ふざける


 季節はずれの台風で休校になった火曜日の昼下がり、船着き場から海を見ていた。僕のほかには誰もいなかった。海水がちゃぷちゃぷと波を打ち、巡視船が遠くに浮かんでいるのが見える。いまのところ雨は小康状態で、落下防止の手すりにぶらさげた傘は強風にあおられ少しずつ風下に流されていた。僕の前髪も風に巻き上げられて、ぶちぶちとちぎれて吹き飛んでしまいそう。波の紋様を眺めながら、最近誰かとした会話のことを思い出していたけどすぐに忘れた。二十分くらい海を眺めてから傘を持ってその場を離れ、ベンチに座ってタバコを吸おうとしたけどやっぱり風が強すぎて、不良品みたいな安物のライターでは火をつけることができなかった。あきらめて立ち上がり、マンションに帰ることにした。
 オートロックのエントランスをパスワードで解錠して、エレベーターを呼ぶ。エレベーターはこのマンションの最上階である十階にいた。僕の部屋は四階だけど、高いところから町が見たくて、エレベーターで十階に上がった。十階の通路から顔を出して町を見下ろす。台風に浸食されて色が変わった町。街路樹の枝が不気味にうごめいて、その下を空き缶が転がっていく。二階建ての家の屋根ばかり。ビルの上のクレーンがぐらぐらと揺れている。また雨が降り出して、吹き込む水滴が僕の顔や腕やシャツを濡らしていった。十階では飽き足らなくて、南京錠で閉じられた扉を乗り越えて屋上に上がった。高さ一メートルくらいの錆びたフェンスに寄りかかって、今度は灰色の空を眺めた。濁って汚れているようでいて、どうしようもなく澄んでいるようにも見える今日の空。横殴りの雨足は強くなり、シャツがみるみる重たくなった。数十メートル下の道路はときどき車が通るだけで、人は全然歩いていない。なんとなく、本当にただなんとなく、持ち物を投げ捨てたいと思った。財布もタバコも携帯も、全部なくしてしまえたら何かが変わるかもしれないと思って、すぐにそんなことをしても無駄だと悟った。
 扉が軋んだ音が聞こえて、振り向くと長い髪の少女が一人立っていた。同じマンションに住んでいる、かつての同級生だった。いまは別々の学校に通っていて、話す機会もなくなった彼女がゆっくりと歩いて僕に近づいてくる。強い風に制服のスカートがめくれた。僕は彼女から目を背けて、またフェンスに両手を置いて景色を眺めた。
 彼女は僕の隣に並んで、両手でフェンスを軽く握った。
「なに見てるの?」
「空とか」
「パンツじゃなくて?」
「それはたまたま」
「見せてあげよっか?」
「遠慮します」
 言ってるそばから風でスカートがばさばさめくれ上がっている気配があって、僕は視線を下げられない。
 彼女は機嫌の良さそうな声で笑った。
「風がすごいね。左から右にびゅんびゅん吹いてる」
「うん」
 相槌を返しても、彼女は何も言わなかった。
「すごいね」
 素っ気なかったかと反省して一言付け加えてみても、やはり彼女は何も言わない。訝しんで隣を見ると、彼女は耳の後ろで髪を押さえて、じっと地面を見下ろしていた。僕は、この子こんなに肌白かったっけ、と思った。こんなに小さかったっけ、とも思った。僕たちは一体何年ぶりに言葉を交わしているのだろう。
 突然、彼女が唾を吐いた。唾液の塊は空中でバラバラに分解しながら、視界の右端へ突進するように突き進んで消えていった。
「プールの中でおしっこする人がいるくらいだから、雨に唾が混じってても別にいいよね」
 行儀の悪さへの言い訳なのか、彼女はよく意味の分からないことを言った。
「なんだよそれ」
 思わず僕が笑ってしまうと、彼女も体を揺らしてケタケタ笑って、その振動がフェンス越しに伝わった。彼女はなんだか昔と印象が変わった気がする。もっとおとなしい子だと思っていた。でもそんなのは架空の記憶に過ぎないのかもしれない。
「ひさしぶりだけど、元気だった?」
「それなりには。そっちはどう?」
「私もそれなりには。同じマンションに住んでるのに、学校が違うだけで会わないものだね」
「そうだね」
「学校は楽しい?」
「普通だよ」
「私も。ただの学校だもんね」
「そうだね」
 僕たちは暢気に会話を交わしているけど、雨が構わず降り続けるから彼女のブラウスはずぶ濡れで、どんな下着を着けているかがはっきりわかるほどだった。さすがに指摘しようか迷うけど、向こうがまったく気にしてなさそうなのにそんなことを言うと意識しすぎてるとか思われそうだからやめておいた。
 雲が禍々しいスピードで流れていく。空から引き剥がされていくみたいだ。
「さっきは何か考えてたの?」
 うなずくと、前髪から水滴が垂れ落ちた。
「なんとなく、いろんなものをここから捨てたら、何か変わるかなとか」
 ふざけて考えていた。
「それとか?」
 彼女が僕の胸ポケットを指さした。彼女の下着と同じように、タバコの箱が透けていた。
「不良だね」
 彼女はにやにやと笑って身を乗り出して、下から僕の顔を見上げる。僕は鼻の頭を指でかいた。それからタバコをポケットから引きずり出して、寂しい空に放り投げた。
「あーあ。責めてるわけじゃなかったのに」
「別にいいよ。もらったやつだし」
「誰にもらったの?」
「学校の先輩」
「気に入らなかったの?」
「ふざけて持ち歩いてただけだよ」
「それなら私にくれればよかったのに」
「拾ってくれば?」
 彼女は道路を見下ろして、タバコをみつけようとした。でももうどこまで飛ばされていったのかわからなかった。
「そっちはどうして屋上に来たの?」
「私も同じだよ。ふざけて捨てに来た」
「タバコを?」
 僕は冗談のつもりで言った。彼女は薄く笑って首を振って、「私を」と濡れた髪の毛が貼り付いた顔で言った。
「今日はこんなにふざけた天気じゃない? 外には行けないし部屋にいても退屈だし、こんな日は思い切りふざけて自分捨てちゃうのもありかなって」
「そう」
 そこまでの発想は僕にはなかった。自分を捨ててしまったら、さすがに何か変わるはずだ。何しろ自分がなくなるのだから、何が起こるのか想像もつかない。
「それもありかもね」
「ありだよね」
 圧縮されたシャワーのような冷たい雨が僕たちの皮膚に突き刺さり、強引に体温を奪っていく。頭の中が冷えてくる。僕はとても冷静になっていく。
「捨ててみる?」
 彼女が耳元でささやいた。いつの間にそんなに近づいていたのかわからなくて、吐息が温かくて心地良かった。
「僕を?」
「私を」
 僕は静かに彼女を見た。濡れた胸から視線を持ち上げ、間近で見つめる彼女の瞳は今日の空を映しているのか濁って澄んだ灰色で、感情らしいものが少しも感じられない。温かい吐息との温度差がただ単純にたまらなくて、僕は冷静な自分を自覚しながらも狂っていった。
「人が死ぬところ見たくない?」
 雨に濡れたくちびるがぬらぬらと赤く光って、僕を誘惑する。
「見たい」
 それと、どうなるのか知りたい。
 くちびるが振動して、別の生き物みたいな舌がぬるっとはみ出してきた。そんなふうに彼女は笑って、秘密めいた雰囲気を出しながら、また耳元でささやいた。
「一緒に悪いことをしよう」

「どんなふうに捨ててほしいの?」
 冷たく昂ぶる僕の声は思いの外冷たく響いた。彼女を怖がらせやしないだろうかと心配したが、表面上は特に影響なかったようだ。
 彼女はフェンスの上部を握ったまま後ろ向きにジャンプして、細い金属に腰を据えた。足をぶらつかせながら、小首を傾げて僕を見る。
「どんなふうでもいいよ。このまま押してくれてもいいし」
「わかった」
 彼女の正面に立って、肩に手をのせた。薄い布と一体化したような華奢な肩。そのまましばらく顔を見ていて、顔に貼り付いたままの髪を指ではがした。細い髪の毛は束になって、口の中にも入っていたから、実はさっきから気になっていた。彼女の頬はやわらかかった。摘んで取り除いている間、彼女は目を閉じていたけど、終わるとすぐに目を開けた。僕は彼女の体を挟むように両肩に手を置いた。いよいよ突き落とそうかというところで、彼女が制止の声を上げた。
「やっぱり注文付けていい?」
「いいよ」
「このまま少しだけ後ろ向きにぶら下がっていたい。ひっくり返った町が見たい」
「わかった。僕はどうしたらいい?」
「足、ぎゅっとしてて」
 一口に足と言われてもいろいろあるからどの辺を持てばいいかわからなかったけど、一番触りたいところを持つことにした。両足を開いて腰を落とし、スカートの下に手を差し込んで、フェンスに引きつけるように力を入れた。
「痛くない?」
「平気。でも手が冷たくて触り方がなんかエロい」
「ぶら下がっていいよ」
 彼女はフェンスを握っていた手を離した。ジェットコースターに乗ってるみたいに両手を空に突き放して、背中から湿った空気の只中へ倒れていった。ガクンと手応えが切り替わり、靴底がすべってフェンスに膝がぶつかった。下を覗くと彼女はパンツ丸出しで、長い髪もすべて地面に引き寄せられていた。両手は頭の上に伸ばしたままで、空中を泳ぐようにバタバタと動かしている。思ったよりも手がすべるし、太ももは片手で握れるほど細くはない。彼女のふくらはぎも足首もすでにフェンスから離れ、僕の頭の両側に伸びている。フェンス越しに抱きしめているような格好になって、やっぱり足首辺りを持てばよかったなと僕は思った。
「あんまり動くと落ちるよ」
「落とすんだよ」
「しばらく町を見るんだろ」
 彼女は素直に従って、頭の後ろで手を組んだ。その隙に僕は膝と靴の位置を修正する。腕の筋力だけではとても支えきれそうにない。重心を後ろにずらして、少しでも楽な姿勢を探した。
「すごいよ。世界が真っ逆さまだ」
 彼女が叫ぶように言う。斜めに覗くと、うれしそうな顔が少しだけ見えた。その顔のせいで僕は、昔のことを思い出した。
「そういえば昼休みとか、よく鉄棒からぶら下がってたよね」
「うん。よく覚えてるね」
「一人でにやにやしながらぶら下がってるから、あれ楽しいのかなって思ってた」
「楽しかったよ。空と地面が入れ替わって、みんなが逆さまに走ってるのがおもしろくて、頭に血が上っていくのがやばいくらい気持ちよかった。いま久しぶりにその感じ」
「気持ちいいんだ」
「気持ちいいよ。今度やってみて。あの頃私ね、このまま手を離したら空に落ちちゃうんじゃないかなって、何度かやってみたんだけど、いつも地面で頭打ってた」
「それも見たことある気がする」
 鉄棒の下に座り込んで頭をさすっている少女の姿が頭の中で再生された。
「今日はどっちに落ちるのかな。絶対空がいいんだけど。今日の空、反対から見ると相当やばいよ。真っ黒くてどろどろしてて、それなのに太陽がちょっと透けててすごくきれい。あそこから新しい世界に行けちゃいそう」
 また興奮してきた彼女が動いて、フェンスが軋んで僕もよろめく。雨はすでに土砂降りといえる勢いで、彼女の肌と僕の手の間にも水が染みこんで滑りやすくなってくる。もうあまり長く持たないかもしれない。
「残念だけど、今日もたぶん地面に落ちるよ」
 彼女は腹筋を鍛えるような動きをしながら首を折って、僕を見上げた。
「わかんないよ。私は空に落ちると思う」
 髪の毛の逆立ったびしょ濡れの顔でにやにや笑って、夢みたいなことを言う。なんとなく否定できなくなってぼんやり顔を見ていると、彼女はふっと腹筋の力を抜いた。彼女が数センチ地上に近づき、僕は太ももに指を食い込ませた。
「暴れるなって」
「足が痛いよ。爪が刺さる。ちゃんと爪切ってる?」
「仕方ないだろ」
「それと、股が冷たい」
 フェンスの向こうでは白い下着に雨が直接降り注いでいた。
「それもしょうがないだろ」
「でもそろそろパンツ見すぎですー」
「すっげえ透けてるよ?」
「うそ?」
 彼女は両手を使って股間を隠した。そういえば手は自由に動くのだから、最初からそうやってくれていたらよかったのに。
「嘘」と僕は嘘をついた。
「なんだ嘘か」と彼女はまた両手を空に垂らした。でも右手だけがすぐに戻ってきて、僕の左手を突っついた。
「なに?」
「手をつなごう」
「できないって」
「片っぽなら大丈夫だよ。一瞬で握ればさ」
「無理だって。絶対落とす」
「だから、落とすんだよ?」
「でも落ちる気ないだろ」
 彼女はもう一度腹筋の力を借りて、僕と視線を通わせた。
「ないよ。ふざけてるだけだし」
「じゃあもう上げるよ」
「もうちょっとだけ」
「お前重いんだよ。腕が限界」 
 彼女が文句を言いたげに口をとがらせている隙に両足を挟み込み、ずるずると引き上げていった。彼女はフェンスの上端をしっかり握って元通りの位置に戻り、ぴょんと飛び降りて勢い余って膝をついた。
「大丈夫?」
 酷使して痺れた腕を揉みほぐしながら、一応気遣うポーズを取っておく。彼女はスカートの中をチェックして、何かぼそぼそつぶやいていたけど何て言ったのか聞こえなかった。大体の想像はつくけど。
「寒いしもう帰ろうよ」
「うん」
 十階にエレベーターを呼んだ。彼女が住んでいるのは七階だったけど、なんとなく帰る前にちゃんと地面に足を下ろしたいねという話になって、一緒に一階まで降りた。

ふざける

ふざける

  • 小説
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-08

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