白い性器

佐倉愛斗

白い性器

 そこにあったのは、真っ白な女性器だった。
 薄暗いカーペット敷きの客席の中心に、スポットライトで照らされた回転する小さなお立ち台。そこで股を開いて、客の男たちにありありと見せつける。
座って、と美穂さんに促されるまで、俺は立ちつくしていたことに気付かなかった。
 鈍器で殴られたような衝撃と、セックスに似た高揚感と、異世界にやってきた恐怖心。
 でも何より、舞台で美しい躯体を披露する彼女を、どんな線で描けばいいのか。そればかり考えていたことを今でも思い出す。
 答えが目の前にあるのに、俺はまだ彼女を描けずにいる。

「うーちゃん、うーちゃん」
「あっ、はい」
「お客様におしぼりお出しして」
 ビニールを破って温めたおしぼりを開いて手渡す。
 客はありがとう。と言い、それからメニューはないんですか? と問う。
「当店にメニューはないわね。適当に言ってくれれば出すよ」
 店長の美穂さんが説明すると、その客はレッドアイを注文した。
「ごめんなさいね、この子、うーちゃんって言うんだけど、あの日からぼーっとしてしまって」
 美穂さんは語らせるつもりだ。もう何十回も、客に聞かせた話を。
「あの日って?」
「この子の後学のためにストリップショーに連れて行ったのよ。この子、画家を目指しているんだけど、デッサン会にもあまり行かないし、丁度いいかなって。それに、うーちゃんが見たいって言ったから」
 ストリップショーですか。と客は真っ赤なコリンズ・グラスを受け取って、口につけた。
「なんで、見たいと思ったの?」
 客が顔を上げて俺に問う。暗茶色のカラーコンタクトに黒い巻き髪。わざとらしいくらいの赤いチーク。くっきりとした鼻筋と眉毛が特徴的だと感じた。どこかで会ったことがあっただろうか。
「俺の作品に、必要だと思ったからです。俺は女性の美しさを描きたい。性の世界を描きたいと思っています」
 素敵ね、と客は相槌を打って、お通しのチョコレートを一口食べる。
「俺は、女性の体に生まれて、女性として生きてきて、でもそれがどうしても気持ち悪くて、でも、女性の身体の美しさをよく知っているのは、女体に生まれた男の俺なんじゃないかって。自惚れかもしれませんが、毎日見ていますから」
「つまり、あなたはトランスジェンダーなのね」
「はい、そうです。FtMか、Xジェンダーなのかは分かりませんが、区別は付けないことにしています」
 ふうん、と客はもう一口レッドアイを口にする。ビールの泡の層が綺麗にグラスに残った。
「私、ストリップショーの話が聞きたいな。うーさんは、何か学べたの?」
「分かりません。ただ、しなやかで無駄な筋肉のない身体。浮いたあばら、細い脚。何度も夢に出てきました。よく小説で『一点の曇りもない白磁の肌』という表現がありますが、まさしく彼女の肌はそうでした。そして真っ白な性器ばかりが頭にこびりついて離れないんです。俺の汚い肉のひだの集まりではなくて、真っ白で、穢れがなくて。初めて女性器を美しいと思いました。変ですよね、性を描きたいのに、美しい女性器を知らなかったなんて。それで」
 俺は言葉に詰まった。この先は誰にも言ったことが無かったから。
「――――彼女の肌を絵具で汚してしまいたい、と思うようになったんです」

 客はそれからゴールデン・キャデラックを飲むと、店を後にした。
「うーちゃん、お見送り行ってきなさい」
「はーい」
 雑居ビルの六階にあるこの小さなバーは、いわゆるレズビアンバーだ。だからきっとこの客もレズビアンかバイセクシュアルといったところだろう。
 エレベーターを待っていると、客が話しかける。
「うーさんって、もしかして鵜飼さん?」
 本名を言い当てられたことにたじろいでいると、客は、やっぱり。と笑った。
「私、南端淳伍。今では改名して萌音だけど。東平中で同じ美術部だったじゃない」
「あーあー、南端くん。いや、今は南端さんか。全然気づかなかったよ」
「ふふ、私、パス度だけは自信あるから。ねえ、よかったら連絡先交換しよ? 思い出話でもしながら飲みたいわ」
 スマートフォンを開くと、連絡先を交換した。
「じゃあ、またね」
「またのお越しをお待ちしております」
 エレベーターに消えていった南端さんは、アルコールの香りと、微かに雨に濡れた草花の香りがした。

 家に帰って、ワンルームの真ん中の敷布団の上で泥のように眠ると、目を開けたときには空が鈍い灰色だった。俺はビニールでできた子宮の中に俺はいる。絵具で汚れないようにビニールで覆われた壁。そのそこら中に立てかけられたキャンバスに描かれた女性たちは皆、暗い光の中で泣いていた。どれも彼女になりたくてなりきれない、と。不完全な彼女たちに見つめられた俺はいつしか筆を持つことをやめていた。
枕元に置いておいたミネラルウォーターと美穂さんに持たされたまかないのおにぎりを口にしていると、スマートフォンが震えた。
「南端です。昨日は偶然だけど会えて嬉しかった。よかったらお茶でもしながら話さない?」
 少し考えてから返信する。
「いいよ。いつがいい?」
「今から空いてる?」
 うん、とだけ答えて俺は着替えた。本来あるべきでない乳房を固い布で押しつぶし、白いシャツとジーンズを履く。待ち合わせは駅前の喫茶店になった。

「鵜飼さんもこっちの人だったなんて、なんだか意外だな。中学のときは髪長かったじゃない」
「中学の頃は、身体じゃなくて『頭』が間違っているってずっと思っていたんだ。生理が来て、胸が膨らんで、どんどん俺の身体は女になる。それはもう抗えない事実で、そんな身体をキモチワルイと思ってしまう俺の感覚がおかしいんだって。女の子らしくしていればこんな感覚消えると思っていたから」
「でも、今は男性なのね」
 南端さんはカプチーノに一口付けると、カップに着いた口紅を指で拭った。
「どこかで俺は男性であることを諦めていた。でも、初めて俺が女性の絵画を描いたとき、ああ、決定的に違うんだ。と、どこかで気付いたんだ。自分にしか分からない性別の違いを。だから受け入れて、男性の枠にはまって生きることを選んだ」
 一息吐いてから、続ける。
「本当は、男性とか女性とかどっちでもいい。でも、この身体が気持ち悪くてしょうがない。もっと自由になれたらいいのに。性別のことなんて考えたくない」
 そっか、と南端さんは女性の顔で微笑んだ。
「私は中学の頃から自分のことは女性だと思ってた。だから遠くの私立高受けてスカートで通ったのよ。知らないでしょ。ホルモンもやったし、豊胸手術もした。まだ下はいじってないけどね。お金が貯まったらそのうちやるわ。女の子の枠から外れるのが怖くて必死だったなあ。それもとびきりの美人でいたかった。女の価値は美しさだって思い込んでいるから。可笑しいかしら」
 南端さんは黒い巻き髪を指に巻き付けた。ちらりと長袖のブラウスから覗いた手首の傷を俺は見なかった。
「そうだ、鵜飼くん。私を描いてよ」
――――ううん、私に描いて。
 彼女がそう言った瞬間、空が破けたように重たい雨が降り出した。

 俺の住むアパートまでの道中、南端さんは肩を寄せ合った赤い折りたたみ傘の中で言った。
「おかしいかな。そのストリップショーの女の子に嫉妬するなんて」
 俺は何も答えられなかった。

「鵜飼くんって、セックスしたことある?」
 南端さんは絵具となりそこないの彼女の絵が散乱した、ビニールの子宮の中で服を脱ぎながら言った。
「女の人と一度だけ。でも、あんまり興味ない」
「そっか。私はたくさんあるよ。でも、満たされるのはその一瞬だけで、次に日が昇るころには空っぽになってるの。なんでかな」
 南端さんの肌は白く、「彼女」のように美しかった。
 しかし、どれだけ取り繕っても身体は男性だ。筋肉質な脚に、薄い尻。へその位置だって違うし、膨らんだ乳房も人工的。抗えない、残酷な事実。どうして俺たちは身体が、心が、あるいはその両方が間違っていると感じてしまうのだろう。
「ねえ、あの子、だと思ってみてよ」
 裸の南端さんは俺の頬に手を伸ばし、唇を合わせた。
「私はあなたに描き直されたい」
 重たい雨粒が窓を叩く音だけが室内に響く。
 間違った身体は描き直せるかもしれない。満足いくまでメスを入れたらいい。でも、心は?
 俺はアクリル絵の具をパレットに出して、指で掬い取って南端さんの肩に一筋の線を引いた。青、赤、黄、黒。ビニール敷きの床の上で南端さんは黙って俺に描かれ続けた。点と線と模様と。俺が思い浮かべる女性の美しさは曲線だった。彼女に足りない曲線を描き足していく。指が彼女の肌を撫でていく。
人工的な乳房の上には指で赤い花びらを描いた。あの日見た彼女の笑顔の奥にある涙のように。筋肉質なお腹には色鮮やかな花と蝶たちを。広い背中には虹と雨粒を。真っ白な脚には彼女を縛る青い鎖を。
 ああ、彼女はステージに縛られていた。それでいて、自由に演じていた。演じている彼女しか俺は知らない。
 彼女が言った。
「私を汚したいなんて、変な人ね」
――――だって私は真っ黒よ。

「――――はっ」
 息を吸うと、目の前には色に染まった南端さんがいた。
「どうかした?」
「ううん、なんでもない」
 心臓が震えて、その揺れが指先まで伝わるかのようだった。涙がぽろぽろと落ちた。自分の感情が分からない。俺が俺を追い越したように、理解することを頭が拒んでいる。
 南端さんは、ただ涙が落ちるのを見ていた。彼女はここにはいない。いるのは、中学の同級生。昨日再会したばかりの男の子だった女性。
虚像の彼女に触れて、俺は満足できただろうか。南端さんを通して見た「彼女」に。
「あとは、ここだけね」
 彼女が股を開くと、あるべきでない小さなペニスが項垂れていた。
「初めて見るよ」
「そう? 不格好でしょ」
「ううん。綺麗だ」
 俺は白い絵具でペニスを塗り潰した。南端さんにとっては要らないもの。俺にとっては欲しいけれど決して手に入らないもの。神様、交換なんてそんな図々しいことできますか。
 ペニスの根元に水色で小さな羽を描いた。これがどんな意味を持つのか、俺には分からない。

「できたよ」
 姿見の前で南端さんは全身に描かれた模様を見ては微笑んでいた。
「落としてしまうのがもったいないわ」
「それでもいいんだ、覚えていてくれたら」
 俺は記憶の中で彼女を美しく作り変えていたことに気付いた。でも、もう会えないのならそれでもよかった。記憶の中で、南端さんもこの姿を何度も反芻して美化してくれたらいい。形に残らないものの方が、きっと価値はあるから。

 シャワーから戻った南端さんと一晩中語りあった。中学校で絵画のコンクールに出したこと。南端さんが高校で男の子たちにモテたという武勇伝。俺がネット上で荒れていたら美穂さんに拾われた話。お互い成人式には出なかったこと。南端さんが今は女性社員としてアパレルメーカーに勤めているということ。話題は尽きることはなくて、気付いたら雨は上がっていた。
「ねえ、月の周りに虹が出ているよ」
「月(げっ)虹(こう)ってやつだね」
「私たち、こんなだけど、幸せになれるのかしら」
「人を測る物差しは性別だけじゃないって言いたいのに、一番縛られているのが俺たちだからな」
 ビニールの子宮の真ん中で、二人、月虹の下、互いの幸せを願って眠った。

「うーちゃん、お客様におしぼりお出しして」
「はーい」
「うーちゃん、なんか憑き物でも落ちた?」
 美穂さんに小脇をつつかれる。
「ええ、まあ」
 はにかむ俺に美穂さんは満足そうだった。
 からり、とドアベルの音がしてこの小さなバーの扉が開く。
「いらっしゃい。まあ、この前の」
また来ちゃった、と南端さんは濡れた傘を置いてカウンターに腰掛ける。
「何にする?」
 俺はおしぼりを渡しながら問う。
「マスターのおすすめを。うーさんにも」
 はーい、と美穂さんはシェーカーにドライジンとリキュールに絞ったレモンを入れて振るった。ショートグラスに注がれたそれは、白く澄んでいて、おごそかに輝いていた。
「じゃあ、乾杯」
 いただきます。と一口つける。脳裏にはいくら手を伸ばしても届かない、俺が作り上げた幻想の女性がいた。
「これ、彼女みたいね」
「うん、真っ白な彼女だ」
 彼女の性器は正しいのだろうか。そんなことを、思って口にする。カクテルが微笑んでいるうちに。
「うーちゃん、また絵を描き始めたでしょ。袖口、絵具付いてるよ」
「はい。描きたいものが分かったので」
 真っ白な、記憶の中のあなたを。

白い性器

白い性器

ストリップショーで観た白い性器は果たして正しかったのだろうか

  • 小説
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更新日
登録日 2020-05-31

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