幻影心中

幻影心中

 私は椅子に座っていた。
 椅子のすぐ隣には紺色のカバーがかけられたシングルベッド。目を覚ましたマサシさんは身体を起こして小さく伸びをした後、小さな木椅子に座る私に「おはよう、ミカ」と微笑みかけた。
「おはよう、マサシさん。今日はいい天気よ」
 マサシさんがカーテンを開けると薄暗かったワンルームに南向きの窓から光が部屋いっぱいに広がる。舞った埃がちらちら結晶みたいに輝いて二人を祝福するような朝だった。
「マサシさん、早くご飯食べないと会社遅刻するわよ」
 急かすように、椅子の上の私は言う。マサシさんは心底嬉しそうに冷蔵庫から昨晩炊いた白米と納豆と数日前に作り置きしていたひじきの煮物を出して食べ始める。猫背気味に食べるマサシさんの背中が私にはどうも愛しく思えて仕方がなかった。
「行ってきます、ミカ」
「はい、いってらっしゃい」
 部屋の角に置かれた椅子から、玄関を出るマサシさんを見送った。

 カーテンが開け放たれた窓からは、そこから繋がるベランダの先に大きな柳が見える。風が吹くと枝がしなり葉が擦れる音までもここまで聞こえるようだった。その先にはこのワンルームがあるのと同じ四階建ての集合住宅がある。アルコープに等間隔に玄関が並ぶ、古臭い高度成長期に建てられた鉄筋コンクリートの大きな塊だ。開けられない窓から眺めるこの景色は、私をほんの少しだけ寂しくさせた。

「ただいま、ミカ」
 今日は少し不機嫌そうだった。
「なあ、聞いてくれよ」
 冷蔵庫から出した缶ビールを一口飲むと、床に胡坐をかいて椅子の上の私に話し始める。
「今日、同僚の女、なんだっけ、確かタナカとかいうのが俺に『キクチさんって最近素敵になりましたよね。元々、素敵だなとは思っていたのですがさらにというか……よかったら今度食事でも行きませんか?』とか言ったんだ。さも前から好きでした、みたいな顔をしてさ。ミカと会う前の俺のことを陰で嗤ってたことを俺は知っているんだ。わざとらしいくらいにシャンプー匂いをさせてホント気持ち悪いったらないよ」
 マサシさんはもう一口ビールをあおる。
「そう、マサシさん災難だったわね」
「それで誘いを断ったら同期のヒロムに勿体ないだのなんだの言われてさ。あんな女のどこがいいんだ。俺にはミカがいるのに」
「そうよ、マサシさんには私がいる」
「でもやけ酒していないでちゃんとお風呂入りなさい」というと、マサシさんは「ミカがいないと俺はダメなんだ」と笑った。

 その次の日、マサシさんはラブレターを渡す前の学生のような顔をして帰ってきた。もぞもぞとして落ち着きがない。頬を赤らめて目線を右に左にと私を見ようとして見られないといった具合に。
「ミカ、今日は君にプレゼントがあるんだ」
 そう差し出した小さな紙袋の中には、高級ブランドの小さなネックレスが入っていた。細いピンクゴールドチェーンの先には小さな石が光っている。
「昼休みに店の前を通りかかって、ミカに似合うだろうって思わず買ってしまったんだ。気に入ってくれたかな」
「素敵ね。嬉しいわ。でも高くなかったの?」
 マサシさんは私が座る椅子の背もたれにそのネックレスをかけた。
「いいんだ。ミカに絶対似合うと思ったから。とてもよく似合っているよ。ミカの華奢な首にぴったりだ」
 慈しむように見つめ合った私たちは、瞼が重くなるように瞳を閉じて額を寄せ合った。
「ミカ、愛してる」
「ええ、私もよ」
 私に触れようと手を伸ばして、マサシさんは一刹那悲しそうな、寂しそうな顔で手を下ろす。現実というものはマサシさんにとって脅威であるのだと私は知っていた。
 次の日は花束を、その次の日は仕立ての良い青いワンピースをマサシさんは私にくれた。その度に私たちは幸せを分け合って、そしてマサシさんは悲しい顔をした。

「おはよう、ミカ」
 その日は冬の香りがする冷たい雨が降る朝だった。
「なあ、ミカ。どうして俺はミカに会えないんだ?」
 私は何も答えない。
「俺はミカを愛している。だけど、触れられいし、結婚もできない。なんで、ミカに会えない?」
 私は、何も言えなくなっていた。否、マサシさんが何も言わせてくれないのだ。
「返事してくれよ」
「いるよ、私は」
「ああ、いるよな」
「うん、この椅子の上に私はいるわ」
「そう、何があっても」
 ネックレスとワンピースが置かれた椅子の上にマサシさんは崩れるように泣いた。

 私が生まれたのは、本当に些細な思い付きだった。
 当時のマサシさんは陰気で、身なりも不潔で、仕事も新卒で入ったもののうまくいかない人だった。不摂生が続き、小さなワンルームにはゴミが散乱し、休みの日は家から一歩も出ずにベッドから柳が揺れる音を聞いていた。
 だからかどうかは分からないが、これまでの人生で女性に好かれることもなく、むしろ自分のことを陰で悪く言う女性たちに嫌気がさしているほどだった。一生女性を愛することなく終えるのかもしれないとすら思っていた。しかし、マサシさんは寂しかった。心が拒絶していても、元来からの女性への欲はあった。だから話しかけたのだ、部屋の隅に置かれた椅子に。
 最初は馬鹿馬鹿しいとすら思っていた。しかしどこかの国の捕虜がそんなことをして心の安寧を図ったとどこかで聞いたこともあったこともあって、試してみようとマサシさんは思ったのだった。
「おはよう」
 初めてかけられた言葉はこれだった。マサシさんの頭の中で、私も「おはよう」と答えた。マサシさんは自分が何をしているのか分からないといった具合に苦笑してベッドに身を投げて出勤時刻ギリギリまでぼんやりと私のことを想っていた。
 マサシさんが私への挨拶を続けるうちに、少しずつ自分のことを話すようになっていた。
「ミカ、俺は女が嫌いだ。臭くて、うるさくて、悪口が餌なんだ」
「そうね」
「でもミカは違うだろ?」
「ええ、私はマサシさんの悪口は言わないわ」
「俺のこと好きか?」
「大好きよ」
 ふふ、と自嘲的な笑いをそのときマサシさんはした。
 その次にマサシさんが始めたのは、私に見合う男になることを目指すことだった。
「ミカ、今日はゴミ出しをしたよ」
「すごいわね。次は掃除機をかけましょう?」
「ああ、頑張るよ」
「マサシさんは偉いわね」
 それから毎日の髭剃り、自炊、掃除を始め、乱雑としていたワンルームの床が見えるほど綺麗に片付いた。全ては私のため。私に褒められたくて、私によく見られたくて、マサシさんは頑張った。濁っていた瞳は生気が戻り、マサシさんの生活はハリのあるものになった。
 しかしマサシさんは気付いてしまった、姿の無い私を愛し始めてしまったことに。

「なあ、ミカ。愛しているよ」
 愛していると返事しても、それはマサシさんが作った私の感情。マサシさんが欲しい答えを言っているだけ。
「なあ、ミカ、ミカはそこにいるよな」
「ええ、ここにいるわ」
「愛してるよ」
「私もよ」
 そうやってマサシさんは私の椅子に縋り付いて、一緒に揺れる柳の枝がしなる音を聞いた。

 それから何日も、マサシさんは私に話しかけ続けた。
「ミカは何が好き?」
「チョコレートが好きよ」
「ミカの幼いころは?」
「あまり多くはないけれど素敵な友達がいたわ」
「俺の好きなところは?」
「私のことを大切にしてくれるところ」
「ああ、大切に思っているよ」
「嬉しいわ。そのままのマサシさんが好きよ」
「俺もミカのことを愛している」
「世界に二人きりになれたらいいのに」
「ここでは二人きりだ」
「誰もいない私たちだけの世界」
 マサシさんの顔は無精ひげで青くなり、髪も乱れ、腐った卵のような臭いが部屋中に充満していた。カーテンも閉め切られて柳は見えない。昼も夜も分からない日々がどのくらい経過したのか、無限の時を過ごしたかのように私たちは感じた。

 誰もいない私たちだけの世界を壊したのは、けたたましいドアベルの音だった。
 最初は無視していたのだが、何度も何度も鳴らされることが煩わしくて、マサシさんは乱れたスウェット姿のまま玄関ドアを開ける。
 そこにいたのはオフィススタイルのタナカさんとスーツのヒロムさんだった。ドアを開けてやっと気づいたが、今は日が傾き始めた夕刻だった。
「おいキクチ、お前大丈夫なのか? 何日も無断欠勤したと思ったらその有様で。何かあったのか?」
「何もないよ」
 マサシさんは伸びた前髪の奥から二人を異国の民を見るような目で見た。
「何もないわけないじゃない。そんな身なりで。ご飯も食べてないんじゃないの?」
 煩い。とマサシさんは口の中で呟く。
「なあ、何があったんだ。部署のみんなも心配してたぞ?」
「うるさい! お前らに俺の何が分かるっていうんだ! 俺はミカと居られたらそれでいいんだ。ミカさえいればそれでいいんだよ!」
 マサシさんは激高した。ぬかるんだ唾を撒き散らして、喚いて、そしてひざを折って泣いた。玄関のたたきの冷たさが、マサシさんから熱を奪う。ミカ、ミカ、と私の名前を何度も繰り返して。
「ミカって誰?」
 マサシさんの目の高さにかがんだタナカさんが背中をさする。
「この部屋に誰かいるの?」
「ミカがいる。俺の、特別で、一番で、尊い人だ」
 涙と混ざった鼻水が落ちて、冷たいコンクリートに染みを作る。私はマサシさんを抱きしめたくてたまらなかった。
「ちょっと上がらせてもらうぞ」
 ヒロムさんがマサシさんを押しのけ私たちだけの部屋に侵入する。マサシさんはヒロムさんの脚に縋り付き止めようとするが、数日間不規則にカップラーメンを食べただけのマサシさんに男の歩みを止めるだけの腕力は無かった。
「おい、女なんてどこにもいないぞ」
「いる。いるよ」
 マサシさんの声は心が拒絶するように震えていた。
「どこに? キッチンにクローゼットに本棚とベッド。あとはそこに椅子があるだけの部屋じゃないか」
「いるんだよ! そこの椅子に座ってる」
 マサシさんが私の幻影を求めて駆け寄る。足がもつれて椅子の前に跪く。
「青いワンピースが似合って、長い髪が美しくて、澄んだ瞳で微笑んでくれる俺の女神なんだ。ミカは俺を肯定してくれる。俺は、俺はミカを愛している」
 椅子の上には私が足を揃えて座っている。ノースリーブのワンピースからは華奢な腕が伸びて、マサシさんのボロボロの頬を撫でる。
「何を言っているんだ、マサシ。そこにはただの木椅子しかないぞ。お前、大丈夫なのか?」
 マサシさんの瞳がひとつ、まばたきをする。
 そこに私はいなくて、小さな木椅子に青いワンピースとピンクゴールドのネックレスがかけられているだけだった。
「ミカ、ミカはどこだ! ミカ!」
 マサシさんの慟哭が小さな部屋中に響く。枕を投げて、床に散乱したゴミを蹴飛ばして、濁った眼から汁を撒き散らす。
「おい、落ちつけって、マサシ」
 ヒロムさんが止めようとしてもマサシさんはどこにそんな力があったのか、振り払って南向きのサッシを開ける。
 そして、ベランダの柵に足をかけ、四階から落ちた。
 今日が燃え尽きる赤の中でマサシさんの身体は柳の根元でありえない形に曲がり、赤いものが土の中に抜け出ていく。
 意識の遠くで、タナカさんの悲鳴が聞こえた。

「ミカ、愛しているよ」
「これからも、ずっと一緒ね」

幻影心中

幻影心中

私は椅子に座っていた。マサシさんは慈しむように私の頬に触れようとして、悲しく手を下げた。

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更新日
登録日
2020-05-31

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