河辺のスイセン

佐倉愛斗

河辺のスイセン

 私は名も知らぬ男に抱かれながら私のことを想っていた。
 私は私のことを可愛いと思う。二重瞼に長い睫毛、つり目気味に大きな瞳。小さいけれど筋の通った鼻に薄い唇。顔面はそこそこイケている。肌だってニキビ痕もなくキメが整っていて白く綺麗だ。背も短足の部類に入るほど低いわけでもなければ、ハイヒールを履いて男性の隣を歩くのにバランスが悪いほど高くもない。お腹はぺったんこで、胸も男性の――ときには一部の女性の――視線を集めることができるほどには大きかった。つまりスタイルも特に問題がないほど整ってはいた。
 容姿を褒められること(多くは社交辞令か私と何かしらの関係を築きたい下心によるものだったが)を否定することが難しかった。コンプレックスがないことがコンプレックス。とは私のためにある言葉のように感じられた。
 その男は私の首筋に唇を沿わせながら「ナルちゃん、本当に可愛いよ」と言う。ええ、可愛いわよ。と私は心の中で返事をした。
 この男とはツイッターで知り合った。年齢は四十で、奥さんはいるが今は出産のために里帰りしていて夜の相手がいないという。私の倍の年齢のこの男は年齢の割には若く感じられる。常に性的関係のある人ほど青春時代を延長できるのだろうか。モラトリアムはとっくに終えていてしかるべきなのに。
 私は誰とも交際をしたことがなかった。男女共にセックスはしたが、誰かを恋い慕うことはなかったし、面倒な愛だの恋だのに巻き込まれたくなかった。
だから必然的にセックスの相手は誰かの二番目か、身体目的でお金までくれる人か、便利なセフレだった。そのような関係の人を現在はこの男以外に男性は二人、女性は一人キープしていた。その人らが結婚すればサヨナラするし、本気で愛していると言われたら全ての連絡手段を遮断し、二度と会うことはなかった。そうやって私は私の――ある種特殊な――性を満たしてきた。
 私は私の乳房に手をやる。掴むと汗ばんだ肌が手のひらに吸い付き、私の思うままの形に柔らかく変化した。好きだ。私に触れている。私に触れられている。この時間が大好きだった。
「ナルちゃん、自分でおっぱい揉むなんてえっちだね」
 男は私の手を押しのけて胸の先を口に含んだ。私の胸が吸われている。私が胸を吸っている。
 粘膜を伝う快楽に逆らうことなく声を漏らした。気持ちいい。気持ちいいことを恥ずかしがるなんてもったいない。だって気持ちよさそうな私の声が最高に可愛いのだから。
 私はどうしたら可愛く反応できるのかを考えていた。ベッドの脇にもし鏡があったら、もしカメラがそこにあったらどれだけ可愛い私を魅せることができるだろう。
 他者のためじゃなく、私のために。
 男のペニスが私を求める。私は架空の私のペニスを求めた。
 私を抱くことができたらどんなにキモチイイだろう。
 そう想像を巡らせ、私は軽く絶頂を迎えた。
 行為を終えると、私はその晩のうちに隅田川沿いのアパートに戻った。おぞましい黒い川が私を見ていた。私の中の痛みに、川の濁った水が沁みた。

「この絵画はカラヴァッジョが描いた《ナルキッソス》です」
 翌朝、寝不足からくる頭痛に苛まれながら、講義室のスクリーンに映し出された絵を見ていた。女性教授が説明の合間にする息継ぎがエロいと男子生徒の間で噂になっていたが、今はその高音が耳障りで仕方なかった。
「ナルキッソスはギリシャ神話に登場する美少年で、見ての通り美しいですよね、自分のことしか愛せなくなってしまった彼は、水面に写った自分の姿に恋をしてしまい、見惚れて動けなくなった彼はその場で死んでしまいました」
教授は、ナルキッソスの死んだ湖畔にスイセンが咲いていたことから欧米ではスイセンのことを『ナルシス』と呼ぶのですよ。と柔和に微笑んで付け足した。
 教授はそのカラヴァッジョが描いたという《ナルキッソス》の絵についての説明を続けた。楕円形の構図、バロックならではの暗い背景に光が射すように描かれた色彩、湖面との対称性。真実性をおびた写実性。
 しかし私はそれどころではなかった。私の触れてはいけない領域に土足で踏み入られた気分がした。通り際にいきなり腹を殴られるような。教授の甲高い声が頭痛を酷くさせる。私は講義室からゆっくりと抜け出した。
 私はいわゆる「ナルシシスト」というやつだ。俗世でいう自信家とか、自意識過剰とか、ぶりっ子とか、そういうものとは決定的に違うと知っていた。
 私は私以外を愛せない。私以上に私が美しいと思う人はいない。今日も私は完璧に美しく、それこそ何時間でも湖面に写った私を見ていられるだろう――それも死ぬまで。
 世界で一番私が美しいのではない。世界で一番私が私の好みなのだ。そこは誤解しないでいただきたい。けれど伝わらないので、私は私の性癖を安易に口にすることはなかった。
 私を抱く人々に私を投影して、私を抱くことを夢見ていた。つまるところ私は性的にも恋愛的にも私のことが一番好きなのだ。

 誰のことも愛することができずに一人で死んでいく。なんて悲しいのだろう。

 講堂を出てキャンパス内をふらふらとあてもなく歩き回った。東京都の中心部にあるというのにここだけは緑が多く空の狭さを感じない。夏の名残の暑さも幾分和らいでいるように感じた。古い校舎の間を歩き、とりあえずはレンガ造りの図書館を目指した。
 図書館の前で、一人の女性が一眼レフのカメラを構えていた。レンズの先には私と同じ年頃の女子学生。きっと同じ大学の学生だ。見たことはあっただろうか。背は私より少し低く、花柄のワンピ―スから伸びる短い手足は少し肉感的で、ギリシャの彫刻のようだった。美しいとは思うが、どうしても惹かれるものがなかった。彼女は遠慮がちに微笑んでポーズを変えていた。
 私はただ立ちつくしてそれを見ていた。他にも野次馬が何人かいたが、それが余計に女子学生の表情を硬くしていたのだろう。
「もうここまでにしよう。ありがとう」
 カメラマンは諦めるようにカメラを下ろした。女子学生もいたたまれなくなって礼だけ言うと立ち去ってしまった。特別グラビアモデルをしている子というわけではなさそうだ。
 野次馬が去っても私はカメラマンの女性から目が離せなかった。年の頃は私の母より幾分若いだろう。黒のパンツに黒のノースリーブのブラウスがクールな印象を与えた。髪はワンレングスのショートカットだった。
私はあのカメラにどう写るのだろう。私が私を美しいと思うのはただの勘違いで、世間的にはブスの部類に入ってしまうのだろうか。好奇心を恐怖心が引き留める。私は私が愛するに相応しいほど美しいだろうか。
 でも私にはこれだけは自信があった。見られることには全く抵抗がないということに。
 カメラマンは機材を担いでため息交じりにこちらに歩いてきた。一刹那、視線が交わる。私は持ち合わせている微かな恥じらいから視線を逸らした。それでも、もう一度彼女を見る。彼女も、私のことを真っ直ぐ見つめていた。
「ねえ君、私に撮らせてくれない?」

 カメラマンの女性と私はコーヒーのチェーン店で膝をつき合わせていた。
 女性――浜口早苗はブラックのアイスコーヒーを一口含むと、私の瞳をしっかりと見据えた。
「なんで、私なんですか?」
「君、他人を恐れるくせに構って欲しい。そんな目をしていた」
 言われてみればそうなのかもしれない。それほど早苗さんの言葉は真実味を帯びていた。
「君――成海さんは何かを秘めている。私には分かるわ。その何かを撮らせて欲しい」
 私の何か。隠して、知られずにいた何か。
 早苗さんはプロカメラマンとして雑誌のグラビア撮影をしている他、休日は街中で人物のポートレート撮影をしていると話した。今までの写真をタブレット端末で見せてもらったが、どれも暴力的なまでに目を引くものばかりで、一方で私が誰にも興味が持てないことを残念に思った。
「まずは成海さんの日常を撮らせてほしい。大学や、家の近くで」
 私は迷っていた。私が暴かれることへの恐怖と、より美しい自分に出会えることへの期待に。
「迷うくらいならやってみない? 君は美しいよ」
「やります」と私は決意を固めないままに返答した。

 週末、鱗雲が狭い空を流れる。私の住むアパートの近くの隅田川の堤防で、私たちは撮影をしていた。
「そう、もっと自然体で。視線こっちに」
 まだ生ぬるい風が磯の香りと混ざって頬を舐めていく。
 衣装は私の私服のカーキのガウチョパンツに半袖の黒いシャツだった。海にほど近い河の潮風に柔らかい生地のパンツがたなびいて、私の足のラインを露にする。西洋彫刻の布の質感のようだ。
 黒いカメラで私の人生は切り取られる。スイセンの花のような私が。
「成海ちゃん、あなた好きな人はいないの? 恋人は?」
 早苗さんが唐突に投げかける。好きな人、私自身だ。誰にも言えないけれど。
「いるのね。いい表情になったわ。そのままその人のこと考えみて」
 早苗さんは満足げにシャッターを切り続けた。
 私は美しく、可愛く、愛おしい。私にとっての最愛の人だ。
 私以上に私が愛せる人はいない。それって酷く孤独なんじゃないか。《ナルキッソス》のように私はこの河辺で一人死ぬんじゃないか。
「成海ちゃん、今、何を考えていた?」
 潮風が私の髪を乱す。酷く切なくて、それでも私は肥大した自己愛を抑えきれずにいた。
「《ナルキッソス》について考えていました」
「ギリシャ神話の?」
 肯定して、私は乱れた髪を耳にかけた。シャッターを切る音がした。
「私は……私は自分のことしか愛せません。私のことが性的に好きでたまらない。それは神が与えた罰なのではないかと時々思うんです。私は湖畔で孤独に死んでいく。私に恋したまま」
 河を覗き込んで私は私を見る。黒く淀んだそれは私の姿を――私が理想とする姿を写してはくれなかった。
「君は天才ね」
 早苗さんのその言葉の意味が私には分からなかった。

 その翌週は、六本木にある早苗さんのスタジオで撮影することになった。いくら容姿に自信があっても、本格的な撮影となるのは初めてだったので幾分は緊張していた。それでも、写しながら早苗さんと対話するこの時間がクセになりそうだった。
「今日はいわゆるグラビア撮影になるけれど、覚悟はいい?」
 私は頷いた。
「成海ちゃんが大好きな最高に美しい君を見せて頂戴」
 スタジオはフローリングの上にダークブラウンの絨毯が敷かれ、簡単なキッチンと革張りのソファーとアイアンフレームの大きなベッド、背丈ほどの鏡があった。土足のままでいいと早苗さんに案内された。
 私は早速早苗さんが用意した衣装に着替えた。セックスするとき用に持っている赤い下着の上に借りた黒いリブニットを着る。空調の利いた室内でもまだ少し暑かった。
 ニットが肌にフィットして私の身体のラインを露にする。真っ白な太ももと黒とのコントラストが眩しくて。私が可愛いって肯定してくれるのは私。
 まずはソファーで着衣のまま撮影した。女性の美しさは曲線だ。蛇状人体とまではいかなくても、身体をひねって美しさを引き出した。
「成海ちゃん、もっと見せて」
 私はさまざまなポーズでカメラを誘惑した。この世で一番美しいと私の本能的な部分が突き動かす。
 体温が上がるのが分かる。息が熱い。興奮している。
深淵のようなレンズが、早苗さんがとらえようとする。この世で一番尊い私を。
パシャリ、とシャッターが私の人生の一瞬を切り取る。

――――ゾクゾクした。

「少し休憩しましょう」
 気付いたら数時間が経過していた。早苗さんがインスタントコーヒーを出す。
 下着姿だった私はタオル地のガウンを着ていた。
「早苗さん、聞いてもいいですか」
 何? と早苗さんはたおやかにコーヒーをすすりながら微笑む。こうして見ると早苗さんも綺麗な顔立ちをしていた。年相応に目尻に皺がうっすら刻まれていても肌の透明度は失われていなかった。身なりに気を付けている大人の女性だった。
「早苗さんは、なんで写真を撮っているんですか?」
「なんでだろうね」と目じりの皺を深めた。
「きっと成海ちゃんが成海ちゃんのことを愛しているように、私も人間たちのことを愛していたからよ」
 その横顔は慈愛に満ちていて、それでいて私と同じ孤独の香りがした。
「私は他人を愛している。レンズを通して見た人間から私を見つけようとしている。でも、この歳にもなって恥ずかしいわね。まだ見つからないのよ、愛する人を」
「私も見つかりません。私以上に私が愛せる人のことを」
 早苗さんは私の髪を撫でた。
 早苗さんも私も、具体的な愛する人が見つからないということには変わりないらしい。早苗さんは人類すべてを、私は私自身を愛している。それのどこがおかしくて、恥ずべきことなのか分からなくなってきた。
「君は天才よ。少なくとも、自分の美しさを自覚しているという面ではモデルとして最適。私も私を見つけたい。レンズを通して、私を、愛を見つけたいの」
「孤独じゃないんですか?」
 ナルキッソスのように、湖畔で死ぬ私を想像するだけでおぞましかった。
「そうね……性愛以外にも人間関係ってあるじゃない? だから私は寂しくないの。寂しくないっていつか腑に落ちる瞬間がくるから。どこで折り合いをつけるかだけれどね」
 私は早苗さんを抱き締めていた。いや、私が抱きしめられたかった。寂しさと向き合いながら私たちは生きていく。

 秋も深まった頃、早苗さんから招待状が届いた。それは小さなギャラリーでの早苗さんの個展のお知らせだった。
 ギャラリーは雑居ビルの地下一階にあり、打ちっぱなしのコンクリートの床が白熱灯のダウンライトに照らされていた。
「よく来てくれたね」
 ストライプシャツにスキニーデニムを合わせたカジュアルな服装の早苗さんがそこには居た。赤いパンプスが光っている。
「私が愛した人たちがここには居るわ」
 壁には都会の街並みと、そこにたたずむ人間たちの写真があった。どれも人の吐息が聴こえるような生きた人たちの姿だ。
――――息が止まった。
 私の内側まで暴こうとする鋭い瞳の女性がそこにはいた。
《あなたは愛を知っているか》と題が付けられていた。
 隣には鏡に頬を当てて、鏡の中の女性を慈しむ女性。自分を愛することを忘れないで、と私に問いかける。
「いい写真でしょ? とくに君」
 私は私を愛していい。早苗さんが引き出した私の本質は私を味方する私の存在だった。
「私、こんなに綺麗だったんですね」
「それは君が一番よく知っていたはずよ?」
「それもそうね」
「そうこなくっちゃ」と早苗さんは私の肩を抱いて頭を撫でた。

 渋谷のスクランブル交差点。人々は流れを作ってうごめいて、逆らうことなく濁流となる。その中で私は一人、立ち止って振り返った。
 パシャリ、とシャッターが切られる。
「あれモデルさん? かっこいい」と女子高生が噂するのが聞こえた。
 私は流されない。私が私を愛してくれるのならば、私は一人でだって生きていける。
「成海ちゃん、今日も最高よ」
「ええ、だって私は」
 私のことを愛しているから。

河辺のスイセン

河辺のスイセン

私は誰のことをも愛せずに死んでゆく この黒い河に流されて

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-05-31

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