を前に進めたらどうか?」

「まだ、夜間部なら入学枠がある」と聞いて、それなら、隣のクラスの
佐久間君にも声をかけたらどうか?」と、いうことになったというので
ある。

 我が家でも母親から帰宅した父親に話が伝わり、一も二もなく夜間部
に向けて入学手続きが行なわれることになった。桐生工業高校は桐生市
の天神宮のそばにあり群馬大学も隣接している立地条件にある。

 要は、今年、1年間は桐生工業高校の夜間部で学び、来年は桐生工業
高校の機械科(昼間部)を受験しなおして、また1年生から学び直して
も、実業高校ならけっして無駄にはならないという考え方である。

 思えば、ヒトとして生まれて15歳の春の地獄に差し込んできた希望
の光であった。

 私は、1942年1月27日に産科病院で生まれた瞬間も危なかった
ようである。

 通常は、生まれた瞬間に「オギャー」と、いう一声で自分自身による
呼吸が始まるのであるが、私には、このオギャーの一声がなくて看護師
さん(当時は看護婦さん)から背中を叩かれてのオギャーだったという
から危なかったのかもしれない。

 私には三歳年上の姉に相当する出産があって、自宅での出産であった
ために、上手く生命を繋ぐことが出来ず、その経験から私の場合は大事
を取って産科病院での出産であったため看護師さんに大いに助けられて
のオギャーとなった様である。

 この出産という、当たり前のように聞こえる「ヒトとして産まれる」
ことについて、現代医療にあっても危険がつきものであることを私自身
身近に体験している。

 私には、5人の孫が居る。

「一番年長の孫(男子)は、電気通信系に興味があり電気通信系の大学
を卒業して、現在は希望通り電気通信系の企業に就職している」

「二番目に、年長の孫(女子)は、現在、学習院の大学で学んでいるが
新型コロナ禍の影響でオンライン授業で学んでおり、早くキャンパスに
通えることを願っている」

「3番目と4番目の孫(共に男子)は、二人共に、私立中学の進学特選
クラスに入って日々勉学に励んでいるが、二人共にゲーム好きが両親の
頭痛の種の様である」

「5番目の孫(女子)は、極めて、マイペースの前途洋々派である」

 ここでヒトとして出産時に命をつなげなかった二人の孫が居るが本人
にとっても、グランパである私にとっても、とても残念なことである。

「一人の孫(女子)は、産科病院での出産であったがヒトとして生まれ
ながらも、生命を得ることが出来なかった、とても眉目秀麗な印象の孫
であった」

「もう一人の孫(男子)は、産科病院において無事に対面を果たせたも
のの、その後の経緯で産科院内における詳しいことは分からないが急遽、
救急の大病院に搬送され治療が続いたが救命措置も届かなかった」
(とても聡明な印象の孫であった)

 ヒトとして、生まれたからには、本人はもちろんのこと、周囲の人間
にとっても、人と人とのかかわりを通じて、人間として無事に成長する
ことを願うばかりである。
(今のコロナ禍にあっては注意しすぎても過ぎることはないと考える)



002   桐生市内の天満宮に見守られて

 はじめて訪れた桐生市内は、絹織物を主力産業とする印象が、随所で、
感じとられて、都市型の町としての風格があり街並みの印象には華やか
さがあった。

 私とM君は成り行きで、二人で一緒に桐生工業高校(夜間部)に1年
間の限定で通うことになったが、M君の方が東武電車の太田市駅に近い
場所に居を構えていたので、先ずはM君の家で合流してから駅に向かい
東武電車の桐生線で学校に通った。

 我が家からM君の住まいまでの道のりは、初めは歩いて通っていたが、
7歳年下の弟からの提案で「ボクに自転車乗りを教えてくれたらMさん
の近くまで送るよ」という助け舟があり、弟からのサポートに甘えた。

 具体的な話をすれば出掛けには、私が自転車のハンドルを握り、弟を
後ろに乗せて、道路が混雑する心配のないM君の近くの交差点まで行き、
そこで私が自転車を降りて、そこからの帰路は、弟にとっては、自転車
乗りの練習コースとなる。

 東武桐生線では桐生市の南端に位置する新桐生駅で下車して、バスに
乗り、桐生市街を北上して桐生市街のほぼ北端に位置する天神町のバス
停で下車すれば、幹線道路の西側に桐生工業高校があり、道路を挟んで
東側には群馬大学の理工学部が位置している学園地域である。

 桐生市のこの南北感覚も地図で正確な地形として見てみると新桐生駅
を南西に位置付ければ、天神町は北東に位置する、やや斜め気味の位置
関係となっている。

 現在の桐生市は、近年(2005年)、新里村と黒保根村を編入して
飛地合併しており地形的には、地図上で変則V字型のような珍しい地形
を成している。

 バス通学の中間点に位置する桐生本町五丁目の交差点付近にはM君の
父親が勤める親戚筋の印刷会社があり、私もM君も二人揃って印刷会社
社長に桐生工業高校への入学の際の保証人をお願いすることになった。

 私とM君が印刷会社社長にお礼のご挨拶にお伺いする機会は、入学後
の夏休み前となってしまったが、挨拶に伺った席で美味しい白桃をいた
だくことになり、恐縮して二人で早々に帰ってきたことを、強烈な印象
としていまだに記憶している。
(当日は、社長もM君のお父さんも、急遽、顧客の処に出掛けていた)

 思えば、中学校の卒業式の翌日に、天国から地獄に転げ落ちたような
最悪の状況にあったが、新天地の桐生においてパラバイスの様な世界が
開けたのであった。
(人間万事塞翁が馬とはこのような変転を云うのかと実感した)

 桐生工業高校の定時制(夜間部)の機械科では、恩田先生が、機械科
クラスの主任で、副担任の先生も男性であったが物静かな優しい感じの
先生であった。

 実際の授業では、それぞれの専任の先生が時間割に沿って、教室に顔
を出されて、機械科の実技においては、豊富な企業経験のある専門職の
先生方が手取り足取りの実技指導に当たられていた。

 旋盤・鋳造・木工などの実技指導では、実際の工業製品などを製造す
る体験授業も、プログラムされていて、私は、旋盤を使った製品加工に
興味を持った。

 高学年になるとコンピューター制御による倣い旋盤などによって高度
技術の旋盤加工をするなど、お隣の群馬大学理工学部に出掛けての実習
なども体験出来ると聞き、その時には、桐生工業高校の全日制に再入学
しての実習体験が出来ればと希望を強くした。

 主任の恩田先生とは新学期の授業が始まって間もなく個別面談があり、

◯ 現時点での自分が置かれた状況を説明させていただき来春には桐生
工業高校の全日制を受験して「再入学したい旨」を伝えて、率直な希望
を伝えさせていただいた。

 恩田先生からは・・・

◯ 桐生工業高校では、定時制(夜間部)から全日制への優先的な編入
措置はないので、全日制への入学に際しては、他の受験生と同じ条件で
受験することになる

◯ その際に本校の在学生(定時制)としての口添えはいっさいない

などなどが、小気味よいほどに、徹底して口伝された。
(もちろんM君にも同様の説明があった)

 東武鉄道の太田駅から桐生線で通い始めてから、偶然、伊勢崎線で
伊勢崎工業高校の機械科に通学するH君に太田市駅の構内で出会った。
H君の住まいは我が家から道路を隔てて斜め向かいであったが中学校
の卒業式以来の出会いであった。

 H君は、伊勢崎工業高校の入学試験においてトップの成績を収めた
と聞いていたので、当然、話題はそこに飛んで行き、その秘訣を聞か
せてもらった・・・

◯ H君は、徹底して高校入試の過去問題に取り組んだという。彼の
言によれば「高校入試の問題は、難しい問いはなく、徹底して教科書
の記述から出題されている」ために、安易な失敗が致命傷となるため、
「いかに俊敏にムラなく対応するかがポイントになって来る」と感じ
ていたという。

 これに対して高校入試の過去問題に取り組んだことのなかった私は
通常の授業における試験問題と同様に、簡単な問題が50%・やや難
しい問題が30%・難しい問題が20%程度と見込んでいて最終的に
難しい問題を解ければ合格とタカを括っていた。

 たしかに簡単な問題が100%を占めるとなれば、工業高校の様に
機械科や化学科など限られた50名枠に優秀な受験生が集まることに
なれば、油断していれば、簡単に負けてしまうことになる。
(普通高校なら250番でも合格するが工業高校では51番は不合格)

 私の場合はいまだに「ナゼ不合格に到ったのか?」原因は分かって
いないが、この受験の失敗によって 「入学試験や入社試験など」に
対してトラウマ意識がこびりついてしまって、いまだに、頭から離れ
ないことは確かな事実である。

 しかしながら、そうは云っても、H君からのアドバイスは、的確な
ものであったと考える。

 事実、桐生工業高校の定時制(夜間部)に通うようになってからは、
工業高校の勉強に向けては予習を通学電車の往路で行い復習は復路の
電車内で徹底、自宅学習では高校受験に向けて、教科書を主体にして
広く浅く全科目に目を通す様にした。

 学習スタイルも記述ノートは全廃、ノートに向けて書くことが惰性
になっていたことに気付き、全てのことを、ソロバンの暗算のように
脳内に書き置くスタイルに変えた。

 その時に思い出したのが、小学校5年生の時のソロバン塾の若先生
の存在、東大を三回受験して合格できなかった若先生は、暗算が得意
だったが東大受験の際には、脳内に、暗算ノートの様なものを設けな
かったのだろうか?

 否、そこで、他人のことを云える立場にない私に気付いた。

 普段どんなに勉強が出来ても肝心の受験などで真価を発揮できない
人は存在するのだ、現に、私自身が、そうだったではないか?

 桐生工業高校の定時制での学びにも、当然、期末試験はある。結果
はいつも100点満点に近く申し分ない成績が続きノートよりも音読
の適性は、私にはピッタリと自信を深めていったが、一方で全日制の
高校受験には、まったく自信がもてなかった。

 それでも、新春を迎えれば、嫌でも受験日はやってくる、トラウマ
意識は完全には抜けていないが、幸いなことに、桐生工業高校では、
当時、日本の高度成長期を先取りしてか?

◯ 機械科では、2クラスを募集枠として、用意してくれていたので、
なんとか、100番までに届けば、入学出来ることになる。

 私とM君は二人共に全日制の生徒として合格、クラス編成でも二人
共に機械科1組の生徒となった。

 私は、全日制の1年機械科1組の自己紹介において・・・

◯ 自分は、最近1年間、本校の定時制で学び入学試験を経て晴れて、
本校の機械科1組に入学出来たことを報告した

◯ これを聴いていたM君も、同様の自己紹介をした

 一通りの自己紹介が終わった後で、私とM君は図らずも、兄ちゃん
1年生として人気者となり、この後のクラス役員の選出で、二人して
満票で選ばれることとなり役員の選出となると決まってS君とM君で
決まる風土が出来あがってしまった。

 その後の卒業式では、私は数学の期末試験において三年間を通して
数学の試験で、95点以上を獲得したため「数学賞」をいただくこと
になったが、卒業式の時には、全日制の三年生と、定時制の4年生が、
同時に、同じ会場で卒業式となったために、通常の2倍の卒業生から
祝意をいただくことになった。

 しかし、卒業式までの二人には波乱万丈があり私とM君にとっては、
共に高校二年生のときに、大ピンチが襲い掛かって来たのである。

 この大ピンチを一緒になって考え・一緒になって行動していただい
たのがクラス主任の篠原先生であった。

◯ M君の父親に胃がんの発病があり、突如、逝去されたのであった

◯ 次いで、私の父親が国家的な事業の清算と云う、決断がなされて、
紆余曲折はあったものの、突然、失業したのであった

 二人にとっては、共に隣接地にある群馬大学の理工学部までを視野
に入れてトラウマ的に大学受験の苦手意識は頭の片隅にあったものの、
それどころではなくなり、桐生工業高校における学習に向けての父親
からの継続的な資金的・収入源が断たれてしまったのである。

 クラス主任の篠原先生の立場からは・・・

◯ 当時、日本の産業界は高度成長期にあり、桐生工業高校でも成績
が上位の生徒については、校長推薦で三菱重工業などを筆頭に、工程
管理などの要員として恒常的に、例年、送り出して来たという実績が
あり、私が全校でも2位の成績、M君は7位の成績に付けていたので、
なんとか三年生まで頑張れば、見通しは明るいと考えていた

◯ そこで微力ながら学校の立場からは、奨学資金制度の利用などに
ついて応援出来るのでとM君の母親に相談があり、M君の母親からは
篠原先生に向けて、私にも、一緒に奨学金の適用を出来ないか? 

との相談が成され、学校側からも了解が得られて、私から父親に相談
すると一も二もなく有難いと同調することで話がまとまった。

 M君の母親とは、桐生工業高校の定時制への1年間の限定入学以来
のお付き合いが続いていて、何かにつけて家族ぐるみのお付き合いが
継続、M君が独りっこという状況も手伝って二人で凸凹コンビの双子
の様に育ってきた経緯があって、急遽、助け舟が出されたのだと思う。

 凸凹コンビというのは高校1年生の時に私は1年間で10cm身長
が伸びてようやく165cmとなったものの、M君は既に175cm
あったので、二人で一緒に並んで歩くと、凸凹なコンビに見えたこと
によるものである。

 やがて、高校3年生になった時に、夏休み前に・・・

◯ クラス主任の篠原先生に呼ばれて、今年は例年になく三菱重工業
よりも先に石川島播磨重工業および出光興産から、本校に募集があり、
両社共に校長推薦であれば「即採用」という話が寄せられた

 私は、入学試験や、入社試験などには、相変わらずのトラウマ意識
があったので・・・

 父親に相談したところ、石川島播磨重工業のことは、熟知していて、
航空機用のジェットエンジンを手掛けていることも 「オトキチ」を
自負する父親の竹次郎は既知のこととして大乗り気の様子が伺えた。

 結果、即、篠原先生には 「石川島播磨重工業への入社手続き」を
お願いさせていただいた。

 M君の場合は・・・

 桐生市の親戚筋には、M君が桐生工業高校を卒業するまで、母君も
一緒にお世話になっていて、出来ることなら、群馬県内で母親と共に
暮らしたいという願望もあって、事業所が高崎市にある「沖電気」に
推薦入社が決まった。

 話は本筋から外れるが、かつて、群馬県前橋市で育った我が父親の
竹次郎は、私の理想的な勤務先として「前橋市に住んで高崎市の地域
に通う」ことを理想としていたので、結果的に、この夢を実現させた
のは、親友M君であった。

 はて・さて・かように、因縁深い私とM君であったが、中学三年生
の卒業式の翌日に、二人共に、地獄に落ちる様な思いをして、桐生市
にパラダイスの地を見付けて、まさに 「桐生天満宮に見守られて」
企業人としての活躍の場を得ることが出来たことはヒトとして生まれ、
人と人に救われて、今日に到るまで精進を重ねることが出来るという
ことは、まことにありがたいことである。

 私に学びについての大いなるヒントを提供してくれた郷里のH君は、
伊勢崎工業高校を卒業後は、父君の努める富士重工業に入社、その後
は自動車の研究部門に興味を抱いて、工学系の大学に改めて入学した
と聞いている。

 そして、トピックニュースとしては、昔から、お隣の敷地に住んで
いたMさん(同級生)と結婚されたと聞いている。

 思えば「高校受験の頃から、お隣同士で、受験勉強を済ませて就寝
するときには、幼馴染の間柄で、お休みの挨拶を電気スタンドによる
合図などで交換しあっていたのだろうか?」
(これについては大きなお世話であった)



003   健全な精神は健全な身体に宿る

 桐生工業高校の敷地内は一般教養の学びのための学舎に体育館が連な
り、教員室は体育館の奥に位置していた。実業高校なので、旋盤工場や
鋳物工場、木工所などは、企業を思わせる形態で直線的に工場群として
連なっていた。

 伝統的な桐生工業高校スピリットは「健全な精神は健全な身体に宿る」
として、体育の授業にも注力、強健な身体作りにも気配りしていた。

 体育の授業における重点課題は・・・

◯ 冬季のチーム編成による早朝マラソンをはじめとして、年一回ある
 全校生による桐生市郊外を周遊するマラソン大会およびこれに向けた
 マラソンの基礎練習

◯ ラグビー競技において、キックを禁止した勇猛果敢な精神の涵養と
 チームワークの育成

◯ 冬季のスキー競技に向けたところの、体育館でのオールシーズンに
 おける実際にスキーを装着しての方向転換などによる基礎訓練

 定時制(夜間部)では、体育館におけるバレー競技やバスケット競技
などを主体にしたチームワークの育成に重点をおいた体育授業が行なわ
れていた。

 定時制での学びの1年間は、休み時間になると、学友と片面を使った
バスケット競技に興じたことを覚えている。
(バスケットのフリースローが好きだった)

 全日制に入学してからは屋外で足腰を鍛える機会が圧倒的に増えた。

 そして全日制に移ってから通学の形態を一変させた。朝の通学時間は、
早朝の貴重な時間を有効活用するために自宅から東武電車の太田駅まで
は自転車で行き駅前で自転車を預けて桐生線に乗るスタイルに変えた。
(M君とは電車内で合流)

 新桐生駅に着いてからは、駅前に預けた自転車を使って、渡良瀬川を
越えて学校に向かうようにして、往復の時間配分に自由度をもたせた。

 冬季における自転車での渡良瀬川の橋越えは、しっかりとズボン下を
履いていても、上州の空っ風には、私もM君も二人で自転車を走らせな
がら、寒さで身体が震えたが、桐生本町五丁目の交差点を通過する辺り
からは身体が温まってきたことを覚えている。

 この自転車乗りは脚力の強化につながった。

 しかしながら、いまでも恐怖体験としてしっかりと記憶に残っている
出来事として、夏休み中の自転車の整備などを目的として、桐生市から、
太田市まで自転車を持ち帰ることになり、桐生市からの帰途、街はずれ
の坂を登っていて・・・

 坂を降りて来た見るからに不良グループ(3名)と目が合ってしまい
坂を下る三人に、格好のカモと思われたらしく「コラ、お前ら止まれ」
と、云われたものの、彼ら三人は下り坂、こちら二人は登り坂を、登り
切る地点、二人共に普段から自転車乗りには自信があり脚も鍛えている
ので、二人して懸命に坂を登り切り全速力で逃げた。

 当時、学校からは桐生ケ丘公園に出掛けた桐生高校の生徒たちが不良
グループに取り囲まれて小遣い銭を巻き上げられたという話が風紀担当
の先生から寄せられていたので、その話を思い出して「このことか?」
と、二人して瞬時に判断したのだった。

 自転車漕ぎにおいての脚力には、二人共に自信があったため、桐生市
から太田市までの長距離を自転車で帰ることにしたのだが、薮塚温泉の
中間地点辺りに着いた頃には、全速力で駆け抜けて来た心臓も落ち着き
をみせていた。

 私は「ヒトとして生まれて・歩くこと」についても子供の頃から脚力
には自信があった。エピソード的には、母親の父親(祖父)が夏休みに、
栃木県大田原から群馬県太田市まで、私を迎えに来てくれて大田原まで
の道程を子供ながらに一人で同行したことがある。

 栃木の祖父はとにかく健脚で、子供は七人居たが、小まめに子供たち
の住まいを訪問していた。当然、近郊から遠方まで、子供たちの家族は、
それぞれの多地域で暮らしていたが、祖父はその健脚を生かして孫たち
の処に餅などのお土産を背負って訪ねることを楽しみにしていた。

 祖父は、役所勤めの半農暮らしで、長男は東京電力に勤め、半農を手
伝う奧さんを主役に据えて、祖父・祖母・共に高台仕様の大きな屋敷で
暮らしていた。

 水害対策として屋敷は高台の上に建てられていて高台の下には野菜畑
などもあり、庭先には小川が流れていて、洗い場も良く整備されており、
野菜などを洗える様に工夫してあり、我々子供たちの水遊び場としても
楽しい場所であった。

 隣家には、母親とは双子の姉妹のお姉さん家族が暮らしていた。母親
とお姉さんの風貌は双子にしては、あまり似ていなかったという記憶が
ある。

 私の母親は子供の頃に「双子ならば一人くらい」と云うことで子供を
欲しがっていた鹿沼に住んでいた親戚に養女として出されたが、祖父が
鹿沼に様子を見に行った時に連れて帰ったのだと云う。

 あの名作家 夏目漱石をして、子供の頃に養子に出されて、後に実家
に引き取られたという話も聞くので、昔は、このような例は多かったの
だろうか?
(私の幼友達も同じような経験をしているが心理的な負担は大きい)

 母親が実家に戻った時に、親身になって面倒を見てくれたのが、二つ
年長の姉で、私が祖父と一緒に大田原の実家に行った時にも翌日「私の
処にも遊びにお出で」と云って迎えに来てくれて、年長の従兄弟にあち
こち連れて行ってもらった記憶がある。

 その後、年長の従兄弟とは、私が中学2年生の時に、再会することに
なるがその時には、日本交通公社に勤めていて、たまたま実家に、帰省
しているときにお会いすることが出来た。東京都の旅行会社ならではの
楽しいお話をたくさん聞かせていただいたことを覚えている。

 母親にとって、自慢の弟は黒磯に住んでいて、鉄道会社に勤めていた。
風貌が佐田啓二に似ていて、その時には、伯父さんが仕事で忙しすぎて
会えなかったが、中2の時に私が黒磯まで出掛けて一晩泊めていただき、
翌日、那須のケーブル電車に乗せていただいた。

 初対面の時に、母親が云う通りの優しい印象の伯父さんで、たしかに
当時の名優佐田啓二に似ているなと思った。奧さんも旦那さんが大好き
という印象で、甲斐甲斐しく弁当作りをしている様子が、子供ながらに
なるほどなるほどと見てとれた。

 那須のケーブル駅に着いてから、昼食の時間になると「はい、勉君の
お弁当」と、綺麗な包みが渡されて、奥さんは、私の弁当も私の好みを
予想して別建てで用意してくれていたのだと感謝しながら食した。

 当時、伯父さんはケーブル駅の駅長を任されていて冬場などは胸まで
来る雪を掻き分けて、ケーブル駅の保守に出掛ける時のたいへんさを話
されていたことを今でも覚えている。

 黒磯から大田原の祖父の棲家に戻ってからは、ご先祖様のお墓参りに
お供して、その後1週間があっという間に過ぎた。母親の実家の近所に
は同級生(女子)が住んでいて近郊の山や川遊びに連れて行ってもらい、
大田原の地元の子供たちともよく遊んだ。

 その後、近所の同級生は、祖父と一緒に群馬県太田市の我が家に遊び
に来たことがあるが、その時は私の妹と仲良く遊んでくれたことをよく
覚えている。

 夏休みの半ばの週末に、父親が大田原まで日帰りで迎えに来てくれて、
その時に祖父からは・・・

「勉君とは、太田から大田原まで一緒に歩きましたが、なかなかの健脚
ですね」と云われ、父親も恐縮しながら「長々と、お世話になりました」
と、お礼を云っておいとまをした。

 子供の頃からの健脚ぶりは、そのまま中学生でリレーの選手に選ばれ
高校の体育の時間の時に測った100メートル競走の時間測定は13秒
と驚くほどの速さではなかったが、小柄ながらも俊足はラグビー競技で
生かされた。

 同じクラスに、猛牛のような体格の良いクラスメートが居たが体育の
ラグビー競技では、猛牛の後ろから追いつき、足首にタックルして巨漢
を倒した。

 小柄でも俊足を生かして身体の大きなクラスメートを倒せるラグビー
は、私にとっては、マラソンよりも好きだった。

 マラソン競技よりも、短距離競争が好きだった私は、三年間を通して、
桐生市街地を周遊する長距離コースを完走したものの、順位は600名
中でいつも250位くらいで、後半で追い抜く自信はあったものの凄ま
じい勢いのスタートダッシュにはとても着いて行けなかった。

 鉄棒競技が苦手だったM君にはM君の母親から頼まれたこともあって、
鉄棒を一緒になって練習したが、鉄棒に飽きてくると二人にとって苦手
であった野球遊びにも興じた。

 冬季のスキー競技に向けた体育館でのスキーの装着や方向転換の練習
などは興味深く、学校では一人一台のスキー用具が一式用意されていた
ので取り組みやすく、基礎練習を経て、冬になるとバスで水上や土樽に
出掛けてスキーを楽しんだ。

 最初は直滑降から始めるのであるが、そのスピード感には魅了された。
当時、スキーウェアなどの着用はなくて、学生服にゼッケンという格好
であった。

「健全な精神は健全な身体に宿る」という学校の方針もありスポーツに
熱心に取り組む姿勢は、この時代に培われたのだと思っている。

 特に寒中マラソンなどは早朝に白い息を吐きながら、声を出して街中
を巡回するのだが健康面における体力訓練でありながら、市内における
冬季の名物マラソンでもあり、市民からの声援も嬉しかったことを覚え
ている。

 スキーへの取り組みについては、社会人になってからも、会社の仲間
や職場の懇親旅行などで群馬県のスキー場を訪れる機会も多く、スキー
の滑り方の基本をマスターしておいたことについては大いに助かった。

 なによりも、上州の空っ風の冬にもめげず冬季スポーツを主軸に四季
を通じてスポーツに親しむ習慣が、桐生工業高校時代を通じて身に付き
傘寿(80歳)を前にしてスポーツを楽しめる身体的な土台はこの頃に
造られたものと感謝している。

 それから、これは余談だが、私自身の生活感覚が、この頃からの桐生
工業高校を通じての生活体験から、都会的なスタイルに変わって行った
印象がある。

 父親の竹次郎は前橋市萱町1丁目1番地という都会暮らしであったが
戦時中に中島飛行機で軍需要員として暮らし、終戦後は群馬県太田市の
農村部で疎開するような暮らしを続けていたために、当然、住居は農村
地域となるため、当時、我々は「非農家」と呼ばれる時代であった。

 したがって、小学校などでは農繁期は休学となり、非農家の子供たち
は農家での実習体験が休学中の課題と成って、私も小学校5年生の時に、
近所の丸岡さんのお宅で、農業体験のお世話になることになり、田植の
前の水田の耕作などにおいて、牛の鼻取りといって、水田の中で牛によ
る耕作体験などをさせていただいた。

 この時に、大きな図体をした牛とはずいぶん仲良くなり、牛小屋から
耕作地まで大きな牛を誘導して行き、耕作地では農家のオジサンが後方
で畑を梳く道具を持ち、私は牛の鼻ズラをもって、耕作地を誘導するの
だが、牛ちゃんは私に良くなついてくれた。

「もう友達」という関係性で牛小屋に行くと優しい眼で迎えてくれた。

 牛ちゃんが、一番、嬉しそうな顔をするのは流れの静かな川で体を
首まで水の中に沈めた時で農耕作業で火照った体を川の水で冷やして
牛ながらに身も心も冷やせた時なのかな、と、感じ取った。

 小学校時代は、そのような農村体験をして育ったので桐生工業高校
や桐生市の都会的な街並みでの生活体験は、やがて、東京や武蔵野の
地で暮らして行くためには、生活意識の転換に向けて自然に好影響を
もたらしたのかもしれない。


004   戦時下における農村地帯での疎開暮らし

 私を企業人として迎えてくれた石川島播磨重工業(IHI)における
暮らしは東京都杉並区の寮生活から始まった。長年、住み慣れた群馬県
太田市の自宅からは、既に復職した父親が日常の暮らしに必要な物品を
車に積み込んで寮まで送ってくれた。

 会社の寮は杉並区永福町に用意され、群馬県などを含めた東京首都圏
から東北・北海道までを含めた寮生の総勢50名の新入社員のみで構成
された、フレッシュメンバーによる活気にあふれた寮が、静かな永福町
の街外れに出現することになった。

 後に、関東から南に位置する関西や九州方面の寮生は、阿佐ヶ谷の寮
で先輩たちと暮らしていることを同期生の仲間から聞いて、後に親交を
深めるために、泊りがけで訪問することになるが、寮によっては雰囲気
がまったく異なることに気付かされた。

 その後、約5年くらいしてから、武蔵野の事業所に、より近い東京都
東久留米市の寮に移ることになるのであるが、そこの寮は年齢的に多層
な構成になっていたためか、寮における食事にも工夫があり、月に1回、
特別食が振舞われるなど、支払いは自分持ちだが、食事メニューなどが
工夫されていて、寮母さんの食育への才覚が良く発揮されていた。

 その点、当時の永福寮は寮母さんも新米、寮生も全員が新人で年齢的
にも成人式前で連日賑やかさが続いたが、学生寮の様な空気感もあって
寮の舎監を担っていた大先輩も、人事部との間では町内会との付き合い
など多方面に気配りしていたようである。

 要は、井の頭線の永福町駅から寮までは永福町駅前の名物ラーメン屋
さんを始点にして通りの食堂やお店に、突如、約50名規模の若い寮生
が朝夕の食事は寮で摂るとしても、休日や夜間は街中に繰り出すことに
なるので、マーケットの規模としては大きな影響はないとしても、当然、
社名を背負った品格は求められることになる。

 企業として地域に与える影響は、個々の社員が想像する以上に、人数
がまとまってくると、その影響は大きい、例えば・・・

 石川島播磨重工業(IHI)の東京・豊洲地区の例を挙げれば、当時、
豊洲周辺だけでも約1万人規模の従業員が働いて居り、昼食弁当などは、
企業独自の弁当箱で調理して各々の職場に配っていたため、当日の弁当
のメニューが築地市場などに影響を与えることがあり、例えばメニュー
に肉類があった場合など、当日の市場の肉の値段が上がるということも
あって、企業としてそれなりの気配りをしていた。

 杉並区永福町の寮の場合は、約50名規模ではあったが、突然、地方
から上京した同期ばかりの寮生が暮らし出すということであり、人事部
なども、かなりの気配りをしていたことと思う。

 私を永福寮まで送ってくれた父親としては、一緒に寮の部屋まで荷物
を運び入れ、永福町の大通りの店で一緒に食事を摂って街並みにも安心、
群馬に帰ってから、母親には「あれなら安心」と伝えたのだと思う。

 寮内での暮らしは朝夕の食事は寮母さんが用意してくれて、入浴施設
なども完備しており、入浴時間の制限はあったが、時間内であれば自由
に入浴出来る環境が整えられていて、他は、自分たちの身の周りのこと
だけを考えれば良いという暮らしぶりが用意されていた。

 ただ寮生にとってネックと感じていたのは、永福寮には洗濯機が2台
きりなく、それぞれ、洗濯行為そのものには、負担感はなかったものの、
洗濯機の空き待ちが頭痛の種子であった。
(寮生の対策としては下着類を1週間分ストックするようにした)

 私も寮生活を想定して、高校3年生の秋ごろから洗濯をはじめとして、
母親から日常的な家事いっさいの基本を教わっていたので、特に、困る
こともなく部屋の掃除なども小まめにこなしていたものの洗濯機の空き
待ちだけはやはり気分的に苦手な分野であった。

 簡単なボタン付けなどは、小学校5年生の時に男子生徒にも家庭科の
時間があって、針の運針などを競走した記憶がある。特に強烈な記憶は、
家庭科の修了学習において、自分が身に付けるパンツを縫うという宿題
があって、縫い終わったときには自分の手汗による汚れで出来上がった
パンツが見るからに汚いという印象で、母親に洗ってもらってアイロン
をかけてもらった想い出がある。

 したがって、学校の家庭科での経験や、母親からの日常生活のあれこ
れなどを教わっていたこともあり、日常生活で困ることはなかった。

 私にとって、母親からの日常の躾で、毎日、夕方には父親が帰宅する
前に家の周りを箒をもって綺麗に掃除をしておくという習慣については、
寮生活においても勤務地から帰って夕食前に部屋を片付けるという習慣
には結び付いていた。

 私にとって、中学生になってからは、風呂の支度が家事手伝いとして
加わったが、当時、我が家では薪を使って風呂を沸かしていたので鋸で、
薪の長さを揃えて一刀両断に薪割りをするのだが、この薪割りの時には
神経を集中させて、薪割り台の上に据えた薪を、真っ二つに割るのだが
この手ごたえは部類に好きだったという記憶がある。

 この薪割り作業は家の南側の庭でやるのだが、敷地のちょうど真ん中
に位置する場所であり、気持ちも広々として、勉強の合間などには気分
転換にもなった。

 この住まいは、父親が戦時中に、中島飛行機に勤めていて、軍需での
飛行試験という待ったなしの過酷な条件下に置かれていた中で、久々の
帰宅時に家族が置かれていた非情事態を察知して同僚からの助けを借り、
緊急事態的に農村部に疎開先として探し出した物件であった。

 その日まで、なかなか社宅に帰る時間が取れず、ようやく家族の顔を
見て母親から話を聞いて驚き、すぐに農村部に住む同僚に助けを借りて
同僚の知り合いの農家に無理をお願いして、空き家になっていた物件を
貸していただいたのであった。

 なにしろ、母親から話を聞いて、父親が驚いたのは・・・

 家に居て、家事と育児(当時、子供は私だけ)に追われていた母親は、
空襲警報が鳴ると、私を抱えて防空壕に逃げ込むと云う状況を繰り返す
中で防空壕から出た時にかけ寄って来た人から「よく無事だったわね」
と云われて聞き返すと、

 母親が防空壕に逃げ込んだ直後に、米国の戦闘機が社宅周辺を急襲、
防空壕に逃げ込む人々や、防空壕を目がけて機銃掃射の雨を降らせた
と云うのである。

 戦闘機が急襲した後、現場に駆け付けた人の話によれば・・・

「目の前で逃げ惑う人々は、機銃掃射の弾丸を浴び、防空壕内に居た
人の中にも死者が出たのだと」云う。

 たまたま、母親と私が逃げ込んだ防空壕は戦闘機による急襲ルート
から外れいて、命拾いしたようである。私を抱えた母親に駆け寄って
きてくれた方も知り合いではなかったが、涙を流して抱き合ってくれ
たのだという。

 その話を聞いた父親にしてみれば、軍需を担っている中島飛行機の
工場が襲撃されることは承知の上だが、社宅周辺まで襲撃される事態
になっていることを考えると、中島飛行機の周辺は、もはや、住宅地
といえども危険区域と、その時に、即断したのだという。

 光陰矢の如しとは云うが、その後、私が、桐生工業高校に通う時点
でもその疎開先から通学していた訳であり家屋は空き家を片付けての
ものであり、古い建築物という印象はあったが、父親も母親も住めば
都と思ったのは、その立地条件に魅力を感じていたのだと推測する。

 疎開先の住居は東側に市街地につながる道路があって川に懸かった
小さな橋を渡ると、住居の玄関口、西側には、家庭農園ほどの耕せる
土地があって鶏を飼っていた。さらに西側の奧には大家さんにあたる
農家さんの屋敷があって、その間の敷地が竹藪になっており、農家宅
を越えて、さらに西に歩を進めれば広大な水田地帯が広がっている。

 この竹藪の近くに、戦時中は防空壕があって農村部と云えども空襲
警報は鳴るので、とうぜん、空襲警報が鳴れば、母親と私は防空壕に
逃げ込むことになる。

 当時、私は三歳児、不思議にも、戦争体験が自分自身の記憶として
脳裏に残っている。

「あの時は、防空壕の中に居て尿意を感じて防空壕の外に出た。外に
出ると空からは航空機の爆音が聴こえて、空中には航空機の表示灯が
赤々と観えた。今にして考えれば、B29爆撃機の編隊飛行であった
と思われる」

 しかし、戦時体験として記憶にあるのは、この時の三歳児体験のみ。
その後の終戦の時の状況などは記憶に残っていない。次に鮮明な記憶
として残っているのは、父親の妹(叔母さん)が満州から逃げ帰って
来て父親の処に転げ込んで来た辺り」からの記憶になる。

 次いで、父親の弟(伯父さん)が、我が家に身を寄せることになり、
疎開先状態の我が家における母親の食事時のやり繰りは想像を超える
状況であったと思う。

 しかし、農村地帯における疎開暮らしのつもりが、私が、19歳の
春に上京することとなり、その後、弟が商業高校を卒業して、地元の
企業に就職、やがて家庭を持つことになり、父母と一緒に二世帯住宅
を建てて、暮らし始めるまで、この地域に棲み続けたことを考えると
結果的には住めば都だったのかもしれない。

 そして「住めば都であった」もう一つの理由はオトキチを自任する
父親にとって「マイカーのエンジンのチューニングなどをする」のに、
周りの住民から苦情が来ない離れの一軒家という住環境であったこと
も理由の一つであったと推測する。

 私を東京杉並の寮まで送ってくれた前の晩も、夜遅くまでエンジン
ルームを覗き込んで、何やらエンジンの調子を見ていたことが記憶に
残っている。



005   苦手な英語は生涯の禍根となるか

 住み慣れた我が家で、夏休みの宿題として機械設計図の図面を仕上げ
ているときに、新聞販売の拡張員と名乗る「品の良い紳士」が、我が家
を訪ねてきた。

 母親がちょうど私の休憩時間に合わせてお茶を淹れてくれていたので、
一緒にお茶を出すことになり「お茶の友」として、いろいろとお話しを
させていただいた。

「ボクは、夏休みの自宅学習ですか?」と、私に聞いてきたので、

「はい、設計図を描くことが好きなので夏休み中の宿題は、好きな科目
から夏休みの宿題を片付けています」と答えると、

「それでは、将来は、エンジニアですね」と、返して来た。

 その後は、私の好きな運動種目や、母親に向けては地域における夏の
恒例行事など世間話に花を咲かせた。

 新聞拡張員の方が帰ってから・・・

「我が家では、どこの新聞を、読んでいるか?」とか
「特に、新聞の勧誘もなかったわね?」と、母親にしてみれば不思議な
思いがして、夕飯の時に、父親に、その話をすると・・・

「それは調査員だよ」と、いう答えが返ってきて母親も私もなんとなく
納得した。

 それから、数日後に、桐生工業高校の事務局から連絡があり・・・

◯ 私の場合は、既に 「石川島播磨重工業(IHI)による採用」が
校長推薦ということで決定しているが、形式的には、入社試験は必要に
なってくるので、夏休み中に、上京して試験を受けていただきたい旨の
連絡が入ったとの知らせがあった。

 試験会場の日時・場所の通知、と、共に、宿泊施設も予め用意されて
おり案内地図には最寄駅からの道筋などが記されていて、丁寧な案内書
も同封されていた。

 試験日を見て「甲子園の高校野球の応援に出掛ける日と重なっている」
ことに気付くこととなる。今夏に限って、我が桐生工業高校が地区代表
として甲子園に出場することになっていたのである。

 同じクラスの仲間が甲子園でプレーするとなれば、当然、桐生の地元
でバス軍団を仕立てて、地元を挙げて親御さんや親戚そして地元商店街
の応援団が繰り出すとなれば、同級生として日程を都合することなどは、
「当たり前」のことである。

 教室でも、甲子園に出場する彼は私の席からは右側3メートルの位置
に座って授業を受けており、彼らはとにかく練習熱心で、毎日、弁当を
2個持ってきて、午前中の2時限目の授業が終わるやいなや、休憩時間
に弁当を食して昼休みになるとすぐにグランドに向かい、昼休みはフル
タイムでチーム練習に徹して、午後の1時限目の授業が終わると2個目
の弁当をたいらげていた。

 私も練習試合の時に、観戦に行ったことがあるが 「チームプレーに
おいてミスがない」というのが彼らのチームの特徴で甲子園に向けては
有名校の桐生高校を破っての甲子園出場だけに、商店街も、桐生高校の
分までも応援すると云う勢いであった。

 しかし、これから自分が入社させていただいて働くことになる石川島
播磨重工業(IHI)からの試験案内であり(形式的な試験とはいえ)
試験日時の変更など、お願いすることなどできる筈もないと考えた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私としては、東京に行くと云う経験は、初めてのことである。

 東武鉄道で浅草まで出て、隅田川沿いの旅館に着くと落ち着いた静か
な雰囲気の宿で安心した。試験会場の日時に遅れることのないようにと、
宿の女将に、寝る前に、翌朝の目覚ましをお願いした。
(宿の女将も人事部からの案内で心得ていた)

 試験会場には、50名くらいの受験者が集合していて、一人ひとりが
面接試験会場に呼ばれて、面接試験が終わると、いっせいに筆記試験が
行われた。

 桐生工業高校の場合は、3年生になると、各社に就職した先輩から、

「現在どの様な仕事をしていて」
「入社試験ではどのような雰囲気であったか?」
「どのような試験が課せられたか?」
などの経験談が、寄せられたいたので、若干の予備知識はあった。

 石川島播磨重工業(IHI)の場合は・・・

〇 石川島造船所の時代に入社した先輩から「社風としては質実剛健」
であり、事業としては、造船部門を主力産業として抱えており、面接官
には元海軍出身という方もいらっしゃって、男っぽい直球の質問もある
ので「軟弱な対応は避けるように」というアドバイスが届いていた。

 私としては、面接会場に入るドアノックの際に緊張気味な思いで入場
したが部屋の雰囲気は先輩がいうほどの硬派な印象はなかった。

 面接官の方々は、私に関する書類にさっと目を通して・・・

「好きなスポーツに、鉄棒と書いてありますが、これは牛肉並のお手並
みですか?」と、満面の笑顔で訊ねてきた。

 私は、その意味がよく理解出来ずに「牛肉並とは?」と、問い返すと、

 笑いながら「ほら、大型冷凍庫の中に、ぶら下がっている牛肉ですよ」
と続けられた。

 私としては「絶句」したが・・・

 たしかに、桐生工業高校では、部活として体操部に所属しており一応
は鉄棒などにぶら下がったり床マット運動に取り組んだりはしているが、
同級生のS君の様に鉄棒においては大車輪でぐるぐる回ったり、床運動
においてはバック転などを綺麗に決めている訳でもないので「牛肉並」
と云われても、反論は出来ないなと判断したので、私の口からは言葉が
出ることはなかった。

 おそらく、私の身体が華奢に見えたので、素直に、そのような感想を
もって、直球の質問として言葉にされたのだと思う。

 この間のやり取りは一瞬であったが、私は笑顔で対応したのだと思う。
(記憶が定かではない)

 面接会場においては、後にも、先にも、この質問だけで・・・

 面接官からは、笑顔で「はい、ご苦労様でした」の言葉が発せられて、
あっという間の面接試験であった。

 筆記試験では、特に問題なく、設問に答えて行き、最終試験は苦手な
「英語科目」であった。桐生工業高校における期末試験においても英語
だけは「苦手意識から脱することが出来ず」 毎回、総合点においては
英語だけは負け続け、全校で2位から脱出できない状態が続いていた。

 入社試験の当日も、英語だけは時間の半ばにおいても、苦手意識から
抜け出せず苦悶していたものの、英語科目の試験の残り時間15分前に
試験官が入場されて来て・・・

「皆さん、まだ、試験中ですが、耳だけ、こちらに向けて下さい」

「この部屋において試験を受けている皆さんの場合は、当社への入社は
既に決まっており、今回、形式的に試験を受けていただきましたが試験
が終わりましたら気持ちを楽にしてお帰り下さい」とだけ、伝えて退場
された。

「苦手な英語に苦悶していた私には、ここで大いなる隙が出来た」ので
あった。
(どちらに、転んでも、同じ結果だったとは推測できるが?)

 後日、石川島播磨重工業(IHI)の人事部から郵便物が届いた。

「入社、お待ちしております」

「当社の社内報をお送りしますので参考にして下さい」とした郵便物
には「あ・い・え・い・ち・あ・い」という標題の社内報が同封され
ていた。

〇 社内報では1960年(昭和35年)に石川島造船と播磨造船が
合併して、社長には、土光敏夫氏が就任、総合重機メーカーとしての
躍進が約束されている内容で、我々が入社するところの1961年は、
新生IHIにとって我々が「一期生の入社」となる。

 しかし、次の文面を手にして、剣道でいえば「面を、一本取られた」
気がした・・・

「なお、先日の当社における試験の際の英語の科目については入社まで
に研鑽を重ねておくことをお勧めします」という趣旨の文面であった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 やはり、先を見ての注力ポイントは「英語力」かと痛感したが英語と
水泳についての苦手意識からは簡単には抜け出せない気もしていた。
(同時に、泳げない造船マンも、絵にならないなと考えた)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 やがて、桐生工業高校の機械科も卒業シーズンを迎えて、実技科目の
主任講師からは卒業研究のテーマとして「機械設計の課題」がそれぞれ
の生徒に与えられ、社会に出たときにと題して・・・

 自分自身「これなら『世界一』と云えるものを早めに身に付ける様」
にとのアドバイスをいただいた。

【後日談】 これぞ世界一と云い切れるものではないが私が設計部門
において純国産ジェットエンジンの量産設計に参加させていただいて
次にこのエンジン設計の強靭化に取り組み、P2J対潜哨戒機に向け
ブースター搭載エンジンとして総数211其の量産化が確定した。

 時に24歳にして生産事業部への製造支援のためエンジニアとして
異動、生産管理面の業務も兼務した。
(全211基は顧客による運用管理の賜物で全基無事故で退役した)

 その時に生産性向上のためのメソッドとして「ビデオIE」と称す
る管理技術の技法を創案、欧米への約1ケ月間の管理工学研修におい
ても、国内外に例がなく独特の技法として、日本IE協会からも称賛
をいただき、生産性本部主宰の「生産性の船」にも講師として乗船し
て普及活動に尽力、トヨタ自動車の大野副社長からも、賞をいただき、
関西IE協会においてもビデオIE普及のために出張研修、また渋谷
の日本IE協会の「IE実践研究会」においても主査の芝浦工業大学
の津村教授と共に、副主査としてビデオIE普及に尽力した。

 これをもって、実技科目の主任講師には「企業人としての宿題」を
果たせたものと考えているが、桐生工業高校における実習研修などが
基礎にあってのことと感謝申し上げたい。
(八十路を越えて、胸を張っても良いか、と、いう心境に到った)

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 私が企業人として旅立つにおいて、近未来的な、父親からの予見に
基づいたバックアップについても記述しておく必要がありそうだ。

◯ 今にして思えば父親が私を東京杉並区の永福寮まで送ってくれた
のには、ずいぶん先までを見越しての支援行為であったのだ

◯ まさに、今にして思えばという類の話だが・・・

 この話は、西東京市ひばりが丘の孫が好きなミニチュア版サーキット
レースをイメージしての話にすると、分かりやすいと考えるが、父親は
永福寮まで、私を、日常的に使う家財道具と一緒に部屋まで届けてくれ
たが、これはサーキット場に私をポンと乗せたに過ぎないと云える。
(これは、当時、父親の立場から私を見ての話としての推定)

 話の前段として、高校2年生の頃に、父親の立場から「不肖の息子」
の私の常日頃の行動を見ていて・・・

 私の場合は「計画は立派に立てるが・実行面で継続性に問題がある」
具体的な話をすれば、いつも「三日坊主で終わるケース」があるので、
これが気になっていた。

 これを改める意味で「何か一つで良いので・続けるという課題」を
365日にわたって考え・実行する様にしたらどうか・という難題?
が与えられた。

 そこで私が考えたことは、現在、私には家の周りの掃き掃除と共に
仏壇の掃除が私の役割として与えられていたので・・・

「日々365日お水とお線香をあげてご先祖様に手を合わせること」
を日々の行事とすることを約束した。

 これを高校3年生になっても継続させていた。

 これを、黙ってみていた父親にしてみれば実践力と云う面ではだいぶ
安定した所作が身についてきたので、東京に出ても「一人でやって行け
るだろう」、しかし、社会に出れば「七人の敵が居る」という諺もある
ので、二十歳を超える年齢までは東京でなんらかの父親の出番があれば、
俊敏に支援する必要があると考えて、私の根城をしっかり把握しておく
ために永福寮まで車で送ったのだと後日になって判明した。

 前述した、ミニチュア版サーキットレースで、例えれば・・・

「不肖の息子もどうやら実践力は付いてきたので初動においては安定的
に走行して行けると考えるが、ある時期になるとチューニングが必要に
なってくるので、愚息の力量だけでは手に負えない状態に到った時には、
父親としても俊敏なサポートが出来る様にしておく必要がある」
と考えていた節がある。

「そのためには、日常的な根城を、しっかりと把握しておく必要がある」
(父親が、わざわざ、永福寮まで私を送り届けた狙いはここにある?)

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 この父親の洞察力が的中したのは・・・

「私が、純国産ジェットエンジンの量産設計に加わり、末席から、天才
たちが設計したジェットエンジンを『造り易さ』や『組み立て易さ』と
いう側面から考察して、次々と図面にして出図して行き」

 量産設計メンバーによる全ての出図が完了した時に、次世代エンジン
の研究開発を進めていたところの若手メンバーに急用が出来て、急遽、
九州の実家に約2週間ほど帰ることになり、その間の臨時の応援要員と
して量産設計が終わったばかりの私がシフトに入ることになった。

 次世代エンジン研究チームでは、先の見通しが見えかかっている微妙
な段階にあり、主任設計者は、日々、ピリピリしていた。

 早速、私にも業務指示があり、私にも気づいた点があったので主任に
提案をしたが、これが余計なことであったようである。

 量産設計においては、新人の私の意見にも積極的に耳を傾けていただ
いて、妥当な考えについては採用されていたので、その勢いで提案した
ものだが、どうも勝手が違うようである。
(結果的には、相当に、第一印象を悪くしたようである)

 主任にしてみれば、日々が、思考段階にあり、主任が考え付いた様々
なアイデアを周りは手足になって試行する。
(それが該当チームのスタッフ層に求められていた姿であった)

 初日において「私の悪評がすっかり定まった」様であり、ことごとく
バッシングを受けることとなり会議室に呼び出されて「ナゼ素直に作業
に取り掛かれないのか?」と詰問される事態に陥った。

 そのような険悪な雰囲気が続いていたある朝の出勤時・・・

 永福寮から永福町駅に向かって、二人の寮生と一緒に歩いている時に
まったく混んでいない大通りにおいて、後ろから、私だけが車にはねら
れてしまった。

 特に、怪我はなかったが、念のため 「医院で診断を受けてほしい」
ということで二人の寮生には出勤してもらって私だけ医院に向かった。

 診断結果としては・・・

「外観的に特に異常はないが大きな病院で精密検査を受けたほうが良い」
という旨のアドバイスをいただき職場に電話すると人事担当から石川島
播磨重工業(IHI)の総合病院で、受診できるように手配をしたので、
そちらで精密検査を受けるようにとの指示をうけて、翌日、総合病院に
出掛けた。
(時に20歳に達していた)

 東京の佃島にある石川島播磨重工業(IHI)の総合病院に出向いて、
窓口で入院手続きを済ますと「はい分かりました、それでは患者さんを
お連れ下さい」と云われて「私が患者本人です」と云うと、一瞬、驚か
れたが、すぐに病室のベッドに案内されて、病人扱いとなり、精密検査
を受ける体制が整った。

 間もなくして、診察室に呼ばれて、歩行検査などが行われ・・・

〇 直線上を歩行すると「まっすぐに歩けていない」ことが判明した。

 今の様に交通機関が発達した時代なら、すぐに分かる「ムチ打ち症」
の発症であり、明日から、脊髄液などを採取しての本格的な精密検査
をすることが予告された。

 勤務先はもちろん郷里にも電話をしておく必要性を感じて母親に連絡
をとると、

「二十歳かい?」
「女性なら厄年だが、男の場合は厄年はもっと先だね」というやり取り
があって「父さんが帰ったら話しておくよ」といって会話は終わった。

 病院での精密検査は、その後も続き、ドクターからは・・・

「まっすぐに歩行できるようになったら出勤しても良い」と、云われて
勤務先に提出するように、と、診断書が発行された。
 
 寮に帰ると、翌日、ジェットエンジンの量産設計に一緒に取り組んだ
先輩がチーフからの指示で永福寮に様子を見に来てくれた。

 郷里にも「まっすぐに歩けるようになったら出勤しても良い」と云わ
れた旨の連絡を取り、ドクターからの目安として安静7日間程度である
ことを伝えた。

 当時は「まだムチ打ち症の症例は少なく」サボタージュのような印象
があって寮で休んでいても中途半端に仕事のことが気がかりであった。

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 実は、この直後に、父親が俊敏な行動を起こしていることはまったく
知らなかった。

 父親は、永福寮には顔を出さず、私の勤務地である武蔵野の事業所を
訪ねて当時の設計1課を訪ね、課長が出張中ということで、主任のN氏
とH女史と面談・・・

「不肖の息子が、不注意にも、交通事故に遭遇して、業務の進捗に穴を
空けてしまい申し訳ありません」と、銀髪(日本人だが銀髪だった)の
頭を下げっぱなしだったと、後になって新入社員時代から私の指導員役
のお一人であるH女史から経過をお聞きした。

 その時には、当時、私が応援に行っていた次世代チームのS主任には
お会いする機会がなかったのだという。

 父親があまりにも恐縮していたので、その後は、主任のN氏とH女史
との世間話となり、父親が中島飛行機で働いていて終戦直前に飛行試験
に成功したジェット機「橘花」にも話が及び、お互いに親近感みを抱い
て話が終わったのだという?
(父親から直接的に聞いた訳ではないので不確かな話である)

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 その後、私が出勤すると、私の席は量産設計チームに戻されていた。

 まだ生産部門における量産開始に伴う支援活動や耐久性向上に向けた
設計変更などの業務は続いていたので業務の多忙さは続いていて、次世
代エンジンの設計チームから量産設計チームへの復帰は歓迎された。

 やがて、次世代チームのメンバーで九州の実家に帰っていた同期生の
O君もチームに戻り主任のお気に入りでもあったので、私が再度次世代
チームに戻る必要はなかった。

 同期生の O君からは・・・

「大変だったね」と開口一番に、声がかけられ、
「今、主任は、次世代エンジンの設計コンセプトについて出口を探って
いる段階で、相当にピリピリしており、我々も大変なんだよ」

「ただ云えることは、自分でアイデアが浮かんでも、先ずは主任からの
指示事項をやってみて、余った時間で、自分のアイデアも試してみる」
「これが、主任と付き合って行くコツの様だよ」と、聞いて、さすがに
九州男児は逞しいなと実感した。
(この仕事のこなし方は、後日、大いに役立つことになる)

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 かくして、父親が東京杉並区の永福寮まで日常の生活用品を車に乗せ
て寮の部屋まで私を案内してくれて、これがミニチュア版のサーキット
レース場に私を載せた場面想定で、いずれ、サーキット場から私が転げ
落ちる様なことがあれば、俊敏に対応して父親自ら出馬「サーキットの
レース場に載せなおす」という父親の予測通りの展開となった様である。
(父親の洞察力の恐るべし)

 これが、私の二十歳における転覆事件の顛末であったが・・・

 これも、今になって考えてみると「人間万事塞翁が馬」と、云えるの
かもしれない。
(その後は、40歳代まで、順風満帆な人生行路が続くことになる)

 そして、その後、間もなくして、次世代エンジンの出口を探っていた
主任が、突然、逝去されたことが同期のO君から伝えられた。
(主任の母君からは心身ともにボロボロの状態であったと伝えられた)


006   人生航路において生き方を決める言葉を脳内キャッチ

 杉並区の永福寮において、初出勤を前にして寮生の全員が揃った日に
永福寮の全員が食堂に集められて「永福寮のオーナー」「食堂の賄いの
メンバー」「舎監(大先輩)」などが紹介され、オーナーからは丁寧な
言葉で「困ったことがあれば相談して下さい」と声がかけられた。

 オーナーの年齢は、不詳であったが、寮生に親しみやすいようにとの
配慮なのかGパン・スタイルの若々しい恰好をされていた。次いで挨拶
された奥さんは気さくな印象の方であり「なんでも、相談出来そうな」
雰囲気であった。

 翌朝は、それぞれに、目覚まし時計などをかけて抜かりなく、食堂で
朝食を摂ると、足早に永福通りを抜けて、井の頭線に乗り込み、渋谷駅
経由で、大混雑の都バスに乗り、豊洲地区の体育館に向かった。

 体育館には新入社員の総勢 約600名が集合して石川島播磨重工業
(IHI)の1期生として全国の大学・高校からのいっせい入社であり
後にも先にも1961年(昭和36年)は最大規模の入社式であった。

 入社式では、石川島造船と播磨造船が合併して誕生した新生:石川島
播磨重工業(IHI)の代表に就任された土光敏夫社長から挨拶があり
新入社員全員に向けて、一人一人の氏名が呼ばれて、土光敏夫社長との
アイコンタクトがあった。

 土光社長からの挨拶(メッセージ)を要約すれば・・・

 当社としては 「学歴不問」「適材適所」を貫いて活動して行くので
皆さんも自分に適した働き場所を、真剣に自ら探し出して、自らの能力
を発揮してもらいたという力強い内容であった。

 この後、約三か月間にわたり、新生IHIの全製品事業部を把握する
ための中長期的な人材育成計画に基づく、新入社員教育に移って行くの
であるが、人事部長からは・・・

「皆さんが実際に職場に配属となりますと必ず職場には○○長といって
長の付く人々が居ますが、これは、偉い人という意味ではなく、職場を
まとめるための人ですから、気兼ねすることなく、なんでも気軽に相談
するように」との挨拶があった。

 私としては、兎に角これを、真に受けて 「学歴不問」「適材適所」
「長が付く人はまとめ役」というキーワードを、人生航路の羅針盤に
おける「三つの三角定規」として、良くも悪くも、脳内に定着させて、
行動を徹することになる。
(やがて、社内が、硬直化して行っても、人生における実証実験的な
生き方として、この姿勢を貫いたものだからぶつかることもあった)

 そして人生初体験:入社式における「土光社長とのアイコンタクト」
においては・・・

 中盤にさしかかって私の名前である「佐久間 勉」(さくまつとむ)
と呼ばれた時に、土光社長の眼光にキラメキが感じられて、次の瞬間、
眼光がレーザービームのように、私の眼に飛び込んできて、私の脳内
に達した。
(これは一瞬の出来事であった)

 後に、この衝撃波は、私の名前「佐久間 勉」(さくまつとむ)と
いう呼び名によるものであったことがかなりの精度で推測された。

 広辞苑によれば 「佐久間 勉」 なる人物は・・・

 海軍大尉であり福井県生まれ潜水艦艦長として山口県新港(岩国港)
沖において、潜航訓練中に水没事故により殉職、艇内で死ぬまで部下
を指揮し報告を書き続けた人物とある

 そして、福井ミュージアムには(インターネット記事より抜粋)、

 佐久間 勉 大尉:明治12年(1879年)生まれ~明治43年
(1910年)没は、死の直前に配した遺書が世界中に感銘を与えた
としている。

 佐久間大尉は明治時代の海軍軍人であり北前川村(若狭町)生まれ
明治四十三年、訓練中、潜水艦が沈没した時に、艇長として最後まで
冷静に行動して遺書を残した。

 乗組員全員が、最後まで持ち場を離れずに殉職しており、こうした
乗組員の取り組み姿勢や、彼の遺書は世界中に感銘を与え夏目漱石は
佐久間大尉の遺書を名文であると絶賛し、与謝野晶子は佐久間大尉の
ために追悼の歌を詠んだ。

 私の命名者である父親からの補足としては、同じ時期にやはり海洋
において、他国でも潜水艦事故があって、この海外の事故においては
我れ先にと脱出する事態があって、海難事故を更に悲惨なものにした
経緯があったために、両者の対応が比較されることとなり日本の事故
がよりクローズアップされることになったのだという。

 私の誕生に際して、何故「佐久間 勉」という命名にこだわったか、
何故、父親が、福井県出身者の「佐久間 勉」大尉の名前を重視した
かというと・・・

 父親の竹次郎のルーツを辿ると群馬県前橋市萱町1丁目1番地で生糸
の生産と販売を始めた祖父の佐久間忠助は廃藩置県で佐久間本家共々、
福井県から群馬の地に集団移転してきた経緯があり、元々は、福井藩
松平家の武士で名刀などの家宝を処分して群馬県に集団で大移動して
きたという経緯がある。

 我が家の菩提寺は群馬県前橋市の冷泉院であるが、お墓参りに行く
と墓石には佐久間の名前ばかりが並んでいて、久々の墓参では我が家
の墓石を探すのに時間がかかるほどに、佐久間家は本家共々の大移動
だったことが伺える。

 父親にしてみれば福井へのこだわりがあって、福井県の名士である
「佐久間 勉」大尉の名前には憧れがあったのだと思う。父親として
は「佐久間 勉」のままでは恐れ多いので「進」にする案もあったが、
最終的に「佐久間 勉」にしたのだという。

〇 社内の昇進試験において、本社の重役から佐久間勉大尉の末裔に
あたる人物か? などの問い合わせがあったり、

〇 後に全社的な業務革新の際の全国行脚において、広島県の呉地区
 の職場を訪れた際に自衛隊の宿泊施設を利用させていただき、その
 時に、私は課長の立場で同行させていただいたが、部長の部屋より
 も上質なシャンデリヤ配備の部屋に案内され、部長が、私の部屋を
 訪れた時には驚かれたが、これも宿舎のフロントで勝手に佐久間勉
 大尉にゆかりの人物と推測されたためであった。
(この宿舎近郊には実際に佐久間勉大尉の記念館が存在していた)

 私の命名についての説明が、微に入り細に入り長い文章になったが、
当時、土光社長も、造船業をけん引する海の男であり「佐久間 勉」
の名前が呼ばれたとき、瞬間的に、レーザー光が私に向けて発せられ
たのだと推測するが・・・

「私にとっては、ありがたいことであった」

 入社式の翌日からは、早速、新人研修の開始である。

 新生IHIの全製品事業部を理解するための実習を交えた新人研修は、
約3か月間という長い期間を用意して開始された。実習期間中に興味を
もったクレーン操作を練習させていただいたことは感動的であった。
(眼下、約30メートルのワイヤーを操作する作業は圧巻であった)

 また、造船部門の実習では、私が新生IHIに入社する際に保証人と
してお世話になった群馬の地元・太田市から毎日・東武鉄道の浅草まで
出て通勤されていた小沼さんの所属部署である木工所もゆっくりと時間
をかけて見学させていただいた。
(精密な木工仕上げに驚いた)

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 この「三か月間の実習研修」を通じて、私は、自分の配属先の希望を

〇 第1志望は 「航空機用ジェットエンジンの設計部門」
〇 第2志望は 「橋梁類の設計部門」

として、人事部に提出する書類に明記した。

 この約3か月間の教育期間の最終日に人事部から配属先が発表されて
私の配属先は、第1志望通り「航空機用ジェットエンジンの設計部門」
に決まった。

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 また、研修最終日には、石川島播磨重工業(IHI)の来客食堂にて
配属先の決まった製品事業部ごとに、食事会が催されて、フルコースの
フランス料理が振舞われた。

 新生IHIにおける食事について、最初に驚かされたのは、入社式の
当日に社員弁当を是非一緒に味わって下さいということで、カレー食の
昼食弁当が振舞われた。弁当箱はアルミ製で、最初に弁当の蓋をあける
と美味しそうなカレーが入っていた。二つ目の弁当箱を開けて驚いた。

 二つ目の弁当箱の中で、炊いたお米が揃って直立姿勢をしていて米粒
が光っていた。みんなで仰天して話を聞くと「アルミの弁当箱にお米と
水を入れて弁当箱ごと炊くために」このような米飯の炊きあがりになる
のだと云う。

 最近でこそ近郊のトンカツ屋「和光」のレストランで顧客一人ひとり
に向けて単体の炊飯窯でお米を炊いていて、やはり、米粒が立っていて
炊き立てを美味しくいただいているが、これは60年も前の話である。

 このカレー弁当とは対照的なフルコースのフランス料理の昼食の美味
しさにもまた別の意味で驚かされた。新生IHIでは、当時、造船部門
を主力として大活躍していた時代であり土光社長の強烈な営業力により
「造船世界一」の偉業を成し遂げた造船最盛期の頃の風景である。

 造船において、もっとも華やかな記念式典は進水式であり、大型船の
進水式などにおいては、進水式に来場されるお客様の人数も多く、来客
食堂も大規模人数に対応出来るようフランス料理のシェフなどの料理人
も豪華メンバーが揃っており、国内外の超一流のお客様をもてなす対応
が整っていると云える。

 私も、その後、四十歳代の時に管理工学&品質管理分野の講師として
日本生産性本部などからの要請で、大型豪華客船に2回ほど乗船させて
いただいたが、偶然にも、1回目は三菱重工業製の豪華客船に乗船して
2回目は石川島播磨重工業製の豪華客船に乗船する機会をいただいたが、
いずれ劣らぬ大型豪華客船であった。

 その際の食事も、やはりディナー食は、フルコースのフランス料理が
振舞われたが、新入社員を迎えての研修修了時の昼食会の時の美味しさ
も負けず劣らずのテイストが提供されていたので、新人研修修了の際の
昼食会としては、中長期への期待の大きさを推し量るには、望外のもて
なしであったと考える。

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 次の航空エンジン事業部における教育も約3か月間が予定されていた。

 航空エンジン事業部における約3か月間の教育期間中は、事業所内の
工場単位での見学実習が予定として組まれていて・・・

「機械工場」および「板金工場」「翼工場」「熱処理工場」「塗装工場」
「組立工場」「エンジンの総合運転試験場」など、どの部署も目を見張
る様な新鋭工場で、その際に記した「実習ノート」は、約10年間程は、
手元において大いに役立てた。

 一番の脅威は、エンジンの総合運転試験場で「ボウッとしている」と、
頭の中の血を吸い取られるぞ、と、脅かされて真に受けていたが、要は、
注意深く行動しないと危険なエリアであった。

 航空エンジン事業部における教育研修が修了すると、すぐにそれぞれ
の配属先に顔を出して、即刻、それぞれの所属課への配属が決まる段取
になっていた。

 我々の場合は、総勢5名が、設計部への配属となり、人事部の案内で
設計部の今井部長のディスクの前に案内されると、今井部長からは唐突
な発言として・・・

「最近の学校は成績表に下駄を履かせるのかね?」との一声で案内した
人事部の方も、我々も、唖然として、今井部長の顔を見たが真意を測り
かねていた。
(我々は学校からどのような形で成績表が提出されているかは知らない)

 その後、5名は、各々が、所属課に案内され、私は「設計1課」に配属
となった。

 私は 「純国産ジェットエンジンの量産設計を担当する部署」の末席に
設計図を描くために配置された大型製図版の前に席をいただいた。


007   超高温部の燃焼器構造部の図面を担当

 私が、大型製図版で最初に担当することになった図面は燃焼温度が
摂氏1200度に達する燃焼器の構造部の図面作成であった。

 図面は全て実寸、造り易さや、組み立て易さなどは、実寸で図面を
描いてこそ、設計者にも、製造技能者にも、直に伝わって来るものが
あるという主旨で、学校では経験のない大型図面であった。

 しかも燃焼器の構造部分は長時間・超高熱に晒されるために耐熱性
や耐久性という面から、クラック(亀裂)などが生じない様に外周部
からの効果的な冷却効果が求められるために、ルーバー(空気の取り
入れ部)の設計は超精密な設計になっている。

そして飛行運用上、ジェットエンジンの総体的構造として150時間
を超える長時間の使用にも耐え抜くことが求められてくる。

 造り易さや組み立て易さは実寸で図面を描けば脳内である程度の推測
は出来るが、超高温への耐久性は実際に150時間超の連続運転をして、
エンジンを分解点検してみないと実際の耐熱性や耐久性は把握できない。

 したがって燃焼器の構造部分の設計を担当するということはエンジン
が実用化されても、長期間にわたってのエンジンの性能維持や耐久性を
保証して行くためには、設計部門の最終ランナーとして、継続的に顧客
をサポートして行く必要が生じて来る。

 純国産ジェットエンジンの本体図面はコールド・セクションといって
空気を強烈に圧縮する構造部と、ホット・セクションといって圧縮空気
に燃料を混合させ高温・高圧の過酷な条件下で、燃焼させる構造部とに
区分され、エンジン開発段階においては、圧縮機の構造部が胆になって
来るが、長期的には、燃焼器部がエンジン玉成につながって来る。

 そして更にエンジンを円滑に駆動させるためには、燃料コントロール
やオイルポンプといった機能システムがエンジン運用の鍵を握ってくる。

 同じ設計陣でもホット・セクション構造部の設計者の方が、エンジン
との付き合いが長くなるのは耐熱性や耐久性という面からエンジン運用
の時間的な経過に伴いエンジン燃焼によるクラック(亀裂)の発生など
熱応力に向けた様々な課題が生じて来るためであり、最終的なエンジン
としてのまとめ役を引き受けることが多い。

 一方で圧縮機などの構造部については、完成の目途が建てば、その後
の長時間運転による加熱などによって、劣化するなどのケースは少ない
ため設計陣の手離れは良いが、航空学における技術データの膨大な積み
重ねが求められるという特殊性はある。
(風洞試験などを伴うため東大航空分野の秀才が係わるケースが多い)

 ここで反復すれば、超高温部の燃焼器や高温タービン回転部などは
実際に超高温に長時間、晒されて、はじめて、構造的な切り欠け部分
などへの応力が集中しやすい構造体などの実証検証が可能になるため、
設計段階での予測は難しい。

 そして、エンジンとしての完成形においては実際にエンジンとして
総組立をして、総合運転試験を行い、かつ長時間運転を通して、燃料
供給の機能やエンジン回転部への循環オイルの供給など機能設計部門
に向けても、季節による変化などを長期的に見通して要求事項をぶつ
けて行く必要があるために、長期的な付き合いになるケースが多い。

 私をチームの一員として迎えてくれたのは、ホット・セクションの
設計チームであり、総勢5名、内訳は、構造部の主任のI氏と先輩と
新人(私)の3名そして燃焼エネルギーをシミュレーション計算する
天才H氏(東大出身)そしてコールド部とホットセクション部の空気
の流れや潤滑オイルの流量を最適化させる、数学科の天才女史H氏と
いう多彩な構成である。

 前述の日々の設計チームの運営は構造部の3名から成り、名大出身
の主任I氏の気配りによって、ホット・セクション部の出図は、次々
と展開されていった。

 主任I氏によるチームミーティングは、日々、的確に行われ働きや
すい職場であり、時折、焼き肉屋などでの懇親会などもあり、主任が、
今、何を考えて行動しているかなども的確に伝わってきた。

