あなたの愛は偽れない
あなたの愛は偽れない
梅雨の合間、湿り気を帯びた風が白い紙に包まれた花束を揺らした。白百合の花束は黒いリボンで結ばれ、どこか死の香りがする。俺はその花束を抱え、愛しい人の眠る墓前に立った。
「修仁、会いに来たよ」
返事など勿論無い。分かっていても返事が欲しい。だからきっと俺は何度でも繰り返すだろう。
俺と修仁は、学習塾の講師と生徒だった。当時大学生だった俺は時給の高さと勤務時間の短さに惹かれて塾講師のバイトを始めたばかりだった。そして、初めて担当したのが当時高校二年生の修仁だったのだ。
修仁は物腰が柔らかく賢く可愛らしく、他の講師や生徒にも人気があった。授業態度は熱心で俺の予習じゃ間に合わないほどに知識を欲した。明るく可愛い彼に俺もいつしか惹かれていたのだ。
ある日のこと、修仁に問われた。
「先生、先生ってボクのこと好きでしょ?」
俺は言葉に困った。確かに生徒として好きだ。でも彼の目はそんなことを訊いていないのだ。
「なんでそんなこと分かるんだ?」
「分かるよ、だってボク先生のこと好きだもん」
個人指導用のパーテーションで区切られただけの小さなスペースで、小さな小さな声で修仁は言った。耳を朱に染めて、震える声で。
たったこれだけのことで生徒に手を出してしまった僕は先生に向いていなかったのかもしれない。大学生という恋に餓えた時期だからか、修仁のひたむきな可愛さからか。そんな理屈も考えはしたが、パーテーションの中、顔を寄せ合い過ごした時間が積み上げた淵にたまった恋の雫は、俺たちの関係を繋ぐのに十分だった。
修仁が受験生となった年の夏、初めて一緒に海へ行った。地元の人しか知らないような小さな砂浜で、気が済むまで波音を耳に感じた。冷たい水に足を浸し、手を繋いで砂浜を歩き、ただ共に時を過ごした。
夕暮れ時、空が鮮やかなオレンジに染まるころのこと。
「ねえ先生、今日先生の家に泊まってもいい?」
この言葉が何を指すのかくらい俺にも分かった。
「ボクが生徒だから。高校生だから。そういうことはいいんだ。ボクは先生と……」
俺は修仁のことを優しく抱きしめた。俺は何を思ってそうしたのかは分からない。きっと嬉しかったのだと思う。しかしそのとき修仁の髪からした潮の香りはよく覚えている。
日の暮れたアパートの一室で、俺たちは人には言えないようなことをした。
朝が来て、隣にある温もりが愛しくて、恥じらいを含んだ彼の笑みが嬉しくて。
「彰さん、おはようございます」
いつしか名前で呼ぶようになった修仁が世界で一番尊いと思えた。
守らなきゃいけない人はこの人だと心から誓った。
修仁は見事、県内一の国立大学に入学し、俺は塾講師のバイトを辞めて一般企業に就職した。
一人暮らしを始めた修仁に一緒に暮らさないかと提案したが、親の仕送りで生活しているうちはダメだと頑なに拒んだ。親に挨拶に行きたいと言うと修仁は驚いたような顔をして、そして困ったように言った。
「昔、ボクが彰さんと付き合い始めてすぐに親に話したんだ。同性の恋人がいるって。そしたらお母さんに酷いことたくさん言われたよ。気持ち悪いだの、そんな子に育てたつもりはないだの、生まなきゃよかっただの。そしてお父さんには殴られた。だからね、お父さんとお母さんには秘密だよ。ボクが大人になるまでは我慢」
俺は絶句した。そんなそぶりは一度も見せたことがなかったから。この笑顔が痛々しくて。
「いままで一人で抱えさせてごめんな」
俺は修仁を力の限り抱きしめた。
「これからは、これからも俺がいるから」
「ん……彰さん、好きだよ」
そして今日と同じ梅雨の間の小さな青空の日、修仁は死んだ。
その日は付き合い始めて三年の記念日で、俺のアパートで一緒に過ごす約束をしていた。しかし約束の時間になっても、夜になっても、朝日が昇っても、修仁がドアのチャイムを鳴らすことは無かった。メールの新着確認ボタンを押しても、何度電話をかけても、彼からの連絡は一切なかった。
何かあったのだろうか。嫌な予感しかなかった。しかし探しに出て行き違いになるのもいけないと外に出る勇気が湧かなかった。もし外に出て無残な彼の姿があったらと思うと。
用意した料理をぼんやり眺めて過ごし昼になって、俺の携帯が震えた。電話は修仁の妹からだった。
「中村先生でいらっしゃいますか?」
「そうですが……修仁くんに何か?」
「っ……お兄ちゃん、修仁兄ちゃんは昨日亡くなりました」
嗚咽で震える彼女の声がこれは冗談ではないと訴えた。
「通夜はもう済ませました。これから区立のセレモニーホールで葬儀がありますので先生もお越しください。きっと兄も喜びます」
それだけで電話は終わった。
涙は出なかった。俺はクローゼットの奥に仕舞い込んでいた礼服に着替え、数珠と香典と携帯だけ持って家を出た。
会場にはたくさんの人がいた。長い列に並び、お焼香をあげる。遺影の修仁はいつもと変わらぬ笑顔で、そこに生きていないことを僕に告げた。
遺族席に泣き崩れる修仁の母と震える父、電話をくれた修仁の妹や祖父母とみられるご老人が座っていた。
――どうして俺は、あの席に座っていないのだろう。
そんなことが頭をよぎった。
ふらふらと歩き、ホールの駐車場で一人普段吸わない煙草を吸った。修仁は煙草を吸う俺を見て大人っぽくてかっこいいなんて言っていたっけな。
そうだ、修仁は死んだんだ。
実感などない。頭が動かない。メンソールの香りだけが脳に焼き付く。
「あの、彰さん」
見ると、制服姿の修仁の妹だった。
「このたびはお悔やみ申し上げます」
「こちらこそ、来てくださって兄も喜んでいるとおもいます。それに……先生だって大切な人を失ったのでしょう?」
彼女は泣き腫らした目で言った。
「俺と修仁のこと、ご存じだったんですね」
「はい、兄から聞いていました。両親は受け入れがたかったようですが」
「そうでしたか。それで、何故修仁は……」
「事故です。暴走した車が歩道に乗り上げて。兄は即死だったそうです」
なんとも不合理で、理不尽な最期だった。
「そう……ですか」
一筋の涙が頬を伝う。俺は、最愛の人を喪ったんだ。
「先生、どうぞ泣いてください。お兄ちゃんのためにも」
俺は駐車場の端で、声を上げて泣いた。
胸が嗚咽で痛み、耳は熱を持ち、全てを吐き出すかのように泣いた。
修仁と家族になりたかった。共に生きていきたかった。でもそれはもう叶わないことだった。
家族になって、共に歳を重ねて、葬式でどちらかがどちらかの喪主をしたかった。最期を見届けたかった。
「まだ……一緒に生きたかった」
絞り出すような声が僕を引き裂いた。
葬式はあっけなく終わった。
『先生と教え子』の関係である俺は骨を拾うこともなく、彼の家族に挨拶をするだけで終わってしまった。
あれから一年が経ち、こうして墓前に立っている。
この一年、彼とのたくさんの思い出と共に俺は生きた。
貴方への愛に、この花の命を捧げよう。
「修仁、俺は生きるよ」
あなたの愛は偽れない