月の恋涙
月の恋涙
「もうっ、あんなやつなんてしーらなーい」
いつもは飲まないほどにアルコールを身体に流し込んだ私は、おぼつかない足で帰路に着いていた。涙を拭う手でアイラインはよれてしまったけれど、最近のマスカラは全然落ちやしない。うん、優秀。そんなことを考えてしまうほど私の頭は酔っているようで冴えていた。
まだ、掌がじんじんと痛む。でもアイツの頬を叩いたのはお昼過ぎ。今はネオンが
煌めく真夜中だ。錯覚、痛みの記憶かもしれない。あれだけ喉が痛くなるようなお酒を流し込んだのにまだ忘れられない。
「あー、宇宙人になりたーい」
人目も憚らず叫んでしまった。他の通行人が奇異の目でぎろりと見るが、知ったことじゃない。宇宙人にでもなれば忘れられる気がするのだ。宇宙人なら恋なんてしない、という勝手な思い込みだ。
その中で、クスリ、と笑う声がした。声がする方を見るとひとりの女性が道路沿いの電柱の下に座りこんでいた。
私が立ち止ったことに気付いたのか顔を上げた女性の頬には涙の跡があった。
「お姉さんどうしたんですかー? 具合でも悪いの?」
「私もね、ここで座っていたら猫になれる気がしていたの」
「猫さんかー、嫌なことあったのかにゃ?」
手を差し出すと、よいしょ、と女性は私の手を取って立ち上がった。
「そういう貴女もあったのでしょう?」
「まあねー」
不意に止まっていたはずの涙がまた溢れる。子供っぽく声を上げて泣いてしまう。お姉さんが背中を擦ってくれた。
「よし、では宇宙人と猫になるべく高いところに行きましょう」
「ほへ?」
そう言うとお姉さんは私の手を引いて歩き始めた。
到着したのは、繁華街から少し離れた閑静な住宅街にある公園だった。そしてお姉さんと私は滑り台の一番高いところに座っていた。
「それでね、アイツったら私に可愛くないだのウザいだの言って別れようって言ったの」
「うんうん」
「私は、好きだったのに……向こうから好きだって言われたから信じたのに、うわぁあん」
「どうどう」
自販機で買った天然水を飲みながら名前も知らない彼女と身の上話をしていた。
「酷いとは思わない? 私は信じてたのに」
「酷いこと、言われたね」
お姉さんの目にまた涙が滲む。月の光に照らされて魔法の水みたいに輝いている。
「お姉さんは、何があったの?」
「その、貴女には言いづらいんだけど、彼氏に別れを告げてきたの」
「えっ?」
「私も彼のこと好きだと思っていた。でもサークルの合宿でね、彼と全く連絡も取らない日を送ってみたら、彼のいない生活がどれほど心落ち着くものか気付いてしまったの」
返す言葉も見つからなくて、お姉さんの抱えた膝を見ると、いくつかの青痣ができているのを見つけてしまった。
「恋の魔法って、溶けると痛いのね。麻酔が解けたみたいに今までの痛かったことや苦しかったものをいっぺんに思い出して、自覚してしまう」
「お姉さんは別れてよかったと思う?」
「世間的には別れて正解なんだと思う。DVからは逃げて当然じゃない? でも私は……」
「それでも、好きだったんだね」
「うん、好きだった。でも、本当は依存していただけだった。寂しいなぁ」
彼女の傷ついた笑みが痛かった。私には隣にいることしかできない。
「今日はありがとうね、お姉さん。私、宇宙人にならなくても大丈夫だよ。だって今日、お姉さんと話せて楽しかったもん。あー、なんか吹っ切れちゃった」
「ふふ、私もよ。自分に正直になれたもの。猫にはなれなくてもいいかな」
初めて見せたお姉さんの笑顔は月の精みたいに美しくて。
「月が綺麗だね」
「あら、それ、アイラブユーの日本語訳?」
「ち、違うもん。でも、お姉さんのこと好きだよ」
「ありがとう、私もよ。そういえば忘れていたわね。はじめまして、近藤美波です」
「はじめまして、私の名前は――」
月夜に始まる不思議な物語。
月の恋涙