最低


 斎藤さんが足が悪いって、初めは気がつかなかった。
 彼が足を引きずっているって知るまで三カ月かかった。彼の動きはゆっくりだけどとてもなめらかだったし、足元を確かめるようにスリ足で歩くさまがとても自然に見えたから、足が悪いように見えなかった。
 同僚の夏美という女子従業員に言われて初めて気付いた。そう言われてみれば、たしかに左足が悪いらしく右側にかたむきながら歩いている。そうなった原因は――原因は、聞いたこともない。生まれつきかもしれないし、事故か何かかもしれない。
 そういえば彼は目も悪い。片目が鈍色で、ときおり光の加減できらきらと光る。足が悪いのと関係があるのかはわからないし、その目がどうして悪くなったのかもわからない。つまるところ私は、彼のことは何もわからなかった。彼は話しかけてもまともに返事をしてくれない。
「かっこいいよね」
 夏美は美形の斎藤さんに憧れているようだった。
「でも、だめよあの人は。女に興味ないの。ねえ知ってる? 斎藤さんってゲイなのよ」
 夏美は顔の前に手をあてる特有のジェスチャーをした。


 昼休みに休憩室に行くと八島が遊びに来ていた。
彼は一時期このパチンコ店に勤めていたけれど、すぐ辞めてしまった。今は斎藤さんのアパートに転がり込んでいるらしいといつだったか噂話で聞いたが、確かめたことはない。
 私はトイレで化粧をなおし、ついでに髪をおろして整えると、休憩室でぼそぼそと話している斎藤さんと八島に話しかけた。
「ねえねえ、二人って一緒に暮らしてるって本当?」
 テーブルに手をつき、斎藤さんのほうを見てそう尋ねると、斎藤さんは視線をそらした。彼はいつもそうやって私の顔を見ようとしない。私は嫌われているのかもしれない。
「あれなの? 二人はゲイで、付き合ってたりすんの?」
 斎藤さんの冷たい横顔にすがるようにそう言った。うざい女だと思われてもいい。嫌われてもいいから、少しでも話しをしたかった。
 ふと八島のほうを見ると、彼は興味なさげに頬杖をついていたが、何か思い立ったのかにやっと笑って斎藤さんに話しかけた。
「お前、ゲイなの? 俺と付き合ってんの?」
 斎藤さんは鋭い目で八島を睨むと、
「ゲイだったとしてもお前とは付き合わない」
 と堅い声で告げた。
 否定しないところを見ると、どうやら二人が一緒に暮らしているのは事実らしい。
「あんた、誰?」
 子どもっぽい声で八島が聞いてきたのでびっくりした。短期とはいえ一緒に働いていたし、シフトが一緒の日はいろいろと話をしていたのに。
「忘れちゃったの? 岡田千秋よ」
「千秋さん、これから休憩? ちょっと話そうよ」
 八島は私の返事を待たずに立ち上がった。動揺して斎藤さんのほうを見ると、その鈍色の目を窓のほうをむけていた。
 彼の横顔はすごくかっこいい。



「仲のいい子にはなんて呼ばれてるの?」
 ラブホテルのベッドで、八島はタバコを吸いながら私に茶色い目をむけた。
「仲のいい子っていうか、友達にはちーちゃんって呼ばれてたかな。でも最近は友達とはあんまり会わない」
「そっか。可愛いあだ名だね。俺もちーちゃんって呼んでいい?」
 八島は甘えるように私の乳房に触れながら言った。彼のような若い男性にそう呼ばれるとむずむずする。
「斎藤と遊びたいんだ?」
休憩時間、パチンコ店の裏に私を連れて行って、八島はそう言った。
「ホテル付き合ってくれたら、俺から斎藤にあんたのこと話してやるよ」
 その誘いに私はうなずいた。
「ちーちゃんは、なんで斎藤が好きなの?」
 そんなこと聞かれても、なんとも答えようがない。思えば斎藤さんが足が悪いって聞いてから彼を意識するようになった。あの足を引きずるさまに目を奪われる。彼の顔が人目を集めるほど整っているってことも、そのときに初めて気づいた。
「よくわかんないけど、かっこいいからかな」
「ふうん、みんな同じこと言うね」
 八島は私の乳首をなめた。セックスを一晩に何度でもできるところが若いなと思う。
「みんなって?」
「斎藤に近寄ってくる女、みんな。でもしょうがないか」
 何がしょうがないの? って思ったけど口には出さなかった。


 すべてが終わったあと、私はベッドに大の字で寝ころんでいる八島の横に寄り添い、その黒い髪の毛をなでた。
「ねえ、斎藤さんに話してくれるって――」
「ああ」
 八島はぶっきらぼうに返事をすると、眠そうな目で私を睨んだ。
「斎藤さんのアパートに呼んでくれるの? それとも、どっかのお店に飲みにでも行く?」
「いや、無理っぽい」
 八島は大きな口であくびをした。
「無理?」
「昨日、あいつにメールしたんだけどこなかったし」
「メール? いつメールしたの? ねえどういうこと?」
 私は八島の肩を揺さぶった。彼は機嫌の悪い子どものような顔で私を睨み、手を払いのけた。
「あんたとホテルに入るとき、斎藤に『金のいらない売女がいるから抱かない?』ってメールした。したら『そいつプロ?』って返事きたから『素人』ってメールしたら『せっかくだけど素人には手を出さない』って返事きた」
 八島は大儀そうに体を起こすとズボンからケータイを取り出し、画面を開いて彼らのやりとりを私に見せた。
 私はどう反応すればよいかわからず、しばらく口をぱくぱくさせていた。
「まあ、そういうことだからあきらめたら? あ、帰るときはホテル代払って行ってね」
 まるでもう用済みだから帰れとでも言う態度だ。私はかっとして目の前の男に掴みかかった。
「誰が売女なのよ! あんたふざけるんじゃないわよ!」
 八島は私の腕を軽々とひねりあげると、ベッドのふちに押し付けて私の頬を二発打った。
「お前が売女じゃなくて誰が売女なんだよ」
「なんですって――」
 八島はふっと鼻で笑った。
「いい年した女が、イケメンと遊びたいからって他の男とセックスしたんだぞ。お前いくつだよ。情けないと思わないの?」
「ぶざけ――」
「もういいから帰れよ」
 八島は私をベッドから蹴り落とした。
 私は服をかき集めると急いで部屋を出た。屈辱で涙が出る。廊下に出て服を着て、むなしくハイヒールを鳴らしながら歩いた。



 アパートのドアを開けると、息子の春人がおかしの袋に囲まれて眠っていた。
 春人を出産して五年、離婚して一年。この一年間で、春人とまともに夕飯を食べた回数は数えるほどだ。
「はるくん、はるくん」
 私は春人を抱き上げ、口のまわりについたチョコレートをぬぐうと、一緒に布団に入って目を閉じた。
 そのまま化粧もおとさずに寝て、朝になると寝ている春人をそのままにして起き上った。
 ざっとシャワーを浴びて再び化粧をすると、台所の戸棚からおかしと菓子パンを取り出して牛乳と一緒にテーブルにおいた。こうしておけば春人が勝手に食べる。
 本当はおかしじゃなくて、コロッケとかハンバーグとかをおいてやりたい。でもつくってやる時間がおしいし、春人はひどい偏食で好きなもの以外は食べないから、こういう形に落ち着いてしまった。
「はるくん。行ってくるね」
 支度を終えて、寝ている春人の髪をなでると、春人はすんと鼻を鳴らした。


 うちのパチンコ店は日勤と夜勤の交代制だが、人が足りないときにマネージャーに頼むと時間を増やして働くことができた。午後五時に帰るような働き方では息子と二人で生活することができない。
 斎藤さんは朝早くから夜遅くまで働いている。足が悪いのに立ち仕事はきっと大変なんだろうと思う。
 朝、足を引きずりながらホールを掃除している斎藤さんを見て、どうして八島のようなどうしようもない男と仲がいいんだろうと思った。あんな男でも何かいいところがあるのだろうか? とても理解できない。
 斎藤さんをちらちらと見ながら仕事をして、休憩時間にジュースを飲みながらケータイを開くと、まるで見ていたかのように電話がきた。着信拒否するのを忘れていた八島だった。
 あんなクズのような男とは二度と話をしないと決めて、音を最小にしてケータイをポケットに放り込んだが、五分も十分も鳴らされていい加減根負けした。
「……はい」
 私は小さく返事をした。すぐに切って着信拒否してやろうと思っていた。
「八島だけど、ちーちゃん、今夜遊ぼうよ」
 まるで友達を誘う小学生のような言い方だった。私は思わずケータイを見つめた。この男はどこかおかしいのかもしれない。
「ちーちゃん? 聞いてる? おーい」
 通話を切って着信拒否しようと思った。こんな男と寝てしまうなんて、私はとんだ馬鹿だった。
「おい、返事しねえとお前の写真ばらまくぞ」
 通話を切ろうとした瞬間、八島のそんな声が聞こえた。
「……え?」
「お前とやってるところの動画と写真、撮ってるから。今夜こないと全部ばらまく」
「な……」
「んじゃあ、今夜迎えに行くから店の前で待っててよ」
 八島は一方的に通話を切った。
 私はケータイを見つめながらその場に座り込んだ。
 動画と写真を撮られた? いつ? まったく覚えていない。ひょっとして八島のうそなんじゃないか。あの蛇のような男、女にうそをつくなんてなんとも思っていないはずだ。
 茫然として立ちすくんでいると、ふいにケータイが震えた。開いてみると八島からメールがきていた。
 恐怖で歯が鳴る。いったい何が書かれているのだろう。
 恐る恐る中を見てみると、写真が添付されていた。半ばあきらめた気持ちで見ると私が足を開いている写真だった。きちんと局部と一緒に顔が写っているあたり、手慣れた感じがする。
 メールには『飯どこに行く?』と書かれていた。


 パチンコ店の前で八島にずいぶん長いこと待たされた。冷たくなった指に息を吹きかけていると、単車に乗った八島がやってきて私のすぐ前でとまった。
「ごめんね、遅くなって。斎藤を送ってやってたから」
 ヘルメットを脱ぐと、八島はにっこりと笑った。
「……いつも、送ってあげてるの?」
「まあ世話になってるからね。んで、飯どこ行く?」
 私はうつむいた。どうせこの男は、自分で金を出すつもりはないのだろう。でも私だって余分な金は持っていない。毎月倹約してようやく生活ができている。
「あたし、お金持ってないし……」
 靴の先を見ながらつぶやくと、八島の不機嫌な「あ?」という返事が聞こえた。
「うち、母子家庭で」
 私は顔をあげて八島の顔を見つめた。
「息子がいて、毎日働いても大変なの。息子が小学校に入ったらもっとお金かかるし、家賃とか光熱費とかだけで本当に大変なの。あた、あたし、本当に」
「マジかよ」
 八島は皮ジャンのポケットに手を突っ込むと、長いため息を吐いた。
「俺、女にそんなこと言われたの初めて」
「お願い、ハメ撮りの写真ばらまかれてもお金は出せないの。あたし親とかいなくて、頼れる人もいないし。だから、もしご飯に行くんならホテル代は出せない。ラブホテル代だけなら出せるから――」
「わかった」
 八島の声に私は目を開いた。
 あっさり承諾してくれるとは思ってもみなかった。八島は渋い顔をしながら単車にまたがると、私にヘルメットを渡した。
「あんたの家に行こうよ」
 私が単車の上で八島の腰に抱きついたとき、彼はそんなこと言った。
「え、何?」
「材料買ってあんたの家で飯食おう。それならホテル代も浮くし、いいだろ」
「ちょっと待ってよ。息子がいるのよ」
「年は?」
「五歳」
 五歳ね、と八島はつぶやいて単車を発進させた。どこへ行くのかと思えばスーパーに入った。
「本当にうちにくるの?」
「ああ」
 八島は私の手を握るとそう言った。不思議だ。こうしていると、まるで同棲している恋人同士のようではないか。私は複雑な気持ちで買い物かごを手に取った。
「……何食べたいの?」
「オムライスがいいなあ」
 八島の言い方が幼いころの息子にそっくりで、私は思わず吹き出した。
「何笑ってんだよ」
「ごめん」
 八島に睨まれ、私はあわてて卵をかごに入れた。私はしばらく料理をしていないし、お米すら炊いていない。大変なことになったと思いながら材料を買いこんでスーパーを出た。
「腹減ったから、早く帰ろうな」
 八島は目を細めて笑い、単車を飛ばした。八島の腰に抱きつきながら、これはなんなのだろうと思う。私はこの男に脅されて関係を結んでいるはずだ。しかしこの男がしていることはよくあるデートのひとつではないか。



 部屋に入ると、おかしの袋に囲まれた春人が座っていた。
 オムライスをつくるのなら、おかしなんか与えなければよかった。私は申し訳ない気持ちになりながら春人を抱き上げた。
「はるくん。ただいま」
 春人は大きな目でじっと八島を見つめた。
「よお、坊主」
 八島は笑って春人の髪をなでた。案外、子ども好きなのかもしれない。
 思えばこのアパートに男を連れてきたのは初めてだ。人見知りが激しい春人はじっと黙って私に抱きついていた。
「早く食べようぜ」
 八島はテレビの前に座り込み、勝手にテレビをつけながらそう言った。私はため息をついて春人をおろした。
「ちょっと待ってて。お米炊くから」
「え、飯ねえの?」
「普段は炊いたりしないから」
 八島は心底呆れたような顔で「マジかよ」とつぶやいた。
「飯なんかいつでも炊いとくもんだろ。なんで普段炊かないんだよ」
「あんたって、実はお坊ちゃんなんだ?」
 私は米櫃からお米を一合すくいだして洗いながらそう聞いた。
「はあ? 意味わかんねーし」
 ちらりと後ろを振り返ると、すっかりリラックスした八島はひっくり返ってテレビを見ていた。他人のうちでよくそんなに図々しくなれるなと思う。
「ちゃんと働いてるお父さんがいて、お母さんは専業主婦なんでしょ」
「だからなんだよ」
「やっぱりそうなんだ」
 洗ったお米を炊飯ジャーに入れて『早炊き』のスイッチを押した。
 春人を見ると、緊張しているのか八島と距離をとって壁際に座っていた。
「ねえ、春人にビデオ見せてあげて」
 私は八島に近寄るとテレビの入力を切り替えてビデオデッキの電源をつけた。
「何すんだよ」
「いいじゃないの。ね、お願い」
 なだめるように肩に触れると、八島はちっと舌打ちした。
「何見るんだよ」
「アンパンマン見ようね、はるくん」
 振り返ると、春人は堅い顔で小さくうなずいた。
「アンパンマンか。なつかしいな」
 八島は小さく笑った。
 お米を炊いているあいだに卵をかき混ぜ、ついでにレタスとトマトを切ってサラダをつくった。きちんとした料理をつくるのは本当に久しぶりだった。結婚していたときもまともに料理はしなかった。元夫の借金を返すために忙しく働いていたからだ。
「おい、こいつなんていう名前なんだよ」
「てんどんマンだよ」
 いつのまにか八島と春人の距離が縮まり、あぐらをかいた同じような体勢でビデオを見ていた。


「斎藤、料理下手なんだ。インスタントラーメンしかつくれないんだぜ、あいつ」
 八島は布団にあおむけになり、タバコに火をつけた。蛍光灯の下で八島の白い体が浮かび上がる。
「へえ。そうなんだ。じゃあ毎晩ラーメン?」
「いや、ファミレスが多いかな」
 八島は深く吸うと、煙を吐き出しながら火のついたタバコを畳に放り投げた。
「ちょっと! 火事になっちゃうわよ」
 私はあわててそのタバコをつまみあげてテーブルに押し付けて火を消した。
「もう、気をつけないと……いつもこうなの?」
「うるせえ女だな。こっちこいよ」
 八島は私の腕を掴んで布団に引きずり込んだ。
 腰を抱かれて突き上げられると、まるで処女のように甲高い声が出た。隣の部屋では春人が眠っている。私はあわてて手で口をおさえた。
「よお、坊主」
 動きながら、八島は楽しそうな声を出した。八島と繋がったまま顔をあげると、ふすまの前で春人が目を見開いてこちらを見ていた。
「ちょっと、ねえ、やめて。あの子を寝かしつけるから」
「ごめん、無理」
「いやっ」
 八島は笑うと動きを激しくした。私は口を手でおさえ、目を閉じてできるだけ早く終わるように祈った。つむじに春人の視線を顔に感じた。声もあげず、身じろぎもせずに春人はじっと私たちを見ているのだ。
 お願い、お願い、こっちを見ないで。どっかに行って。
 私は必死で声を押し殺した。永遠に終わらないんじゃないかと思うほど長い時間がすぎ、ようやく八島の体から解放されると、私は裸のまま春人のもとに駆け寄った。
「はるくん」
 抱き上げると、春人の心臓が普段よりも早く脈打っていた。
 春人の顔をまともに見られなかった。隣の部屋に連れて行き、布団に寝かしつけると、春人は小さな手で私の手を握った。
「ママ、一緒に寝よう?」
 春人は子猫のようなか細い声を出した。私はうなずき、裸で春人の隣に寝ころんで頭をなでた。たまにしか切らないから、春人の髪は男の子にしては長い。
「おい、ちょっとこい」
 数分たったとき、隣の部屋で八島が呼んだ。
「はーい」
 私は春人の隣から飛び起き、小走りで八島のもとへ駆け寄った。
「寒いから、一緒に寝よう」
 八島は裸で布団の上にあぐらをかいていた。春人と同じようなこと言う八島に苦笑して、私は八島の白い体を抱き寄せて一緒に布団に入った。
「春人にも一緒に寝ようって言われたんだけど……」
 遠慮がちにそうつぶやくと、八島は眠そうな低音の声で「坊主も連れてこい」と言った。
 さすがに裸の男女が寝ている布団に子どもを連れてくる勇気はない。
「いいわ。どうせすぐ寝るでしょ」
 頭まで布団をかぶり、八島の黒い髪をなでた。春人の髪と違ってシャンプーのいい香りがする。
「ねえ、八島くんってまだ若いでしょ」
 暗闇の中、八島の髪をなでながらぽつりとつぶやいた。
「もしかして、まだ未成年?」
「ん……」
 八島は寝起きの子どものように、目を閉じたまま不機嫌そうに眉間にしわをよせた。
「いくつなの?」
「十……八……」
 そう言ったときには、すでに八島は夢の中だった。八島が十八歳ということは、私が来年二十八歳になるから、十歳違うことになる。今まで生きてきてそんなに年下の子とセックスしたことはなかった。
 私は八島を胸に引き寄せて眠りに就いた。



 次の日の朝、八島は朝食が用意されてないと文句を言った。起きたらすぐ飯が出てくると思っているあたりお坊ちゃんだと思う。
 米櫃から一合分の米を取り出し、八島に洗わせた。
「お米くらい炊けるようにならないとだめよ。今の時代男も女もないんだから」
「うるせえな」
 八島はぶつぶつ言いながらひどく不器用な手つきで米を洗った。
「朝は味噌汁がいいんだけど」
「お味噌ないのよ、ごめんね。卵焼きにするから」
「卵ばっかりじゃねえか」
 八島はなんにでも文句を言った。これは反抗期ってやつかなと思う。それでもなんとかなだめながら朝食をつくり、テーブル台を囲んだ。
「坊主を起こさなくていいのかよ」
「いいの。あの子無理に起こすと泣くから。あとでおかしをおいておけば勝手に食べるから」
 朝食をつくったせいで時間がなかった。私はあわてて食べて、超特急で化粧をすませた。
八島の腰に抱きついてパチンコ店まで送ってもらい、去っていく単車に手をふった。ふと振り返ると、歩いてきたらしい斎藤さんと鉢合わせした。
「あ……おはよう」
 動揺で声が震えた。斎藤さんはその鈍色の目をきらきらと光らせながらこちらを見て、ぺこりと頭を下げた。
「あの、や、八島くんに送ってもらって」
「そう」
 斎藤さんは特にこちらを見ずに更衣室へむかった。すべてを拒否するかのような後ろ姿さえも素敵だなと思った。


