玄さん(閉店する老舗料理屋のお話し)

上松煌

『   各位様
  長らくご愛顧を賜って参りましたが、一身上の都合にて、5月末日をもちまして閉店致しました』
それだけが筆書きされた真新しい張り紙を何度も読み返す。
素っ気ないとも思える切り口上に、店主の性格がにじみ出るようだった。
(玄さん、最後まで相変わらずだね)
心がつぶやく。

 明治の文人宅のように、華美ではないが細部に凝った造り。
日本の風土に合った、木と紙と漆喰と職人技のたたずまいだ。
門は昔は柱に横木(冠木)を渡しただけの簡素な冠木(かぶき)門だったが、バブル全盛のころに屋根を渡した「棟(むな)門」に変わった。
そのまま、これといった変化もなく現在に至り、日本建築の粋を見せながら古びている。
いつもは開け放してある格子の引き戸も今日は閉ざしてあり、いかにも終わった印象があった。

 引き開けて亭内に踏み込み、いくつかの踏み石に導かれて打ち水に清められた玄関に至ると、右の灯篭にはいつもどおりに灯りが入れられている。
電気ではなく、和ろうそくの暖かい光と香りだ。
黒竹の根元の小さな池にはヒメダカがつんつんと群れている。
気の置けない客を迎えるように玄関戸は開けてあり、屋号を入れた障子紙を通したなじみ照明がオレンジ色に点っていた。

 「こんばんは」
声をかけると小柄な女将さんが、粒のそろった玉砂利を埋め込んだタタキに飛んで出てきた。
そうだ、従業員はもう、だれもいないのだ。
「まぁまぁ、わざわざのご足労、申し訳ございません。さぁさ、今夜は先ずこちらで」
嬉しそうに言って、店主の手際を間近で目に出来るカウンターへいざなう。
かつては常連が予約しても中々取れない、一晩に数人のみの特等席だった。
三日月のように湾曲した1枚板をそのまま使った意匠が、簡素なこの小部屋を柔らかな雰囲気に仕上げていた。
「おお、社長さん。済まんですねぇ、お先代さんからのご贔屓のあなたと、最後にご一献と思い立ちましてね」
「いや、なんともうれしいお招きです。玄さんのお心づかいに、父もどれほど喜んでいることでしょう?」
最敬礼し合う堅苦しい挨拶を和めるかのように、女将さんが椅子をすすめ熱いおしぼりを手渡してくれる。
6月初めの梅雨めいた大気に、しゃきっとした熱感がなんともうれしかった。

 「酔鯨は氷温がお好みでしたね」
せっかちな酒飲みの気持ちを読んだかのように、さっそく冷やしたグラスに土佐の酒を注いでくれる。
これは自分の夏の好みで、酒を凍る寸前まで冷やし、同じように低温にしたグラスに注ぐと、アルコールが羊歯の葉状に軽く凍る。
それを口に含んで飲み下すと、溶けきれない薄氷が喉の通過時に「しゃりっ」という物やわらかな音を立てるのだ。
微妙な温度加減でのみ堪能できる爽やかな楽しみだった。
「あっしはね、社長さんの飲み方を最初見ましてね、今どきの若けぇもんはなんつうコトやってんだと思ったんですがね。ま、横っ面をね、こう、パチ~ンとしたいくらいにね。だが、考えてみりゃ、あっしらが手本にしている酒の飲み方は冷蔵庫が普及しないか、性能があんまり良くない時代のことでして。ま、時代が変わればそれもアリかなぁって、ひとつ勉強しましたよ」
「え~?、一家言のある玄さんに勉強なんで言われちゃ、かえって恐縮です。酒飲みは卑しいもので美味い酒の飲み方には貪欲なんです」
「う~ん、違ヴぇねぇ。実はあっしもね、真夏のごく暑い時はちょっくら試したりしてんでね」

 玄さんが江戸っ子らしい伝法な口調を小出しにして笑ったので、一気に場がなごんだ気がした。
同時に、自分が言うのも生意気だが、この人もずいぶん丸くなったなぁという感慨がわく。
昔なら、だれが何と言おうと、自分の主義主張は変えなかった人だ。
人は時の移ろいとともに変化して行くのだろう。
だからなおのこと、畳んでしまうという店を惜しむ気持ちがわいてくる。

 多分、このコロナ禍も影響しているのだろう。
こうした昔ながらの素材にこだわる和食店は、意外に薄利なのだ。
美味いもの、高級食材はそれなりの値段がし、客を飽きさせない季節の品ぞろえや品質の維持、演出にも金がかかる。
今どきの我慢の足りない職人たちをなだめたりすかしたりの育成にも、時間と神経を使うのだ。
それでもよほどの有名店でない限り、高値をつければ客足は遠のいてしまう。
合成甘味料などの食品添加物になれてしまった舌には本来美味しいはずの天然素材が「抜けた味」「美味しくない」と感じてしまうことすらあるのだ。
コストの高い自然食材に真面目にこだわればこだわるほど、店主の首がしまってしまうという笑えない事実を巷の人々は知っているのだろうか?

 「じゃ、先ずは春の名残から行きましょう。櫻葉の寄せ物です」
玄さんの声に我に返った。
いつもどおりの、気品高い前菜の登場だ。
客の舌がまだ酒に酔わない敏感なうちに、季節の微妙な香り物を出してくる。
いわゆる八重桜の塩漬けのゼリー寄せで、周りを適宜に塩を抜いた櫻葉で軽く覆ってあるのがいい。
薄ピンクの花を堪能したあとで、更に香り高い葉を口にできるのだ。
鼻を抜ける甘い独特の桜の香りを、厳冬を思わせる冷たい酔鯨で洗い流すと、本当に行く春を惜しむ気分になって、つくづく日本人でよかった気がした。

 「お次はセリのお浸し。ま、若い人好みではないでしょうが、あっしゃ、これが妙に懐かしくって外せない食材なんでさ。社長さんは今、土佐の酒をお飲みですから土佐醤油であがってください」
「ありがとうございます。うん、鮮烈、鮮烈。舌がシャキッとしますね」
だが、6月の今頃まで、春先のセリをどうやって保存したのだろう?
日本は南北に長いから北海道辺りからでも取り寄せたのだろうか、これも間違いなく春の名残だった。
小さな器は金沢箔を張った塗りもので、先ほどの桜葉の鼠志野とは違い、深緑のセリが照り映える趣向になっている。
盛り付けや器の趣も料理を楽しむ重要事項だ。
だから、和食の料理人は世界でも類がないほど器に凝り、北大路魯山人ならずとも創意工夫で自分好みのものを作ってしまう人はけっこういる。

「さ、香りものばっかじゃ年寄り臭くていけねぇ。次は凌ぎで、かわいく手毬寿司をね。お先代さんのお好きだった生け締めのクロダイにさっきまでピンピンしていたタカベ、ちょっと早いがコチの洗いを握ってみました」
ちょっといかつい織部の角皿に、丸い白身がころころとやさしい。
これは懐かしさもあって本当にうれしかった。
特別珍しい素材ではないが、この3品はどれもちょっとクセのある魚で、臭みの出やすいこともあって生の扱いは難しい。
生前、親父は玄さんを見込んでいて、他の店ではほとんと注文しなかったシロモノだ。

 「ああ、アルコールで活発になっていた胃が落ち着きます。親父の好みを覚えておいてくださってうれしいです」
「いえいえ、あっしゃあ、お世話んなりぱなしで…。生意気盛りで飲む打つ買うの道楽息子、今で言う落ちこぼれってんでしょうかね?そんなあっしを勘当するってぇうちの親父を何度も押しとどめて下すった。ろくなお礼も出来なかったのが心残りでさ」
「いや、父は良く言ってました。玄さんには余人にない舌と職人向きの勘がある。本物だって。あの息子さんを追ん出したら『松嵐閣(しょうらんかく)の損失だって」
「ありがてぇねぇ。…その放蕩息子も今じゃ、お先代さんの年ですよ」
「本当に光陰矢のごとしですね。父は子宝に恵まれにくくて、おれを授かったのが50でしたから。あと6年で山本五十六だったって悔しがってましたもん」
「あはっ、さっすが剛毅なもんすねぇ。…じゃ、椀物で口直しして、次は獺祭を常温で行きましょうや」
玄さんの口調がしだいに砕けたものになっていくのが楽しかった。

 椀は塗りの流水紋で、はしりのハモが見事な菊花を咲かせ、椀の意匠を踏まえて菊水をかたどっている。
ぬめりのあるジュンサイを合わせてあって、繊細なハモのじゃまにならないよう、さっと炊いたカツオ出汁で出てくる。
花芯に見立てた定番の梅肉が上手に味覚を刺激して、氷温の酒に冷えた消化器官がほっこりと温まる。
(今日はいくらでも飲(い)けそうだなぁ)
楽しい想いがほおを緩めた。


          * * * *


 椀物を堪能した後は、季節の造り物(向こうづけ)が1品づつ小出しにされる。
酒の銘柄と温度を変えてあるので、新たなステージの展開だ。
先ず、つるっとした京焼の白磁でサヨリが来た。
下あごの長い独特の形状のこの青魚はさっぱりとした味わいがいい。
わざわざ藤造りに整えてフジの葉に見立てた木の芽が添えてあるのも、やはり春の終わりの演出なのだ。
「ああ、いいですね。食べるのが惜しいようですよ」
言いながら、もう箸は伸びている。
「今の6月って時期は微妙でね。春と夏のせめぎ合いだ。掛け値なしに美味い旬には早かったり遅かったり。ま、それだけに職人にとっちゃ面白い時期ですよ」

 確かにそうなのだろう。
次は備前焼に、とりどりの薬味を従えたカツオが出たからだ。
「あ~っ、初カツオまんまの香りです。贅沢だなぁ」
「上りガツオに初をつけるのは5月までを言うんすが、生き物なんで本当は毎年旬が違う。今年は冷水塊が広かったんだろうね、6月でもまだ本州中部であがるんでさ」
う~ん、この爽やかさ。
冷水塊よ、ありがとうという気分になる。

 「お次はお待ちかねの本マグロの大トロに車海老といきやしょう。お好きでしょ?」
「ええ、すごくうれしいです。生前の父は中トロが好みで、大トロは粋じゃないっていつも怒られてましたから」
「あはは、蓼食う虫も好きずきってね。年寄りにゃ油がくどいが、若い人はそこが堪えられねぇってんだから。ま、お江戸のころにゃ、大トロは肥料にされてましたがね」
金泥も使われた華やかな赤絵皿に、紅白に見立てたピンクのトロと透き通ったエビの白が並んでいる。
絵柄に凝った花鳥の明治九谷は自分好みであったから、このひと皿は目も舌も楽しませるものになっていた。
造りの止めは意外にも、魚に似せた刺し身こんにゃくだった。
玄さん流のユーモアなのだろう、青絵で小さな沢ガニを描いた長皿に笹船に折ったクマザサを置いて、白・黒・青海苔の3種が盛ってある。
ひんやりと冷えていて、常温の山口の酒、獺祭のコクと香りを印象付けるものになっていた。

 次の肴(焼き物)は最高の演出で、しばし見とれて箸が付けられなかった。
軽く角の立った四方盆に若鮎の塩焼きが出たのだが、一幅の軸、いや、盆景の体をなしている。
真っ白な粗塩を竹刷毛で巧みに掃いて渓流の瀬に見せ、奥にはクジラの竜田揚げの岩、手前には蛇腹に重ねた焼きアワビの川原を置き、その真ん中を遡上するアユの背が、真上から川面を覗いたままに形作られていた。
「う~ん、これはすごいですねぇ…」
適宜に配された、竹トンボの羽のような実をつけた青もみじの葉が、初夏を如実に物語る。
「いや、川背海腹ってね。川魚は本来、背を正面に見せて盛る。海の魚は腹が手前でいいんだが、今じゃ、川も海もなくみんな腹を見せて盛ってる。ま、そのほうが食いやすいと思ってるんだろうが、時代とはいえ寂しいものですよ」
「実は恥ずかしながら、32の今、この形式初めて見ました。川魚は背骨を外すんで、背を揉みますよね。この形態の方が外しやすい気が…。これって、現代の盛りつけの方が間違ってますよ」
「ま、きちんと歴史を踏襲しない職人も悪いんですよ。ミシュランだ何だ、和食のなんたるかも知らず、ヌーベル・キュージーヌとか言う日本食にヒントを得た食い物を出してるどっかの国の等級づけをありがたがってるテイタラクだ」
これは実に納得できた。

 「ええ、おれはミシュランの星いくつとか言ってるトコには絶対行きませんよ。だって、ミシュランって元来、タイヤ・メーカーですよ。とても食い物の価値なんかわかるとは思いませんね。まして、長い文化歴史・風土伝統に裏打ちされた世界に冠たる日本食をね。ま、モノを知らない日本人だけでしょうが、西洋に甘チャン過ぎますよ」
甘チャンという言葉に、玄さんは可笑しそうに笑った。
「あははは、意見の一致を見やしたね。うれしいねぇ。じゃ、社長さん、そろそろ席を変えましょう。奥座敷で、こう、ちくっと飲(や)る趣向でさ。…で、ね、まぁ、最後なんでなんつうか、あっしもお相伴をお願げえしたいんで」
「ええ~っ?玄さんと飲れるんですか?願ってもないですよ。うれしいなぁ。ああ、父が生きてたら、どんなに喜んだだろう」
思わず声が弾んだ。
「いやいや、お先代さんとはけっこう差し向かいで飲ってましたよ。閉店間際の座敷の片隅でね。今となっちゃ、目からしずくが垂れるほど懐かしいっすよ」

 「ああ…」
と言ったきり、言葉が出なかった。
親父は幸せ者だ。
歳月を経てなお、過ぎた昔を懐かしみ、涙が出る思いをしてくれる知人がここにいるのだ。

 
          * * * *


 いざなわれた先は、数回しか通ったことのない格調高い奥座敷だった。
細かい江戸組子の付け書院と一間の床の間に違い棚を添えてある。
欄間は井波で、籠彫り(かごぼり)という技巧を用いて、次の間とは意匠が違う造りになっている。
つまり、一枚板の裏表が異なる図柄に彫ってあるのだ。
二間続きの座敷は開け放してあって、縁と庭の向こうは目黒川に面している。
昔はそこから舟遊びに出られたそうで、松嵐閣の名の由来になった太い松の木が、今も数本残っていた。
もちろん、風情はこの亭内だけで、その周りは当然ビルばかりだ。

 時代劇でよく見る大名膳がしつらえてあって、脇息に身をゆだねてあぐらをかくと「のう、越後屋。おぬしも…」と悪代官にでもなった気分になる。
女将さんがさっそく、軽く燗をつけた宮城の銘酒男山を猪口に満たし、上品な蓋物(炊き合わせ)を出してくれた。
思わず笑みがこぼれそうな、ふっくらとした湯葉が見事だ。
「玄さん、やっぱり閉店するの、もったいないですよ」
差し向かいで酒を飲む気やすさで、ついつい本音が出てしまう。

 玄さんはクスリと笑う。
「ま、そう言ってくださる方々は多くいらしてね、あっしも職人名利に尽きるんだが…。昔をつらつら鑑みるに、生まれついての頑固者。若気の至りとはいえ、口より先に手が出ちまう性分でして。女房にもずいぶん苦労をかけちまって…。いや、女は殴らねぇ。でも、男にゃその分手が早くてね。よく警察にもらい下げに来てもらいやしたよ」
「あはっ、父から聞いてます」
そうなのだ、この人は本当に喧嘩っ早かった。
本人もわかっていて最初は口で説明しようとするのだが、適当な言葉が見つからないとすぐにジレて鉄拳が飛ぶ。
門前のぶっきらぼうな閉店の張り紙は、あれでもせいいっぱいの口上に違いなかった。

 「いや、お恥ずかしい。ま、そんなこんなの罪滅ぼしっつうか。老い先短いこの先、大事な女房にちったぁ楽しい想いをさせたくてね、コロナ騒動がいいきっかけでしたよ」
「まぁ、お気持ちはわかるんですが、もったいない。食文化的にも惜しいです」
この言葉は世辞でもなんでもない。
「いやいや、なにごとも惜しまれるうちが花ってね。店も人も引き際が肝心ってことっすよ」
「ええ…まぁ。それはそのとおりですけど…」
我ながら、引き留める言葉に力がこもらなくなる。

