【鯉月】とこしえに仮初め

しずよ

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二次創作(腐)につきご注意ください。
お題メーカー「今日のふたりを見てみよう」で5/28に出たお題に沿ったお話です。
現パロ、社会人の鯉登くんと月島さんが同棲している家で、鯉登くんのお兄さんの子供を預かることになるのですが、そこでちょっとしたハプニングが起こります。

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 寝支度を整えた鯉登が「明日は何も予定はないな」と月島に聞くともなしにつぶやく。ベッドサイドの目覚まし時計とスマホのアラームを止めていると、鯉登より早く月島が布団へもぐりこんだ。その姿を見た鯉登は一瞬目を丸くして、それから満面の笑みになる。クローゼットの引き出しから、コンドームとローションの容器を取り出した。
 休前日でもそんな気がない時は、月島は寝る時間を鯉登とずらすようになった。それは一緒に暮らすようになって、次第に出来上がったふたりのルールのひとつだ。
 一緒に暮らし始めた当初は「隣に寝ていて何もない方がおかしい」とばかりに、平日休日の区別なく求めていたら「できれば平日は避けてもらえませんか」と月島がつらそうに打ち明けた。
 そんな陳情をされたら、譲るしかない。だが新婚みたいなものなのに、それはちょっと枯れてないか。だから鯉登は「いささか少ない気がする」と月島からも歩み寄ってもらう作戦に出た。
「……私は寝る時間を確保したいので、それならせめて帰宅直後に教えてください。そうしたら早く食器を片付けたり風呂からも早めにあがりますので」と月島から提案された。
「……そ、そうか」
 セックスは事前に通告してください、だなんて。
 事務的で情緒がないぞ月島! ごろごろいちゃいちゃして次第に盛り上がるのがいいんじゃないのか月島ぁん!
 言いたいことはいろいろあったが、鯉登の口をついたのは「善処する」のみだった。
 難しいな、と鯉登はため息をつく。同棲を始める前は、デートの日には月島もお泊まりをほとんど了承していたので、こんなことで悩むとは思ってもみなかったのだ。体の相性はいいはずなのに、タイミングや回数が合わないなんて。
 しかも事前通告したとしても「疲れているので」と断られる日もあるだろう。想像したら落ち込む。鯉登は自信家であり繊細だ。だから「いっそ月島から誘ってくれた方が早い」と考えたが、お互い爺になるまで誘わないような男が月島である。
 月島は堅物だからこそ月島なのだ。そんな月島に惚れているからしょうがないのだけれど。それでも自分に対してだけは、昼は淑女、夜は娼婦であってほしい。
 鯉登はふと疑問に思う。世間の同棲カップルはどのようにしているのだ。
 でも気軽に聞ける相手もいないから、鯉登は様々に思い悩んで、月島に気軽に触れることができなくなってしまった。セックスレスなど他人事だと思っていたのに。
 そうしてぎこちない期間が続くこと約二か月、先に態度が変わったのは月島の方だった。
 鯉登が寝る前の歯磨きをしていると、月島もすぐに洗面所へやって来て歯を磨き始める。そして鯉登が布団へ潜ると同時に月島も隣に寝転ぶ。それが三日間続いた。寝室はシングルベッドをふたつぴたりとくっつけているけれど、それでも境界線が存在する。月島がそのぎりぎりに体を寄せて眠ろうとしているから、鯉登はさすがに気が付いた。
「月島」と手を伸ばして頬をくすぐった時の、月島の安堵した顔がいまだに忘れられない。
 そんなふうにして四苦八苦してふたりが手に入れたルールが、もうひとつあった。
 それは「子供の話をしない」ということだった。
 年末年始は月島と一緒に鹿児島の実家で過ごした。同棲を始めて約半年が過ぎた頃だったから、月島にとっては初めての鹿児島長期滞在となった。つつがなく過ごして帰京した、はずだった。その後に兄から送られた姪の動画を見ていたら、月島がよそよそしくなっていったのだ。
 また余計なことを考えているな。
 鯉登はすぐにピンときた。
「付き合ってくれ」と口説いているときに、月島の反論が最終的に行き着くのがこれだった。
「私の両親は同性だから駄目だという偏見など持っていない」
「今時はそういうご両親は多いのですよ。でも他人の話には寛容でも、我が子の話だと別なのです。ーー多くの親は、かわいい我が子がその宝物となり得る子を持つことを、願っているのです」
 そんなことを言われると、実はそれは月島自身の願望なのかと鯉登は躊躇してしまう。私は、月島の未来を奪おうとしているのか。だから説得に勢いがなくなってしまう。
「……そんなこと、実際に月島を紹介しなければ、分からないではないか」
「確かに鯉登さんのおっしゃる通りです。しかし、それで拒否されたら別れますか? それか、ご両親の意見が分かれてそれでご両親が不仲になったら、鯉登さんはどうしますか? それから、将来あなたに他に……」
 月島は言うのをやめた。そして顔を背ける。
「月島、なんと言うつもりだったんだ」
 肩を揺さぶっても口は真一文字で、目を合わせない。
「私が誰かと普通に結婚すればいいと思っているのか」
「そうです」
「何度同じ話をした? それとも月島がそうしたいのか?」
「私にそんな人はいません」
 自分の話となると吐き捨てて、それから「あなたの貴重な時間を私なんかで食いつぶすべきではありません」と続ける。
 月島は繰り返しそう主張するから、鯉登は次第に疲れて熱意もしぼみ、ついに「距離をおこう」と提案した。まだ付き合ってないのだから、おかしな話という気もするが、結果的にこれが功を奏した。
 一月経ち二月経ち、そして三月目には会いたい気持ちが抑えられずに、月島の家を訪ねた。会ってくれないかも、との心配は杞憂で、部屋に招かれた。
 ふりだしに戻ったら、また説得を続けたらいい。この三ヶ月で大切だと再認識できたから、気力も十分だった。
 将来女性と結婚したとしても、子供を持てるかどうかは不確かなこと。子供がいたとしても離婚して会えなくなるかもしれないこと。あるいは、病気や事故で親より先に亡くなるかもしれないこと。
 鯉登がそれらを伝えようとしたら、月島が先に口を開いた。
「あなたに会いたいと思っていました」
 その言葉だけで十分だと思った。



 そうして苦労して思いを遂げたから、子供の話は極力避けようと鯉登は決めた。良好な関係を長く続けるには苦労を伴うけれど、だからこそ一緒にいる意義があると思っている。
 そして付き合い始めて一年が経過しようとしていた朝のことだった。
 特に予定のない土曜日だったから、翌朝のアラームはかけていなかった。ふたりともまだ眠っている時に鯉登のスマホの着信音が鳴った。眠たくて開かない目で画面に示された名前を確認する。平之丞だった。鯉登は慌てて通話を始める。時刻はちょうど朝七時。こんな朝から電話をかけてきたことはなかったので、何か嫌な予感がする。その音で月島も目が覚めたけれど、話の内容を聞かれないように鯉登は寝室からリビングに移動した。
 通話は手短に終わった。兄が困っていたので引き受けたのだが、さて月島にはどう伝えたらいいのか。ぐるぐる考えていると月島が起きてきて、鯉登に単刀直入に聞いてきた。
「電話、お兄さんだったんでしょう?」
「うん、そうだ」
「何かあったんですか?」
「……すまん、月島。今から、兄さぁの子供を預かることになった」



 鯉登の兄・平之丞は現在、埼玉県内に妻と二歳の娘の三人で暮らしている。二人目を妊娠中の妻が深夜に切迫流産になりかかり、とつぜん入院することになったとのこと。兄は入院の手続きや準備をしなければならないので、その間ひとり娘を預かってくれないだろうか? という内容だった。
 以前、一時預かりの託児所を利用したことはあるらしいが、娘本人が嫌がるのだと困っている。そして実家も遠く、すぐには頼れない。
「預かりましょう。帰省した時に、あなたよく遊んであげてたでしょう」
 月島はやけに明瞭に意見した。そして「なんで私に謝るんですか」とやるせない顔をする。月島にそんな表情をさせてしまう自分が情けない。が、付き合うまでの葛藤がぶり返さないか確認する勇気が持てなくて「一日中、いちゃいちゃできなくて申し訳ない」と抱きついてごまかした。月島は全く表情を変えずにムンと気合一声、難なく腕を振りほどいた。
 それから待つこと一時間半。ピンポーンと、エントランスのインターホンが鳴った。
「はい」と月島が応える。
「おはようございます、平之丞です」
「お、おはようございます! どうぞ」
「はい」
 月島はエントランスの扉を解除するボタンを押した。彼が兄に会うのは、今回で三度目だ。この部屋に引越し後、一度訪れている。玄関の靴を整え、廊下やリビングにほこり等がないかチェックした。そわそわと落ち着きがないのが鯉登にも伝わった。そして玄関のチャイムが鳴った。途端に鯉登が玄関まで勢いよく走る。ガチャ、と鍵を開けて扉を押した。
「おはよう、音之進。ほら、何ていうのかな?」
 兄が弟に挨拶をして、それから自分の足にしがみついて隠れている、娘に挨拶をうながした。
「おはごじゃ……ます」
「おはよう、よく来たな!」
 少し遅れて月島も玄関に現れる。
「おはようございます、ご無沙汰しております」
「月島さん、おはようございます。突然申し訳ありません」
 平之丞は音之進と同じ形の眉を寄せて、申し訳なさそうな顔をする。
「いえ、困った時は遠慮なくお声がけください。私もお役に立てるのが嬉しいです」
 月島がそう言うと、平之丞はうやうやしく「ありがとうございます」と返した。ベビーカーとマザーズバッグを預かり、三人で平之丞を見送った。


 三人での朝食後にテレビの幼児向け番組を鑑賞した後、月島は子供を連れて公園へ遊びに来た。
 二歳女児とどんな遊びをしたらいいんだ。来るまでは様々な想像をしては万が一のケースの心配をして、実は彼女が到着するまでにげっそりしてしまった。
 しかし公園に到着するや否や、二歳児はすでに砂場で遊んでいた幼児の輪に入って一緒に遊び始めたのである。様々な心配事は一瞬で杞憂だと分かった。第一段階クリアしたようで、少し胸をなでおろす。
「こんにちは」と幼児らの母親であろう女性たちに軽く会釈をして、近くで見守ることにした。友達の輪に入ったと言っても、まだ子供だけではうまく遊べない。なのでお砂場道具の奪い合い等トラブルが始まったら、大人が仲裁に入る。
 そうして過ごしていたら、母親のひとりに声をかけられた。
「こんにちは」
 月島は緊張した面持ちでオウム返しをする。「こんにちは」
 それから彼女は少し離れたところで遊ぶ姪に顔を向け「パパに連れて来てもらったの? いいわね〜」と微笑みかける。そうか、やはりそうか。月島は内心うなだれる。父親だと思うよな。普通はそうだなよな、全然似てないけど。そして心の中で謝る。こんな厳つい男が父親だと思われて、本当に申し訳ない。
 姪はというとそれには何も反応せず、必死に砂山のトンネルを掘っている。「パパじゃない」と否定されなくて良かった。月島は安堵した。もし幼児がそんな発言をすれば、連れ去り事案だと警察を呼ばれるかもしれない。平之丞にしてみれば、妻が突然入院するだけでもこの上ない心労だろうに、そのうえ愛娘が拐われたと警察から連絡があるなら、気の毒では済まされない。月島が最悪のケースを想像していたら、幼児の母親は次の質問をしてきた。
「どれくらいですか?」
「は、……はあ」
 どれくらい? 一体何の話だ? 月島は異国の言葉で質問されたような気持ちになった。たぶん簡単な質問なのに、何を聞かれているのかさっぱり分からない。すると彼女は自分で話を進めた。
「うちは一歳半なんです。お嬢さんは二歳くらいかしら?」
「あ、ああ! そうです二歳です!」
 年齢を聞かれているのだとようやく分かった。そうか、最初に子供の年齢を確認し合うのか。この公園では新顔ということで、その後もいくつか質問をされた。幼稚園の未就園児教室へ行ったことがあるか、どんな予防接種を受けたか、どんな習い事をしているか等々。
 はっきり言って、どれも月島にはちんぷんかんぷんだ。だからついこう言って、苦笑いでごまかした。
「家人に任せていて、恥ずかしながらよく知らないのです」
 その答えに彼女はにっこり笑って「そうですか」と一言だけ返した。そこにもう一組の親子が現れた。月島を質問攻めにしていた彼女は「○○ちゃん、おはよう〜!」とその親子に挨拶して、そちらに行ってしまった。
 月島は安堵した。と同時に落ち込んだ。育児に関わっていない、ろくな父親じゃない、と思われたに違いない。正直に「知人の子を預かっている」と言えば済むものを、月島はそのひとことが言えなかった。連れ去り事案の懸念もあったけれど、それよりも別の気持ちが芽生えていることに、気づかされてしまった。
 この子と自分は赤の他人じゃない。
 他人同士が他人じゃなくなる関係に、すでに自分は踏み込んでいるのだと知った。鯉登と彼の家族の顔が思い浮かぶ。でも月島は、誰かと何年も何十年もずっと仲良く暮らしていく術を知らないので、そのうち破綻する日が訪れると予感していた。だってオレは、破綻した家族関係しか知らないのだ。だからそうなれば、すぐに鯉登とは関係を解消する心づもりでいたはずだったのに。
 現実は全く逆だった。結局、相手を思いやる振りをして保身だったのだ。鯉登に嫌われても未練たらしくまつわるしかできない自分になりたくなかった。
 参ったな……。
 月島は久々にタバコでも吸いたくなった。きっとタールの重たさに、頭がぐらりとするだろう。それでいい。そうして合法的に自分の身体中に毒を回して、この心の弱さを内側から黒く塗り潰したくなった。自分で自分が情けない。
「みんな〜、お茶飲もうか」
 その声で我に返る。声の主である母親は、水筒を我が子へ渡していた。いけない。五月はもう十分暑いから、子供の水分補給には十分気をつけてくれと言われていた。月島は慌てて持参した水筒を姪に手渡した。するとストローを必死に吸って、一気に半分以上を飲み干した。
「もういい!」
 そう元気に宣言して、月島に水筒を返して友達のもとへ駈けていく。その声も仕草も微笑ましくて、胸があたたかくなる。血のつながりが、そう感じさせるのだろうか? 眉の形は同じだけれど、その他の顔のパーツは音之進には似ていない。平之丞にそっくりだ。
 美形の兄弟だけれど、よく見るとそんなに似ていない。兄は母のユキにそっくりで、だから姪はユキの小さい頃と生写しなのだと言う。一方、音之進は父の平二似だ。
 そこで月島は想像してしまった。鯉登とそっくりな子供がいたら、どんなにかわいいだろうか。彼が彼と似た幼児と公園で遊ぶ姿を、実際に見てみたいと思ってしまった。

2

 一方、鯉登は月島と姪を公園へ送り出してから、家事に勤しんだ。月島は「鯉登さんが遊んであげた方がいいと思います」と言っていたけれど、こちらの都合で子供を預かったのに、家事を押し付けるのが心苦しくあった。それに、月島と姪が仲良くなってくれたら、という気持ちもあった。
 洗濯して掃除機をかけて、そして昼食用の買い物へ行って来た。兄は「お昼はこれで大丈夫だから」と幼児用レトルトカレーを置いて行ったけれど、せっかく姪がやって来たのにそれではあまりにも味気ない。前回会った際には、姪は年越し蕎麦やおせちもよく食べていた気がする。好き嫌いはあまりないので楽だと、兄嫁が言っていたのを覚えている。
 二歳児に人気のメニューを検索すると、カレー・ハンバーグ・唐揚げがトップ3だ。カレーはともかくハンバーグや唐揚げをうまく作れる自信がない。だからそれ以外で、失敗が少なそうなメニューをどうにか探して買い物を済ませた。
 時刻は午前十一時。早速調理に取り掛かる。作るのにどれくらい時間がかかるかも判然としないから、早く取り掛かるに越したことはない。下ごしらえと副菜を作ってから手を止めたところで、お昼のサイレンが鳴った。鯉登はスマホを確認する。月島からは特に連絡はない。公園で楽しく遊んでいるのだろう。ふたりだけで送り出しておきながら、月島に子供の面倒をみるスキルがあるのか、内心では心配していた。だから夢中で遊んでいることがうかがえて、一安心する。ベランダへ出て眼下の歩道を確認する。まだ帰らないのだろうか。天気がいいので、ここでしばらく待つことにした。
 十五分ほど経過した。ベビーカーを押す月島の姿が見えた。思わず手を振ろうとして止めた。なんだか、初めて見る顔をしている。
「……あげん穏やかな顔もすっとな」
 マザーズバッグを肩から斜め掛けして、ゆっくりと歩道を歩いてくる。やがて近くの横断歩道を渡って、マンションの玄関に吸い込まれていった。鯉登はしばし放心する。
 ベビーカーに乗る子が自分の姪ではなく、本当に月島の子供なら――。
 それは想像だったのに、鯉登は予想以上のダメージを受けてしまった。
 じきにこの部屋に戻ってくるだろう。だからメイン料理を作らなければと思うのに、足が重い。
 鯉登が月島を必死に口説いている時に、将来的には誰かと所帯を持つつもりなのか、と尋ねたことがある。その時は「結婚の予定は一切ありません」と断言していたが、未来がどうなるかなんて分からない。こうして鯉登と恋愛関係になるつもりも、きっと予定外だったのだろうから。そうでなければ、彼は愛しい我が子を胸に抱く日があったのかもしれない。月島に似て鼻がこじんまりとした、愛らしい子を。
 鯉登は、そんな月島の姿を見てみたいと思った。
 誰かと普通に結婚してほしい、と月島が私に願ったのは、こういう気持ちから発せられたのか。今頃ようやく身に沁みて分かるなんて。鯉登は、歯がゆさばかりが募っていった。



 ガチャ、と玄関の鍵が開く音がしたから、鯉登は気を取り直して玄関へ向かう。
「おかえ……」
 ふたりの姿を見て、鯉登は口をつぐむ。寝てるのか? と口パクで月島に確認する。すると月島は、こくりとうなずく。姪は月島に抱っこされて家に入って来た。肩にくたりと頭をもたれて微動だにしない。背中だけが規則正しく上下している。月島はそろりそろりと足音を立てないように寝室へ向かい、ベッドへ寝かせてリビングへ戻って来た。
「おかえり。楽しかったようだな」
「ええ、お昼ご飯の時間だから、もう帰ろうと何度も言ったのですが、粘られました」
 苦笑いする。
「近所の子達とうまく遊べるのか心配だったが、杞憂だったな」
「その辺は全く心配無用でした。あれくらいの子供ってすぐ友達になれますね」
 そして月島は外の通路に止めておいたベビーカーを畳んで玄関に立てかけ、手を洗いに洗面所へ消えた。鯉登はというと、ふたりの姿を目の当たりにしたら、いよいよ月島がパパになる想像が現実味を帯びてしまった。自分の想像に小さくため息をついてしまう。それを強引に振り払いキッチンへ向かう。
「いい匂いがすると思ったら、お昼を作ってくれたんですか?」
 着替えを済ませて月島が隣にきた。くんくんとにおいを嗅ぐ仕草が、幼くてかわいらしいと思ってしまった。
「ああ、失敗が少なそうなスパニッシュオムレツにした」
 時間を見計らって鯉登が蓋を開けると、湯気が立つ。丸いフライパンに卵の黄色やパプリカの赤、グリンピースの緑にピンク色のハムがきれいに配色されている。
「もう出来上がりですよね。起こします?」
「いや、もう少し寝かせておいてもいいだろう。取り分けておいて、目が覚めたらレンジで温めよう」
「鯉登さんの手料理、嬉しいです」
「……月島が素直だと、心臓に悪い」
「え? オレいつもそんなに捻くれてます?」
 捻くれているんじゃなくて、素直に心を表さないんだ。バカタレめ。鯉登は心の中で毒づく。けれど、そんな意固地で基本的に他人を信用していなかった月島が、一緒に暮らすほどに自分に信頼を寄せてくれたことは、実は泣きそうなほど嬉しかった。例えは悪いが、手負いの野生動物を保護して治療を施して、時間をかけて懐かせたような感慨があった。



 鯉登は月島に初めて会ってからの経緯を、昨日のことのように覚えている。
 初めて会ったのは大学四年の頃で、合同企業説明会だった。その日、鯉登は第一志望の企業単独の説明会を受けたのに、なんだかぴんとこなかった。少し焦りを感じた。それで、その帰りに近くの会場で開催されていた合同企業説明会があったので、ふらりと立ち寄った。二社から説明を聞いた後のこと。
「あと一社で証明写真を無料で撮影できるサービスを受けられますよ! プロによる写真撮影、ごく自然な修正加工が施されます。企業への好感度がうなぎのぼりです!」
 そう主催側にしつこく迫られた。「あと一社、あと一社の会社説明を聞いたら写真撮影です!」
 どうせ撮るつもりだったからいいか、と軽い気持ちで並んだのが月島の勤務先だった。希望業種と違うこともあり、愛想笑いと上の空の合わせ技で聞いていた。一通りの説明が終わる頃『暇つぶしなら他をあたってください』と月島の顔に書いてあった。何だこの男。今は売り手市場だし、鯉登のエントリーシートの内容だと大抵の企業から引く手数多だ。見透かされたことが恥ずかしくて悔しくて、不貞腐れて帰宅した。ふん、こんな会社を誰が受けるものか。
 それから一年後、鯉登の入社した会社の新たな取引先に加わったのが、月島の勤務する会社だった。彼が挨拶のために初めて訪問して来た際、鯉登の姿を認めて一瞬だけ顔を歪めたのを、見逃さなかった。月島も鯉登のことを覚えていたのだ。
 それ以降は月に何度かメールや電話でやり取りをした。業務に関する必要最低限の文面で、社交辞令以外の気持ちは何もなかった。
 入社して半年経った頃のことだった。関連する法令に関する解釈で、どうしも分からない点があった。しかし鯉登の直属の上司は新人教育が下手で、質問しても的外れな返答をするばかりの人間だった。今回も聞いたって全く期待はできない。だから困った鯉登は、数字の確認の電話をしたついでに月島に愚痴ってしまった。でも口にした直後に、しまった、と後悔した。私は社外の人間に何を甘えているのだ。それなのに月島は「あくまで自分の解釈ですが」と前置きして、懇切丁寧に教えてくれた。
「うちは万年人手不足で誰も教えてくれなくて、私も関連機関によく質問しています。そうしないと仕事が溜まっていく一方なんですよ」と笑った。聞けば月島の部署には、上は五十代が二名で持病があり休みがち、下は二十代ばかりなのだそうだ。真ん中がいない。誰にも教わることができない環境だから、鯉登に同情してくれたようだった。
 共感してくれたことが想像以上に嬉しくて、つい「なぜ転職しない?」と込み入った話を聞いてしまった。
「私を引き抜いた張本人が、私の入社後すぐに転勤したんです。おそらく来年その上司が戻ってくるので、そうしたら今よりずいぶん環境が良くなるはずです」
 鯉登は納得した。その人に恩義があるのだろう。人間くさい面を知って嬉しかった。
 それ以降、何かにつけ質問をするようになった。一見、月島は冷血漢に思えるが、実は細やかに気を配る親切な男だ。その胸の内にはきっと情があふれているのだと思う。マウンティングしたり見栄を張ったり一切しない姿勢に感動した。実は男は仕事においてはとても嫉妬深い面があり、とりわけ鯉登はその対象になりやすかった。身を守るために虚勢を張ることも多かったから、月島の公平な態度には心が安らいだ。気を許してそれが甘えに代わるのに、そう時間はかからなかった。月島はめんどくさそうな顔をしても、結局は断らなかった。
 鯉登は月島を誰よりも信用するようになった。そして月島からも信用されたくなった。もっと自分を気にかけてほしいし、自分のことを認めてほしい。
 個人的に親しくなって半年が過ぎた頃のこと、不意にあることに気がついた。月島はとにかく自己主張をしないのだ。暖簾に腕押し糠に釘。その姿勢は仕事では有用だ。時にプライドが邪魔な場合はある。
 しかし、万事それでいいのか。聞けば食べる物も着る服にもさしたるこだわりがないという。人生でババを引いても別に構わないと諦観していて、息をすることにも興味がなさそうだった。自分を蔑ろにする月島に、鯉登は悲しくなった。どうしてそんなに自分のことが嫌いなのだろうか。お前は十分よかにせだぞ月島。だから鯉登は決めた。月島が自分に自信を持てるようにしなければ。それが自分の務めであるように思った。
 どうすれば月島が自分を好きになるのか分からなかったけれど、取引先ではなく友人として大切にした。すると月島はくすぐったそうにして、遠慮してやたらと照れるようになった。なんだこのかわいい反応は。そうか、月島が自分で自分を好きになれないならば、私がたくさん好きになったらいいのか。
 鯉登はすぐに実行に移した。以前より機動力には自信があったから、決心してからは早かった。そして密かに好きになるだけでは月島は変わらないから、好意を伝えた。言葉にすればすぐに伝わると思っていたらそうじゃなく、たったひとつの気持ちが伝わるのに一年もかかった。難攻不落というのは、月島のためにある言葉だと思った。



 出来上がったオムレツを切り分けて、鯉登と月島は先に食事をすることにした。
「あの、食事の前でアレなんですが、ひとつ気になることがありまして」
「なんだ?」
「二歳の子って確かおむつですよね?」
「そうだったか……?」
「公園で二歳児のお母さん方が、この夏にトイレトレーニング始めなきゃって話してましたよ」
「月島、ママ友ができたのか」
 鯉登がしみじみ感動すると、月島は仏頂面をする。
「オレは珍獣みたいなものでしょう。だから鯉登さん、おむつ替えてもらえませんか?」
「私が?」
「ええ、さすがにオレだとまずい気がします……」
 月島が渋い表情をするから、鯉登も釣られて渋い顔をする。
「そうは思わんが、そうだな、おいが挑戦してくる……」
 やはり子供を預かるのは難しい。一緒に遊んだりおやつを食べさせるだけではないのだ。マザーズバッグをがさごそと探ると、普通のおむつとは違う卒業パンツなる物が出てきた。どうやらトイレトレーニング用のパンツ型おむつらしい。テープを止めなくて済んだから、うつ伏せに寝ていても手早く交換することができた。ひとまず胸を撫で下ろした。
 キッチンへ戻ると、月島が配膳してくれていた。スパニッシュオムレツにツナサラダ、それとポトフとぶどうもある。
「どれもおいしそうです」
 月島が素直に褒めてくれるから、作って良かったと鯉登は思った。昼食が終わり片付けを終わらせると、月島はパソコンへ向かった。
「なんだ、持ち帰りの仕事があったのか?」
「いえ、仕事はしません。気になることがあって」
 肩越しに画面を覗くと、月島が読んでいるのは子供の予防接種に関する記事だ。鯉登が黙って様子を見ていると、月島はぶつぶつと読み上げる。
「定期接種? 任意接種? いや、何種類あるんだこれ……、これを生後二ヶ月くらいから順々にこなしていくのか……すごいな」
 月島は食い入るように記事を読んで嘆息している。
「急にどうしたんだ。ママ友から何か言われたのか」
「最初に挨拶してくれた子のお母さんが、予防接種はちゃんと受けているか聞かれたんですよ。でもオレはちっとも分からないから、曖昧に笑うしかできなくて」
「それでか。月島は何でも真面目に取り組むんだな」
 月島のこういうところが好きだと改めて思ったから、肩に置いた手を上体に回して後ろから抱きしめようとした。軽く払いのけられた。
「いや、鯉登さんだってオレの立場だったら同じことしてるでしょ」
「他にどんな話をしたんだ?」
「習い事とか幼稚園のこととか。そういうの、何か聞いてます?」
 鯉登は兄や兄嫁から聞いた関連のある話を始めた。まずは習い事だ。
「一歳になる前からベビースイミングに通っていた。歩き始める前から泳いでいると兄さぁが度々自慢していた」
 鯉登がスマホの写真フォルダを遡る。兄から送られてきた動画を見せると、月島は「おお……!」と分かりやすい反応をした。鯉登は「水泳をする子は多いのだそうだ」と付け加える。
 その他は、幼稚園の未就園児教室へ参加して、折り紙でお雛飾りを作ったり、餅つきをしたり季節の行事を楽しんでいると話をした。月島は一つひとつ真剣に聞いていた。近頃の子供の生活全般が、新鮮なのだろう。それからたまに質問で返す。が、だんだん相槌のタイミングがずれていき、鯉登と視線が合わなくなっていった。
「……。月島、好きだぞ」
「……」
 月島は黙ってうつむいて、身動ぎもしない。鯉登が何の脈絡もない話をしても、照れた顔もせずにテーブルに頬杖をついている。鯉登は苦笑いする。慣れないことの連続で、疲れてしまったのだろう。そして腹も膨れたから、眠気に誘われたのだろう。さてどうしようか。このままだと頬杖がずれてテーブルで顔を打ちそうなので、そっと腕を外して机上に伏せさせた。苦しくないように頭の下にクッションを差し込む。それから寝室を見る。姪もまだ起きる気配がない。
 時計を見ると、午後三時だった。鯉登はベランダに出て洗濯物を触ってみる。湿度がなく爽やかに晴れているから、もう洗濯物は乾いていた。取り込もうかとしていると、月島もベランダにやって来た。
「起きたのか」
「すみません、居眠りしてしまいました」
 鯉登が話している途中だったから、申し訳なく感じたらしい。
「洗濯物、取り込みますか?」
「ああ」
 鯉登が返事をした、その時だった。ドン! と窓ガラスを叩く音がふたりの背後から聞こえた。何事だ? 驚いて振り返る。すると姪が窓際に立っていた。室内から窓をグーで叩いていたのである。
「やっと起きたか」
 鯉登はそう言って、室内に戻ろうとした。が、窓が押しても引いてもびくともしない。
「……月島ァ、窓が開かないぞ……」
