花弁寝床に沈み入る
幕開け
昭和、学生運動の盛んな街も少し遠ざかれば聴こえなくなる。それは首都にある高級住宅街、芦園も同じだった。
むしろ顕著に、井戸の中に沈んだように静かな住宅街は輝く白亜や昔ながらの建物が木の垣根を隔てて社会を緩やかに拒絶して孤立している。
個々の家には確かな繋がりがあり、同じ階級同士で花弁同士を擦り合わせるような動的というにはあまりにも静かで代わり映えのしない触れ合いを持っていた。
貧しさや怒りから来る社会的な熱量は裕福で独立した彼等を侵食せず、細波すらも無い生活。
しかし働きに出る夫に代わって家を守る女たちが空っぽの檻に入れられて、退屈しているかといえば、そうでもなかった。
刺激が無いのなら作って仕舞えばいいと。彼女たちは美しい顔で、美しい手で難なく一人の人間を都合良く生贄に仕立て上げた。
その人間は名瀬松子。花道の家下と商売女の間に生まれた婚外子であった。さらに色素の薄く、髪の色も芦園の人々と違い、明るい金色をしていた。
松子は本家である京都の敷居を跨がせられることなく、この芦園で石女として同様に遠ざけられた祖母と暮らしていた。
祖母は石女として罵られたものの、もとよりこの芦園で暮らしていた貿易会社令嬢であり東京の土地によく似合った新風を纏った女でもあった。しかしその割に、名瀬という旧家の血筋に弱かった。
もともと祖母は名瀬家の次男と恋仲にあったが浮気され捨てられたため、本当に石女かはわからない。その際に狂ってしまい今でも名瀬の血を欲している。
名瀬家にとって都合の良い人間に成り下がったことに気付いていないのは本人ばかりである。元々はモダンだった祖母の家は名瀬の雰囲気を取り入れて純和風の建物になっている。
祖母は社会に対して引目やまだ若くて利発な松子に対して妬みを感じるなど、負の感情を抱いていたため、嬉々として松子を生贄に差し出してしまう。
幸か不幸か、多少雀斑はあれど輪郭がはっきりとしていて中性な美しい顔立ちの松子は少女のまま大人になってしまった女たちの中で男性のように扱われ始める。
冷たい感じの松子が持つ異国の香りとアンバランスな丁寧でそれでいて親しみを抱かせる仕草は夫人たちに危ない魅力として映った。
夫人たちが松子に求めたことは主にいえば話し相手という名の恋愛ごっこであった。綺麗だが内に蜷局を巻く感情の吐き出し方を知らない夫人たちを哀れに思う。
遊びと考えつつも松子に夢中になってしまっている夫人たちはもはや可愛らしい女学生だった頃の気持ちを取り戻していたのであった。乙女たちはそのうちどこまで許されるか、という試し行為を松子に対して繰り返す。
松子は彼女たちを適度に許し、愛したフリをした。松子には面白いように彼女たちの気持ちが分かった。求められれば体を許した。そして時折り彼女たちの臀部を舐めながら自分の身の振り方を考えた。
愛はよくわからなかった。望まれればただ与えた。松子にとって自分自身はただ生贄であり、あくまでそれに見合う立ち振る舞いをしていただけだった。しかし松子はいつのまにか代替の効かない存在に成り得ていた。そのことに気づかないのは松子ばかりである。
そんなころである。水面下のざわめきを知りもしない、椿のように美しい少女が芦園を訪れることになる。その少女の瞳は深く澄んでいるくせに一切の風景がなかった。一本気とも違う、冷めた感じの芯の通り方は優に大人の心持ちであるように見えた。
少女の名は千鯉芥。名瀬家の遠縁らしく、東京の大学に通うべく芦園の家を下宿として頼ってきた。本家の人間の推薦状を見せられ、祖母も松子も受け入れるほかはなかった。
芥は女王然とした風格を持っていたが、同時に寡黙で臆病なことを隠そうともしない女であった。祖母は芥の弱さに蓋をして、高貴なその血や風格に純に陶酔し、媚び諂うようになる。反対に松子には高貴な者のとして義務を果たさない芥に辟易とする。
芥は頭もよく、齢十八にしては顔も女性らしく大人びており、話姿や立ち振る舞いにも粗がなく、血筋も折り紙付きの高貴な女であった。
松子は自分に見向きもしなかった祖母が芥に対して優しい態度を見せることに顔には出さないが心を乱され続ける。そして段々と、自分が受け取ったことのないその優しさを愛なのでは無いだろうかと考えるようになる。
松子は愛を持つようになった祖母を恐ろしいもののように見るが、家を守るべきだという責任感を持ち始める。
それは芥を束縛しようとする働きに繋がるが芥は松子の手からすりぬけ、飄々と家の中に冷たい風を吹かせた。
そんなある日あまりにも悠然と存在していた芥が、身の回りのことが何も自分でできないことに松子は気付く。
少し気を良くした松子は彼女が割ってしまったボーンチャイナのティーカップを片付けながら「形あるものには終わりがありますからね」と呟いて見せた。
芥はそんなふうに何でも捨ててしまえそうな松子の持つ仄暗さに気付く。そして日常の中で細やかに溢れる松子の優しさに溺れてゆく。
決してその優しさは一人分ではないことに気づかない人間が、もう一人。
松子は小鳥の囀が解けるように響く春下がり、太陽の真白く輝く空の下でナイフで背後から刺されてしまう───。
椿に触れる天気雨
かちん、と華奢な音がする。自分の中にこんな可愛らしい音があることに私は少し驚いていた。
玄関先の柱を掴んで振り向いたその先にようやく驚きがやって来る。追いかけるように痛みが訪れ、ようやく出来事に現実味が帯びていく。
泣きそうな顔をして銀色のナイフの柄を握りしめた黒髪の少女は手を血に染めてはいなかった。ぽたり、赤い液体が玄関先の杜若にかかる。泣かないで、そう言って優しく頬でも撫でてあげるべきだろうに私の腕は自由が効かず、柱を掴んでいた腕も力なくだらりと体にひっついているだけの状態だった。
振り向いたとき、視界に入ったナイフは凝った模様を宿していて何を切るにも豪奢過ぎるといった代物だった。通りすがりの犯行には不似合いなほど美しく、また私が今まで身につけてきた装飾品の中で一番高価であったろう。
私は誰に苦しめられているのだろう。走馬灯のように頭の中にはたくさんの顔が頭に浮かび上がっては、消えてゆく。その顔のどれもが絵具を引き伸ばしたときの、あのぐんにゃりとした曖昧な境界さえもない混ざり具合をしていた。
痛みに促されてようやく私を刺した少女に思い至る。確か三年前まで家庭教師をしていた子だったはずだ。彼女の母とは今も交流がある。母親の方は奔放だったが娘の方は影があるし気弱だろうと思っていたが、どうやら目測を誤っていたらしい。大学に入って彼女の世界が広がりでもしたのだろうか。それにしては知性を感じないやり口だと鼻で笑いたかったが叶わなかった。
視界が急に渦を巻いて倒れることを悟る。いつの間にか痛みを逃すために閉じていた片目に力を寄せて、右肩で受け身をとって石畳の上に落ちた。ひっと飛び退いた少女の桃色のワンピースに新たな模様を刻むことはなく、少女は真っ新なまま、背中からナイフを生やして倒れ込む私を見下ろしていた。
汚れなくてよかった、全身を包む鈍痛の中にそう思った。血の飛沫の生暖かさはそう簡単に拭い取れるものでは無い。
彼女に一生こびりつくような思い出を提供する気は無かった。彼女としたようなことは三年前、花が擦れ合うような軽い口づけをしたくらいだった。私との関係性はただの遊びで、それをほんとと言うのならそれはたった一瞬の気の迷いなのだ。
だってそれは私じゃなくたって一向に構わなかったはずなのだから。
優しさに触れ合う機会のなかった子供は初めて触れ合った優しさに縋り付きたくなってしまう。私以外の人間が彼女に先に優しくしていたらこんなことは起きなかった。いつまでも子供であれば都合が良いから彼女はこんなふうに育まれてしまった。これは私たち〈大人〉の責任なのだろう。
「あっ……、あ、ごめ、ごめんなさぁ……ぃ、ごめんなさいごめんなさい、、わたしはこんなことしたくなかったこんなこと!!!私はこんなことする人間じゃ!!!」
わかる、わかるよ。唾液が溢れそうになる口の中で繰り返す。痛みが鮮明化してじわじわと背中に集まる熱はおかしいくらいに柔らかいのに、体全体で見れば冷え切っていて、指先なんかはもう、棒切れのように不自由で素っ気なかった。
私が悪いんだよね、君の弱さを引き出してしまった私が。慌てふためくこの弱い女の子に、何か言ってやらねばならぬとくらくらとし始めた頭の中で思った。
大きな世界と触れ合って、怖くなったけれども誰も自分を救ってはくれなくて最後に頼れると思っていた人間がこんなにも酷い人間だとは思わなかったんだね。君に何も教えなかった私たち、芦園の街の大人たちが君を悪に導いた。光で舗装して連れ込んだんだ。
君を傷つけてごめんねだとか、見え透いたおためごかしをならべて見せようか。涙を流すほどの失敗じゃない。苦しむ必要なんて無いのだと。
骨に到達はしているが臓器は傷ついていない。おおかた、ナイフは斜めに入って背骨にでも当たったのだろう。泣いていただくほどの見せ物ではございませんよ、もちろんいたいけれども。
元々私は生け贄なのだから傷つけたって傷つかなくていいのに。いまさら罪の意識を持ったって何の贖罪にもならないのに。ため息をつきたいほどに時間は緩慢に流れているような気がした。
「どうしよう警察、警察に連絡すれば……、あぁわからないお父様に知られたらいったいどうしたらいいの、松子さんねぇ、警察って何番だったかしら。わたし、わかんないわ……」
無礼にも、ちょっと笑いそうになってしまった。こんなふうに相手をしておいてまで頼るべきは自分ではなく他者なのだと。あまりにもこの街にとって都合よく完成した女の子だった。
彼女の父親は官僚だ。きっとこのことは揉み消される。私もそれを望んでいた。
ようやく動いた手で慌てふためく彼女のくるぶしを掴んだ。汚れのない白いソックスの上からじんわりと掌に触る熱がある。
少女はそれまでの忙しない動作をやめてそこに蹲み込んで私の名前を一度呟いた。顔を上げる気力は無いが、きっと泣いてはいないだろう。そう、ぼんやりと思う。世界はちっとも揺らがずに私たちの目の前に並べれている。彼女の声に震えはなく、するりと喉から落ちてきた音は私の耳の中に染み込んでいく。
芥さんはもう学校に行った頃だろうし、祖母は四国を漫遊している頃だ。今朝届いた楮の葉書に、水面に溶け出て流れるような筆跡でそう記されていた。
私は誰に救われることも出来ない。
それは特段絶望するほどの事実ではなかったが、床に転がっている自分自身の体の温度をさらに冷たくするのに十分な事実ではあった。
きっと肌理の細かい、世間知らずな肌に爪を立ててやる。足首くらいなら、赦してもらえないだろうか。「いた、い」か細い声は思ったより感情を動かさなかった。声が少し震えて、一度目は形にならず吐息が笑い声のように床のように転がった。呼吸を飲んでもう一度言うと今度は質量と形を持って音は並んで行く。
「あなたが押すべきは、百十九番。大丈夫。あなたは救世主になれる」
私は何も間違えなかった。この街では彼女を捕まえることこそ悪になる。捕まえて、法の前に立たせて何になる。裁かれる必要など無い。刺させたのは、私に違いがないのだから。で も私の罪はそれこそ法では裁けない。だから私は何も違えていない。
指の力がするりと抜けた。さあほら行って、と声に出すのも億劫で首を少しだけ上げてみたが逆光で何も見えない。
手応えはなかったがしかし、手の中にあった熱はしがらみを振り解くように跳ねて駆けてゆく。どたどたと板の上を品もなく駆け抜ける女の子の後ろ姿が目蓋の裏に浮かんで少し可笑しかった。
けらけらと音を立てて笑ったらきっと背中の傷に触るだろう。選び取れない痛みは好きじゃない。生きていることをグロテスクに目の前に吊り下げてくる行為だからだ。
冬も嫌いだ。どれだけ身構えても争いようなく生きていることを痛感させられるから。
口から出る白い水蒸気、肺の中を満たす冷たい空気、死んでゆく風景の中で顕著になる自分の熱量。
そのどれを切り取ってもリアリズムと聯絡している。感覚は自己の表面にあるはずなのに分断しようもない。
刺されたのが冬じゃなくて良かった。そこ彼女に感謝しなくてはいけない。冷たい金属を背中に刺されたまま、死にかけの大地に放り出されるのは最低な現実の詰め合わせだからだ。
夢の中を歩いていたい。確かな手応えなど、人生の答えにはならない。
生きることにおいて、私の願望はそれひとつだった。野望だとか色恋だとかは、溺れればきっと心地よいのだろうけれど胸に湧き上がる熱量に身を焦がして、生きていることを体感しながら呼吸をしなくてはならないだろう。
そんなものは夢の補強材料のひとつでいい。体の上にのっぺりと香るフレグランスのように実体なく、抱えているものだ。生活の主軸にするには馬鹿げている。
目の前にある私という生はどうしようもなくリアルなのだから、リアリティなど不要だ。リアルさえもいらない。
生きることを意識せずに生きられる幸福が欲しい。私にとって極めてささやかな願いだった。
人に刺されるという現実は至極非現実だけれども、痛みは逃げようもなく現実の様相を呈していた。
早く救急車が来ないかな。こんな死んだような街に入り込む生活の匂いは少しばかり興味があった。生きている意味など考えれば考えるほどわからないが死ぬのはなんだかシャクだった。
私程度の血では世界は汚れもしないのだろう。うつくしく表面的な世界にちょっとした飛沫が飛んだところで洗い流してしまえば見えなくなる。見えないものは存在しないものだ。
なくなっても困りはしないものの寄せ集めでこの街は出来ている。この街を煌びやかだというのならそれは鎖が世界の光を移しているのだ。光に目を奪われて眩んでしまえばその内実になど価値はない。見せかけの、思ったよりも見掛け倒しな世界が転がっているだけ。
白亜の家がその証拠だ。真っさらに保たれる空間はいつでも切り離して明け渡せる。さあ汚して見せろとどこまでも高貴な風を装って。
病院と何が違うと言えばそこには明確な変化があって、少なくとも接続不安を感じることはないということだろうか。これから辿り着くだろう洗い晒しの白を瞼の裏に浮かべた。
その後すぐ、救急車で運ばれたらしい私の目に次に映ったのは橙色の天井だった。
花弁寝床に沈み入る