シャベル

少し掃除機をかけただけで、道子が着ているTシャツには濃紺の汗染みができてしまっていた。外に干してある洗濯物がかわいそうになるほどの暑い日である。
ダメだ。これ以上動いたら死ぬ。頭ではそう思いつつも身体はまるでプログラミングされたロボットのように動き続けていた。洗濯機を回している間に掃除機をかける。掃除機をかけ終わる頃に洗濯機が止まる。洗濯物をを干したら、朝ごはんの準備に取り掛かるーーと、どこからか自分を呼ぶ声が聞こえた。

声の調子で、道子は息子になにかあったことを直観する。
本能的に声のした方向へ駆け寄ると、縁側から開けっ放しの窓を通って、真っ白な伝書鳩のように息子が飛び込んでくるところだった。
「おかえり! どうしたの?」
道子は経験上、こういう時には努めて落ち着いた声で話すようにしていた。そうでないと敏感な子供は母親の動揺をすぐに見抜いてしまう。
しかし息子はすでにパニックを起こしかけていた。
「シャベルが!シャベルが!」
道子はさりげなく息子の状態を確認しながら(どうやら怪我ではないみたい)、辛抱強く彼の言葉に耳を傾ける。そこでふと、その小さな手に力いっぱい握りしめられている古ぼけたシャベルに気がついた。
これは少し前に、息子がどこからか拾ってきたあのシャベルに違いない。元々は土の中に埋められていたとか言っていたが、名前を書きたいというから、持ち手のところに自分で、大きく「タカシ」と書くのを手伝った記憶がある。
道子はそのシャベルを息子の手から剥がし、ためつすがめつ眺めてみる。
それは見れば見るほど不思議なシャベルだった。持ち手の先にハート型の葉っぱのようなものがついていて、普通のシャベルのような、金属やプラスチックでできているものではなく、真っ白ですべすべした木のような、けれどももっと軽くて硬い、不思議な材質で出来ているのだった。
そもそもこれは本当にシャベルなのだろうか。シャベル! とあまりにも息子が嬉しそうに言ったので、道子もそれをシャベルと呼んではいるのだが、こんなシャベルは他のどこにもない。おかしなシャベルなのだった。
息子はそのシャベルを大事に抱えて今にも泣きそうな顔をしている。
「あらー、シャベルくん、かわいそうに、刃が欠けちゃったのね」
息子は大きくうなずきながら、まるで喉元まで出かかっていたコトバをつばと一緒に飲み込もうとでもするかのように、ゴクッと喉を鳴らす。
「もう、チー坊。こんなの全然たいしたことないじゃない。あんまり母さんをびっくりさせないで。でないと母さん、そのうちチー坊を置いてポックリ逝っちゃうからね」
安心した道子は息子の手にシャベルを返してやると、タオルでゴシゴシと顔を拭いてやりながら努めて優しく語りかける。
「シャベルなら、きっとお爺ちゃんが新しいのを買ってくれるわよ」
              



    ~ 2 ~


このデパートという馬鹿馬鹿しいほど大きなコンクリートの建物には、およそ人間が思いつく限りのありとあらゆるガラクタが揃っているようだ。
何より信じられないことに、このデパートはマンションにもなっていて人が住むことまでできるのだという。
チー坊と手を繋いで歩きながら、光三はデパートで生まれ育ち、死んでいく人生というものを想像し、なんだか恐ろしいような、思わず大声で叫び出したくなるような気持ちになるのだった。
怖い。怖い。そんなことよりも、ここではぐれたらえらいことになるぞ。
ふと我に返って、光三は孫の存在を確かめるように、つないでいる手をぎゅっと握りしめた。

けれども初めての場所に緊張しているのは光三のほうだけで、一方のチー坊はずっと落ち着いて見えた。というよりも、心ここにあらず、といったほうが近いだろうか。
先ほどから光三が何を話しかけても、チー坊の返事は一言、うーん、だけである。そのうち光三も諦めて喋るのを止めてしまった。

 二人はかなり手間取って、ようやく案内カウンターを見つけた。丸テーブルの奥に座っているのは、黒髪の綺麗なおかっぱ頭に、小粋にチョンと帽子をのっけた、まるで日本人形のように美しい娘さんだ。
「子供用のシャベルはありますか?」
光三の問いかけにすっと掌をうえに向けて応えた娘さんは、なめらかな笛の音のような声で
「3階、エスカレーターを登って右手、すぐにございます」
と言った。
「どうもありがとう」

礼を言ってエスカレーターを上がると、見えてきたものは、およそ自然界にはありえないようなてらてらした原色のジャングルだった。
「チー坊。見てごらん。オモチャがいっぱいだ。じいちゃん、目がチカチカするわ。そんで、チー坊が欲しいのは何だっけか?」
「うーん……」
しばらく調子を崩して臥せていた光三にしてみれば、今日は孫と二人で出かける久しぶりの買い物である。できることなら少しでも孫の笑顔が見たい。
けれどもそんな光三の思いなどつゆ知らず、チー坊は呟く。
「お爺ちゃん、ぼく一人で選ぶから、そこで待ってて。ぼくがいいっていうまで、ちゃんとそこにいてよ」
光三は淋しげに肩を落として、大人しく孫の指示に従う。
備え付けのベンチに座って遠くから眺めていると、チー坊は小さな背中を丸めて、色とりどりのシャベルの前でなにやら一人でぶつくさと喋っている。
変わった子だ。それとも、最近の子供はみんなああなのかな。

しばらく物思いにふけっていると、
「じいちゃん」
孫に呼ばれて我にかえる。
「なんだチー坊、いいのなかったのかい?」
「うーん……」
「そうか。そんなら、オモチャでも買おうか」
「ううん、やっぱり、もうぼく、いいや」
そう言ったチー坊の顔にはーー決意とも苦悩とも受け取れるようなーーまるで子どもらしからぬ表情が浮かんでいる。
光三はそれをまじまじと見つめて思う。

本当に変わった子だ。こんなちっちゃな子どもが、人にも話せないこの世のどんな悩みがあるというのだろうか。そんなの早すぎやしないだろうか。
一体誰に似たんだろう。
そうだ。チー坊は、大事なシャベルが壊れたって言ってたっけ。シャベル一つで、一体どうしてこんなに落ち込むんだろうか。
さっぱりわからん。わしにはさっぱり……。


帰りの車の中でも、チー坊はずっと黙ったままだったーーと思いきや、突然こんな質問をぶつけられて驚いた。
「ねえじいちゃん」
「ん?」
「もしぼくがある日とつぜん、ねむったっきり、目をさまさなくなっちゃったらどうする?」

 光三の胸がドキッとする。緊張が走る。
孫の真剣な眼差しをひしひしと感じる。
危ねえな。こりゃへたなことは言えんぞ、
気を引き締める。
ようやく言葉が出てきた。
「悲しむだろなあ」
それとも、こういう答えが欲しかったんじゃなかったか?
バックミラーを見て後続車がいないことを確かめると、そのまま横目でちらっと孫の顔を確認する。
残念ながら表情からは何も読み取れない。念のため少しアクセルを弱める。
「悲しむだけ?」
やれ困ったぞ。一体この子は何を言ってほしいんだろう?
「そうだなあ…」
光三はしばらく黙りこんだまま車を走らせると、なるべく明るい声音になるように努める。
「やっぱり、チーが目を覚ますまで、お話でもしてやるかなあ」
「お話?」
「ああお話さ」
「どんなお話?」
さあおいでなすった。どんなお話にしようか。光三はぺろりと指先をなめ、語り始める。
「それじゃ、じいちゃんがこれから一番面白いお話をしてやろう。これは嘘じゃない、ほんとうのお話。じいちゃんの同級に山川のじさまって人がいる。年は数えで78歳。その山川のじさまがよ、去年脳卒中で倒れちゃったんだ」
信号が赤に変わる。
バックミラーを見る。異状なし。
「脳卒中てのは、まあ、頭の病気だな。そんで、どうも重い病気らしい。ある日、医者もとうとうさじをなげちゃって、残念ながら、もうこの人は一生目を覚ましませんって、こういったわけよ。けども、じいさんの家族はやっぱり諦めがつかんかったんだろなあ。わざわざうんと遠い所から神主さん呼んできてよ、お祓いしてもらったんだと。
そんでその神主さんがな、帰り際にこう言ったんだそうだ。
じさまは今あっち行くべか、こっち行くべかして、迷っちょる。もしこっちさ呼びてえんなら、なるべくたくさん話しかけなされ。そうすれば、もしかしたら目を覚ますかもしんねえよ、って。
さっそく家族は、次の日から、親戚から何やらより集まって、みんなで交代でじゃんじゃん話しかけたんだと。

そしたらな、タカ坊。驚くなかれ。あらびっくり、じさまはほんとにこっちにもどされちゃったんだって!」
「もどされちゃった?」
「だから、じいさん突然目をパチっとあけたのさ。そんでさらに不思議なのはだよ、じさまはなんと、眠っているあいだのことを全部しっかりと憶えてるっちゅうわけよ」
「へぇ!」
「それで実際にみんなが喋ってくれた話を全部繰り返してみせたっていうんだから、こんな不思議な話は聞いたことも見たこともないねえって、もうみんな驚いたのなんのって、そういうお話」
「ふーん」
「これほんとだぜ。だからな、タカ坊、爺ちゃんも、タカ坊が目ぇ覚まさなくなったら、目ぇ覚ますまでずっとお話してやるんだ。な、だから何があっても大丈夫。安心していいんだよ。
でもよ、そんなこといってタカ坊。どうしたよ? なんで突然そんなこと心配になったんだ?」
「ううん、ただ、思っただけ」
それっきりタカ坊は、窓の外を眺めたまま、再び黙りこんでしまった。それからは光三が何を言っても、ふーん…、と気のぬけたような返事しか返って来なかった。


光三はもちろん母親も誰も知らないことだったが、タカ坊はこの日から、毎晩ふとんのなかで、シャベルにお話を聞かせるようになったのである。


~ 3 ~


『タカ坊のおはなし』

あるところに、とってもおしゃべりな シャベルと、ぼくがいました。シャベルのなまえは シャベル。ぼくのなまえは、タカシ といいました。
シャベルは どこのおみせにも うっていない とくべつなシャベルでした。それに、なんといっても それは ぼくのシャベルなのでした。
けれども ぼくがあるとき、「おまえはぼくのシャベルだよね」というと、シャベルは、「オイラハ、ダレノ シャベルデモ ナイヨ」といいました。ぼくが「ちがうよ、ぼくのシャベルだよ」というと シャベルは、「ジャア、タカボウハ、ボクノ タカボウカイ?」といいました。ぼくは、「わかんない。たぶん、だれのタカボウでもないよ」といいました。シャベルは、「ソンナラ、オイラモ ダレノ シャベルデモ ナイネ」といいました。
ふたりはそれっきり、そのひは もう くちを ききませんでした。


つぎのひ、ぼくは、マジックで シャベルにでっかく『タカシ』と なまえをかきました。
これで シャベルは ぼくのシャベルに なりました。
それから、ふたりで、すなばにでかけました。
しばらく むちゅうであなをほっていると、シャベルが「チョット ヤスモウゼ」といいました。ぼくは 「もっと、もっと」といいました。シャベルが、「カタガ イタク ナッテキタ」といいました。ぼくが「まだまだ」といいました。シャベルが、「タカボウ、ネエ、コシガイタイヨウ」って言いました。ぼくは「もう、うるさいよ!」といいました。「ちょっと、だまっててよ!」といいました。「それとも おまえは、くちをひらかなきゃ、あながほれないのかい!」 といいました。
すると シャベルはきゅうに だまってしまったので、ちょっと いいすぎたかな、とはんせいしていたら、それから、ざくっ、ざくっ、ガチン!! とすごいおとがして、シャベルが かたいいわに ぶっつかりました。
「うわっ、かってぇ、いわだ。おお、いたた、シャベル、だいじょうぶだった?」
けれども、シャベルは へんじを しません。
みると、シャベルは あたまが かけていたのでした。


「なんだタカ坊、まだ起きてんのか」
光三が扉の隙間から声をかけると、タカ坊はすぐに寝たふりをして言った。
「ううん、もうねてるよ!」


おやすみ、シャベル。だいじょうぶ。
ぼくがかならずもどしてあげるからね。              

シャベル

シャベル

少年について。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-07

Copyrighted
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