彼知らぬ雨

烏丸萩聲

 僕は彼が永久の眠りにつくことをずっと、待っていたのかも知れない。
 棺の中で彼が愛した白椿に抱かれ、安らかに瞼を閉じた彼の白い貌を見詰める。人目を忍んでそっと彼の掌に触れた。拒絶にも似た冷ややかさが僕の指先から侵蝕し、代わりに僕の熱が彼へと伝われば良いのにと唇を噛む。ぽたり、今日は雨降りのようで。僕の視界だけが滲んで、彼が白色に隠された。また、彼は僕を置き去りにしてゆく。

 彼が紡ぐ物語は指でなぞれば忽ち、微かな音を立てて壊れて仕舞いそうな程繊細な筆致だった。白く細い指先、筋張った手に優しく抱かれる万年筆に嫉妬する。乳白色の原稿用紙を走るペン先から滲むインクが、彼の世界と感情を縁取って形作る。
「僕が小説家って、想像つかなかっただろう?」
 作業の手を止めて彼の方を見詰める僕に悪戯が成功した子供のように、薄い唇を片方だけ上げてにんまりと笑った。そして、彼は左手で弄んでいた煙草に火を灯し、味わうように口付けた。僕は彼の意図をくみ取れず、瞬きを繰り返すばかりだった。それ以上、言葉を交わすことも無く。とんとんと窓を打ちつける微かな音と共に、彼が世界を紡ぐ音を零さぬように耳を傾けた。途絶えることの無い愛しい音達が、ぱたりと途絶えた。
「……せんせい?」
 如何したのだろうかと、ゆっくりと顔を上げ彼の様子を窺う。僕の声が聞こえていなかったのか、彼は窓を、何時の間にか雨上がりの空を見詰めていた。鈍色の空を割り開き、少し光の筋が差し込んでいるようだった。
「先生、」
 漸く僕の声が届いたのか、名残惜しむように窓から僕の方へ、視線を逸らす。何でも無いよ、そう彼は言葉を零したけれど、その哀愁を孕んだ微笑は嘘を付けなかったようだった。僕はその寂しげな微笑に目を瞑り、少し声音を高めに誘う。
「そろそろ……お茶にしませんか?」
 一瞬、彼の目は驚きに大きく見開かれ、苦笑いで僕の望んだ言葉をくれた。
「あゝ、そうしようか」
 僕は彼が好きだと言った花が綻ぶように微笑み、お茶を淹れるべくそっと席を立った。キッチンに置かれたアンティークの棚にはずらりと並べられた紅茶の缶達を選ぶ。彼はどの茶葉が美味しい、と言っていたか。紅茶にはてんで興味が無かった僕でも、少しだけれども覚えてしまった。
「キームンにしようか」
 温めて置いた茶器のお湯を捨て、お茶を注いでゆく。途端、僕の鼻孔を薫香が擽る。今日は特別な日だから、特別なお茶を。お盆にティーカップ二つ、零さぬように彼の元へと運ぶ。彼の心を占める憂いが少しでも癒やされる事を願って。

 彼が最期に遺した物語は、彼と僕との他愛ない日々だった。乳白色の原稿用紙に紺碧で綴られた言葉をなぞれば愛しさと哀しさだけが募り、しとしとと降り注ぐ雨で滲んでゆく僕等の追憶。
「君はさぁ、もっと素直に生きなよ」
 僕とは違うんだから、そう溜息と共に呆れを滲ませた微笑を僕だけに向けた。その時でさえ僕は素直になれず、気まずそうに視線を逸らしてしまった。その時、彼がどんな表情をしていたのかも知らずに。幼い僕の心は彼の老婆心さえも、鬱陶しく感じてしまったのだった。

「僕を僕たらしめるのは間違い無く、僕の意思だけだ。だけれど……君になら、僕が愛した君ならば、少しだけ。もし、僕が君より先に彼岸へと渡ってしまったなら、この物語を譲ろう。何処へとも公表せず、君が預かっていて欲しい」
 僕が生きた証だから、と微かな吐息混じりの声音で綴じられた原稿用紙の束を僕に贈ってくれた。勿論、読まなくたっていいし、棄てたって構わないからねと寂しそうに微笑んで、僕の返答なんて待たずに眠った。

 ぐしゃり、原稿用紙の角が皺くちゃに波打つ。小雨は次第に大雨となり、視界は紺碧色に融ける様に沈んだいった。もう、彼の吐息も体温さえも感じられない。彼が遺した原稿用紙の束を掻き抱く。彼が最期に遺してくれた僕への気持ちを零さぬように。
 もう、彼と共に歩むことはないけれど。僕は彼が贈ってくれた愛しき追憶と共に、少しずつ前を見詰め歩み始める。

彼知らぬ雨

彼知らぬ雨

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-05-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted