涙をこえて。

石井ひさし

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第1部

平成二十八年八月二十七日、土曜日。

 今日も白くまぶしいスタジオで、僕は天気予報を読み上げていた。CMに入る一秒前で、僕のコメントは終わった。一秒後、まったく予定通りにCMが始まり、僕の出番は終わった。
 「おつかれさまでしたー」
 間延びしたAD君の挨拶を背中で聞きながら、僕はスタジオを出た。すると、いつもの暗闇が広がった。僕はこの瞬間が嫌だ。テレビというのは、明るいところは不必要なくらい明るいのに、そこを一歩出ると容赦なく暗い世界が広がっている。まるで、崖から突き落とされるように。毎日崖から突き落とされる人生は、いったいいつまで続くのだろう。
 僕は、石井という。職業、気象予報士。
 狭い控室に戻り、僕は明日使う天気のコメントを鉛筆で書き終えた。鉛筆を転がすと、僕はすぐに勤め先の「坂の上テレビ」を出た。帰りのバスでスマホを見る。だけど、もう飽きた。世の中は世の中を知りすぎている。つながりすぎている。やりすぎている。こんな世界と付き合うのに、もう疲れた。
「あーあ。毎日、つまんねえな。」
 僕は昔から、酒と時間と女が存在すれば、それでいいと思っていた。いま、全部ある。ぴっちりある。でも、つまんねえ。というか、悲しい。なんでか?もう、僕の先はあってないようなものだからだ。このあと定年まで淡々と仕事をするのだろう。女とも淡々とやるんだろう。それで僕は死ぬんだよ。というか、もう死んでるよな。
 もう、どうでもいいや。これ以上いいことなんてないし、女とこのあと結婚したら面倒くさいだけだし、社会保障はどんどん厳しくなっていくし、どんどん金を吸い取られておしまいさ。
 それに、世の中と共存するのに、もう疲れた。だって、何でもありすぎる。それだけじゃなく、知りすぎている。もののありすぎはまだ耐えられるけど、知りすぎた世の中には、耐えられない。
 僕はまた、いつもの嘆きをはじめた。嘆いたり悩んだりするのは五分まで、と決めているけど、たまに十分以上かかることがある。
 僕って最悪だ。
そんなことを思っていると、バスが最寄りの停留所に着いた。僕の大事なホームグラウンド、新宿の片隅。僕はバスを降りてずんずん歩いた。
 白壁が一見美しい、でも、のっぺらぼうな、マンションに着く。ここの住人は、誰もあいさつなんてしない。すれ違ってもみんなスマホを覗き込んだままで、逃げるようにして去っていく。なんだ、これは。人間としての温かさがない家なんて、石器時代以下だろう。僕は石器時代より前の人間なのか!今日もまた、そんなことを思っている。
 しかし、ここからが、僕の本領発揮だ。切り換えをすばやくして、相手に対応できる仕様に入ろう。
 ―よし。心の切り換えは三秒で済んだ。ドアの前に着く。鍵を開ける。
 部屋の奥から、するりと僕のべっぴんさんが現れる。身長百四十九センチ。肩より長く伸ばしたまっすぐな黒髪を、さらりとなびかせながら、色白の、まだメイクしたままのつややかな表情での登場だった。
「おかえりなさあい」
 僕の、いわゆる彼女であり、結婚するかもしれない同棲相手、みわちゃん。みわちゃんは、僕より八つ年下だ。僕が今勤めている会社で、受付をしている。受付から偉いお客さんを現場に案内してきたみわちゃんが、いっぱい僕に視線をくれたのが僕たちの出発点だった。会社の人の話によると、みわちゃんはモテモテでいろんな男に言い寄られているらしいけど、僕はそんなことは知らない。そんな情報を知っても仕方がない。情報にあふれてまどわされても仕方がない。情報を聞いたところで正確かどうかもわからないし、仮に正確であっても、僕が正確に受け止められるかどうかもわからない。もう情報が入ってくるのは、飽き飽きだ。
 だから、みわちゃんがなんで僕に近づいてきたのかも、聞いていない。それに、つきあっているのは会社では言っていない。だって、めんどくさいから。というか、最近つきあっているのもめんどくさいぞ。こんなんで結婚したら、やだなあ。でも別れると、もっとめんどくさいだろうから、やだなあ。もう。
 僕はそんなことをおくびにも出さず「みわちゃん、ただいま」と一応やさしく言っておく。
「お風呂、沸いてるよ」
 みわちゃんは、やさしい。みわちゃんは、かわいい。歌手としてテレビに出ても、おかしくない。でも、僕はなんだか満足できていない。いや、最近何が満足なのか、それすらよくわからなくなっている。そんなことを思いながら、みわちゃんの沸かしてくれた風呂に入る。
 いい具合に温まったので、そろそろ出ようと思っていたら、みわちゃんが、脱衣場にある洗面所に入ってきた。みわちゃんはそこで、延々と歯磨きを始めた。さらに、ご丁寧に糸ようじで歯間を磨き始めたようだ。長いよ。僕、上がれないじゃん。僕は風呂についている湯沸かし器のリモコンの淡く白いデジタル時計をじっと見る。
 五分たった。今度は髪をいじり始めたようだ。これが長い。長い黒髪をいじるのには長い時間がかかるが、それにしても長い。
 十分たった。もう九時四十分過ぎたよ。いい加減にしろ!と、浴槽のお湯をザバッと外にかき出す。
 なんでこんなにいらついているのか、自分でもわからないけど、とにかくいらっとして、いらっとした分だけの水を僕は思いっきりかき出した。
 無反応。もう、いい加減にしろ!脱衣場にいてもいいから僕は出るぞ!と思い切って風呂から出ると、脱衣場はもぬけの殻だった。どうやら、僕がザバっとやったときに、彼女は脱衣場から出たようだ。僕には聞こえなかっただけか。
 いったい、なんなんだよ!僕の怒りはさらに僕の中では増幅したが、僕の外には見えない状態が続いている。いや、続かせている。
 だって、めんどくさいじゃん。最近、なんでもこれだ。また、そんなしょうもないことを考えたが、体を拭いてみわちゃんのところに戻るときにはそんな感情はやはりおくびにも出さないよう、また本能でクールな表情をしてみた。みわちゃんはきっと、僕をおとなしい人間だと思っているのだろう。「彼、怒らないところが便利」って友達にLINEしているところを見てしまったからな。
 部屋に戻ると、みわちゃんがテレビをつけていた。NHKがついている。にぎやかな番組だ。画面に「第四十八回 思い出のメロディー」と書いてあった。ああ、昭和の名曲を聞かせる番組だ。ちょうど、北島三郎さんが「風雪ながれ旅」を歌っていた。昭和五十六年の紅白歌合戦で、大トリをとった北島さんが、紙吹雪だらけになって歌った歌だ。僕は瞬時にそのときの情景が目に浮かんだ。いかにも昭和な歌だった。
「みわちゃん、ずいぶん渋い番組見ているんだね」
「今、たまたまつけていただけだよ」
「じゃ、チャンネル変えるね」
「うん」
 そう言った瞬間だった。
「風雪ながれ旅」が終わって、萩本欽一さんが出てきた。ザ・昭和のタレントだ。司会の女優さんにうながされて、萩本さんが「それでは、ドーンといって、みよう!」と言ったのだ。
「ドーンといって、みよう!」
 なんなんだ、これは。あまりにもまっすぐだな。スッキリするようなこと、言ってくれるな。昭和ってまっすぐだな。
 僕はちょっと面白かったので、リモコンに手を伸ばしたみわちゃんに「ちょっと待って」と言った。
「どうせもう終わるんだから、もうちょっと見る」
「変なの」
 みわちゃんに「変なの」と言われて、僕はちょっとだけ気持ちにさざ波が立ったが、次の瞬間、もっと大きな波に襲われた。
 あの歌が、始まったからだ。往年の売れっ子歌手が舞台に勢ぞろいして、あの歌を、最後の全員合唱として歌い始めた。

「涙をこえて」。

 僕が大好きな、歌だった。最近、そういえばずっと聞いていなかったけど、この歌、あったなあ。
 この歌は、昭和四十四年に作られた歌だ。バリバリの昭和元禄時代の歌だ。それなのに、平成生まれのJ・POPのように、AメロからBメロへの転換が明確だ。昭和最後の年にこの歌に出会った僕は、まだJ・POPなんて聞いたことがない世界の、中学生だった。
 そのときに聞いた、このAメロBメロを駆使した歌の鮮烈さ。生まれて初めて、音楽を聴いてゾクゾクした。出だしの溌溂としたAメロ。それを短く受けたBメロがぐっと雰囲気を盛り上げ、サビにつながる。そして、平成のJ・POPみたいなのに、昭和四十年代の希望あふれるルンルン社会が、これでもかというくらい、明るく歌われている。
 なんなんだ、この歌は。昭和と平成をつなげているカスガイなんじゃないか。
 そんなことを思っていると、サビの後に、メロディーのキーが一段上がった。僕はさらに、ゾクゾクした。
 なんだろう、この感覚。僕は、どうしていいかわからなかった。
「ほら、チャンネル変えるよ」
「あ、ごめん」
 ちょっと放心状態だった僕に、わけのわからないみわちゃんが冷や水を浴びせ、僕はほんのひとときの昭和から、正気を取り戻した。
 これが、始まりだった。この日の「涙をこえて」から、ゆっくりと近づく美しい彗星に、ひそやかに飲み込まれるように、僕の運命は、動き出していった。





 平成二十九年一月。

 新年早々、手帳を落としてしまった。幸い、年が始まったばかりで中身は何も書いていない。書いてあったのは僕の名前と携帯の番号だけだった。僕は、あまり気にすることもなく、また気象庁の本屋に行って買えばいいか、と思っていた。
 ところが、数日後の夜のことだった。家にいたところ、スマホが鳴った。みわちゃんは、ヨガの教室の新年会だそうで、いない。携帯を見ると、番号非通知だ。坂の上テレビは電話交換機が古いらしく、いつも非通知で電話がかかってくる。
「なんか、しくじったかな。呼び出しかも。」
そんなヒヤリとした思いを抱えながら、電話に出た。
 すると、女の人の声がした。
「あのう、石井さんの携帯ですか」
これが、記念すべき第一声だった。
「はい」
「あのう、手帳をバスで拾ったんですけど。」
「あ、そうなんですか。ありがとうございます。」
 ずいぶん親切な、でも、変わった人だと思った。僕だったら、仮に手帳を拾っても、バスの運転手か交番に届けるくらいしか、しないだろう。なんでこの人、わざわざ電話かけてきたんだ?
「そしたら、お手数なんですが、最寄りの交番にでも届けていただけると助かります。どちらの交番が近いですか」
「えっと、中野坂上ですね」
「ありがとうございます。お時間あるときで結構ですので」
 中野坂上だったら、新宿の僕の家から、わりと近い。歩いても行ける。僕は珍しいことに、ありがたいな、と思って話を聞いていた。
 女性に名前を聞くと、田中さん。ありふれた名字だねえ。めんどくさくなくていいや。ここまでの僕は、わりと淡々と考えていた。
 しかし、次の瞬間、僕は急に、悪寒がするような感じがした。突然インフルエンザにかかったような、あの悪寒だ。そして、こんこんと身に迫る妙な感覚を覚えた。何だろう。僕は他愛のない話をつなぐことで、必死に妙な感覚にたどりつこうとした。すると、わりとするりと結論が出た。
「この人の声、聞いたこと、ある」
 少し甘く、かすかにかすれた声。ひょっとして、もしかして、あの人じゃないか。いやいや、まさかそんな。そんなことあり得ない。映画じゃないんだから。それに、名前違うし。
「では、近いうちに中野坂上駅前の交番に、届けておきます。失礼しました…」
 電話が切られようとした。まずい!ここで言わないと、僕、また後悔する。僕は、意を決した。珍しく、めんどくさい方に。
「ちょ、ちょ、ちょっと、待ってください」
「…何ですか?」
 女性は、不信感をたっぷりとたたえた声で応えた。
「あのう、大変失礼ですが、間違っていたら申し訳ないんですが、ひょっとして、もしかして、田中さんって、池田さんじゃないですか?」
 僕は、祈るような気持ちで、話を持ち出した。女性は五秒以上黙った。僕には放送事故か?と思えるくらい、長い間だった。
 しかし、間があけた後は、事故ではなかった。
「…そうですけど。」
 僕は声を大にして言った。
「あの、私、予備校でお世話になった、石井です!」
 ここで、少し、僕の過去の説明をする。
 僕は、高校受験で早稲田大学の付属校に二つとも落ちて、東京六大学の別の大学の付属校に通っていた。でも、早稲田大学にどうしても行きたくて、親に頼み込んで、高校三年のとき、代々木にある予備校に通った。平成五年のことだった。そこには、早稲田大学に合格した一年先輩で、後輩の高校生の面倒を見るチューターというアルバイトがいた。そのチューターの一人が、池田佳子さんだった。
 佳子さんは、僕に早稲田大学に入るための勉強法をいろいろ教えてくれた。そして、できの悪かった僕を何とかしようとしてくれた。ものすごく色白で、肩から少しはみ出るくらいの黒髪。きりりとしたまなざし。凛とした表情。気品のあるたたずまい。女子御三家といわれる名門の中高一貫校の出だけど、それをあまり感じさせない快活さと、同居するつつましさ。そして、屈託のない笑顔と、細やかな気遣い、そして面倒見のよさ。どれをとっても、落ちこぼれの男子高の生徒だった僕が見たことのない世界の人だった。僕の中で、最高のプリンセスだった。
 「私がなんとかしてあげるから。」
 佳子さんのやさしさは、十五歳で突然母親を亡くした僕の心に、深く、深く、染み入った。そして、佳子さんのことを、すごく好きになった。僕は、佳子さんと同じ大学に入るためにがんばろう、と思うようになった。予備校に行くのも、やがて佳子さんに会いに行くが目的になり、一日中佳子さんのことを考えて、「僕、毒されている」と思うほどだった。でも、それがものすごく心地よかった。
 僕は、成績が悪いのを棚に上げて、高校の途中から学校にろくに行かずにグレていた、どうしようもない高校生だったけど、佳子さんがいてくれたおかげで、偏差値五十以下だった僕が、最後には一日十八時間勉強した。あれだけ「勉強しろ、勉強しろ」と口うるさく言っていた父親が「お前は勉強のしすぎだ。おかしいぞ」と青くなって声をかけてきたのを見て、僕の方が驚いた。
 そして、佳子さんに抱きしめてもらった湯島天神の深く青いお守りを持って入試に臨み、ついに、佳子さんと同じ早稲田大学に合格した。平成六年の春だった。
 合格したら告白しようと思っていたので、佳子さんについに「好きです」と言おうと思った。しかし、当時は携帯などない時代で連絡もうまくとれず、僕もぐすぐすしていたので、せっかく同じ大学に入ったのに、その後会えたのは、大学一年の五月にすれ違った一回だけで、ほとんど何も話せなかった。
 初夏の強い日差しのもと、白っぽいワンピースがかわいかった、佳子さん。その姿を見て以来、関係はぷっつりと途切れたままだ。
 それが、今、二十三年のときを越えて、電話口の向こうに、佳子さんがいる。僕は、必死に、笑ってしまうくらい必死に、熱っぽく話しかけた。
「あのう、覚えていますか」
 しかし、佳子さんの返事は、とても残酷なものだった。
「申し訳ないんですけど、覚えていません…」
 がーん。悲しくて、胸が落ちる。うーん、でも、そりゃ、そうだよな。僕が一方的に好きだっただけなんだから。しかし、僕はあきらめない。あきらめて、なるものか。僕は覚えているエピソードを次々と細かく話し始めた。粘ること、五分あまり。
「あの、私、一番前の席にいつも座っていて…」
 そのとき、息をわずかに飲むような音が聞こえた後、佳子さんが黙った。今だ、ここは覚えているんじゃないか。僕は、たたみかけるように話した。
「授業前にいつも、僕の隣に座ってくれて、ノート見てくれましたよね!」
 僕はいつも、チューターの佳子さんが勉強を見に、隣の席に座ってくれる瞬間が、ものすごく楽しみだった。かすかに香る、ものすごくいい匂い。その一瞬のために、僕は隣の席に絶対に誰も座らないよう荷物を置いたりしていた。ほんとに、しょうもない高校生だった。
「ああー…少し思い出した」
 僕は、ほっとした。よかった、佳子さんが思い出してくれた。僕はその一言が聞けただけでうれしかった。
 それから、ぽつりぽつりと、いろいろな話が出てきた。まだ、川水からわずかな砂金をすくい出すような感じだった。しかし、どんな川も、ぽつりぽつりとした雨や見えないくらいの細かい雪からすべて始まる。やがてこれが、大きなうねりをもたらす大河の一滴になるかもしれない。僕はその一滴であることを信じて、珍しく、面倒くさいにもかかわらず、丁寧に、熱っぽく話を進めた。

 そしてしばらく話すと、佳子さんが少し打ち解けた。僕は、すっかりうれしくなっていた。女の子に話をするなんて、聞くなんて、めんどくさいだけだったのに。なんでこんなに心地いいのだろう。僕はよくわからなかった。そんなわからなくなっている僕の、不意を突くように、佳子さんは、さらにうれしいことを言ってくれた。
「じゃあ、せっかくだから、手帳返すついでに、お茶でもしようか。」
「ええ!いいんですか! えっと、そしたら、あの、代々木のバーガーで、お願いします!」
「ええ!?」
 代々木のバーガーというのは、予備校のそばにある、とても古いハンバーガー専門店のことだ。僕はそこで、佳子さんとデートをするのを、いつも妄想していた。その夢をかなえるチャンスが、二十三年も経ってから、やってきたのだ。もちろん、最初に彼女が名乗ったとおり、名字が変わっているということはきっと結婚しているということだから、デートではないけれど、まあ、それはともかくとして、昔ずっと夢だったことが、どんな形であれ、かなうのはとてもうれしいことだった。
「僕、佳子さんと、代々木のバーガーで会うのが夢だったんです!」
「そうなんだ。子供だねえ」
 笑われたが、僕はまったくかまわなかった。そして日時を約束して、電話は切れそうになった。
「あ、そうだ。私ブログやってるの。『佳子 クールジャパン』で検索してみて。」
「そうなんですか!見てみます!ありがとうございました!」
 これで電話は終わった。でも、何かすごいことの始まりのような気がした。うれしくて、胸が鳴る。こんなことがあるんだなあ。僕はこの幸運に有頂天だった。
 すると、玄関でガチャリと鍵の音がした。みわちゃんだ。僕は、いつもの心の切り換えをせずに玄関に向かった。だって、気持ちがプラスなんだから。熱いんだから。いつ以来だろう、この感覚。
「おかえりっ」
「ただいまー もう新年会なのにタラタラタラタラ愚痴る奴がいてさー。うるさいんだよねー。あたし関係ないのにー」
 みわちゃんは僕の気持ちがプラスになっているなんて、まったく気づいていないようだ。当たり前か。そして、みわちゃん得意の、どうでもいいループのトークが始まった。これ、始まると長いんだよな。でも、今の僕は、そのトークがまるで昔の歌謡曲を聴くようにするすると耳に入ってきた。
「大変だったね」
「そーなのよ だって新年会なのに」
 また同じ話が始まった。みわちゃん、変な操作をしたICレコーダーのように、同じことを繰り返し繰り返し、よくしゃべるねえ。でも、それでもいいや。この夜の僕は、かつてないほど寛容だった。しばらくして、ひとしきり話が終わった。
「あ、じゃあ、お風呂行ってくれば」
「ありがと」
 僕は、みわちゃんを早く風呂に送り出して一人になりたかった。
 しかし、ふいに、みわちゃんが止まって、振り返った。
「なんか、いいことあった?」
「別に」
「ふうん」
「なんで」
「流れが違っていたから」
「流れ?」
「あー、めんどくさいね。なんでもない」
 よく分からないことを言いながら、みわちゃんが、風呂に消えた。よかった。さあ、見るぞ。僕は一目散にパソコンに向かい、佳子さんが教えてくれたブログを早速見ようと、ネット検索をかけた。
 ブログはすぐに、見つかった。さあ、一ページ目からしっかり読むぞ!
 しかし、そのブログを見て、僕は愕然とした。
「え?」
 その内容は、あまりにもひどく、想像を絶する世界が広がっていた。
 すると、今度は背後から、想像を絶する声がした。
「ちょっとぉ!」
「な、なに?」
「お風呂入れてないでしょ!浴槽が空よ!どうなってるの!」
「ああー、ごめんごめん」
 僕は一気に、現実に引き戻された。みわちゃん怒ってる。そりゃそうだよな、裸になって風呂に入ったら浴槽、空だもんな。
 佳子さんから電話がかかってきて、すっかり舞い上がっていた僕は、風呂を入れるのさえ、忘れていた。みわちゃんに丁寧に謝った。
 そして、数時間後。風呂を済ませ、機嫌が悪かったみわちゃんが寝静まり、ようやく、僕はブログと真剣に向き合えた。
 佳子さんのブログの内容は、およそ以下のとおりだった。
▼就職活動に失敗。大学卒業後、教材関連の会社に就職したものの、水が合わずに一年足らずで退職。
▼以降、転職を繰り返す状態が続く。
▼四社目が超ブラック企業のマスコミ。一週間家に帰れない状況が頻繁に続く。風呂と寝床はいつも健康ランド。
▼上司のパワハラを受ける。ストレスがたまり、酒が手放せなくなる。
▼やがて酒量が増える。ビールを毎日三リットル飲むようになる。
▼ついに倒れる。以降、医者から働くなと言われる。社会に復帰するのが困難に。
 なんだ、これは。
 僕は、この二十三年間、ずっと勝手な妄想をしていて、「お嬢様の佳子さんは、きっとノホホンと仕事をして誰かと結婚して、のんびりと幸せに暮らしているに違いない」と思い込んでいた。「誰かと結婚して」の部分だけは合っていたけれど、それ以外はひどい話ばかりだ。
「こんなにひどい状況で、佳子さんに会っていいんだろうか」
「ひょっとして、今は会わないでほしいと思って、あえてブログを教えたんじゃないか」
 僕はそう思い、ためらった。
 しかし、こんな偶然で、せっかく会ってくれるというのに、会わないのはあまりにもったいないし、会って励ましてあげることもできるのではないか、と思い、やはり会いに行こうと思った。
 どれだけ苦労を重ねたんだろう。僕は、長年そこに思いを致せなかったことを、悔やんだ。白髪だらけなのかもしれない。風貌がまるで変わっているかもしれない。
 でも、それでもいい。あの一言が、言いたい。僕、もう、後悔したくない。やっぱり、会ってみたいと思った。
 でも、ずいぶん面倒なことになるかもしれないな。行くのだって面倒のような気がするし。
 ん?でも、よく考えたら、あまり面倒って感じがしないな。変だなあ。僕が、僕じゃないみたいだ。あんなに面倒が嫌いだったのに。僕は自問した。まあいいや。とにかく行ってみよう。そう思って、日々が過ぎるのをなるべく淡々として、待った。
 
 そして、佳子さんに会う日をいよいよ迎えた。僕は定刻の三十分以上前に、代々木のバーガーの前に着き、佳子さんを待った。普段なら、五分ももったいないのにな。なんでこんなに早く足が向いたのだろう。僕にはよくわからない。
 ものすごく長い時間が経ち、ようやく定刻になった。定刻になった瞬間、まるでフロアディレクターからキュー出しがあったかのように、僕の後ろから、あの、少し甘く、ややかすれた声が、はっきりと届いた。
「石井くん。」
 僕は、満を持して振り返った。
 すると、そこには、まったく信じられない光景が広がっていた。
 あの、あの、佳子さんだ。
 そこにいたのは、昔とほとんど変わらない佳子さんだった。身長百五十五センチ。髪も当時とまったく同じで、やや細く編んだ三つ編みの黒髪を、後頭部にアップにしてラインを作っていた。
 か、かわいい。ほんとに、変わってない!
 佳子さんは、四十二歳のはずだ。しかし、どう見ても、どう厳しく見ても、四十代、三十代には見えず、十代に見えた。「三十代に見える四十代」はいるけれど、「十代に見える四十代」なんて、おかしい。まるで、沖縄で雪が降るようなものだ。沖縄での雪の観測は、明治以来の長い歴史の中でも、二度しかない。しかも、ブログと違って、ものすごく元気そうだった。そして、僕が振り返った瞬間に見せてくれた、これでもかというくらい気品のある、突き抜けるような笑顔。僕の心の中に、雲ひとつない青空が広がった。
 と同時に、僕はすっかり混乱し、動揺していた。
「あ、あのう、そのう、お久しぶりです」
「うん。お久しぶり」
「ずいぶん元気そうで、びっくりしました」
「びっくり?」
「はい。ブログにずいぶんつらい話が書いてあったんで」
「ああ、石井くん、あのブログ、最後まで読まなかったの?」
「え、続きがあるんですか」
「そう。そこには書いてあるんだけど、私、働けなくなってしばらくしてから、ダンスを始めて、それですっかり元気になって、今、坂の上テレビのそばでダンスを教えているの」
「ええ!坂の上テレビ!?」
「予備校でも言ったでしょ。問題文は最後まで読まないと、ねっ」
 佳子さんは視線を斜めに上げて、まるで高校生を諭すような顔をしたあと、得意気に笑った。そうか、ダンスを始めて元気になって、仕事で毎日ダンスにいそしんでいるから昔と同じような風貌なのか。一本とられた。
 それに、僕が今いる坂の上テレビのそばで働いているなんて、なんて灯台もと暗しなんだ、と思った。あと、最初の電話で言っていたとおり、家が中野坂上に近いってことは、たぶん僕が通勤に使っているバスと同じバスに乗って出勤しているんだな。道理でバスで手帳を拾うはずだ。世間は狭いなあ、と思った。
 そして、店に入った。やや奥の、二人がけの、斜めになっている、目立たない席に着いた。すると、佳子さんは、するりとコートを脱ぎ始めた。イギリスの有名なブランドのコートだった。身長百五十五センチの佳子さんは、体にまとわりつくようなコートのベルトを緩め、腰を軽く回した。
「えっ」
 僕は、コートから身を放たれた佳子さんを見て、唖然とした。コートを脱いだ佳子さんが着ていたのは、季節外れにもほどがある、白っぽいワンピースだった。僕が大学に入って、最後に佳子さんと会ったときと、きっと同じ服だ。スタイルもまったく変わってない。
 なんで、この真冬に、こんな白いワンピースを着ているのか、僕にはわからなかったし、ファッションセンスにうるさいみわちゃんが見ていたら、間違いなく軽蔑しただろう。それでも今の僕には、そんなことは関係ない。昔と同じ服ということで、ますますテンションが上がった。とても口には出せなかったけど。それに、せっかくの機会だったので、僕は、佳子さんといろいろ話をした。仕事のこと、世の中のこと、ダンスのこと。そして、気になったことも聞いた。
「どうして、手帳拾ったとき、電話くれたんですか?」
「ああ、手帳に気象予報士って書いてあったでしょ。私、気象予報士さん大好きなの。あと、坂の上テレビのしおりが挟んであったでしょ。私、坂の上テレビよく見てるのよ。昔から、テレビ局大好きで。要はミーハーなの。ミーハーだったから、予報士とテレビの二つにひっかかって、電話してみたのね」
「へー、じゃあそうじゃなかったら、電話しなかったってことですか」
「たぶんね」
 ひどいなあ、と言いながら、僕も、笑った。
 そして、佳子さんの顔を見た。本当に、二十三年前とほとんど変わらない。強いて言えば、目元のシワが一本増えたかどうか。しかも、あまりメイクしてないんだけど。この人、ベースの色白で、どこまで行くつもりなんだ?それに、もしかして、佳子さんのこの顔は、ファンデーションなしで、コンシーラーだけなのか?美魔女っているけど、佳子さんは、違う。美少女だ。本当に佳子さん、四十二歳か?ちょっと、ちょっと、おかしくないか?ひょっとしたら、化け物か?あるいは…偽物か?そんな余計なこと、失礼なことを考えながら、あまりにもジロジロ佳子さんを見たので、佳子さんは急に怒りだした。
「こらっ、女の子のこと、ジロジロ見ちゃいけないんだよっ」
「あっ、失礼しましたっ」
 そしてまた、佳子さんは笑ってくれた。この空気、二十三年前と、まったく同じだった。他愛ないことで、怒ってみたり、笑ってみたり。ただそれだけのことが、高校生みたいなことが、僕にものすごい幸福感を与えてくれていた。僕はなんて幸運なんだろう。二十三年も経って、こんな時間を過ごせるなんて。いや、神様が、二十三年前に戻してくれたんだ。タイムマシンに乗ったみたいなもんだな。タイムマシンって、あるんだな。ネコ型ロボットのアニメみたいで、すごいな。僕は珍しく、ほのぼのとした気持ちになっていた。
 そして、さらにうれしかったのは、好きなものが異常なくらい、一致することだった。佳子さんと一緒に、「好きなもの大全」を並べた結果、◎ビール◎米◎肉◎スパイス◎にんにく◎ピザ◎オロナミンC◎昭和歌謡◎大みそか◎紅白歌合戦◎箱根の温泉◎大相撲◎鉄道(首都圏限定)と、ここに書けるものだけでも、これだけ一致した。
 さらに、こんなマニアックなことを知っているのは、僕だけだ!と長年思っていたことも、佳子さんはことごとく知っていた。
「最近の紅白歌合戦って、若者向けみたいに言われてますけど、それって今に始まったことじゃないんですよね」
「そうそう。昔はもっと若い人ばかりのことがあったよね」
「え、昔の紅白がもっと若かったって話、知ってるんですか」
「うん。ひばりさんが司会のときがそうでしょ。ひばりさんがそのときの、紅組最年長だったのよね」
「それって、昭和・・・」
「四十五年だよね」
「ええ、どうして知っているんですか」
「それくらい、知っているわよ」
「じゃあ、そのときのひばりさんがいくつだったか、知っていますか」
「三十三歳よ」
「あ、あってます…」
 最近の紅白は若者向けだ、というのはよく聞く話だが、実は昔はもっと若者の出演者が多くて若者向けだった、というのは昭和歌謡フリークの僕しか知らない、秘密事項だったはずだ。しかも、紅組最年長が美空ひばりさんの三十三歳というのは、誰に聞いても出てこない、僕の得意の数字だった。ひどい相手になると「ひばりさんって誰ですか」なんて言ってくる世の中なのに、よくこんなことまで知っているな。僕は、自分の秘密の世界が侵されたような気がした。
 でも、その侵され方が、あまりにもきれいですばらしかったため、まったく不快に思わず、むしろ相手を褒め称えないといけないとさえ思った。ただ、あまりに正面から褒め称えるのは、僕にはまだ耐えられなかったので、少し混ぜ返して言った。
「いやー、ここまで知ってるって、はっきり言って変態ですよ」
「いいじゃない、変態で」
「変態がいいんですか」
「変態は変態でも、正しい変態ならいいのよ」
「正しい変態、ですか」
「そう。人に迷惑をかける変態は絶対ダメだけど、迷惑をかけずに楽しんでいるのが、正しい変態だと思うのよね。正しい変態同士で親しくなるのが、一番、当事者にとって幸せなことなんじゃない? だって、いいカップルは、みんなどこか、正しい変態同士だもの。私は、正しい変態、大好きなの。」
 正しい変態、いいな、と思った。
 また、お互い髪の毛で隠しているけど、実は超絶絶壁頭だったり(佳子さんの後頭部が三つ編みなのは絶壁を隠すため…初めて知ったよ!)、長距離走るのが苦手だったり、昭和の上司のように、壊れたテープレコーダーのように、繰り返し同じことを説教臭く言ったりするのも一緒だった。そして、何より、言葉をうまく並べて、誰かに伝わったときが最高、というところも一緒だった。僕は、放送局に勤める気象予報士として、佳子さんは、元・雑誌の編集者として。ここまで僕と合う人は、人生で初めてじゃないか。僕は、感動し始めていた。それに、僕の知っていた佳子さんに加えて、知らなかった佳子さん、でも、ものすごく僕に近い佳子さんが、僕の近くにいる。僕はますます感動していた。そして僕は、この信じられないような幸運が終わらないでほしい、とこいねがっていた。
 しかし、あっという間に時間は過ぎ、佳子さんの次の予定が迫ってきた。時計を見た佳子さんは、あっさりと「じゃ、これで」と言って、席を立とうとした。 
 そこで僕は、用意していた武器を繰り出した。
「あのっ!」
 小さく、鋭く、相手を確実に鷲づかみにする声を出した。周りの人には、わからないように。
 佳子さんは、驚いた様子だった。でも、かまわず、僕は続けた。さあ、言うぞ。二十三年前に言えなかった、あの一言を。

「僕、佳子さんのこと、大好きでした!」

 僕は予定通り、勇気をもって、口火を切った。まったく予定通りだった。そして、佳子さんの反応を気にする間もなく、話を続けた。僕が伝えたかった、二十三年間伝えられなかった、ずっとずっと言いたかった、この言葉を。
「早稲田に合格できたのも、母親が亡くなったのを乗り越えられたのも、全部、全部、佳子さんのおかげです。」
「でも、あのとき、僕が子供で、佳子さんにお礼がちゃんと言えなくて、好きであることも、きちんと言えなくて、僕は本当に後悔していました。」
「でも、きょう、代々木に戻ってきて、ここで会えて、昔と同じように話せて、同じように笑えて、同じ時間が過ごせて、本当にうれしかったです。」
「僕、二十三年前の忘れ物を、取り戻すことができたみたいで、僕は、本当に、うれしかったし、楽しかったです。」
「きょうは、本当に、ありがとうございました!」  
 頭を下げて、ゆっくり、上げて。
 そこで初めて、僕は、佳子さんの顔を、まともに見た。
 佳子さんは、目を見開いたままだった。そして、心なしか、いや、確実に、青ざめていた。
 まずい。僕、なんて一方的なことを言ってしまったんだ。僕の悪い癖だ。何かに有頂天になってしまったとき、一方的になる。
 僕は、ものすごく悔やんだ。何かフォローしなきゃ、と思って、口を開こうとした。すると、佳子さんが、先に口を開いた。

「あのね、」
「あのね。」
「わたしも、石井くんのこと、好きだったんだよ」
 …いま、何て言った?
 僕は、目の前が真っ白になった。比喩ではなく、本当に真っ白になった。そして、頭の中には、NHKがめったに放送しない「臨時ニュース」の開始を告げる、鉄琴のチャイムが繰り返し鳴り響いた。

「わたし、この人のために何かをやってあげたいって思ったのは、石井くんが初めてだった」
「それって、好きってことなんだって、あとでわかったんだけど」
「それに、私は女子中、女子高だったから、男の子とどうしたらいいか、あのとき、まだ、わからなかった」
「わかっていたら、もうちょっと違っていたかもね」
「私もきょう、二十三年前が戻ってきて、うれしかったよ」
「わたし、この人のことを好きだった」
「ありがとう、うれしかった」
 佳子さんの立て続けの言葉に、僕はひるまず、何かを答えようとした。僕は、昔から、誰かから何か言われて、言い返せないということはなかった。以前、坂の上テレビに総理大臣が来て冗談で毒づかれたときも、言い返した。しかしこのとき、佳子さんが、あの佳子さんが、あまりにも大きなことを言ってくれたので、僕は、言うべき言葉が見つからなかった。どうしよう。どうしよう。
 情けないことに、言葉の代わりに出てきたのは、涙だった。僕は両目から、大粒の涙をボロボロこぼしてしまった。
「あ、あの…」
 それを見た佳子さんは、気を取り直したように、少しお姉さんらしい笑みを浮かべた。
「ほら、女の子の前で、泣いちゃダメだよ」
 そう言って、そっとハンカチを差し出してくれた。
 そのハンカチが、強烈だった。ハンカチからは、予備校で隣の席に座って勉強を教えてくれたときに香った、佳子さんのあの匂いが、これでもか、これでもか、というほど、迫ってきた。全く同じ匂いだった。なつかしく、やさしい匂いだった。
「絶対にこのハンカチを汚してはいけない」
 僕はそう固く心に誓い、涙を拭くふりをして、ハンカチは使わず、下をしばらく向いて涙が止まるのを待った。
 少し経って、ようやく顔を上げた。すると、驚きの光景が広がっていた。
 佳子さんも、滝のように、泣いていた。僕は、ハンカチをとっさに返した。
「すみません、泣かせてしまって」
「ううん」
「すみません」
「・・・」
「あの」
「あたし、前ね、倒れて、苦しくて、記憶が薄れてしまったの」
「というか、正確に言うと、記憶をたどるきっかけを次々忘れてしまって、思い出せる思い出が少なくなっていたの」
「それが苦しいの、悲しいの」
「でも、この前から、石井くん一生懸命話してくれて、私も、少しずつ思い出すきっかけをもらって、思い出して、さっきの一言で急にパーンって、予備校での思い出がぐるぐるって巻き戻されてきたの」
「思い出が少なくなっていく自分が、なんだか、死んでいくみたい
で、悲しかった」
「でも、いま、大事なことを思い出せた」
「私にも、こんな大事な時代が、あったんだなって」
「人にやさしくしたり、好きだったりしたころがあったんだって」
「私も、昔生きていたんだなって」
「ありがとう、石井くん」
 僕は、息を飲むばかりだった。佳子さん、やっぱり、めちゃくちゃ苦しかったんだ。つらい経験をして、若いころの思い出が思い出せず、苦しんでいたんだ。この、若く、つややかな風貌からは全く想像できない、想像を絶する苦しさがあったんだ。僕はうなだれるばかりだった。
「そんなにつらい思いをしていたって知らずに、申し訳ありませんでした」
「ううん。いいの。大事なこと、思い出せたから。ありがとう」
「あたし、若い頃が、帰ってきたような気がして、うれしい」
 ようやく、佳子さんに少し笑顔が戻った。涙ではらした赤い目と、突き抜けるような色白の微笑みと。よかった。佳子さんが笑ってくれて、うれしかった。僕はとても、ほっとした。

