いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ

小澄桂馬

いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ
  1. ep.1 夏の始まり
  2. ep.2 割引券《クーポン》

ep.1 夏の始まり

 いつも通り朝のまだ誰もいない校門をくぐるとき触れる鉄の門扉はひんやりと冷たい。七月の空気が熱を帯びはじめるには少し早い時間だった。
 正門を抜けてすぐ、街灯のように細長く高く伸びた支柱の先に備えられた時計の針の位置は、七時を少し回っていた。ちょっと遅刻だな──弘樹は自然とそう考えたことに気づいて、なんとはなしに付け加えた──本当なら。
 校舎へ向かう途中、体育館への渡り廊下を横切るとき、館内を横目に見ようとしたが扉は閉ざされていた。中で誰かが運動しているような気配は感じられない。朝練の必要がなくなってしばらく経つ。先輩たちが練習しているはずがなかった。だからもう遅刻でもなんでもなかった。
 少し遠く、野球部の掛け声は校庭の方から聞こえてきていた。これから地区大会を戦う彼らには朝練の必要がまだあったしこれからもあるだろう。二年生の引退はあと一年先だし、どこの部だってそうだ。気合の入った声にときおり混ざる金属音を背に、弘樹は校舎へと向かっていった。
 この時間はまだ校舎の中も人気がない。窓から差し込む朝日が誰にも邪魔をされず廊下に影を落とす。特進クラスや準特コースは課外授業を課されているが、理数コースとは別棟なのでまず見かけない。わざわざ朝早く登校しておいてサボるような生徒はいないらしかった。
 だから弘樹が自分の教室に、人影を認めたのは意外だった。
 昇降口から二階へ上がり、ふと教室を見たとき、窓越しに二人の生徒の姿が目に入った。教壇に腰掛けた男子生徒に、女子生徒が何か話しかけていた。一人には見覚えがあった。男子生徒が教壇から立ち上がる。きちんと閉まっていなかった教室の入り口からは「……ごめん」と聞こえてきた気がした。前後はよく聞き取れなかったが、聞こえてしまわないよう、弘樹はきびすを返すと、いま上ってきたばかりの階段を、再び降っていった。

     ◆

 昼休みになるといつもなら学食に向かうが、今日は茂が「金がない……」と力のない目で言うので、弘樹も購買でパンを買った。校庭と校舎の間には舗装路に沿って樹木が植わっている。いくつか置かれている白いベンチは他の生徒たちで埋まっていて座れるはずもない。茂が校舎の壁沿いの段差に腰掛け、弘樹も隣に続いた。
 授業中ずっと寝ていた茂は、パンを袋から出すとにわかに生気を取り戻し、大きく開けた口に放りこんだ。もぐもぐとしばらく口を動かしているうちは幸せそうだった。
「もうなくなった」
 まだ袋を開けたばかりの弘樹は少し肩を入れてパンを遮蔽した。
「もっと味わいなよ」
「そんなちびちび食ってると食った気にならんよ」
 弘樹はパンを少しちぎって口に入れた。
「よく噛んで食べないと」
「そんなこと言われたの小学生以来」
「僕はつい最近も言った気がするんだけど……」
 茂はくしゃくしゃに丸めたパンの袋をもう一度広げて、じっと見て、また丸めた。そんなことをしてもパンは増えないよ、とはさすがに弘樹も言わなかった。
「お昼代もらってないの?」
「もらってる」
「なんに使ったの」
「色々あるんよ」
 弘樹のいぶかる様子を見て茂は付け加えた。
「違う違う。毎月、一か月分まとめてもらってて」
「無茶するね」
「だろ? オレもそう思うわ。わが親ながら、息子のことなんもわかってないんだからなぁ」
 お昼代をなにかしらかに使い込んでしまったらしい茂は自分の非を棚にあげて親を非難した。こういう目に懲りてちゃんとお金を管理できるようになってほしいと思ってるんじゃないかなぁ、と言ったほうがいいのか弘樹は悩んだ。
「具合悪いの?」
「ううん、僕は大丈夫」
「そっか。今風邪ひいたらもったいないからな。夏休みなのに」
 七月も中旬に差し掛かり夏休みももうすぐだった。期末試験から解放されたからか、長期休暇が目の前だからか、誰もどこか嬉しそうな顔をしているようだった。
 夏休みか。弘樹は去年の夏休みを思った。練習に合宿にと部活漬けなのは変わらなかったが、中学のころと違った小所帯の部は居心地が良かった。入学からまだ半年も経っていなかったが、上級生との距離はなくなっていた。
「なぁ夏休みってなんか用事ある?」
 茂の質問には答えないまま、弘樹はまたパンを小さくちぎって口にした。
「ないよな。もう部活も辞めたんだし」
「辞めたんじゃないんだけどね」
 辞めたわけでは決してなかった。辞めるつもりはなかったし、三年生になって受験勉強を本格的にはじめるまでは続けられるものだと、当然のように考えていた。
「友達んちでやってる店で人手が足りないらしくってさ、一緒にやんない?」
「バイトってこと?」
「そう。知ってる? 三組の水森」
「他のクラスの人のことはあんまり」
「同中でさ」
「じゃあ僕とは別の中学ってことだから、ますます知らないよね」
「小学校も一緒」
「生まれた病院まで一緒とか言わないでよ」
「病室も一緒だし産婆さんまで一緒」
「うそでしょ」
「うそだよ。あんまり乗り気じゃない?」
 弘樹は答えあぐねた。茂のじっと見る目からさりげなく視線を逸らすと、また袋の中のパンを少しちぎった。
 乗り気かどうかでいえば乗り気なわけではない。かと言って断る理由もなかった。もう練習もないし合宿もない。だから別に夏休みにアルバイトをはじめたとしても何の問題ない。けれど何故か気乗りしなかった。どちらかというと困ったような気持ち。どうしてだろう。弘樹はそれを見て取られたような気がした。
「違うんだ。そんな浮ついた気持ちじゃないんだ」
 弘樹は何も言っていないが、なぜか茂は弁解しはじめた。
「聞いてくれ。夏休みってさ、有意義なことをするべきだと思うんだ」
「う、うん……」
 弘樹は耳を疑った。茂に似つかわしくない言葉ということでもあるが、それより、有意義という言葉を知ってたんだというのが正直な気持ちだった。
「来年はもう受験だろ。そしたらもう遊べるのは今年だけじゃん」
「バイトしてたら遊べないと思うけど」
「休みくらいあるよ。……あるよな?」
「僕に聞かれても……」
「あるとして、遊ぶのにもお金がいるでしょ。バイトする。金溜まる。夏、遊ぶ。とても有意義」
「遊ぶって、具体的になにするの?」
「そりゃもう、海に行ったり」
「誰と」
「オレとオマエ。君と僕」
「男二人で海?」
「わかってるよ。誘うよ。女の子」
「計画倒れになる予感しかしないよ」
「それはそれでいいじゃん。やるだけやって、だめならしょうがない」
 なにがいいのかはわからないが、茂は自信あり気に笑った。
 やるだけやって、ね。弘樹は、今年の県大会で、先輩たちがそう言っていたのを思い出した。試合が始まったらやるしかないのだから、それは正しかった。やるだけやろう。全力でぶつかって、それからのことはその後だ。コートの横でそう励ましあっている先輩たちを見ていた弘樹は、勝ってほしいと思った。勝てばもう一試合、もう一試合を勝てばまたそれだけ続けられる。
「そんなに心配しなくても、心当たりはあるからさ」
 茂はそう言って立ち上がった。弘樹のパンもさすがにもう残ってはいなかった。
 空になったパンの袋を丸め、教室に戻る道すがら、今朝のことを考えた。あれは弘樹の考えたようなことではなかったのだろうか。茂の態度を見るにあまりそうとは思えなかった。けど……よくわかんないからなぁ。弘樹が茂の顔を見ていると、気づいた茂は口角を上げて見せた。いい笑顔をしていた。よくわからないのはもちろん茂のことではなかったのだが、やっぱり茂のこともよくわからなかった。

     ◆

 普通科はいくつかのコースにわかれていてクラスごとに空気が違った。弘樹の四組は理数コースで男子が多数──正確には三十八対〇──だが、目当ての三組は英語コースだった。
 放課後、茂と三組に向かった弘樹は、教室の入り口で少しためらいを感じた。よそのクラスに入る抵抗感はどこから生まれるのだろう。自分を内側と認めているわけではない集団に入り込む居心地の悪さではあるだろうけど、明確な敵意や排斥の気持ちを向けられているというわけではない。そういうことを気にしたこともないかのような茂に続いて弘樹が教室に入っていくと、三組の女子たちの視線がそれぞれのタイミングで立ち代りに向けられる。え? 入ってきちゃうの? 大丈夫? ほんの一瞬ずつの好奇の目。三組はほとんどが女子のはずだったが、教室には居づらいのか、ほとんどではなく、ちょうど四組と反対だった。三組の空気は植物的な香りがした。
 教室の入り口から遠く離れ奥へと、窓際の席までやってきて、茂は立ち止まった。席の主は机に肘をついて窓の外を眺めていた。校庭では運動部が道具を運んだりと練習の準備をしていた。
「連れてきたんだけど」
 茂がそう言うと、窓の外を見ていた女子は反射的に声のした方に顔を向けた。その一瞬だけは、無表情の鋭い目に口を結んでいたが、机の前に立った茂と弘樹に向き合うときにはもう、目を少し大きく開き、口元をほころばせていた。ぱっと明りが灯ったようだった。
「早かったね」
「こいつ、同じクラスの小林。これがさっき言ってた水森な」
「小林くん? ありがと、ごめんね、わざわざきてくれて」
 ミナモリさん、ミナモリさん、弘樹は頭の中で繰り返した。人の名前を一回で覚えるのはあまり得意ではなかったが、聞き直す気まずさはもっと得意でなかった。
 ようやく弘樹が水森さんを真っ直ぐ見ると、椅子に座っている水森さんは下から見上げて、上目遣いに弘樹を見ていた。ちょっと難しそうに眉をひそめて。その目と目があった。弘樹は気持ちとしては後ずさりしたが実際にはちょっとだけ視線を泳がせた。その先では水森さんの首元で結ばれた細いリボン紐が軽く揺れた。
「小林くんって……なんのバイトか聞いてる? こいつなんにも説明してないんじゃない?」
 水森さんは「本人は説明したつもりかもしれないけど」と付け足して笑った。
「人聞き悪い。オレがそんなテキトーなことすると思う?」
「一応、飲食店ってことは聞いたけど」
「広崎駅あたりの並木通りってわかる? 『Hanna' Shallot』ってお店なんだけど」
「うーん……あんまりその辺行かないから」
 弘樹は少し不安になった。名前がちょっとお洒落そう過ぎだった。そんなところでずぶの素人がいきなり働いても大丈夫なのかな。
「その感じだと、やっぱりどんなお店かも聞いてない?」
 水森さんは茂を横目に見て、ほら言った通りといった風に、困ったようでいてどこか自慢げに笑った。茂は「話した話した」と言うが弘樹は自分の記憶力が不安になる。
「どんな店なの?」
「うーん。カフェみたいな感じだけど、お昼や夕はしっかりした食事も出すようなお店かな。来るのは若い人も多いけど、仕事中っぽい人とか、親子連れとかも結構いたり」
 弘樹は想像してみようとしたけど、外食店にそう詳しいわけでもないし、いまいちうまく思い浮かべられなかった。
 弘樹があまりピンときてないのを察したのか、水森さんは考えるように言してった。
「ね、折角だし、今から行ってみない? 口で説明するより、見たほうが早いよ」
「その……お店に?」
「うん。お客さんとして」
「おごり?」と聞いたのは弘樹ではなく茂だ。
「それは無理だけど、従業員割引はきく」
「まじかぁ」
 十分な昼飯にも事欠く茂はため息をついた。
「貸して」
「その前にこの前の千円、返してよ」
「悪い。オレは無理だ……」
「大丈夫、お冷は出るから」
「行くのはいいけど」弘樹は一応言っておかねばと口を挟んだ。「まだどうするかちょっと悩んでて」
「そうなんだ。そうだよね。どんなお店か知らずに決められるはずないもんね」
 水森さんは弘樹には笑みで応えた。
「だったらなおさら、実際に見てみたほうがいいよ」
「オレは知ってるからなぁ。どんな店か」
「山口くんが小林くん誘ったんでしょ。ついてこないと」
「そうか。しゃあない、じゃあお冷飲みにいくかぁ」
 水森さんが弘樹を見て「いいよね?」と聞いた。いいよ、と答えるのも何か違う気がして、弘樹が「オッケー」と返したのは、考えてのことではなく反射的なものだったが、後からちょっと、オッケーってのもどうなんだ、と自分ながら思わないでもなかった。

     ◆

 それぞれ通学の仕方が違うので三人は最寄の広崎駅で待ち合わせた。駅の構内から出てすぐの駐輪場に向かう道を防いでいるポールの前で合流すると、並木通りに向かった。半日分の熱を含んだ道路と上空からの日差しに挟まれて、歩き出す前から汗がにじんでいた。風がなく熱が居座っているようだった。
 オレは知ってると言うだけあって茂が先に立って歩いていった。上背のある分足が長く大股でなかなか歩くのが早い。後をついていく弘樹は少し早歩きになるが、それは水森さんも同じだった。水森さんは歩くのが得意な様子で同じ速さでも弘樹よりよほどゆったり歩いているように見えた。肩を越すくらいの髪もそよぐほどにしか揺れない。上体のバランスがいいのかな、と弘樹はつい考えた。
「こっちだっけ」と曲がり角で茂が聞く。
「もう一本先」と水森さんが答えると「そうだっけ」と言いつつ茂はまた先を歩いていく。
 並木通りに植わった樹木は両脇の歩道だけでなく真ん中の車道も覆うほどに枝葉を伸ばしていた。夏の日差しを遮ってアスファルトに緑色の影を落としている。信号機よりもずっと背の高いこの木々の名を弘樹は知らなかったが、地面に落ちた葉は、滴のように太い付け根に膨らみを帯び先端に向けて細く抜けていて、輪郭はギザギザしていた。
「これってなんの木だろうね」
 水森さんが弘樹と同じく道端に落ちた葉を見て呟いた。
「イチョウやモミジじゃないのは確かだと思う」
「それは間違いないね」
「クヌギ?」
「そうなの?」
「いや、思いついたのをただ言ってみただけ……」
「どっちも知らないから、まぐれで当てようもないね」
 もしクヌギだったら、きっと夏にはカブトムシやクワガタムシが出没するはずで、そういうことは水森さんも見聞きした覚えがないそうなので、やはりクヌギではないようだった。
「小林くんってバイトはじめて?」
 ちょうど向かいからきた自転車を避けるのに弘樹は少し歩みを遅めて半歩水森さんの方に寄った。水森さんもスカートに軽く手を添え四分の一歩ほど建物の方に身をずらした。自転車はレンガ敷き風の歩道にガタガタと車体を揺らされながら二人の横を通り過ぎて行った。
「うん、はじめて」
「それじゃあちょっとドキドキだね」
「水森さんも最初のときは緊張した? 家の手伝いならそうでもないのかな」
「ん? 家のじゃないよ。親戚ではあるけど」
「そうなんだ。じゃあ小さいころからずっと手伝っててとかじゃないんだ」
「全然。去年からかな。最初はやっぱりドキドキしてたかも」
「お皿割ったり?」
「初日に割った。コップだけどね」
「怒られた?」
「爆笑された。怒られるよりよっぽど傷つく」
 水森さんは器用にも笑いながら腹を立てた。
「そういうベタなことは絶対にしないって思ってたのにやっちゃった。小林くんも気をつけて。初日からコップを割らないように」
「そう言われるとやっちゃいそうな気がする……」
 実のところ弘樹はあまりドキドキはしていなかった。まだ決めたわけではないし、どちらかというと実感がない。実際に店を目にするまではそういう気持ちだった。
 店は並木通り沿いにあった。歩道とを隔てるレンガ造りの植え込みには小さく硬そうな葉の密集した背の低い木が植えてあって、その向こうには壁面いっぱいに広がるガラス張りの大きな窓が道路側に向かって開けていた。窓際の席に座った客たちが何か話をしながら飲み物を飲んでいるのが見える。浅い三角の屋根をした平屋の建物で、入り口に「Hanna' Shallot」と筆記体の文字看板が掲げてあった。
「待って待って」と水森さんが小走りに駆けて、店の前を素通りしていった茂を呼び止めに行った。これだけうろ覚えなのに自信満々で歩いていけるのはすごい。水森さんの茶色いローファーがカッコッと音を立ててすぐ茂に追いつく。シャツを背中から引っ張られた茂はちょっとこけそうになって文句を言おうとしたが、店の場所を指差されると渋々戻ってきた。

     ◆

 店内に入ると、空調の効いた涼やかな空気に乗ってかすかに、料理の匂いや食器の音、客たちの喋る声が流れてきた。トマトソースの香りをカチャカチャと刻むナイフが皿に触れる音。広々とした客席では、何組かの客が食事をしたり会話を楽しんだりしているようだった。仕事の打ち合わせらしいスーツの社会人や、勉強をしている学生らしき姿もある。レストランというよりはカフェのようにも見えるが、卓上に並んだ料理からはカフェよりもしっかりした食事のできる店のようでもあった。
 テーブルの横ではウェイトレスが手にしたピッチャーから水をグラスに注いでいた。軽く頭を下げて席から離れると、やがてウェイトレスは、店の入り口の方にやってきた。
「いらっしゃいませ」
 目を細めて笑んだウェイトレスが華やいだ声で言った。
「どうしたの? 今日はシフト入ってないでしょ」
「うん。今日はお客さん」
 水森さんが親しげに答えた。
「三人。窓際の席、いいですよね?」
「お好きな席へどうぞ。学校の友達?」
「ちょっと違うけど、少ししたらわかります」
 水森さんは慣れた様子で店内を進んでいった。窓際には一組先客がいたが、そこから何席か離れたテーブルに案内された。卓上に置かれたメニューの光沢のある紙面が、窓から差す日の光を反射していた。水森さんが座った向かいに茂が腰を下ろし、弘樹もその隣に掛けた。
「あの人って、ここで働いてる人?」
 席につくなり茂が聞いた。水森さんは、驚いたような困ったような目をして、少し笑いながら答えた。
「あたりまえでしょ。じゃなかったら、なんなの」
 茂は「そうかぁ」とだけつぶやいた。
 水森さんが広げたメニューを一緒に見ていると、さっきのウェイトレスが片手に丸いトレイを胸より少し低い位置に持ってやってきた。おしぼり、水の入ったグラス、食器類の入ったケースがテーブルに並べられていく。グラスを置くとき、前かがみになったウェイトレスの前髪が揺れ、髪の簾ごしに目が合った。ウェイトレスは微笑した。
「ご注文がお決まりになりましたら──」
「あ、お願いします。私、レモンティ、アイスで」
 ウェイトレスは手元を見もせずに、エプロンのポケットから手のひら大の機器を取り出すと、「アイスレモンティですね」と復唱しながら、注文を受けた。
 続いて、残る二人の注文を聞こうとウェイトレスが顔を茂と弘樹の方に向けたので、弘樹が注文を口にしようとすると、「オレ、ブレンドコーヒー」、と茂が言った。二人は思わず茂の顔を見た。茂は落ち着き払った様子で「ホットで」と付け加えた。
 三人の注文を丁寧にもう一度繰り返すと、ウェイトレスは「少々お待ちください」と軽くお辞儀をしてテーブルを離れた。制服のフリルが控えめに揺れながら去っていった。
「水でいいんじゃなかったの」
 水森さんが言うと、茂はウェイトレスの背中を追いかけていた視線を戻した。
「これから自分が働くかもしれない店の味を知っておくのも悪くないと思って」
 水を飲もうとしていた弘樹は咳き込んだ。どんな冗談かと思って茂の顔を見ると真顔だった。
「山口くんて、コーヒーなんて飲んだっけ」
「いつもコーヒーだよ」
「……そうだったけ」
「いつまでも昔のままのオレだと思ってもらっちゃ困るよ」
 茂は自信ありげにそう言ったが、この前、弘樹とラーメンを食べに行ったときは、メニューも確かめずにコーラを頼んでいた。コーラはどこにでもあるし一番うまい。そう力説していた。さすがにそれを蒸し返すのはよした。
「小林くんは、コーヒーっていうより、紅茶って感じだよね」
「そうかな」
「うん。アフタヌーンティーっていう感じがする」
 どういう感じかはいまいち想像がつかなかった。
 しばらくするとウェイトレスが飲み物を運んできた。弘樹と水森さんの前にアイスティが置かれる。水森さんのグラスにはスライスされたレモンが刺してあった。アイスティに浮かんだ氷にレモンの皮の黄色がかすかに映りこんでいる。茂の前にもほのかに湯気を立てたホットコーヒーが差し出された。紙袋に入ったストロー、銀色のスプーン、砂糖、シロップなどがテーブルに並べられ、「ごゆっくりどうぞ」とウェイトレスは席を離れた。その背を茂は目で追っていた。
「決めた。オレここでバイトする」
 誰に言うともなく茂が言った。水森さんは苦笑した。
「コーヒーの味はどうなったの」
「通いやすいし、雰囲気もいいし、言うことないよな。店の人も優しそうだし」
 茂は同意を求めたが、弘樹は曖昧に微笑んで、代わりに水森さんに質問した。
「接客の人って一人なの?」
「今みたいなお客さんの少ない時間帯は一人のことが多いかな。ディナーやランチタイムは、二人か三人くらい。曜日にもよるけど」
 窓際の席からは店内がよく見渡せた。綺麗に配置されたテーブルの数に対して客はまばらで、まだあまり傾いていない午後の日が差し込む窓際に並んだテーブルのうち、弘樹たちが座っているのを除くと、一席しか埋まっていない。通路脇の二人がけの席に座った二人組と、壁際の四人席の会社員。その他の席は空いていた。この席がすべて埋まるほどにぎわう時間には、店員も二人三人と増えるのだろう。
「でも最初から一人ってことはないから。慣れるまでは、誰か先輩と一緒のシフトになると思う」
「ってことは、さっきの人と二人でってことも?」
 茂が声を弾ませて言った。
「残念だけど、夏休みの間は入れないって言ってた。大学のゼミの合宿とかなんだかんだで忙しいんだって」
 茂は「やっぱいいや……」と言って萎れた。
 水森さんはいたずらっぽく笑った。
「あ、でも、七月中くらいは大丈夫って言ってたかも」
「それならチャンスあるよな」
「チャンスってなに。ないない、そんなの。ノーチャンス」
「いや、オレはわずかでもチャンスがあるなら諦めない」
「ノーの意味、わかってないんだ」
 弘樹は指をうまく使って片手で紙の包みからストローを取り出すと、アイスティを飲んだ。唇と前の歯に支えられたプラスチックの管を茶色い冷たさがのぼってきて、口の中に渋みが広がる。酸味を残して紅茶が喉を通り過ぎていくと、ダージリンの香りがした。
 アイスティを飲みながら、茂がなにか言って水森さんが困ったように笑い返すのを、弘樹は眺めていた。幼馴染というだけあって、手馴れたやりとりに見えた。中学生のころも、小学生のころも、何度もこういうやり取りをしたのだろう。
「小林くんは、他に聞きたいことない?」
 茂の相手が面倒になったのか、水森さんは弘樹に聞いた。
「うーん……仕事ってどんなことするの?」
「色々あるけど、ほとんどはここで見てればわかるよ。お客様をご案内したり、注文を取ったり、料理を運んだり、お皿を下げたり、テーブルを綺麗にしたり、レジを打ったり」
「最初は皿洗いとかじゃないんだ」
「皿洗いはキッチンの仕事。他にちょっとした掃除とか、消耗品の補充とか……あと男の人は力があるから、バックヤードの仕事で呼ばれることもあるかも」
「倉庫整理ってこと?」
「整理は納入されたときにちゃんとするからないと思うけど、重いものを出したり、手の届かないところのものを取ってもらったりとか」
「それは弘樹を呼んでもムダっぽいな」
「そうなの?」
「まぁ、あまり背は高くないしね」
「腕力もないしな」
 弘樹はことさら否定はしなかった。
「……残念だけど力仕事は茂に譲るよ」
「任せとけ。力仕事は得意だからな」
「力仕事なんてそんなにないんだけどね」
 弘樹はそれを聞いてひそかに安心した。
「腕力より気がつくかの方が大事かな。注文したさそうなお客様がいたらオーダー受けにいったり、ちょっと汚れてるところがあったら綺麗にしたり。細かい親切心」
「それなら得意だな」
「ウソでしょ」
 弘樹も思わず突っ込みそうになったが水森さんの方が早かった。
「いや、オレじゃなくて。弘樹はそういうの得意だろ」
「別に得意ではないけど」
「あぁ、小林くんなら、たしかに得意そう」
「かといってオレもけして苦手ではない」
「信じていいの?」
 茂を指差して、水森さんが弘樹に聞いた。
「僕より水森さんの方が詳しいんじゃないかな」
「知らない間に何かあったのかなって」
「待てよ。水森。知ってるだろ。小学生のころオレがなんて呼ばれてたか」
「なんだっけ」
「気は優しくて力持ち」
「それって劇の役じゃん……こいつね、小学一年か二年くらいのとき、クラスの劇で先生が主役やりたい人って聞いたら、ハイッて手を挙げたんだけど、台本とかまったく無視で、出てくる人出てくる人襲い掛かって、お前が鬼かって感じで、仕方がないからクラスのみんなで、気は優しくて力持ち、気は優しくて力持ち、って言い聞かせ続けてたの」
「そうだったのか」
「そうだったのかじゃないでしょ」
 弘樹にはその光景が目に浮かぶような気がした。
「それじゃ本番も大変だったんじゃない」
「え、それはまぁ……それなりにがんばってたよね?」
「そうだったか?」
「そうでした」
「オレの記憶じゃたしか」
「余計なこと言うな」
「いいじゃん。弘樹も気になるだろ?」
「え。うん、まぁ」
「本番じゃ鬼にやられちゃったんだよ。いつもみたいにふざけて、近くのやつ相手に暴れてたら、鬼がどしどしでてきて金棒ですこーんって」
「それじゃ鬼の方がヒーローだ」
 弘樹は小さく笑いながら言った。
「爆笑からの拍手喝采だったな、くそッ」
「油断してたんだね。普段はみんな優しかったから」
「来るってわかってたら、負けなかったんだけどなァ」
「でも本番でそれをやるのは勇気あるね、鬼の役の人も」
「本当だよ。怒らせると怖いんだ」
 茂がしみじみと言った。
 ふと弘樹が水森さんに目をやると、眉を寄せて茂を見ていた。
「そ、そういえば僕、クラスで劇はやらなかったなぁ」
「お、露骨な話題変更」
 わかってるなら言わないでおいてよ、と弘樹は思った。
「そういや弘樹、他の県なんだっけ」
「小五まではね」
「小林くんって県外の人なんだ?」
「うん。いや、ちょっとややこしくて。生まれはこっちなんだけど、生まれてすぐ引っ越して。また帰ってきたらしい」
「らしいって」茂が珍しく言葉尻を捕らえる。
「物心つく前の話だから」
「ふーん。結構違うもん?」
「どうかな。そう変わらないと思うけど……」
 弘樹はあらためて考えてみたが、思いついたのは、給食の牛乳がガラス瓶ではなく紙パックなくらいだった。言葉も違うといえば違うけど、学校での生活や行事にさしたる違いを生むようなものではなかった。転校する度に『サウンド・オブ・ミュージック』を観る授業があって、小学校だけで三回も観ることになった。何年生で観るのかが違うのだろうか。『君をのせて』は合唱で二回歌った。修学旅行を何度も行くことはさすがになかった。
「そういえば二人は幼馴染なんだっけ」
「そう言えなくもないけど」
「そんないいもんじゃないよ」
 息は合っていそうだった。
「幼馴染がいるのはちょっと羨ましいかな。何度も引っ越してると、仲良くなってもすぐ別々だから」
「あのな、そういうのはな、姉貴のいないやつの言うお姉ちゃん欲しいなぁと同じだよ」
「私、ゆかりさんみたいなお姉さんなら欲しいけどなぁ」
「お姉さんがいたんだ」
「ステキな人だよ。キレイでカッコよくて頭もよくて優しい」
「ズボラで傍若無人で頭は自分の私利私欲のためにしか使わない理不尽大王だぞ……」
「そうなんだ。今度ゆかりさんに確かめてみなきゃ」
「そんなことをしたら酷い目に合うぞ」
 誰が、というのは聞くまでもなさそうだった。
 茂は不満そうに目の前のカップを手に取った。コーヒーを口に含むと、突然にらめっこを始めたような顔をして、カップを受け皿に戻す。ガチャリと音を立てて中のコーヒーがこぼれそうになる。口からはこぼれていない。茂はテーブルに置いてあった砂糖をコーヒーに入れ、ミルクをコーヒーに入れ、シロップをまだ揺れるコーヒーへと注いだ。そのシロップは水森さんの紅茶についてきたものだった。
 空調の効いた店内をほのかに巡る空気に乗って香草とにんにくの炒めた香りがするのに気づいて、弘樹が店内を見渡すと、ウェイトレスが丸いトレイに料理を乗せて運んでいた。ウェイトレスの上体はほとんど揺れず、料理は胸の高さに引かれたガイドを辿るように進んでいく。ウェイトレスが会社員の席までやってきて、声をかけたとき、電話の着信音らしきものが鳴った。会社員は卓上に広げた資料のようなものを脇に寄せ、ウェイトレスは皿をテーブルに並べた。電話の音は、店のレジの方から聞こえるようだった。立ち去ろうとするウェイトレスを会社員が呼び止めると、ウェイトレスは笑顔で注文を取る機器をエプロンから取り出した。
 呼び出し音の鳴り続けるレジの方を見ていると、店の奥から、ウェイトレスの制服とは違う、ブラウスとスカート姿の女性が出てきた。ゆるやかに波うつ長い髪を手でかきあげ出した耳に、受話器を当てた。
「どう? コーヒーの味は」
 水森さんの問いに、茂は渋い顔をして答えた。
「なかなかおいしい」
「好きになれそう?」
「もとから好きだから」と茂はまだしばらくはがんばっていたが「それ使わないならもらっていい?」と弘樹の方に身を傾けて、使わずにおいてあった未開封のシロップに手を伸ばした。弘樹は椅子の背もたれに体を押し付けて身を引いたが、茂の左腕がぶつかった。茂はシロップを取り損ねた。シロップは机から落ち、床に跳ね、転がった。
 拾い上げたのは、さっき電話を受けていた女性だった。
「落とされましたよ」
 シロップの容器を差し出した。弘樹に手渡して、めがねの奥で微笑んだ。紺の襟と袖の白いブラウスは皺一つないようで、かがんだり手を差し出した後も、きちんとひとりでに元に戻るかのようだった。
「いらっしゃい。めずらしい、お客さんとして来るなんて」
 水森さんが「マネージャの葉月さん」と教えると、葉月さんはあらためて「邪魔してごめんなさい。くつろいでいってくださいね」と二人に笑んだ。
 葉月さんが水森さんを見ると、長い髪がわずかに揺れた。
「水森さん、今日このあと時間あります? 今晩のシフトに入ってほしいんだけど……」
「いいですよ。どうかしたんですか」
「早瀬さんがどうしても来られないらしくって」
「早瀬さんって?」と茂が口を挟んだ。弘樹は思わず茂を見た。
「バイトの人、ここの」水森さんが手短に答えた。
「あ、なるほどね」と言って、茂は最後のシロップをコーヒーに入れた。もうコーヒーには見えない。
「何時からですか」
「六時なんだけど、お願いできる?」
「わかりました」と言いつつ水森さんは時計を見て「……二人ともゆっくりしてく? 暇つぶしに」
「なんでオマエの暇つぶしに」
「僕はいいけど」
 弘樹は小さく笑った。六時まではまだ一時間半ほどあった。
「折角だし、見学してこうよ。水森さんの働いてるとこ」
 そう口にしてみると、店の制服に身を包んだ水森さんがふと弘樹の頭をよぎった。さっきテーブルに案内してくれた店員と同じ、控えめなフリルとリボンのついたウェイトレスの服装に、みんなを歓迎するような笑顔で、料理を乗せたトレイを手にし、てきぱきと店内を動き回る姿。
「いいね、それ。そうするか」
「やっぱりいますぐ帰っていいよ」
 現実の水森さんにつられて、想像の水森さんも嫌そうな顔をした。金棒まで出てきた。弘樹はバカなことを考えている自分に気づいてなんとなく居心地悪くアイスティーのグラスに手を伸ばした。
「けどさ、ほら、どういう仕事か参考までに見とかないとな」
「それならもう十分見てるでしょ、さっきから」
「もしかして文化祭で喫茶店でもするの?」
 ひらめいた風に葉月さんが言った。
「それいいっすね。プロがいたら……あぁでも、水森、クラス、別だしな」
「プロじゃないんだけど。バイトなんですけど」と水森さんは茂を牽制しておいてから葉月さんに向かって「二人とももしかするとここで働くかもしれないんです」
「そうだったの」
 めがね越しの葉月さんの目が意外そうに広がった。
「まだ迷ってるそうで、ひとまずお店を見てみようかって」
「見てみて、どうでした?」
「最高ッすね。こんなステキな店でオレも働いてみたいっす」
 弘樹は少しむせそうになったのをごまかした。水森さんは思うところありそうな口元だけの笑みで静観していた。
 葉月さんは嬉しそうに礼を言うと「それだったら」と茂と弘樹に交互に目をやった。
「折角ですし、今日、面接だけでもしていきませんか?」
「面接があるんすか」
「はい」
 葉月さんはにっこりと茂に答えた。
「店としても一緒に働くかもしれない人のことは知っておきたいですし、働きはじめる前に店の人間に聞いておきたいこともあるでしょう」
 葉月さんの説明に茂は「たしかに」とあいずちをうった。
「今日すませておけば、また日を改めて来てもらわなくてすみますし」
「あ、そうか。また来るのは面倒っすね」
「面倒って」
 水森さんは何か言いたげだったがやっぱり止めたようだった。
「どうします?」
「そうっすね……」と少し考えるのかと思いきや茂は「じゃあ、お願いします」と簡単に答えた。
 弘樹はちょっと困ったなと思った。なにがと言われると難しいが、少し気が重かった。こういう風に話が進むとは思っていなかったということもあるし、「どうしてここで働いてみようと思ったんですか」とか聞かれても答えようがないというようなこともあるけど、そういうこととは別のためらいでもあった。
 答えかねていると、葉月さんが見ているのに気づいた。目が合ってしまうと、葉月さんは微笑んだ。
「話をしてみて、実際に働くかどうかは、あとで決めていいんですよ。二人は、水森さんと同学年?」
 水森さんがうなずく。
「なら志望校によっては、勉強と両立できそうかということもあるだろうし……」
「え。まだ二年の夏っすよ」
「来年の冬、涙目になってるのが目に浮かぶ」
 混ぜっ返そうとする茂を水森さんが茶化した。
 難関大を目指すような人なら二年の夏でももう本格的に対策を始めているということもあるかもしれない。弘樹はもともと三年まで部活を続けるつもりだった。まだ志望校どころか受験勉強のことも深く考えていなかった。茂はもちろん、多分、水森さんも。学校でもそういう雰囲気になるのはまだ先のことのように思われた。
 葉月さんもそれはわかっているだろうと弘樹は思った。
「あの、面接、お願いします」
 弘樹が告げると、葉月さんは喜ばしげにうなずいた。
 準備をしてくるからと、葉月さんはテーブルを離れていった。残された三人は、なんとなく言葉なく、それぞれ座りなおしてみたり、コーヒーだったものに口をつけようとしてやめたりした。
 いつの間にか店内には新たな客が入っていた。二人がけの席に壮年の女性とおばあさんが向かい合って座っていた。仲が良さそうになにかを喋っているようだが、母娘には見えない感じがする。
 不意に「よかったの?」と水森さんが聞いた。弘樹は笑みをつくった。
「うん。僕も興味はあったし」
「ホント? 嫌がってるのを無理やり連れてきちゃったんじゃないかって、心配してたんだ」
「オレは嫌がってるのを無理やり連れてこられたんだった気がする」
「でも、来てよかったでしょ」
 悪びれもせず言う水森さんに、茂は同意したいけどしたくないといった悩ましげな様子で首をかしげた。弘樹は困ったように笑った。

     ◆

 葉月さんに案内されて、弘樹は面接が行われる部屋へと向かった。客席から店の奥に入り、調理場からできた料理を受け取るウェイトレスを横目に、こじんまりとした部屋に通された。事務用の机や棚が置かれてあり、なにかの資料なのかたくさんの紙類がきちんと整頓されてある。
「あの」と弘樹は気になって葉月さんに声をかけた。「そういえば履歴書とか何も持ってきてないんですが」
 突然のことなので持ってくるもなにもないが、そういうものが要るのではないかと弘樹は思った。
「大丈夫ですよ」葉月さんは笑顔を浮かべた。
「働いてもらうことになったら、いろいろと手続きのために持ってきてもらうものがあるから、そのときに一緒にお願いします」
 そういうものなのか。やはり必要なことは必要なようだが後でもいいのか。弘樹はわかったようなわからないような感じがした。
「そこに座っていてください。オーナーを呼んできますから」
 そう言い残して、葉月さんは奥の扉から出て行った。
 弘樹は椅子に腰掛けて、面接って葉月さんがするんじゃないんだ……と思った。弘樹が先に面接に挑むことになったのは、たまたま通路側に座っていたからだった。奥の席に座っておけばよかったな、とも思った。後でも先でも結局は変わらないけど。
 弘樹は所在なく部屋を見渡した。背中側の入り口と葉月さんの出て行った奥側の扉の間に机が置かれていて、向かいの椅子のすぐ後ろ、壁際には閉じたままのダンボールが小積んであった。その脇の、奥側の扉の横の壁には、小さな厚紙に紙を貼って紐を通したような、なにかの表らしきものが掛けられてある。事務机には両側に三脚ずつ椅子が備えてあり、弘樹はその一番手前に座っていた。机の上には三角形のカレンダーが立ててあった。
 飲食店に食事にくることはあっても、奥まで入って見ることはない。こういう店の内側を目にするのは初めてだった。何の部屋なのか弘樹は不思議に思った。どちらかというと雑多なこの部屋で葉月さんが事務作業をする姿を思い浮かべるのは難しい。
 背中の方からは、かすかに客席のにぎわいが聞こえてきていた。
 扉の開く音がした。部屋の奥側から、暗い色合いのスーツ姿の男が入ってきた。弘樹があわてて立ち上がると、男は「オーナーの前原です。よろしく」と言いながら右手を差し出した。弘樹も咄嗟に名前を告げながら右手を出した。弘樹のより一回り以上大きな手だった。弘樹の方が体温が低いのか温い感触が移ってくる。そういえば、と弘樹は思った。部活の練習や試合とかで以外、握手するなんて初めてかもしれない。同じ年頃の手の平よりも肉厚で、去年まで顧問だった古河先生もこんな手をしていたのを思い出した。先生の手はしかしもっと硬かった。
 オーナーは自分の座る椅子を引きながら「どうぞ掛けて」と言った。一緒に戻ってきた葉月さんも、オーナーの隣に座った。弘樹は元の椅子に再び腰を下ろした。
 葉月さんは和やかな表情をしていたが、オーナーはとくにそういう顔ではなかった。
 オーナーはやや前かがみに、机に両腕を乗せて質問を始めた。
「アルバイト志望ということだけど、明里の友達なんだって?」
 微妙に違ったが、弘樹はあいまいにうなずいた。アカリっていうんだ、と思った。そういえば親戚の店だって言っていた。この人がその親戚か。
「アルバイトは初めて?」
「はい」
「そりゃいい。どうしてアルバイトをしてみようと?」
 弘樹は一瞬それなりの答えを選んだほうがいいだろうかと思ったが、そのままを言った。
「友達に誘われて」
「うん」
「それでです」
 オーナーは今度はあいずちをうたず、少し間を置いてから口を開いた。
「友達に誘われたからってなんでもするわけじゃないだろ。誘われて、どうしてやってみようかなって気になった?」
 弘樹は困った。やってみようかなという気にまだなっていないということもあるが、そこを置いておいても、どうしてかははっきりしていなかった。
「別に、遊ぶ金が欲しいとか、そういうことでも構わないんだが」
「いえ、そういうわけでは……」
「飲食店とか接客とかに興味があったり?」
 昨日までは考えたこともなかったが、興味ないと言うのは失礼過ぎるかと思い、まったくの嘘というわけではないしと、弘樹はあいまいにうなずいた。
「募集してるのはフロアで接客をするスタッフなんだが、そこは間違いない?」
「はい……」
「どうも少し緊張してるようだ」
 オーナーは前かがみになっていた体を起こしてまっすぐに座りなおした。
「ちょっと笑顔が足りないんじゃないか?」オーナーはそう言うと葉月さんを横目に見て「マネージャ、何かおもしろいこと言ってくれ」
「パワハラは止めてください」
 葉月さんは表情を変えずに言った。
「ただおもしろいことを言ってくれと頼むことのなにがパワハラなんだ」
「じゃあオーナーが言ってください。おもしろいこと。はい、3、2、1……」
「笑顔のことは忘れよう」
 オーナーは居住まいを正した。
 笑っていいのか弘樹は困った。
「家はどの辺?」
 弘樹が自宅の住所の町名を告げると、オーナーは地名を聞いただけで「結構近いな」と言った。
「働くことになったら、週どれくらい出たい?」
「え、っと。まだよく考えてませんでした」
「部活とかはやってる?」
「いえ、今は……」
 オーナーは一瞬黙って少し眉を動かしたが、何事もなかったように言葉を継いだ。
「じゃあ時間は結構ありそうだ」
 いえ、と言うわけにもいかず、弘樹は「はい」と答えた。実際時間は結構あった。
「なんだか私ばかり喋っている気がするな」
 オーナーはそう言うと、再び葉月さんに目をやった。
「葉月マネージャからも聞くことはないか?」
「そうですね、そのネクタイはどうされたんですか。普段つけない色ですね」
「私に聞いてどうする」
「冗談です」
「絵美にもらったんだ」
 そう言ってオーナーは深いエンジのネクタイを締めなおした。よく見ると銀の刺繍で小さく動物の絵柄が入っているようだった。
 弘樹はさすがに茂のように「絵美って?」とは聞かなかった。聞かなかったがオーナーは「絵美というのは私の姪だ」と説明した。
「もし働いてもらうことになったら」と葉月さんはネクタイの話題から離れた。
「店としてはできるだけ長く続けてほしいと思っています。仕事に慣れるのにも少し時間がかかりますから」
「長くというのは……?」弘樹はおそるおそる聞いた。
「できるだけ長いほうが助かりますが、短くても半年から一年ほどは続けてほしいと思っています」
 今から半年だと来年にまでまたがる。
「ですから、よく考えて決めてくださいね」
「……はい」と弘樹は答えたものの、戸惑っていた。最初に茂と話していたときの感じでは、夏休みの間のアルバイトだと思っていた。
「小林君」とオーナーが弘樹の名を呼んだ。
「何か私に今聞いておきたいことはあるかな?」
 オーナーはそう言って腕を組んだ。
 弘樹は何も聞かないのも失礼かと思い少し考えたが、何も思いつかず「いえ、大丈夫です」とだけ答えた。
「そうか。それなら、あとは事務的な話だけだから、葉月マネージャから聞いておいてください」
 オーナーは葉月さんに「じゃ、あとよろしく」と言って、席を立った。
「まだ帰らないでくださいね。もう一人いますから」
 葉月さんの声を背に、オーナーは部屋から出て行った。扉が閉まると、少し間をおいて、「お疲れさまでした」と葉月さんが言った。
 弘樹にはなんだかあっという間のできごとだったように思えた。
「えっと……終わりですか?」
「面接は、そうです。あと少し、勤務の条件について、説明させてください」
 弘樹はその面接にほとんど手応えらしきものを感じていなかったが、色々と説明があるということは、合格ということだろうか。
「驚いたでしょう」と葉月さんが笑顔で言った。「なんというか、勢いのある人だから」
 弘樹は同調していいのか迷った。
「あの、合格ということでいいんでしょうか」
「もちろんです。小林くんさえ良ければ」
 葉月さんは力強く肯定した。
「あんまりそういう感じには思えなかったんですが……」
 弘樹には気がかりなことがあった。それはオーナーが、そして多分葉月さんも、弘樹を水森さんの友達だと思っていることだった。水森さんの友達だからという理由で本来とは違う結果になったのなら、申し訳ないような気がした。
「あぁ、オーナーのことなら心配しないで。ダメだと思ったことは率直に言う人だから……すぐ終わったのは、むしろ印象が好かったんでしょう」
 弘樹はそう言われてもあまり納得感が湧かず「はぁ」と気の抜けたような返事をした。

     ◆

 それから弘樹は、時給や各種の手当や保険などの雇用条件、履歴書や給与振込み用の銀行口座など事務的に必要なものの説明を受け、客席に戻った。
 茂と水森さんは何やら楽しげに話をしていた。弘樹が戻ってきたのに気づくと、「どうだった?」と茂が聞いてきた。
「想像してたのとは大分違った」
「マジか。圧迫面接ってやつ?」
「そんなことするわけないでしょ……」と水森さんが呆れたように言ったが、圧迫ではないけど圧倒はされたなと弘樹は思った。
「まぁ、行ってみればわかるよ。すぐ来てって」
「よっしゃ。いっちょ当たって砕けてきますか」
「砕けちゃだめでしょ」
 茂が席を立つのと入れ替わりに弘樹は椅子にかけた。向かいのシートの真ん中に座っている水森さんとは、斜向かいになった。
 さっきまでは茂と二人掛けだったのでよかったものの、一人で通路側に寄って座っていると、どこか変な感じがした。かといって、真ん中に座り直すのも何となく気が引けて、結局そのままでいた。
「想像してたのと大分違った?」
 弘樹の方へと顔を向けて水森さんが言った。
「うん」と言いつつ、弘樹は言葉を選んだ。
「マネージャさんが面接するのかと思ってたから」
「あー。オーナー来てるんだ、今日」
「いないこともあるの?」
「いないことの方が多いかな。他にもお店やってるから、最近はそっちばっかり。ちょっと変わった人だったでしょ」
「うん」と言っていいか困って、弘樹は曖昧に笑った。
「勢いはすごいけど、いい人そう。緊張解そうとしてくれたり」
「え。あの人が? どんなことしたの」
 どんなことと言われると難しいなと弘樹は思った。面白かったことは覚えてはいるけど、それをうまく説明できる気がしなかった。
「突然マネージャさんに面白いこと言ってって無茶振りして」
「うん」
「自分で言ってくださいってやり返されて、そうしたら何事もなかったように面接に戻った」
「マネージャ、強いからなぁ」
 そう言って水森さんは笑った。
 それで話が途切れると、しばらくは無言の時間が続いた。さっきまでは茂がいたから、何の心配もなかったが、二人きりだと話題を見つけるのが大変だった。
 何か共通の話題はないかなと思うとむしろ思いつかない。なくはないけど──弘樹は今朝のことを思い出していた。朝早い教室で、二人は何を話していたんだろう──それをこの状況で話題にするのはさすがに躊躇われた。
「ねぇ、小林くんって、フットサル部なんだよね」
 水森さんが思いついたように聞いてきた。弘樹は少し不思議に思った。どうして知っているんだろう。
「うん──正確には、だった、だけど」
「休部になっちゃったんだっけ」
 水森さんの言うとおりだった。夏前の大会で三年生が引退し、それで部は休部になった。来年の春には廃部になる。
「もしかして中学まで、サッカー部じゃなかった?」
 弘樹は更に不思議になった。確かにそうだった。弘樹が肯定するのを聞くと、水森さんは「やっぱり」と言って、喜ぶように笑顔になった。
「覚えてない? 練習試合で当たったでしょ」
 水森さんが名前を挙げた学校とは確かに練習試合をした記憶があった。練習中、相手チームに怪我をする人がでて、弘樹の学校の生徒たちで応急手当をしてあげたり、ちょっと珍しいことがあったので、思い出せた。
「よく覚えてるね」
「うん。男の子がなんて珍しいなって思ったから」
 しかし弘樹はいくら思い返しても、水森さんらしき人が相手のチームにいたような記憶はなかった。そもそも相手チームにはマネージャもいなかったので、弘樹の学校の生徒たちで手助けしてあげたのだった。
「でもそっちに女子マネなんていたっけ」と弘樹が聞いてみると、水森さんは笑って答えた。
「いないいない。マネなんて贅沢なのはいなかった」
「水森さん選手だったの?」
 弘樹は驚いた。
 どう思い返しても、フィールドの中に女子がいたとは思えなかった。中学生までくらいなら男子に混じってプレイできる女子もいないではないが、相当上手でないと体格差が厳しくなってくるはずだ。弘樹は素直に「すごい」と言った。
「すごい偶然だよね。茂が連れてきたとき、びっくりした。もしかしてって」
 そこまで言われると弘樹は、自分の方は気づきもしなかったのを、なんだか悪い気がした。
「あれ、そういえば、じゃあ、島田先輩とも同中なんじゃない?」と弘樹は部の先輩の名を挙げた。
「ヤスさん?」
「だよね。やっぱり」
「人間関係って意外と広いようで狭いよね」
 水森さんは楽しそうに笑った。
 それからしばらく中学時代の島田先輩の武勇伝を聞いてるうちに、茂が戻ってきた。茂はどこか気落ちしたような顔をしていた。
 弘樹が一旦席を立とうとすると、茂は「いいよ、詰めて詰めて」と言って弘樹を押しやるようにしてシートに体を滑り込ませてきた。
「どうだった?」と聞きながら、弘樹は席の奥から茂の鞄を手渡した。
「いやぁ」と茂は浮かない顔だった。「あがっちゃってさぁ、何喋っていいかもう真っ白になっちゃって」
「うそ」と水森さんが驚いた。「緊張なんてするんだ」
 弘樹も失礼だけど内心、同感だと思った。
「だってさぁ」と茂は後ろ頭を掻いた。「あんな大人の人が出てくるとは思ってなかったからさぁ。丁寧な言葉づかいしなくちゃなって思って」
「わかる。いつもと違う喋り方しようとすると、なんかこんがらがって、正しいのか正しくないのかわからなくなることある」
 弘樹は、葉月さんも大人の人だと思うけど、と思ったけど言わずに、ストローで紅茶を吸い上げた。
「じゃあ不合格だったの?」
 そう聞かれた茂は、顔に疑問符を浮かべた。それから首を傾けて少し考え「そういえば聞いてない」と言った。
「そんなはずないでしょ」
「戻ってくる前に何か言われなかった? 銀行口座持ってなかったら作ってきてとか」
「それは確か言われた気がする」
「じゃあ採用ってことだよ。おめでと」と水森さんが笑顔になって言った。
「って言っても、よっぽどじゃない限り不採用にはならないんだけどね」
「今までだめだった人っているの?」
「いないと思うけど……あ、年齢がってのはあったと思う。中学生」
「中学生でなんているんだ」
「一回あっただけだけど、珍しいと思う。そのときは、卒業したらまた来てってことになったらしいけど」
「でもそれじゃ緊張して損だったな。最初からわかってれば、もっと気楽にいったのに」
「ふっふっふ」と水森さんはわざとらしく言った。「そのくらいで緊張してたら、先が思いやられますなぁ」
 茂は「どういうこと?」といぶかしんだが、弘樹はさっきの水森さんとの会話を思い出していた。初めてのアルバイトの日には水森さんもドキドキしたと言っていた。茂もだけど水森さんが緊張するところというのも、弘樹には想像するのが難しかった。
 気づくと、店はいつの間にか賑わいを増していた。店に入ったときは数客しかいなかった店内も、次第に席が埋まりつつあった。客が二倍になると四倍は賑やかに感じる。同じ店内でも、別の店のような雰囲気がした。
「そろそろ、行くね」
 そう言うと水森さんが鞄を取った。
「早くない? 六時だろ」と茂が時計を見て言った。確かに六時にはまだ少し時間があった。
「早めに着替えたりしておかないと、六時から働けないでしょ」と水森さんは言ったが、それにしても少し早過ぎるように思えた。弘樹がそう思っていると水森さんは「それに」と付け加えた。
「いつまでも付き合わせても悪いし」
「オレはいいよ。お前の働いてるとこ見学してくから」
「さっさと帰れば」
「そんなに制服姿見られたくないのか」
「そんなの、これから一緒に働くんだったらいくらでも見るでしょ……」
 水森さんは呆れたように言った。
「僕もそろそろ帰ろうかな」と弘樹は言った。「お客さんも増えてきたし、混む前に出よう」
 茂もそれを聞いて店内を見渡すと、「じゃあそうするか」と言った。
 三人で席を立つと、水森さんが伝票を取ってレジに向かっていった。それを見てやってきたウェイトレスは「もう帰るの?」と声をかけてきた。
「私はシフト入るんでこのままいます」
「あれ、でも今日って……」とウェイトレスは言いかけて「あー、結ちゃんか」と苦笑した。
 ウェイトレスはそのままレジに入り、水森さんから伝票を受け取ると、「今日はいいよ、お店のサービス」と言った。
 水森さんも意外だったらしく「いいんですか?」と聞くと、ウェイトレスは笑顔で「いいのいいの」と言った。「マネージャには確認してあるから」
「ほんとですかぁ?」と怪しむ水森さんをよそに、ウェイトレスは弘樹と茂に微笑みかけた。
「二人ともバイトの面接だったんだねぇ。いつから働くの?」
 弘樹と茂は二人で顔を見合わせた。少なくとも弘樹は、具体的にいつからという話は聞いていなかった。
「いつまでに返事してほしいとか聞かれなかった?」と水森さんが弘樹に聞いた。
「今週中くらいにはって」
「じゃあ早くても来週からかな。あらためて相談だと思うけど」
「まだ決めてないんだ?」とウェイトレスが面白そうに言った。それから何か察したように「大抵、面接の方があとなもんだけどねぇ」と、何か言いたさげな笑みで水森さんを見た。水森さんは困ったように微笑んだ。
「オレはもう決めてます。バッチリ働くんでビシバシ鍛えてください」
「やる気あるねー。じゃあシフト被った日は色々教えてあげないとね」
 嬉しそうな茂をよそに、ウェイトレスは何やらレジの機械を操作していたが、やることは済んだのか「じゃあ、私は仕事があるから」と言ってレジを離れると、「また今度ね」と小さく手を振って客席へと戻っていった。茂はとても勤労意欲に満ちているようだった。

     ◆

 店の外は暑かった。暑さで空気が歪んで、出入り口のドアに掛かったベルが鳴る音も、真っ直ぐ進めず少し苦労しているような感じがした。
 駅の近くで茂と別れて、弘樹は今日のことを考えた。いいお店だと素直に思った。通いやすく、雰囲気はいいし、店の人も親切そうだった。断る理由は別にない。ただ新しいことを始めるにはまだ早すぎるような気がしていた。
 今週中か、と弘樹は思った。それまでには決めないと、と思いながら歩道を歩いた。夏の日差しはまだ弱まらない。もう夕方なのに昼のような明るさだった。

ep.2 割引券《クーポン》

 失敗だった、とタツヤは思った。
 第一にこんな真夏の炎天下に外で待ち合わせたのが間違いだった。第二に時間通りに来たことが間違いだった。相手は時間通りに来るようなやつじゃない。第三に、そもそも待ち合わせなんかしなきゃよかったんだ。
「もうどっかコンビニでも入ってようぜ」
 タツヤが見上げて言うと、カズシは涼しい顔で言った。
「まぁもうちょっと待ってようよ。あいつ携帯見ないし」
 汗はかいているので涼しいはずはない。むしろ背の高い分、浴びている日差しの量はカズシの方が多いはずじゃないのか。もしかして標高が高いと涼しいのか? どうでもいいことが気に障るほど暑かった。
 結局ヤスオがやってきたのは約束から三十分ちょっと遅れてからだった。悪びれもせず「やっほー」などと言いながら現れたヤスオに、タツヤの飛び蹴りが入った。
「ゴラァ、ヤス、テメェ、時計の見方、幼稚園で習わなかったのか?」
「と、時計の見方くらい知っとるわ」とヤスオは苦悶しながら言った。
「じゃあなんで時間通り来ねぇんだよ」
「?」とヤスオは顔に疑問符を浮かべた。「時間通りだろ?」
「まぁまぁ、来ただけいいじゃん」
 更に荒れようとするタツヤをカズシが馬を落ち着かせるようにしてなだめた。
「誘ったやつが来なかったらやばいだろ」
 タツヤが呆れたように言うのをよそに、ヤスオは「あれ、カズくんも来てたんか」とにこやかに言った。
「オレも志望校一緒だからね。同じ目標の仲間同士、協力し合おう」
「同志って言うか敵だけどな」
 合格者の枠は限られているので、志望校が同じなら、それを奪い合うことになる。そういう意味では敵だ。同じ目標を持つ者同士は敵になる。受験生は悲しい。ただ、一人しか受からないわけじゃないので、協力が成り立たないわけではない。
 三人が集まったのは受験勉強をするためだった。「どうせ家におっても勉強なんてできんわ」というのがヤスオの言い分だったが、それにはタツヤも同感だった。人の目があった方がまだ勉強する素振りくらいはできる。
 とはいえ今までろくに勉強してこなかった二人に、どこに集まるかのあてはなかった。ヤスオがたまたま飲食店の割引券があるからということで、そこに行こうということになった。飲み食いもできるし空調も効いてるはず。
「で、そのファミレス、どこにあんの?」
 タツヤが聞くと、ヤスオは心外そうに反論した。
「ファミレスじゃねーよ。ファミレスってのは、こう、あれだろ。なんかドリンクバーとかあってピンポーンって鳴らすチェーン店」
「うちの近所、チェーンじゃないファミレスあるぞ」
「そんなんあるんか。ていうかじゃあ、ファミレスって、何……?」
「ファミリーが来るレストラン」
「じゃあファミレスかも」
「あーあの店ね」とヤスオが出した割引券を見てカズシが言った。「あぁいうのはカフェレストランっていうんじゃない?」
「カフェなの? レストランなの?」ヤスオは余計混乱したようだった。
「どんな店なん?」
「いや、オレも入ったことはないから。オシャレな感じの店」
「店員が可愛い」とヤスオが言ったがタツヤは無視した。
「そんな店、居座っていいんかね」
「たまに勉強してるっぽい人いるから、いいんじゃない?」
 店は並木通り沿いにあるらしかった。駅前は開放的なせいで日差しも照らし放題だったが、並木通りは樹がたくさん植えられていてまだマシだった。ただ直射日光は避けられても、風がないせいで、蒸し暑さがまとわりつくようだった。
 少し歩くと、わりとすぐに、店についた。大きなガラス張りの窓から店内が見えるが、あまり混んではいないようだった。入り口の看板に店名らしき文字が書かれてあったが、筆記体なので読めそうで読めなかった。
 店に入ると憑き物が落ちたように涼しかった。蒸し暑さは入店禁止。外で待っていなさい。三人が入り口で待っていると、店員が少し慌しげにやってきて、笑顔をつくろうとして失敗したようなぎこちない表情で「いらっしゃいませ」と言った。
「ヒロじゃん」とタツヤは驚いて言った。「お前こんなところで何してんの」
 ヒロキは一瞬戸惑ったようだったが「バイトですよ」と笑顔をつくるのをやめて、いつもの顔つきで言った。
「そんなの見りゃわかるって」とタツヤは笑った。
「いつごろからやってんの? 意外すぎる」
「なんでそんなに嬉しそうなんですか」
「いやいや別に。深い意味はないけど」
「三名様でよろしいですか」
「よろしいです」
「お煙草はお吸いになりますか」
「吸ったらやばいだろ」
「席にご案内します」
「よきにはからえ」
 ヒロキは三人を窓際に連れて行くと、空いてる席に座るよう言った。
「ねぇ、ここって勉強とかして大丈夫?」とカズシが聞くと、ヒロキは一瞬考えるようにして「大丈夫だと思います」と答えた。
 それから冷や水やお絞りを運んできて「注文がお決まりになりましたらお呼びください」と言い残して去っていった。
 タツヤはさっきからヤスオが静かなので「お前が言ってた可愛い店員ってあれ?」と聞いてみた。水を飲もうとしていたヤスオはむせた。
「トドメをさすな、トドメを。落ち着きかけとったのに」咳き込みながらヤスオは言った。「知り合いが店員やってるとなんか笑けてくるのってなんなんだろな」
「いや別に笑えはせんだろ……でもなんか面白いのは間違いない」
「もしかして例の、サル部の後輩?」とカズシが聞いた。
「そそ。マネやってる後輩」
 ヤスオはまだ現在形で言った。
「いいなぁ」
「ハンドは女子マネおるやろ」
「あれはマネじゃなくて鬼コーチ」
「そっちの方が羨ましいわ。練習メニューとかも考えてくれんだろ。こっちは古河先生おらんくなってから大変だったからなぁ」
「なぁ、とりあえず何頼むか決めようぜ」
 タツヤはメニューを開くとヒロキを呼んだ。ヤスオの持って来た割引券を見せて「これ使える?」と聞くと、ヒロキは見慣れないものを見たような様子で券を見つめていたが、「大丈夫です。使えます」と言った。
「じゃあオレ、オレンジジュース」
「ジンジャエール」
「炭酸水ってある?」カズシがメニューにないものを頼んだ。
「ヨーロッパ人かよ」
「最近、甘いもの控えてて」
「女子かよ」
「あの」とヒロキが口を挟んだ。「多分、大丈夫だと思います」
「じゃ、それで」とカズシが言うと、ヒロキは律儀に注文を繰り返して席を離れた。
 しばらくすると飲み物を持たずにヒロキが戻ってきた。
「なに? やっぱり炭酸だめだった?」
「そっちは大丈夫なんですけど、この券、お食事の方のみだそうで……」
「えっ、そうなん」とヤスオが券を受け取って眺めたが、どうもそうらしかった。
「そんなことだろうと思った」
「オレ昼飯食ってないから丁度いいや。なんか頼もう」
「何か安いのない?」
「サイドメニューが安めですね」
 言われるままにサイドメニューのページを開くと、フライドポテトが安かったのでタツヤはそれにした。カズシはスパゲティ・ポモドーロを頼んだ。
 ヒロキはまた注文を繰り返してから去っていった。それからすぐに飲み物を持って来たが、トレイの上のグラスが今にもバランスを崩しそうで、見てるほうが心配になる不安定さだった。他人が自転車に乗ってフラフラしているのを見る感じに近い。無事、飲み物がテーブルに並ぶと、全員でホッとした。
「あれ、絶対、最近だわ」一仕事終えたヒロキを見送りながらヤスオが言った。「バイトはじめたばっかって感じがする」
「初々しいね」とカズシが同意した。
「あの感じじゃ、もう、コップ割りまくりだろうな」
「あのヒロがそんなベタなことするか?」タツヤは同調しなかった。
「聞いてみるか」
「賭けようぜ。ジュース代」
「すみませーん」と言ってヤスオが呼ぶと、ヒロキがすぐにやってきた。
「ヒロ、バイトしはじめてから、もうコップ割った?」
「あの、僕、仕事中なんですけど」
 ヒロキは迷惑そうに言った。
「悪い悪い。で、どう? もうやった?」
「今のところ、まだです」
「よっしゃ」と横でタツヤが喜ぶと「賭けてたんですか」とヒロキが嫌そうに眉をひそめた。
「それだけならもういいですか。用もないのに呼ばないでください」
「オッケー、オッケー。邪魔して悪かったな」
 ヒロキが去っていくと「ほらな」とタツヤが言った。
「おっかしいなぁ」とヤスオは不満そうだった。
「自分と同じ基準で考えてちゃいかんよ。あのヒロがグラス割って慌ててるところなんて想像できるか?」
「さっきはちょっとそれを楽しみにしとった」
「ヤな先輩だな」とカズシが言った。
「まぁ気持ちはわかる。それより勉強しようぜ」
「勉強っつってもなぁ」とヤスオは気乗りしない様子で言った。「何すればいいかわからんよ」
「シバセンがお土産いっぱいくれたろ」と言いつつ、タツヤは担任から貰ったプリントを取り出した。夏休み前に渡された山のような課題から、部分的に持ってきていた。
「これやっとけばなんとかなるんじゃね」
「勉強教えてくれって言ったとき柴先生泣くくらい喜んでたね」と言いながら、カズシも同じくプリントを取り出した。
「バカがやる気だすと嬉しいんだろ」
 タツヤは他人事のように笑った。カズシも笑ったが、ヤスオは笑っていなかった。
「どうした?」とタツヤが聞くと、ヤスオは悲しそうな目で、「オレ、それ持ってきとらん」と言った。
「別にいいんじゃね。他にやりたいのがあるんなら、それやれば。なんか本でも買ったの?」
「買っとらん」
「じゃあ何持って来たん」
「何も」
「うわバカだ」
「そういや手ぶらだったね」
「なにしに来たんだよお前。じゃあ、オレのこれ半分やるから、今度お前の分から返せよ」
「カズくんシャーペン貸して」
「はいはい。シャー芯も三本おまけしたげる」
 課題のプリントに向かいはじめてからしばらくすると、食い物が運ばれてきた。持って来たのはヒロキではなく、別の女の店員だった。同い年くらいではきはきとした感じの明るそうな女の子だ。「お待たせいたしました」と満面の笑みで言った。
「スパゲティ・ポモドーロのお客様?」と言い終わるより先にカズシはプリントを脇にどけた。トマトソースになにやら色々入ったスパゲティがカズシの前に置かれる。
「お前トマト飛ばすなよ」とタツヤが言うと「へっへっへ」とカズシは不穏な笑い方をした。
「フライドポテトは真ん中に置きますか?」
 他に誰も前を空けようとしなかったからか、女の子がそう聞いた。タツヤが「じゃそれで」と言うと、テーブルの中央にフライドポテトが置かれた。皆でつまんでもちょうどいいくらいの量はあった。
「どうぞごゆっくり」とお辞儀をして、女の子が去っていこうとしたときに、「あ、ねぇ」とタツヤが声をかけた。女の子はまた笑顔になって、タツヤの言葉を待った。
「あの男の店員さん、いつごろから働いてるの?」
 思いがけない質問だったのか、女の子はちょっと驚いたように目を大きくした。すぐまた笑顔に戻って「この夏休みからです」と教えてくれた。それから少し心配そうに「彼が何か……」と言った。
「あ、いや全然。そういうわけじゃないから。ありがと」
 女の子が去っていくと、タツヤはヤスオに「お前が言ってたのってあの子?」と聞いた。
「違うけど、今の子も可愛かった」
「あの子、うちの学校だよ」とカズシが言った。「校内で見た覚えがある」
「ネクタイ何色だった?」
 タツヤたちの学校は学年ごとにネクタイの色が違った。
「そこまでは……でも同学年ではなかったと思う。一年か二年か」
「それはけしからんな」
「何がよ」
「何でもない。勉強しようぜ。勉強勉強」
 スパゲティをくるくる巻いて食べるカズシを視界に入れないようにしつつ、タツヤはプリントに向かった。集中が大事だ。しかし集中したくらいでは急に頭は良くならない。一問解いたらポテトを一本食うかと思っていたのに、全然わからない。全く解ける気配がしないので、できてなくても一本食べたら次の問題に行くことにした。
「さっきからポテト食ってばかりじゃない?」とカズシに突っ込まれた。「右手が動いてない」
「考えてはいるんだけど、さっぱりわからんのよ。教科書持ってくるべきだった」
「持ってきてるよ」
「貸して。数学の」
 教科書のご利益はあらたかで、教科書に載っているのとほぼそのままの問題がいくつか解けた。解けたというより写したと言った方が正しい。しかしそれ以上はやはり解ける気がしなかった。教科書を読むだけでスラスラ解けるようになるくらいだったら、教師の仕事はなくなるだろうな、と思いながらタツヤはまたポテトを口に運んだ。
 この分じゃどうせヤスオも手も足も出ないだろう、ストローの袋でも折り曲げて遊んでるに違いない、と思ってタツヤが横を見ると、ヤスオは普通に問題を解いていっていた。
「お前そんなんよく解けるな」
「解くって。これ世界史のだぞ」とヤスオは不思議そうに言った。「こんなん覚えるだけやん」
「簡単に覚えられたら誰も苦労せんわ」
「オレ覚えるのは得意だからなー。考えんでいいし」
「簡単に覚えるコツとかないの」
「覚えようとせんこと」
「聞いたオレが愚かだった。カズは何やってんの?」
 カズシはもうスパゲティを食べ終わっていた。
「オレは、英語。覚えるだけ。簡単」
「日本語が怪しくなってないか」
「そんなことないよ」
「数学教えてくんない?」
「いいけど、オレ、この前の数学、タツヤより点数低かったよ」
「だめだ、誰も役に立たねぇ……」
 タツヤはテーブルにうっ伏した。それから顔を横に向けてまたポテトを一本食べた。美味しいのが救いだった。塩分控えめで芋の味が濃い。
 顔を横にしているとレジのあたりが見えた。その近くの壁際でヒロキがトレイを腰の前に両手に抱えて立っている。
「なぁ、ヒロって勉強できるかな?」
 ヤスオはプリントから顔を上げると、少し考えて「できそうなイメージはあるな」と言った。
「あいつ何組って言ってたっけ」
「二組とかじゃなかったか」
「なら大丈夫だ。教えてもらおう」
「後輩に勉強教わるんかい」
「別にいいだろ。じゃあさ、東大行くような高一と、バカな受験生だったら、どっちが勉強できると思う?」
「聞いてみるか。東大行くかもしれん」
 ヤスオが「すみませーん」と呼ぶと、すぐにヒロキはやってきた。
「お済みのお皿お下げしましょうか」
「あ、お願い。そうじゃなくて。ヒロ、東大行く?」
「行きませんよ。ていうか行けませんよ。なんなんです、突然」
「ダメだってさ」
 ヤスオは残念そうに言った。
 タツヤは別にヒロキが東大に行くかどうかを知りたいわけではなかった。
「ヒロって勉強、得意?」
「得意ではないですね」
「この前のテスト、順位どれくらいだった?」
「そういうのあんまり言いたくないんですけど」
「まぁいいじゃん。何位だった?」
「63位です」
「ふーん、そんなもんか」
 思ったほどではなかったが、なかなかいい成績だった。特進クラスの連中が四十人くらいいるとして、それを除けばかなり上位だ。勉強はできるほうだろう。下から数えて同じくらいのタツヤよりは遥かにいい。先生役は十分に果たしてくれそうだ。
 タツヤがそんなことを考えていると、「ちょっと待って」と何かに気づいたようにカズシが口を挟んだ。
「それって校内で?」
 ヒロキが一瞬目を背けたのをタツヤは見逃さなかった。タツヤたちの通う学校では、年に二回、自分たちの学校だけでなく、同じ系列の兄弟校全てで行われる試験がある。全校で同じ問題を解くので、順位も全体でのものと校内のものと二つが出る。この前のテストはそれだった。
 ヒロはしばらく答えなかったが、諦めたように「全体でです」と言った。
「じゃあ校内では?」タツヤが聞いた。
 ヒロは言いたくなさそうに「7位ですね」と言った。
「はぁ!? お前それでよく勉強苦手とか言ったな」
「だって、あれ、マークシートじゃないですか。マークはなんとなくでも当たるじゃないですか。いつもはもっと悪いですよ」
「その鉛筆の仕掛け、教えてくれない?」
「転がしてません」
「お前、運動部で勉強できるやつをなんて言うか知ってるか?」
「なんて言うんですか」
「裏切り者だ」
「僕、仕事中なんで、もう行っていいですか」
「待って。本題を忘れてた。勉強教えて」
「イヤです。本当もう勘弁してください」
 哀願するタツヤを放っておいてヒロキは仕事に戻っていった。仕事といっても今はあまり客はいないのだから、またトレイを抱えて壁際に突っ立ってるだけだろうに。
「逃げられた」
 タツヤは残念そうに言った。
「まぁ、素直に諦めとけ。あんま邪魔しても悪いわ」
 ヤスオが指した先を見ると、ヒロキは店員の女の子に何か話しかけられていた。女の子は後姿しか見えないが、少なくともヒロキはとても楽しそうという風ではない。むしろちょっと困っているというか申し訳なさそうにしてるように見える。
「あれは怒られとるやろ」
「悪いことしたな」
「オレたちも勉強しないと」
 よくよく考えると、この店にきてから、ろくに勉強をしていなかった。受験生の一日は貴重だ。こんなことをしている場合ではない。タツヤはあらためて課題のプリントに向かった。
 しかし、わからないものをいくら考えてもわかる気が全然してこない。タツヤはひとまず数学は後回しにすることにした。他には物理のプリントを持ってきている。タツヤは数学の教科書をカズシに返し、代わりに物理の教科書を貸してもらった。
 大差ないように思えるかもしれないが、タツヤは物理はそこそこ得意だった。解いたらポテトにルールを戻しても大丈夫なくらいだ。教科書を見れば公式が載っているので、それに当てはめれば解ける。一つだけ問題があって、試験に教科書は持ち込めない。ヤスオ風に言えば覚えるだけだが──。
「でもさぁ」と不意にヤスオが言った。「ヒロ、なんでバイトなんか始めたんかな」
 タツヤは一瞬ヤスオの方を見たが、再びペンを動かしはじめた。今は勉強の時間だ。
「しかもウェイトレスなんて」
「変なもん想像させんな。ウェイターだろ」とタツヤは思わず突っ込んだ。ついつられてスカートをヒラヒラさせながら料理を運ぶヒロキを思い浮かべてしまった。バカなことを言ってないで、今は勉強しなければならない。
「気にならん?」
「別にバイトくらいしたっていいだろ」
「でもあいつ、接客は絶対ムリって言うとらんかった?」
「文化祭のときか。言ってたな」
 タツヤがペンを置いて顔を上げた。
「文化祭? 何してたっけ」とカズシが聞いた。
「クレープ屋」
「そういえばやってたね」
「あれだけ嫌がってたんだから、心変わりする何かがあったんだろうな」
 去年の文化祭、毎年恒例だが、部ではクレープ屋を出した。二三人ずつ店番をするのだが、ヒロキは、買出しでも荷物運びでも何でもするから接客だけは嫌だと、珍しくわがままを言った。体育会系にわがままは許されないが。それが一体どういう心境の変化だろう。
「金じゃないか」とヤスオが閃いたように言った。
「欲しいものがあるってこと? それはあるかもね」
「でもヒロが欲しがるものなんてあるか?」
 タツヤは疑問ありげに言った。
 あまりヒロキが物欲の強いタイプには思えなかった。部活帰りに買い食いもしなければ物持ちもいい。ボタンが取れたら自分で付けるタイプ。そういえば、スコアシートを付けるのに使っていた鉛筆みたいなボールペンは、中学のころに貰ったものだと言ってた。中学生のころから同じボールペンを使ってるやつが欲しがるものってなんだろう。
 しかしヤスオは「そりゃいろいろあるだろ」と自信ありげに言った。
「例えば?」
「バイクとか」
「それはお前だろ」
「オレもバイトしようかな……」
「今はマズい。止めとけ。まぁでもヒロが物欲しさにバイトってのはやっぱり想像できんよ」
「じゃあ他に何があるよ」
「そりゃ例えば……」
 タツヤが首をかしげると、目の前をちょうど店員の女の子が通りがかった。片手に持ったトレイに料理や飲み物をたくさん乗せて、軽やかに歩いていく。さっきヒロキが飲み物を持ってきたときと違って、トレイの上のものは全然揺れない。スカートだけがリズミカルに揺れている。
 カズシによると一年か二年という話だった。つまり同級生ということもありえる。クラスメイトかもしれない。同じ職場に同じクラスの男女というのは捨ておけない話だった。
「……例えば、女とか」
 タツヤが言うと、ヤスオは意趣返しのように「それはお前だろ」と言った。
「は? 何でオレ?」とタツヤは少し不快そうに言ったが、ヤスオは気にも留めない様子だった。
「キミはどうして今の部に入ったんだっけか」
「悪かった」タツヤは即降参した。「負けを認めるから、それ以上は言わんでよろしい」
「え。オレは知りたい」
「二つ上の先輩に……」
「言わんでええっちゅうに。でもあり得ない話じゃないだろ」
「あの子狙いでってこと?」カズシが目配せで店員の女の子を示した。
「オレ、あの子どっかで見た気がするんだよなぁ」とヤスオが呟いた。
「だから、同じ学校なんだって。学校で見たんだろ」
「そうじゃなくて、なんか別のとこで見たことあるような……」
「思い出したら教えてくれ」
「でもさ、ヒロがそんな積極的なことするかね」
「思い切ったんだろ」
「それこそイメージできん」
 ヤスオの言い分ももっともだった。もしヒロキに気になる女の子ができたとして、その子が飲食店でアルバイトをしていることを知って、同じ店で働きだしたのだとしたら、褒めてやりたい。胴上げしてもいい。そのくらい似つかわしくはなかった。正直タツヤにも想像できない。
「案外、流されてとかだったりして」とカズシが言った。「友達に誘われて断りきれず、とかありそうじゃない? 押しに弱そう」
「いや、さっきの見たろ。ノーと言える日本人だぞ、あいつ」
「相当付き合いいいなって思ったけど……イヤって言ってても頼み込めば最後にはオーケーしそう」
「それは、そうかもしれん。もっかい頼んでみるか」
「勉強は柴先生にでも聞きなよ」
「ティーチャー・シバは話しだすと長いからできれば避けたい」
「そんな理由で浪人するやつって他にいないよきっと」
「落ちるって決めつけるな」
 しかしこのままだと来年の今頃タツヤが過ごしているのは浪人生活なのは間違いなかった。勉強しなければならない。それはわかっているが勉強できる気がしなかった。集中しようとしてもすぐ邪魔される。明らかに環境が悪い。
「でもよかったよ」とヤスオが言った。
「なにが」タツヤは不機嫌そうに聞いた。
「新しいこと始めたんならさ」
「あぁ、それね」
 ヤスオの言いたいことがわかって、タツヤは表情を和らげた。
「確かに、ちょっと安心した」
「何のこと?」とカズシが聞いた。
 タツヤはカズシを見た。そういえばカズシにはこの話はしてなかったんだっけか。
「いや、うちの部、なくなるじゃん。かわいそうなことしたなって」
 カズシは少し不思議そうな顔をした。
「確かにかわいそうだけど、タツヤたちのせいじゃなくない?」
「そうか?」
「古河先生が出てって、見てくれる人がいなくなったからでしょ」
「そう。それで二年もマネが一人だけになるし、オレらが引退したら休部ってことで、今年は新人勧誘できなかったんだよね」
「去年、オレらがもっと新入生集めとったら、話も違ったかもしれんだろ」ヤスオが後を引き取って言った。
 カズシはなにか言いたさそうな顔をしていたが、二人に気を使ってか、否定も肯定もしなかった。
 確かに別にタツヤたちのせいじゃないと言えばそうだった。もっと言えば古河先生も好きで転任したわけでもないし、誰のせいでもない。だけど気にかかるものは気にかかる。そういうこともある。
「カズさ、試合に負けて泣いたことある?」タツヤは聞いてみた。「中学最後の試合とかでもいいけど」
「いや、ないと思う」
「オレはあるぞ」とヤスオが言った。
「ヤスくらい熱いやつはおいといて、オレもないんだよね」
「本気度の問題だろ」とヤスオが言った。
「オレも本気でやってたっつーの。冗談でゲロ吐くまでやれるか。死ぬわ。でもまぁ、そうなんだよな」タツヤは口調だけは笑っていた。「思い入れないやつが泣くはずないんだよな」
 カズシは今度は何のこととは言わなかった。
「ま、でも」と明るい調子でヤスオが言った。「何かやることできたんなら、よかったわ。ちょくちょく励ましにきてやろうぜ」
「迷惑行為はやめろよ」
「誰がいつそんなことを」
「自覚がないのか。これはタチが悪いな」
「自覚があってやってるのもよっぽどだけどね」
 夕方ごろになると、客も増えてきはじめた。結局ほとんど勉強もできてないし、混雑する前に店をでようということになった。
「会計どうする?」
「まとめてでいいだろ」
「あ、でも、オレだけがっつり食べたから」
「じゃー別にするか」
 レジに立ったのは女の子だった。最後に一声かけていこうかとタツヤは店内を見渡したが、ヒロキは客の注文を取っていたので、やめた。自分の分の支払いを済ませて外に出ると、店の前でちゃんと蒸し暑さが待っていた。待ってなくていいんだが。
 失敗だったな、とタツヤは思った。勉強がはかどるどころの話ではなかった。こんな調子で受験を迎えたら一体どうなってしまうのか。なるようになれ。そう思うしかない。
 店前(みせさき)で待っているとやがてカズシが出てきて、最後にヤスオが出てきた。「帰るか」と言って歩きだそうとするタツヤをヤスオが呼び止めた。父の日のプレゼントを隠している子供みたいな笑みを浮かべていた。弟がよくそんな顔をしている。ヤスオは二人に近寄ると「これ、またもろうた」と言って手を差し出した。その手に握られているのはレシートとお釣りと、三枚の割引券だった。

いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ

ep.3へと続く

いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ

夏休み前のある日、友人が誘ってきたのは飲食店でのアルバイトだった。同級生、ウェイトレス、いつもの客、部の先輩。店を巡る人々の織り成す日常の群像。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-05-24

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著作権法内での利用のみを許可します。

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