眠る群青

398

数年に一度、男に訪れる三月十一日の話。

 男は腕時計を見た。ちょうど、午後六時を指していた。
 この時間になると渋谷駅の前は人の海になる。疲れた顔をして、スーツを着ているサラリーマン。しっかりと化粧で顔を整えた若い女。大きなケースを抱えて、仲の良さそうな友人と連れ歩く大学生のような男。それぞれに人生があって、本人たちにその自覚がなくともしっかりと生きている。呼吸をして、心臓の鼓動を刻んで。

 三月ともなれば凍えるような寒さはなくなり、時折、暖かい日が思い出したように顔を出してくれる。男はローンで購入した中古の軽自動車に、少ない荷物を詰め込んで高速道路を飛ばしていた。そんな中、先日の渋谷のむせかえるような人の海を思い出す。この車だけが延々と通り続ける道路が、人で満たされる日は来るのだろうか、と。
 まったく意味のない考えだ。それでも、程よい思考は単調な運転の刺激になり、ゆっくりと革靴のつま先から指を這わせてくるような眠気を払うことができる。

「きっと、車も走れなくなるような状態になるとか。たとえば、大きな地震とか、災害とか。そんなことがあれば、帰ろうとする人たちで溢れるのかな」

 ごー、と車が通り抜ける。高速道路の防音壁が揺れる。車内が少しうるさいけど、落ち着くような音で満たされていく。男は何度かパーキングで降りてコーヒーを飲み煙草を吸うことを繰り返し。東京から出て数時間ほどか、目的地としていた場所である福島県へと入った。

 当時は塞がれていた国道六号線も今では開通している。子供の頃、母親の運転する車に乗せられて、整備されていない道でがたがたと揺れる車に喜んでいた記憶が蘇った。今、自分が買った自分の車でその道を走り抜ける。しっかりと、丁寧に整備されたアスファルトは昔のように車を揺らしはしなかった。メンテナンスされたその道路から、過去の香りはしなかった。
 火力発電所の前を走り抜けて暫くすると、男の父親の実家がある街へと入る。あまり良い思い出はない街だ、それでも数年ぶりに街並みを見たくなって、男はハンドルをきって国道六号線から曲がり、街中へと入っていった。

 通うかどうか考えていた教習場。見慣れて記憶の底へ沈み込んでいた市民館。まだ残っているゴーカートに乗ることができる公園の看板。実家の目の前の、少ないお小遣いで買い物をしていたスーパー。そこにはアスファルトの香りでもなく、新しい体験の知らない香りでもなく、過去の香りがそのまま残っていた。路肩に車を止めて、外に出て呼吸をすれば、懐かしい記憶が蘇ってくるようだった。

 そうして男は父親の実家の前へと訪れた。もっとも、正確に言えば父親だった、だが。震災の影響で古い家屋は一部が倒壊し、決して広くはない庭には雑草がこれでもかと茂っていた。ただ、それでも過去の幻影をなぞるには十分だった。あまり男に優しくはない父親であったか、この家の中で、一緒にゲームをして遊んでくれたことはしっかりと覚えている。
 ただ、父親は驚くほどに女癖が悪かった。車に背を預けてよりかかるようにしながら、いつの間にか止められなくなった煙草に火をつけて、男は紫煙を吸い込んで、ため息を零すかのように吐き出す。吐き出した煙はゆらゆらと辺りを漂って、三月の空気に溶けるように消えていった。

「よく、おれはぐれなかったよ。非行もしてないし、ちょっとくらい褒めてくれてもいいんじゃないかな」

「ああ、でも、親父に褒められただなんてお袋にいったら変な顔されるかな。変な顔というよりも、嫌な顔だ」

 これから先も起きないし、実際のところ、目の前に親父がいたとして、褒めてもらうつもりも男には無かった。さらに言えば、父親に関する話を母親にすることもない。昔の香りだなんて嗅がずとも、目を閉じれば、離婚の直前にまだ幼い男の目の前で起きた両親の喧嘩を今でも思い出せるから。
 蛍光灯の人工的な明かりで満たされたリビングと、襖で断たれた寝室の、小さなアパートで隣り合った二つの部屋。僅かに差し込んだ明かりの先に見えたのは、包丁を取り出して感情的に声を上げ、決して子には聞かせられないような、そんな言葉を並べて責め続ける母親の姿。
 よくある話だった。男の父親は、まるで地面に落ちた砂糖に群がる蟻のようにお金に群がったのだ。

