たかが愛のはなし

佐倉愛斗

たかが愛のはなし

 新山幸瑠は告白された。愛の言葉を伝えようとする男子の声は震えていた。彼の名前を幸瑠は知らない。そして名前すら知らない相手に告白されることは初めてではなかった。
 場所は古風に学校の渡り廊下。静かに射す午後の柔らかな太陽が冷え切った心の存在をはっきりと自覚させる。
 こういうときどうするのが正解なのだろう。幸瑠は困惑する。一時のときめきが訪れようとしている脳の後ろ側に冷たい風が吹いている。
 渡り廊下の先で掃除当番の女子たちが話している。誰が好きとか嫌いとか。こちらには気付いていない。頭がさえて聴覚が過敏になる。
 冷め切った幸瑠の姿に、目の前の男子は「やっぱり、ダメかな」と口角を震わせていた。
「うん、ごめんね。まだ分からないから」
「分からないなら、付き合ってからおれの事を知ってよ、新山さん」
「そうじゃないの」
 ――分からないのは、わたし自身のことだよ。
『正しい恋』を幸瑠は知らなかった。
 辞書に乗っている意味なら分かる。
〈異性を強く慕う気持ち。切ないほど好きになること。〉
 幸瑠に似たような感覚を経験したことがないわけではない。。でも今、胸にあるこの感情が正しいのか考えれば考えるほど分からなくなる。
 幸瑠の中にいつでも彼はいる。切ないほど好きだ。
 でも、これが恋とは呼べないことは幸瑠には分かっていた。
 何度目かの告白。幸瑠は自負する。平均よりは高いが男子と並んでも不自然じゃない程度の身長。艶のある肩までの黒髪。力強い瞳。小さな鼻。薄紅色の唇。贅肉とは無縁で肌は瑞々しい。つまり取り立てて容姿に欠点はない。学業はどうかと言われると三年生になって最初となる先月の進路希望調査表には地元の旧帝大の名を担任に薦められて第一志望に書いた。運動は得意ではないが体育の授業でチームプレーに貢献できる程度にはできる。欠点という欠点がないように思える。
 しかし、幸瑠は自らのことを欠陥品と呼んでいた。
 正しい恋が分からないわたしは何かが欠落している。人として大切な何かが、と。
 男子が口を開く。
「やっぱり、斉藤くんと付き合ってるの?」
 幸瑠は目を細めた。
 ――うん。そういうことになってるの。

 幸瑠は早足で音楽室に向かった。もう発声練習の音が階下まで聞こえている。規則正しい音色は感情を持たない。幸瑠が恋にまつわる感情を持ち合わせていないように。一段飛ばしで階段を駆け上がる。
 合唱部が使っている第二音楽室はカーペット敷きで、さらにその上に半畳サイズの畳のマットを個々思い思いの場所で足下に敷いている。畳のマットを買ったのは数代前の先輩方で、以降上履きを脱いで畳の上でリラックスしながら歌うことが慣例となっていた。
「ごめん、遅くなった」
 部員たちが発声練習を止めずに一斉に幸瑠を見る。責めるような視線ではなく、ああ、来たんだね。くらいの柔らかさだった。
 一人の男子を幸瑠は見る。斉藤井澄(さいとういずみ)。幸瑠と同じ高校三年生で、パートはテノール。そして、幸瑠の彼氏――ということになっている。全て分かっているような彼の同情する目に幸瑠はうるさい、と非難した。
 幸瑠も井澄とは対角のアルトパートが固まっているあたりにマットを敷いて上履きを脱ぐ。畳の柔らかさに先程までの緊張感から解放される。首に巻き付いているネクタイを緩める。幸瑠は自分の声が解けて調和する様を感じていた。
 スケール練習を終えると、ソプラノパートの二年、杜松陽子(ねずようこ)が幸瑠の脇を突く。幸瑠より頭一つ分小さい身長。高い位置のツインテールがぴょこぴょこ跳ねる。
「さっちん先輩。またですかー?」
 なれなれしいのか敬称なのか分からない愛称で呼ばれる。また、とは告白のことだ。
 沈黙を肯定と取った陽子が続ける。
「さっちん先輩にはズミ先輩がいるのにね」
 陽子は井澄のことをズミ先輩と呼んだ。
 そういうことなっている以上、否定はできない。本来の二人がどうであるかは別として。
「彼氏がいる女子に告白だなんて、あたし呆れてしまいます。何、人の彼女狙ってるの? って」
 まあまあ、とたしなめると陽子に火がついたようで。
「ズミ先輩はなんとか言わないんですか?」
 対角で静観していた井澄は「幸瑠なら大丈夫だろ」とだけ言った。
 大丈夫、って何よ。と幸瑠は口角を上げた。信頼されている。わたしが肯定されている。それだけでよかった。
「今日もお熱いですね、先輩たちは。あたしんとこと違って」
 えっ、と幸瑠は声を上げる。
 待っていたかのように「聞いてくださいよー」と陽子が猫なで声で言う。しかし遮るように和音を鳴らし「はい、そこまで」と制したのはピアノ伴奏の三森圭一(みもりけいいち)だった。
「練習が進まないだろ、杜松」
「はいはーい」
 陽子が唇を尖らせる。井澄を見ると彼は笑っていた。
 笑ってくれていて、よかった。

 今日は老人ホームでの発表会についての話し合いがあった。
 慰問は合唱部の定期的な活動の一つだ。毎年六月に行くので今年もと依頼されている。曲目は梅雨なので『あめふり』を入れることと、老人ホームだからという理由もあるのだが、部員たちから人気のある『青い山脈』を歌うこととなった。他にも五曲程度決めた。そのなかに美空ひばりの『愛燦々』も含まれていた。
「愛、ねえ」
 練習の帰り道はいつも井澄と二人だった。赤い空の下、田舎のあぜ道にふたつの影が伸びる。まだ五月の夕はシャツの上にカーディガンを羽織っていても肌寒かった。
「お前には難しい?」
「ばーか」
 揶揄されて幸瑠は井澄の手の甲をつねった。いてっ、と井澄は笑う。
「またまた今日は災難だったね」
「告白を災難って言っちゃうあんたが災難だわ」
「でもお前にとっては災難だろ?」
「まあね」
 井澄が幸瑠の髪を撫でる。節の張った乾いた男の手だった。確かな重みが心地よい。
「あんたこそ、またされたんじゃない?」
「なんでわかるの?」
「あんたのことだからわかるよ」
「お前には敵わないな」
 二人の影が重なった。濡れた唇に切なくなる。だってわたしたちが付き合うことはないのだから。
「ばーか」
 あぜ道を抜けた住宅の裏、幸瑠は井澄の腰に手を回し、正面から抱きついた。薄い胸板から伝わる熱を幸瑠は求めている。わたしを満たして。井澄も応えるように抱きしめる腕に力を込める。
 これは恋なんかじゃない。恋だなんて呼んではいけない。
「たいが、せんぱい」
 井澄が絞り出す。あまりの切なさに幸瑠まで苦しくなる。井澄は幸瑠を通して幸瑠じゃない人を想っている。じゃあ、幸瑠は誰を想えばいいと言うのか。
 井澄の気が済むまで幸瑠は抱きしめられ続けていた。二人の体温が解けるまで。これでいい。間違っていない。そう信じて。
 井澄の肩越しに暗くなった空を見上げても、一番星を見つけられなかった。

 井澄はいつものように幸瑠を家まで送った。女の子を一人で帰すわけには行かないという紳士的な考えからではない。
「幸瑠おかえり」
 幸瑠の帰りを待っている人――幸瑠の兄、大賀に井澄は会いに行くのだ。
「あにきただいま」
 自分のことをあにきと呼ぶ幸瑠を「全く、可愛くないな」と大賀は揶揄した。
 縁側で涼む彼の膝の上にはオスの三毛猫がいる。
「斉藤もいつも幸瑠をありがとな」
 幸瑠は彼を横目で見た。薄暗くて表情までは分からない。けれど微かな緊張感だけは伝わった。
「いいんです、大賀先輩。では、おれはここで」
 半音高い声。軽く頭を下げる井澄を幸瑠は見送った。あれが、恋する人の顔なのだ。幸瑠にはないものを井澄は持っている。
「斉藤みたいな奴なら安心だな」
「何言ってるの、ばか」
 大賀の手の中にいる猫が小さく伸びをした。大賀は「ばかってなんだよ」と苦笑した。

 提案したのは井澄の方からだった。
 高校生になって最初の冬冬。こんな寒い日に熱を求めるのは自然なことだったのかもしれない。
 井澄の腕の中で幸瑠はまどろみから目を覚ました。
「どういうこと?」と幸瑠が聞く。
「そのまんまの意味だけど」と井澄は答えた。
 しばらくの沈黙が流れる。
 ここは井澄の部屋で、一緒に冬休みの課題をしていた。課題はやった、一応。幸瑠は自らのことをユートーセイだと揶揄した。ユートーセイだから男女でベッドで抱き合っているのだと。
 井澄の腕の中は落ち着く。幸瑠は井澄に与えられるものに不満はなかった。
「わたしが井澄に抱かれてるから?」
「抱いてはないだろ」
「じゃあハグ」
「それは否定しない」
 井澄が幸瑠の肩を抱き寄せる。
「おれはお前のこと好きにはならない」
「知ってる」
「お前もおれのこと好きにならない」
 幸瑠は返事ができなかった。好きってどういうことだろう。契約を結んで一緒に居ることを肯定することだろうか。でも。井澄が隣にいてほしいと望むのは幸瑠ではないと幸瑠自身が知っていた。
「じゃあいいだろ」
 沈黙を肯定と取った。何がいいのか分からなくて幸瑠は薄笑いした。
 井澄の匂いがするベッドの中で何をしているのだろう。
 このような関係になったのはいつからだったか。井澄と幸瑠は高校に入学してから知り合った。部活動体験期間中、他の部活には目もくれす毎日合唱部の体験に参加していたのがこの二人。幸瑠は兄・大賀がいるからという理由もあった。井澄ももしかしたら同じだったのかも、と思うと幸瑠はいつもおかしく思う。いつから井澄が兄のことを好きなのかは知らない。知らないけれど、恋しているのだということはなぜか分かった。
 ――恋しているあんたに恋した、なんて言ったらわたしの前からいなくなる?
 井澄に関することはおかしいことばかり。本当におかしいのは幸瑠の方なのか。価値観の相違? ううん、もっと根本的なことだ。
 ――そうだ、寒かったからだ。
 恋に怯えて肩を小さくしている井澄が、酷く寒そうに思えた。ほんの出来心で抱きしめたんだ。
 それが案外よかった、なんて何をしているんだわたしは。
「わたしのこと、彼女だと思えるの?」
「いや、全く。おれ、男が好きだし」
 抱きしめながらいうことではないよな、と井澄がつぶやく。幸瑠は意地悪く肯定した。
 幸瑠は自分が主役の恋を想像できない。自分の人生を生きていないように思っていた。
「言い切るんだね」
 井澄は少し言葉に詰まって、
「可能性が閉じてるって思うから。ないものはない」
「そういうものか」と幸瑠はひとりごちる。
「告白されてお前も大変だろ」
「そりゃあ、まあ」
 なんか、言い訳がましいね。と井澄の鼻をつまんでやる。告白を迷惑だと思ってしまうわたしは何かがおかしいのかもしれないけれど、好きでもない人に言われても困るというのも事実で、一方的に愛をぶつけてくる人たちのことを好意的に思えと言われるとつらいものがある。だってわたしの中には、恋する井澄がいるから。
 幸瑠は井澄の胸に顔を擦りつける。二人の間には厚い冬服という壁があって、それを脱ぐことはきっとない。恋人同士の契約なんて、身体の関係を肯定するだけの建前なのかもしれない。
「寒いか」
 エアコンのリモコンに手を伸ばそうと井澄が身体を起こそうとする。
「やだ」
 幸瑠は彼を引き留める。
「だっこ、してて」
 しょうがないな、と井澄が幸瑠を抱き寄せる。
 愛を囁き合うのでもなく、身体の関係があるわけでもない。でも、人の暖かさには抗えなくて。
 唇が重なっていた。初めてのやわらかさ。人の身体の中で最も、熱いところ。
「井澄が好きなのは、あにきのことだよね」
 彼の首に朱が走る。
「いいよ、彼女のふりしても」
 井澄がぶつけられない思いを、幸瑠は受け止める。
 これは契約だ。寂しさを埋めるための。
 幸瑠と井澄はユートーセイだ。清く正しく男女交際。
 ――ばっかみたい。

 土曜日は梅雨の合間の中休みで、幸瑠たち合唱団は老人ホームでの発表を終えた。
 幸瑠は恋の歌を歌うと不思議な気持ちになる。人の感情を音楽に合わせててなぞり再生する。
 圭一のピアノとみんなの声が心地よい。一人じゃないって思えるから。
 陽子はソロパートを歌いたがるけれど幸瑠は苦手としていた。ソロパートどころか主旋律を歌うことすら恥ずかしい。誰かの後ろでハーモニーを重ねる方が好きだった。幸瑠の声域はメゾソプラノだが、ハーモニーが多いからという理由でアルトに所属していた。
 井澄には「主旋律が嫌いとかお前合唱向いてないな」と揶揄された。
「一人で歌うならカラオケにでも行けばいい」と反論すると「みんな一緒、ねえ」と哀れむように言われて少々癪だった。
 人間関係だってそうだ。「みんな」でいれば寂しくない。教室、部活動、学習塾。そういう居場所で人と繋がっていればいい。この恋の主役は井澄で、幸瑠はハーモニーを奏でる名脇役でいい。
 ――井澄が主役の人生だって構わない。
 老人ホームからの帰りの路線バスは決まって井澄と二人がけのシートに座った。
「じいさんたち、美空ひばり喜んでたな」
 井澄が切り出す。
「そうだね。きっと青春の曲なんだよ。わたしたちがここに入る頃にはきっと米津とかあいみょんとかキンプリとか歌ってもらえるよ」
「おれが将来ここに入るイメージはわかないけどな。そんなに長生きするとも思えないし」
 ふと、未来への階段を見上げた。果てしなく高くて、見上げれば首が痛い。霞んで見えないほど先のことまで考えてしまうことに目眩がした。いつこの階段が途切れるのかはわからない。未来を見ることは絶望にも近かった。
「わたしが井澄の子供を育てられたらいいのにね」
 孤独ではない生き方なんて分からない。縛られることに安心するのは当然かもしれない。井澄に縛られたいと願うなんてなんて愚かなんだろう。
「何言ってるの、お前」
「別に。ただの未来設計」
 井澄の瞳が揺らぐ。言ってはいけなかったのかな。井澄に大賀の子を宿す能力は無い。だったら、とまで考えて馬鹿らしさに小さく吹いた。
「一人笑いとかスケベかよ」
「スケベで結構」
 膝に置かれた井澄の手を握る。これがわたしの欲しいもの。たかが愛なんて幸瑠にとっては重要ではないのだ。
「はあ? 杜松、進展早くないか」
 圭一の驚嘆に幸瑠と井澄は振り返る。
 せえんぱあい、とぶりぶり言う陽子は続けた。
「あたし、彼氏できましたあ」
「えっ、陽子ちゃん最近別れたとか言わなかった?」
「それが、別れたらすぐ彼氏できちゃうというか、寂しそうにしてると男の人って寄ってきてくれるんですね」
 あまり興味が持てなくて、よかったね、と幸瑠はお世辞程度に返した。
 シートに座り直して、次のバス停で降りるとブザーを鳴らす。
 井澄が「杜松の彼氏って誰なんだろ」と言う。
「誰でもいいよ。わたしには関係ない」
 本当は関係あるということに、このときの幸瑠は知らずにいた。
「あれ、さっちん先輩もう降りるんですか?」
「井澄の家に行くから」
「それ、おれ聞いてないぞ」と井澄が非難する。
「いいでしょ、別に」
 陽子が「さっすが二人はお似合いですね」と言う。横の圭一は幸瑠を見ていた。しかし彼は何も言わなかった。
「あたしの恋バナ聞いてくださいよ、さっちん先輩もズミ先輩も」
 また今度ね、と陽子に手を振って二人でバスを降りる。
 バスが行ってしまうと、幸瑠は井澄の片腕に抱きついた。
「なんだよ。お前」
「別に。ただ陽子ちゃんが普通なのかなとか思っただけだし」
 好きな人を手に入れることを望まないことはおかしいのかもしれない。けれど井澄のことを幸瑠は深くから欲していた。あなたの劣情をください。
 ――要するに寂しいの。
 井澄の唇が降りてくる。触れるだけのキスで幸瑠の柔らかいところがほどけていく。
 男と女の駆け引きみたいなものは存在しない。ただ触れたい。間違っている自分を正当化してほしい。
 人に触れることに真実の愛は必要ですか。
 井澄の家につくとおばさんに軽く挨拶をして部屋に向かった。部屋までの廊下でもつれ合うように触れ合った。これこれ、欲しいのはこれだよ。
「あんたはわたしのあにきが好きだよね」
「うん」
「じゃあ、わたしをあにきだと思ってよ」
 そんな無茶言われても、と笑う井澄の目は深くて、ちょっとは本気に思っているらしかった。
「目を閉じて。わたしじゃない方がいいんでしょ」
 ベッドの中で初めて服を脱いだ。お腹同士が触れ合うことがこんなに満たされるものだとは知らなかった。井澄が幸瑠の首筋に歯を立てる。ああ、と声が漏れる。きもちいい。きもちいいことをしているわたしたちは悪い子です。
 こんなことをしておいて付き合っていないなんて嘘かもしれない。けれど、井澄は大賀のことを想っている。幸瑠はそんな井澄のことを想う。
「愛なんて分かりゃしないよ」
 与えられるものだけが全て。
 分かるもんかって意地を張っているだけかもしれない。だって分かってしまったら、もう井澄と一緒には居られなくなってしまうから。
 脱ぎ散らかした制服をかき集めて身支度をする。後ろから井澄が抱きしめる。
「ごめんな」
 何が? と聞くことはやめた。
「おれがお前のこと好きになれたらいいのに」
「別にいいよ。わたしは寂しくない」
 ――ごめん、わたしとびっきりの嘘吐いた。
 家まで送ろうか、という井澄を制して幸瑠は一人で帰った。アスファルトが濡れている。むせかえるような水の匂い。星空は見えない。
 一人で考えたいことは山ほどあった。
 井澄との関係に終着点がない。名前もない。自らの内側に流れる血潮の熱さに身が火照る。焼き尽くされたってよかった。触れたい。触れられていたい。冷え切った脳髄を沸騰させて欲しい。
「愛なんて、知らないよ」
 幸瑠が自宅に着くと、幸瑠のものより小さなローファーが玄関にあった。
「ただいま。あにきお客さん?」
 リビングのドアを開けると、ソファーの大賀の横に見慣れたツインテールがいた。
「あれ、陽子ちゃん?」
「さっちん先輩お邪魔してます」
 陽子は幸瑠に軽く頭を下げる。大賀と繋がれた手。
 何か用事があったのかと思案する。
「あたし、大賀先輩の彼女なんです」
 陽子は屈託のない笑顔で告げる。大賀は頬をぽりぽりと掻いていた。陽子は居住まいを正すと、大賀と手を繋いだまま点けられたテレビを見る。何を見ているのか分からない。
 鈍器で頭をぶん殴られた気がした。

 ――あにき、陽子ちゃんが彼女ってホント?
 合唱部のミーティング中だった。幸瑠は畳の上で膝を抱える。
 もうすぐ夏休みで、夏合宿の予定をそろそろ立て始めないといけない。場所は山梨県にある宿坊。山奥なので交通の便は悪いが、夏を快適に過ごせる程度には涼しい場所だ。そんな宿坊で歌う曲といえば、
「やっぱりクリスマスソングは外せませんね」
 というのがこのひねくれた合唱団の総意だ。
 ――ホントだよ。陽子と付き合ってる。
 何をしているのかミーティングが始まっても井澄が音楽室にいない。今日は井澄に会いたくなかった。ちょうどいいけれど、いないことを意識すれば余計気になってしまうもので。
 ――どっちからって、陽子に告白されたんだよ。
 ばっかみたい。を噛み下して呑む。告白されたら誰でもいいのか。幸瑠にはできないことの一つだ。潔癖症なのか、なんなのか。でも好きでもない人となんとなく付き合うって不誠実ではないのだろうか。付き合うってもっと素敵なことで、特別な事じゃ――。
「幸瑠先輩、聞いてます?」
「へぇっ? あっ、ごめん」
 圭一の問いかけに顔を上げる。声が裏返って恥ずかしかった。
「今年の合宿の料理担当は僕、三森と幸瑠先輩になりました。ズミ先輩はいないのでレクリエーション担当で」
 はいはい、と生返事をする。朝夕は宿坊の女将さんが作ってくれるから実質料理するのは二日目と三日目の昼だけだ。簡単にカレーか、焼きそばか。素麺でもいいな、とぼんやり考える。
「よろしくおねがいします、幸瑠先輩」
 よろしく、と幸瑠は答えた。
 がらり、と音楽室のドアが開く。井澄だった。
「ズミ先輩遅いですー」と陽子がいじる。この二人の組み合わせを幸瑠は見たくなかった。
「わるいわるい」とごまかす井澄に違和感を覚えた。いつも一緒だから分かる。勘みたいなもの。
 幸瑠の横にマットを敷いて井澄が腰を下ろす。どさりと座った彼は糸の切れた傀儡のように支えがない。もろく崩れるようだった。
「何かあった?」と幸瑠は耳打ちする。
 手短に「後で話す」とだけ返事があった。
 幸瑠の胸がざわりと乱れた。

 二人きりの帰り道、二つの雨傘が並んでいる。
「あんた、なんかあったでしょ」
「お前はするどいな」と井澄は観念した。
「告白されたよ」
「それはいつものことじゃん」
「……男子に」
 幸瑠の足が止まる。泥濘んだあぜ道。雨音だけが二人を包む。
「三年の男子で、クラスが同じ奴なんだけど。おれ、男から告白されるのは初めてだ」
「へ、へえ……」
 井澄は男性と恋をするタイプの人間だ。
 大賀は陽子という彼女ができた。勝算は薄い。不毛な恋という奴を井澄はしている。ならば勝算のある人と、自分が好きになってもらえる可能性のある人と、付き合って幸せになってもいい――付き合うことが幸せなことなのかは幸瑠には分からない。幸せに逃げてしまう事への抵抗はあるけれど。
「付き合うの?」
 井澄は首を横に振った。
「おれは、大賀先輩のことが好きだから」
「あにきは可能性低いと思うけどな」
「可能性だけで恋はしてないよ」
 そういうものか、と幸瑠は井澄の恋心の存在に安心する。
「幸瑠、お前んち行っていいか?」
「あにきはいないと思うよ」
「そうじゃなくて」
 井澄の前髪が揺れる。あの目だ。幸瑠も持っている、さみしいときの目。
「うん、行こ」
 幸瑠は傘を閉じて井澄の傘に入る。井澄が幸せになるためにはどうしたらいいですか。

 触れ合った後のお風呂は嫌いだ。肌にある人の名残が泡となって離れていく。
 井澄に満たされて、それだけでよかった。幸瑠の渇望は満たされる。でも井澄がその男子とつきあい始めたら、きっともうこんなことはできない。独占欲ってやつ? と思い至って歯から息を漏らして笑った。そんなわけない。これはそんな容易いものじゃない。
 井澄は幸せになれるのだろうか。幸瑠と離れているのが本来の姿だ。
 どうして恋愛は一対一の契約なのだろうか。付き合ったら付き合ったで異性の友達に会うなとか意味が分からない。そこまでして自分の自由を差し出したくない。みんなで仲良く。それが一番だ。閉鎖的な関係はいらない。
 だから井澄に彼氏ができても、幸瑠はこのままでいたいと願う。
 現状維持に甘える恥ずかしさに頬が歪んだ。変わることが怖いと思う自らを恥じる。手に入れたいなんて言わない。
 井澄の話をちゃんと聞こう。どうしたいか決めるのは幸瑠の役目ではなかった。

 翌日、幸瑠は井澄の教室へ行き一緒に昼食を取った。周囲から注がれるのは「お似合いのカップルね」「リア充がいちゃつきやがって」という羨望と嫉妬。男女が一緒にいるだけでカップルだと思われるこの世は歪んでる。いや、歪んでいるのは幸瑠の方か。おかしくなってこの状況を楽しんでいた。
「お前の玉子焼きうまそう」
「からあげをくれたら食べることを許す」
「うっ、まあいいよ。交換な」
 井澄がピックに刺さったからあげをさも当たり前かのように幸瑠の口元に運ぶ。幸瑠もあまり意識せずにそれを口に含んだ。カップルっぽいかな、と思い至ったのは全てを食べ終わった後で、許されたいような気持ちになった。
 食後、幸瑠が自分のクラスに戻ろうとすると、幸瑠より背の低い男子が幸瑠の前に立ちふさがった。短く刈り込んだ髪が逆立っている。
「新山幸瑠、だよね」
「何?」と聞いたが大体見当はついていた。
 ――井澄に告白した男子だ。
「新山が斉藤の彼女なのはみんな知ってる。でもぼくは諦めない。諦めないって決めたから」
 諦めなかったら何になるの? いつか振り向いてくれるのを待つの?
 ばっかみたい。
「そんなに井澄のことが好きなの?」
 男子は耳まで赤くして俯いた。
「残念だけど、コイツはわたしのもんだから。手を出すな」
 井澄の腕を抱き寄せる。
 コイツに恋していいのはあにきだけだ。あにきのことを想う井澄のことを、わたしは。
 男子は今にも決壊しそうなダムを両目にたたえて立ち去った。
 あーあ。泣いちゃうのか。気味がいいと笑う幸瑠は自らの攻撃性を恐ろしく思った。
「ヤキモチですか、幸瑠さん」
 ニタニタと井澄が糸切り歯を見せる。
「違うわばーか」
 これはただの所有欲。
 わたしを埋めるのはあんただから、井澄もわたしでいっぱいになってよ。あにきでいっぱいになれないのなら。

 季節は巡って夏休み。蝉の声が涼しいと詠んだ人の気が知れないほどの猛暑日が続き、やっと夏から逃げ出せる山梨合宿がやってきた。お金なんてない高校生たちなので、青春18切符をみんなで分けて鈍行列車で山まで向かう。車窓からの緑が増える度に体感温度が一度下がる。夏から逃げ出してしまおう。焦がれるような思いからも。
 電車に乗ったばかりの頃は皆おしゃべりに花を咲かせるが、あまりにも長い乗車時間に最終的にはしゃべり疲れて物思いに耽る。井澄に至っては幸瑠の肩で眠りこけていた。
 しょうがない奴、と幸瑠はなるべく動かないように肩を固定する。ノースリーブのブラウスから覗く右肩に井澄の頬が触れる。髭の薄い彼の頬はなめらかだった。
「ズミ先輩贅沢ですね」
 ボックス席の対面に座っている陽子はしきりにスマートフォンを両手で確認していた。
「陽子ちゃんはあにきとLINE?」
「よく分かりますね」
 陽子が顔に花を咲かせる。聞いて欲しかったとばかりに語り始める。
「なんか、好きな人とはずっと話していたいというか、これが自然? みたいな。少なくともおはようとおやすみは言いたいです。学校が違うから毎日は会えないし、寂しくなっちゃって。さっちん先輩はマメに連絡しないんですか?」
 わたしの場合は井澄か。幸瑠は少し考えて、
「わたしはしないかな。お互いがお互いの時間を過ごすものだと思うし、あんまり縛られるのは好きじゃない」
「それは学校で毎日会えるからじゃないですか。同い年カップルってそういうところがいいですよね。そういうところは羨ましいです」
 本気で羨ましいとは思っていない陽子に幸瑠はお熱いことで、とはにかんだ。その後で笑い事じゃないことを思い出す。陽子が付き合っているのは大賀で、横で眠る井澄の思い人だ。
 また何か話そうとする陽子を制して「井澄が起きるといけないから」と告げた。
 井澄に聞かれるとまずいから、という意味だった。
 ホントさっちん先輩はズミ先輩に優しいですね、と陽子は圏外になったスマートフォンを惜しむようにショルダーバッグの中に仕舞い、他の部員と同じように物思いに耽っていた。

「畳を崇めよ」という替え歌はここの合唱部の伝統である。
 本来は「大地を崇めよ」なのだが、土の匂いよりい草の匂いのほうが偉大だとOBの大賀らを含む全員が言う。音楽室の畳マットといい全室畳敷きの宿坊といい、畳好きにも程があるだろうと幸瑠はちいさくつっこみを入れた。
 宿坊の二階は十畳の和室が三間繋がっている。端をそれぞれ男子と女子の寝室とし、間を皆が集まる談話室とした。男女に分かれて寝室に荷物を置くともう夕刻となっていた。
「夕食にするか、少しでも歌うか」という顧問の問いに全員が歌うと答えるあたり当部は熱心かもしれない。それだけ音楽を愛し、この合宿を楽しんでいる。ただ、歌う曲が少しばかり場違いな点を除けば。
 山中の宿坊、一階の仏間が練習場所。電子ピアノを運んできて好きなだけ歌う。
「いつも思うけど巨大な仏壇の前でクリスマスソングを歌うのって場違いじゃない?」
 幸瑠は三年間同じ事を言っている。が、本気で責めているのではない。小さな罪を犯すのはとてもわくわくすることであると幸瑠や他の部員も知っていた。
「しかも真夏だしな。どこがクリスマスなんだか」
 井澄が同調する。顔を見合わせてくすくす笑う。
 圭一が歌い出しの和音を奏でる。
「さあ、あなたからメリークリスマス」

 夕食と入浴を終え、談話室でのゲーム大会もお開きとなり、幸瑠は女子部屋で眠ろうとしていた。家族でも恋人でもない人たちと一緒に眠る。体温が側にある。先程消した蚊取り線香の残り香を心地よく思っていた。
「みなさん、もう寝ました?」
 女子部員の一人が声を発する。寄せ合った枕にうつぶせになり、皆が顔を寄せる。夜の女子部屋は秘め事のためにある。
「さっちん先輩はズミ先輩と付き合ってどれくらいになるんですか?」
 やっぱり来た、と幸瑠は身構える。用意していた答えを並べる。
「一年の冬だよ。だから一年と八ヶ月くらい」
 女子部員たちのかみ殺した悲鳴が響く。嬉しそうだね、あんたたち。と幸瑠は揶揄する。
「でも、さっちん先輩ってモテますよね。どうしたらそんなにモテるんですか?」
「さあ、モテたくてモテてるわけじゃないし……好きでもない人からの告白って嬉しくないし」
「さっちん先輩カッコいい!」と女の子たちがはしゃいでる。
「でも、悪い気はしないですよね?」と陽子も加わる。
 この質問に正直に答えてはいけないと幸瑠は知っていた。迷惑だしやめてほしい。分かりたくもない。愛の告白は重すぎる、なんて言ったときには彼女たちの夢を壊すだろう。
「そうね、ありがたいなって思うようにしてるよ。申し訳ないけどね」
 女の子たちの中で生きていくには謙虚さというものが必要なのだ。調子に乗れば叩かれる。いつでも謙虚に。時には大胆に。そのバランスというものを保ちながら生きていく。
「そういう陽子ちゃんは彼氏できたんでしょ?」
 逃れるように話を陽子に振る。案の定彼女は「そうなんですよぉ」と語尾をくねらせた。他の部員がすぐさま食いつく。恋に飢えた女の子たちだった。
「さっちん先輩には話したんですけど、大賀先輩とお付き合いしてます」
 音を殺した驚嘆の声があがる。大賀のことを知らない一年はどんな人なんですか? と興味津々だ。すごくカッコいいよ、と二年が言う。幸瑠の兄、大賀は幸瑠とは違うジャンルの美形だった。ハンサム、という言葉が近いのかもしれない。人当たりの良さから女子部員から――そして井澄から熱い支持がある。
 それから女の子たちはいつから付き合っているとか、どんなところが好きなのかとか、告白の言葉はとか、根掘り葉掘り聞き、陽子は待ってましたとばかりに雄弁に語って聞かせた。陽子が一年で大賀が三年だった去年のうちに連絡先は交換していた。
「あたし、寂しいの無理なんですよぉ」
「彼氏と別れて寂しいって言ったら大賀先輩が慰めてくれて――」
「すんごく優しいの。もうぞっこんで――」
「大賀先輩はモテるからライバル多かったけど、選ばれたのはあたしで――」
 陽子が見せつけるように話すことに幸瑠はいささか苛立っていた。
 寂しいから付き合うなんて失礼な奴。勝ち誇るようなことじゃない。
 人が誰かに苛立つとき、大体は自分に対して苛立っているときだ。

 宿坊の朝は早い。列をなす僧侶たちの声に目を覚ました。
 幸瑠は小さく伸びをすると、ジャージ姿で宿坊の前庭に出た。
「おはよ」
 先に出ていた井澄に会う。約束をしていたわけではないが二人の呼吸や生活のリズムは気付いたら揃っていた。
「おう、おはよ」
「おうっておっさんかよ」
 うるさい、と井澄の肩を小突く。
 水分の多い朝の空気を胸一杯に吸う。乾いた肺が潤う。
「おつとめ行くか?」
 井澄の誘いに乗って山頂の本殿に向かった。
 豪華絢爛な装飾。圧巻の読経。なつかしくて、今年もここに来られたとほっとする。
「幸瑠、なんかお願い事したか?」
 寺は願い事する場所だろうか。
「んー、世界平和」
「なんだそれ」
 恋のない平和な世界になればいいのにね。

 午前中の練習を抜け出して食事係の幸瑠と圭一はカレーを作っていた。練習のピアノは一年が交代で弾いている。幼くてぎこちない音だった。
 圭一が料理できることは意外だった。男子だから、という古くさい偏見ではなく、彼の家ならお手伝いさんが食事を用意してくれそうという根拠のない推測をしてしまうからだ。ピアノを嗜む者特有の神経質さが鼻筋や指の節にある。
「手、切らないでね」
「大丈夫ですよ」
 ピアニストが手を怪我したら大問題だ。圭一は器用に包丁でジャガイモを剥いている。幸瑠は玉ねぎの皮を剥がしていた。
「先輩、最近どうですか」
 努めて平然と真意のつかめない話をされる。
「どう、って。普通かな」
「普通」
「うん。普通」
 沈黙。幸瑠は圭一の沈黙がうるさく感じられた。
「でも陽子ちゃんがあにきと付き合い始めたのにはびっくりした」
 圭一の手が止まる。つられて幸瑠の手も止まった。
「えっと……もしかして圭一くん、陽子ちゃんのこと」
「それはないです」
 被せるように圭一は言った。
「杜松は煩すぎるんです。色恋ばっかり。見ていてイライラする」
 吐き捨てる圭一に幸瑠は少々驚いた。
「ご、ごめん」
 ハッとして圭一が幸瑠に頭を下げる。
「いえ、こちらこそすみません。それでですね、ぼくが好きなのは――」
 玉ねぎの刺激がどこか遠いもののように感じた。

 合宿は三泊四日。三日目の夜は皆で手持ち花火をした。意思の確認もなしにレクリエーション係になった井澄の案だ。光のない山奥で色とりどりの炎が咲く。幸瑠は盛り上がる部員たちを宿坊の縁側から見ていた。
 二日目の昼、三森圭一に告白された。いつも誰に告白されても動じなかった。脅迫めいた言葉に不快になるばかりで、早く忘れたいとすら思っていた。しかも質の悪いことに告白してくる男の殆どが井澄の存在を知っている。要するに思い出作りなのだ。二人が不仲になっていることを望んでいるのか井澄の悪口を添えられることもあった。そんなことを言われても告白してきた当人の印象が悪くなるだけなのに。
 しかし圭一は違った。
 ――幸瑠先輩って、斉藤先輩と付き合ってないですよね。
 咄嗟に「そんなことない」と否定した。
 圭一は食い下がる。
 ――ぼく、先輩方が一緒に帰るところを見てました。人前なのに恥ずかしげも無く……。相手のことを大切に思っているならそんな恥さらしさせませんよ。
 そうだ。好きじゃないから恥ずかしくない。幸瑠はふっと息を漏らす。
「仮にわたしが井澄と付き合ってなかったら圭一くんはどうしたいの?」
 ――先輩に「恋」をあげます。

「何ぼけっとしてんの」
 缶ジュース片手に井澄が幸瑠の横に座る。
「別に。一口ちょうだい」
 ん、と井澄が缶ジュースを差し出す。炭酸が抜けかけていて甘ったるい。
「人生甘くないね」
「何の話だよ」
 なんでもない、と幸瑠は缶を返す。
「ねえ、なんでわたしはあんたに恋しないんだろう」
 あまりにも切ない声が出た。井澄は何も言わない。
「恋ってなんだろうね」
 花火が舞う。夏を燃やし尽くしてしまえ。心まで全部。
 陽子が言うように寂しいから付き合う、でもいいのかな。わかんない。わかんないよ。
「おれがお前に恋できればよかったのかもな」
 幸瑠は猛烈に井澄を欲した。今すぐ畳に押し倒して全てを奪ってやりたい。
 この欲望に名前はありますか。

 合宿を終えて地元に帰ってくるとやっぱり夏というものは殺人的で、全ての欲がたちまち炭になってしまう。食べる気にもならず、眠ることも難しく、生きることも面倒で、井澄に触れる気にもならない。
 けれど幸瑠たちは受験生で、冬には大学入試が待っている。人生の階段を強制的に昇らされる。ずっと高校生でもいいのに。変わりたくないと幸瑠は願っていた。
 合宿の日以降、圭一から毎日LINEが届くようになった。
〈おはようございます〉
〈今なにしてますか?〉
〈おやすみなさい〉
 きっと陽子ちゃんにでも聞いたのかな。男のバックにいる女の存在を妄想して勝手に嫌になる。被害妄想も熱さのせいだろう。
 無視するのもよくないので、幸瑠は適当に返信をしていた。
 しかし返信したらしたで会話が続き、気付いたら一日中スマートフォンを握りっぱなしになる。
「受験生、家でごろごろスマホ触っていていいのか?」
 大賀に突かれてソファーから起きる。
「午後から夏期講習ですーっ」
 はいはい、と大賀が退散する。
 そういえば大賀がスマートフォンに熱中しているところを見たことがない。陽子はマメに連絡すると言っていたのに。
 自室でしか触らないのかな、と簡単に結論づけた。
 圭一に〈これから夏期講習〉と送ると〈頑張ってください〉と返ってきた。

 駅前の進学塾は七階建てのビルで、高校三年生と浪人生でごった返している。黒髪で清潔そうな人たちは高校三年生で、どことなくだらしなく茶髪にしているのが浪人生だ。講義室の後ろの方に知ってる人影を見つける。幸瑠は迷いなく隣に腰掛けた。
「なんだ、井澄もいたんだ」
「いたんだ、って一緒に申し込んだろ」
 そうだっけ、と幸瑠は笑う。ほんの数ヶ月前のことがはるか昔のことのように感じられる。圭一に与えられる愛の言葉がこそばゆくて、メッセージの数だけ濃密な一日になる。
「お前、合宿のときなんかあったろ」
 井澄には敵わない。
「告白された」
「それだけじゃないだろ」
「あんたと付き合ってないことがバレた」
「……誰に」
「三森圭一」
 あー、と井澄が感嘆する。
 講義室に講師が来る。一旦そこで会話は終わったかのように思えた。
「付き合って、みれば?」
「えっ」
 なんでこんなに悲しいのか分からなくて幸瑠は混乱していた。

 講義の内容は殆ど頭に入らなかった。古典の語彙が分からないせいで余計にだ。講師が早口で講義を進めるからだとも文句を言いたい。が、落ち度は幸瑠自身にある。
 講義を終えると夕食に近所のうどん屋へと向かう。示し合わせたわけでもないがさも当然とばかりに幸瑠と井澄は一緒だった。
 そうだ、わたしたちはいつでも一緒だった。離れがたい人だ。
 うどんの乗った盆を持ってテーブル席につく。
 幸瑠はいつ切り出そうかタイミングを見計らっていた。井澄はコロッケに七味をかけてかぶりつく。見慣れたいつもの光景。
 変わってしまうのだろうか。このまま一緒じゃいられないのか。
「あんたは、いいの?」
 震えていた。
「いいって、三森のことか」
 幸瑠は頷く。
「別におれはお前のこと彼女とか恋人とか思ってないし、お前が恋をしたって言うのなら応援する。何もおかしくないだろ。お前がどうしようとお前の勝手だ」
「でもわたしはまだ分かってないよ」
 分からない。私のことも、この関係も。
「お前、迷うの初めてだろ」
「そっか、そうだね」
 恋人でもなんでもない。ただの男女一組。友達と言うには近すぎて、恋人と言うことも難しくて。この関係に名前はあるのだろうか。井澄を幸せにしたいと願っているのは事実で、それと自らの幸せを天秤にかけるようなことはしない。
「ねえ、浮気になる前に触れていい?」
 井澄が怒ったような目になる。発情しているときの男の目だ。
 幸瑠は心底安心した。わたしは求められている、と。
 食べ終わると井澄は幸瑠の手を引いた。高校生が抱き合える場所なんてたかが知れている。
 井澄の家に幸瑠は泊まった。このベッドの匂いともお別れなのだと思うと涙が溢れそうで、でも瞳に張った膜から液体が漏れ出すことはなかった。

 圭一への返事を保留にしていたら夏祭りに誘われた。井澄とも別段約束していたわけではないので行くと返事する。地元の夏祭りは駅前の道路を封鎖して、予選を勝ち抜いた踊り連が一晩中踊り続ける。昔は予選など無くてもっとカオスだった。浮かれて悪ノリしている若者はめっきり減って、優勝を目指す至って真面目な踊り手だけになった。昔の方が熱気があって好きだったけれど治安のことを考えるとしょうがないとも思える。
 日が暮れる少し前に家を出ようとすると大賀も一緒だった。
「あにきはデート?」
 大賀は「幸瑠もだろ」と肯定した。
 大賀は幸瑠と井澄がデートするのだと思っているけれど、否定すると話がややこしくなるので何も言わなかった。
 歩いて待ち合わせ場所に向かう。周りをみれば浴衣姿の女性が目についた。幸瑠はTシャツにショートパンツにつっかけ。何も可愛さなんてない。デートなんだからもっと可愛くすればよかったのかもしれないと後悔した。井澄の隣ならこの格好でもいいのかも知れないけれど。
 井澄の隣はわたしのものにならない。
 駅ビルのエントランスに行くと黒い甚平を着た圭一がいた。手首のG-SHOCKをしきりに確認している。
「ごめん、お待たせ」
「いえ、今、来たところです」
 デートのテンプレートみたいな会話になった。圭一の神経質な声に落ち着かない。
「行きましょう」
 圭一が幸瑠の手を掴む。冷たい。驚いたが抵抗はしなかった。
 恋人同士は告白した瞬間から百パーセント好きなのではない。付き合い始めてから少しずつ好きになるのだ。だから、今は好きでなくても――。
 街中に設置されたスピーカーから大音量で音楽が流れる。幸瑠はこの曲が好きだった。方言を連呼するだけの意味のない歌詞がいい。意味のないことの方がきっと楽しい。恋に意味を持たせない方がうまくいくのかもしれない。
 圭一の手は冷たいのにじっとりと濡れている。筋肉質な指の柔らかさを感じていた。
「幸瑠先輩、何か食べますか?」
 会場近くの神社の出店。カラフルな看板が所狭しと並んでいる。
「んー、たません、とか」
 高校一年のとき、文化祭でたません屋をやった。幸瑠は店先で接客をしていた。目立つことが元来苦手な幸瑠は、看板娘として客寄せに使われていることが苦痛だった。そんなとき適当に用事をつくって連れ出してくれたのは井澄だった。
 何をしていても、幸瑠の中は井澄でいっぱいだった。
「先輩、たません好きなんですね」
「まあね」
 チーズ入り一つを自分に、焼きそば麺入りを圭一に買った。財布を出そうとする圭一に「後で別のもの買って」と伝えた。
 たませんをぺろりと食べると、二人は駅前の踊り連を見に行くことにした。神社から駅前まで歩いて少しある。
「圭一くんって、なんでわたしのこと好きなの」
 聞こうと思っていたことを話題に出してみた。圭一はこちらを見ないで話した。
「幸瑠先輩はぼくと同じだと思ったからです」
「同じって?」
「聞いてしまったんです、ズミ先輩と話しているところ。『主旋律を歌うことが恥ずかしい』って。ぼくもなんです。ぼくはピアニストにはなりたくない。ピアノを弾くことは好きだけれど、ソロで弾いたりピアノ協奏曲みたいに前に出て弾くことがあまり好きじゃない。誰かを裏方で支えている方がぼくの人生にふさわしいって思うんです。誰かの人生の伴奏を奏でていたい。でも」
「でも?」
「人生の主役すら降りてしまう幸瑠先輩のことを見ていられないんです。伴奏だって必要とされているからそこにいる。幸瑠先輩は自分の人生に自分自身を必要としていないように見えます」
 出過ぎたこと言いましたね、と圭一は苦笑した。
「……よく見てるんだね」
「すみません」
「悪いと思ってないでしょ」
 意地悪を言える程度には幸瑠は心を許していた。
 それからしばらく歩いた。そのとき、歩いて擦れているだけかと思ったが、確かにスマートフォンが振動していた。
「ちょっとごめん」と開くと兄の大賀からだった。
〈陽子とはぐれた。見かけたら教えてくれ〉
 何やってんだか、と幸瑠は呆れた。この二人はうまくいっているのだろうか。ちゃんと、恋してるのだろうか。恋してるって、どういうことだろうか。
「先輩?」
「ああ、うん。なんかあにきが陽子ちゃんとはぐれたみたいで」
「あの二人って付き合ってるんでしたっけ」
「そうだね」
 なんか、意外だ。と圭一が漏らす。なんで? と聞き返すと、大賀先輩は静かな人が好きなのかと思っていた、と返ってきた。
 そう、だね。
 自分の兄のことがわからない。人はどういう基準で交際を始めるのだろう。
「あ、ズミ先輩」
 圭一の声にスマートフォンから顔を上げる。幸瑠と同じようなTシャツにハーフパンツ姿だった。
「おう、お前らデートか?」
 意地悪な奴、と幸瑠は笑った。
「はい、デートです」
 圭一の言葉には明確な敵意があった。
「はいはい、楽しんでね」
 圭一が奥歯を噛みしめたのが分かった。
「井澄はぼっち?」
「おふくろが夕飯買ってこいって。出店のやきそばとチーズドッグがいいんだと」
「へえ、わたしもチーズドッグ食べたい」
 井澄について行こうとして圭一の非難の目が刺さった。
 自由をあげるなんて、わたし、嫌だな。
「ズミ先輩、杜松見てませんか?」
 井澄がいや? と疑問符を浮かべる。
「杜松の奴、大賀先輩とはぐれたみたいなんですよ……え? なんでって、杜松は大賀先輩の彼女じゃないですか」

 あのときの井澄の顔を形容する言葉を幸瑠は知らない。
 努めて平静を装っているような、それとも現実をまだ理解していないような、彼の全てが止まってしまったように見えた。
「幸瑠先輩、あの」
 ぐるぐると考え込んでいた。隣の圭一の存在が遠い。祭りの音楽も、雑踏も、全部遠い。
 近くにあるのは井澄のかなしみ。手に入ることのない成就。突きつけられる失恋。
 ――わたしが感じられないもの全て。
 幸瑠は走り出していた。圭一の声は聞こえなかった。
 つっかけの踵を跳ねさせて、彼を探した。一人にさせちゃいけない、と。

 神社の裏の河川敷に井澄はいた。膝を抱えて川を見詰める。濡れた草木の匂いがする。川の匂い。
「井澄」
 彼が顔を上げる。
「井澄、その……」
 言葉が見つからない。どうしよう。傷付いた彼を救う言葉を幸瑠は持たない。
「お前、知ってたのか」
 幸瑠の沈黙を肯定と受け取る。
「なんで言ってくれなかった」
「言えるわけないじゃん」
 井澄が膝に顔を伏せる。通り過ぎる人もいない。祭りの響きは遙か遠く。ここはもうこの世ではないのかもしれない。真っ暗な川は地獄への入り口のようにぽっかりと闇が開いている。
「おれが大賀先輩と付き合えないことくらい分かってるよ。分かってるよ。でもせめて隣は空いていて欲しかった。おれのものにならないなら、せめて誰のものにもならないで欲しかった。こんなおれは間違ってるか? 独占したい。あの人をおれでいっぱいにしたい。それができないなら空っぽでいて、残された可能性に自惚れていたかった」
 井澄の慟哭が闇夜に吸い込まれる。
 幸瑠は井澄を抱きしめた。こういうとき、なんと言えばいいんだろう。幸瑠が持っている答えは、ただぬくもりを与えることだけだった。
 井澄の涙が幸瑠のTシャツを濡らす。みっともないほど声を上げて泣く井澄をどうしようもなく愛しく思う。井澄はいいね、恋を知っていて。そんなあんたのことが、好きだよ。
 ――あんたの痛みが分からないわたしのことが大っ嫌いだよ。

 父方の実家に帰省して、残りの日は塾で夏期講習。高校三年生の夏が終わった。
 祭りの日から圭一のLINEを無視していた。問いただしはしないが、デートの途中でほったらかして他の男を追いかけるのは悪いことだと幸瑠には分かる。通知に表示される文面の冒頭だけ目を通して、なかったことにしようと既読もつけなかった。五日後にはもう送られてくることもなくなった。
 新学期、合宿以来の練習日。重い足取りで音楽室へ向かう。
 大丈夫。今まで通りでいい。圭一だっていちいち態度に出すほど子供ではないだろう。
 第二音楽室の前に井澄がいた。
「入らないの?」
「いや、気まずくて」
「奇遇だね」
「三森のことか?」
「あんたこそ、陽子ちゃんでしょ」
 しょうがないなあ、と幸瑠は井澄の頬をつまむ。井澄の緊張が緩む。幸瑠もつられて口角が緩む。よし、これでいい。
 すこしばかりの勇気を持ってドアを開ける。いつもの部活動。今までとは違う部活動。
 中にはもう多くの部員が揃っていた。
「先輩方、今日もお似合いですね」
 陽子が甘ったるい声を出す。幸瑠は瞬間的に圭一を見る。睨まれていた。
 幸瑠は申し訳なくてすぐ視線を逸らした。陽子は気付いているのだろうか。ここの部員に圭一とのことは知られているのだろうか。おぞましくて萎縮する。
「さっちん先輩とズミ先輩みたいなカップルにあたしなりたいですぅ。ね、圭一」
 圭一が苦虫を噛みつぶした顔をする。
「陽子ちゃん、そこまでね」と幸瑠が止めに入る。
「はぁい」と陽子はツインテールを揺らして畳マットに足を投げた。
 井澄がなんだろう、と肩をすくめた。陽子と大賀はあの後会えたのかな、と幸瑠は少しばかり心配になった。

 井澄が教室へ忘れ物を取りに行ったため、幸瑠は先に一人で昇降口へ向かった。日が短くなってきたな、とぼんやりと思う。下駄箱から靴を取り出す。
「圭一、あの二人の邪魔しないでよ」
 下駄箱を挟んだ向こう側から声がする。聞き覚えのあるソプラノ。陽子だ。
「ぼくがどうしようが杜松には関係ないだろ」
「関係、あるから」
 しばらくの沈黙。
「……とにかく、さっちん先輩とズミ先輩でくっついててもらわないとあたしが困るのよ」
「なんでだよ。ぼくと幸瑠先輩のこと応援するって言ったよな」
「これからはしない。さっちん先輩から手を引いて。お願い」
 舌打ちと足音。幸瑠は反射的に隠れた。圭一は振り返ることなく早足で出ていった。
 なんで、なんで陽子がそんなことを言うのか。
 わけがわからないや。
「何笑ってるのお前」
 カバンに入れ忘れた弁当箱を片手に井澄が現れる。
「なんでもないよ、井澄」
 困惑が笑いに変わるのは、はにかみ屋の幸瑠の欠点かもしれない。

 井澄に送ってもらって帰宅すると、大賀はいつものように縁側で猫を撫でている。大学生はこんなにも家にいるものなのかと不思議に思うが、大賀はどこのサークルに所属もせず、バイトも週末に引っ越し屋をしているだけだ。半袖のポロシャツという引っ越し屋の制服姿を見た井澄は頬を上気させていた。腕のたくましさがいい、と後で聞いて「わからん」と幸瑠は返事をした。確かに大賀は背も高く筋肉もしっかりとある。それでいて目元は柔らかく、性格も温厚。悪くはないんだろうな、と幸瑠は思うことにしていた。誰よりも大切な井澄にとっての誰よりも大切な人なのだから。
 夏祭りの夜のことがあったけれど井澄はいつもと変わらぬ調子で大賀に挨拶をして帰った。悲しみを隠している気がしてならなかった。いつか井澄が一人で死んでしまうのではないか、と思い至った自分を馬鹿だな、となかったことにした。
 井澄の後ろ姿を見送って、大賀に切り出す。
「あにき、陽子ちゃんと最近どうなの」
「どうっていわれても」
 大賀が頬を掻く。大賀の癖だ。
「祭りの後、会えたの?」
「……ああ」
 表情が曇る。
「陽子の奴、他の男に会いに行ってた」
「えっ」
「友達だって言ってたけど、それでもやっぱり寂しいもんだな。余裕がないな」
 大賀が歯を見せる。
「あにきも苦労してるね」
 幸瑠も縁側に腰掛ける。猫が幸瑠の手のひらに頭をすり寄せる。撫でろ、ということらしい。
「なんか、おれたちもうダメかも」
 そう、かあ。と幸瑠は少しばかり合点がいく。陽子は大賀の気持ちに気付いている。それで焦っている。何故幸瑠と井澄をくっつけたがるのかは分からないが。
「なんかさ、陽子はおれのご機嫌取りしかしないんだって思えてさ。本音で話そうとしない。当たり障りのないことしか言われなければ、口説き文句もお世辞に思えてくる」
 おれがひねくれてるのかな、と大賀は息を漏らした。
「別れないの?」と幸瑠は聞いた。
「二人から一人になる覚悟って相当なもんだよ」
 大賀も幸瑠と同じはにかみ屋だった。

 三年生は文化祭を最後に合唱部を引退する。幸瑠は身が引き締まる思いだ。秋はさみしさを告げる季節だ。衣替えももうすぐ。ブレザージャケットをそろそろ出しておこうと決めた。
 文化祭での曲目を決めた。今まで歌ってきた歌謡曲と合唱曲の総まとめだ。新曲としてNHKコンクール、通称Nコンの課題曲「言葉にすれば」を選んだ。歌い始めはアカペラ。声が重なり、そこにダイナミックなピアノが加わる。全七パートに別れる難曲だ。
「よくこんな難しいのやるね」と幸瑠はわくわくしていた。技術と練習量が問われる曲ほどかちっと歌えたときの感動はひとしおだ。圭一のピアノで音を取り、確かに音符を拾っていく。毎日日が暮れるまで練習するのは日が短くなったからではないだろう。
「これで最後かあ」と虫の音をBGMに井澄が呟く。
 月が大きい。文化祭を最後に引退したらひたすら受験勉強の日々となる。恋をしている暇なんてないように思えるけれど、感情というものは時を選ばない。
「最後、ねえ。受験嫌だな」
「幸瑠は勉強できるからいいだろ」
「井澄よりはね」
「言ってろ」
 井澄は前を向いたまま言う。
「おれさ、第一志望を東京の方にしようと思う」
「え……?」
「おれのことを知っている人が誰もいない土地に行きたいって前から考えてた」
 そっか、と理解してもいないのに幸瑠は答えた。
「誰でもないおれになりたい。そういうことってお前ないか」
 わからなくもない。けれど幸瑠には考える余裕がなかった。
 別れはいつかやってくる。日常は変わり続ける。半身が離れていく痛み。
「それでさ、お前も東京に来ないか?」
 今日は本当に月が大きいな。

 明日は文化祭。幸瑠はクラスの出し物の準備を抜け出して合唱部のリハーサルに参加していた。
 吹奏楽部が大変そうに楽器を搬出し、空いただだっぴろいステージに整列する。いつもの電子ピアノと違うグランドピアノの音色は自己主張が激しくて、圭一は恥ずかしそうにしていた。
 幸瑠も本番には馴れていたが人前で歌うことに対する羞恥は薄れることがなかった。
 それでも歌うことは好きだ。曲の中に描かれる感情を追体験する。人生の中で体験し得ない感情をなぞることは有益だと思う。何より、声が重なる瞬間が楽しくてしょうがないのだ。
「体育館だと音響がよくないな」
 井澄がぼそりと呟く。
「後ろまで声を届けるイメージがいるね」と幸瑠は毎年言われていることをなぞった。
 リハを終えて解散しようとした、そのとき、
「幸瑠先輩」
 三森圭一だった。
「ぼく、幸瑠先輩のことが好きです。ズミ先輩と付き合っているなんて嘘吐かないでください」
 部員の集まる体育館に圭一の声が響く。文化祭前のせわしない空気が凍る。
「ズミ先輩に愛されるわけでもないのになんで一緒にいるんですか。ぼくならそんな苦しい思いさせない」
「ちょっと圭一」
 幸瑠が何かを言う前に陽子が叫ぶ。
「さっちん先輩とズミ先輩はお似合いのカップルだよ。どっからどうみてもそうじゃない。勝手なこと言わないでよ」
「杜松は黙ってろ。ぼくは幸瑠先輩を助け出す。そう決めたんだよ」
 ちょっと落ち着け、と井澄が間に入る。
 しかし圭一は井澄を振りはらう。
「ズミ先輩もズミ先輩ですよ。本当は大賀先輩のこと――」
「やめてぇっ!」
 陽子の声とは思えなかった。
「さっちん先輩とズミ先輩は一緒にいるべきなの。邪魔しないでよ」
 彼女は泣き出していた。
 幸瑠はどうしたらいいのか分からなくなっていた。本当のことを言うべきか。露呈してしまった。でもまだ嘘を吐き続けることはできる。しかし圭一は井澄の気持ちに気付いている。どうしよう。どうしたらいい。
「三森、勝手なこと言うな」
 井澄の声が低い。
「何を考えているか知らないけど、お前の事情を部に持ち込むな」
「すみません」と圭一の声は尻すぼみになっていた。
「杜松も落ち着け。思い込みもいい加減にしろ」
 静まりかえった体育館の外では文化祭の準備に浮かれる生徒の活気がする。温度差に幸瑠は目眩がした。何も、言えない。
「とにかく、明日の本番までに二人とも頭を冷やせ。幸瑠のためにもな」
 開けてはいけない蓋が、開いてしまった。

「行きたくないな」と思っていたことが口から出ていたようで、共に朝食をとっていた大賀が怪訝な顔をする。
「幸瑠、今日文化祭だろ」
「うん。文化祭」
「ラストステージが寂しいか?」
「そういうんじゃないけど、そういうことにしておいて」
 なんだそれ、と大賀はブラックコーヒーを飲む。大人だな、あにきって。
「おれもあんまり行きたくないかも」
「わたしのラストステージが寂しい?」
 大賀も幸瑠同様に「そういうことで」と誤魔化した。
 圭一の真意が分からない。何故幸瑠にこだわるのだろう。なんだよ、愛って。
 誰かのものになることだけが愛なのか。そんなはずないと思いたい。肉体関係があることが愛なのか、自由を献上することが愛なのか。
 わかんないよ。そんなこと。
 胃の中身がぐるぐるする。砂糖のたっぷり入ったカフェオレ。甘ったれた子どもでいさせて。
 本番はあっという間にやってきて、あっという間に終わるだろう。

 幸瑠は登校すると教室に荷物を置いて音楽室へ向かった。
 ここで発声練習をするのも最後。そしていつか井澄と一緒にいる時間の最後も訪れる。東京までついていくかまだ決めていない。一緒にいたいことに理由は必要だろうか。永遠を願うことは愚かだろうか。
 陽子と圭一は直接言い合ったりはしないが険悪なムードを出していた。幸瑠は他人事のように感じる。井澄との関係はこの二人が思っているものとは違うと感じていた。
 ストレッチをして身体を温める。胸の真ん中に冷たいものがある。氷を抱きしめたときのような切なさ、さみしさだ。
 どうして人は変わりゆくのだろう。何も変わらないでいたい。
 ステージはやってくる。
 井澄と目を合わせて頷く。さあ、歌おうか。

 ステージからの景色が好きだ。
 全身で感じる音楽が好きだ。
 一人じゃないと思える瞬間が好きだ。
 これらの「好き」と井澄に対する「好き」に何の違いがあるというのか。
 イントロのアカペラ。声が重なる。ハーモニーが生まれる。ピアノが加わる。肌が粟立つ。名前のない感情が全身を駆け巡る。わたしはここにいる。人間関係の中に属している。どうしようもなく愛しい事実。
 音楽が美しいのは、必ず終わりがあるからだ。
 楽譜の最後のページをめくる。
 井澄に恋をしないのは、必ず終わりがあるからかもしれない。

「お疲れ様でしたー!」
 ステージを終えて音楽室で簡単な打ち上げをしていた。
 各クラスの出し物に出かけた部員もいたが、大体の部員はここでジュースを飲んだり語らったりしている。
「お前、泣いてただろ」
 井澄が幸瑠を揶揄する。
「ばーか」
 幸瑠は否定しない。涙は流れなかったけれど泣いていた気がする。
「ステージってあっけないな」
「そだね」
 顔を見合わせて笑う。永遠なんてないと思い知る。
「おつかれーっす」
 来訪者に部員たちが音楽室の入り口に視線を集める。大賀をはじめとする卒業生たちだった。
「大賀先輩」と陽子が駆け寄る。井澄の手を幸瑠は反射的に握っていた。
「見ててくれたんだね」
「まあな」とはにかむ大賀を幸瑠は不審に思った。
 差し入れな、とアイスバーを箱でもらう。この習慣も合唱部の伝統だった。
 皆で食べていると陽子が大賀と姿を消していた。井澄は気付いているだろうか。気付いていて欲しくないなと願った。
「幸瑠先輩、ぼくと一緒に文化祭回りませんか」
 圭一だった。陽子がいないからだろう。圭一の強い意志を感じる。幸瑠は怖くなって何も言えない。
「悪いな、三森。こいつはおれと回るんだ」
 井澄だった。
「ズミ先輩のものじゃないですよね」
「ああ、こいつはおれのものでもないし、三森のものでもない。でも幸瑠はおれと一緒がいいんだと」
 幸瑠は「うん、そうなの」と答えた。
「わたし、井澄のこと好きだから」
 嘘じゃないよ。

 文化祭はあっという間に終わった、かのように思えたがまだひとつ事件があった。
 井澄が自クラスの当番に行き幸瑠が一人になったとき、体育館横の女子トイレで泣き続ける陽子の姿を見つけてしまった。
「陽子ちゃん? 何、どうしたの」
「幸瑠先輩……あたし、あたし、一人になっちゃった」
 陽子が示す「一人」とは、恋人がいない状態を指していた。
「大賀先輩はなんであたしのこと嫌いになるんですか。こんなに、こんなに好きなのに」
「好き、かあ」
「おかしいと思いますか、こんなに寂しがるなんて」
「ううん、思わないよ。思わない」
「あたしを、あたしを一人にしないでよ」
 泣き続ける陽子の背中をさすり、幸瑠は話を聞き続けていた。
 こんなに恋い焦がれる陽子のことを幸瑠は残念ながら理解することができない。しかし理解できないからと突き放すことも間違っていると知っていた。
「馬鹿だと思いますか?」
「ううん、思わないよ」

 陽子と大賀が別れたことを幸瑠は井澄に言えなかった。吉報のように語ることをしたくはなかったからだ。
 井澄はクラスの出し物を大賀が見に来てくれたことを喜んでいた。井澄のクラスは自主制作映画の上映会をしていた。井澄は顔はいいけど演技力はないな、と思った。
「大根役者って本当にいるんだね」と漏らすと「うるさい」と井澄はへそを曲げてみせた。
 陽子の涙が忘れられない。映画の中の涙とは質が違う。慟哭とも言うべき陽子の言葉が脳内でハウリングしていた。
「幸瑠と歌うのはこれが最後か」
「わたしが東京に行けば一緒でしょ?」
「そうだな。合唱やめるつもりはないし」
「わたしもだよ」
 一緒にいることを肯定して欲しい。
「ねえ、本当にわたしと付き合ってみない?」
 何を言っているんだと突き放して欲しかった。
「悪くないかもな」
「うん、きっと悪くないよ」
 二人は指を絡ませた。求め合うことに理由はいりますか。

 帰宅すると大賀がソファーで脱力していた。顔だけこちらに向けて「文化祭おつかれ」と大賀が言う。
「あにきこそお疲れ。いろいろと」
 大賀ははにかんで「陽子に聞いたか」と問う。
「トイレで泣いてるところを見つけた」
「そっか、泣いてたか」
「うん、すごい勢いでね」
 大賀は眉尻を下げてから顔の向きを戻した。
「別れを決意した相手でも泣かれるのが嫌って、おれもお人好しかな」
 幸瑠は「自然なことじゃない?」と返す。
「なんで別れたのか聞いていい?」
 そうだな、と大賀は考え込む。
「おれのことを見てないって感じたからかな。陽子が欲しいのはおれじゃなくて、恋人に愛される自分自身なんだと思えてからダメだった」
 自信なさ過ぎだろ? と自嘲する兄のことを幸瑠は愛おしく思った。
「幸瑠は斉藤とうまくやってるか?」
 実は今日から付き合い始めた、とも言えるわけもなく「まあね」と答えた。
 思考の端に圭一のことがあった。でもこれで圭一を堂々と突っぱねることができるな、とも思ったけれど、部活もないのに会うこともないことに気付いた。
 ――わたしに恋を教えてよ。
 井澄の瞳に映っていたのは、大きな月と諦念だった。

 井澄と付き合い始めて何が変わっただろうか。
 幸瑠は考えるけれど答えが見つからないのでもうあまり考えない。受験生なのだから色恋沙汰を考えている暇がない方が正しいのかもしれない。
 いつも井澄と一緒にいて、言葉を交わす。放課後はいつも図書室に向かった。受験生の多くは自分の教室に残るか進学塾へ向かうので図書室はそこまで混み合っていない。試験期間中でなければ難なく窓際の席に陣取ることができた。
 合唱部の声は吹奏楽部の音にかき消されてあまり聞こえない。人の肉声というものはあまりに儚い。い草の匂いを求めてしまう自分の存在を見つけた。大切な居場所だった。
 部活に行かないおかげで圭一に会うこともなかった。圭一と付き合うようなことをしてちゃんと振ったわけでもない。曖昧な関係のままだがはじまったつもりもない。居心地の悪さから逃げることができたことには安堵していた。
 向かい側に井澄がいる。テキストに落とされた視線は真剣そのもので、微かな攻撃性すら感じる。伏せられた瞳を長い睫毛が縁取って夕方の黄色い光がちらちらと乱反射していた。きれいだな、と思う。
 井澄のことを誰も知らない土地である東京へと向かう、と井澄は本気のようだ。幸瑠はまだ迷っていた。このまま井澄と東京へ行くことは悪くない。悪くないけれど、東京で何をしたらいいのか分からない。クラスは理系なので理学部か工学部か、はたまた文理があまり関係のない学部を目指すのか決め切れていなかった。地元の大学の名前だけを書けばいい時期は終わった。将来のことを考えると気が滅入る。雲の上を見上げている気がして首が痛い。気を紛らわせたくて井澄を見る。しかし真剣な眼差しに幸瑠は声をかけることを躊躇って、下校時刻になるまで井澄を眺めては自分の勉強に身を入れた。
 すっかり日が落ちた帰り道、冬が訪れて大きなオリオン座が二人を見下ろしていた。
「あんた今日もよく集中してたね」
「そうかな。まだまだ足りないって思うよ。分からない問題は多いし、もっと数をこなしたい」
「真面目だね」
 幸瑠と井澄は手を繋いで帰っていた。付き合うことにしてからそういう習慣がついた。恋人らしいことだな、と幸瑠は安堵する。恋をしているような気がする。井澄は幸瑠のもので、幸瑠は井澄のもの。相互支配とも呼べる関係こそが恋愛なのだろう。
 冬の空気が肌に刺さる。寒い。けれど寂しくない。繋がれた右手は確かに暖かく、一人ではないという証だと思った。
 井澄は幸瑠を家まで送った。大賀に会うことなく帰る。一度軽く抱きしめて、バイバイと手を振る。
 本当にこれでよかったのだろうか。よかったということにして欲しい。
 けれど、こんなの井澄じゃない、と思ってしまうことを幸瑠は認めたくなかった。

 冬休みに入ってすぐに合唱部のクリスマスコンサートが催された。
 毎年恒例の行事で、部費がそんなにないため学校の第二音楽室が会場だ。教室から借りてきた椅子を並べて客席を作る。ステージでがいつもばらばらと畳でくつろぐ部員が珍しく整列して歌う。
 幸瑠は大賀の隣に座る。その隣には井澄。ここにいていいのだろうか。兄と恋人の間。何もおかしくはない。恋人が思っている人が兄だったとしても。おかしくない、なにも、おかしくない。
「見る側って体験入部以来だね」
「そうだな。懐かしいね」
 井澄と微笑み合う。幸瑠は井澄と出会った。きっと出会うべくして出会ったかのように惹かれ合った。これが恋じゃなかったらなんなのだろう。
「見るのも楽しいぞ」
 大賀も加わる。井澄の目線が幸瑠を通り過ぎる。
「はい、楽しみです」
 幸瑠には見せない顔。細められた目に熱がある。
 そうだ、これは恋なんかじゃない。恋なんかじゃ――。
 幸瑠は自らの中に渦巻く感情に名前を付けた。かなしみとさみしさ。その両方。
 わたしに恋は訪れない。恋人たちのクリスマスはやってこない。
「うちの合唱部って年中クリスマスソング歌うから今更感あるよね」
 幸瑠が揶揄する。
「そうだな」と井澄も悪い顔をする。
「お前ら、もしかして合宿でもクリスマスソング歌ったのか?」
「もちろん」
 幸瑠が親指を立てる。大賀は呆れてみせたが嬉しそうだった。
 変わらないものがある。変わっていくものがある中で変わらないものは特別だ。
 幸瑠は変わることを恐れた。けれど、井澄は違った。
 ピアノが鳴り響く。
 ――さあ、あなたからメリークリスマス――
「なあ、幸瑠」
 おれ、するわ。

 コンサートを終えると音楽室はクリスマスパーティの会場となる。
 炭酸飲料を紙コップで飲み交わして談笑する。
「大賀先輩、来てくださったんですね」
 陽子の口調が敬語になっていた。
「おう、お疲れさん。陽子は副部長だってな。幸瑠から聞いたよ」
「えへ、そうなんです」
「部長は三森だっけか?」
「似合わないですよね」
「言ってやるなって」
 いたずらっぽく笑う二人には確かに積み上げた関係があったのだな、と幸瑠は感じた。二人の歴史というものは終えてから完成する。恋の終わりは関係の終わりとは限らない。変わりゆく二人に幸瑠は取り残された気分だった。
 井澄は他のグループで話している。幸瑠が見渡すと圭一の姿を見つける。
 圭一とはちゃんと終われなかった。始まってもいない。何かを話したいようで、話したいことが思いつかない。なんて言えばいい。分からない。
「何固まってんの、お前」
「井澄」
 抜け出してきた井澄だった。
 わたしには井澄が必要だ。許された気がした。
 井澄に触れたい。寂しさを埋めて欲しい。けど、
「幸瑠、おれが振られたら本当の恋人になって」
 井澄の薄い唇が決意で固く結ばれていた。

〈なんで告白したの〉
 幸瑠は井澄にメッセージを送った。すぐには返信がなかったので夕食を家族で囲んだ。
 大賀は居心地の悪そうにも見えたし、それは幸瑠の主観からかもしれない。いつもより口数の少ない兄はフライドチキンを丁寧に骨から外して食べていた。クリスマスはわたしたちにとって特別な日であり、毎日がクリスマスだった。
「ごちそうさま」
 幸瑠は先に席を立つ。
「なあ、幸瑠」
「何?」
「井澄っていつからそうなんだ」
 兄の目は穏やかだった。
「さあ。最初からじゃない?」
「最初から、か」
「少なくともわたしは知っていたよ」
 そうか。じゃあ、
「幸瑠たちの関係ってなんなんだ?」
「なんなんだろうね」
 分かんないや、と幸瑠は肩をすくめた。本心だった。

〈今日だって思ったから〉
 部屋に戻ると返信があった。クリスマスだから? ロマンチックだね、と茶にした。
〈フラれた感想をどうぞ〉
 今度はすぐに返信があった。
〈意地悪か。思ったより悲しくない〉
 よかったね、と送ろうとして、なにがよかったのか分からなくてやめた。
 悲しめないのも悲しいことなのか、それとも恋の終わりは祝福すべきものなのか。幸瑠には分からないことが多すぎた。
〈明日、会えるか?〉
 無機質な文字列の奥に井澄の熱を感じる。求められている。求めているよ。
〈うん。図書館に十時でいい?〉
 井澄からアニメキャラのスタンプが送られてくる。OKということらしい。幸瑠は犬のスタンプでおやすみを伝えた。

 幸瑠と井澄は集中力が切れるまでマークシートが印刷されたノートを塗りつぶして、遅めの昼食に近くのファストフード店に入った。もっとも、幸瑠は昨日のことが気になってそれどころではなかったのだが、井澄が取り憑かれたように問題を解き続けるものだから幸瑠は声をかけることができなかった。井澄は本当に東京まで行くつもりなんだ。誰も井澄のことを知らない土地へ。大賀のいない東京へ。
「数学は安定して八割取れるようになったけど、英語が微妙だな」
 井澄と一緒に東京。それが正しい流れというもので、幸瑠と井澄は共に生きる運命だろう。そう信じたい。だって、わたしたち、
「国語は小説がな、って、お前聞いてる?」
「えっ、なに」
「ぼーっとしてるな。何かあった?」
「何かあったのはあんたでしょ」
 あ-、と井澄が間抜けな声を出す。
「いいんだよ、これで。俺の恋が叶う事なんてないから」
 傷付いた笑みが痛かった。
「おれ、大賀先輩に『大切な弟だ』って言われて嬉しかった。それでいいんだよ。それだけで」
「そうかあ」と幸瑠は悲しくなった。よりどころを失ったように不安になる。
「ねえ、この後あんたの家行っていい?」
 井澄は少し考えて「二次対策したいからおれは図書館に残るよ」と答えた。

 年越しそばを食べるタイミングが分からないまま午前零時を迎えた。今年も分からなかったな、と思ったが、すでに去年になっていたことに気付く。今年こそ分かるだろうか。幸瑠は月見そばの黄身を割ってそばを絡ませて食べていた。
 あの日、井澄は一度も幸瑠に触れなかった。恋人になったからなのだろうか。本物の恋人は触れ合わないのだろうか。
 違う、そうじゃない。と幸瑠に囁く存在が脳内にいる。気付きたくないことに気付こうとしている。まだ答えは出さないでおこう。まだこのまま、このままでいい。
 スマートフォンが震える。井澄かな、と思って見たがクラスのグループチャットが〈あけおめ〉というメッセージであふれていた。次々と届くので幸瑠は通知を切った。
 井澄は何してるかな。
 求めてしまう自分に呆れる。求めてもいい間柄になったというのに。ねえ、恋人同士って何?
「まだそば食べてるのか」
 自室から出てきた大賀に「あにきあけおめ」と言う。見たい年越し番組が違うため大賀は自室の小さなテレビで年を越す。一人で寂しくないのかな、と思う。リビングで家族団らんという歳でもないのだな、とドライな気持ちになった。
「あけおめ。おれも腹減ったな」
「そばならあるよ」
「年明けそばになるな」
 大賀はまあいっか、と笑って台所に立った。そばをゆでるのは手間なのでインスタントだ。
「卵入れるとうまいよ」
「おう、そうするわ」
 なんでもない会話。きっと今年もなんでもない年になりそうだ。
「初詣は斉藤と行くのか?」
「んー、約束してない」
 そうか、と大賀は言った。
「幸瑠は斉藤のことどう思ってるの?」
「なに、新年早々」
「いや、別に」
「ふーん」と幸瑠は呻った。
 井澄との関係を表す言葉を持っていない。
 大賀に告白してから、井澄が持つ色が変わったことに気付き始めていた。
 ――恋を完了させた者の色。
 東京へ向かうと決めた井澄。きっと彼なら一人でも生きていける。
 嫌だ、離れたくない。でも、それは幸瑠が一人で生きていけないから思うことかもしれない。ぬくもりをくれるなら誰でもいい。
「なんか、陽子ちゃんの気持ちが分かるかも」
 大賀は無視した。
「こんなわたしは嫌いだ」
 声に出してみたら滑稽で笑えた。若いな、と呆れてしまう。
 けど、井澄に依存しないと生きていけない弱い自分を心底軽蔑していた。
 初詣へは大賀と両親で近所の神社へ行った。
 もう幸瑠は世界平和は祈らなかった。
 ――ひとりで生きていけるようになりたい。

 センター試験は電車で数駅先の私立大学の講堂で行われた。
 井澄とは違う教室。姿は見かけたけれど話しかけなかった。
 一生のうちの大切なことがたった二日間で左右される。今までどれだけ努力を積み重ねてきたのか勝負する。いささかの緊張感をほぐそうとチョコレートをかじる。甘い香りに暖まる気がする。今まで積み重ねてきたもの全部。井澄、バイバイ。

「幸瑠、合格おめでとう」
 家族に祝わってもらった。赤飯とお刺身と唐揚げ。あとサラダ。豪華な食事を家族で囲むこともこの先めっきり減るのかな。
「ありがと」
 赤飯にごま塩をかけて頬張る。この味がいいんだよね。
「幸瑠、よく頑張ったよ。第一志望じゃなかったとしても旧帝大なんて立派なもんだ」
 すでに泣きそうになっている父がアルコールで赤くなった頬を上げる。
「いいの、これで。わたし北海道行ってみたかったし」
「これから一人暮らしになるけど大丈夫か?」
「少なくともあにきよりは大丈夫だと思う」
 なんだと、と大賀は怒ってみせる。幸瑠はけらけらと笑った。
「その、幸瑠をいつも送ってくれる男の子はどうなるの?」
 母が眉尻を下げる。
「井澄は東京へ行くって。しばらく会えなくなるなあ」
 さみしくなるわねえ、と母がつぶやく。寂しいのは娘が一人北の大地に旅立つからだろう。幸瑠自身の寂しさを推し量っていた。
「いいんだよ、これで」
 今はまず祝ってよ。幸瑠はめいっぱいの強がりをした。
 これでいい、これで。

「幸瑠、東大落ちたんだってな」
 幸瑠と井澄は揃って高校に受験結果の報告に訪れていた。桜の香りが二人を包む。
「そう、だから井澄と一緒には東京に行かない」
「――うそつき」
「ふふ、バレた?」
「お前のことだから分かるよ」
「あんたはいつもするどいね」
「お前のことだからな」
 校舎裏の渡り廊下。幸瑠は井澄を抱きしめた。
 さようなら。これでさようならだ。
 井澄の首筋から井澄の匂いがする。い草だ。私たちにはい草の匂いが染みついている。
「離れたくない」
 井澄が腰に回す手に力を込める。苦しさに安心する。
「わたしも、一人になりたくないよ」
 離れがたい。寂しい。一人にしないで。
 でも決めたんだ。一人で生きていくと。
 幸瑠と井澄の関係は何だったのだろう。求め合うことに名前は必要だろうか。
 いいや、そんなもの愚問だ。
「わたし、ちゃんとわかったよ」
「なにが?」
「たかが愛のはなしだったってこと」

たかが愛のはなし

お読みいただきありがとうございました。読了の証にツイートしてくださると嬉しいです。

たかが愛のはなし

私と彼は付き合っている、ことになっている。結ばれない相手を想って。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-05-26

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