【監修】万田ワールドへようこそ

万田ワールドへようこそ

【ショックウェーブ】

 2022年2月22日の猫の日に 「ニャんと云うことか?」・・・
星空文庫に掲載させていただいている万田ワールドの文面が突然歪みを
来した。

 小生は通常は横書きで文頭は一文字下げずに字ズラを揃えて37文字
に納めて記述を続け、読み手の立場からも、読み易さに注意点を注いで
必ず文面チュックを続けてきたが、本日、突然、2~3文字が次の行に
はみ出ることになった。

 このままでは「ヒトとして生まれて」の長編も全文を32~35文字
以内に再編集する必要があり直近の投稿分を実証実験的に32文字以内
に納まるように書き直してみた。

 結果、善いことは読み手の立場から「150%」の拡大版でも読める
ので、小生にとっても、読み手の立場からも、眼球への負担は軽くなる
ので良いのだが長編を全文にわたって書き直すのもたいへんなことだ。

 しかし、この書き直しに寄って小生の長編「ヒトとして生まれて」が
名作に飛躍出来るなら、この「チャレンジも買って出る値打ちものか」
と考え直して、明日から取り組んでみるかと思案したが老いた頭脳には、
即日、エンジン全開とはいかないので暇をみては取り組みつつある。

 近ごろの心境は 「やってみようぜ・それが・グッドジョブなら」と
云ったところだ。

【後日談】
 早くも後日談となるが、この監修によって、アイパッドのタブレット
などで読み手となった場合に、縦型のまま手にしても読み易いので最近
は減少傾向にある通勤電車内でも、吊革に掴まって流し読み出来る便利
さが想像されて、最近は監修のピッチをスピードアップしている?



プロローグ

 万田 竜人 (まんだ りゅうじん)として、一生涯学生作家の生活
を、小説家・そして・俳人としてインターネット上で活動を始めてみて、
ある程度の作品群が顔を見せて来た、そこで気付いたことは案内マップ
の必要性である。

 私が案内マップとして、最も魅力を感じている存在は、東京ディーズ
ニーランドにおけるガイドマップである。

 その魅力に名実ともに嵌っている私はディーズニーの株式を保有する
ことで、運命共同的な体感を味わえるのではないか? と考えた。

 愛すべきミッキーマウスは子供の頃からの友達であった。田舎の学校
育ちだった私は学校の主宰する映画鑑賞会で定期的に街に出掛けた。

 映画鑑賞会の想い出として強く印象に残っている映画はディーズニー
映画およびオリンピック大会の記録映画である。

 父親と出掛けた映画鑑賞は、アメリカの西部劇の鑑賞が主体で・・・

 劇中、主人公のカウボーイが、悪役共に屋外から急襲されて、武器を
持たずに敵に対面した時に屋内に居たパートナー(奥さん)が主人公に
向けて咄嗟にライフル銃を投げ渡すシーンがあった。

 このシーンを観た父親が、私に「勉(つとむ)よ、将来的に・嫁さん
を探すなら、このような凛々しいタイプの女の人が善い」と云っていた
がイメージ的に、ほぼ・近い印象の女性に恵まれた。

 自分が成人した時に観た映画では 「アラビアのロレンスの行動指針」
に感銘を受けたことから、新入社員の時代に強い影響を受けた土光敏夫
社長の独特のスプリットともコンバインさせて、企業人としての生き様
に反映させた。

 そして、映画に限らず、我が人生航路において、多くの成功例も体験
してきたが時には致命的な失敗例も経験して来ている。

 その時、本人にとっては、大きな傷(ダメージ)を負い、二度と立ち
直れない様な状況の中で、その都度、家族や友人・知人の支援によって
立ち直ることが出来たものの、それぞれの思い出を作品の中に抽出する
には限りがある。

 作品の中では、語り切れない部分や・作品間での関連事項など、また、
これからの作品展開などについてデーズニーランドが示すところの株主
向けの「将来の夢の展望マップ」なども参考にしながら、永遠に未完成
であろうと考える、我が「万田ワールド」のご案内を・・・

 兼好による名著 「徒然草」 や 清少納言の 「枕草子」 なども
参考にしながら、本音を吐露してみたいと考えている。



001 生涯学習という新しい境地に入り込んだきっかけ

 一生涯学生作家として日々を過ごしている私にとって、学び舎として
知見を得る拠り所としてきた放送大学の文京学習センターに通うことが、
新型コロナ禍の影響で難しくなり、お気に入り学習であるところの対面
授業を3期連続で欠席した。

 そして今回「4期連続で欠席の場合は除籍となります」という案内が
届いた。来年で傘寿(80歳)を迎える私にとって除籍(退学)という
選択肢もあると考えたが、そうなると「一生涯学生作家」という看板を
降ろすことになる。

 それでは、と、万田ワールドの看板を月並みな「一生涯青春作家」と
するか? と、考えて星空文庫における標示を変えてみた。

「しかし、どうもスッキリしない」

 これは、本末転倒な思考回路になってしまうかもしれないが、マスク
を厳重に重ねて面接授業 「交流分析に基づくカウンセリング」を受講
することで看板にて意思表示している「一生涯学生作家」を貫けないか、
と、考えた。

 そして、2021年度1学期の受講希望に交流分析の対面授業の申し
込みをした。
(結果的には申請を取り下げた)

 その際に、講座一覧において、オンライン授業の存在を知り、かつて
心理学を専攻して、卒業研究でお世話になった岩永教授が、放送大学の
副学長に就任されて、自ら、オンライン授業を率先垂範されていること
を知り、オンライン授業に向けて、一気に興味が湧いた。

 授業科目は 「生涯学習を考える」として、従来にも増して多面的な
見方をしている可能性がありオンライン授業ならではの双方向の考え方
の交流も織り込まれている様子が伺えて、一気に受講に向けて気持ちが
動き受講の申し込みをした。
(授業開始は4月初旬)

 そこで前回の卒業研究「サービス業における教育開発および生涯学習
への反映」と、題したレポートを引っ張り出してみた。

 ここで、関連情報として頭をよぎったことは・・・

〇 練馬の孫が学習院に入学したものの、新型コロナ禍の影響でキャン
 パスに通えず、オンライン授業で学習を続けているという。
(本人は、早くキャンパスライフをエンジョイしたいと云っている)

〇 俳句を趣味とする最年長の俳友(俳号:シェフさん)は現在98歳
 であるが娘さんの介護援助を受けながらベットに据え付けたインター
 ネット上で俳句の交流を続けている。

 この二つの話題から考えたことは放送大学での学びをオンライン授業
に絞り込んで行けば、まさに私が星空文庫で看板に標記している・・・

「一生涯学生作家」を、名乗り続けられることになる。

 そうなるとここで「私に人生の希望の光」を提供してくれた岩永教授
からの卒業研究時の学びについて、振り返ってみることの重要性を感じ
取った。

 当時、定年を前にしてシニアとしての「今後の人生の在り方」を考え
ている時に「60歳以上の講師(兼)コンサルタント」募集という読売
新聞の人材募集記事を目にして、即、応募させていただいた。

 応募者は200名、採用は2名という難関は、3次面接までの振るい
落としがあったものの、当時の専務(後の社長)との相性の良さで採用
いただき、新たに準備された研修センターにおいてゼロからの人材教育
の在り方が問われ「販売・サービス業としての教育システムの構築」が
始まった。

 この過程において、放送大学の岩永教授が提唱されている「生涯学習
の考え方」のテキストは大いに参考になった。

 私が、放送大学で学ぶようになったきっかけは、多くの企業において
管理職に昇進すると、社内における研修を受講する機会がほとんどなく
なり、企業環境の変革に沿って、たゆまぬ自分磨きを続けるには、自ら
が、学習機会を探求して行く必要がある。

 そのような自分自身の渇望状況にあって電車内の吊り革広告で社会人
に向けた、放送大学における学びを発見して以来、学び続けて来たもの
だが、その延長上で定年前に岩永教授の「生涯学習」のカリキュラムを
見つけた。

 しかしながら岩永教授による「生涯学習論(現代社会と生涯学習)」
については、放送大学大学院文化科学研究科のテキストであった。

 このテキストに到るまでには・・・

 定年を前にして、60歳以上の講師(兼)コンサルタント募集の記事
をきっかけにして、次の様なステップの積み重ねがあった。

〇 最初に訪れた幸運は、放送大学の対面授業おいて「生涯学習と自己
実現」を執筆された、お茶の水女子大学の三輪健二教授および担当講師
との出会いであった。

〇 この授業の過程で 「芭蕉の如く川の流れに身を置いて・自分自身
を分析する」という課題において、自分自身が、作家(小説家)として
少なからず、成長できる可能性を発見する経緯に到った。

〇 同時に、シニアの年齢域において、加齢が進んでも、文学の分野に
おいては、個人差はあるものの自分の能力を伸長出来ることを知った。

〇 そして、これから始まる販売・サービス業における講師(兼)コン
サルタントの遂行に当たっても、顧客の対象が若手から・シニア層まで
多層に及ぶ場合は、シニアの特性に応じたカリキュラムを用意しないと
成功しないと考えた。

〇 などなど、既に、定年まで、企業内で社外コンサルトと合同で推進
してきた企業内革新における社内コンサルタントとしての経験から準備
して、顧客の了解を得ていた研修カリキュラムについても、さらに顧客
にフィットさせた新鮮味を加えるアイデアが脳内に湧いてきた。

〇 同時に 「コミュニケーション論」大橋理枝放送大学准教授・根橋
玲子明治大学准教授による共著についても学んでおく必要を感じて受講
を重ね、熟知出来るレベルまで学びを加えた。

〇 さらに 「臨床心理面接持論」大場 登放送大学教授・小野けい子
放送大学教授からの受講も加えて、顧客の気持ちに添える準備をした。

 これらの準備を整えて講師(兼)コンサルタントとしての活動を開始
してみて・・・

 せっかく意欲的な活動を展開するのであれば長年にわたって放送大学
で学んできて、これからの研究活動を、放送大学の卒業研究のテーマと
して登録、担当教授からの適切なフォローアップを受けられればさらに
鬼に金棒と考えた。

その際に、担当教授としては、お茶の水女子大学の三輪教授が脳内で
イメージされたが、卒業研究の担当教授は予めの登録があり、この枠の
中から、お願いする必要がある。

 私は、生涯学習という専門分野にこだわりがあったので、登録されて
いる教授陣の中から迷うことなく「岩永教授」を選ばせていただいたが
該当の生涯学習の登録科目は放送大学大学院からのものであり、早急に
大学院の履修生として受講を申し込んで受講に辿り着いた。

 実際の卒後研究がスタートすると、当時、岩永教授は東京足立の学習
センターの所長の任についていて私の顧客(コンサルタントや講演など
を依頼されていた)も松戸地区であったので、比較的容易に立ち寄れる
という便利さも、おまけに付いてきたので、教授から助言などを受ける
際には大いに助かった記憶がある。

 そして、おまけは、こればかりでなく放送大学大学院の履修生として、

〇 大学院テキスト 「発達心理学特論」 内田伸子お茶の水女子大学
副学長・氏家達夫名古屋大学大学院教授による共著

〇 同じく大学院テキスト「人間情報科学とeラーニング」野嶋栄一郎
早稲田大学人間科学学術院教授・鈴木克明熊本大学大学院教授・吉田文
メディア教育開発センター教授による共著

 などにも学習範囲を広げて多面的な学びの中から講師(兼)コンサル
タントとしての視野を広げて行った。

 結果、販売・サービス業への講師(兼)コンサルタントとしての任務
は、当初の4年間契約から6年間まで伸長、採用時の専務も社長に就任
されて、社内における教育体制も整って来たことから、私の任務は修了
となった。

 当時、私の卒業研究は「研究テーマ:販売・サービス業における教育
開発および生涯学習への反映」としての、まとまりをみせ「A評価」を
いただいた。

 思えば「オンライン授業」という形態で、対面授業に近い形での再会
となるので、前述した「テキスト類の一式」についても今から振り返り
学習を重ねて新学期に臨みたいと考えている。



002 生涯学習のテキストから学んだ午後の世界観

 最初に、放送大学から届いた「生涯学習と自己実現」堀薫夫大阪教育
大学教授・三輪建二お茶の水女子大学教授による共著の「まえがき」に
興味深い記述を見付けたことから、この物語が始まったことを考えると
生涯学習を学ぶことについても自ずと新鮮味を帯びてくることになる。

〇 堀薫夫教授は 「メリアムとクラークという実在する人物」の言葉
として・・・

「人生の良いと思われる時期や、悪いと思われる時期において、人生の
悪い・且つ・困難だと思われる時期においてこそ、自己変容への学習が
より多く生起している」と、指摘している。

「人生上の困難や痛みを伴う時期こそが学習への潜在的可能性を秘めた
時期」だというのである。

「つまり、痛みの伴う自己実現は、同時に、生涯学習の出発点である」
と、云うのだ。

〇 また堀教授が大学を卒業する際に、甲田和衛・大阪大学教授(当時)
から・・・

「君たちは社会へ出て、良き職場や良き上司に恵まれて社会生活を送る
かもしれない。しかし多くの場合は、そうではない。有能だと思えない
上司、自分に合わない仕事内容、さて、どうする?」本当の意味の賢さ
は、そこから始まるのだ。

 この記述を拝見して、私は、管理職定年(55歳)のときに体験した
理不尽な記憶を脳内から引き出した。

 そして、その理不尽な体験は筆者の小説「ヒトとして生れて・第5巻」
に詳述したので、ここでは内容を省略するが・・・

 たしかに、あの理不尽な体験があったからこそ、定年後に、生涯学習
という大きなテーマに取り組み、再び、活躍する舞台を得たのかもしれ
ない、と、堀教授の記述に納得した。

 テキスト「生涯学習と自己実現」の記述のなかから生涯学習について
の手がかりを得た内容は 「カール・ユング博士による発達論」からで
あった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この要旨は、心理学の権威であるユング博士が「人生の正午」という
論文で、太陽の日中の変化を人生になぞらえて正午を40歳前後と見立
てて、太陽が東から登る段階を人生における前半とみなし、正午を起点
にして西に沈む段階を人生の後半とした。

 そして、人生前半の発達と後半における発達には、大きな違いがある
とした。

 現代の日本に置き換えて考えてみれば、人生百年時代にあって、正午
を50歳前後とすれば人生50歳以降も「人間は・成長・発達し続ける」
と説いたのがカール・ユング博士である。

 具体的な例示をすれば・・・

 人生の前半における発達が 「働くことと家族愛を軸においた社会的
な立場の確立と発達」とすれば、人生の後半における発達は 「自分の
内面からの声を聞きながら」自分自身が「より望む姿になって行くこと」
に関心が向けられる、と、したことである。
 
 特に、後半におけるプロセスは個人に内在する可能性を発見して実現
させ、その自我を、より高次なものに統合して行くという意味において、
個性化や自己実現のプロセスであるとした点に特徴があると云える。

 かくして、ユング博士が唱える発達観の中では「人生前半の発達」と
「後半の発達」という 「二つの発達論」を、明快に分けて論じており、
それは、今日の生涯発達論のルーツになっていると云える。

 そしてユング博士の二つの発達論に感銘を受けた私は「ユング心理学」
大場登著についても学ぶことにした。

 また、その勢いを借りて放送大学の大場登・小野けい子の共著「臨床
心理面接特論」についても興味が湧き放送大学の授業を受講した。

 そして、話題は前後するが、この「ユング心理学」大場登著は、折に
触れて何度か読み返すことになる。

 1回目は、私と家内が、ミラノ着の直行便でイタリアへ旅行した時に、
ミラノのスカラ座の前に広がったピカデリー広場で・・・

「レオナルド・ダ・ヴィンチと弟子たちの銅像を目の前にした時」のこ
とであった。

 銅像は中央の一段と高い頂上部に、レオナルドが立ち地上を取り囲む
ようにして弟子たちが立ち上がった像で、弟子たちは外面に向けて師匠
のレオナルドを取り囲んでいた。

 この時に、ツアーコンダクターの女性から、面白い 「都市伝説」が
紹介された・・・

 銅像になっている「チーム・レオナルド」が、街中をかっ歩するとき
に彼らの一行にはオーラが立ち昇り・一陣の風が吹き抜けたと云うもの
である。

 私はこの都市伝説的な話を聴いた時に、たしか「ユング心理学」大場
登著に、レオナルドと弟子たちの関係性を詳述した記事があったことを
思い出して帰国後に通読した。

 最初に、通読した時と、この都市伝説的な話を聞いた後では、読んだ
印象が変わった。

 ここで、ユング心理学の一文を要約して、復唱してみることにしよう。

 ミラノ城から出てきたレオナルドと友人は少年でサライと名乗る泥棒
に財布を盗られた。少年はレオナルドから盗んだ財布を決して盗んだと
云わなかった。レオナルドは巻き毛の美しい泥棒の少年を理由はわから
ないが、最年少の弟子として加えることになる。

 サライは、無知のまま、神と信じていたレオナルドが人間であること、
周囲の人たちが尊敬と名声に惹かれていることをものともせずに対等な
関係で居ることとなった。

 サライはレオナルドの顔から気持ちを読み取り、レオナルドが苦しい
ときには笑うように心がけていた。レオナルドはそのような態度をとる
サライに心を許し、人の噂話も・本音も・彼になら云うことが出来た。
(まことに不思議な関係性である)

 サライは、考えたり・責任を持ったり・努力したりすることは、大の
苦手で、その場限りのユーモアと・冗談と・とんちと出まかせやずるさ
や嘘などは彼の得意とするところで、カメレオンのようにその場その場
に自分を合わせる生活を続けていた。

 サライは、レオナルドが、自分を必要としているのは・・・

〇 常識や教養に対するサライのいいかげんな態度であることを知って
 いた。

〇 またサライには人の心を見抜く直観力がありこれにより見栄っ張り
 を笑い飛ばせる力を、本や知識とは全く異なる方法で、身に付けいた
 のであった。

 レオナルドは、自尊心が高く、そのために、他者と親密な関係をとる
ことを避けていた。しかし、天才レオナルドにとってサライの浮浪児性
や無責任さが、レオナルドをして心の開放につながっていった。
(サライのこの性質・性格こそが道化の本質と云えるものであった)

 レオナルドが、実際に、サライを助手として手元に置いておいたのは、
事実の様であり「レオナルドに対して、サライが荒々しい狂気のような
ものを補給し続け」

「当時の雇い主のミラノ公に縛られていたレオナルド、と、自由奔放な
サライとの関係性は、創造性をいつも求め続けられていたレオナルドに
とって、まさに影の人格を必須としていたレオナルドにとって、なくて
はならない存在であった」と、云える。

「サライは道化であって、影の存在であり、道化は表舞台に出ることは
少なく、中心人物を苦しめたり、危険にさらしたり、助けたりもする」

「このことから、サライの立場は、心理療法家に近いとも指摘できるが、
レオナルドにとってサライは荒々しい狂気のようなものを補給し続けた
存在」と、みることも出来る。

 イタリアの旅において、レオナルドが弟子たちを連れて街中を歩く時
にオーラのようなものが漂い一陣の風が吹いたという都市伝説的な話は、
日本人的なとらまえ方をするならば・・・

 レオナルドの「清濁あわせて呑む」という感覚に近い度量の大きさが、
チーム・レオナルドによって、都市伝説的に、オーラを発し・一陣の風
を吹かせたと云えるのかもしれない。

 二回目に、ユング心理学を読み返したのは卒業研究の際に、岩永教授
との間で共通課題として抱えたまま、今日に到って「解を得た」のだが、
まさに、長期間にわたっての課題解決であり、四月初旬から始まるオン
ライン教育において、話題になることもないと考えるが、課外における
ルートでの機会が持てれば望外の幸せと云える。
(なんと、10年越しの課題解決となった)

 二回目の話の要旨は、シェークスピアと松尾芭蕉が同じ時代にあって、
シェークスピアの場合は「より複雑な物語性を特徴」とするのに対して
松尾芭蕉の場合は「俳句という・より簡素化された文学に特化させたが」
この両者の違いについて「その根幹にあるものは何か?」と、いう設問
であるが、その解について語るには、極めて長話になるので後述に譲る
こととしよう。
(ユング博士がスイスの湖畔に自らの手で建てた別荘にヒントがあった)


003 それは何を意味するのか 


 大場登著「ユング心理学」をあらためて読み返すまでには約10年間
を超える年月を要しているので極めて長話である。

 具体的な話をすれば、定年後、講師(兼)コンサルタントを担当して
いる時期に、放送大学の岩永教授に、ご指導いただいて「生涯学習」を
テーマに据えた卒業研究を進めていたことは前述の通りである。

 この過程において、岩永教授が「大人のための学問のススメ」を工藤
庸子教授との共著で講談社から出版されて、池袋のジュンク堂において、
出版記念会が行われた。

 その際に、岩永教授から卒業研究について指導を受けていた仲間にも
よかったらということで招待があり、会場には多くの識者も集まるので
文学全般について質問事項などがあれば、せっかくの機会なので、出版
記念会の会場で質問を投げかけてみてくださいとの言葉をいただいた。

 ジュンク堂の会場には両先生の多くのファンが集まり、岩永教授から
ご挨拶をいただいた後で、予定通り「質問コーナー」が設けられた。

 会場では次々と質問が投げかけられて回答は岩永教授からだけでなく、
参加者の方々からも貴重な回答やご意見が寄せられた。

 私からの質問は、当時、気になっていたこととして・・・

「松尾芭蕉は、おくの細道の旅において、旅の道筋を間違えてしまった
ときに俳人としての旅路であれば、そのままの旅程を先に進めれば良い
と考えるが、あえて道筋を元に戻して、旅をやり直しているが、これに
ついては当時の幕府から密命を帯びての旅であったためでしょうか?」
と、いう素直な質問をぶつけてみた。

 日頃から、漠然とした思いとして「芭蕉隠密説」を脳裏に描いていた
ので、思い切って質問を投げかけてみたのであった。

 これに対して、世間は狭いものである・・・

 岩永教授の出版記念会の会場に、松尾芭蕉のおくの細道に、随行者と
して旅程に加わった曾良の末裔にあたる方がいらっしゃたのである。

 挙手をされた曾良の末裔に当たる方は続けて・・・

「奥の細道において幕府からの密命を受けていたのは曾良」で、あった
ようですと云うのである。
(私自身、その時には、その説明を聴いて納得出来るものがあった)

 当時、私は・・・

「松尾芭蕉が、何故、あのように多くの名句を詠むことが出来たのか?」
そのことに興味があって芭蕉の足跡を徹底的に追っていた時期であった。

 山形県の山寺で、あの名句 「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」の碑を
拝観できる場所の近くに、とても狭い通路があって、足首がやっと入る
場所があるのだが、もしも、芭蕉がこの路を歩いたのであればと考えて、
足の裏をこすりつけるようにして歩を重ねたことがまだ記憶に新しいが
まさに、芭蕉ファンの心境とは、そのようなものだ。

 そもそも松尾芭蕉に心酔するに到ったきっかけは大手町の本社に勤務
していた時代にお世話になったK部長から・・・

「月は東に・蕪村の夢・漱石の幻」森本哲郎著が贈呈されてきたことで、
私の心にスイッチが入ることになった。

 この書籍は新潮社版であり、文面の特徴は、蕪村の俳句と漱石の俳句
を徹底的に比較して両者の作句における境涯の共通性にスポットを当て
たもので、推理小説を読む様な感覚で読み進めているうちに、自分でも
俳句を詠みたくなるような仕掛けになっていた。
(この仕掛けは、私が勝手に感じ取ったものなのかもしれないが?)

 結果的に、早稲田大学のオープンカレッジに入学「日曜俳句講座」と
いう社会人が参加しやすい俳句教室に飛び込んだ。
(早稲田大学の英文科の高橋教授が担当講師)

 講座では「古池や蛙飛びこむ水の音」にはじまって多くの俳人の名句
や秀句が紹介され、高橋教授自身が多くの秀句を詠まれていることから、
俳句を作る際のポイントや花鳥諷詠における事物や人物の見方などその
要点が分かりやすく語られた。

 一通りの授業が終わった後で、私の印象として・・・

〇 何故、松尾芭蕉は、あれほど多くの名句を作ることが出来たのか?
 
〇 芭蕉の次世代としては蕪村が圧倒的な存在感を示しているが、蕪村
 は一時は芭蕉に心酔して屏風に芭蕉の俳句を書き写すほどの関係性で
 あったが、ある時期に芭風からは離れて独自の境地を生み出して行く
 ことになるがそこには何があったのか?

 その様な思いも働いて私自身、芭蕉の境地を知るために東北の旅など
にも三度ほど出かけてみた。そして、当時、放送大学で心理学を学んで
いたこともあり、心理学の世界からも芭蕉の深層心理に迫ってみること
にした。

 かなりの時を経て、知り得たことは・・・

〇 芭蕉は名句を後世に残すために、多くの旅に出向いた。そして名句
 を生むために弟子たちとの全国行脚の過程において多彩な句座を催し
 名句を残すための意見交流を繰り返した。
(そして、ひたすらに、名句を探求した)

 要するに名句を残すという明快な課題の下において自らを奮い立たせ
衆知を凝縮させて句座を繰り返した。

 具体的には名句「古池や蛙とびこむ水の音」に到るまでの句座の実況
を知ることで容易に納得が行く。要は、他に動かしがたい究極の俳句に
仕上げて行くのだ。

 蕪村にしてみれば、なるほどの名句揃いなので、屏風に書き写すほど
の入れ込みようであったものの、自らが編み出した蕪村自身の絵になる
俳句の世界とは異なった世界、いわば出来過ぎの世界に嫌味を感じたの
かもしれない?

 どの世界でも 「両雄、相いれない世界はあり得る」「私とは違うな」
「俺とは違うな」と、どちらも優れていて、同じ鞘には収まらない名刀
の様な存在はあるものだ。

 心理学の世界においても、ユング博士とフロイト博士の決別が歴史上
の事実としてある。

 ユング博士の場合は、37歳から38歳にかけて・・・

「学問的・心理療法的・人間観的相違」から、フロイト博士と決別する
ことになるのだが、フロイト博士の精神分析の考え方に対して、違和感
を覚えるようになったのは「フロイト博士が理論と方法論を同一視して」
それをある種の教義として仕立て上げようとしている意向を知った時に、
ユング博士は、彼との協力は難しく、フロイトの処から退く以外に選択
の余地はないと考えた。

「ユング博士にとっては患者にとっての解釈や応答・連想などの自由さ
が重要であって規則や理論の適用よりも、クライアント中心の療法こそ
が重要と考えた」
(結果として、当然、曖昧さや矛盾点は包含されてくることになる)

 しかし、この姿勢は、フロイト派の精神分析的な視点からは・・・

 明確な技法に欠けた曖昧模糊とした治療姿勢と映るため、ここでも
「筋のとおった解釈」を主張するフロイト派への、ユング博士の疑問
こそ、相入れぬ関係性と考えた。

 ユング博士のこの感覚は、後にロジャース博士のクライアント中心
療法にも、考え方として、通じて行くことになる。

 このユング博士やロジャース博士に共通したクライアント中心療法の
今日への発展分野は、その詳述が「臨床心理面接特論」大場登放送大学
教授・小野けい子放送大学教授の共著にも、述べられていることを知り、
その授業が放送大学大学院で開講されていることを知り私は放送大学院
に履修生として席を置き本格的に学ぶことにした。

「臨床心理面接特論」の授業は、1学期における学習単位が30単元で
構成されており通常授業の15単元に比べて2倍相当、テキストの厚み
も2倍あり、通常なら週1回の授業だが、30単元となると、週2回の
授業となってくる。

 当時、販売・サービス業の講師(兼)コンサルタントを担当していた
私からすれば授業内容が、即、役に立つ内容であったことから、授業に
引き込まれて行く思いがした。

 授業の最終段階では、単位認定試験もあり理解度の判定には好都合と
考えて受験、結果は自分でも驚いたが「全問正解」であった。

 そして、なによりの 「成果」と、しては・・・

 あらゆる場面において 「それは何を意味するのか?」 この設問を
もって人生を生き抜くことの重要性を知るに到ったことである。

 話題は、結果的に、全方位的に、拡大発展することになったが・・・

 多くの天才や才人は自分を磨くことで、やがて師匠の教義には収まり
きらない自分の世界を編み出して行き、独自の道を歩み出すことがある
ということだろうか?

〇 ユング博士が、クライアント中心療法という矛盾点の包含をむしろ
 善しとして、フロイト博士から決別したように、

〇 蕪村が、眼前の風景を、絵画的に描写する俳句の世界を自ら標ぼう、
 あくまでも徹底して名句を追求する芭蕉とは違った世界を切り開いた
 ように、

 私は、これを蕪村はアナログの世界探求、芭蕉はデジタルの世界探求
と観ている。

 同じような出来事は、ホップスの心身一元論とデカルトの心身二元論
にも見られ・・・

 ここでは詳述は避けるが 「心とは何か」という問いに対して一時は
共通の友人を介して両者は良好な関係にあったのだがある時、デカルト
から、ホップスの著作への攻撃が始まり、両者は断交するに到った。

 ホップスはデカルトよりも早く生まれ、デカルトよりも長生きしたが、
彼らがお互いに主張した 「心身一元論」と「心身二元論」については
「どちらが適切な答えなのか?」について、今日に到るも未だに結論は
得られていない。

 さて、私からの松尾芭蕉にかかわる、遠大な心の長旅を経ての質問は、
次の様なQ&Aによって、あっさりと回答が得られることになったが、

Q:松尾芭蕉は、おくの細道の旅において旅の道筋を間違えてしまった
ときに俳人としての旅路であれば、そのままの旅程を先に進めれば良い
と考えるが、あえて道筋を元に戻して旅をやり直している。これは当時
の幕府から芭蕉が密命を帯びての旅であったためか?

 と、いう素直な質問をぶつけてみたのだが、これに対して曾良の末裔
と名乗る方から・・・

A:奥の細道の旅程において、幕府からの密命を行けていたのは曾良で
あったようです、と、

 しかし、あの出版記念会から、長い年月を経た、今になって・・・

 松尾芭蕉は 「おくの細道」 の旅に出掛ける前に、芭蕉が師と仰ぐ
西行法師(北面の武士であった)が辿った奥の細道をなぞるように歩い
ており、当時、芭蕉も西行法師に習って、旅の初めに幕府を訪ねている
ことからも、池袋のジュンク堂では密命を帯びていたのは同行者の曾良
であったという解答があったが、実は「芭蕉こそ曾良の知らない処」で
幕府の密命を背負っていたと云う疑問を否定できないのではないか? 

 と、云う疑問の渦が、後日になって、脳裏に、再度、浮かんできたが、
ジュンク堂では、末裔と名乗る方からの説明を口頭で聞いただけで確証
となる資料も入手していないことから、再び、芭蕉隠密説が再燃してき
ている。

 今になって 「それは何を意味するのか?」 と考えたとき・・・

 あらためて「悪党芭蕉」嵐山光三郎著を手にして考察を重ねたときに、
それは、最早、ファンタジーの世界の話なのかも知れない。


004 オンライン授業の準備完了

 その後、放送大学の岩永教授に、卒業研究の場においてジュンク堂に
おける興味深い出版記念会に参加出来たお礼を述べて・・・

「ところで、松尾芭蕉の時代にあって、イギリスの文学界ではシェーク
スピアの活躍があって、同じ地球儀上で、同じ時代に、我が国において
は芭蕉に、代表される俳句の世界において文学的に超短文が江戸文化に
始まって日本中を席巻、一方、ヨーロッパではシェークスピアを筆頭に
おいて、より複雑なストーリー構成による文学が、盛んであったが同じ
時代にあって、この違いはなんなのでしょうか?」と、問うてみた。

 これに対して岩永教授からは・・・

「その質問こそ、ジュンク堂で投げかけていたらより盛り上がったかも
しれませんね?」と、云われたものの良く考えてみれば、出版記念会の
ような極く短い時間の中での課題消化は難しいのではないかと考えた。

 当時、この課題に気付いた経緯は・・・

 家内の実家(葛飾区)を訪ねた時に、義父の隣に居を構えている義弟
ファミリーと一緒に食卓を囲むことになり、その時に、義弟から、当時
私が文学面に興味を抱いて色々な視点から学びを進めていることを家内
から聞いていて 「イギリス文学」と、いう彼の蔵書を贈呈していただ
けることになった。

 義弟は上智大学を卒業後、イギリスの大学院に留学して英語学を本格
的に探求してきた学研肌でイギリス文学にも詳しかった。

 そして学習熱心と思われる私がイギリス文学に対してどのような興味
を示すことになるのかにも関心があったようである。

 私が、イギリス文学の世界に目を転じて、最も惹きつけられた課題は

「シェークスピアが多くの名作を残しているが、あれだけの多作は信じ
難く、複数の学者や著者の言として多くの作家がシェークスピアの名前
を語って名作を残すことになったのではないか?」
と、云うところの疑問を投げかけ、当時、イギリスの文学界を挙げての
大捜索があったという経過について述べた顛末記であった。

 結論は「やはり、すべて名作は、シェークスピアによるののである」
と、いう締めくくりに到って、一大論争は締めくくられたが、日本に
おいても、芭蕉によるとされている多くの名句は、すべて芭蕉による
ものか? と、いう話題は日本でもあった。

 これについては、芭蕉の名句に到るまでの過程として句座における
門弟たちからの自由闊達な意見具申は、数多く寄せられ、芭蕉自身も
弟子たちの貴重な意見を耳にしているが、最終的には松尾芭蕉自身が
「これにて動かし難い俳句に仕上げており」多くの名句は芭蕉による
ものといって間違いはないと云える。

 このような発想を重ねているときに、前述のような・・・

「同じ時代にあって、日本の芭蕉の世界では、より短文の五七五の世界
が頂点に立ち、イギリスのシェークスピアの世界では、より複雑な物語
の世界が隆盛を極めた」

 そのような比較論からの経緯を経て、前述のような質問が飛び出した
のであった。

 しかしながら岩永教授との「この共通の話題(課題)」は、卒業研究
の修了と共に、私だけの課題となって私の脳内に残った。

 あれから、約15年の歳月を経て一昨年(2019年)12月、新型
コロナウイルスが、中国の春節を機会にして中国の多くの旅行者たちに
よって日本に持ち込まれる前に、家内がフラダンス同好会の仲間と共に
南イタリアの旅に出かけて、その土産話からユング心理学の記述に発想
が飛んで「この課題の答え?」としての推論を得たのであるが、その後、
岩永教授との意見交流の場はもてていない。

 その様な発想を思い浮かべている時に、我が家に今年4月から始まる
予定のオンライン授業の振込票が送付されてきた。

 これはオンライン授業「生涯学習を考える」(岩永教授担当)の受講
許可が降りたということである。受講者が多ければ抽選と云うルールも
あったので、最悪の場合、抽選に外れれば除籍という可能性もあったの
で、早速、授業料の振込を済ませてオンライン授業の受講環境を整えた
次第である。

 そのような訳で、振込票が届くまでは幾分ヒヤヒヤものではあったが、
これにて除籍の危機は切り抜けて、我が家も孫たちに遅れること約2年
にしてリモート学習の環境が整ったことになる。

 しからば、ユング心理学の記述を2回も読み返して答えを得たものの、
岩永教授とのオンライン授業の際に、前述の共通の課題について触れる
機会がもてれば、その時に後述することにしても良いかと考えて一先ず
筆を置く選択をした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 そして、本稿の筆を置いて、しばらく考えた・・・

 本日は、2021年3月11日、あの東日本大震災から、10年間の
歳月が経過した。
 
 今、我が家では外壁工事が盛んに行われている。南側の外壁に歪みが
発生して外壁にクラックが多発、その外壁交換工事が行われているので
あるが、当時(10年前)の大震災の影響ではなくて、外壁メーカーの
工場移転時の一時的な製品不適合のためメーカーのご高配により、鋭意、
外壁工事が行われているものである。

 あの東日本大震災時の我が家や周辺における出来事は本稿の長編記事
にも記録として残したが、あの時、我が家のエコキュートが、大揺れに
揺れてヒヤヒヤした記憶が未だ記憶に生々しい。



005 加齢に伴って伸びる能力

 放送大学における対面授業において「私にとっての生涯学習」という
セッションに参加することで、定年後の仕事として講師(兼)コンサル
タントを続けながら、次の自分の人生の過ごし方について、イメージが
明確になった。

 対面授業では、テキスト「生涯学習と自己実現」の著者でもある三輪
健司お茶の水女子大学教授から総論が語られ、同大学の西原講師からは、
グループディスカッションのガイダンスに沿って、実体験的な・授業が
行われた。

 三輪教授からの総論において興味深い内容は「成人以降の知力・知能
の変化」について、ある程度の目安が得られたことであった。

 具体的な内容としては、高齢者と大学生を比較研究することによって、
加齢に伴って、どのような変化が起きて来るのか、その目安が可視化さ
れたことにある。

〇 動作性検査においては、大学生よりも高齢者が劣る傾向にあること
が明確になった。

 具体的な、動作性検査の要目は、積み木などに代表される、視覚から
運動技能などに連なる一連の動作で、積み木などにおいては、空間認識
なども求められるため、高齢化に伴って、そのような作業は、だんだん
と苦手になって行くことが解明された。

〇 一方で、言語性検査においては大学生と高齢者の間に差異は少なく
一般的知識や一般的な理解力においても差異はなかった。

 また、単語問題など言語を伴った検査においては、高齢者が大学生を
上回るケースも散見された。
(日常生活においても俳句を詠むことなどに具体例が見て取れる)

 これらの事象に関連して、キャッテルとホーンが主張したところの

〇 「流動性知力」 と
〇 「結晶性知力」 の

 比較理論は注目に値する。

 キャッテルとホーンの説によると・・・

〇 流動性知力とは、神経生理的な基盤をもち、生活や教育からは独立
していると考えられる知力である。これは、人間が本来的に有している
情報処理能力や問題解決能力の基本的過程の反映ともいえる。

 したがってこの能力は青年期をピークにして、その後、加齢に伴って
次第に低下して行くものと考えられている。

 具体的には、短期記憶・概念形成・抽象的な関係性の知覚や推論など
情報処理能力や瞬発力を必要とする学習などが挙げられる。
(この内容は、前述の動作性知力に、かなりの部分で対応性がある)

〇 これに対して、結晶性知力は、後天的な文化的接触や教育的および
生活経験などによって培われた知力であり、それまでの経験や・学習が
反映される知力である。

 この知力は、成人期を過ぎても低下しにくく、あるいは学習のペース
さえコントロール出来ていれば、上昇も期待出来る知力である。

 これらの具体例としては、語彙力・算術能力・文化遺産の理解そして
哲学や思想の理解など、他には、一般的な理解力・社会規範への理解力
さらには判断力などを挙げることが出来る。
(この内容は、前述の言語性知力の一部に対応する)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ここで 「年をとったからこそ伸びる」 知力があることが明らかに
された意味合いは、私にとっては大きな驚きであった。

 具体的には「生活の知恵」や「生活経験からの知恵」「結晶性知力」
などという表現で語られている事柄に、その端緒があるかもしれない。

 われわれの日常生活を見回しても、学校教育の基準だけでは測れない
「かしこさ」というものは、いたるところに存在していると云える。

 最終的には、究極的な意味合いから考えてみると、知力という問題も
「生きる力の問題」として理解されて行く必要性があるのかもしれない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 総論として、三輪健司教授から学んだことを整理すれば、前述の通り
であるが・・・

 これによって、私が意を強くしたことは、現状で、放送大学において
「心理学」を専攻、卒業研究にも取り組んでいるが、次は「人間学」を
専攻して文学的な学びを積み重ね、文筆活動にも趣を置いて生涯学習的
な生き方を探求することについて自信を深めることが出来たと云える。


006 吊り橋理論の創案

 総論について述べられた三輪教授に続いて「私にとっての生涯学習」
というテーマで、各論について、お茶の水女子大学の西原講師による
指導でグループ・ディスカッションが行われた。

 西原講師によるグループ・ディスカッションは、自己紹介から入って
行き、自分を動物に例えると、と、いうようなユニークな導入部を経て、
本題に入っていった。

 これは、後で分かったことであるが、放送大学の学生には、元会社の
役員経験者などもメンバーとして入っていてメンバーが多彩なことから
メンバーの構成によっては、グループ・ディスカッションが、堅苦しい
雰囲気になることが多いという経験則を生かして、頭の体操的な脳内を
ほぐす仕掛けの時間であった。

 このような脳内のほぐしが行われた後で・・・

〇 放送大学に入学した動機

〇 放送大学で学ぶ目的

 などが各自から熱心に語られ、仲間意識が醸造された段階で、本題に
入っていった。

 グループ・ディスカッションで与えられた課題は・・・

「川をテーマにして自由に絵を描いて行くもの」で、私は、川を中央に
配置して描き、川の左右両側にリバーサイド的に自分の現在に至るまで
の人生を描いた。

 そして、川上に向かって、人生の奥深くに何かを感じ取って行くもの
として、茫洋と・文学界を目指す自分の姿を描いてみた。

 その具現化は、テキスト中の掲載記事「シリル・フールの考え方」に
出会ったことから「成人の学習の3つのタイプ」を参考にして・・・
(ここでのテキストとは「生涯学習と自己実現」を指す)

〇 一つ目の「目標志向型」の学びの具現化として、川をテーマにして
描いたところの上流に向かって自分の人生の奥深くに例えば生かされて
百寿に的を置いて、そこに向けて 「吊り橋のワイヤーケーブル」 を
イメージ的に張り渡す。

〇 そのためには、今までの人生を振り返ることも含めて、二つ目の
「学習志向型」の学びとして、知識の獲得自体に意味を見出して放送
大学で学び続ける。

〇 この具現化のためには、現在、専攻している「心理学」を卒業した
 ら、次の学びとしては「人間学」に専攻を移して、文学面からの学び
 に軸を移す。

〇 三つ目の「活動志向型」の学びとしては学習活動の中から、何かを
 得ようとする目的で実際的に小説を一作品毎に丁寧に書き上げて行き、
 これを橋脚として配備して行く。

 そして、日々の小説の原案の書き連ねは一枚一枚を踏板として近未来
に向けて張り出して行く。

 総論の部で学んだように「老いてなお文筆活動は可能である」と論じ
ており現実的に「一生涯学生作家」としての願望は、こうして、視野に
入って来たと云える。

 現に、小説の第一作目は書き上げて、某出版社の作品公募に応募して
最終審査まで残り、大賞受賞こそ逃したものの、完成度が高い作品とし
て実費出版を勧められた。

 こうして、一番目の橋脚は完成、今回の経験を踏まえて、今、二作目
の小説を手掛けている。

 さてグループ・ディスカッションであるが「川をテーマにした作品」
をそれぞれに描き上げて、グループ内で、お互いの作品を見せ合って、
それぞれの思いを皆さんに紹介して意見交流を重ねた。

 グループ・ディスカッションにおいて面白いと感じたことは・・・

〇 メンバーの四人の中で、三人が、船に乗って、川から海に出る絵を
 描いていた。

〇 そして、私だけが、川を上流に向かって船を進め、川幅が狭まって
 船を進めることがことが出来ない場所からは、源流に向かって吊り橋
 を架け、さらに、上流に向って前進する絵を描いていた。

 ここで、私は、人には、それぞれの思いがあって、面白いなと思いな
がらも・・・

 自らの発想に対して「吊り橋理論」と云う命名をさせていただいた。

 あれから15年間が経過して、最近は星空文庫に出会ったこともあり
インターネットの世界で、当時の夢を 「一生涯学生作家として小説を
書き・俳句を詠むという文学」の世界で日々の生活を過ごしている。

 これは、まさに「グループ・ディスカッションで語ったことを具現化
できたということであり」その夢を具体的に絵にするキッカケを与えて
下さった西原講師には感謝・多謝である。

・・・・・・・・・・・・・・・・

 その後、アウトルックのメール機能の不具合が起こり、修復のための
マニュアル類などを探している過程で、当時の学習ノート「生涯学習と
自己実現」を見付けて頁を開いたところ・・・

〇 当時の対面授業が、2006年(平成18年)であり、定年後4年
 を経過した時期であり、今から15年も前であることを思い出した。

〇 受講後はレポートを提出することが課せられており、レポートへの
 記述の内容は省略するが講師コメントとしては「この調子で頑張って
 ください」と記されており、お茶の水女子大学の 三輪教授の押印が
 確認された。

 そして、私自身、面白いと感じたのは・・・

 学習ノートの末尾に、当時、これぞ「生涯学習と自己実現」と、して
受け留めたと思われる某雑誌からの転載記事を見付けて、受講後のこと
を懐かしく思い出した。
(参考までに、次に掲載する)

【茶の湯のこころ】を語る
 小堀宗慶(遠州茶道宗家12世)前家本 1923生まれ

「茶事では、お客さま、と、亭主のこころが、物を通して通いあうこと
が大事」

「若いときには若いときなりの、年齢を重ねてからは、それなりのお茶
の在り方がある」

 ときどき「お茶とはなんですか?」と聞かれることがある。
 この質問に「お茶とは私です」と答えることにしています。

 その人の修練の積み重ねから、生まれる工夫やこころが、そのお茶に
表れる。私のお茶は、そのようにして、お茶とともに生きてきた私自身
であると思うのです。

 まさに「生涯学習と自己実現」を茶道を通じて端的に表している言葉
ではないだろうか?



007 オンライン授業の開始

 放送大学では、2021年度:第1学期のオンライン授業を4月5日
から公開開始したので早速「お試しの心づもり」で取り組んでみた。

 先ず 「心理と教育」 専攻における卒業研究の際(2007年)に
お世話になった岩永教授が、本年度に放送大学の学長に就任されたこと
を、このオンライン授業の最初の回で知ることになり、この場をお借り
して祝辞を申し上げたい。

「おめでとうございます」

 さて、該当のオンライン授業については、興味津々で受講したがなか
なかにエキサイティングな創りになっていて私には「適合性がある」と
感じた。

 講座の10分程度を聴いてすぐにお試しテストがあって恐る恐る回答
してみたが結果は4問中で4問正解であった。次のテストでは4問中で
即答の出来ない問いがひとつあった。

 はじめの内は、講座は1回きり聴けないと思い込んでいたが、その様
なことはないだろうと考えて、講座を2回聴いてから回答した。
(4問正解だった)。

 この繰り返しで講座毎のテストでは全問「正解」を繰り返して、少し
自信が持てた。次に、第1回目のまとめのテストに臨んだ。通算で全問
正解を目論んでいたが、まとめの総合テストでは、3勝1敗の苦渋を味
わうことになった。

 案外、勝気な私は、最終のおさらいノートを熟読しながら、間違った
1問がおさらいノートの振り返りによって「正解に辿り着けるか?」と
検証してみた・・・

 結果的には読書百遍を繰り返しても、私には正解には到らないという
自己診断に到った。

 ところで新型コロナ禍の中で、私の様な後期高齢期にあっては、オン
ライン授業も魅力的な授業と受け止めたが練馬在住の孫の様にせっかく
学習院の大学に合格しながら、オンライン授業のみと云うのも気の毒な
思いがしてきた。

 それというのも今回の「生涯学習を考える」の1回目の授業で・・・

「ヒトは生きるための最少限の知能を持って生まれ人との交流を重ねる
過程で社会化を果たして行くものだ」と学んだ。

「ヒトは、人と人との間で交流を経験して、社会化を積み重ね、人間に
成って行く」というのである。

 であれば、せっかく学習院という大学に入学したのであれば、キャン
パスに通うことで教授陣や学友と語り合い・交流を重ねることで人間と
しての成熟を果たしながら、社会化を果たして行くのではないか?

 たしかに、オンライン授業で、知識は学べるが、画面を介しての学び
なので、そこに、教授陣の息遣いや血流の様なものは感じ取れず「AI」
から学ぶのと同じような感覚を持つに到るのではないか?

 はたして、そこに魂のやり取りはあるのか?
(これについては、二元論者的な発想を、否定出来ないが)

 このままでは学習院という大学を志願して受験を介して入学、生身の
教授陣や多くの学生仲間や、先輩・後輩との交流など、人間的な交流を
介しての「社会化の実体験」を時間的な経過と共にドンドン失って行く
ことになるのではないか?

 その様に考えると・・・

「ヒトは人との交流を介して社会化して行く過程で人間に成って行く」
「ましてや、学生生活や社会人としての人間同士の触れ合いが最重要と
考えてきた日本の教育風土において、オンライン授業一辺倒には欠点が
あると考える」


008 オンライン授業におけるレポートの提出

 放送大学のオンライン授業「生涯学習を考える」を受講して第1~3
単元まで進捗、だいぶ学びのスタイルが把握出来てきた。第1単元に続
けて、第2単元でもまとめのテストでは、4問中:3勝1敗であったの
で少し考えてみた。

 目安としては、3勝1敗で良しとしてきたが、なにせ物事の実行には
必ずバラツキというものが付いてくる。バラツキで更にひとつ間違えれ
ば2勝2敗となり、百点満点であれば50点の出来ということになる。

 あまり、プライドを気にしない私でも、50点の出来には悔いが残る。
それに、四つの問いが私にはテニスの試合における得点(ポイント)に
見えてきた。テニスゲームでは4ポイントを取れば、1ゲーム奪える。

 頑張って3ポイントとっても、4ポイント取らなければゼロポイント
と同じである。この4ポイント目の取得がなかなか難しいのだ。

 私は企業人として管理工学の世界で飯を喰ってきて「習熟性理論」と
いう考え方に、随分とお世話になって来た。これを、簡単に説明すれば
物事の実行を繰り返した時に、1回目よりも2回目3回目と急速に上達
する。世の中で三度目の正直と云うが、三度目でだいたい自分の力量が
掴める。

 テニスの試合でも、お互いに3ポイント取ればあるいは3ポイントを
失えば相手の得手や不得手も大方は把握出来てしまうので、ここからの
挽回は可能であり、ゼロポイントでも、ここから3ポイント連取すれば
ジュースに持ち込んで逆転も可能となる。

 お互いに、4ポイント目の勝負のときには、お互いに習熟、お互いに
簡単にはポイントを譲れない状態になっており、3ポイントを取っても
安心出来ないのがテニスだ。

 それを考えると、4問に対して3勝1敗で良しとするのは、ただただ
粘りが足りないと云うことになってくる。そこで第3単元の回答の段階
で考えた。

「4問を、全問正解するにはどうしたら良いか?」

 しかも、出題者は、岩永教授(放送大学学長)である。

 私の記憶が確かなら、岩永教授は東京大学経済学部卒業後、同大学院
教育学研究科で博士課程を修得されて、満期退学後はメディア教育開発
センターに在籍、その後は開発センターが独立法人合理化計画によって
廃止されて、その業務が放送大学学園に移管されてからは放送大学教養
学部の助教授を経て教授となり2021年から放送大学学長に就任され
ている。

 主に、高等教育・生涯学習・才能教育を研究されており、私が「心理
と教育」専攻で、卒業研究についてのご指導をいただいているときには
東京足立学習センターの所長を努めておられた。

 現在、展開されているオンライン授業も、メディア教育開発センター
の時代に多様なメディアを高度に活用して行う、教育事業を文部科学省
所管の独立行政法人として行なっていたことを考えれば当然の帰結とも
推測出来る。

 その岩永教授が出題する「4問」とのガチンコ勝負は、戦略と戦術を
練りに練って対面しないと、4問(全問)正解して、1ゲームをゲット
することは簡単ではないなと考えて作戦を練った。

 既に、第1単元・第2単元ともに3勝1敗で1ゲームも取れていない
ことになる。

 要は、答えは「◯の筈」「×の筈」といったレベルの、こちらからの
一方的な見立てでは正解は得られないことが分かった。

 それではと、徒然草の名人といわれる人の記述に、ヒントを見出して
「負けない手立て」を考え出して、思考法を練りに練った。

 ポイントは出題者が回答者に向けて注いでいる視点がどこにあるか?
を探り出して妥協せずに他に答えは「なし」と云うレベルまで考え抜く
ことがポイントと気付いた。

 結果、第3単元・第4単元共に「全問正解」に達した。この分野でも
習熟性理論は充分に活用出来る分野であることが分かり、なか・なかに
面白い体験・経験をした。

 次に、レポート問題と云う出題があり、設問に沿って、400字以内
にまとめるのだが文章が膨れ気味となり、400字という貴重な紙面の
使い方に脳内が活性化した。

 ここまで文章を絞り込むと対面交流などで対談などを行った時に文面
から溢れた出た文字が対話を活性化させることになる? のではないか
と推測した。
(おそらく回答文の5倍以上の文字が場外に弾き出されている)

 それでは実際のレポート(400字以内)を紹介することにしよう。


【第1単元のレポート】

「生涯学習を考える」を学ぶ動機と目的

【背 景】
かつて、放送大学において心理と教育を専攻、
卒業研究では生涯学習について探求、その時
の知見を生かして、次には人間と文化を専攻、
現在、一生涯学生作家の道を歩み始めており、
星空文庫に万田竜人のペンネームで作品群を
掲載している(http://slib.net/a/4264/)
ここでの肝は、吊り橋理論として、放送大学
で学び続けながら作品を書き続けている。
【問題発生と解決のための方向付け】
しかし新型コロナ禍の影響で面接授業を三期
連続で欠講、大学の継続か否かを真剣に考え、
オンライン授業の存在に光明を見出した。
【動機と目的としての起死回生策】
(1)オンライン授業であれば高齢であっても
生かされて百寿まで自宅で学び続けられる
(2)生涯学習についても新しい知見を加える
ことで作家生活の再構築を図れると考えた。


【第4単元のレポート】

Q:子供の学習との相違に触れた上で、成人
が学習する意義(400字以内で回答)

A1:子供の学習と成人の学習の相違
日本では国民として生活できるための知識や
技能・規範などが修得できる様に義務教育化
が図られている。しかし子供の頃は当たり前
という意識で小・中学校で熱心に学習に取り
組んできたが中3の適性検査で工業・商業・
文学系のいずれにも適正有りと知らされた。
親戚筋の平井晩村に憧れていた私は文学面に
興味があったが、父親からは福沢諭吉の学問
のすゝめを踏まえて、喰って行くためにはと
工業系を勧められ成就、その経験から・・・
□子供の学習には:親などの支援が不可欠
□成人の学習には:自らの決断と準備が重要
□ここに両者の相違点があると考える
A2:成人が学習する意義
一般論として頭も身体も使わなければ錆びる
経験論としては、企業人後半は管理職の学習
定年後は、文学系で能力伸長の可能性を知り
そこに意義を感じて、人間学を学習、小説家
そして俳人を日々の生き甲斐としている。

 ここまで記述してオンライン授業は私には適合した授業と感じた。
(生身の教授や同窓生との魂の触れ合いがないのは残念だが)



009 どっちともとれる微妙な試験問題にウンザリ

 放送大学のオンライン授業を始める前に、コロナウイルスのワクチン
注射の予約にチャレンジすることにした。
(予約開始は午前8時30分から)

 予め、インターネットにおける予約システムを、リサーチしておいた。
ログインまでの入力方法などが放送大学のオンライン授業における入場
方式に似ているので、ワクチン注射の予約券番号やログインパスワード
などを明確にしておいた。

 前日の夕方、NTTからのテレビ放映で全国一斉に高齢者のワクチン
予約が始まるため、5月10日(月曜日)午前8時30分からは電話が
混雑して救急医療などに影響が出る恐れがあり通信制限があると聞いて
いたので、電話予約は難しいと判断した。

 それでも、電話での予約は、家内が応援してくれることになったので、
電話による予約は家内にお願いして、私は、インターネットでの予約に
専念することにした。

 さて、午前8時30分となったが入力画面が、まだ調整中との表示が
あり待機することにした。やがて、調整中の文字が消えてクリックする
とサイトに入って行く気配があり、しばらく待つと「入力画面」が登場
券番号とパスワードを入力した。

 その後、順次、ガイダンスに沿って入力を進め、希望するクリニック
にての予約が完了した。一方で、電話による予約はなかなかつながらず
私がインターネット予約を完了する直前においても、コールセンターに
電話がつながることはなかった。

 当日は、午前中に地元の市営コートでのテニス練習が予定されていた
ので練習仲間には、当日、ワクチン予約があるので少し遅れるかもしれ
ないと、メールしておいたが予定時刻に間に合った。

 しかし、テニス練習が始まってから女性陣の二人の仲間からそれぞれ
の旦那さんが、出掛け前にまだワクチン予約が取れていない状況だった
との話が寄せられた。

 Sさんの旦那さんは、電話を掛け続けていたが、コールセンターには
つながらない状態が続いていたという。Tさんの処は、インターネット
予約に取り組んでみたがログインできて手順通り進めたものの、途中で
停滞して初期画面に戻る状態を繰り返していて、出掛け時もその状態が
続いていたという。

 私の場合は、放送大学のオンライン授業で・・・

 ログインから始まるインターネット対応は、日々、繰り返して慣れて
いるために、スムーズに展開できたが、日常的に世の中との窓を開けて
おくことの重要性を痛感した。

 さて、そのオンライン授業 「生涯学習を考える」 だが、まとめの
テストにおける全問(4問)正解にチャレンジしてきたが、第6単元で
思いがけず、3勝1敗の苦杯を味わうことになった。

 具体的な設問は開示出来ないがテニスゲームに例えれば思わずビデオ
判定を申請する様な 「〇か? ×か?」どっちともとれる微妙な設問
であった。

 第6単元までに4ゲーム取得を目論んでいたが、現在3対3ゲームで
均衡状態であり、6ゲームを先取してテニス流の表現をすれば1セット
をゲットするまでには険しい道のりになりそうな気配だ。

 さて、これから第7単元に取り組むことになるが、現段階でまとめの
テストには少々嫌気がさしてきたことから末尾のレポートを先行させる
ことで、気持ちを引き締めることにした。

第7単元のレポート

今回の講義を踏まえ、近隣の社会教育施設の
活用についてあなたの考えを400字以内で
述べて下さい。

【レポート】
私にとって入間市(在住)の社会教育施設は
必要不可欠なものであり私自身、同好会など
の世話人として役立ちたいと考えている。
(身近な三つの事例を次に示すこととする)
1.市営テニスコートにおける同好会活動
最初は32歳の時に入間市のテニス協会主催
の初級テニス・スクールに参加された市民が
中心となって結成した同好会に私はまとめ役
として招かれて参画、以来47年が経過して
おり最初は勤労青年団体としてコートの優遇
措置を受けてきたが最近はシニアの同好会に
シフトして現在に到っている。
2.近隣の公民館における俳句の同好会活動
早稲田カレッジで俳句講座に学び地元公民館
の句会で作句を重ね、現在はインターネット
句会で世話人を努めている(句歴25年超)
3.市営体育館における卓球同好会の活動
最近、超高齢スポーツに向けて市営体育館で
卓球同好会を立ち上げ世話人を努めている。


010 山のあなたの空遠き想い出

 埼玉県知事による強い意志も働いて、変異株によるコロナウイルスの
猛威に向けた、まん延防止策の徹底により、日々、飼い犬と通っていた
彩の森入間公園の駐車場が入場禁止となった。

 飼い犬を自動車に載せて、彩の森入間公園に行くことをルーティンに
していたので少々困惑した。

 昨年も、コロナ対策による駐車場の閉鎖があって、飼い犬を自転車の
後ろ籠に乗せて通ったが、最近、自転車のサドルが股間に当たって慢性
前立腺炎を引き起こす恐れがあることが分かり、今回は少しばかり躊躇
することとなった。

 そこで緊急対策として、同じく近郊の富士見公園の駐車場まで飼い犬
を運び、そこから新しい散策のコースを探すことにした。ここからなら
彩の森入間公園への散策による、飼い犬との散歩道も模索出来る。

 富士見公園の駐車場で飼い犬に散歩の支度をさせて歩き出すと公園前
の野仲さんの音楽教室では、生徒への案内看板に、コロナ対策の徹底が
明示されていた。

 音楽家の野仲さんとの面識は、入間市において生涯学習に熱心に取り
組んでいる方の取材の際に、お世話になったのだが、その時には、まだ、
富士見公園前にはお住いではなかった。

 あの時は私が放送大学で専攻した「心理と教育」の卒業研究に際して、
今後のテーマとして自分が住んでいる入間市において生涯学習をテーマ
にして、地域で役立つことを文末で約束したこともあり・・・

「入間市役所に出向いてなにか役立つ事があるか?」と、問うたところ、
入間市広報で年間2回、生涯学習で活躍されている方々の取材の仕事が
紹介されて、具体的な生涯学習の広報記事として、音楽家の野仲さんの
取材を任された。

 そして、私自身、音楽家の野仲さんの取材がきっかけとなって、文筆
活動を本格化させ星空文庫でのデビューにつながって行った。

 その取材の過程において音楽家ご夫妻がご自分たちの手造りによって、
群馬県の山間部に音楽堂を建設された経緯をパンフレットに綴っておら
れて、音楽ファンに配られていた特集記事を拝見させていただいた。

 私も、そのコピーをいただいて大いなる興味をそそられて、そのパン
フレットを下地にして「ミュージカル風にアレンジしたら面白いか?」
と考えて、早速、執筆してみたことがある。

 早や、8年前のことになるが、その時には音楽家の野仲さんが富士見
公園前に自宅(兼)音楽教室を建設することなど想像もしていなかった
ことである。

 まさに「光陰矢の如し」時代は、確実に走っているのだ、そのような
遠い思い出にしたりながらも、当時の音楽家ご夫妻の音楽堂の建設経過
をミュージカル風に仕立ててみた文面を想い出して取り寄せてみた。


【音楽家ご夫妻の冒険の始まり】
        
~ そこにはスイスを思わせる風景があった ~

 早朝に目覚めた音楽家W氏は、新聞の朝刊に折り込まれていた土地の
売り出し広告を見て 「こんなに安い土地があるのか?」と、驚き半信
半疑のままで、まだ、ベッドで寝ている奥様を揺り起して声をかけると
「きっと山奥の辺鄙なところよ」という答えが返ってきて、一瞬、冷静
になって考え直した。

 しかし、独りキッチンの椅子に座って考えているうちに・・・

「一度、現地を見てみたい」と、いう気持ちが膨らんできて、もう一度、
広告に目を通し、ここならば車で行けると思いレンタカーを借りること
を考えた。
(実は、交通事故で愛車を廃車にしてしまった直後のことであった)

「自分たちの音楽堂を建てたいという夢を抱き続けていた」ので、広告
の土地の値段が本当ならば「その夢が叶うかもしれない」と思うと居て
も立ってもいられず・・・

「車をレンタルして現地に向かいながら」 はやる気持ちは抑えがたい。

 10月中旬のドライブは、紅葉も間近い風景で、天気も晴天・・・

 渋川伊香保インターで高速道路を下りて、そこからは、奥様が地図を
見ながらの案内役で、やがて目指す「高山」の看板が目に入り、快適な
道路を道沿いに登って行くと風景が広がってきて「スイスを思わせる」
ような見事な風景の場所に辿り着いた。

 土地の広告チラシを見て、場所を確認する、と、斜面の高いところに
該当の土地が見つかった。そこには、広告に示されている 200坪の
土地があった。ここならば音楽堂を建てるには絶好の場所であり音楽堂
の完成した姿がイメージ出来た。

 土地の購入は、ご夫妻で揃って「その日の内に現地で決めた」という。
しかし土地の購入はしたものの建設資金はまだ用意出来ていない状態で
あった。それでもW氏は現地で頭の中に描いた「音楽堂のイメージ」を
設計図として形にする欲求を抑えきれず音楽堂と住居を一体にした図面
を書き始め「何枚も・何十枚も・次々と書上げて行った」と云う。

 ご主人は、現在は音楽家でありオペラ歌手であるが、元々は機械製図
が専門であったこともあり、図面を書くことは得意であったので夢見る
ように図面を書き上げて行ったのだという。

 その後も、W氏の音楽堂への思いは加速するばかりで・・・

 かつて、アメリカの本屋で買い込んだ「マイホーム建設のすべて」を、
建築設計のバイブル(聖書)のようにして建築設計を細部まで掘り下げ
て行った。元々ご夫妻で音楽堂への夢を語り合っていた二人はアメリカ
の本屋でこの本を目にしたときには、ご夫妻で、即、目の前の本を買う
ことを決めたのだという。

 そのようなご夫妻が土地を取得した、今「気持ちが加速すること」は
当然の成り行きと云える。

 比較的、早起きが好きな、ご主人は朝から、この建築設計のバイブル
を読みふけり、着々と建築の知識を深めて行く。

 奥様はと云えば 「そんなに早い時間帯は、まだ熟睡状態」である。

 都市部においては 「一般人による建築設計は許されていない」が
「無指定地域の山林での設計は一般人にも可能である」ので、現在は
オペラ歌手として活躍しているものの、元々はといえば機械設計製図
が専門であったこともあり建築設計のバイブルを読み進むうちに建築
における学びの世界は、やがて「ツーバイフォーの建築を学び取る」
段階に発展して行くことになる。

 そして「習うより慣れろ」をモットーにして自己設計を開始する。
自己設計における強みは、好きなように設計変更できるということ
である。

 そばで見ていた奥様も・・・

「何度も、自分で気に入るまで、設計図を書き直して行く」ご主人
の熱意には頭が下がる思いであったと云う。

 そのようにして「出来上がった建築設計図をツーバイフォー協会
の会長に送付」して、基準に合致しているかどうか確認したところ
「設計基準への合致」が確認された。

 高山に、土地を購入してからあっという間に10ケ月が経過した。
高山と云う地名は全国にあるが、ここ高山は、群馬県にある山村の
地名としてもよく知られている場所である。

 W氏が「自分の素手で音楽堂を建設する」と云いだしたときには、
さすがに奥様も驚いたと云う。すぐに行動を起こす性格のご主人は
現地に出掛けると整地から始めた。

「シャベルを握り15分間地面を掘っては5分間休む」これを繰り
返しているうちに 「5分間掘り、15分間休む」というペースに
変わってくる。

 都会暮らしの生活で、これといった運動もせずに、近所にも車で
出掛け、スポーツの趣味もなく、体力が持つ訳がない。
(たちまちギブアップ状態である)

 我が家に辿り着くとどちらからということでもなく、夫妻の間で
作戦会議が始まる。先ずは都内のマンションから高山まで約130
キロの行き帰りの問題が難題である。日常的な職業人として、音楽
活動が優先するので、建設作業は週末限定となる。

 その度に車での移動となるが一般道を通うことで高速料金は節約
できる。しかし、週末ごとのホテル代は、相当の負担になってくる。
しばらくして、ご主人のアイデアでテント暮らしが提案される。

 一瞬、奥様は、仰天するものの「それが一番か?」と、思い同意
する。早速、ホームセンターに出掛け部屋が二つに区切られている
テントを購入してきて、マンションで広げてみると「これなら二人
で暮らして行けそう」と云うことになり、高山におけるテントの中
での生活スタイルを二人で相談する。

 次に、土地の整地と土木作業については本格的な建設用の重機を
使うことを計画する。一般的には「ユンボ」と云われている整地用
の重機を使うことにする。リース店で二番目に小さい機械を借りる
ことにした。

「奥様にも操作できる」ということで30分間にわたり操作方法を
教わる。実際に、両手で操作をしてみる。

 いつもの、ピアノを弾くときとは訳が違う。いくぶん怖いという
気持ちが先行するが 「危ないと思ったら、手を放せば大丈夫」と
教わり、それなら、少しは安心かと考えて練習を繰り返した。
(さて、次は、高山での現地作業が待っている)


【音楽家ご夫妻の負けない勇気】

 ~自然環境の中で、お二人の活躍の舞台は、第八幕まである~

 この舞台における活躍ぶりを、オペラ(歌劇)風に仕上げることが
出来たとしたら、本場イタリアはもちろん世界のどこの劇場で演じら
れているオペラよりも、ダイナミックかつ不屈の闘志で、その偉業に
取り組んだ姿には鳴りやむことのない拍手で場内は総立ちになること
だろうと想像する。

【序 幕】

 音楽家ご夫妻は週末になって準備した建設用の機材を車に積み込み
群馬県の高山に向けて発進する。現地入りするとすぐに手筈通り先ず
はテント張りから着手。寝室用の部屋には手作りのベッドを持ち込み
床にはじゅうたんを敷き詰めて完了である。

 隣のリビングの部屋には、二人で座れる目線が低目の椅子とテレビ
を配置する。さらに、食器棚などを配置して食事をする場所も確保出
来た。これで高山に我が家のベースキャンプ(前線基地)が出来た。

 このベースキャンプのおかげで、音楽家ご夫妻は夏から冬にかけて
約5か月間を過ごすことが出来たと云う。まさに、雨風や寒さから身
を守ってくれたテントに感謝である。


011 【第一幕】

 テント生活における週末の朝は早く鳥が唄い目覚まし時計の代わりと
なって目覚めれば、新鮮な空気が爽やかな朝を届けてくれる。東京都内
の暮らしで窓からの日照時間の少ないマンション暮らしの朝とは比べよ
うもない快適さである。

 朝食をとりながら遠くの山々を眺め青空に思いを馳せて「さあ、今日
も頑張ろう」と、忙しい一日が始まる。

 想像もしていなかった建設重機 「ユンボ」を操縦して、先ず車庫の
基礎部分を3日間で整地した。これで、雨が降っても週末の車の出入り
が容易になる。

 整地作業に区切りがついて昼食時間にテントに戻ると、目にも入らぬ
素早さで何者かが外に走り抜けて行く。

「タヌキ?」かと思いながらキッチンに入って行くと昼食用に用意して
おいたカレー皿に小さな足跡が残っていた。

 テント生活も秋を過ぎる、と、すぐに冬が訪れてきて、夜などは冷え
込んでくるので、建設作業の疲れを癒すことも兼ねて、近くの温泉場に
出掛ける。

 すっかり、温まった身体で我が家に帰り、夕食の準備に取りかかると
テントの中に設えた食器棚の上に子猫が乗っていて、こちらのやること
をじっと見ている。テントにも、鍵はついているが、森の仲間(動物)
たちには出入り自由になっているので、興味津々で入り込んで、帰りを
待っていたようである。

 動物好きのW氏は、子猫のことがすっかり気に入って、ご飯を食べさ
せてから森に放してやったと云う。

 翌朝は、W氏の建設作業の音で夫人は目を覚ました。早起きのご主人
は一生懸命に基礎枠を運んでいる。今日は、いよいよ土木工事の始まり
である。

 朝食が済むと夫人も通称「ネコ車」という単車を手にして、砕石や砂
などの土木用の材料の運搬をする。

 今更「箸より重いものは持ったことがない」などとは云ってられない
状況なので、吹き出す汗を拭いながら、怪我をしないようにと気を付け
つつも、一生懸命に砕石と砂を運ぶ。

 生コン車が到着すると、ますます忙しくなる。生コン車から流れ出る
セメントをネコ車に積み込み基礎枠まで運ぶ。両腕で、しっかりと固定
するものの、セメントは思ったよりも重みがありネコ車が横揺れする。

 左右のバランスをとりながら足を踏ん張り前に進む。それを見ていた
生コンの運転手さんが気をきかせてセメントの量を減らす。

「もう少し大丈夫よ」と、いって強がりを云うがネコ車のほうが正直で
横倒しになってセメントが地面に散乱する。このときに夫人は、咄嗟に
自転車の練習をしていて初めて転んだときのことを思い出したという。

 今、汗まみれになって施工している土木工事が一番目の大仕事である。
この仕事は二つの工事で構成されいる。一つ目は山林部などの周囲から
流れてくる水が敷地内に入らないようにするためのブロック工事である。

 二つ目は、敷地内に降った雨などを地下に逃がし、同時に、外部から
の水が地下水となって湧き出した場合にも対応できるよう排水パイプを
地下に埋め込む工事である。

 敷地は、奥行22メートルの間に高低差が5メートルあるので、現状
では雨になると、山林から流れてくる水は、敷地内を一気に駆け抜ける。
ここの土地は赤土で水分さえ含まなければ硬い土である。

 したがって、山林からの水の流入を止めてやれば、土砂崩れは防げる。
その具体策としては、重量ブロックで敷地を囲み、水の流入を防ぐよう
にする。

 重量ブロックは、セメントで固めて頑丈な造りにした。セメント工事
はなかなかに難しい作業で、夏の暑さの中ではどんどん固まってしまう
ため、気持ちがあせるなか暑さで足元がフラフラしていたためか、後で
見たら西側のブロックが蛇行していた。

 土木工事による基礎工事は完了してしまえば、目には見えないところ
だが、実は一番たいせつなところと、教わったので、大いに反省すると
ころとなった。

 排水用のパイプは本数を多目にして、4本を地下2メートルの位置に
埋め込んだので、雨水の排水対策は、これで完璧な仕上がりとなった。


012 【第二幕】

 敷地内の整地と排水対策が終わって、いよいよ家の土台をのせる基礎
工事である。これが二番目の大仕事である。

 先ず家の土台が載ってくる場所を決めて杭を打ち込む。そして、鉄筋
を張って行く。鉄筋は縦横に組んで行く。このときに、セメントを軽く
流し込んで固めて行くのだがなかなかタイミングが難しくて、なかなか
にじれったい。

 組んだ鉄筋が倒れないように横から角材で支えて行く。そして、その
鉄筋を囲むようにして型枠で固定する。型枠は通常は15cm幅である
が、今回は頑丈さを狙って、25cm幅で仕上げることにした。

 このとき、最初の段階で直線部分が曲ってしまい、それを補うために
厚めの25cm幅にしたこともその理由のひとつである。今日は型枠の
中に実際にセメントを注入する日である。前夜には手作りの木製の型枠
を念入りにチェックしておいた。

 今朝も、何度も手で揺らしてみたが大丈夫、朝一番で生コン車が到着
してセメントの型枠への注入が始まる。生コン車からのセメントが型枠
の中に、どんどん流れ込んで行く。

 その時である、私の足元に、位置する型枠を支える斜めの角材がほん
の少しだが動いた。とっさに手で支えるがものすごい勢いで流れてくる
セメントに、型枠が弾き飛ばされて、あっという間に外れた型枠の部分
から生コンが溢れ出してきた。

 二人で、呆然としていると、生コン車の運転手さんが、咄嗟に生コン
の流れを止める操作をして下さって、その場はなんとか収まった。

 その晩はさすがに、二人とも疲れ果てた。夫人は、夜中に生コン暴走
の夢をみて恐怖で目を覚ましたと云う。そうこうしている内に、今度は
台風の襲来である。週末になってT山に行くと・・・

 先ず目に入ったのは村のあちこちで強風になぎ倒されたとうもろこし
の姿であった。

 ご夫妻は心配しながら基礎工事の現場に着くと多くの鉄筋が将棋倒し
になっていた。やり直しほど億劫な作業はないが二人で気を取り直して
鉄筋を元通りに修復させた。

 前回のセメント注入時の失敗もあるので二人で相談して、一応、万全
の体制を整えたつもりであるが不安もある。一方で「今度こそ」という
気持ちで生コン車を待っていると、二人の目の前に生コン車が到着した。
(約束した朝一番の8時半である)

 生コン車を目にすると、前回「セメント暴走の失敗」を経験している
ので二人の間に緊張感が走る。今日は、長靴とビニール手袋、セメント
を突っつくための長い木の棒と仕上がりを平にするコテなど準備は万端
に整えての生コン車の出迎えである。

 緊張しすぎても良くないと考えて少し肩の力を抜くことにする。

 生コン作業の場合は、通常、生コンを型枠に直接入れて行くポンプ車
の方が便利だが、費用が割高になるので、今回は生コン車のシュートを
使って型枠の一箇所に流し入れ、そこから先は角材や木の棒で掻き出し
型枠全体にセメントを行き渡らせる方法をとっているので、セメントを
泳がせる手間が余分に必要となる。

 生コンを一掻き、二掻き、そして三掻きと、セメントを泳がせて行く
動作は、全身でボートを漕ぐ感覚に近い。
(セメントが腕やシャツに飛び散り顔にも跳ね返ってくる)

 ビニールの手袋にも、セメントが入ってきて、気付くと手のまわりは
セメントまみれ。セメントはどんどん固まって行くので手を洗っている
時間はない。まさに土木工事は体力勝負である。

 生コン車の運転手さんも見かねて 「少し休もうか」と、声をかけて
くれる事態となる。それまでの間、休むことなく作業を続けていたので
もはや体力の限界を感じる。

 生コン車は、毎朝、定刻の8時半に来て午後には帰って行くが、時折、
夕方になることもある。当然、二人作業で処理できる量には限界がある
ので、日々の作業量は決めておいて「所定の目標を達成する」と、近く
の温泉に出掛けて疲労困憊した我が身を癒す。
(温泉に入っているときに、W氏は考えた)

「生コン車に取り付けてあるシュートは、長さがせいぜい2メートル」
「この長さだと、セメントが流れてきても、型枠までは届かないことが
多い 『そうだ流しそうめん』だ」と、アイデアがひらめいて、波型の
プラスチック板に、ほどよく丸みを持たせて曲げ角材で周りを補強する
こと」を、考えた。

 これに、角材で足を取り付ければ「自前のシューター」が完成である。

 これを幾つか作って、つなぎ合わせれば、長さは自在に伸ばせるので
きっと上手い作業に辿り着ける。このようにして、シューターの準備を
済ませて、後は、生コン車の到着を待つばかりとなった。本日の生コン
注入は、型枠まで約8メートルの場所である。

 生コンが、シューターをどろどろとゆっくり流れて行く。

 生コン車の運転手さんも、セメントに水をかけて流れを助けてくれて、
これで大成功と思った瞬間のことであった・・・

「手作りのシューターは、セメントの重さとカーブに差し掛かる遠心力
であえなく横倒しになってしまった」

 無残にも、セメントは、大地に山盛りとなり惨敗という結果となった。
ここで考えていても始まらないので、元の方法に戻し手間はかかったが、
自分たちの身体と相談しながらなんとか生コン作業を完了させた。


【ハプニング】

 東京育ちの夫人にとっては、高山での体験は兎に角驚くことの連続で
あったと云う。

 ある日のこと玄関の基礎コンクリートにたれかかっている電気コード
を横目で見ながら道具箱の中の金槌に手を伸ばすと、動く筈のない電気
コードがすべるようにうねっている。

 何気なく手に触れたその電気コードは、蛇であったのだ、直径にして
5センチメートルほど、長さは約2メートルもあった。

 今「思い出してもゾっとする」と云う。悲鳴を聞きつけて駆け付けた
W氏は、蛇を木の棒で押さえ付けて退治したという。
 
 ここで、夫人は、音楽家W氏の優しさと勇気と俊敏な行動力に対して、
あらためて、尊敬の念を抱くとともに「大いに頼りになる存在感である」
ことを再認識したと云う。



013 【第三幕】

 さて、土木作業も、三番目の大仕事に取りかかる。

 鉄の型枠(300個)を、お城の石垣のように積み上げて行く作業で
ある。それも重さが、1個で30キロもある。重量物を取り扱う終盤の
最も難しい土木工事と覚悟を決めて取り組むことにする。

 音楽家ご夫妻が購入した土地は斜面の高い場所に位置する約200坪
の広さである。奥行22メートルの敷地内の高低差は約5メートルある。
そして敷地の横幅は30メートルもある。

 ひな壇のようになっている敷地内の土砂が崩落しないようにするため
には、敷地手前の斜面に、城壁のような頑丈な構造物を造り込んで行く
必要がある。

 斜面の高さは、約3メートルある。二人にとって簡単には持ち上がら
ないこの鉄板30キロを8段も積み上げるとなると想像を絶する難工事
である。

 この鉄の型枠は、土木業者が現在は使っていないということで無料で
借りたものだけに鉄の型枠は錆びて変形している。そのため、鉄の型枠
どうしを連結するためのクリップも、なかなかスムーズには、型枠の穴
に入らないときている。

 しょうがないので金槌で叩いて嵌め込んで行く。この鉄の型枠の積み
上げも4段から上がたいへんな作業であった。作業する位置がだんだん
と上方に移動して行くので、梯子を使い重量挙げの選手のように、鉄の
型枠を持ち上げて積み上げて行き、クリップで連結して行くのであるが
雨の日などは梯子がすべるので極めて危ない。

 雨の日にはカッパを着て長靴を履き手袋をして梯子に登る。その際に
連結用のクリップはカッパのポケットに入れて蓄えておく。

 二人だけの 「手造り建設」の、噂を聞きつけた業者が、見学に来て
「素人にはとても無理だよ」と、云って、専門業者たちが自分たちへの
発注を盛んに誘ってくる。

 それでもとうとう二人の自力だけで、鉄の型枠300個を積み上げた。
この鉄の型枠は生コンの運転手さんが知り合いの土木業者に声をかけて
無料で借りられるように手配してくれたものである。

 基礎工事の時に手作りの木製の型枠で苦労している私たち夫婦の姿を
みていて親切心が沸いてきたようである。無料で借りた鉄の型枠だけに
その苦労もたいへんであったが無事に難しい作業を終わった状況をみて
我がことのように喜んでくれた。

 建屋の骨格となるツーバーフォーの躯体工事は、業者に任せる必要が
あるので、その前にホームセンターで見つけたアメリカ製の水平測定器
を使って基礎工事の仕上がりの具合を確認した。
(測定器は赤い光が両側に出る仕掛けで日が沈むほど良く見えた)

 測定の結果「基礎の誤差は1cm」であった。ツーバイフォーの躯体
業者が、我が家を訪れて、基礎工事の最終誤差を確認した。

 ツーバイフォー業者は 「これでは工事を請け負えない」と不満顔で、
自分たち業者に与えられている責任ある立場を時間をかけて丁寧に説明
された。

 音楽家ご夫妻は、三日がかりで基礎コンクリートの表面を手直しする
ことになった。手直しをしながら夫人が叫んだ・・・

「ああ手が痛い、これが済めば、来週は東京でリサイタル!」



【音楽家ご夫妻の強靭な意思と推進力】

 ここで 「ついの棲家」 と、して我が家の建設を担っていただいた
棟梁の矢吹さんと音楽家ご夫妻の作業環境を比較して、素人が建設事業
に取り組むことの、通常ではありえないたいへんさに思いを馳せてみる
ことにする。

 昔風の呼び方をすれば、我が家を建設した、Jグループの矢吹さんは、
棟梁を兼ねた大工職である。技術レベルは匠の世界に達しており、その
矢吹さんが、昼夜兼行で、しかも休日返上の連続操業により突貫工事的
に我らの「T&Kのついの棲家Ⅱ」を建ててくれたので、超特急的かつ
上質な仕上がりは当然の結果でもあった。

「厳しい日程でしたが日々の時間を増やすことで良い仕事が出来ました」
という、矢吹さんの言葉が、すべてを云い現わしていると云える。

 一方で音楽家ご夫妻の場合には自分たちの素手で、しかも週末の集中
作業により音楽堂を建てたのであるから、その取り組みは驚異的な奮闘
ぶりと云える。そのたいへんさは想像を絶するものであって、ご夫妻の
建築日記からも週末作業のたいへんさがひしひしと伝わってくる。

 ちなみに、音楽家ご夫妻が、建設のために費やした期間は、約5年間
の歳月に渡る。

「建築現場の高山への東京からの往復距離は、なんと、自家用車の走行
距離で約15万キロメートルを超える」と、云うことからも、そのこと
だけをとっても凄いことである。

 その移動距離のほとんどが、住まいの都内から建築現場の高山への間
の往復に要した移動距離だけであるというから・・・

「その熱意と精神力は鉄人的」であると云える、その他にも建材の運搬
には貸し出し用の軽トラックを自ら運転しているので、更に移動距離は
伸びることになる。

 結果的に「自動車の運転技術は格段に上達した」と云う。そのような
建築現場の環境を思い浮かべながら、ご夫妻による音楽堂の建築日記を
読み込んで行くと味わい深いものがヒシヒシと伝わってくる。

 ただし、私が体験した我が家の建築における施工順序などに照らした
判断から観て、奥様の施工記述には若干わかりにくい記述や前後の工程
の入れ替りなども感じ取れたので、修正が必要と判断した部分は手直を
して物語に整合性をもたせた。


014 【第四幕】

 基礎工事を完了させると、今度は、建材の調達が重要な仕事になって
くる。建材調達のための上海旅行には5回ほど二人で出掛けた。

 これは、冒険旅行と云えるものであった。町の中心にあるホテルから、
建材店のある郊外までは、タクシーで出掛ける。商談は、台湾生まれで
中国語の分かるご主人の役割である。

 商談に疲れはつきものであり商談後の上海における中華料理の美味さ
が二人の疲れを吹き飛ばしてくれる。

建材の約80%は上海で調達した。

 上海で建材を調達すれば、費用は通常価格の約10分の1で済むため
必死になって交渉する。格安なものでは約100分の1の値段で仕入れ
たものもある。中国語が話せれば商談に有利であり、上海語が話せれば
さらに安くなるという不思議な世界である。

 上海で買い求めた建材はコンテナーに積み込んで上海港を出航させた。

 東京港に到着したこれらの建材は、個人輸入のためエックス線による
検査を受けて無事に税関を通過した。シアトルからの外壁材と屋根材は
東京港で税関後に、ご主人が自ら、2トンのロングトラックをレンタル
して自らの運転で高山まで運んだというから鉄人的な冒険家と云える。



015 【第五幕】

 自分たちで施工した基礎工事の上に専門業者によるツーバイフォーの
躯体が乗り、所定の工事が完了すると、ご夫妻に向けて建築工事の作業
が山のように押し寄せてくる。

 しかも、季節は秋、早や11月であるということは急いで外壁を張ら
ないとすぐに冬がやってくる。

 先ずは、躯体の外側に、防水紙(タイベック)を張る。その上に長く
薄い角材(どうぶち)を縦方向に約45cm間隔でビスを使って留めて
行く。そして、その上に強化プラスチック製の外壁材を固定して行く。

 外壁材は上海で見つけたものである。

 この外壁材は、アメリカで、一般的に使われているものであることを
上海で聞きつけてから、アメリカにおける入手先を探し安価で入手出来
るホーム・デポ(家屋用建材の供給センター)が、シアトルにあること
を知って、そこから取り寄せたものである。

 屋根材も、スレート系のものが安価で購入出来ることが分かり一緒に
購入した。屋根材は、絨毯のように、敷くだけで施工できる優れもので、
素人にも簡単に作業が出来るため大いに助かった。

 屋根材を留めるときには釘を使うが、錆びない釘を使ったので雨漏り
の心配はない。外壁材の作業は二人で力を合わせてなんとか完了させて
から、厳しい冬を迎えるというグッド・タイミングであった。
(この時、外の足場に登るとアルミの踏み板が凍結していた)

 そして、太いツララが頭に当たって、思わず驚いた。

 なんとか、厳寒時に、内装の仕事に移れて良かったと安心していると、
目前の工事として待ち構えていたのが、二階への階段造りであった。

 専門業者によるツーバーフォーの躯体工事には、二階への階段造りは
含まれていない仕様になっていた。
(それではと外の足場から二階に廻ればツララの世界が待っている)



016 【第六幕】

 二階への階段に使う材木は、型紙を作って慎重にカットして取り付け
て行き、頑丈な階段が出来上がった。次に待っている仕事は、断熱材の
取り付け作業である。

 グラスウールの断熱材は、安価で手に入るが、素人の手作業では壁の
中をずり落ちてしまうので使うのをやめた。代わって、密度の高い発泡
スチロールの断熱材を使うことにした。
(次の仕事は、石膏ボード張りであった)

 これには「石膏の粉が目にしみて懲りた」と、云う。

 次に、内装の仕上げを壁紙にするかペンキにするかで迷ったが、適材
適所でその都度考えながら施工して行くことにした。天井のペンキ塗り
の時には白い塗料が髪に落ちて困った。

 天井から壁にかけての壁紙張りは、作業が下方向に行くに連れて壁紙
が斜めになって行くのには閉口したと云う。

 床に張るタイルは、上海で買ったものを使った。タイルの場合は材料
が重いが接着剤を使って貼り付けて行けば良いので、一般的には容易な
作業であると云われている。

 しかし、我が家の場合は、ツーバーフォーの躯体工事の直後に降った
大雨で床が微妙に変形しているために、隣り合ったタイルどうしの高さ
を合わせるのに工夫が必要であった。

 フローリング材も上海で買い求めたものだが、こちらは1枚20秒と
いう速さで嵌めて行けたため、爽快感を感じながら、金槌を振り上げる
ことが出来た。

 一目惚れで買ったシャンデリアは中国製である。梱包を開けて説明文
と組立図を手にしながら組み立てたが「なんと、一日がかりの作業」に
なってしまった。

 家の中の戸棚はすべて同じ仕様で仕上げた。

 本棚から始まって・クローゼット・下駄箱・システムキッチンセット
洗面台・飾り棚などすべてを・・・
横幅2メートル40センチ、高さ1メートル20センチ、厚さ2センチ
メートルの両面が白いカラーボードを70枚使って仕上げた。

 扉の数は100枚、全ての扉に取手を取り付けた。

 したがって、我が家の戸棚は皆兄弟である。玄関ドアも上海で買った
ものを取り付けた。これは二人で持ち上げないと、無理なほどの重さが
あり、しかも正確に取り付けないと開閉が出来ないというので、二人で
相談の結果・・・

「あらかじめ金具類は、すべてドア本体に取り付けておく」
「取り付け誤差が出ないように、出来る限りの工夫をして」
ドアを取り付け、無事にスムーズな開閉が確認出来た。

 お洒落な出窓は、10箇所ほど設えた。見本のダンボールの型紙通り
に作業を進めたのだが、材料の切り方に問題があったのか出来上がった
出窓の接合部に、縦に沿って隙間が生じていた。

 そこで思い付いたのがシリコンによる埋め材、結構、上手くいったの
で隙間風はない。

 次いで、家の中の仕上がり具合を二人で総点検することになった。
◯ 素人の失敗は家の隅に集まるようである。
天井・床・壁などすべて隅に隙間が出来ている。

 これを隠してくれるのが、石膏製の装飾材。これも上海で買ったもの
である。

 フローリングの失敗隠しだけは、まだ、ノウハウが見つかっていない。
その場所は、ゴミが好む処らしくて、すぐに気付きやすいので、二人共
ついそこに目が行ってしまう。


017 【第七幕】

 水周りの仕事は二人で声をかけあって進めた。

「水出して」「水止めて」 この繰り返しであった。温水と冷水の配管
および排水パイプの設置は、トイレ・台所・シャワー・洗面台と、続く。
作業そのものは、元栓を締めたり、元栓を開けたりと、二人で、忙しい
思いを繰り返した。

 床下の水道管の施設には、さすがに、二人とも閉口した。

 床下の作業であり、膝の下には砂利が敷かれているため、膝頭と手の
平に尖った砂利が突き刺さり痛い。うっかり頭を上げようものなら床下
にゴツンと頭が当たって痛い。

 それでも、しかたなく、手の平と膝頭を支点にして二人で床下を這い
廻る。しかも、その日はなんとテノール歌手のご主人の誕生日であった
と云う。

 日が暮れたことも知らずに「映画で見る戦場の戦闘員のような終日」
を過ごした。暗くなった中を建築の拠点にしている居室に戻りようやく
誕生日の乾杯をする。

 排水用のパイプはあちこちを這い廻る上、太目のパイプでもあり連結
部分も多いので余計に手間がかかる。うっかり切り方を間違えるとたち
まち材料が足りなくなる。下方から排水パイプを目安だけで上に送り出
して行くと、右に行って欲しいパイプが左に行ったりして、その度毎に
やり直しとなる。

 また、排水パイプの場合は、排水する目的地に向けて、傾斜を付けて
行く必要があるが、直進したり、右折したり、また左折したりしている
内に、傾斜が逆になってしまって、またやり直しとなる。

 これらの仕事は、どれをとっても、なかなかに難しい作業であったが、
唯一、救われたのは、地球には重力があるために・・・

「排水作業が上手くいったかどうか」の点検は実際に排水をしてみれば、
結果が、すぐに分かることであった。



018 【第八幕】

 憧れの芝生の庭造りには「2070枚の芝」を、張った。芝生は手を
かけないと自然環境にぴったりと合った光景は保てないので、雑草取り
など手間はかかるが、小まめに芝生を手入れしているときの音楽家W氏
の姿は輝いて見えたという。

 芝生の手入れが終わって、二人で紅茶を楽しむ時間が、音楽家ご夫妻
にとっては至福の時間であったという。

 その至福のときに、 ヨーロッパの友人のお母様が命名して下さった
『美音里ホール(Vinely Hall)』の看板を、二人で造って音楽堂に掲げ
ようと云うことになって、知見を得るために街に出たのだと云う。

 街の通りで「看板作ります」という案内を見つけた二人は・・・

「家も手造りなら看板も手作りにしなくては」と云うことになり、二人
で相談して「美音里の看板」をアルミ板で作り上げ、一番目立つところ
に取り付けたのだという。
(最後まで手造りに徹したご夫妻でした)


 看板を見上げて、二人でやり遂げたとは云え音楽堂の建設の過程では
多くの親切な方々に助けられ、電話一つの相談でも親身になって考えて
いただいた方々への感謝の気持ちを二人してあらためて確認・・・

 愛読書「自分で建てる夢のマイホーム」の著者である藤岡等さんにも
大感謝であるとして、二人で、芝生の上で紅茶を楽しみながら、愛読書
の頁を手繰って二人で微笑みを重ね、美音里音楽堂(Vinely Hall)から
のオペラを終演とした(喝采)


019 野仲音楽教室は週末も盛況

 群馬県の山里に在る美音里音楽堂(Vinely Hall)に比べると音楽家
野仲さんの音楽教室は街中に在り、富士見公園の真正面に位置していて
週末など音楽教室に通う子供さんたちを、送迎する親御さんの方々の車
も音楽教室の駐車場に待機していて、その盛況ぶりが伝わってくる。

 音楽教室の建築当時は、入間市が運営する運動公園テニスコートから
の帰途に建築現場の脇道を通ることがあったが、通常の住宅用地の3倍
近くの広さの建築現場に、いつも、5名程度の職人の方々が作業されて
いたので、特別な音楽教室として凝った造作が想像された。

 直近では、埼玉県のコロナ対策としてのまん延防止期間は、彩の森入
間公園の駐車場が入場禁止となっていたため、富士見公園の駐車場まで
飼い犬を連れて行って彩の森入間公園まで家内と飼い犬と私と三人連れ
で歩いていたが、たまたま、野仲先生が音楽教室前の駐車場奥の花壇で
菫に水遣りをされていて、挨拶の機会があったが、いつも通りの変わら
ぬ柔和な笑顔であった。

 そのような日常の中でも、相変わらずコロナ禍に気配りをしながらの
生活が続いていたものの来年に傘寿(80歳)を迎える私に入間市から
ワクチン接種の優先的な案内が届き、無事に副作用もなく二回目の接種
を完了することが出来た。

 同時に、オンライン授業として進めていた 「生涯学習を考える」も
15単元まで完遂して、最終レポートも次の通りの発信をして無事修了
となった。


 第15単元のレポート

 15回の講義全体を振り返り、生涯学習
についてあなたが学び考えたことを 800字
以内で述べてください。

【レポート】
☆ヒトとして生まれ人とのかかわりを通じて
人間として成長して行くという社会化の基本
を知りそこに生涯学習の意義があると学んだ。
☆それでは自分が実際に「どの様な人々」に
出会いどの様な影響を受けて育って来たのか
自分自身の「来し方を振り返り」これからの
「行く末」について考えてみることにする。
☆先ず私をヒトとして産んでくれた母親との
かかわりは、私の清濁(善悪)をすべてその
まま受け入れてくれたプラットフォーム的な
姿として、それは大地の様な存在感であった。
☆15歳春の大失敗で失意のどん底にあった
私に「人間万事塞翁が馬」という言葉により
再起動してくれた父親は学問のすすめにある
福沢諭吉の示唆に則り、私を工学系機械科の
道にガイドしてくれて結果、実社会への門出
において、稀有な純国産ジェットエンジンの
設計部門に送り込む段取りを付けてくれた。
☆社会人としての第一歩では当時の土光社長
から、学歴不問・適材適所という指針をいた
だき上司はまとめ役であって偉い人ではない
ので気楽に相談するようにと云われ、素直に
呑み込んで、以来、定年退職まで実証実験的
な人生を送り完遂することが出来た。
☆配属先では設計部長からジェットエンジン
設計の神髄を教わり、生産部門に送り込まれ
てからは本部長に昇格された同部長によって
欧米における管理工学(IE)の人々との間
で約1ケ月間交流の機会をいただき自身創案
のビデオによる管理工学の世界を構築した。
☆その後は芝浦工大の津村教授主宰の社会人
ゼミにも参加、異業種の人々と交流を重ねた。
☆管理職昇進後は放送大学で教授陣との交流
の場で心理・教育学や人間学に学び、人間的
にも成長の機会をいただき実践的に役立てた。
☆これからの「行く末」を考えた時に、学習
意欲に燃える孫たちに、私の生き様を文書化
して、いつでも解読出来る様な環境を整えて、
彼らの生涯学習に少しでも役立つ事が出来れ
ば幸いと考えている。

 そして、オンライン授業の修了段階では、講座に対するアンケートが
求められて、私は文末において、自身「ヒトとして生れて」と、題する
長編小説への取り組みを表明、学びを形にすることを約束した。



020 オンライン授業の成績発表

 放送大学のオンライン授業において 「生涯学習を考える」 を受講、
成績を知らせる期末試験の成績発表が届いた。

 提出レポート5件の評点がいずれも80点であったので、大方の予想
はしていたが、総合成績は「A評価(80点以上)」で・・・

 今回は 「特A(90点以上)」 を狙っていたので、私としては少々
不本意な成績での収束となった。

 そこで、私としては、今までに、放送大学において「特A」の評価を
いただいた科目を整理してみた・・・

◯ 臨床心理面接特論:大学院の授業であったが100点満点であった
◯ 人間情報科学とeラーニング:本講も大学院の履修科目で特A
◯ コミュニケーション論   :放送大学の授業で特A
◯ 認知心理学概論      :同 上
◯ 情報工学と社会      :同 上
◯ 日本文学の読み方     :同 上
◯ 日常生活のデザイン    :同 上
◯ 記憶の心理学       :同 上
◯ 応用心理学        :同 上
◯ カウンセリング概論    :同 上
◯ 生涯発達心理学      :同 上
◯ 学習科学とテクノロジー  :同 上

 ここでの特記事項としては「臨床心理面接特論」は、大学院の授業と
しては、特大版で通常授業が週1回の2単位であるのに対して・・・

 臨床心理面接特論は「4単位」の授業であり週2回の授業となるため
テキストも通常の2倍の厚さであった。

 このボリュームたっぷりの授業に対して 「100点」満点を取った
のであるから、授業への適性は「有意」と考えられるが・・・

◯ 実際の臨床心理士への適性を考えると私には「不向きではないか」
と考えた。

 何故なら、該当の授業でも力説しているが、臨床心理士は「トコトン
相手の話」を聞く・そして・相手方には 「自分自身を感じ取らせて」
「自分の行く末を自分で考えていただくこと」が大前提であり、私には
「不向きな取り組み」と、考えた。

◯ 私の場合は 「徹底的な話し合いは出来る」と、考えた
◯ しかしながら「相手方に行動の全てを任せきることは出来ない」
◯ ただし 「共に答えを得て」「共に行動して」「共に反省すること
は出来る」と総合的に判断した

 従って、私は、心理学から多くのことを学び成績としても納得の行く
結果を得たが、専門職としての「臨床心理士」の道を選択することには
不向きと考え結果として、更に、心理学の分野において、大学院に進む
選択はしなかった。

 要は、IHIの大手町本社で、理想の上司として尊敬しているK部長
の様に・・・

 相手をおもんばかって、一緒に「第三の道を模索する」ことが出来る
ような寛容さを身に付けることが出来れば良いと考えた。

 そこで、思い出したのは、卒業研究において、放送大学の岩永教授に
ご指導をいただいて「サービス業における教育開発および生涯学習への
反映」と題した卒業研究においても 「A評価」 をいただいたことを
想い出した。

 思えば、そこで「特A」評価をいただいて、まさに、15歳の春の時
の様に最高の評価をいただいた思いの中で、天国から地獄に転げ落ちた
ことを考えれば、まさに「無難な評価」を頂戴したのかもしれない。

 現に、前述の様な心理学面で 「特A」評価をいただいた学習効果を
社内における業務革新プロジェクトにおいて生かし切り大いなる成果を
挙げた後で、まさに絶頂期から55歳の秋に天国から地獄に落ちた経験
からも「絶頂期に到ると後が危ない?」という実証実験的な警告だった
のかもしれないない。

 当時、全社的(全本部的)な業務革新プロジェクトが、IHI大手町
本社において発足、導入時のフェーズⅠでは、本部長が掲げた・・・

「シンプル&スピード(S&S)」の旗印の下で晴れやかにキックオフ、
導入プログラムが全部門に浸透した段階で 「総論では賛成だが・各論
では反対」という、極めて難しいフェーズ(局面)に直面した。

 そこで・・・

◯ フェーズⅠでは、本社地区で「総論的な旗振り役に徹していた」と
いう反省もあり、フェーズⅡでは立地条件的に、事業本部の主力が位置
するところの武蔵野地区に、業務革新プロジェクトの旗振り役(事務局)
を移して 「現地主義」に、徹していった。

 その時に導入した管理技法が「ミッション・マネジメント」の考え方
であり、従来の品質管理を主軸に置いた 「TQC(総合的品質管理)」
からの脱皮であった。

 要は、事業本部の括りで、事業部単位で・部単位で・課単位で・それ
ぞれの年度目標を、具体的なミッションまでブレークダウンして、期毎
月毎・週単位に細分化して、計画と実績を対比させて、徹底的に対策を
練って行く。

 そして、全社的(全本部的)に、期毎に、本部長が、地区を巡回して
実施状況をフォローして必要な対策を指示して行く。
(ここまではどこの企業でも行っている)

 それに加えて、我々の業務革新プロジェクトの旗振り役が部長を筆頭
に、二人の補佐役の管理職を従えて実情を現地に出向いて把握しながら
実行面で悩みがあれば一緒に考えて「第三案」を共に考え出して行く。
(この緻密さが新基軸であり業務に精通していなければ助言は出来ない)

 この時、私の強みは、経営面からのヒントとして経営大学院(商品名)
を読書百篇で脳内に蓄えた 「大箱の25の引き出し」からの知見、と
心理学で「特A」の評価をいただいた臨床心理学の経験から、相手先の
暗黙知を引き出して「第三の案」を導き出して行く。

 相手先部門で成果が得られた事例については 「ベストプラクティス」
として了解をいただいた上で、関連部門にも紹介して行く。

 ここでの要点は、我々、業務革新プロジェクトが 「触媒的な存在」
に成りきって関係先に化学反応を起こしていただく・・・そしてこれに
徹する。

 そして、これに並行させた、立体的なアプローチとしては・・・

◯ 生産事業部門には海外のGE社で成功を納めた「トヨタ生産方式」
を導入した日本のコンサルティング会社を呼び込み、我が社に合った
生産革新に転換させて実践導入した
(超多忙なコンサルタント会社であったが私の管理工学仲間のコネで
導入に成功した経緯がある)

◯ 研究・設計・技術部門には私の目利きを生かして「未来指向型の
研究・設計業務展開」の技法を技術研究部門のトップ層にアプローチ
して合宿を仕掛け、幹部職や中堅技術者を取り込み、実践的に業務に
反映させて、研究・設計部門の業務革新に成功した
(技術研究部門のトップとは、生産性向上運動時代に共に改善に取り
組んだ間柄であり、人間関係の善さが好循環を生み出した)

 このような、総合・立体的なアプローチが功を奏して「約5年間で
業績はV字型」に回復、その先陣を切って業務革新に奔走した本部長
は副社長に就任された・・・

 我々は、この間の業務革新の状況を、社内の管理職向けの社内報と
しての「調査時報」にまとめて、全社向けに紹介していった。

 この調査時報の記事を書いた私の狙いは、副社長に就任したO氏の
社長への躍進の応援歌のつもりであったが社長への昇格は、まさに手
の届く位置感覚にありながら届かなかった。

 副社長に昇進されたO氏にしてみれば・・・

 私が、業務革新プロジェクトの事務局(兼)コーディネーターとし
て特命で指示されていた「権限委譲」という課題を自ら実践する如く
自ら副社長に昇格される段階において後任にあたる人物に事業本部長
の任を全面的に委譲している。
(ここで副社長として本部長を兼務する方法もあったのではと思う)

 当時のI社長は、就任してから約5年間を経過しており、この間に
人員削減による企業のスリム化などを、積極的に進めてきているので
通常であれば任を果たして、会長などに就任、豊富な経験を生かして
後任社長を育てるタイミングであったが当方の予想は大外れであった。
(都市伝説的には、俗人的な推論も交わされたが、ここでは省略する)

 私の正論的な見立てとしては・・・

「O氏の副社長としてのサポート役が適任過ぎたのではないか?」
「I社長にとっては居心地良いままのさらに5年間が経過?」
「その間に次世代の社長候補が育ってきて旬を迎えた?」

 かつて「権限委譲」という課題を副社長O氏からいただいて徹底的に
研究したことがあるが 「禅譲」 などという幻に攪乱された可能性は
最近の世界の国情における政権下での実情を見ても、否定出来ないこと
なのかもしれない。

 その間に「全社的(全本部的)な業務革新の絶頂期を迎えて」惜しく
も定年を迎えたK部長の 「定年退職の催し」をお膳立てした私たちは
我が部門のトップとしての適任者がなかなか見付からず、ようやく着任
した部長によってどのような経緯か分からず「55歳の秋」に地獄図の
ような針の筵に座らせられる事態を迎えることになった。

 この辺の事情は「ヒトとして生れて・第5巻」に書き出したが兎にも
角にも、絶頂期を迎えた後というのは危険がいっぱいなのである。

 その点、今回のオンライン授業による「生涯学習を考える」の評価が
「A評価」に収まったことは喜ぶべき着地ポイントなのかもしれない。

 この「生涯学習を考える」の受講後の感想としても・・・

 長編「ヒトとして生れて」の記述を進めてみたいと公言して幸いにも
第8巻まで書き進めてきたので、引き続き第9巻に着手して行く考えで
あるが、ある意味「頂点を極めないこと」も、学びの極意なのかもしれ
ない、と、感じ取る昨今である。
(幸せも中くらいなりオラが春なら・地獄に落ちる懸念はないか?)


021   心理学に続いて人間学の専攻コースも卒業


 鎌倉ファミリーからの夏の招待は、最近のパターンでは80歳を超え
てドライブが無理と成って来た私に代わって、家内をリゾート地に案内
という傾向に変わって来ていたが、今年は、コロナ禍の全国的な再燃と
いうこともあって、フレンチ・ディナーへのご招待をいただいた。

 ごく最近までは、私も連続で三回、伊豆や山梨方面の老舗旅館などに
家内共々ご案内いただき老舗旅館ならではの繊細な懐石風の凝った料理
をいただく機会に恵まれ感謝しきりであったが飼い犬はその都度ペット
ホテルに預けられることとなり、その度に飼い犬が体調を崩し、三回目
にはペットホテルに迎えに行った折に、珍しく、犬とも思えぬ鳴きや節
を聞かされ、あまりに気の毒なので、それ以来は私と飼い犬は留守番と
決めたのであった。

 しかし、身近に迫って来た感のあるコロナ禍にあっては、ドライブで
あっても途中の買い物などの機会にオミクロンに感染の可能性が高まり
つつあり、現状においては、近距離の食事会においてさえも、要注意の
状況に変わってきた。
(それだけオミクロンへの感染が日常化してきたと云える)

 したがって、今回のフレンチ・ディナーへの招待においてもコロナ禍
に対して徹底的な対策を講じている店を選んだのだと云う。

 川越の小江戸通りの繁華街から路地を入った閑な場所に、その食事処
は店を構えていた。
(店名:はつねやガーデン)

 聞けば明治元年に創業の老舗の料亭で、今は結婚式場にもなっており
若いカップルが何組も式場の見学も兼ねてディナーを楽しんでいた。
(それぞれにエスコートがついて客同士の干渉を避けていた)

 フランス料理のコースメニューはとても手がこんでいて、それぞれが
秀逸に仕上げられており、鎌倉ファミリーや、われわれ夫婦の舌を堪能
させたことは間違いないと云える。

 また、一番、気に入った料理も、家族それぞれに、チョイスが違って
いて面白かった。

 当日は、台風の襲来と日時がぶつかりキャンセルも視野に入れたもの
の台風であってもキャンセルは不可との回答があり会場に入るまで心配
はあったものの、入場時と退場時には雨が止んでいて、食事中に大雨と
云う絶妙なタイミングに救われた。

 明治元年創業というだけあって、待合室のロビーなども、窓から外を
観ると、夏目漱石が庭を散策しているような雰囲気でとてもリラックス
出来たことに、あらためて鎌倉ファミリーには感謝・多謝である。

 そして、帰宅後に、放送大学から一通の封書が届いていた・・・

 かつて専攻した「心理学」に続き、「人間学」の専攻についても最終
科目として選択したオンライン授業「言語学を考える」について、合格
したので、近日、専攻「人間学」の学部の卒業証書が自宅に送付されて
くるが、引き続き他の学部を専攻する場合はオンラインでの申し込みが
可能ですと云う案内であった。

 そこでコロナ禍にあっては、オンライン授業がオミクロン感染予防の
対策としては、ベストと考えて2022年後期の授業科目から選択科目
探したが、なかなか感覚的にピッタリと来る科目がなかった。

 それだけ今回の選択科目「言語学を考える」が秀逸したカリキュラム
であったのかも知れない。最初は口腔からの発声の在り方を舌や口腔内
の各器官の働きから説明 「世の中にこの様な学問があったのか」 と
ただただ驚くばかりであったが、最終段階の設問には次の様に答えた。

Q【設 問】
 この授業で「言語学」の考え方に触れたこ
とで、自分はどんな「違いのわかるひと」に
なったと思いますか? 学んで印象深かった
ことを挙げながら 「600字前後」で、述べて
ください。

A【解 答】
➽はじめに
 学んだ結果「印象深い違い」は、言語学を
研究されている教授陣の探求心と生徒である
私の言語への取り組みの違いを痛感した。
 私が取り組んだ外国語は英語のみであるが
かつて管理工学の専門職として欧米の技術者
と経験交流をするために海外出張、1か月の
短期間ではあったが、事前に英会話スクール
に3か月通い、所期の目的は達成したものの
継続的な努力が欠如、せっかくの外国語体験
を生かしきれていない。
➽言語学で学んだ大いなる違い
 世界の言語について第2回の講座で実際の
音声を耳にして、第6回の講座で実際の世界
の文字を眼に出来たことは現実の音や文字で
実像を知り違いを知ることにつながった。
➽日常における違いの意味
 今回の言語学を学ぶ過程において、日本語
については「何故これほどに日本語における
言葉の使い分けが出来ているのだろうか?」
と感じ「日本語と箸の使い方」は、日々両親
から教わってきたことに気付いた。
 一方で「英語とフォークの使い方は」父親
に教わった記憶はあるものの社会人になって
からの印象が強い。
➽今後に生かすこと
 しかし第12回の講座で日本語のさらなる
深層を学び「目から鱗が落ちる」思いがした。
そこで私としては放送大学における講座受講
(生涯学習を考える)をきっかけにして執筆
を始めた小説「ヒトとして生れて」について
今回、学んだことを生かす考えで全文につい
て校閲に着手することにした。 (以 上)

 まさに 「一生涯学生作家」を、標榜して日々執筆活動を続ける私に
とっては、必見の学習対象であったと云える。しかも多くの文学作品に
触れることを通じて 「人間学」を、学んで来た思いからすれば人間学
の締めの学習に「言語学を考える」を、選んだことは幸いであった。

 しかし、正直なところ難解な授業ではあった。途中で挫折して最終章
から繰り上げて学ぶ選択をしたが、結果的には正解であった。かつては
多くの単位取得断念者を排出したと云う歴史的な難解さを考えてみれば
結果「A評価」をいただいたことは「一生涯学生作家を目指すもの」と
しては上出来と考えて良いだろう。

 それだけに、次の専攻学部の選択も兼ねて、オンライン授業を主体に
して、次の選択科目をさがしたが納得の行く科目はなかった。

 教授との対面授業については、受講したい科目もあるので、しばし間
を取って考えてみたが、この際はコロナ禍の沈静化を待って、茗荷谷の
東京文京センターの学舎での学びにターゲットを絞り直しても良いかな
と考え始めた。

「コロナ禍の沈静化がいつになるか?」分からないが、納得の行かない
授業を選択してダメもとで学習するよりも対面授業が安心して受講可能
に成るまで待って、再入学する選択肢もあるので、現時点ではその様な
身の構え方で「意思決定しようか」と考えている

(続 く)

【監修】万田ワールドへようこそ

【監修】万田ワールドへようこそ

背中に翼を背負った女神との出会いが、深層における謎を解く鍵になって行くのだが、心理学と人間学からの学びが、その鍵を開けるきっかけになって行くとは想像もしていなかった。そして、現実の世界ではパートナーの支えが必要不可欠な存在となって援護射撃の後ろ盾となって行く

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-07-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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