「あっしらには子がいないんでね。心残りっつったら女房だけですよ。店ぇ畳んだら、どっかの暖ったかい温泉地にでもね、小っけえ庵(いおり)でも結んでのんびり暮らそうかなんて口を向けたらね、あらぁ、いいじゃないなんて言いやがるんっすよ。鶴の一声でしたね」
完全なダメ押しだった。
ここまで言われては反論の余地はなかった。
「ああ、いいですねぇ。うらやましい…」
ついつい賛同してしまう。

 女将さんがそっと入って来て止め肴(酢の物)を出してくれる。
「あ、女将さん、今、お噂してたんですよ。玄さんが店を閉めるワケがやっとわかって、たった今納得したとこです」
「あらあら、この人はなんでもペラペラしゃべってしまうものですから。おおかた、バアさんが不憫で閉めるんだ、とかなんとか言ったんでしょ。都合の悪いことは何でもあたしのせいなんだから」
「へっ?冗談云っちゃいけねぇ。ったく、亭主を口軽みてえに言いやがって」
玄さんが膨れる。
「まぁまぁ、せっかくなので女将さんも一緒にいかがです?ね、玄さん、最後に3人で水入らずってのは?女の人が席にいるってのはいいもんですよ。ね?お互いに地を出した無礼講でいきましょうよ」
「あら、まぁ。…よろしいんですの?嬉しいこと…最後の思い出ですわ」
間に入って水を向けると、女将さんはすでにニコニコとその気だ。
本当に素直な人で、屈託なく明るい人となりはまさに玄さん向きだ。
夫婦(みょうと)の仲を取り持つという出雲の神様は、実にいい仕事をしたことになる。

 「社長さん。いいんですかい?…おい、特別のお計らいだ。おめえも燗酒と猪口を持ってこい」
言いつつ玄さんもうれしそうに立ち上がる。
そして出て行ったかと思うと、酒肴を満載した盆を持った女将さんと肩を並べて、彼女のための大名膳と脇息を持っていそいそともどってきた。
全く、年配の睦まじい夫婦とはいいものだ。

 ついでに座を縁側に移した。
玄さんが気を利かして滝を落としてくれたからだ。
庭池は縁の内側まで来る作りになっていて、水音に揺れる水面には太った錦鯉が遊んでいた。


          * * * *


 3人で仲良く縁先に並ぶ。
だが、玄さんも女将さんも縁側にじかに座っている。
「あ、座布団を使ってください。縁板で痛いでしょ」
気を回して言葉をかけたが、
「冗談言っちゃいけねぇ」
即座に玄さんの声が帰って来た。
「席には仕来たりってものがあってね。座布団を使えるのはお客様だけです。たとえ、あっしが日本中の板前を従えるような亭主であったとしても、お客の前では床に座るってのが決まりだ。ま、無礼講なんで膝は崩させていただきやすがね。…おい、おめえも右にならえしろ」
ちんまり座ったおかみさんをうながす。

 「では、ちょっと失礼いたします…」
70近くても、和服の女将さんがくつろいだ感じで横座りになると、そこはかとなく色っぽい。
(いいなぁ。やっぱ、独り身はつまんないかな…)
何となく自分の来し方が思われた。
とにかく自分も縁板に座った。
いくら客の立場でも年配者を差し置いて座布団にいる、というのは威張っているようで落ちつかない。

「さ、ちょっくらちょいっと召し上がってくだせぃ。酢の中身は天然のアレなんですよ」
声を掛けられて、急いで黄瀬戸の覗きの中を見る。
「え?天然って…ひょっとしたらフグ?今の時期で天然ですか?珍しい」
ちょっとびっくりして言うと、玄さんはすすり上げるように鼻をうごめかした。
得意な時か、もしくは人をからかう時の癖だ。

 「えへっ。トラフグは冬のもんだって、皆さんお思いでしょ?ところがギッチョン、天然ものの産卵は春先から初夏まででしてね。ま、毒性は強まるんだが、江戸期にゃ夏フグつって普通に食されてやしたからね」
「え~っ、スゴイ。養殖でない夏フグなんて初めてです」
この演出は玄さんならではだ。
いくら免許は持っていても腕に自信がなければ、毒の強い時期の天然フグなんか怖くて客に出せない。
さりげなくこれが出来る技量とセンスは、惜しんでも惜しみきれない。
この松嵐閣を失ったら、果たして自分には次の贔屓が見つかるだろうか?

