骨になるまで

佐倉愛斗

骨になるまで

 二十三歳、春。音のない雨に濡れた腐葉土が甘く死んだように臭ってきた。新しい芽をつけた古ぼけた大樹が、来訪者を受け入れるようにアパートの階段に覆い被さっている。私たちが二階に運ぶ段ボールが溶けるでもなく、でも確実に湿度を持って質量を増していた。
「ごくろうさん」
 引っ越しトラックの音を聞きつけた一階の住人が玄関から顔を出した。人生の迷いを乗り越えたという風貌の老夫婦だった。おじいさんの方は薄くなった白髪がちらちらと光り、そのくせ、眉毛がぼうぼうで立派だった。おばあさんの方は白髪交じりの髪をひっつめている。目の下の皺が可愛らしかった。そしてどちらも穏やかな淡い瞳をしていた。
「ありがとうございます。あとで挨拶に伺いますね」
 しのぶが外階段から身を乗り出して答える。しのぶの刈り上げた短い髪もしっとりと濡れていた。私のセミロングの茶色い巻き髪はボリュームを増して少し重たく感じた。
「ふふ、新婚さんかね? よく似た夫婦だこと」
 それじゃあいつでもいいから落ち着いたらいらっしゃい。と老夫婦は霧雨を避けるように部屋に戻っていった。
「あやめ、新婚さんだって」
 しのぶは笑いをかみ殺して言った。私は、耐えがたい悔しさとこれから始まる幸せに身が引き裂かれそうだった。
 一階の老夫婦に私たちの地元の銘菓を渡すとご丁寧にと喜ばれた。困ったらお互い様だから頼りなさい、と乾いた手に握られて、この夫婦には知られてはいけないと身を固くした。
「いい人だったね」
 胸をなで下ろすしのぶの腕を強引に引いてスチールのドアを閉めた。私と同じ身長。唇を無理矢理押し当てると前歯が当たる音がカチカチとした。
「……あやめ」
「旦那さん、に見られて嬉しい? おねえちゃん」
 しのぶは私を抱きしめて、唇と舌を求める。私たちのどちらでもない、知らない人の臭いが部屋からした。乾いた土に水を与えたような臭い。カビが生命を取り戻す。いつか消えて私たちの臭いに塗り替えられてしまうけれど、雨のような臭いは私たちから消えたことがない。それが私たちの体臭なのだ。
 しのぶは――私のおねえちゃんは私の薄手のブラウスを脱がして肩に顔を下ろす。身体を擦り合わせて、唇が蛇のように私の素肌を這う。熱い唇は湿っていて、私の肌をマーカーで塗りつぶしていくようだった。おねえちゃんの色になれるのならば、私はどうなってもよかった。新婚夫婦を演じることをおねえちゃんが望むならば、おねえちゃんと一緒に居られるのならば。
――――私の心なんて腐り落ちても構わなかった。
 私たちは靴を脱ぎ捨て、もつれ合うように奥の居間に向かった。ベッドは軋んで音が伝わるから使わない。湿った段ボールが壁際に並んだ部屋で服を剥いだ。私と同じ身体。美しく瑞々しい姉と妹の身体。私たちは、双子だった。違うのは、おねえちゃんは黒くて固いハーフトップで胸を覆っていた。おねえちゃんはそれを決して脱がない。
 おねえちゃぁん、と私は弱々しく彼女を求めた。おねえちゃんがくれるものは何でも欲しかった。たとえ苦痛でも、屈辱でも。
 しのぶは唾液を口の中に集めて、白いかたまりにして私の喉に落とした。私は全部飲み込む。おねえちゃんの海水のような生臭い味がした。もっと、と私は口を開く。おねえちゃんを飲みたい。また白いかたまりをおねえちゃんは落とす。唾液を吸い取る音が卑猥に響いた。
 私を見下ろすしのぶの胸元には小さな切り傷がある。私は傷跡を執拗に舐めた。忘れないよ。忘れないよ。私たちが違った日を。

   ***

 おねえちゃんは、私の自慢のおねえちゃんだった。
「しのぶナイッサーっ!」
 同じ高校に進学した私たちは、同じバレーボール部に入った。しのぶは選手として。私はマネージャーとして。
 しのぶがボールを高く上げて飛び上がり、鞭のような身体でボールを相手コートに打つ。誰もボールに触れることができなかった。力強く打ち付けられたボールが跳ね、審判の笛が鳴る。一瞬の静寂が訪れた。
 しのぶはコートの中で歓声を一身に浴びて、コートの仲間とハイタッチを交わした。最高にかっこいい、私のおねえちゃんだった。
「相変わらずあんたの姉ちゃんすごいね」
 バレーボール部のいつも試合を見ている選手側のことねが私に耳打ちする。ことねはボリュームのある肩ほどの髪を二つに結って、ジャージを肩から羽織っていた。
「そりゃ、私のおねえちゃんだもん」
「そんな姉ちゃんを一番近くで見たいからってマネやるあんたもすごいよ」
「それもあるけどさー」
 私は下品な顔をして
「揺れるおっぱいを間近で見られるなんて最高じゃんか」
 ことねは呆れたように息を吐いて、それでも口角を小さくあげて「わかる」と同意した。
 ことねと私はレズビアン仲間というやつだ。かわいい女の子が好き。綺麗な女の子が好き。柔らかくて繊細で強い女の子が好き。私が女子バレーボールを見る目でことねに気づかれた。ことねと私は共同戦線を張っていた。そして私がおねえちゃんに向ける想いを相談できる唯一の相手だった。
「はー、おねえちゃんが可愛い」
「それ今日五回目」
「数えんなベンチの貼るカイロ」
「へえへえ、ちゃんとしのぶ姐さんのところ暖めておきます」
 おどけてペコペコすることねと顔を見合わせると、おかしくて笑った。
 体育館の外では、ぱらり、ぱらり、と小気味よく雨粒が外廊下のトタンに跳ねて梅雨の音色を奏でていた。水たまりでは、ぴとん、と雨粒が踊り水紋を作る。練習試合の数も増えてきた。いよいよ夏のインターハイ予選が始まる。おねえちゃんは長身のエーススパイカーとしてスポーツ雑誌でも注目されていた。おねえちゃんが輝くところを近くで見られるのならば、私はどこまでもついて行く。
「あやめはさ」
 試合を片目で見ながらことねが切り出す。
「あやめはバレーやらないの? しのぶと同じ身長もあるんだし、運動神経も悪くないんでしょ?」
 私は片頬をゆがませて笑った。
「私なんかができるわけないよ。それに私が試合に出たらおねえちゃんのことずっとは見ていられないでしょ? 私はおねえちゃんを支えていたいの。一番近くで」
 健気だねえ、とことねは私の肩を軽く突いた。おねえちゃんのことをトクベツに思っているっておねえちゃんは知らない。知らなくてもいい。だって双子だから。同じ存在なのだから。
 練習試合は滞りなく終わり、私たちの部が勝利を収めた。クールダウンをしているおねえちゃんの長い足や引き締まった腰。ごくり、と喉が鳴った。
「おねえちゃん、スポドリとタオル」
「おう、サンキュ」
 おねえちゃんの滴が白いタオルに染みこんでいく。水筒の口を咥える小さな唇。
「手が止まっておりますよ、あやめさん」
 ことねに小脇をつつかれて「ういーっす」と力なく返事をした。見ているだけでこんなにも心が跳ねて疲れてしまうなんて、と私は小さく息を吐いた。
 雨の日は昼と夜の境が曖昧で、ゆっくりと空だけが暗くなってゆく。二階にある部室の鍵を閉めてデッキから「おねえちゃ――」と言いかけて、見てしまった。
 体育館と部室棟の間で、おねえちゃんが他校の女子と、キス、していた。

 雨は気づいたら止んでいた。草花のぬれたすえた臭いで吐き気がした。内臓すべてを吐き出してしまいそうで、私はその場に座り込んだ。
「あやめ? そこにいるの?」
 私は走り出していた。泥が跳ねてくるぶしまで汚れても、部室に傘を忘れたのを思い出しても、泥濘んだ枯れ葉に転んでも、私は走って走って、川まで来ていた。
「あはは、ははは」
 川は水嵩を増していて吐瀉物のように泥と枝葉が溶けて混沌といた。流されてきた枝が水底に引っかかって回っている。
 おねえちゃんも女の人が好きなんだ。おねえちゃんも女の人とキスできるんだ。
 おねえちゃんは私じゃない人が好きなんだ。おねえちゃんは私じゃない人とキスするんだ。
 壊れたおしゃべり人形のように私は笑い転げた。おねえちゃんはやっぱり私と同じだ。私とおんなじ性なんだ。ひとつの細胞から卵割されてできた私たちはどこまでも一緒だ。だけど、だけど。
「なんでおねえちゃんは私のこと好きじゃないの?」
 言葉にしたらおかしくて、くっ、くっ、くっ、と笑った。
 
 家に帰ると、泥だらけのジャージを洗濯機に放り込んでシャワーを浴びた。きれいなものに触れていたら途端に悲しくなって、私の泣き声はシャワーにかき消された。暖かいものが流れて、なんで生きているのだろうとすら思った。おかしくて、私はいつまでもシャワーを頭から浴び続けた。砂糖菓子のようには消えることはできなかった。
 おねえちゃんとは同じ部屋を使っていた。いつもより重たいドアを押すと、おねえちゃんは二段ベッドの下でスマートフォンを触っていた。私が知らない顔で。
「あやめ、おかえり」
 目線だけをあげたおねえちゃんは、またすぐスマートフォンに顔を戻す。
「おねえちゃんさ、彼氏いるの」
 自分でもびっくりするほど低い声だった。
 おねえちゃんは糸切り歯を見せて「いないよ」と答えた。
「じゃあ彼女は?」
 答えを聞きたくなくて、おねえちゃんが何か言う前に「ちょっと出てくる」と部屋を後にした。洗い流された星空は美しく、鋭い光りが私をずたずたに切り裂いた。コンビニでシュークリームを二つ手に取ったが、今日は一つ棚に戻した。

「あやめ、今日は世界最後の日じゃないよ」
「ことね、世界最後の日はずっと前だったよ」
「くわしく」
 気づいたら得点表の百の位をめくっていたりした。今日は何もかもうまくいかない。下腹部が痛い。苺ジャムみたいな赤いものがどろどろと私の中から削り取られて、排泄されて私がまた一人死んでいく。おねえちゃんの姿も見れない。顧問にどやされながらも痛むおなかを支え、溜息を吐いていた。
「おねえちゃん、彼女いた」
 んー、とことねは首をかしげ、続けた。
「それは半分いいことで半分悪いことだね」
「なんでよ、世界の終わりじゃない」
「だって、しのぶもこっちってことはあんたもチャンスあるってことよ」
 そう、かなあ。と私は力なくまた百の位をめくって怒られた。鞭のように身体をしならせて跳び上がるおねえちゃんはやっぱり美しくて、でも、おねえちゃんは私のものじゃなくなった。双子でも赤の他人。血でつながっていたはずなのに。その血は死んで流れ出ている。同じ細胞から産まれたのに。
「まあ、その他校の女子と別れさせたらこっちのもんでしょ。押して押して押しまくれ」
「そう簡単に言わないでよ」と私は悪態をついて、その場にへなへなと座り込んだ。ちょっと、あやめ? と薄い膜の向こうでことねの声がした。

 おねえちゃんと同じ顔。おねえちゃんと同じ声。お姉ちゃんと同じ骨。お姉ちゃんと同じ血。おねえちゃんと同じ細胞。
 おねえちゃんの全部が私の全部だって、思い上がっていたのは私だけだろうか。このまま血と肉のかたまりになって、ぐずぐずになって溶けてしまいたい。

 目を開けると、滴が頬を伝って耳の中に入った。音がうまく聞こえない。きっと外の大雨のせいだ。風が強くて、建物の隙間をかける風がびゅうびゅうと唸った。
 手が、暖かい。
「あやめ、起きた?」
「お、ねえ、ちゃん?」
 短い髪に、細い輪郭。二重まぶたに低い鼻。耳の下のほくろ。私たちの顔だ。おねえちゃんはTシャツの上にジャージを羽織っていて、私の手をずっと撫でていた。
 起き上がろうとする私を制して「生理痛、ひどいんでしょ。もう少し寝てな」とお姉ちゃんは寝かせた。私はひどく寂しくなって、おねえちゃんが恋しかった。
「おねえちゃん、だっこ」
 しょうがないなあ、とおねえちゃんが保健室のベッドに入ってくる。抱きつかれると雨が長く降り続いた後の、さっぱりとした臭いがした。外の暴風雨はいっそう激しくなり、校庭の木々が馬鹿みたいに揺れている音がした。ぽっきりと折れてしまうかもしれない。おねえちゃんの胸に顔を埋めると、体温と恋しさが伝わって、私はほろほろと泣き出してしまった。
「今日のあやめは泣き虫だね」
「だって、だっておねえちゃん彼女いるでしょ?」
「いないよ」
「だって、見たんだもん。おねえちゃんがキスしてるところ」
 あれは、とおねえちゃんはうまく言えないようだった。私も核心は言わないでいて欲しかったし、でも本当のことが知りたくてたまらなかった。
「あれは彼女じゃなくて、その、ただ向こうに好かれてただけ。恋はしてない。キスがどんな意味を持つのか知りたかった。あれはきっと価値のないもので、心がなければキスはただの接触でしかないって分かったから。うまく言えないけど、そんな感じ」
「じゃあ」
――――私のこと好き?
 ひどく不格好だった。本当は星空を見ながらとか、黄昏色の教室でとか、そういうロマンチックなシチュエーションを望んでいた。でも言わずにはいられなかった。暴風雨の保健室。私たちは雨の子供だ。
「好きだよ」
 しのぶは慈しみの湿度を持って答えた。
「正直に言うと、あやめとキスしたかった。あやめとキスしたら何か変わるかもしれない。確証は持てないけど」
 私は返事の代わりにゆっくりと唇をおねえちゃんにくっつけた。身体中のどこよりも敏感なそこに触れて、毛羽立った脳みそがとろりとなめらかになるのを感じた。
「おねえちゃぁん」
 怖くなって、私は弱々しくしのぶの身体にしがみついた。とろりと、私から赤が落ちる。
「あやめ、舌、出して」
 言われるままに、えぇ、と舌を出す。おねえちゃんは私の舌をぱくりと食べて、薄い唇でもぐもぐと咀嚼した。熱い舌に触れて、怖くなって、でも、キモチイイ。
「あやめ、ようやく分かったよ」
 おねえちゃぁん、おねえちゃぁん、と私は退化して鳴き続けた。

   ***

 五月。おねえちゃんと共に暮らし始めて、来るべくして初めての喧嘩をした。おねえちゃんと私は分かり合いたいのに分かり合えない。おねえちゃんと私の人生は同じであるべきで、同じ運命をたどるのだと私は信じていた。でも、それでも、同じ受精卵を分けた存在でも、私たちはこんなにも違う。
「なんでおねえちゃんはそう勝手に決めるの?」
「だってこれは個人的なことだから」
「個人的って、私たちの生活に関わることじゃない」
 おねえちゃんは憮然として、あやすように私を抱きしめようとした。その腕を振り払って、
「絶対おねえちゃんより素敵な彼女作ってやるんだから」
 そう吐き捨ててことねを電話で呼び出した。バスで市街地まで出て、レズビアンバーに二人で入っていった。バーには他に二人組の女性と、男性的な見た目の女性のグループがいた。私たちは男性的な見た目の女性たちに話しかけて、テキーラサンライズとギムレットを注文した。話は弾んだと思う。おねえちゃんへのやるせなさと怒りで喉が渇いた。
 何杯目か分からないカクテルを飲んだあたりで、私はグループのうちの一人に抱きしめられた。乾いた花びらのような香りに私は「違う」と叫んだ。だあだあ泣き始めたあたりでことねに引きずられるようにして店を後にした。バーのママには先にタクシーを呼ばれていたようで、そこからはあまり覚えていない。
「しのぶ、後はなんとかして」
 ことねの肩を借りて玄関までたどり着いた私は、投げ出されるようにおねえちゃんの胸に預けられた。
「ことね、あやめは何杯飲んだの?」
「数えるのを諦めるくらい」
 おねえちゃんの溜息はしっとりとした雨の臭いがした。
「おねぇちゃんだぁ、えへへ」と私はおねえちゃんの首筋に舌を這わせる。
「あやめ、女の子を口説くどころかあんたの自慢話ばっかりで。本当に喧嘩したの?」
「あやめが一方的に怒っているだけだよ。迷惑かけたね、ありがとう」
 あんたたちも難儀だねえ、とことねは夜の街に帰っていった。
「あやめ、大丈夫?」
「だいじょうぶー」
 おねえちゃんは私を抱きかかえて、トイレまで連れて行く。
「一旦吐きな? 楽になるから」
 おねえちゃんの指が私の喉に入ってくる。おいしい、と私は思った。
「ちょっと、食べないでよ」とおねえちゃんは笑っていた。
 おねえちゃんの指が喉の奥に触れる。私が今まで飲み込んだ鬱憤、悲しみ、言いたいこと、アルコールが逆流する。すっぱい涙が頬を伝う。
「はい、よくできました」
 おねえちゃんは私の口をゆすがせると、ベッドに座らせてミネラルウォーターのペットボトルを差し出す。今日のおねえちゃんは、私のおねえちゃんはいつも優しい。優しいけど、分からない。
「下のおじいちゃんたちも心配していたよ。痴話喧嘩かい? って」
「おねえちゃん、私たちは夫婦なの? 夫婦みたいに赤の他人なの?」
 ううん、とおねえちゃんは首を振って、私の背中を心地よいリズムで叩いた。
「おねえちゃんは、やっぱり『おにいちゃん』になりたいの?」
 ぐずぐずの顔をしのぶの胸で拭いながら私は問う。おねえちゃんは、ベッドの絹の雨の中で私を抱きしめた。

   ***

 高校三年、十八の夏、私たちは姉妹で、双子で、きっとそれ以上の関係だった。どこまでが双子のすることで、どこからが双子のしないことなのかは幼い私たちには分からない。
「おねえちゃぁん」
 家で、学校で、部室で、帰り道で。人目を盗んでは私たちは求め合った。おねえちゃんは私に触れて、身体を擦り合わせて、体液を交換した。おねえちゃんの指が入ってくると、ほっそりとしたおねえちゃんが私を押し開いて優しく執拗におなかの内側を圧迫した。尿意にも似た欲求に溶かされて、私とおねえちゃんはまたひとつの細胞に戻る。私たちは同じ存在なのだから。そう、信じていたのに。
 私がおねえちゃんの乳房に触れようとすると、おねえちゃんは手で制した。おねえちゃんの中に入ろうとすると「あやめが気持ちよくなればいいから」と息が詰まるように苦笑した。なんで? おねえちゃんも気持ちよくなって欲しいよ。おねえちゃんも私のものになって。
 お母さんの帰りが遅い日、おねえちゃんと夕食を作っていた。
「おねえちゃん、おねえちゃんは私に触れられるの嫌?」
 包丁を持つおねえちゃんの手が止まる。
「嫌……じゃないよ。ただあやめに触れたいだけ」
「嘘、いつも嫌がるじゃん。そんなに私へたくそかな」
 そうじゃなくて、とおねえちゃんは目を泳がせた。焼けるような夕日が部屋を赤く染める。
「あやめ、聞いてくれる?」
 その声はおねえちゃんじゃなかった。
「わたし……ぼくは、男だ。確証は持てなかったけど、あやめに触れて分かった。ぼくは産まれたときからどうしようもなく男で、間違った身体で産まれてきた。漠然と、何が証拠なのか分からないけれどそう思うんだ。ぼくがそう思うのが証拠とも言える。あやめを愛するぼくは、男としてあやめのことを愛してる」
 理解できなかった。私たちは同じ細胞から産まれた同じ姉妹じゃないのか。
「おねえちゃんは、私のおねえちゃんだよ。愛するのに男として、とか、女として、とかあるの?」
「あるんだよ」とおねえちゃんは断言した。
「おねえちゃんのこと、私はおねえちゃんだから好きなの。私と同じだから。私の同胞だから。おねえちゃんだから。おねえちゃんだからなのに」
「あやめには分からないよ」
 おねえちゃんの声は低く、悲痛だった。
「分かりたいよ。分かるように説明してよ。なんで? 私たちが双子として産まれたことが間違いだったっていうの?」
「そうだよ。一卵性双生児は同じ『身体の性別』でしか産まれない」
 私はおねえちゃんに掴みかかっていた。私と同じじゃないなんて許せない。私と一緒に産まれてきたくなかった? 包丁が床にカラリと落ちて、私は狭いキッチンでおねえちゃんに馬乗りになっていた。何度も噛み付くようにキスをして、妄言を吐く口をもぎ取ってやりたかった。
「私は私としてお姉ちゃんが好きだよ。それじゃいけないの? 女が女を好きになったって何もおかしくない。おねえちゃんはそれが許せないから自分が男だとか言うの?」
「違う!」
 おねえちゃんが声を荒げたのはこれが初めてだった。
「ぼくは、この身体が許せないんだ。高い声も、膨らんだ胸も、張った腰も、月経も。全部全部気持ち悪いんだ。自分のことを『わたし』と言うことも、制服のスカートも、女として見られることも全部。全部いや!」
 おねえちゃんは包丁を手に取ると、左の乳房の付け根に刃を立てた。
「おねえちゃんっ!」
 わたしは包丁を掴んだ。刃が手のひらを裂いて赤いものがとろとろと流れる。おねえちゃんと同じ血。おねえちゃんと、おねえちゃんと……
 しのぶは驚いて包丁に込めた力を抜いた。私たちで汚れた包丁はぬらぬらと赤く光っていた。
「あやめ、ごめん、痛かっただろ」
「おねえちゃんが死んだら、私も死ぬの。それくらい、私はおねえちゃんでいっぱいなの。おねえちゃんもそうでしょ? おねえちゃんも私でいっぱいになって」
 おねえちゃんは、ごめんなさい、ごめんなさい、と私を抱きしめて泣いた。おねえちゃんは私の双子の姉だった。でも本当は他人以上に離れていて、私とは違う性を生きていた。こんなにも近くて遠いなら他人以上になれるよね。だって――双子だもの。
 傷口に消毒液がひどく滲みた。ガーゼを当てて、包帯を巻いて。幸い私の傷口は浅かったからすぐに治りそうだった。おねえちゃんの胸の傷は少し深くて、血が止まるまで気が気じゃなかったけど、おねえちゃんは「大丈夫」と笑った。こんなものよりずっと心の方が痛かった、と。

   ***

 おねえちゃんと暮らし始めて、最初の梅雨がやって来た。職場から帰るとアパートの近くに水場があるのか、外階段の手すりに小さなアマガエルがいた。
「ただいま」
 傘を畳んで玄関脇に置くと「おかえり、あやめ」と愛しい人の声が飛んできた。
「おねえちゃんの方が早かったんだね」
「うん、昨日夜勤だったから」
 おねえちゃんは今、男性介護士として働いている。しのぶおねえちゃんが女の身体だと知っているのは直属の上司だけである。バレー部では一番の長身だったおねえちゃんも、男性に混ざると小柄な方になってしまう。それでもいいと、おねえちゃんは笑った。
「おねえちゃんはさ、前みたいに私と産まれたくなかったとか思うの?」
 私は買ってきたお肉を一回分ずつにラップに包んで冷凍庫に入れていた。
「ううん、今はそうは思わないよ。もっと大事なこともあるだろ」
――――たとえば、あやめを愛するとか。
 おねえちゃんは私を後ろから抱きしめた。当たる胸の感覚は固い。押しつぶされた胸のようにおねえちゃんはいろんなものを押しつぶして生きてきた。私ばかりが吐き出して。
 男として見て欲しいと願うおねえちゃんのことを受け入れられなかったのは私だ。諦めて、都合よく一緒に暮らして、でも、今はそれでよかったのかもしれない。もっと大事なことがあるから。思考を停止して、雨に濡れて、川から海へ。
 おねえちゃんは職場で男性として働けるのが安定剤になっているのか、最近は何も言わなくなった。苦しそうに男になりたいと渇望することもなく、おねえちゃんと呼べばにっこりと歯を見せて笑った。眉間の皺が浅くなり、溜息も減った。私たちのセックスも穏やかなものに。
 私たちが似て非なるものだと理解しているのは私たちだけでいい。同じでいたかった。同じ存在として生きていたくても、私たちは違うから愛し合える。
「男女カップルに見えるから堂々とデートできるっていうのは利点?」
「私は女同士でも堂々とデートしてやるよ」
 それに、と私は付け加えた。
「私たちはカップルじゃなくて、双子だから」
 振り返って私はおねえちゃんの唇を舐めた。「そうだね」
 私たちは二つに分かれてしまった。だからお互いを求め合う。ぐずぐずになるまで、血と肉になって。そして最後は、骨になるまで。

骨になるまで

骨になるまで

――旦那さんに見られて嬉しい? おねえちゃん。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-05-31

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