 その後、僕は佳子さんと、代々木駅に向かった。僕はなるべく、ゆっくり歩いた。すると、佳子さんはふと、鋭い質問をしてきた。
「ねえ、もし、私たち、つきあっていたら、どうなってたと思う?」
「うーん…申し訳ないんですけど、うまくいってなかったと思います。僕は子供だったから、どう進めていいかわからなかったと思うし」
「うん。そうだよね。私も子供だったから、きっとうまくいかないよね」
「でも、恋ってうまくいかないことがあってもいいって、きょう、思うことができました。あと、何年も経って、ようやく日の目を見る恋もあるって、知りました」
「そうそう。恋は愛と、違うからね。愛にならない恋って、たーくさんあるけど、それがきっとどこかで役に立ってるから、人生っていいんじゃないかなあって、思う」
「そうなんですか」
「うん、恋にはだいぶ鍛えられたからね」
 僕は、少し考えた上で、少しおどけて言った。
「え、すると佳子さん、そんなにたくさん恋をされたんですか!?」
「さあーね。広報を通して、聞いてくださーい」
 また、笑った。しかも、僕をありったけの上目遣いで見ながら。僕の身長は百七十八センチなので、佳子さんとの背の差は二十三センチ。近くもない、遠くもないこの間。ここに、すばらしい時間が流れていた。くしくも、再会するまでにかかった年の数と同じ、二十三。いいなあ、この距離、この間合い。すると、佳子さんはちょっと真面目な顔になって、言った。
「実は私、就職のときに、坂の上テレビが第一志望だったんだよ」
「え、そうだったんですか」
「でも、一次であっさり落ちて。ミーハーだっただけだからね。それで志望してない会社に行って転職の繰り返しになったんだけど、石井くんが坂の上にいるってわかって、よかった」
「そんな、僕の場合は、たまたま入れただけです」
「人生って、その、たまたまが、大事なんじゃない?だから、石井くんは、私みたいに、入りたくて入れなかった人の代わり、なんだよね。石井くんは、代表なんだって思って、がんばってね」
「…はいっ」
こんな話をしていると、すぐ代々木駅のホームに着いてしまった。
 僕はここで、佳子さんに連絡先を聞こうかと思った。最初の電話も、非通知だったし。でもすぐに、聞いてはいけないと思った。これ以上、親しくなってはいけない、と思ったからだ。僕には、みわちゃんがいるし。佳子さんには、旦那さんがいるし。
 すぐに電車は来てしまった。
「きょうはほんとに、ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。ありがとうございました」
「代々木で出会って、代々木でお別れですね」
 僕は、格好をつけようとして、そんなことを言ってしまった。すると、佳子さんは目を伏せた。僕は、その場を取り繕うようにして言った。
「あ、代々木駅で場面作るなんて、いま流行の映画の、あの『君の名は。』っていう映画みたいですね」
「あは、うん、かっこいいね、あの、」
 佳子さんは、何か言いたそうな感じだったけど、僕は先に次の言葉を言ってしまった。
「これからも、がんばってください」
「…石井くんも。石井くんは私のいきたかった道を生きてるから、がんばってね」
「はいっ」
 僕が高校生のように返事をすると、佳子さんを乗せた電車は、ドアが閉まった。ゆっくりと滑り出す、ステンレスの車体。僕は代々木駅の長いホームの端まで、佳子さんの電車を追いかけた。そして、赤いテールランプが見えなくなるまで、ずっとホームから、電車を見つめていた。
 僕、また、泣いてしまう。いや、泣いちゃいけない。さっき、好きなもの大全を並べたとき、こんな会話があったからだ。
「一番好きな歌って、何ですか」
「昭和歌謡だから、石井くん知らないよ」
「そんなことないですよ。僕も、昭和歌謡フリークです」
「へえ、じゃあ、知ってる?『涙をこえて』。」
「え!ほんとですか!僕、死ぬほど好きです!」
「ほんとに?すごーい」
 涙をこえて、行こう。なくした過去に、泣くよりは。あの歌のとおりじゃないか。この歌、なんだか最近縁があるなあ。僕はまた目を閉じて、夜空を見上げた。佳子さんの言ってくれた言葉をかみしめて、涙をこえて行こう。僕は、歩き始めた。

 その後、僕はどうやって帰ったのかよく覚えていない。やや放心状態のまま、家に帰った。それが、まずかった。みわちゃんが、気づいた。
「ただいま」
「…お帰りなさい」
 みわちゃんは、ずいぶんいつもより低い声だった。
「誰と、会ってた?」
「ああ、あの、高校時代の先輩にね」
「女性、でしょ」
「…そうだけど」
 そこで変な沈黙が流れた。
「最近、なんか流れが違うのよね」
「流れ?」
「そう。絶対違う」
「何の流れ?」
「その女性に、影響されている流れなんじゃない?」
 みわちゃんが、真を突いた。
「たしかに、その女性に影響されてるかもね」
「どんな人なの?」
「…話すと長くなる」
「やましくないの」
「やましくない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「…お風呂行ってくるね」
 そこで話は終わった。
 まあ、いいじゃないか。僕はやましくないんだから。でも、ちゃんと説明しとくべきかだったかな。いやいや、でもそれってめんどくさいし。ここで僕は気づいた。佳子さんには、面倒くさいことをやるのに、みわちゃんには、めんどくさいことをしない。これ、なんでだろう。僕には、まだわからなかった。
 やがて、みわちゃんが風呂から上がった。みわちゃんは珍しく、冷蔵庫を開けて、缶ビールを持ってきた。引きちぎるようにプルタブを開けて、ビールを飲んだ。缶を持ったみわちゃんは、僕におもむろに近づいてきて、言った。
「石井さんに、話してないことがあるんだけど」
「何?」
 石井さんと呼ばれたのも、久しぶりだった。そして、話してないことがあるという言葉が刺さってきた。僕の心は急にざわついた。
「あたし、結婚していたことがあるんだよね」
 は?今、なんて言った?みわちゃん、そんな話聞いていないよ。つきあって一年三か月も経つのに、聞いていないよ。なんでそんな大事な話、黙っていたんだよ。僕はよほどその言葉を口にしようとしたが、めんどくさいので、飲み込んだ。代わりに、最初に頭に浮かんだ言葉を、口に出した。
「今、なんて言った?」
「だから、結婚していたことがあるんだよねって、言ったの」
「…そうなんだ」
「そう」
 僕は次の質問をどうしようか、迷った。だから、定番の質問をした。
「どんな人と、結婚していたの?」
「高校時代の後輩」
「え、年下?」
「そう。一学年下。」
「みわちゃんって、年上好きだとばかり思ってたよ」
「その一学年下の人と別れたから、年下NGになったの」
「そうなんだ」
「いつごろ結婚していたの?」
「三年前まで」
「え、じゃあ結婚したのは?」
「七年前」
「じゃあ、二十代で結婚して、二十代で離婚したってこと?」
「そう」
「…なんで別れたの」
「向こうが浮気したの。十歳も年上の女と、ね」
 僕には、みわちゃんにそんな波乱万丈の過去があったなんて、まったく想像していなかった。
「でも、なんで急に話そうと思ったの?」
「石井さんが、高校時代の先輩と会っていたって聞いて、言わざるを得なくなったなって、思ったの」
 そうか。みわちゃんは、自分の過去と僕の今とを重ね合わせたのか。そして、僕が秘密を明かすトリガーを引いてしまったのか。秘密のままにしておいてくれればよかったのに。僕は勝手なことを思っていた。
「ごめんね」
 みわちゃんは謝った。
「いや、そんな。」
 それから、しばらく沈黙が流れた。
「じゃ、もうきょうは寝るね。おやすみ」
 そう言って、みわちゃんは立ち上がり、寝室に消えた。
 それからというものの、僕とみわちゃんの間には微妙な空気が流れ続けた。みわちゃんは、佳子さんのことをそれ以上聞いてこなかった。でも、それがかえって恐かった。ああ、もう佳子さんのことは忘れよう。そう思っていた。よかった。佳子さんに連絡先聞かないで。そのときは、そう思っていた。
 しかし、僕の思いとは別のところで、話は進行していた。
 僕の運命は、ゆっくりと近づいた彗星に、もう、飲み込まれるところだった。


 平成二十九年二月。

 みわちゃんとの微妙な日々は、まだ続いている。別れを切り出されるわけではないけれど、かと言って、居心地のよいことは全くなく、僕の世界は、かなり狭くなってしまったような気がした。みわちゃんは淡々と、そして僕も淡々と生活していた。お互い、めんどくさくならないように。
 さて、きょうは泊まり勤務だ。天気予報は、こんなにワークライフバランス、働き方改革を重視する世の中にあってもやっぱり二十四時間営業なので、僕は月に二回くらい坂の上テレビに泊まる。
 でも、泊まりの後は、気分を切り換えたくなるので、小さな旅行に出かける。僕のお気に入りは、だんぜん箱根。新宿がホームグラウンドで、箱根はサブグラウンド。それくらい、箱根にはよく行っている。子供のころ、父親のやっていた薬屋の組合の保養所に行くことで通い始めた箱根。それから、大学のときからは、正月に駅伝を見に行くようになった。天下の嶮と呼ぶのにふさわしい急峻な地形と、四季折々の美しい風景の数々。社会人になってからも、箱根好きは変わらない。特に、硫黄泉が出るところは最高だ。硫黄の匂いがすると、なぜだか不思議にテンションが上がる。匂いに引き寄せられるように、僕は箱根によく行っている。
 ちなみに、きょうのみわちゃんは、仕事が終わったら実家に帰ってお泊りだという。今、みわちゃんにはちょっと会いたくないが、いないとちょっとさみしい。泊まり明けで眠い目をこじあけて一人で家にいても仕方がない。そこで僕は、箱根の峠のてっぺんにある硫黄泉のある宿に出かけることにした。僕は最近たまにここに行っている。去年、会社でばらまかれていた優待券をもらってから、すっかり気に入った宿だ。翌日は休みだから、一泊してのんびり帰ってくることにしよう。僕はみわちゃんの通告のあとすぐに、この宿に予約を入れた。

 平日の午前。坂の上テレビを出て、新宿駅に向かう。仕事に向かう人とは逆流して観光地に向かうのはなんだか得した気分だ。 
 新宿駅で、箱根湯本行きの切符を買い、僕はロマンスカーに乗り込んだ。昔、小学二年生のときに、母親と一緒に初めて乗ったロマンスカー。ロマンスカーには、客席まで飲み物を持ってきてくれるサービスがあり、母親が、グラスに入ったオレンジジュースを買ってくれた。僕はロマンスカーに乗ると、いつもそのことを思い出す。
 僕の家は、父親がたいてい留守だった。母親は、いつも同居していた祖母、つまり姑の目を気にして、僕と二人で一緒に出かけることなんて、なかった。出かけるときにはいつも姑がついてくるので、母親はそのご機嫌伺いに精一杯だった。時にはうまくいかず、悔し涙を流していた。
 ところがある日、姑が別の旅行に出かけたため、母親が、急きょ僕を箱根に日帰り旅行に連れ出した。そのときに買ってくれたオレンジジュース。華やかな服のお姉さんが、うやうやしく持ってきてくれた。母親も、すごくおいしそうに飲んでいた。
「あー、おいしいね」
「おばあちゃんには、内緒だからね」
 そう言っていたのが、今も記憶に残っている。それが、最初で最後の、母親と僕の旅行だった。十五歳のときに、母親は突然亡くなった。心筋梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人になってしまった。四十八歳だった。普通に生きていてくれたら、今、旅行くらい連れて行ったのにな。普通に生きるって、難しいんだな。母親の年齢に少しずつ近づいてきた僕は、そんなことを思い、ロマンスカーに乗った。
 海外からの観光客が多いためか、平日の午前にしては珍しく満席だった。中国語や韓国語が入り混じる車内。日本にいるはずなのに、なぜかアウェー感満載だ。僕は、切符で指定された窓側の席に座った。するとほどなくして、白く輝くロマンスカーは軽快なミュージックホーンを鳴らして、新宿駅を出発した。
 新宿を出てすぐ、僕の思い出の代々木の予備校のそばを、ロマンスカーは縫うように一瞬で通り過ぎた。そして、代々木八幡のお宮を回りこむ急カーブを通過するころ、僕の隣の通路側の席の若い女性がひとつ前の通路側の席の若い男性とお弁当を分け合いながら食べ始めた。男性が、首をこちらに向けて、後ろにいる女性に鶏肉を食べさせていた。そうか、満席で切符が横並びでとれなかったから、前後にこの二人は座っているんだな。前後でも一生懸命コミュニケーションしようとしているんだな。いいなあ、心通わせて。昔の新婚旅行みたいだ。少し感激した僕は、
「もしよければ、僕、席、替わりますよ。せっかく一緒なんだから、前後じゃなくて、隣同士の方がいいでしょう」
と言った。
「え、いいんですか」
「ありがとうございます」
 男女は、うれしそうだった。僕は喜んで席を変わることにし、荷物を持って、窓側の席から、ひとつ前の通路側の席に移動した。 
 ひとつ前の通路側の席に入ったその瞬間、僕は凍りついた。
 ひとつ前の窓側の席には、寝息を立てて窓に寄り添うように寝ているサングラス姿で淡い瑠璃色のワンピースを着た、色白の女性がいた。サングラスはかけているけれど、明らかに、明らかに、どう見ても。あの、これって冗談ですよねと自分に問いかけなければならないくらい明らかな姿が、そこにあった。
 あの、佳子さんだった。
 あの、なぜ、ここにいらっしゃるのですか。僕にはそれくらいしか頭に言葉が浮かばなかった。楽しかったはずの箱根旅行は、一気に緊張感満載旅行に変わってしまった。アウェー感あふれる車内で、緊張感も満載かよ!僕は珍しく、大好きなロマンスカーをうらんでしまった。普通、好きだった女性がいたり、偶然再会した人がいたりすると、喜びにあふれるものではないかと思う。しかし、このときの僕には緊張感しかなかった。この前、代々木で佳子さんに再会したときは、緊張感はたしかにあったものの、「かわいい」とか「変わらない」とか感激していたのに、なんで今日はこんなに緊張感ばかりなのだろう。僕は、また自分がわからなくなっていた。
 もう、降りた方がいいのかも。ちょっと苦しいよ。ロマンスカーは、次、町田に止まるはずだし。
 だいぶ長い時間が経って、ロマンスカーは町田に到着した。佳子さんは、寝息を立てたままだ。僕は意を決して立ち上がろうとした。すると、ひざ掛け代わりにしていた自分の黒いダウンの袖を思い切り踏んでしまい、その場に転びそうになってしまった。
「あっ」
 思わず、鋭く刺さるような声を出してしまった。その瞬間、佳子さんが、キッと目を覚ました。目を覚ますと、目を丸くした。きっと、お互いに。
「石井くん?」
 まずい、見つかっちゃった。
「どうしてここにいるの?」
 それ、こっちの台詞なんですけど。
「あの、泊まり明けでロマンスカーに乗ったら、佳子さんいて、驚いていました」
「ああ、もう来てくれたのね。よかった」
 佳子さん、何言っているんですか。きっと寝ぼけているのだろう。
「あの、偶然なんです。僕、最初後ろの席にいて、席を代わったら佳子さんいて」
 僕がそこまで言うと、ロマンスカーは、軽やかなミュージックホーンと共に、町田を出発してしまった。うわ、降りられなかった。少しあわてる僕を見て、佳子さんは、目をぱちくりさせた。クリーム色のショールで、少し唇を塞いでから、また、僕を見た。笑った。 「ま、いいじゃない。こんなこともあるのね」
「はい。」
「のど、渇いちゃった。あ、車内販売来た」
 後ろを振り返ると、ちょうど販売員の女性がワゴンを押して訪ねてくるところだった。昔のロマンスカーは、別の場所で淹れたグラス入りのオレンジジュースを、お姉さんがうやうやしく持ってきてくれていたけれど、つい最近、それが廃止されてワゴンサービスに変わった。昭和のころにはできていたことも、今はいろいろな事情の変化でできなくなっているのだろう、と思った。
「すみません、オレンジジュース二つ」
 え、オレンジジュース?しかも二つ?
「せっかくのご縁ですので、石井さんの分も注文させていただきました。」
 おどけるように丁寧に言う、佳子さん。
「私、ロマンスカーのオレンジジュース、昔から好きなのよね。パパがよく買ってくれたの。パパはジュース買わない人だったのに、ここでだけ、買ってくれたの」
「そうなんですか」
 僕はまた、驚いた。母親と一緒に飲んだ、僕にとって思い出のオレンジジュースが、佳子さんにとっても、思い出のオレンジジュースだなんて。僕は思わず、母親と飲んだオレンジジュースの話をした。すると、佳子さんはまた目を丸くした。
「そうなの。似てるね。ふーん」
と言ってくれた。テーブルの上にパックのオレンジジュースが置かれた。僕は佳子さんとほぼ同時に、ストローをするりとさして、きゅっと一口飲んだ。
「あー、おいしいね。」
 佳子さんが、潤った声を出した。
「はい。」
 僕も一口飲んだ。ものすごく、おいしかった。母親と飲んだ昔の日のことが、なぜか急に思い出されてきた。
「お母さん、きっと、すごく苦労したんだと思うよ。生きてたら、よかったのにね。」
 そう言うと、佳子さんは、どうしてなのか、目に少し涙を浮かべていた。
「そうですね。ありがとうございます。」
 僕は、佳子さんの涙に少し動揺して、そう言うのが精一杯だった。
 窓の外を見ると、ロマンスカーは海老名と厚木を結ぶ相模大橋を通過していた。茶色い桜の木が、寒々とした灰色の曇り空の下に立っていた。いきものがかりの「SAKURA」という歌に「小田急線の窓に映る桜」とあったけど、あれかな。あの歌も切ないよな。そして、今ここでまた佳子さんに再会してしまった僕も、切ない。しかも、佳子さんが僕の家族の話をすると、さらに切ない。そんなことを思っていると、僕も泣きそうになってしまった。
 すると、佳子さんは、その雰囲気を察知したようで、
「そういえば、石井くん、どこ行くの?」
と努めて明るく聞いてきた。
「あの、箱根です」
「あらあ。私も箱根よ」
「え、あ、たしかに、箱根好きって、前会ったときに言ってましたよね」
「そうそう。箱根のてっぺんまで行くのよ。硫黄泉好きで」
「え!てっぺん?あの、ひょっとして、峠の上ですか?」
「そうそう、峠の上のホテル。あそこ、私好きなのよー」
 好きなものが一致しているというのは、恐ろしいもので、こんなことがあるのか、と僕は思った。僕は、もう仕方ないと思い、白状した。
「僕も、峠の上のホテルに行くところなんです」
「え、そうなの?」
 佳子さんは一瞬のっぺりとした表情になった。しかし、すぐに笑顔に変わった。
「ふふ、よかった。」
 佳子さんは、ちょっとほっとしたような笑みを浮かべていた。僕にはそれがよくわからなかった。
「え、よかった?」
 僕がそう言うと、佳子さんはわずかに考えるような間を空けた後、仕切り直すようにこう言った。
「だって私、地図が読めない女だから、あそこにバスで行くの苦手でね、いつも別のバスに乗っちゃうのよ。石井くんいれば安心ね」
 確かに、峠の上のホテルに行くには、箱根湯本駅で何本もあるバスの中から選んで、そして時には乗り換えていかないといけないから、人によっては、迷うと思う。僕は、そこにまで行く案内人として喜ばれたことに、少し釈然としない思いがあったものの、まあ、喜ばれないよりかはいいかと思い、
「僕も、うれしいです。」
とひとまず答えた。
 すると佳子さんは
「私も」
と言って、まるで少女のような純情あふれる笑顔を見せた。横顔がきらりと光ったように見えた。僕の胸に、その横顔がキュキュッと刺さった。佳子さんの横顔は、僕が初めて見る横顔で、甘酸っぱい香りがした。僕の心の中にも、オレンジジュースが注がれたようだった。そんなふうに、心に染み入ってくる佳子さんを前に、僕の発する言葉は、限られていた。
「そ、それにしても、偶然ですね」
 平凡な言葉だと自分では思った。すると、佳子さんは少し冷たい返事をした。
「あら、そう?」
 僕はその返事が少し冷たかったため、何かまずかったかと思い、少しあわてて言い返した。
「だって、同じ日に、同じ電車で、同じ箱根の、同じホテルに行くなんて、おかしいじゃないですか。ありえないって、普通思いますよ」
「そうかな」
 佳子さんは、なおも冷たかった。
「よく考えてみたら?だって、石井くん、峠の上に行くのって、珍しいの?」
「いえ、月に一度くらい行ってます」
「土日にも行っているの?」
「いえ、きょうみたいな、平日の、朝だけです。込んでるから」
「私もだいたい同じね。月に一度くらい、平日に行ってるの。土日は教室が休めないから」
「そうなんですか」
「うん。石井くんは、きょうが何回目くらいの、峠の上?」
「そんな、数えたことないです」
「私も。数え切れないくらい同士なんだから、そのうち一致するのもおかしくないんじゃない?」
「うーん、そうなんですか」
「そうそう、ロマンスカーでロマンス!かもね」
 ロマンスカーでロマンス!なんて昭和なことを言ってくれるんだ!ちなみに、ロマンスカーという名前は、昭和二十四年に、映画館に設けられた恋人同士のための二人がけの座席「ロマンスシート」に似た座席を採用した、ということで付けられたものだ。そんな古い話を、鉄道好きな僕は、知っている。いや、ひょっとしたら僕と同じ鉄道好きの佳子さんもこの話を知っているからこんなことを言ったんじゃないか?僕はそう思ったが、ロマンスという言葉を佳子さんの前で口にするのが恥ずかしくて、聞けなかった。そんな、あの佳子さんとロマンスだなんて。僕は少し舞い上がって混乱した。こんなロマンスカー、初めてだ。
 何度も乗ったロマンスカーが、今、まったく知らない世界に連れて行ってくれる乗り物のように、そして、僕と佳子さんを不思議につないでくれる乗り物のように、僕は感じていた。

 気づくと、ロマンスカーは小田原の駅に着いていた。
 小田原は、JR在来線や伊豆箱根鉄道、新幹線も含めて、十四番線までホームがある大きな駅で、ロマンスカーは、単線の箱根登山線に乗り入れる前のわずかな休息に入った。
「石井くんって、どんなときが切り換えになるの?」
 佳子さんは、不意に変な質問をしてきた。
「切り換えって、何ですか」
「ほら、ロマンスカーは、登山線に入ると、一気に周りの雰囲気が変わるでしょ。そんな場面」
 僕はつい、「みわちゃんに会う前に、いつも心の切り換えをしています」とか「切り換えて、心のクサクサがバレないようにするのが大事なので」みたいな話をしてしまいそうだったが、すんでのところで、それをやめた。佳子さんに、みわちゃんの話をしても仕方ない。いや、みわちゃんの話を、したくない。
 そこでつい
「あ、局に入って、天気図を前にすると切り換わります」
などという、適当な答えをした。すると佳子さんは
「さすがプロねー」
とほめてくれた。うそなのに。佳子さんに、申し訳ない気持ちがわいてきた。すると佳子さんは
「あたしは、ダンスの衣装を着るときかな。気持ちを切り換えるのって、大事よね」
「ここから登山線に入るときに、私、いつも箱根モードに切り換わるの。だから、小田原に着くと、ダンスのこと、あと、ついでに教えているヨガのこともちょっと思い出すんだけど、そこで終わりなのよね。ここからは、あたし、本当にプライベートな気持ちになれるの」
と言った。
 プライベート、という言葉に、僕はキュンとしてしまった。プライベートな佳子さんと、一緒にいられる。僕はまた、勝手にドキドキしてきた。佳子さんは、そんな僕にお構いなく、
「あ、動き出すよ。いよいよ箱根でーす」
と楽しそうに、話を続けた。
 ロマンスカーは、動き出した。小田原を出てすぐ、トンネルに入り、単線をずんずんと進んだ。箱根板橋を通り過ぎると、窓の外には枯れた木の葉が手に取るようなところまで迫った。小田原を出て、まだ三分くらいしか経っていないのに、明らかに周りの様子は切り換わっていた。
 すると、何か軽やかなメロディーが聞こえてきた。本当にわずかなメロディーだった。よく耳をすませた。それは、佳子さんの鼻歌だとわかった。何の歌かはわからなかったけど、軽やかで、明るそうな歌だった。楽しそうだなあ。僕はずっと緊張しているんですけど。緊張を打破するために、僕はあえて佳子さんに聞いた。
「何の歌ですか?」
「え、聞いてたの?やだあ、恥ずかしい」
 そう言うと、佳子さんは、少しはにかんで、言った。
「今度、教えてあげる」
 そう言って、ごまかされた。女の子の気になるところって、なかなか聞き出せないなあ。僕は、高校生のような小さな悩みを抱えた。
 大きな悩みはいっぱいあるけど、こんな小さな悩み、久しぶりだな。それこそ、佳子さんが予備校で隣の席に座って勉強を教えてくれるかどうか、悩んでいたとき以来かもな。つくづく、佳子さんは、昔を思い出させてくれる、不思議な女性だと思った。
 
 そして、まもなく、ロマンスカーは箱根湯本に着いた。
 佳子さんは「キターっ」と言って、ややひんやりとした、湿り気のあるホームにぴょんと降り立った。何がそんなにうれしいのか、僕にはよくわからなかったが、うれしそうにしている佳子さんを見て、僕もうれしくなっていた。
 駅前にあるバス停に向かうときだった。僕は佳子さんの荷物がやけに少ないことに気づいた。女性って、もっと荷物が多いものじゃないか。みわちゃんだったら、一泊旅行のときでもスーツケースを持ってくる。でも、女性に「荷物が少ないですね」なんて聞くなんて、失礼だと思い、聞くのをやめた。そして僕は、行き先を確かめて、バスに間違いなく乗った。
「ガイドさんがいると、助かりますう」
「いえいえ」
 ちょっとバカにされたようなほめ方だったけど、佳子さんはなんだか喜んでいるので、僕もうれしくなっている。
 バスはほどなくして出発した。出発してすぐ、函嶺洞門という古いトンネルが近づいてきた。かつては、箱根駅伝のランナーがみんな通った、昭和初期にできた鉄筋コンクリートのトンネルだ。老朽化のため、何年か前に閉鎖され、バスはトンネルの前にできたバイパスを通るようになった。
「函嶺洞門も、終わっちゃったよねえ」
「はい」
「昭和がまた、終わってるよね」
 そんな佳子さんの問いかけに僕はあっさりと
「ま、九十年も経ちますからね」
などと気障に答えてしまった。さっき、ガイドとして、ちょっと馬鹿にされたことに対する意趣返しだった。
 それに対し、佳子さんはわずかに頬を膨らませて
「経ったって、たったの九十年よ」
と反論してきた。それに対して僕は
「たった九十年って言いますけど、佳子さんだって、その半分も生きてないですよね。九十年って、長いんですよ、たぶん。僕にもよくわからないですから」
とまた反論した。すると佳子さんは
「そうかなあ。昔の九十年は、今の三十年より短いと思うんだよね」
と言った。
「前、私が雑誌を作っているときに、年表を作っている人を取材したことがあったんだけど、みんな、昔より、今の方が、書くことがうんざりするくらいいっぱいあるって言ってたんだよね。昔の方が、すっきりしていて、わかりやすかったんだって。今に近くなればなるほど、情報がたくさん集まってきて、複雑になって、わかりにくくなって、今はもう、情報と複雑さ、わかりにくさにあふれてるんだって」
今の方が、複雑で、わかりにくい。僕の心に、少しひっかかった。佳子さんは話を続けた。
「あと、昔の方が人の気持ちがもっと有機的につながっていたから、時間が短く感じられたんでしょ。今は、無機質で、無常の時間が通り過ぎるのを、みんなくたびれながらひたすら待っているみたいな感じなんだよね。情報に埋もれながら、ひたすらね。だから、昔の九十年は今の三十年より短いって思うんだよね。だから、平成より昭和の方が、短かったような気が、私はするんだよね」
とすらすらと言った。ふーん、そんな見方があるんだな、と思った。と同時に、確かにそんなこともあるかもな、と思った。今は情報があふれていて、複雑で、わかりにくい。そのくせ、みんな自分のことばかりに関心がいっていて、他人にあまり興味がない。それは、自分のことを守るのに、精一杯の世の中になってしまったからだ。だから、他人をなかなか見ない。道行く人も、他人ではなく、自分のスマホばかりを懸命に見ている。他人にぶつかっても、謝りもせずにスマホを見続ける人もいるくらいだ。情報は他人が生み出した他人関連のものがほとんどなのに、人はみな、情報に右往左往して、結局は自分のことばかり見て、生きている。他人と自分の間に、大きな間が空いている。そこに、言い知れぬギャップ、そして無常を感じる。そういうことなのかな、佳子さんが言いたいことは。僕は
勝手に、佳子さんの言葉から予想して考えていた。まるで、天気予報をするときのように。でも、せっかく箱根に来たのだから、こんな難しいことを考えるのはやめた方がいい。僕は佳子さんに向き直った。
「そうですね。今の方が、なんでも多すぎて、重いですね」
 すると佳子さんは
「そうね。昔の方が、意味がちゃんとあるのよね。なんでかな」
と嘆いた。
 僕はそれに対して、うまい答えを言うことはできなかった。
 しかし、都合のよいことに、ちょうど、車窓から僕たちが求めていた香りが漂ってきたので、助かった。
「あ、硫黄の香り!」
「そうですね。箱根来たって感じですね!」
 僕たちは少し、テンションが上がった。そして僕は、少し鼻をひくつかせると、隣の席に座っている佳子さんから漂うあの香りも、感じることができた。予備校で隣に座ってもらうのが夢だった佳子さんと、今一緒に箱根のバスに乗っていて、箱根の硫黄の香りと一緒に、佳子さんの香りも感じられる。僕は少し、大人の階段を上ったような、幸せを感じていた。大人の階段なんて、もうとっくに上ったつもりだったのに。四十にもなって、上る段があったんだな。
 あ、ということは、僕はやっぱり子供だったのか。僕はみわちゃんや後輩にえらそうにフンフン言っているけど、実はまだ、子供なのかもしれないな。僕は、そんなことを感じさせてくれた佳子さんに、まぶしさを感じていた。
 それにしても、この人、本当に、何なんだろう。どうしてこんなにいろんなことを考えさせたり、感じさせたりしてくれるのだろう。僕はますます、不思議な気持ちだった。

 その後、バスは三十分ほどかけて、狭い国道をぐいぐいと登った。よくこんな急な坂を登れるな、と何度来ても思う。そして、急カーブを曲がるたびに、バスは大きく揺れる。寝不足で気持ち悪いときにバスに乗ったときは、その揺れがもう来ないでほしいと願ってばかりだった。しかし、きょうは佳子さんが隣にいて、バスが揺れるたびに素敵な香りにほんのりと包まれるので、どんどん揺れてくれ、と思った。
 そして、いよいよ、峠のてっぺんに着いた。近くにある温度計は、よく晴れた昼下がりにもかかわらず「-2℃」という厳しい数字を示していた。
「予報士さん、寒いねー!」
「はい」
「なんでこんな寒いの?」
「きょうは放射冷却が朝強まった上に、昼になっても北から冷たい空気が流れ込んできているからです!」
「よくできましたー!キャー!」
 峠の上を吹き抜ける突風に、佳子さんは髪を振り乱して黄色い声を上げていた。
 そこから歩いて、二十分ほどさらにうねうねとした山道を登り、佳子さんと僕は、峠の上のホテルに着いた。もう、鼻水も凍る寒さだ。佳子さん、よくこんなところに来るな。よほど硫黄泉が好きなのか。
 やがて、ホテルのガラス張りの玄関が見えた。そろいの半纏を着た、ホテルの従業員がずらりと十人、玄関の前に並んでいる。近づいてみると、男性五人、女性五人だった。これから団体客でも来るのかな。そう思って近づくと、バッと同時に、みんな頭を下げた。
「おつかれさまでー、ございますーっ」
 へ?何か変なものを見てしまったような気がした。
 その列の前に、佳子さんが進み出た。
「こんにちは」
 佳子さんがそう言うと、一番年がいっていると思われる、やや頭が禿げた番頭と思われる男性が、さらに深々と頭を下げた。
「お嬢様、ようこそおいでくださいました」
 お嬢様?僕は事情がよくわからなかった。

第2部

「もう、やめてよ。きょうは彼が来ているんだから。大事なの、彼。」
 彼って、誰?大事なの、彼?僕はますます事情がわからなかった。
「これは、失礼をいたしました。寒いので、どうぞ中へお入りくださいませ」
 番頭さんに促されるように、僕は佳子さんと一緒に玄関に入った。 すると、玄関の中には、さらに頭の禿げ上がった男性がいた。
「佳っちゃん、よく来たの」
「おじさま。ありがとうございます」
 おじさまと呼ばれた男性は、すぐに僕を一瞥した。
「むむ。この御仁は」
「あ、彼です。連れてきちゃった」
「おお、これが。いい人そうじゃのお」
「まあね」
「まあまあ、入んなさい」
 何を話しているのか、僕にはますますわからなかった。ただ、佳子さんは、僕に悪びれずもせずに、どんどん話を進めているように見えた。なんだか流れに取り残されているような気がして、僕はあわてて会話に割って入った。
「あのう、私」
「まあまあ、話はあとでゆっくり聞かせてもらうからね。とりあえず入んなさい」
「ええ?」
 僕が何の話をゆっくり聞くのか尋ねようとしたところ、佳子さんが素早く口を挟んだ。
「石井くん、遠慮しなくていいから」
「ええ?」
「おお、石井くんというのか。どうかこれからしっかりよろしく」
「あの、しっかりといわれましても」
「い・い・か・ら!とにかく、入りましょう」
 佳子さんは、見たことのない強引さで、僕を自分の世界に引きずり込んだ。僕はちらりと、強引になった佳子さんの顔を、少しの不信感をたたえてから見た。すると、佳子さんは、何か哀願する目をしていた。しかも、何かを頼み込むような目だった。僕はその瞬間、つい
「あ、はい。わかりました」
と答えてしまった。
 すると佳子さんはほっとしたように笑って、
「だよね」
と言って、ホテルの人たちと建物の中へと入っていった。僕もあわててその一行に付いていった。いったいどういうことなのだろう。僕の頭の中は、整理できないままだった。
 ホテルの人たちと佳子さんに導かれたのは、ホテルの一番てっぺん、つまり、箱根の中で一番てっぺんと思われる展望室だった。とにかく広い。そして、ホテルの人たちが丁寧に、お茶や温泉饅頭を出してくれて、ひとしきりの世間話がすむまで三十分くらいかかった。その間、僕はかなり居づらい思いをした。敵方に囲まれた、心細い足軽のように。
 やがて、半纏を来た最も年増な感じの女性が
「それでは、お嬢様、これで。ごゆっくり」
と言って、ようやく敵方の全員が去った。
 僕はため息をついた。そして、足軽はキッと姫様の顔を見た。
「どういうことなんですか!わけわかんないですよ!」
「ごめんね」
「あの、一から説明してください」
「一から説明すると長くなるんだけど」
「じゃあ、十からでもいいです!」
「あは。面白いね。じゃあ、十からいこうか」
「ふざけないでください!だって、どういう状況なのか、僕だけ全然わかってないじゃないですか!」
「ごめんね。」
「どうしてなんですかあ」
「じゃあ、十から話すね」
「やっぱり、一からお願いします」
「えー、それだと長くなる」
「でも、一からがいいです」
「しょうがないな、わかったよ」
 そう言うと、佳子さんは、少し申し訳なさそうに、座り直した。
 僕はその様子を見て、ガンガン責めてしまった自分を、少し恥じた。
「私の父親がね、このホテルやってる会社の、経営者だったの」
「お父さんが」
「そう」
そこで僕は気づいた。
「え、あの、このホテルって、あの、大王子観光のじゃないですか」
「そう」
 僕はそこで、ふいに、さっきのロマンスカーでのオレンジジュースの話を思い出した。オレンジジュースを買ってくれたお父さんって、あの大王子観光の社長だったってことか?大王子観光は、日本を代表するホテルチェーンであり、ディベロッパーでもある。全国にあまたの土地を持っていることで知られる。ということはつまり、佳子さんは大会社の社長の娘ってことか?僕は、佳子さんが御三家とよばれる名門の女子中高一貫校を出ていたことは知っていたけれど、お父さんがどんな仕事をしていたのかは、知らなかった。大王子観光の経営者一家は、皇室ともご縁があると聞いたことがある。佳子さん、ほんとに本物のお嬢様だったのか。ニア・プリンセスだったのか。僕は、とんでもない話を聞いてしまった気がした。
「そんな、知りませんでした」
「ごめんね、言ってなかった」
「いえ、そんな、今まで聞く機会がなかったから、仕方ないです」
「人生いろいろ、あるのよねえ」
「そうですね。あの、いろんな人がいますよね」
 すると、佳子さんは僕に聞き捨てならない話をした。
「あたし、ずっと独り者だけど、それでもいろいろあるからね」
 何を言っているのかと思った。僕はすかさず異論をはさんだ。
「じゃ、旦那さんにはなんて言っているんですか」
「え?旦那さん?」
「はい。」
「旦那さんなんて、いないよ」
 はい?
「あの、佳子さんは、昔池田さんで、今田中さんですよね。結婚して名前が変わったって」
「そんなこと、誰が言った?」
 僕は、絶句してしまった。しかし、絶句したままだと、話は進まない。
「あの、最初に手帳拾ったときに電話かけてきてくれたときに田中ですって言っていたじゃないですか」
「うん」
「それって、結婚して名字が変わったって」
「だから、それって、誰が言った?」
 僕は、また絶句してしまった。そういえば、誰からも「佳子さんは結婚しました」とは聞いていない。よく考えたら、僕が知っているのは、「佳子さんの名字が変わった」ということだけだ。
「あの、誰も、そういえば、言っていません」
「だよね」
「あの、じゃあ、どうして名字が変わってるんですか」
「田中は、お師匠さんの名字なの。踊りは、お師匠の名前でやるものだから、いつもは田中で活動しているの。あとは、池田って言うと、どうしても大王子観光のことをいつも言われるから、なんとなくいやで、ダンスを始めてからは、田中って名乗っているの」
「え、ええ!?」
「華の独身、ですう」
 なんてことだ。ここにも、僕の知らない佳子さんがいた。いや、かなり大事なところで、知らない佳子さんがいた。どうなっているんだ。結婚していたなんて知らなかったみわちゃんが結婚していて、結婚していると思った佳子さんが、結婚していないなんて。
 でも、よく考えたら、僕が悪い。自分の想像や断片的な情報だけをもとに、勝手に判断していたのは、ほかならぬ僕だ。きちんと、いや、さりげなくでもいいから結婚しているかどうか聞けばよかったのに、面倒くさくて聞かなかった僕が、単なるバカだったのだ。
 そんなことをグルグルと考えていると、佳子さんは僕を追い込みにかかった。
「予備校でも言ったでしょ、問題文は最後まで読まないと、ねっ」
 また言われたよ、この台詞!そういえば、最初に佳子さんに会ったときも佳子さんのブログを途中までしか読まずに行って、かなり取り越し苦労をして、会ったときに意外な思いをした。ああ、僕はこんな大事な佳子さんのことを、本当に理解しようとしていたのか?大事な話も聞かない、肝心の情報を知らない、いや、知ろうという努力をしない、こんなことをしている僕はいったい、これまで大事な人にどういう接し方をしてきたのだろう。僕はますます恥ずかしくなった。
 でも、それにしても、この佳子さんという問題文、長すぎるよ!難しすぎるよ!どこまで奥が深いんだよ!僕は一瞬そんな身勝手なことを思ったが、それでも、自分の力が足りていないことに変わりはないと思った。 
 仕方ないと思った僕は
「わかりました。これから精一杯、佳子さんのこと、知りたいと思います。なので、もう少し、詳しく教えてもらえませんか」
と、梅雨時のてるてる坊主のように、しおらしく言った。
 すると佳子さんは少し笑って「ふふ」と言った。
 ああ、僕はこの人に勝てないな。そう思った瞬間だった。

