赤恋の情に寄せて

どんな形でも、片想いじゃないですか。人を想えるのって素敵ですよね。でも、押し付けてしまえば途端に凶器ですよね。

「一体何をやっている!」
 と、父の怒号が轟いた。
 淡い雪が降りしきる夜の、少しだけ淋しさが募る日の事だった。
 自室で課題に取り組んでいた私の部屋に、義兄が入ってきた時から、全てが狂ってしまったのかもしれない。
「ち、違うんです。義父さん」
 戸惑い、取り繕う義兄の声が夏の蝉の様に、五月蠅く、そして遠い。
 父が私に跨った男を殴り飛ばしてくれたお蔭で、蛍光灯が目を焼いた。
「この、こいつが! こいつが僕を誘ったんです!」
 嗚呼、光が目に痛い。暖房も入れていないから、はだけた肩がうすら寒い。
「黙れ! クソガキ! 今すぐ、家から出ていけ!」
 いきり立った父の吐息が不愉快だ。最近血圧が上がったと言っていたのに、なんでそんなに声を荒げるんだろう。
 意識だけが分離して、目の前で起こっていることが、酷く不明瞭だ。一度、寝てしまえば、いいかもしれない。これはきっと悪い夢なのだ。だって、そうじゃなきゃ可笑しい。
 父が、座り込んで懇願する義兄の腕をひったくって、部屋の外に押し出した。
「違うんです! 義父さん! 話を聞いて下さい!」
「五月蠅い! しゃべるな。その汚らしい口をとっとと閉じろ!」
 姿は見えないのに、声だけ鮮明で。
 不意に、見つめていた蛍光灯が歪んだ。嗚呼、ほら、やっぱりこれは、夢なんだ。
「この売女! 初めに誘ってきたのはお前の癖に!」
 誰とも知らぬ男の声が遠くから聞こえて、私の意識は歪んだ夢に溶けていった。

 父は一途な人だった。母が心臓発作で儚くなった時から十三年も独り身を貫き、あわやこのまま死んだ様に生きていくのかと子供に思わせる程に。
 仏壇に向かう父はいつも決まって困った様に笑って、目元を拭っていた。優しく、でも確かに鮮烈な愛情を目元に浮かべていた。
 母を想わない訳では無いけれど、過ごした記憶が薄すぎて、私は父ほど母をうまく想えなかった。生涯でたった一人を失った所為か、父は愛情の全てを私に注いでくれている。
 テストで百点を取れば、世界で一番お前が凄いと言わんばかりに褒めてくれたし、苦手な野菜を食べきれば、ご褒美と言ってお菓子をいつもくれた。幼い頃は、寂しくて寝られないと泣きつく私をいつも眠るまであやしてくれていた。本当に、私一筋だった。
 そんな父が、再婚を決めたのは、私にとって青天の霹靂と言って良い。娘の贔屓目で見れば、父は優しく、煙草を吸う様も格好良く、暖かで、一途で、世界で一番いい男だ。
 でも、見てくれが良い訳では無い。四十五という年齢に相応しく、プリン体脂肪も抱える恰幅の良い中年オヤジ。会社では部長らしいから仕事は出来るのかもしれないが、見た目は冴えない。
 そんな父が私に紹介したいと連れてきた女性が、美女と野獣と言って良い程の麗しい人だった。それこそ立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花。
 父と同い年らしく、確かに四十五に見える女の人だったけれど、とても理想的な歳の取り方をした、愛嬌のある人だった。
 「僕がもう一度、将来を考えている人です」とはにかみながら言う父は私の知らない人の様で少し寂しく、でも、心底安心できた。
 私は、もう顔も覚えていない実母より、彼女を母と呼ぶことを躊躇わなかった。
 大学生になる息子がいると、紹介された時も、何故か自然と受け入れることが出来た。私の全てが、理想の様な幸せを心待ちにしていたのかもしれない。
 私は、疑いもしなかった。
 初めて顔を合わせた、好青年な、私の兄になる人が家族になることを。
 知らなかったのだ。血の繋がりのない異性は「男」なんだと。

 起きた時、私の服は寝間着へと姿を変えていた。
 あれはやっぱり夢だったんだ。
 枕元に置いたデジタル時計のライトを付けると八時十二分、と。
 咽喉が無性に渇いて、私は自然と自室を出、階段を下りた。
 そうして、リビングに続く扉を開けようとしたところで、女性の、義母の、すすり泣く様な声が鼓膜を擦った。
「あなた……本当にごめんなさい……本当に、ごめんさない」
「……君が悪い訳じゃない。君が謝らなければいけないことは、何一つない」
 何か、あったのだろうか?
 気分の悪い夢を見た私の様に、義母が泣かねばならぬ程の不幸がどこかで。
「悪いのは全て……時彦だ」
 絞り出す様に、父が義兄の名を呼んだ。全ての憎悪を煮詰めた、まるでこの世の終わりみたいな声音に、思わず身がすくんだ。
 え、でも。義兄が悪いって、何が? だって、私の見たあれは、全部、性質の悪い夢だったでしょ?
 扉を開けば、父と義母が一斉に私に注目した。母は目頭一杯に涙を浮かべて、止めどない。既に目いっぱい泣いたのだろう。目元は兎の様だ。
「宮子!」
 父が椅子から腰を浮かせる。でも、そんな反応が欲しい訳じゃない。
「ねぇ、お父さん。答えて」
「なんだ?」
 引き攣った様に笑う父に、全てを悟りそうになって、私は殊更声を荒げて、言葉をぶつける。
「私が見たのは、性質の悪い夢でしょ?」
 父が目を見開いて、俯いて、それから、涙を溢した。
「ねぇ、泣いてちゃ分かんないよ、お父さん」
「……すまない。宮子」
「どうして謝ったりするの? 答えになってないよ」
 震えた声を絞り出す父に、母はまた涙を流す。私は、悟らねばならなかった。
 慕っていた義兄の裏切りを。
「ごめんなさい。ごめんね……宮子ちゃん」
 私の頬を静かに涙が伝った。
 顔を上げた父が、その恰幅の良い体で包み込んでくれる。すまないとごめんなさいが譫言の様に紡がれる私の幸せの城は、冬の外より、寒く、凍えそうな程に、ただ……。

 それから二週間、私はひたすら逃げ惑った。学校にも行かず、ただ自室に閉じこもり、じっと悪夢が過ぎ去るのを待った。
 私を見る度、義母の眉根が寄り、泣きだしそうにするのが心底苦しかった。
 私の方が傷付いているのに。疵があるのは、私なのに。
 そう詰ってやりたかったけれど、優しい彼女はきっと受け止めてくれるだろうけど、でも、彼女に言ったところで、私の心はきっと晴れない。だからそれは辞めた。
「学校、行ってくるね」
 久し振りに出した声は少し恥ずかしい程掠れていた。
 私のそれを父は涙を溜めて、微笑み、頷いてくれた。義母は私を抱き締めて、力強く抱き締めて、声を出して泣いた。
 私には、それで十分にすら思えた。
 きっと私は前を向ける。
 朝、久しく着ていなかったセーラーを身に着けると、少しだけ大きく感じた。私が痩せたのか、と考えるのに時間は掛からなかった。赤いスカーフを首に通し、通学鞄に必要な教科書を入れる。眼鏡を掛けて、髪を一つ結びに括って、防寒にマフラーと手袋を身に着けた。
 そうして、いつかと同じ様に自室を出て、キッチンへ。
「行ってきます」
 声を掛けると、母と父は優しく、穏やかに「行ってらっしゃい」と、返してくれる。久し振りに感じた朝は、優しいパンの匂いが印象的だった。
 ローファーを履いて、外に出る。吐く息は白く、足元が寒い。でも、なんだかフラットな気分でいられた。
 今朝は父も義母も笑っていた。良かった。
 心が苦しい? そんなこと、ないに決まっている。
 学校に着くと、正門前に生活指導の男性教師が、憐れむ様に私を見て、「おはよう」なんて笑う。悟った。
 嗚呼、知っているんだ。全部。
 急激に私を羞恥心が襲った。死にたくなった。父どころか、義母どころか、まさか学校すら知っているなんて……。こんな、不愉快な目で見られるなんて……。
 唇を噛み締めて、掌に爪を立てる。懸命に自分を奮い立たせ、教師に笑った。
「おはようございます」
 そう言って。
 教師は何か言いたげに、でも私の気持ちを汲んでくれたのか、視線を送るだけ。私は振り返る事もせず、ただ溢れそうになる涙を堪えて、生徒玄関を潜った。
 どうしても神様は私を殺したいらしい。生徒玄関ではクラスの担任と、養護教諭がまるで「よく頑張ったね」と言わんばかりに待ち構えていた。
 死にたくなるなんて、あの日すら、思わなかったのに。
 憐れに思われることがこんなに死にたくなるなんて、知らなかった。
 この世に、あれ以上の地獄があるだなんて……。
 同情しないで。優しくしないで。普段は私のこと、歯牙にもかけない癖に。こんな時ばかり、大人ですみたいな顔をしないでよ。
 私はそのままクラスではなく、保健室に通された。半ば強制だ。
 何を気遣っているのか温かい紅茶が出され、ソファに腰を掛ける様に促された。
 養護教諭の女が、不意に口を開く。
「頑張ったね、春日井さん」
 顔を上げると、抱き締められた。頭をゆっくりと撫でられ、宥める様に背を叩かれる。
「きついと思ったら、いつでも言ってね。みんな貴女の味方よ」
 涙が溢れそうになる。本当に、今なら屋上まで登って、この校舎から飛び降りても良い気がしてきた。
 心底、屈辱だった。勝手に知った気になって、勝手に憐れんで、勝手に、勝手に、勝手に……!
「先生」
 言葉を発したら、もう駄目だった。涙が頬を伝って、声は鳴らない尺八みたいになった。
 養護教諭は私から体を離して、私と目を合わせる。
「何?」
 きっと聖母にでもなった気分なのだろう。酷く柔く、優しい笑みが促す。
 私はせめてもの当て付けに、真っすぐ彼女の瞳を見返す。きっとこの皮肉は伝わらないだろうけれど。
「私は、惨めですか?」
 目の前の女は、そう言った私に即答しなかった。ただ、一瞬目を泳がせて、もう一度私を抱き締めて、懺悔する様に「そんなこと、ないわ」と。後頭部に掛かった手の強張りに、少しだけ申し訳なさを感じた。
 誰だって良い人でいたいだけだ。今この瞬間が彼女にとっては、格好のチャンス。ただ、それだけのこと。……それだけのこと。
「そう、ですか」
 肩の力を抜いて、拳を解く。ただ、惨めだった。
 知られていることも、同情されていることも、生きていることも。
「教室に、行こうと思います」
 養護教諭はゆっくり頷き、私を解放した。もう一度見た彼女の顔は、どうしてか私以上に傷付いた顔をしていた。
 それから、何の未練かも分からない養護教諭の視線を無視して、教室へ向かった。クラスメイトは体調は大丈夫かと何かと気遣ってくれたが、誰一人二週間前の出来事を知らないようで心底安堵した。担任は私が二週間入院していたとクラスに伝えていたらしい。
 久し振りに受けた授業は、気分転換にはなった。数学は特に問題を解いて没頭していられた。教師たちから送られる哀れみの視線を除けば。
 男性教諭など特に神経を尖らせてこちらを見る。男性恐怖症になったとでも思っているのだろうか。
 廊下を歩いても、食堂に行っても、校庭に出ても、付き纏う様な視線に耐えられなかった。 
 うっとおしい視線から逃げる様に、私は図書館に逃げ込んだ。暮れなずむ空が既に夜を迎えようとしている、放課後のことだ。
 顔馴染みの司書に軽く会釈をして、カウンターを通り過ぎる。
 自習スペースではセンター試験を控えた三年生たちが黙々と勉強に取り組んでいた。響くのは吐息と、シャープペンシルが滑る音だけ。
 足音も立ててはいけないような空間を、息を詰めながら横切って図書館の最奥まで歩を進める。そこには文豪全集と百科事典が並べてあり、古書の匂いが殊更濃い場所だ。
 本棚を支えに床に座り込んで、埃と匂いを胸いっぱいに吸い込む。安心したのか、体の力が抜けた感じがして、次の瞬間、洪水の様に涙腺ダムが決壊した。吸い込んだ息を吐きだしたのとほぼ同時だった。
 嗚呼、不安だったんだ、私は。
 三角座りで膝に顔を埋め、声だけ立てない様に口を引き結んだ。
 家ではもう泣けなかった。にもかかわらず、今日も一日、不安で仕方なかった。
 もう誰かに、他人に、自分の弱点を知られたくなかった。これ以上、惨めな気分に浸っていたくなかった。
 優しくされる度、羞恥で死ねそうだった。憐れに思われる度、心底自分が憎くなった。
 どうして、こんな目で見られなきゃならないんだろう。
 それだけが心を渦巻いていた。
 荒む感情に見切りが付かず、仕方が無いと割り切る事も出来ない。
 プリーツスカートを皺が寄る程握り締めて、滑稽な程の屈辱を耐え忍んでいると、不意に辺りを取り巻く空気が変わる。人の気配を感じて、私は急いで目元を拭ったが、
「宮子ちゃん?」
遅かった。
 風が動いて、鼻先をラベンダーの匂いが掠める。何より甘い飴玉みたいな声音で、そもそも誰が自分の名前を呼んだのか分かってしまった。
 顔を上げずとも分かるけれど、呼ばれるとどうしても反応してしまう人。泣いているところを見られたくない様で、でも一番慰めて欲しい人。中学生が小学生の問題を解くような、一たす一の模範解答を見る様な気持ちで、私に影を下ろす人を見上げた。
「片瀬、先輩……」
 こちらを心配する様に細められた瞳と視線がかち合った時、困らせるつもりもなかったのに、また一粒気持ちが零れた。必死に目元を拭い、顔を隠そうとまた俯いた私に、片瀬先輩は困った様に笑って、真っ新なハンカチを差し出す。
「ゆっくりでいいよ」
 その言葉一つで私の心は満たされる。凍てついていた心が息を吹き返した様に動き出した。十二月も中旬だというのに、雪解けの春がすぐそこまで見えた気がした。
 漸く落ち着いた私の隣に腰掛け、片瀬先輩は穏やかに「何かあったの?」と。
 死んでも、言いたくないと思った。彼に知られて、汚された女なのだと思われたくはなかった。
 首を横に振る私に彼は困った様に笑う。
 駄々っ子を宥める父親の様に、片瀬先輩は私の頭を撫でてくれた。
「言えないなら、言わなくてもいいよ。ずっとここにいるから」
 嗚呼、言葉の一つ一つが私の心に入り込む。
 彼といると、自分の羞恥心よりも彼の好奇心を叶えてあげたくなる。全て話してしまいそうになる。
 でも、今は、今だけは何も言わず、ただ頭を撫でて貰いたかった。
 同じ男でもきっと、先輩だけは違う。あの男とは、絶対に。
 それから一時間程、部活動に残っていた生徒たちも自習する三年生も帰路に着いた頃、私はやっと泣き止んだ。
「すみませんでした」
 泣き過ぎて、耳障りな鼻声が身の内に響く。鼻の奥が少しだけ重い気もした。
 先輩は穏やかに笑い、ただただ大丈夫だよと言うばかり。
 どうしてこの人の優しさは素直に受け取れてしまうんだろう。
「辛くなったら、毎日でもおいで。僕は放課後ならいつでもここにいるから」
 その言葉に縋りつくように放課後は毎日図書館に通った。決まって、誰からも見えない位置になっている古書棚、図書館の最奥で先輩を待つ。別の人が訪れても良い様に、古書を開き、文学少女を気取った。
 先輩はいつも決まって遅れてやってくる。待たせちゃってごめんねと一言置いて。
 別に何の約束もしていないのに、毎日図書館に通う理由もないだろうに。
 彼にとって自分がそこまで気にかけるべき存在になっているのが堪らない程嬉しかった。
 一緒にいる間は、彼が最近読んだ本のことや、勉強のこと、私の話や、未来の展望。様々な話をした。どんな話も面白くて、片瀬先輩は先輩らしく常に私の知識の先を行く。
 人の心を盛り上げるのも上手くて、まるで全知全能の神の様ですらある。
 父も義母も私が学校から帰る度、日に日に元気になっている私を感じているのだろう。少しずつ家庭は前の活気を取り戻しつつある。母は憐れむ様に私を見て涙を流すのを止め、父は漸く趣味のゴルフを再開した。
 全部、先輩のおかげだ。
 私の幸運の全てを先輩が運んできてくれている。先輩は人間のはずだけれど、仮にそんなことが出来ても不思議じゃない。だって私の中では、誰より凄い人なのだから。
 十二月も中旬に成れば、私の先輩への信頼は盤石になっていた。そして、彼の反応が変わったのもその頃だった。
 二人で一冊の古書を開いて、先輩が私に解説をしながら読み進めていった時。私が落としたハンカチを二人で拾おうとした時。不意に手と手が重なって、十秒程無言で視線が絡まる時がある。逸らしてしまえば一瞬の様な出来事だけれど、手の甲に熱が、網膜には黒曜石を思わせるオフブラックの虹彩が焼き付く。焼き付いた熱が逃げる様に頬に伝播し、都度私は顔を赤らめ、目を泳がす。
 揶揄いでそんなことをする人じゃないと知っているから、より分からなかった。一つだけ、神様じゃない私でも導き出せる答えはあったけれど、余りに妄想的過ぎて、途中から考えるのを止めた。そんなことは、有り得なかったから。
「クリスマスの夜、時間ある?」
 意を決して、緊張の面持ちで、いつもは合わせてくれる視線を宙に浮かせ、片瀬先輩は私にそう聞いた。
 どういう、意味なんだろう、これは……。
「えっと……それってどういう?」
 揶揄った訳では無かったけれど、先輩は夕陽の所為にするには烏滸がましい位、顔を赤らめた。
 察そうと思えば、そう出来ることかもしれない。
 私は誰かと付き合ったことも無いし、洒落っ気も無い。最低限以上の身だしなみに気を遣ったこともなければ、男好きしそうな方でもない。
 でも、分かることはある。
 私の普通が正しければ、気にかけもしない女の子のために毎日時間を取ったりしない。
 私の普通が正しければ、異性と十秒以上視線を絡めたりしない。
 私の普通が正しければ、好きでもない女にクリスマスの夜の予定は聞かない。
「あ、の……片瀬先輩」
 でも何より今は、何も分からない顔をして、神様に全て教えてもらいたかった。
「うん。あのね」
 一つ深い溜息を吐いて、先輩はやっと視線を合わせてくれた。
 照れた様な顔を微笑ましく思うと同時、私自身も顔が赤くなっている自覚があった。痛い位心臓が鼓動して、おかしい位心が叫んでいる。
 眼差しが、表情が、手が、存在が、その何もかもを好きだと思う。
 男が全てああじゃない。この人なら信じられる。手放しに感じた。
「……やっぱり、クリスマスの夜に言わせてほしい。今はまだ、心の準備が出来ていないから」
 嗚呼、何て、可愛い神様なんだろう。
「は、い……」
 私の声は恥ずかしい位震えて、掠れた。
 今日は初めて、片瀬先輩に家まで送って貰った。一言も無かったけれど、何より心地いい時間だった。
 答えはクリスマスの夜に分かるだろうから、もう何も考えなかった。

「おやすみなさい。今日はもう寝るね」
 団欒を愉しんだダイニングから去り際、父と母に笑いかける。胸には今日二人から貰ったプレゼントを抱いて。
 父はほろ酔い、母は終始穏やかに笑って、二人とも仲の良い双子みたいに同時におやすみと言った。クスッと笑って、私は自室のある二階に上がる。
 母は何か見透かしていたのだろうか。先程もらったばかりの白いセーターをベッドに広げる。袖口がふわりと膨らんだデザインで可愛らしく一目で好きになった。
 この後、何を着て行こうかと目まぐるしく考えていた私にはとても嬉しい贈り物だ。
 やはり、私の母はあの人しかいない。
 愛情の証とも言えるそのセーターで身を包み、防寒具を着込む。カーテンを少しだけ開けて外を見る。
「きれい……」
 思わず言葉が漏れる程綺麗な雪が夜の青を満たしていた。見事なまでの牡丹雪だ。
 このロマンチックな夜を、好きな人と過ごせる。どれ程それが刹那でも、酷い幸せが降り頻っている様だった。
 カーテンを締め直し、静かに自室の扉を開ける。階段の上から、リビングから漏れる明かりで見えて、今、自分は幸せの中にいるんだと痛感した。
 一段一段をゆっくりと降りて、玄関でブーツを履く。家の合鍵だけ持って、一抹の罪悪感だけ抱いて、外に出た。
 待ち合わせに指定されたのは最寄りの公園。十分も掛からないその道のりを逸る心そのまま小走りに行く。
 早く、早く逢いたい。大粒の雪が眼鏡に降り、前が見づらくなる。でも、そんなことも今は関係なかった。この道を渡り切れば、好きな人に好きと言って貰えるかもしれない。クリスマスの夜、家を抜け出して、走る理由には十分だと思う。後は目前のT字路を右に曲がるだけ。そうすれば、公園は直ぐそこだ。
 と、思っていた。
「宮子……」
 声を聴き街灯に映し出された顔を見て、急激に全身の熱が下がっていくのが分かった。
 足が止まる。温度が分からない。不自然な夢の見方をしている。
 直ぐそこに天国と見間違う程の幸せがあるのに、天上の神は酷い。
「あ、ああ……」
 爽やかな風貌は見る影もない。扱けた頬に、光の窺えない瞳。伸び放題の無精髭。しゃがれた声。
 心の溶解は随分と掛かるのに、凍てつくのは一瞬らしい。
「何処に行くんだ……宮子」
 逃げなければいけないと知っているのに、足は竦んで動かない。
 いやだいやだいやだいやだいやだいやだ。どうして、どうして!
「今日は可愛い恰好をしているな。俺の為に着て来てくれたのか?」
 やつれた顔を嬉しそうに歪めて、下卑た視線で私を舐め回した。
「嬉しいなぁ。クリスマスの夜に俺に会いに来てくれるだなんて。やっぱりお前も俺と同じ気持ちでいてくれてたんだな」
 不意に、男の手元が見えた。雪の白に映える様な赤色が、鈍く光を反射する何かに付いていた。
「そ、れは……」
「うん? ああ、これ? 感謝しろよ? あのストーカー男はもうお前の前には現れない。俺を拒否したのも、あの顔以外取り柄のないような男に脅されてからなんだろ? 大丈夫、俺は全部分かってる」
 一体、何のことを言ってるのか。どうして、私の頭は分かってしまったのか。なぜこうも生きづらくなってしまったのか。
 先輩は、きっとまだそこにいるはずだ。
「公園にはお兄ちゃんと行こうな?」
 降り頻る牡丹雪は、果たして絶望の便りだったろうか。
 涙が溢れた。
「そんなに嬉しいか? 良かったよ、これが俺からのクリスマスプレゼントだ!」
 両手を大げさに広げた所為で、赤が辺りに散った。私の頬にもそれが当たる。熱の籠らない、鉄錆の匂いのする赤。
 酷い眩暈がする。
 人を好きになることは死が伴うのか。私は人を好きになったことが罪だったのか。
「人、殺し……」
 こんな男に二度も泣かされた。こんな男に一度でも憧憬を抱いていた。こんな男が一時でも私の義兄だった。
「人殺し!」
 男の表情が殺げた。憎い敵を見る様なそんな目で私を射抜く。
 気持ち悪い、気色悪い。こんな男に、こんな男にっ、先輩は……嗚呼。
「なぜ分からない⁉ 俺がこんなに愛してやっているのに! お前の為に殺してやったのに! 俺が悪いのか⁉ 俺が全部悪いのか⁉ こんなにお前が好きな、俺だけが悪いのか⁉」
 男が私ににじり寄る。手には鋭い狂気を持って。
「違うだろ⁉ お前も本当は俺が好きだろう⁉ 愛しているんだろう⁉ そうじゃなきゃ可笑しいだろう⁉」
 男の不愉快な声は既に遠い。私が惹き付けられているのは、何より愛しい人の赤。
「もういい、お前はいらない。俺を好きじゃない、俺を認めないお前は、いらないっ!」
 真正面から振り下ろされたそれを首筋の頸動脈でまともに受ける。
 痛くて、辛い筈のそれは、余り思考の妨げにはならなかった。
 私は、あの人と同じ所まで逝けるだろうか? 
 いや、きっと無理だ。私は、あの人を、殺してしまったに等しい。
 もう、二度と人を愛せない。
 それが、雪の降り頻る聖夜、愛おしい記憶になる筈だった、事の顛末。

                                 了

赤恋の情に寄せて

ご愛読、ありがとうございます。

赤恋の情に寄せて

惨めだと泣きたくない。現実を認められない。けれど、見つめなければ、死ぬしかない。死ぬしかないのなら、せめて愛しい人を想いながら。 「私は、惨めですか?」 泣きたい訳じゃないのに、声は震える。どうしてか。どうしても。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-11-07

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted