風船ガムの割れる音
俺は授業を途中で抜けて学校の屋上に来ていた。
教室棟とは別に家庭科室や職員室のある特別棟の四階に図書室があって、他のクラスが授業で使っていない限り、午後は図書室を含め特別棟は廊下でさえ人気を感じない。そのおかげで図書室までは誰にも見つからずに来ることができた。
図書室の司書の先生は俺がたまに図書室に来ることを知っている。
「あら、船山くんいらっしゃい。もう授業はおわりなのかしら」
一応先生としての務めを果たすべく一声かけるが、特に注意などはせず放っておいてくれる。
「サボりっす」
俺は短く返して、先生に手を振る。そんな俺を見て先生はニコリと笑ってまた机の上の書類と向かい合った。
高校の授業が嫌いで抜け出したわけではない。わからないことを理解するのは好きだ。成績を決して良いわけではないがテストさえがんばれば卒業はできるし、大学入試試験も志望校には問題なく合格できそうだ。ただ一週間の内、五日を決まった時間割通りに過ごすことに違和感を覚えた。クラスの皆は当たり前のように時間割に沿って行動することができるが、俺には向いてないそう思っただけのことだ。
おかげで俺はクラスから少し浮いた存在としてクラスメイトから距離を取られ、部活動にも所属していないので友達と呼べる存在はこの二年半居たことがない。
図書室へは本を読むために来るわけではない。人気が全くない場所への扉があるから、それが目当てで来ている。
非常用の階段である。一階の扉は内側から施錠されているので、俺は図書室からしか此処へ入ることができない。
無機質なコンクリート階段の塀にもたれて見下ろす景色は爽快だった。まるで空を飛んでいる鳥になれたみたいで憂鬱な気分が吹き飛んだ。
「おい。そこでなにしてんだ」
いつもは独り占めで来ているはずなのに、ふいに後ろから声を掛けられた。図書室のある四階の非常階段よりも、もうひとつ上からだ。俺を見下ろしたのは紙を茶色に染めたブレザーの女の子だった。
「びっくりしたな。俺以外にここに来る奴がいるなんて初めて見た」
「おまえもサボりだろ。今日初めて来たけど、いい場所見つけたな」
ポンポンと初対面の俺の背中を叩く女子。そういえば初めて見る顔だった。
「君、クラスどこ」
俺は尋ねた。
「二年二組の日名川」ひとつ下のクラス、通りで初めて見る顔なわけだ。名乗られたので、自分からも自己紹介をした
日名川は俺の名前を覚えるために何度か繰り返した。
「ヨロシクな、船山パイセン」
正直、こういうタイプは苦手である。
「静かにしてるならここに居てもいいぞ」
俺は短く言ってまた景色を眺めた。人がひとり増えたところで狭く感じる場所ではない。おとなしくしてくれさえいれば俺は居てくれても構わないと思った。授業サボり仲間だ。
「何見てんだよ。先輩」そう言った日名川は俺の隣に並んで一緒に景色を見始めた。「あっ、プールなんか覗いちゃってこのスケベ野郎」
日名川は右肘で脇腹を突いてきた。
「違うって。たまたま一瞬見ただけだ。そこだけ見てたわけじゃない」
七月が来週に迫り、今日もクーラーの風が欲しいくらいに蒸し暑い。絶好のプール日和だ。どこかのクラスの男女が水着でプールに入っているが正直なところあまり興味はない。
「さあて、どうだか。男はみんなそうなんだろ」
横目で見た日名川の瞳はどこでもない空中を見つめているようだった。
「なにかあったのか」
「この間、失恋しちゃった。ねえ、先輩は失恋した時どんな音するか知ってる」
「なんだ、それ。音なんかするのか」
日名川の問いに俺は曖昧に答えた。
はい、サボり仲間にプレゼント、と言って日名川はスカートのポケットから風船ガムを取り出して渡してきた。俺はサンキュー、と言って口に放り込む。甘酸っぱいイチゴ味だ。
「恋ってガムっぽいよなって私は思うんだ。噛み初めは味が濃くて甘酸っぱくてさ、噛んでるうちに味がなくなってさ」
おそらくは何か大切な思い出を思い出しながら日名川は静かに言った。
またしばらく並んで景色を眺めた。夢中になってガムを噛んでたら味が少しずつ薄くなってきた
「日名川の言うこと、ちょっと詩的すぎるって思ったけど俺もなんとなくわかってきた気がする」
ぼうっと景色を見ていると初恋の思い出を思い出した。恋人になるまでに経験したことは今振り返ると何もかも甘酸っぱかった。そうして、初恋の人と付き合い始めて、同じ日々を過ごしているうちに噛み続けたガムみたいに新鮮味も薄れてきた。最後には。
「最後には風船ガムがみたいに割れちゃうのさ。それが失恋の音だよ、先輩」
日名川は知った風に言って、俺の顔の前で作った風船ガムを破裂させた。それに流されて俺も、そうかもな、とお返しに風船ガムを日名川の真似をして風船ガムを割った。
それから午後の授業が終わるまで二人でザボって適当な時間にお互いの帰路についた。
帰り道、ずっと日名川が言った言葉が頭から離れなかった。「それが失恋の音だよ」俺は何度もガムで風船を作った。作るたびにそれは音を出して破裂して、また一から作り直して、それを繰り返した。
風船ガムを噛み続ければ日名川が言ったように、俺も何かに気づくことができるかもしれない。
そうしているうちに家について、自室でも風船ガムを膨らませ続けた。
初めての彼女と別れたときのことを思い出した。何もかもが初めてのことで、あの頃はずっと一緒に居られると思っていた。そんなわけなかったのに俺はあの時からずっと今も子供だ。
今までで一番良い音ををたてて大きな風船ガムが割れた。
風船ガムが割れる音は恋が終わる音だけじゃない気がして、噛み続けてたガムを夜になって吐き捨てた。
風船ガムの割れる音