 窓の外は、少しずつ日が傾き始めていた。晩冬のやわらかい日差しの中、外はかすかに湯煙がまっすぐにたなびいていた。それを背景に、僕は佳子さんにこうなった訳を聞いた。
「実は、月に一回くらいここに手伝いに来ているんだけど、最近、結婚しろってうるさいのよ」
「そりゃ、まあ、佳子さんみたいな人が今くらいの歳で一人でいたら、家族は心配するんじゃないですか」
「よけいな心配よ。あたしは面倒なだけ。」
「そうなんですか」
「そう」
「でも肉親だったら、みんな心配するんじゃないですか」
「そうかなあ。だってパパは死ぬまで心配してなかったもん」
 そこで僕は初めて、佳子さんのお父さんが亡くなっていることを知った。
「お父さん、亡くなられたんですか」
「うん、少し前にね」
「それで」
「あたしの弟は、大王子観光なんて継ぐつもりないから、とりあえず、じじ、あの、さっきいたおじさんね。おじさんが継いだんだけど、じじだってもう年だから早く誰かに継ぎたいんだって」
「はあ」
「で、あたしに継げと言ったわけよ」
「継げばいいんじゃないですか」
「そんな、面倒くさいじゃない。あたしは気楽に好きな踊りを踊っている方が好きなの」
「えー、でもここを継げば将来安泰なんじゃないですか」
 僕は気軽に「安泰」と言ってしまった。すると、佳子さんは整った眉毛の角度をわずかに上げた。
「安泰って、何。」
「えっと、だから、お金に不自由なく、暮らせて」
「お金があればいいの?」
「もちろん、お金だけだと足りません」
「お金なんて、生きる分と、多少の蓄えがあればいいんじゃない。多ければ多いほど、絶対にいざこざの元になるわ。みんなお金のことばっかり。みんな自分のことばっかり。一体なんなのよねえ」
 そう言うと、佳子さんは、ため息をついた。
「お金より大事なものが、あるじゃない。たくさん」
「例えば、何ですか」
「そうね。いまのあたしは、踊って誰かを勇気付けること。勇気や元気は、お金じゃ買えないものだから、あたしはとっても大事だと思っているの。あとは」
 なんだか最初に聞きたかった話からどんどんずれ始めて来たので、僕は佳子さんに軌道修正を求めた。
「あの、少し話がずれてきたみたいなんですけど、そもそも、なんで、きょう、僕が佳子さんにここに連れ込まれたのか、教えてくれませんか」
 僕は思わず、連れ込まれたなんて言ってしまった。まずい、佳子さんはそんなつもりじゃないのに失礼かな、と思った。
「え、連れ込み?ここは連れ込み宿ですか」
「あ、すみません」
 僕が謝ると、佳子さんは少し微笑んだ。
「実はね、じじに彼氏を連れてくるって前から言っていたの」
「連れてくればいいじゃないですか」
「いないのよ」
「ええ」
 また、驚いた。こんな色白で若くて美しいお金持ちのプリンセスなのに、彼氏がいない?本当かと疑った。
「本当ですか」
「ほんとよ」
「なんでいないんですか」
「『該当者なし』の状態が続いてたの」
「じゃ、おじさんにいないって言えばいいじゃないですか。正直に」
「いないって言ったら、できるまでここに来るなって言われそうで。ここの硫黄泉に入れないの、やだから。それで急きょ、石井くんに白羽の矢を立たせていただきました」
 はあ。白羽の矢ですか。つまり、僕は、都合のいいところにいたから、連れ込まれたというわけか。
 ん?でも、なんで都合のいいところに、都合よく僕がいたのか?
「あの、それにしても、タイミングよすぎないですか」
「だから、ロマンスカーの中で言ったでしょ。お互い何度もここに来ているんだったら、こんなこともあるって」
「それっておかしいですよ」
 さっき、ロマンスカーでこの話をしたときには「ロマンスカーでロマンス!」と言われて僕は少し舞い上がってしまったため、これで話が終わってしまったが、ここは粘るぞ。僕がそう思うと、次に佳子さんが意外なことを言った。
「ま、あたしは石井くんが今日来るの、実は、知ってたけどね」
「え?」
 僕が来るのを知っていた?佳子さん、予知能力でもあるんですか。どんな予知能力なんですか。そんな僕の神秘的になりそうだった疑問は、次の一言であっさり氷解した。
「この前、あたしがここに来たときに、宿帳を見たら、今日の日付のところに石井くんの名前があってびっくりしたの。ああ、ここに来ているんだなあ、この日に来るんだなあって。それであたしも予定をあわせて来たわけ」
「え、宿帳見ているんですか」
「何か、悪かった?」
「いえ、なんでもないです…」
 宿泊する人の名簿を第三者が見てはいけない。見せてもいけない。しかし、佳子さんはここの娘さんなのだから、いけないとは言えないだろう。そこでたまたま知り合いの名前を見かけた。それに合わせて自分も来た。それだけのことよ、と佳子さんは言いたそうだった。
「え、じゃあ、ロマンスカーに乗るのも、全部知っていたんですか」
「ロマンスカーに乗ることは想像ついたけど、何時のに乗るかはわからなかったわ」
「じゃあ、同じロマンスカーで、隣の席になったのは」
「それはほんとに、偶然。驚いちゃった。私たち、縁があるのかもね」
 佳子さんは、そう言って、笑った。
 そうか、だからロマンスカーの中で「来てくれたのね」なんて言ったのか。あれは、寝ぼけていたわけではなくて、予期しない早い場面の僕の登場を見て、言ったのか。疑問がひとつ解けた。佳子さんは、本当はホテルで僕を待ち構えて、どこかで合流しようとしたらしい。それが、少し予定が狂い、こんなことになってしまった、ということのようだ。
「で、お願いなんだけど」
 佳子さんは、眉毛をきりりと上げて、僕を見据えて言った。
「あたしを助けると思って、きょうは恋人のふり、してくれないかな」
「えー。そんな、佳子さんの彼氏のふりなんて、できません」
「なんで」
「だって」
「あたしのこと、好きだった、って言ってくれたじゃない」
「それは、そうですけど、でもそれは」
「あたしも、石井くんのこと、大好きだったんだよ」
 代々木のバーガーで言われた、この一言。また、言われて、僕はそのときのシーンを思い出し、柄にもなくキュンとなり、まともな反論ができなくなった。
「はい」
「だから、少し仲良くしてくれれば、それでいいから。じじを一回安心させたら、しばらく場がもつから。ね、あたしを助けると思って。ほら、石井くん、あたしのおかげで早稲田に受かったって言ってたじゃない。今度はあたしを助けて、ね」
 僕に「今度はあたしを助けて」という言葉が突き刺さった。
 そうだ、二十三年前に、僕は佳子さんにものすごくお世話になった。全部全部、佳子さんのおかげだった。その恩返しだと思えばいいんだな。僕の釈然としなかった心は、自然と整理がついた。
「わかりました。じゃ、きょうだけ」
「やったあ、ありがとね、石井くん」
「はい」
「あ、『石井くん』じゃ固いかな。なんて呼べばいい?」
「何でもいいですけど」
「そんな、せっかく名前考えてあげるのに。何でもいいはないんじゃない?じゃあ、ワンコはどう?」
「ワンコ?」
「そう。あたしの犬、みたいな感じで。ワンコ、いいね!」
 ええ、犬ですか。彼氏が犬ですか。僕はまた釈然としなかったが、佳子さんがワンコがいい、と言うので、とりあえずワンコと呼ばれることになった。
「じゃ、ワンコちゃん、これからよろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
「よろしくお願いしますは、堅苦しいよ」
「どうすればいいんですか」
「敬語はなしで、いいんだよ」
「わかりました」
「ほらまた敬語」
「わかった・・・よ」、
「お、よくできました!さすが、ワンコちゃん!」
 もう、僕は佳子さんにすっかり遊ばれていた。まあいいか、あの佳子さんに遊んでもらっているんだから。それに、一日限定だけど、彼氏を名乗ることができるのだし。僕は、何かゲームが始まるようで、少しうれしかった。
「じゃあ、始まりね。タンタカタンタンタンタンタンタン、タンタカタンタンタンタンタンタン、タンタンタンタンターン!」
「それ、何ですか」
「ほらまた敬語」
「あ、ああ。それ、何?」
「始まりのファンファーレ」
「あ、どこかで聞いたことある曲だなあ」
「いざ青春の生命のしるし、よ」
「ああ、あの歌!」
 「いざ青春の生命のしるし」というのは、早稲田大学の応援歌のひとつだ。第一応援歌「紺碧の空」に比べると、圧倒的に知名度は低い。でも、僕は、すばらしき青春、またとないこの日のために、稲穂は揺れる、友よ燃えろ、力の限り燃えろ、という前向きな歌詞が好きだった。詞を書いたのは、ビートルズにとても詳しい僕らの大学の先輩だ。昭和五十七年にできたこの歌は、昭和の匂いにあふれている。僕が大学に入ったのは平成になってからだったが、当時はまだ平成になったばかりだったためか、歌詞に書いたような熱がまだ少しキャンパスに残っていて、この昭和の歌もキャンパスに流れていた。そして、僕の心にひっかかった。しかも、この歌の作曲は「涙をこえて」と同じ、早稲田の大先輩・中村八大先生だ。八大先生の明るい曲調と昭和のジャズのおしゃれな香りが、この歌には吹き込まれている。僕は、佳子さんの中にも、昭和がどこか生きているんだ、と思った。
「じゃ、温泉行こうか」
「うん」
 僕はいそいそと支度をし、佳子さんと一階にある温泉に向かった。温泉の大きなのれんの前に着くと、佳子さんがいつの間にか、黒髪をゴムでまとめていることに気付いた。佳子さんは透き通るような白いうなじを見せたあと、振り返った。
「何時、どこ集合?」
「じゃ、五時半に、部屋集合で」
「うん」
「僕の方が、早く上がるから、待ってるね」
「ありがと」
「じゃ」
 僕は少し、赤くなっていた。あの、僕の神様みたいな佳子さんと温泉だって。しかも、恋人のふりだって。こんな展開、一生に一度あるかないかかもな。だったら、ワンコでいいや。僕はそう少しにやけながら、脱衣場に向かった。この宿は、内湯が普通の風呂で、露天のみが硫黄泉になっている。この硫黄泉は強力なため、内湯を硫黄泉にしてしまうと、どんなに強力な換気扇をつけても換気が行き届かず、倒れる人が出るという。そのため、換気のいらない露天のみがここでは硫黄泉になっている。僕はもちろん、露天の硫黄泉に向かった。まだ早い時間のためか、誰もいない。僕は硫黄泉が流れ続けてすっかり白く変色した湧出口の岩の近くまで寄った。硫黄独特のにおいをかぎ、湯に浸かった。湯は、思いのほか、ぬるかった。きっと、寒いからだろう。
「ふーっ」
 僕は大きなため息をついた。それは、硫黄泉に入れた安堵感であり、何よりきょうは、佳子さんと思いがけずに一緒に温泉に来て、恋人のふりができると言う特典を得た喜びからくるものだった。
 それにしてもなあ。結婚していないと信じきってきたみわちゃんには離婚歴があり、結婚していると信じ切っていた佳子さんは、華の独身だった。世の中は本当にわからない。いや、わからないのではなく、実は僕がわかろうと努力していなかったからだ。断片的な周辺の状況や雰囲気だけでなく、もっと話をして、きちんと話をして確かめないといけないことって、実はたくさんあるんじゃないか。
 僕は、最近、何かというと、スマホに逃げ込む癖がある。エレベーターの中の三十秒足らずの待ち時間でもついスマホを開けてしまう。最近それにすごく飽きてきているが、でも、絶対にやめられない。なんて皮肉。なんて矛盾。
 そこで僕はふと、昔のことを思い出した。佳子さんが予備校で僕の隣の席に座って、現代文の勉強を見てくれたときに
「早稲田の現代文ってね、キーワードがあるんだよ。皮肉とか、矛盾とか、出てきたら、絶対チェックだからね。その、皮肉とか矛盾の対立軸から答えが出てくることが多いからね」
と言ってくれたことがある。皮肉とか、矛盾とか。それはまさに、今の僕が包囲されているもの、そのものじゃないか。飽きているのに、やめられないスマホ。結婚していると信じきっていたのに、華の独身だった佳子さん。ついでに、結婚していないと信じきっていたのに、離婚歴が明るみに出た、みわちゃん。僕の周りには、皮肉と矛盾がいっぱいだ。まさか佳子さん、将来のこの日のことを意識して高校生の僕にそんな知識を教えてくれたわけではないよね。僕は白くもこもことした硫黄泉の湯気を薄くまといながら、そんなことを考えていた。
 するとふいに、はずんだ声がした。
「ワンコ、ちゃーんっ」
 高い塀を隔てて聞こえてきた、佳子さんの声だった。きっと佳子さんも硫黄泉の湯気をまといながら湯に浸かっているのだろう。
「ワオーンッ」
 暮れなずむ露天の空を切り裂くようにして、僕は、犬のような遠吠えを披露した。それを聞いた佳子さんは「あはは」と声を上げて笑った。してやったりの顔がこちらにも浮かんでくるようだった。
 さて、どんな顔か。あの色白のかわいらしい顔を少し赤らめているのか。そんなことを考えていると、紺の半纏をまとった初老の男性が、内湯と露天を隔てるドアを開け、露天の近くまでやってきた。
「ようこそ、いらっしゃいました」
 深々としたおじきをして、男性はあいさつをした。
「あ、お世話になっております」
「いま、熱いですか」
「いえ、ぬるいです」
「お顔が赤いので、熱いかとお見受けしました」
 そこで僕は初めて、顔が赤くなっているという事態に気づいた。向こうの露天にいる佳子さんの顔を考えていたら、いつの間にか赤くなっていたようだ。初老の男性はちらりと僕のほうを見た後、
「ならば、少し熱くしましょう」
と言い、近くの小さな木戸を開けて、バルブを開いた。バルブを開いた効果はてきめんで、湧出口のあたりにいた僕の腹に、勢いのよい熱のこもった湯が殴りこんできた。
「ありがとうございます」
「まあ、あまり、興奮なさならないように」
「はい」
「興奮すると、湯あたりをいたしますので」
「ありがとうございます」
 僕は気遣いに礼を言った。その礼に対し、初老の男性は少し相好を崩し、やや小さめの声で僕に言った。
「あのう」
「はい」
「お嬢様は、大変に、大変な方です。どうか、よろしくお願いいたします」
「はあ」
 僕はそれしか言えなかった。大変に、大変な方ってなんだろう。僕がそれを聞こうとすると、初老の男性はきびすを返して立ち去ろうとした。
「あのっ」
 僕は、得意技の、相手にだけ鋭く聞こえる声で、初老の男性をわしづかみにした。初老の男性は、あまり驚かずに、僕の方を向いた。
「はい。何か、ございますか。」
「あの、佳子さんって、どんな人ですか」
 僕は彼氏の役をもらっているのに、役に合わない妙な質問をしてしまった。
「そうでございますね」
 初老の男性は、少し考えてから、言った。
「見かけによらない方、でございます」
 見かけに、よらない?僕はよく、わからなかった。僕は二の矢の質問をしようとした。しかし、初老の男性は軽く会釈をすると、するりと内湯へと去っていった。
「うーん」
 僕は、わからないまま、少し熱くなった湯に浸かっていた。すると佳子さんが、また高い塀越しに
「ワンコちゃーん、お湯加減、どう?」
と大きな声で尋ねてきた。僕は、
「いま、湯守の方に、熱いの入れてもらったから、ちょうどいいワン!」
と答えた。
佳子さんは
「よかった!湯守さんに行ってもらったのよー。男湯の方が、冷えやすいからねー」
と答えてくれた。
 そうか、佳子さんが湯守を差し向けてくれたんだな。佳子さんの温かさを感じ、僕は、また妙に意識してしまった。
 佳子さん、今、隣の露天で湯に浸かっているんだよな。佳子さん、あの白いうなじを白く濁った湯できらやかにさせているはずだな。どんなふうなのかな。僕は、高校生みたいにドキドキしていた。楽しいけど、なぜかちょっとつらいよ。この感覚。何だろう、この感覚。そういえば、昔、こんな感覚があったな。そうだ、佳子さんに、昔恋していた感覚だ。それが、今、リアルに戻ってきたんだ。恋って変と少しだけ違うって誰かが言っていたけれど、ほんとだな。僕はイヌの真似をさせられているし、高校生みたいになっているし、本当に変だ。でも、こんな変なら、僕はいいや。だって、佳子さんも、正しい変態ならいいって言っていたしな。あれ、でも正しい変態の定義って、ちょっと違うか。僕は、他人が聞いたらあまりにもどうでもいいことで頭がいっぱいになっていた。ああ、これも含めて恋の感覚だ。恋の感覚を思い出した僕は、硫黄泉の中で軽い有頂天になっていた。
 すると、僕にすかさずイエローカードが出た。
「あんまり入っていると、ノボせるから、上がるよ!」
佳子さんの声が飛んだ。
「はあい。ワン!」
 僕は従順にも人間とイヌの両方の返事をして、佳子さんの指示に従った。確かに少しノボせた。これは、佳子さんが差し向けてくれた湯守さんのおかげなのか。それとも、僕の恋心が盛り上がっているからなのか。僕にはわからなかった。そんな僕に、今できるのは、佳子さんに約束した、先に部屋で待っているということだった。僕は髪を乾かすのもそこそこに、浴衣をいい加減にまとい、脱衣場を後にした。
 部屋に戻ると、まだ五時十五分だった。約束の時間まで、あと十五分ある。ふと、部屋の様子を見た。すると、小さな佳子さんのバッグが目に入った。薄いピンクの、アメリカ生まれのスペードがついたブランドのバッグだった。佳子さんにスペード。意外な取り合わせに、僕はちょっと驚いた。そのスペードのついたバッグからは、丸くこんもりとした、かわいいピンク色の布地がちらりと見えていた。ひょっとして、佳子さんの、下着?
 僕はあわてて目を背けた。佳子さんの下着なんて、見てはいけない。僕は、うぶな高校生のようだった。僕が目を背けると、バッグから少し離れた机の上に、スマホが置かれていた。スマホはケースに覆われていた。ケースの上三分の二くらいが淡いピンク、下三分の一くらいがクリーム色だった。近づいてみると、そのケースもスペードがついたバッグと同じブランドのものだった。
 僕はそこで、いけない、と思いつつ、そのケースを少し開けてみたくなった。これを開けると、また、佳子さんに一歩近づけるかもしれない。それに、僕は今一日限定とはいえ恋人のふりができるのだから、もう少し佳子さんのことを知ってもいいのだろう。
 ん?なんで下着はダメで、スマホはいいんだ?どっちも、プライバシーの塊じゃないか。でも、スマホは生身の人間じゃないんだから、まだいいでしょ。そんな勝手な理屈を思いついた僕は、思い切ってケースのスナップボタンを外してみた。
 すると、開けた小さな扉の中にはさらに小さな鏡があり、鏡の下辺には「smile」と小さく文字が書かれていた。そしてその文字の横に、白く細いシールが貼られ、「もっと 鼻息」と書かれていた。 「もっと 鼻息」?僕には意味がわからなかった。佳子さんになぜ鼻息が必要なのだろう。僕には見当もつかなかった。
 すると、遠くからパタパタとスリッパと床がついたり離れたりする音が聞こえてきた。まずい、佳子さんが帰ってきた。僕はあわててスマホケースのスナップボタンを留めなおし、スマホを机の上に戻した。戻した瞬間、佳子さんが「ただいまあ」と言って、部屋に入ってきた。
 その様子を見て、僕は息を飲んだ。糊の効いた、ぱりっとした白地に紺の模様の入った浴衣の佳子さん。最初に会ったときより少し長く伸びた黒髪は上手にまとめ上げられ、ひとつの楕円のまとまりを作り、知られたくない後頭部の絶壁をうまく隠していた。そして、黒髪に遮られて見えなかった白く張りのある首筋が、きれいな稜線をたたえていることがわかった。さらにその稜線は、硫黄泉でほどよく暖められ、わずかに薄い桜色をまとっていた。まるで、後姿という山並みに、山桜が萌えているような風情だった。僕には、この寒い箱根の峠の宿に、一気に春が訪れたような感じがした。すると、また来た。
「こらっ、女の子をジロジロ見ちゃいけないんだよっ」
「あ、すみません…」
 代々木のバーガーと同じ台詞が、また繰り返された。僕はどうしても、佳子さんの掌の上に載せられ、時に叱られてしまう。思えば最近、誰かの掌に載せられたことなんて、なかった。三十代のころからか、周りはみんな僕をいい大人だと思っているらしく、つかず離れず、無責任じゃないかと思われるくらいの距離でしかつきあってもらえなかった。当然、がっつりと掌の上に載せられることなど、ない。以前聞いたことがあるが、人は、最初に出会ったときの年齢でずっと人を見続けるという。だから、生まれたときから見続けている親からすれば、子供はずっとゼロ歳児だ。逆に、大人になって初めて会った人は、それ相応に対応してもらえる。
 佳子さんの場合、初めて会った僕はグレた高校生だったわけだから、僕はずっと十七、十八歳。つまり、お子様扱いのまま、というわけか。こうした状況に、少し前の僕だったら、お子様扱いするなと怒っていたことだろう。しかし、四十になった僕は、かえってお子様扱い、つまり、掌の上に載せてもらっていることが新鮮で、少しさわやかさすら感じていた。それは、僕が達観した大人になったということなのか。それとも、単に恋心に翻弄されているバカな高校生かイヌに過ぎないのか。あるいは、僕にもまだ若者のような希望があるということなのか。僕にはまだ、わからない。僕はわからないから、きょとんとした顔をしていた。すると、佳子さんはまた、笑ってくれた。この空気、やっぱり二十三年前と、それから、代々木のバーガーで再会したときと、まったく同じだった。他愛ないことで、怒ってみたり、笑ってみたり。ただそれだけのことが、高校生みたいなことが、僕にものすごい幸福感を与えてくれていた。僕はなんて幸運なんだろう。二十三年も経って、こんな時間を過ごせるなんて。いや、神様が、二十三年前に戻してくれたんだ。タイムマシンに乗ったみたいなもんだな。タイムマシンって、あるんだな。ネコ型ロボットのアニメみたいで、すごいな。
 代々木のバーガーで思ったことと全く同じ思いが、また、繰り返された。僕をあっちこっちに揺すぶって、何度も前と同じ思いを味わわせて、引き続き僕を掌の上に載せている。僕はもはや、佳子さんのペットのようなものだった。
 そうか。だから、僕をワンコと名づけたんだな。
 しかし、僕はペットで十分だった。これ以上、複雑なことを考えずに、このまま佳子さんのそばに寄り添っていられれば、心地いい。僕は今までにない感情を持ち始めていた。
 僕がそんなことを考えているうちに、佳子さんは風呂から持ってきた洋服などをスペードのマークのついたバッグにしまいこんでいた。
「ねえ」
 佳子さんがこちらを見ずに話しかけてきた。
「なに?」
「これからもう晩ご飯だからね。ワンコちゃんも支度して」
 そうか、少し早い晩ご飯なんだな。この部屋に、運び込まれてくるのかな。僕がそう考えていると、佳子さんはすぐに
「ご飯は別の部屋だからね。鍵と大事なものだけ持っていって」
と言った。
 僕は軽くうなずいて、鍵と財布とスマホを持った。ふと、佳子さんを見ると、名刺入れのような何かのケースだけ持っていこうとしていた。
「あの、お財布とかは」
「別に、いいの」
「スマホ、持って行かないと」
「それもいいの」
 佳子さん、ずいぶん変わっているな、とそのときの僕は思った。財布もスマホもいらないのか。ま、このホテルは佳子さんの実家みたいなものだし、そういえばほかのお客さんの姿も見ないから、財布やスマホが盗まれる可能性はないのだろうけど、それにしても財布とスマホがないと僕なんかは心細くてしょうがない。金も情報もないわけだから。佳子さん、ずいぶん大胆だな。裸で過ごすようなものじゃないか。そのときの僕は、そう思った。でも、ペット扱いの僕が、飼い主様にそんなことを申し上げるのは失礼だろう。僕はそう思ったので、持ち物がほとんどないことにはそれ以上触れずに、部屋を出た。
「ご飯の場所って」
「あの広間よ」
 見ると、部屋からずっとまっすぐ行った先に広間があった。薄暗い廊下を歩き、スリッパをパタパタさせて広間に近づくと、まるで自動ドアであるかのように、広間の入り口のふすまが開いた。いいタイミングで開けるなあ。さすが大王子観光。僕は感心しながら、ふすまの中の明るみに入った。
 すると、三十畳ほどのだだっ広い広間に、お膳が三つだけ、並べられていた。
「うわ、三つだけ」
「うん。うちらだけだからね」
 佳子さんがそう言うと、支配人のじじ、つまり、佳子さんのおじさんが現われた。
「こりゃどうも。石井くん、お湯加減はどうじゃった」
「はい。最初ぬるかったですけど、ちょうどよくなりました」
「佳子さんが、湯守さんを差し向けてくれたので」
「おお、湯守が。佳っちゃん、気がきいとるね」
 じじは、うれしそうに僕の顔を見やり、
「それだけ二人の仲がよいということかな」
と言った。
「あの、いえ、僕たちはまだ」
 僕はさすがに恥ずかしくなって、ちょっと否定に走った。
「まあまあ、恥ずかしがらんでもええんじゃよ。そういう少しずつの気遣いや思いやりがあって、仲良くなっていくもんじゃからのう」
 じじは、ちょっとうれしいことを言ってくれた。でも、有頂天になると硫黄泉に入っているわけではないのにまたノボせてしまいそうだったので、僕はあわてて話題を変えた。
「あの、僕、いつもここに来ると料理楽しみにしてるんです」
「おお、そうじゃ。腹がへっておるのじゃろ。すぐに始めようか」
 じじはそう言って、仲居さんに食事の準備を始めるよう促した。 どんなご馳走が出るのかな。普段僕が下のレストランで食べているバンキングとは違うんだろうな。僕は少し期待した。ところが、案外普通の食事だった。相模湾で取れた赤魚の刺身、しいたけの甘辛煮、きゃらぶきの佃煮、牛肉の時雨煮、白いご飯。いつもここに来たときに、バイキングで食べている食事と何ら変わらなかった。前社長の娘であっても、別に特別扱いしないんだな。
そう思っていたところ、少し大きめのどんぶりが来た。締めの蕎麦には早すぎるな、と思ってみたところ、どんぶりには、とうとうと盛られた、すりおろしの山芋が揺れていた。確かに、箱根は山芋が有名だが、ずいぶんたくさんだな。僕がそう思っていると、じじが一言。
「ま、これで元気をつけて、早く跡継ぎを、な」
 なんて、直截な一言。すると、僕が恥ずかしくなる前に、佳子さんが鋭く口を挟んだ。
「ちょっと、おじさま!恥ずかしいじゃない!」
 佳子さんは、桜色に染まった首筋の稜線をさらに赤くして、抗った。するとじじは、
「あれ、ちょっと気が早かったかの」
と言い、照れ笑いを浮かべた。
 昔の人はずいぶん直截だ。今だったら、確実にセクシュアル・ハラスメントだな。でも、ふと思った。跡継ぎということは、じじは、僕と佳子さんが一緒になることを考えているってことか。
 ええっ。それって、恐れ多すぎる。だって、佳子さんは、僕にとっては神様みたいなものだし、やっぱり近くにいると緊張する。もちろん、昔は大好きだったけど、それは、出会いの少ない世間知らずの男子校の高校生が、かわいくて親切な女の子に見惚れたのに、過ぎない。テレビに出ているアイドルを好きになるのに近い感覚だったのだろう。最近になって、佳子さんもその当時僕のことを好きだったって、言ってくれたけど、それは、子供同士の恋心の話で、今は時代が違う。しかも、大王子観光のご令嬢で、僕なんかが話すのは恐れ多い人だということもわかってしまった。ますます近寄りがたい。とりあえずきょうは佳子さんのイヌとして参加しているけど、きょうが終わったら、またなんでもないのだから。
 あと、ついでに言えば、うちにはみわちゃんいるし。あ、みわちゃん、実家で今頃何をしているのだろう。僕は少しだけ、みわちゃんのことまで、思いを馳せた。
 こんなことを考えていると、僕の顔は遠くを向いていたらしい。それを察知した佳子さんは、すかさず次の言葉を言った。
「ねえねえ、男性からしても、今のは失礼だよね」
「あ、いえ、はい、そうですね」
「でしょ。おじさま、うちの彼氏様に失礼なのよ」
「ははは。まあまあいいじゃないか」
「彼に聞くことってほかにあるでしょ」
「おお、そういえば、石井くんは、どんなお仕事じゃったかな」
 急に仕事の話を振られた。
「はい。坂の上テレビで天気予報の仕事をしています」
「天気予報。予報官かの」
「いえ、あのう、予報官ではなくて予報士です」
「予報士?」
「はい」
「この箱根は天気が変わりやすくてなあ。天気予報は大事でな」
「はい」
「明日は、どうかな」
「はい。はじめ雲が広がりやすくて、風も強いと思いますが、そのうちに、晴れて、穏やかな一日になると思います」
「おう、それはよかった」
 そういって、おじさんはいつの間にか注がれていたコップ酒をがぶりと飲んで、息を吐いた。
「あんた方の人生も、そうであると、いいな」
 じじは、なんだか意味深なことを言った。じじは、何が言いたいのだろう。僕にはわからなかった。すると、佳子さんがまた話題を変えた。
「そうね。ああ、彼、テレビで仕事しているから番組にも詳しいのよ」
 佳子さんが少し勝手なことを言った。あの、僕、天気予報をやるために坂の上テレビにいるだけで、番組には詳しくありません。僕はそう言おうとした。すると、じじが先に口を開いた。
「そうか。そういえば去年の紅白のことじゃが」
 あの、それ、他局なんですけど。でも、他局でありながら僕が唯一詳しい番組も紅白なので、黙って話を聞くことにした。
「なんであんなに、歌が始まる前にくどくどといろいろ説明するのかのう。歌にたどり着くまでが長すぎるぞ」
「あ、それは、今の時代が、説明しないといけない時代だからだと思います」
「なんでそんなふうになったんじゃろな」
「昔だったら、説明しなくても、みんな知っている歌というのがたくさんありました。でも、今は若い人しか知らない、年寄りの人しか知らない歌が多くなっています。それに、意味とか背景とかが複雑になってきているから、説明しないとわからないし説明する責任ということも言われています。だから、説明するんじゃないかと思います」
「面倒くさい世の中じゃのお」
「はい」
「そもそも説明しなくてもすごくはやる歌がありゃいいんじゃないか。ワシが若かったころは説明しなくても、イントロ聞いただけでみんなわーっとなる歌がいっぱいあったぞ。なんでそういう歌がないんじゃ」
「そうですね。おそらくですが」
 僕は普段思っていることを話し始めた。
「昔は歌くらいしか、世の中の公約数がなかったんだと思います。でも、インターネットが出てきて、歌のほかにも公約数がたくさん見つかるようになりました。それに、歌より公約数の小さいものをみんなたくさん見つけられるようになって、みんなそれぞれ、興味が違う方向に向くようになったんだと思います」
「うむ、ネットの存在は、確かに大きいよなあ」
「はい。あと、やっぱり不景気で、リストラが進んだのも大きいと思います。僕の会社でも、徹底的に無駄をなくす、というのをだいぶ前からやっていますけど、歌も同じで無駄な曲は経費の都合で作れなくなっているのだと思います。でも、その無駄の中に、本当は思いもかけない名作があったりするのかもしれません。僕が生まれた年の『およげ!たいやきくん』も最初は売れないと思って、歌手が歩合の印税を選ばなかったくらいなのに、あれだけヒットしたわけで、何が売れるかなんてわかんないんです。本当に天気と同じで、何が起こるかわからない。でも、その何が起こるかわからない要素をなくしてしまったから、思いがけない大ヒットが生まれなくなったような気がします」
「なるほどなあ」
僕は、普段思っていることを、もうひとつ言うことにした。
「あとは、壁ができたからだと思います」
「壁?」
「はい。僕が会社に入ったころは、テレビ局にもいろいろな人が入り込んでいて、雑多な雰囲気で、誰が誰だかわかんないような会社の中でしたけど、その知らぬ同士が話をしてアイデアが生まれ、何か面白いものができていくという感じがありました。まるで『チャンチキおけさ』の世界ですね。でも、アメリカで同時多発テロが起きたり、個人情報を守らないといけなくなったりしたころから、坂の上テレビの玄関にも、ゲートができて、警備員と監視カメラが常に見張るようになりました。ネットが発達して、情報がひとたび漏れると、誰でも全世界に発信できるようになっちゃったので、情報もれを防ぐためには、こうしないといけないのもわかりますが、これで、入り口にも、あと、人の心の中にも壁ができてしまったような気がします。そして、人と人の交流が少なくなりました。あと、そのころから、飲み会とかも少なくなりました。別に飲み会に行かなくても、ネットとスマホがあればさみしくないという人が増えたのも一因だと思います。それで、みんな見えない壁だらけになって、人と人が直接ぶつかって化学反応することが、昔より少なくなりました。だから、思いがけないアイデアも少なくなって、思いがけない大ヒットも少なくなったような気がします」
「ふーん」
じじは、僕の長い長い、込み入った説明を、うなずきながら聞いてくれた。
「石井くんは、天気の分析だけじゃなくて、世の中の分析もしてるんじゃな」
「いえ、そんな、分析というほどではありません。思っていることを、少し言っただけです」
「思っていることを他人に言う、しかも、わかるように言うというのは大事なことじゃ。最近は、思っていることを人前で言ったり、書いたりすることができるやつがどんどん少なくなってきておる。何かあれば親しい仲間だけにスマホで言っているようじゃというのを、うちの会社でもあちこち報告が上がっとる。仲間内だけに言っているうちはまだまだなのに、それで自分は一人前じゃと思っておるからおかしいのよ」
「そうなんですか」
「そうじゃ。それに長年、人間は、出会って、語り合って、触れ合うという段階を踏んで仲を深めてきたはずなんじゃが、男同士でも、女同士でも、そして男女間でもこの要素がこの十数年で急激に失われておる」
「ああ、ソーシャルネットワークサービスができて、ネットで簡単にコミュニケーションができるようになりましたからね」
「それで、人間関係がちゃんとできていると考えるから、おかしいのよ!」
 じじは、いつの間にか追加されていたコップ酒を、また、がぶりとあおった。
「道具としてソーシャルは便利じゃが、それでなんでもかんでも済むものではない。本当に大事な話をひざ詰めでする努力が足りない人間が、今多すぎるんじゃないか?わしは今この箱根の峠の宿も預かっておるけど、この宿という小さな共同体ですらもそういうことを感じるのじゃぞ。若者がわんさかいる本社にいるとわしは頭がおかしくなってしまうくらい、人と人のつながりが薄くて、実体がなくて、悲しいんじゃ。わしが本社にあんまり寄り付かないのもそのせいでのう。ここにいた方がまだましなんじゃ!」
じじの吐露した思いは、僕も普段からなんとなく感じているものだった。僕が深くうなずくと、おじさんはニカッと笑った。
「石井くん。君はなかなか、見込みがあるかもしれんな」
「いえ、そんな」
「こんな年寄りの戯言を、うまく引き出す奴に久しぶりに会うたわ。
佳っちゃん、さすが、いい若者を見つけてきたのう」
「えへ、そんな」
 見ると、佳子さんは、いつの間にかとろろ飯を三杯も平らげていた。あの、佳子さん、見かけによらず、結構食べるんですね。あれ、佳子さん、口元にご飯粒が一つついている。
「あの、口元にご飯粒が」
「え、やだあ」
「おう、石井くん、やさしいのう。やっぱり二人は、お似合いじゃあ。だから、早く跡継ぎを、な」
またじじが茶化した。
「もう!だから、おじさまったら、やめてよ!」
「はは。今夜はとても楽しい夜じゃあ。ははははは」
 じじと佳子さんの会話に、僕はひそかに心を赤らめていた。顔を赤くしたら、恥ずかしいから。なんとか顔に出ませんように。僕が願っていると、じじが思い出したようにつぶやいた。
「そうじゃ。あれ、行こうかの」
「え、もう、やるの?」
「そうじゃあ。盛り上がってきたから一気にいくぞ。ホイ!」
そう言って、じじがポンと手をたたくと、三十畳くらいある広間の奥にあるふすまが突然バッと高速に開いた。ふすまの開いた先にはもう一間あり、仲居さんが左側に五人、右側に五人、縦に並んでいる。そして、奥の中央には、タキシードを着た若い男性が五人、横に並んでいた。
「始め!」
 じじの合図で、大音響のカラオケの音楽が鳴り始めた。前奏で、何の曲かすぐにわかった。

「涙をこえて」。

 前奏に続いて、奥に陣取るタキシードの男性五人が、マイクを持って歌い始めた。そして、AメロからBメロを経て、サビの「涙を、こえて行こう」という歌詞が始まった瞬間に、仲居さん、ではなく、よく見たら和装の女性の踊り子さんがバッと立ち上がり、両手を高く上げてパキパキとした踊りを始めた。
 僕はあ然としていた。こんな宴会芸みたいなこと、やるんだ。これが、この宿のしきたりなのか。僕には相場がまったくわからなかった。でも、宴会芸にしては、歌は抜群にうまいし、踊りも洗練されている。どういうことなのか。僕が疑問に思っていると、二番が始まった。ふと、じじと佳子さんを見た。二人はニコニコしながら大きな手拍子を送っている。僕もこの場の流れに乗り遅れないように、あわてて手拍子を始めた。
 二番は、キーを上げての男女の合唱だった。カラオケから流れる弦楽器の伴奏が、僕の心の中の琴線をつまびく。Bメロに翻弄させられたのはもちろん、サビにはもう、酔わされた。この曲、なんでこんな感動的なんだろう。気がつくと、最後に出てくる「アーッ」「アーッ」「アーッ」という雄叫びのリフレインも終わっていた。僕はぽかんとしていた。
 曲が終わると、間髪入れずに、おじさんと佳子さんが大きな拍手を送る。僕も負けずに、手をたたく。三人の、しかし、万雷の拍手が終わると、奥の間のふすまはあっという間にまた高速で閉ざされた。一瞬で終わった、あまりにもにぎやかな、どこか大きな寺の周年のご開帳のようだった。僕は聞いた。
「あの、今のは、なんですか」
佳子さんが答えた。
「お客様への、特別サービスです」
「ええ?」
 じじが口を挟んだ。
「そうじゃ。うちは大事な客人がくると、歌でもてなすことにしておってな。今のはうちの精鋭音楽団じゃ」
「え、精鋭?」
「そうじゃ。音楽大学を出ておるやつを歌い手、体育大学を出ておるやつを踊り手にしてな」
「そうなんですか。でも、なんで『涙をこえて』なんですか?」
「あたしが頼んだのよ。彼が好きなのは『涙をこえて』だから、って」
 そう言えば、代々木のバーガーで、佳子さんと好きなもの大全の話をしたときに、「涙をこえて」が僕も死ぬほど好きですって、言ったな。佳子さん、そのこと覚えていてくれたんだ。僕はうれしかった。
「ええ、佳子さんが頼んでくれたんですか」
「そうじゃ。佳っちゃんから『彼氏は涙をこえてが好き』と聞いて、わしは涙が出そうじゃった」
「え、どうしてですか」
「この歌は、うちの兄貴、つまり佳っちゃんのお父さんの大学の先輩が作った歌での。兄貴はこの歌をテレビで見て、好きになって、佳っちゃんによう教え込んでいたんじゃ。この広間でも、よう歌った。兄貴が死んだときに、葬式で流すよう遺言に書いてあったのも『涙をこえて』じゃった。明るく、生きるのが好きだった人だからのう。なのになあ、急に死んじまって」
 じじは、そう言うと、急に目に涙を浮かべた。見ると、佳子さんも、目頭が熱くなっている。そうか、佳子さんのお父さんも早稲田だったんだ。お父さんの早稲田の先輩が、「涙をこえて」を作った中村八大先生。そんなつながりがあったんだ。そしてこの歌に惹かれていた僕も、早稲田に入った。歌を知ったときは、早稲田の人が作った歌だなんて、意識してなかった。結果的に、僕と早稲田とこの歌はつながった。
 そして、大学を卒業して二十三年も経った今、今度は、佳子さんや佳子さんのお父さん、そしてこの宿とも「涙をこえて」を通じて、つながった。僕は人間の縁の持つ不思議さ、そして昭和の歌がひきつける力に、驚いていた。
僕は、しんみりとなった空気の中、切り出した。
「そうですね。人はいつか別れがくるものですけど、こうやって、歌を通じて、僕も佳子さんのお父さまとつながるところがあったことがわかって、本当にうれしいです。できれば、お元気なうちにお会いしたかったです」
「そうじゃの。歌は、つながりを作って、そして、何年もたって、また思いがけない、そして意外なつながりを作る。いいもんじゃな。最近の世の中が、つながりが薄くてさびしく感じるようになったのは、こういう力を持った歌が少なくなって、歌のもたらすつながりも少なくなったからかも知れんな」
 じじはそう言うと、鼻で息を強く吸った。
「そこでだ、石井くん。君ががんばるんじゃ。佳っちゃんのこと、頼んだぞ」
「あの、僕、まだ」
 僕はあわてて火消しに走った。
「まあまあ、みなまで言うな。君なら、佳っちゃんを背負える。楽しみじゃ。ほれ、そろそろお開きにするか」
 じじは僕の言葉をほとんど無視して、席を立った。そして、仲居さんにつかまるようにして、足元をややふらつかせながら、部屋を後にしようとした。
「あ、あの、きょうはありがとうございました!」
 僕はあわててお礼を言った。
「おう、楽しかったぞ。あとは、よろしくな」
 じじはそう言って、姿を消した。僕は冷めた残りのお膳を前に、佳子さんと向き合った。
「ありがとう、ワンコちゃん」
「いや、あんな話で、よかったのかなあ」
「満点よ。じじを納得させられる男って、いないんだからね。さすがあたしの、カ・レ・シ・サ・マ!」
「えへ、そんな」
 僕は佳子さんにカレシサマと言われて赤くなるのを隠せなかった。
「なーんてね」
 佳子さんは、すぐ混ぜ返す。植木等みたいだ。こんなところにも、昭和が香っている。
「でも、本当にありがとう。これで、じじも納得よ」
「そうかなあ」
「そうよ。今夜はこれで気が楽ですっ」
佳子さんは、そう言って、伸びをした。
「じゃあ、あたしたちもお開きにしようか」
「うん」
 僕がそう言うと、仲居さんがものすごい勢いで近づいてきて、お膳を下げていった。よく見たら、佳子さんの方が僕より食べていた。すごいなあ、佳子さん。こんなスリムなのに。僕は小さく驚いた。
 そして、広間を後にした。長い廊下を歩き切ると、僕は佳子さんに部屋の鍵を渡した。
「じゃあ、おやすみなさい」
「え、もう寝るの?」
 佳子さんは、けげんそうに聞き返した。
「あの、すぐ寝るわけじゃないけど、僕は部屋が別だと思うからここで」
 そう言うと、佳子さんは吹き出した。
「何言ってるのよ、同じ部屋に決まってるじゃない」
 僕はフリーズした。この人、何を言っているんだろう。おかしいと思って、僕は反論した。
「あの、何言っちゃってるんですか。一緒の部屋なわけないでしょ」
「あら、一緒の部屋なわけですけど」
 佳子さんは、またまた混ぜ返す。
「あの、誰が決めたの」
「あたし。悪い?」
 佳子さんは悪びれた様子がまったくなかった。僕はそれが少し面白くなかった。
「悪いです」
「ほらまた敬語」
 いちいち、僕の言葉に突っ込んでくる。
「…悪いよ!」
「あら、そうかしら?だって、今夜は彼氏役をやってくれるって、約束したじゃない。ワンコちゃん、約束破るの?」
 佳子さんは、有無を言わせぬ口調だった。
「え、そんなつもりはないけれど」
「じゃあ、いいじゃん」
「うーん」
「え、あたしと一緒の部屋じゃ、いやなの?」
「そ、そ、そ、そんなことないよ!」
「じゃあ、いいじゃん」
「だって」
 そこで僕は赤くなってしまった。すると佳子さんは、僕の言ってほしくなかったことを言った。
「あ、ワンコちゃん、ひょっとして、あたしと夜どうなるか、考えてるの?」
さらに佳子さんは畳みかけた。
「やらしー」「エロワンコだよね」
 僕はエロワンコだなんて言われるとは、思わなかった。あの、佳子さんの口からエロワンコだなんて!僕は、佳子さんの清純さが破れたところが許せなかった。
「そ、そんな、失礼だ!」
 僕はとりあえずそう言ってみた。本当はこの後に
「いやらしいことを考えたわけではありません。一緒にいるとただでさえ緊張感満載なのに、一晩一緒の部屋にいるなんてことになったら、寝られないから困るんです」
というような回答を用意すべきだった。
 しかし僕は、情けないことに、やらしいと言われて、かえってやらしいことを考慮に入ってきてしまった。それを除外するための言い訳を考えていたところ、二の句が告げられず、佳子さんに付け入る隙を与えてしまった。
「あら、ごめんね」
「でも、文句はないんでしょ。それに、ワンコちゃんがここに来る前に頼んだ部屋は、あたしがもうキャンセルしておいたからね」
「もし、この部屋で一晩過ごすのがいやだったら、お外で待つんだよ。犬小屋あたりでね」
 え、お外で待つ?そう言われて、僕はふと窓の外を見た。あたりはもうすっかり真っ暗になっている。窓の枠に取り付けられている温度計を見た。
「-9℃」
 宵のうちでこの寒さだから、夜がふけたら、氷点下十度は軽く下回るだろう。一晩外にいたら、確実に凍え死んでしまう。さすが箱根の峠の上だ。予報士であってもなくても、この寒さが命にかかわることは、明白だった。
「お外で待つのは、できないよ」
 僕が弱音を吐くと、佳子さんは待ってましたとばかりに笑った。
「じゃ、入ろうね」
「う、うん」
 僕は小さな声でうなずくしかなかった。どうしよう。今夜は緊張して寝られないよ。緊張して鼻血出して、布団につけたらはずかしいなあ。僕は修学旅行に行った男子高校生のような心配をしていた。 
 僕のそんな心配をよそに、佳子さんは部屋に軽やな足取りで入っていく。部屋の中のふすまが開いた。
 中の様子を見て、僕は唖然とした。十五畳の部屋の中に、なんと、布団が仲良く二つ並べられている。しかもくっつけて。僕は早速鼻血が出そうだった。
「あのう、これは布団が近いんじゃないかなあ」
「そう?ごく普通だと思うけど」
 佳子さんは、にべもない。
「あの、だって、これだけ近いと、手が触れちゃうかもしれないし」
 僕は抵抗した。
「手が触れると、何かまずいの?」
 相変わらず、佳子さんは、にべもない。
「まずいよ」
「なんで?」
「だって」
 僕はそう言うと、さて、次にどんな言葉を言おうか、迷った。もし、「手が触れると興奮しそうでまずいです」なんていうと、また「エロワンコ」と言われて、佳子さんの清純さが失われてしまうし、「つきあっている彼女がいます」というと、それもまずいし。
 ん?ここで僕は気づいた。そういえば、僕に彼女が、しかも同棲している彼女がいるって、佳子さんには言ってなかったな。そろそろ、みわちゃんのこと、言わないといけないんじゃないかな。それを言えば、ストッパーになるだろうし。何のストッパーなんだかよくわからないけど。でも、佳子さんにみわちゃんの話だけはしたくないのも事実だ。佳子さん、みわちゃんの話なんて聞いたら悲しむかもしれないし。それに、きょうはちょうど僕は佳子さんの彼氏役を任されていることもあるし。そうだ、きょうは言うのをやめよう。
 僕はそんなことをグルグル考えていたため、「だって」の次の言葉が出てこなかった。すると佳子さんはすかさず
「だって、何よ」
と強気の発言をしてきた。
「えっと、その」
 僕は言うべきコメントがまとまっていなかった。
「『えっと、その』では、回答になっていません。ですので、ここは布団の距離は変えないことにします」
 まずい、判定が出ちゃった。また押し切られたよ。僕はどうしていつも佳子さんに押し切られているんだ。僕の中では、この押し切られるというのが、おなじみの悩みになろうとしていた。
「でも、まだ寝るの早いよね」
 僕は少しでも抵抗しようとした。すると佳子さんはそれもそうかという顔をして、言った。
「そうね。じゃ、ちょっと飲もうか」
 佳子さんはそう言って、部屋の隅にあるやや大きめの冷蔵庫を開けた。
 僕はびっくりした。その冷蔵庫の中には、宿の冷蔵庫とは思えないほどにびっしりと、二十本以上の缶ビールが入っていた。確かに、代々木のバーガーで好きなもの大全をやったときに、ビールが冒頭に出てきたけど、ここまでびっしりと缶ビールを宿に並べさせるとは、思わなかった。
「いくらでもあるから、飲んでね」
 佳子さんは缶ビールのロング缶を二本左手につかむと、次に、冷蔵庫の上の棚から彫りの深いカットグラスを二個取り出し、右手の指の間にきれいに挟んだ。グラスが二個挟めるんだ。指、長いなあ。僕は初めてそのことに気づいた。そして、佳子さんは、缶ビールとグラスを丁寧に机の上に置いた。そのとき、僕は初めて佳子さんの指先に目がいった。細長い爪に、きらきらとした銀河のような金銀のラメが入っていた。
「ネイル、いいね」
「あらあ」
 佳子さんは、口をアヒルのように開けて、ほほえんだ。
「ありがとう。見てくれて、うれしい」
「いえ、そんな」
「ネイルを口に出してほめてくれる男性って、案外いないのよ」
「そうなの」
「そう。ちゃんと見てないと、見えないネイルだしね。ワンコちゃ
ん、よく気づきました。さすが、カ・レ・シ!」
 さっき、広間で食事をしていたときは「カレシサマ」だったのが、今度は「カレシ」に変わった。「サマ」がとれたのはなんでだろう。僕はその細部が気になった。神は細部に宿るからな。ひょっとして、本物の彼氏に近づいてしまったとか?僕はまた勝手なことを考えていた。
「どうしたの?飲むよ」
 気づいたら、僕のグラスにも、佳子さんのグラスにも、あっという間にビールが注がれていた。佳子さん、動きが早いなあ。僕が注いであげなくて、申し訳ないなあ。僕は少し後悔した。
「じゃ、おつかれさまでした。カンパーイ」
「カンパーイ」
 僕がビールを一口だけ飲んだ。すると、ビールに柔らかい唇をつけていた佳子さんが、ビールから唇を放した。
「あ、ワンコちゃん、カンパイだよ」
「え、カンパイ、したけど」
「カンパイっていうのは、杯を乾かすんでしょ。一気に飲まないとだめなのよ」
「ええっ」
 僕はまた驚いた。大学のコンパで、先輩が後輩に言うような他愛もない台詞を、ここで佳子さんに言われた。
「あたし、一年の秋の早慶戦の後の、コマ劇前でやったコンパで言われたの。カンパイは杯を乾かすまで飲まないと、ねっ」
 また、言われたよ、この手の台詞!僕はそれについて突っ込もうと思った。
 しかし、その瞬間、ふとおかしなことに気づいた。いま、佳子さん、「一年の秋の早慶戦の後の、コマ劇前でやったコンパ」って言っていたな。そんな昔のこと、よく覚えているな。
 待てよ。佳子さんは、昔のことを思い出せなくて大変だったんじゃないかな。その割には、昔の話が結構ここまで出てきているな。きょう聞いた話だけでも、「お父さんがロマンスカーで買ってくれたオレンジジュースの話」「大学のマイナーな応援歌の『いざ青春の生命のしるし』の話」そして「お父さんに教えてもらった『涙をこえて』の話」今の「早慶戦の後のコンパの話」。これだけある。
 どうして、思い出せないはずなのに、昔の話が結構出てきているんだ?僕のなかに、突如として疑問がわきあがってきた。僕はその疑問を、佳子さんに聞かずには先に進めない、と思った。そこで僕は、杯を一気に乾かして、佳子さんの方を向いた。
「わあ、ほんとに乾かした。すごーい」
 佳子さんはそういうと、自分も杯を乾かした。ふっと軽くアルコールを帯びた息をついた姿が、大人なのに大人びて見えた。
「あたし、高校三年の文化祭のあと、こっそりビール飲んだことあるんだよね。そのときパパが怒って」
 ほら、今度は高校のときの話が出てきたよ。おかしいじゃん。僕は、切り込んでいこうと決意した。
「あのう、佳子さん」
「なあに、ワンコちゃん」
「あのう、この間代々木で会ったとき、若いころの記憶をたどるきっかけを次々忘れてしまって、思い出せる思い出がすごく少なくなっていたって言ってたよね」
「うん」
「それなのに、こんなに事細かに昔のことをすらすら言えるって、おかしくない?」
 僕はわりと、決定的なことを言ったつもりだった。しかし、佳子さんは、またしても、にべもなかった。
「別に。おかしくないと思うけど」
「ええ、だってずいぶん記憶が鮮明だと思うけど」
「そうかなあ。あたし、だいぶ過去の記憶をたどっていくきっかけ、なくしたんだよ」
「じゃ、なんでこんなすらすら出てくるの」
「えー、これでもたどたどしい方よ」
 僕は、何を言っているのかと思った。
「全然、たどたどしくないじゃん」
「あら、そう?昔に比べるとかなりたどたどしくなったのよ」
「じゃ、昔はどんだけだったの?」
「昔?ああ、世界史の本は、全部覚えたわ。一晩で。」
 僕は一瞬言葉に詰まった。さらに佳子さんは続けた。
「あと、英語の単語帳もだいたい一晩ね。高校三年のとき、英語で三十分話す弁論大会があったけど、これも一晩で台詞覚えたの」
 え?どれだけ記憶力が抜群だったんだ?そういえば、予備校のチューターとしての佳子さんのキャッチコピーは「偏差値七十八の歌姫」だった。模試では平均で偏差値七十八をとっていたって予備校の先生が言っていたな。その上、歌がうまいという触れ込みだった。そんな思い出話を思い出している僕を尻目に、佳子さんはさらに続ける。
「あと、円周率も一万桁くらいまで覚えたなあ」
 ずいぶんすごい話をさらりとする。
「あとね、予備校の生徒の顔と名前は、みんな、一致してたんだよ」
 僕と佳子さんが通っていた予備校は、当時ものすごく生徒が多くて、同じ学年だけで五百人はいた。その顔と名前を全部覚えていたなんて、すごい。
 ん?でも、全部覚えていたはずなのに、なんで僕は「覚えていない」と言われたんだ?この疑問は答えによってはまずい疑問なので、できればそのままにしておきたかったが、そのままにしておくと僕の心の中で腐って異臭を放ってしまいそうだったので、思い切って聞いてみた。
「あの、そうすると、僕はどうして、記憶から抜け落ちてたの?」
「んふ」
 んふ、というのはコメントではなく、口を閉じたまま、飲んでいたビールと笑いが噴き出るのをこらえたときに発した音だ。
「ワンコちゃあん、わかんないかなあー」
 少し酔ったような佳子さんの言葉は、僕にはわかんなかった。
「覚えていたに、決まってるでしょ」
 佳子さん、それって、どういうことですか。
「じゃあなんで、記憶がよみがえって泣いた、みたいな展開になったの?」
 僕は少し怒り始めていた。すると、佳子さんは、冷徹に言った。
「そしたら、盛り上がらないじゃん」
「ええっ!」
 盛り上がらないから、忘れたふりをしていた?そういうこと? 僕の中で、佳子さんとの代々木のバーガーの感動の名場面のページがビリビリと音を立て破れていった。僕は次に、疑問に思ったことを聞いた。
「あの、いつから僕のことに気づいていたの?」
「最初から」
 佳子さんは、また悪びれずにさらりと答えた。
「最初って、いつ?」
「手帳を拾ったときよ」
「ええ!」
 僕はまたびっくりしてしまった。
 ちょっと、ちょっと。僕がありったけの勇気を出して、面倒くさいのも必死の思いで乗り越えて、なんとかかんとか、ひょっとしたら、この人が佳子さんなんじゃないかって全力で聞いた話は、全部、全部、佳子さんは僕の素性を知った上ではぐらかしていたのか!
 僕は、頭にきた。
「ちょっと!それって、おかしいじゃん!」
「何が?」
 佳子さんは、まったく表情を変えない。
「だって、僕が最初の電話のとき、『ちょ、ちょ、ちょっと、待ってください』って言ったときに『…何ですか?』って不信感ありありの返事をしてたよね。あと、僕が、必死に、笑っちゃうくらい熱っぽく『あのう、覚えていますか』って言ったら、『申し訳ないんですけど、覚えていません…』とか言ってたよね。それってものすごく失礼じゃない?」
「そうかなあ」
 佳子さん、それは失礼ですよ。僕はもう断定するしかなかった。
「失礼だ!」
「そんなこと、ないと思うよ」
 熱くなる僕を尻目に、佳子さんはなおも冷静さを崩さない。
「なんで?」
 僕のありったけの熱意をこめた抗議をした。しかし、佳子さんは無表情で反撃した。
「だってさ、盛り上がったから、それで、いいじゃない」
「盛り上がったら、いいの?」
「うん」
 あまりにも簡潔にうなずく佳子さんを見て、僕は、代々木で会ったときのひとつの出来事を思い出した。
「そしたら、もしかしたら、あの白いワンピースを着てきてくれたのも、盛り上げるためだったの?」
「そうよ。だって、ワンコちゃん見事にびっくりしてくれていたじゃない。真冬になんでこんな真っ白な服来てるんだって、顔に書いてあったわよねえ。もうあたし、笑っちゃいそうだった。狙い通りで。」
 僕は佳子さんの仕掛けにまんまとはまったということか。真っ白な服の裏話を聞いて、僕の頭が真っ白になった。
「下手な映画見るより、よっぽど面白いし、すごい展開だったよ、私たち。あの様子、ずっと撮影しておきたかったくらい」
 佳子さん、なんてこと言うんですか。僕たちの素敵なはずの、大事なはずの思い出は、単なる映像素材なんですか。僕はそう言ってさらに抵抗を試みようとしたが、佳子さんはさらに戦意を失わせる一言を先に言った。
「これくらい、面白いことにならないと、あたし、ノラないのよね」
 ノリですか。僕と佳子さんはノリの関係ですか。
「だって、恋愛とか出会いの話って、最近、ほんっとつまんないじゃない。ていうか、昔から、あたしはすごいつまんない恋愛とか出会いしか、なかった」
 そういうと、佳子さんは、机の上で結露して汗をかきまくっていた二本目の缶ビールにさっと手を伸ばした。プシュッという音が、佳子さんの長く細い指の先から、小さく響く。
「恋愛とか、出会いとかが、つまらない、の?」
「そうなのよ!」
 一言いうと、佳子さんは、ビールを勢いよく、すでに泡で曇ったカットグラスに注いだ。間髪入れずに、がぶりと飲んだ。さっき日本酒をあおっていたじじに、飲み方が似ている。そう思った。
「だって小さいころから、パパのお金目当てであたしに言い寄ってくる人は本当にたくさんいたし、男の人だって、あたしそのもののことじゃなくて、大王子観光のことだったり、あたしの顔とかだったりをチヤホヤチヤホヤして、ほんとにあたし、ウ・ン・ザ・リ・なの」
息を一瞬継いで、佳子さんは続けた。
「だから、仕事に熱中したんだけど、うまくいかなくて、病気になっちゃってね。うら若き時代が失われてつらかったわあ」
 あの、佳子さん、うら若き時代が失われたって言いますけど、今でも僕よりうんと若く見えるんですけど。そんな突っ込みを入れる隙も見せずに、佳子さんはしゃべり続けた。
「だから、あたしは、なんかドキドキするような話とかにあこがれて、それで雑誌の仕事を始めたわけ。でも、ドキドキする前に雑用が死ぬほどあって、本当に徹夜続きで死にそうになって、病気になっちゃったんだけどね。世の中ってなんなのよねえ」 
佳子さんの話は少し愚痴になっていた。
「あの、それで何か面白いことをって、思った、というわけ?」
「そう!」
佳子さんは力強くそう言うと、一気に乾かしたグラスをカタン!と机に置いた。
「ワンコちゃんの手帳を拾ったのは、本当にたまたまだったのよ。でもね、あたし、ピーンときたの。これって、何かの始まりじゃないかなって。『初めて電話するときにはいつも震える』っていうけど、あのときはほんとに緊張したのよ」
 ニア・プリンセスの佳子さんが、プリンセスプリンセスの代表曲の歌詞を引用して、始まりのときの自分の心境を、力説した。そんなことに気づいた僕は、ようやく、少し冷静になって話ができるような気がした。
「うーん、でも、それってリスクがある話だよね」
「リスク?何が?」
「だって、僕が最初の電話を受けた時に『では、近いうちに中野坂上駅前の交番に、届けておきます。失礼しました』って言って、佳子さんわりとすぐに電話を切ろうとした、よね。もし僕が『ちょ、ちょ、ちょっと、待ってください』って言わずに、あっさり電話を切ったらどうするつもりだったの?」
「ああ、そしたら、しょうがないじゃない」
 僕は少しがっかりした。
「ええ、だってそうしたら、僕たちもう会えなかったんだよ!」
「そんなことないわよ」
「なんで」
「もしそうなっちゃっていたら、違う手を考えていました」
「違う手?」
「そう。違う手」
「どんな手?」
「それは、言えないなあ」
「なんで?」
「だってまだ、どこかで使う手かもしれないじゃん」
 僕は息を飲んだ。この人、僕を相手にロールプレイングゲームでもやっているつもりなんじゃないか?少し僕は不信感を持った。
「そんなのロールプレイングゲームみたいで、いやだ」
「何言ってるの。人生ってロールプレイングゲームみたいなもんよ」
「なんだか遊ばれているみたいで、いやなんだ」
「なんで遊ばれるのが、いやなの?」
「だって、僕」
そこまで言って、僕は次の言葉をどうしようか、迷った。「だって、僕、佳子さんのこと、本気で好きだから」というのが言いたいことだった。でも、それを言ってしまうと、みわちゃんに悪いし、それによく考えたら少し違うので、「佳子さんにはいつも圧倒されていて、単なる好きとはちょっと違う感情があって、緊張するし、そこによくわからない感情もあるから」というようなことを言いたかった。
 しかし、少し興奮していた僕は、違う言い回しをしてしまった。
「だって、僕、佳子さんといると、緊張するから」
 これは、正確な表現ではない。緊張するのなら、社長の前に行けば緊張できる。それと同等に伝わってしまわないか。僕が心配してすぐに訂正を入れようとしたところ、すかさず佳子さんが先にコメントした。
「あらあ、よかったわ」
「何がよかったの」
「あたし、緊張する人って好きなのよ」
「ええ、なんで」
「だって、緊張っていいことじゃない」
「ええ、だからなんで」
「昔の紅白歌合戦とか、そうだったじゃない。歌手が思いっきり緊張して、キーが少し上がって、バンドも緊張して、少しテンポアップしたりして、紅白独特の世界があるでしょ。あの緊張感が、すごく生々しくて、人間らしくて、熱があって、パワーがあって、あたし大好きなの。何度でも見たくなっちゃうのよね、ああいう真剣勝負。ワンコちゃんがあたしのこと見て緊張するって言ってくれるってことは、あたしとも紅白みたいな関係だってことよね。それって、すごい、素敵だわあ。あたしに言い寄る男ってなんだかみんな自信があるか空威張りかどっちかで、緊張感、ぜんっぜんなかったのよね。なんだかワンコちゃんって、新鮮!いいわあ!」
 そう言って、佳子さんは、少しビールで赤くした顔で、笑った。
「あのう、でも、僕、あの、遊びだったら、やだなあ」
 僕はなおもつぶやいた。
 すると、佳子さんは、まじめな顔をして、言った。
「遊びっていうけどね、これは、ものすごく、真剣な遊びなの」
「真剣な遊び?」
「そう。遊びを遊んでやったらダメ。ワンコちゃんとは、真剣に、ねっ」
 佳子さんはいつもの「問題文は最後まで読まないと、ねっ」に似た決め台詞を言うと、立ち上がって、窓の方へと歩いた。
 僕は後ろ姿を見ていた。あのかわいらしかった、若くてかわいい佳子さんの後ろ姿が、いつのまにか、ものすごい大人びた後ろ姿に変わったような気がした。その上、得体の知れない厳しい雰囲気が漂っていた。夜叉の後ろ姿のような気さえした。
 すると、佳子さんはくるりと僕の方に振り返った。正面の姿は、やはりいつもの、若くてかわいい佳子さんだった。佳子さんは少しほほえんで、言った。
「ワンコちゃん。きょうはありがとう」
「ううん、僕の方こそ」
 佳子さんと僕の間に、少し沈黙が流れた。五秒よりも、さらに長い沈黙だった。こんなに沈黙が流れたのは、再会してから初めてだった。  
 佳子さんが、少しだけ顔を上げた。
「寝ようか」
「うん」
 僕は軽くうなずいた。また、僕の中で緊張感が高まってきた。
 

 十五畳の和室を照らしていた電灯が消された。部屋の隅にあるぼんぼりのような照明に、電球の色をした光が淡くぼんやりと見える。部屋の中の明かりは、非常灯のようなそれだけだ。今、僕の心の中も非常灯で照らされているようなものだった。だって、佳子さんが、隣の、というか、くっついている布団に横になっている。そんなこと、信じられない。まるで、サンタクロースが隣に寝ているようなものだと思った。僕は今、サンタと背中合わせだ。このサンタは、一体何を持っているのだろう。このサンタは、一体どこから僕の心の中に入ってきたのだろう。このサンタは、一体何を考えているのだろう。このサンタは、僕をソリに乗せて、どこに連れて行こうとしているのだろう。僕はまったくわからない。寝られない。緊張する。
 ちなみに、みわちゃんとは、毎晩同じベッドで寝ているけど、まったく緊張しない。あまりに緊張しないためか、僕のいびきはうるさいようで、いつのころからか、僕の頭の前にみわちゃんのつま先、僕のつま先の前にみわちゃんの頭がくるようになってしまった。
 でも、今夜は、いびきなんて、かけない。いや、いびきをかく前に、そもそも寝られない。僕がちょっといらいらとして、限られたスペースの中でダンゴムシのようにもぞもぞと動くと、僕がかけている大そうな布団はこんもりと盛り上がった。
 そのときだった。隣の布団から、寝息のようなかすかな呼吸が聞こえた。やった。佳子さん、寝てくれたのかな。僕は緊張感の源泉の佳子さんが寝てくれたようで、少しほっとした。盛り上がった布団を直そうと、少し、佳子さんの側に体を向けた。
 すると、暗闇に、猫のような鋭い瞳が、らんらんと輝いていた。ひゃっ。僕は逃げ出しそうになった。しかし、鋭い瞳は、僕が逃げ出すことを許さなかった。
「ワンコちゃんっ!」
「起きてたの?」
「起きてたよ!」
「寝息みたいなのが聞こえたから、寝たと思った」
「だってワンコちゃんがずっとむこう向いてるから、振り返っても
らおうと思ってニセ寝息をたてたの」
ニセ寝息!佳子さん、面白いこと言うなあ。そう思うのと同時に、僕は、佳子さんが僕に振り返ってもらおうと思って、ニセ寝息を立てた、という言葉がちょっとうれしかった。女の子が、僕に振り返ってもらおうとして何かしてくれるなんて、いつ以来だろう。少なくとも、最近はなかった。僕は少し、幼い喜びに浸った。
「ねえ」
「なあに」
「ワンコちゃん、昔に比べて、かっこよくなったよね」
 ええ!佳子さん、今なんておっしゃいましたか。
「どこが」
「全体が」
 ええ!佳子さん、何言っちゃってくれるんですか。僕はまた鼻血が出そうだった。
「全体がって。どんなところが、いいのか、知りたいなあ」
 僕はそんな、高校生みたいな感想を漏らした。
「そうね」
 佳子さんは、丸い頭の上に布団を巻きつけてるようにして、言った。
「今のワンコちゃんは、あたしにいろんなことを教えてくれるようになったんだよね。じじも、感心していたけど、天気予報のことだけじゃなくて、いろんなこと、あたしに教えてくれてるんだよね。今まで、お金をくれるとか、ブランドのバッグをくれるとか、そんな人はいっぱいいたけど、知恵とか、知識とか、見えないものをくれる人って、なかなかいなかったのよね。あたし、それがすごく新鮮に見えるの。それが、たぶんかっこいいって思う理由なんだよね」
「そんな、僕はそんなにたいしたこと、言ってないよ」
「ううん、そんなことないよ。だって、知恵とか、知識とかって盗まれないじゃない」
「盗まれない?」
「そう。お金とかブランドのバッグとかは、盗まれることもあるけど、知識とか、知恵とか、考え方って、どんな大泥棒がきても、盗まれないのよね。あたしの頭の中にちゃあんと残っているの。だから、ワンコちゃんからは、どんな大泥棒がきても、大丈夫な、素敵なプレゼントをもらったんだなあって、思ったんだよね」
「いや、そんな、僕は佳子さんの役にまだ、立っていないし」
「そんなことないよ。あたしの宝物がきょう、いっぱい増えた。ありがとね、ワンコちゃん」
 佳子さんはそう言うと、暗闇の中で瞳をキラキラと輝かせて、僕を見つめてくれた。僕はその瞳が、どんなダイヤモンドよりもきれいだと思った。
 僕も、佳子さんをじっと見つめた。佳子さんは、頭を枕から下ろして少し前に動かし、暗闇に映える、色白のつややかな顔を少しだけ僕の方に近づけた。僕も、暗闇の中で、頭を枕から下ろして少し前に動かし、佳子さんの方に、少しだけ顔を近づけた。僕たちの距離は、二十センチ足らずに近づいた。再会するまでにかかった年の数の二十三、そして、僕たちの背丈の差の二十三センチよりも、わずかに数字は小さくなった。
 ここで僕は、耳を澄ませた。佳子さんの鼻息が、かすかに聞こえた。まるで、押し殺すような鼻息だった。そして、僕の胸の高鳴りも、はっきりと聞こえた。どく、どく、どく。どりゅん、どりゅん、どりゅん。体中の血液のめぐる音が、いま、佳子さんの前でうなりをあげて大きくなっていた。佳子さんは、目を大きく見開いて、僕のことを見た。僕もきっと、同じように佳子さんのことを見ていたと思う。 
 不意に、佳子さんが、目を閉じた。柔らかく美しい曲線を描いた、瑞々しい桃色の唇を、僕に向けて、丸く、軽く、わずかにすぼめた。僕は息を飲んだ。こんな瞬間が、僕みたいな人間の人生に、訪れるんだ。僕は、自分の運のよさが、信じられなかった。僕は、胸がつぶれそうだった。しかし、ここでつぶれたら、男がすたる。僕はすぐに気持ちを切り換えた。
 いや、気持ちの切り換えには、五秒かかった。僕にしては、ずいぶん時間がかかった。なんでだろう。そんな思いを抱きながら、僕は、顔を、佳子さんさらに近づけた。
 その瞬間だった。僕の目の前で、驚くべきことが起きた。

 ぶわっ。突然竜巻が現われたような轟音がした。見ると、佳子さんが、大そうな厚い掛け布団を、ありったけの力でぱあっと空間に広げた後、すっぽりとかぶったところだった。
「ダアー、シャリヤスッ!」
 呪文のような言葉だったが、僕はすぐにその意味がわかった。
「ドア、閉まっちゃったの?」
「わかった?」
 布団の中から、くぐもった声が聞こえた。
「だって、『ダアー、シャリヤス』でしょ。もう発車してください」
「えへっ」
 少し説明すると、佳子さんの言った「ダアー、シャリヤス!」というのは、京急の電車が出発するときに、ホームにいる駅員さんや車掌さんが「ドアが閉まります」という言葉を崩して言うときの言葉、とされているものだ。実際には、こんな乱暴な言い方はしないけど、京急の雰囲気にこの言葉がよく似合うため、鉄道ファンの間では「ダアー、シャリヤス!」と言うと、それは京急の電車が出発するときのこと、ということで通っている。鉄道好きで、しかも京急沿線に住んでいた佳子さんは、おそらくこの言葉が好きなのだろう。小田急沿線の僕には、実感がわかない話だけど、僕も鉄道は好きなので、これくらいの話は知っている。
「ワンコちゃん、京急知らないのに、よく知ってるね」
「たまたまだよ」
 僕が少しあきれてそう言うと、また、僕の心に刺さる鋭い返事が返ってきた。

第3部


「その、たまたまが、好き」
 佳子さん、なんてうれしいことを言ってくれるんですか。うれしいなあ。僕はもう少し、布団をかぶった佳子さんに近づこうとした。すると佳子さんは、その雰囲気をすぐに察知したようだった。
「だーめ。きょうはもう『ダアー、シャリヤス!』なのっ」
 布団の中から、さらにこもった声で、今夜の佳子さんのドアが閉まったことが告げられた。惜しい。僕は残念がった。佳子さん、本当にいつも場面を作るなあ。もしかして、これも、佳子さんが考えて、こうなるように仕向けていたのか?一瞬、そんなことを考えたけど、せっかくいい雰囲気になったのにそう考えるのはよくない、と思ったので、考えるのは、すぐにやめた。
 それにしても、佳子さんは、この物語をどこに持っていこうとしているだろう。もちろん、ハッピーエンドになってほしいという気持ちはあるが、それより何より、僕はいつまでもこの物語に参加していたいと思い始めていた。こんなに緊張感あふれて、場面があって、胸が躍り、時々落胆もするけれど、でも少しずつ前に進んでいるような気がする物語って、なかなかない。マイナスだらけだと思っていた僕の世界に、プラスの要素が舞い込んできた。そして、この物語への参加はちょっと面倒だけれども、でも面倒でないときよりも、心地よい自分がいることを僕は見つけていた。
 佳子さん、お願いだから、物語をやめないでね。僕はそう願いながら、頭をもとの位置に戻した。