「え? そんな訳……」
 月島が鍵を見てみたら、閉まっていた。
「鯉登さん、鍵が閉まっています」
 驚くと同時に、姪がうわーん、と泣き始めた。鍵はおそらく彼女が閉めてしまったのだろう。手は届くから鍵の操作はできても、どちらに回せば開くのか閉まるのか、その仕組みはまだ知らないはずだ。
 鯉登は懸命に鍵を開ける動きをして見せたけれど、姪がそれを真似るのは無理だった。
「月島、スマホ持ってるか?」
「いえ、鯉登さんの様子を見に来ただけなので」
 月島はリビングにあるテーブルの上を指差す。月島のスマホはそこにあった。家事の合間だったから、鯉登のスマホも室内にある。
「どうすればいいと思う?」
「蹴破ります?」
 月島が隣家との境界を指さす。隔て板には『非常時には、ここを破って隣家へ避難してください』と注意書きがしてある。破れと書いてあるくらいだから、一般的な体力のある大人には難しくないのだろう。そして今はたぶん非常時だ。だけれど、隣家の主が今の時間帯に在宅しているのかどうかも定かではないし、ただでさえ、男二人暮らしだから気を遣っている。ご近所さんと波風立てないように、平穏に。騒ぎの元凶となるのは月島の本意ではないだろう。だから鯉登は「しばらく待ってみよう」と提案した。
「しかし……」と月島は苦し気な表情をする。姪が泣いているからだろうと思った。窓越しにリビングの壁掛け時計で時刻を確認する。
「いま三時半だろう? 兄さぁは夕方には来れると言っていたから、あと一時間か、遅くとも二時間後には来ると思う」
「部屋の鍵はどうするんですか?」
「この部屋の合鍵は最初から五つあっただろう? だからもしもの場合に備えて、ひとつ兄さぁに渡してあるのだ」
「そうだったんですか」
「話してなかったな、すまん」
「いいえ、構いませんよ。……家族ですから」
「つ、つきしま……」
 その家族の一員に、自分のことも含めているのか月島。鯉登は月島の変化に思わず感動して、抱きしめようと近づいた。うああああん、と姪の泣き声が一段と大きくなった。
「あああっ、すまん、もうしばらく辛抱してくれ……」
 鯉登は窓に近寄り、姪に謝った。
 それからふたりはベランダに置いていた用具入れに座った。横長だったから、ベンチよりは小さいが戸外用だから耐久性もありそうだった。姪は十五分ほどぐずぐず泣いていたがやがて声も小さくなり、くたりと床に寝転んだ。泣き疲れたのだろう。窓際で再び寝入ってしまった。その様子に鯉登と月島は心を痛めた。待つ以外に何も知恵を出せずに、申し訳ない。しかし、キッチン道具やコンセントに触って怪我をしてしまうよりは、安全に待てると思った。
「お昼も食べ損ねているから、お腹も空いたでしょうね」
「うん……、あ、そうだ」
 鯉登は立ち上がり、手すりから身を乗り出す。
「どうしたんですか?」
「その木に飛び移れば下に降りられるのではないか?」
 眼下には塀の代わりとして植えられた植物がある。背の高い木は、ふたりの住む二階のベランダのすぐ近くまで伸びている。
「止めてください! 木が折れて道路に叩きつけられたらどうするんですか!」
 鯉登は運動神経には自信はあったのだが、月島の剣幕がすごいので止めた。確かに彼の言うように、自分の体重を支えられるような幹ではない。心配してくれているのが伝わって、嬉しかった。それに下に降りたとしても、肝心の鍵がない。マンションの管理人はいつも午後四時に帰る。今、四時を少し過ぎたところだった。ふたりは物置の上に戻る。
 姪をひとり室内に残して、何も手立てがないのは心苦しい。だけど梅雨入りする前の五月の気候は快適で、会話を交わすこともなく腰を落ち着けていた。そのうち、左肩にずしりと月島がもたれてきた。月島、と声をかけようとして口をつぐむ。寝息が聞こえてきたからだ。今日はふたりしてよく寝るな。鯉登は苦笑した。それから月島の頭部を自分の太ももの上に乗せた。振り返ると窓とカーテンの間の床に、横たわる姪。そして自分の膝枕に月島。
 どうか、体も心も健やかであってほしい。
 鯉登は実は、出会ったばかりの頃の自尊心の低い月島のことは、決して嫌いではない。その頃の彼の生き様は、ある意味周りの人のことを考えて生きているのと同義だった。まるで葉隠だな、と思った。子供の頃、剣道場で聞いたその一節の『武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり』は最初まったく共感できなかった。なぜ君主のために死ななければならないのか。憤って兄に不満をぶつけた。すると、そういう意味ではないと教えられた。
