Vanilla
激しい性描写・暴力表現を含みます
1.
薄暗い、この世から隔絶された部屋。繁華街の端っこにある小さなクラブのステージで、少年は妖艶に鞭を振るった。男は雄豚のような悲鳴をあげて、擦れて嫌に光る木の板に倒れる。ステージを囲む観客達は少年の冷たくも恍惚とした表情に息を熱くし、酒をあおる手を止めて見入った。
ラバーのボンテージに身を包みハイヒールを履いたこの少年は、客の間では『夜蝶のシャル』と呼ばれ、このクラブで一番の人気を誇っていた。透けるような美しい白磁の肌に、熟れた唇。整った顔立ちに冷たいアーモンドの瞳。黒い滑らかな髪と、精巧な球体関節人形を想わせる無機質な躯体は誰をも魅了し、だからこそこの世界にいるのであろう。
シャルは、カツカツと鉄底のヒールを鳴らして、這いつくばる男の前につま先を差し出す。男は当然とばかりに舌を伸ばすが、シャルは男の肉付きのいい顎を蹴り飛ばす。
「ぁ……あっ……」
歯が数本、血液と共にステージまで吹き飛び、悶絶する男の粗末なペニスは小刻み震え、白い水を撒き散らしていた。
「何勝手にイってんのかな、豚以下のゴミが」
シャルが男の顎を掴み、砕けた骨をジャリジャリと弄ぶ。悲鳴にならない声を上げ続ける男を一発平手打ちにすると、横のスタッフに連れていけ、と小さく指示を出した。スタッフに引き摺られながら、ありがとうございます。ありがとうございます、と男は叫んだ。
客席を見ると、股間を膨らませた男たちが今にも手を一物に伸ばそうとして、今か今かと熱い視線をシャルに集めていた。
「ここからがショータイムだよ」
シャルはボンテージの前のジッパーをゆっくりと、蛞蝓が歩くほどゆっくりと下ろす。ねっとりとした欲望の目を一身に集め、観客の息遣いに身を震わせてその固い服を脱ぎ捨てた。
シャルがゆっくり振り返ると、観客はその美しさに息を漏らす。シャルの腰の左の方。心臓から真下に流れ落ちた先に、一羽の蝶が止まっている。黒く、艶やかで、死の使者のような蝶のタトゥー。それが彼のトレードマークだった。
白い肌を安い白熱灯のスポットライトと観客の熱視線が焼く。背中にそう感じる。
またゆっくりと振り返ると、足を開いて床に腰を落とす。ハイヒールで高くなった踵を腿につけて、陰部をすべて晒す。
シャルはこの世の全てを見下す目で観客を見た。自身を見て情けなく発情して性器をしごく大人たちが滑稽で堪らなかった。そして、何よりそれが快感だった。
肌を裂くような興奮にシャルも自らに手を伸ばす。空気がまた一段と淫靡なものに変わる。
そこでシャルはある男の存在に気が付いた。
最前列のその男の服の乱れはなく、髪も整い、顔はまるで待ち人に出会えたかのような喜びに満ち、清潔で、美しかった。
この薄汚れたクラブに迷い込んだ不釣り合いな男は、シャルの目を奪ってやまなかった。
シャルは固いハイヒールを脱ぎ捨て、男に足を伸ばした。すると男はシャルの足の甲に頬を寄せたのだ。
シャルは指先で男の唇を奪い、そして声をかけた。
「おじさん、こんなところに何しにきたの」
男はまっすぐな目で答えた。
「君、私のためのショーをしてくれないか」
「ショー? ショーなら今、しているじゃない」
シャルは男の問いに呆れたように答えた。周囲の客がざわつくのが分かる。
「私だけのショーが見たいんだ」
スーツ姿の男は自分を見下すシャルから目を逸らさなかった。シャルは鼻で笑う。
「僕とセックスしたいなら裏のマネージャーを通してね。僕はタダじゃないんだ」
シャルは素足で男の鼻を軽く蹴ると、立ち上がって「興が覚めたわ」と舞台の裾に戻って行った。ショーを中断されたことに怒る客の怒号が気持ちよくてしょうがなかった。
「で、お前はそのおっさんのせいでショーをやめて帰ってきたのか」
夜蝶のシャルと呼ばれる少年は目の前の男、劇場支配人の北原誠司に頬を叩かれた。ジン、とした痛みが彼に生きていることを感じさせる。小汚い狭いアパートの一室。いつから干していないのかも分からない布団をかけられたベッドの上。手首を荒縄で縛られた状態で北原に押し倒されている。北原の男にしては長い髪がシャルの上に影を落とした。
「だって、あのおっさんときたら、僕を前にしても息を乱しもしないで突っ立っているの。それに、不満の溜まった客の顔を見るのも最高。みんな僕に平伏せばいい」
もうひとつ、シャルは北原に頬を叩かれる。涙が頬を伝うのが気持ちいい。
「今度勝手に逃げたら食事は水と俺の精液だけだと思え」
シャルは北原に髪を掴まれると、充血したペニスを口に押し込まれる。まるで性具のように頭を前後させられ喉の嫌なところに当たる度に嘔吐くが北原は気にも留めなかった。シャルも応じるように舌で受けとめ、卑猥な音を立てて吐き出される液を一滴残らず吸い取る。シャルは嫌だという感情を忘れていた。否、思いだすことをやめていた。
「ショーではサディスト気取ってるくせにいざセックスすると真性のマゾだな、――ちゃん?」
北原はシャルの名を呼びながら彼の膨らんだものの先を爪ではじく。それは赤く腫れて蜜をどろりと垂らしていた。幼い身体つきからは想像できない凶悪なそれを玩具のようにこねくり回す北原をシャルは息を荒くしてじっと睨んだ。
シャルは最高のサディストだ。何故なら彼自身が最高のマゾヒストだからだ。
そう北原に教えられたのはほんの数年前、しかし幼いシャルからすればとうの昔のことのようだった。
「誰も知りはしないさ。お前が『されたい』ことをショーでしているってことをさ」
北原がシャルの顎を強く掴んでベッドへ投げ飛ばす。今晩のショーで顎を蹴り砕いた男の顔をシャルは思い浮べる。骨折の痛みを想像するだけで絶頂を迎えてしまいそうだった。砕けた骨がぶつかり合う音が体内に響くのはどんな波だろう。絶頂より痛い波だろうか。切れた血管と神経が磨り潰される痛みはどんなエクスタシーを与えてくれるだろうか。玩具のように壊れたら捨てられる屈辱はどんなに惨めだろうか。ショーの合間もひたすら自らに痛めつけられる自分を想像してはゾクゾクとしたものを感じていた。
「こんな変態は一生こうやってショーをして稼げばいいのさ」
シャルは北原にうつ伏せで脚を開くと、もっと、と求めた。
北原はシャルの腰に留まる黒揚羽を撫でると、一思いに秘孔を貫いた。嬌声を上げて官能の淵に落ちていく。尻を平手で叩かれる度に手首を縛る赤い縄を噛みしめてぽろぽろと涙を零す。
絶望こそが快楽だと、このときシャルは思っていた。
朝、隣に誰もいない孤独で目が覚めた。
あたりを見回しても雑多なアパートの一室に北原の姿はない。シャルが持っている唯一の私服である青いスウェット生地のパーカーに袖を通して狭いキッチンの先の玄関を確認すると北原の靴も無かった。ゴム口がよれたパーカーの裾を引っ張って、玄関に膝を抱えてシャルは座った。
どれだけの時が経っただろうか。板張りの床がシャルの薄い尻を冷たくさせ、シャルが不安に震え怯えるのには十分な時間だった。玄関が開く音に顔を上げると帰ってきた北原は珍しくスーツ姿で、長い髪を低い位置で一つに束ねていた。
「シャル、起きてたのか」
北原の手がシャルの頬に触れる。人肌の温もりが凍り付いたシャルの口の端を溶かしていった。
「詫びと言ってはなんだけど、これもらったからやるよ」
小さな紙袋の中を覗いて紙箱に印刷された見覚えのあるロゴに、シャルはぱあっと顔を輝かせる。
「お前、これ好きだろ?」
シャルはコクコクと頷き、北原をせかすようにワンルームの座卓まで駆ける。
