ゆらりのからだ(冒頭部試し読み)

 私は透明な壁にかこまれた部屋で暮らしている。壁の外のようすをおしえてくれるのはねえさんだ。ねえさんは壁にぴったりくっついて、低くておちついた声で話す。頬のあたりがむぎゅうとつぶれているのがかわいいのだけれど、教えない。ねえさんは私のほうがかわいいという。
 私はじぶんの姿を見たことがない。
「夜、遅くまで起きていてごらん。この壁にあんたの顔が映るよ。初めては、これが自分だとは思えないかもしれないけどね」
 ねえさんはいつものように、頬をつぶして話した。
 その日の夜、眠い目をがんばって開けて、まっくろな壁を見た。私と同じ動きをする、不思議ないきものがいた。ねえさんとも、他のなかまたちとも違う見た目だ。
 初めて見るじぶんの姿は、かわいいとも、ぶきみだとも思わなかった。納得が、いちばん近い気持ち。悲しい、でも嬉しい、でもないのが、不思議だった。
 翌朝、ねえさんにこのことを話した。
 私は、誰とも似ていないのね。
「そう、あんたは誰とも違うんだ。冷たい海で生まれた、あたしたちのお姫様さ」
 ねえさんは言った。


 あの子が来たときのことは今でも良く覚えている。
 小さくてふわふわしていて、赤みのあるほっぺがとっても可愛かった。怪我をしやすいからと隔離するように透明な箱の中に入れられていた。皆は箱を怖がって近付こうとしなかったんだ。あたしが話しかけたのはほんの気まぐれ。あの子がいつも、ぼんやりとどこを見るでもない目をしていると気付いたからだ。あれは、良くない目だった。
 あたしたちは経験上、常に周りへ注意を払うのを忘れない。自分の命を守るためだ。でもあの子は外の世界の怖さを知らなかった、箱の中しか知らなかった。身を守ったり食べ物を手に入れたりすることを知らなかったんだ。だから苦労知らずを揶揄する「姫様」という呼び名さえも、何とも思っていなかったんだろう。
 あたしは透明な壁越しでも声を真っ直ぐ届けることができた。皆よりも低くて、怖いと言われるこの声を有り難く思ったのは初めてだった。
 あの子はとても賢くて、どんどん知識を吸収していった。お姫様は呼び名だけじゃない。この子は本当の姫様になれると思ったんだ。


 いつもねえさんが教えてくれることは正しくて、それが全てだと思っていた。けれどちがった。ねえさんにも知らないことはあるし、見えていても見ないふりをしたほうがいいものだって、たくさんだ。
 小さいときは分からなかったものも、身体が大きくなったら分かるようになった。
 たとえば、ようく目をこらして壁の外のまっくらを見ると、その向こうにはねえさんと似た見た目の生き物たちがたくさんいる。ねえさんよりも二回りくらい大きいかもしれない。ゆるゆる同じ動きをしていて、いつもみんなで固まっている生き物たちだ。
 でも今日はなんだかおかしかった。ぽつりと、部屋の底に倒れているなかまがいた。ずっと動かないし、具合が悪いのかな。そうねえさんに訊くと、ぐっとことばを詰めた。
「おわりだよ。
 あれは、あいつの持っている時間の終わりさ。あいつは他の連中より持ち時間が短かったんだ。仕方の無いことさ。……でも、そうだね」
 どうしてだろう。ねえさんの声はとても寂しく聞こえた。
「ああやって仲間がいても弔ってくれないなら、誰にも知られず終わりにしたいもんだ」
 ねえさんの口ぶりはまるで、じぶんの「そのとき」が分かっているようだった。


 自分の寿命を悟る瞬間を語ったって、若い姫様にはぴんと来ないだろう。だけどあたしはここじゃずうっと年上だから、しゃんとしてられるうちになるべく色々なことを教えてやりたいと思っている。姫様がいつかひとりぽっちになってもやっていけるように。それからもしも、この箱から出て外の世界に放り出されても困らないように。
 だけどまぁ、口の悪い連中もいたもんだ。
 向こうで白い腹を見せていたやつがいなくなってすぐのことだった。こちら側にいるあたしたちは寒いところが好きなおかしいやつらで、あまり動き回らないのは向こう側の連中を食うための準備をしているからだと。あの「終わった」やつも、あたしたちのせいでそうなってしまったんだと。そう言いふらすやつが出てきたんだ。ばかな言い分もあったもんだね。
 そうだね。間近で「終わり」を見るのはきつい。けれどつらいのを誤魔化すためによその連中を攻撃するなんて、弔ってもらえなかったあいつがいっそう可哀想だよ。
 姫様も気にしているみたいだったから聞く事は無いと言った。ばかの話を聞く価値なんて砂粒一個分もありゃしない。
 けれど、姫様の耳は捉えたんだ。
 あたしの声じゃない、悪口全部を吹き飛ばすような、気持ちの良い声を。

「ここは冷たくて、でも、綺麗だね」

 あたしの身勝手で過保護なんだろう、あたしたちを捕まえたりじろじろ見たりする不格好な生き物のことを教えなかったのは。
 知らないものは近くにいても見えないものだ。姫様は見入っちまった。透明な壁の外に住む、物知りな生き物に。自由自在に動き回る生き物に。
 人間と話をしたい、と言い出すのはそう遅くなかった。

ゆらりのからだ(冒頭部試し読み)

ゆらりのからだ(冒頭部試し読み)

期間限定公開です。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-05-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted