水葬花火
水葬花火
帰り道、中学校の脇を通った。銀色の空から氷の花が舞い落ちる。目で追うと花たちはプールの水面に触れて死んでしまった。俺の死体が沈む、プールの上で。
成人式があるからと高校卒業以来に実家へ帰ってきた。手入れされた田畑、村を囲う山、岩場の険しい川。東京で暮らし初めてから見なくなった景色だ。懐かしさの向こうに忌々しい記憶がよみがえる。間違いだらけの青春時代。拒絶。寒さが脳に突き刺さり俺は玄関先でうずくまった。もう五年も前のことなのに傷は鮮やかな肉色をしている。とろとろと血漿を流しながら。
家に入ることが怖かった。否、忌々しい過去に触れることが怖かった。
何度ごめんと言えば俺は許されるのだろうか。
寒さに指先の感覚がなくなるまで俺はそこに居た。耳の奥で花火の音がする。あの日の花火は水葬された俺を弔っていてくれただろうか。
意を決して家に入ると、少しも変わらない母の姿があった。二年近くも会っていないからではなく距離感は変わらずぎこちない。母親は息子に甘いなんていうけれど、甘やかし方が不器用な母はいつもそっけない。今日もただ俺の名を呼んで「雄大おかえり」とこちらに顔を向けてから黙々と洗濯物を畳んでいた。
三日分の着替えと荷物、厚手のモッズコートをかつて俺の部屋だった一室に置いてくる。ベッドと机はそのままだったけれど本棚やクローゼットは殺風景だった。布団の付けられていないこたつテーブルは季節から忘れ去られているようだった。夏の暑い日がフラッシュバックされる。視線の先のテーブルに膝を突き合わせて宿題をする俺とアイツがいる。母が毎日作る麦茶。結露が滴るグラス。止まってばかりのシャープペンシル。止まってしまった、俺。
俺の手が不自然に震えていた。寒さのせいだと思いたかった。
夕食は母が赤飯を炊いてくれた。二十歳になった俺はもう子どもではいられないのだと追い詰められたような心地がした。父に勧められて日本酒を一杯だけ飲んだ。父は一緒に飲めて嬉しいと言ったが、お酒は好きではない。いつでも現実を見ていたかった。正しく生きるためにはどうしたらいい。間違わずに生きるにはどうしたらいい。一本のピアノ線の上を歩くような心地がする。食事が喉を通らないことを「長旅で疲れているから」とごまかした。
「明日の成人式、カズくんも来るといいわね。もうしばらく会っていないんでしょう?」
「うん、そうだね」
和沙の名前に少なからず動揺する。俺はちゃんと隠せていただろうか。
「よく家にも遊びに来てて、それなのにポンと転校しちゃうものだからね。明日ゆっくり話せるといいわね」
「そうだね」
食後の煎茶をすする。こんなに苦いものだっけ。
俺の死んでしまった恋心は、今もまだ水底で腐敗を続けている。
和沙は小学校からの仲だった。もっともこんな田舎には子どもの数は少なくて、小中学校共に一クラスしかなくずっと同じメンバーだった。和沙は小柄で眼鏡の奥の目尻が少し下がっていて泳ぐことができなかった。和沙は水泳の授業に一度も出たことがない。何故かと聞いたことがあったけれど、塩素で痒くなるからと和沙はごまかしていた。
俺たちはいつも一緒に居た。野山を駆けまわり、田畑の端で泥遊びをして、雨の日は家でテレビゲームをした。好きな女の子ができれば真っ先に打ち明け合ったのも和沙だった。そういうとても仲のよいダチ。男の子の、同性の友達。
俺は二つの間違いをした。一つ目はなんてことない。中学に上がってから俺は和沙に恋をしていた。同性愛を間違いだなんて言うことはもうこの時代にはそぐわない。けれど親友に恋をすることは関係の終わりを用意するようなものだった。二つ目は、同性愛を間違いだと思い込んでいた俺がしてしまったこと。和沙との関係の死を意味していた。
成人式当日は空が白く澄んでいた。冬の日は晴れているほど寒い。森に囲まれた片田舎は東京より体感温度がさらに低く感じられた。
専門学校の入学式用に買ったスリーピースのスーツを着た。桃色のシャツの下に肌着を何枚も着込む。赤いネクタイをしてベストのボタンを留めた。背筋が伸びる。今日は良き日になる。そう信じたいけれど都会の雑踏に帰りたいと願う俺もいた。誰でもない自分でいられる。大罪人ではない、ただ一人の人間として。
「また溜息ついて」と母が心配する。
「もう子どもじゃないんだからしっかりね」
「わかってるよ」
両親と一緒に中学の横にある公民館に向かった。霜柱を踏んだ音がした。
受付で両親と別れて一人講堂に入る。たった十人の新成人。転校してしまった和沙は転校先の土地の成人式に出ているのかもしれないと思った。そうであってほしいとも思った。が、探さなくても和沙の姿を見つけてしまった。
黒いスーツに青いネクタイ。身長は相変わらず低くて、髪は茶色になっていたがふんわりとしたマッシュヘアにしていた。違うところは眼鏡をしていないことくらいだろうか。
視線が交わる。何か言いたげで、それでいて触れたくない。噛み合わないぎくしゃくとした空気があった。逃げ出したくないのに目を逸らせない。呼吸の仕方を忘れてしまう。ここは水底なのかもしれない。
「おーおーユウにカズ、久しぶりだなあ」
胸に俺たちと同じ花飾りを付けた信治だった。
「おう、久しぶり」
信治をはじめとするクラスメイトたちと中学卒業後の近況報告をし合った。大人になったなとか、女の子たちがみんな美人になってるなとか、先生たちはみんな元気そうだな、とかとりとめのない話をした。楽しんでいる俺がいたのは、会話から避けるように和沙がその場を離れていたからだった。
成人式では村長の説教臭い話を聞き流して、斜め前に座る和沙のことをずっと考えていた。
和沙の奴、男性の格好で来たんだな。
当たり前と言われたら当たり前かもしれない。だって和沙は男だ。俺がどう思おうと変わらない。
――もう雄大とは一緒にいられない。
花火の音の中で和沙は泣いていた。入れないと言っていたプールの真ん中で。色とりどりの炎の花が乱反射する水面。露わになった和沙の秘密。
抱きしめることもできなかった。
取り返しもつかない過ちを犯して。
式を終えてたった十人の集合写真を撮った。和沙と一緒に写る最後の写真になった。
立食パーティーへと式は移った。
意を決して俺は和沙に話しかけた。
「和沙、久しぶり」
和沙の肩が強張る。何かが逆立っているかのようにも見えた。
「ひさし、ぶり」
会話が進まない。口に何かを運ぶスピードが無意識に上がる。
何を話したいのか分からないけれど、全てを懺悔してしまいたいような気持ちにも駆られた。
「雄大は、好きな人できた?」
和沙がビールを含んで問う。
「いや、いない」
できるわけがない。好きな人を傷付けることしかできない俺が恋をしていいわけがない。
「和沙は?」
「いるよ。同い年の彼女がいる」
「彼女なんだね」
「そうだよ」
和沙の目元が赤くなっている。俺はバヤリースしか飲んでいなかった。
「俺は雄大のこと許すつもりはないよ」
「俺も許されなくていいと思ってる」と伝えると和沙は心底おかしそうに笑った。世界の全てを恨んでいるように。
「俺、春になったらタイに行くんだ」
「手術か?」
和沙は「詳しいんだね」と苦笑する。
「死ぬほど調べたからな」
「ふーん」
和沙がグラスの底に溜まったビールを煽る。
「俺は、もう二度と雄大とは会わない。何も知らない人の中で生きるんだ」
俺もだよ、と俺は同意した。俺の過ちを知らない人の中で生きるのだと決めて東京へ出た。誰でもない透明人間となって、誰とも深く関わらず、無味無臭の人生を選んだ。
「さよならだね、雄大」
「ああ、さよなら、和沙」
手術頑張れよ、と伝えて俺は会場を後にした。
俺の死体の火葬をするように、炎の花は燃えさかる。
さようなら、俺の恋心。
――俺、和沙のことが好きだ。
中学三年生の夏、村の小さな花火大会の日に俺は和沙に告白した。
和沙は男のくせに可愛いし、人なつっこくて勉強もできた。一緒にいることが心地よくて、ある日俺は和沙とのいかがわしい夢を見た。深層心理の現れかと思いとても恥ずかしくなったことを覚えている。
同性に恋することを許してくれるような土地ではなかった。
ドラマや漫画で同性愛が描かれても所詮はフィクションで、現実のこととは思えなかった。だからこの感情は間違っているのだと俺は思い込んだ。
俺の告白を聞いて和沙は走り出した。小さな身体で和沙は村で一番足が速かった。
追いかけると和沙は中学の屋外プールにいた。フェンスを乗り越えてプールサイドに立ち尽くす。
「雄大。本当に俺のこと好き?」
「好きだ。気持ち悪いか?」
和沙は首を横に振る。
「俺、雄大に言わなきゃいけないことがある」
和沙は服を着たまま入れないと言っていたプールに飛び込んだ。
濡れたTシャツが身体に貼り付く。露わになった秘密。和沙の胸には確かな膨らみがあった。
「俺、本当は女の身体なんだ」
俺は言った。
「なんだ、俺は変態じゃなかったんだ」
花火が乱反射する水の中、和沙の傷付いた瞳を忘れることは一生ないだろう。
水葬花火