贈答用の紙箱の中には透明なカップのカスタードプリンがふたつ並んで入っていた。下には飴色のカラメル、バニラの粒が混ざった固めカスタードの上には真っ白な生クリーム。口の中で混ざり合うと苦さと優しさが調和して夢を見ているように幸せな気持ちになった。気まぐれで北原が持ってくるこのプリンのことがシャルは大好きだった。
「じゃあ俺、シャワー浴びてくるわ。整髪料付けてるとハゲそう」
「いってらっしゃい」とまた一口プリンを口に含んで北原をユニットバスへ見送った。
「シャル、ちょっとこっちこい」
風呂からあがった北原はベッドに腰掛けると、シャルを隣に座らせた。
「何、改まって」とシャルは笑う。だが彼の心中は不安と怯えしかなかった。昨晩のわがままはまだ許されていない。どうか、どうか見捨てないでと必死で叫んだが、あっけなくその願いは裏切られる。
「シャル、お前は今日からここを出ていくことになった」
「えっ、何で、何故なの北原さん」
北原の胸に掴みかかって叫ぶ。
「お前を買い取りたいという人が今日やってきてな。お前を売ることにした」
言葉が出なかった。今まで必要とされてここにいたのに、こうもあっさり終わりが来る。いや、元から必要とされていなかったのかもしれない。北原にとってシャルと呼ばれる少年は恋人でもなんでもなく、ただの商売と性処理の道具でしかなかったのだ。「シャル」は所詮道具。人としての存在価値はなく、売り買いされる「物」なのだ。そうシャルは思わざるを得なかった。
「いくら……いくらで僕を売ったの」
求めていた以上の屈辱に震える声で問う。
「知らない方がいいんじゃないの? 自分に付けられた価値なんて」
シャルは襟を掴んでいた手を離した。
「もうすぐ迎えが来るから荷造りしろ」
冷淡な声にシャルは静かに笑った。また売られたのだ。金目当てで僕を。ひどく惨めで興奮した。ショーを見に来る汚いゴミのような大人よりも価値のない僕。次の飼い主もセックスが上手だろうか。
「どんな人なの?」
シャルが訊ねると北原は一言「社長さんだ」と答えた。
金持ちが人を買うことはよくあることだ。気に入った風俗嬢に金を渡して家に住まわせる、いわゆる「水揚げ」というものはシャルも聞いたことがあったし、シャルを買い取りたいという申し出は何度もあったと北原は言っていた。しかし今まで北原はどんなに金を積まれてもシャルのことを手放そうとはしなかった。どうして今なのだろう。
「僕はもういらない子なんだね」
何度も繰り返した言葉を思い出したようにシャルは呟いた。
まとめるほどの荷物なんてなく、あっけなくそのときは来た。
「シャル、迎えが来たぞ」
北原がシャルの髪に触れる。黒くて柔らかなそれを確かめるように指に絡ませて耳、頬へと手を撫で下ろす。
シャルは北原の手を振り払って立ち上がった。もう用済みになるのだから気にも留めなかった。シャルにとって自分を必要としない人間なんて必要ではなかった。身寄りのない自分を住まわせてくれた恩はあったが、北原は僕のことを売ったのだ。
「もう必要じゃないんでしょ?」
「ああ、もう帰ってくるなよ」
その言葉を最後に、シャルはアパートの前に停められた黒塗りの車に乗り込んだ。バニラとムスクの香りがする。
「さようなら、北原さん」
どんな生活が待っていようとシャルにいかなる選択肢も無かった。不安に思うことも逃げ出すことも知らなかった。何故なら彼は売買される「物」だから。そう、シャルが信じているからだ。
2.
北原の住むアパートから車で十五分ほどの高級住宅街。繁華街の不潔さなんてみじんも感じない空気すら違って思える場所にシャルは居心地の悪さを感じていた。
シャルは昨晩のショーのことを思い出していた。清潔なスーツを着た男。あの男が妙なことをいうのだからこうして北原に捨てられたのだ。あの男と、取り合ってしまった自分にシャルはひどく腹を立てていた。
敷地内の手入れの行き届いた花壇の前に車をつけると、運転手はドアを開けてシャルを大きな邸宅の中へ案内した。玄関ホールは吹き抜けで、ここだけで今まで暮らしていた北原のアパートの居間ほどの広さがある。高い窓から差し込む昼下がりの光に目が回るようで、夜の薄汚れた世界しか知らないシャルにとっては眩しすぎた。
「主人の引田様がお待ちです。どうぞ二階へ」
シャルと同じ年頃の運転手の青年が誘導する。シャルは足にひっかけていた安いサンダルを脱ぐと用意されたスリッパを無視して裸足で階段を上がった。
次の飼い主はどんな人だろうとシャルは考えを巡らせる。こんな広い家に住んでいる社長さんともなれば相当な金持ちだ。シャルのことを買い取れるほど金を積める人だ。そして僕を買い取るなど酷くマニアな変態だろう。性欲を持て余した熟れた女性か、サディズムを向ける相手のいない寂しい人かもしれない。スカトロマニアの小汚い男かもしれない。以前買い取った玩具が壊れたからシャルを買い取ったのかもしれない。今までの生活より酷くたってシャルはどうでもよかった。価値のない僕。唯一の価値はこの美貌。いつ捨てられたっておかしくないのだ。
二階の最奥のドアを青年が開けると、シャルは目を疑った。忘れもしない、待ち人に出会えた喜びをたたえたその瞳。
「やっと来てくれたね、シャル君」
大きなダイニングテーブルから立ち上がって出迎えてくれたのは、昨日シャルに話しかけた男だった。今日もスーツ姿で、髪は整髪料でセットされ、清潔で、きっと家具の埃をすぐ気にするような人に思えた。
「私は引田真琴だ。お腹空いているだろ? まずは食事にしよう」
さあさあと言われるままに席に座ったが、シャルは笑顔で浮かれる引田のことが薄気味悪かった。本当に買い取るなんて大した金持ちだ。あなたのせいだと怒鳴り散らしてやりたかった。しかしこれからは彼が自分の所有者になる。飼い主に歯向かうは商品としてできなかった。引田という男は清潔そうに見えるが真性のマゾなのだろうか。いや、サディストを蹂躙したいサディストかもしれない。
上着を脱いだ運転手がシャルと引田の前にミートソースのかかったパスタとコーンスープ、ハムの入ったサラダを並べる。花の模様が描かれた食器はいかにも高級そうで、金属製のフォークをショー以外で見るのはこれが初めてだった。
「お腹空いているだろ? 簡単なものですまないがお昼にしよう」
引田は嬉しそうに微笑むのだが、シャルは喉のあたりが締まって食欲など感じなかった。苦い水が上がってくるが仕方なく無言でフォークをつかみ、パスタを口に含む。コンビニのパスタよりはずっと美味しかったが、嬉しくは無かった。
「口に合わなかったかい?」
眉をひそめて引田がシャルの顔を覗き込む。引田の瞳に写るシャルは泣いているように見えた。
なんでもない、とシャルはパスタを口に運ぶ。出されたものは残してはいけないと北原にきつく言われて育ったことを思いだす。北原に育てられるより前のことは覚えていなかった。でもこれだけははっきりと知っている。シャルは北原に売られたのだと。なんどもそう北原に言われて育ってきたのだから間違いはなかった。そして僕を売った誰かのように北原もシャルを売った。紛れもない事実だ。
「君が来てくれて本当に嬉しいよ」
引田が綺麗にパスタを巻きながらシャルに微笑む。改めて明るいところで引田のことを見ると彼は爽やかで優しい顔立ちをしていた。歳のころは三十くらいだろうか。短い髪を綺麗にセットして、グレーのスーツは皺ひとつなく引田の体にフィットしていた。フォークを持つ手はほっそりとしていて気品がある。引田は続けて話す。
「私には家族が他にいなくてね。家のことはそこの萩野に全て任せている」
先程の運転手が背筋を伸ばしてお辞儀する。シャルと同じくらいの歳に見える青年で、カラメル色の髪をマッシュヘアにしている。目の下のそばかすが特徴的だとシャルは一瞥した。
「萩野、そろそろデザートにしよう」
シャルが食べ終わったのを見計らって引田が声をかける。出てきたのは今朝食べたカスタードプリンだった。透明なカップからカラメル、カスタード、生クリームの三層が見える。
「私の会社で作っている商品でね。君がこれを好きだって誠司から聞いていたものだから用意しておいたよ」
そういえば北原が引田のことを社長さんと言っていたことを思い出した。少し硬めのカスタード生地に滑らかなホイップクリーム。いつもの味だ。滑らかで少し硬いカスタード。ほんのり苦いカラメル。それらを包む優しい生クリーム。北原さんがたまにくれた思い出の味。
「やっと笑ってくれたね。笑う君もやはり綺麗だ」
引田が目を細めて笑う。無意識に笑っていたことが恥ずかしくてシャルは顔を背けた。
「その、引田さんはなんで僕を買ったの?」
シャルが思っていたことを口にする。
「なんでって、そうだな。君に一目惚れしたからだよ」
一目惚れ。その言葉にシャルはスプーンを落とした。こみ上げる吐き気と目の前が真っ暗になるような眩暈。立ち上がるとシャルは部屋を飛び出した。
廊下を行けども行けどもこの家は広すぎた。どこを曲がったら外に出られるのだろうか。逃げることは商品として許されることではないだろう。それでもシャルは引田から逃げたかった。引田のことが怖くて仕方がなかった。どんな酷い目にあうことも命を奪われることもシャルは怖くはなかった。この嫌悪感が何なのかシャル自身はまだ分からずにいた。
ようやく見つけた階段を下りきったところでシャルは胃の中のものを全て吐き出しうずくまってしまった。素足にかかる吐瀉物が生温く、喉がひりひりと酸で焼ける痛みに涙を落とした。
帰りたい。
シャルの願いは酷く儚いものだった。誰のところに帰ればいいのか彼自身にも分からない。追いかけてきた引田の声を遠くに感じながら、シャルは目を閉じる。この世界に彼の帰る場所はなかった。
使用人の萩野の案内でシャルはシャワーを浴び、清潔すぎるほど白いシャツを一枚だけ身に付けてベランダで街並みに沈む夕日を眺めていた。引田の邸宅は市街地から少し離れた高台にあり、かつてシャルがいた繁華街を遠くに見下ろすことができる。あんな小さな世界に囚われていたのだとシャルは知った。毎晩ショーをして、セックスをして。それだけの毎日だった。
「落ち着いたかい?」
背後から話しかけられ、シャルは身を固くする。引田はシャルと少し間をあけて並んで黄昏を眺めた。
「いい眺めだ。隣に君が居てくれるからね」
「なんで、そんなこと言うの」
「なんで、って君のことが好きだからだよ」
夕日が沈み、紫の空にピンクの綿みたいな雲が浮かぶ。太陽に輝きを奪われていた星たちが静かに瞬き始める。それを美しいとシャルは思えなかった。
無言で空を眺めていると、引田は頬を緩ませて笑った。なんでこの人はこんなにも幸せそうに笑うのだろう。
「夕食は食べられそうかい? 萩野に頼んで今夜は中華粥だ」
引田はシャルの艶のある髪を撫でると、室内へ戻って行った。
繁華街から眺めるよりずっと暗い空を眺めて、シャルは訳も分からないまま一筋の涙を流した。
夕食後、今日からここが君の部屋だ、と案内された先は一階の一番奥の部屋だった。北原のアパートの倍くらいはありそうな部屋の中には大きなベッドと、机と椅子のセット。テレビにソファーもあった。部屋の中にはもう二つドアがあり、一つは引田からのプレゼントの箱が積まれた衣裳部屋、もう一つはトイレがついたバスルームだった。着の身着のままでこの家にやってきたシャルにとってはあまりにも広すぎる部屋だ。シャルは戸惑いのままにお礼の言葉を口にした。
「廊下に出て向かいが私の書斎。その隣が寝室だ」
「広すぎて迷子になるよ」
ぼそりと呟くと、また引田は微笑んだ。
それじゃあお休み、と引田は部屋を出ていった。取り残された孤独に、シャルは立ちつくしていた。
夜更け、引田は廊下から射す灯かりに目が覚めた。ドアを閉めたはず、と身体を起こすと、ドアの前に華奢な身体の少年がいる。
「引田さん。見たいんでしょ? 引田さんのためのショー」
少年はシャツのボタンを外してこちらに歩いてくる。
ベッドにあがった少年からは、甘いバニラの香りがした。
「初日から夜這いとは嬉しいんだけど、どうしたのかい? シャル君」
「今から僕がここでオナニーしてあげるよ。見たいんでしょう?」
シャルはゆったりと舐めるような口調で話す。シャルの瞳の中に暗い炎が宿っているようで、引田はごくりと喉を鳴らした。
「引田さんは絶対に触っちゃダメだよ。お客は演者に触れないのが決まりさ」
シャルはシャツをはらりと脱ぎ捨てると、ベッドの上に膝立ちになり、脚を開いた。露になったシャルの素肌は薄暗い室内でも分かるくらいきめ細やかで美しく、白い磁器を思わせる。シャルはほっそりとした指を口に咥えると、引田を見下ろし、嘲笑う目をした。自分以外すべてが不要で害悪かのように語るその目を引田はじっと見つめた。
唾液でぬらぬら光る指を後ろから秘孔にそっと押し当てる。固く閉じた蕾を開くように人差し指でゆっくりと撫で広げてゆくと、芯を持った中心が揺れて蜜を零した。
シャルは眉間に皺を寄せて熱を持った息を吐いた。その吐息を肌に感じる距離でゆっくりと粘度をもった動きを引田はただただ見つめる。甘い、甘い香りがする。シャルの肌を舐めてしまいたい。肌だけじゃなく唇も、口腔も、腫れ上がったペニスも、シャルが広げているアヌスも、全てを味わいたい。引田は獲物を前にした自己の野性に流されようとしていた。
「ふぅ……っ」
シャルの細い指が本来挿入すべき場所ではない器官に侵入する。敏感な粘膜を撫でる快楽にシャルは息を乱し、口の端から銀の糸を落とした。ゆっくりと挿入し、一気に指を引き抜く。本能的な排泄の快感に淫靡なものが混ざり、真っ白だったシャルの頬が薄紅色に高揚する。
「ねぇ、引田さん。こんなえっちな子を買うなんて、ホント変態なんだね」
シャルは引田の耳元で囁く。熱を持った言葉が耳から脳髄へいやらしいもので染め上げる。
「見ててね、僕のえっちなところ」
シャルは挿入した指でいいところをぐりぐりと刺激する。身体を走る電気に肌を粟立たせ、膝立ちの脚をがくがくと震わせた。とめどなく言葉にならない声を上げて快楽に身もだえする。上気した顔が、下がる眉が、解けるように閉じられた目が、閉じられない小さな口が、すべてが美しく、耐え切れず引田はシャルを抱き寄せて厚い舌を開いた口にねじ込んだ。
「っ……!?」
刹那、シャルは立ち上がっていない中心からどろりと白濁した液を流した。絶頂を向かえた身体は小刻みに震え、息が規則的に止まる。
シャルは涙を流して引田の頬を平手で叩いた。
「触らないでって言ったよね」
シャルは屈辱に泣いていた。否、恐怖に震えていた。愛されるということは終わりがあるということ。どんなに愛の言葉を囁かれても飽きたら売買される。一緒に生クリームと煮ても、バニラが無味だと気付かれたら取り除かれて捨てられる。モノとして扱われた方がマシだった。愛される価値がないのだと気付かれることが怖かった。
「引田さん。僕に惚れたなんて言わないで。僕は愛なんて要らない」
「それは約束できないな」
引田はシャルの頭を撫でると。ベッドサイドのティッシュをよこした。
「引田さん、一緒に寝てあげるよ。こんなにベッドが広いんだから」
シーツの汚れを拭ったシャルは有無を言わさず引田の横に滑り込んだ。
「抱きしめちゃダメだからね。一緒に寝るだけ。じゃあ僕疲れたからおやすみ」
引田の少し速い鼓動を背中に聞きながら、シャルは眠りについた。
3.
シャルが目を覚ますと、広いベッドの隣には誰もいなかった。
昨日のことが夢ならいいのにと周りを見渡してもそこは北原と暮らした雑多なアパートではなく、高級そうな家具が整然と並んだ知らない一室だった。小鳥の囀りがひどく寂しく、清潔すぎる空気に呼吸するのも億劫になる。身体を起こすと、ベッドのサイドテーブルに着替えと思われる服が一式綺麗に畳まれて置いてあるのを見つけたが、シャルはその中から黒いポロシャツだけを身に付けた。
誰もいない。この世界には誰も。黒いポロシャツの裾が真っ白な太ももを覆う。闇の中で生きていたシャルには眩しすぎるコントラストだ。メープルの明るい床に窓の外で揺れる木々の木洩れ日が反射する。酷く寂しい朝だった。
シャルが二階のダイニングへ入ると、キッチンからカラメル色のきのこ頭が顔を出す。彼はおはようございます、と言いかけたが、シャルの姿を見て大げさなくらい顔を真っ赤にして目を背けた。
「何」とシャルがそっけなく問う。
「その、下は履かないのですか? 僕にはその、刺激が強いというか、シャル様の御脚を見たと旦那様に知られたら僕がこっぴどく怒られます」
そばかすの目立つ頬を真っ赤にして目をきつく閉じている萩野のことが可笑しくて、シャルは萩野の前に立ち「萩野さん」とポロシャツの裾を指でつまんで持ち上げた。
「きゃっ! 見ていません! 僕は何も見ていませんよ!」
慌てふためいて手で目を覆う萩野が非常に愉快で、シャルはけらけらと笑った。からかい甲斐のある人もいたものだとシャルは味をしめる。
「冗談だよ。萩野さん、ごはんは?」
「はい、準備できています。今、お出ししますね」
広いダイニングテーブルの端にシャルが腰掛けると、萩野が手際よく皿を並べる。焼いた鮭の切り身に何かの菜の和え物、白米に味噌汁にお漬物。これだけの品数を一度に食べたことがなかったシャルは食べきれるのかと不安になるがとりあえず味噌汁に手を付ける。
「お口に合えばいいのですが」
萩野はそう言ったが、可もなく不可もなく美味しい。インスタントのものとは違って具材のジャガイモと玉ねぎが柔らかく、甘くてしょっぱくない。
「引田さんはどこへ行ったの?」
白米を口に運びながら、シャルの横に立つ萩野に尋ねた。
「旦那様は、今日は工場の視察と取引先との会食です」
「シサツ? 社長さんのお仕事?」
「はい、その通りでございます。昼食と夕食は僕たちだけで済ませるようにと仰せつかっています」
「ふーん。夜まで帰ってこないんだ」
シャルは鮭の切り身を箸でぼそぼそとつつく。夜まで何をすればいいのか分からない。
「萩野さんのごはんは?」
「僕はもう朝食をいただきました。失礼ですが、もう十一時ですよ」
まだ午前なのか、とシャルは溜め息を吐いた。夜の世界を生きてきたシャルにとって午前に起きることは少なかった。
「お昼は遅い時間にしましょうか。旦那様からシャル様の必要なものを買いに行くように承っております」
「必要なもの? 僕は何も要らないよ」
「着替えや靴、好きな本を選んでくるようにとのことです」
「ふーん」
食べ終わったシャルは椅子の上で膝を抱いた。冷たい膝に頬を乗せて萩野が食器を片付けていくのを見る。
「萩野さんって童貞?」
食器が流しに音を立てて落ちる。あまりの動揺にシャルはクスリと笑った。
「ななな、なんてこと訊くのですか」
食器を洗いながら俯いて萩野は訊く。
「だって反応がいちいち童貞っぽい。しかも男の脚を見て恥じらうなんてね。なんなら僕が卒業させてあげようか?」
シャルは立ち上がって萩野の腿を人差し指でなぞる。萩野は身体をぞわりと震わせて耳まで真っ赤にしていた。
「萩野さん、反応いいね。もしかしてゲイだったりする?」
「やぁっ、やめてください。旦那様に知られたら僕クビになります」
「じゃあ知られなきゃ僕のこと抱きたいんだ」
シャルは赤く熱を持った萩野の耳に歯を立てた。後ろから抱きしめエプロンの隙間から萩野の中心に手を伸ばすと微かだが芯を持って存在を主張している。
「やだぁ、やめてくださいシャル様。僕は、僕は」
「ねぇ、こんなにも時間があって暇を持て余しているんだよ? セックス以外何をすればいいの?」
「シャル様とこんなことをしていると知られたら本当にクビになってしまいます。どうかやめてください」
「こんなにパンツをドロドロにしておいてよく言うよ、萩野さん。本当は男に抱かれたかった?」
萩野はその言葉に泣きだしてしまった。大粒の熱い涙がシンクの食器たちにぼたりと落ちる。
「ふーん。萩野さんも変態だったんだね。好きな人がいるんでしょ?」
「言えません。シャル様だけには言えません」
濡れた手で萩野は涙を拭った。萩野には想い人がいた。でもそれはもう叶うことは無い。シャルがいるから叶わない。この想いを誰にも悟られるわけにはいかなかった。
「さぁ、もうすぐ片付け終わるのでちゃんとお召し物を着てください。買い物へ行くよう言われております」
萩野の想いは酷く虚しいものだった。
シャルは初めてデパートというものに足を踏み入れた。世界のことを知らなくても分かるほど清潔で高級な香り。黒いポロシャツと白いパンツを着たシャルは高級なブランド店が並ぶデパートでも霞まない美しさを放っていた。
「萩野さん、服と下着と靴は買えたけど、他にまだ買い物するの?」
「あとは好きな本ですね。シャル様はどんな本をお読みになりますか?」
「本? そんなの読んだことないよ。学校も行ったことないし、新聞も読んだことない」
萩野は少しの沈黙ののち、では今日はやめておきましょう、とシャルを駐車場へ案内した。
車へ乗り込むと、萩野はぽつりと語り始めた。
「わたくし事ですが、僕は小学校、中学校へ行っていません。今はこうして旦那様のお世話をさせてもらっていますが、旦那様のはからいで高卒認定を取得して今は通信制大学で学ばせていただいています。旦那様は本当に心優しいお方です。何もできなかった僕を大切に育ててくださいました」
シャルは黙って聞いていた。引田が拾ったのは僕だけではなかったのだ。引田は「愛している」と囁くが、それはきっとこの使用人も一緒なのだろう。トクベツだと思い上がっていた自分に腹を立てていた。ただセックスが好きな僕はきっと飽きたら捨てられる。料理も洗濯も車の運転もシャルにはできない。愛されることが怖かった。愛なんていらない。昨晩引田の頬を叩いた手の痛みをじんわりと思いだしていた。
シャルは夕食を終えて自室のテレビをぼんやりと見ていた。男二人が漫才をしているのだが何が楽しいのか分からなかった。ただ大きな声をだして時折頭を叩く。SMショーより品がなくて陳腐だった。
玄関の開く音にシャルはホールに足を向けた。
「おや、シャル君。出迎えとは嬉しいね」
引田の疲れ切った表情がほんの少し緩む。シャルの頭をくしゃりと撫でると引田は二階へと昇って行ってしまった。
寂しい。
誰でもいいのかもしれない。けれどシャルは誰かのトクベツでありたいと願っていた。以前の北原のように、いつでも傍に居てくれる人が欲しかった。愛がなくても寂しさを埋められるのなら……シャルの心に棘が覆い心臓を突き刺すかのようだった。
「引田さん、一緒に寝ていい?」
寝間着姿で寝室に降りてきた引田をシャルは静かな声で抱きしめた。
「昨日みたいにぶたないかい?」
引田は揶揄するように笑う。しかし瞳にはしっかりと熱がともっていて、慈しむように引田はシャルの黒い髪を撫でた。
「引田さんが変なことをしなきゃぶたないよ。でも今日は触れていいよ。身体のどこでも」
それでも、キスだけはしないで、とシャルは付け足した。
「まだ私のことが怖いかい?」
「怖くてもセックスはできるよ。僕は娼夫。金を積まれれば誰とでも寝る」
「君が欲しいのは金ではなさそうだけれどね」
シャルは黙って引田の胸に顔を埋める。手を腰に回すと引田はシャルをベッドへ引き倒した。鼻が触れ合う距離でお互いのいつもより速い呼吸を確かめあう。
「シャル君はどうされるのが好きかい?」
シャルを抱きかかえて引田は耳を啄む。急く呼吸に鼻にかかった甘さが混ざった。
「気持ちよければなんでもいいよ。縛っても叩いても、おしっこを飲ませたっていい。骨を折られても構わない」
「へぇ……ショーとは違ってまるでマゾヒストみたいだね」
引田は強く強くシャルを抱きしめると、首筋に唇で優しく触れた。身体の中の蝋燭に一本、また一本と炎を灯してゆく。
シャルのバスローブをひらりと脱がすと赤く熟れた胸の尖りを引田は抓る。頭を抜ける甲高い声がシャルの口から漏れた。引田はしたり顔をするので、シャルは恥ずかしくなって枕を抱きしめた。
「実は恥ずかしがり屋なんだね、君は」
「引田さんがそうさせるだけだよ」
引田の愛撫はこそばゆかった。優しく、慈しむように、薄氷をすくいあげるように、赤子を抱きしめるように。その暖かさがくすぐったくてしょうがなかった。
「引田さん、もっと痛くしてよ」
引田はシャルを抱きかかえると胸の尖りを口に含む。コリコリと未発達の乳腺を歯で遊ぶと、シャルは甘い声を漏らしてもっととせがんだ。与えられる甘い切なさが中心に熱を持たせ、蜜をどろりと吐き出させた。
「はぁっ、気持ちいいっ……」
「それはよかった。男を抱くのは初めてで不安だったんだ」
「引田さん、女の人には慣れていそうね」
汗で吸いつく肌と、甘美な声。違うのは主張する雄が互いの腹を圧迫することだけ。シャルの細い腰を抱きしめて、引田はシャルの首筋を啄んだ。細い血管が切れる快楽にシャルはうっとりと目を閉じた。
「引田さん、今度は僕の番だよ」
シャルは引田の反り立つ中心にちゅっと音を立ててキスをする。余った皮を口先でつまんで、ぬらぬらと光る先を露にさせる。舌で包むように咥えると引田の口から甘い溜め息が漏れた。
気を良くしたシャルはその食感とぬるい海水のような体液の味を楽しむように口と舌を動かした。時折引田の腰が揺れるのが楽しくてついつい強く吸いついてしまう。
「シャル君、上手なのが悔しいよ」
「当たり前でしょう? 僕はセックスするために生まれてきたんだから」
その言葉に引田はシャルを抱きしめることしかできなかった。どうしたらこの少年の心を癒せるのか、引田は分からなくなってしまった。一抹の劣情を抱いてしまった自分に、そして性に流されようとしている自分に泣きだしてしまいそうで、引田は顔を見られまいとシャルの頭を胸に抱いた。
「引田さん、そんなに僕を大事にしなくたってセックスはできるよ?」
シャルは引田を押し倒すと、彼の劣情をずるりと呑み込んだ。身体を震わせるシャルの美しさに、意識が揺らぐようで。
「最低だ」
シャルに聞こえないように引田は呟き、自制心を捨てた。
4.
二度目の朝がやってきた。今日は早く目が覚めた。眩しすぎるほどの木洩れ日にはまだ目が慣れない。全身に残る性の気だるさにシャルは満足していた。
横で眠る飼い主の頭をシャルはそっと撫でる。整髪料の付いていない柔らかくこしのある黒髪が指の隙間を流れていく。人の生ぬるさに吐き気がしそうだとシャルは自嘲した。
「シャルくん……? おはよう」
引田がシャルの手のひらに唇を寄せるとシャルはその右手を自ら口付けた。
身体を重ねた者同士にしかない距離感、というものをシャルは知っていた。
引田の胸板に頬を寄せると、引田はさも当然とばかりに背中に腕を回す。もし刃物を持っていたとしてもきっと彼は受け入れるだろう。
あの使用人、萩野と引田もしているのだろうか。もしそうだとしてもシャルは引田との関係を「トクベツ」だと思っていた。「トクベツ」を勝ち取った。それだけ性はシャルの中心に在った。
二人並んで寝室を出ると、ちょうど朝食の準備にやってきた萩野が玄関にいた。萩野は膝の力が抜けるのをこらえ、極力明るい声で朝の挨拶をする。一緒に住むと分かった時から覚悟をしていたことだったのに、いざ目の当たりにするとダムが決壊するように感情があふれて身が壊れてしまいそうだった。
「萩野さん、おはよう。こんなに早くから来ているんだね」
「おはようございます、シャルさま」
嫉妬と悲しみで、これ以上言葉は続かなかった。
黙っているとシャルは揚々と居間へ続く階段を昇って行ってしまう。一瞬の勝ち誇った笑みを、萩野は見逃さなかった。
少し伸びた顎ひげをかいて、ばつの悪い顔で引田が萩野に挨拶をする。
「気持ち悪いと思ったかい?」
「いえ……驚きましたが、分かっていたことです」
引田が言い残した「すまない」の一言が、萩野の胸に重く残った。
引田が出勤すると、広い屋敷にはシャルと萩野の二人だけになった。
「萩野さん、何をやっているの?」
これですか? と萩野がダイニングテーブルに広げた参考書とノートパソコンを見せる。
「大学の課題のレポートですよ。テキストを読んでレポートを書いて出すと単位が貰えるのです」
「タンイ、って何?」
「えっと、この勉強がちゃんと完了しましたという証です。その単位を百とちょっとあつめると大学の学位というものが貰えます。大学の勉強を修めましたという証ですよ」
ふーん、とシャルはノートパソコンを覗き込んだ。ちらり、とシャルのシャツの胸元から肌に刻まれた赤い証が見えた。萩野は顔を背けて震える声で話を続ける。
「シャル様もやってみますか?」
「僕が勉強できるわけないよ」
シャルは肩をすくめてみせた。萩野のパソコンに表示されていた書きかけのレポートが殆ど読むことができなかった。漢字やカタカナ語の意味が分からない。別にそれでもいいとシャルは諦めていた。
「旦那様はシャル様に勉強してほしいとおっしゃっていました。僕もサポートします。分からないところはどうぞ訊いてくださいませ」
「嫌だね。僕はセックスさえできればいい。雄豚を調教するしか能のない犬っころの僕は飼い主を悦ばせることしかできないんだよ」
そう言い捨てるとシャルは階段を降りていってしまった。
残された萩野は「僕は悦ばせることすらできない」と呟くと、無機質に光る画面に写る泣き顔を見て嗤った。
長い昼下がりが終わり、世界は夜の街に変わった。
ただいま、といつもより明るい声色を繕って引田は帰宅した。自室から出迎えてくれたシャルを抱きしめると甘い香りが引田の本能をくすぐった。
「シャル君、今日は君の好きなプリンのお土産だよ」
シャルの輝いた瞳を見て、引田は喜びと罪悪感で胸がいっぱいになってしまった。
引田は昼休み、ある男に電話をかけていた。
「やっぱりやっちまったか」
シャルの美貌に屈しなかった男はいないと電話越しの男はそれみたかと嗤う。笑い事じゃないと引田は続けた。
「どうしたら彼を幸せにできるか分からなくなってしまったよ」
「そんなこと俺が知るか。ったく、二日で泣き言言いやがって、それでも社長様か?」
相変わらずの横柄な口ぶりに引田は苦笑する。
「お前が面倒見るって言ったじゃないか。俺が言えたことじゃないが、親なら悩め。いっぱい悩め。それが愛ってもんだろ?」
「まさか君に愛を説かれるとは思わなかったよ」
まったく、誠司には敵わない。
リビングのソファーで嬉しそうにプリンを食べるシャル。惜しむように小さな口で少しずつ。カラメルと生クリームが絡んだカスタードプリンを大切に食べる姿に本来の子供らしさを垣間見ることができた。
「シャル君、話があるのだがいいかね?」
シャルの手が止まる。見開かれた瞳は不安に揺れ、そして諦めたように笑った。
引田はソファーの前に跪いて、シャルの手を握る。
「シャル君、私の家族になってはくれないかい?」
彼の手から落ちたスプーンがメープルの床の上を跳ねる。
「君を養子にとりたい。学校にも通わせて、この世界のことを知ってほしいと私は願っているけど、どうかね?」
「嫌だよ。学校なんて行けるわけがない。ヨウシのことはよく分からないけど、僕は、次は誰に買われるの? 引田さんがガッカリしたらまた捨てられるんでしょ?」
「そんなことないよ。私はシャル君と生きていたい。少し愛情表現を間違えてしまったけれど、君の家族になりたいんだ」
シャルの瞳から大粒の雫が頬を伝う。それは流れるままにシャルは拭おうともしなかった。
「私はシャル君、君のことを愛している。それは変わらないよ」
「待って、引田さん。僕は、商品だよ。引田さんに買われたモノなの。そんなことを言われても信じられるわけないじゃない。セックスしたくせに。僕を貪ったくせに。セックスしたことが間違っていたの? 分かんないよ。僕にはこれしかないのに。」
シャルの言葉は嗚咽にさえぎられて続かなかった。引田はシャルを抱きしめ、背中をさすった。
「すまなかった。君に触れたいと思ってしまったんだ。君を苦しめると分かっていたはずなのに」
シャルはどうしたら引田に応えられるのか、捨てられないでいる方法が分からなかった。愛されても、自分が愛せなかったらいつか見捨てられると潜在的な恐怖心が頭を埋めた。
「僕はどうしたらいいの……空っぽな『シャル』なのに。どうやって僕は引田さんに応えたらいいの?」
「そうだな、これが正しいのかは分からないけれど、キス、してくれないかい?」
飼い主が望むなら、とシャルは唇を寄せる。柔らかな唇が合わさる。甘くない、無味なキス。そのはずなのに、シャルは胸の中が熱で満たされる。熱い舌が唇を割り、口腔で絡み合う。どんな客とも違う、慈しむような口付けだった。
「キスは一人じゃできない。暴言を浴びせ、噛みつくことだってできる口を合わせる。それがどれだけ優しいことか知っているかい?」
「引田さんも、性しか知らないんだね」
シャルはやっと涙を拭って笑った。
「私と一緒に愛を知ってはくれないかい?」
二人はどちらからでもなく、何度も口付けを交わした。
引田とシャルは初めて、セックスをしないで同じベッドで眠りについた。自室で寝ればいいのにと引田は言ったが、シャルは一人で眠りたくはないと拒んだ。腕の中で眠るシャルの瞼に、引田は小さくキスをした。
それから一週間の月日が流れた。
「いってらっしゃい」
シャルはいつも早起きをして引田を見送るようになった。
「いってきます」
そして必ず、キスをするようになった。
朝の見送りだけではなく帰りも、寝る前も、廊下ですれ違った時でさえ首に腕を回しては触れるだけの口付けを交わす。
それに加えて、萩野に教わりながら家事を手伝うようになった。食器を割るなどの失敗はしたが、元より器量の良かったシャルはすぐに家事を覚えた。
シャルは無味な自分が味付けられていくのを感じていた。自分が必要とされ、自分が必要とする人の存在に胸の奥が温まるような心地だった。ただの口付けだったかもしれない。それでも初めて自覚した「優しさ」にシャルは身体に翼が生えたような心地だった。
「はぁ」
リビングの床に座り、洗濯物を一緒に畳んでいると萩野が溜め息を吐いた。ここ数日、萩野は気付けば溜め息ばかり吐いていた。
「萩野さん、どうかしたの?」
「なんでもないです。なんでも。ただ、シャル様が料理もお洗濯もできるようになってしまわれたら僕はもう要らないのだなと思えてしまって」
「それは困るよ。萩野さんのご飯美味しいのに。この前の坦々鍋美味しかったよ」
いかにも幸せという香りを放っているシャルに全部ぶちまけてしまいたかった。愛する人に愛される幸せはどんな心地か聞いてやりたかった。
半分ほど畳み終わった頃、明るい呼び鈴が鳴る。何が届くかおおかた予想がついていた萩野はシャルに印鑑を持たせて出るように頼んだ。
郵便で届いたのは、掴めるほどの厚さがある冊子だった。封筒には「写真」と書かれている。
「萩野さん、これ何?」
「お見合い写真ですよ」
シャルの視界ががらがらと崩れるようだった。視界の端で萩野が笑っているように見えた。
「お見合いって、何」
「シャル様はご存じないですか? 男女が第三者の紹介で出会って結婚することですよ」
萩野の声はいつもより低くて穏やかだった。その声がシャルの心臓に突き刺さる。
「そんなこと僕は知っているよ。なんで引田さんに届くの?」
「何故って、もう旦那様も三十後半です。もう結婚なさっても可笑しくない歳ですよ」
シャルは膝から崩れ落ちた。僕を愛しているのは嘘だったのだろうか。いや、きっと本当だ。男同士のカップルの末路は嫌と言うほどシャルは知っていた。引田は社長だ。きっと跡取りが必要だろう。
「僕はやっぱり、ここにいてはいけなかったんだ」
小さな涙をシャルは落とす。すると萩野は呟く。
「何故、あなた様なのですか」
「え?」
萩野は激高のままにシャルの肩をつかんで床に倒した。畳んだ洗濯物の山が崩れる。
「何故、あなた様なのですか。何故僕ではなくあなた様が選ばれたのですか」
驚いたシャルが目を見開くと、今まで見たことのない萩野の感情的な顔がそこにあった。熱い雫がシャルの頬に落ちる。
「何故シャル様は愛されていることを受け入れないのですか。旦那様はもうすぐ結婚するかもしれない。それでも、何故一瞬でも愛された喜びを大事にできないのです」
僕はあなたが羨ましい。それだけ吐き出した萩野は、シャルの上から退いて静かに崩れた洗濯物を畳み直した。
知らなかった萩野の想いに、シャルは泣きだすことも声をかけることもできなかった。
「やっぱり僕はここに来てはいけなかった」
シャルは逃げるようにとぼとぼ階段を降りて、自室のベッドでやっと両袖を濡らした。
引田が帰宅すると、シャルは笑顔で迎えてくれた。しかし心もち寂し気で、目の端が赤いような気がした。
「引田さん、僕の名前、知りたい?」
シャルは引田の腕の中に縋り付いて、絞り出すように言った。
窓から月明かりが射しこみ、彼の美しい躯体を照らす。無駄な脂肪も筋肉もなく、古い西洋の人形のような美しさ。白磁の肌は曇りひとつなく、ただ腰の左側に刻まれたアゲハチョウのタトゥーが無機質に彼の娼夫としての存在を物語っていた。
「引田さん、引田さんのこと好きだよ」
彼は引田の腕の中に潜り込むと、薄い桜色の唇を引田の唇と合わせる。幾度となく繰り返しても飽きることはなかった。
愛される幸せなど分かりもしなかった。愛されることは必然で、同時に終わりがあることも必然だった。人生と同じ。終わらないものなどない。そして、どちらも無価値で、脅威だった。終わらないと微かでも信じてしまっていた自分に腹が立ってしょうがなかった。
舌を伸ばすと、応えるように吸われる。引田の厚い下唇を吸うと引田の体温が上がるのが分かる。
引田が優しく彼の首筋に歯を立てる。毛細血管が破れる痛みに甘い声を漏らす。痛みは彼の快楽の全てだった。思えばあの日も男の骨を砕いて、その痛みを想像してひどく興奮した。北原に縛られ、頬を叩かれることが屈辱的で快感だった。
「引田さん、もっと」
引田の耳にキスをする。引田に強く抱きしめられると、お互いの雄が腹を圧迫する。引田の手が彼の成熟した雄に触れる。どこまでも優しく、慈しむような愛撫がくすぐったくてしょうがない。でも、嫌いじゃなくなっている自分に彼は悲しくなった。
離れたくない。でも。
解された孔に引田の中心をあて、ゆっくりと腰を下ろす。逆流する違和感と抗えない快感に彼は呻いた。
奥まで飲み込んで、彼はかすれた声で言う。
「引田さん、僕の本当の名前はね、愛実(つぐみ)って言うんだ」
引田は彼の最奥を許された幸せに身体を震わせた。彼の本当の心を知らないまま、本当の彼を手に入れたつもりでいた。
「愛実君か。可愛らしい名だ」
「うん、美波愛実が僕の本当の名前。ねぇ、名前呼んでよ。真琴さん」
引田はシャルと呼ばれた青年の上体を抱きしめる。
「愛実、愛してる。ずっとここに居てくれ」
「うん、真琴、愛してるよ」
だから僕はここにいちゃいけない。そう愛実は涙を落とした。それを感激の涙だと思いこんでいる引田は雄々しく愛実を押し倒すと、激しく求めるように腰を穿つ。
「あっ、いひっ、まことっ、好きぃっ」
「愛実、つぐみ、好きだ」
強い快感から逃れようとシーツを掴むその手を、引田は掴み、手首にキスをする。離しはしないとシーツに縫い止める。引田の想いの大きさに、愛実は悲しくなるばかりだった。僕よりずっと相応しい人と結ばれるべきだと、愛されるほどに思う。
「そんなに泣かないで、愛実」
嬉しいだけだよ、と嘘をついた。愛すれば愛するほど、自らの空虚に脅かされる。もっとこの男に相応しい人はいるはずだ。使用人の萩野だって、彼のことを好いていた。それを知らずに僕ばかりが愛されようとした。愛なんか要らないと自分を守るばかりで。
「真琴、愛してくれてありがとう」
一筋の涙を落として、愛実は快楽の先へといった。
翌朝、引田が目を覚ますと、隣に愛実の姿はなかった。
5.(完)
シャルと呼ばれた少年、愛実は一人、歓楽街を歩いていた。素足に安いゴム製のサンダル。服は裾がすり切れた青いスウェットのみ。晒された白い足は細く、この街を歩き続けるには心もとなかった。
もう引田のところにはいられないと、愛実は逃げだした。商品でなくなった今だからできるのだろうと思うと皮肉に笑ってしまう。薄汚れた僕なんかより素敵な人を見つけて、と願うばかりだった。
確かこの辺りは劇場のあったあたりだろう。行く当てのない愛実は自然とこの場所にやってきてしまった。生ごみが水たまりで腐る異臭も、酔っぱらいが残した吐瀉物も、何もかも愛実にはおあつらえむきだと思えた。
サンダルの先を見つめて歩いていると、男の集団にぶつかってしまった。
「ってえなあ! どこ見て歩いてんだ」
小さな声ですみませんとだけ呟くとその場から立ち去ろうとする。
「おい、聞こえねぇんだけど? あぁ?」
集団のうちの小太りな輩に腕を掴まれる。離してともがいても、愛実の細い腕では敵わない。
リーダー格と思われる首にタトゥーの入った男に顎を掴まれる。睨み返すと、なんだその目は、と愛実はゴミ箱に投げ飛ばされた。
「っあ……」
起き上がろうとすると、腹に数回、蹴りを入れられた。何も食べていない愛実の口からは酸の強い胃液が吐き出される。痛みがこんなに苦しいなんて知らなかった。
「おい、これ見てみろよ」
集団の中の一人が、愛実の露になった背中を指さす。
「こいつ『夜蝶のシャル』だぞ」
「おお? あの有名なシャルちゃんじゃないか。こりゃあ、とっ捕まえて売り払ったら大金になるぞ」
男たちの下種な笑いに愛実は嗤っていた。そうだ、僕は所詮売り買いされる商品だ。僕の人生なんてそんなものだ。でも、真琴は僕に価値をくれた。真琴、助けて、まこ――
「つぐみ!」
知っている声が聞こえる。ああ、お迎えでもきたのかな。
愛実はそこで意識を手放した。
「愛実、目、覚ましたか?」
目を開けると見知った天井だった。見渡すと片付いていないアパートの一室。
「北原さん?」
狭いパイプベッドの脇に、髪の長い無精ひげを生やした男が腰掛けていた。
「愛実、なんであんなところに居たんだ。帰ってくるなと言っただろ」
キツイ言葉に反して、北原は愛実を強く抱きしめていた。懐かしい匂いに涙が止まらない。怖かった、怖かったと愛実は泣く。しかし、胸に鋭い痛みが走る。北原は「あばらをやったか」と抱きしめる手を緩めた。骨が折れた痛みは、別に気持ちよくもなかった。
「北原さん、僕、好きな人ができたよ」
ベッドに寝転んで、北原の手を握る。
「そうか、真琴に惚れたか」
親しげな物言いに愛実は首をかしげた。
「お前を引き取った引田真琴は、俺の高校のダチだ。話せば長くなるが、聞くか?」
愛実は目の端から零れ落ちた涙をスウェットの袖で拭うと、うん、とだけ答えた。
「まずお前に言わなきゃいけないことがある。愛実、お前の父親は俺だ」
北原さんが、僕のお父さん? 愛実は息を止めた。揺れる瞳で見つめる愛実の髪を撫でると、北原はゆっくりと語り始めた。
「俺が高校二年のとき、当時付き合っていた一つ下の彼女が孕んじまった。避妊の知識も、中絶の金どころか存在すら知らなかった馬鹿者だった。誰にも言えなかった彼女は学校のトイレで赤ん坊を産んだ。それがお前だ」
愛実の心臓が早鐘を打っていた。そして同時に、北原と暮らす前の記憶の断片を頭によぎった。たくさんの白い板と、真っ黒で吸い込まれそうなカメラのレンズだ。
「彼女――お前の母親はお前を育てる金を得るために高校を中退して水商売をし、そしてAV女優になった。その頃には俺との付き合いはなく、人から聞いたことしか知らない。それでな、お前の母親は幼いお前のポルノ画像を海外のマニアに向けて売っていたそうだ。タトゥーを入れたのもその頃だと聞いた」
少しだけ覚えているよ、と愛実は答えた。服を着ていないのが当たり前だった。打ちっぱなしのコンクリートの上で股を開いてカメラに幼いペニスを見せつけていた。ランドセルを背負った子供たちがマンションの外を歩いている姿が不思議でならなかった。断片的な記憶が北原の言葉によって浮かんでくる。
「それでお前が十二歳のとき、お前の母親は死んだ。昔から手を出していた麻薬の中毒の末、自ら命を絶った。なんとも馬鹿な母親だな」
自嘲するように北原は笑った。
「母親が死んで、お前は俺のところにやってきた。初めて来たときのことを覚えているか? お前、俺にキスしたと思ったらちんこ揉んだんだぜ? 俺にはお前の親になる自信はなかった。だから、お前をショーに出した。母親に仕込まれただけだと知っていても、天賦の娼夫だと思ってしまった。それしか、俺にお前を生かす方法はなかったんだ」
愛実の手を握る力が強まる。長い前髪で見えなかったが、声が熱を持って潤んでいた。
「じゃあ何で、僕を商品と呼んだの」
シャルは天井を見つめたまま訊く。
「俺達には計画があったんだ。お前を人間にするための」
愚かな俺達にしかできない計画だ、と北原は笑った。
「真琴と俺は高校で知り合ったダチだ。真琴は高校のときにはすでに実家の会社を継ぐことが決まっていた金持ちだ。お前を引き取ると決まったとき、俺は真っ先に真琴に連絡をした。助けてほしいとな。それで時期が来たらお前を真琴が引き取って育てることになったんだよ。金があれば知らない人とセックスしなくていい。たらふく好きなものが食べられる。学校にだって行ける。何度も何度も頼み込んで、やっとその日が来た。真琴がお前に惚れちまったのは計画外だったがな」
一呼吸おいて、北原は言う。
「お前と離れることが苦しくならないよう、俺はお前をモノとして扱った。お前は売られたことも買われたこともない。それだけは事実だ」
愛実は痛む身体を起こして、北原の背中で泣いた。今までの苦しみや葛藤は何だったのか、分からなくなってしまった。ただ分からないまま涙が流れる。
「愛実、馬鹿な父親でごめんな。俺はお前を愛してやれなかった」
「酷いよ、北原さん。今更そんなこと言わないでよ」
僕は大好きだった、と北原の背で涙をぬぐった。
***
今日は泊まっていきな、と北原は理由も聞かずにお湯を注いだカップラーメンと使い捨てのフォークを渡した。いつでも薄暗いこのアパートではいつ日が昇っていつ日が沈むのか分からなかった。蛍光灯に照らされた自らの足を見る。倒れたときについたであろう都会のヘドロが真っ白な肌を汚して扇情的だと愛実は口角をあげた。都会の汚れなんて忘れていたのに。
久しぶりのカップラーメンは塩味ばかりで美味しさなんて感じなかった。萩野さんの味噌汁の方がずっと美味しい。でも、もう食べることもないのかもしれない。出尽くしていたと思っていた涙がまた溢れてくる。北原は黙って、それを見つめていた。
「北原さん、あのね」
ベッドで二人、横になって愛実は切り出した。
「僕はね、愛なんていらないと嘘をついていた。いや、本当だったかもしれない。北原さんに見放されることが怖かった。道具でいることで捨てられても平気だと思いたかっただけだった。でも北原さんから僕を引き離した真琴のことも恨んでしまった。僕は道具になりきれなかったんだ」
北原は愛実の手をこわごわ握った。愛実は迷わず握り返す。
「真琴のことを最初は立派な人だと思っていたけれど違った。僕と同じ、未完成で不器用な人だった。そして僕に優しさを教えてくれたんだ」
そうか、と北原は天井の蛍光灯を見つめた。
「シャル――愛実は真琴のところには帰らないのか?」
「帰れないよ。あんな素晴らしくて将来もあって跡継ぎが必要な人のところに僕なんて居たらいけないんだ」
「居てほしくないと真琴に言われたのか?」
愛実は唇を強く噛んで、ゆっくりと横に首を振った。
「じゃあ傍に居てもいいか本人に訊くんだな」
愛実は返事ができなかった。自ら出てきたのに、帰ってくるなと言われることが恐ろしくてたまらなかった。
翌朝、まだ日の光が低く鋭い時間にインターホンが鳴った。せかすように何度も鳴らされたそれに愛実は目を覚ます。北原は小さく明るい舌打ちをすると、お迎えだ、と愛実の額にキスをした。
「ったく、お前は朝が早すぎるんだよ」
スチールのドアを北原が開けると、息を切らした引田と、目の下を泣き腫らした萩野の姿があった。愛実が駆け寄ると、引田はそれを受け止め「よかった、よかった」と力強く抱いた。あばらの痛みに愛実が身体をこわばらせると引田は力を緩めた。
「怪我をしているのかい?」
「ああ、お前のせいで俺の大事な息子が不良に絡まれてあばらをぽっきりとな」
北原が代わりに答えると、萩野が大声で「申し訳ございません」と頭を下げた。
「僕のせいでシャル様に怪我を……僕があんなことを言うから」
ぼろぼろと涙を零す萩野を愛実はゆっくりと抱きしめた。
「出ていったのは僕の勝手だよ。萩野さん」
「でも、僕が酷いことを言うものだから、ごめんなさい。ごめんなさい」
どうしたんだ、こいつは、と北原は訊ねるが、ずっとこの様子で口を割らないんだと引田は答えた。
「真琴、僕は真琴との子供は産めない。料理も洗濯も何もできない。それでも、僕は真琴と一緒に居ていい?」
引田はまっすぐ愛実を見つめ、手を取る。
「もちろんだ。ずっと傍にいてくれ」
視界が歪む。安堵感に熱いものがあふれて、愛実は引田に抱きよった。
「ったく、お前ら玄関先で煩いんだよ。済んだならさっそと帰れ」
北原は喜びを隠すように愛実の背中を押す。振り向いて、愛実は問う。
「北原さん……お父さん、また帰ってきていい?」
「……ああ、いつでも帰ってこい」
愚かな二人の男によって翻弄されたシャルと呼ばれた少年は、やっと止まり木を見つける。バニラは甘い香りがするが、無味だ。そう自らを卑下した少年は、求められる喜びを知った。
「ありがとう。みんな」
「愛実さま、あとは僕がやりますから。まだお怪我も治っていないのに」
大丈夫大丈夫、と愛実は萩野が止めるのも気にせず、洗い上がった衣服の籠を運んでいた。あれから萩野は引田邸を去ろうとした。しかし愛実は、
「自分の思いを言わずにいるのは苦しいよ」
そう萩野に宣戦布告をした。
「愛実さま、僕、負けませんからね」
「真琴は僕のだけどね」
顔を見合わせた二人は悪だくみをするように笑い合った。
洗濯物をリビングで畳んでいると、窓から吹いた風が石鹸の香りをあおる。
「何やら仲良しだね」
リビングに顔を出した引田は微笑む。
「真琴、プリン食べたい」
「そうか、では買ってくるとするか」
「いけません旦那様、それは僕が」
慌てて制止する萩野に、それじゃあ、と車のキーを渡す。
「真琴、好きだよ」
暖かな日の光を写すカーテンが風に揺れる。
二人はそっと唇を合わせると、甘い熱視線を絡ませ合った。
Vanilla