楽園の神様

激しい性描写、障害児虐待描写を含みます。

楽園の神様

 抱きしめられると、酸化した脂のすえた臭いがした。
 私に覆い被さる身体は大きくて、蒸気が微かに立ち上るほど湿っている。背中に手を伸ばすと酷く冷たくて、きっと私を覆うのは輸入された冷凍肉か何かだとすら思った。しかし熱を持って癒着した薄い粘膜が何度も引き剥がされる。私は痛いほどの快楽に飲み込まれ、冷たい躯体から与えられるものが言葉にならない悲鳴を上げさせた。
 ホテルパライソ。楽園と名付けられた場末のラブホテルの天井には椰子の葉の模様が描かれている。彼はいつもこの部屋を選ぶ。揺れる視界では葉は風でなびく。逃がすまいと彼は私の肩に爪を立てた。痛い。痛いよ――
「おとう、さん」
 私はたまらず彼を呼んだ。私の、父親を。
 私の父は私の言葉を塞いだ。極限まで薄くした珈琲のような苦く生臭い唾液が送り込まれる。私の悲鳴は逃げ場を失い鼻腔音として小さな部屋の中で響く。
 もう嫌だと思うことも辞めていた。これで、これでいっくん――私の可愛い弟が救われるのなら、私はどうなってもいい。
「ああ、いきそうだ」
 低い声で父は呟いた。私を穿つ速度が上がる。私の息が止まる。どうして心と身体は繋がっていないのだろう。
「いっ――」
 私の身体は跳ねた。人は快楽には抗えない。どんなに心が拒絶していても、身体に与えられる快楽からは逃れられない。
 身体を駆け抜けた快楽の波は周期的に私の全身の筋肉を伸縮させた。爪の先までそれは行き届く。張り詰めて緩んで。よだれと涙で私の顔は汚れていた。
 ずるり、と私を追い詰めたペニスが抜かれる。冷たいものが内股を濡らした。父はコンドームをしない。傲慢な性の亡者だ。
 キングサイズのベッドに父娘が並んで寝ている。乱れた息が整うと共に私たちは楽園から現実に帰ってくる。いくら楽園と名付けられても、この世界に楽園などない。私が生きているのは――。
「ねえお父さん。私、高校辞めて働きたい」
 私は天井の椰子の葉をフォーカスの定まらない瞳で見て言った。葉がゆらゆらと揺れ続けるのは風が吹いているからではない。たった今、父に頬をぶたれたからだ。
「誰が学費払ってやってると思ってるんだ」
「でも、私」
「樹(いつき)のためか?」
 私の可愛い二つ下の弟。樹を育てられるのは、私しかいなかった。
「いっくんに車椅子を買ってあげたいの」
 また視界が揺れる。私に馬乗りになった父の臀部はじっとりと冷たかった。下腹部が押しつぶされて排泄された精液が流れ落ちる。
「そんなの花純(かすみ)が許すか?」
「お母さんは……お母さんは、何も分かってくれないから」
「だからって実の父親に抱かれるなんて、花純が知ったらお前刺されるかもな」
「でも……」
 でも、いっくんを守るにはこうするしかないから。
「後ろ向け。金が欲しいんだろ?」
 おずおずとうつぶせになると強い力で枕に顔を押しつけられる。閉じかけた扉がこじ開けられる。苦しくて、惨めで、でも他に方法なんて分からなくて。
 でたらめなペニスの動きが私の果実を押しつぶす。どろどろと果汁があふれて、シーツに染みを作る。透明な果汁が落ちる度に私は喉が擦り切れそうなほどの悲鳴を上げた。
 私が上げている声は嗚咽なのか嬌声なのか。
「いっくん、いっくんっ――」
 ただ私は愛しい弟の名を呼び続けた。いっくんを守れるのは、いっくんを育てられるのは私しかいない。実の父に犯されてでも。
 父は今日三度目の射精を終えると紙切れを私の手の中に握らせた。
 私は実の父相手に身体を売っている。今日の私の価値は五千円。どんなに高価な値をつけられても、値をつけられた時点で私には人間としての尊厳はないのだ。
「うっ……」
 湿った視界では椰子の葉は見えない。擦り切れた陰部からは赤いものが滲んでいた。痛い。苦しい。死にたい。
 死ぬことが一番の救いであることに、今日も気付かないふりをした。

 父のフォルクスワーゲンから集合住宅の前に下ろされたのは夕日がちょうど沈んだころだった。楽園の外には四季があり、今日はまだ春の盛り。着慣れた制服に汚れがないか確認して集合住宅の階段を早足でのぼる。いくら股関節の筋が引きつったって、いっくんが待っているのだから。
 集合住宅の四階の一番端、スチールのドアを開けると暗闇が待っていた。耳をすませると愛しいあの子の声がする。優しくて原始的な声が。
「さあちゃん、さあちゃん」
 ドアの向こうで私を呼ぶ声がする。ドアには南京錠。
「いっくんちょっと待ってね」
 家の鍵と一緒にキーホルダーに留められた小さな鍵で南京錠を解く。ゆっくりドアを引くと、股下の高さの柵にいっくんが膝立ちでしがみついていた。
「さあちゃん、おかえり」
「いっくんただいま」
 伸びた薄いひげ。よだれと鼻水が乾いてこびりついた頬。焦点の定まらない瞳。整えられていない髪に指を通すとじっとりとした雲脂が指に残った。
「さあちゃん、ごはん」
「はぁい。でもその前におむつ換えようか」
 柵をまたいで部屋に入ると排泄物の濃い臭いがした。補助錠で二センチしか開かない窓を開けて空気を気持ちばかり入れ替える。
「さあちゃん、さあちゃん」
 いっくんが私の腰に抱きつく。やせ細って、骨張って、愛しい。膝立ちで私のスカートに頬を寄せるいっくんを私は抱きしめた。そして視線をいっくんの足の先に向ける。
 いっくんには――私の弟には足首から先が無かった。
 ぷっつりとそこだけもぎ取られたように、頸骨から先がない。頸骨の先に薄い皮膚が寄せ集められ、床と擦れたそこはいつも血が滲んで膿んでいた。そこを見る度に私は、いっくんの傷のように心が膿んでいくのが分かる。どうしていっくんにばかりこんなことが起こるのだろう。せめて片方の足でも、いっくんにあげたかった。
 ベッドの代わりに床に直接置かれたマットレスにいっくんを座らせる。いっくんの重みで一緒にマットレスに倒れ込んで、私はいっくんの香りに嬉しくなる。
「いっくん、いいこいいこ」
「さあちゃん」
 しばらく抱き合ってから、何もない部屋に唯一置いてある私の背丈ほどのチェストを開く。扉にはいっくんが開けられないように高い位置に補助錠がついている。
「いっくん、きれいきれいしようね」
 よだれと鼻水がこびりついた頬を綺麗に拭いて、薄く伸びたひげを綺麗に剃ってやる。いっくんは少しこそばゆくしているものの嫌がることなく私の手に従っている。美しくなった頬を撫でていると、いっくんが目を細めて笑った。美しい、弟の顔がそこにはあった。
「いっくん気持ちいい?」
「うん」
 私たちは引き寄せられるように唇を重ねた。これしか、私たちは愛情表現を知らない。
「下もきれいきれいしようか」
 いっくんは大人しくマットレスに寝転がる。ハーフパンツを脱がしておむつのテープを剥がすと、きついアンモニア臭と腐卵臭がした。
「いっくんいっぱいうんち出たねぇ」
 汚れたおむつを取って陰部をウェットティッシュで拭く。ティッシュについた黒い汚れに鼻を近づけると、いっくんだった芳しい臭いがする。おそるおそる舌を伸ばすと、びりびりと舌先からおなかの低いところまで何かが走り抜けた。いっくんだ。私のいっくんだ。視線の先ではふるふると震えるペニスが芯を持っていた。
「いっくん、うんち食べられて興奮した?」
 いっくんは意味をなさない音を口から発していた。でも私には分かる。いっくんに私は求められているのだと。
 新しいおむつを敷いて、いっくんのペニスに触れる。熱くて、女体のどこにもない柔らかさと固さを兼ね備えていて、透明の潮を流す。
「ちゃんと皮を剥いてきれいきれいしようね」
 私の中に官能の火が灯っている。
 唇で皮を剥いて亀頭の溝にたまった垢を舌で舐め取る。「ひゃん」なんて可愛い声をあげていっくんは腰を震わせた。可愛い、可愛い私だけの弟。全部食べて私になれば、一緒になればきっとそれほど幸せなことはない。
 この部屋は、私といっくんの楽園だ。
 いっくんのペニスを舌で、頬の内側で、唇で。全てで愛撫する。本能的な声を上げる弟が愛しくて、クロッチに染みができる。
「いっくんごめんね、私も」
 父の精液で汚れたショーツを脱ぎ捨て、私は自らの中に指を二本挿す。擦り切れたそこは再び熱く濡れて、体液が染み出るのを感じる。
「んっ、んっ、いっくん」
「あうあ、さあちゃん」
 弟のペニスをでたらめに舐めて、中指で自らの腹の内側を強く圧迫した。自然と腰が揺れる。彼のペニスが一段と充実して熱くなるのが嬉しい。私の指の動きが激しくなり、びちゃびちゃと水音が泉のように鳴り響く。
 この指が、いっくんのペニスならいいのに。
「さあちゃ、ううっ」
 ペニスが拍動し、体液が私の喉にたたきつけられる。苦くて、美味しくなくて、幸せな味。
 私の中にいっくんが入る。深いエクスタシーに私は痙攣し、床に水たまりをつくった。
「あは、お姉ちゃんおもらししちゃったね」
 性の余韻にけだるい体を起こして、チェストの中のキッチンペーパーで透明な水たまりを片付ける。あの男――父親が求める性を、私がもっていることは認めたくなかった。それでも、
――いっくんとセックスしたい。
 私たち家族は、狂っていた。
「じゃあお姉ちゃんご飯持ってくるから、いいこにしててね」
 弟の額に一つキスを落とすと、柵を越えてドアに鍵をかけた。
 ドアの向こうからは「さあちゃん、さあちゃん」と愛しい鳴き声が聞こえ続けていた。

 電気のついたダイニングには、母がいた。ビジネスカジュアルに似つかわしくない安い缶チューハイを飲みながら、赤い唇で煙草を吸っている。銘柄は詳しくないが、鼻を刺すような苦い香りが母の臭いだった。
「またあのバケモノのところにいたの?」
 母はいっくんのことを――実の息子のことをバケモノと呼ぶ。私はそのたびに体の中心にナイフを刺された気分になる。しかしもう、何を反論しても無駄だった。
「いっくんのご飯作るから」
 私はブレザージャケットだけ脱いで、ワイシャツの上からエプロンを被る。
「私の分は?」
「お母さんと私のは後で作るよ」
 は? と低い声が私を威嚇する。
「私よりあんなバケモノの方が大事だって言うの? 誰が稼いであんたに食わせてやってると思ってるの」
 私は水切り台の上の包丁から視線を逸らした。
「いっくんはお昼も食べてないから」
「じゃああんたがもっと早く帰ってきて作ってやればいいさ。どこで遊んでるのか知らないけど、家のことくらいやってくれてもいいんじゃないの?」
 憮然として、私は冷蔵庫から玉ねぎを取り出して皮を剥き始めた。
「炒め物と焼き魚でいいよね」
 私の言葉に、好きにしなさい、と母は吐き捨て、缶チューハイを煽った。
 母がダイニングを去るまで、私は包丁を見ることができなかった。

 二人きりの習慣としてしか存在しない夕食を終えて、私は弟のご飯を作った。虫歯で殆どの歯がないいっくんのためにおかゆとペースト状のほうれん草と豆腐を用意する。もっと美味しいものを作れるようになりたいけれど、何がいっくんにとって美味しいのか私には分からない。
「いっくん!」
 南京錠を外すと、私は叫んだ。床に下ろした皿が音を立てる。柵をまたぐといっくんの口の中に手をつっこむ。
「んーんっ、んなーあ」
「いっくん、だめ、だめ」
 どろどろになった壁紙をなんとか吐き出させる。いっくんの指は黒く変色し、剥がされた壁紙には血痕が残されていた。
「いっくん、ごめんね。ごめんね」
 お腹空かせて、ごめんね。
 暴れるいっくんの肘が頬に当たり私はチェストに頭を強打した。こんなの痛くない。いっくんの痛みに比べたら、なんてことない。
「いっくんごめん。ごはんできたよ」
 おかゆが乗った皿を見ると、いっくんは犬のように口をつけて食べた。
 お母さんはいっくんのことを「バケモノ」という。獣のように飯にありつくいっくんは到底人間らしくないかもしれない。それでも――
「いっくんは、私の弟だから」
 部屋の端で私は膝を抱いて大声で泣いた。誰か助けてください。もし神様がいるのなら、私たちを助けてください。

 いっくんは呪われた子供だった。
 いっくんに知的障害があると分かると、母はいっくんを部屋に閉じ込めた。
 出られないように南京錠をつけて、ドアを開けた隙に出られることもないように柵もつけた。
 母は私が幼い頃から私に言い聞かせた。「樹は呪われたバケモノだ」
 なんでバケモノなのかは私には分からなかった。可愛い弟としか思えなかった。いつか素晴らしい外の世界を知って欲しかった。けれど、幼い私には何もできなかった。
 母は私たちを養うためにたくさん働いた。そしてその分だけたくさんお酒を飲んだ。
 ある日、酔っ払った母が私に言って聞かせた。
「樹はね、早苗の父親の裏切りからできた呪われた子なんだよ。お前のお父さんは私以外に女を作って、しかも樹と同時にその女から子供を産ませた。そしてなんて言ったと思う?『彼女は一人で生きていけない可哀想な子だから俺がいなきゃいけないんだ』ってさ。じゃあ二人の子がいる私はどうなる? 樹は望まれなくして産まれた呪いの子だ。だから頭がおかしく産まれてしまったんだよ。あんなバケモノ世間に知られるわけにはいかない。だから誰にも樹のことは話すんじゃないよ」
 私はただアルコールで充血した母の瞳が恐ろしくて頷くことしかできなかった。
 学校でも友人の間でも、私は一人っ子ということになっている。
 私が中学生のときに突然現れた父にしか、私たち姉弟のことは話せなかった。
 お父さんはもうあのときの彼女とも別れ、私に性を求めたけれど、相談できる大人はお父さんしかいなかった。父にセックスを教えられ、それで金を貰うことも覚えた。

 どこかから声が聞こえる。
「弟に抱かれたいって、いつから思っているの?」

 私と父はよく似ている。最低で、最悪な、クズだ。

「さあちゃん、さあちゃん?」
 気付いたら私の嗚咽は笑いに変わっていた。
「あは、ごめんねいっくん。ごはん美味しかった?」
「おいしかった」
 汚れたままの口にキスをして、雲脂で濡れた髪を撫でる。
「ねえいっくん、今晩私もこの部屋で寝てもいいかな」
 いっくんの表情が固まる。
「だめ、だよ」
「なんで? お姉ちゃんと寝るの嫌?」
「よるは、かみさまがくるから」
「神様?」
「うん。ひとりで、いいこ」
 いっくんには私にはないこだわりがあるのかもしれない。夜くらい一人になりたいのかもしれない。でも、そんなことより、
――今晩ここで寝て、私は何をするつもりだった?
「わかった、じゃあお姉ちゃんお片付けして寝るね。おやすみなさい」
 おやすみなさいと返事をして、いっくんは大人しくマットレスに横になる。
 おかゆのついた口周りを拭いて、私はいつも通り南京錠をしっかりとつけた。この鍵は私の欲望の鍵でもあると、私は理解していた。

 ゴールデンウィークが明けた五月の日曜日、私は母が仕事に行ったのを確認して南京錠を開けた。
「いっくん、お外行かない?」
「おそと?」
「うん。この部屋の外」
 じゃーん、と見せたのは、折りたたみ式の安い車椅子だった。
「お姉ちゃん、頑張ってこれ買ったんだよ。天気もいいし、お散歩行かない?」
 頑張って、父に春を売った。
 いっくんはきっとお散歩が何なのか分かっていない。けれど、私と一緒に居られるのが嬉しいといった顔をしていた。
 いっくんのおむつの上からハーフパンツを履かせ、染みだらけのTシャツの上には私のカーディガンを着せた。
 ひょいと持ち上げると、いっくんの顔がとても近くにあった。こんなにも軽くて小さい可愛い弟。私にできることなら何でもしてあげたい。
「じゃあ、お散歩しよう」
「うん」
 車椅子に座らせると、膝にブランケットをかけてやった。
 いっくんは靴を履いたことがない。でもこの車椅子がいっくんの靴になるんだ。

 外は麗らかな暖かさと心地よい風でとても気持ちよかった。
 河沿いの道路をゆっくりと車椅子を押して進む。
「いっくん、あれが川だよ」
「かわ?」
「お水がいっぱい流れていて、やがて海になるの」
「うみ?」
「そっか、海が分からないか。じゃあ今度は海に行こうか」
「うん」
 車椅子の上であたりを見渡すいっくんは私が危惧していたよりは落ち着いていた。人間は世界を初めて見たときどう思うのだろう。赤子が泣くのは知らない世界に出会うからではないだろうか。でもいっくんは赤子じゃない。十五歳の、囚われの弟。世界はこんなにも美しいのだと彼は受け入れている。
「いっくんももっとお外のこと知りたいよね」
「おそとは、かみさま、いる?」
「そうだね、八百万くらいいるんじゃないかな」
 いっくんはその数を理解しない。それでもいい。私たちが生きる世界はあの小さな箱じゃなくていい。
「あれ? 早苗じゃん」
 見ると中学から同じだった友人の仁実(ひとみ)だった。私は身を固くした。いっくんは仁実の長い髪を掴もうと手を伸ばす。
「いっくんやめなさい。ごめんね、仁実」
「いいよいいよ。その子は誰かな?」
 私が答えられずにいると「まさか、彼氏?」と仁実に茶化された。私は笑うこともできずに答えた。
「親戚の、子」
「そっか、残念。せっかく早苗に春が来たのかと思ったのに」
 彼女はいっくんに「こんにちは」と話しかける。
「こんにちは」
「私は早苗さんのお友達の仁実です」
「ひとみ」
 そうだよ、と彼女は微笑んだ。
「偏見とか、ないの?」
「んー、私の姉がこんな感じだから慣れてるだけかな。バイトも障害のある子供たちの面倒をみるところだし」
「知らなかった」
「あんまり話題にはしづらいよね。でも、障害があっても人は人だし、いいんじゃないかな」
「……だね」
 私の肩の力が抜けるのを感じた。いっくんだって外に出られる。隠れなくていい。
「また早苗の話も聞かせてよ。面倒見るの大変でしょ?」
 ありがとう、と言うと、仁実は、私も話したいだけだから、と手を振った。
 いっくんのこと「弟」だって言えなかった。だって「彼氏」の方が嬉しかったから。
 私の浅ましさに喉の奥が苦くなった。
 穏やかな時間をいっくんと過ごして、いっくんは初めて夕日を見た。河川敷で自然と唇が重なる。いっくんとこのまま自由に生きていたい。
「ふえ、えっ」
 いっくんが急に泣き出す。四肢をでたらめに動かして、車椅子から転げ落ちる。
「いっくん、どうしたの?」
「かみさま、かみさま、くる」
「神様?」
「よるは、かみさまがくる」
 私は憮然として草むらの中でいっくんを抱きしめることしかできなかった。
 このままどこかへ行ってもよかった。けれどいっくんがあの部屋に縛られているのなら帰るしかない。
 心が監禁されている以上、いっくんが自由になる日は来ないんだ。
 私はどうしたらいっくんを自由にできますか。
 ひとしきり暴れて疲れたいっくんを車椅子に座らせて集合住宅に戻る。エレベーターの中で私は考えていた。私がいっくんのためにできることはあまりに少なくて、今日の散歩も結局は私の自己満足でしかなかったのではないか、と。
 エレベーターをおりて部屋のスチールドアを開けると、髪が乱れた母の姿があった。
「早苗! どういうことなのか説明しなさい!」
 迂闊だった。今日は母の帰りがいつもより早かった。
「こんなバケモノを外に出すなんて、ご近所さんに知られたらどうしてくれるの? やっぱり早苗に鍵なんて渡さなきゃよかった。樹なんてあのとき殺しておけばよかった。どうしてくれるのよ。こんな忌み子早く部屋に閉じ込めておきなさい。私、もうどんな顔して外に出たらいいの? あなたたち二人とも私の恥よ。死んで。私に迷惑かけないで頂戴。死ね。死ねよ」
 早口でまくし立てながら母は私の髪を掴んで揺さぶった。視界がちかちかする。頭が痛い。なんで、なんでお母さんは分かってくれないの?
 母は力尽くで家の一番奥、いっくんの部屋に私たち二人を閉じ込めた。
「お母さん、お母さん開けてよ。ごめんなさい。もう勝手なことしなから。ごめんなさい」
 私は頬を濡らしながら大声で叫んだ。ドアを叩いても、南京錠が揺れる感触しかしない。
 部屋の外では母が何かを叩きつける音がする。破られ、壊し、曲げられる。私たちは一生出られない。家族という檻の中で生きていく。誰が決めたでもない、神に与えられた檻の中で。
 私は喉が擦り切れるほどの大声で泣いた。どうして? どうしていっくんは、私はこんな目に遭わなきゃいけないの?
 へなへなと座り込むといっくんが這って私の肩を抱く。私はたまらずいっくんを押し倒した。
 頭の中でずっと母の叫び声がリフレインしていた。産まれてこなければよかった。私たちを閉じ込める母の元に産まれたくなかった。私の性を買う父の元に産まれたくなかった。――二人の残酷さを併せ持つ自分に産まれたくなかった。
 私はいっくんの唇に噛み付いた。酸で溶けた歯、腐った口臭、じっとりとした肌。その全てが愛おしい。舌を伸ばしていっくんの舌をとらえる。そこは父とも同じ柔らかさ。血筋でできた檻の中に私たちはいる。
 いっくんのハーフパンツを膝まで脱がし、おむつのテープを引きちぎる。微かに充血したペニスに触れるといっくんは腰を揺らした。
 私は服を全て脱ぎ捨てると、いっくんを抱きしめた。私の股の間でペニスがひくひく上下する。
「おねえちゃんの裸、綺麗?」
「さあちゃん、さあちゃん」
「こんなにおちんちんおっきくしちゃって」
 私は自らの蜜壺にいっくんの中心をあてがった。
 もうどうなろうといい。いっくんだけが私の全てになればいい。
「んっ……っは」
 いっくんが私の中にいる。それだけで小さなエクスタシーの山が私の中で波打つ。押し広げられた私はいっくんを隙間無く包む。可愛い弟のための肉壁は彼の形に変わる。がくがくと震える脚は喜びの波でいっぱいだった。
「いっくん、きもち、いい?」
「あっ、さあちゃん、うう」
 私はいっくんを抱きしめたまま腰を上下させる。汚らわしい父の精液を全て掻き出して欲しかった。いっくんでいっぱいになりたい。
 この感情が間違いだとしても、私にはそれが分からない。
「いやっ、待って、いっくんっ」
 言葉にならない声を上げ続ける弟が、私を下からつらぬく。加減をしらないそれは容赦なく私を追い詰める。
「いっちゃう、いっちゃうからやめてっ」
 跳ねるように腰を突き上げられ、私は悲鳴をあげた。愛する人から与えられる性はこんなにも満たされて、深いのだと知る。全身を震わせていっくんのペニスを離さないとばかりにきつく締め付ける。深いそれは私の爪先まで行き届き、全ての産毛が立ち上がるのを感じた。
 もういい。どうなったっていい。
 私たちは抱き合ったまま転がって、いっくんが私を覆う。薄い背中に、乾いた肌。
 足のない弟はただでたらめに腰を穿った。内臓が押し上げられる快楽に私は断続的に叫ぶ。
 値段のつけられないセックスがこんなに気持ちいいなんて知らなかった。
 三度目のエクスタシーに頬に涙が伝う。これが喜びなのか苦しさなのか、性に溺れた私には分からない。
 いっくんは射精するとき「かみさま」と呟いた。いっくんを救う神様はこの世にいるのだろうか。

 翌朝、母の怒号で目を覚ました。
「早苗、早く学校行きなさい。休みなんて許しません」
 いっくんの腕の中で眠る私の腕を掴んで引き剥がす。身が二つに引き裂かれるほど痛かった。
 いっくんはまだ寝ぼけたまま宙を眺めていた。彼を救う存在になりたい。自由にしてあげたい。家族という檻から。
 それでも――性を奪ってしまった罪は重い。
 シャワーを頭から浴びながら私は静かに泣いた。触れてしまった。汚してしまった。私の性の暴力性を露わにしてしまった。父親譲りの、傲慢な性を。
 いっくんに、こんなことしていいわけないのに。
 私の愚かさと後悔と余韻で下腹部が痛んだ。
 この水と一緒になって、私の全てが排水溝へ流れたらいいのに。
 朦朧とした意識のまま私は登校した。集合住宅のゴミ捨て場にフレームが大きく曲がった車椅子があった。私はどうしたら救われますか。

「早苗、今日元気ないね」
 教室で机に肘をついていると、話しかけてきたのは仁実だった。
「ちょっと、いろいろあって」
 そう答えるので精一杯だった。油断すると駆けだして教室の窓から飛び降りてしまいそうだったから。
「言いづらいことなら文章で聞くよ」
 そう言って仁実は私の横にしゃがみ、スマートフォンを取り出した。
〈話したければ、でいいよ〉
 画面にそう表示させる。
 私もスマートフォンのメモ帳を起動させる。
〈私に何ができるのか分からない〉
 仁実は少し考え込むような態度を取って、スマートフォンに打ち込む。
〈昨日散歩してた子のこと?〉
 私は顎を沈めた。
〈障害のある人への支援の方法はいろいろあるけど、私は福祉系の専門学校に進学することにした。両親だけじゃお姉ちゃんの介護は難しいし、困ってる人はきっとたくさんいるから〉
 私が目を見開いて仁実の顔を見ると、彼女は歯を見せて笑っていた。私のように絶望することなく、彼女は凜々しく立っている。いや、何度も絶望し、それでも前を向いていたのかも知れない。障害者支援の実態は私には分からない。けれど、いっくんのために学べることがあるのなら、私はいくらでも頑張れるだろう。
〈今度、その専門学校のオープンキャンパス行くけど、早苗も一緒にどう? ひとりで抱え込まないでね〉
 目の前の黒いもやに光りが射した気分だった。私はちゃんといっくんのためになること――セックス以外の愛情表現を覚えることができるようになるはずだ。
「ありがとう」
 私の言葉に仁実は私の背中を叩いた。
「詳細はまた送っとくね。んじゃ」
 私は正しい家族の在り方を探していた。姉弟ってなんだろう。
 オープンキャンパスに行ったら仁実にちゃんと話そう。いっくんは私の弟なんだって。
 私は決意を固めてスマートフォンのメッセージアプリを開いた。

 一日の授業を終えて校舎を出ると、校門にシルバーのフォルクスワーゲンが停まっていた。
「よう、早苗」
「お父さん」
 まあ乗れよ、と父は助手席に促した。
「お父さん、あのね」
 言いかけた唇を塞がれる。
「大事な話なんだろ? いつもの部屋でいいか?」
 私は頷いて、震える太ももに力を入れた。
 父の愛車は確かなエンジン音を響かせながら高速沿いのホテルに車体を滑らせる。
 ホテルパライソ。私たちの、性の亡者の楽園。
 縁が固いベッドに腰掛けると、父は私の横に体を寄せる。父の臭い、すえた酸の臭いがする。
「お父さんあのね、私、専門学校に行きたいの」
 ほう? と父は両眉を上げた。
「いっくんのこと、今の私じゃまともに助けてあげられない。だから福祉の勉強をしていっくんを自由にしてあげたいの」
「また、樹のためか」
 父の手が私の首に添えられる。大きくて、じっとりとした手。指紋のひとつひとつが私の肌に刻まれるようだった。
「いっくんのためでもあるけど、私のためでもあるの。私がいっくんと正しい姉弟になるために」
「早苗、樹を抱いただろ」
 私の顔が引きつる。父は愉快とばかりに大声で笑った。
「俺以外のやつとやってんじゃねーよ。ド変態が」
 低い声で囁くと、父は私を押し倒して首を絞めた。
「血は争えねぇなあ、早苗」
 脳の血液が行き場を失って熱を持つ。意識が遠のく瞬間は、エクスタシーに似ている。
 父が手の力を緩めると、私は激しく咳き込んだ。視界がはっきりしない頭を押さえて、私はベッドの上で膝をそろえた。
「お父さん、お願いします。少しだけでも構いません。学費の援助をしてください」
 三つ指そろえて、シーツにつくほど深く頭を下げた。
「うっ」
 私の頭の上に、湿った足が乗せられた。
「早苗、お金はタダじゃ貰えないんだ。そのことは俺が教えたよな?」
 私が顔を上げようとすると、彼の足が強く踏み込まれる。シーツの海に窒息しそうだった。
「早苗、お願いします、は?」
 必死で舌を動かしても言葉にならない。
「聞こえないなぁ。お父さんにお願いしてみせろよ」
 さらに踏み込む足に力が入る。伸びた首の筋がキリキリと痛んで、私の尊厳が痛んでたまらなかった。こうなるって分かっていたのに、どうしてお父さんにしか頼れないのだろう。
 父が足をどけると、私は横に倒れて肺いっぱいに空気を吸った。何度もむせて、頬を涙が濡らす。

楽園の神様

楽園の神様

実の父に身体を売る姉と、実の母に「バケモノ」と呼ばれ監禁される弟。私たち家族は、壊れていた。――よるはひとりでいなきゃいけないの。かみさまがくるから。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
  • 強い反社会的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2020-05-31

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