「周囲んしんために生きたや、そいが自分ん幸せにもなって意味じゃ」
 釈然としなかった。自分がまだ子供だから分からないのだろうか? 鯉登は首を捻った。
 あの日の疑問も今なら理解できる。それを体現したような月島だったから、鯉登は嫌いにはなれない。なれないが、それは一歩間違えば自暴自棄だ。本人にその線引きがうまくできるはずもなく、それなら自分が歯止めにならなければ、と使命感をかき立てられた。
 その一方で、月島は鯉登の向こう見ずな面を熟知していて、そのストッパーをしている。
 案外、似ているのかも。ふふ、と小さく笑う。顔をのぞき見る。月島のことが好きだと思う。そうしたら触れたくなって、頬を撫でた。月島の肌は意外と肌理が細かい。すべすべとして気持ちがよくて、唇も柔らかい。そのふくらみをふにふにと指で押す。押したあとはうすく撫でる。その感触を指だけで堪能するのはもったいないと思い、自分の唇で触れたくなった。ぐっと上体を近づける。が、そのまま伏せたら頭の位置が合わない。月島の顔がちょうど自分の膝の上でなければ。それで鯉登は月島の頭を徐々に太ももから膝へずらしていった。ついにそこに乗ると、鯉登は立て膝にする。月島が起きないように、少しずつ少しずつ膝を高くする。月島の体が斜め四十五度に持ち上がる。よし、届くぞ。唇を寄せたその時だった。
 ドンドンドンドン!
 窓ガラスを叩く音で鯉登は瞬時に振り返る。窓の内側には目覚めた姪が立っていた。そして、彼女の後ろに平之丞もいた。
「あ、兄さ」
 鯉登が言いかけた時、ふと足が軽くなる。月島はバネ仕掛けかのごとく俊敏に起き上がり、窓越しに深々と頭を下げる。
「……月島、お前ひょっとして狸寝入りだったのか」
 鯉登が聞いても振り返りもせず、がらりと窓を開けた平之丞にまた頭を下げる。そこに月島の足めがけて勢いよく突進して抱きついたのは、姪だった。しがみついてぐずぐずと泣く。思いがけない事態に月島はひたすら驚いて、やがて髪をくしゃりと混ぜるように撫でた。鯉登が平之丞を見ると笑顔を向ける。そして月島に「娘がご迷惑をおかけして、大変申し訳ありませんでした」と謝る。それを聞いた月島はさらに驚いた。
「いいえ、こちらこそ私の不注意で部屋の中にひとりぼっちにしてしまい、申し訳ありませんでした」
 二人して平身低頭したあと、平之丞が頭をかく。
「実はうちも何度かベランダに締め出されてるんですよ。私の言いつけを守ってるんです」
「言いつけ?」
 月島と鯉登が同時に声を出した。思わず顔を見合わせる。
「仕事で留守がちだから、パパがいない時は戸締まりに気をつけるんだぞ、と鍵を閉めることを教えたんです。だから今、ベランダに出る時にはスマホと部屋の鍵を必ず持つんですよ」と苦笑いする。それを聞いて月島が「次からは私達も気を付けます」と答えた。
──次。
 次があるのか、月島。彼が自分でそう断言したことに、鯉登は感激していた。月島の社交辞令なら仕事中にさんざん聞いたから、本気かどうかくらい聞き分けられる。だから、今は違うと断言できる。一度しか会ったことのない子供の面倒を見るなんて、慣れなくてしんどかったに違いない。それなのに、懸命に向き合ってくれようとしているのが嬉しかった。
 だから、別れた方が月島のためかもだなんて、そんな昼間の迷いは一瞬で捨て去った。家族の形もそれぞれで、ひとり一役と決まっている訳じゃない。自分が、夫だけではなく子供の役割もすればいい。頼りになる伴侶でありたい日もあるし、子供のように甘えたい日もある。月島もそうであれば、尚よい。鯉登はほくそ笑む。というのは、月島と同棲を始める直前に、兄からこんな世間話――夫のことを「産んだ覚えのない長男」と揶揄する妻がいる――と聞いたことを思い出したからだ。
「兄さぁもそう呼ばれちょるんか?」と質問したら「そげん訳なかじゃろ。月島さんから愛想つかされんごつ、気をつけや」と不敵な笑みを浮かべていた。
 とにかく、たった今から私の役目は月島基の夫だ! 子供のように甘えたりしない頼りになる男だ! だから兄と姪が帰ったら、月島をべたべたに甘やかして愛情その他のものをたっぷり注ぎ込んでやる! と心の中で誓った鯉登であった。
〈了〉

【鯉月】とこしえに仮初め

【鯉月】とこしえに仮初め

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-06-01

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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