 暗闇の中、僕ははっと目覚めた。きっと、いつの間にか寝てしまったのだろう。いま、何時かな。僕は時計を見ようと、佳子さんの方を向いた。
「あれ?」
 見ると、佳子さんの布団は大きく乱れてはがされ、佳子さんはいなくなっていた。まだ真っ暗だ。起きるには早すぎる。どこに行ったのだろう。僕は、心配になった。僕も布団を大きくはがし、佳子さんを探しに行こうとした。でも、どこに探しに行けばいいのかわからない。
 ふと、耳を澄ますと、「うー、うー」という地を這うようなうめき声がわずかに聞こえた。佳子さんかな。どこにいるのかな。僕は、とりあえず立ち上がった。部屋の中にある板の間の廊下に出て、奥に進み、洗面所のドアに近づいた。うめき声はそこから聞こえていた。僕は迷わずドアを開けた。すると、床に這いつくばるようにして、浴衣の少し乱れた佳子さんがいた。
「佳子さん!大丈夫?」
 僕は急いで声をかけた。しかし、佳子さんは、ほとんど白い眼をして「うー、うー」と言ったままだった。白い眼には涙が浮かんでいた。僕は、佳子さんを抱きかかえた。
「佳子さん!佳子さん!」
 佳子さんは、吐きそうになっていた。佳子さんは大きなげっぷのように「うっ」と言ってえづいた。
「鼻で、息して。すーっと」
 僕は思わずそう言った。僕も、予報を外したとき、たくさんのお客さんの前に立ったとき、大きな決断をするときに、急に吐き気を催すことがある。そんなとき、坂の上テレビの先輩が教えてくれたのが「鼻からすーっと息を吸う、なるべく長く吸う。そして、ゆっくり息を吐く」という方法だった。先輩によると、これは自律神経に働きかける方法だ。自律神経とは、無意識のうちに働いている神経のことで、内臓も自律神経で動いている。自分の意識で動かすことはできない。その自律神経に働きかけることのできる数少ない動作が、呼吸だという。特に、鼻から呼吸をすると、深く息を吸ったり吐いたりできるので、自律神経が落ち着く、という話だった。僕はよくわからなかったけど、とりあえず佳子さんにこの方法を勧めた。
「そうね。うん…ワンコちゃん、あ、ありがとう」
 佳子さんはそう言うと、鼻で大きく息をし出した。溜めるように息を吸い込み、ファンのように息を吐き出した。
「はあ。ううっ」
 少し落ち着いたが、まだ軽くえづいている。僕は部屋に戻って、大きな魔法瓶にあった冷たい水を湯のみにくんで、また洗面所に戻ってきた。
「飲んで」
「うん」
 佳子さんは、湯のみを抱えるようにして、飲み干した。そこでまた、鼻から大きく息を吐き出した。そういえば、風呂上がりに佳子さんのスマホのカバーを開けてみてしまったとき、「もっと 鼻息」と書いてあったのは、この吐き気対策のためだったのかもしれない。スマホにわざわざ書いておくくらいだから、結構頻繁で、相当意識しないとできないことなのだろう。あるいは、よほど吐き気が来るのが怖いのかもしれない。僕は佳子さんの苦しさを慮っていた。
「ごめんね、ワンコちゃん」
「ううん。落ち着いてよかった」
「ごめんね」
「ううん、僕もなるから」
「ワンコちゃんも、なるの?」
「うん、緊張したときとかね」
「そうなの?」
「うん」
「これも、ワンコちゃんと一緒ね」
 吐き気はよくないことだけど、僕は、佳子さんが「これも一緒ね」と言ってくれたのがうれしかった。
 ふと、佳子さんを見た。よく見たら、僕は佳子さんの肩を抱いていた。僕はその状況にギョッとした。こんなこと、してはいけない。僕はあわてて佳子さんから離れた。手には、佳子さんの肩の、ふわりとした筋肉の感触が残った。女の子って、柔らかい筋肉をしているけど、佳子さんは特に柔らかいような気がした。と同時に、僕は神様に触れてしまったような気がして、いけないと思った。
 そして、ふと鼻をひくつかせた。すると、これまで僕が知らなかった、ものすごくいい匂いがした。高校生のときに楽しみだった、予備校の隣の席に座ってくれた時の匂いと、少し違う。そして、代々木のバーガーで貸してくれたハンカチの匂いとも、少し違う。初めて僕が感じる、新たな匂いだった。
 この新たな匂いは、神様の匂いなのか。この匂いは、僕が佳子さんのエリアに踏み込んだことを知らせるアラームなのか。この匂いは、不用意に嗅いではいけないものではないか。もし嗅いだままにしたら、いろいろな意味でまずい。僕はおろおろした。
「どうしたの」
「あの、あの、あの、失礼しました」
「んふ、ほらまた敬語」
 佳子さんは、これだけえづいた後でも、突っ込みは健在だった。この人の切り換えの速さは漫画のようだ。
「ああ、ごめん」
「うふ」
 佳子さんは謝っている僕を、ペットを見つめるような温かいまなざしで見つめた。そうか。僕は神様・佳子さんのペット、つまり狛犬のようなものか。だからワンコと名づけたのか。僕は少し合点がいった。
「あの、大丈夫」
「大丈夫よ。ありがとね」
 佳子さんの目にはまだ涙がにじんでいたものの、笑顔が少し戻っていた。この顔、かわいいなあ。少し、見つめてしまった。
 するとまた「こらっ、女の子のこと、ジロジロ見ちゃいけないんだよっ」が来る、と僕は思った。
 ところが、違った。
「あ、見ちゃダメ」
 そう言うと、佳子さんはパッと両手で顔を隠し、少し顔をそむけた。
「え、なんで?」
 予期しない台詞がきたので、僕は少し戸惑った。
「だって、すっぴんなんだもん」
 ええ?まったく気づきませんでした。どのへんがすっぴんなんですか。いや、いつからすっぴんなんですか。三つのうちどれを言おうか、迷った。その末に聞いた。
「いつからすっぴんなの?」
「寝る前から」
「そうなの?全然気づかなかったよ」
「えー、すっぴんって全然違うのよ」
「どこが」
「…まつ毛をとったの」
 まつ毛?僕はまったくわからなかった。さっき涙がにじんだ目を見たけど、全然気づかなかった。そんなにまつ毛、重要なんですか。僕は聞こうと思ったが、重要なんだからこだわっているわけであまり聞いても意味がないと思った。そこで、話題を変えた。
「さっきみたいに、吐き気がすることって、よく、あるの?」
「あるの」
「たまに、突然、くるよね」
「そう、あたしも」
「五分か、かかると十分くらいは続くよね」
「うん。あたしも。悩みをこなす時間と同じくらいかな」
 僕はまた小さな発見をした。僕も、嘆いたり悩んだりするのは五分まで、と決めているけど、たまに十分以上かかることがある。この吐き気・嘆き・悩みのサイクルも、佳子さんと僕は一緒なのか。また少し、うれしかった。
「佳子さんも、悩むの?」
「そりゃ、悩むわよ」
「こんな、頭いいのに?」
「頭なんてよくないよ。記憶のメモリーがちょっと広いだけ」
「ちょっとどころじゃあ、ないよ」
「そんな差はないわよ」
 佳子さんは、謙遜していると思った。そういえば、昔、佳子さんが予備校のチューターだったときに、あまりにかわいいと評判が立ったので、予備校のパンフレットで、モデルになっていたな。もう大学生なのに、高校生の生徒役で。予備校は佳子さんの写真を四年も使い回した。その当時の佳子さんと今の佳子さんは、あまり変わらない。それはすごいことなんですよ。僕はよほど佳子さんをほめたかったが、また謙遜するだろうと思って、やめた。
「じゃあ、どんな悩みなの?」
「ええっと」
「うん」
「きょうは、ワンコちゃんに吐くところ見られないようにっていう悩みかな」
「そうなの」
「うん。だって、ワンコちゃんも吐き気あるって知らなかったから」
「そう」
「見せたくないと思ったら、逆にどんどん追い込まれるのよね」
「だよね」
「不思議よね。人間って。見せたくないものは見せることになってしまって、本当に見せたいものが、見せられないんだよね」
「そうそう。それを、皮肉っていうよね」
 僕は、佳子さんより先に、何としても「皮肉」という言葉を言いたかった。昔、佳子さんが僕に「早稲田の現代文ってね、キーワードがあるんだよ。皮肉とか、矛盾とか、出てきたら大ヒントだから、絶対チェックだからね」と教えてくれたことを、今ここで実践したかったからだ。
 すると、ずっと手で顔を隠していた佳子さんは、パッと手を放して、僕の方を向いてくれた。
「皮肉。よく出てきました。よくできたね。よく覚えていたね。
 教えた甲斐、あったわあ」
 佳子さんはすっぴんを隠さずに、笑ってくれた。こっそり確認したけど、すっぴんかどうかなんて、全くわからない。このまま外に出ても、おかしくない。そう思った僕は、思わず言ってしまった。
「あの、やっぱり、すっぴんだって、わかんないけど」
「そお?大違いよ」
「どこが?」
「なんでまた言わせるの?まつ毛が短いの!」
 佳子さんは少しいらだった。でも僕は、自分の見方が違っているとも思えなかった。
「あのう、佳子さん」
「なあに」
「佳子さん、気にしすぎじゃ、ないかなあ」
「そお?」
「だって、本当にわかんないもん」
「そんなことないよ」
「いや、わかんない。百人いても、九十九人わからない」
「そうかしら」
「そうだよ」
「うーん」
「だって、寝癖とかもそうじゃん。本人が気にしすぎるくらい気にしても、他人は実は誰も気にしていない。でも、その数センチにこだわって、みんな無駄な時間を過ごしているんだよね。なんか自分が気になることがあっても、他人が気にしないんだったらいいんじゃないかなあ」
「そっかあ。でもあたし、目元、ほかの人より、弱いからなあ」
「そんな、他人と比べてもあんまり意味ないよ。比べると、まず間違いなく、自分より他人の方が、すばらしく見えるじゃん」
「うん」
「でも、自分と他人の間に、ほんとにどれだけ差があるかは、実は自分ではわかっていないことが多いんだよね。それに、世の中の人って、自分と他人の差について、あまり、というか、全然、気にしていないし」
「…そっか」
「僕は、一番いいのは、自分がどれだけ力を伸ばしたかを気にすることだと思うな。他人を上回ることにも意味はあるけど、自分を上回ることの方にね、もっと大きな意味があるんじゃないかなって思うんだよね。だから、目指すのは、自己最高記録なんだよね、僕はいつもそう」
「そうなの?」
「うん。それに、自己最高記録をコツコツ、マニアックなくらいコツコツ更新していくと、結果的に、ほかの人を上回るんだよね」
「ああ、そうね、そうかも」
「あと、昨日の続きの今日ではなくてね、明日に続く今日にしないと」
「うん」
「天気予報はいつも、明日があるから」
「あ、明日があるさ、だね」
 佳子さんは、昭和の名曲の題名をつぶやいた。これも、あの「涙をこえて」を作った中村八大先生の作曲だ。佳子さんといると、つくづく、縁のあるものが出てくる。おかしなくらいに。
「じゃあ、また横になろうか」
「うん」
 僕たちはようやく、洗面所を後にした。洗面所はすっかり冷え切り、板の間の廊下はさらに冷え切っていた。僕たちは元日の郵便受けに年賀状をとりに行く人のように、いそいそと廊下を歩いた。 部屋に着き、僕たちはまた分厚い布団にもぐりこんだ。それはまるで、築地市場のラーメンの厚切りチャーシューの下に、もやしのような具がひっそりともぐりこむような感じだった。
「ねえ」
「うん」
 もやしたちの会話が、また始まった。
「また、ワンコちゃんに教わったね」
「そんな、大したことないよ」
 僕の謙遜は、いつも「大したことないよ」になってしまう。もっとバリエーションを増やさないと。そう思っていると、佳子さんは続けた。
「なんだか、涙が出ちゃうんだよね」
「なんで?」
「あたし、全部キメキメじゃないと、安心できないんだよね。風貌とか、構成とか、展開とか、段取りとか。だから、すっぴんだと不安になるし、他人より劣っているような気がするし。でも、さっき『自己最高記録を目指すのがいい』って聞いて、ああ、そうなんだなって感じ」
「ふうん。構成とか、展開とか、段取りとかも?」
「うん。あたしそういうキメキメ構成とかバッチリやりたくて、そ
れもあって雑誌の編集をやったんだけど、いっくらやっても、終わんないのよね」
「そうだね」
「いっつもそれで時間だけが過ぎて行って、なんでだろって思ってたんだ」
「そりゃ、時間はいくらあっても足りないよ」
「どうして?」
「だって、あそこを直すと、今度はここが見つかる。あそこを直したことで、ここに影響が出る、みたいなのの繰り返しだよね」
「うん」
「それに、いま思いついたことを、次の瞬間に忘れたり、いまできたことが、一時間後にできなくなったりするじゃない」
「あるある。なんでなのって感じ」
「でも、人間ってそうできているから、むしろそれって当然じゃないかと思うんだよね」
「うん」
「だって、生きているんだもの。できないことができるようになることもあるけど、できることができなくなることだって、同じくらいあるんだよ、きっと。常に最高の状態を保つなんて、なかなかできない」
「うーん。できれば、たくさん持っていたいけどね」
「そう?そんなにたくさん持ち続けなくても、いいんじゃない?だって、全部持っていても、全部同時に使うわけじゃないんだし。使うときにあればいい、と考えた方がいいんだよね」
「…そっか」
「それに、佳子さん、お金をたくさん持っていてもしょうがないっていっていたじゃん。それと同じだよ」
「そっか」
「それにね、涙を流してもいいんだけど、ないことばかり探すと、よくない涙があふれちゃうよね。あるものを探していかないとね。あるものを必死で探して、見つかって涙したり、あってよかったなって、どこか感謝の気持ちがあって涙するんだったら、それはいい涙なんじゃないかな。そしたら、その涙に意味があるし、涙をこえた先に、なんだかプラスがあると思うんだよね。そういうプラスを探すために、涙を流すのはいいんじゃないかな」
「うん」
 佳子さんは、そう言うと、ふっと小さく息をついた。
「あたしも、涙をこえたいな」
 そして、佳子さんはむこうを向いて続けた。
「ワンコちゃんと。」
 佳子さん、それってどういう意味ですか。僕はそれを聞こうと思って佳子さんを見た。佳子さんは、気配を感じたのか、すぐ僕に向き直った。
 すると、息を飲んだ。佳子さんは、また目を閉じていた。柔らかく美しい曲線を描いた、瑞々しい桃色の唇を僕に向けて、また、丸く、軽く、わずかにすぼめていた。でも、僕はまだいけない、と思った。
「まあだ、だよ」
「んふ」
 佳子さんは、声にならない声を出した。
「きょうは、やめようね。」
 僕は、きょうはまだ、線を引いておかないと、みわちゃんとのことで混乱しそうだったので、これ以上進むのはいけない、と思った。
 でも「きょうは」という留保をつけた自分は何なんだろう。そう思っていると、佳子さんがぽつりと言った。
「うん。」
 一息ついて、続けた。
「よく、できました。合格ね。」
 合格?それって何の合格ですか?早稲田大学?そんなはずないな。それは二十三年前だ。もっとすごいところの合格であってほしい。どこなのか、佳子さんに聞こうとした。でも、それを聞く前に、佳子さんは、ふうっと息を吐いて、寝ようとしていた。せっかく佳子さんが寝られるのにようになったのに、邪魔しちゃいけない。僕は聞くのを自重して、佳子さんと反対側に顔を向けた。こんなかわいい寝顔を見ながら、寝られない。僕も目を閉じて、きょうという一日の反芻を始めた。反芻する内容は、あまりにもたくさんある。どこまで反芻できるだろう。そう思ったが、僕もふいに睡魔に襲われたので、ここで睡魔にさらわれようと思った。明日も、ドキドキすることがあるかもしれないから、ちゃんと寝て、体力蓄えないと。僕は、明日のデートを前にした高校生のようなことを考えながら、眠りに落ちた。

 箱根の峠の朝は、たいそうなカラスの鳴き声から始まった。本当は、小鳥のさえずりくらいがちょうどよいのだろうけど、峠の上までやってくる勇ましい鳥は、カラスくらいしかいないらしい。カラスというのは不思議な鳥で、頭がよく、目がよく、物おじしない。人が近づいていっても、平然としているカラスが多い。カラスのように生きていられればいい、と思うこともあるけれど、そんなカラスは真っ黒だ。すべての色のペンキをかぶってしまったから黒い、という話を童話で読んだ。業を背負わないと、カラスのようには、なれないのか。黒くあり続けないと、カラスのようには、なれないのか。カラスたちから、一度じっくりと聞いてみたい。
 そんなカラスの大合唱で、僕は目を覚ました。遮光カーテンの隙間から、かなり強い日差しが見えた。きょうは朝曇るはずだったが、早めに寒気が抜けて、青空が広がったのだろう。
 僕は、佳子さんの方をちらりと見た。
 まだ、寝ている。ああ、ゆうべのあれこれは、夢じゃなかったんだ。今、何時かな。でも、今日は休みだからいいか。
 ここで、僕は気づいた。昨夜、みわちゃんに「おやすみなさいLINE」を送るのを忘れていたことに。「別々にいるときは、必ずおやすみなさいLINEをしてね」と、みわちゃんにはきつく言われている。みわちゃん、昨夜はそれどころじゃなかったんだ。ごめんね。今朝のLINEで謝るか。どうやって謝ろうか。そんなことを考えていると、隣の布団から、もやもやした声が聞こえた。
「起きたのお?」
「うん」
「おはよお」
「うん、おはよう」
 佳子さんは、なおも眠たそうだった。僕は自分の布団をはがし、日差しが筋のように差し込むカーテンに向かい、そこで少しだけカーテンを開けて、表の様子を見た。 
 朝、どんな空模様になっているか。湿り気はどれくらいか。気温はどうか。その三つを確認しないと、僕の予報士としての一日は始まらない。これは、仕事をしている日はもちろんだけれど、仕事をしていない日も必修科目だ。別にこれをやったらからと言って給料をもらえるわけではない。でも、毎日連続して感じることが、違いを感じることになるので、予報の仕事には不可欠だ。それは僕が休みであるかどうかは関係ない。自分の仕事を続けるために、休みでも不可欠なルーティンをこなすのは必要だと僕は思っている。
 きょうもそのルーティンだ。カーテンをさらに開ける。窓をそっと開く。開いたとたんに、ぶわりとした重たい寒気が、窓の下の方から攻め入るように入ってきた。マイナス五度はあるだろう。さすが箱根。しかし、空気は案外と乾いていて、ぶわりと入ってきた後は、さらりと抜けていくような感じだった。このさらりが、きょうの青空をもたらしている。上空を見上げると、水色の鮮やかな空に、綿あめのような小さな雲が三つくらい申し訳程度に存在しているだけだった。この綿あめは、きょうの空気の乾き具合からすると、このあと早めに溶けてなくなるのだろう。
 僕がルーティンをこなして、ふと下界に目を移すと、ホテルの裏の広場に、ジャージやウインドブレーカーを着た従業員と思われる人たちが十人ほど、わらわらと集まり始めていた。これから、ラジオ体操でもするのか。朝と言えば、宿にとってはずいぶん忙しいはずなのに、余裕があるんだな、と思った。
 すると、スピーカーから音楽が流れた。ちょっとヨーロピアンな感じの曲だ。続けて、八神純子さんの伸びやかな声が聞こえた。
「こーころーのー、なかでー、あしたがー」
 あ、これも「涙をこえて」か。ずいぶんスタイリッシュな「涙をこえて」だ。こんな「涙をこえて」もあるんだな。僕がそんな発見をしていると、ジャージを着た人たちがパキパキと踊り始めた。あ、きのう踊ってくれた精鋭音楽団の人たちか。朝から体を動かすんだな。そう思っていると、後ろから眠たい声が聞こえた。
「ああ、踊り、始まった?」
「うん」
「毎朝踊るのが、大事なのよねえ」
「毎朝?」
「そう。毎朝」
「なんで?」
「踊りって、とにかく繰り返すのが大事なのよね」
 佳子さんはそう言うと、もぞもぞと起き上がり、掛け布団をおもむろに剥いで、敷き布団の上に、細い足をくの字に折りたたんで重ねた。
「ある動きを覚えたらね、 ただひたすら繰り返すの。どうしたらもっと滑らかになるか、きれいにできるか、繰り返し、やってみるのよね。そしたら、だんだん力が抜けていって、ゆったりと、しかも、呼吸しながら、するっときれいに動ける瞬間がくるの」
「へえ、するっとって、踊りが、なんかこう、体に馴染むってこと?」
「うん。でも、不思議でね。 馴染んだと思った途端にできなくなったり、ちょっと間が空くだけで、まったく分からなくなったりもするの。でもずっと後になって、自分でも無意識のうちに、繰り返していたことが突然できるようになったりもするから、 踊りが馴染むのは、段階として必要なのよね。繰り返すって、一見単純作業だけど、とても複雑で、緊張感あるのよね。いつ、自分がいい踊りができるかなんて、わからないから」
「ふーん」  
「繰り返して、繰り返して、とにかく繰り返して、この世でたった一度、めぐり会える瞬間みたいなのを信じてやるのよね。だから、踊り続けるってことが、大事なの」
 僕はそこでピンときた。「この世でたった一度、めぐり会える」というのは、「涙をこえて」の一節だ。
「ああ、だから『涙をこえて』をかけて練習してるんだ」
「そう。いつ、この世でたった一度めぐり会える瞬間が来るのかはわからないけど、踊りって、それを信じてやるのよね」
 佳子さんの、ダンスの先生らしい言葉を聞いた。僕は外をのぞくのをやめて、布団のところに戻ってきた。
「八神さんの歌、かっこいいよね」
「うん。あたし好きなの」
「いいよね」
「前、名古屋でコンサートがあったとき、行ったなあ」
 そういえば、八神さんは名古屋の出身だ。
「ああ、名古屋。」
 僕はなつかしい地名を聞いた。
「僕も、三年くらい名古屋の放送局にいてね。楽しかったなあ」
 僕は六年前から三年前まで、名古屋のしゃちほこテレビで仕事をしていた。名古屋はおいしいものがたくさんあって、楽しかった。
「そうなんだ。いつごろ?」
「六年前から三年前まで、だね」
「ああ、じゃあちょうどその頃ね。あたしが行ったのも。八神さんのコンサートは、平成二十五年の六月十六日だったと思うわ」
「さすが、よく覚えてるね」
「そうそう、コンサートの前に、NHKとかしゃちほこテレビで八神さんの公開トークがあってそれも見に行ったんだよ。追っかけみたいに」
 僕は、驚いた。
「え、じゃあ、しゃちほこテレビにも来てたの?」
「うん」
 僕は当時、しゃちほこテレビの公開番組の気象情報の担当で、スタジオに毎日いた。ということは、佳子さんはそのスタジオの観覧者の中にいたということか。
「僕、しゃちほこにいたんだよ。しかも、公開番組に」
「へえー」
「ひょっとしたら僕たち、そのときに会っていたのかもしれないね」
「うん、そうだね」
「不思議だねえ」
「不思議ね」
 ということは、そこで佳子さんを見つけていればもっと早く出会えたのだろう。みわちゃんと出会ったのはその次の年、僕が東京の坂の上テレビに移ってからのことだった。僕はそんな、みわちゃんにとって失礼なことを考えてしまっていた。佳子さんは言った。
「なんか、彗星みたいだね」
「彗星?」
「そう。彗星って、惑星にぶつかりそうで、ぶつからないじゃない」
「ああ、ニアミスするよね」
「あたしたちも、ニアミスしてるんだねって、思った」
 佳子さんと、ニアミス。確かに、僕たちは何度もニアミスをしてきたのだろう。しゃちほこテレビの公開番組のときは、ひょっとしたら十メートルくらいの距離まで近づいた、ものすごいニアミスだったのかもしれない。東京に移ってきてからも、近くに住んで、職場も近くて、通勤に同じバスを使っているのだから、一本違いのバスに乗ったり、あるいは気づかないうちに同じバスに乗ったりしたのかもしれない。
 神様はそんなニアミスで僕たちを近づけて面白がっているうちに、ついに僕たちをぶつけてしまった。僕たちは神様の不手際で再会してしまったのかもしれない。でも、こんな不手際なら、僕は大歓迎だ。
「ニアミスしているうちに、ぶつかったってことだね」
「そうだね」
「去年、彗星が町にぶつかるっていう映画を見たからかな」
「あ、それ、あたしも見たよ」
「ああ、それで彗星みたいって言ったんだ」
「そう。ワンコちゃん、代々木の駅でお別れするときにその映画のこと言ってたでしょ。あたしそのとき、ニアミスしていた彗星がついにぶつかったって、思ったのよね」
 そうだ。あのとき、佳子さんが口ごもっていたことを思い出した。ニアミスの彗星の話をしたかったのを、僕が遮って「これからもがんばって」みたいなありきたりなことを言ってしまったんだな。僕は少し後悔した。
「ああ、それをあのとき言いたかったんだ。ごめんね」
「ううん、いいの。今言えたから」
「うん。あの映画、よかったよね」
「よかったよね。なんだか、究極の共感みたいな感じで」
「究極の共感?」
「うん。人間にはみんな、忘れられない名場面があると思うんだけど、でも、それって頭の中でいつもひっそりと眠ってて、なかなか思い出せないのよね。でも、あの映画にはなんかそういう、見た人それぞれの名場面を呼び覚ます力があるんだなあって気がしたの。その名場面が映画のシーンと重なって、一人一人の頭の中で生き生きと展開していくのよね。それが共感だと思うの」
「そっか、だから、みんなあの映画見て、いいと思うんだ」
「そうそう。何度も見たくなるっていうのも、その生き生きとした展開にまた浸ってみたくなるからじゃないかなあって、思う」
「うん」
「だからあたしも、共感してもらえる、何度も見たくなるようなダンスがしたいのよね。見た人それぞれの頭の中に、何か、その人だけの花を咲かせられるといいなって」
 佳子さんのダンスの夢は、大きかった。見た人それぞれの中で展開する。素晴らしいことだと、僕も思った。
 そう言えば、僕が大学に入った平成六年の暮れ、ラジオで紅白歌合戦を聞いたとき、実況のアナウンサーが、冒頭でこんなことを言っていた。
「お仕事中の方、病院に入院している方、車の中にいる方。みなさん一人一人の、紅白歌合戦です」
 そうか、いいコンテンツって、一人一人の中で、それぞれに、さまざまに花が咲くものなんだな。僕はそう思った。そして僕は、ひそやかな願いを佳子さんに思い切って打ち明けた。

「できたら、あの映画の主人公たちみたいに、なれたらいいな」
「んふ」
 佳子さんは、はっきりした返事をしなかった。時をこえて出会うという設定は、映画と一緒なんですけど。そう思っていると、佳子さんは、話題を変えた。
「お腹、すいたね。朝ごはん、用意してもらおうか」
「うん」
 佳子さんはそう言うと、電話のところまでもぞもぞと這って、内線電話で朝食の用意を頼んだ。そして、タンスに近づいて、引き出しから着替えを取り出した。ホテルの部屋のタンスに着替えが入っている?ちょっとおかしかったが、佳子さんはここの娘さんなんだから、そういうこともあるのだろう。そういえば、ロマンスカーを降りるとき、やけに荷物が少なかったが、それは着替えを持っていかなくてもいい、ということだったのだろう。僕の疑問がまたひとつ解けた。
 すると、次の瞬間、佳子さんはその場でするりと浴衣を脱ぎ始めた。身長百五十五センチの佳子さんは、体にまとわりつくような濃い紺色の帯を緩め、腰を軽く回し、ベールを脱いだ。
「えっ」
 僕は、浴衣から身を放たれた佳子さんを見てはいけない、と思い、目をそむけた。
「あのっ」
 僕はそこで鋭い声をあげた。
「あ、ごめん、脱いじゃった」
 佳子さんは悪びれもせずに言った。
「ま、大丈夫だけどね」
 佳子さん、何が大丈夫なんですか。僕は目をそむけていたが、僕はちょっと悪びれることにして、ちらりと期待した視線を佳子さんの方に送った。すると、佳子さんは、浴衣の下に袖のついた白く厚い、襦袢のようなものを着ていた。
 なーんだ。僕は、ドキドキして成人向けの写真集を買った高校生が、こっそり中身を開けてがっかりするかのようなため息を漏らした。佳子さん、これも設定、作戦ですか。
「じゃ、向こうで着替えてくるね。ワンコちゃんも着替えて」
 佳子さんは、僕が質問をぶつける暇も与えず、着替えをもって、隣の部屋に移り、ふすまを閉めた。
 不思議だなあ。きのう、洗面所で肩を抱いた時は耐えられないくらい恥ずかしく、緊張して、肩を放してしまったのに、いまは、ちらりと佳子さんのベールの中が見られないかと期待してしまっている自分がいる。
 みわちゃんとは、こんな展開はない。わりと早い時期から、僕とみわちゃんはその日の演目を淡々とこなすように過ごしてきた。演目自体は、面白かったり、本能に訴えかけるものもあるけれど、演目と演目をつなぐ場面はこれといったものがない。それは平坦な道をゆるゆると進む馬車のようなもので、面白味も緊張感もない。すべては想定内だ。時には反応を期待されるとわかって、反応を演技したりもすることさえある。
 でも、佳子さんとは、違う。緊張感あふれる展開だ。展開と展開の間にも何かが隠れている。つながっている。小ネタもある。話も面白い。意外なことが起きる。僕は、女性の魅力や、女性とともに過ごす時間というものの意味について、考え始めていた。
「あら。まだ着替えてないの?」
 佳子さんは、首だけ隣の部屋のふすまから出して、言った。着替えるのが、早い。
「もうちょっと、待っているからね」
 そう言って、首を引っ込めてふすまを素早く閉めた。僕はあわてて自分の荷物から着替えを取り出し、浴衣を急いで脱いで、黒のシャツに着替えた。
「着替えたよ」
「あら、じゃあ、いくよ。見て。」
 そう言うと、佳子さんはふすまをバッと開いて、姿を見せた。
 その姿を見て、あ然とした。予備校のパンフレットに、高校生役で出ていた時と同じ、白いハイネックのセーターに、燃えるような赤いスカートだったからだ。僕は思わず言ってしまった。
「あの、この服、代々木の予備校の」
「そう、パンフに載ったときの、ですっ。さすがワンコちゃん、よく覚えているね」
「うん。パンフ、大事に持ってたからね」
「あら、そうなの?うれしい」
 僕は佳子さんの出ているパンフレットを、宝物として持っていた。大学に入った後、もう、予備校なんて関係ないのに、佳子さんが出ていた四年分のパンフは、全部集めて持っている。その、パンフに出ていた佳子さんが、パンフから飛び出してきた。僕はますますうれしかった。
「いや、なんだか、すごく、信じられなくて、うれしい。だって、パンフの中の衣装そのままだったから」
「へへ」
 佳子さんは、得意そうに笑った。
「これも、狙ってやってるんでしょ」
「ううん」
 佳子さんは、ちょっと意外な答えをした。
「これは、さっきタンスを開けてたら、ほんとに偶然見つかったの」
「へえ、じゃあ偶然だ」
「そう。偶然と必然とが組み合わさって、この物語は進んでおりますっ」
 物語。僕がゆうべ思っていたこの言葉が、佳子さんの口からも出てくれた。うれしかった。
「じゃあ、ご飯食べに行こうか」
「うん」
 僕と佳子さんは、廊下に出て、まるでパンフレットに載る先生と生徒のように、並んで歩いた。もちろん、風貌からすれば、僕が先生で佳子さんが生徒だけれど、実際は、佳子さんが先生で僕が生徒だ。その矛盾も心地よいと思いながら、僕は朝食会場に向かった。

 きのうの夕食と同じ、広間に着いた。また、ふすまがすごい勢いで開いた。さすが大王子観光だ。広間の中には、お膳が三つあり、すでにじじが座っていた。
「おお、佳っちゃん、石井君、おはよう」
「おはようございます」
「おはようございます」
 僕たちが声をそろえるようにして挨拶すると、じじは上目遣いをして、ちらりと僕を見た。
「ゆうべは、仲良くできた、か?」
 朝から、いきなり直球がきた。佳子さんと僕は顔を見合わせた。 すると、佳子さんが意外な返事をした。
「はい。仲良くさせていただきました」
 佳子さん、それは火に油ですよ。僕がどうフォローしようか考えていたところ、じじも意外な返答をした。
「おお、そうか。そりゃあ、よかった。」
 僕はぽかんとした。じじは、このあと、きっと根掘り葉掘り聞いてくるだろうと思った。しかし、あったのはこの一言だけだった。きっと、直球に逃げずに回答したので、変な二の句が告げられなかったのだろう。佳子さん、やるなあ。僕だったら、適当にごまかそうとして、さらに根掘り葉掘り聞かれていたかもしれない。僕は大人になってから、いつも誰かの顔色を窺ったり、その場を取り繕うようにしてごまかしてきたような気がする。そして大抵、事態はあまりよくない方向に動いた。しかし、佳子さんは、逃げずに回答して、それで流れを止めた。なかなか勇気がいることを、佳子さんは平然とやった。
 そう言えば去年、「思い出のメロディー」で萩本欽一さんが「ドーンといって、みよう!」と言っていたけど、こういうストレートな物言いって、最近なかなかできない。でも、佳子さんは、それをやっている。ドーンと。僕は改めて、佳子さんはすごいと思った。
「石井くん、どうしたの?座ろうよ」
 僕がぼうっとしていたので、佳子さんが声をかけてきた。あ、じじの前では「ワンコちゃん」じゃなくて「石井くん」なんだな。やっぱり、じじの前だと恥ずかしいのかな。僕は小さな発見をして、お膳の前の座布団についた。
 すぐに、食事は運ばれてきた。金目鯛の煮つけに、しじみの味噌汁、納豆と山芋のすりおろし、砕いたクルミの入ったヨーグルトだった。朝から金目鯛の煮つけとは豪華だ。
「朝から金目鯛が食べられるなんて、すごいです」
「おお、金目鯛を気に入ってくれたか。伊豆は金目鯛の水揚げ日本一なんじゃ。そこから直接買い付けて来とるから、うちの自慢なんじゃよ」
「そうなんですか。自慢料理をいただけて、うれしいです。ありがとうございます」
 僕はじじに礼を言った。そして、佳子さんを見た。佳子さんはきれいに金目鯛をほぐして食べていた。そう言えば佳子さんは、さっき「仲良くさせていただきました」って言っていた。本当にうれしい。佳子さんの「仲良く」って、どんなイメージなんだろう。僕はそんなことを考えていると、情けないことに顔がほころんできた。
「おお、石井くん、顔がほころんでおるぞ」
 じじに、見つかった。
「あ、あの、き、金目鯛がおいしいからですっ」
 僕はまたとっさにごまかしてしまった。ああ、佳子さんは逃げずに回答したのに、僕はやっぱり力が足りないなあ。こんなことで、これからどうなるのかな。佳子さんをもっと見習わないといけないな。そう思った。
 あっという間に朝食は終わり、お膳が下げられていった。じじは、仕事があるからと言って、お膳が下げられるのと同時に、広間から去っていった。僕と佳子さんも、広間から出た。広間を出て、段を降りてスリッパをはくところで、仲居さんが佳子さんにそっと近づいた。そういえば、佳子さんは、夕べのような急な吐き気があるから、仲居さんが気を遣ったのだろう。僕は大王子観光の細やかな気遣いに感心した。
「金目鯛、おいしかったね」
「あ、そう?あれね、ほんとにうちの自慢なの」
「いやほんとに。いいものを食べさせてもらった」
「いえいえ、これくらいしか、できません」
「いやもう、十分だよ」
 そう言うと、部屋に着いた。部屋に入ると、もう布団はきれいに片づけられていた。きのう、部屋に入った時と同じように、机と座布団が置かれていた。くっついていた二つの布団がなくなっていて、僕はなぜかさみしかった。
 すると、佳子さんは突然、意外なことを言った。
「じゃあ、きょうはこれで解散ね」
「え、解散?」
「そう。あたしはここを手伝うから残るけど、ワンコちゃんとはこれで解散ね」
 解散?僕は今まで、衆議院が解散しても、SMAPが解散しても、淡々としてきた。しかし、この解散の宣言にはものすごく動揺した。ちょっと、素敵な二日目の朝がまだ始まったばかりなんですけど。一泊二日で彼氏をやらせてもらうことになっているんですけど。まだ、二日目は朝ご飯食べただけなんですけど。僕が未練がましい思いを開陳する前に、佳子さんは冷淡に言った。
「だって、きょう、わたし、忙しいのよ。ごめんね」
 え、そんな。そりゃないですよ。ひょっとしたらこれから箱根を回って、思い出を作って、みたいな展開を僕は考えていたんですけど。しかし、佳子さんはもう、荷物をしっかりまとめていた。僕も従わざるを得なかった。あわてて荷物をまとめて、玄関へと向かった。
 悲しくて、胸が落ちる。僕はとぼとぼと玄関から出ようとした。そこで思い出した。
「あの、お金は?」
 僕はまだ宿にお金を払っていなかった。いったいいくらするんだろう、あの部屋は。しかし、佳子さんはさらりと言った。
「あ、いいのよ。今回は特別」
「そんな、あんな高い部屋に泊めてもらったのに」
「いいのよ。彼氏役をやってもらったから、そのアルバイト代だと思って、ねっ」
 え、これってアルバイトだったんですか。僕はさらに落胆した。これでこの物語は終わりなんですか。それってあまりにも寂しくないですか。僕がその辺のことを何とかして伝えようとしたところ、佳子さんはまた意外なことを言った。
「いいの。ちょっと大変だと思うけど、たぶんね、また来ることになるんだから」
 僕は意味がわからなかった。それは、客として?それとも、佳子さんの彼氏役として?その答えを聞く前に、僕は宿の車に押し込められた。
「あの、僕」
 なおも抵抗しようとする僕に、佳子さんは引導を渡した。
「遠足は、家に帰るところまでが遠足です。最後まできちんとしないと、ねっ」
 遠足?ずいぶんと子供じみた話をしてくれるな。僕はちょっと馬鹿にされた思いがした。しかし、僕が次の言葉を告げる前に、車は発車してしまった。
「あっ」
 僕がそういって振り返ると、佳子さんは赤いスカートをひらつかせて、言った。
「がんばって、ねー!」
 何をがんばるのだろう。仕事のことか?ずいぶん最後は月並みだなあ。
 しかし、ここの「がんばって」というのは、実は仕事とかではなく、全く違うことに対するエールであることを僕はしばらくして知ることになった。もちろん、このときの僕はまだ何も知らない。 峠の上からものすごい勢いで下る車の中で、僕はまだ、寂しさだけを抱えていた。
 あ。また、今回も連絡先を聞かなかった。華の独身だと判明したのだから聞いてもいいのに。僕は、自分の段取りの悪さを悔やんで、帰途に就いた。

 帰りは、ロマンスカーには乗らなかった。各駅停車と快速急行を乗り継いで、新宿まで帰った。ロマンスカーに乗ると、往路の佳子さんとのことが思い出されてしまい、切ないからだ。往路は、オロオロもしたけど、よく考えたら最高だった。だって、偶然にも佳子さんと隣同士の席になり、そのあと一晩一緒に過ごせたのだから。
 しかし、きょうの復路は、最低だ。追い出されるように帰ることになってしまい、僕の心は袋だたきにあったような気がする。箱根駅伝で言うと、せっかく往路優勝したのに、復路でがくんと順位を下げてシード権喪失、みたいなものか。なんて浮き沈みが激しいんだ。
 そんなことを思って、マンションの近くまで来た。
 しかしこのとき、僕は箱根で起きた「すごいこと」に心を奪われていた。「すごいこと」というのは実は厄介で、「もっとすごいこと」の前ぶれであることが、まれにある。大きめの地震があって「すごいことだ」とびっくりしたけれど、実はそれは前震で、「もっとすごい」本震がそのあと来た、という話は、近年、東日本大震災でも、熊本地震でもあった。本当は「すごいこと」が起きた段階で「もっとすごいこと」が起きるかもしれないと準備しておくことが、大事だ。
 人間は「すごいこと」が起きると、ついその「すごいこと」を振り返ることに集中してしまい、次に「もっとすごいこと」が起きる可能性に思いを致すことをやめてしまう。このときの僕も、そうだった。箱根での「すごいこと」ばかり考えて、帰ってきた。
 平日の昼間なので、のんびりと家の鍵を開けた。すると、意外なことに、中からみわちゃんが飛び出してきた。
「みわちゃん?」
「…おかえり」
 その声のトーンの低さに、驚いた。みわちゃんと言えば、いつもかわいらしい、丸ゴシックのような声をしていたが、このときはどう聞いても、硬い明朝体の声をしていた。何があったのだろう。
「みわちゃん、どうしたの?会社は?」
「きょう、休んだの!」
 みわちゃんが会社を休むのは極めて珍しい。僕と付き合い始めてから、風邪を引いたことはあったが、インフルエンザじゃない、人にはうつらない、と言って四十度の熱があるときも会社に行ったみわちゃんだ。そのみわちゃんが休んだ、と聞いて僕はちょっと怖くなった。
「どうしたの?休むなんて」
「石井さんに、話がしたかったから」
「話?」
「そう」
 いったい何の話なんだろう。僕は思い当たる節がなかった。
「何の話?」
 僕がそう言うと、修羅場が始まった。みわちゃんの顔はみるみる赤くなり、夜叉のような表情になった。そして、みわちゃんは顔より大きなクッションを、思い切り床に叩きつけた。クッションの中の白い羽毛が飛び出してきた。華やかに乾いた空気の部屋に散る。
「ええ、どうしたの?」
「ゆうべ、LINEくれなかったでしょ!」
 僕はそこで初めて「しまった」と思った。毎朝毎晩「おはよう・おやすみなさいLINE」を、僕たちは欠かさず交換してきた。同じ家の中で、隣にいるときも送りあっていた。しかし、今朝僕が気付いたように、ゆうべから、みわちゃんにはまったくLINEを送っていない。これは、付き合い始めてから、初めてのことだった。
「なんで送ってくれなかったのよ!すごい心配したのよ!」
「いや、ごめん。本当にごめん。」
 僕は必死で謝った。実は、今までも、LINEを忘れそうになったことはあったが、エレベーターに乗ったときとか、隙間隙間の時間でスマホを見てばかりだったので、スマホを見て思い出す、ということで危機は救われてきた。
 ところが今回の箱根では、ロマンスカーで佳子さんに会って以来、まったくスマホを見ていない。佳子さんの方ばかり見ていた。帰りの電車の中では落胆して、スマホを見る気力がなかった。それに、なんだか腑抜けてしまって、眠かった。こんなに長い時間スマホを見なかったのは、六年前にスマホを買ってから初めてだ。
「すごい心配して、いっぱい送ったのに!」
「いや、ほんとごめん」
 僕があわててポケットの中からスマホを取り出した。見ると、画面は通知の嵐だった。LINEの通知が三十件くらい、電話の着信通知が十件くらいあった。
「あの、電話もしてくれたんだ」
「そうよ!メールもいっぱい送ったんだからね」
 見ると、みわちゃんからのメールは二十通来ていた。
「いや、いや、ほんとごめんなさい」
 僕は誠心誠意謝った。しかし、みわちゃんは許してくれなかった。
「だって、約束したでしょ。おはようLINEとおやすみLINEは必ず送るって!約束破る人、キライ!あたしの石井さんなのに!」
 みわちゃんは、僕が今まで見たことなかったような、怒り方をしていた。僕はさらに謝った。
 「本当にごめんなさい。僕が悪かったです」
 スマホを見る暇がなかった、というのは言い訳になるし、実際には暇はあったので、それを言うのはやめた。
「みわちゃんを心配させて、本当に悪かったです」
「本当にそう思ってる?本当に思ってるの?」
「うん、思ってる」
 僕は本当にみわちゃんを心配させて申し訳ないと思っていた。 みわちゃんは、小学生のときはポケベル、中学生のときはPHS、高校生・大学生のときは携帯、社会人になってからはスマホと、物心ついた時から、誰かと個別につながった道具に浸かって生きてきた。特にみわちゃんは、こういう道具が大好き、というか、ないと生きていけないようで、主要な人から連絡がないと、耐えられない、ということは前から知っていた。だから僕も連絡は絶やさないようにやってきたけど、それは結構負担のかかる行為で、たとえば同じ家の同じ部屋で、コタツに一緒に入っているのに、なんでLINEを送らせようとするのか、など疑問に思うところはあった。ただ、そんなみわちゃん相手に連絡を一日以上絶やしてしまった僕は、確かに悪い。僕はなおも謝った。
「いや、ほんとにごめんなさい。申し訳ないです」
「じゃ、なんで連絡くれなかったの?」
「変でしょ!」
 すると、みわちゃんは続けて、吐き捨てるように言った。
「変態!」
 そう言われて、僕は少しひっかかった。いや、確かに一日以上連絡を絶やした僕は悪い。でも、「変態」とまで言われる筋合いはあるのか。僕はちょっといらっとした。そこで、みわちゃんに対抗するために、あえて嘘を混ぜた。
「すみません。実は、箱根の峠の上にいて、電波が届きにくかったんだよ。でも、箱根を出たら、そのことの説明も含めて、すぐ連絡しないといけなかったね。すみません」
 実際には、峠の上でも携帯の電波は十分届くはずだが、まさか、佳子さんへの対応に精いっぱいで連絡するのを忘れていましたとか、気づいてはいたけど、みわちゃんのことはすっかり後回しになっていましたなどと言うと、火に油どころか、ガソリンを注ぐことになってしまうので、和平を優先する意味でも、嘘を混ぜた。
 するとみわちゃんは、案外簡単に矛を収めた。
「あ、そうなの?うーん、なら、仕方ないかも、なあー」
「いやごめん。帰り道すぐに連絡しないといけなかった。ごめんね」
 僕がそういうと、みわちゃんは少し落ち着いた。嘘も方便で、これで結果的にはいいのかもしれないが、僕はあまりいい気分ではなかった。なんでLINEが来ないことに、そこまで怒るのか。僕にはよくわからなかった。送らなかった僕は確かに悪いけど、無事に帰ってきて対面できたことに対して、何も言ってくれないことについて、僕は多少の疑問があった。
「今度から、気をつけてね」
「うん。ごめんね」
 僕はそう言って、頭を下げた。それを見ると、みわちゃんは、ベランダに通じる窓のところまで歩き、外を見た。
「あのね」
「うん」
 みわちゃんは、こちらを向いた。
「土曜日、パパとママに会ってほしいんだ」
「え?」
 僕は、突然の申し出に驚いた。みわちゃんのご両親には、すでに同棲前から会っていて、ご両親に許しを得た上で同棲している。なんで、今また?僕はまた疑問に思ってしまった。
「あの、ご両親には、何回かお会いしているよね」
「うん」
「何かお話したいこととか、あるってこと?」
「うん」
「何だろう」
 すると、みわちゃんは一息ついて、こう言った。
「パパとママがね、石井さんに、婿養子に来てほしいって、言いたいって」
「婿養子?」
「うち、去年、妹がお婿をとらずにお嫁に行ったでしょ」
「うん」
「それから実は、あなたが婿養子をとりなさいって、猛烈に言われていたの」
「え、そうなの?」
「そう。で、何度も石井さんに頼めって言われていたの」
「そうなの?」
「でも、まだだからって言って、防いできたんだけど、最近、それなら家に帰ってこいって言いだして、大変なの。それできのう、実家に帰っていろいろ話したのよ」
「そうだったんだ。それで?」
「何度も言ったんだけど、だめで、もう石井さん連れて来なさいって話になっちゃった」
「そうなんだ…でも、どうしてそんなに婿養子にこだわるの?」
「財産よ」
「財産?」
「そう。うちはパパがおじいちゃんの資産をたくさん受け継いだんだけど、このままだとママと私と妹しか相続できないから、石井さんにもぜひって」
「ええ、僕にも」
「そう。いい話でしょ」
 みわちゃんのお父さんは資産家で、「山河建物」という会社を営んでいると聞いたことがある。僕に財産をくれようとしているのか。それは確かにいい話だし、みわちゃんを大事にしたい気持ちはあるけれど、財産をもらうために婿養子に行くというのは、なんだか釈然としない。
「でも、ずいぶん急だね。この間までは、結婚はいつでも、って言っていたのに」
 僕は、去年、みわちゃんの妹の結婚式でご両親に会った時に、そう言われた。みわちゃん自身も、急いでいなかったはずだ。それなのに、なぜ?
「うん。確かに去年はそう言ってたんだけどね」
 そう言うと、みわちゃんは少し話題を変えた。
「私、跡継ぎをそろそろ、って言われてるの」
「跡継ぎ?」
「そう。赤ちゃん。私ももういい歳だから、そろそろ産みなさいって」
 確かに、みわちゃんは今年三十三歳だ。そろそろ、という気持ちもわかる。
「うん、なるほどね」
「そう。パパとママがね、三人は産みなさいって」
「三人?」
「そう。子供は多い方がいいからって。だからそれを考えると、そ
ろそろ石井さんに来てほしいなって」
「あれ、でも、去年ご両親に会ったときは、授かりものだからいつでもとか、何人でもいいじゃないのって言っていたと思うけど、ご両親の考えが、変わったのかな」
 僕がそう言うと、みわちゃんは少し急ぎ目に言った
「そうだっけ。でも、きのうはそう言っていたよ」
「そうなんだ」
 そこで僕は、みわちゃんの体に何かあったのか、と思い、心配になった。
「あの、みわちゃん、例えばなんだけど、体の方に、何かあったとかなの?」
「え、何で?」
「だって、急にそういう考え方になったってことは、みわちゃんの体に何かあったのかと思って、ちょっと心配になったんだよ」
「あ、それは大丈夫。心配ないから。ありがとう」
 僕はみわちゃんの体に異変があったわけではないと知り、少しほっとした。
「でね、善は急げで、赤ちゃんもなるべく早くしたいんだけど」
「なるべくって?」
「できれば、早く」
「それって、今年中とか?」
「もっと早くてもいいの」
「ええ、だって仕事もしてるし」
「仕事はもういいのよ」
 普段、受付の仕事に対して、大変な誇りを持っているみわちゃんから、意外な発言が飛び出した。仕事での愚痴はよく聞くが、行き詰っているとか、もうやりたくない、という話は聞いたことがなかったからだ。いや、ひょっとしたら、離婚した話みたいに、僕がみわちゃんのことをよく聞いていないから、ひょっとして、「仕事はもういい」という気持ちを聞き逃していたのかもしれない。僕はいろいろ考えた。
「じゃあ、ちょっといろいろ考えてみるね」
「ありがとう。じゃあ、土曜日は大丈夫?」
「明日、会社に行って、休めるかどうか調整するから、ちょっと待ってもらえると、うれしい」
「わかった」
 僕は土曜日にご両親に会う話も含めて、ちょっと時間を置いて考えたかった。 
 まず、みわちゃんが「善は急げ」と言ったのが気になったからだ。
「善は急げ」というのは、急がないといけない理由が何かあるときに使う言葉だと思うので、その急がなければならない理由を、もっと知りたかった。本当にみわちゃんが言ったことだけが理由なのか。
 そして、何と言っても、僕の心の中に、佳子さんが入ってきてしまった、というのが大きかった。佳子さんのことを無視するわけにはいかないという気持ちがあるのは、正直認めざるを得ない。
 僕は、頭の中がごちゃごちゃだった。
 その日の夜、みわちゃんは大そうないびきをかいて寝ていた。一方、僕は、ほとんど寝られなかった。いったいどうしたら、一番いいのだろう。暗闇の中、答えは、見つからなかった。
 
 翌日、僕は休み明けで、坂の上テレビに朝から出勤した。
 午前十一時の予報をこなした後、少し早目の昼食をとりに、食堂に行った。込んだ食堂に出くわすのを避けるために、いつもこうしている。坂の上テレビの社内食堂は、だだっ広いところに長机が何本も置いてある昔ながらの食堂で、取柄は安いことと、案外うまいということだ。僕も週に三、四回はここで食べている。ゆうべ、ほとんど寝られなかったこともあって、眠い。とにかく早くスタミナをつけようと、焼肉定食を注文し、長机で一人食べていた。
 ふと、隣の新聞立てに目を移すと、いま来たばかりの夕刊紙に「サンガ大ピンチ」という見出しが書かれていた。サンガって、Jリーグのチームのことか。僕はそう思いながら、食事をしていた。 
 定食を食べ終え、僕は席を立ち上がり、食器を下膳口に戻した。しかし、さっきの夕刊紙がどこか気になったので、ちょっと見てみようと思った。
 席の近くに戻り、夕刊紙を開く。すると、驚いた。記事は、サンガコーポレーションという会社が不渡りを出すという話だった。サンガコーポレーションの親会社は「山河建物」と書いてある。みわちゃんのお父さんの会社だ。記事によると、サンガコーポレーションには粉飾決算の疑いがあり、さらに、山河建物がその粉飾に加担していた疑いも持たれ、現在、捜査が行われているという。それを察知した資産家たちは、サンガコーポレーションや山河建物の株を数日前から大量に売りに出し始め、昨日ついに、株価が過去最安値になった。こうした状況になったため、山河建物は、持っている資産の土地や建物の切り売りを始めたが、うまくいっておらず、それどころか資産には大きな含み損があることもわかったという。このままだと、山河建物は危ない、という話だった。
 僕は、よくないことを考えてしまった。ひょっとしたら、こういう話が出てきたから、みわちゃんとご両親は、いろいろ急ごうとしているのか?
 僕は、さらによくないことを考えてしまった。ひょっとしたら、婿養子に来てほしい、という話は、財産を相続してほしい、だけじゃなくて、負債も相続してほしい、という意味なのか?婿養子は、財産を相続する権利はあるが、同時に、負債も相続する義務も負う。 きのうの話だと、財産を継いでほしいから、ということだったけど、この記事が本当なら、財産どころじゃくなくて、負債だらけなのか?でも、そんなの僕、払えないよ。財産なんてないし。いろいろと、疑心暗鬼になってしまった。
 まずは、みわちゃんに真意を聞いてみよう。記事が世の中に出たわけだから、聞いてみてもいいだろう。僕はそう思って、スマホに手を伸ばした。
 すると、逆に、スマホが鳴った。
 みわちゃんか。そう思って、スマホを手に取ると、知らない電話番号だった。誰だろう。僕は電話に出た。
 すると、少し甘く、ややかすれた声がはっきりと聞こえた。
「もしもし」

 それは、佳子さんだった。
「え、佳子さん!?」
 僕はびっくりして大きな声を出してしまい、食堂にいた人がみんな振り返ってしまった。
「あ、あの、あの、ちょ、ちょっと待ってください、このまま」
 僕はあわてて声を潜めて食堂を駆け足で出た。
「今、話せるかな」
 落ち着いた声で佳子さんが聞いてきた。
「あ、はい」
「ごめんね、平日の昼間に」
「いえ、そんな」
「きのうは、ありがとう」
「いえ、あの、僕の方こそ、とっても、楽しくて」
「うふ、よかった」
「はい」
「あのね、ちょっと今日、話がしたいの」
「ええっ」
「無理かな」
「今日ですか?」
「そう。今日、話がしたいの」
「うーん、あの、今日はちょっと無理です」
「そうなの」
「はい」
 僕がそう言うと、佳子さんは、あまりにもとんでもないことを、平淡な口調で言った。

「無理なのはね、みわちゃんのことが、あったからでしょ」
「え!」
 佳子さんの口から「みわちゃん」という言葉が出た。僕は倒れそうだった。なんで、知っているんですか。なんで「みわちゃん」って言うんですか。どうして、どうして、佳子さんが言うんですか。
 すると、佳子さんはさらに淡々と続けた。
「もう新聞やテレビに出てるよ。みわちゃんのお父さんの会社のこと。」
「えーっ!」
 そこまで知っているんですか。でも、なんで知っているんですか。たくさんの疑問が湧いた。まず、みわちゃんに聞かないと、と思った。でも、それと同時に、みわちゃんには悪いけど、僕の直感で、佳子さんの方が正しいことをきちんと話してくれそうな気がした。みわちゃんは、僕に何かを隠しているような気がしたからだった。
 僕は、佳子さんに、電話越しに頭を下げた。
「佳子さん、じゃあ、あの、今夜、会っていただけますか」
「今夜?」
「はい。今夜仕事が終わったら」
「何言ってるの。急ぐでしょ」
「あ、はい」
「じゃあ、今すぐね。善は急げだから」
「え、あの、今すぐって」
「どういうことになっているか、今すぐに知らなくていいの?」
「いえ、あの、そ、それは困ります」
「じゃあ、今すぐね」
 僕はこの後の仕事をどうしようか迷ったが、僕の選択の余地は、もうなかった。
「わ、わかりました」
「じゃ、今すぐ来て」
「あの、佳子さん、今、どこにいるんですか」
「まだ峠の上よ。だって、手伝っているんだもん」
「ええ、箱根?」
「そう。今すぐ来て。今すぐよ」
「わ、わかりました。今すぐ、支度します。」
 僕は風邪をひいても、他人に仕事を頼むのは極力しない。だってめんどくさいから。頼むのもめんどくさいし、仕事の内容を説明するのもめんどくさい。
 でも、きょうはめんどくさいなんて言っている場合ではなくなってしまった。先輩や後輩に「急用ができた」ということを、思い切って話した。僕が急に仕事をとりやめるなんて、父が亡くなったとき以来だ。僕は急用の理由をあれこれ聞かれるかと思ってひやひやしたが、意外なことに、急用の理由は誰にも聞かれなかった。こんなもんなのだろうか。いや、僕は普段余計な心配をしているということなのか。
 しかし、よく考えたら、逆の立場になって、僕が「急用があるから」と言われたら、何も聞かずに仕事を代わっていただろう。だって、他人が聞いてはいけない理由なのかもしれないから。それと同じか。
 ああ、僕はなんで自分を他人の立場に置き換えて考えることが出来ないんだろう。四十歳にもなって。情けない。
 ただ、何はともあれ、仕事の引き継ぎはできたので、僕は急いで坂の上テレビを出て、新宿駅に向かった。
 新宿駅では、ロマンスカーの切符売り場に行く時間も惜しかったので、僕はICカードで改札を通り、ホームにあるロマンスカーの自動券売機で指定券を買い、五分後に発車するブルーのロマンスカーに駆け込んだ。
 箱根から帰ってきた翌日に、また箱根に行くなんて、もちろん初めてだ。箱根駅伝復路の翌日に、また往路があるなんて、普通は誰も考えない。でも、佳子さんと再会してからは、こうした考えられないことに、よく出会っている。佳子さんは、つくづく不思議なことを引き寄せる人だと思った。 
 ブルーのロマンスカーは、平日昼のけだるい雰囲気を載せて、走り始めた。乗客はまばらだった。懐かしい代々木の予備校の付近は一瞬で通り過ぎた。自動音声の無機質な車内放送が始まった。
「停車駅は、新百合ヶ丘、相模大野、本厚木、秦野…」
 うわ、ずいぶん途中の駅にたくさん止まるロマンスカーだなあ。今急いでいるのに。急いでいるときに限って、よく止まる電車に乗ってしまう。僕は少しいらいらしていた。それは、今すぐ佳子さんに会いたいのに、時間がかかりそうだということと、佳子さんとみわちゃんの関係や、今何が起きているかの全体像がわからないという多重のマイナスからくるものだった。
 でも、いらいらしても仕方ない。いらいらして解決するものだったら、いくらでもいらいらするけど、いらいらしていたら、かえって解決の邪魔になるからやめる。僕は予報士を十五年近くやってきて、いらいらが予報の邪魔になるということを知り、何年か前から、いらいらするのを論理的にやめてきた。
 しかし、きょうという日は、さすがにその論理を突き通すのは難しかった。僕は少し感情的になっていた。苦しいよ。これは。佳子さんへの恋心で苦しいのとは、全然違う。
 やっぱり、世の中はマイナスの苦しさに満ち溢れているんだな。ああ、プラスの苦しさだけならいいのに。僕はそんな仕方のないことを考え続けていた。
 ふと、窓の外を見た。ロマンスカーは新百合ヶ丘に到着するところだった。進行方向に向かって右の窓側に座っていた僕は、ちらりとロマンスカーが入るホームの隣のホームを見た。支線の多摩線のホームだった。僕は高校時代、多摩に住んでいたので、代々木の予備校からの帰り道は、この新百合ヶ丘で、多摩線の各駅停車に乗り換えていた。当時と同じように、新百合ヶ丘始発の多摩線の各駅停車が、ホームでドアを開けっぱなしにして、静かに待機していた。ドアの中の人は、まばらだった。さすが多摩線。人が少ない。
「あっ」
 その様子を見て、僕は急に記憶がよみがえった。

 僕が代々木の予備校に通っていた高校三年の夏のことだった。 僕はその日の夜、夏期講習を終えて、新百合ヶ丘で始発の多摩線の各駅停車に乗り換え、出発を待っていた。出発まで少し間があったので、携帯ラジオをつけた。当時僕はヘッドホンステレオなどという、しゃれたものは持っていなかった。当然スマホはない。ラジオだけが、僕の頼りだった。野球も音楽も好きなので、ラジオがあれば、当時は生きていけた。その日も、プロ野球巨人戦のナイトゲームの中継を聞こうと、ラジオをつけた。すると、手が滑って、普段使わないテレビの音声を聞くモードに変えてしまった。一チャンネル、NHKの総合テレビが入った。すぐに元に戻そうとしたが、鈴木健二アナウンサーの声が聞こえた。僕は中学生のとき、鈴木さんのベストセラーになった本を読んで面白いと思ったので、鈴木さんが何をしゃべっているのかが、気になった。
「小学生にも人気があったのですか、あの番組は」
 何のことだろう、と思っていたら、今度は若い女優さんが
「そうなんです…それでは、みなさんに歌っていただきましょう。番組でよく歌われました懐かしい歌です。涙をこえて!」
と言ったので、僕は驚いた。
「え、涙をこえて!?」
 僕は中学一年のときに、隣のクラスの合唱曲として「涙をこえて」に出会い衝撃を受けたけれど、僕の実家はかなりの田舎で、レコード屋も遠かった。だから、「涙をこえて」をレコード屋で捜すことはなかった。僕の知っている「涙をこえて」は、田舎の中学生の下手くそな声の塊に過ぎなかった。その歌をこれから歌手が歌う。本物の「涙をこえて」が聞ける。高校生の僕は、突然の幸運に驚いていた。
 僕は耳を澄ませた。快活で滑舌のよい澄んだコーラスと、ソフトロックの活気ある演奏に惹かれた。最後の「アーッ」「アーッ」「アーッ」というコーラスのところでは、鳥肌が立った。そうか、「涙をこえて」って、本当はこんな曲だったのか。
 中一のとき出会ってから、五年経っても、ようやく本物の「涙をこえて」に出会えた。そうか、この歌、本当はロックだったんだ。僕はうれしく、巨人戦のことはもうすっかり忘れていた。その後もこの番組をラジオで聴き続けたところ、NHKの「第二十五回思い出のメロディー」だということがわかった。
 家に帰ると、たまたま父親がビデオにこの番組を録画していたので、僕はそのビデオの「涙をこえて」の部分を再生して、ラジカセでカセットに録音し、勉強の合間に、カセットが擦り切れるくらい聞いた。このカセットと、それから何と言っても佳子さんの存在が励みになり、僕は、あまりにも長時間の受験勉強、そして母親を突然亡くしたさみしさを、乗り越えることができた。もし、この多摩線のさみしい電車の中で本物の「涙をこえて」に出会っていなかったら、僕は一体、どんな人生を送っていたのだろう。
 こんなに大きな思い出をいつの間にか忘れていたのも不思議だが、新百合ヶ丘のホームと多摩線の各駅停車を見て、急に思い出がよみがえったのも、また不思議だ。人間の記憶は、やはりどこかにすべて眠っていて、きっかけの連鎖で突然思い起こされるされるものなのか。不思議だ。そして、自分の人生の節目節目に「涙をこえて」が何度も出てくるのは、もっと不思議だ。

 そう言えば、以前、坂の上テレビの先輩に言われたことがある。
「石井、いいか。人間ってのは、縁がある人やものにはとことん縁があるんだ。転勤や転職をしても、縁のある人には何度でも出会う。逆に、縁のない人には、同期であっても、一生会わない。だから、縁のある人とは、絶対に決定的な喧嘩をしちゃダメだ。仮に、何年も会っていないとしても、安心はできんぞ。縁のある人とは、簡単に切れないから、何年か経った後に、急にまた出会うことがある。ものもそうだ。縁があるものは、どこでまたひょっこり出てくる。不思議だよなあ」 
 僕の場合で言うと、佳子さんは、間違いなく縁のある人だ。もう、二度と会えないと思い、心のどこにもいないと思って、ものすごく長い間何も思わずに過ごしていたのに、彗星のようにニアミスを繰り返した結果、ついに衝突し、今では僕の心の大部分を占めるまでになっている。
 そして、「涙をこえて」にも縁がある。もうずっと忘れていたのに、去年急に僕の前で返り咲き、そして、佳子さんとの再会で、さらにこの歌との縁は増幅され、佳子さんの家族ともこの歌は縁があることも知り、忘れていた僕の高校三年の夏の思い出まで引っ張り出された。
 思えば、「涙をこえて」の「なくした過去に泣くよりは」という歌詞は、ついこの間までの僕の中では「なくした佳子(かこ)に泣くよりは」という意味を持っていた。しかし、佳子さんは、二十三年の時を超え、「涙をこえて」と共に戻ってきてくれた。そして今、これ以上ない縁を感じさせてくれている。
 縁のある人、縁のあるものの力って、とんでもないんだな。縁のある人とものが融合すると、さらにとんでもないんだな。
 僕は、二十代三十代のうちはまったくこんなことに気づかなかった。四十代になって、縁の不思議さや、人間の出会いの奥深さ、そして歌のもつ力に圧倒されている。それは、スマホばかりの世界にはない世界だ。僕は今まで、こういう大事な縁とか思い出とかを、無視して生きてきたのではないか。スマホという便利屋が、僕を縁や思い出がなくても暮らせるような錯覚に陥れたのかもしれない。もちろん、スマホにはものすごく世話になっている。でも、世話になっているからと言って、それだけを頼るのはよくない。
 それに、スマホ以外の世界を無視するのは、もっとよくない。世の中は、地層のような積み重ねで成立している。スマホは確かにその一番上の目立つ層で存在感を発揮しているけれど、それより下にある、縁や思い出は、正に縁の下の力持ちとなって、今の自分や世の中を支えてくれている。しかも、ずっと黙りながら。僕はその寡黙さに甘えているのに過ぎない。そんな構造に、僕は初めて気がついた。
「僕は、まだまだなんだ」
 ブルーのロマンスカーは、すでに本厚木に近づいていた。僕は打ちのめされたような気がしていた。そういえば、おとといの往路のロマンスカーで佳子さんが鼻歌を歌っていたな。あれも、ひょっとしたら、「涙をこえて」なのかもしれない。サビの部分だけ、かいつまんだようなハーモニーだった。
「タン、タン、タン、タン、タンタ、タンタタン」
 たぶん、そうだ。つながるなあ。いや、今までもひょっとしたら、こういうつながりのある世界は、実はどこかで展開されていたのかもしれない。でも、僕はこうした有機的なつながりに目を遣るよりも、自分の世界に浸れるスマホに逃げ込んでいたような気がする。生きるためのヒントは、他人の中にこそあるのに、僕はその他人から目を逸らし、スマホの中に逃げ込んでいたのではないか。僕は自分のここ数年の生き方を、恥じた。
 そして、早く佳子さんに会いたくなった。それは、自分の欠けているものを教えてくれる師匠に会いに行くような感覚だった。でも、あんなにかわいい師匠がいるのか。それでも現実は、僕よりはるかに佳子さんの方が人間的に上なので、現実に従うしかないと思った。

 箱根湯本からバスに乗って、峠の上に着いたのは、すでに午後三時に近かった。山の夕暮れは早く、もうなんとなく日が傾き始めているような気がした。僕は急ぎ足で坂道を駆け上がり、ホテルに向かった。
 ホテルに着くと、番頭さんらしき人が迎えに出てくれていた。きっと、佳子さんが差し向けてくれたのだろう。
「どうも、ようこそいらっしゃいました」
「いえ、あの、すみません。わざわざ表に」
「いえいえ、いいんですよ。お嬢様がお待ちですので、どうぞ」
 僕は番頭さんに案内されて、ホテルのロビーに入った。ロビーのソファーに、佳子さんは座って待っていた。
 今日の佳子さんは、仲居さんと同じような和服だった。白っぽい柔らかな地に紅梅があしらわれた、早春の雰囲気が漂う和服だった。佳子さんの和服姿を見るのは、初めてだ。髪は硫黄泉に入った後と同じようにアップにしてあり、和服の雰囲気と合わせるようにしていた。なんでもないときだったら、「きれいだ」「かわいい」と素直に思えていただろう。佳子さんの新たな魅力に、胸を躍らせていただろう。でも、今はそんな余裕は僕にはなかった。
「佳子さん」
「あ、おつかれ」
「あの、僕」
「あ、話は中に入ってからしようね」
 佳子さんはそう言って、あわてる僕を制した。そして、佳子さんは、仲居さんに目配せをして、僕を奥の洋間に案内した。
 洋間に入ると、仲居さんはお茶やお菓子をまったく出さずに、下がった。おそらく、佳子さんにすぐに下がるように言われているのだろう。僕はひとつ、大きく息をついた。
「あの、僕」
「びっくりしたでしょ?」
 佳子さんは、僕が「びっくりしました」とか「驚きました」というより先に口を挟んだ。僕は、うなずくしかなかった。
「あ、はい。そうです。」
「ほらまた敬語」
 こんな場面でも、佳子さんの突っ込みは健在だ。佳子さんは、そっと僕の耳に顔を近づけ、小声で話した。
「ここにきたら、彼氏のふりをしてくれないと、あたし困るの」
「ええ、昨日の話、まだ続いてるんですか」
「当たり前でしょ。じじが来たら、どうするの?」
「そっか」
 確かに、昨日と一昨日の二日間、じじに、彼氏ができましたという前提で話をしているわけだから、急に敬語に戻ったら、おかしいと思われるはずだ。
「そ、そだね」
「じゃ、またワンコちゃんね」
 僕は、佳子さんの狛犬に一日で復帰することになった。こんな状況でなければ、またワンコに復帰できてうれしい、と思うところだが、今はそれどころではない。
「あの、佳子さん」
「なあに、ワンコちゃん」
「なんで、みわちゃんのこと、知ってたの?」
 僕は、全体像を早く知りたかったので、いきなり直球を投げた。佳子さんは、何も表情を変えずに、言った。
「みわちゃんはね、あたしの教室の生徒さんなの」
「ええっ!」
 そんなこと、聞いたことないよ。
「え、でも、みわちゃんがダンスを習っているなんて、聞いたことないなあ」
「ダンスじゃないわよ、ヨガ」
「え、佳子さん、ヨガも教えているの?」
「そうよ。ワンコちゃんにロマンスカーの中で言わなかったっけ?」
「うーん、覚えてないなあ」
佳子さんは少し笑った。
「ま、とにかく、みわちゃんはだいぶ前からあたしの生徒なわけよ」
「それって、いつごろから?」
「もう、だいぶ前よ。四年くらい前かなあ」
 四年前というと、僕はまだみわちゃんと付き合っていないころだ。坂の上テレビの近くでヨガを教えているところを探していたら、佳子さんの教室が見つかった、ということなのだろう。
「わりと前だね」
「うん。あたしがダンスとかヨガとか教え始めたときに入ってきた生徒さんなの」
「へえー、そうなんだ」
「そう。だから、あたしもみわちゃんには結構思い入れがあって、わりと気も合ってたから、わりと早い時期から、レッスンが終わった後、一緒に飲みに行ったりして、いろんな話をしていたのよね」
「あ、じゃあプライベートな話もしてたの?」
「そう。ちょうど彼女が前の旦那さんと別れる、別れないみたいな話をしているときだったから、相談に乗ってほしかったんだと思うな」
 佳子さんは、みわちゃんの離婚の話も、僕よりだいぶ前に聞いていたわけか。
「で、佳子さんに相談したけど、別れたんだ」
「そう。でもね、彼女かわいそうだった。十歳も年上の女に浮気されて、離婚なんてね」
 これは、みわちゃんから先日聞いた話とぴったり符合する。でも、あの佳子さんの口から「浮気」「離婚」なんて言葉が出てくるなんて、想像できなかったので、僕は少し驚いていた。
「僕も、その話、聞いたよ」
「ああ、ワンコちゃんに言ったんだ。ま、普通言うよね。大事なことだから。」
 いや、聞いたのはつい先日で、つきあってから一年三か月も僕は知らなかった、と言おうと思ったけど、最近まで知らなかったことが恥ずかしくて、割愛した。
「じゃあ、そのあと僕と付き合いだしたときも、話を聞いていたんだ」
「ううん」
 佳子さんは意外な返事をした。ひょっとして、佳子さんは、僕とみわちゃんがつきあっていることを知らなかったのか?
「付き合いだす前から、ワンコちゃんの話、聞いてたの」
「え?どういうこと?」
「みわちゃんね、今度は絶対に失敗したくないから、失敗しない男を選ぶって言っていたんだよね。そしたら、石井さんって人が見つかったって、言いにきたの。で、いろいろ話を聞いてみたら、どうも、予備校で会った、あの石井くんかもって気がしてきたのよね」 
「それで、どうしたの?」
「まず歳を聞いて、風貌を聞いて、それから、性格を聞いて、いろいろ根掘り葉掘り、みわちゃんに聞いたの。で、そのたびに、ああ、あの石井くんなんだなって、段々と確信したのよね」
「それで?」
「もちろん、昔、石井くんのこと好きだったことはあるけど、今はもう時代が違うし、それに、石井くんも若い女の子の方がいいんじゃないかなって思ってたから、あたしの出る幕じゃないなって思って」
 ええ。佳子さん、そこは佳子さんの出る幕ですよ。どうしてみわちゃんから僕を奪おうとしなかったんですか。僕はもう少しでこれらの言葉が口から飛び出してしまいそうだった。しかし、飛び出す前に、佳子さんがまた新たな話を繰り出した。
「でもね、しばらく経って、これってよくないって、あたし思い始めたの」
「なんで?」
「だってね」
 佳子さんはそう言うと、一息ついて、洋間の庭に面した大きな窓に向かった。その後姿には、一昨日の夜、ビールを飲んだ後に見た、言い知れぬ大人びた雰囲気が漂っていた。僕は急に緊張した。
「みわちゃんは、ワンコちゃんじゃなくて、ワンコちゃんの財産を見ていることが、だんだんわかってきたのよ」
 え?あの、佳子さん、僕、財産なんて、ないですよ。何を言っているんですか。父親はしがない薬屋さんだったし。父が亡くなってからも、もらった財産なんて、ないよ。実家ももう処分しちゃったし。僕がそう言おうとすると、佳子さんは僕を鋭い視線でちらりと見た。そして、また僕より先に口を開いた。
「あ、知らないんだ。やっぱり。根本的なこと」
 その一言で、僕は、言い知れぬ不安の淵に、突き落とされた。僕は、吐き気がしそうだった。
「あの、な、何が」
「えっとね」
「う、うん」
「坂の上テレビに、副社長さんがいるでしょ」
「うん。あの、土地とか、社内資産を管理してる人、がいるね」
「そう。その人はね」
 佳子さんは一回息を吸った。僕は、息が止まった。
「ワンコちゃんの、お兄さんなんだよ」
「ええ?」
 あのう、僕、兄弟はいないんですけど、そう言おうとすると、佳子さんはまた機先を制した。
「あたしが言うのも何なんだけど、ワンコちゃんは、大変残念なんだけど、亡くなったご両親の子じゃ、ないのよね」 
 佳子さんは、あまりにも衝撃的なことを言った。僕の父と母は、父や母じゃなかったってこと?それって、あまりにも歴史を覆しすぎじゃないか?僕は何を言っていいのか、わからなかった。
「ワンコちゃんは、実は、代々、坂の上テレビの社長をしている家に生まれたのよね。でも、当時の坂の上グループはお家騒動がひどくて、ワンコちゃんの二つ年上のお兄さんが継ぐのか、ワンコちゃんが継ぐのかをネタに上層部がもめてね。ワンコちゃんの本当のお父さんが争いをやめさせるために、ワンコちゃんを赤ちゃんのときに養子に出したの」
「よ、養子」
「そう。当時、坂の上の若手だったワンコちゃんの本当のお父さんが親しくしていた薬屋さんの夫婦になかなか子供ができなくて、そこに預かってもらう、ということになったのよね。それがワンコちゃんというわけ」
「え、じゃあ僕は家を出されたってこと?」
「うん。残念ながら、そういうことね」
「そ、それで?」
「でもね、社長さんは、お家騒動に巻き込まれたワンコちゃんが不憫で、家からは出したんだけど、財産だけは譲ってあげたいと思って、遺言に、自分が死んだらワンコちゃんにも財産を渡すって書いてあるんだって」
「ええっ!」
 早稲田の法律の授業で習ったが、確かに、妻や子への相続とは別に「遺贈」と言って、第三者に財産を無償で与えることができる制度がある。おそらく、佳子さんの話は、この遺贈のことを言っているのだろう。
 しかし、それにしても。僕が坂の上テレビの社長の息子?財産? 亡くなった父や母は、実は他人?僕は想像を絶する話が続いていて、吐き気を通り越して、もう倒れそうだった。
 でも、佳子さんがあまりにも淡々と話すので、僕はなんとかついていくことにした。
「でも、なんで佳子さんがこんなに詳しく知ってるの?」
「みわちゃんが、詳しく教えてくれたのよ」
「みわちゃんが?」 
「そう。みわちゃん、受付をやってて、役員室とか、秘書室とかよく行っているから、そこで流れていた噂をつかんでいたのね。それで、言い方は悪いけど、ワンコちゃんだったら、財産も将来もらえそうだし、悪い人でもなさそうだから、ターゲットに絞った、というわけ。ターゲットって言うと、ちょっと変だけど。ごめんね、言い方が悪くて」
 ターゲットに絞った。僕は、みわちゃんの存在が、急に遠くなったような気がした。
「もちろん、みわちゃんだって、最初は悪気があってそんなことをしたんじゃないと思うよ」
「そうなの?」
「うん、だって、もう二度と結婚で失敗したくないから、財産的にも、性格的にも間違いのない人にしたいって言うのは、女だったら、やっぱり考えるのよね。まして、みわちゃんの家は不動産関係だから、土地の値段とかで不安定になることがあるわけでしょ。そしたら、財産のない人よりある人の方がいいじゃない」
 そういうもんなのか。
「でもね、みわちゃんはワンコちゃんと付き合い始めてしばらくしたら、ちょっとおかしくなって、財産の話ばかり、あたしにしてくるようになったのよね」
「え、なんで」
「あたしに調べてほしかったんでしょ。もらえる財産規模がどれくらいとか」
「でも、佳子さん、そんなことできるの?」
「簡単よ。だって大王子観光は、坂の上テレビの番組のスポンサーをかなりやってるからね。いつもうちは坂の上テレビの役員さんと交流があって、みわちゃんも、あたしの家が大王子観光だって誰かに聞いたみたいで知ってて、それで何か情報がないかって聞いてくるようになったの」
みわちゃん、佳子さんにそんなことしてたんだ。
「で、佳子さんはどうしたの?」
「もちろん、答えなかったわ」
佳子さんは、眉を右上に上げ、きっとこちらを見た。
「あたし、誰かの力を借りるのは反対じゃないけど、その前にまずワンコちゃんに、自分がどういうつもりでいるのかとか、つまびらかにすべきじゃないかって、思うの。それに、ワンコちゃんが坂の上の社長の息子だってこと、自分は知っているのに、ワンコちゃんには知らせずにいるわけでしょ。もちろん、こんな重い話を簡単には説明できないから、説明しなかったっていうことなのかもしれないけどね。でもね、核心部分がズレたままの男女って、絶対そのうち大きくズレて、決定的にうまくいかなくなるわ。みわちゃんは、それをズラしたまま、なんだかごまかそうとして過ごそうとしていたから、あたし、だんだん許せなくなってきたの。それに、大事な人に、核心をきちんと打ち明けられないって、あたし、間違っていると思うの!」
 佳子さんの口調は、熱を帯びた。
「そ、それで」
「もうこれは、あたしがワンコちゃんにほんとのことを言ってあげなきゃ、ってね、去年ぐらいから思っていたのよね。でも、あたしもやっぱりみわちゃんに遠慮があって、なかなか踏み切れなかったのよ。そしたら、今年に入ってすぐ、偶然、ワンコちゃんの手帳をバスで拾ったの。ああ、これで始まったんだなって、思って。でも、最初から、みわちゃんに邪魔されたら困るから、みわちゃんがヨガの新年会に行ってて確実に家にいない日に、あたし、新年会を早めに失礼して、ワンコちゃんに電話したのね。」
 あの電話には、そんな背景があったのか。みわちゃんがいないのを見計らってかけてきたのか。ものすごい話だ。
「ええ、でもそしたら、なんであんなにまだるっこしい展開にしたの?最初の電話から、言ってくれればよかったのに」
「最初から言うのは、さすがにためらわれたのよ。だって、あたしとワンコちゃん、二十三年も離れていたじゃない。いきなりすごい話をしても、うまくいかないって思ったから、だから、場面を作って作って、少しずつ少しずつ近づいて、だんだん違和感がなくなるようにしたかったの」
「え、それでロールプレイングゲームみたいなことになったの?」
「そう。もちろん、何か危ないことになったら、すぐやめて全部お話しするつもりだったけどね。幸い、昨日までは危ない展開にならなかったから、そのままにしてたの」
「え、じゃあ、みわちゃんのお父さんの会社が危ないとわかったのは、いつ?」
「危ないとわかったのは、もうだいぶ前ね。でも、危ないということが世の中に出るとわかったのは、昨日の朝よ」「え、昨日の朝?」
「そう。朝ごはんを食べ終わったところで、仲居さんから耳打ちが入ったの。サンガの件、明日、新聞に出ることになりましたって」
 そう言えば、確かに、昨日朝食を食べ終え、スリッパを履こうとしたところで、仲居さんが佳子さんに寄り添っていたな。あれは、佳子さんの吐き気に配慮して、じゃなくて、佳子さんに情報を突っ込むため、だったのか。スパイみたいだな、大王子観光。
 だから、情報が入った佳子さんは、すぐに僕に解散を命じた。サンガが危ない話が世の中に出るんだから、みわちゃんが何か話をするはず。早く帰って、まずはみわちゃんに会ってきなさい。そういう意味だったのか。
 僕は、佳子さんが僕が思いも寄らない視点から僕のことを気遣ってくれていたことを知り、驚くと同時に、深い感謝を覚えた。
「そうだったんだ…」
「そう。でも、みわちゃんからは今に至るまで、ワンコちゃんに自分が本当に考えていることを話した雰囲気はなかったし、このままワンコちゃんがみわちゃんに押し切られたら、ワンコちゃんが本当に不憫になると思うの」
 そう言うと、佳子さんは僕の目を見た。
「だから、今日、ついに直接、手を出しました」
 僕には、返す言葉が見つからなかった。今の気持ちを言うのが、精いっぱいだった。
「いや、ほんとにびっくりだよ」
「ごめんね。本来であれば、あたしなんかから話すことじゃないけど」
「ううん。教えてくれて、本当にありがとう。それに、今、ショックだけど、いつかは知らないといけないことだったと思うし」
「うん」
「じゃあ、これから、みわちゃんに、話、するよ」
「うん」
「がんばって」
 昨日も佳子さんは別れ際に「がんばって」と言ってくれた。僕はそのとき、漠然と「仕事をがんばって」くらいのエールだったと思っていたが、それはまったく違って、近いうちにこういう展開になることを察知してのエールだったのだろう。そして、それは実際にそうなった。今日は明確に「みわちゃんとの話、がんばって」というエールだ。
 僕はもう一度「うん」と答えて、立ち上がり、ホテルの玄関に向かった。
 玄関にはすでに、ホテルのワンボックスカーが用意されていた。これも、佳子さんが用意してくれたものだろう。
「また車を用意してくれたの?ありがとう」
「急ぐでしょ」
「うん」
「がんばって」
「ありがとう、本当に、ありがとう」
 僕は、佳子さんに頭を下げると、車に乗り込ませてもらった。乗り込むと、車は勢いよく発進した。
「ありがとー」
 辺りは、もう薄暗かった。しかし僕は、見送ってくれる佳子さんの顔を、見えなくなるまで、見つめていた。
 すると、車の中で、僕はふいに涙をこぼしてしまった。この世は、あまりにも知らないことばかりで、僕は、打ちのめされてばかりだ。知らなかった事実の大きさと重さにただ茫然とすると同時に、今までの自分は何だったのだろうという思いがあふれ、涙を流してしまったような気がした。
「石井さま」
 暗くなった前方の席から、運転手の男性の声がした。聞き覚えのある声だった。
「お目にかかりました、湯守でございます」
 ああ、一昨日、露天風呂に来てくれた湯守さんだ。運転手も兼ねているのか。
「騒動に巻き込まれていると、伺っております」
 もう湯守さんも知っているのか。ふと、湯守さんがおととい露天風呂で言っていたことを思い出した。
「いえ、あの、この間湯守さんがおっしゃっていたとおり、佳子さん、ほんとに見かけによらず、すごい人だなって、思いました」
「そうでございますね。どうしたら、あのようにいろいろできるのか、いつも感服しております」
「そうなんですか」
「はい。今回の石井さまの件では特に、気持ちが入られているようです。これは、大事な物語だから、と私も伺っております」
「も、物語?」
「はい。私どもも、物語と言うのが、いったい何を指しているのかはわかりませんけれども…石井さまの件で、物語と、おっしゃっていました」
「そうなんですか」
「はい。ただ…ひとつわかっていることがございます」
「何ですか?」
「涙をこえて行け、ということです」
「涙をこえて行け?」
「はい。ご存知かと思いますが、お嬢様は、先代、つまりお嬢様のお父様から常々『涙をこえて』を聞かされてお育ちになりました。そして、何か難しいことがあったときは、いつも、『歌と同じだ。涙をこえて行け』と言われていたそうでございます。今回も、石井さまがこちらに来られる前にぽつりと『涙をこえて行け、ね』と独り言をおっしゃっていました」
 そうなのか。「涙をこえて行け」か。僕は、こぼした涙をふいた。
「わかりました。がんばります」
 僕が湯守さんにそう伝えると、湯守さんは暗闇の中でゆっくりとうなずいた。
「ご武運、お祈りしております」
 湯守さんは、力強く、そう言ってくれた。
 車はすっかり暮れた箱根山中の暗闇の中を飛ぶように走り、あっという間に箱根湯本の駅に着いた。駅の明かりがまぶしいくらいだった。僕は湯守さんに丁寧に礼を言うと、急いで切符を買って、ホームに向かった。
 ホームで待っていたロマンスカーは、数あるラインナップの中で一番古い、赤いロマンスカーだった。まだこのロマンスカー、走っていたのか。僕は少し驚いた。僕が小学二年生のとき母親と一緒に乗ったあの思い出のロマンスカーは、この型だ。僕は箱根によく行くけど、この型のロマンスカーはもうあまり数がないからか、大人になってからは乗ったことがなかった。
 車内に入ると、車端の壁に「ブルーリボン賞 一九八一 鉄道友の会」という丸いエンブレムが飾ってあった。一九八一年は、昭和五十六年。まさに昭和のロマンスカーだ。平成も三十年になろうとしているのに、昭和のロマンスカーに乗れる。僕はなつかしさを胸に、着席した。
 ああ、子供のときと同じ風景だ。もちろん、当時とは違い、車体は汚れ、華やかなお姉さんがよそで淹れたオレンジジュースを持ってきてくれることもない。しかし、昭和の雰囲気を味わうには十分だった。僕はその雰囲気を味わいながら、いろいろなことを思い出していた。
 
 僕の母親が、祖母に常に強い負い目を感じているように見えたのは、子供が産めずに、僕を養子に迎え入れたからに、違いない。ようやく母と祖母の関係のなぞが解けた。母が祖母のご機嫌を伺っていたのも、時に悔し涙を流していたのも、きっとそこにつながっているのだろう。ひょっとしたら、母が若くして突然亡くなったことと身ごもれなかったことに、何か関係はあるのか。これは、わからない。 
 そう言えば、佳子さんに母親の話をしたときに
「お母さん、きっと、すごく苦労してたんだと思うよ。生きてたら、よかったのにね。」
と言って、目に涙を浮かべていたのは、全体像を知っている佳子さんが、養子を迎え入れた僕の母の立場を慮ったからだろう。
 ここで僕はふと気づいた。 僕の本当の母親って、誰なんだろう。坂の上テレビの、あの禿げ上がった頭の社長が実の父だというのもなんだかしっくりこないが、社長の奥さん、つまり僕の産みの母であろう人というのは、見たことがない。ぜひ一度、産みの母に会ってみたい。僕のお母さんは、どこにいるのか?ひょっとして、佳子さんと同じように、突然どこからか復活してくれるのか?
 また、僕は地方のテレビ局を渡り歩いて気象予報士をしていたけれど、名古屋のしゃちほこテレビにいたとき、キー局である坂の上テレビの人から突然職場に電話が入り、
「名古屋での活躍、この間出張した時に拝見しました。ちょっと東京に来て、いろいろ見てみませんか」
と誘われたのが、東京に帰るきっかけだった。ひょっとしたら、実の父か母か兄か、誰かが僕を呼んでくれたのか。僕は高校生のときに母親を、しゃちほこテレビにいるときに父親を亡くして、一人になった。養父母が両方ともいなくなったというタイミングで、それを知った坂の上テレビが僕に声をかけてきたのかもしれない。
 次に、みわちゃんの件か。
 みわちゃんは、本当に、佳子さんが言っていたようなことを考えていたのか。うそであってほしい。でも、どうやら佳子さんの話にうそはない、という感じが僕にはしていた。だとすると、みわちゃんは、僕の実の父、つまり坂の上テレビの社長の財産目当てに僕に近づいてきたということか。
 確かに、みわちゃんとの出会いはやや不自然だった。受付から偉いお客さんを現場に案内してきたみわちゃんが、いっぱい僕に視線をくれたのが始まりだったが、別に僕になんか挨拶しなくていい上に、わざわざLINEのIDを手書きした名刺をくれて、連絡してほしい感じがありありとしていた。初対面の男性に、いきなりLINEのIDを書いた名刺を渡したりする子もいるんだ、くらいに思っていたけど、それくらい無理して近づきたかったということか。
 よく考えたら無理はもうひとつあって、IDをもらった翌日、僕が結構遅い時間に、坂の上テレビの玄関を出ようとしたところ、突然みわちゃんが物陰から現われ、「あら、偶然ですね」と言われて、しばらく一緒に歩いて、ぜひLINEでメッセージを送ってほしいと言われた。僕はあまりLINEに慣れていなかったけど、みわちゃんが絶対楽しいから、と言って勧めてくれたのでしぶしぶ始めた。 
 そこから、みわちゃんに会う約束をした。会ってからもみわちゃんは積極的で、すべてみわちゃんが先攻で、僕たちはあっという間につきあうことになった。同棲も、彼女が転がり込んできたようなものだ。
 そうした節目のたびに僕は「ああ、みわちゃんって、変わってるなあ」「なんでこんなつきまとってくるんだろうなあ」くらいしか思っていなかったが、どうしても僕とくっつきたい事情があった、と考えれば、こうした行動もうなずける。みわちゃんはモテモテで、いろいろな男、つまり僕よりいい男たちに言い寄られているにもかかわらず、僕に近づいてきたわけだから、よく考えたら、おかしいはずだ。
 今の今まで、あまりこうした点を気にしなかった僕はおめでたい人間だ。いや、単にめんどくさかっただけだと思う。めんどくさくなく、つきあえるんだったら、多少変でもいいや、となんとなく思っていたのだろう。
 女性にアプローチして、好みを考えてデートの場所を選定して、話を重ねて、ご機嫌もうかがって、という対応を重ねるのは結構な手間だ。別にそんな手間をかけなくても今の世の中、楽しいことはいっぱいある。一人でも十分暮らせるような気がする。だから昔に比べて、男女交際をする人が減っているのだろう。
 昔は男女交際が大いなる娯楽であり、ほかに娯楽の選択肢も少なかったため、男女交際にみんな流れた。ところが、今はこんなめんどくさいことをしなくてもいい。もし、めんどくさくなく、できるんだったら男女交際してもいい。
 僕も、いつの間にか、そんな考え方になっていたのだろう。 そしてそこに現れたのが、便利なみわちゃんだったというわけか。みわちゃんは、便利な上に、かわいくて、若くて、男性を楽しませる要素をいくつも持っている。僕にとっては、ありがたい存在だった。
 つまり、僕もみわちゃんを利用していたということか。それなら、みわちゃんを一方的に責めることはできないな。
 僕がそんなことを考えていると、あっという間に、ロマンスカーは新宿に近づいていた。
 さあ、みわちゃんにどう言おうか。そして、何を聞こうか。僕の頭は、フル回転だった。

 午後六時半前。赤いロマンスカーは新宿駅に着いた。僕は、スマホのLINEを開き、みわちゃんに「ちょっと早いけど、帰るよ」とメッセージを送った。みわちゃんからの返信は、なかった。いつもだったら、仕事中であってもこっそり抜け出して、わりと早めに返信してくれるのに。
 僕は、新宿駅から歩いて自宅に向かった。しばらく歩いて、もう一度スマホを見たが、やはり返信はない。大丈夫だろうか。僕は少し不安になった。
 そうこうしているうちに、マンションに着いてしまった。部屋のドアを開けると、真っ暗だった。僕は電気をつけた。すると、白いニットのセーターと、たくさんプリーツのついた黄土色のスカートのまま、床に這いつくばるようにしている、みわちゃんがいた。僕は恐る恐る声をかけた。
「みわちゃん」
「どうしたの?」
「大丈夫?」
 返事はなかった。
 もう一度、名前を呼んだ。
「みわちゃん?」
「…うん」
 みわちゃんは、か細い声で返事をした。そして、もぞもぞと起き上がった。黄土色のスカートには、かなりシワがついていた。まるで、黄砂にまみれている感じがした。
「あの、僕」
「うん」
「新聞、見たよ」
「見たんだ」
「うん」
 僕がそう言うと、みわちゃんはそれをトリガーにしたかのように、二、三度、しゃっくりをするようにしたあと、「あーん」「あーん」と言いながら号泣を始めた。嗚咽ではなく、揚げていたタコが飛んで行ってしまったときの幼子のような号泣だった。
「みわちゃん」
「パパの会社、つぶれる」
「そんな」
「明日、警察の人が実家に来ることになったの」
「ええ」
 捜査の手が、みわちゃんのお父さんに及ぶということか。
「みわちゃん」
「もう、だめかも」
 そう言うと、鼻と涙で顔を乱したみわちゃんは、鼻をすすりながらこんな一言を言った。
「でも、私は石井さんがいるから大丈夫」
「僕がいるから?」
「そう」
「僕、何もできないよ」
「そんなことないよ、私のそばにいてくれるだけで、安心なの」
 みわちゃん、しおらしい。僕は少しうれしくなった。
 しかし、次の一言が強くひっかかった。
「だから、早く一緒になって。明日朝、婚姻届もってくるから。パパが警察に連れて行かれる前に、パパに見せたいの」
 ちょっと待ってよ。パパ基準かい。そりゃ、みわちゃんのお父さんは大変な状況だけど、でも、だからと言って、お父さんが警察に連れて行かれる前に婚姻届を見せたいって、それは変だろう。それは、カネの証文をとりましたよ、というのと同義ではないか。僕は所詮、証文野郎なのか。もっと言えば、僕がいなくても、カネの証文とカネがあれば、それでいいのではないか。 
 僕はこう考えたので、みわちゃんに、冷たい一言を言ってしまった。ドーンと、ストレートに。
「みわちゃん。申し訳ないけど、それは、間違っているよ」
「間違っている?」
 今まで哀願するような涙目をしていたみわちゃんが、急に僕をにらみつけた。今まで味方だったくせに、裏切りやがったな、というような目で。僕はますます不審を感じた。
「どうしてパパが警察に連れて行かれる前に、婚姻届を見せないといけないの?」
「それは、石井さんと私が愛し合っていることを形として見せたいためよ。愛があれば、何でも乗り越えられるから」
 みわちゃん、何てこと言うんだ。佳子さんが言っていたとおり、核心がズレたことを隠したまま男女が話を進めようとすると、やがてそのズレは決定的になる。
 僕とみわちゃんのズレは、今、決定的になったと思った。
「みわちゃん」
「なに?」
「愛があれば、じゃなくて、カネがあれば、なんじゃないの」
 僕はついに、決定的に冷たいことを言ってしまった。
 僕は常々、「いつもあたたかく いつもあたらしく」という気持ちを心がけているつもりだが、これだけ核心を隠したまま言われると、もはや冷たく言わざるを得ない。
「カネ!?」
 涙を流すのをやめたみわちゃんは、隣の隣の部屋位まで聞こえるような大声で、言った。それはまさに、みわちゃんが今気にしていることだから、声が大きくなった、と僕は思った。でも、みわちゃんはなおもズレた発言を続けた。
「カネって、どういうこと?失礼じゃない!あたしが、カネのために結婚するってこと?それ、すごい失礼よ!結婚って、女の子にとって、神聖なんだからね!」
 みわちゃんは、僕が箱根に行って連絡を取らなかったとき以上の剣幕で怒り始めた。一方で僕は、その剣幕に対抗するように、静かに言った。
「神聖なら、なんであわてて結婚しようとするの?」
「だって、パパが捕まっちゃうから!」
「じゃあ、みわちゃんは、パパのために結婚するんだね。結婚って、神聖なんでしょ?神聖って、まず相手を思うことから始めるんじゃないの?」
 すると、みわちゃんは恐ろしいことを言った。
「石井さんのことは、散々思ってるわよ!あたし、石井さんに全部合わせてて、苦しかったんだからね!それにパパの会社がつぶれちゃうじゃない。なんでこんな目に合わないといけないのよ!そろそろ見返りがないと、あたし、やってけないじゃん!」
 見返り。もはや神聖とは間逆の世界だ。みわちゃんは、興奮すると、つい、本音が出てしまう癖があるが、ここまで露骨に言われるとは僕も想像していなかった。
 でも、僕は淡々と反応し続けようと思った。露骨に対し、興奮したら、相手の土俵ですべてが進んでしまう。自分の土俵で勝負するために、僕は短く、穏やかに発言した。
「見返り、ね」
 僕が短く、穏やかにそう言うと、みわちゃんは、ようやく自分がとんでもないことを言ったと気づき、困惑の表情を浮かべた。
「あ、あの、言い方悪かった」
 みわちゃんは少し申し訳なさそうにした。しかし、もはや僕は、その程度では許せなかった。
「言い方の問題じゃないな。本当にそう思っているから、こういう大事な話のときに、口に出たんじゃないかな。僕は、みわちゃんがどうして、僕に近づいてきてくれたのか。僕に何を求めていたのか。それを、もっとちゃんと聞きたかったな」
 僕がそう言うと、みわちゃんは一瞬黙って、何かに気づいた表情をした。
「ひょっとして、誰かから、何かを聞いた?」
 僕はここでどう答えようか、迷った。ただ、みわちゃんに核心がズレないよう求めているのだから、僕も核心を明らかにしないといけない、と思った。
「聞いたよ」
「何を聞いたの?」
「僕が、本当は坂の上グループの家の生まれであること。僕のことを不憫に思った社長が遺言で財産を僕に譲ってくれそうだということ。そして、みわちゃんが、その財産を期待して、僕に近づいてきたということ。さらに、山河建物が危なくなったから、急いで僕と結婚しようとしていること。以上、四点。」
 僕は、まるでスーパーのレジ係のように、淡々と要点を言った。僕はさらに続けた。
「みわちゃん、四点のうちの、後半の二点、つまり、みわちゃんに関する部分は本当ですか。僕は本当であってほしくないと思っているけど、もし本当であったら大変だし、うそだったら、これを教えてくれた人に抗議しようと思っているので、本当のことを答えてください」
 みわちゃんは、僕をにらみつけたまま、黙った。    
「あたし、石井さんのこと、愛してる」
 みわちゃんは、矛先を変えてきた。僕はそれを許さなかった。
「愛してくれてるの」
「もちろんよ」
「ありがとう。じゃあ、質問に答えてね」
 僕がにべもない対応をすると、みわちゃんは怒った。
「ひどいじゃない!」
「何が?」
「あたしのこと、散々、コケにしたでしょ!」
「してないよ。質問しているだけ」
「だって、あたしが困る質問ばっかりじゃない!」
 困る質問か。これが、ほぼ答えだと思った。やはり、人間は、問うに落ちず語るに落ちる。質問の直後の答えではなく、その先の会話に、本音が出てくる。
「困るんだ。じゃあ、やっぱり、財産なんだね」
「財産だけじゃ、ないって!」
 財産を認めつつも、みわちゃんはさらに抵抗した。ここで僕は質問を変えた。
「じゃあ、僕が坂の上テレビの社長の家の出だってこと、なんで言ってくれなかったの?」
「そ、それは、石井さんが当然知ってて、言わないだけだと思っていたから」
「そうかな。だって、同棲するくらいなんだから、そんな大事な話、僕が隠している方がおかしいんじゃないかな」
「そんな、大事な話だったら、同棲していても、隠すって!」
 みわちゃんがまた本音を言った。同棲していても、みわちゃんは離婚歴があることはずっと黙っていた。もちろん、なかなか言えなかったというのはあるだろう。しかし、もし、僕が佳子さんと会わずに、みわちゃんとの間の流れを変えないままだったら、みわちゃんはずっと黙っていたのではないかと思う。
「僕は、大事な話なら、するな。だから、みわちゃんと僕は、感覚がズレているんだと思う。確かに僕も、このズレをずっとそのままにして、放っておいたのは、よくなかった。僕も、悪かった。でも、こんなズレた感覚のままでは、僕はみわちゃんと一緒になれない」
 そう言うと、みわちゃんは、うなだれた。
 そして、次の瞬間、顔を上げた。みわちゃんは、また、何かに気づいたようだった。
「ひょっとして、その、教えてくれた人って、田中先生?」
 田中、というと誰だっけという感じだが、佳子さんの踊りの名字であることは、僕はすぐに思い出した。僕は一瞬考えた後、言った。
「違います」
 僕はここで、全体像を教えてくれた佳子さんの許可を得ずに佳子さんから聞いた、とは言えなかった。仮に、佳子さんから聞いたと言ってしまうと、みわちゃんの怒りは佳子さんに向かうだろう。そうすると、佳子さんに申し訳ないし、みわちゃんが、佳子さんに何をするか、わからない。僕は、情報源はなんとしても守ろうと思い、やむなく嘘をついた。
「じゃあ、誰」
「誰でも、いいじゃん」
「よくないわよ!だって私の予定、めちゃくちゃじゃない!」
 みわちゃん、私の予定って、自分のことばかり考えすぎじゃないか。僕は、静かにあきれてきた。
「みわちゃん、自分のことばかり考えすぎだよ」
「そんなことない。あたしは、パパのことを思ってやってるんだから」
「そんな、財産目当てに結婚して、本当にいいの?」
「だってパパだって、財産があればまた商売が出来るから、なんとしても、石井君に来てもらおうっていっていたのよ」
「そしたら、僕じゃなくても、カネづるがあればいいんじゃないか」
「でも、石井さんには愛情が」
 この期に及んで愛情という。みわちゃんの愛情とは一体何なのか。
「みわちゃんへの愛情は、僕はもうなくなりました」
 僕は、決定的なことを言ってしまった。
 でも、仕方がなかった。
 すると、みわちゃんが、激高した。
「石井さん、石井さんが、そんなひどい、冷たい人だとは、思わなかった!人がこんなに大変な思いをしているのに、なんて仕打ちなの!もう、坂の上にいられないようにしてやるからね!明日、秘書室と役員室で、あることないこと、言って回るからね!もう、アンタなんか、クビよ!変態!死ねば?」
 みわちゃんは、エスカレートした。何なんだろう、この豹変振りは。僕は驚くばかりだった。

 すると突然、インターホンが鳴った。僕はインターホンには普段から出ない。しかし、何度も何度もインターホンが鳴らされた。僕はやむなく、応答ボタンを押した。
「はい」
 カメラに、初老の男性の映像が映し出された。
「あの、山河でございます」
 みわちゃんの、お父さんだった。
「ああ、ああ、お父様ですか」
「いま、よろしいでしょうか」
「あ、はい」
 僕はあわてて解錠キーを押した。
 それからまもなく、みわちゃんのお父さんが、お母さんを連れて玄関に入ってきた。驚いたのは、みわちゃんだった。
「パパ、ママ、なんで…ここに来たの?」
 僕は玄関に突っ立ったままのお父さんに
「あの、お上がりください」
と言った。
「いえ、ここで、結構です」
 みわちゃんのお父さんは、土足で立ったまま、話を続けた。
「このたび、私どもの会社の不始末で、石井さんも巻き込んでいろいろと娘を通じて申し上げてしまい、申し訳ありませんでした」
 あれ?お父さんも早く婿がほしいと言っていたんじゃないかな。なんで謝っているんだろう。お父さんは続けた。
「大変お恥ずかしいことに、石井さんの、いえ、正確に言いますと、石井さんの実のお父様のお力添えがあれば、私どもは事業を続けられる、などと身勝手なことを思っておりました。ところが、先ほど、石井さんの実のお父様から直接お電話をいただきまして、こういう無理をするとは思わなかった。当然、結婚など認めない、というご連絡をいただきました。大変な剣幕でございました。すべては、私どもが間違っておりました」
「パパ」
「すでに、ご存知かと思いますが、私は明日、警察の取り調べを受け、そのまま身柄を持っていかれると思います。ついては、身柄を持っていかれる前に、石井さんに、どうしてもお詫びをしなければならないと思い、突然、馳せ参じました。このたびは、そして、これまで、大変、申し訳ありませんでした」
 そう言うと、みわちゃんのお父さん、それにお母さんは、深々と頭を下げた。みわちゃんは、どうしていいかわからないという困惑の表情を浮かべていた。
「つきましては、これまでのご厚情はありがたいのですが、私どもといたしましては、娘を引き取って、一からやり直したいと思います」
「パパ」
 みわちゃんがお父さんを哀願するような目で見つめた。
「これで、娘を連れて帰ります。今日まで、ありがとうございました。そして、だますような形になってしまい、本当に、本当に、申し訳ありませんでした」
 そう言うと、みわちゃんはまた、幼子のように号泣した。
 しかし、みわちゃんのお父さんは、それを無視するかのように、淡々と、みわちゃんを諭した。
「みわ、石井さんにこれ以上お世話になるのは、できない。もう失礼だ。帰るぞ。」
「パパア、パパア」
 みわちゃんは、玄関先に座り込んだまま、号泣を続けた。その涙は、一敗地にまみれた涙だった。

 それから少しして、みわちゃんは涙を流しながら最低限の身支度をした。別れ際、靴を履いたみわちゃんはこんなことを言った。
「あたし、負けた。」
「負けた?」
「うん、きっと、田中先生に、負けた。」
僕は即座に言った。
「違うよ」
「じゃ、何?」
「みわちゃんは、自分に負けたんだよ。自分の欲とかに、ね。」
 かなり冷たい一言だった。ストレートな一言だった。
 しかし、これだけ自分のことばかり考えて加熱するみわちゃんには、それくらいの冷たいストレートな対応をしないと、みわちゃんは永遠にダメになってしまう。ずっと自分の事しか目の行かない人になってしまう。そう思った僕は、あえてそう言った。
 それに対し、みわちゃんは、何も答えなかった。それはそうだろう。だってみわちゃんはまだ、わかっていないのだから。 
 でも、わかっていなくても、言わなければならないことはある。それに、きょう役に立たなくても、あす、あさって、いや、一年後、五年後、十年後に、ようやく役に立つようなことを言ってあげないと、人間は必ずダメになる。人生は学校のドリルとは違い、今日勉強したから、明日百点がとれるなどという即効性のあるものばかりではない。むしろ即効性のないものがほとんどだ。でも、今の世の中、とりわけ、みわちゃんのような人は、即効性、つまり、自分の欲をすぐに確実に満たしてくれるものばかり捜す。だからうまくいかないのだ、と僕は思う。
 僕のこの一言が、いつか、みわちゃんの役に立ちますように。
 僕はそう願い、みわちゃんと、みわちゃんの両親が乗ったタクシーを見送った。
 ふと振り返ると、タクシーから少し離れたところには、視線の鋭い男たちが何人もいた。後でよく考えたら、私服の捜査員だった。タクシーがいなくなると、その男たちは紺色の車に乗り込み、タクシーを少し後から追いかけていった

 翌日。新聞各紙は社会面で「山河建物社長 きょう事情聴取」「強制捜査へ」の見出しを打った。昼過ぎには、ニュース速報で「山河建物本社などを一斉に家宅捜索 粉飾決算の疑いで」という一報が流れた。そして夕方には「山河建物社長ら 逮捕」というニュース速報が、流れた。
 坂の上テレビの受付に、みわちゃんの姿はなかった。数日後にわかったのだが、一身上の都合で突然退職届が出た、という。
 そして、僕のところには引っ越し屋から電話があった。みわちゃんからの発注、ということで、指定されたものを引き取りたいという。僕は指定に従い、ダンボールにみわちゃんの服や化粧品を二日かけて詰め、引っ越し屋に引き渡した。ダンボールは二十箱にもなった。
 僕はよほど、社長や副社長、つまり実の父や兄を訪ねていこうかと思った。でも、やめた。今行ったら、単に迷惑のような気がしたからだ。それにいつか、時期が来たら、会えるのだろう。あわてる必要はないし、会うべき時期というのが、きっと来るはずだ。僕と佳子さんのように。
 なお、人づてに聞いたところ、社長の奥さん、つまり、僕の実の母親は、十数年前に亡くなったと言う。さらに人づてに、社長の家の墓所はどこか尋ねた。墓所は案外簡単にわかった。海の近くの、潮風の薫る町の高台にあるという。今度の彼岸には、そっと墓参りに行きたい。 

 再び、僕は腑抜けの日々を送ることになってしまった。
 ただ、佳子さんには一言お礼がしたいと思い、着信履歴をたどって電話をかけた。
「もしもし」
「はい。もしもし」
「あの、石井です」
「あら、ワンコちゃん」
 峠の上でもないのに、ワンコちゃんと呼ばれた。
「あの、今回は本当にお世話になりました。ありがとうございました」
「ううん、大変だったね」
「いえ、僕は全然ですけど、みわちゃんは、ずいぶん大変だったと思います。お父さんも捕まってしまったし」
「あら、あんなにだまされていたのに、ワンコちゃん、ずいぶんやさしいのね」
「いえ、だって、だまされていたのは僕にも原因があって、ちゃんとみわちゃんの話を聞かずにめんどくさいって思って、日々過ごしていたからだと思います」
「そう?」
「はい。僕、大人になってから、めんどくさいことを避けてきたんです。それを今回、思い知りました」
「そうそう。面倒くさいのを避けても、結局はもっと面倒なことになるからね。今回は本当におつかれさま」
「はい。ありがとうございました。お世話になりました。失礼しました…」
 僕がそう言って電話を切ろうした。
 すると、佳子さんが遮った。
「ちょっと、待って」
「…何ですか?」
 僕が少しいぶかしげな返事をすると、佳子さんは、一息ついてから、言った。
「おつかれさま会、しようよ」
「おつかれさま会、ですか?」
「そう。ワンコちゃんに、会いたいし」
 ええっ、また会ってくれるんですか。僕はうれしかった。
「じゃあ、また峠の上に来てくれないかな。おもてなしするから」
「え、いいんですか!ありがとうございます!」
「えへ、喜んでるね。子供だねえ」
 ずいぶん前に言われたような台詞をまた言われたが、僕はまったくかまわなかった。また、佳子さんに会える。それだけでうれしかった。そして、日時を約束した。僕が泊まりが当たっている日の翌日。たまたま佳子さんもダンスの教室が休みだという。
「うん、この日だったらお日柄もいいわ」
 お日柄?何のことだろうと思ったが、佳子さんは立て続けに言った。
「天気もよさそうだから、楽しみね」
 ああ、お日柄って天気のことか。僕はそれくらいの受け止めだった。でも天気のことだったら、予報士の僕に言わせてください、とも思った。何はともあれ、また佳子さんに会える。僕はその日を、楽しみに待った。

 その日の待ち合わせは、新宿駅にした。ここ最近で、三回目の箱根の往路。三回のうち、一番気が楽で、楽しみな往路だ。佳子さんは定刻に、うすい桜色のワンピースで現われた。
「あ、あの、きれいですね」
「うふ、ありがと」
 僕たちは、白いロマンスカーに乗り込んだ。一回目の往路と違い、今度は最初から二人並んで座る、ロマンスシートだ。ロマンスカー
でロマンスが実現して、うれしい。僕は顔が自然にほころんだ。
「あら、ワンコちゃん、何がうれしいの?」
「あの、ロマンスカーでロマンスだから、です!」
「あ、一回目の箱根に行くときに言ったこと、覚えててくれたんだ!」
「はい。すごく昭和な感じで」
「そうそう、昭和二十年代にあった映画のロマンスシートがロマンスカーのモチーフなんだよね」
 やっぱり佳子さんは、ロマンスカーの名前の由来を知っていた。さすが鉄道好きだ。知っているかもと思っていたことが当たると、やはりうれしい。佳子さんと僕だけの世界が、展開されているようだった。
 ロマンスカーは、ミュージックホーンを鳴らして、軽快に新宿を出発した。
「今回は、ほんとにおつかれさま」
 佳子さんは、さっそくねぎらいの言葉をかけてくれた。
「あ、ありがとうございます。佳子さんにもほんとにいろいろお世話になって」
「大変だったでしょ」
「はい。でも、みわちゃんのお父さんお母さんがお詫びに来て、びっくりしました」
「ふふ。まあ、ああでもしないと、みわちゃん、強情だから決着しなかったかもね」
 あれ、佳子さん、みわちゃんのご両親がうちに来たことを知っているみたいだ。
「あれ、なんでみわちゃんのご両親が来たこと、知ってるんですか」
「あの日ね、あのままにしておいたら危ないと思って、大王子観光の首脳陣から、坂の上テレビの社長室に連絡してもらって、こんなこと起きてて、養子に出した息子さんが大変ですよ、社長の財産も狙われていますよ、このままだと修羅場になるから、社長からみわちゃんのご両親にすぐに連絡して、みわちゃんをすぐに引き剥がさないと、坂の上に累が及びますよって、言ってもらったの」
「ええ、佳子さん、そんなことまでしてくれたんですか」
「うん。問題解決は最後までしないと、ねっ!」
 また出たよ、この手の台詞!
 しかし、僕は佳子さんにはこれだけの決め台詞を言う資格が、十分にあると思った。どこまでやらないと解決しないのか。どんな影響があるのか。そして、それを誰にどういったら一番効果があるのか。それを見定めた上で、手を打つ。大王子観光の娘らしい、力量の高さをまざまざと見た。
 人間の力にはいろいろあるが、中でも「問題を解決する力」というのは、どんな時代にあっても必要なものだ。今はネット全盛で、何か困ったことがあるとすぐにネットを見てしまうが、今回のような問題の解決方法は、ネットを検索してパッと出てくるものではない。知恵とか、知識とか、蓄積とか、思考とか。いろいろな人間的なものを重ね合わせて、解決しなければならない問題は今の時代にもいっぱいある。それを鮮やかに解決する佳子さんに、また新たなまぶしさを覚えた。
「でも、なんでこんなに苦しいことが起きるのか、いまだに釈然としません」
「そうねえ」
 佳子さんは、窓側の席で、頬づえをつきながら答えた。
「ネットがものすごく発達しちゃって、人と人、モノとモノ、いろいろな組み合わせが、簡単に、たくさんできる時代になっちゃったのよね。コラボっていう言い方もあるけれど、もうすでにコラボだらけよね。こういう世の中って、便利で、一見つながりがあるように見えるけど、本当につながっているかどうかは、実は心が決めるものなのよね」
「うーん、確かにそうですよね」
「物理的なつながりが精神的なつながりとは限らないし、むしろ、つながっていないことがすごい多いと思うの。皮肉な状態よね。まるで早稲田の現代文の入試みたい」
 また、皮肉と現代文の話になった。
「もちろん、組み合わせがたくさんできるようになったおかげで、女性と女性、男性と男性も組みやすくなったのよね。垣根が低くなったのよね。夫婦を超えてゆけ、なんて歌も去年出てきたじゃない。それはそれでよくって、好きな者同士はそれでいいのよ。だって正しい変態であるうちは、他人に迷惑をかけていないからね」
「あ、正しい変態、出ましたね」
「うん。あたしも、正しい変態でありたいな。あたしは、男女で、ねっ」
 佳子さんまたうれしいことを言ってくれる。男女の男って、誰ですかあ。僕が質問しようとすると、佳子さんがまた機先を制した。
「あと、組み合わせはたくさんできるけど、やっぱり大事なのは、縁ね。全部の組み合わせなんて、とても体験できないし、する必要もないけど、でも、何度も出会ったり、すごく印象深く出会ったりする組み合わせってやっぱりあるでしょ。それって、神様がそれを勧めてくれているわけだから、そういう縁は大事にしないといけないなって思うなあ」
「僕、それ、今回の件でほんとに思いました。縁って大事なんだって」
「そう?」
「はい。佳子さんもそうですし、『涙をこえて』もそうです。僕は、二十代三十代のうちはまったくこんなことに気づかなかったんですけど、四十代になって、縁の不思議さや、人間の出会いの奥深さとか、あと歌のもつ力に圧倒されました。これって、スマホばかりの世界にはない世界なんですよね。スマホにつながりはあるけど、縁まではないと思うんです。僕は今まで、こういう大事な縁とか思い出とかを無視して生きてきたような気がします。世の中は、地層のような積み重ねなんですよね。スマホは確かにその一番上の目立つ層で存在感を発揮しているけど、それより下にある、縁や思い出が、まさに縁の下の力持ちとなって、今の自分や世の中を支えてくれている。ずっと黙りながら。そんな構造に、僕は今回始めて気づきました」
「そうね。縁、大事ね」
 すると、車内販売が近づいてきた。販売員の女性がワゴンを押していた。
「すみません、オレンジジュース二つ」
あ、また佳子さんがオレンジジュースを頼んでくれた。
「せっかくのご縁ですので、石井さんの分も注文させていただきました」
 一回目の往路と、同じ台詞を言ってくれた。このご縁、いいご縁ですか。僕はよほど聞きたくなった。
 しかし、佳子さんは、全く別の話題に切り換えた。
「ワンコちゃん、実はね」
「はい」
 佳子さんは、オレンジジュースをおもむろにテーブルに置いた後、ちらりと僕を見て、言った。
「あたしも、養子なんだ」
 え、初めて聞きました。これ、重要な話ですよね。なぜ今?僕がそう思うと、佳子さんは続きを話した。
「大王子観光の社長のところにも、ずっと子供ができなくて、世継ぎがいなかったのよね。それで、あたしは社長の弟の家で生まれたんだけど、小さいときに、社長の家に養子に出されたの」
「そうだったんですか」
 僕はそう言ってから、気づいた。
「そしたら、あの、じじ、おじさんが、佳子さんの本当のお父さんなんですか?」
「そう。実はね。でもね、あたしもワンコちゃんと同じように赤ちゃんのころにもらわれていったから、あたしは知らないことになっているの。いまだにね。でも、あたしはパパとの間に何か違和感を感じてて、それで、大人になってから雑誌の仕事で役所に行ったときに戸籍謄本を見て、事実を知ったのよね。今だったら、妊娠しましたとかみんなツイッターとかで発信できるからこんなことできないけど、昔は妊娠とか出産とかの情報ってそんなに出回らなかったから、あまり知られることもなく、できたみたいなのよね」
 そうか、それでじじは佳子さんに早く結婚しろとか言うわけか。 「でも、じじが本当のお父さんだって、知ってて言えないのって、つらくないですか」
「そりゃ、つらいわよ。でも、それを言っても仕方ないの。そういう設定で生きているんだもん」
 設定。僕は、佳子さんの人に言えない寂しさを、初めて知った。
「そうだったんですか」
「そう。しかも、私が養子に来てしばらくして社長の家に男の子が続けて生まれてね。あたしは疎まれたの。大王子観光は、弟たちの誰かが継ぐって決まったのよね。でも、弟たちが大人になってからは大王子観光を継ぐのがいやだって言ったから話はややこしくなって、結局あたしが継がないか、みたいな話になったのね。でも、何をいまさらって感じだから、今も断ってるのよ」
それもまたつらい話だ。養子に来たとたんに、実子ができて、疎まれて。でも、実子が継がないとわかったら、継いでくれと言われ、断る。 佳子さんの人生は、この若くかわいらしい顔とは裏腹に、とんでもない運命を背負っている、と感じた。
と同時に、もうひとつ、気づいたことがあった。
「あの、佳子さん」
「なあに」
「あの、ひょっとして、佳子さんは、自分も養子でつらい思いをしたから、今回、養子の僕のことを守ろうとしてくれたんですか」
「うん、それはね。そうなの。それは、すごくある」
「そうだったんですか」
「うん。これも縁ね。同じ境遇にいるワンコちゃんを、助けたいって思ったのよね」
 そして、佳子さんは、なつかしい一言を言った。
「私がなんとかしてあげるからって、思ったの」
 僕が代々木の予備校で、早稲田を目指していたときに、佳子さんがかけてくれた言葉と、全く同じ言葉だった。
 その言葉を、二十年以上たって、また言ってもらえた。しかも、違う状況で。まさに、これが縁だと思う。僕は、佳子さんに、心から感謝していた。

