花冠

6.2

煙草が吸いたくなった。

椅子の背にかかっている上着を着て階下へ向かう。隣室にいる父の邪魔をしないように足音を忍ばせながら。以前、深夜まで酒を飲み大声で話していたことを咎められてから、いつでも音を潜めて生活することが私の哀しき習俗となっていた。がさつな男にはこの些細な気遣いが大変苦痛である。

外はもう暗い。ここはいわゆる郊外で、夜になると住民は外には出てこない。窓の明かりとわずかな街灯が人の気配を感じさせるだけで、辺りは巧妙な模型のようであった。私に向かって飛んでくる小さな蛾を払いながら、正面のポールに座った。

なぜ煙草は昼と夜でこうも趣が異なるのだろう、と思う。昼の煙草は、味は変わらぬはずなのに、不味い。汗して働く青シャツを想起させる。たいていの彼らはがさつだ。よそ者には冷たく、身内には甘い。それを切り取って義理人情に篤いなどという輩もいるが、彼らはただ交友範囲が狭いだけなのだ。私のような、小心者で、根無し草が苦手とするのも無理はないだろう。

与太事を考えている間にふと横が気になった。いつぞや、女の子が作っていたシロツメクサの花冠が、白いフェンスの隅に掛けられている。昨日今日のものではないのだろうが、「シロ」という名前にそぐわず枯れかかって茶ばんでいる。いくつか思い出すことがあった。

5.1

千葉に来て一月が経つ。あいかわらず、家族は、就職のために越したのだと信じている。親しい友達はみな忙しそうに働いている。私はただ寂しかった。拍車をかけるように明日は誕生日なのだから。

この一か月で、昔好きだった女や友達にはあらかた電話をかけ、とりとめもない話をすることにいそしんだ。特に何を話したかったわけではないが、私と私の友達の間にある社会の溝を忘れたかった。時には、恋とは何かについて講釈を垂れまでした。ばかばかしくなる。どちらが教えを乞うべきなのか未だに理解していないらしい。いや、理解してはいるが、都合が悪いから頭から排除したのか、私にはわからない。

そんなだから、私の周辺で、私に寄り添ってくれる人を探そうとするのは、当然のことだった。また、その相手に肉体関係まで要求することも、私にとっては至極当たり前であった。肉欲が満たされず、どうして寂しさから解放されようか。

数日前から私は近くの女と連絡を取り合っている。家のすぐ裏の園で保育士をしているらしい。顔は写真でしか見ていないが、好みの顔であった。狸のような優しい目をした女だった。なぜこんな連絡をする必要があるのか、というやりとりをし、相手の興味を引くような話題を考え、投げかけていた。いまだにこの作業になんの意味や価値があるのか、私にはわからない。

「今日も仕事お疲れ様。今日は天気がいいから園の草むしりも大変だっただろうね。」

よくもまあ思ってもいないことが言えるものだと感心する。大切に思っていない相手にこそ、この手の文章がすらすらと出てくる。思いやりを持っているのは私ではなく、画面をせわしく動く親指なのかもしれない。ただ、相手の気を引いて自分の価値を確かめたかった。

連休が始まる中、私はこの女と会ってみようと考えた。幸い、家の近くに湾があり、大人が四人は座れようかというベンチも併設されている。浜には対岸から流れてくるゴミが散乱しているからか人気はなく、人はまばらで、スケートボードを練習する若者がちらほらと見えるのみである。会話が先、顔合わせが後というような変化球の逢引にはうってつけの場所だ。

花冠

花冠

  • 小説
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  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-06-03

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  2. 5.1