 私が最初に描いた図面は、燃焼器ライナーの図面で、この円筒内を
摂氏1200度の超高温度の燃焼ガスが吹き抜ける。課題はこの円筒
を組み立てるために円筒先端に構造上の切り欠部があり、また円筒を
外部から冷やすために、空気を取り入れる穴部としてルーバーと呼ば
れる構造部があり、これらの応力が集中しやすい部分の耐熱耐久性が、
どのような形状にしたら最適なのか?
(それが、当面、最大の課題であった)

 やがて、150時間の連続運転を経て実証実験して行く必要がある。
そして、燃焼器の構造部分の量産図面は出図して、実際に製品として
加工されて、実機に組み込まれ無事にフライトを終わって、整備工場
に帰って来て、分解点検され、この繰り返しの中において「科学的な
取り組みが必須になってくる構造体」であることが長い時間をかけて
の繰り返しの中で、その難しさが分かって来ることになる。

 具体的な話をすれば、量産設計の図面が出図されて3年後に、初等
中間ジェット練習機に搭載されたエンジンの優秀性が評判を呼び対潜
哨戒機(P2-J)に向けて、当時、搭載されていたレシプロ・エン
ジンからの換装エンジンとして有力候補となり、本格的な換装に向け
て飛行試験が重ねられていた。

 そして所定の飛行試験を完遂して、エンジンが整備工場に持ち込ま
れて分解点検したところ、燃焼器の構造体の燃焼筒の先端部に長時間
の燃料燃焼による劣化が確認された。

 エンジンの優秀性から、対潜哨戒機(P2-J)への換装エンジン
としては、ほぼ確実視されてはいたものの、燃焼筒の先端部の劣化に
ついては早急な改善を必要としていた。

 初等中間ジェット練習機に搭載した状態では同種の問題は発生して
いないために対潜哨戒機(P2-J)に搭載した場合に限っての問題
であると断定されて、両者の相違点が徹底的に検討され有力な相違点
として「使用燃料の違い」によるものでは? と推定された。

 そこで、燃焼器の該当部分をセクター的に、モデル解析することに
なり150時間の時間をかけて、燃焼筒先端部の燃焼状態を観察する
ことになった。

 該当の試験施設は、IHI東京豊洲地区の研究所内にあり風洞設備
を備えている実験室にモデル解析のための構造体を据えて実験を開始
した。試験時間は150時間に及ぶ可能性があり私と助っ人メンバー
の二人が実験のための専任となって、実験に当たった。

 日々、燃焼筒の先端部を観察するものの、150時間の燃焼試験を
経過しても該当部に変化はなく「不毛の結末」に到った。

 その後、海外の研究論文から有力な情報が入って来て、燃料の違い
による影響ではないと断定(燃焼実験のやり方などに疑念が残されて
いただけに)違った面からの海外誌による考察を熟読して、安堵した
記憶がある。

 海外の研究論文によれば・・・

 航空機用のジェットエンジンを海上警備などで使用に供した場合に、
塩害によって、燃焼腐食が生じる可能性がレポートされていた。その
場合の防護策として最新技術による「セラミック・コーティング」と
いう技術が開発されて効果を発揮しているという朗報であった。

 ここでの所見は、燃焼器という構造物を燃焼時の強度的な側面から
切り欠き部の集中応力などを研究するばかりでなく、化学的に塩分を
含んだ圧縮空気と燃料の混合ガスが燃焼する場合には、化学反応など
にも配慮する必要があるということである。

 すなわち、燃焼器という構造体は 「総合的に科学して行く知見が
必要である」と云うことになって来る・
(まさに、これは、開眼的な気付きであった)

 量産設計時には 「加工し易さ」や「組み立て易さ」という知見で、
設計図を描いてきたが、ジェットエンジンとして長期的な運用をして
行くフェーズにおいては実際のジェットエンジンとしての運用を経て
オーバーホール段階における所見などに基づいた 「耐久性の向上」
などが重要な課題になってくる。

 そして、ジェットエンジン量産化の中長期的な所見からは・・・

 かつて純国産ジェットエンジンとして量産化のためのすべての図面
について、出図が完了した時に、量産化に取り組んでいた全員が大型
製図版の前に立って、拍手をすることで、お互い担当図面完了の喜び
を交換しあったが、これからの課題は「エンジンのさらなる強靭化」
に課題が絞られて来る。

 純国産ジェットエンジンの量産化図面を担当した設計者は総解散と
なったものの、エンジンのホット・セクションの構造部を担っていた
我々のチーム要員は、エンジンのさらなる強靭化に向けてエンジンの
まとめ役として、全ての設計業務を引き継ぐことになった。

 思えば、私は、最初に手掛けた燃焼器ライナーの図面描きの段階で
すっかり手こずった。量産設計の図面は、実寸での描画を原則として
いたので、直径600cmの円筒を側面図として描く場合にはビーム
コンパス(超大型のコンパス)を使うことになる。

 現在は、パソコンを端末としたコンピュータ描画によって、容易に
作画できるが、当時は手書きであり、学生時代の設計図ではそれほど
大きな円形など描いたことがないために、最初、ビーム・コンパスで
大きな円を描いた時に、描いた円が一回りして出発点に戻った時など
直径で2mmほどのズレが生じて来る。

 これも工夫を重ねると、ビーム・コンパスの中心部の図面の裏側を
スコッチテープを使って補強したり略図法で半円で描いたり、日常的
な知恵の積み重ねで問題解決に到るのだが、この頃から描いた図面を
脳内に納めておける様になり、寝ても覚めても、自分が描いた図面の
チェックが脳内でこなせるようになって行った。

 そして、当時の職場環境の特筆事項としては日本企業における労使
関係が賃金をめぐって、常に緊張感をもっていた時代で、春のベース
アップや夏季・冬季のボーナス交渉などが過熱して、ストライキなど
が行われることもあり、職場には部課長と新入社員のみが出勤という
状態が続くこともあった。

 そのような状態においては、部課長が、新入社員である我々新人の
面倒をみてくれた。課長が出張の際などは部長が新人の処を巡回して
相談にのってくれた。

 設計部の今井部長は、新人に対する面倒見も良く、私が大型製図版
の上で図面を描いていると「すべての設計は、設計に始まって、設計
に終わる」として・・・

〇 量産設計において、造り易い・組み立て易い図面を描いても実際
 に製作してみると、製作工具の使い勝手が悪かったり想定外の問題
 が起きてくる、この時に、設計者は言い訳をする前に、どうしたら
 上手く行くか一緒になって問題解決する方法を考え出して、答えが
 得られたら、必ず、図面に反映させておく

〇 この繰り返しと積み重ねによって、エンジンの完成度も向上して、
 設計者の技術や技能者の技量も向上して行く

 また、ある時には、燃焼器の火炎筒の胆の部分の図面を描いている
時に、空気流通部のスリットが1個所だけ狭まっている部分があって、
これは飛行試験を通じて得られたアイデアであり、エンジンの火炎が
飛行中に吹き消えることがあっても、部分的に、狭まったスリットの
おかげで火炎を保持することが可能となり、これが火だまりとなって
温存されるために、エンジンの再着火が容易になるのだと、ご教示い
ただいた。

〇 私にとって、この知見は後に生産部門において生産性向上運動の
 旗振り役を担うようになった時に、この種の運動には、栄枯盛衰が
 あり旗振り役が「火だまり」さえ保持しておけば再興できるという
 自信につながって行った。

 そして、圧巻は私の大型製図版の下にクリップが1本落ちていた時に
アメリカ企業において全職場で落ちているクリップを数え挙げたとこ
ろ、それが全社的には膨大な数になることに気付き、そこから全社的
な経営改善が始まって行ったという事例を紹介して下さった。

〇 これは、後に私が「全社的な業務革新の旗振り役」を任命された
時に、実践的な活動を導入して行く際の起爆剤な事例となって、後年、
大いに役立つことになった

 今井部長は、後々も、我々新人の処を訪れて、具体的な指南をして
下さったが、それは、労使による賃金交渉がらみのストライキ時のみ
だけではなく、課長出張時には必ず顔を出されて個々に具体的な話題
を提供して下さった。



【第1巻】監修後記

 私は、対潜哨戒機(P2-J)への換装エンジンとして211台の
量産化が決まった、純国産ジェットJ3エンジンの生産事業部門への
技術支援のため24歳の時に設計部門からの異動が決まった。

 その時の異動先は、設計部門と同じ敷地内の田無事業所であったが、
間もなくして、ジェットエンジン製造の組立および総合運転試験場と
して新たに操業を始めた瑞穂工場に引っ越し、新天地では管理技術と
して「ビデオIE」の新メソッドを開発して瑞穂工場内の生産性向上
運動を開始していた頃に、設計部長の今井兼一郎氏が、航空宇宙事業
本部の3代目の本部長に就任、たまたま、瑞穂工場を訪問された時に、
ビデオIEを活用した生産性向上運動に興味を示されて、欧米の管理
技術の実態を調査して広角での視野からも生産性向上の在り方を見直
して欲しいと云う要望から、約1か月間の欧米の管理技術の実態調査
を命じられて、私の航空用ジェットエンジンへの取り組みも、新しい
ステージに入った。

 今井本部長は、その後、航空宇宙事業本部の独立採算にも見通しを
付けられて、エンジンの品質面からの優秀性を保証するデミング賞の
獲得にも自ら取り組まれて、デミング賞を獲得された。

 企業人として成功された今井兼一郎氏は航空マンとして、退役後も
大学で国内外の航空技術を牽引する教授として、後輩の育成にも尽力
されたことにあらためて思慮を働かせると私が過ごした航空エンジン
事業部における設計部門は、私にとって「IHI航空技術実践大学」
という意味合いの深い企業人生活であったのかも知れないと、考える
今日この頃である。

(完)

ヒトとして生まれて・第1巻

ヒトとして生まれて・第1巻

第1巻【父親の存在感】から本格的に監修に着手することにした。父親から15歳の春に「人間万事塞翁が馬」という言葉を教わって、人生の再起動のキッカケを掴んだのだが、現在でも、ピンチに陥るとその言葉に救われてきている。父親の存在感にはとてつもなく大きいものがある・・・

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-02-23

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