胸当ての奥に

佐倉愛斗

胸当ての奥に

 これは死活問題だった。
 この場に居たらきっと私は死んでしまう。身が滅びなくても比喩的な意味で死んでしまうだろう。激しい苦痛――正体は認めたくない――が私の血管に熱を持った棘となって流れる。内側から破られるような痛みに苛まれるのだ。
 もうすぐ授業が終わるチャイムが鳴る。スピーカーからの電子音ではなく、学園の外にある金属製のチャイム。そびえ立つ白亜の塔に備え付けられた鐘の音がもうすぐ鳴ると思うと私の心臓は存在を異常に主張する。次の授業は体育。つまり着替えという私にとって重大な困難が待ち受けているのである。
 チャイムが鳴る。起立、礼、着席。
 ハウリングする余韻もそこそこに一斉に少女たちはセーラー服を脱いだ。男子生徒が一人もいないこの学園には更衣室など存在しない。
 無神経に露わになる、少女たちの秘密。
 何故少女たちは恐れないのだろう。何故私だけ、こんなに恐れているのだろうか。
 私は視覚に一切の意識を向けず、ジャージに着替えて逃げるように体育館へ向かった。
 まだ心臓が痛い。怖い。いたたまれない。ここにいられない。私はきっと何かが間違っている。
 セーラー服の胸当ての中には秘密がある。大きさも形もまったく同じというものはない少女の秘密。
 冬の冷たい風が渡り廊下を駆け抜けて熱を持った頬を刺した。
 なんで私は死を覚悟するほど恐れているのだろう。恐れるという感情の意味を考えたくない。
 松村こずえ。十七歳。私は女性の胸を恐れる女子高生だ。

 今日の体育の授業はバスケットボールだった。
 弾むボールから自然と視線が上がるのが申し訳なくて、私は壁掛け時計の針が進むのをただじっと見詰めていた。自分のチームの番になるとゲームに集中できたと思う。私は運動は得意ではないけれど背だけは他の少女たちよりも頭一つ分高かった。空中を飛び交うボールを捕まえては運動部の子にパスをする。それだけで私は活躍できた。忘れることが、できた。
 授業が終わると私は白亜の塔に寄り道した。白亜の塔には聖母マリア様の彫刻が施されている。そして白く高くそびえ立つ塔の下は小上がりになっている。私は石造りの階段に座って冷えた手すりに身を任せる。ここは止まり木だ。秘密を抱えた少女たちのための。
 一息ついて、私は皆が教室で着替え終わるのを待った。私は自分の体を女の子たちに見られることには別段恥じらいも嫌悪感もなかった。ただ、見ることができない。シルバーの十字架が留められた黒い胸当ての奥にある秘密には触れてはならないのだ。
 こんな私は、きっと普通じゃない。普通じゃないことが、怖い。
 石造りの階段の上で膝を抱えていると、雪が降り始めた。水分の多い重たい雪は私に触れて冷たさだけを残して消える。私のこの重大な死活問題も消えて欲しかった。しかしそれは私自身を消してしまいそうな気がして、どうしたらいいのか結局分からずに体を冷やすばかりだった。

「――ックシ」
 昨日、世界を銀色に染めた雪は嘘のように消えて、翌朝、代わりに私の中に風邪というお土産を置いていった。
 昨日は結局、体育の後の英語をまるまる休んで、白亜の塔の下で私自身の重大な問題について考えふけっていた。もちろん答えは出ない。私が普通じゃないことくらい理解していた。しかし認めたくないのだ。普通じゃない生き方を想像することが難しかった。
 普通じゃない私の感情にありったけの殺意を向けた。だからといって死にはしない。死んでくれていいのに。
 登校はしたものの頭が酷く痛んだ。きっと熱もいくらかあるだろう。動く気にもなれなくて私は自分の席で突っ伏していた。
 こんな私は最悪だ。熱で溶けた眼球が流れ落ちる。
 倫理の教師の読経が遠くなる。私も唱えたら邪心を捨てられるだろうか。
「……さん、松村さん」
「ん?」
 フルートのような声に顔を上げると、十字架の校章が留められた黒のセーラー服が見えた。大きな、胸。
「ひゃい!」
 勢いよく頭を上げたものだから頭に激痛が走った。柔らかな脳を細いタコ糸が幾重にも絞めている。痛みに顔を引きつらせてまた机に頭をこすりつけた。
「急に動かないほうがいいよ。松村さん、授業中ずっと寝てたけどどこか具合でも悪いの?」
 ゆっくり顔を上げると、声の主は京本麗水(つぐみ)さんだった。このクラスの保健委員。文武両道。眉目秀麗。完璧で美しい学園の天使。一部の女の子は熱狂的に彼女のことを崇めるけれど、私にとっては秘密を持った一人の少女にしか思えなかった。
「京本さん、ありがとう。風邪引いちゃったみたいで」
「それはしんどいね。一緒に保健室行こうか」
 立てる? と京本さんは手を差し出す。彼女の手を掴んで立ち上がると思ったより視界が揺れる。相当参っているみたいだった。彼女の手は小さく、可憐で、私とは全く違う清らかな存在なのだろうと勝手に思った。

 保健室で体温を測ると三十八度五分あった。京本さんはとても心配してくれて、白亜の塔が始業のチャイムを鳴らすまで保健室のベッドで寝る私の手を握っていてくれた。脳を絞めるタコ糸が引っ張られる度、涙が耳に流れ落ちて、こんな姿を見せてしまうことが申し訳なかった。
 京本さんが教室に戻ると、私は回りすぎた頭を動かすのをやめた。
 カーテンを吊すレール。レールを支える梁。ペンキのムラがある天井。養護教諭の高地先生が「ほけんだより」を作るタイピングの音。私を包む、誰の匂いでもない布団。
 私の周りは私の秘密がどうであろうと勝手に回る。私の重大な問題は結局は私自身の問題で、どうしようもなく他人とは無関係。間違っているのは私の欲求。私がこの世界に不適合なのだ。
「もう、溶けてしまいたい」
 重力のままにベッドに沈み込んで、私はただ熱を持つ脳が耳に流れ落ちるのを感じた。

 白亜の塔のチャイムが何度か鳴った頃、私は泣きじゃくる少女の声で目を覚ました。
 何か高地先生と話しているがうまく聞き取れない。私は冷たい床に足を下ろしてパーテーションから顔を覗かせた。
 粘度をもった液体で濡れた髪。目をこする小さな手。茶色の染みができた襟。胸当ての十字架を押し上げる大きな――
「なに?」
 ハッとして顔を上げる。キッと睨む目は充血し、目尻は赤く擦れていた。
「いや、なんで泣いてるのかなって」
「私の世界が間違ってるからだよ。なんで私の世界は間違っているの?」
 少女は大きな胸を抱きしめて泣いた。荒い息を整えるように高地先生が背中をさする。
 なんて強い子だろう、と私は彼女の手を握っていた。間違っているのは世界。そう言い切れる彼女はきっと私にはない答えを持っている。
 彼女に何かしらの薬(おそらく精神安定作用のあるもの)を飲ませて寝かせると、高地先生はひっそりと話した。
「彼女は――森本絵音さんは今、苦しい状況に置かれているの。誰が悪いとかはきっとなくて、ただ生きづらさを抱えて生きてる。もちろんいじめは許してはいけないものだけれど、懲罰を与えるだけでは解決しない。彼女には味方が必要なの」
「森本さんは、いつもここに?」
「発作を起こしていた頃はよく来ていたけれど、最近は来づらくなっちゃったみたいで。でも今日は加糖の紅茶かけられちゃったみたいでどうしようもなくね。染み抜きしないといけないじゃない?」
 言葉を失った。彼女は、森本さんはどうしてそんな目に遭わなければならないのだろうか。ただの少女なのに。私にとっては、ただの秘密を持った少女の一人でしか、ないのに。
 私はウエットティッシュで彼女の髪を拭いた。艶のある自然な明るい髪色で、肩の下辺りで切り揃えられていた。目を腫らして眠る彼女を思っているうちに、私の脳を締め付けるタコ糸の存在は消えていった。
 冬の日は太陽の寿命が短い。暗く日が落ちた森を抜けて名古屋の街中に出る。
「あの、よかったら乗ってく?」
 熱が有ると連絡したら仕事終わりの母が車で迎えに来てくれた。広めの軽自動車の後部座席に森本さんを案内する。森本さんは小さく頭を下げて乗り込んだ。
「家はどのあたり?」
「星ヶ丘」
 少し遠かったが、今からそこまで一人で帰す方が心配だった。
「いいよね、お母さん」
 いいよ、と答える母の声音は軟らかかった。
「森本さんは学校つらい?」
 彼女は静かに顎を沈めた。
「私もちょっとつらいけど、森本さんほどじゃないかな」
「違う」
 彼女は語気を強めて否定する。
「つらさは比べられるものじゃない」
 森本さんの手が私の手に重なる。
「私は負けない。こんなの間違っているから」
「森本さんは強いんだね」
「絵音でいい」
「うん、絵音さん。私はこずえね。」
「こずえ」と絵音は繰り返した。
「それに私は、強くない。ただ間違っている世界に耐えられないだけ」
「そっか。私は」
 そこから先は言葉にできなかった。まだ私が私のことを許してくれそうにないからだ。
 ここまでが、私と絵音の出会いの話。

 ***

 四月。受験生となった私たちは新入生とは違う緊張を抱えて新学期を迎えた。
 絵音はあの日から学校に行く日と行かない日を繰り返していた。話を聞くに家から出ようとすると震えて嘔吐してしまうことが多かったらしい。来ても進級に必要最低限の出席点を得るために午後だけの出席だったり、その後の補講だけだった。
 私たちは白亜の塔の下の階段でたまに会った。それ以外はLINEのやりとり(といっても絵音からの返信はまれだった)くらいで、隣のクラスの知り合いでしかなかった。――真逆の悩みを抱えた二人として。
 進級してからは高地先生の計らいで同じクラスになった。教室にいることが苦痛な絵音のために廊下側の一番後ろが絵音の席。そしてその隣が私の席だった。
「こず、ちょっと出る」
 数学の授業中、絵音は私の袖のスナップを引いた。私は顎を沈めて共に廊下に出た。
 板張りの長い長い廊下。その真ん中で二人、壁に背を預けて物思いに耽った。相変わらず私の重大な問題は変わらず存在して、絵音の顔からなるべく視線を下げないよう努めた。
「絵音、お薬飲む?」
 小さなタブレットを絵音はペットボトルの水で飲んだ。
「こず、おやつ食べよ」
 絵音が持ち歩くポーチは魔法のポーチだ。頓服薬と紙袋の他に、いつも何かしらのおやつが入っている。
 今日のおやつはシナモン味の輸入クッキーだった。
「ん」と差し出されて私は受け取る。堂々と授業をサボっておやつタイム。背徳的でちょっと楽しかった。シナモンの香りとクッキーの歯触りが心にゆとりをくれる。
「私ね」と絵音が切り出す。
「私、『死ね』ってたくさん言われた。笑いながら、女の子たちに。でも言われる度にこの人たちは私が生きているだけで嫌な思いをしてくれるんだなって思ってた。とっても愉快で、ざまあみろって」
 絵音がクッキーの欠片を口に放り込む。
「――でも、少しずつ心のやわらかいところがえぐり取られて、ついばまれるみたいだった」
 適切な言葉が見つからなくて「そっか」と私は答えた。
「なんで私はこんなにも傷付かなきゃいけなかったんだろう。おかしいよ。私は私で、この世に存在を許された生命体で、ただ少しだけ人と違うだけだったのに」
 違うのは怖いよ。私は膝を抱いて顔をプリーツスカートに埋めた。
「こずは、何がそんなに怖いの?」
「なんで?」
「こずはいっつも震えてる。私と一緒に居るのが怖い?」
 私は大きく首を振った。
「ちがうの、ちがうの。これは私の個人的問題で」
「個人と世界は綿密に繋がっている。きっとこずだけの問題じゃない」
 言いたくないことは言わなくていいけど、と絵音は付け足した。
 絵音は私を抱きしめる手に触れようとして、少し躊躇いがちに手を下ろした。
「ねえ、こず? 無理して私なんかに付き合わなくていいんだよ」
 いつものふてぶてしい絵音とは思えない、か弱い少女の声がした。
「私が絵音と一緒に居たいだけだから」
「本当に?」
「ホントのホント」
 私は絵音の髪をくしゃくしゃに撫でた。そしてできる限りの笑顔を作ってみせた。絵音とこうしている時間が私にとっての安寧でもあった。二人だけの、特別な時間であると。

 啓示を受けて妄信的に絵音のことを大切にしていた私だが、私にも絵音の嫌いなところはあった。
「絵音、なんで授業出てないのにテストの点いいの?」
「教科書読めば授業なんていらない」
 絵音が言うには授業は教科書を教師のペースで読む時間で、自分のペースで読むならその半分の時間でいいという。一日のうち半分はサボる絵音だったが、五月の中間テストは上の中。私は下の上くらいの成績だった。もっとも、絵音のせいで点数が落ちたわけではなく、元より勉学を不得手としているので恨むつもりはない。でもこの差は何なのだろうと創造神を恨むことはあった。
「こず、今度勉強教えようか?」
 授業に出ていないクラスメイトに教えてもらうのは癪だったので、一緒に勉強するのならいいよ、と提案した。私は特に数学が苦手だったので、数学主任の先生(学年主任でもある)に頼んで金曜の授業後に少しだけ見てもらった。
 それでもやっぱり絵音の方が成績はよかった。足りない出席点分をテスト稼ぐのは絵音の処世術らしい。勉強できるなら何も文句ないでしょう、と。きっとその態度が気に入らない人がいたのだろう。いや、私も正直気に入らない。しかし生きることを苦しむように「こず」と呼ぶ彼女を突き放すことなどどうしてもできなかった。

 夏は私にとって最も恐ろしい季節だ。
 重厚な布地で閉ざされていた秘密がより具体的に露わになる。冬服とは真逆の黒い襟に白いセーラー服。十字架の校章を押し上げる胸は汗で濡れてセーラー服に張り付く。私にとっては好奇心と恐怖の葛藤だった。
 この学園にはプールがない。それだけが唯一の救いだった。
「こず、そわそわしてるね」
 夏服にクリーム色の薄手のニットを合わせた絵音が廊下で棒付きキャンディを舐めている。授業の声のバックには蝉の声が涼しげに聞こえて、冷えた廊下の板張りが私たちから余分な熱を取り除く。
「絵音は落ち着いた?」
「うん、でもやらかした」
「……忘れ物?」
「うん。弁当」
「弁当はちゃんとカバンにいれようね」
「ううん、弁当がカバンにいれたんだけど、そのカバンを忘れてきた」
 じゃあその棒付きキャンディはどこから出てきたんだ、とツッコみたいことはかなりたくさんあったが、絵音の忘れ物癖も最近理解し始めてきた。
「てことは財布も持ってない?」
「うん」
 私はこめかみを押さえて、じゃあ購買でパン買うよ、と提案した。お金は今度何か奢って、ということにして。
 昼の購買は戦争かと言われるとそうでもない。が、それなりに人はいる。秩序を持って並ぶあたりこの学園の生徒は闘争心が薄いらしい。
 私と絵音は手を繋いで並んでいた。いつも座っているから感じないが、やはり絵音は小さい。いや、でかい。どこがとは口にできないがでかい。彼女を見下ろさないよう細心の注意を払って絵音が食べたいと言ったタマゴサンドと、二人分の牛乳プリンを買った。
「こず、やっぱりそわそわしてる」
「なんでもないよ」
 きっと私が男だったら身体的変化が現れて一発でバレてしまうだろう。このときばかりは女でよかったと感じる。でも、女なのに女の子の胸を見て何か思うのはどうしてだろうと一方で悲しくなった。
「こず、こず」
 物思いに耽って歩いていると、絵音の手がじっとりと濡れていることに気付いた。彼女の息が不安定なものとなり、肩が震えている。
「こず、怖いよ」
 廊下で涙をぼろぼろ落とし始めた絵音をとりあえず座らせる。
「絵音、大丈夫? お薬飲む?」
「だいじょう、ぶ。ちょっと人混みが怖かっただけだから」
 大きな胸を抱いて涙を落とす絵音の髪を撫でた。
「こず、だっこ」
 涙をたっぷり潤ませた瞳で手を伸ばす。私は激しく動揺していた。
 目の前には、豊かな少女の秘密。耳の先まで熱が走った。
 触れてしまったら、もう元には戻れない。けれど、彼女は泣いている。今まで晒された恐怖全てを抱え込んで。
 私も、怖い。
 片腕を抱え込んだ膝の裏に。片腕を丸まった背中に通す。
「こず?」
 震える彼女は思ったより軽かった。
「とりあえず近いから保健室行こうか。落ち着いたら教室に戻ろう」
 女の子同士なのにハグひとつできない。
 私は普通じゃない。私は、間違っている。
 薄い布越しに感じた彼女の柔らかさは、私の罪悪感を肥大させるのに十分だった。

 保健室に行くと、ベンチに一人の少女が座って高地先生と話していた。
「……田中さん」
「チッ、森本。お前そうやってまた『可哀想ごっこ』してるのかよ」
 絵音は憮然として視線を逸らした。
「優雅にお姫様だっこで登場ですか。いい迷惑だよなぁ?」
 ちょっと田中さん、と高地先生が間に入る。
 言わなきゃ、何か言わなきゃ。でも、言葉が出ない。怖い。
「レズごっこもいい加減にしな。気色悪い」
 気持ち悪いもの見ちゃった、と田中さんは私たちを精一杯嗤って保健室を後にした。
「ごめんなさいね。森本さん大丈夫?」
「大丈夫。私、別にレズビアンじゃないし」
 レズビアン。私の眼球の前に切っ先が向けられた。認めたくない、一番の言葉。私の恐怖は興味の裏返しだ。どうしようもなく変えられない事実。
 どうやって絵音を下ろしたのかも覚えていない。私は保健室から駆けだしていた。牛乳プリンが崩れてしまったかもしれないが、私の身が崩れるよりずっとよかった。

 白亜の塔の下はちょうど木陰になっていて、早生まれの蝉の死骸がひとつ、最後の振動を繰り返していた。
 マリア様、マリア様、ごめんなさい。
 私は人として間違っているのかもしれない。女子校だからそうなのか、生まれつきそうなのかはわからない。けれど生殖本能とはかけ離れたところに私の性はあって、間違った欲望を持っている。
 石造りの階段に小さな染みができた。もういっぱいいっぱいだった。
 恥ずかしくて、苦しくて、怖い。認めたくない。私の欲望を認めたくはない。
 普通じゃなくなったらこの日常は終わってしまうのだろうか。絵音と一緒にいられるこの生活は終わってしまうのだろうか。
 絵音が言うように世界が間違っているのなら。そこまで仮定してみてもその先はどうしても考えることができなかった。
 思考という歩みを進めることができなかった。どうしても。

 それからしばらく絵音は学校を休んだ。LINEを送ってみようかと思ったが何を言ったらいいのか分からなくて、朝に一度だけ「おはよう」というスタンプを送ってみたが、既読が付いただけで返信はなかった。
 絵音がいない日常は色がひとつなくなった絵画のような日々だった。数は少ないが話せる友人と談笑し、興味のある授業は熱心にノートを取り、さして興味のない授業は片耳だけで聞いて物思いにふけった。弁当は一人で白亜の塔の下で食べ、廊下に私と絵音の面影を探した。そして体育の授業の前は、いつものように教室から逃げ出した。
 きっと絵音が言っていた「世界が間違っている」は「この教室に私がいるのは間違っている」という感覚に近しいのだろうか。あくまで感覚の話なので果てしなく遠いところか、あるいは身体を重ねられるほど近いところかもしれない。でも、この苦痛はあくまで私の間違いだと思ってしまう。絵音は何故あんなに自分を信じ、信念を持って生きていられるのだろうか――ぼろぼろになりながら。
 絵音が学園に現れたのはちょうど一週間後のことだった。昼休みが終わる頃だったと思う。
「おはよう、って時間でもないか」
「そうだね、絵音」
 でもいいや、と絵音は笑った。久しぶりの絵音の笑顔に、色が一つ帰ってきたようだ。私の日常に必要な色の一つだった。
「ノートのコピーいる?」
 絵音は控えめに顎を沈める。
「じゃあ帰りはコンビニ寄ろうね」
 私は絵音の髪に触れた。ローストしたアーモンドのような茶髪は柔らかく、シトラス系の制汗剤の匂いがした。
 私の胸は震えていた。絵音は、女の子だ。
 その事実が嬉しくあり、恨めしかった。

 期末テストを終え、これから体育の授業。私はいつもの癖でさっさと体操服に着替えて教室から逃げだそうとした。そのとき、
「待って」
 絵音が私の体操服の端を掴む。
 非難する視線が向けられる。
 私の視線が降りる。
 衝撃が、罪悪感が、恥じらいが心臓を八つ裂きにする。
 私は涙をまぶたの縁に溜めて絵音から逃げ出した。
 廊下を走って、渡り廊下を駆けて、白亜の塔へ。
 許して。許して絵音。私はあなたを、絵音をこんな目で見たくない。
 白亜の塔の下のマリア様に許しを請うた。私の秘密を秘密のままにさせて欲しい。

 急く鼓動を落ち着かせて、体育館に足を向けた。
 脳裏には露わになった絵音の豊かな胸元がくっきりと残っている。
 何を謝ればいいのか分からないけれど、とにかく謝らなくてはならない気がしていた。私の内から出る罪の意識だった。
「松村さんっ!」
 体育館への通路で、制服姿の京本さんに呼び止められた。彼女は今年は隣のクラスのはずだ。
「森本さんがさっき倒れて、今、保健室にいる」
 熱を持った背中に冷たい血液が流れ落ちた。
「きっと松村さんのこと待ってるから、行ってあげて」
 私は手短に礼を伝えると、保健室まで駆けた。

 保健室の引き戸を勢いよく開けると、高地先生が唇に指を当てて「しーっ」と微笑んだ。
「今さっき眠ったところなの。教室で過呼吸を起こして、少し騒ぎになったところに京本さんが来てくれてね」
 ベッドのカーテンから少し垣間見る。大きな襟のセーラー服。胸当てにつけられた十字架。それらを押し上げて規則的に上下する胸。私は、泣いていた。
「私は、自分のことばかりで、絵音のことちっとも守れなかった」
「いつから松村さんは森本さんを守ろうとしていたの?」
 高地先生の言葉に、私はハッとする。
「きっと森本さんは守られることは望んでいないよ。彼女からそう聞いた?」
 私は首を振る。絵音は、いつも戦っていた。戦いの中で生きていた。
「じゃあ私、見回りあるから後よろしくね」と高地先生は席を立った。
 絵音が眠るベッドの横に椅子を置いて寝顔を見詰める。いつでもまっすぐで、強くて、脆い。そんな彼女のことが、
「――好き、だった」
 涙は留まることを知らないで体操服を濡らした。可哀想なんて思わない。ただ生きるのがちょっと難しいだけ。彼女のためなら、きっとなんだってできてしまうだろう。
 ひと、と冷たい手が頬に触れる。
「誰のことが好きなの?」
 疲れ切って、それでもおだやかな、柔和な笑みがそこにはあった。
「絵音……ごめんね」
「何が?」
「私が突き放したから不安になったんだよね」
「ちょっとだけね。でも、一番はこずのいない世界は私にとって間違っているから」
 絵音が身体を起こす。私はおずおずと手を伸ばし、抱きしめる。少女の秘密に、触れる。
「こず、震えてるよ。怖かった?」
「うん、怖い。私は普通じゃない。でも、絵音には隠さない」
 絵音の身体はどこも柔らかくて、重なる胸の暖かさは少女にしかないもので。シトラスの制汗剤の匂いの奥に絵音の甘い体臭を感じる。
「どきどきしてる」
「絵音。私の秘密は、間違いは、女の子の身体を見ることが怖いこと」
「嫌悪ではない?」
「うん。嫌じゃないの。だけど、死んでしまいそうなくらい恥ずかしい」
「つまり興味がある」
「……うん。こんな私おかしいよね。レズビアンじゃあるまいし」
 絵音はあの日の私のように「そっか」と答えた。
 でも、と絵音は続ける。
「別にレズビアンでもいいんだよ。少なくとも私はこずのこと認める。世界が間違っているのなら世界を見る視点を変えればいい」
 私は泣き続けた。頬に触れて涙にも温度があるのだと知った。今日の涙は暖かく、許された暖かさだった。

 夏休み前最後の日。今日も私たちは涼しい廊下にいた。涼しいと言っても夏の湿気はしっかりと存在し、板張りの床と太ももが貼り付いていた。
 今日のおやつは塩味のおせんべいだった。
「絵音、夏休みどこか行く?」
 そうだねえ、と絵音が思考する。
「プールとか海とか温泉とか?」
「……私を殺す気ですか絵音さん。あと最後夏休み関係ないよね」
「じろじろ見ても怒られないパラダイスだと思うんだけど」
「無理。無理です。ただでさえ絵音の胸すらまともに見れないのに」
「ほほう、私の胸がみたいですか」
 顔から火が出そうな思いでへなへなと絵音の肩に頭をあずけた。低すぎて首が痛い。
 私の秘密は女の子の胸に興味がありすぎて恥ずかしいということ。
 でも最近の秘密は、隣にいる少女のことが好きすぎるということ。
 そのことは、まだナイショである。

胸当ての奥に

胸当ての奥に

胸当ての奥には少女の秘密が隠れてる きっと私は彼女のことを憎からず思っている

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-05-31

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