 オレンジジュースを飲み終え、一息つくと、ロマンスカーは相模大橋のあたりを通過していた。前回、寒々としていた桜の木は、ほんの少し、色づき始めていた。それは、孤独だった僕の心が色づくのに似ているような気がした。
 第一回の芥川賞を受賞した石川達三の「私ひとりの私」の中に、「私を知っているのは私だけで、人間は他人から完全に理解されるということはありえない」というようなくだりがあった。
 確かに、完全に理解されることはないだろうし、理解してくれたところで、孤独が消えるわけでもない。でも、それは仕方のないことで、理解したり共有したりできる、縁がある人と一緒にいるのがよりましなのではないか。僕はそんなふうに思い始めていた。

 ロマンスカーは、無事に箱根湯本に到着した。一回目の往路と同じように、僕は行き先を確かめて、バスに間違いなく乗った。
「ガイドさんがいると、助かります」
「いえいえ」
 これも前回と同じやりとりだ。でも、前回と同じだけど、前回とちょっと違って、僕を小バカにするのではなく、本当に頼っているような言い方だったので、僕はちょっと自分が成長したような気がした。四十にもなって成長するのも変な話だが、僕は足りていない人間なので、仕方ない。
 バスはほどなくして出発した。しばらく進むと、また、車窓から硫黄の香りが漂ってきた。硫黄の香りに「おかえり」と言ってもらえたような気がした。そして僕は、少し鼻をひくつかせると、隣の席に座っている佳子さんから漂うあの香りも、感じることができた。この香りが、僕の昔からの楽しみだ。
 でも、もうひとつの上の香りを、僕は知ってしまった。佳子さんが宿の洗面所で具合が悪くなり、支えたときに感じた、あの香りだ。その香りにも、また会えるかな。僕は少し期待していた。どうせ、緊張するくせに。
 すると、佳子さんは、にやついた僕の顔を見逃さずに、言った。
「こらっ、変なこと考えちゃいけないんだよ」
 また怒られた。どうして佳子さんは僕の考えていることをわかるのだろう。僕はやっぱり佳子さんの掌の上に乗る狛犬なんだな。そう思っていると、佳子さんはぽつりと小さな声で、追加の一言を言った。
「ここでは、ね。」
 ん?ここでは、ね?じゃあ、どこだったらいいんですか!
 僕はまたドキドキしていた。すると佳子さんは、僕の気持ちをはぐらかすかのように、また違う話を始めた。
「あたしたち、二十三年ぶりに再会したんだよね」
「はい。そうです」
「長かったのかなあ、短かったのかなあ」
「僕は長かったと思いますけど」
「そうかな。そりゃあ、これから二十三年っていうと、すごく長いような気がするけど、過ぎた二十三年っていうのは案外あっという間のような気がするのよね」
「そうか、そうですね」
「あと、二十三年ってまだまだ甘いのよ。織井茂子さんとか、高橋真梨子さんとかは、紅白歌合戦に返り咲くまで、二十九年かかったんだからね」
 織井さんは、NHKのラジオドラマ「君の名は」の主題歌のレコードを出した女性だ。なかなかめぐり合えない恋仲の男女のストーリーが空前の人気を博した。
「ああ、そういえば、あみんは二十五年ぶりの紅白返り咲きでしたね」
「そうそう。返り咲く前も後も、歌った歌は?」
 二人で同時に言った。
「待つわー」
 あまりにも細かい知識から生まれるユニゾンを、しかもバスの中でしてしまう、アラフォー男女。まったく世の中の大勢に影響はない。これぞまさに正しい変態だと思う。誰にも迷惑をかけていないし、本人たちは楽しいのだから、それが一番幸せだろう。僕は、言い知れぬ幸せを感じていた。
 バスは今日も、ぐいぐいと急な山道を登り、やがて僕たちはバスを降りた。一回目の往路ほどではなかったが、風はまだ冷たかった。道路の端にある温度を示す電光掲示板には「0℃」と表示されていた。「氷点下じゃないだけ、まだましよね」
 佳子さんは、強く冷たい風に黒髪をなびかせながら、僕に話しかけた。
「いえ、氷点下ですよ」
「え、だって〇度じゃない」
「〇度は、氷点下なんですよ、実は」
「え、そうなの?」
「そうです。氷点って、氷が水になる温度ですけど、〇.〇〇二五
一九度なんです。だから、〇度は氷点よりわずかに下で、氷の温度なんです」
「そうなんだ、知らなかった!」
「実は僕も、予報士になってからこのことを知って、びっくりしました。大人になっても学ぶことって、多いですよね」
「ほんとに。また、ワンコちゃんから、教わっちゃった!」
 そんなに大した話ではないのに、佳子さんは、うれしそうだった。佳子さんを見ていると、人間はつくづく、新たな発見とか、新しい見方ができることが大事なんだなと、僕は思った。   
 やがてホテルのガラス張りの玄関が見えた。そろいの半纏を着た、ホテルの従業員が男性五人、女性五人。ずらりと十人。玄関の前に並んでいる。一回目の往路と、まったく同じだ。そして、僕たちに気づくと「おつかれさまでございますーっ」と声を合わせた。これも同じだ。すかさず、佳子さんが僕に耳打ちする。
「じゃ、ここからワンコちゃんは、彼氏ね」
「うん」
 宿での彼氏役も、なんだか慣れてきたような気がする。玄関を入ると、じじが待っていた。
「おう、よく来たの」
「おじさま、またお世話になります」
 おじさま、と言いつつ、実の父親なんだ。僕はそのことを知ってしまった。佳子さんは健気におじさまと言っている。なんだか切ない。それにじじは、佳子さんが真実を知っていることを知っているのか、知らないのか。目の前にいる真の親子のやりとりを聞きながら、思った。
 佳子さんと僕は、また、ホテルの一番てっぺんの展望室に通された。ホテルの人たちが丁寧に、お茶だ、お菓子だと出してくれて、ひとしきり挨拶が済むまで、やはり今回も三十分くらいかかった。しかし、前回この部屋に来たときと違ったのはその間、僕はかなりゆったりとした心持ちでいられた。心細い足軽ではなくなっていた。いろいろ、全体像が見えたからだろう。
 さて、まずは硫黄泉か。僕がそう思っていたが、佳子さんは意外なことを言った。
「温泉は、あとね。きょうはまず食事から」
 あれ、温泉ではないんですか。でもまあ、人の家に来ているわけだから、佳子さんの言うとおりにしないと、申し訳ない。
 そこで僕は食事に向かう支度をして、鍵と財布とスマホを持った。
 一方、佳子さんは、何も持たない。あれ、先日は名刺入れのような何かのケースだけ持っていたけど、それもないのか。僕は念のため、聞いた。
「佳子さん、何も持っていかなくて、いいの?」
「うん、もう、いいの」
 僕には何が「もう」なのか、わからなかったけれど、佳子さんがいいと言ったので、それ以上は気にしなかった。前回と同じように、薄暗い廊下を歩き、スリッパをパタパタさせて広間に近づくと、まるで自動ドアであるかのように、広間の入り口のふすまが勢いよく開いた。
 中に入ると、三十畳ほどのだだっ広い広間にお膳が三つだけ、並べられていた。これも前回と同じだった。ほどなくして、じじが入ってきた。
「おう、待たせたな」
「いえ、今来たばかりです」
「どうじゃ、仲良くしとるか?」
 じじはまた、直球を投げてきた。恒例だ。すかさず、佳子さんが返した。
「はい。仲良くさせて、いただきます」
 前回と同じような答えをして、話は終わった。
 いや、あれ?「いただきます」ってなんだ?「いただいています」だったらわかるけど、なんで未来形?僕は少し気になったが、じじが返事をする前に、すぐに食事が運ばれてきた。それを見て、少し驚いた。山芋料理ばかりだっだ。オクラ入りのとろろ汁、山芋のたたきの磯辺和え、水菜と納豆と山芋のサラダ、山芋の豆乳シチュー、山芋のそぼろ煮。そして大きなどんぶりに並々と山芋がすられていた。
「きょうは箱根名物・山芋フェアじゃからな、存分に食べてな」
 こういう、ひとつの食材にこだわった夕食も出しているのか。僕は遠慮なくいただいた。佳子さんももりもり食べていた。
 ひとしきり食べた後、じじは、少し酒を口に含ませてから、口を開いた。
「そういえば、石井君は、気象予報士じゃが、大学では、何を勉強していた?」
「あの、法律です」
「法律?すると法学部か」
「はい」
「法学部を出て、気象予報士になるとは珍しいのう」
「あの、それほど珍しいわけではないですが、少ない、ですね」
「どうして文系を出て、予報士になろうと思ったんじゃ?」
「分野が違うことをやってみたかったから、です」
「分野が、違うこと?」
「はい。法学部を出て、弁護士になったり、検事になったり、金融の仕事で法律の知識を生かしたりするっていうのもあると思うんですけど、全然違う分野で、法律の勉強で得たものを生かせないかって考えたんです」
「具体的に、何か役に立ったことは、あるか?」
「はい。気象の世界は、気象業務法とか災害対策基本法とか、案外法律が多いですし、あと、予報をテレビで一般の人に伝えるには、わかりやすく、伝えないといけないんですけど、そのときに、法律を一般の人に順序だてて説明するやり方が役に立っています」
「なるほどな。異世界で、自分の分野を生かしておるわけだな」
「いえ、まだ道半ばです」
「そんなことはないぞ。石井君は立派にいろいろ話せておる。佳っちゃんは、ほんとにいい男を見つけてきおったなあ」
 佳子さんがとろろ汁をすすりながら言った。
「いいでしょう」
「うむ。佳っちゃんは、異世界だからな。よろしく頼むよ」
 佳子さんが、異世界。確かに、一般の人とは違う、たぐいまれな頭の良さをしていると思う。記憶力も抜群だし。この異世界を頼むと言われ、僕は少し身震いした。
「いえ、でも、僕には身に余る役で」
「身に余るところを詰めていくから力がつくのよ。石井君、しっかり頼むぞ。じゃな」
 じじはそう言うと、少し足元をふらつかせながら、あっという間に広間を後にした。
「じじ、ずいぶん早くいなくなっちゃったね」
「たぶん、気を遣ってくれたのよ」
「そっか、ありがたいね」
「そうね」
 気がつくと、佳子さんも食べ終わったようだった。

 僕たちは、部屋に戻った。十五畳の部屋の中には、前回と同様に、布団が仲良くくっつけて二つ並べられていた。僕は、今回は何も言わなかった。佳子さんも、何も言わない。
「じゃあ、温泉行こうか」
 佳子さんは、いつものように甘く、しかし、少し高めの声でそう言った。本当にわずかに、高かった。ひょっとして、佳子さんが緊張しているのか?僕はちょっと意外な展開に驚いた。
 でも、佳子さんに「緊張してるよね」というのはなんだかためらわれたので、僕はあえてそこには触れず、「うん」とだけ言った。
 そして僕はいそいそと支度をし、佳子さんと一階にある温泉に向かった。
「何時に、どこ集合?」
「ゆっくりでいいよ。僕の方が、早く上がって、待ってるから佳子「ありがと」
「じゃ」
 僕はそう言って、脱衣場に入った。
 内湯から、露天に抜けると、そこはもう漆黒の世界だった。いつの間にか、とっぷりと日は暮れている。この露天からは、近くの山々しか見ることができないため、日が暮れると、何の目印もない。明かりもない。ただただ、闇が広がっている。 
 闇というのは不思議なもので、奥行きがなくなったような錯覚がする。本当は何キロか先までの風景が広がっているはずだけど、闇の中には、それらの風景はすべて黒く溶け込んでしまい、まるで壁が近くにあるかのような感じさえする。山道を登るときは聞こえていた、はるか離れた自衛隊の演習場か らの爆音も、もう聞こえなくなっていた。闇と無音が支配するぽつねんとした空間に、ぽっこりと空いた、露天のほんのりとした明かりは、体だけでなく、心もほっこりと癒すものだった。

 闇と無音。最近、心の中に広がる闇と無音が人々を蝕んでいるような気がする。
 もちろん、世の中の見た目は明るい。スマホは、真夜中でも僕らの顔を明るく照らし出してくれている。ポータブルオーディオを使えば、いつでも好きな音のある世界に入っていける。
 しかし、心の中には逆に闇や無音が広がり、いい知れぬ不安がはびこっていないか。それは言うまでもなく、人の縁がかなり失われ、人々の心が、それぞれ孤立するようになったからではないかと思う。
 その孤立した世界に何とか生きようとしたのが、みわちゃんではないか。みわちゃんは、核心部分をズラして僕と付き合うことにより、財産という、目に見える安心感を手に入れようとしたのだろう。
 しかし、それは人間としてあざとかった。事情を話してくれれば、まだ何か余地はあったのかもしれない。しかし、佳子さんが手を出すまで、みわちゃんは核心をズラし続けてきた。きっと、めんどくさかったのだろう。
 もちろん、僕はみわちゃんを断罪できる立場にはない。僕も、核心がズレた状態を放置していた責任がある。それに、僕もめんどくさいと思って、みわちゃんの話を聞かず、みわちゃんとの縁が深まるような工夫もしなかった。僕も、罪は似たようなもので、たまたま断罪されなかっただけだと思う。僕は、たまたま運がよかったのに過ぎない。
 それにみわちゃんは、若くして離婚を経験し、きっと重荷や引け目、そして焦りというものがあったのだろう。焦燥した人間は、誰かが声をかけてやらないと、軌道修正がなかなかできない。
 昔だったら、変な様子の人を見たら誰かが声をかけていたのだろうが、今は個人的な話を聞こうとして声をかけると、ハラスメントと言われる場合があるから、みんなリスクをとらずに声をかけないままでいることが多い。それに、友達同士も顔を合わせるよりスマホを通じて会話している方が気楽なので、深刻な話をする機会は昔より少なくなっていると思う。
 みわちゃんも、誰かに諭してもらったことは、きっとないのだろう。その結果、坂の上に見つけた都合のよい財産という雲をめざして、突進していったのではないか。
 もちろん、それは昭和四十年代に発表された名作「坂の上の雲」のように、純粋な前向きな気持ちで上る有意義な坂ではなく、自分のことだけをひたすら守ろうとして上る、やましい坂だ。坂の上の雲がつかめないのを知らずに上っている、という点では同じだが、
 双方の心持ちの差は激しい。ある意味、みわちゃんは時代の犠牲者なのかもしれない。
 時代かあ。そういえば「坂の上の雲」は明治時代を描いた作品だ。明治時代は、初め前向きな世の中が広がっていたが、戦争や世界の動乱に巻き込まれて、やがて世の中は変質した。次の大正時代は、労働争議が激しくなったり、スラムが増えたり、米騒動が起きたりと、矛盾を抱える状況へとなっていった。そして、関東大震災が起きた。
 よく考えたら、矛盾や災害に苛まれる世の中という意味では、大正と平成は似ているのかもしれない。
 一方で、大正は、今も続く箱根駅伝や高校野球、東京六大学野球が始まったり、洋食が普及したり、一般向けの文学や映画が生まれるようになったり、ファッションを楽しめる世の中になった、という。暗いところもあれば、明るいところもある。それは、僕の目の前にある闇の中に、ぽっこりと存在する露天風呂のようなものだ。
 みわちゃんをはじめ、苦しんでいるそれぞれの人が、暗闇の中で、自分の明るい露天風呂のようなものを探せれば、もっと世の中は、希望があふれるのではないか。
 暗闇の中にも、必ず希望がある。それを、もっと多くの人に伝えていかないと、いけないな。僕はそんなことを思っていた。

「ワンコ、ちゃーんっ」
 あ、僕の希望さんだ。
「そろそろ、上がるよーっ」
 大きな壁を隔てた女湯から、ノボせたのか、少し上ずったような声が聞こえた。僕もすかさず答える。
「はあい。ワン!」
 気のせいか、僕の声も少し上ずった。いろいろなことを考えて、だいぶ長い時間硫黄泉に浸かっていたから、僕もノボせたのかもしれない。
 僕がいそいそと硫黄泉から上がると、半纏を身にまとった、初老の男性が露天に入ってきた。湯守さんだった。
「あ、先日はどうもありがとうございました」
 僕は、先日車で箱根湯本まで送ってくれた湯守さんに、礼を言った。
「いえ、とんでもございません。お湯加減は、いかがでしたか」
「ちょうどよかったです。ありがとうございました」
「それは、何よりでございます」
 そして僕は湯守さんに会釈をしてすれ違い、露天から立ち去ろうとした。
「あの」
 湯守さんが僕を呼び止めた。
「何ですか?」
「今後どうぞ、よろしくお願いいたします」
 何がよろしくなのか、僕にはすぐにわからなかったが、たぶん、彼氏のふりをしているから今後も来てくださいね、という意味なのだと捉えた。
「いえ、こちらこそ。よろしくお願いいたします」
 僕はまた会釈をした。
「これから、ですぞ」
 湯守さんは、念押しをするように、一言言った。
「…はい」
 なぜこう言われるのかよくわからなかったが、僕は短く答えて、露天を去った。

 浴衣を身にまとって、脱衣場を出た。すると、意外なことに、ほぼ同じタイミングで、佳子さんも女湯の脱衣場から飛び出してきた。この前に比べて、上がってくるのがずいぶん早い。
「おっ」
「あら」
「同じタイミングだったね」
「うん」
 そこで、僕らの間に少し間が生じた。
 次に何を言ったらいいのか、ノボせていたせいなのか、すぐに言葉が出てこなかった。突っ込みの早い佳子さんも、なぜか何も言わなかった。
「行こうか」
「うん」

 僕らは部屋へと向かった。しかし、この平凡な一言が、かえって僕と佳子さんの間に言い知れぬ緊張感をもたらした。なんでまた、緊張してきたのだろう。 
 その理由は、歩いているうちにわかった。僕が緊張しているというより、佳子さんが緊張しているからだ。佳子さんは普通、あごを上げずに話をするが、このときの佳子さんは完全にあごが上がっていた。長い廊下に、二人のパタパタという乾いたスリッパの音だけが響く。
 そして部屋に着いた。僕は鍵を開けようとした。しかし、うまく開かない。僕も、なぜか焦っていた。ガチャガチャ繰り返していると、「貸して」と言って、佳子さんが手を伸ばしてきた。
 佳子さんの右手が、僕の右手に、触れた。
「ひやっ」
 冷たくないのに、なぜかひやっとした、不思議な感覚がした。まるで、何かに飲み込まれるような感覚だった。体中に、震えるように電流が走った。
 佳子さんが鍵を開けると、僕たちは布団を挟んで少し離れた場所で背中合わせになり、無言で服を片付けた。

 片付け終わると、背中合わせのまま、僕はつぶやいた。
「寝ようか」
「…うん」
 佳子さんは、短く返事をした。その返事を受けて僕は、部屋の電気をふっと消した。
 非常灯のような行灯のほのかな明かりを残して、部屋はほぼ闇となった。僕と佳子さんは、大そうな掛け布団の中に、潜り込んだ。
「ねえ」
「うん」
 佳子さんは枕の上に頭を載せ、僕の方を向いた。僕も枕の上に頭を載せ、佳子さんの方を向いた。僕らの間の距離は、二十センチ足らずだったと思う。再会するまでにかかった年の数よりは小さくなったが、それでも、初めてこの部屋に泊まったときと同じくらいの距離にとどまっていた。この距離は、今夜さらに縮まるのか。僕は一瞬そう思ったが、別に今夜でなくてもいい、とすぐに思った。
 僕の希望は今夜かもしれないが、佳子さんの希望は今夜でないかもしれないからだ。相手のことを考えないと、どのみち、ズレていってしまう。僕はそう思ったので、佳子さんともう少し話をしたいと思った。
「佳子さん」
「なあに」
「僕、佳子さんにまた会えて、本当によかった」
「あたしも」
「もし、佳子さんに会えてなかったら、僕はダメだったと思う」
「そう?」
「うん。だって、人が生きていく上で大事な、縁とか思い出とかを
 佳子さんが気づかせてくれたから」
「そんな、あたしは大したことしてないわ」
「そんなことないよ。本当にありかどう」
「ふふ。でも、ワンコちゃん、よくあたしについてこれたよね」
「よく?」
「そう。だって『問題文は最後まで読まないと、ねっ』みたいなこ
とを何度も言われたら、普通はプライドズタズタなんじゃない?」
「うん。でも、僕のプライドなんて、佳子さんの前では大したことないから」
「まあ」
「こんなに一緒にいられて、うれしい」
 僕がそう言うと、佳子さんは黙った。
 あれ、何か変なこと言ったかな、と思っていたら、佳子さんは少し考えたような間の後に、急にきりりと口を開いた。
「じゃ、次の問題です」
「え、次の問題?」
「そう」
「あの、まだ問題があるの?」
「まだ、あるのよ」
「僕、佳子さんっていう問題文、ずいぶん長すぎるよ!難しすぎるよ!どこまで奥が深いんだよ!と思ってたんだけど、まだなの?」
「まだよ」
 僕は少しがっかりした。いったいいつになったら、佳子さんに手が届くのだろう。でも、がっかりしても先に進まないので、僕は前を向くことにした。
「じゃあ、問題出して」
「はい、じゃあ行くね」
 そう言うと、佳子さんは頭を少しだけ遠ざけた。
「今の時代、恋愛なんて、面倒くさいだけだという人もいますが、どうして人は人を好きになった方がいいのでしょう、か。」
 本当に問題文なんですね、と僕は感心してしまったが、なかなか難しい問題だ。でも、この問題に答えないと、僕の人生も先には全く進まないと、僕は思った。僕は、ありったけの思いを込めて、話すことにした。
「人間は、長く生きていると、どんどん過去が増えていきます。その分、未来が少なくなるんです。だから、過去を共有できた方が、楽しくていいんじゃないかと思います。一緒に過去を共有できる相手がいるかいないかで、人生って大きく変わってくると思うんです。それに、過去の教訓から、未来につながることがたくさんあります。だって、歴史は結構な部分が繰り返しなわけですから。今回、僕が気づいた縁の大切さも、きっと歴史の繰り返しの中で指摘されてきたことだと思います。だから、佳子さんの過去と僕の過去をつないで、ともに未来に進めれば、時には涙をするけれど、でも、きっと乗り越えられると思います」
 僕としては、結構いい答案を書いたつもりだった。
 しかし、佳子さんの採点は、厳しかった。
「それだけ?」
 え、これだけだとダメなのか。じゃあ、もうひとつ。
「いえ、まだあります。一人で感じる幸せって、僕は限界があると思うんです。楽しさは安定的だけど、楽しさの最高記録って、たぶん更新されることはないんですよね。それはたぶん、自分だけの好みのパターンの中にとどまっているからです。それが、二人でいると、自分だけの好みのパターンでは絶対出会えなかった、新たな楽しいパターンに出会えたりすると思うんです。もちろんそれでも一人の方が楽しいという人もいるかもしれませんが、二人を経験してみてから判断した方が、より選択肢が広がるのではないかと思います」
 さあ、どうだ。
「それだけ?」
 ええ、これでもダメなのか。僕は食い下がった。
「いえ、まだあります。愛は将来の保障がない、という点では、今の社会不安と同じみたいに見えますが、でも、愛って過去に裏打ちされ、それが将来にも利益をもたらすという点で社会不安とちょっと違う、プラスの要素を持っていると思うんです」
佳子さんは、なおも厳しかった。
「それだけ?」
 もうネタがないぞ。
「まだ、ダメですか?」
 僕は、すっかり高校生に戻って、チューターの佳子さんに教えを請うていた。敬語を使わないというルールは破ってしまったが、佳子さんはチューターで問題を出しているというようなシチュエーションだったからか、そこは突っ込んでこなかった。
「いまの三つは、ダメな話じゃないけど、誰にでも言える普遍的な話よね。あたしが聞きたいのは、どんな話か、わかる?もっと、具体的な、世界でひとつしかないような、話」
 さらに問題文の難易度が上がった。
 どうしよう、どうしよう。僕は心の中でオロオロし始めていた。
 しかし、ここでオロオロしても仕方ない。何を言えば、一番、佳子さんにヒットするのか。
 いや、そう考えるから、ダメなんだ。
 そうだ、僕と佳子さんだけにわかる話を、しよう。
 僕はそう思い、切り出した。

「佳子さんって、紅白歌合戦みたいですよね?」
「紅白?」
「そうです」
「どこが?」
「いまの紅白って、『今』と『昔』と『大事』で構成されているんです。昔の紅白は『今』だけで構成されていたけれど、いまは音楽の歴史が積み重なったし世の中も複雑になったので、『昔』がかすがいになることが、前より多くなりました。だから、紅白は『昔』という要素を入れて、共感を呼ぶようになりました。それはちょうど昭和から平成に変わった年からです。その上で、最近は『大事』という要素も入れて、歌を通じて大事なこと、たとえば災害からの復興とか人のつながりの大切さを伝えています」
 ここで僕は、少し息を吸った。
「僕にとって佳子さんは『昔』であり『大事』を教えてくれる存在であり、そして、『今』になりつつあります。僕はもともと紅白が大好きで、いつも年神さまを迎えるような気持ちで毎年見ているんですけど、佳子さんはまさに紅白、年神さまだと思います。僕の大事な、そしてこの世でたったひとりの、神様です!」
 僕は佳子さんに、思い切ってこんな話をした。
 こんなマニアックで、誰も考えないような話で、しかも恥ずかしげもない話でいいのか?と自問した。

 すると、佳子さんは大きく目を丸くした後、
「ふふふ」
と笑った。
 そして
「年神さまだなんて、やだなあ」
と、かわいくも嫌がる素振りを見せた。
 ここで僕は、何としても負けてはいけないと思った。
「いえ、佳子さんは、やっぱり僕の、神様です」
 佳子さんは、少し微笑んだ。
 そして、頭を載せた枕をわずかに僕の方に寄せて、言った。

「かみさまもいいけど…」
 佳子さんが、珍しく息を吸った。
「かみさんの方が、もっと、いいかな」

 暗がりの中、少し緊張した笑みを湛えた色白の頬が、一瞬にして赤く染まった。あざやかな場面に、僕は胸を焦がした。 
 すると、佳子さんの目には、笑っているのに、少しだけ涙が見えた。
「よく解けました。これで、入学ね。」
 僕は目を丸くして、佳子さんを見つめた。佳子さんも、僕をじっと見つめてくれた。
 僕は念のため、確認した。
「きょうは『ダア、シャリヤス!』は、ないの?」
「ない、よっ」

 その一言を合図に、僕らの距離は、ついにゼロになった。
 ニアミスを繰り返した末、神様が不手際で僕にぶつけてしまった佳子さんという彗星。その美しい、女神のような彗星の核心に、僕はついに到達した。それからまもなく、僕らの距離は、マイナスになった。二十三年という年月の積み重ねは、信じられない形に、昇華した。

 翌朝の訪れは、ずいぶん遅かった。
 僕が目を覚ますと、佳子さんも、目を覚ました。
「おはよう」
「おはよお」
 佳子さんは思ったよりもさらに色白だった。ふと見ると、佳子さんの白く深い胸元が、ちらりと見えた。
 なんだか、恥ずかしい。すると、佳子さんはもっと恥ずかしい話をした。
「ワンコちゃんって、あたしの匂い、好きでしょ」
「ええっ!」
「しかも、昔から」
「えええっ!」
 なんだ、佳子さんに、僕が佳子さんの匂いが好きってこと、見破られていたのか。しかも、昔、高校生のころから見破られていたのか。
「なんで?」
「そんなの、すぐわかるわよ。だって高校生のときから、私が近づくと、鼻をひくつかせていたじゃない」
「えっ、そんな」
 僕としては、バレないようにやっていたつもりだったが、佳子さんにはすっかりお見通しだったようだ。
「一月に再会したとき、代々木のバーガーでハンカチを渡したでしょ」
「うん」
「あのときも、ワンコちゃん、泣きながら、鼻をひくつかせていたのよね。その様子が、おかしくて、なつかしくて、あと、かわいくて。なんでこの人、こんなにあたしに一生懸命なんだろうって。思わずあたしも、泣いちゃった」
 え、あそこで滝のように泣いたときに、そんなことを思っていたんですか。
「そう、で、それもあって、鼻が利くイヌ、つまり、ワンコと命名したのよ」
「ええーっ」
 まったくもう、恥ずかしいったらありゃしない。僕が布団で顔を隠した。すると、佳子さんは、すかさずフォローを入れてきた。
「でもね」
「なあに?」
「あたしも、ワンコちゃんの匂い、大好きなんだよ」
「え?」
 僕は布団から顔を出した。
「そうなの?」「いつごろから?」
「予備校のときから、ずっと」
「ええっ」
「実はあたしも、ワンコちゃんの隣の席で勉強を教えるのが、楽しみでした」
 そうなんだ。そう思ってくれていたんだ。僕は急に、うれしくなった。
「そうなの?」
「うん」
「えっと、僕の匂いって、どんな匂い?」
「そうだなあ…お父さんに、抱っこされたときの匂いかな」
 「お父さん」というのが、亡くなった養父さんのことなのか、あるいは、じじのことなのかはあえて聞かなかった。でも、佳子さんが、僕をお父さんと重ね合わせて思ってくれていたことに、僕はほんのりとした喜びを感じた。
 昔、何かの本で読んだことがあるが、人は遺伝子レベルで惹かれる異性の匂いというのがインプットされているという。また、匂いに引き寄せられて、知らず知らずのうちに距離が縮まる男女もいるという。僕らはやはり、見えない糸で結ばれていたのかもしれない。
「あとね」
 佳子さんは続けた。
「声に、引き寄せられたような気がする」
「声?」
「そう。ワンコちゃんの声」
「そうなの?」
「うん。なんか、ワンコちゃんの声、響くんだよね、心に」
 それを言われて、僕は佳子さんの最初の電話のことを思い出した。少し甘く、かすかにかすれた声。それを聞いてしばらくしてから、僕は急に、悪寒がするような感じがした。突然インフルエンザにかかったような、あの悪寒だ。でもそれはよくない悪寒ではなく、あまりにもすごいものを聞いてしまったときに来る、いわば感動的な悪寒だった。近い表現に、鳥肌が立つというものもあるが、鳥肌どころではなく、全身がうち震えるような感覚だった。

「僕も、実は最初の電話で、佳子さんの声だってわかったときに、ものすごい震えた」
「そうなの?」
「うん。最初はあまりにも久しぶりでわからなかったけど、話しているうちに、急によみがえってね。声で佳子さんがよみがえってきたんだ」
「へえー」
 坂の上テレビのアナウンサーが言っていたが、声というのは、体中を隅々までめぐりめぐった血液やリンパなどとからみあった呼気が発するもので、人間が普段思っているよりも、はるかに生々しいものであるという。
 それはもう、肉体の一部と言っても過言ではなく、それがたまたま気化しているのに過ぎない。気化はしているものの、そこには魂が宿っていて、何か不思議な力を発揮するという。よく「言霊」というが、それはまさに、この不思議な力のことを言うのだろう。だから歌は感動的になるし、思いもよらない力を発揮することがある。
 今回で言えば、佳子さんの声から始まり、「涙をこえて」という歌の力に引き寄せられ、縁や思い出が支えになって、今、新たな人生が始まろうとしている。

「こ、ころーのー、なかでー、あしたがー」
 佳子さんが「涙をこえて」を歌い始めた。
 一節目のあと、ちらりと僕を見たので、僕が二節目を歌った。

「か、げりを、知らぬ、若い、こーこーろのなかでー」

 それから、一節ずつ、交互に歌った。
 そして、最後の節は二人で歌った。

「かーがやく、あしたー、みつめてー」

 「輝く明日」で二人で大きく手を挙げ、「見つめて」で下げて、上げて。そして、お互いを見つめた。
 いいなあ、この距離。この間合い。僕は、幸せだった。






 三か月後。

 新聞に「山河建物 事業継続へ」という記事が載った。粉飾決算が発覚した後、一時は会社がつぶれるだろうと言われていたが、その後、メインバンクのえびす銀行が最低限の融資を続けるなどしたため、事業はかなり縮小するものの、続けることができるようになったという。
 坂の上テレビの人に話を聞いたところ、大王子観光グループから、えびす銀行に対し、強力に融資の要請があったという。えびす銀行は当初難色を示していたが、大観光グループが関係企業にも説得に入り、理解が得られたため、最低限ながら融資は続けることになったという。
 「大王子観光グループからの強力な要請」ということは、佳子さんが関わっているんじゃないか、と僕は思った。最低限残すことで、みわちゃんが路頭に迷わないようにしたのではないか。
 もしそうなのであれば、すごい話だ。でも、佳子さんならきっとやる。僕はいつものことながら、佳子さんに感心していた。

 僕は相変わらず、気象予報士の仕事をしている。
 一方で最近、たまに母校の大学で講演をするようになった。「恋も仕事も、チャンスは一瞬」という題で、学生たちに、僕が経験したことをボランティアで話す。目を輝かせて聞いてくれる学生の姿が、とてもうれしい。「出会って別れて二十三年も経って、実る恋もあるんだよ」「長い恋の始まりは、この大学を目指したところだったんだ」なんて言うと、学生から歓声が上がる。学生たちにとっては、二十三年なんて、自分の人生より長いわけだから、驚くのは当然だろう。 
 学生のみなさん、人生において学ぶべきことの多くは、人の間にあるからね。それって、あまり教えてくれないけれど、若いうちに、それに気づいてね。そして、いろいろな人に、直接話をしようね。そこで初めて学ぶことはいっぱいあるからね。
 それと、縁とか、思い出とかっていうのは、大事だよ。まだみんなわからないと思うけど、人生深まってくると、縁や思い出の力が大事になるから、縁のある人を大事にして、思い出をいっぱい作ろうね、それが、みんなの人生を豊かにしてくれるはずだから。そんな話をしている。
 そして最後は、ギター一本で「涙をこえて」を歌う。
 この歌は、僕を支えてくれた歌だ。この歌の力で、僕の運命は開けた。歌の力はものすごい。人は誰しも、こうした歌や、支えになる縁、そして思い出が、どこかにあると思う。それは、はっきりと目に見えるものではないけれど、僕たちのことをどこかでそっと、しかし、しっかりと支えてくれている。
 人は生きていると、こういう見えないものの力を忘れてしまうことがあるけれど、見えないものにこそ、目を配るべきではないか。みんな、こういう目に見えないものを大切にしよう。みんな、何かに、そして誰かに、きっと支えられているんだから。支えられていることを忘れずにいると、きっと運が開けるよ。
 そんな話をして締めくくる。中には、涙を流して聞いてくれる子もいる。「ああ、うれしいな」と僕は思う。

 ちなみに僕は、佳子さんと一緒になることになった。
 交際期間はかなり短いし、周りはみんな驚いているけれど、僕たちはあまりにも内容の濃い時間を過ごしたし、それに、もう二十年以上も前から知っているわけだからこれ以上、だらだらとつきあっていても仕方がないと思った。 
 今後、どうやって生活していくのか。それを話すために、僕は佳子さんとたびたび会っている。
 きょうは赤坂見附のホテルに来た。このホテルは大きくて素敵なカフェがあり、僕も佳子さんも気に入っている。
 オレンジジュースを飲みながら、これからの話からマニアックな話までいろいろな話をした。マニアックな話ができる、正しい変態の時間は、僕にとっても佳子さんにとっても、とても貴重で、ここでお互いしか知りえないことを交換し合っている。
 あっという間に時間が経った。
「じゃ、行こうか」
「うん」
 僕と佳子さんは、席を立ち、店を出た。
 しかし、少し歩いたところで、足元がふらついた。佳子さんは、ホテルのふかふかのじゅうたんに、膝をついた。
「うう」
 どうやら、吐き気だ。僕はいつものように言った。
「鼻で、息して。すーっと」
 
 しかし、この日の佳子さんは、言うことを聞かなかった。
「いいの」
 僕はちょっと困った。
「どうして?」
「これは、いい吐き気なの」
 いい吐き気?鈍感な僕は、ちょっとわからなかった。
「あのね、ワンコちゃん」
 そう言うと、佳子さんはそっとみぞおちの下あたりに、やさしく手を当てた。それを見て、僕の頭は、真っ白になった。そして、顔が真っ赤になった。
 これが、涙をこえたということ、なのか。
 涙は、心の雨なのか。
 涙をこえたら、心の中に、虹が出るのか。
 君こそ命。涙をこえて、生まれる命。
 
 すると、披露宴を行っていた近くの宴会場から、「こんにちは赤ちゃん」の演奏が流れてきた。このタイミングで、なんて偶然なんだろう。この曲は―「涙をこえて」と同じ、中村八大先生の曲だ。ああ、今日も縁でつながれている。佳子さんもそのことに気づいたのだろう。笑った。

 「こんにちは赤ちゃん」は、まるで宴会場を突き抜けるような明るさで流れていた。旋律が、うねりのように聞こえた。
 僕は、輝く明日を、見つめたくなった。


(終)


お読みいただき、ありがとうございました。

 私は、都内の放送局に勤めている気象予報士です。平成の終わりに起きた、この話の元になった出来事が、あまりにもまぶしかったため、書きたい、そして、誰かに読んでほしいと思い、書き始めました。書きたかったのは、縁の大切さ、スマホに過剰に頼る今の時代の危うさ、男性の甘さと軽さ、女性の美しさとしたたかさです。「スポーティ、スピーディ、セクシュアリティ」がテーマだった昔の紅白歌合戦と同じように、「軽快で、素早く、男女が激しくぶつかる、緊張感のある構成」を目指して書きました。

 平成も終わった今、昭和の歌に助けられる人がどれほどいるのかわかりませんが、歌や人の縁は、きっといつの時代も縁の下の力持ちとなって、一人一人を支えてくれているのだと信じています。それが少しでも伝わると、幸いです。ありがとうございました。

涙をこえて。

涙をこえて。

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