ルームシェアリング
都内のアパートでルームシェアリングする男女4人。
12歳ハル、17歳直美、32歳由稀、34歳ノボル
日常と非日常、現実と非現実の境、
そんな曖昧な空間の中で起こる出来事…。
第一章 直美とハル
エクスタシーを迎えた後、12歳のハルは、全身を震わせながらベッドに倒れこんだ。大人になりきれていないその身体は、今にも消え入りそうな細い線で描かれた繊細で頼りないデッサンのようであり、白い肌にうっすらと生えた陰毛がさらにそれを際立たせている。
「ハル、また泣いてるの?」
直美は静かに声を掛けた。彼女はハルより5つ年上で、もちろん発育もハルのそれよりずっと大人の身体つきをしている。直美は震えているハルの背中をさすり、後ろから優しく抱き締めた。直美の唇がハルの髪に触れる。彼女はハルの髪を撫で、微かに漏れるハルの泣き声をひとつひとつ拾っていった。ひとつ拾っては撫で、ひとつ拾っては撫で、それを繰り返した。11月の夜、何処とも知れないホテルの一室で、12歳のハルと17歳の直美はこのようにしてひとつになっていた。
「あなたを抱くとね、私は安心するの」髪を撫でながら直美が続ける。
「したあと、こうやって毎回あなたが泣く事も分かってるのにね。ねぇ、私ってヒドイ?」
直美の問い掛けに、ハルは何も答えなかった。ただ肩を震わせて泣いていた。
直美は特にレズビアンという訳ではなかった。異性に関心があるし、性的興奮も感じる。求められれば応じるし、セックスの経験だってある。直美は、どこにでもいる普通の高校生だった。「だった」というのは、ある経験が彼女を普通から遠ざけた事を差している。彼女の身体はアザだらけだった。殴られ、蹴られ、彼女は自分がどうやって処女を失ったかさえ覚えていなかった。気が付いたら陰部から血を流して転がっている自分がいた。彼女に対する性的虐待はその後も続き、裸足でコンビニに助けを求めていなければ命すらも落としていたかもしれない、そんな苦境を経験していた。虐待からは逃れられたが、その後もその経験、記憶は彼女を蝕み、彼女を「普通」から遠ざけていった。
「心は拒んでるのに、身体が快楽を求め続けるの。あんなに酷い事をされたのに、私、感じちゃってたのよ。信じられる?私は信じられない。信じたくもないわ。でもね、忘れられないの。あの快楽が。それで何人もの男と関係を持ったわ。これまで数えきれないくらいね。そんな自分が私は嫌でたまらなかった。嫌で嫌で、何度も死のうと思った。でも出来なかった。私は嫌な自分に目を瞑り、ひたすら快楽に溺れていったの。犯される事がセックスだって、そう思ってたのよ。私は犯されて感じてたの。変態よね。そう、変態よ」
直美はハルの頭を撫でながら続けた。
「でも、あなたは違うのよねぇ…。あなたを抱くとね、私、安心するの。ねぇ、私ってヒドイかしら?」
「…ううん」直美の言葉に、ハルが答える。
「やっと喋った」無口なハルの言葉に、満足げに直美が言う。
「温かい…」ハルが聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟いた。
ハルもまた、レズビアンではなかったが、普通でもなかった。彼女にはまず、表情という表情が無く、そしてとにかく静かだった。彼女は必要最小限度の動きしかせず、何も喋らなかった。無表情で、その眼は常に遠くを見ていた。彼女の髪はストレートで細く、首あたりで真っ直ぐにカットされている。前髪も眉に掛かるかどうかのラインで、12歳にしては知性を感じさせる顔立ちだ。ほとんど動かないので人形かと見紛うほどだが、しばらく見ていると瞬きをするので、それは人間である事が分かる。それくらい、ハルは静かだった。ハルは直美と違って異性に対する関心も、性的興奮すら覚えることはなかった。もちろんセックスの経験もない。ただ彼女は直美に抱かれた後に泣く。それだけだった。彼女は月に数回、直美と交わっていた。お互い裸になって抱き合い、キスをし、文字通り体温を肌で感じながら登り詰める。それはお互いがお互いの存在を確かめ合う行為であり、いわゆる男女のセックスとは少し種類の異なるものであった。そして決まってハルが先にイク。その後に泣く。それだけだ。
