【監修】ヒトとして生れて・第8巻

万田 竜人(まんだ りゅうじん)

ヒトとして生れて・第8巻

古事記に魅せられて

【はじめに】

 高千穂峡に脚を運んでみたいと強く意識するようになったのは古事記
を深く読込んでからの話である。

 兼好著の徒然草を一貫して読み通すと云う楽しみを教えてくれたのは
放送大学の島内裕子教授であったが、教授が「日本文学の名作を読む」
と題した講座を開講されて受講、その文中で古事記についても読み通す
ことの面白さを述べられていたので巻頭から読み通すことにした。

 幸いにも家内の蔵書の日本の古典(現代語訳版)シリーズの第1巻に
「古事記」が在り、巻頭には、高千穂峡の峰の風景写真や重要文化財の
紹介写真などが掲載されていて、文面も、現代語訳で書かれているため
読み易く、比較的スムーズに物語にのめり込んで行った。

 読後感としては、すぐにも、高千穂峡の地に出向いてみたい気持ちが
高まって行ったが、何度か機会を得ては行けず、三度目の思いで現地を
訪問出来た。

 そこで現地に出掛けてみて、実際の風景に触れて関心をもったことは、
我々ひとり一人の国民がもっと政治に関心を向けて、それが、為政者に
届こうと届くまいと、強い意志をもって、発信して行くことの必要性に
目覚めた。

 企業人としての現役の時代には政治に向けて強い関心や為政者に向け
て発信をすることは、身の処し方として、ためらうことを必然の慣習と
して、それを行動の目安としてきた。

 しかし、既に現役を退き、国民の一人として、なんの損得関係もない
人間関係において、為政者への発言や発信を報道機関だけに任せること
にして、それを鵜呑みにしても良いものか? と、考える感覚が老成の
中で芽生えてきた。

 そのような思考の変化の過程について、自分自身を 「啓介」と云う
架空の人物に置き換え、物語の進行に合わせ、自分自身の思考や論理を
基本的なところから振り返ってみることにした。



第1章

(1)高千穂峡のきらめく光

 遠景の峡谷の滝の流れから、きらめく光が目に入ってきた。その光は
天に向かって駆け登り、天空につながった。まるで、凧を揚げたときの
糸のようである。

 啓介は、高千穂峡の真名井の滝を初めて目にした。

 この地方に伝わる神話では、次のようなことが云われている・・・

「天村雲命(あめのむらくものみこと)の神が天孫降臨として表現され
る天の神様のご命令によって、天から地上に降り立たれた時に、この地
には水源がないことに気付かれて、天村雲命の神のご意思により、この
地に水系を移して、天真名井として湧水させ、溢れるような滝となって
流れ出したのだという」

 高千穂峡の川幅が狭まった部分に流れ落ちる滝であるだけに、落差は
17メートルとはいいながら、迫力満点である。また、その姿は周囲の
景観の静けさの中にあって躍動的な存在感を示している。

 まるで、糸のように、天空の光が自分の目とつながる体験は、啓介に
とって三度目のことである。

 一度目は、ニュージーランドのマウントクック村への入り口に相当す
るトンネルの手前で、バスを停めてみんなで休憩時間を楽しんでいる時
のことであった。あの時は、道路の脇に小川が流れていて、手を浸すと
冷たくて気持ちが良かったことを覚えている。

「あっ虹よ」という声に反応して空を見上げると、大きな虹がアーチを
描いて大地に跨るような光景であった。その虹の頂上に目をやった時に、
天空の光が啓介の目に糸のようにつながった。

 今にして思えば、あれはマウントクック村で遭遇した、まるで異次元
の世界に飛び込むことになる前触れであったのかもしれない。神崎さん
と名乗る紳士のご案内で訪問した異空間は、現在も存在するのだろうか、
それとも夢か幻の世界であったのか? いまだに確かめる術はない。

 二度目は自宅の書斎における体験であった。冬の朝日とはいいながら
午前九時頃ともなれば太陽からの陽射しの温もりはパソコンに向かって
いる啓介の顔面にも、ほんのりとだが、微妙な感覚で伝わってくる。

 太陽の方向に顔を向けると、啓介の目に、天空からの光が糸のように
つながった。

 啓介の書斎は、家族の総意によって二階に設けられた。西向きに座る
ように机と椅子を配置したので、午前九時頃の陽光は左の頬に当たって
くる。この書斎からは夕刻になると金星が見える。

 ときおり、この金星のそばに月が並んで天界のツーショットを演じて
くれる。

「月をこそ眺め慣れしか星の夜の深きあわれを今宵知りぬる」と、いう
和歌がある。

 この和歌は、愛する人と死別した女性の闇の深さを表した絶唱として
知られている。

 昔、NHKの大河ドラマで放映したことのある主人公:平清盛の長男
である重盛の息子(次男)平資盛と恋愛関係にあった女性がその悲しみ
を詠んだものである。

 当時、資盛は(推定であるが)まだ二十五歳の若さであった。源氏に
追われ都落ちした後に壇ノ浦において入水して果てた。彼女の悲しみの
深さは、まさにこの和歌に凝縮されている。

 かつて2011年3月11日に発生した東日本大震災では多くの人々
が亡くなり多くの人々がいまだに行方不明である。残された人々は家族
や友人を看取ることも出来ず、津波という容赦のない自然災害によって、
一瞬のうちに愛する人々を失ってしまった。

 そのような悲しみの中にあって、政治の無策や・スピード感のなさは、
日々のテレビや新聞報道のなかで、次々と明らかにされていった。
(当時、自民党は下野して、かつての野党が政権を担っていた)

 高千穂峡に天孫降臨した時の天村雲命の神のような、即座に、水系を
もってくるという偉大な力までは期待していないが、当時の与党・野党
を問わず、日本の国政を預かる国会議員の働き方には、より多くの働き
を期待するところ大であった。

 当時の世情では新党結成の動きなども俄かに浮上してきていた。その
ような時にこそ我々・日本国民の一人ひとりが国会議員の選挙において
貴重な一票を投じることだけでなく・・・

「ワイワイガヤガヤ」の精神で「健全な意見」を交換して少しでも日本
の暮らしを良くすることを考え、考えたことを声にして、発信して行く
時代になってきたと、啓介は強風荒れ狂う日曜日の午後にあって、当時
痛感したのであった。

 日本は、三権分立の確立された民主主義国家であり治安も維持されて
いる。そのような中で「第四の権力」と、して、マスコミの社会も成熟
してきており、国家権力が暴走して、大きな戦争に突入するような危機
についての危惧はないが、今、日本国家が抱えている・・・

◯ 莫大な借金問題
◯ 財政の課題
◯ 少子高齢化の問題
◯ 未来に向けた年金制度の課題
◯ そして、中長期的な対策が求められている東日本の復興の課題など

 いずれも、問題の真相の見極めと対策の遅れを来たせば、日本という
国家が内側から崩壊しかねない状況にあると云える。

 戦後の平穏で平和な時代に馴れすぎて「必ず明日が来る」と信じ続け
ている我々日本国民の一人ひとりがインターネットという情報機器を手
にした、今、お互いの健全な意見を発進・交流することにより・・・

「第五の権力」を創造して行かないと、国政そのものの閉塞した状況は、
脱して行けないと啓介は考えている。
(既に、前述したが、この記事は自民党が下野して、新政権に移行した
時代に書いたものである)

 当時の感覚として、いよいよ日本もアメリカ社会のように健全な二大
政党の時代が来たかと思ったのも束の間、2011年3月11日に発生
した東日本大震災により、平家物語の遷都による混乱を思わせるような
混乱に陥ってしまった。

 結果、当時「決められない政府」と、云うレッテルを貼られることに
なった。

 一方で、啓介は、政治による中途半端な決断によって、手持ちの日本
航空の株式が紙くずになると云う痛恨の経験をすることになる。啓介の
場合は、航空ファンとしての立場から株式を保有していたので・・・

「株主責任による紙くず化」と、云う説明は直接的には肌身に伝わって
こなかった。

 冒頭で前述したところの・・・

「天村雲命(あめのむらくものみこと)の神が天孫降臨といわれる天の
神様のご命令によって天から地上に降り立たれた時に、この地には水源
がないことに気付かれて天村雲命の神のご意思によりこの地に、水系を
移して天真名井として湧水。溢れるような滝となって流れ出した」
と、云う伝説をあらためて吟味した時に、

 この記事に示された事柄は 「何を意味するのか?」と、考えた時に、
その意味するところは、計り知れなく大きいと云える。

 心理学の権威である「ユング博士」は、フロイト博士と並び称される
双璧的な存在でありユング博士はフロイト博士と共に、心理学の研究を
進める間柄であったが、やがて、学問的・心理療法観的・人間観的相違
からフロイト博士とは訣別することとなった。

 ここにユング心理学の際立った特徴として「神話的世界からの学び」
がある。

「日常的な観点から見れば、とても耳を傾けることが出来ないことでも、
神話的な視点から見れば、人類的にも起こり得ることとして耳を傾ける
ことが出来るかもしれない」
と、云うイメージから、理解を重ねて行くと云う考え方である。

 前述の神話から学ぶところは・・・・

「施政を成す者の在り方として民意を的確に推し量り・感じ取り、俊敏
にそれを実行に移したとき、為政者の存在も・民意も・共に救われる」
と云うことだろうか?

 この神話の場合は神によって施政を成すものが選ばれており、そこに
間違いが起こる可能性は少ない。しかし、我々の現実社会では為政者は
民意によって選ばれることになる。
(したがって、間違いが、起こってしまう可能性はある)

「間違いが起きてしまったら、どう対応すれば良いのか?」
「間違いを、少なくするには、どうしたら良いのか?」

 本稿が、そのようなことを考えてみるところの一助に成ればと考えて、
長編ものを編んでみたのであるが、恐れ多くも、この編が少しでもその
役に立てれば幸甚であると啓介は考えた。

 本稿は2012年(今から10年前)に執筆したものであるが啓介に
とって約10年間を経て「どのような心の変化や成長があった」のかも
考え合わせて行くことで、この長編ものを、はじめから、監修する算段
にて、順次、書き起こすことにする。


(2) 大いなる示唆

 冬枯れの中にあっても、常緑樹の生き生きとした存在感からは植物の
生命力が確実に伝わってきて、なにかしら元気付けられ、あの夏の暑い
季節には緑陰としての涼しさを届けてくれたことが思い出される。

 啓介は、期末試験が終わったばかりの開放感のなかで、まだ真新しい
校舎の窓から校庭を眺めていて、昨年十二月末の面接授業のことを思い
出していた。

 授業科目は「徒然草を読み通す」と題したもので放送大学の島内裕子
教授によるものである。募集定員70名に対して、申し込み者が大幅に
超過したことを漏れ伝え聞いている。

 啓介は、この授業のなかで徒然草の第四十一段に「考えたことを声に
出すことの大切さ」に、ついて、大いなる示唆を感じ取った。

 徒然草の兼好は、読書などから思索したことを、つれづれなるままに
書き連ねることを無上の喜びとしているが、この第四十一段では、自分
の考えたことを「周囲の人々に声を出して伝える」ことが自分で思って
いること以上に反響の大きいことに気付いてそのことを書き出している。

 授業で使った「徒然草」島内裕子校訂・訳では通称「烏丸本」を用い
て原文を掲載しているが、ここでは分かりやすさを優先させて、訳文を
書き出してみることにしよう。

【徒然草:第四十一段(訳)】 島内裕子教授による訳

 五月五日、上賀茂神社の競べ馬を見学に行ったところ、牛車の前には
身分の低い者たちがぎっしりと立ち並んでいて馬を走らせる馬場がよく
見えないので、私たちは牛車から降りて柵の近くまで近寄ったが、その
あたりはとりわけ人々が混雑していて、どうにも分け入る隙間がない。

 ちょうどその時、向かい側の棟の木に、法師が登って木の股に座って、
見物しているではないか。彼は、木にしっかりと、しがみつきながらも
ひどく居眠りしていて、木から落ちそうになると目を覚ますということ
を、さきほどから繰り返しているのである。

 これをみた人々が、嘲笑って軽蔑「なんて愚か者なのだろう、あんな
に危ない木の枝の上で、よくまあ安心して眠れるものだ」と、いうので、
自分の心にふと思ったままに「われわれの死の到来だって、今この瞬間
かもしれない。それを忘れて見物などして貴重な今日という日を過ごす
のは愚かさの点で、あの法師以上ではないか」
と、言うと自分の目の前にいた人々が「まことに、ごもっともなことで
ございます」

「われわれこそ、もっとも愚かでございます」と、言って、皆が後ろを
振り返って、私を見て「ここに、お入り下さい」と、場所を空けて呼び
入れてくれたのだった。

 これくらいの道理は誰だって思いつかないことではあるまいが折から
のこととて、思いがけない気がして、強く胸を打ったのであろうか。

 人間というものは、木石のように非人情なものではないから、場合に
よっては、こんな程度の発言にも、感動することがあるのだ。

 この徒然草第四十一段の感動は、単独で読んでも心には、響きにくい
ものと啓介は考えている。やはり島内裕子教授が面接授業で提唱されて
いたように、徒然草を通読する過程で、こそ、第四十一段における兼好
の感動が伝わってくるのであると考える。

 最近は「関東にも四年以内に確立七十%の割合で大きな地震が来る」
という予報が盛んに報じられていて不安に思うこともあるが、政府は
認知していないことなので、真偽のほどは定かではない。

 しかしながら真偽は定かでないにしても、兼好が筆で示したところの

「貴重な今日という日をもっとたいせつに過ごそう」という呼びかけは、
もっともなことである。兼好は、第四十一段で 「これくらいの道理は
誰だって思いつかないことではあるまいが・・・」と、云ってはいるが、
われわれには、なかなか気付かないことである。

 この第四十一段で最も大切なことは、話の繰り返しになるが「自分で
思ったことや、考えたこと」を、声に出してみるということである。

 現代の日本において生かされている、われわれ国民一人ひとりが声を
出すことの重要性について、兼好は大いなる示唆を与えてくれているの
ではないだろうか。


(3) 徒然草を読み通す

 彩の森入間公園でのウォーキングは、冬の間はいつも午前十一時頃に、
先ずは家内と啓介が外周を歩く。次いで、飼い犬との合同散歩になる段
取りで、これを日々繰り返している。

 しかし、今日は、家内が鎌倉ファミリーのところに二泊三日の予定で
出掛けたためにいつもとは少し勝手が違う。家内と一緒のときには飼い
犬もよく歩くのだが、啓介と一緒だと匂い嗅ぎ専門に変身してしまう。

 そんな訳で、ほとんど歩かないため啓介だけで単独ウォーキングする
ことに決めた。

 彩の森入間公園内は広大な面積である。太陽の陽射しが強いところと
葉陰のところがあり陽射しの強いところでは、まだ一月末だというのに
白梅が咲き始めている。

 白梅の隣の紅梅も、蕾が膨らんできており開花が近い。一方で日陰の
場所には、先日の雪が残っており、今冬の寒さの厳しさを示している。

 啓介は、歩きながら考えるのが癖になっていて、園内をウォーキング
しながら年末に行われた面接授業のことを思い出していた。放送大学の
面接授業は申し込んでから、実際に授業が行われるまでに、半年くらい
の余裕期間がある。したがって、テキストは事前に本屋さんに予約注文
しておくことになる。

 このテキストを早目に入手した啓介は、早速、巻頭の「はじめに」の
記事から読み始めることにした。すると文中に・・・

「兼好は決して最初から人生の達人ではなかった」

「徒然草を執筆することによって、成熟していった人間である。ここに、
徒然草の独自性があり全く新しい清新な文学作品となっているのである」
と、いう記述が目に留まった。

 そこで啓介は考えを巡らせてみた。

「で、あるとすれば、その執筆の過程のどこかに、その変容を感じ取れ
る書き出し部分があるのではないか?」

「もし、その変容を感じ取れる部分があるとすれば、それは後段の部分
であろうか?」

 島内裕子教授は、徒然草の通し読みを勧めておられるので、しからば

「序段から、第二四三段まであるので、最終段から序段に向かって読み
通してみよう」と、啓介は考えて、通読を重ねて行き、第四十一段まで
来たところで、兼好の筆から大いなる感動の場面を察することが出来た
のであった。

 放送大学における面接授業は毎週、同じ曜日に繰り返されるスタイル
と、週末などに集中させて行われるスタイルの二種類の授業がある。

 今回の 「徒然草を読み通す」の 授業は、週末に、集中させて学ぶ
スタイルであり、一日目・二日目ともに午前十時から午後五時頃までの
通し授業であり途中で休憩時間と昼食休みはあるが、担当教授との対面
による授業三昧の終日となる。

 そして一日目の中間帯の時間に受講生に感想を言わせる試みがあった。

啓介は、五番目に 「徒然草を読んでどんなことを感じましたか?」
と、問われたので・・・

「ボクは、予習で・最終段から・序段まで、逆順序で読み通してみたの
ですが第四十一段に兼好の心の変容をみた思いがしました」と、いうと、
島内裕子教授は・・・

「私も、兼好にとって、心の変容があったのは、第四十一段である」
と考えます。

「それは兼好が、脱皮できた瞬間ともいえる段ですね」

「徒然草を逆順序で読み通すという試みも面白いので、私も、今度、
最終段から通し読みしてみます」と、意外なコメントをいただいた。

 このような、意見交流が出来るのも、島内教授のように徒然草に
精通された先生にお会いできたことによるものであると考える。


(4) 生き方の方程式

 厳しい寒さの中で幾分なりとも寒さが和らいでくると彩の森入間公園
の上池の周りを占拠している鴨たちにも、それなりに変化が起きてくる。
今日は、池に氷が張っていないこともあって、数羽の鴨が池をめがけて
急降下して着水しては水飛沫をあげている。

 その様な情景を眺めながら、先日の痛切な思いが、フラッシュバック
のように脳内に蘇った。

「政治の無策やスピード感のなさは、日々の報道のなかで明らかにされ
新党結成の動きも出てきている」
(かつて自民党が下野した時代の話)

 このようなときに、我々国民の一人ひとりが「ワイワイガヤガヤ」の
精神で「健全な意見」を交換することは、なによりも大切ではないかと
考えた。

 ところで、ワイガヤの精神で意見交流を行う時に前述の徒然草の序段
から第二四三段までを 「思考の通路」として活用できるのではないか、
身近な例としては、放送大学の面接授業のときに島内裕子教授は当日の
受講生の全員から上手に意見や感想を聞き出していた。

 授業そのものが分かりやすく親しみやすい雰囲気であったため受講生
全員が的確な意見や感想を述べていた。これは、一方で徒然草そのもの
がもつ魅力も、意見や感想を出しやすくしているのかもしれない。

 徒然草を読み通す面接授業と並行させて選択したインターネット授業
「日本文学の読み方」島内裕子教授著のテキストの頁をめくって行くと
徒然草の筆を進めるにあたって、兼好は自分のこれまでの人生や自分の
日常生活については、ほとんど触れていない傾向が見受けられる。

 しかも、徒然草は、作品のテーマを限定しないという独特の執筆姿勢
を貫いているために内容も多彩で「日常生活でありがちな滑稽な勘違い」
や「名人の話」「四季の変化の話題」「優美な貴族たちの社会」「深く
人生を見つめる話」そして「政治の話題」などを、兼好自身による読書
体験を基盤として、その思索を通じて導き出すという、スタイルを貫き
通している。

 ここで啓介は考えた・・・

「思索によって物事が普遍化されているということは物事に対する答え
というよりも、人生の生き方について、一般的な方程式が示されている。
したがって、その答を割り出す楽しみは、読者に残されている」

「兼好が徒然草を執筆した年齢の詳細は不明だが、兼好が、残した和歌
などから推測して、三十歳代から五十歳代に書かれたものと推測されて
いる」

 このきわだった特徴は、方丈記を執筆した鴨長明と、比較することで
良くわかる。

 鴨長明も特異な文学者であり、二十歳代のときには、百四首から構成
される「鴨長明集」をまとめている。さらに長じては「新古今和歌集」
編纂時に編集作業にあたる寄人となっており、その他にも、いくつもの
散文作品を残している。

 そのような多彩な文学活動のなかにあって方丈記は晩年の作品である。
鴨長明は、方丈記のなかで「自分がこれから何をどう書くか」と、いう
「明確な設計図」をもっていたといわれている。

 具体的には「自分自身と世の中との対比」「住処のあり方を通しての
人間の生き方の検証」である。

 しかし、方丈記には、最終場面で、どんでん返しの思考が仕込まれて
いる。

 このような、両者の文学作品を比較してみた場合に、われわれ国民の
一人ひとりが自分たちの人生をかけた未来図を描く時に「思考の通路」
と、して取り組みやすく、バラエティに富んでいて楽しく・分かりやす
いのは 「徒然草」のほうではないか、と、啓介は考えた。



(5) テニスコートは花盛り

 ブレントウッド・テニスクラブの室内テニスコートの温度計を見ると
「摂氏5度」を指している。夏季には、摂氏35度を超えるので温度差
が30度もある、と、いうことになる。

 しかしながら温度差は大きいものの、春夏秋冬を通じて室内では快適
なスポーツ空間が確保されている。

 啓介は、生涯スポーツとして「テニス&ウォーキング」を生活の軸に
据えているが、継続的に鍛錬が出来るという意味において室内コートは
最適である。春季の花粉症などから、守ってくれるドーム型の大屋根で
あり、初夏の梅雨時でも継続的にスポーツが出来る場所である。

また台風の最中であっても自動車で乗りつければ、いつも通りテニス
スクールに参加して汗を流せる。冬季の今日のような気温が摂氏5度
の寒さのなかにおいても、軽くウォーミングアップして、動き出せば
汗が滲んでくる感覚であり快適なテニスを楽しめる。

 狭山のブレントウッド・テニスクラブは、今年、25周年を迎える。
フロントのAさんの言葉を借りれば・・・

「1987年4月15日にブレントウッド・テニスクラブがオープン
して早いもので、今や25周年を迎えようとしている。コート造りの
際は、排水性の優れたコートにするために地盤を大きく掘り下げた。
目には見えないところに、多くの日数を費やすことになったことは
意外と知られていない。

 コートのサーフェース(表面)は、オムニコート製で、見た目には、
人工芝のような仕上がりになっている。

 打球感は、クレーコート(土のコート)に近く、画期的な仕上がり
となっているが、まだ、日本では耐用年数などの実績が少なく今まで
にない、新しいコート形態であることもあって人気が定着するまでに
は手探り状態が続いた。

 オープンセレモニーには、1975年のウインブルドンで黒人選手
として初めて優勝したアーサーアッシュが来日して、盛大なオープン
セレモニーが行われた。

 その年の6月には併設したレストランがオープン、都内でフレンチ
の料理人をしていたシェフが登場して、テニスプレーヤーの舌を大い
に満足させた。

 入会した会員には 『BRENTWOOD』のロゴマークの入った
ネームプレートが記念品として贈呈され、ロゴのデザインをしたとこ
ろのハワード・ヨーク氏のセンスの良さも手伝って大人気となった。

 そして、今から、6年前に、狭山市の道路拡張整備計画に、テニス
コートの一部が重なってしまい、二つのコートが使用できなくなった
ため、従来の会員制クラブから変わって、室内テニスコートを用いた
テニススクール主体の運営に変わった。

 しかしながらテニスクラブ会員の強い要望もあって、その後、屋外
テニスコートの二面を主体にした会員制クラブも、小規模ながら復活
することになった。

 啓介は、開設当時から、お世話になった会員の一人であり・・・

「BRENTWOOD」のロゴマークの入ったタグは、テニス専用の
バッグに括りつけたままである。

 啓介にとって、ブレントウッド・テニスクラブは自分のふるさとの
様な感覚があって、今でも、レストランでフロントのAさんが淹れて
くれた珈琲を飲むと気持ちが落ち着く。

 啓介自身も、その間に家庭の事情でいろいろな変遷があり、テニス
クラブへの通い方には濃淡があるものの四十歳代からのお付き合いと
いう歴史観のある場所となった。

 また自宅から狭山市祇園のテニスコートまでは自動車で約20分間
の近さであり、脳内をテニスモードに切り替えるのには、丁度良いと
ころの距離感と云える。

 確かに開設当時は屋外のテニスコートが6面あって太陽がいっぱい
の練習風景であった。二十歳代の後半にテニスを始めた啓介はいつも
屋外で飛び回っていたので、顔面はいつも日焼けしているのが当たり
前の状況であった。

 そのような延長上では、当初、室内でのテニス練習には、抵抗感が
あった。

 しかし実際に屋外でもテニスが出来るクラブ会員であり、室内でも
プレーが出来るテニススクール生という体験を、続けていて、ある日、
花粉症の時期になって夜中に喉の痛みを感じた。

 最近は、肺の中まで花粉が入り込むことがあると聞き、急遽、室内
でのテニスのみに切り替えることにした。ただし、これも、花粉症の
時期だけのことであり花粉が舞っている時期を過ぎれば、快適な青空
の下でのテニスも魅力的なので、クラブ会員に戻りたいという気持ち
もある。

 室内テニスコートにおける練習時間の90分間は、あっという間に
過ぎる。レッスン後には、海老名ヘッドコーチから本日のレッスンの
締め括りの話がある。

 海老名ヘッドコーチによるテニス技術向上に向けた話はとても分か
りやすく長年にわたって師と仰いでいるメンバーも多い。時には人生
を語ることもあって、その魅力には老若男女を問わずファンが多い。

 啓介は、いまだにテニス技術の上達を感じることがあるのと同時に、
ヘッドコーチの話しは、人生の生き様などにおいても、琴線に触れる
ような思いをすることがあり、大いに啓発されるところがある。

 テニススクールの練習が終わった後で昼食のレストランをのぞくと、
満席状態なので、入間市の隠れ家的な雰囲気が気にいっている珈琲店
に向かうことにする。

 最近は、近郊の東雲テニスクラブが閉鎖となり、ブレントウッド・
テニスクラブ開設当時の会員がまた戻ってきた。

 当時、狭山市の道路拡張工事が始まり、室内テニスコートへの改造に
向けた大掛かりな工事が始まったときに完成を待ちきれずに東雲テニス
クラブに大移動した会員が大挙して戻ってきたため、余裕のあった会員
募集枠はたちまち満杯となり、一部残されたところの屋外テニスコート
もレストランも大盛況となったのであった。

【後日談】
 しかし、このブレントウッド・テニスクラブも、 2015年末には
予想外の事態で閉鎖となり、この記事も昔の善きテニス時代を思い出す
ための歴史的な意味合いの記述となってしまった。



(6) ワイワイガヤガヤの場作り

 ブレントウッド・テニスクラブのフロントでAさんと挨拶を交わして
駐車場に出る。フロントのAさんの家系図を辿ると、ご先祖様には歌聖
と称される「柿本人麻呂翁」に行き着くということが、話のきっかけと
なって、時々、文学論に花が咲く。

 ブレントウッドのフロント入口の生け花やインターネット上のホーム
ページ、そしてテニスクラブの会報のセンスの良さには、Aさんの影響
も大きいのではないかと勝手に想像している。

 Aさんの旦那さんもテニスクラブの仲間であり、人生の大先輩である。
啓介が三年前に、家内と一緒に、イタリアの旅に出掛けることになった
ときに・・・

「海の都の物語(ヴェネツィア共和国の一千年)」塩野七生著を読んで
から旅に出ると面白いよと、いうアドバイスをいただいて、早速、本屋
さんで買い求め大急ぎで読んでからイタリア旅行に出掛けたが、現地で、
ヴェネツィアの街を自分の目で確認しながら散策、書籍の記述との結び
つきも確認できて旅の楽しみは倍増した。

 テニスクラブから入間市の珈琲店までは、車で約十分間の距離である。
インターネットのホームページには、焙煎コーヒーの美味しい店として
店内の風景写真とともに紹介記事が掲載されている。

 啓介は、珈琲よりも紅茶が好きで、アールグレーをマグカップでいた
だくことにしている。ただし、秋の入口の人肌恋しい感じがする気候の
頃の焙煎コーヒーは季節的に年に一度の絶妙な味覚の機会なので、必ず
焙煎コーヒーを味わうことにしている。
(ちなみに10月1日は珈琲の日だそうである)

 喫茶店アマルフィーは、場所的には入間市役所の南側に位置しており、
大通りからの風景は、軽井沢の古き時代の別荘のような雰囲気であって
入り口の左側には設計士の星野さんのアトリエがある。

 木製の階段を登った奥に、喫茶店アマルフィーがあるのだが、最初は
この階段の入り口を探すのが難しい。

 この店舗も、星野さんの設計で天井が高く、音響効果が良いことから、
時折、小規模な演奏会が開催されている。アマルフィーは、昼食時こそ
賑わうが、午後一時過ぎともなれば、ゆったりと食事できるので、時々、
室内テニスの練習が終わった後で、マグカップの紅茶やサラダとチキン
カレーのセット、そして締めとしてアールグレーの香りを楽しむという
順序でお腹を満たすことにしている。

 啓介は、ゆったりとした雰囲気での昼食を摂りながら考えた。

「アマルフィーの丸テーブルをお借りすれば六人は掛けられるのでこの
場をつれづれなる『ワイワイガヤガヤ』の場として使わせていただく案
はどうか」

「米国人の英語教師を招いて、時々、英会話のサークルも行われている
ことでもあるし、この場所をインターネット上ではスペース貸しの空間
としても案内している」

「徒然草を『思考の通路』として、喫茶店アマルフィーで焙煎コーヒー
や紅茶などを嗜みながら意見交流が出来る場、ときには政治談議ができ
る場を設けることが可能ならば我々庶民のレベルからもインターネット
上で『声なき声』として、日本の政治に向けて発信して行ける」

 そのベースキャンプ的な「場作り」として活用出来るのではないか?
まだ、具体的なイメージを描く段階までは、行っていないが、可能性と
しては十分に考えられる。

 そのように考えた啓介は、アマルフィーのオーナーであるTさん宛て
に、起案書を兼ねた募集案内で具体的なイメージを明確にしてから相談
しようと考えた。

【後日談】
 この徒然なる懇談の場は、実際に実現、5名の仲間が集まっての開催
となり 「徒然草」の教本を手元に置いてスタート、まさに活発な意見
交流が行なわれるようになった矢先に、徒然なる仲間の20歳代の息子
さんが膠原病を発病されて参加不能となって頓挫・・・

 テニス同好会の様に仲間の欠席があっても残ったメンバーでなんとか
継続出来ると云う状況にはないことを痛感して、継続を断念することに
なった。
(小脳を駆使するスポーツの分野と広範囲に脳内を使う文化活動との間
には根本的な違いがあるようだ)



(7) 学習暦を重ねる楽しみ

 天候に恵まれた彩の森入間公園には、久々に、大勢の人々が集まって
来ている。今日は 「立春」 である。

 いつもの年だと暦の上では立春といっても寒いときが多いが、今この
時は、両手を広げると太陽の暖かさが手の平で感じられる陽気である。

 太陽の光も明るくなってきて輝きが感じられる。

 赤ちゃん連れのお母さんが枯れた芝生の上にシートを広げてくつろい
でいる。

 池の周りの鴨や鳩も、いつもより活発に動き回っているように感じる。

 家内の万歩計が、本日のウォーキング目標の五千歩を少し超えたので
飼い犬を自動車の後部座席のボックスに乗せて、帰ることにする。

 家内はウォーキングの時だけ、万歩計を身に付けるようにしているが、
啓介は朝から夜寝るまでの間、万歩計を腰のあたりに付けている。

 彩の森入間公園などにウォーキングに出掛けた日は、だいたい一万歩
を超えることが多い。

 今日は家に着くと郵便物が届いていた。放送大学からの郵便物で特別
講演会の案内であった。

 五味文彦教授による講演で「日本史の新しい見方・捉え方」と題した
ものであった。

 講演後は懇親会も計画されているという。文面には、卒業生を対象に
定員250名の募集とあるので、大規模な講演会のようである。

 啓介は 「心理と教育」専攻で、昨年度末に卒業対象となった。

 昨年の3月末に、NHKホールで全国規模の卒業式が行われる予定で
あったが、東日本大震災の影響で全国規模の卒業式は中止となり卒業式
で受け取ることになっていた「学士」認定書は宅配便で送られてきた。

 放送大学には、1995年に入学。学習を重ねること16年間にして
学士認定書が届いた。入学のきっかけは、大手町勤務のときにたいへん
お世話になった大先輩から贈呈された一冊の本が縁であった。

 大先輩からは 「佐久間さんは感動屋さんだから」是非とも、この本
を読んでみて下さいと 「月は東に・蕪村の夢・漱石の幻」森本哲郎著
が贈られてきた。

 大先輩の思惑通りといったところか、これが、きっかけとなって俳句
に興味が湧き、早稲田大学のオープンカレッジで俳句を学び講座を担当
された早稲田大学英文科教授高橋悦男編「俳句月別歳時記」を購入して
作句を開始することになった。

 そして高橋悦男教授が主宰されている同人誌「海」に俳句を投稿する
ようになり東京都内の句会などにも積極的に出席しているうちに・・・

「松尾芭蕉の崇高な俳句は、どのような心の働きの中から、創り出され
て来るのか?」の興味から答は、心理学にあるのかもしれないと考えて
放送大学に入学した。勿論、専攻は 「心理学」 とした。

 当時の心境としては放送大学を卒業するという目標ではなく専攻した
「心理学」から、芭蕉のこころの奥底に辿り着きたいという思いから、
衝動的に心が牽引されてのものであり知的な好奇心の様なものが先導役
を果たしたといえる。

 しかし、これが後に「兀型の専門性」を身に付ける必要性に迫られた
時に、自分にとって従来から経験を積んできた「管理工学(IE)」に
加えて、もう一つの深堀りの専門分野として心理学の世界が重要な存在
になって来るのであるが、この時には、まだ、それほど重要な専門分野
になって来ることには気付いていなかった。

 心理学から、心の働きを学び取るという興味は、やがて、脳の働きへ
の興味に発展して行き、さらに脳の科学から情報機器による情報処理の
仕組みへと発展して行き、やがて、心理学の分野においてはユング博士
の考え方やアプローチの在り方に共鳴、放送大学の大学院の授業科目で
ある 「臨床心理面接特論」 大場登・小野けい子著にも、学ぶことに
なった。

 同じ大学院の学び「生涯学習論(現代社会と生涯学習)」岩永雅也著
および「生涯学習と自己実現」堀薫夫・三輪建治著も面白かった。

 生涯学習の面接授業では思わず目が覚めるような演習機会にも恵まれ、
学習暦を重視した啓介の学びが佳境に達した感のあるときに大学の単位
認定が卒業レベルに達したために卒業となった。

 しかし、元々、生涯学習的に継続して学ぶことが啓介の考え方である
ので迷うことなく放送大学に再入学して、次には「人間と文化」コース
を専攻した。そこで、出会ったのが島内裕子教授であった。

 啓介が、島内裕子教授のインターネット授業 「日本文学の読み方」
および面接授業で、対面が出来る 「徒然草を読み通す」の受講機会に
恵まれたことは、必然の慶事といっても過言ではないと云える。


(8) 日々学ぶことの習慣化

 啓介の「書籍が大好き?」は、啓介が、まだ五歳の頃にルーツがある
という(母親は、既に、九十歳で他界しているが)啓介がよく聞かされ
た話として・・・

「ケイスケが、まだ五歳の頃に小脇に本を抱えて部屋の少し高いところ
に登っては胸を張ってポーズをとりなんとも得意げな顔をしていたよ」
というのである。

 けっして、神童という類の話ではなく、今風に、云えば形から入って
いたようである。

 啓介は身近な経験において「その子は神童ではないか」と感じたのは
早稲田大学の記念館の講堂へ外国人の講演を聞きに行ったとき「会場の
皆さんの中からご質問はありますか?」と、いう司会者の問いに、手を
挙げた受講者から・・・

「最近、循環小数の勉強を始めたばかりの息子から『お父さん、学校で
先生から、1を3で割り算するとその答は、0.3333333・・・
と永遠に続く。これを循環小数というのだと教わったのだけれど、この
答に、また、3を掛け算したら答はどうなるの?』と聞かれ絶句した」
と云う前置きをしてから、質問者は本論の質問に入っていった。

 そのとき啓介は「その子は神童」と呼んで良いのではないかと思った。
そして啓介は、その循環小数の話題から、大いなる示唆を受け取った。

 自分に向けた・自分の声として・・・

「なんでも・割り切るのが好きな・啓介さんよ」
「生きて行く上で、どうしても、1を3で割り切らなきゃいけないとき
にも、3分の1という分数にしてそのままにしておく方法もあるのでは
ないか?」と、この着想は、その後の啓介の生き方に少なからず影響を
与えた。

 ところで、徒然草においても兼好が神童らしさを最終段の第二四三段
で書き記している。

【徒然草:第二四三段(訳)】 島内裕子教授の訳から抜粋

 私が八歳になった年に、父親に問いかけて言った。
「仏は、どういうものですか」

 すると父が答えた。
「仏には人間がなるのだよ」と。

 再び、私は尋ねた。
「人間は、どのようにして、仏になるのですか」と。

 父は、また答えた。
「仏の教えによってなるのだよ」と。

 三度、私は聞いた。
「教えなさった仏を、誰が教えになられたのですか」と。

 また、父が答えた。
「それもまた、その先の仏の教えによって、仏になられたのだ」と。

 四度、私は問うた。
「その教え始めなさった第一番目の仏は、どのような仏だったのですか」
と聞いた時に、父は「さあて空から降ってきたのだろうか土から湧いて
出てきたのだろうか」と言って笑った。

「息子に問い詰められてとうとう答えることができなくなりました」と、
父は、いろいろな人に、このことを語っては、面白がった。

 兼好は、この少年時代の父親との問答をもって、徒然草の筆を置いた。

 この問答からはソクラテスのグループ討議による「ナゼナゼ論議」が
連想される。ソクラテスは、多くの難問を、このナゼナゼ論議によって、
解き明かしたといわれている。

 啓介は、企業人になってから、真の「本好き」「勉強好き」になった。
きっかけは、家内と、ニュージーランドに出掛けた際の、帰りの航空便
での会話が原点であったと考えている。

 当時、企業人として忙しく働き廻っていた頃に、啓介も永年勤続表彰
制度の対象者となり、その表彰とともに副賞として長期休暇と旅行代金
が支給された。

 そして、旅行先としては、家内と相談してニュージーランドを選んだ。

 季節的には、日本が春ならニュージーランドは秋となり、季節は反対
となるが「時差の少ないことに魅力」を感じて、秋のニュージーランド
を旅先として選んだ。

 実際、ニュージーランドの眺望は素晴らしく、その感動は脳内に刻み
込まれたまま長期保存されて、六十歳の定年後に、その体験をモチーフ
にして「小説」を書いたほどに、お気に入りの旅であった。

 前述の通り、家内とのニュージーランドへの旅は、後日、啓介が小説
にするほどに感動的なものであったので、当然、帰り便の機内での会話
は大いに盛り上がった。

 盛んな会話のやりとりの中で「今回の旅では、お金もかかったけれど、
素晴らしい旅だったわね」と、いう二人の会話の延長上で家内から思い
がけない発言が飛び出した。

「やはり、これからは、自分たちにもお金をかけて行く、自分たちへの
投資も大切よ」と、いう話になって、家内から・・・

「あなたに家計から百万円を提供するから、自分で好きなことに使って
みたら」と、いうのである。

 啓介は日本に帰ってからずいぶん考えた。そして「二つのアイデア」
を考え出した。

「一つ目は、これからの情報化時代にあって我が家にもインターネット
回線を引き込みパソコン購入。やがて全社的な規模で、情報化してくる
ことは間違いのない見通しなので、それを先取りしたい」

「二つ目は、入社時は設計部門に配属となり、純国産ジェットエンジン
の量産設計に係わるという幸運に恵まれ現在は、管理工学のエンジニア
として活動。欧米における管理工学のエンジニアとの交流を通じて関連
する実務者の動向や実態なども海外情報として把握・・・

 自分の目で、把握した事実や体験・経験などを事業所や工場の生産性
向上運動などに生かせると確信、現在は、そのおかげで、活動の磁場を
見出しているが、一方で最近の市場における不況の荒波の影響を受けて、
我が社でも多くの先輩たちが早期退職制度で、退職の道を選んでいるが
極端な場合、将来、企業倒産ということがあっても自立して自分を生か
して行けるように、日々、研鑽出来る場を自分自身で用意しておきたい」

 啓介は、そのように考えて、パソコンを購入・手習いを開始した。

 そしてインターネット回線を我が家に引き込み、将来的にはビジネス
コンサルタントも出来る素地を用意しておこうと考えてプレジデント社
発刊の企業経営に関するノウハウ集をダンボール箱(二箱分)購入して
猛勉強を始めた。

 総費用は約百万円かかったが、これにより、日々学ぶ習慣はすっかり
身に付いた。

 その後、この努力は意外な方向で実を結び、企業的にも航空ビジネス
部門が国内需要中心から海外需要向けにも市場進出することになり全社
的な業務革新運動が必要となり、その推進役が必要となってきた。その
推進役としての旗振り役が大手町に集められ啓介は中堅メンバーとして
迎えられることになった。

当時、啓介は、本部長から全社的な課題として・・・

「権限委譲」という課題を特命として指示され「これも必然か」昼休み
の散策で、大手町に、ボストンコンサルティンググループの存在を知り、
世界を知り尽くした彼らは「権限委譲」という課題をどのように扱って
いるのだろうかと、彼らから教えていただけそうな直感が働いて予算計
上もないまま、無鉄砲にも、ボストンコンサルティングのオフイスビル
を訪ねた。

 フロントの案内によって気軽に相談に乗ってくれたヴァイス・プレ
ジデントの言葉は明快そのもので・・・

「日本企業に共通した課題でどこの企業も苦労されているようです」と
その実情を紹介していただいたことを昨日の出来事のように覚えている。
お礼を云って帰る際に 「タイムベース競争」堀紘一監修が手渡されて
これが、後に啓介にとっては、社内におけるビジネスコンサルタントと
してのバイブルとなったことはいうまでもない事実となった。

 啓介は、お礼に、この本の内容をさらに詳しくビデオに監修したもの
を購入して、全社的な業務革新運動に大いに役立てた。


第2章

(1) 何を意味しているのか

 ニュージーランドのカンタベリー地方で2011年2月22日に大地
震が発生。クライストチャーチの大聖堂の塔が崩壊したというニュース
はテレビ報道によって知らされた。啓介にとって、この地方は大いなる
元気をいただいた都市のひとつであり、あの天高く仰ぎ見た、大聖堂の
尖塔が崩壊したというニュースには驚愕した。

 クライストチャーチ地震と呼ばれる大地震により被害を受けた家屋は
4万から5万戸に及んだと云われている。

 なかでも、地元テレビ局が入っていたビルの倒壊による被害は甚大で
あり同局の関係者やこのビルに入居していた語学学校の生徒や留学生が
被害に巻き込まれて多数の死傷者が発生した。

 語学学校という性格から死者185人の出身は15カ国に及び日本人
も28名が尊い命を失った。クライストチャーチ国際空港では管制塔の
建物が崩れたために、一時、空港は閉鎖された。

 ここに亡くなった方々のご冥福をお祈りして合掌する。

・・・・・・・・

 徒然草を思考の窓にして「ワイワイガヤガヤ」の場を設け、意見交流
して行くというイメージは啓介の頭の中では具体化しているが、それを
目に見えるようにして、起案書にした上で、実際にメンバー募集をして
行くときに、どのような説明をして行けば「分かりやすいのか」それは
「難題でもあり」課題でもある。 

 しかも、最初の問題認識であったところの・・・

「政治の無策やスピード感のなさを正す」
「最近の新党結成の動きをどのようにとらえるか」

 われわれ国民の一人ひとりが「ワイワイガヤガヤ」の精神で「健全な
意見を交換すること」が果たして容易に実現出来ることなのかどうかは、
ある程度の目論みを建てておくことが肝心である。

 その際のポイントは、出来るだけ分かりやすい展開が出来るか否かに
かかってくる。

 松尾芭蕉の言葉を借りれば「幼子にも分かる展開」が出来るか・否か
にポイントがあるということになる。幼子を対象にするには話に無理が
あるとしても、中学生にも、十分に理解出来るイメージというレベルが
落としどころになってくると考えている。

 そういえば、昨年暮の「徒然草を読み通す」の授業でも受講生の中に、
中学校の先生が混じっていて、島内裕子教授に次のような受講の感想を
述べていた。

「現在、徒然草の話を読み聞かせているのですが島内先生の講座を受講
することで、生徒たちにより分かりやすい授業をしようと考えています」
「本日の徒然草を読み通す講座は勉強になりました」と、いう様な主旨
の感想であった。

 中学生にも分かるという視座で考えたときに・・・

 それを可能にするためには、徒然草を 「思考の通路にする」という
ことを独り舞台でも良いので、啓介が、実際に独りロールプレーをして
みて手応えを確かめ、その上で皆で共有して行くというプロセスが必要
なのではないか。

 既に放送大学の東京文京学習センターの新校舎の研修室において島内
裕子教授のご指導の下において徒然草の序段から第百十八段までの前半
部分を読み通している。

 これを基盤にして、先ずは序段から第十段までを、啓介の独りロール
プレーで演習してみたら、起案書や募集案内を作成するヒントが得られ
るのではないか。

 序段から第十段までの記述には・・・

「身分」や「教養」「政治」「恋愛」「仏教」「子孫」「人生」そして
「色欲」「住居」などについて、兼好ならではの「つれづれなる思い」
や「問題意識」などが書き連ねられている。

 啓介は、序段の本分と、島内裕子教授による訳文の助けをお借りする
ことで「ワイワイガヤガヤ」のロールプレーを演じてみることにした。

 独りロールプレーによって、どこまで「思考の通路」を飛翔して行け
るだろうか。

【徒然草:序段(本文)】

 徒然なるままに、日暮らし、硯に向かひて、心にうつりゆく由無し事
を、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。


【序段(訳)】 島内裕子教授による訳

 さしあたってしなければならないこともないという徒然な状態がこの
ところずっと続いている。こんな時に一番よいのは心に浮かんでは消え、
消えては浮かぶ想念を、書き留めてみることであって、 そうしてみて、
初めて、みずからの心の奥にわだかまっていた思いが、浮上してくる。

まるで一つ一つの言葉の尻尾に小さな釣針が付いているようで、次々と
言葉が連なって出てくる。それは和歌という三十一文字からなる明確な
輪郭を持つ形ではなく、どこまでも連なり、揺らめくもの・・・

 そのことが我ながら不思議で、思わぬ感興におのずと筆も進んでゆく。
自由に想念を遊泳させながら、それに言葉という衣裳をまとわせてこそ、
自分の心の実体と向き合うことが可能となるのではなかろうか。

 面接授業では、この対極として樋口一葉の雑記が参考記事として紹介
されていた。

「つれづれならぬ身は、日暮らし硯にも向かわず、おのが勤め、ろうが
はしく走り巡りて、日もやうやう暮れぬとて、足机など取り出しつつ」
・・・
(明治二十二年初春の雑記より)

 兼好と一葉の違いは決定的であり、それは「閑と忙」である。しかし
両者に共通していることは清少納言の「枕草子」を精読しており、両者
ともにその影響を強く受けていることである。

 兼好は、徒然草「第十三段」に「ひとり燈火のもとに文を広げて見ぬ
世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる」と書いており・・・

 訳によれば「独り、燈火の下に書物を展げて、見ぬ世の人を友とする
くらい、無上の慰めはない」と、して読書人の感想を述べている。

 また第七十二段では清少納言の枕草子の「もの尽くし」の文体で筆を
進めており、枕草子を精読していたことが良く分かる。

 古典文学に関する深い教養を武器に近代小説の傑作を書いた樋口一葉
は紫式部よりも、清少納言に親近感を抱いていたと・・・

 島内裕子教授が著書の「日本文学の読み方」で述べており、樋口一葉
の随想記「さおのしづく」の冒頭で記している紫式部と清少納言の比較
論を紹介している。

 一葉は文中で 「世間の人々の多くは、紫式部を高く評価しているが、
自分は、そうは思わない」と、云いきっている。

 紫式部には父親や兄、藤原道長の庇護があったのに対して、清少納言
は頼る人もなく、独力で文学人生を切り開くしかなかった。

 清少納言を「霜降る野辺」の「捨て子」に喩え、「女の境」を離れて
文学に一生を賭けたからこそ、枕草子の表面は、優雅で華麗に見えるが、
深層には・・・

「あはれに、寂しき気」が、籠もっていると、一葉は洞察している。

 島内裕子教授の言葉をお借りすれば・・・

 これは、一葉が自分自身の文学の本質を、清少納言に仮託して告白し
たものともいえる。清少納言の 「優雅と辛辣」の奥底にあるものは
「女としてこの世を生きることの哀しみ」であると見抜いた一葉こそ、
まさに清少納言の「見ぬ世の友」であったといえる。

 啓介は、放送大学の島内裕子教授の呼びかけで「徒然草を読み通す」
ことを真正面から受けとめて、先ずは最集段から序段に向けて読み通し
てみた。そして、今度は、あらためて序段から最終段までを読み通して
みた。

 そこで、啓介は 「あること」に、気付いた・・・

 兼好の徒然草を「思考の通路」にして思いを巡らすためには日本文化
の始発期の 「古事記」からはじめて「万葉集」および「古今和歌集」
「新古今和歌集」「枕草子」「源氏物語」「和泉式部日記」「更級日記」
「方丈記」「平家物語」などを 「日本文学の読み方」 島内裕子著の
ガイダンスに沿って、一気に読んだ上で 「徒然草を読み通す」ことを
しないと、徒然草の文脈の奥底に潜むものに辿りつかないのではないか
と考えて啓介は、絵入りで読み易く工夫されている家内の蔵書(日本の
古典:現代語訳)を拝借して一気に読み通してみた。

 結果、兼好が「序段」に書いている名文は・・・

 自分自身が執筆家としての「ありたい姿」について、現役の六位蔵人
の時代に構想を描いていたのではないか。
(蔵人とは、天皇に仕えて日常の雑事や文書の管理を行う役職である)

 兼好は、神道の家柄に生まれており、若い頃は、堀川家の家司として、
事務をつかさどる職員であった。

 後宇多天皇と堀川基子の間に生まれた邦冶親王が後二条天皇になった
ときに蔵人として出仕している。三十歳以前には出家しており出家して
兼好御坊となったといわれている。

 徒然草の完成は、登場人物の官位や記事からの推定で、兼好が五十歳
頃までに書かれたものとされているが詳細は不明である。

 兼好は、歌人としても知られており、和歌や記述文書などから鎌倉に
行ったことがあり、晩年は「源氏物語」や「拾遺和歌集」などの書写も
行っている。

 足利尊氏や高師直などの武家とも交流があり、文化人として遇されて
いたことが推測されている。

 啓介は放送大学の大学院においても、履修生として貴重な履修学習の
体験をしている。

 ユング博士の心理学の考え方に共鳴した延長上で、大場登教授の存在
を知り「臨床心理面接特論」大場登・小野けい子著に学ぶことにした。

 通常の教科は、二単位で編成されているが、この教科は四単位の編成
になっておりテキストにも厚みがある。啓介は、この教科の期末テスト
で百点満点を取っており、いかに注力して学んだかの証と考えている。

 同時に、この臨床心理の考え方を学ぶことで啓介はものごとに対する
見方や取り組み方に、奥行きともいえるような、余裕をもった考え方が
出来るようになったことも確かである。

 ものごとを受け止めるときの基本的な姿勢として・・・

「それは、何を意味するのか」というアプローチを取るのである。

 これによって、一呼吸おくことが出来るために、慌てずに焦点を外す
こともなく的確に対処できる。

 徒然草を「思考の通路」にするときにも、このアプローチの取り方は
有効であると考えている・・・

 兼好が序段でこんなことをいっているが「それは何を意味するのか」
と、こんな具合である。

 同じく大学院の履修科目で岩永雅也教授から「生涯学習論(現代社会
と生涯学習)」を、学んだときにも、啓介の心が揺さぶられた学習経験
があった。

 岩永教授は、啓介が卒業研究の論文をまとめたときの担当教授であり、
教授の思考の特徴としても、ものごとを多面的に、いろいろな視点から
見て行くということを日常生活の中で実践されている。

 兼好の徒然草の執筆と、同じような傾向が見られるところが面白い。

 岩永教授のテキストには書かれていないのだが、啓介は、次のような
ことを本能的に毛穴で感じ取った。

「表向きの話には、必ず裏の話がある。そしてそこには、さらに裏の話
が隠されていることがある」

「ものごとを観る上で、多面的な見方は不可欠である」

「少なくとも物事を対極的に両面から観る態度は、日常生活においても
習慣化したいものである」

 このようなことを感じ取ることになったきっかけは「生涯学習論」の
テキストの中に、第二次世界大戦後のイギリスにおいて保守党と労働党
の二大政党が交互に政権を交代することになって、その度に、生涯学習
の全体的方向性が頻繁に重心を移動させられたという記事が紹介されて
いて・・・

 ある意味で不幸な状況が続いたことは、最近の日本の与野党の交替劇
にも通じており、ねじれ国会の議案の推移などを見るに付け建前と本音
との思惑が交錯して、まさに、カオス(混沌)の状態を成している中で
政治の正常化を望む啓介は、前述のようなことを、本能的に毛穴で感じ
取ったのであった。

 徒然草を「思考の通路」として飛翔するときにも、このような多面的
な見方は必須であり、徒然草に書かれていることをワイワイガヤガヤと
意見交流することが自ずと多面的な見方に通じると考えている。


(2) 兼好の決意と一葉の決心

 さて、徒然草 「序段」 は、何を意味しているのか。

 名文として名高い 「序段」と 「第6段」を合わせ読むことにより、
この謎が解けてくることに啓介は気付いた。

 ここで、第六段の書き出しの部分を読んでみることにしよう。

【第六段(訳)】 放送大学 島内裕子教授の訳から抜粋

「自分が高貴な身分であれ、ましてものの数でもない場合はなおさらの
こと、子どもというものはいないほうがよい、と、私は思う ・・・」
(後略)

 この文面からは、子どもが生まれることへの恐れさえ垣間見せている。
序段と第六段を照らし合わせたときに、そこに明確に見えてくることは、
兼好が閑職に追いやられたために「徒然なるままに・・・」という情況
に置かれて執筆活動を始めたのではなくて、蔵人としての現役のときに、
その情況を自ら望んで兼好御坊となり読書を通じて脳内に浮かんだ想念
を、清少納言の 「枕草子」のように、思うがまま書き綴りたいという
「決意」を固めて、その意思を継続させて貫き通すためには、子どもは
いらない、と、いう発想をしたのではないかと恐れ多くも推測する。

 おそらく序段から第十段くらいまで、あるいはもっと先の段まで現役
の蔵人時代に、既に、文面に出来るまでの細部を含めて、構想をもって
いたのではないかという推測も出てくる。

 したがって、本格的な徒然草の執筆にあたっては、脳内に秘められて
いたところの文面を、一気に文字として吐き出していったのではないか
とも考えられる。

 話は変わるが伊賀上野に生まれた松尾芭蕉の場合も、十九歳の頃から
藤堂藩侍大将であった藤堂良精の息子良忠(俳号蝉吟)に仕え、若君と
共に学んだ俳諧が二十一歳のときに、初めて、二句が撰集に入集したも
のの若君の良忠が、二十五歳の若さで病没した後は致仕しており、その
後は消息が途絶えて、二十九歳の春に、俳諧師としての独立を目指して
江戸に出た。

 江戸では神田上水の水道工事の事務にも携わったことがあるが、次第
に俳諧の弟子たちも増えて行き、俳諧の宗匠生活も軌道にのった。

 しかし、新たな境地を切り開くために、宗匠生活を辞めて深川に隠棲
することになる。その後は、各地への旅と旅の合間の草庵暮らしや故郷
伊賀への帰郷を繰り返し大阪で没した。

 兼好も芭蕉も、その一生は、オランダの史家ホイジンガの云うところ
の「第三の生き方」を貫いたといえる。

 ホイジンガは、名著「中世の秋」で、ヨーロッパの中世末期の文化と
中世人の生活の豊かさを記述しているが、その文中で 「人間の三つの
生き方」を説いている。

 人間の三つの生き方のなかで、兼好と芭蕉が生きた、第三の生き方に
ついて、夏目漱石が彼の作品である 「草枕」の冒頭で、とても分かり
やすい説明をしている。

「山路を登りながら、こう考えた」「智に働けば角が立つ」「情に棹さ
せば流される」「意地を通せば窮屈だ」 兎角に、人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安き所に引き越したくなる。

 どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。

 人の世を作ったものは、神でもなければ鬼でもない。矢張り向う三軒
両隣りに、ちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みに
くいからとて越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。

 人でなしの国は、人の世よりも猶住みにくかろう。引き越すことのな
らぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間
の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。

 ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あら
ゆる芸術の士は、人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。

 ホイジンガの「人間の三つの生き方」ついては「月は東に、蕪村の夢、
漱石の幻」森本哲郎著に詳しい解説がある。

 文中で、それぞれの生き方を 「道」と、して解説している。

 ホイジンガの云うところの「第一の道」は、現世の住みにくさや生き
にくさの解決を、彼岸の世界からの救済に求めようとする考え方であり、
宗教的な神仏を求める希求の発想である。

 すべての文明は、先ずこの道を歩んできた。

 キリスト教も、イスラム教も、仏教も、その性格はいかに異なろうと、
歩んできた道は同じであった。

 やがて「第二の道」があらわれる。第二の道は現世の世界そのものを
改良によって住みやすく、生きやすいものにして行こうという考え方で
あり 「現実の世界を積極的に改良して」道を切り開いて行ったときに、
新しい時代が始まり生きることへの不安から勇気と希望に道をゆずる。

 この意識がもたらされたのは、十八世紀にはいってからのことである。
しかしながら人々の歩む道は、この二つに尽きている訳ではない。

 もうひとつ「第三の道」がある。第三の道は、第一の道のように神仏
の加護に希求するのではなく、さりとて第二の道のように現実の世界を
変革したり改良したりして、そこに、理想郷を実現させようというもの
でもない。

 そのまんなかにあって 「せめてみかけの美しさで生活をいろどろう、
明るい空想の夢の国に遊ぼう、理想の魅力によって現実を中和させよう」
という生き方である。

 この第三の道は、はたして、現実からの逃避だろうか。ホイジンガは、
その問いかけに対して・・・

「いや、そうではない」と、答えている。

 それは現実とのかかわりを持たぬということではなく、この世の生活
を芸術の形につくりかえることであり、生活そのものを美をもって高め
社会そのものを芸術と遊びによって生活そのものに豊かさを加えて満た
そうとするものであると、ホイジンガは説明している。

 ホイジンガは「中世の秋」すなわち、ヨーロッパの中世末期の文化を、
このような視点からとらえ、そこに、中世人の生活の豊かさを発見した
のであった。

 樋口一葉の前述の雑記「つれづれならぬ身は・・・」の情況から一葉
は「第二の道」と「第三の道」を併走しながら執筆に励む日々であった
と思われる。

 読売新聞に「一葉ゆかりの文学散歩」と題して、その情景が目に浮か
ぶような記事が掲載されていたので書き出してみることにする。

 樋口一葉は、21歳の頃、母と妹の三人で、龍泉寺町(現在の東京都
台東区竜泉三丁目)に暮らしていた。一葉は小説家を志しながら瓦ぶき
平屋の二軒長屋で荒物と駄菓子を売る店を営んでいた。

 一葉が、17歳の時に父親が亡くなっており、作家をめざすと決めた
19歳のときには、一家の大黒柱として、家計を背負いながらの作家と
しての「決心」であった。


(3) ダ・ヴィンチからのひらめき

 樋口一葉の作品と、文体の特徴については、放送大学の東京多摩学習
センターの所長・新井特任教授から「文章心理学入門」の授業において、
文章に関する統計的な解析結果などを踏まえた、独自の理論を拝聴する
ことが出来た。

 その時に確認した一葉の肖像から、凛とした表情のなかで、きりりと
しまった口元は「何を意味するのか」と考えた。そこで脳内をよぎった
のは、イタリアの旅において鑑賞した「最後の晩餐」の壁画にまつわる
話題であった。

 ご存知のように、最後の晩餐の壁画は、主イエス・キリストを中心に、
弟子たちの姿が描かれている。

 作者のダ・ヴィンチは、キリストの口元からの言葉として・・・

「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのひとりが私を裏切ろ
うとしている」という発声を、キリストの口元が開いていることで表現
しており、その言葉に対応した弟子たちの動作が、それぞれの弟子たち
の動きや表情に連なって描かれているという。

 啓介は、なかなか鑑賞の機会に恵まれないという情況の中でイタリア
現地の教会において、この壁画を見る機会を得たのであるが、案内者の
説明に聞き入りながら観賞「その意味するところ」を知ったときに最高
傑作といわれる所以を知るにいたった。

 啓介は、新井特任教授の「文章心理学」を受講した後に、自宅の家内
の蔵書を拝借して「日本現代文学全集」から、樋口一葉集を取り出して
「たけくらべ」を読み返してみた。そして巻末の作品解説に目を通した。

 山本健吉氏による解説である・・・

「定本現代俳句」山本健吉著で、山本健吉氏の評論の確かさとわかりや
すさは、既に承知している。

 一葉が、最初に、望んでいたのは、歌塾の後継者になることであった。

 歌塾の後継者になるということは、歌人になるということではなくて、
お花やお茶の師匠と同じように、それだけで生計が成り立つことを意味
していた。

 当時は、歌を作ることが、上流・中流の子女のたしなみであり躾でも
あった時代なので、一葉は、その資質を中島歌子から見込まれて、しば
しば後継者への期待を仄めかされ、期待に胸を膨らませていた。

 しかしながら、一葉が、龍泉寺町に移って、荒物・駄菓子の小商いを
やりだしたのは、中島塾の後継者の地位を断念したからであった。

 しかし、その後、一葉がその商いを畳んで、本郷丸山福山町に移った
のは、もう一度、塾長歌子の甘言に仄かな希望を見出したからであった。
しかし、再度、その希望を空しく打ち砕かれて歌塾の後継者という立身
出世の目標は雲散霧消した。

 その時、一葉は、あらためて作家としてひたむきに生きようと決めた。
これが、後に、和田芳恵氏がいうところの 「奇跡の期間」の始まりで
あった。

 一葉が「大つごもり」を書いた明治二十七年十二月から「たけくらべ」
を完結させた明治二十九年一月に到る「十四ケ月間」を、和田氏は奇跡の
期間と呼んでいる。

 この奇跡の期間には、他にも 「ゆく雲」や「にごりえ」「十三夜」
「わかれ道」など、一葉の傑作といわれる作品のすべてが書かれている
のである。

 樋口一葉の凛とした表情のなかで、きりりとしまった口元には、奇跡
の期間といわれる時期の、作家としての決意が感じ取れるのである。


(4) 一葉と鴎外の接点

 作家魂を燃やして作品を次々と発表して行く一葉の活躍ぶりは、一葉
の日記に詳しく書かれている。

 山本健吉氏は「一葉の傑作は?」と、問われたら躊躇なく日記と答え
ようと述べている。奇跡の期間と云われた時期のものは「水の上日記」
として記されている。

 しかしながら、あまりにも激しい作家魂の燃焼は、作家の身体をも、
蝕んでしまうのだろうか? 一葉は肺結核を患い二十五歳という若さ
でなくなっている。

 樋口一葉集に載っている「樋口一葉年譜」によれば、明治二十九年
(1896年)に、二十五歳のときの記述として、一月には「この子」
や「わかれ道」そして「たくくらべ」を発表、二月には 「裏紫」を
発表している。

 この頃、春陽堂から専属作家として契約するように求められている。

 五月に書き下ろしで、出された「通俗書簡文」の執筆は多くが病床で
なされたようであり、この下書の手帳の中に、高熱に悩まされた記事が
あるので、肺結核は三月頃からかなり進んでいたものと考えられる。

 七月には、幸田露伴から合作小説の誘いを受けている。八月初旬には
山龍堂病院において、院長の樫村清徳氏から「絶望」の診断が宣告され、
読売新聞から一葉の重態が報じられた。

 それでも病苦のなかを、萩の舎の歌会に出席しており、かつて一葉が
歌塾の後継者としての資質を見込まれていた時代のことに思いが走る。

 秋頃には緑雨の依頼による鴎外からの連絡で青山胤通が往診するもの
の絶望と伝えられる。

 十一月二十三日の午前に死去、二十五日に葬儀が行われた。

 樋口一葉は日々の多忙な中で「第二の道」と「第三の道」を併走して、
目まぐるしい生活を続け、奇跡の期間といわれる時期には、第三の道に
専念できたものの・・・

 やはり、兼好のように「徒然なるままに日暮らし硯に向かひて・・・」
という心境にはなりきれず樋口一葉の「奇跡の期間」といわれる黄金期
に完全燃焼して逝ってしまった。

 樋口一葉の病状回復に一縷の望みをかけて緑雨からの依頼により青山
胤通に連絡をとって往診を実現させた、森鴎外は自身も医師であり作家
であった。

 森鴎外の六十年の生涯も公私ともにきわめて多忙な人生であり、医師
としても活躍しながら、文学活動も大きく進展させている。

 森鴎外の場合も誤解を恐れずにいうならば「第二の道」と「第三の道」
を併走したといえる。

 鴎外の場合は「ドイツ三部作」の発表から、晩年の独自のスタイルで
ある「史伝」に到るまで、作家としての活躍は、三十年の歳月を超える
長期間に及んだ。

 それだけにそれぞれの時期ごとに文体を含めて大きな飛躍が見られる。
それは、医師としての熟達ぶりとの関連もあると推測される。

 鴎外は石見国(現在の島根県)津和野で生まれた。明治五年に鴎外は
父静男とともに上京。本郷の進文学社でドイツ語を学び、明治七年には
東京医学校予科に入学して十九歳で東京大学医学部を卒業しており陸軍
に入ってからは明治十七年に衛生研究と陸軍衛生制度調査のためドイツ
に留学している。



(5) 森鴎外の交友の幅広さ

 ドイツからの帰国後、鴎外は陸軍軍医として勤務するかたわら、落合
直文・井上道泰・小金井喜美子(妹)たちとともに、翻訳詩集「於母影
(おもかげ)」を明治二十二年八月に 「国民之友」の夏期付録に発表。
明治二十三年から、二十四年にかけて 「ドイツ三部作」と総称される
「舞姫」「うたかたの記」「文づかい」の小説を発表している。

 まさに、ドイツへの留学が、文学者「森鴎外」を誕生させたといって
もよい。

 鴎外は、翻訳においても活躍しておりアンデルセンの「即興詩人」の
翻訳にあたっては、明治二十五年九月に稿を起こし、明治三十四年一月
に完成している。

 鴎外が、原稿を綴る時間は帰宅後の夜、訪問客がいない日曜日などに
当てられ日常は、医務を優先させ 「第二の道」と「第三の道」を併走
したがゆえに、その翻訳には九年の歳月を費やしたのであった。

 鴎外は、明治四十二年十月の雑誌「文章世界」で、自らの翻訳態度を
表明して・・・

「翻訳は老いこんだ老爺が、片手間にやる仕事だと、世間ではいうかも
しれない。然しながら幾ら老い込んでも暇な時間を遊んでしまう訳にも
行かない」と述べている。

 鴎外の文業において、翻訳の占める比重は高く当時の若い人は鴎外の
翻訳によって西洋の文学や学問を吸収し、さらには長じて文学者となる
例も多かった。

 吉井勇や堀辰雄は鴎外の翻訳について多くを語っているし、斉藤茂吉
は、ヨーロッパを訪問した時に「即興詩人」の旧跡を辿っている。

 その鴎外が晩年になってからは、世間から「老爺の片手間にやる仕事
といわれた翻訳」から脱して「史伝」という、今までになかった独自の
スタイルの文学を創造しているというところは、まさに圧巻である。

 鴎外が史伝を綴る際にはある人物の伝記を精密な調査と考察によって
掘り起こし、その人物を鮮やかに描き出している。

 鴎外は、この史伝を書くにあたって、知友からも情報を収集しており
交友の広さが伺える。また史伝のための調査に当たっては、その人物の
子孫にも会い墓所を訪ねて碑文を読み、手紙を蒐集して、それらを総合
的に考察しながら書き進めて行く態度に徹している。

 これらの研究・調査・考察が渾然一体となって文学となる。

 したがって、読者も現場に立ち会っているような感覚で読書が出来る。

 このような稀有な文学スタイルは鴎外にして初めて樹立された新しい
文学ジャンルであり、後世の作家に大きな影響を与えている。

 森鴎外の文学交流の幅広さは、鴎外が、三十歳代の時に始まっている。
鴎外は本郷の駒込千駄木町に転居した時に、自らの書斎を観潮楼と名付
けている。

 日清戦争に従軍してから帰国後は明治二十九年に幸田露伴・斉藤緑雨
とも交流している。緑雨から樋口一葉のために、青山胤通による往診を
依頼されたのも、この頃である。

 幸田露伴や斉藤緑雨とは雑誌 「めざまし草」を、創刊している。

 永井荷風も観潮楼を訪れており「日和下駄」のなかで歓談したことを
書いている。

 明治四十年には、与謝野鉄幹や佐佐木信綱・伊藤左千夫・斉藤茂吉・
石川啄木・上田敏たちが集まって観潮楼歌会が開かれている。

 森鴎外の六十年の生涯はもののみごとに「第二の道」と「第三の道」
を併走した人生といえる。



(6) 海外のピアニストを魅了した夏目漱石

 森鴎外集には 「夏目漱石論」が載っている。その箇条書きから抜粋
することにする。

〇 今日の地位に至れる経緯

 政略というようなものがあるかどうだか知らない。漱石君が今の地位
は彼の地位としては低きに過ぎても高きに過ぎないことは明白である。

 然れば、今の地位に漱石君が座るには何の政策を弄するにも、及ばな
かったと信じる。

〇 社交上の漱石

 二度ばかり、逢ったばかりであるが、立派な紳士であると思う。

〇 門下生に対する態度

 門下生と云うやうな人物で僕の知っているのは森田草平君一人である。
師弟の間は情誼が極めて深厚であると思ふ。

〇 創作家としての技量

 少し読んだばかりである。併し、立派な技量だと認める。

〇 長所と短所

 今まで読んだところでは、長所が沢山目について短所は目に付かない
ということが明治四十三年七月「新潮」第十三巻第一号に書かれている。

 夏目漱石は、学生時代に「方丈記」の英語訳をしているが、森鴎外が
数多くの翻訳を手がけて西洋文化を広く紹介し続けたのと対照的に漱石
の翻訳活動は目立たない。

 しかし、対極的な見方をすると漱石の作品の多くは翻訳されて世界で
読まれている。草枕の冒頭部は英語訳されて、ひとりのピアニストの心
を捉えて、座右の書となった。

 カナダのピアニスト、グレン・グールドが、その人である。

「山路を登りながら、こう考えた。知に働けば角が立つ。情に棹させば
流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい・・・」

 この英語訳はアラン・ターニーによって、一九六五年に訳されたもの
であるが、前述したように、この冒頭部は「第三の道」の本質を的確に
表現している。

 ピアニストという、芸術の分野で活躍する人の心を捉えたことは必然
と云える。

 漱石は、イギリス留学の経験を踏まえて「イギリス文学論」としての
「文学評論」を、明治四十二年に発表している。

 内容的には漱石が東京帝国大学で明治三十八年九月から行った在職中
の英文学の講義をもとにしている。

 この年は 「ホトトギス」に 「我輩は猫である」を発表する一方で、
「倫敦塔(ろんどんとう)」「カーライル博物館」「幻影の盾」などの
英国における留学土産とも云える数々の短編を発表し創作活動が実質的
に開始された時期であった。

 漱石は、次第に、教師を辞めて創作に専念したいと思い始めていた。

 これらの著書で取り扱われている内容は、十八世紀の時代のイギリス
文学であるが、その基盤となっているギリシャやローマの文学、そして
西欧の文化・社会・芸術に関する考察などを多く含んでおり非常に幅広
い著述である。


(7) 漱石の趣味論と徒然草

 漱石の 「文芸評論」のなかには 「趣味」についての論述がある。

 明治時代末期には徒然草を趣味という観点から解釈する説が提起され
ていた。明治四十二年の藤原作太郎「鎌倉室町時代文学史」大正四年刊
には「要するに徒然草一篇、感情を主とし美を重んぜし著者が、自己の
趣味を説くを主眼とせしものなり」とある。

 この本は、明治四十二、四十三年に東京帝国大学で行われた講義内容
を作太郎の没後に編んだものだという。

 奇しくも、東京帝国大学で、漱石がその数年前に行った講義ノートが
「文学評論」であり、そこには、趣味についての論考が書かれている。
この時代における趣味の観点が国文学と英文学の双方に、浸透していた
ことを示す意味で「文学評論」のなかに書かれている「趣味」について
の論述は徒然草の研究史にも一石を投じ得る存在であったと云える。

 徒然草の執筆について、趣味として捉える論説には、その捕らえ方に、
それなりの説得力がある。

 対極的に 「源氏物語」が書かれた当時の状況を垣間見るときに源氏
物語が執筆中の段階から宮中で話題となったことが「紫式部日記」には
書かれている。また余談ではあるが当時の日記には作家である「紫式部」
が老眼になり始めたことなども記されており、平安時代の女性が老眼に
なる年齢は、三十五歳前後と推測されていることから逆算して、紫式部
は973年前後の誕生かなどということも推測されている。

 これに比べて「徒然草」は、兼好の執筆中に広く読まれた形跡はなく、
同じ時代の書物や記録類などには、徒然草のことは記されていない。

 当時、兼好は表舞台において、歌人としての働きがめざましく・・・

「続千載和歌集」以下、勅撰和歌集に合計十八首が入集しており自選の
「兼好法師集」には二八〇首が収められている。これらの歌からは出家
前後の心の機微がうかがわれる。

「世の中の秋田刈るまでなりぬれば露もわが身も置きどころなし」

「あらましも昨日に今日は変わるかな思ひ定めぬ世にし住まえば」

「寂しさも慣らひにけりな山里に訪ひ来る人の厭はるるまで」

「立ち返り都の友ぞ訪はれける思ひ捨ててもすまぬ山路は」

 放送大学の島内裕子教授によれば、和歌に籠められた、揺れ動く
心境は・・・

「徒然草」においては、直裁的には書かれていないが、同じ兼好が
書いた韻文(和歌)と散文(徒然草)の双方を視野に収めて、読み
合わせて行くことが、大切であると云っている。

 兼好にしてみれば徒然草の執筆は楽しみの時間であり、つれづれ
なるままに・・・

 溢れ出る想念を書き留めて楽しんだということを考えればそれは
大いなる趣味の領域であったという見方も確かに出てくる。

 少なくとも、樋口一葉のように、命を削るような執筆活動ではな
かったと云える。

 一方で、大正五年に満四十九歳で亡くなった漱石は東京帝国大学
を辞してから晩年までのまさに十年間の文学者生活において、近代
小説の在り方を多くの作品群によって書き示し「第三の道」を走り
抜けたと云える。



(8) 仏画の微笑み

 夏目漱石に対して、個人的な親しみを感じ大いなる興味を抱いたのは、
鎌倉に嫁ぐことになった娘の婚礼家具を、嫁ぎ先の若旦那のお宅に持ち
込む際に、先方の祖母の方が立ち会ってくれて、いろいろな話を聞かせ
ていただいたことに端を発している。

 当時、祖母の方は九十歳近い年齢であったが、藤沢地区でアパート群
の経営に現役で取り組み大活躍しておられた。そのお忙しいなか、藤沢
から鎌倉までお出でいただいて恐縮であった。

 嫁ぎ先の洋館も祖母の方が購入して土地も二〇〇坪あまりとゆったり
とした環境であることから、祖母の方が住むようになってから、二十畳
ほどの茶室を増築されたのだと云う。

 道路から玄関口までは松の木などの日本庭園風になっており、洋館は
築七十年ということで明治から大正にかけての雰囲気を漂わせていた。

 趣味のひとつであるという仏像の鉛筆画を見せていただいたが、写真
をも超えた精密さには驚嘆した。檀家総代を務めているという浄妙寺の
住職から仏画を頼まれたというお話にも納得が行った。

 祖母の方のお話によれば、目尻を1ミリメートル下げただけで微笑み
の表情は大きく変わるということであり、そのお話ぶりには圧巻の説得
力があった。

 今でも「朝は午前五時に起きてアパートの敷地内の整理・整頓・清掃
も行っている」と、いう現役の経営者だけに、足腰が確かなことは勿論
のこと、頭脳も明晰という印象を受けた。

 元気いっぱいな祖母の方の説明で何よりも驚いたことは、本洋館には
「夏目漱石の三女の栄子さんが居住されていた」というのである。

 ここで、啓介の興味は・・・

「それでは、この洋館に、夏目漱石も訪れたことがあるのだろうか?」
と、いう点に移っていった。

 かつて、夏目漱石が小説のなかで、外国人を鎌倉の海に案内したこと
があることを思い出して、啓介が蔵書にしている夏目漱石集をはじから
読み通してみたが、該当の作品は啓介が蔵書にしている中には見当たら
なかった。

 次に、着目したのは、漱石が晩年に書いた「硝子戸の中」であった。

 これは朝日新聞に掲載されたものであり漱石の身辺雑記的な書き出し
になっていて幼少の頃からのことが書かれている。漱石は鎌倉に栄子譲
が住んでいた時代に、この洋館を訪れた記事があるのか、興味をもって
読み通してみたが、それらしき記述はなかった。

 その後、鎌倉の浄妙寺において、嫁ぎ先の母親の法事があり、法事の
後の会席の際に、嫁ぎ先の父親から 「鎌倉文学館」 の存在を教えて
いただいた。

 嫁ぎ先の父親は、鎌倉で生まれ育ち、大手建設会社の重役を退任後は、
地元の鎌倉で観光名所案内のボランティア活動などもされており、鎌倉
を訪れる観光客の気持ちなどもよく理解されているので啓介が日本文学
について、興味をもっていることを踏まえた上での 「鎌倉文学館」の
ご案内であった。

 嫁ぎ先の父親が「啓介が日本文学に興味をもっていること」を知った
のは、結納のご挨拶で若旦那と一緒に、啓介のところに来客されたとき
のことである。

 啓介の居間には大きな書棚が二つ対を成して並んでおり、啓介の蔵書
である「日本現代文学全集」と家内の蔵書「現代語訳・日本の古典」が
並んで納められていて、日本文学好きの印象を深められた様である。

【後日談】

 しかしながら、当時、私の蔵書には・・・

 夏目漱石が外国人を鎌倉の海に案内した情景を描いた作品は見当たら
なかった。しかし、その後、電子版の日本文学全集を購入、漱石の作品
「こころ」の作品の中に、その情景を見付けた。

「私が、すぐ、先生を見つけ出したのは、先生が一人の西洋人をつれて
いたからである」と、云う表現で、鎌倉の海水浴場の描写をしていた。

 私は、本稿の書き出しに当たって・・・

「本稿は2012年に執筆したものであるが、その後、約5年間の醸造
期間を経て、啓介に 『どのような心境の変化や成長があった』のかも
合わせて考えて行くことで、長編をはじめから校閲する算段にて、順次、
書き起こすことにする」と記した。

 実際に、身の周りで起きた小さな変化としては・・・

「日本文学全集も電子版を購入することで、従来の蔵書と云う観念とは
異なるが読み込める作品は、格段に増加した。漱石の『こころ』の再読
も電子版の購入によるもの」である。

 さらに・・・

「聞いて楽しむ『日本の名作』購入によりCDで楽しむ世界を知った」
「実際にCD全集を聴いて印象深かったことは『ごん狐』の話の結末
について、やるせなく・果てしない余韻の様なものを感じ取った」

【後日談の続き】

 定年後に、小説家に成ることを考えた。そして、某出版社の○○大賞
なる公募にもチャレンジ、最終選考まで残ったが大賞には及ばず残念な
思いをした。

 しかし、後日になって出版社から「作品が優れている」ので自費出版
してみないかと誘われたが・・・

「自宅の廊下に売れない出版物が埃を被って山積となったまま」となる
ことが想像出来て、出版社の誘いには乗らなかった。

 その後も最終選考まで残る経験はしたが、どれも自費出版に誘い込む
ケースが多いことを経験して、作家デビューの難しさと小説家としての
狭き門の存在を思い知ることになった。

 しかし、世の中 「捨てる神あれば」 「救う神あり」で・・・

 インターネットの世界であれば、実在の星空文庫から、まことに勝手
ながら 「作家デビュー」の夢を、果たすことが出来ることを知ること
になり、研鑽を重ねる機会を得て、今日に到っている。


