地下鉄

 地下鉄のホームの端に、下へ降りるエスカレーターを見つけて僕は不思議に思った。地下鉄のホームの更に下に行くエスカレーターなんて奇妙なものは、いままでどこの駅でも見たことがなかったからだ。なにより、そのエスカレーターは降りることしかできず、こちらへ上がってくるエスカレーターは周りになかった。
 どこか別の路線のホームと接続しているのかと思ったが、そのエスカレーターの周りには何も案内などはなく、それはそのホームの端にひっそりとあるだけで、別の路線の名前も路線図もなかった。駅員の業務用のものかとも思ったが、関係者以外立ち入り禁止なんてご親切な張り紙もなく、どうぞお客様お構いなくといったように、あまりにも無造作に稼働している。
 僕は興味本位で、なんだか誘蛾灯に誘われる蛾みたいに、ためらいなく、そっとそのエスカレーターに乗った。それは低く唸ったような音をたてながら、ゆっくりと僕を乗せて、地下鉄の更に地下へと(地下の地下なんてなんだかおかしな場所だけれど)運んでいく。
 エスカレーターの降り口は、すぐ前が壁になっていて、降りてすぐ折り返して、ようやくその場所の全貌がわかるようになっていた。
 そこは、上のホームのすぐ下に沿ったような、長いトンネルのような場所だった。奇妙なのは、その左右の壁のそれぞれ上部に溝のような穴が30cm程の幅で開いていて、天井と壁に隙間ができてしまって、まるで天井が浮いているかのような構造になっていたことだ。
 僕はその隙間をジッと観察しながら、トンネルの(この場所をトンネルと呼んでいいのかは甚だ疑問ではあるけれど)端をめざして壁に沿って歩いた。そのトンネルは僅かに曲がっているようで、トンネル全体を端から向こうの端まで見渡すといったことはできなかった。
 暫く歩いていると、一人の駅員の姿が見えた。彼は遠くから見ても、すぐにその異常さに気が付くほどひどい猫背で、何に使うのか、柄の長いマジックハンドのようなものを、まるで杖のようについて壁の穴をジッと見つめていた。
 ただ彼も、なにも遮るもののないこのトンネルのような場所で、自然と僕の存在に気が付いたようで、ゆっくりこちらを向くと、壁の穴をそう見ていたように、ジッとこちらを見つめた。
 もともと興味本位でよくわからない場所にズカズカと入ってきてしまった身としては、僕を見つめる彼から何か注意を受けるのではないかとも思った。けれど、彼はジッとこちらを見つめるだけで、結局、僕が彼の胸に付いた名札の名前が見えるほど近づいても(名札には佐藤と書かれていた)、彼はただ黙って僕を見つめているだけだった。
「あの」と、僕はその沈黙にたまらず言った。なにより彼が僕をただ見つめているという状況に耐えきれなかった。「昇りのエスカレーターはどこにありますか?」
 彼は壁の穴から僕に視線を移したときみたいに、ゆっくりと僕の来た方向の逆を向くと、「む、向こうです」とすこしどもった口調で、そっちを指さして言った。
 僕はただありがとうとだけ言ってしまって、その場からそそくさと立ち去ってしまおうとも思った。けれど彼の持つ長いマジックハンドや、この不思議なトンネル、彼の僕に対する態度といった、この空間にある、或いは起きている事物全てが、なんだかフワフワと意識から隔離されていって(それは夢であるとわかっていながら、その夢を引き続き楽しもうとするような浅い認識と意識の隔離に似ている)、もう少しこの不可解な出来事を楽しもうと、少しおどけた口調で「あの穴ってなんの穴なんでしょう?」と聞いた。
 彼はそう聞かれるのが当然だろうといったような表情をして、まるで僕にそのことを聞かれるのを待っていたみたいに、なんだか嬉しそうに答えた。
「あの穴は線路の、道床っていうんですが、その脇に繋がっていて、お客さんの落としたゴミとかそういったものを取り除く穴なんです」
「線路に繋がっている? あの穴がですか?」
 彼は僕の質問にコクコクと頷いて、杖のように彼の身体を支えていた長いマジックハンドをその穴に伸ばすと、少し奥までそれを入れて、上手く操り何か引っ張り出した。マジックハンドの先には水の入ったペットボトルが握られていた。
「この場所はそういったゴミを取り除く場所なんですよ」
 彼はそう言って、引き続きマジックハンドをごそごそと穴に入れた。今度は小さな鯨のキーホルダーがマジックハンドの先に握られていた。
「こういった場所は他の地下鉄にもあるんですかね?」と僕は聞いた。「こんな場所は初めて見たから」
「どこの地下鉄にもあります。普通はお客さんに見えないような場所に入り口があるんです」だからと彼は続けた。「お客さんとここで会うのは、僕も初めてなんです。よく入り口がわかりましたね」
「やっぱり、入っちゃいけない場所でしたか?」
「そんなことはありません。入り口にも立ち入り禁止だとか、そういったものは書いていなかったでしょう? ここはそういう場所なんです。誰でも入っていい、別に業務になにも影響はないし、入っちゃいけない道理なんてものは何もないんです。なんたってここにはお客さんに見られて困る書類なんかはないし、危険も何にもない。ここは見通しもよくて駅員も僕一人で足りるくらいですから」
 なるほどと僕は頷いた。彼は相変わらずマジックハンドをごそごそと動かして、今度は白いビニール傘を穴から引っ張り出した。
「こういうのはてっきりホームの上から拾ってるもんだと思ってたなあ。ほら、地下鉄はわからないけれど、JRとかでは落とし物をしたら駅員を呼んでくださいみたいな標識を見たことがあるから」
「そういった、お客さんが言ってくれるゴミはいいんです。けどこの場所は、なんて言うかな、認識されないゴミって言えばいいんでしょうか、ひっそりと線路に落とされて、そのまま気づかれないで、道床に転がってしまっているものを回収する場所なんです」
 彼はそう言うと、今度はズルズルと、なんだか長い紐のようなものを道具の先にクルクルと絡めながら引っ張り出した。
 ふと、彼の足元に目をやった。そこには彼がたった今、僕の目の前で回収したペットボトルや、鯨のキーホルダー、ビニール傘が置かれている。逆に言ってしまえば、それしかないのだ。確か彼は、僕がここへ来る前から穴を見ていたはずだけれど。
「……ここで拾ったゴミはどうしてるんですか?」
 彼は彼自身の足元に目をやって、次に僕を見た。
「ああ、向こうにこのゴミを回収する穴があるんですよ、そこに全部入れちゃうんです」彼は昇りのエスカレーターあると言った方を指さした。
 そう言うと、彼はまた穴にごそごそとマジックハンドを突っ込んだ。
「けれど先が見えないのに、よくこんなにうまく取れるもんですね」
「コツがあるんです。寝起きで意識がぼんやりしていたり、目を瞑っていたとしても、電気のリモコンだとか、携帯電話だとか、そういったものを手探りで自然に手に取れるみたいな、そんなコツが」
「長いんですか? この仕事」
「ええ、もう9年ほどやってます」
「へえ、そんなに」
 彼はそんなことを話しながら、それでも手は休ませずに、その暗い穴の中を、マジックハンドを己の手の延長にしながら探り続けていた。
「けど、線路にこんなにゴミが落ちているなんて気が付かなかったなあ。上から見ているぶんにはゴミなんて落ちてないように見えるんですけどね」
「それこそが認識できないゴミってことなんですよ。落としても気がつかない、そういった、その人にとって必要のないもの、なんていうんでしょう、その人の人生の代謝、脱いだ皮膚みたいなのを僕はここでさらっているんです」
「人生の代謝?」
「人の皮膚ってのは大体一か月くらいで新しい皮膚に変わるんです。古い皮膚は垢とかフケみたいになって剥がれていく。その身体から離れていく古い皮膚をいちいち意識するでしょうか? そういう無意識な、今の自分に必要のないモノっていうのを人ってのは体の外に、或いは自己のコミュニティの外に掃きだしているんです。そういった無意識のゴミのことです、僕が言いたいのは」
 彼はそう言いながら手元をカチャカチャと動かして、ムッと言った。
「なんだか中で先が何かに引っかかっちゃったみたいです。お客さんに頼むのも悪いんですが、ちょっとこの柄を持っていてくれませんか? 持っているだけでいいんです」
 僕は言われるがまま、そのマジックハンドの柄を彼から受け取った。すると、彼は壁に近づいて、穴を見上げると、両手を伸ばして(ひどい猫背で気が付かなかったが、背筋を伸ばした彼の背は恐ろしく高かった)その穴の縁に手を引っかけた。そして懸垂のように身を持ち上げると、彼はモゾモゾとその中に入っていった。
「大丈夫ですか?」と僕は穴に向かって叫んだ。
 するとその穴の中から「大丈夫です」と淡泊な返事が返ってきた。そして「僕がお願いしますと言ったらその柄を引いてください」と彼は言った。
 僕はただ「わかりました」とだけ言って、彼の言葉を待った。けれど、いくら待っても彼の声が聞こえてくることはなかった。僕はもう一度「大丈夫ですか」と叫んでみた。ただ、今度はその言葉に返事はなかった。
 1時間は待っただろうか? 実際にはほんの10分程度だったかもしれない。僕はそういった恐ろしく長く感じる時間を、ただ柄を握り、ボウッと穴を見つめて待った。そして心のどこかで、もう彼は戻ってこないのだろうという気持ちが沸々と高まっていった。またそれから暫くして、僕はふと、その柄を手前に引いてみた。すると、やっぱりそれはなんの抵抗もなく穴から抜けてしまった。
 僕は結局、それを壁に立てかけて、彼が言っていた昇りのエスカレーターのある方へ向かった。暫く歩いていくと、それは確かにあった。僕はそれに乗ってしまうと、低く唸るエスカレーターに揺られながら、元いた地下鉄のホームへと帰還した。
 ただ、そのエスカレーターに乗るときに、辺りをチラッと確認したけれど、彼の言っていたゴミを捨てるための穴といったものはどこにも見あたらなかった。

地下鉄

地下鉄

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-06-02

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