名前のない色

名前のない色

 一日目。神が「光あれ」と言うと、暗闇だった世界に昼と夜が、「色」が世界に生まれた。

「なあ三好、お前ってどっちなの?」
 冬の世界は色を失い、真っ白で、僕の色を鮮やかに映し出す。
 高校の物理室での授業後、僕と級友数人でそのまま談笑を続けていた。ストーブの油と鉄が焼かれる臭いがまさしく冬って感じで嫌いじゃない。僕の脚を包むタイツの黒は、腰掛けた机の天板の無機質な黒とは違って艶めかしい黒だ。
「どっちって、何が?」
 脚を組み替えながら男子生徒に訊き返す。少しスカートがまくり上がるようにするのがコツだ。ほら、視線が一瞬下がった。
「三好って女の子なの? 男の子なの?」
「さてね。真実はこのスカートの中さ……見たい?」
 ちらりと赤いチェックのプリーツスカートをめくってみせれば慌てるが、でもしっかりと僕の脚の奥を見ようと視線を逸らさない。
「ちょっと男子。アキナちゃんにセクハラしないの。あんた達と違って女の子なんだから」
 セクハラしていたのは僕だけどね。教室の去り際にそう声をかけた女生徒は男子に熱視線を送ってから、僕を睨み付けた。なるほど、嫉妬か。
「ありがとね、加納さん」
 僕の方が君よりずっと可愛いけどね。
 僕が微笑むと女生徒――加納さんは顔を赤らめ、逃げるように物理室から出ていった。
「じゃあ僕は補習あるから、またね」
 名前も覚えていないような男子生徒に携帯の番号を書いた紙を渡すと、彼は喉をごくりと鳴らして頷いた。

 ホント、世の中ちょろいよ。

 中学を卒業してから伸ばした長い髪を揺らして廊下を歩く。女にしては高すぎる身長。女にしては細い脚。女にしては華奢な腰。そして男にしては美しすぎる顔立ち。何もかもがアンバランスだからこそ生まれる美貌を僕は持っている。その美貌は価値になる。廊下を歩くだけで視線が集まった。羨望、嫉妬、性欲。すべての人の欲が僕に向けられている。
 なんて気持ちいいのだろう。

「川ちゃんいるー?」
 僕は物理準備室のドアをノックもせずに開けた。
「なんだ、三好か。あと川本先生な」
 この部屋の主である物理教師の川ちゃんは、緑のマットの敷かれた机に向かって小テストの採点をしていた。いつから洗濯していないのか分からないような白衣に、いつもと変わらないシャツとスラックス。無精ひげを生やした顔には生気がない。川ちゃんは赤のサインペンを動かす手を止めずに僕を一瞥した。
「三好、お前またそんな格好して」
「似合っているでしょ? 冬はやっぱりニットカーディガンだし、その裾から数センチ見せるだけのミニスカートには黒タイツが一番」
「そうじゃなくて、お前は男子だからスカートなんて履くんじゃない」
「嫌だよ、川ちゃん。それじゃあ僕が僕じゃなくなっちゃうじゃない。学校はいいって言っているのに、川ちゃんはカタブツだ」
 拗ねた声を出して僕は準備室の本棚に置かれた物理の参考書を手に取る。以前に読んだ波動方程式の本だったが気にせず川ちゃんの横で広げた。明朝体の文字列の横に川ちゃんが残したメモ書きを発見して、僕はたまらず微笑んだ。
「三好は、性同一性障害なのか?」
 採点を終えた川ちゃんが訊いた。
「さあ? そんな診断知らないよ。第一、僕のアイデンティティをなんで医者が診断しなきゃいけないわけ?」
 僕が嘲笑すると、川ちゃんは困ったのか顎の無精ひげを掻いた。
「川ちゃんにはどうせ分かんないよ」
「だろうな」
 こういうさっぱりしたところが川ちゃんらしい。川ちゃんはシャツの胸ポケットから煙草を取り出すと引き出しのマッチで火をつけた。煙の臭いが鼻に沁みる。
「川ちゃん、校内は禁煙だよ」
「ここは俺の部屋だ」
「じゃあ僕にも一本」
「それはやらん」
 川ちゃんのケチ、と頬を膨らませたが、すぐに僕は笑いだしてしまった。
 しばらく笑っていると、ポケットのスマートフォンが震えた。見ると知らない番号からの着信で、誰なのかはすぐに見当がついた。
「出ないのか?」
「校内はスマホ・ケータイ禁止じゃなかったの?」
「ここは俺の部屋だ」
「そっか」
 でも僕は電話に出なかった。川ちゃんとの時間を邪魔するなんて、ちょっと減点。
 もう下校時間だ、と川ちゃんに追い出されるまで僕はずっと物理準備室に居た。

 冬の家は冷たい。でも僕の家はいつでも冷たい。
 帰宅すると母が、あっちゃんお帰り、と出迎えた。
「あっちゃん、少し遠いのだけれど評判のいい病院を見つけたのよ」
 煩い、と口の中で呟く。
「あっちゃんは、あっちゃんらしくしていいのよ。そういう『病気』なんだから」
「うるさい!」
 母は続けて何か言いかけたが、僕は叫んで自室の部屋のドアを音を立てて閉めた。
 川ちゃんにも訊かれたが、僕はそんなビョーキじゃない。自分がそうだと気付いたときに嫌になるほど調べたが、僕は絶対に女になりたいとか、生まれ持った男の体が死ぬほど嫌だとか、そんな大それたものじゃなかった。「女」である僕の方がしっくりくるし、女である僕に向けられる欲や視線が気持ちいいだけだ。母はそれ大げさに周りに言い、僕を女子生徒として通わせてくれるよう高校に直談判した。スカートで登校したかった僕にとって都合はよかったが、母は僕を悲劇のヒロインにしたがったようで不快だった。
 さっきの番号に折り返し電話をかける。予想通り、さっき落とした男子生徒だった。
「電話ありがとう。で、いつがいいの?」
 僕の生きがいは、この美貌で落とした男と寝ることだった。

 セックスの約束をしてリビングに降りると、しばらく見なかった男の姿があった。
「お父さん」
 僕の声に振り返ると、父は目を大きく広げ、そして激高した。
「アキナ! またチャラチャラ女みたいな格好して! 一族の恥だ」
 僕の胸倉を掴む父を止めようとする母の口から出た言葉は「アキナは病気だから」だった。
 僕はひたすら黙って父を睨んだ。父は仕事が忙しいと言って家に帰らないくせに、たまに帰宅すれば僕や母に暴力を振るう人だった。そんな父のことも母のことも、僕は大嫌いだった。
「なんだ、その目は。この変態が、髪なんか伸ばしやがって」
 父が僕の髪を掴んだ。痛みに目の前がチカチカする。
「痛い。離して、お父さん」
「男が長髪なんて不潔だ」
 父は手元にあったハサミを手に取る。
「やめて、やめてお父さん」
 父は僕の長い髪を雑草かのように容易く切り落とした。パラパラと髪が落ちる様に僕は絶句した。四肢を切り落とされたような衝撃に涙があふれるのを、歯を食いしばってこらえた。誰がこんな親共の前で弱みを見せるか。
「なんてことするの! アキナ、もう部屋に戻りなさい」
 部屋に戻ってやっと大声で泣いても、父の怒号と母の泣き声はずっと聞こえていた。

 翌朝、父に切られたところに合わせて、髪を短く切りそろえて登校した。
 ショートへアーも悪くない、と鏡の前で言い聞かせたけれど、さらさらの長い髪は僕を象徴するアイデンティティだった。僕の中からピースが一つ欠ける。その一つが無ければもう僕ではない。廊下で僕にかけられた言葉や視線は全て僕を見下し憐れんだものに感じた。
「三好」
 昨日落とした男子がばつが悪そうな顔で話しかける。
「その……やっぱり、俺、無理だわ」
 消え入りそうな声で、なんでと問う。
「だってお前のこと、男にしか見えないんだ」
 ガラガラと視界が崩れる。
「悪いな」
 立ち去る男の背中がゆらゆら揺らぐ。
 悔しい。悔しい悔しい悔しい。なんで僕は女じゃないの? なんで誰も僕のことを見てくれないの? なんで、なんで、なんで。

 美しくない僕に、生きる価値なんてない。

 僕はとぼとぼと席についた。誰も僕に近づきやしない。羨望も嫉妬も、今は勝ち誇った憐みの顔。イメチェンしたの? なんて聞いてくれた加納さんも、どうせ笑っているはずだ。
 今日は、物理の授業ないのか。

 放課後、物理準備室に向かった。
 川ちゃんは僕を一瞥したが、何も言わずに授業プリントを手書きで作っている。僕を見てどう思っただろうか。無様だと川ちゃんも笑うのだろうか。
「川ちゃん、僕さ」
 川ちゃんは何も言わない。
「もう生きていたってしょうがないよね」
 沈黙が僕の膨らまない胸を刺す。骨ばった腕も、目立ってきた喉も、かすれた声も。全部が憎らしい。どうして僕はこんなに醜くなってしまったのだろう。
「ごめん、帰る」
 川ちゃんまで失ったら僕はどうしたらいいのだろうか。

 繁華街を歩く。ミニスカートが夜風にたなびく。僕は何がしたいのだろう。
「そこのお嬢さん、家出?」
 小太りの男に声をかけられた。顔が脂ぎっていて清潔感がない。目線は僕のスカートと黒タイツの足に向いている。
「おじさんが一晩泊めてあげようか?」
 どうせそのあたりのラブホテルだろう。そして僕の体を対価として求めるのだ。しかしそれも悪くない。抱かれたい。醜い僕なんて汚らしいおっさんに滅茶苦茶にされればいい。僕を必要としてくれるのなら誰だっていい。でも願うなら――
「三好アキナ!」
 ビックリした。白衣をトレンチコートに着替えた川ちゃんが息を切らして僕の名前を呼んだのだ。走ってきたのだろう、乱れた熱い息は白くなり、それを整えようと川ちゃんは前かがみに膝に手を乗せた。
 おっさんは舌打ちをすると面倒ごとになる前にとどこかへ行ってしまった。
「川ちゃん……何しているの」
「いいからこっちこい」
 初めて繋いだ手は、ごつごつとして少し冷たかった。

 品のない豪華な装飾の部屋に川ちゃんと来るのは初めてだった。もっとも、会うのはいつもあの物理準備室だった。壁際の本棚にびっしりと並べられた物理の本とプリントのファイルを読むだけの毎日が僕は好きだった。でも今は閉じ込められた性の空間に一緒に居る。願っていなかったわけではないが、思ってもいなかったことに驚いている。部屋の殆どを占めるキングサイズのベッドに僕は腰掛けていた。川ちゃんはコートを脱いで向かいの小さなソファで黙り込んでいる。
「川ちゃん、僕とする気になった?」
「馬鹿野郎っ!」
 川ちゃんが怒る顔を初めて見た。
「野郎はよしてよ」
 僕が苦笑してみせると川ちゃんははっとして、すまん、と言った。
「どうして川ちゃんがこんなところにいるの? 想像できない」
「三好があんなこというからだろ」
「そっか」
 喉の奥が熱くなって、視界が潤む。
「なあ、三好。俺にお前のことは分からん。でもお前はお前だろ?」
「そんなこと言ってもさ、川ちゃん。僕には僕が分からないよ。僕は女になりたいの? この先手術して注射して、そうやって女の子もどきになるの? 戸籍変更したって僕が男に生まれた事実は変わらないんだよ。こんなキモチワルイ僕をどう許したらいいの? 美しくなかったら僕はただのキモチワルイ変態なんだよ」
 川ちゃんは立ち上がると、僕を抱きしめた。
「お前がお前を許さなくてどうする。お前が味方にならないでどうする」
「僕はまだ……許せないよ。この身体に生まれたことも、これから生きていくことも」
「なら許せるようになるまで泣けばいい」
 川ちゃんの腕の中はあったかくて、今まで僕を抱いた人となんて比べるのは失礼だとすら思った。親の前でも、友人の前でも、誰の前でもこらえてきた涙がぼろぼろと落ちる。しゃくりあげる息が苦しくて、川ちゃんの背中にすがるように腕を回した。僕が眠るまで、川ちゃんは僕の傍に居てくれた。

 目が覚めたのは何時だったのだろう。川ちゃんは気を使ったのかベッドの逆の端で眠っていた。むこうを向いた顔を覗き込むと無精ひげがいつもより伸びていて、少しばかりしかめっ面の寝顔が愛らしい。
 寂しくなって、川ちゃんの背中におでこを押し当てた。一人で眠ることが怖くて仕方なかった。
「三好……? 起きたのか」
 振り返った川ちゃんの顔が目の前に来て、僕はどぎまぎしてしまう。
「川ちゃん近い」
「なら三好が離れろ。こっちはもう端だ」
「じゃあいい」
「そうか」
 一緒に寝ているというのにそっけない川ちゃんの腕に潜る。
「三好、光と色の関係について知っているか」
「なぁに、ここでも物理の授業?」
「光に照らされて初めて、物体の色を認識できる」
 僕はあの本棚に並べられた中の光学の本を思い出す。
「イブン・アル=ハイサムだっけ?」
「そうだ。そしてニュートンは光の分散で生まれる虹のことを『空にかかる音楽だ』と言った。光の波長の違いで色が生まれる」
 川ちゃんは一呼吸おいて、続けた。
「人はそれぞれ色がついている。でも赤とか青とか、皆がそんな分かりやすい色をしているわけではない」
「名前を付けるのは便宜上でしょ?」
「でもその名前のついた色から漏れて苦しんでいるのがお前だ」
 川ちゃんの言葉に僕は息をのむ。そうだ、僕は名前のない色だ。男でも女でもなくて、どっちつかずで、名前なんて分からない。
「お前にはお前の色がある。その色がどんな色であっても、元はプリズムで分けられたひとつの光だ」
 光の子として歩みなさい。昔、誰かに言われた言葉を思い出す。
「川ちゃんもいいこと言えるじゃない」
「煩い」
「じゃあさ、川ちゃんは誰とでもこんなことするの?」
「するわけないだろ」
「じゃあ、期待してもいい?」
「期待されても、お前はまだ高校生だ」
「やっぱり川ちゃんはカタブツだ」
 ふふ、と笑うと胸のつかえがスッと取れたような気がした。川ちゃんの匂いと体温が傍にあるというだけで僕は幸せだった。
「先に飯でも食ってから学校行け。俺は後からでいいから」
 ありがとう、と僕は川ちゃんの腕の中で呟いた。
「また俺の部屋で待ってる」
「待ってただなんて知らなかった」
 顔を上げると真っ赤になった大好きな人の顔が、そこにはあった。

名前のない色

名前のない色

三好アキナはスカートを履いて学校へ通う男子高校生。 ――美しくない僕に生きる価値なんてない。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2020-05-31

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