古今色想環ー永儚ー

れいろ

短編

春の真っ只中、幸せが舞い降りた。
夜空を漕ぐ月船の下、華やぐ彼女は色に満ちた枝垂れ桜を前に咲ったのだ。



死、命が尽きること。
命、生の証。

春先、命尽きるまでの時間を言い渡された。
余命一年、それなのに、どうしてか。
私には何かしようと言う気力が無かった。
こんな私が私は嫌いだ、汚らわしいとさえ思う。
心を蝕む嫌悪感を拭えぬまま、私は生きている。

微かな青が灯りとなる、僅か三畳の手狭な和室。
黒のイヤホンを耳に、表向けた携帯を褥に、倦怠感が漂う一室に、ただ、何もせず、静かに寝転がっていた。
やがて、自分に対する怒りも無くなる、手から力が抜けて、睨み、食いしばる表情も解けて、一滴の涙だけが零れ落ちる。

ため息を吐く気力も無い。
何もしていない、それなのに凄く、疲れた気分だ。
何もしないことが何かを考えてしまうと言うことで、だから疲れると、そう理解し、実感する。

ふと、携帯を手にした。
暗い瞳に反射する画面、枠内の文字に指を触れる。
検索履歴は何も無く、自動で流れるニュースに自然と目がいっていた。
手が止まる、たった二つの言葉が、目に止まる。
事故、死者二名。
視線は無意識に下へ下へと文字を読んでいた。
ハッとして、電源を切る。
死について、考えを逸らしたかった、いつの間にか死んでいる、何の前触れも無いまま死んでいる、それが普通で一番の死に方だと思うから。
けれど、目を逸らそうと顔を逸らそうと、頭に残る言葉は消えず、考えてしまうのだ。

遺族…残された人達…か。

スマートフォン、ブラックアウトの僅か一秒にも満たない時に入り込んだその言葉。
深い脳裏を彷徨い、暗礁に波立つ。

家族は…友達は…私が死んで悲しむのかな…。
悲しむか…私も…悲しむもんな…悲しませる…か…。

私は、どう死ぬのだろう。
死因…死に方…それまでの生き方…。

このまま、何もせずに朽ちて逝く?
意味を為さず、知らぬまま、死に逝くのか?
意味って何だ、生きる意味なんてどこにあるんだ?
意味って何だ、死ぬ意味って何なんだ?
生にも死にも、意味を見出せない私は、何で今も息をしている…?

私は、私の問いに答えを出せない。
どう、死にたいんだろう。



死に方に迷いはありつつも、何も為さないまま、日は上旬の半ばを過ぎていた。
まとめ買いした食料品も底を尽き、買い物へ行かざるを得ない状況。
朝からずっと行かなきゃなと思いつつも、今尚在宅のこの現状。
時針は子の刻を指し示す、朝食の危機に漸く動きが見られた。
重い体を起こして軽いバッグを肩に掛け、薄く長方形のビニール袋をしまって、髪も整えずにドアの前まで。
千鳥足かと思える程に不安定な足取りのまま、抜けない気だるさと共に外へ出た。



二階建ての古びたアパート、久しぶりに浴びる夜風は、涼しいというよりまだ少し寒いくらいだ。
外の匂いに懐かしさを感じるも、早く行こうと足早に進む。
錆びた階段は足を着く度にギギィと軋む音がした。
降りるも登るも浮かぶ不安は今は無く、呆れたように顔を逸らすと、目に入る月の美しさに足止めをされた。

一週間ぶりかな…。

浮かぶ上弦の月、見上げるも、三秒も持ったか持たないかの秒数で視線は下に落ちる。
首に手を置いて、何やら痛かったらしい。
溜まった疲れを手で撫でて、冷たい夜に歩き出す。



小道、蓊欝たる密度の森林に、栄えるは天狗の鼻の如く気高き杉の木。
木々の肌は所々が剥がれており、あるがままの自然とその年季を感じる。
道の傍らには微笑む色とりどり、陰気な女は時折、その華やかさに目を向けていた。

死に場所…。
あぁ…ダメだ、頭の中から死の言葉が抜けない…。
何かと死に関することを考える…。
やめたい…何も考えない方が楽なのに…。
無意識ってやだな…。



鬱蒼とした森も、進めばやがて様変わり、気が付けば、森全てが変化を表していた。
辺りには橙の明かりが灯り、振り返ればワッサワッサと竹林が、石畳の道の先、開けた土地に並ぶそれらは、懐かしさを薫らせる建物だった。
和洋折衷、大正一色ロマン色、その街並みに在るのは異類異形、人に近しい者もいれば、人ならざる、形を持たずに気体の姿で漂う者も。
千差万別の形の中で、女はふと、人間のような者を見た。

「あ…」

野外の細長い椅子に座って棒に刺さる最後の団子を食らい、胡桃を片耳に飾るくすんだ茶色の液体生物と笑顔で会話する人の男。
漏れた声に気付いたのか、顔を即座に振り向かせては団子を喉に詰まらせた。
青に変わる顔色は異形の者にまで心配される始末、女は呆れた様子で顔を逸らし、無視して歩き出すのだった。

「よっ!無視は酷いよっ!」

何度か深呼吸をしながら親しげにそう話しかけてくるその男。
幼馴染にも見える2人だが、女の方は先程の言動といい、今現在の媚び売るイルカを見下すような目といい、面倒臭そうということが伝わってくる。
そして一言。

「何でいるんだ」

「え?あー…先読み」

語尾に星が付きそうな、いや、お日様マークが付きそうなくらい陽気な男はさっき者と話している時より一層元気に感じる。
来るのを待ち望んでいたのだからそれはそうなるのだろう、液体生物が嫌な訳では無い、きっと。

「そんなことはどうでもいいんだよ、今日は花見!お前を連行するから覚悟しろ」

連行って、聞こえが悪いな。
花見…人多いんだろうな…ていうか花なんて見ても…。

「花なんか見ても何もならないだって?残念、人を変えるのは花だよ花、ザ・ヨダレザクラ」

ヨダレじゃないよ枝垂れだよ。

「灯(あかし)…意外とそういうの好きだよな…花とか、色々」

「こう見えて俺、ジメジメしてるからな、花と相性ばっちし、でさ、前に絶好の場所を聞きつけた訳よ」

ジメジメって何だ、暑苦しくて砂漠化してるよ、ナメクジも干からびてるよ。

「まだ時間には早いんだけどな、後一時間半くらいはあるんだけどな」

「あぁ、そう、じゃあ、またね」

「待て待て、俺を連れて行くんだな」

「別に一人でいい」

「連れないこと言うなよ〜、長年の付き合い何だからさ」

「暑苦しいな」

「お前が冷たいからな」

ほっとため息を吐いて陰気な女は歩き出し、陽気な男もそれに続く。
すると男はあっと思い出したように振り返り、椅子に座る胡桃の異形に腕を大きく振った。

「クルミミさん団子ありがとー!」

「またクルミ〜、頑張ってクルミよ〜」

胡桃を回しながらニコニコと手を振るクルミミさんだった。
女はそれを後目に見つつも無言のまま、男はそれにせっせとついて歩く。
ここは商店通りのようで、クルミミさんの店の他に、肉屋や八百屋など、素材が豊富、料理店も豊富、腹に響く香りが芳しい。
ただ、女はここらの店で買う予定は無いようで、辺りには目も向けずに突き進む。



余談。
クルミミさんの本名は胡桃包(クルミツツミ)と言う。
好物の胡桃を懐に溜め込む習性があり、体色が胡桃色なのは食べ過ぎか、色が移ったか。
液体の異形と言っても可愛らしい方で、スライムより身体が、と言うより表面がしっかり?している。
その為、人型とはまた異なった形を保っている。
体内にくるみ割り器を常備していて、右手に移動させることでいつでも胡桃を割れる。
殻と実は別々に食べるのがお好き。
正直、今回の主要人物では無い、だから覚えなくていいのだが、覚えやすい名前だと思う。



そうして進んで数十分、千花川(せんかせん)と書かれた看板を掲げた店の前へ立っている。
店名の下には懐石料理とも記載され、ここが目的地であることが見て取れる。
ドアに手を掛けてガラガラガラと横に滑らせると、店内に充満した匂いが腹の虫を唸らせた。
広くは無い店内に一人の客と一人の店主、目の前の厨房で赤紫に近いこれまた液体生物が料理を振る舞っていた。
ただ、胡桃包よりも人型に等しい上、紺の甚平を身に着け、しかし躑躅色の花が色の染みた川に留まるような、そんな風姿。

「いらっしゃい、おぉ、嬢ちゃんかい」

厳つくも優しく、綻んだ表情を2人に向ける店主。
その横で、薄い緑の混ざったような、雪か雲に似た容姿の客は、顔見知りのように手を振っていた。

「こんばんは、雪雲(ユキグモ)さんも」

「こんばんは〜」

雪雲が手を振る度に撒き散らされる白い綿のような何か、僅かだが店主の目の前を浮遊するものもいて、迷惑そうにガン飛ばし始めた。
蛇のような形相に気付いてガンッとした顔の雪雲は、
「ごめんね千川(ちせん)ごめんね」
とわたわたと回収するのだった。

「俺もいるよ」

女が退いて男も入店、ガラガラガラとドアを閉める。

「坊ちゃんもかい、賑やかでいいね」

「おじさん気付いて、俺の存在感に」

「夜って日が隠れてるだろ、あれと同じだよ」

「えぇ?違う違う、俺は夜に浮かぶ太陽だから」

「面白い奴だな、嬢ちゃん、今日も六日分?」

「うん、お代はここに置いとくよ」

バッグからビニール袋を取り出して、更に中から本を出し、目につく場所にポンと置く。
現代のレシピ本のようだ、代金の代わりらしい。

「はいよ、毎度ありがとね、結構時間かかるから、適当に時間潰してなよ」

「じゃ、俺達花見しに行くか」

「もう?」

「時間ピッタシがいいんだけど、遅くて見れないってのも嫌じゃん?」

「それはそう…か、早い方がいいね、って私は行くなんて一言も…」

「じゃ!行ってきまーす!」

ガラガラガラと扉を開けて、男は女の手を引くと嵐のように去って行った。
舞い込む夜風に店主はまた目を細める。

「ドアを閉めい」

呆れたように店主が閉めるのだった。



余談。
千花川店主、|躑躅片千川(ツツジヘンチセン)。
一度雪雲に千川と呼ばれていたがこれが名前だと気付いて頂けただろうか。
人型で躑躅色の液体、身体は常に緩やかな川のようで、表面では上から下へ、背面では下から上へ、少し斜めに流れる。
時折、身体に躑躅の花模様が浮かぶ。
背に花の刺繍が入れられた紺色の着物がお気に入り。

客として登場した雪雲、|浅葱雪雲(アサギユキグモ)と言う。
冷たい雲のようなものを纏った丸っこい奴、ついでに飛び出た耳と尻尾。
丸っこいのはただ中身が丸まっているだけで、本体は猫と言うかイタチと言うか、耳はフェネックだ。
全身が白く見えるが、よく見てみると毛先と雲先は浅葱色。
空をぷかぷかと浮かぶのが趣味、しかし地上では素早い。
激しく動くとすぐに雲が飛ぶが、数分で消える。
千花川の常連。

二人も主要人物では無いです。
今は夜乃海(やのみ)と灯(あかし)だけ覚えて頂ければ災いです。



「危ないから!急に走るな!」

走り出してまだ数秒、しかし女は疲弊した様子だ。
男は速度を落として歩く程度に、女は息をはぁっと吐いた後に深呼吸をして整えていた。

「早い方がいいね、と」

「間に合えばいいから…!走らなくていいから…!」

「元気な声出せたし?結果オーライ?」

「元気じゃないよ疲れたよ…」

そうは言いつつも、寧ろ家に籠っていた時より生き生きとした雰囲気が見える。
歩き方だろうか、安定した歩きに変わっている、後は表情だろうか、瞼が重たそうな暗い目から明かりのあるように見られる。

「そういえば、花見って、どこの桜を見に行くの?」

ニタァと笑みを浮かべ、不気味な笑い声をダダ漏れにする男へ、女は冷ややかな双眸で目を逸らした。

「知りたい?知りたい?」

「いや、道中で分かるか」

「分かるなよ、どうちゅうこっちゃねん」

変な所で頭フル回転させるな。

「秘境に行くのに卑怯だぞ?」

コンボやめろ。
いつもより四割増しで鬱陶しいな。

「分かるようなら秘境じゃないでしょ」

「あー、でさ、最近何してんの?」

話逸らしたな。
何してるって、何だ。
何にしろ何もしてない…な…。

「将来のこととか考えてるか?前に月白さんとそんな話してさ、お前にも聞いてみようって」

「別に…何も考えてない…灯は?」

「幸せになる!」

あー…。

「具体的なってなるとまだ曖昧だけど、俺さ、こっちの世界の方が生きやすいんだよな、気楽でいい、そう思う」

どんな世界でも幸せに生きてそうだけど…明るいし…。
あぁ、でも、昔は暗かったんだこいつ、第一印象からかけ離れすぎて忘れやすい…。
一応、そういう面が残ってるのかも。

陽気な男はその雰囲気とは裏腹に神妙な顔を見せ、一瞬、躊躇うようにして口を開く。

「なぁ、お前もこっちの世界で生きないか?月白さんが、この色想で生きる人間もいるって」

驚きから顔を少しだけ男に向けた。
映る男の表情に、女は改めて考える、至って真剣の顔つきで。

「この世界で…か」

色想環で生きる…穏やかに…この残り一年を終わらせるのか…。
あぁ…そうだ、こいつは私の余命を知らないんだ。
よく今まで忘れてたな私…伝えるべきかな…?
普通は、人がいつ死ぬかなんて分からないんだよな。
伝えずに…いつの間にか、自然と死んでいる方がいいのかもな。
でも…もし、この世で生きるとなれば、伝えるべきだと思う…。
私はすぐ死んで、灯は一人…。

心のどこか、その男に対しての不安と心配が残っていた。
過去が過る、まるで火の灯らないような、役目を失い壊れた常夜灯のような、そんな顔が。

大丈夫か、灯は明るい、悲しんでくれるだろうけど、私が心配するようなことも無さそう。
それに友達だって多そうだし、増やし続けそうだし。
ただ、私がこの世で生きるか…それはまだ…。

「全然、答えは後でもいいけどな」

答え…まだ出せそうでは無い…かな…。

「考えとく…」



歩きながら、話しながら、私は考えていた。
それでも、まだ答えは出せていない。
色想で平和に楽しく暮らすのもいいはずなのに。
死に方に何かを望んでいるのだろうか。
ただただ、納得がいかない、そんな気持ち。

「よーし、そろそろだな」

木々に挟まれる小道、百に等しい石の階段を登る。
女の方は半分を超えた辺りからもう厳しいと言った顔付きで、荒い息で言葉を返す。

「ここって、桜なんて無かった気がするけど…?」

「フッフッフ、まぁまぁまぁ、期待期待期待してろ」

何、呪われた?
灯が言うのなら多分凄いものなんだろうけど…昔も、こうやって連れ回されては色々…本当に色々あったな…。
とは言え、流石にこの数の階段登るのは辛い、明日はきっと筋肉痛だ。
筋肉痛に見合うだけのものじゃないと暴れてやる。

道端に咲く花が灯す淡い白光に、夜が微かにざわめいた。
一歩、一段、下に落ちた視線はそのままに、踏ん張る足は登り続け、ふと、風に流るる桜色の花弁が横を過ぎるのを目に、脈打つ期待が顔を持ち上げた。



まるでその時が切り取られたかのような感覚に落ちた。
包み込んで、離れ行くよう交差して、舞い消える花吹雪。
去る花弁のその向こう、瞳にそれが反射した、その光景が脳裏に刻まれた。
五感が、心が高揚していた。
自然と足が前に出て、自然と顔が緩む。

枝垂れ桜の分岐瀑に、月船が滞留するかの如き色景色。
騒めきが心に響く高鳴り、宵と桜が一体となって醸し出す香り、外の空気の新鮮さ、その全てが、初めて理解出来た。

死に方、その迷いが、如何にくだらぬまごつきなことか。

意味なんてものに、縛られる必要は無いんだ。
意味なんてものは、後で見つけ出せばいい、別に見つけなくたっていい、自由だ、私達の。
だから、みんな生きてるんだ。
だから、私は――

『こんな〖生き方〗をしたい』

この桜のように、一夜でも満開の花を咲かせたい。
私は今、熱を持った。

惹かれる夜乃海を僅か、驚くような、嬉しさと共に笑みを浮かべた。



灯の脳裏には、宇宙のような生き物との会話が浮かぶ。

「将来かー…俺、こっちで暮らそうかなー」

灯はその生き物に先のことを相談している様子だった。
生き物の透き通った白い薄膜の口腕や触手が何やらそわそわしているような、そんな感じをさせる。

「灯、一つ、昔話を聞いてくれるか?」

「話?何で急に?」

「先の話で、少しね」

「まぁうん、聞くよ」

「昔、こんな子がいたんだ、冷めていて、夢も無い、暗い子、その子はそのまま、最期は、絶望に終わった」

話を聞くうち、灯の表情は暗く、何かに気付いたように眉を顰めていた。
それの言う人物像は、まるで身近にいる人間のことを指し示すようだから。

「言いたいことは…理解出来たようだね?」

「夜乃海も、そうなるって?」

「あくまで…可能性の話にはなるね…灯には伝えておこうと思ったんだ、私よりも夜乃海の力になれるだろう?」

「いや、いやいやいや…」

言葉が消えて突然、灯の雰囲気が変わった。
目付きがまるで違い、太陽なんかじゃなく、暗さの中に明るさがあるような雰囲気だ。

「救うには…?」

声音からは事に対する真剣さが伝わってくる。
瞬きもせず、常に何かを考えているらしい。

「|月狂夜桜(ゲッキョウヨザクラ)…と言うものを知ってるかな」

灯は瞬きを一回、焦点を合わせる。

「月狂夜桜?」

「西の階段を登った先に、万年枯れたままの木があるだろう?それが月狂夜桜と言う枝垂れ桜でね、その桜には、何かを変える為のきっかけを与える力がある」

「きっかけ…その力なら、夜乃海も変われる…か」

きっかけ…どんなきっかけ何だ?
そもそも目に見て分かるものなのか?
一応、案を練ろう。
まず…選択を持ちかけて、その答えや様子で変化を確認する。
選択…あぁ、そうだ、もしあいつに夢とかが生まれるのなら、俺とこっちで暮らさないか、とか、その時あいつは悩むだろうけど、きっかけを与えられた後に断られれば向こうの世界で夢が生まれたってことになる。
いや、違うな、もしこっちの世界での夢だとしたら分からんし、複数選択を作るか?
もっと練ろう…。

「迷いし者の為に生まれた力だから、きっと、何かしらの変化は起きる、ただ…」

ただ…?



不思議な感じだった、桜も、笑っているような、けれどその中に、切なさが含まれているような、そんな感じ。
夜の、薄らと照らす月明かりのせいか、ただ、ただただ凄い…改めてそう思った、そして、決心が着いた。
話そう、灯に、言わないと。

「灯」

「ん?」

「私、色想では生きられないや」

聞いた灯の表情は、静かに暗く変わった気がするも、すぐ、それもまた本心であるように微笑んで見せた。
夜空に泳ぐ雲は無い、月明かりの下に、夜乃海は決意し、灯は心を告ぐ。

「頑張れよ」

「うん…!」

才能を探そう、この熱が冷めないうちに。



そうして二人、月船浮かぶ桜を長く眺めていた。
月船沈む頃、やがて夜乃海は先に帰り、灯は満面の笑みで送り出したのだった。
その後間もなく、宇宙のような生き物が桜の裏から姿を現し、咲う灯に問いかける。

「これが正解か?」

「あぁ、大正解、今までとは違う、迷いの無い、いい道を進んだ」

答える灯は真剣ながら優しい笑みを浮かべて、夜桜に身体を向けた後、深く一礼し、底無しの感謝の念を抱き表す。
心音三拍の静寂、その後、頭を上げた灯は生き物へ向き直すと、

「ありがとう月白、後はこれから、俺が支える番だ」

言葉と共に、気合いを入れ直した。
宇宙のような生き物、月白は、その海月のような触手を伸ばして、緩やかに灯を包み込む。

「君達ならきっと大丈夫だよ、頑張って」

溢れんばかりの優しさが詰まる声音と、手に変わる触手の、背から心を叩く振動が、ジーンと、心奥深くにまで届く。

「よし、頑張るよ、俺は頑張る」

胸に手を当て誓う、意志を、心に握り抱く。
夜咲く、淡い青を灯す花に、涅槃寂静の曇り無し。



月船沈む頃、散り行く桜の下、月白は、一人何者も居らぬ地で声を揺らす。

「ごめんね、灯…君の気持ちを利用した、でも大丈夫、君は言い切ったんだ、その気持ちを私は信じる、だから、ね、君も信じよう?きっと上手く行く、そして証明しよう、私達の正解を」



余談
月白、不老不死。



よし…まずは…何をすればいい…。
改めて考えてみる、私はあの桜を見て、あんな風に、一時でも全力に、花開かせたいと思った。
残り一年を全力で生き尽くすことが私の生き方だと。
だとすれば、やりたいことを見つける、今はそれだけ。
でもやりたいことか、んー…そういえば、将来の夢も無かったんだよな…。
なりたいもの…何かある…?

自分自身の問いかけに、ふと、重なる記憶が蘇る。
それはまだ、夜乃海が数えて十二、重ねた頃、一枚の紙を見た母の声だ。

「ねぇやの、将来、なりたいものって無いの?」

猫を撫でる夜乃海に問いかけた。

「無いよ」

顔を向けて答えると、何か考える様子の表情で母は二度頷く。

「ふぅん…見つかるといいけどね〜…」

あの頃よりまた少し先の話だけど、夢を見て欲しい、母にそう言われたことがある。
思えば、あの頃から思っていたのだろう。
私は…何も考えていなかったな、適当に生きても時間は進んでいて、だからそんな生き方でも、普通の人生を送るんだろうなって、夢なんて無くてもいつの間にか生きてるって、そう、安直な考えを持ってた。
夢は…見れるものなら見た方がいいんだろうな…。
あー、そうすればすぐに思い付いたんだろうに。
別の所から考えよう、趣味や得意を伸ばすとか、趣味…昔は絵が好きだったし…一時期は馬鹿みたいにひたすらに描き続けて…久しぶりに描いてみようか。
何を書くか、それはすぐに決まった、今も目に焼き付いている昨晩の枝垂れ桜だ。
取り敢えず思い立ったら即行動、気付けばそうなっていた。



そうして一日、また一日と過ぎ行けば、白以外何色も無かったその世界は、段々と色づき、木が生まれ、夜が上って月が成る。
下書きも沢山した、その筆筋はさながら昔のように、楽しく、とにかく楽しく、そして真剣に描いていた。
寝ることも食べることも時には忘れ、描き続け、遂に夜空を描き終えた瞬間、今まで感じたことの無いような思い入れが、全てに対して生まれたのだ。

完成だ。

それは色鉛筆らしさを残しながら、色鉛筆で描かれたものと思わせない程の仕上がり。
枝垂れ桜の分岐瀑に、月船が滞留するかの如き色景色、中央に聳える主役、周囲にはそれらを引き立たせる深い宵闇、淡い青花、反転の色。
趣味にしていただけあってか、素人目に見ても上出来だとはっきり分かる上、特に繊細な色使いが特徴的で、あまり類を見ない描き方だ。

そして感じる、疲労感すら忘れさせる程の、想像を絶する達成感、やり切った、それは今までで一番の頂きだった程だ。
鼓動は素早く、次はまだか、次はまだかと問いかけてくるようだ。
ただ、今日は満足に終えた心情のままに、夜乃海は横になって瞼を閉じる。
その表情は咲っていた、余韻に浸り、明日は何を描こうかと期待を持ちながら眠りに落ちるのだった。



次の朝、寝起きは頗る良好だった。
夜乃海はテーブルに置かれた絵に目を向けて、ふと停止した、そして思うのだ。

もっと改善出来るんじゃないだろうか?

今一度、絵を隅々まで確認してみる、確かに今のままでも十分いい、しかし、上に行けるなら上に行きたい、才能を開花させると決めたから。
向上心を胸に、目を凝らし、頭を働かせる。
足りないものは何だ、そう問いかけた。
考え続け、やがて答えが出る。

そうだ、ここは色想だ、それならみんなを描こう。

鉛筆を持って、どこに誰を描くか、そんなことを思い、そうして朝食を忘れてまた描き始めた。



夕暮れ、夜乃海の部屋の前で、呼び出しのベルが鳴る、何度も、何度も、一体何を奏でているのだろう。
少ししてドアを開く、呆れた顔をして現れた夜乃海の前に立つのは灯だった。

「よっ、何となく来てみたぞ」

「何となくで来て欲しくないんだけど」

邪魔者が来やがったと言わんばかりに目を細める夜乃海に、灯は不思議なことに嬉しそうに不気味に笑い、右手に提げた紙袋を差し出す。

「ほら、これやるよ」

「ん…?」

「じゃ、お邪魔しまーす」

「おいこら」



狭い部屋、その中で真っ先に目に入ったのは呼び出される直前まで描き続けていた夜桜の絵だった。
腹ぺこの鯱のように食いつく灯は、溢れる興味のままにミハイル・ゴルバチョっていた。

「え、これお前が描いたの?」

「あー…久しぶりに描いてみたんだけど…どう…?」

恥ずかしさから僅かに顔を逸らすも、反応見たさに目線だけは灯に、映るその顔は愕然としていて、

「すげぇな…」

そう、漏れた声が、夜乃海の心を響き潤わせた、嬉しかったのだ。
心から来る嬉しさから、何重にも縛り止められていたような頬は自然と緩み、解けていた。

その絵には、新たに生き物が追加されていた。
階段を上って来たであろうクルミミに手を引かれる白緑色の者、千川や雪雲、夜空に同化する月白など。
落ち着いた雰囲気はそのままに、生き物と言う明るさが付け足されていた。

「紙がでかい、ガチな奴だ」

「そこ?」

「上手いよ、この絵、俺は好きだ、お前、画家でも目指すのか?」

最近、初めてなことばっかりだ。
絵を描いて、褒められることがこんなに嬉しいと思ったことは無い。
そもそも、他人に見せる機会が無かった、違う、見せる自信が無かったのだ。
それがこんな…元々、これが本命という訳では無かった、他にも何か、やってみようと思っていた。
けれど、私は決めた、決意を今、言葉にしよう。

「うん、目指すよ、画家になる」

私は色が好きだ、世界は色に溢れている、色は魅力に溢れている、無限に溢れた色を、私は描きたい。

「で、これ何」

手渡された紙袋を突き出すと、灯はまた不気味に笑う。
紙袋自体は特に変わった様子は無い、葉の模様が描かれているだけで。
それなのに、どうにも胡散臭く感じるのは灯が渡してきたからだろう。

「お菓子だよ」

納豆みたいなねっとりとした喋り方をする。
お菓子ならその表情はおかしいよ、そんなことを心から思い、訝しげな顔のまま、恐る恐る袋に手を突っ込んでみる。
すると、触覚が感じ取ったのは紙のような質感、取り出してみると、それは包み紙で包装された平たい箱だった。

「あぁ…緑茶(ロクチャ)さんの所の…」

「イェス、練り切り」

テーブルに置いて包装紙を剥がし、蓋を開けると、中に並ぶのは淡い青を灯す花、それを模した練り切りと言う和菓子だった。

「わ…綺麗…」

「だろ?宵照灯(ヨテラシトモシ)をモチーフに作ったんだってさ」

流石緑茶さんだな…食べるのが勿体無いくらいの再現度だ、絵の参考にもなりそう。

「でも、何で和菓子を?」

「俺の応援の気持ち、今、頑張ってるだろ?」

「え、あぁ、ありがとう」

「おう、頑張るのも程々にな、病気にかかったら元も子も無いんだし」

「あー…」

結局、一年後には死んでるんだけど、そんな言葉は心に留めた。
すると灯は食い気味に顔を近付けて、

「後、何かあったら俺を頼れよな、月白曰く、人は人に頼れなくなったら真っ黒に染まるんだとか、だからいいか?頼れよ、絶対だからな」

そう念押しをして来た。
逃げ場の無い圧に夜乃海は戸惑いながら答えるしか無かった。
だって、三畳だもの。

「あ、あぁ、そうする」

「よろしい」

「・・・お茶出すから待ってて」

そうしてそそくさと立ち上がって、すぐそこのやかんにジャーッと水を入れ始めるのだった。
その間に、灯はまたマジマジと絵を見つめてきると、薄い白の混じった星空が目に止まった。

「あ、これ月白か、後、クルミミさんと緑茶さんに、千川と雪雲さんで…これは、もしかして俺?」

絵の中で青の花、宵照灯の茎を千切り、右手に握る男を指差す灯に、やかんに火をかけ終えた夜乃海が答えて隣によいしょと腰を下ろす。

「そう、少し賑やかさを足してみてもいいかなって」

「けど、夜乃海は?描かないのか?」

難しい顔をした、浮かぶ羞恥心がそんな顔をさせるのだ。

「あんまり描きたく無さそうだな」

「いや…うん、ね、恥ずかしくない?」

「みんないるし平気だろ、ほらほら描け描け」

「でもさ、どこに書くべきか」

「そんなの月の上にでも乗せればいいじゃん?」

「月の上か…」

絵を見て、想像してみる。
全体的に見てバランスも良さそうだ、夜乃海は頷いた。

「いいかもね、描いてみるよ」

鉛筆を持って描くことに集中し始めた夜乃海の手を、灯はジーッと、どこか楽しげにその口角を上げて、優しく見守るような瞳で眺めていた。
それから、お湯が沸騰する頃、やかんから吹き出る煙と共に、ピューッと甲高い音が上がると、夜乃海は手を止めて火を止めた。

「よし…!」

「完成か?」

その絵には新たに夜乃海自身が追加された、月船に座り、そうありながら空を見上げる。
横顔は寂しげだった、この絵一枚の中に賑わう華やかな面もあれば、夜の切なさと時代の儚さもある、そんな風に仕上げられていた。

「うん、和菓子でも食べて一息つこう」

二つのコップに緑茶の粉を入れて熱湯を注いだ後、テーブルにそっと置くと、もしもの為に絵を別の場所へ避難させた。
小分けされた練り切りを一つずつ取って、包み紙を半分剥がす。

「じゃあいただきます」

半分だけ、パクッと一口食らうと、まるで毒でも盛られたようにビクッと反応を見せた。
断面を見てみると、中は白餡のようで、あっさりとした味と滑らかな口どけを堪能出来る。

「おぉ…」

やり切った後のこれはいいな。

一度練り切りを置いて、お茶を啜る。
温かさが全身に渡って、不思議と心が落ち着くこの感じ、心地いい。

「へっへっへ、定期的に差し入れしに来てやるよ、時々手伝ってるから貰えるんでね、いつものお礼にって」

「器用だよな…前に他の所でも手伝いしてたし…」

「千花川とかな、働いた分の代金も貰えて、賄いも出るぞ、後は竹ノ宿とか、無料宿泊券っていう木の板をくれた」

「もはや生活に困ってないのか…もう色想で生きてるのと同じじゃ?」

「かもな、そういや話変わるけど、絵に関して目標とかあるのか?」

「この一年、とにかく描きまくろうかなって、そして最高の絵を描くのが目標、私の絵は、有名にならなくてもいいんだ」

才能の花を咲かせる、しかし、その花を誰かに見せる為では無く、ただ自分の為に、生き方に納得したい為に。
その意志は、夜乃海が筆を持つには十分な理由だった。

「へぇ〜、お前自身が納得行くぐらいの凄さになったら、色想で展示会して欲しかったんだけどな」

「展示会…?」

ふと、思った。
その頃に私はいるのだろうか、と。
別にそれはどうでもいいか、私は今を描くだけ。

「あぁ…うん、出来るならいいけど」

「よっしゃ、その頃にはどれくらい出来てるんだろうな」

「どうだろう…」

「ま、期待してるからな」

「うん、任せて」

言葉のままに、自信と勢いに溢れていた。
その勢いのままに、夜乃海は描き続けた。
色想の色々な場所に赴き、様々なものを見て回るのだった。



辺りは夏色、雨上がり、葉から零れた雫が水紋を作り出す。
ここは湖畔、架かる虹の下、水の上を駆け、崖を昇る風と共に、花弁のような色彩達が戯れる。
そんな風景を、夜乃海は持参の椅子に腰掛けて描くのだった。



夕暮れ過ぎまで描き続けていたそれは大体の形となって行く。
その作品は湖に反射した揺らぎの世界、水の滴る葉の裏、逆さまの虹、色彩の戯れ、水紋、音の波。
ふと、夜乃海は空を睨む、夕日が沈んで行くこの時間帯、空では青と赤が交差していた。
再び、夜乃海の視線は絵に戻り、湖の色に変化を加え始める、空であり、湖であるその色相に赤を足すのだ。
そうしてまた時は過ぎ行く、夜乃海はまるで気付いていないように、月明かりの下、描き続けるのだ。



「おい…」

突然の声に夜乃海は椅子から飛び上がって後ろを振り向くと、呆れた顔をした灯が袋を右手に提げて立っていた。

「わ、ビックリした、今夜中だよ、驚かさないで」

「驚いたのはこっちだ、今夜中だよほんとに、昼からずっと描いてんだろ」

ある意味生活バランスが良くなったな、昼夜逆転の時もあったし。

「ほら、食え、そして早く帰って寝ろ」

袋から取り出して手渡されたそるは、銀の袋に包まれたチョコがコーティングされたパンである。

「うわ、流石私の好物を分かりきってるね、いただきます」

柔らかなパンとほんの少しの固さのチョコに夜乃海は食いついた、中に詰め込まれたクリームがチョコとはまた違う甘さを増幅させる。

「ずっと描いてて暗く無かったのか?」

口角にチョコを付けた顔でキョトンとして、まるでさも当たり前のことのように苦笑して言うのだ。

「暗くてもやめたくなかったよね」

「共感求めるな」

「その場所にいた方がアイディアが湧くから、でも食べ終えたら帰るかな」

「しょうがないなぁ、紅しょうがだなぁ、紅しょうがと言えば、俺は焼きそばパン買ったんだよ」

いつの間にか取り出していた焼きそばパンに途轍も無い勢いのままガブリと噛み付いた。
早い、まるで怪物だ。

「あ、そう」

「ところで、絵って何枚出来てるの?結構あったよな、十五枚くらい」

「今描いてるのが十九枚目」

「そんなにか、思ったより描いてたんだな、色鉛筆は固定か」

「一番描き慣れてるからかな」

「子供の頃から身近にある色鉛筆でさ、あんなに描けるって思っても無かったな」

「でも、まだ納得してないよ、自分が思う最高には至ってない」

ふと、思ってしまった、私は登れているのかと。
私の求める最高へ、一歩でも高く登れているのかと。

「ひぇ〜、一体どれだけ上を見てるのやら、芸術家ってやっぱり芸術家だな、あ、これ褒め言葉だぞ」

「うん…」

霞がかるその顔を、灯は横目に眺め、心に浮かぶ不安をどうにか押し止めていた。
月には叢雲が被さって、その光を遮るのだ。



想起される記憶、それは月白との会話。

「きっかけ…その力なら、夜乃海も変われる…か」

「迷いし者の為に生まれた力だから、きっと、何かしらの変化は起きる、ただ…」

ただ…?
あぁ…そうか…。

「変化は、いい方向へ進むとは限らない」

本人次第…人生次第…運命…か。

「いい方向へ、進ませればいいんだろ、俺が変えてやる、悪い運命だろうとねじ曲げる、俺が俺のやり方でその人の太陽になればいい、道を照らしてやればいい」

「…!」

「大丈夫だよ、それに夜乃海は、すげぇ奴だから、すげぇ奴に見合う為に、俺もそうなる」

真剣であり、力強く優しさで灯は笑って見せた。
それは、不安や心配など感じさせない程だ、月白も、その安心感に頼ることにした。
しかし、あの頃の月船にも雲は漂い揺らいでいたのだろう。



しかし、その時は、その夜は、霞がかる夜乃海を前に、灯は――



――何も出来なかった。



私は成長しているのだろうか、この一ヶ月、描き続けた間、ずっと考え続けていた。
今まで考えてこなかった訳では無い、今も昔も、どうすれば上達するかなど、試行錯誤していたこともある。
そして、気付いた、今の私は過去の画力、その延長線上にしかいないのだと。
延長線上だろうと、実力が伸びることに変わりは無いだろう、しかし、このまま行くと、十年経とうが私の求める最高の作品に辿り着けない、大きな壁を前にただ佇むことしか出来ない、そんな気がしてならないのだ。
だとすれば、必要なのは滑らかな丘か?険しい山か?違う、崖だ、高い崖を険しい山よりも早く登るしか無い。
意識するんだ、夜空に擬態する私だけの崖を見つけろ。



そうしてまた一ヶ月、描き続けた。
新たに三作描き上げた、違う、ただのゴミだ、破って捨てた。
下書きは普段の何倍多かっただろう、しかしそれも全てただのゴミだ、くしゃくしゃにして捨てた。

描かないことが怖かった、砂時計のような、身体から命の砂が落ちていく感覚、焦燥、だから描き続けた。
しかし、描くことも苦痛だった、成長を実感出来ないのが、私は苦痛だった。
成長していない、私が私に下す評価だ。
今はもう、描くことが怖い。

思えば昔もこうだった。
崖は見つけた、けれど、ねずみ返しでも取り付けられていたかのようで、私は諦めて、宙に身を投げた。
才能が無いんだろうか、それとも、私がこんな人間だからか?
才能って何だ、ただただ、苦痛だ、苦痛苦痛苦痛苦痛…。
才無し、能無しの苦悩…。

現実はこうなんだ、なりたいものになれた人間は少ない。
これが普通だ、普通なんだ。

蝉の鳴く声が止んでいた、もうずっと聞こえない、きっと死んだのだろう。
蝉はどうやって死ぬのだろう、寿命とは、楽に死ねるのだろうか。

努力の仕方が分からない。
どこに力を注げばいい、注ぐ力も枯れ果てる。

私は、何を求めてる、最高とは、何だ。

――辿り着けない。



俺は、何をしていた、何もしてなかった。
あの時の言葉はどうした、何故、何も出来なかった。
あいつの太陽になるんじゃ無かったのか、俺は。

心を蝕む自責の念に、灯は必死に抗い、まだだまだだと考え続ける。
それは苦痛の表情、心情だった。

俺の…唯一の親友だろ…?唯一…信頼してる奴なんだろ…?
だったら動け…切り替えろ、暗い自分に何かなるな、まだ、次がある。

何故暗くなった、あいつを理解しろ。
あの会話からして、絵の悩み…か?
最高への不安?もしくは…俺の失言か…?
考えろ、次の案を、平等になれた常識を、手放してでも、救え。
あいつの為に…あいつの為に…。
俺は…あいつの為に…なるんだ…。
なりたいんだ…あいつの太陽に…!
なのに…!俺は…

俺は――



    無力    無力 無力
   無力  無力  無力  無力
 無力 無力  無力   無力
  無力          無力
無力   ――『無力』だ。
    無力       無力
  無力    無力 無力   無力
 無力 無力 無力   無力
    無力  無力     無力



その日、夜乃海は、絵を描いてはいなかった。
もっと前から、一ヶ月近くは描いてないのだろう。

灯は、あの夜から、夜乃海に会いに行く回数が少なくなった。
あの夜から、間隔が開いてしまった、その頃には、夜乃海の熱も冷めているように感じてしまった。
けれど、理由は聞けたのだ、成長に限界を感じると。
その後、会う度に灯は灯なりに声をかけるも、夜乃海にはどうも伝わらず、その度に自身の無力さを味わっているようで、何とも惨めな気持ちが感じられるだけだった。



どうせ死ぬのなら、もう、いいんじゃないのか、諦めてしまっても…。
あぁ、こんな自分が嫌いだ、嫌い、嫌い…。
あの頃の熱は、もう無い、きっと、夏の終わりに秋の肌寒さへ消えたんだろう。

何で、こんな人間なんだ、中途半端に諦めて…。
生きることが苦痛とさえ、死というものが救いにさえ、そう感じる。
渇望からの解放、何者にもなれない半端者の自分を解放してくれる。
死ねばこの息苦しさも無くなるんじゃないかって、そんなことを考えて安心してしまう。
それでもきっと、怖いんだ、死ぬのは。
だから今も、この手は震えて。
だからどうせなら、全力で生きたいって。
なのに、もう、描く気は持てなくて。
このままじゃ、何も無いまま私は死ぬのに。
意味が分からない、心は矛盾の塊だ、だからこんなに苦しくて、辛いんだ…。

『なら、いっそ、黒に染ってはどうだろう』

落ち着く声音で、何かが言う。
目を開けてみる、すると、黒の何者かがそこにはいた。

『久しいね、この七ヶ月で沢山の変化があったらしい』

全身が黒い人型のそれはまるで運命さえ見通すように微笑んでいた。
突然現れたにも関わらず、夜乃海が落ち着いているのは声のせいだろうか、人型でありながら色想の者の中で最も奇妙に見える。

「それでも、私を黒に染めたいの?」

『少なくとも、私の気持ちは変わらない、全ては君の意志次第だ』

「意志…ね」

『死を受け入れる心のままか、死に抗う心に揺らぐか…ね、それはそれとして、月白に頼まれていたんだ、君を呼んでくれってね、あの夜桜の下で待ってると』

「何の用だろう」

『ふふ、さて、伝言も伝えたことだし、私は帰るよ、何かあったら呼ぶといい』

声と姿は霞に消えて、そこには何も残っていなかった。



月白は、枯れた桜を見ていた。
ずっと、ずっと。
すると、階段を登ってやって来た夜乃海に気付き、漸く向きを変えるのだった。

「来たね」

「何か用があるの?」

「いやなに、少し、老人の話し相手になって欲しくてね」

こちらを見る月白の表情、仕草はどこか寂しげだった。
それもそのはずだった、月白は既に知っていたのだ、その事実を月白は言葉に今表す。

「余命一年、解愛(ホドメ)から聞いたよ」

そういえば、口止めなんてしてなかったからな…、自分の油断か。

「四月が宣告の日…と言うことは…後五ヶ月程度か、君のことだ、灯には言ってないんだろうね」

「普通は、自分が死ぬって先には知らないでしょ、それこそ死期を悟るとか、医者に宣告されるとか、それが人間にとっての当たり前だから」

月白がまた夜乃海を向いた、僅かな沈黙だけがそこに流れる。
風も吹かない夜だが、どうも今夜は冷たいらしい。
そして、冷える閑静な時を破ったのは月白からだった。

「何故、潔く死を受け入れている、本来、死とは恐れられるものなのだろう」

「人はやがて死ぬでしょ、いつ死のうと、結局死と言う現実に変わりない、死後の世界なんて何も分からないし、徳を積んで何かが変わるとも思わない、痛みや苦しみはきっとあるだろうけど、それも終末に消える、だからどう死のうと興味は…もう無い…」

私自身、不思議だった。
余命宣告された時、妙にあっさりと受け入れることが出来た。
納得させられる程の力を見せられたのもあるが、改めて気付いた、もう一つ、それは私の考え方のせいか。
それでも、考え方とは裏腹に、納得は出来なかった、死に方に納得がいかなかった。
そんな時、あの桜を見て、私はああなりたいと、あんな生き方がしたいと思ったんだ。
全力で、そう思ったよ、けどさ、夜桜の熱が冷めると共にどうでも良くなった。
死に方なんて、もう…。

「随分と現実的だね」

「現実を見るって、受け入れたってことでもあるんじゃないかな、だから今、私はこんななんだ」

「だったら夢を見ればいいじゃないか、心とは考え方次第で柔軟にも頑固にもなるものだろう?」

「私が思う夢なんて、私が思う現実に押し潰される、だからきっと今までもそうだったんだ、夢も何も無い、現実に縛られて、ずっとこう、このまま死ぬ」

再び、沈黙が流れる。
少しの沈黙の後、月白はふと、枯れた夜桜を一瞥して、視線は俯いたまま、また語りかける。

「夜乃海、君は本当に、このまま死んでしまっても構わないと思っているのか、夜桜に心を動かされたんじゃないのか…?」

僅かに、月白とは反対の方に、顔を、身体を逸らした。
合わない視線のまま、会話だけが進行する。

「確かに動かされた、確かに変わった、現実の呪縛が外れたんだと思う、でも、それもただの一時に過ぎない、挫折を味わって、変化は解けて、鎖にまた縛られて、ある種の薬物みたいに根底が下がったんだ、もう何もかもがどうでもいいって思うくらいの奈落の底まで、いや、それが私自身の本音なのかもしれない、逆に気付かされたんだ、今までの私はきっと、狂っていた」

狂う、最後の言葉に月白はまた夜乃海へ向く。
そして、顔を逸らした夜乃海を知ってか、しつこく、何度も、問いかけるのだ。

「それは本心か」

夜乃海は反応を示さない。
視線はそっぽを向いている。

「心に嘘は吐いていないか」

夜乃海は反応を示さない。
暗い瞳に瞼は閉じなかった。

「現実から逃げていないか」

夜乃海は反応を示さない。
何の反応も、表には出してはいない。

「その心に、違和感は無いのか」

夜乃海は――

「…!」

月白は驚きを隠せなかった。
ふと、夜乃海の頬から何かが零れ落ちたのだ。
それを見逃すことは無く、明らかな涙であると、その悲しみを月白は理解した。
夜乃海は自分でもそれに気付いたからか、サッと月白に背を向けた。
その時に分かった、今まで月白の死角にあった右手は、強く握り締められ、震えていたことに。

「迷うのが…辛かったんだね…苦しかったんだね…ごめん…気付けなかった…」

月白は後ろから、夜乃海の頭を優しく撫でていた。
深い悲しみはあるものの、懐かしい、そんな気分だった。
すると、夜乃海は息が詰まるような震えた声を出す。

「月白は…悪くない…」

精一杯の声だった、しかし月白にはそれで十分過ぎる程、夜乃海の優しさを理解している。
冷たいけれど、夜乃海は優しい、それは灯だってきっと分かっていることだ。
だからそんな夜乃海の為にきっと今も、色々なことを考えて、どうすれば夜乃海の為になるか、頑張っている。
だから、夜乃海が落ち着くまで待ってから、月白は言うのだ。

「一つ…最後に」

灯は私よりも頭がいい、普段の調子と反対に内側は冷静だ。
だからいい答えを見つけ出す、夜乃海の悩みに、生き方の迷いに。

「良き友人の言葉を、心から受け止めてみてご覧、君の為になるよ、不老不死の私が言うんだから、絶対にね」

だから託す、私はそれだけでいい。
核心の触れるようなことは言わず、それでいて説得力を持たせる。
今までの夜乃海の状態は心を閉じたままだったと聞く、それが泣くと言う感情を溢れさせることで、少しは開けたのだろう、無理やりこじ開けたも同然かもしれないが。
あくまで私は裏方だけ、これは二人に解決させることに意味がある。

「友人…うん…分かった」

まるで昔に戻ったみたいだ。
幼い頃の夜乃海が目に浮かぶ。
思い返してみると、灯も、昔と比べて変わったな。
懐かしい、時間の感覚はいつまでも変わらない…。
その分の死を見て、歴史を知って、年甲斐も無く、寂しいな。
やはり、どれだけ時間が経とうと、慣れないものだ。
一人一人に個性がある、何物にも特徴がある、誰一人として私は忘れないよ。
夜乃海のことも、永遠に。



臘月、しんしんと降り積もる雪、遮られずに満ちた月、そんな冬景色は見事なまでに美しかった。
白い息が暗い空に消える、寂しげに夜空を眺めるのは夜乃海、それは自室のすぐ目の前、ボロボロのベランダに立つ。

雪…か、私の絵には丁度いい題材だろうな…。
そうは思いつつも、描く気力はやっぱり無い。
今日は冷えるな…もう戻ろうか…。

そう思った矢先、見慣れた男が傘も差さずにやって来るのが見えた。
灯だった、こちらに気付くと、手を振っては走るのだった。

「よっ、少し久しぶりだな」

「あぁ…うん…」

灯は、変わっていないな、何て言うか、気が楽だ。
変わらない人が周りにいるって、いいこと何だろうさ。
いつもの調子でいられる、そんな気がする。
そういえば、月白が言っていたな。
良き友人の言葉を心から受け止めるように。
何か言われるのかな、もしかしたら、今までも言われてたのに気付かなかったとか。

「ジャーン」

「本…?」

灯がバッグから取り出して、夜乃海に見せつけるようにしたそれは、小説のような本で、夜乃海は何を知ったか目を見開いた。

「って何その絵」

「え?絵?普通の絵?」

絵の描かれたただの表紙だった、しかし、夜乃海はそれに惹かれていた、灯から手渡されるそれをまじまじと見て、興味を持っていたのだ。
灯が逆に驚いている、まさか夜乃海がこんなにも興味を持つとは思っていなかったから。

「これ…何?」

「小説だよ、月夜の緋鞠日って言う二人組の、唯一無二の作品」

「唯一無二?他の作品は…無いってこと?」

「そゆこと、おすすめの作品だからさ、気晴らしにでも読んでみてくれ、じゃ」

すぐにまた帰路に就いて階段を下る灯を夜乃海は引き止めた。

「え、それだけ?これを渡しに来ただけ…?」

「ん?そーだよ」

え、えぇ…?

「貰ってくれていいぞ、じゃあ、またな」

止める言葉は無く、灯は本当にそのまま帰って行った。
これが、灯の見つけた太陽のなり方なのだろうか。



部屋に戻った夜乃海は早速読んでみることにした。
再び、その瞳は興味深そうに表紙へ向いている、暫くして捲り、漸く読み始めた。
何と言うか、堅苦しい動きをしている、隅々まで見ないと気が済まないのだろうか。
そんな調子で進み、時計の針が回る回る。



息が詰まる、心が苦しい、最初はそんな印象を受ける作品だった。
印象に留まらず、読者に体現させる程の力強さがそこにあり、しかし文字を追う目を止めさせない構成に、感情移入と言うか、もはや主人公に自分を重ねさせられて、言葉に表せない程の感動が伝わってくる。
苦しさはあれど、楽しい、その気持ちがはっきりと自分の中で理解出来るのだ。
『日常と変化』をテーマに繰り広げられる世界は、酷く歪な形をしていて、それを挿絵が上手く描いており、互いに補い合うからこそ、理解が生まれる作品なんだと分かる。
そして終盤にして漸く、窮屈な空気が開放される、常識にも何者にも囚われるなと言う言葉が、私には深く突き刺さった。
私が、現実に囚われていたからだろう。
どうせ死ぬから諦める?違う、もうすぐ死ぬから全力で生きる、いつの間にか、思考回路が絡まっていたんだ。
それがこの作品を読んで、解く手がかりを掴めた気がする。
成長に限界を感じた、才能が無いと感じた、それが現実だと私は思っていた、違うんだ、それが現実だなんて、私自身もよく分からないだろ。
私は馬鹿だ、現実なんて没却しろ、夢にだけ没頭しろ、夢か現かなんてこの際考えなくていいんだ。
私は夢がみたい、永久(とこしえ)の儚さ、その『最高』を思い描く。

読み終えた頃には夜が明け、朝日が顔を出していた。
しかし、時間はお構い無しに夜乃海は再び、鉛筆と紙を取り出していた。
そして描く、描くことは決まっていない、けれどイメージだけが脳裏に浮かんでいるのだ。
それを紙に写し描くだけ、想像を描くのは夜乃海の得意分野だった。
例えば、僅かな時間見た景色を描くとする、普通、それだけで完璧に記憶出来る程、夜乃海の頭は優秀じゃない。
そこで夜乃海は想像するのだ、実際に下書きをして見て、試行錯誤を経て、足りない記憶を自分なりに補完する。
今回は全てが想像、元の無い不完全な景色、本人の想像力と独創性、一種の本来の実力が鍵となるだろう。
だから夜乃海は、いつも以上に下書きをした、不確かな景色を確かなものへ、夜乃海は描くのだった。



回る世界。
惑星軌道をなぞる。
それは楽しい楽しい夏の話。

散らかった部屋、傍らの『無愛』と書かれた本一冊、描かれる心に切りつけられた跡二つ。
そんな部屋を飛び出して、僕は勝手に裏口を抜ける、そうして、森閑とした山を進む。
固められた土の上、出会った少女。
無邪気な笑みが僕の手を引いて、

「ねぇ、遊ぼう?」

二人だけの日常が始まった。

その日は山に行った、川で遊んだ、魚を捕まえたり、石を重ねたり。
その日は海に行った、砂で山を作ったり、波を追いかけたり、追いかけられたり。
その日は祭りだった、楽しんだ、沢山、無邪気に楽しんだ。
花火が上がった、綺麗だった。
一ヶ月を、毎日楽しく遊び尽くした。



散らかった部屋、傍らの『無愛』と書かれた本一冊、切りつけられた跡二つ。
そんな部屋を飛び出して、僕は勝手に裏口を抜ける、そうして、森閑とした山を進む。
固められた土の上、出会った少女。
無邪気な笑みが僕の手を引いて、

「ねぇ、遊ぼう?」

二人だけの日常が始まった。

その日は山に行った、川で遊んだ、魚を捕まえたり、石を重ねたり。
その日は海に行った、砂で山を作ったり、波を追いかけたり、追いかけられたり。
その日は祭りだった、楽しんだ、沢山、無邪気に楽しんだ。
花火が上がった、綺麗だった。
また、一ヶ月を、毎日楽しく遊び尽くした。



散らかった部屋、傍らの『無愛』と書かれた本一冊、切りつけられた跡二つ。
そんな部屋を飛び出して、僕は勝手に裏口を抜ける、そうして、森閑とした山を進む。
固められた土の上、出会った少女。
無邪気な笑みが僕の手を引いて、

「ねぇ、遊ぼう?」

二人だけの日常が始まった。

その日は山に行った、川で遊んだ、魚を捕まえたり、石を重ねたり。
心が苦しい、それなのに救われる、現実から逃げ出した逃げ場の無い僕を受け入れてくれる気がした。

その日は海に行った、砂で山を作ったり、波を追いかけたり、追いかけられたり。
まだ苦しみは感じていた、怖かった、生きることが怖くて仕方が無かった。
それでも、不思議と笑顔が生まれた。

その日は祭りだった、楽しんだ、沢山、無邪気に楽しんだ。
花火が上がった、綺麗だった。
ふと、涙が零れた。

あぁ、ダメだ。



散らかった部屋、傍らの『無愛』と書かれた本一冊、切りつけられた跡二つ。
そんな部屋を飛び出して、僕は勝手に裏口を抜ける、そうして、森閑とした山を進む。
固められた土の上、出会った少女。
無邪気な笑みが僕の手を引いて――

『俺は何をしてるんだろう』

変わる世界。
惑星軌道はそのままに、ブラックホールへ吸い込まれるように、渦巻く線を辿る。

嫌な記憶が、暗闇に淡い灯火となって現れるように、絶望を帯びて蘇る。

花火が上がった、綺麗だった。
ふと、涙が零れた。
彼女が心配そうに問いかける。

「どうしたの?」

その優しさが怖かった、僕が今ここにいるのは僕の裏切りが僕をここまで運んできたからだ。
流れに身を任せて、自分の意思はどうでもよくて、弱くて、弱くて、だから親友さえ簡単に裏切ってきた。
だから今回もまた、きっと裏切り捨ててしまうのだろう、そんな恐怖だけが心を握りしめる。
自身に対する嫌悪しか、もう残ってはいなかった。
だから、僕は逃げ出した。
彼女を置いて遠くへ、遠くへ、必死に走った。



山の中、打ち上がる花火の音ももうどこか彼方へ。
僕はずっと持ち歩いていた刃渡り五・五センチメートルのナイフを取り出し、強く握った、刃の鋭さが見て取れる。
月と共に反射する自分の顔は酷く醜く、自分に対する嫌悪が、その手を突き動かそうとする。
それなのに、震える、死にたい、死にたい死にたい死にたい死にたい…!
生きて悔いを積み重ねるくらいなら、いっそこのナイフで死んでしまいたい…!
だから、思い切り振りかぶって、心臓目掛けて一直線に、僕は死を振り下ろす。
直前、寸前、暖かな温度が力む身体に触れる。
優しい熱だった、その熱に、まるで怒りは奪われたように、手から力が抜けた、立つ力すらも失った。
地面に座り込む僕の前で、微笑む少女は言う。

「そんな死に方…ダメだよ…?」

なら、どうすればいいんだよ。
死に方にいいも悪いもあるもんか。
正しい生き方で報われるもんか。
だから俺は逃げたいんだよ、生きることが苦しいから、俺は逃げたいんだよ。

「なら、私が殺すよ、一緒に死のう」

少女は、ナイフを持っていた、僕のとはまた違う、別のナイフ。
その言葉を受けた瞬間は、衝撃が凄まじかった。
しかし、どこか心の淵で納得してた、彼女といると不思議と落ち着くのは、彼女が僕にとっての逃げ場、居場所、死に場所だったからなんだろう。
生きることに向いてなかった僕らは、そうして死を選ぶ。
互いに抱き締め合って、その背に、心臓にナイフを刺すのだ。
『有愛』だ。
殺すと言う認識は薄かった。
共に死んで行く、そんな認識だった。



俺は、生きることも死ぬことも俺には出来なくて、ずっと、思い出を繰り返すのだ。

遠い果て、男の存在は人の目に止まらぬ程に小さく、そして世界と共に消滅したのだった。
自分では気付けなかった、歩む世界の小ささに、現実、虚しい空に消える運命を辿るのだった。



「はぁ…出来た!」

夜乃海の描き上げた絵は、丸の中に渦巻きがあるような作品だった。
外側の円には誰かの人生のような、儚い夏の思い出のようなものが描かれ、それをなぞって行くとある分岐点に着く。
曲がれば別の道を歩むことになり、曲がらなければもう一度同じ道を繰り返すだけだ。
まるで一つの物語がそこにはあったのだ。

今回の作品で発想力が上達したように感じる、きっと後にも活かされるのだろう。

思い返すと久々だな…。
三ヶ月は描いてなかったんだ。
三ヶ月…か、そんなに、時間が経ってたんだな…。
もうすぐ年も明ける、時間が…無い…。
せめてやり切ろう、精一杯描いて、最高を現実にしてやる。



そうして年を越し、更には一月も過ぎ去った。
完成された作品は無かった、一つも無かった、普段なら一ヶ月に三作程作っていたのだが、それでも、前のように負の感情に苛まれはせず、向上心を胸に描き続けた。
作品としてのボーダーラインというものが高くなったのかもしれない。
描き方を改めて見直し、時には自身の持つテーマの反対にも挑戦した。
それが正解だったのだろう、『儚き永遠』は『永遠』があるからこそ儚き『永遠』である。
夜乃海はそれに気付いた、だから第二十三作は『永遠』をテーマに描くのだ。



車に轢かれた猫を見た。
交差点、点滅する歩行者用の信号が、丁度赤に変わった瞬間だった。
亡骸、招くような猫の手が、まるで私を呼んでいるような気がした。
あぁ、死はこんなにも、身近なものなんだと、再認識させられる。
やっぱり、生にも死にも、意味なんて無いんだろうって、そう思った。
意味はきっと、生き方にあるんだろう。
私は、私の生き方に意味を見出せただろうか。
本音を言えば、どっちでもいい、私が私に満足出来たんだから。



「今日…か」

枯れたままの月狂夜桜の下、月白は呟いた、その後ろに、夜乃海がいた。
最後の挨拶だった。
千川や雪雲、クルミミ、緑茶には、既に終えていた。
死ぬとは言っていない、ただ少し、話をしただけだ。

「月白、お世話になりました」

「あぁ…」

夜乃海の声に月白は、ゆっくりと体を向き直した。
悲しい表情は隠したかった、けれど、夜乃海に向いた、顔を合わせたかった。

「こちらこそ…今までありがとう…」

悲しみは覆い隠さず、月白は優しく包み込むのだ。
落ち着く感覚、張り詰めるような気分が、少しだけ楽になった。

「この一年…幸せだったよ、全力で生きれた」

「そうか…それは良かった…」

「私の絵、灯に渡すんだ、展示会をしたいらしくて」

「展示会か…いいね、夜乃海の絵はきっと誰かを変えるよ、いい方向に導くよ」

月白は少しだけ離れて、また顔を合わす。
夜乃海の顔が見たかった、悲しくも、いい笑顔だった。

「夜乃海…行ってらっしゃい」

「行ってきます…」

夜乃海は月白から目線を外した。
少しだけ、その目は桜にも向いていたように思う。



送り出した月白は、いつも、いつまでも思うのだ。

「慣れないなぁ…私も…」



「灯、久しぶり」

「おっ、おぉっ!?ほんとに偶然だな、夜乃海」

曇り無き夜の色想で、灯とすれ違うふりをした。
本当は、黒が教えてくれるだけなんだけどね、そんな言葉は心の中だけ。
胡桃屋の前、月明かりの下、夜乃海はふと、空を眺める寂仕草。

あの夜桜を見た夜も雲は無かったな…。
一年で、私はこんなに変わった、思い返すと、一年はあっという間だった。
けれど、今までの時の中で一番の充実感を感じられた、満足だった。

「灯、これ」

夜乃海は大きな紙袋を渡し、受け取る灯はチラッと中身を覗いてみた。

「何だこれ、って、え、絵!?」

すると見えたのは、月狂夜桜、夜乃海の描いた絵だったのだ。
二度見までして確認した、間違いは無かった。

「今まで描いた二十四枚の作品だよ、灯に託そうと思って」

「え、何で?」

「展示会、開いてね」

この話も一年前か、覚えてるかな。

「…?俺が開くのか?」

「私にはやり方が分からないから、それに、そういうのは灯の方が向いてるでしょ?」

「あぁ、集客力は高いからな、よし、任せとけ」

「うん、じゃあ…ね」

僅かな微笑みを見せて、夜乃海は踵を返した。

またねって、言えなかったな。
何でだろう、全てやり切ったはずなのに、少し悲しいな。
満足は、出来たのにな…。

「夜乃海」

その言葉に、ピタッと足は止まった。
夜乃海は振り返る訳でも無く、それでも声は灯に向けて、

「なに?」

呼び止められた時、不思議と嬉しい気持ちになったのが分かった。
まだ話していたかったんだ、でも、私は話すのが苦手だから、会話を広げることが出来なかった。
嬉しい半面、切なさも感じた、私は…死ぬんだもんな。
もう、灯にも会えないんだもんな…。
やっぱり、心は矛盾の塊だ…。
これももう、味わうことも無くなるのか。

「お前、描き続けるのか?」

灯は、よく答えに困る質問をしてくる。
描き続ける…そう答えたい、あぁ、そうだ、なら答えればいいんだ、私は――

「死んでも描き続けるよ」

って。

僅かな時間、音が死んだ気がした。

「あぁ、その意気で頑張れよ、死んでも応援してる」

「ふふ…」

嬉しいのに、涙が止まらなかった。
生きるのって、こんなに苦しかったんだ。
今までだって、分かってるつもりだった。
それでも、こんな苦しさは…反則だ…。

私は悟られないよう、必死に歯を噛み締めてその場を去った。



帰路に就く、色想を抜けた森の中、雨が降っていた、豪雨だった。
ゴゴゴゴ…と、雷鳴も轟く、そんな大雨。
ずぶ濡れのまま、夜乃海は思うのだ。

私は結局、最高の作品を作れなかったよ。
だけど、やり切った、全力を出し尽くした、満足のいく作品が作れた。
きっと、死んでも描き続けよう、自分自身にそう誓った。

森を抜けた、その瞬間だった、空がまるで太陽のように白に変わったのだ。
雷だ、夜乃海へ向かって、落雷が天を下って地へ駆けるのだ。
天からの迎えか、そう思える程に、何とも不思議な終わり方だと、自分でもそう思った。

これが死…か。

自分が泣いているのかも分からない。
ただ、ただ、悲しい、そんな気持ちが明らかに理解出来たのだ。

生きたかった…。

ふと思った言葉に、夜乃海は漸く気付いたのだ。
自分の意志に、自分の気持ちに。

当たり前のことなのに、今まで、気付かなかったんだ。

私は…死にたくないんだ…。

生きるって、『最高』だったんだなぁ…。



夜乃海の最期に映るものは、真っ黒の闇に消えた。
最後の最期に『最高』と言うものを知り、悔いて死んだのだろうか。
それとも、死んでも『最高』を描くのだろうか。
死後の夜乃海を誰にも知らない。
しかし、雷が地に着いた瞬間、響き渡った轟音を夜乃海は未だ知らない。



それから灯の耳に夜乃海の死が伝わるまで、日はあまり跨がなかった。
澄み渡る青空、桜の下、月白からその事実を聞いた灯は、静かに涙した。

「そう…か…」

月白には、その様子に違和感があるように見えた。
それは、灯ならもっと悲しむのだろうと思っていたからだ。
だから、そういうことなのだろう。

「気付いていた…か」

「唯一の親友の変化には、そりゃ敏感になるよ…」

咲う灯の頬を伝う涙、ポツリ、ポツリと、乾いた地面に零れ落ちる。
月白は、俯く頭を優しく撫でた、悲しみを分け合った。

「夜乃海と最後に話したのは君だ…彼女の生き様はどうだった?」

「あいつは…やっぱり凄いよ、いい生き方だった、満ちていた、俺も嬉しいや…」

止まない涙、握り締める手、心が苦しかった。
気付いていたのに、感情が溢れ出す、悲しみが、溢れ出す。

「そうか…」

月白は、嬉しさを分け与えた。
ずっと、ずっと、月白は優しさで包み込んでいた。
ふと、月白は七分咲きの桜に顔を向けて、涙ながらに微笑んだような気がした。



夜桜、君が彼女の一年を、『最高の生き方』にしたんだ。



「ねぇ、月白さん、私はどうして生きてるの?生きる意味も無い、役目も、私には果たせなかった、不幸に…導いた…!なのに、二人は死んで、私はまだ…」

枯れた夜桜が強く問いかける。
自責の念を抱えて、強く問いかけるのだ。

「君の言う…自分の役目って?」

「きっかけを与える力…私の力…この力で…二人をいい方向へ進ませる…はずだった、ダメだったんだ…私じゃ…いい方向になんて、無理だったんだ」

月白は、夜桜の言う二人を知っていた。
赤と白、この夜桜の親となる二人だ。
その末路は、不幸なものだった。
ただ、月白は知っていた、力とは、ただの力でしか無いと。
だからこそ、それを伝えるのだ。

「まず…言う、君のせいじゃない、これは絶対だ」

「でもっ!――

「違う、きっかけはきっかけ、そうだろう?悪い方向に向かったのが君のせいとは言い切れない、だって、君は優しい、優しい君にある力だ、だから君のせいじゃない、君自身がよく分かっているはずだから」

「力って言うのはね、所詮は力でしか無い、原因は…道筋だよ…後は、あの二人の意志や行動…全部自分のせいにしなくていいんだよ、自分に悪い所があれば、相手にも悪い所がある、一番大切なのはそれに気付くことだ、分かった?」

「でも…私にはもう…生きる意味が…」

「君は…自分が生まれたのは、あの二人を幸せにする為だと思っているのか、生きる意味なんて…無いんだよ、元から、そんなものありはしない、自然に生まれて、自然に生きてる、生き物はみんなそうだから」

「自分を解放してご覧、意味なんてものに縛られてはいけないんだ、好きに生きるんだ」

「それでも、私はっ!人を不幸にした!不幸に導いたっ!私が普通に生きてるだけで、また、あんな風になるんじゃないかって…怖い…の…」

声は酷く震え、言葉は微かな息に塗れて消えた。
それなら、と、月白は真っ直ぐな心で夜桜に言うのだ。

「分かったよ…私が証明しよう、君の力が人に幸福を与えると」

そうして、月白は花を咲かすよう、月狂夜桜に言いかけた。
証明してやると、その優しさを。
そんな月白の熱意に、不安はありながらも月狂夜桜は開花を始めた。

そして現在に至る、月白は夜乃海の生き方で証明して見せた。
灯を動かし、夜乃海に桜の力、きっかけを与えた。
その生き様は月白から見ても、灯から見ても素敵だと言う。

とどのつまりは正解だ。
証明が成されたのだ。



夜乃海さんの生き方は…私が及ばないくらい美しかった。
今を全力で生きたんだ、意味なんてものに縛られず、先を恐れずに、そんな生き方が美しい。
ありがとう、皆さん…。

花弁が舞い落ちる、それは涙の如し。
春が泣いているようだった。




春愁い、月船が漂う夜は、あいつの顔が頭に浮かぶ。
今頃、月船から俺達を見下ろしてんのかな、あの絵みたいに。

灯、儚き月の窓より。
本を閉じる前、月明かりに照らされた言葉があった。

『何が正解か何が常識か、そんなもの何にだってお前にだって分かりゃしない、だったらお前がお前のやり方でその人の太陽になればいい、何者にも囚われない五千の熱で常識も何もを没却しろ』

俺は、お前を照らす側になれたか。
なぁ、夜乃海。

部屋の隅に、立てかけられた計二十四作。
第二十四作、最期に描かれていたのは、月船に座り、咲う夜乃海の姿だった。



終わり

古今色想環ー永儚ー

後書き
古今色想環ー永儚ー
ココンシキソウカン トコシエハカナ
なろうにも掲載。
https://ncode.syosetu.com/n9885ge/

古今色想環ー永儚ー

古今色想環シリーズ。 第一作目。生き方を描く。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-05-26

Copyrighted
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