「江戸ではね、フグはこう舌先がピリピリしびれるくらいでなきゃ、食った気がしねぇっつったって言いまさぁ。フグは食いたし命は惜ししってのは、なにも落語の話ばかりじゃねえってことです」
え?冗談じゃない。
フグは神経毒だから、ピリピリした時点ですでに中毒しているのだ。
その後、呼吸困難や運動麻痺が進行するが、死の直前まで意識はしっかりしているというから恐ろしい。
「え~?清水の舞台から飛び降りる気分ですよぉ」
脅しだとはわかっていても、いや、やんちゃな玄さんなら、棺桶に指先突っ込むくらいのことはやりかねないからちょっと情けない声が出た。
これが美味いとなったら、毒性だろうが不健康だろうが頓着しない。
あのB級グルメのワサビ巻き。
本ワサビに葉や茎・カラシを混ぜ込んで、香りは高いが高血圧になりそうな逸品に仕上げた本物の元祖は、この人だと言われているくらいだ。
そう言えばテトロドトキシンの効き具合は、確か個人差があるのだ。
自分は敏感な方だったらどうしよう。

 「こっち。このふっくら太ったのが、時知らずってぇ、産卵期にメスにあぶれちまったオスの白子でさ。めったに手に入らない貴重なシロモノです」
なんだかとんでもないものが出てきたようだ。
食通の世界は本当に奥が深い。
「ええっ?天然フグって血液や生殖器にも毒があるんでしょ?だって、白子って精巣でしょぉ?」
「だからね、どこまでピリッと来るかが運命の分かれ道。さ、あがってください」
ニコニコと勧められると、よけいに躊躇する。
下痢や腹痛くらいで済めばいいが…。
「はぁ…。いや、え~と」
戸惑って思わず女将さんを見ると、ニッコリとうなづいている。
それで決心がついた。

 背筋のゾワゾワを押さえてやんわりと口に含むと、濃い目のポン酢が臭みをきれいに消して、じんわりと濃密な滋味が広がる。
気のせいか、身体が元気になる気がする。
味はピリッともしないで滑らかだ。
「あ…。美味しい。まったりと優しくてすごく美味いです。も~、中毒してもいいや」
さっきとは打って変わった自分の言葉に、玄さんと女将さんが同時に笑った。
本当に子供のように楽しそうに笑い転げる。
今までほとんど気付かなかったけれど、玄さんにもおかみさんにも、こういう無邪気な一面があったらしい。

 「社長さん、トラフグの白子はね、天然ものでも毒性はないんですよ。ひと口に内臓に毒があるって言っちゃうから、皆さん、間違える方が多いんですけど、絶対食べちゃいけないのは卵巣の方です。でもね、怖いのは彼岸フグという種類はトラフグに匹敵する美味しさで大きさも似通っているんだけど、そっちは白子にも毒があるの。いつだったか、フグ専門店で中毒事故があったのは、トラフグではなく彼岸フグだったんです」
女将さんの解説に、32にもなって恥ずかしながら無知だったことがわかる。
「ったくなぁ、職人も堕ちたもんさね」
玄さんが鼻息荒く言って、男山の燗を飲みほした。


          * * * *


 「じゃ、おしめえにもう一丁、フグ行きましょうや。さっきみてえにおフザケじゃなく、真面目なヤツを」
その声に女将さんが身軽に立って、小ぶりの火鉢を用意する。
なにが出るのだろう?
「下関の郷土料理をもじったものでね、フグの朴葉味噌ってのをひとつ。朴葉はね、今の時期は香りが立つんで、フグを包んでざっと蒸してみたんですよ」
言いながら、くるっと葉で巻いてむくろじで止めたものを、ゆっくりと丁寧に火鉢であぶる。
「こうやって、葉がちょっと焦げたものからあがってください」

「あっ、これ。燗酒に合いますよ。葉の青臭さとピリ辛味噌が絶妙。フグって焦げたほうが香ばしくて好みです。うん、いい。この噛み心地。ホント、酒進みますよ。これこそ酒盗だなぁ」
矢継ぎ早の感想になった。
「あはは、こっちのピりはトンガラシですからね。いくら舐めても大丈夫でさぁ。社長さんは止めの飯をあがらないから、フグにちょっくら飯を包んどきました」
「ありがとうございます。焼き飯になってて美味いです。本当はご飯を口にしたほうがいいんですよね。あとでお腹すいちゃうから」
何気なく返事したつもりだった。
「そう言えば社長さんはまだ、おひとりでしたよね。お食事なんかはどうしてらっしゃいます?」
女将さんがやんわり聞いて来る。
声の調子から、いろいろな人から何度もされた話に移行しそうな気がして、ちょっと警戒する。
「あ、いや、まぁ、外食が多いですが別に不自由していませんし、生活面でも問題ないです」
フグをほお張りながら、そつなく答えておいた。

 「ま、便利な世の中っすからね。でもね、社長さん、食い物も人間も旬、つまり時期ってものがあるってのをご存じですかねぇ。32歳におなりでしょ?」
えっ?
玄さんもグル?
席をカウンターから、心理的にくつろげる奥座敷に移したのもそのせいだろうか。
「実は姪っ子の娘に、いい子なのになぜか縁遠いのがひとり居やしてね。ま、彼氏はいたようですが内気で愛だ恋だにゃ疎いようでね。27になるってえのに、まだ結婚にゃ至らない」
さりげない言葉に続いて、
「ほら、ご存じでしょうが、今の世の中、一旦結婚しちゃうと豹変して浮気だDVだっていう人が多いって言いますでしょ?女の子は真面目な子ほどいろいろ感えちゃって縁遠くなるみたいなんですよ。ホントにねえ、若い身空で大変な世の中だこと」
女将さんもいっしょになってジリジリと間を詰めてくる。
その手の話は確かによく聞くから、あたりさわりのない返事をするしかない。
「ああ…。まぁ、そうでしょうねぇ…」
「社長さんだって、死ぬまで独り身を続ける気はねぇでしょ?今は若けえからいい。だけど、年ぃとっちゃミジメだ。男やも目にウジがわくってね。ま、その姪っ子の娘ってのはね、学はあるんだが生意気じゃねえんで社長さん向きかなぁって…。いつ話そう、いつ話そうって、随分めえから心がけていたんすよ」

 なんだか、額に汗がにじむ気がして箸が止まる。
とにかく、自分の今の気持ちを素直に表明して、ご理解いただくしかない。
「いや、あの、旬があるっていうなら、自分はまだ旬じゃないってことです。社長業ってのは責任が大きい。自分の後ろには社員やその家族がひかえて運命共同体を形成してるんです。おれは決して器用な人間ではないから、采配を振るうのにも集中して全力投球する。今はその最中です。正直言って、まだ嫁や子供はいらないんです、ジャマなんです。だから、結婚したらお互いに不幸になるパターンですよ」
「いや、よ~くわかりますワ。あっしもね、若けえころ、今の社長さんとおんなし。でもね、こりゃぁ不思議。家内とは見合いだったんすが、その席でピりピリピリ~ッと。もろ、フグ毒に当たっちまいやした」
「それは縁があったからですよ。すべてその調子なら、喧嘩も別居も離婚もないです」

 自分では気のきいたことを言ったつもりだった。
だが、海千山千の年配者には、想定内の返事のようだった。
「でも、人間はやっぱり、一人では生きられないですわ。年を取るとね、自分が今まで苦もなく出来ていたことが、だんだんに出来なくなってくるの。その寂しさと不安と言ったら…。家族は絶対必要ですよ」
う~ん、確かにその言い分もわかる。
だが、それはあくまでも結婚に成功した人の話だ。
「いや、いい家族ならイイですが、状況や妻子の性格により、足を引っ張るような事もないとは言えないでしょう?おれたち男はそれを心配してるんです。結婚後、豹変するのは男ばかりじゃないですから」
言いながら猪口を飲み干す。

 「いや、さ。社長さん、食わず嫌いはいけねえなぁ。さっきの天然の白子だってそうさね。最初、泣きそうな顔で食いついてたのに、後は美味くて日本晴れだ。昔から言うじゃあないすか。馬には乗ってみろ、人には添ってみろでさ」
結論は出たと言った感じの玄さんのドヤ顔だ。
この人らしくて笑えるが、今はのん気に笑ってはいられない。
両側から責められて、防戦一方なのも情けない。


          * * * *


 席をはずしていた女将さんが茶を持って戻って来た。
よかった、今夜のところは逃げられそうだ。
「いや、思いもかけないお話しで、一気に酔いもさめちゃいました。それで、あの、誠に僭越ですが、お二人の前途のお祝いにお餞別を。ほんの心ばかりです」
居住まいを正して、心からののし袋を差し出す。
話題を変えるのにはちょうどいい。
「いけねえや、社長さん」
案の定、玄さんは眉をひそめる。

 「実は、ね。店ぇ閉めるついでに、ここを売り払ったんすよ。そしたら目ん玉が飛び出るくらいの値段で売れましてね。ま、税金も目ん玉が飛び出るくれえ取られたんですが、そんでも年寄り2人が半世紀くらい生きられるほど残ってね。もう、金ってやつの面ぁ見たくねえってバアさんも言うんで。これはお引き取り願いやす。こんなことしてくださるんなら、おたくの会社の社員さんのボーナスでも増やしてやってくだせえや」
「そうですよ。主人の言うとおりです。社長さんにお恥をかかせて申し訳ありませんが、お金は必要ありません。ね、それより先ほどの話をよくよくお考えいただければ、どれほど嬉しいか知れやしません」
さすが人生の先輩たちだ。
見事に搦(から)め手から来た。

 「いや、あの、これと先ほどのお話は別問題です。餞別を受け取っていただけなければ、きっと父も悲しむと思いますので…」
やんわりと泣き落としだ。
「いんや、受け取れねぇ」
玄さんは頑固にそっぽを向く。
「いや、おれもこればかりは引っ込めるわけにはいきませんっ」
こっちも言葉に力がこもる。
まぁ、全く予測していないわけではなかったけれど、意地と意地のぶつかり合いになった。
「あらまぁ、強情っぱりが2人も」
女将さんが笑う。
「では、お餞別はいただきますわ。本当にうれしく思います。お先代さんも含めた社長さんのお気持ちを確かに有り難く頂戴いたしました」
丁重に頭を下げてから言葉を切って、にっこりする。
「さぁ、では、いただいたからにはお餞別をどうしようとこちらの勝手。いずれ社長さんのお為に使わしていただきますので…。神代の昔から、ご縁は異なものと申しますから」

 目に口ほどに物を言わせて、やんわりと後の言葉を濁した。
(あれ?おれ、女将さんにうまくやられちゃったのかな?)
疑問は残るが、とにかくこの場はおさまった。
香り高い茶を飲みほして松嵐閣を辞す。

 玄さんと女将さんが中睦まじく見送りに出てくれた。
お互いに少し未練を残しながらも別れを告げ、呼んでもらったタクシーに乗り込む。
(ふ~ん、27で縁遠い姪っ子の娘さんねぇ。女将さん似だったら優良物件、玄さん似だったら瑕疵物件だな)
所在ない車の中で、なんとなく興味をひかれるのはなぜだろう?
直線道路を50メートルくらい進んで、松嵐閣を正面にから見わたせる最後の角で振り向く。
隣りのビルの明かりに照らされて、まだ見送ってくれている2人の姿が幻のように浮かんで見えていた。
思わず窓から手を差し出して振る。
他人の域を越えた懐かしさのようなものの向こうに、ほのかな出会いが見え隠れする気がした。

玄さん(閉店する老舗料理屋のお話し)

玄さん(閉店する老舗料理屋のお話し)

自粛もあってしばらく仕事に特化していたんで、美味いものが食いたくなって書きました。 季節の和食の素晴らしさや、昔堅気の亭主の人柄…。世の中のマナーにもちょっぴり触れておきました。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-06-02

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