藤ノ駅

佐倉愛斗

藤ノ駅

 まだ、藤の花の香りが鼻腔に残っている。駅の藤棚から垂れた薄紫が俺の手足を縛っている。濃密で、春の終わりを告げる、残酷な香り。藤の蜜を求める熊蜂の羽音が耳の奥で響いている。煩い、煩いと叫んでも消えない。それだけじゃない。望(のぞみ)の体温も、人体の重みも柔らかさもてのひらに残っている。住宅街を走って、走って、川辺まで来ても、むせ返る葉桜の死の香りが遠くに感じた。葉桜の毒で、草木と共に死ねたらと思った。
 望は俺を愛していると言った。愛する人の手で死にたいと語った。「僕には生きる望みの無い世界だから」と生きることを拒絶した。一般的な人ならば、何とか生かそうとするだろう。それでも、彼女と関わるうちに死ぬことが正解だと錯覚させた。彼女と過ごした一年は、そう思わせるのに十分だった。いや、錯覚ではなく正解なのかもしれない。イエスかノーで決まる世界ではないと知っているはずなのに、命のやり取りはその二者択一に思えるのだ。
 スマートフォンが小さく震える。
「人身事故で本線止まっちゃった。今日デートできないね」
 短いメッセージを読んで、返事もせずスマートフォンを河原のコンクリートに置いた。虚しいほど高い青空を見上げても、まだ藤の房に手足を縛られているようだ。そのまま沼の底まで沈んでいく。無人駅といえども、防犯カメラくらい付いている。いずれ俺は捕まるだろう。そんなことはどうでもいい。望がこれで報われるなら、いや、俺が楽になれるのならば。
 時速百二十キロメートルの特急列車は望の身体を散り散りの肉片に変えた。
俺は、望のことを愛していなかった。そう、これは俺の逃げなのだ。

 望と再会したのは、高校を卒業して、なんとなく周りがそうするように近所の大学に進学したときだった。
 都市型キャンパスで街中に馬鹿みたいに大きなガラス張りの校舎と付属高校と小さな図書館、あとは教授たちの研究室が住宅地の横断歩道の向こうにあるだけの並木道も食堂も生協も存在しない小さな大学だ。証拠に大学の名前はユニバーシティじゃなくてカレッジ。単科のそれはそれは小さな大学。だから再会する確率など同じ大学に入ってしまえばとても高いものなのだと賢い人には分かるはずだ。でも愚かな俺には運命の再会のように思えてしまったのだ。
「りょうちゃん」
 第一声はこれだった。確か倫理学の初回の講義で、俺の理解が追い付かないままに過ぎていく時間に飽き飽きしていたところだった。
「隣、空いてるかな」
 小柄で、長袖のTシャツに白いスキニージーンズ。短い髪に縁どられた幼い顔つきはまさしく望だった。記憶の中の望と違ったのは、ばっさりと切られた髪と、薄く施された化粧だった。
「お前、のんか?」
 幼き頃の呼び名で訊ねると、彼女は顔をほころばせて何度か頷いた。彼女は俺の隣に腰掛けると、花が咲いたように笑った。
「ごめん、寝坊しちゃって遅れちゃったんだ。ノート見せてくれない?」
 囁き声で望は言うが、不真面目な俺はノートなんて取っていなかった。白紙のノートを見せる代わりに配られたプリントをよこす。
 身を寄せる望からは爽やかな甘い女の子の匂いがする。プリントと対峙して歪ませる唇は薄い色のリップクリームで艶やかだった。
 そんなことなど露知らず、望は真面目だった。ノートにボールペンで板書を取っていく。しかし望はTシャツの袖を執拗に伸ばして手で掴んで離さなかった。
「のん、寒いのか? これ着ろよ」
 春にしては寒いよな、といいところを見せたい俺は着ていたデニムジャケットを望の肩にかけた。
「あ、ありがと」
 小柄な望には袖が少々長すぎたが、彼女は心なしか嬉しそうに見えた。そんなに喜ばれたら、男というものは単純なもので、離したくないと思ってしまうものだ。
 だってこれは運命の再会なのだから。