(9) 漱石の原稿に思わぬ発見

 さて、話題を前述の続きに戻すことにしよう。

 大型書架の一方には、啓介の「日本現代文学全集(講談社)」が並び、
もう一方の書架には、家内の「現代語訳・日本の古典全集(学研)」が
並んでいることは前述した。

 この書架を目の前にした嫁ぎ先の父親は・・・

「啓介さんは管理工学(IE)の専門職でありながら日本文学ですか?」
と訪ねられた。

 啓介は、それに対する答えとして俳聖の松尾芭蕉や与謝野蕪村そして
小説家の夏目漱石の作品などに興味があり、趣味として、一連の読書を
重ねている旨を伝えた。

 会席における鎌倉文学館のご案内は、そのような経緯を踏まえた上で
のものであった。その後もなにかと気にかけていただき、その年の師走
の中頃に、年末のテレビ放映で、鎌倉の浄妙寺茶室において、小説家の
五木寛之氏がテレビ取材を受けるという情報をお知らせいただき、年末
に熱心に拝聴した記憶がある。

「これからの情報化社会にあって、情報の情の字は、こころとも読む」
という言葉によって、五木寛之氏の講話が始まったことを、今でも鮮明
に記憶している。

 五木寛之氏は 「直木賞」をはじめ「吉川英治文学賞」「菊池寛賞」
「仏教伝道文化賞」「NHK放送文学賞」など、数多くの受賞をされて
おり、多くの人々が日本を代表する文学者として認知している。

 新聞報道による最新作の紹介にはいつも心惹かれるものがある。

 五木寛之氏は龍谷大学で仏教史を学んだことでも知られており、まさ
に「第一の道」である宗教的な心の世界を学び「第三の道」で文学的に
作品化していった功績は大きい。

 浄妙寺におけるテレビ放映でも、慈愛に満ちた眼差しは、今でも印象
に残っている。

 その後、鎌倉文学館には、鎌倉のお宅にお邪魔した際に、啓介だけで
自転車を借りて出掛けてみた。

 鎌倉文学館には、鎌倉の文人と云われた方々の作品が数多く紹介され
ていて、中でもノーベル賞作家の川端康成の作品は別格扱いであった。

 一方で、夏目漱石の作品も特別展として目立った扱いになっていた。
啓介は、夏目漱石の特別展のコーナーを念入りに見て廻った。そして、
夏目漱石が自身で執筆した原稿用紙を目の前にしたときには、大いに
感動するものがあった。

 原稿の書き出しの部分から、まさに目を皿のようにして見て行くと
面白いことに気付いた・・・

 ひらがなの 「も」 の字が、独特な形で、書かれていたのである。
「も」の字の横棒二本が「し」の形の左手前で止まっているのである。
それは、意識的な止め方という印象を強くした。

 啓介には、これが「し」をまたがないという意思の現われにみえた。
今までに目にしてきた漱石の文献類から「漱石が、家族をこよなく愛
していたこと」には、強い意志として伝わってくるものがあった。

 愛する子どもたちのためにも 「死ぬ訳にはいかない」そのような
強い意思が、このひらがなの 「も」の字に、凝縮しているのではな
いかという推測をした。

 漱石は正岡子規とは親友であり子規とは多くの書簡を交わしている。
漱石は二十一歳で第一高等中学校本科第一部に入学。またこの年には
夏目家に復籍、この翌年頃から正岡子規との交流が始まっている。

 そして漱石は子規の訃報をイギリスの地で知らされることになる。


(10) 留学先からの帰国

 夏目漱石が、正岡子規の訃報を知ったのは、漱石が留学先のイギリス
から帰国するためにロンドンを出発する間際であった。この年、漱石は
強度の神経衰弱に陥り発狂の噂が文部省にもたらされた。

「夏目ヲ保護シテ帰朝セラルベシ」と、いう伝命が藤代素人に伝えられ
ての帰国事情であっただけに、日本への帰国を目前にした状況において
子規の死の「訃報」に直面した漱石の心のうちは察しても察しきれない
ものがある。

 翌年(1903年)帰国後、漱石は第一高等学校講師に東京帝国大学
英文科講師を兼任する形で就任している。大学では「英文学形式論」を
講義したが学生たちにはレベルが高すぎたようである。

 その後は「文学論」をノートにまとめ、大学で文学論を開講している。

 この文学論は、漱石がイギリス留学中に構想したものであるが、漱石
にとって、ロンドン生活はきわめて不愉快なものであったようである。

 漱石自身が云っているように、英語が流暢でなかったことと、自由に
使える金銭が、不足していたために、自ずと、外国人との交際が億劫に
なっていたことに原因があるようである。

 しかし、このイギリス留学の経験と、正岡子規との交流が夏目漱石と
いう偉大な小説家を生み出す原動力となったことは、誰の目にも明らか
なことである。

 その年(1903年)10月末に、三女の栄子譲が生まれている。

 そこで、啓介は気付いた・・・

 漱石は、1916年(大正5年)に胃潰瘍が悪化して亡くなっており、
三女の栄子譲が生まれてからその間は十三年である。このことから判断
して鎌倉の洋館に住んでいた栄子の家を漱石が訪問することは、時間軸
から観てあり得ない。

 同時に、啓介が気付いたことは、日本現代文学全集に掲載されている
「年譜」には、年齢が数え年で書かれているため、年譜では漱石の亡く
なった年齢が五十歳となっているが満年齢では四十九歳で他界したこと
になる。

 したがって、前述の樋口一葉の亡くなった年齢も年譜標記に基づいて
二十五歳としたが、満年齢では二十四歳ということになる。読売新聞で
「一葉ゆかりの文学散歩」と、題した記事を読んだときにも、読売新聞
の記事では、一葉が肺結核で亡くなった年齢を二十四歳としていたので
この一歳の年齢差に疑問を持ちながらも、そのままにしていたが、よう
やくその謎が解けた。

 樋口一葉が亡くなった年(1896年)に、夏目漱石は、父親に伴わ
れて東京から熊本に出てきた中根鏡子と結婚している。

 漱石は、この年四月に、熊本で第五高等学校に講師として就任、七月
には教授に任じられている。後に、漱石は、晩年の随筆「硝子戸の中」
において漱石が知人から犬を貰って「ヘクトー」と名付けて子どもたち
と共に可愛がったことが書かれているが、子どもたちは、一緒に遊んで
くれる漱石に対して、どのような印象をもっていたのであろうか。

 夏目漱石の次男である夏目伸六氏は「父・夏目漱石」として、彼から
見た父親像を描いているが興味深い指摘が、そこには記述されている。

 随筆家である夏目伸六氏が書いた「父・夏目漱石」は、菊池寛からの
依頼によって執筆したものである。

 父の漱石が亡くなったときに夏目伸六氏は満八歳であった。後に彼は
慶応義塾文学部予科に進み、同独文科を中退。父が残した潤沢な印税で
ドイツを始めとするヨーロッパ各地を遊学している。

 交友関係は多彩で、岡本太郎や、若かりし頃の吉川英治や石原慎太郎、
中曽根康弘、福田赳夫という豪華な顔ぶれである。

 彼は、世評による「父・夏目漱石の神格化には批判的」であった。

 夏目伸六氏による記述から抜粋すると・・・

「父が、ニコニコと笑っていた顔も、また、私たち小さい子供達と一緒
になって大口を開けて笑っていた顔も、いまだにはっきりと覚えている。
父と二人で相撲をとりながら、一生懸命に一遍でも良いから父を負かそ
うとして、真赤になって痩せた腹にしがみついていたときに、私の心の
底にはいつ怒られるか分からないという不安が絶えずこびりついて離れ
なかったのである。当時の私にとっては、いつ怒鳴られるか、それが父
に対する最大の恐怖だった」
(漱石はときに癇癪を起こすことがあったのだと云う)


(11)高浜虚子の存在感

 鎌倉文学館では、俳句の世界における 「高浜虚子」も別格の存在感
を示していた。

 虚子には「去年今年貫く棒の如きもの」という新年の代表句があるが、
独特の感慨を詠んだものであって、年が改まったからといっても新たな
喜びがある訳ではないとしているものの、実は一見無造作な表現の中に、
的確なものをつかんでいて、それを大胆に、ずばりと云ってのけている
衝撃的な表現力が、ノーベル賞作家の川端康成の胸中を射抜いたことは、
案外、知られていない。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった・・・」という川端康成
の表現力にはいつ読んでも思わず引き込まれるような感動があり、もう
一度、小説「雪国」を読み返してみようかという気にさせる川端康成の
世界であるが、虚子の俳句に寸鉄の鋭さを感じとったのであろうか。

 啓介が鎌倉文学館を出て、守衛所のところで、自転車のタイヤの空気
が少ないことに気付いて、空気入れをお借りして、タイヤに空気を注入
していると、守衛所の方が外に出てきて、思いがけず夏目漱石の特別展
に話がおよび、夏目漱石の一家が鎌倉の別荘地でお世話になった場所は、
鎌倉に嫁いだ娘の現住所で、かつて、漱石の三女の栄子譲の住んでいた
洋館に近い場所であることを教えていただいた。

 探究心の強い啓介は、早速、自転車を走らせて、その別荘地を訪ねて
みた。守衛所の方に教えていただいた別荘地は急な坂の上にあり自転車
を降りて、手で自転車を押し上げて登った。

 その別荘地から鎌倉の海岸までは少し離れているが、その気になれば、
家族で連れ立って海岸までピクニックするには快適な距離感ではある。

 かつて漱石は、三十歳のときに、実父直克が享年八十四歳で死去した
ために鏡子を伴って上京した。このとき妊娠していた鏡子が東京に着く
と間もなく流産したため、その年(1897年)の八月初めから一ヶ月
近く鎌倉での養生生活をしている。

 漱石は、この時に病床の子規を見舞うために、九月には一人で熊本に
帰っている。鏡子は鎌倉で癒されて十月に熊本に帰ったと記されている。


第3章

(1) 一生涯学生作家

 還暦を通過した記念に啓介は放送大学の専攻「心理と教育」において、
卒業研究に取り組む決心をした。

 そして、研究テーマ 「サービス業における教育開発および生涯学習
への反映」と題して論文の書き出しに手を着けた。担当講師は、前述の
岩永雅也教授である。

 論文の構造は、二部構成にした。

〇 第1部では、定年までに従事したジェットエンジンの設計から生産
までの経験および定年後の販売サービス業におけるコンサルタント業の
経験を基にして、両者を比較研究する中から・・・

 これからの「販売サービス業における教育の在り方」を考えてみると
いう内容にした。

〇 第2部では、生涯学習という観点から自分自身のこれからの生き方
を考えてみた。具体的には、啓介の夢である「一生涯学生作家」として
その可能性を探るという内容で構成してみた。

 啓介にとっては、放送大学の面接授業において、三輪教授と西原先生
にお会いできたことは幸運であった。

 先生方から「生涯学習と自己実現」の講義をお聞きしたときに、成人
の知的能力の推移においては・・・

 それを「流動性知力」および「結晶性知力」とに分けて考える必要が
あることを教わった。

〇 流動性能力とは 「短期記憶」や「概念形成」および「情報処理」
「推論」といったものであり青年期をピークにして次第に知力は低下
して行く。

〇 これに対して、結晶性知力は「後天的な文化接触や教育」そして
「生活経験によって培われてゆく知力」であり、経験および学習など
が反映される知力である。

〇 この結晶性知力は、成人期を過ぎても、その知力は低下しにくい
といわれている。また、学習のペースなどをコントロールすることに
よって、結晶性知力の向上も期待出来るという。

 具体的には 「語彙に関する能力」「算術能力」「哲学や思想への
理解力」「一般的な知識への理解力」「社会規範に伴う判断力」など
がそれに該当すると云われている。

 この結晶性知力向上の話を聞いたときに、啓介は「一生涯学生作家」
としての可能性を確信した。

〇 さらに、面接授業において西原先生から、シリル・フールが提唱
している 「探究する精神」の在り方を知ることにより・・・

 その具現化のためには、成人として 「三つの学び方」があること
を知り目から鱗が落ちる思いであった。

 啓介は、この三つの学び方を基にして、好循環にもって行く概念と
して 「吊橋理論」を、考え付いた。

 この理論に至るまでの経緯には、紆余曲折があり、けっして簡単な
思考過程ではなかったが、実際に取り組み始めてみると、自分自身に
対してスムーズに適用できたと考えている。


【吊橋理論としての概論】

 ここでは「択一」と云う考え方ではなくて、シリル・フールの三つの
学び方をフル活用している。

(1) 一つ目の学び方は 「目標志向型」の学びである

 好循環を生み出すための最初の「目標」設定においては、自分自身の
人生の奥深くに、例えば、百寿(100歳)に的をおいて、そこに、到る
までを吊橋のワイヤーケーブルをイメージして張り渡すことにする。

(2) 二つ目の学び方は 「学習指向型」の学びである

 ここで、さらに好循環に弾みをつけるために、過去に知り得た知識を
振り返ることも含めて、さらに新たな「知識の獲得」に興味をもち放送
大学や大学院(履修生)などの授業で学び続ける。

(3) 三つ目の学び方は 「活動志向型」の学びである

 この活動を通じて好循環にさらに勢いをつけるためには実際に小説を
書き、一作品毎に丁寧に完成させることで、節目をつけて行き、さらに
日々の作品を一枚一枚、踏み板として張り出してゆく。

 この学びのリンクによって、シリル・フールが提唱する「三つの学び」
をフル回転させることが出来るので・・・

「結晶性知力の向上を図りつつ、一生涯学生作家としての道のりを歩い
て行くことが出来る」と考え、啓介は、執筆活動をスタートさせた。


(2) 久米の仙人

 啓介は、一生涯学生作家としての執筆を続けながら 「吊橋理論」は、
まさに論よりも実践がたいせつという実感をもった。

 なお、吊橋理論を基に書き進める文章は、極めて平凡で日常的なもの
がベストであると考えている。それこそが踏み板を踏み外して、谷底に
落っこちない秘訣であると啓介は確信している。

 徒然草の第八段に、久米の仙人の話が載っている。

【徒然草:第八段(訳)】 放送大学 島内裕子教授の訳から抜粋

 世間の人々の心を惑わすもののなかで、色欲くらい大きな存在はない。
人間の心などというものは本当に愚かである。女の匂いなどは、ほんの
かりそめのものなのに、ほんのちょっと、衣裳に薫物を薫らして匂いを
付けただけと、頭ではわかっていながら何ともいえぬよい薫香には抗し
がたく必ず心がときめくものだ。

 久米の仙人が、水辺で裾をたくし上げて洗濯をする女の脛が色白なの
を見て神通力を失って空から落ちたという話がある。女の手足や肌など
がつやつやして、ふくよかであるならば、その美しさも魅力も、持って
生まれた生得のもので、薫物とは違って取って付けたものではないから、
仙人だって神通力を失うほどのことはあろう。

 この段について、島内裕子教授の評では、色欲の抗しがたさを、薫香
と肉体そのものとに、二通りに分けて考察したところが、注目に値する
眼目であるとしている。

 兼好は、いわば 「色欲の発生源」を、見極めたとしている。

 次の第九段についても、愛欲の抗しがたさを書いており、第八段とは
一続きであるとしている。


【第九段(訳)】 島内裕子教授の訳から抜粋

 女というものは髪が素晴らしく長いのが、まずは、人目に立つもので
あると思われる。人柄や心ばえなどは、何かいう気配に簾や几帳越しで
あっても、おのずとわかるものである。

 何かに付け、ちょっとした仕草やありさまにも、男の心を惑わし女が
ゆっくりと打ち解けて眠ることもせず身を惜しまず、とても堪えられな
いようなことにもよく堪えて忍ぶのは、女の方でもまた色欲に捕らわれ
ているからである。

 すべてこんな調子であるから、全くもって、対象を愛し執着する心の
根は深く、源は遠いのである。

 人間の心に宿る六つの欲望、つまり「六塵の楽欲」は多くても、それ
らをすべて厭い棄てなくてはならない。
(文中の「六塵」とは、色・声・香・味・触・法である)

 しかしながら、その中に、ただ色欲の迷いだけは、どうにも脱却でき
ないものであって、老いも若きも知恵ある者も愚かなものも、区別なく、
皆が同じように捕らわれてしまうと思われる。

 だから、女の髪を縒り合わせた綱は強靭なので、大きな象もしっかり
と繋がれてしまう。また、女が履いた下駄で振動板の部分を作った笛に
は、秋の牡鹿が必ずおびき寄せられると云い伝えられている。

 何はともあれ、みずから戒めて、恐れ慎むべきは、この色欲である。

 ここでも、島内教授の評によれば兼好は仏典などからの書物によって
仕入れた知識により、この文章を書いている節が見られるとしている。

 この第八段と第九段の一続きは、兼好が書いた第三段ともつながって
いる。


【第三段(訳)】 島内裕子教授の訳から抜粋

 すべての方面にわたって優れていても色好みでないような男は立派な
玉で作った盃の底がないといった体で、まことに、肝心要のものが備わ
っていないと思わずにはいられない。

 露や霜にしとどに濡れても逢瀬を求めてあちこちと彷徨い歩き、親の
厳しい注意や世間の指弾を考慮に入れる心の余裕もなく、ああもこうも
いろいろと思い乱れ、それでいて相手の女性と一夜を共にすることもで
きず、独り寝がちで心穏やかに眠る夜もない、とまあそんな状態こそが
よいのだとは云え、ひどく恋愛だけに没入しているというふうでもなく
女に与しやすしと思われないことこそ男の恋の理想というものだろう。

 久米の仙人は神通力を失って、空から落ちたという話で終っているが
ときに人間の世界では、色欲に抗しがたく、愛欲にのめり込んでしまう
こともある。

 文学の世界では、近松門左衛門が 「曽根崎心中」などの傑作を恋の
道行文という七五調の美文で描いている。

 近松の芸術論の真髄は 「虚実皮膜論」である。近松は・・・

「芸というものは、実と嘘との皮膜の間にあるものなり」
「虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰みがあるなり」
としている。

 ここで近松が展開している理論は、宗祇が「源氏物語」の主題につい
て述べていることと、内容的には極めて近いとされている。源氏物語が
荒唐無稽な作り話かと思えば強烈なリアリティーがある。

 また、登場人物や舞台となっている場所には、特定のモデルが想定さ
れるので歴史的な事実を踏まえた真実の話かと思えば、歴史離れをした
虚構がいくつも交じっている。

 真実と思えば、虚構、虚構と思えば、真実、それが源氏物語の世界の
奥深さなのだ、と、宗祇は語っている。

 宗祇は西行と並ぶ旅の文学者でもある。

 最近(といっても、この記述は5年前のものである)、芥川賞を受賞
して話題となった田中慎弥氏は、源氏物語を原文で二回、現代語訳では
三回通読しているという。

 その他にも、亡くなった父親の本棚からは、司馬遼太郎や松本清張の
作品を読み、母親から買ってもらった昭和文学全集からは、川端康成や
谷崎潤一郎、三島由紀夫の作品などを読んでいて・・・

「あ、こんな世界もあるのか」と 「開眼させられた」と、文芸春秋の
当時(2012年)三月特別号のインタビューで語っている。

 この特別号には、芥川賞の該当作が、掲載されていた。

 田中慎弥氏は、既に「新潮新人賞小説部門受賞」「川端康成文学賞」
「三島由紀夫賞」を獲得されている作家であり「芥川賞」の該当作品を
読めば納得の行く受賞作である。

 芥川賞の該当作品「共食い」は、スピード感のある衝撃作であり作者
への印象としては、 母親の胎内に心地よい執筆の場を設けてもらって
自由自在に泳ぎ回りながら作品化して行ったという印象で、まさに恵ま
れた環境の中で執筆を続けたことが容易に想像出来る。

 執筆に当たっては午前中に・二時間、午後に・四時間ほど・手書きで
原稿を書くというスタイルを貫いていて、家の中ならどこでも執筆でき
るので場所は選ばないのだという。「午前中は意識が澄んでいる」ため
その時間帯には、執筆と併せて前日に書いたものを読み返すという。



(3) カオスの世界

 まだ、二月下旬だが、桜が咲く頃の陽気を思わせる陽射しの下で本を
読んでいると、うとうととして気持ちがよくなり、眠気が瞼との綱引き
を始める。こんなときに、半眠状態で目に浮かんでくる映像は、台湾に
行ったときの衛兵の姿である。

 彼らは警護に当たっている間はけっして瞼を閉じないという。これは
瞬きもしないということである。それに比べて、太陽の陽射しを浴びて
うつらうつらしている啓介は、まったくの隙だらけである。

 こんなときは、いつも番犬としての使命感を感じて郵便配達や宅急便
の人などに吠えまくっている飼い犬も傍でうつらうつらしている。啓介
は手元に文芸春秋特別号に載っている芥川賞の 「道化師の蝶」を十頁
くらい読んだところで、うつらうつらしていたのである。

 道化師の蝶は、これを書いた円城塔氏でなければ、書けないだろうと
いう作品であり 「この先には何が書いてあるの」という感じで読んで
いたのだが、太陽の暖かい陽射しには勝てなかった。

 内容的には 「飛行機の中で読むに限る本」とか 「高校への坂道で
読むに限る本」とか 「バイクの上で読むに限る本」とか 「通勤電車
で読むに限る本」など、特定の状況で、読むに限る本があっても良いと
いうことを盛んに主張している。

 執筆内容も独特だが円城氏の執筆スタイルも独特である。家では小説
を書かないのだという。本人はインタビューで 「そうなんです、家で
書いていると眠くなってしまうこともあるのです(笑)」と答えている
ので、啓介が本を広げたまま半眠状態に陥ったのは、たまたま家で執筆
した頁かもしれない(笑返し)。

 道化師の蝶も、サンフランシスコの喫茶店やホテルのロビーで書いた
ものだという。執筆の時間帯は、集中力が続くのは二時間が限度なので
朝二時間・昼二時間・夜二時間であり合計で六時間・書ければ相当調子
が良い日だという。

 通常の執筆場所は喫茶店で、それも、二軒も三軒もハシゴして書くた
めに、ときには隣の席の話が面白くて聞き耳を立ててしまい一行も進ま
ないこともあるという。

 小説の着想も家でじっとしているときはダメで、移動中とかに、ふと
思いつくことが多いという。まさに時代の先端を行っているという印象
が強いが、実は、松尾芭蕉も同じような感覚で、旅を住処として、旅を
友とする作家なのだろうかと推測して思いを重ねる。

 円城氏は東北大学卒業後は東大の大学院に進みカオス理論で知られる
金子邦彦さんの研究室に入ったという。

 金子研究室は、物理学的なアプローチで・生物学をやる人が居るかと
思えば、一方では、ロボットに専念して、研究を進める人も居たりして、
まさに研究室内はごった煮的なカオス(混沌)状態であったという。

 円城氏は、その中にあって 「絶対言語」みたいな構造があるのでは
ないかという研究をしていたのだという。

 研究室の時代と、小説を書くようになった現在で、考え方の癖みたい
なものは共通しているのではないかという。 

 ただし、研究の場合は、とことん詰めなければならないのだが、小説
の場合だと、思いついたアイデアをそのまま書いているぐらいの違いで
しょうかといっている。

 それを聞いて道化師の蝶を読み返すと、たしかに、円城氏がいわれる
ような内容で書かれていることが伝わってくる。

 啓介は 「道化師の蝶」 と、いう題名を聞いたときに、放送大学の
テキスト 「カオス学入門」合原一幸著に書かれていた「蝶」のことを
思い出した。

 カオス学で「初期値のほんのわずかな差が、時間とともに指数関数的
に拡大する」と、いうローレンツの発見がある。

 ローレンツの説は 「バタフライ効果」の語源と共に有名になったが、
彼が、バタフライという言葉に直接言及したのは1972年12月末の
講演のときであった。

 そのときの講演のタイトルは 「予測可能性:ブラジルの一頭の蝶の
羽ばたきが、テキサスに、トルネード(台風)を引き起こすだろうか?」
であった。

 カオス学に精通していると、推測する円城氏が 「蝶(バタフライ)」
という文字を題名に編みこんだので、啓介は話の展開において蝶がどんな
振舞いをみせるのだろうかと期待したのであった。

 文芸春秋特別号を読んでいて、大いに参考になったのは芥川賞を受賞
された両氏の文筆活動への取り組みについてであり、特に執筆の時間帯
と執筆場所については、一生涯学生作家を目指すものとしては、大いに
興味が湧き参考になった。



(4) お二階さん

 啓介は「吊橋理論」を足がかりにして執筆を開始するに当たり小説家
の童門冬二先生(講演会でお話を伺ったことがある)と、宮尾登美子氏
のお二人の執筆スタイルを参考にして、執筆場所や時間帯をおおまかに
決めて執筆を進めている。

 ご存知のように童門冬二氏は東京生まれで都庁在職中は美濃部東京都
知事の首脳として活躍された。1979年に退職後は小説家に転進され、
歴史小説家の分野において新境地を切り拓かれた大作家である。

 童門氏の執筆スタイルを知ることになったのは、啓介がプレジデント
社から「経営に関するノウハウ集を購入した」のがきっかけである。

 プレジデント社からの学習器材は・・・

「テキスト」「ビデオ」「カセット」などから構成されており、直接的
に生の講演を聞く機会としては、童門冬二先生の小説家としての心構え
が拝聴できるという全体構成であった。

 当時、既に、テキストなどの学びから、二十年以上の歳月を経ており、
本稿を執筆してからも5年を経過しているので、現況も、同じかどうか
は定かではないが、童門氏は都庁を退職して、作家に転進するに際して、
奥さんに・・・

「これからは、作家生活に専念するので、私は二階で暮らすことにする」
「貴女もこれからは、一階で好きなように、生活を楽しんで下さい」と
いって、お二階さんに成りきったというのである。

 先ずは、そのような作家としての生活環境を創ることが小説家として
生きる道と覚悟を決めたという趣旨の講演内容であった。

 宮尾登美子氏の場合は、高知県高知市生まれ、再婚した夫と上京して、
「連」で婦人公論女流新人賞を受賞。その後 「櫂」が太宰治賞を受賞
して出世作となり、更らには「直木賞」「吉川英治文学賞」「菊池寛賞」
を受賞されている。

 宮尾氏あっての2005年の大河ドラマは「宮尾本平家物語」「義経」
が原作であり、2008年には 「天璋院篤姫」も、大河ドラマ化されて
いる。

 宮尾登美子氏の場合は、家事をこなした上で、執筆の時間帯を決めて
数々の大作に取り組んだという。

 その後 「夏季には、北海道での執筆の光景」なども、テレビなどで
紹介されたこともあったが、執筆の時間帯などについては存じ上げない
まま、時間ばかりが経過してしまい「そのような、妙手もあったのか?」
と、それを知るタイミングが遅れたことに残念な思いがした。


 啓介は「お二階」さんまでの覚悟は出来ていないので「昼間」執筆の
スタイルを基本において、執筆時間には拘らないことにした。

(続 く)

【監修】ヒトとして生れて・第8巻

【監修】ヒトとして生れて・第8巻

古事記に魅せられて

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-01-05

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