「親子は似るっていうけど、あまり似たくはないな」

 ゆっくりと心を覆い始めたどんよりとしている雲を払うように、吸い殻を小さな携帯灰皿に捨てると、男は車に乗り込んでキーを回す。軽いエンジン音が響いて、車内の電子機器が一斉につき始めた。気分転換代わりにそのままラジオを付けて、男はアクセルを軽く踏み、父親だった人の実家の前から去っていく。数年後、またね。それだけ言葉に出さず、心の中で呟いて。

  国道を走り抜ける。大きな駐車場を備えたパチンコ店、近隣住民のライフラインとなっている大きなスーパー。少し乱れたラジオからは、名前も知らないコメンテーターが政治の話を延々と繰り返していた。古ぼけたラブ・ホテルの看板、街の境で営業しているボーリング店、通おうと思って通わなかったスイミング・スクール。
 左右に広がる木々の中を泳ぐように坂道を下れば、一面の平原が視界いっぱいに広がった。塩害で草も生えず、そして人がいなくなって捨てられた孤独な田んぼたち。そこには黒い大きな袋たちが、昔から住んでいた住民のように何個も何個も並んで座っていた。

 遠い昔、自分が住んでいた街へと訪れた。人の通りは少なくなり、整備されないまま取り残されたアスファルト。補給されることはもうない、うち捨てられた自動販売機。男が高校生の頃まで住んでいた借り家を見に行けば、そこは無機質な駐車場となっていた。数年前に訪れた時にはまだ形を残していたが、今はもうない。過ぎていく時間の流れに溺れてしまったような感覚を、男はラジオとエンジン音だけが満たす車内で感じていた。
 もう戻ることもない街だ。そして、こうやって数年に一度、思い出したかのように訪れる街でしかない。無心に祈っても過ぎた景色をもう一度見ることはできないし、この世界で生を続ける限り、前へと進んでいくことしかできない。

 通っていた小学校はまだ存続していた。ただ、見慣れない計器がいろんなところに設置されている。デジタル表示されている放射線の数値は、平均値を示していた。震災の前はいったいどの程度だったのだろうか。男は落ちていくような青い空の下、その数値を見ながらそう思った。
 中学校と高校も見ておこうと思ったが、腕時計を見ると思ったより時間が無かったため、男はそれを諦めて車へと乗りこんだ。向かう先はもう決まっていた。小学校を抜け、気に入っていた和菓子屋を抜け、今はもう移転してしまったケーキ屋を抜け、当時バイトをしていた寿司屋を抜け、国道を横切って車を飛ばしていく。

 向かった先、その終着点。さざ波の音が辺り一帯に響き、そしてテトラポッドが多く居を構える場所。震災が起きて数年程は入れなかった海岸だ。また震災が起きた時のために整備されたのだろう、記憶の中のその場所と、まるで外観は一致していなかった。傍にあったキャンプサイトには、禁止、と朽ち果てそうな古い看板が立てられていた。

 小さな鞄を一つだけ持って車内から降りる。まとわりつくような潮風を感じながら、砂浜のその先へ進んでいく。波の音だけを携えた静かな海に裸足で潜り込んでいけば、震災以降、なくしてしまった群青が拾い上げられそうな気がした。手から零れそうな程に持っていた群青は、きっとこの中にあるのだろう。そっと男は誰かに捧げるように、鞄の中から小さな数輪の花を足元の砂浜へと突き刺した。この花は一日もせず飛ばされてしまうだろう。それでも目の前に広がっている海に眠る群青の記憶に届けば良いと、男は過去の香りを強く感じながら、静かに両手を合わせた。
 

眠る群青

眠る群青

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted