悪い夢だと君の瞼を覆った

烏丸萩聲

 僕が覚えている事はただ一つ。澄み渡る蒼、それだけ。心地良い微睡みに躯を委ね、ふわふわと意識を漂わせる。嗚呼、このまま――。
(あき)?」
 さらりと濡れ羽色の髪が僕の視界を遮り、小さな影が覗き込む。
(あき)
 くいっ、小さな掌が服の裾を引っ張る。僕はぼんやりと振り向く。先程から僕の名を呼ぶ声は――小さな女の子だった。
「……誰?」
(あき)、忘れちゃったの?」
 蒼玉のような双眸がじんわりと涙に濡れ、綺羅と瞬く様は綺麗で。僕はつい、其方へと掌を伸ばす。僕の指に寄り添う様に絡む艶やかな髪、指先に触れるきめ細やかな肌。
「また忘れちゃったの、(あき)は忘れん坊さんだね……」
 僕の掌に頬をすり寄せ、小さな吐息と共に微笑する彼女の名は何だったか。僕は未だぼんやりとする意識の中、必死に記憶を手繰り寄せる。透き通る蒼、――蒼?
蒼生(あおい)?」
 彼女は目を一回り大きく見開く。小さな唇がハクハクと開閉を繰り返すが、言葉は零れ落ちる事は無かった。漸く、瞳いっぱいに涙を溜めた彼女が言葉を紡ぐ。
「……思い出して、くれた」
 ぽとん、彼女――蒼生(あおい)から零れ落ちた雫が僕の指先を濡らす。湿り気を帯びた指先は、ゆっくりと蒼生(あおい)の縁を辿る。嗚咽と共に絶え間なく零れ落ちる雫を僕は全て掬い、拭い去る事は出来なかった。僕はまた、蒼生(あおい)を泣かせてしまったみたいだ。
「ねぇ、今度は何時まで――……」
 僕を覗き窺う蒼生(あおい)の少し翳った双眸と声が、じんわりと滲んでゆく。嗚呼、また僕は――沈んでゆくのか。寂しげにゆらゆら揺れる此の蒼を見詰め、睡魔に導かれて瞼を閉じてゆく。寂しげな蒼生(あおい)の声に後ろ髪を引かれながら。

 ゆらり、ゆぅらぁり。頼りなげに揺れ、揺蕩う蒼色を掬い上げては滲む様に雑じる暁色。僕は数回、ゆっくりと瞬きを繰り返す。静寂が支配する空間に僕独り。背中から底へと時を惜しむように沈む。また此処かと僕は陰鬱になるのに、其の原因を理解していない。僕の躯が底へと沈む毎に泡沫が昇ってはぱちんっ、弾けてゆくのを眺める。泡沫が弾けてゆく度に僕の記憶も薄れ、何処かへと弾け飛んで行く気がした。

――(あき)。ねぇ、聞こえているのでしょう?

 何処からか、柔らかなソプラノが響いてきて静寂を破る。聞き覚えの在るようなその心地良い声音につい、聞き惚れる。ねぇ、もう一度呼んで。僕の名を、その柔らかく美しい声音で。

――ねぇ、(あき)。そろそろ目を開けて……

 憤むずがる僕を宥める様に愛しげに触れる、温かく柔らかな掌。僕を覆い包む微かに香る白檀。

――もう、全部、忘れちゃったの?

 小さな迷子が母親を探し求めて、泣くのを我慢した頼りない嗚咽雑じりの声が小さく響む。其の声と不明の感情が、ぎしりぎしりと僕の胸を締め付ける。無意識に胸元を強く握り締めていた。泣き虫は誰だ? 僕は誰だ?
 思い出そうと記憶を手繰り寄せるが、何も覚えていない事に気が付いた。唖然とする僕を嘲笑うかのように昇る泡沫。本当に、僕は、忘れてしまったのだろうか……何もかもを。
「まっ、待って!」
 慌てて昇ってゆく泡沫を掴もうと掌を伸ばすけれど、残酷にも僕の指先で弾け消えていった。また一つ、何か大事なものを失った。僕は抗う事を放棄して、瞼を閉じる。そして――深く、深く沈んでゆく。

 ふと、重い瞼を押し上げてみれば。暁色に侵蝕され、滲んだ蒼色と藍色が其処に在った。既に夜が明け、新しい一日を告げようとしていた。
 右手に僅かな暖かみを感じて見やれば、小さく寝息を立てる誰かが居た。安らかに眠る其の寝顔に、僕の心が啼き喚く。声に出さぬようにと唇をキツく噛み締め、掌で口を覆った。
「んっ……」
 もぞもぞと憤る小さな女の子。ゆっくりと押し上げられた瞼から覗く、何処までも清らかで透き通る蒼玉が僕を捕らえた。僕はその双眸に囚われ、身動き一つ出来ないでいた。
「……(あき)?」
 柔らかなソプラノが僕の鼓膜を震わせる。僕の名前、だろうか。きょとんとした僕に彼女は全てを悟ったのだろう。徐々に翳り、淀んでゆく蒼の双眸。また、僕は彼女を哀しませる。乾いた唇を微かに振るわせながら零したのは、ごめん、の謝罪の言葉だった。
 先程まで雲間から覗いていた朝陽も雲が覆い隠し、今にも降り出しそうな曇天。ぽつ、ぽつり。音も無く降り出した雨に雑じって、彼女の涙も哀しみも零れ落ちてゆく。
 僕は其れさえも掬うことも、拭うことも出来ず。涙で濡れる彼女の蒼が眩しすぎて。俯き目を伏せる彼女を後ろから掌で、瞼を覆った。僕の腕に縋る彼女が、彼女だけが知っている僕の名を呼ぶ声が、僕のがらんどうになってしまった心に残響する。

悪い夢だと君の瞼を覆った

悪い夢だと君の瞼を覆った

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-05-24

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