それがお前の幸せならば

いつか、夢を追っていた貴方にだから、読んで欲しい。

「うるせぇ。黙って俺の指示に従え! 曲作ることも出来ねぇお前らを引っ張っているのは俺だろうが!」

 後の祭り、とはよく言ったものだ。全てを吐き出した後、今はレコーディングのリハーサルをやっていること、最近メンバーとそりが合っていなかったこと、言ってはいけないこと、全てが綯い交ぜになって、俺を襲った。

 ハッとした時には取り返しが付かなくなっていた。後悔先に立たずと痛感する。今まで思っていても決して口には出さなかった想いの数が、諸刃で人を傷つけ、俺自身にも消えない疵を背負わせた。

「わ、悪い。そんなつもりじゃなかった……」

「もういいよ、淳二」

 ボーカルの弘人が静かに言った。

 弁解する俺を見る三対の瞳は、何もうかがい知ることが出来ない。それは諦めか、失望か、他の何かなのか。

 もう何も分からなかった。

 ただ、沈黙の後、三人共に広げていた楽譜を仕舞って、ギター、ベースを背負ってスタジオを出ていくので、俺は全てを察した。

 分かりやすい。良く聞く奴だ。所謂、音楽における方向性の違いってな。

 誰もいなくなった、狭いハコの中で俺は一人蹲る。

 腹の奥底に蟠っているのはやらかしてしまったという感情と、後悔と、僅かな爽快感。

 ずっと言えなかったことを、思っていることを例え片鱗でもぶちまけられたのは、今回の経験で得た小さな歓び。でもそれ以上に、出してしまった言葉を後悔している。

 何時からこんな風になってしまったんだっけ。何時からひび割れてしまったんだっけ。

 最後に楽しくセッションした記憶が遠すぎて、曖昧だ。

 もう、何の為に曲を作って、歌を歌っていたかも思い出せない。

 あれ? 

 ふと、残ったアコースティックギターを手に取る。

 感情のままに掻き鳴らして、先日リリースされたばかりの新曲を弾き語る。コード進行は当然滑らか、ミスもない。何より熱い思いを込めた青春ソング、のはずだった。

 気持ちが動かない。それはおかしい。死ぬ思いで絞り出した歌詞だぞ。どうして、どうして、どうして、楽しくないんだ。

 涙腺は砂漠にいるらしい。涙すら呆れている。何も塞き止めるものは無いのに……。

 もしかしたら俺は、もう、音楽が好きじゃないのか?

 心は既に限界だった。もう気力が無いのも事実で、死にたくなっているのも本当だ。

 音楽が好きじゃない。

 でも、それは簡単に認めていいことじゃなかった。

 短く生きてきた中で、何より、愛してきたもののはずなんだ、音楽が。

 弾くことが好きだ。

 歌うことが好きだ。

 本当は、誰にどう弾いて貰えるのか考えながらする作曲活動が好きだ。

 誰に何を伝えたいのか、それを自分の中で愛しみながらする作詞活動が本当は何より好きなんだ。

 ――俺は、音楽を、愛しているはずなんだよ!

「あんなこと、言うつもりじゃなかったっ!」

 乱雑に六本の弦を掻き鳴らして、俺の心は絶叫する。

 反響しないスタジオに音が吸い込まれて、俺の嘆きは無かったことになったみたいだ。

 俺の音は、俺の言葉は、もう誰かの心に届かないのかもしれない。

 だってほら、一番近くにいたあいつらすら傷つけてしまう。そんな言葉しか口に出来ないんだから。

 奥歯を噛み締め、口内を犬歯が切る。口腔に美味くもない鉄錆のフレーバーが一瞬広がったがどうでも良かった。血反吐も吐けない、こんな量では。

 左手に持ったアコースティックギターに視線を向ける。高校生の頃、必死でバイトして買った相棒。六年は苦楽を共にしてきた。何をするにも隣にいた、もう買った前を思い出せない程に。

 その大量生産品のギターは正しく、愛器で。親より彼女より仲間より大切にしてきた。

 けれど、音楽の女神は少なくとも俺を好きじゃない。

 アコギを逆手に持ち替える。散々擦ったピックの痕。新調したばかりの弦。俺の汗と手垢で年季の入った本体。

 さようならだ、全部。

 タイル張りのスタジオの床へ、全てを振り切る気持ちで、振り被った。

 こいつはもう、俺の一番じゃない。滲みもしなかった涙が告げる。きっと未練もない。

 音楽が俺を嫌うように、俺も今から音楽が嫌いだ。

 二度と愛さない。

 それから、バンドのグループチャットに「辞める、おつかれ」と。

 作詞も作曲も止めた。

 好きなアーティストも追わなくなった。

 俺の心は平穏そのもの。

 大学で出来た彼女の有希子は、音楽を止めたと口にした俺を驚いたように見ただけ。それから「そっか」と言っただけ……。



 それから就職活動を始めた。

 大学時代にバンドを組み、卒業しても夢追いのフリーターでしかなかった俺なだけに、就職活動については右も左も分からない状態だった。既に社会人として働いていた有希子に必要なことは一通り学び、面接に繰り出す日々。

 中々、俺を雇ってくれる会社は無かった。二十社受けて、返ってきたのは行く末を祈る手紙が二十通。自分でも笑えた。

 有希子は俺のモチベーションを気にしてか、中途採用は狭き門だからねと言うばかり。

 今度こそと受けた二十一社目。

「早速明日から来ていただけますか」

 窪田等ばりにいい声の面接官が電話越しで穏やかに笑った。

「はい! ありがとうございます!」

 俺を採ってくれたのは名前も聞いたことのないような文房具メーカーだった。営業として採用してくれたらしい。何が琴線に触れたのか分からなかったが、兎に角ありがたかった。

 有紀子は俺以上に嬉しがって涙を溢してくれる。

 酔うとその話をしきりに持ち出して泣くので、俺の酔いは醒めるし、宥めるのに苦労する。

 何より、極まりが悪くて、自宅のソファに体を預けているのに座り心地が悪くなる。

 不愉快、というより恥ずかしかった。

 会社の雰囲気に馴染むのにあまり時間は掛からなかった。人付き合いが特別苦手な方でもなかったし、社員は穏やかな気性の人が大半で、一番若いということもあって可愛がってもらった。

 裏腹に業務内容は慣れるまでかなりの時間を要した。

 営業職とあって、コミュニケーション能力はある方だから大丈夫。そう思っていたが、自分の対人術はあくまで大学生まででしか活きないことを骨身に染みて分かった。

 例えば名刺を貰ったら、お礼のメールを送る、だとか。自社製品売込みの店舗訪問だとか。……敬語だとか。

 営業先で微妙な反応を返される度、俺の心はマリアナ海溝より深く沈んだ。

 先輩も上司も「焦らなくていい。次がある」と励ましてくれる。諭されることはあっても叱り飛ばされることは一度も無い。

 でも、もし顔で笑って、失望していたら? 

 そう考えると夜も眠れなかった。「出来てること、ちゃんとあるよ」という言葉を俺はどうしても信じ切れなかった。

 だって、だって俺は……。

 会社では上司に応える様に「次、頑張ります!」と笑った。

 透けて見える何かがあるのか社員たちは苦笑して、いつもコーヒーを差し出してくれた。

 自宅に帰れば、有紀子が労うように夕飯を作ってくれている。

 「会社どう?」と有紀子が笑う度、なけなしの見栄と胸を張った。それが俺の精一杯だった。多分有希子は気付いていたと思う。

 毎日がこれ以上ない程の優しさで満ちているはずなのに、ベランダに出て煙草に火を付ける時間が一番楽な気すらした。

 灰皿に火を押し付ける度、希望を消すみたいで泣きだしそうになる。そんな思いを掻き消す様に一服後。

「仕事、頑張んなきゃな……」

 そう呟くのが癖になった。

 我武者羅に自分なりの精一杯を続けて、一年が経てば、必然。自分でも自分を認めてやれるくらいには仕事も板に付いてきた。契約件数は日を追うごとに増え、大きな取引に関わらせてもらえることも増えた。

 何も出来なかったときと比べれば……そんな風に卑屈に考えるのはもう辞めた。俺は成長できている。笑えている。今を楽しく、そこそこ幸せに生きている。

 何も……後悔はない。



「不藤君、ギター弾けたりする?」

「へっ」

 仕事帰り、職場で同い年だからと仲良くなった三ツ屋がビールを煽って、肴の煮玉子を突きながら素っ頓狂にも言い出した。

 三ツ屋という男は低い身長に柔らかそうな見た目が一見柔和な印象の男だ。しかし、実際中身はかなりの切れ者で、営業部内の成績は常に一位という敏腕である。自分の見た目の使い方を熟知しており、人の懐に容易く入ってはいつの間にか距離を詰める。まるで蛇の様な男である。見た目は舞浜リゾートの黄色いクマそのものだが。

 そんなエースの突然すぎる問い掛けに、俺はと言えば飲んでいたレモンサワーを吹き出しそうになる。

 こいつは時々無自覚に人の腹を鋭角に突いてくるのが良くない。

「な、なんでまた?」

「いや、さぁ。今度取引先の接待があるんだけど、相手方の部長さんが音楽好きみたいでね。なんか一曲歌ったら好印象かなぁって思ってるんだけど」

「……カラオケ行ったら?」

「うーん。それも考えたんだけどさ。多分カラオケ接待はしこたま受けてると思うんだよねぇ。音楽好きで有名だし」

 皿の上のラスト一つ、ピリ辛キュウリを箸で抓んでじっと見る。

「……お前は弾けねぇの?」

「僕はピアノ弾けるけど、ギターは触ったこともないなぁ。流石にキーボード持ち運ぶのはやり過ぎだしね~」

 確かにと、若干面白くなって笑った。口の中に放り込んだキュウリがしゃきしゃきと小気味いい音を立てて潰れていく。そこに酒を流し込んで、ジョッキを置いた。

「俺の方でも探してみるよ」

「当てがあるの?」

「いや? でもまぁ社内で一人ぐらいはいるだろ。ギター弾ける奴ぐらい」

 三ツ屋は笑って、助かる、と。

 ビールジョッキを空にして、五杯目にコークハイを頼んだ。

 お前飲み過ぎだよ、と三ツ屋に笑う他で、逸る鼓動を抑制することで頭が一杯だった。

 思い出しも触れもしなかった、一番嫌いなはずの、寧ろ興味すら失ったモノに対する気持ちではないと、自覚は出来た。

 でも「俺、弾けるよ」と言うことだけは、出来なかった。

 それから身も蓋も無い様な世間話に舌鼓を打って、酒を飲んだけれど、酔いもしなかった。

 嗚呼、俺は何て、不器用なんだろう。

 有紀子が待つ2LDKの牙城に帰ったのは深夜を少し過ぎた頃。

 珍しくしっかりとした足取りで帰宅した俺を、有紀子は目を丸くして「おかえり」と。

「あんまり飲まなかったんだね?」

「え。あー、いや。一升とジョッキ五杯ぐらい。いつもと変わらんと思う」

「……そっか。まぁいいや。お風呂もうちょっと待ってて。おいだきしたばっかだから」

 ぶっきらぼうにおうと応えて、ネクタイを緩める。

 有希子は先に足早にリビングへ向かった。

 靴を脱いで、顔を上げた時、ずっと目に入らないようにしていた部屋の扉が目に飛び込んだ。扉が少し開いていたわけではない。いつも通り、灯りの灯るリビングへ行けば良いだけのこと。でも、どうしてか、酔っているわけでもないのに、俺の指は鍵のかかってない開かずの部屋のドアノブに掛かっていた。

 やめろ、やめとけ、どうせ、空しくなるだけだ。寂しくなるだけだ。惨めなお前が、そこにはいるだけだ。

 今更酔いが回ったのか、酒の所為に出来るのか。逡巡してみるが、そう言うのは割りとどうでも良いみたいだ。

 立て付けの良い白亜の扉が開く。音も立たない。

 時々有希子が掃除と換気をしているのは知っていた。埃の臭いは微塵も感じられず、でも整い閑散としたただの一室がそこには広がっていた。

 デスクと数種のギター。アンプに楽譜とCDで埋め尽くされた本棚。

 そして。

「悪かったな」

 弦は錆び付き、折れてただの破片となったネック。折るだけ折って、それでも、棄てれもしなかった遠い過去の俺。

 全部蓋をした俺に、果たしてもう一度ギターを弾く資格があるのだろうか。

 折れた破片に触れてみる。フィンガーボードは滑らかで、久しく触っていなかったというのに良く指に馴染んだ。

 好きなアーティストは聞かなくなった。インディーズも追わなくなった。CDショップも、ドラマのオープニングですら。触れず、聞かず、見ず。

 真っ白な五線譜も、何もかも。音楽の全てを俺から遠ざけた。

 それでも、人生を捧げたものだから。捧げたいと、願ったものだから。

「そろそろ、ここも片付ける?」

 静かな声が響いた。穏やかな声だった。

 俺は折れたネックの破片をその場に置いて、振り返る。

 有希子は仕方ないなという顔をして俺を見ている。ずっと見守って、支えてくれた彼女は俺が何を考えているのかきっと母親並みに分かっている。そんな気がした。

「淳ちゃん、おいで」

 近付くと有希子は俺を柔く抱き締め、優しさに溢れた手で俺の背を撫でてくれた。

「有希子」

「何?」

「俺、やっぱさ」

「うん」

「音楽、好きだよ」

 濁流の如く涙が頬を伝って、有希子の肩口を濡らす。けれど、それを気にする余裕はどこにも無かった。俺は力一杯有希子の身体を搔き抱き、不安と虚しさと、罪悪感から抗う。

 抗い切れないと知りながら。

 優しく俺の背を撫でていた有希子の手が俺に負けないくらい力強く俺の身体を抱き締めた。

不安を掻き消すようなそれに背中を押され、俺はずっと思っていたいことを吐露した。

「でもさ、俺。今音楽無くても、幸せなんだよ。それがどう仕様も無く空しいんだ」

 どうでも良くなったわけじゃない。興味が無くなったわけじゃない。そうだったら一室に押し込んで、記憶を封印などしない。

 人生の指標と言って良い。何より大切にしてきたもの。今でも変わらず好きなもの。でも。

 認めたくはない。けれど、現状。認めざるを得ない。

 音楽は、もう俺の一番じゃないんだ。

 なら、今音楽に思うのは、愛じゃない。どう思っているのか、それを言葉にするのは容易な事ではないけれど、例えるなら、それは、後悔。

 捧げ切れなかった人生と、傷付けてしまった仲間たちへの。

 愛していたものを嫌いだと謗って、向き合うことをしなかった自分の弱さへの。

「なぁ、有希子」

「うん」

「こんな俺でも、結婚してくれるか」

 背中に回った有希子の力が一瞬弱まった。それから呆けた様に「え……」と。

 珍しく呆然とする有希子にちょっと笑って、涙を拭う。俺は有希子と目を合わせる為に抱き締める力を緩めた。

「本当は指輪も予約してる」

「……知らなかったわ」

「サプライズのつもりだったんだ」

 格好付かない感じになったけど……と漏らした俺に有希子はしょうがないなと笑った。

「淳ちゃんの方こそ私でいいの?」

「お前以上に、誰がいるんだ」

 俺はいつだって、焦ってばかりで向こう見ずで短気だ。支えてもらうばかりで、人を支えられる器も度胸も無い。

 でも、報いたいと思う。出来ることなら寄りかかって欲しいと、そう思う。

「俺は、お前がいなきゃ幸せじゃねぇんだ」

 有希子を幸せにする。これは俺の役割だといつしか思うようになった。幸せにしなければ、いけないと思った。願うだけではなく、常に隣で、笑わせてやらなきゃと。他でもない、俺が。

「結婚、してくれ」

「うん!」

 泣きだした有希子に釣られて俺の涙腺も緩む。まるでいつかの分も清算するように、二人で涙の泉が枯れるまで抱き合って泣いた。

 愛おしいと、何かが混ざった複雑なその感情。何かが何かは分からない。



 指輪を貰うのは、今から行く場所が良い。

 休日、指輪を頼んだ新宿の店に二人で行って、目当ての物を受け取る。有希子は終始笑顔で俺の選んだ指輪を見ていた。店員も微笑ましいものを見る様に俺たちを眺める。気恥ずかしさを耐え忍び、帰るかと言った矢先、有希子がそんなことを言った。

「行くって何処に?」

 そんな俺の問い掛けは黙殺されて、有希子に手を引かれるまま着いて行くこととなった。

 交差点を二つ曲がって、入り組んだ道に入る。薄暗いけれど、どこか懐かしい道順に違和感を覚えたが、否定した。

 けれど、進むごとに記憶の輪郭が浮き彫りにされていく。

 俺は、この道の果てに何があるのかを知っている。

「有希子、お前……」

「幸せ、証明しなきゃ」

 古ぼけた外観に、周りのビルより一際低いハコ。思い出が詰まった場所。

 昔、良く使っていたライブハウスが道の終着地に鎮座していた。

「中入るよ」

「え、待てよ。有希子!」

 呆然と眺める時間も無いまま、俺は有希子の後を追う。

 防音扉の向こう側から、抑えきれない音と、熱が伝わってくる。

 その足元から手繰って、体に巻き付き、心臓を穿つような振動に忘れていた快感が奔った。

「開けるからね」

 有希子の声が遠い。

 俺の全神経が扉の奥に釘付けになっている。

 もう俺の一番じゃない。

 もう俺の幸せの形じゃない。

 もう俺の在り方じゃない。

 その筈なのに、全部本心なのに、どうしてか心は弾む。

 有希子の開いた扉が一体何の扉だったか。それはもう分からない。

 分かったのは楽しそうに音を奏でるかつての仲間たちの躍動と、音楽が愛おしいという事実のみ。



淋しさにもがいて 何かに縋って

何かに成れた気がして 何者にも成れないのに

僕らはいつだって足掻く意味を探している

本能で

本心で

理性で

どうだっていいプロセスを言葉であらわして

気紛れ女神の気を惹くんだ



置いてかないでよ ねぇ

錆び付かないでよ ねぇ

泣きたくないよ ねぇ

愛してるんだよ ねぇ



「あいつら……」

 綴った覚えのある詞とメロディ。歌っているのは耳に馴染んだ、一番良く聞いた男の声音。

 汗でびしゃびしゃのTシャツに、目元を隠す長い黒髪。

 全身でスポットライトを浴びて、ここが世界最高の舞台なんだといわんばかりに咆哮している。

 眩しくて、眩くて、懐かしくて、愛おしくて、鼻の奥が重たく疼いた。

「これは復讐なんだって」

「え?」

「一生バンドやって、淳ちゃんが書いた曲を歌うのが淳ちゃんへの復讐だって、言ってたよ」

「……なんだ、それ」

 不意に、歓声を浴びて歌う男と、目が合った気がした。

 長い前髪で隠れているのに、おかしな話だと思う。でも、多分合った。

「で、ここに来た理由、忘れてないよね?」

 隣でいたづらに笑う有希子が何より愛おしかった。

 ここは狭間だ。

 幸せの形の、間。

 俺は有希子に向き直って、受け取ったばかりの指輪を差し出した。

「支えて貰ってばかりだったけど、これからは俺もお前を支えていきたい」

「うん」

「結婚してください」

「はい!」

 抱き締めた熱は確かに、俺の幸せの形だった。



                               

それがお前の幸せならば

それがお前の幸せならば

夢を見ている。いや、見ていた。愛しい夢を。 けれど、俺の夢は変わっていく。褪せていく。でも、愛している。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-11-06

Copyrighted
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