「ジャケットありがと」
 浮足立っていたら九十分なんてあっという間だ。この先、彼女とどうしたいかを考えるのにも足りないほどだ。
「のん、昼食食べに行かね? ほら、ここ学食ないじゃん」
 あー、僕、と言いかけて、彼女は小さくかぶりを振った。
「りょうちゃんとご飯、食べたいな」
 可愛らしい笑顔に、俺は心の中でガッツポーズをした。
「と言ってもこのあたりのご飯屋あんまり知らないんだけどな。油そばでいいか?」
「うん。りょうちゃんとなら何でも」
 建物だけはでかいくせに学食のない校舎を出ると、柔らかな日差しが俺たちを温めた。大通りに沿ってしばらく歩く間、俺たちはぽつぽつと幼いころの話をした。しかし不可解なことに、望についての記憶があまりないことに気付いた。一目見てのんだと分かったのにもかかわらず記憶の中の彼女は、顔も輪郭もない、ただの幼馴染だった。
堀川の心もとない橋を渡っていると、川辺に並んだ桜が美しく、春の訪れに胸が躍った。来年も一緒に見られたらいいなんて俺は完全に浮かれていた。そして望はなぜかこう言った。
「桜って毒を出していて、根元の雑草を枯らすんだよ」

「ここなんだけどさ」
 男だらけのザ・ラーメン屋という風貌に、もう少し女の子が喜びそうなお店があればよかったのにと後悔した。駅前にあんかけスパのお店があったのを思い出し、「やっぱ
別のところにするか?」と尋ねる言下に望は「ここがいい」と笑った。
「こういうの、食べたことないから」
 だよな、と苦笑しつつ、券売機で食券を買った。望は普通盛の玉子のせで、俺は大盛りにした。
「お酢とラー油をかけて混ぜて食うんだぞ」
「へー、なんか、変わってるね」
 茹でられた麺の塊に対峙した望は顔の周りにキラキラしたものを飛ばして俺に微笑んだ。部厚いチャーシューを口に運び咀嚼する姿は小動物を彷彿とさせた。これはきっと「可愛い」という感情だろう。
 食べ終わってから校舎への道、望は静かに話し始めた。
「僕ね、少し前――りょうちゃんと会わなくなった頃から、僕は女の子じゃないって思い始めたの」
 女の子じゃない? 望が?
「なんでそう思うのかは僕にも分からない。髪の毛を切って、男の子の服を着て、『僕』って言ってると落ち着くの。だけど少しずつオトコノコに近づくたびに、余計に僕のオンナノコの部分が見えてくるの。それが嫌で、でも、どうすることもできないんだ」
 俺は少し考えてから尋ねた。輪郭の無い幼馴染の手首には無数の切り傷があったことをラーメン屋で俺は見ていた。メンヘラってやつだろうかと思う程度の知識しか俺にはなかった。
「のんは男になりたいのか?」
 女じゃなかったら男だ。俺の中の二元論がそう言わせた。
「分かんないや。僕は一体何者なんだろうね。もう死んじゃいたい」
 彼女と呼んでいいのか分からない「のん」を俺は抱きしめる。今にも堀川に飛び込んでしまいそうだったから。
 心もとない橋の上。桜の毒に侵されるように俺たちはどちらからともなく手を握った。
「そういえばりょうちゃん、いつもご飯あんな感じなの?」
「うん、まあ。あとはコンビニとか」
「家は? まだ実家暮らし?」
「いや、一人暮らし」
 んー、と望は少し考えて、
「明日から僕が弁当作ってこようか?」
「へっ?」
 思ってもみなかった提案に変な声が出た。
「実はその、僕、今日も弁当持ってきてて……一人分より二人分作る方が楽だから、どうかな?」
「それは嬉しいしいいけど、材料費とかかかるんじゃ」
「じゃあたまに僕と遊んでよ。それでいいよ、りょうちゃん」
 望がそう言うなら、と俺は承諾した。女の子の手作り弁当。飢えた男子大学生が喜ばないはずがなかった。
 それからというもの、望は俺に弁当を渡して校舎内のラウンジで一緒に食べた。家庭的な味付けで、不足しがちな野菜もたっぷりで健康にもよさそうだった。お互い講義は毎日あったものだから、それは月曜から金曜まで続いた。
 ラウンジで堂々と弁当を貰っているわけだから案の定「あの二人は付き合っている」と噂になった。学年にたった百人の大学なのだから高校以上に噂が広まるのが速かった。俺は最初否定していたが、望が否定しないので俺もいつしか否定するのをやめた。
 それからたまに街まで出て遊んだ以外、特筆すべきことはあの日まで起きなかった。

 その日は梅雨が明けた快晴の日で、俺と望は金山にある劇場に来ていた。
「りょうちゃんって歌舞伎好きだったんだね」
 まあな、と答えると望は爺くさい、と揶揄するように笑った。でも望も楽しみにしていたのは誘ったときから知っていたし、俺の好きなモノを知りたいと言ってくれたことが何より嬉しかった。
 今日の演目は『棒しばり』『野崎村』『藤娘』だった。歌舞伎初心者の望は音声ガイドを耳につけて観ることにした。
 最初は緊張していた様子の望も、酒を飲めないようにと棒に縛られた二人があの手この手を使って酒を飲み交わし、ほろ酔い気分で踊り出す『棒しばり』は望も面白かったらしくクスクス笑いながら観ていた。途中で上がる掛け声に驚きもしていたが、だんだん空気に馴染んでいたようだ。
 やりきれないラブストーリーの『野崎村』は何度見てもこの感情をどうしたらいいのか分からなくなる。最後に娘がやりきれなさに大声で泣くシーンは何度見ても胸に来るものがある。一言で言えないからこそ作品として残っているのだろう。
 そして『藤娘』は藤の花を持った女形の演舞だった。俺の大好きな演目。丁度俺たちが生まれ育った町にある駅の『藤ノ駅』を思い出させた。藤ノ駅は地元民からの愛称で、本当は別の駅名が付いている。本線にある無人駅で、鈍行列車しか留まらない小さな駅だ。最高速度に達した快速特急が通り抜ける度、木枠から垂れさがる藤の花が揺れ、その濃密な香りと熊蜂の羽音が常にする。美しくもさびれた小さな俺たちの生まれ故郷なのだ。
 藤の花を持った女性が少女から娘になる。じゃあ望はどうなのだろう。男でも女でもないと言った望は藤娘になれなかったのだろうか。
 そんなことをぼんやりと思いながら、俺はただ美しい女形の舞を見つめていた。
「のん、どうだった?」
 外は鈍色の曇り空だった。傘を握って俺たちは帰路に着く。
「最初はなんて言っているのか分かんなかったけど、面白かった。その、野崎村? は最期泣いちゃった。あと藤娘は『藤ノ駅』を思い出したよ」
「そっか、俺も同じこと考えてた」
 その言葉に望が耳を赤らめた。そんな顔されたら、俺は君を連れ去りたくなる。
「のん、俺ん家来るか?」

「ここがりょうちゃん家かー」
「何のお構いもできませんが」
 大学から徒歩五分程度の住宅地の中にあるアパートの二階。俺の心臓は破裂しそうなくらい高鳴っていいた。俺の部屋で女の子と二人きり。逸る気持ちを抑えて、ちゃぶ台にお茶と常備している煎餅を出す。
「お煎餅常備してるとか、りょうちゃんやっぱり爺くさい」
 ころころ笑う望が可愛くて、俺は後ろから抱きしめた。胸の中にすっぽりと収まる小さなのん。藤娘のように甘い濃密な女の子の香りが鼻腔を埋める。この心音が届いてしまうだろうか。
「りょうちゃん?」
 弱弱しい困惑の声には少しの色が混ざっていて。
「のん、好きだ」
 俺の声はいささか掠れていて、望の肌が粟立つのが分かる。
「りょうちゃん……」
 望の唇はこの世の何よりも柔らかくて、しっとりと甘かった。
「えへへ、ちゅう、しちゃったね」
 望は頬にかかる髪を耳にかけた。潤んだ瞳は俺の男としての本能を刺激する。でも、
「続き、してもいい?」
 臆病な俺はいちいち確認する。それが、仇となった。
「ごめんね、りょうちゃん。気持ちは嬉しいんだけど、りょうちゃんは今、僕のことオンナノコとして見てるでしょ。僕はりょうちゃんの前だけでいいからオンナノコになりたくない」
「そっか……ごめんな」
「ううん、悪いのは僕だから」
 でもこれだけは許して、と俺は望を胸に抱いたまま、しばらくしっとりとした髪を撫で続けた。
「歌舞伎ってさ、全ての役を男がやるんだ。最後の『藤娘』も少女の姿をした男。だからのん、男とか女とかそんなに悩まなくていいんじゃないか?」
 その言葉に望は身体をこわばらせた。
「りょうちゃんは何も分かっていないよ」
 それだけ言うと、帰る、と立ち上がって望は部屋を飛び出した。瞳が暗く光っていたことを俺は見逃さなかった。
「待て、待てってば、のん」
 走って、走って、堀川の橋の上で捕まえる。望の手首は思ったよりざらざらしていた。
「りょうちゃんなら分かってくれると思ってたのに。歌舞伎だって結局は『男』か『女』の二者択一なんでしょ? 僕はそのどちらにもなりたくない。どちらにもなれないの」
 正直分からなかった。男でも女でもない性ってなんだ? テレビで観るオカマタレントとは違うのだろう。でも、望はオンナノコで、俺の運命の人。
「僕は死にたい。ううん、死ななきゃいけないの。死への義務感で頭がいっぱいなの」
 自ら頭を何度も殴りつけて橋の上でうずくまる望の腕を掴んで必死で止める。すると次は橋の柵を超えようとする。むちゃくちゃな行動をする望を抱きとめることしか俺にはできなかった。なんで? なんで望はこんなことするんだ。
「楽にさせてよ。どうしてみんな『好きなことしていいよ』って言うくせに死ぬことは許してくれないの?」
「それは、お前のことが好きだからだ」
「なんで? 好きなら僕の幸せを願ってよ。死ぬことが僕の幸せなんだよ?」
「そうだとしても、俺はのんに生きていて欲しい」
 死ぬことが幸せなんて人の思考が理解できるはずがなかった。でも「生きていればいいことある」なんて軽々しいこと言えるはずもなかった。望は何に苦しんでいるのだろう。分からない。分かることはただ一つ。今の望を一人にしてはいけないということだ。
「のん、とりあえず家に帰ろう。送っていくから」
 日の長くなったまだ明るい午後七時。俺たちは鈍行列車で藤ノ駅に向かった。何本もの特急列車に抜かれ、その度に鈍行列車は俺たちを揺さぶった。望は何も言わなかった。俺も何も言わず、ただ彼女の手を握り続けた。生きて、と俺は無言で叫んで。

 帰宅後、望から「今日はごめん」とメッセージが届いていた。花の無い藤ノ駅は殺風景で、鬱蒼と雑草がコンクリートの間から伸び放題になっていた。俺は家に着くまで気が気じゃなかった。藤ノ駅に着くと望はここでいい、と別れを告げた。そのあとにもしどこかで死んでいたらと思うと、やはり家まで連れていくべきだったと何度も後悔し、浅い呼吸で苦しくなる一方だった。もし、望が死んだら俺のせいだ。死なないで。死なせない。でももし。そんな恐怖とひたすら戦い続けて、たった一言のメッセージで安心したのだった。
 でも、このメッセージの後に死なれたらどうしよう。そう思うと居ても立っても居られなかった。無意味に部屋中をぐるぐる歩き回り、スマートフォンが振動するのを待ち続けた。メッセージのやり取りをしているときだけが望の生存確認ができる。誰か望を止めてくれ。誰でもいいから俺を安心させてくれ。
 望はこの日以降、たまにヒステリックに死にたいとメッセージを寄こすようになっていた。大学で一緒にいるときだけが安心できる時間だったが、望が大学を休むことも増えた。その度に俺は死と隣り合わせになった恐怖で吐き気すらした。そして大学は長い夏休みに入り、望の生存確認はスマートフォンでのメッセージのみになった。
 夏休みは恐怖との戦いだった。バイト中も気になってスマートフォンを肌身離さず持っていた。少しでも望が調子悪そうだとなるべく言葉を選んで励ましの言葉を送った。しかし望は死にたがった。後から聞かされが、俺が歌舞伎の八月公演の間に向精神薬を大量服用して救急車で運ばれたそうだ。そんなこともあっけらかんと報告してくる望が怖かった。望には俺しかいない。俺が守るしかない。俺が。俺が。俺が。

 新学期が始まり、また望と過ごす日々が始まった。望が生きていることを直接見守ることができる安堵感と、見守ることへの精神的疲労で俺はどうにかなってしまいそうだった。「そんなに死にたければ死ねよ」という言葉が何度も頭をよぎった。でも言ってしまえば望は本当に死んでしまうだろう。そんなこと、言えるはずもなかった。
「りょうちゃん……さん?」
 それは後期から始まったグループワーク型の授業でのことだった。
「ごめんなさい、いつもラウンジであの小さな子にそう呼ばれているから。私は西垣(にしがき)彩乃(あやの)。同じグループになったみたいだからよろしくね」
 西垣さんは長く黒い髪の耳より上だけを髪飾りでひとまとめにしていた。特別美人というわけではないけれど、堀の深い顔立ちで眼鏡の奥の切れ長の瞳が凛として美しい人だと俺は思った。
西垣さんは俺と望のことを知っていた。いや、この大学内で俺たちのことを知らない人などいないのかもしれない。一緒に弁当を食べている仲の良い男と女。実際の俺たちを知っている人などいない。望の命を握っているのは俺なのだと。
「えっと、私はなんて呼べばいいかな、ほら、名前」
「あ、えっと、賢木です。賢(さか)木(き)亮(りょう)介(すけ)」
 しどろもどろになりつつ答えた。望以外の女性と話すのは久しぶりだった。
「賢木くんね。よろしく」
 彼女との出会いはこんなものだったと記憶している。そして望は、さらに壊れていった。

「もう無理」
「死ぬから」
「僕なんか死んじゃえ」
 それは夜中一時のことだった。
 望からのメッセージに目を覚ます。望が死にたがるようになってから、俺は微かな通知音でも目を覚ますようになっていた。目が覚めない間に死んでしまって「何もできませんでした。俺は関係ありません」と言えたら楽になるのだろうか。でも俺は、何もせずに望が死んでしまうことが怖くて、ただ怖くて目を覚ましてしまう。
「死なないで」
「のん」
「今から行くから」
 ベッドから飛び起きてメッセージを送る。雨粒が窓に激しく打ち付けられて世界中が泣いているようだった。
 スマートフォンが震える。
「やだ」
「来ないで」
「ひとりにして」
「僕なんかひとりぼっち」
「僕は死ぬの」
 望は一人にしないでとメッセージを送ってくる。得も言われぬ恐怖で。泣きたいのは俺の方だ。
「じゃあ布団に入れ」
「ゆっくり寝ろ」
「のんには俺がいる」
「通話するか?」
 冷静に、冷静にと俺に言い聞かせて。
「話せない」
「やだ」
 寝不足と画面の明かりで酷い頭痛がした。望、死なないで。楽になりたい。楽にさせて。お願いだから寝ていて。そして、
「早く寝て、俺に弁当作ってよ」
 望からのメッセージが途絶えてから、一時間は眠れなかった。雨は上がり、白んだ空が憎かった。小鳥の囀りさえも煩わしかった。

「賢木くん、今日元気ないね」
 午後のグループワーク後、帰るのも億劫で教室に残って項垂れていると、西垣さんが俺の背に触れた。
「西垣さん、ありがとう。ちょっとね」
「お姉さんがお話聞いてあげようか?」
 グループワークの中で知ったのだが、西垣さんは一年留年していた。理由を聞くと、期末試験日に高熱を出して受けられなかったそうだ。その病弱さはまだ治っていないらしく、グループワークも出席日数ギリギリであった。
「もしかして、のんちゃんのこと?」
 西垣さんがそう耳打ちする。俺が望のことをそう呼ぶから、彼女もそう呼んだ。それだけなのに、その「のん」という存在が今の俺にとって一番の恐ろしいものだった。
 俺が小さく頷くと、西垣さんは俺の手を引いて立ち上がらせた。
「一人で抱え込まないでね」
 西垣さんの言葉に、俺の瞳が湿度を持った。このとき望が教室の外にいるとも知らずに。

 校舎の最寄り駅、線路を渡ったところにあるチェーン店のカフェに俺と西垣さんは向かった。川の匂いが冷たい。川沿いの桜の葉は水底(みなそこ)に沈んでいた。白んだ空に名前の分からない小鳥が群れを成している。俺はいつから一人なのだろう。いや、望はいつから一人なのだろう。俺以外の人と一緒に居るところを見たことが無い。俺がいなくては。そう思うだけで喉の奥が詰まって苦しかった。
「賢木くん、何にする?」
 カフェのカウンターで西垣さんに問われるまで、俺はずっと無口でいたことを知った。
「こういうところ来たことなさそうだね、賢木くんって」
 西垣さんが眼鏡の奥の瞳を細めて揶揄する。
「はい、ないです」
「甘いのと甘くないの、どっちがいい?」と話した末、俺はホットの抹茶ラテ、西垣さんは使い魔を召喚する呪文のような名前の甘そうなホットドリンクを頼んだ。たっぷりのホイップクリームの上にはキャラメルソースがかかっている。
 窓際のテーブル席で膝を突き合わせる。両手でマグカップを持つ彼女はたおやかな大人の女性という雰囲気があった。その華々しさとか弱さに俺は恥ずかしくなって抹茶ラテに口を付ける。抹茶の仄かな苦みよりミルクの甘さの方が強かった。
「さてさて、賢木くんは何にお悩みなのかな? 私の予想だと差し詰め、望さんのことだと思うけれど」
 その通りだ。でも、この苦しみを認めたくなくて舌が動かなかった。
「賢木くんと望さんって付き合っているの?」
 しばらく考えて出た言葉は「わからない」だった。
 西垣さんは耳を触って、悩む。
「そもそも二人はどんな関係だったの?」
「俺たちは幼馴染で、小学校までは同じだった。それから望は親の転勤でどこかへ行ってしまって、それで今年の春に再会した感じです。それで、のんがお弁当作ってこようかって言ったのが最初です」
 西垣さんは頷きながら時折マグカップを口に運んだ。
 それから俺はタガが外れたように話した。毎日一緒に弁当を食べること、望が男でも女でもないと話すこと。望が死のうとすること。それで夜通しメッセージが届くこと。
「――――俺はもう、のんと居るのがつらい」
 そこまで話したとき、俺の瞳から何かが落ちた。こらえようとしてもとめどなく落ちるそれは俺の悲鳴だったのかもしれない。
「そうかそうか」
 西垣さんはミントブルーのハンドタオルを差し出した。この人は俺を助けてくれる。藁にも縋るような思いだった。
 母親のような香りのするタオルに俺は嗚咽した。みっともないだろう。それでも止まらなかった。
「ごめんなさい、洗って返します」
 取り繕うように言うと、西垣さんは俺の髪を撫でた。
「今までつらかったのね。話してくれてありがとう。望さんのことはまた少しずつどうしたらいいのか考えていきましょう?」
「はい」
 さめた抹茶ラテは舌触りが悪くて、少しの塩気を感じた。

 それからグループワークの日の帰りは西垣さんと望の話をするようになった。ちょっと付き合って、と名古屋まで一緒に出ることもあった。一緒に美味しいものを食べて、面白いものを見て、笑いあった。西垣さんと一緒にいるときだけは俺は望のことを忘れられた。きっと西垣さんの心遣いだろう。
 そしてグループワーク最終日、クリスマス。発表を終えた俺たちは打ち上げから抜け出して俺の家に二人でいた。
 一人暮らしの男の家で男女がすることなど、ひとつしかなかった。
 眼鏡をはずした西垣さんは恥ずかしいと耳まで紅く染めた。そんな彼女を可愛いと俺は思った。

 年が明けて、期末試験のみの登校となった。
 西垣さんとなかなか会えないことを寂しく思いながら、いつものように望の手作り弁当を食べる。今日の玉子焼きにはあおさ海苔が入っていた。
 俺は意を決して切り出す。
「なあ、のん。お前、病院とかいかねーの?」
 望の箸が止まる。
「その、精神的につらいこととかさ、専門のカウンセラーとか医師に話した方がいいと思うんだ」
「その話、あの女と話して決めたの?」
 冷たい声に俺の背筋に痛いものが走る。
「ねえ、今日りょうちゃん家行っていい?」
 俺にノーと言う勇気はなかった。

 午後の試験を終えると、教室の入り口で望は待っていた。
「りょうちゃん、行こ」
 俺を掴む望の手は冷凍肉のように冷たかった。
 校舎を出ると雪がちらついていて、凍える風が鼻先を熱くした。校舎からアパートまで五分間。世界から音が消えたように感じた。望の震えは寒さなのか怒りなのか俺には分からなかった。
 アパートの二階、ドアを閉めると望が背中に抱き付く。小柄な望の頭は俺の肩甲骨のあたりに収まる。
「りょうちゃん、りょうちゃんはもう僕のこと嫌い?」
「そんなわけないだろ」
「あの女より好き?」
「西垣さんは今関係ないだろ」
「ねえ、えっちしよ。りょうちゃん」
「は?」
「してるんでしょ? あの女と」
 後ろから、鼻をすする音が聞こえた。振り返えると幼いのんがいた。
 俺はしゃがむと望の短い髪に指を通し、震える唇に口を合わせた。
「りょうちゃん、りょうちゃんは僕のものでいてよ。僕はりょうちゃんのものになるから」
 俺はそのまま望を抱きしめ、畳に寝そべった。結露した水滴が窓を伝う。
「大丈夫、俺はいなくならない。だからのんも前に進もう? 一緒にいるから」
「怖い、怖いよ。りょうちゃんに見捨てられたらどうしたらいいの? ねえりょうちゃん、えっちしよ? お願い」
 望の唇が俺の首筋を撫でる。望の甘い、藤のような香りがする。藤棚から垂れる薄紫の房。縛り付けられる。俺の身体が。
「のんはそうやって誰にでも股を開くのか?」
 望は眉を歪ませて、女の子だから、と小さく言った。
 男でも女でもない。そう言ったのは望だ。でも、メスである事実は変えられない。メスであることを望は利用している。そんな望を気持ち悪く思うと共に、そのか弱さを滅茶苦茶にしてやりたいとも思った。
 望はコートとセーター、肌着を順番に脱ぎ捨てると、無地の黒いタンクトップ姿になった。前かがみになると確かな膨らみがちらつく。望はブラジャーをしていなかった。そして露になったのは。
「のん、その傷」
 両腕にびっしりと何かで引搔いたような傷が無数にできていた。白い筋となったものもあれば、まだ真新しいかさぶたからは血が滲んでいた。
「これ? 僕のこころの傷だよ」
 何がここまで望を傷付けたのだろう。俺も望を傷付けているのだろうか。
 俺は起きあがって望を抱きしめた。
「ごめんな、のん」
「なんでりょうちゃんが謝るの?」
「分からん。多分、のんが『死にたい』って言うのと同じで、自分では理解できない範疇の話だよ」
「うん、僕も何で死にたいのか分かんない。でも、頭の中で死ななきゃいけないって声がするの。お前に存在価値はない。早く消えてしまえって」
 これ以上言わせたくなくて、俺は望の口を塞いだ。望は唾液まで甘い。そんな錯覚すらした。
「りょうちゃん、僕」
「誘ったのはのんだよ? 続けるの?」
 望は恐怖と好奇心で揺れる瞳で頷いた。
 俺は望を抱きかかえて万年床と化している布団に優しく寝かせた。
 一糸まとわぬ姿で抱き合う。小さな、傷だらけの、幼馴染。太ももにもいくつか切り傷があった。その「こころの傷」たちに俺は口付けを落とす。共に向き合うために。しかし傷だらけの幼馴染に俺はもう一つ大きな傷をつけた。女の子の、一番大切な性に。

「りょうちゃん、まだ痛いよ……こんなに痛いとは思わなかった」
「結構出血したしな。大人しくしてな」
 灯油ストーブの延長を押して狭い布団の中で抱き合った。俺は暑くてたまらないが、のんにとっては寒いだろう。
「ねえ、りょうちゃん。昔話していい?」
 俺の腕の中で望が語り始める。
「僕ね、お父さんの転勤で新潟まで行ってたの。でね、僕は男女の差が理解できなかったんだ。みんな人間で、ちんちんが付いてるかどうかの違いくらいしかないと思ってたの」
 俺もそう思っていた。けれど、男は男で、女は女。その事実を変えられやしないと望に会うまでは思っていた。いや、今も思っているかもしれない。
「だけど、社会としての男女の溝は深くて、僕はそのどちらにも適応できなかった。異端児の末路って分かる? 案の定イジメという名の暴力に遭った。でもそれも当然なんだ。悪いのはみんなと違う僕で、男にも女にもなれないことが中学校という小さな社会の中での悪だったんだ」
 そんなことは、と言いかけてやめた。俺も幼いころなよなよした男子を「オカマみたいでキモイ」と嗤っていたことを思い出したからだ。無知は恐ろしい。こんなにも人を傷付ける。「俺は知りませんでした」で人を殺めることがある。腕の中のボロボロの幼馴染は人々の無知によって傷つけられた。でも、俺は望のことを理解できているだろうか。
「ねえ、りょうちゃん。僕を殺してよ」
 その声は切り出した氷のように鋭利で、透明で、冷たくて、美しかった。
「それはできないよ」
 もし望が死んだら俺は、
「望と生きていたいよ」
――――楽になれる。
「りょうちゃんも嘘が下手だね」
 望は俺の腕の中で小さくなって眠った。
 望のことを愛してなどいない。殺したという罪悪感から逃げたいだけ。同情と薄っぺらな倫理観と正義感。そんなもの、もういらない。
「分かった。俺が望のこと殺すよ」
 聞こえていただろうか。望は寝息を立ててそこに確かに生きていた。

「賢木くんってずるい人ね」
 大学生の長い春休み。春と言ってもまだ外を歩けばつま先が凍みる真冬だ。
「こうやって私とも関係を続けてるんだもの」
 絹肌を伝う汗をシーツで拭って、サービスの水を、喉を鳴らして彼女は飲む。
「賢木くんって断れないタイプだものね」
 平日のラブホテルで格安のフリータイムを満喫するというのは大学生ならではかもしれない。
 細く白い躯体をあらわにする西垣さんは性の気だるさに寝転ぶ俺の髪を撫でる。
「結局、望さんとはどうなったの?」
 言葉に詰まりながら俺は答えた。
「藤の花が咲いたら殺すことにした」
 西垣さんは「そう」と無感情に答えた。

「俺がのんを殺すよ」
 あの後、起きた望に伝えると、望は一刹那悲しい顔をしたあと、いいの? と今度は喜びと疑念を押し付けてきた。
「望は死ぬことが喜びなんだよな?」
「……うん。死ななきゃいけない。この世界に生きる望みはないから」
 望は泣いていた。喜びではなく苦しみで。本当は死にたくないって言ってくれたらいいのに。なんで死ななくてはならないのだろうか。不治の病なのか。つられて俺も泣いた。生きていて欲しい。でも一緒に居ることがつらい。このまま死にたがっている人間と一緒に居続けることがつらくてたまらない。
 これは俺の逃げだ。

「へぇ、藤の花が咲いたら望さんは死ぬのね」
 西垣さんは俺の肩に身を寄せた。しっとりとした素肌が吸いつく。
「なかなかにロマンティックなこと考えるのね」
「俺たちの生まれ故郷にある駅に藤の花がたくさんあるから。それに、あの駅は特急が通過する。そこに望は身を投げる。俺は望の身体を押して見守る。調べたんだけど、嘱託殺人って言うらしい」
「ふぅん」
 西垣さんは少し眠そうだった。身体を重ねる度に思う。この人は本当に強くて弱い人だ。
 こんな俺のことすら肯定してくれる。同情じゃなく、心からの支援。俺の逃げを知っていて受け止めてくれる。
 身体の弱さはあっても、心の強さはある。
 そんな人がいたら、俺は甘えてしまいたくなる。

 川沿いに桜が咲いて、散った。薄紅色の川は海までつながっている。
 俺達の命はどこまで続いているのだろう。行き着く先は雄大な海。
 望の命も、大きく何もかもを飲み込む世界に溶けていくのだろうか。

 この日まで、俺と望は望のやりたいことをできるだけ叶えた。
 少ないバイト代で東京という名の千葉まで遊びに行ったり、美味しいご飯を食べたり、もう一度歌舞伎も観た。
 死ぬことが決まっている望は以前よりずっと晴れ晴れとした表情をしていた。俺は悲しくなるばかりだった。
 そしてその日、俺らは藤ノ駅にやってきた。

「少し町を歩いてみないか?」
 俺は望の手を引いて改札を出た。
都会の田舎。そんな言葉が似つかわしい住宅地。交通の便が悪い町は大体そう呼ばれる。狭い土地に小さな家がひしめき合っていて、割れたアスファルトから芽吹く草花が春の訪れを告げていた。
「昔、よく一緒に遊んでいたのに、どこで遊んでいたのか分かんないな」
「うん。多分道路の端とか互いの家とかだったんだよね」
 世界は変わる。俺の見方が変わるから。少しだけ視線が高くなるだけで、少しだけ大人になるだけでこんなにも変わる。
「りょうちゃん。遺書はちゃんと僕の部屋に置いてきたよ」
 俺の顔を見上げてにっこりと笑う望が恐ろしかった。
「なあ、のん」
「りょうちゃん、今更やめるとかナシだからね」
「どうしても死ななきゃいけないのか?」
「うん、どうしてもだよ」
 望はつま先立ちになって俺に口付けをした。
「契約のキスだからね」
 行こうか、藤ノ駅に。

 藤ノ駅はむせ返るほど甘い香りがした。薄紫の房が幾重にも重なって、蜜を求めて熊蜂が集まっている。慣れ親しんだ、俺たちの生まれ故郷。
「特急が来るまであと少しだね」
 俺は舌が動かなくて頷くことしかできなかった。
「りょうちゃん、ありがとう。大好きだったよ」
 なんで、なんでそんなこと言うんだ。視界が歪んでいく。
「りょうちゃん泣かないで。こんなに愛してくれてありがとう」
 違う、違うんだ。
「それじゃあ、もうすぐ来るね」
 俺が望を守れなかったんだ。
 望はペンキが剥げたホームの端に立つ。遠くに列車の汽笛が聴こえる。
 望の胸に手を当てた。望の鼓動は最期まで規則的に波打っていて。抱き寄せることを俺は拒んだ。

「じゃあね、りょうちゃん」

 俺らを乗せない列車は時速百二十キロメートルで藤の房を揺らし、望の肉片を散らした。ふわりと、甘く、鉄の匂いがした。

 走って、走って、葉桜の下、西垣さんからのメッセージを読む。
「今日だったのね、望さんを殺す日は。そんな賢木くんのことが――」

 好きよ。

藤ノ駅

藤ノ駅

俺らを乗せない列車は時速百二十キロメートルで藤の房を揺らし、望の肉片を散らした。 ふわりと、甘く、鉄の匂いがした。

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更新日
登録日 2020-05-31

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