「温かい、か。いいよね、温かいってさ」直美がハルを抱きしめながら言う。
「安心するよ。安心」
ハルは直美に抱かれたまま、静かに眠っていた。
第二章 由稀とノボル
「さぁ出来た。今日の晩御飯は特性あんかけチャーハンとこれまた特性ワカメスープだ。どんどん召し上がれ」料理が得意なノボルがテキパキと料理をテーブルに運び、どうだと言う顔をして言った。
「特性特性って、何が特性なの?普通に見えるけど」冷めた口調で由稀が言う。
「見て分からないか?いいかい、まずこのチャーハンだけど、油で卵と共に炒められた米一粒一粒がパラパラとなり、そうかと思えば上に掛かったこのあんかけがとろみを加え、これがまた絶妙なハーモニーで…」
「分かった分かった。特性ね。すごく」ノボルの説明を由稀が遮って言った。
「それじゃ、いただきまーす」ノボルの不満そうな顔を余所に食事を始める由稀。
「ハーモニー…あ、いや、うん」
ノボルは34歳で会社員をしている。細身で背が高くやや鋭い眼光の持ち主で一見近寄り難いが、話すととてもおおらかで人を笑わせたり場の雰囲気を良くするのが得意だ。何をするにも完璧主義で料理だけでなく掃除や洗濯など家事全般をもこなす。当然仕事においてもそれは同様のようで、同僚に慕われ、上司からの信頼も厚いようだ。
一方由稀は32歳でアルバイトをしていて、身長は150㎝あるかないかくらいの小柄な体型である。性格は基本的におっとりしているが、言う時はビシッと言うタイプの、そんな種類のおっとりだ。
二人は一緒に住んではいるが、夫婦でもなければ恋人同士でもない。いわゆるルームシェアリング仲間といったところで、都内にあるアパートを共同で使っている。築40年近く経つ古い木造アパートだが、間取りは4LDKと広く、最寄りの駅までも歩いて行ける距離で立地条件も悪くない。近くにスーパーもあるし、ちょっと足を延ばせばショッピングモールだってある。ただ時折上空を通過する自衛隊のヘリがうるさいくらいだが、これも慣れてしまえばなんてことはない。人間は慣れる動物である。自衛隊のヘリだろうが、騎兵隊のラッパだろうが、大した問題じゃない。
この物件はノボルが管理しており、家賃の徴収から風呂やトイレの共用部分の掃除、今回のように毎日ではないが、住人分の料理を彼が作ったりもする。ノボルは何でも出来るのだ。一度由稀の部屋のエアコンが水漏れしたことがあったが、ノボルがたちどころに直してしまった。由稀が修理業者をネットで検索するよりも早くだ。「ただの排水ホースの目詰まりさ、こうやってフーッと息を一気に吹き込めばゴミも一緒に吹き飛ぶ。それだけさ」ノボルは学生時代に様々なアルバイトをしていたらしく、経験も豊富で手先も器用だった。この物件もノボルの親族だか知り合いだかの名義で、そのツテでシェアが出来ているらしいが、詳しい事は誰も知らない。ノボルがなぜ物件をシェアしているのかも分からない。住もうと思えば一人で住めるのだが。ノボルはオープンな性格だ。しかしその何処かに何かを忍ばせているような、そんな人物だった。とにかく、このような形でノボルと由稀は同じ物件に住んでいた。そしてここの住人は彼らの他にもう二人いた。それが直美とハルだった。
「直美とハルは?」あんかけチャーハンを三分の二ほど食べたところで由稀が口を開いた。時計は午後7時17分を差していた。
「…さぁ、ね」ノボルは既にチャーハンを食べ終え、ワカメスープが入ったマグをクルクルと手で揺らしていた。
「また冷めちゃうなぁ」
テーブルには二人分の夕食が綺麗に並べられたままだった。
第三章 それぞれの時間
直美とハルが部屋に戻ったのは翌朝6時頃だった。アパートのドアを開けると洗面所でノボルが髭を剃っていた。ノボルはいつもこの時間に会社に行く準備をする。平日の今日もそれは変わらない。
「やぁ、おはよう」ノボルは特段驚く様子もなく、鏡越しに挨拶をした。
「おはようございます。遅くなってごめんなさい」と直美が言う。ハルは何も言わずに自分の部屋に入って行ってしまった。
「昨日の晩御飯でよければテーブルに置いてあるよ」
「いつもすみません」そう言って直美も自分の部屋に戻った。
ノボルはその様子を鏡越しに見ながら「ほーい」とだけ返事した。このあごの下がちょっと、剃りにくいんだよな…ノボルはそう考えながら出社の準備を進める。髭をそり終えると化粧水と乳液を着け、ドライヤーで髪を整えてスーツを着た。スーツはイージーオーダーで作った三つボタンのものだ。ノボルは二つボタンを嫌い、わざわざオーダーしてまで三つボタンにした。どの店に行っても二つボタンのものしか置いてなかったので、仕方なくオーダーで仕立てたのだ。化粧水や乳液といい、ノボルは外見にも気を使う性格のようだ。SEIKOの腕時計は電波式のもので一秒の狂いもない。REGALの革靴を履いて玄関の姿見で最終チェックをし、忘れ物がない事を確認してノボルは家を出た。
次にリビングに現れたのは由稀だった。
由稀は今起きましたと言わんばかりの様子で、眠たい顔を隠さずにふらふらしながら部屋から出てきた。彼女は左手に持ったパンをトースターに放り込み、あくびをしながらスイッチを回した。食器棚からマグカップを取出し、一人分のレギュラーコーヒーを淹れながらパンが焼けるのを待つ。淹れてる途中にパンがいい具合に焼けたので、チンと鳴る前にトースターからパンを引っ張り出して皿に移した。今日のシフトは昼からだ。由稀は朝のまどろみを引きずったまま、コーヒーとパンを持って部屋に戻って行った。遅れてトースターのチンという音が部屋に響くが、すぐにまた静寂が訪れる。
少し遅れて直美が出てきた。彼女はテーブル座り、置いてある昨夜の夕食を温めもせずに口にした。テーブルの上にはノボルが読んだであろう朝刊が畳んで置いてあったが、彼女はチラリとも見ずに食事を続けた。
「あら帰ってたの。おかえり」コーヒーのおかわりを淹れに来た由稀が声を掛けた。
「あ、おはようございます」食事してるところを見られたくなかったのか、少しバツが悪そうに直美が答える。
「んー?二人して朝帰り?若いわね」
「いや、別に…」
「いいのいいの。若いうちはある程度遊んでいいものよ。私もたくさん遊んだもの」由稀は新聞を広げ、広告を数枚チェックしながら言った。部屋にはコーヒーの香りが立ち込めている。
「でも直美さ、ハルって普段何してるのかな。部屋からあまり出てこないし、彼女が喋ってるところ見たことないし、何か知らない?」由稀は少しテーブルの間を寄せて直美に聞いてみた。実際ハルはここに住んでいるが、住人すら彼女が何をしているのか、どんな人物なのか分からないでいるのだ。
「さぁ…私もほとんど喋った事ないんで」直美は昨夜の事を悟られないように、出来るだけ冷静さを装って言った。しかし直美のこの言葉はあながち嘘ではない。裸で抱き合うだけの関係を持ちながら、その直美ですらハルがどんな人物なのか実際は分からないでいるからだ。ハルはあまりにも静かすぎる。直美は一度、ハルとしている時に、彼女の目をじっと見つめた事がある。彼女が何を考えているのか、直美自身も興味があったからだ。しかしハルの瞳はあまりにも深く、そのまま見つめているとその瞳の奥に吸い込まれそうな感覚に襲われて怖くなったのを思い出した。直美が知っているのは、無表情な彼女が、自分に責められている時だけは息を荒くし、イク時にほんの少し眉間にしわを寄せて声にならない声を上げ、ベッドに倒れこんで泣くという事だけだった。
「私、学校がありますから」直美はハルの事を考えるのを振り払うように言った。
「はい、行ってらっしゃい」由稀がそれに応える。
直美は残した食事を生ごみ入れに捨て、食器を洗って自分の部屋に戻った。結局ほとんど食べていない。食欲なんかなかった。彼女はブラシで髪をとかして手短に身支度をし、制服を着て部屋を出て行った。今日の一限目は何だったっけ…何でもいいか。そう思いながら気持ち早歩きで学校へと向かった。
ユキはその日、部屋から出てくることは無かった。
第四章 直美
直美は二人の男に犯されていた。乱暴に下着を剥ぎ取られ、堅くなった男のモノが容赦なく彼女を突き上げた。「うぐっ」と耐え切れず直美は悲鳴にも似た声を上げるが、その口もまた男のそれで強引に塞がれた。両髪を鷲掴みにされ顔を根元まで力づくで押し付けらえる。喉の奥にまで到達する不快感が嗚咽となって口から漏れ出す。それを聞いてまた男達はさらに興奮し、彼らの動きはなおも乱暴なものに変化していった。ベッドに激しく叩き付けられた直美の身体を玩具のように弄ぶ。途中男が何かを言ったような気がした。しかし直美にはそれが何を意味しているのか理解する事が出来なかった。それは言葉なのか、単なる物音なのか、もしくは幻聴だったのか、もはや直美にはそれらを判断する術も無かった。それでもその物音だか幻聴だか分からない何かがあちこちで飛び交い、その度に直美の身体が幾度となく痙攣する。それはまるで触れてはいけない細い糸を指で弾かれているような、若しくは綺麗に色分けされたパレットがバケツの中に放り込まれ、色という色を成さないものにかき乱されるような感覚だった。混濁の意識の中、しかし直美は感じていた。壊されていく自分の身体を離れたところで見ている自分がいた。なんてハシタナイ 姿なんだと罵倒する自分がいた。「…変態」その言葉を聞いて、直美は失神した。
気が付くと処女を失った時と同じように転がってる自分がいた。力が無いないながらもなんとか上半身を起こす事が出来た。頭はガンガンとドラム缶を叩くような頭痛が鳴り響き、意識は朦朧としていた。「お酒…、薬…?」記憶を辿ろうとするも上手くいかない。直美はよろめきながらビジネスホテルの安いテーブルチェアに座り込んだ。テーブルの上には封筒が置いてあり、中には15万円の現金が入っていた。
これが直美のやり方だった。彼女は身体を提供し、金品を享受する。内容が少しばかりバイオレンスなだけだ。どうってことない。彼女はしばらく手に持った現金を無表情で眺めたあと、バックから煙草を取り出して火をつけ、また同じバックからカッターを取り出して腕を切った。静かに煙を吐き出しながら腕を伝う自分の血を見つめる。彼女は血がカーペットに垂れて落ちてしまわないように腕を左右に動かしたりして、血液が描く線もまた左右に流れるのを見て楽しんだ。
「温かい…」
彼女はそのままバスルームへ向かった。滴り落ちる血の量は増え続け、それらは排水溝に吸い込まれていく。「あはは」と彼女は口だけで笑ってみたが、涙は出なかった。やっぱり出ないか、昔みたいに泣ければまだ楽なのにな、彼女はそうぼんやり考えながら、ハルの事を思った。
「ハル…」
この翌日、直美はハルを抱いた。
第五章 秩序
夕食に全員が揃うのは滅多に無いことであった。テーブルには四人分の料理が並べられ、椅子には四人ともが座っていた。その空間はとても秩序が守られていて、余分なものが存在しない、まるでバラバラになったパズルを時間をかけて組み合わせ、どうしても見つからなかった最後の数ピースがやっとはまったような、そんな種類の空間だった。唯一許されたかのように、カチコチという時計の音だけが高貴にその空間の中で音を成していた。
「いただきます」とノボルが言う。
「いただきます」とそれに他の三人も続ける。
ハルも小さいながら、確かに言っていた。全員がひとつに繋がっていた。
一人一人が各々に箸を取り、食事を進めた。誰一人、何も言わなかった。箸が器に触れる音や、飲み物を飲む音、咀嚼する音すら感じられなかった。もしくは本当は誰一人存在などせず、テーブルに食事なんて並んでいないのかも知れない。誰も食事など取っていないのかも知れない。すべては幻想で幻で、儚い夢だったのかもしれない。ルームシェアしているこの木造アパートも、ノボルも由稀も、ハルも直美も、全部全部、嘘だったのかもしれない。
遠くで鉄道が走る音が微かに響く。信号が青に変わり、車が発進するエンジン音が届く。風が窓をさすり、灯りが部屋を照らす。目を閉じると呼吸している事が分かるし、心臓の鼓動も感じられた。四人は間違いなくそこに存在し、共に食事をしていた。それは、確かだった。
最後の一人が食事を食べ終えると、全員が姿勢を正した。
「ごちそうさまでした」とノボルが言う。
「ごちそうさまでした」とそれに三人も続けた。
完成したパズルのような秩序を持った空間が再び辺りを支配し、カチコチという高貴な音がその空間に音を成していた。
第六章 変化
ノボルが姿を消してから一か月が経った。
ノボルが居なくなってからも、三人の生活にさほど影響は無かった。三人はそれぞれの生活をそれぞれに生きていた。共用部分の清掃は気が付いた人間が適当にやっていたし、晩御飯が用意されてなくても特に困ることもなかった。それくらいのものだった。
直美はノボルが居なくなった日のことを思い出していた。その日はとても晴れていて、冬に入りかけの空がやけに澄んでいたのを覚えている。窓を開けると冷たい空気が流れ込んできたのですぐに閉めた。学校までの時間にはまだ余裕があったが、先ほどの澄んだ空気に触れたせいか、直美はいつもより少し心地が良く、早めに準備しようと自室の扉を開けてみた。しかし彼女はすぐにその手を止めた。玄関に誰かいる。隙間から注意深く見ると、それはノボルと、そしてハルだった。私は目を疑ったが、ストレートの髪に細い線、あれは紛れもなくいつも抱いているハルだ。二人はしばらく見つめあった後、静かに抱き合い、そしてキスをした。何度も何度も唇を合わせ、舌でお互いを愛撫していた。信じられなかった。しかしさらに信じられないことに、ハルは笑っていた。いつも無表情だった彼女が、こうも優しい表情をするなんて、直美は自分が夢でも見てるんじゃないかと思った。しかしそれは紛れもない現実で、そこには愛し合うノボルとハルがいた。ノボルが「行ってくる」というと、ハルは笑顔で「行ってらっしゃい」と手を振った。扉が閉まると、ハルは直美の方を向いて、また笑って見せた。直美はとっさに扉を閉めてしまった。その日、直美は部屋から出ることが出来なかった。
次の日からハルはいつものハルに戻っていた。無表情で、無感情で、瞳は遠くを見ていた。それは紛れもなく、いつものハルだった。昨日見たものはやはり夢だったのではないかとさえ思えたが、あの時の二人の姿がはっきりと目に焼き付いている。夢なんかじゃない。直美は思った。夢なんかじゃないんだ。そしてその日から、ノボルは居なくなってしまったのだ。
しばらく悩んだ後、直美はこの事を由稀に話してみることにした。午前7時過ぎ、いつのもように起き抜けで眠そうに部屋から出て来る由稀。その由稀に直美は声を掛けた。しかし由稀はあははと笑って取り合ってくれなかった。
「そんな事あるわけないじゃない。あの二人よ?考えられる?」笑いながら由稀が言う。
「でも、考えられるとかどうかじゃなくて、見たんですよ。実際に」直美は出来るだけ努めて冷静に話した。
「二人が、その、抱き合って、ハルが笑ってたんです」
「じゃぁ、よかったじゃない」
「え?」予想していなかった返答に思わず聞き返してしまった。
「ハルの笑顔、見れたんでしょ?どうだった?」
「えと、可愛かったです」直美はなぜか少し照れながら答えた。
「でしょ?だったらよかったじゃない。何か問題でもある?」
「いえ…」
由稀は飲みかけのコーヒーをテーブルに置き、静かに言った。
「ハルは笑った。でも、あなたはどうでしょうね」
直美は何も答えることが出来なかった。何かがおかしい。うまく言えないけど、ここは一か月前となんら変わらないけど、なんだかすべてが変わったしまっているような不安が襲ってきた。直美は怖くなって言った。
「あの、学校がありますんで…」
「はい、いってらっしゃい」由稀は笑顔で応えた。
由稀が自殺したのはその次の日の事だった。
第七章 始まり
首吊りだった。第一発見者はハルで、直美は救急車が来て救急隊員が部屋に押しかけて来るまで事態に気が付かなかった。救急隊員が懸命に心肺蘇生を行っている。ハルはその傍らに立って、静かにその様子を見守っていた。いや、眺めていたと言った方がいいような眼差しだった。とても静かで、とても冷たい、そんな目をしていた。なぜそんな目が出来るんだ。由稀…由稀さんが死んでるんだよ?どうしてそんな顔が出来るの?私はどうする事も出来なかった。ただ震えていた。震えてその場に座り込んだ。
「もう、いいです」
ハルの声だった。
「もう、いいです」
ハルの声だ。ハルは蘇生作業を行っている救急隊員に静かに告げた。隊員は由稀の様子を確認し、少し考えてから、作業の手を、止めた。二人の隊員は肩で息をしながら救急車から担架を持ち出し、由稀の身体を静かに乗せた。
「ゆ…由稀さん」直美は由稀の身体にすり寄ろうとしたが、ハルがそれを静止した。救急隊員はそのまま動かなくなった由稀を乗せて救急車で走り去っていってしまった。「ご家族の方ですか?」とも「同乗なされますか?」とも言われなかった。彼らはただ、機械的に、事務的に由稀の身体を運び去って行った。そしてここには、直美とハルだけが取り残された。
どれくらい時間が経っただろうか。直美とハルは何も言わずテーブルに向かい合って座っていた。直美は今起こった事実がまだ呑み込めないでいる。ハルは相変わらず心が読めない表情をしている。部屋にはカチコチと時計の音だけが鳴り響いていた。四人で食事をした記憶が蘇る。あの時なぜ黙ってたんだろう。何か喋って、みんなで話をするべきじゃなかったのか、直美はそう考えていた。頭が痛い。あの時と何もかもが変わってしまっている。なぜこんな事になってしまったのか。いくら考えても分らなかった。考えているうちに涙が出てきた。直美は肩を震わせて泣いていた。次から次に涙が出てきた。
そんな直美をハルは後ろから優しく抱きしめた。直美は驚いて顔を上げる。そんな直美を見て、静かにハルは言った。
「泣いてるの?」
「え?」
「あなたが泣くの、分かってたのに。ねぇ、私ってヒドイ?」直美の顔をよそに、なおもハルが続ける。
「温かい…あなたを抱くとね、私、安心するの」
唯一許されたものかのように、カチコチという時計の音だけが、高貴にその空間の中で音を成していた。
‐了‐
ルームシェアリング