 それから八島は三、四日に一度くらいのペースでうちにくるようになった。
 それは、私とのセックスが目的というよりも、
「今日はカレーがいい」
 私がつくる料理が目的のようだった。どうやらお坊ちゃんの八島は斎藤さんとのラーメン生活に嫌気がさしていたようだ。
 料理は嫌いではないが、普段はしないので少し面倒くさいなとも思った。
 次の日も食べようと鍋一杯につくったカレーを、八島は一人で三杯もたいらげた。そんなところが男の子なんだと実感する。
「成長期なんだね」
 私は膝に春人を抱き、プリンを食べさせながら笑った。
「普通だろ」
 八島は腹をさすりながら満足そうに息をついた。
「はるくん。もういいの? アイスもあるわよ」
「おい、坊主にもカレー食わせてやれよ。おかしばっかりじゃなくてさ」
 八島は春人を指差した。
「春人は偏食がひどいのよ。辛いものが嫌いで、野菜も全然食べられないし。だからカレーは無理なの。ね? はるくん」
「カレー、嫌い」
 春人は口の周りをカラメルでべたべたにしながらつぶやいた。
「おかしばっかり食わせてるからそいつ太ってんだよ。顔色悪いし、歯も半分ないじゃん」
 八島は偉そうにふんぞり返って文句を言った。
「そんなに太ってないわ。まだ抱っこできるもの。見た目ほど重くないのよ。歯は、ちょうど生え換わりの時期だから抜けちゃってるだけ」
「そうかなあ? そいつの歯、なんか茶色っぽいぜ。普通ガキの歯ってもっときれいじゃん。ちゃんと歯磨きさせてんのかよ」
 私はむっとして春人を膝からおろすと、開いた皿を持って流し場においた。
 子育てもしたことのない少年が偉そうなことを、と思った。人の苦労もしらないで、食べることとセックスすることしか興味がないくせに。
「それにさあ、ちゃんと坊主を風呂に入れてんの? なんか臭せえ。髪はべたべただし、耳垢ついてるし」
「春人はお風呂が嫌いなの。入れると泣くのよ」
 私は皿を洗いながら言い訳した。
「ガキは泣くもんだろ」
「うちは母子家庭なのよ。それだけでも世間が厳しいのに、しょっちゅう子どもを泣かせていたら虐待とか言われて通報されるの。だから子どもを泣かせないように機嫌をとるのが精一杯なの!」
 私は振り返り、泡だらけのスポンジを床に叩きつけた。
 八島は眉をひそめ、顎をあげて「面倒くせえ」という顔をした。そんな顔をされるともっといらいらして、私はスポンジを取り上げると流しに放り投げた。
「坊主、泣いてなくねえ?」
 偉そうに腕組みしてこちらを見ながら八島は言った。
「子どもを泣かせたらってあんた言ったけど、坊主が泣いてるところなんか見たことねえよ。あんたのセックス中の泣き声のほうがうるせえじゃん」
 八島はくすくすと笑った。
「この坊主さ、泣きもしないけど笑いもしねえ。なんか気味の悪いやつだな」
 私が今までに出会った中で一番気味の悪い男にそんなことを言われてしまった。私は春人を庇うように抱きしめると、手を引いて隣の部屋に連れて行った。
「ビデオ見てなさい。いいわね」
 私は春人のマシュマロのように柔らかい腕に触れてそう言った。春人は大きな目で私を見て、ひとつうなずく。アンパンマンのビデオをデッキに差し込んで、再生ボタンを押した。
 春人は銅像のような目でじっとテレビに見入っている。



「風呂入りたいんだけど」
 振り返ると、壁に手をついたかっこうの八島が立っていた。立ち上がって浴槽へ行き、お湯を溜めていると全裸の八島が入ってきた。
「一緒に入ろう」
 八島は色素が薄いのかもしれない。蛍光灯の下で見ると女性のように色が白く、目もきれいな茶色だ。
私はひとまず怒りをおさえるために小さく息を吸った。八島のような子どもにまともに腹を立てても馬鹿らしい。
「八島くんって、実は髪の毛も茶色いんじゃない? その黒い髪、染めてるんでしょう」
 私も全裸になって、タイルの上に座って八島の背中を洗った。
「うん。本当は茶色い」
 若い八島の体はみずみずしく張りがある。背中でもどこでも、触れると張り詰めた筋肉が押し返してくるのがわかった。
「前も洗ってよ。ソープ嬢みたいにさ」
「ソープ嬢がどういうことするか、わからないわ」
 八島はたらいをひっくり返し、その上に座ると、私に膝まずいてしゃぶるように命令した。私は唾液を吐きながら男のものをしゃぶった。
 目を閉じて、舌を使いながら行為に専念した。遠くのほうからアンパンマンの曲が聞こえてくる。ビデオは一時間。でも一時間で終わるわけがない。
「布団敷いてこいよ」
 八島の出したものをお湯でゆすいでいると、湯船につかっていた八島がそう命じた。八島は機嫌がいいのか鼻歌なんか歌っている。
 浴槽から出て、裸のまま春人の様子を見に行くと、春人はチョコレートを食べながらビデオに見入っていた。
「はるくん。そのビデオ見たらそのまま寝るのよ。いい?」
 私は春人に毛布を押し付けた。春人は能面のような無表情で私を見て、こくんと小さくうなずいた。
 隣の部屋で布団を敷いていると腰にタオルを巻きつけた八島が入ってきた。
「もういい?」
 八島は甘えるように小首をかしげ、私の胸に触れた。そういう顔をするとまるで小学生のようだ。私は母親の気分になって、八島の頭を抱えて布団に横になった。
 さすがに若い八島はすぐに勃起し、一回目のような堅さで私の中に入ってきた。鋭く突きあげられて、思わず声が出る。あわてて手で口をおさえた。
「あれ」
 律動の最中、八島は小さく漏らした。
「え、何?」
「いや、坊主が今部屋をのぞいたような気がしたんだけど」
「えっ」
 私はふすまのほうを見た。たしかにわずかに開いている。しかし春人の姿はなかった。ビデオはもう止まったのか、八島と私の息以外何も聞こえない。
「気のせいよ、きっと」
 私は自分に言い聞かせるようにそう言った。
「いいんじゃねえの、見せてやっても。性教育ってことで」
 八島はけらけらと笑った。


「春人の様子を見てくる」
 八島から解放され、触れた部分をティッシュで拭ったあと、私は裸のまま起き上がってテレビの部屋をのぞいた。部屋のすみで春人は毛布に埋もれて眠っている。
「はるくん、はるくん」
 私は春人の髪の毛をなで、額にキスをした。
「ママ」
 春人はそっと目を開けた。しまった、起こしてしまった。私はあわてて春人の目を手でおさえた。
「はるくん、もう寝て。おやすみ、おやすみ」
「おい、早くこいよ」
 隣の部屋で八島が呼んでいる。私は毛布を春人の頭まで引き上げると、「はーい」と返事して隣の部屋にむかった。
「なんでいっつもいなくなるの? ずっといてよ」
 八島は口をとがらせてそう言い、私の腕を引っ張って布団に引きずり込んだ。
 私を脅して言うことを聞かせたかと思うと、突然甘えてすり寄ってくる。八島は不気味で不可解な男だが、なぜかすり寄られると完全に拒否できない。
「ごめんね」
 私は八島の髪をなでた。八島は私の乳房に吸い付くと、そのまま心地よさそうに目を閉じた。
「春人と二人で暮らして一年になるわ」
 私は八島の髪をなでながらぽつりぽつりと話をした。
「朝早くに起きて、夜遅く帰ってくるの。春人を抱いて寝て、疲れて夢も見ずに寝る。休日は昼まで寝て一週間ぶんの買い物をして、また春人を抱いて寝て……春人は好きよ。でもあたしには春人しかいない。あたしには『あたし』っていう時間がないのよ」
 別に八島に現状を話したからといって、だからどうということはない。小さい子どもに子守唄を歌う母親のような心境だった。ただ一度口に出すととまらず、口が自動的に言葉を連ねていった。
「ずっと職場と家の往復だけ。旅行もしたことないし、友達と飲みに行ったこともないわ。化粧品や服だって、この子を産む前はもっと高いものが買えた。夜は春人の隣で眠るの。ねえ、想像してよ。そんな生活の中で、職場で出会ったミステリアスなイケメンにほんの一瞬恋するくらい、悪いことじゃないでしょ?」
「ん……」
 八島は顔をしかめた。眠たいから静かにしろと言いたげな顔だ。
「もちろん本気じゃないわ。私だって自分がどんな女かわかっているもの。斎藤さんとはほとんど接点ないしね。でも……」
「寝かせてくれよ」
 八島は私の乳房から顔を離し、不機嫌そうな声を出した。私はすがるように八島の肩を掴んだ。
「ねえ、あたし悪くないでしょう? 別に子持ちの女が男を連れ込んじゃいけないって法律はないわ」
「誰に聞いてんの?」
 八島は完全に不機嫌になったらしい。ぎろりと怖い目で私を睨んだ。
「あんたが自分で自分が悪いことしてるって思ってるだけだ。俺じゃなくて自分に言い訳してるんだろ」
 その目に射すくめられ、私は思わず起き上がり頬に手をあててうつむいた。
 八島は長いため息をつくと、手をのばしてタバコに火をつけ、紫煙を天井にむけて吐きだした。
「面倒くせえんだよお前。ぺちゃくちゃうるせえよ。子どもの前で腰振ってるようなクズ女が自分の正当性主張してどうすんの? 見苦しいよ、オバサン」
「やめて」
 私は布団から逃げ出すと下着をつけ、パジャマを着た。怒りで歯が震える。十歳も年下の少年になぜこんなことを言われなければならないのか。
「何がミステリアスなイケメンだよ。いい年して少女漫画の読みすぎなんだよ。男のケツ追ってる暇があったらガキのことなんとかしたら? マジでキモイから、あいつ。あんた気付いてないかもしんないけど、あのガキは俺らのセックスを毎回見てるんだ。しかもすんごい目で。ヤバイよ、あいつ。あの年でもうヤバくなってる」
「やめて」
「お前はさー、ガキをペットにしてんだよ。ペットだから風呂に入らせなくても平気。飯もろくなもの食わせねえ。お前はな、男ができたら簡単にガキを捨てるような部類の女なんだ。俺は子持ち女とも何人か付き合って、そのガキを殴ったこともあるけど、みんな見を呈して止めようとはしなかった。血まみれのガキを置き去りにして逃げたやつもいる。でもそれでいいんだ。母性なんて、母親なんてそんなもんだろ。けどお前は、その女たちの中でも最低の部類だ」
「やめて!」
 私は平手で八島の頬を打った。八島は眉と目を釣り上げると、私の髪を掴んで部屋のはしからはしまで引きずりまわした。
「やめて!」
「セックスが終わったら黙って寝ろよ。いちいちお前の話し相手なんてやってられるかよ」
 八島は私を壁にむかって突き飛ばした。私は頭を抱え、背中を丸めて顔を庇った。
「お願い、許して」
「心配しなくても、お前は十分『悪い』母親だよ」
「やめろおおおおおお」
 春人だった。
 春人は小さい腕で八島の足にすがりついた。春人のこんな甲高い声を聞いたのは初めてだ。春人は涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら叫び、爪で八島をひっかいた。
 八島は眉を八の字に下げ、春人を突き飛ばした。
「もう、なんなんだよ」
「やめて!」
 私は春人を胸に抱き込み、庇うように背中を丸めてしゃがみ込んだ。小動物のように春人が小刻みに震えている。
「おい、マジでいい加減にしてくれよ。俺は眠いんだって」
 八島は情けないような声でそうつぶやくと、布団の上であぐらをかいた。
「もういいや。マジ面倒くせえ。帰る」
 八島は口にくわえていたタバコを投げると服を着た。私はあわてて火のついたタバコを拾い上げ、春人の手を引いて隣の部屋に逃げ込んだ。戸に耳をつけて様子をうかがうと、何かぶつぶつ言いながら八島が出て行く音がした。
 私は春人をしっかりと抱き込んだ。
「ごめんね、はるくん」
 春人の肌は粟立って早鐘のように鼓動が鳴り響いている。私は春人の髪の毛をなで、頬ずりした。
「ごめんね、はるくん」



 翌日、泣きはらした顔で職場に行くと、マネージャーに別室に呼ばれた。
 最初から悪い予感がしていた。
 マネージャーは部屋に入るなり少し小馬鹿にしたような顔で私のほうを振り返り、椅子に座るように命じた。
「最近のデジカメって、すごくきれいに写るんだね」
 マネージャーの言葉に顔がかっと熱くなった。手がわなわなと震え、背筋に冷たい汗が流れていく。
「八島には手を出しちゃだめだよ。まだ十代だし、性格も最悪だ。斎藤が止めないからますますひどくなってる。しかもお父さんが金持ちで、訴えられてもいつも示談で決着がつくんだそうだ」
「や、八島があの写真を……」
「従業員みんなにまわしている。こういうことになってはもう仕方がない。人手は足りないけど、こちらとしては辞めてもらってもかまわないから――」
「待ってください!」
 私は祈るように胸の前で手を合わせ、マネージャーに詰め寄った。マネージャーといっても私よりも若い。彼は二十代前半とは思えないような尊大な態度で首をふった。
「わ、私、写真を撮られてるなんて知らなかったんです! 私が悪いんじゃありません。ホテルに誘ったのはあいつです。あ、あいつが悪いんです――」
「なんの話しをしているんだ?」
 マネージャーは眉間にしわを寄せると、携帯電話を開いて何かカチカチやり始めた。
「なんのって、八島が撮った私とのハメ撮りの写真の――」
「八島がまわしていたのは、君の息子さんに対する虐待の証拠写真だ」
 私は絶句して息をとめた。
 血液が逆流したかのように顔が青ざめていく。マネージャーはため息をつき、私の携帯電話の画面を見せた。
「一日中、部屋で一人でいさせているそうじゃないか。ろくな食事もとらせず、風呂にも入らせず、目の前で若い男とセックス。君は最低の母親だよ。従業員みんながそう言ってる。八島は児童相談所にも写真を送ったそうだ」
 スライドショーで出てくる写真はすべて春人だった。おかしの袋に囲まれた春人、チョコバーを持ってビデオに見入っている。耳元にこびりついた垢や、茶色くなった歯――
「従業員みんなこの写真を持ってるし、そのうちの誰かが常連のお客さんにも写真をまわしたらしい。たった一日で君は有名人だよ。こういうネタはみんな好きだから……」
 私は足を震わせながら後ずさりした。今日にでも児童相談所の職員が私のアパートを訪れるだろう。まさか春人を取り上げられるなんてことはないだろうけど――いや、でももしかしたら――
「あ、あたし、認めます。悪い親でした。仕事のことと息子のこと、両方いっぺんにできるほど器用じゃないんです。あたし、怠惰でした。で、でも、息子のことは愛してます。本当に愛してるんです」
「そんな話を僕にされても」
 マネージャーは少し困ったように言うと、携帯電話をぱちんと閉めて私の肩に手をおいた。
「とにかく、これからどうするかは君が決めなよ。別に辞めろって言ってるわけじゃない。ただ、僕は息子さんはどこかの施設に預けたほうがいいと思うけどね」
 マネージャーはそれだけ言うと静かにドアから出て行った。
 私はずいぶんと長い間そこに突っ立っていた。
 本当はすべてわかっていた。私は日々の疲れを理由に春人の育児を怠っていた。でもそれを認めたくなかった。だって、もし認めてしまったら、春人を手放さなければいけない……。
 でも、もう終わりかもしれない。



 かなり長時間立ち尽くし、足が痺れてきたころにドアを開けた。今日はもう帰るしかない。頭が真っ白になっている。
 ドアを開けると、目の前にペットボトルを持った斎藤さんがいて、息がとまった。
「喉が渇いてるんじゃないかと思って」
 その優しい声。柔らかく細められた目元。私は一瞬、素敵な斎藤さんに見惚れた。そしてその瞬間に怒りが湧いてきた。
 この男、状況を理解しているのか? 八島はこの男の同居人で、私はそいつによってひどい目にあったのに。
「斎藤さんって、素敵な方ね。もてるんですね。若いころは選り取り見取り?」
 私は薄く笑って差し出されたペットボトルを手に取った。
 斎藤さんは一瞬眉をひそめたが、すぐに微笑んで首をふった。
「若いころはそんなにもてなかった。女の子にいろいろと尽くして、優しくして気を引かないと付き合ってもらえなかった」
「まさか」
「体を悪くしてからだな。女性のほうから声をかけてもらえるようになったのは」
 不思議だね、と斎藤さんはひどく自嘲的に笑った。
 私は自分の眉と眉のあいだがぴくぴくと動くのを感じていた。
「悪かったね、八島が」
 斎藤さんは優しい笑みを浮かべ、私の肩に手をおいた。私は自分の中の衝動を抑えきれず、男の手を振り払って頬を打った。
 バチーンという音を立てて私の手が宙に舞った。
「失礼なこと聞くけど、あなたの足、女性関係で悪くなったんじゃない? そんな気がするんだけど。女に刺されでもしたんでしょう」
 斎藤さんは軽く頬を手で触って、曖昧に小首をかしげた。
「あたしがこんなになったのはあなたのせいよ。あなたの周りをうろうろしなきゃこんなことにはならなかったわ。全部あなたのせいなのよ」
「それで?」
 斎藤さんは優しく微笑み、私の目を覗き込んだ。その蝋人形のような灰色の目を見て、私は思わずぞっとした。「殺される」とすら思った。この男は、その目に何も映していないのだ。私はもちろん、自分自身でさえも。
「あなたの目も女性関係で悪くなったんじゃないの? それ白内障でしょ? あたしの友達が彼氏の暴力でそんな目になったわ。あなたは女のせいでいろいろと酷い目にあったの。だから今は女を避けてるんだわ。違う?」
「まあそんなところだな」
「あなたは! ひどい男なのよ! 自分が同じようなことをしていたから八島みたいな男と仲がいいんだわ! 昔の自分を見ているようで、あいつがどんなにひどい男でも見捨てられないんでしょ?」
「だから?」
「だから……だから……あなたたちは、最低よ」
 斎藤さんは愉快そうに笑った。
「俺たちは最低だけど、君は? 君は最低じゃないのか? 子どもの写真を見たぞ。俺の母親もひどいものだったが、あんたほどじゃなかった。あんたは女としても母親としても最低だ。ねえ君、俺たち最低なもの同士、気が合うかもしれないね?」
 斎藤さんは私に手を差し伸べてきた。その手を握れば惨めな気持ちも晴れたかもしれない。完全な『最低』として、まだしも開き直れたのかもしれないが――
「あたしはもう、最低な母親にはならないわ」
 私はその手には触れず、斎藤さんを睨みつけてから踵を返した。
「せいぜいがんばれよ」
 背中でそんな台詞を聞いたが私は振り返らなかった。
 更衣室で着替え、鞄を持って外に出ると、パチンコ店の駐車場で八島と夏美が抱き合ってキスをしていた。
「じゃあね、ちーちゃん」
 すれ違う瞬間、八島は甘ったるい声でそう言った。
 私は足をとめたが、苦笑して首をふると再び歩き出した。春人に会いたい。春人に会って、一緒にお風呂に入って、それから――
 それから、謝ろう。春人は私を許さないかもしれない。
 結局、八島の言ったことは最初から最後まですべて正解だった。彼の言う通り、私は悪い母親で、春人は私のことを憎むかもしれない。それでも謝って、これからのことを二人で考えよう。
 帰路の途中でふとスーパーが目につき、私はそこで野菜とカレー粉を買った。春人はもうおかしを食べてしまっただろうか? もしまだなら、カレーをつくって一緒に食べよう。あの子は四歳まではたしかにカレーを食べていた。食べられなくなったのはここ一年のことだ。だから、腕によりをかけておいしくつくったら食べてくれるかもしれない。
 スーパーから出ると、私は全速力で駆けだした。
 今ならまだ間に合うかもしれない。

最低

最低

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-03-31

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted