幕末ソコワレ考

慶応三年旧暦十一月十五日厳冬、寺田屋。土佐脱藩浪士坂本竜馬襲ワル。

―――どこかで、火事か。
あれは確かに半鐘の音だ。
中岡慎太郎は途切れかけた意識の中でその音を聞いていた。
どことは知れない彼方で、半鐘が鳴り響いている。
空気が乾燥しているせいか、この不穏な時世で火つけが流行るせいか、この頃火事が多いと、台所の下女連中がぼやいていた。
江戸ほどではないが、小さな木造住宅がすし詰めのこの京も、毎晩のように火事があるのだ。意識したりはしていなかったが、確か、昨日の晩もどこかで聞こえてきていたよな―――そんな取り留めのない思考が、消えかけた中岡の意思を寸前で留まらせていた。
おれはどれくらい気を失っていたんだろう――――今や、何を覚えていて、何を忘れてしまっているかなど、どうでもよくなってきそうだ。中岡は目を閉じたまま、まるで夢の中にいるような安らかな感覚に包まれていた。畳に貼りついたこの身体もつい先ごろまではぴんとはち切れそうになるほど冷えきっていたが、今はただぼんやりと宙に浮いているようで、なぜだか温かい。
ゆらゆらと大きなものに包まれて、漂っているような感覚に愛着がある――――そうだ、この心地よい音の波―――以前にもどこかで、中岡の心を満たしたことがあった。
この、ぼんやりと心地よい音の波。それは出港する船の上で聞いた、沖の海鳴りと同じ音だ。浜辺にいるときとはまったく違う感覚に、中岡は感激したのを憶えている。あれはまるでくじらの寝息のように、どこまでも壮大であらゆる小さな物事を包みこんで一つにしてしまうほどに強く、温かい、巨大すぎる一つの波動だった。
誰かが言ったように、あのとき世界は確かに、海に包まれていた。
まるで嬰児が小さな指を精いっぱい開いて、母の胸に抱かれるように人間の棲む陸はあおの懐に抱かれているのだ。
(それにしても、なんだ)
――――すぐ近くと思えば、また遠ざかる。やがてどこかに行きそうなほどに。
どこへ、行っちまうんだろう。まだ心地よく眠っていたいのに。
目が、覚めちまう。
それにしてもなんだ、なぜあんなに遠くに。

中岡は、ふーっ、と長く、一つだけため息をついた。
 目蓋を開くと、薄暗闇の中で自分の右腕がみえる。血まみれの指は、拳銃の引き金を引くような形で固まり、まるで他人のもののようにそこにある。血で固まった袖を持ち上げて力を入れてみたが、すでに感覚は残っていない。
――――あれほどやられたのだから、当然と言えば当然か。
中岡はひとり、唇を歪めて苦笑した。どんなに注意しても、いつかは殺(や)られるときが来るのだ。思いもかけぬ理由で、思いもよらぬ相手に。
「のう、中岡、おれを斬ることになるのは何者じゃろうな」
―――出来ればおれは、そいつの面を拝んでみたい気がする。そいつを楽しまなきゃあ、損じゃき。
そう言っていた相棒の肚(はら)が初めて分かったような気がした。
 「石川、無事かっ」
 あのとき。思わず中岡の本名を叫んだ竜馬の声が、まだ、耳に残っている。
 「刀はないか、石川、刀じゃっ」
 (そう・・・・・・・・・・・そうじゃ)
 あれは、一瞬の出来事だった。まさに、刹那の。
 あれが現とは、今でもとても思えない。

 夜五つ(午後八時)の鐘を、中岡は聞いた。それから四半刻も経たない頃だと、彼は記憶していた。その日、日暮れごろに中岡は、竜馬の宿所に戻っていた。この頃になっても、来客が引きも切らなかった。
竜馬はここ何日か風邪を惹いていた。大事をとって、世話になっている近江屋の土蔵の二階に火鉢を置いて終日うたた寝でもしているなどと話していたのだが、掛け軸を届けに来るような用事から、重要な密談まで案件は尽きることがなかった。
この日の最後の客は、やはり断るべきだったのだ。最後の訪問客は十津川郷士を名乗った。懐中の名刺を取り出して、竜馬にみせた。ひどい近視の竜馬は、日向の猫のように目を細めて首をもたげると、行灯の明かりの中でその名刺を確かめようとした。
顔を出した竜馬を狙って、膝立ちになったその男が竜馬の顔を一撃した瞬間、中岡は二、三秒の余所見をしていた。その郷士どもがきちんと閉めなかったせいで、隙間の開いた襖から忍び寄ってくる寒気に身をすくめたのである。なにが起こったのか、事態の把握も対応も、出遅れたことが、今にしてみれば悔やんでも詮無いことながら、悔やまれる。
「石川」
竜馬が、あげた声だけを中岡は憶えている。闇の中で抜きつれた白刃が閃き、鈍い音が頭の奥で響くと、その頃には中岡は意識を失くしていた。
それから、中岡は半鐘の音を聞いた。静寂が耳をつんざく音を聞いた。無我夢中で抗い、そしてその都度、駄目押しの一撃を被ったのを思い出した。
―――今。
全身は水を吸った砂袋のようにいたずらに重たいだけで、もはや痛みも、苦しみも感じてはいない。ただ冷えた泥の沼の中に首まで浸かっている。そこで、漂っているような感じだった。寒い。全身の感覚がないのにかじかむようだ。手足の先まで冷えてびんと痺れ、眠気に目が霞み、激しく意識が混濁する。
「石川、石川」
その声を、中岡は夢だと思った。目もくらみ、竜馬の居所も分からない。応えようとした声が、かすれた。動かない右腕を引きずり、中岡は生乾きの血の海でもがいた。
「おうい・・・・・石川、お前、生きてるのか」
それはやはり、聞きなれた竜馬の声だった。
「生きちょったら、返事をせんか・・・・・なあ、石川」
「坂本」
もつれる舌と、かすれた喉で中岡はようやく言葉を紡いだ。
「坂本、お前こそ・・・・・無事なのか」
「石川、よお聞け。わしは脳をやられたち、もういけん。おまんだけでもどうにか生きちくれ・・・・・」
竜馬は中岡の声に応えたわけではなさそうだった。朦朧とした意識で聞いた声は、どこか寝言の調子で茫漠として、空に向かって呼びかけているような口調だった。
力を振り絞って中岡は顔を上げた。狭い土蔵の二階家だ。ちょうど床の間の辺り、倒れた火鉢の前に竜馬が座っている。その気配を感じた。
「すまん」
竜馬は言った。ここで巻き込んでしまったことを言っているのかもしれなかった。何を言う。中岡は畳に顔をこすりつけながら、激しく首を振った。
「・・・・・おまんには、えらい迷惑かけたのう」
「馬鹿、なにを言うちょる、坂本」
死ぬな。
中岡は、もはや自力で持ち上がりそうもないあごを畳に擦りつけ、大粒の涙を流した。その時さやさやと、衣擦れの音がしたのが気になった。竜馬が所在なげにその大きな身体を動かそうとしているのかもしれない。やがて安らかげなため息がひとつ。もう一度、竜馬は中岡に呼びかけた。それは今にして思えば、中岡が聞いた竜馬の最期の言葉になった。
「なあ、石川、おまんだけでもなんとか、助かっちくれ。なあ、後はお前に頼むき」
中岡は、なにかを言葉にしようとしたが、出来なかった。わななく唇が、かすかな声の震えを形作っただけで、中岡の意識はすでに霞がかったどこか遠くの場所にいた。
ほどなくして、土佐藩下横目、島田庄作が近江屋を訪れ、惨状を発見した。島田をはじめとする土佐の竜馬に親しいものたちは、竜馬の所在を京都で捜しているものが居るのだということを知って彼に幾度となく警告を発していた。
島田はやがて、使いから戻ってきた手代の菊屋峰吉と手分けをして、土佐藩邸から救援を呼ぶことにした。藩邸からは医師・川村盈進(えいしん)らが駆けつけたが、このとき、竜馬はすでに手の施しようがなく、まもなく息を引き取った。
同室で事件に巻き込まれた中岡慎太郎、階下にいて刺客を取り次いだ藤吉の両名は、発見時には意識を失い、瀕死の重傷を負った。
死者三名、目撃者なし。
新時代、明治前夜の出来事――――


事件から明けて翌十六日の朝、近藤勇は妾宅の月真院からあわてて引き返してきたところだった。会津藩の指揮下にある新撰組は、昨夜起きた事件の報をつい先ごろ、聞かされたばかりである。
―――坂本が死んだ。
何者かに殺されたのだ。
幕臣の近藤勇は、京都を預かる新撰組の責任者として歯噛みしている。
普段の近藤は飼い葉を出し忘れた馬番のように、ばたばたと歩いたりはしない。左右によくえらの張った顔に相応しく、めりはりを利かせて速度より威厳を大事にした。
「歳三、大変だぞ」
勢いよく障子を開けた近藤を、部屋にいた土方歳三はため息をついた後の横目で見た。
「なんだよ」
「聞いたか。河原町近江屋だとよ・・・・・昨晩だ」
「まあな、聞いたさ」
気もなさそうに、歳三は言った。
「坂本が死んだんだろ。だったらどうしたって言わせてえのか」
「時期が時期だと言ってるんだ」
近藤は腹立たしげに息を吐いた。
「おれたちは、所司代から直々に詮議を受けるかも知れんのだぞ」
「かも、知れねえな」
突き返そうとした言葉の穂先を無理やり、歳三は呑み込んだ。
「でもやったのはうちじゃないだろ」
「それはそうだが、世の中の目って言うもんがある」
「まあな」
歳三は、今朝から探索方に拾わせた噂の落ち穂のいくつかを思い起こした。坂本を殺した下手人の下馬評の八割方は、新撰組に偏っていたからだ。
「で、おれたちはどうすりゃいいんだ」
「この中で坂本の事件に関わっているかも知れんものがいるか、先にこっちで捜しておくしかねえだろう。今もっとも、京中を鎮めねばならんこの時だ。あらぬ疑いで新撰組が掻き回されるのは、職務に支障を来すだろう」
「まあ、あまりいいことじゃねえわな」
「お前もそれとなく探ってみてくれんか」
「分かったよ」
「また外に出る用事があるんだ。お前も忙しいだろうが、頼む」
そう言って近藤は、あわただしく去った。
(泣く子も黙る新撰組が情けねえ)
―――坂本を殺したって? 少し前なら大手柄じゃねえか。
歳三は、さっき近藤につっ返そうと思ったその言葉を再び胸の奥へ仕舞いこんだ。
(大政奉還だかなんだか知らねえが、おれたちの仕事は変わらねえ。そんなはずだったんじゃねえかな)
だが、時局は変わった。
(くだらねえ)
歳三は一人になってから、もう一度ため息をついた。この頃は、こんなことが多過ぎていた。時折、なんのために大志を抱いて上洛してきたのだと思うことも稀ではなくなった。慶応三年の冬。冷気の去らない部屋で歳三は砂を噛むような顔でひとり、黙々と餅を喰っていた。

――――坂本竜馬、土佐脱藩浪人。薩長同盟を締結し、徳川幕府を追い込んだ尊攘派の立役者。
歳三の頭には、昨晩この世からいなくなったその男の、周辺で渦を巻いていた情報が無作為にめぐっていた。こうして今朝、唐突にそのあまたの情報を身にまとっていた坂本が死んだことで新撰組の生業に、もはやこの男の情報はなんの価値もなくなったのだ。
――――いや、そんなこともねえか。
無いというなら、随分前からなくなってはいたのだ。坂本竜馬を、新撰組が捕縛することの意義そのものすらも。
そもそも、歳三のいる京都守護職会津中将様御預新撰組は、京都で暗躍する不逞浪人を取り締まるために窮余的に結成された組織である。十四代将軍家茂上洛に絡んで京都の治安警護を引き受けて広く一般から公募された浪士組が母体となっている。だから局長近藤以下、由緒正しい武士として幕府から禄を頂いている武士はほとんどいない。言ってみれば、民間公募の警察下請け機関なのだ。
だから例えば、三年前の元治元年夏の時点では、これは目覚しい成果だったかもしれない。新撰組は公儀に正式な機関として認めてもらおうと、手柄に飢えていたし、幕府も新撰組にそうした仕事を望んでいた。だが、今は当然、状況が違う。
先月十三日、十五代将軍徳川慶喜は、二条城に全国四〇藩の代表を招き、政権を朝廷に返上することを発表した。徳川政権は、これで正式に公権力を失ったのだ。新撰組をはじめとする市中の警察組織が治安維持の目的と称して、尊攘派の浪士たちを駆逐する政治的枠組みは、公的にはその意義を失った。
先年の薩長同盟から暗躍した坂本竜馬ひとりを殺したとところで、新撰組にとっては、今さらなんの意味もなくなったのだ。
(そもそも何のためにおれたちが坂本を捕まえる?)
今回の大政奉還からの一連の流れに、当然、坂本竜馬も一枚噛んでいると噂が流れ、幕府がたの新撰組も必然的に坂本を追っていた。
だが、歳三の個人的見解からすれば、草の根分けて坂本を捕まえ、なにがなんでもあの男に死を与えてやりたかったわけではないし、追捕するのに、そこまでの労力もかけてはいない。ただ幕臣としての感情的な公式見解として、捕縛する意志を見せることで坂本への恨みを露わにして見せる程度が、政治的な存在としての新撰組の行動だったに過ぎない。
事実、近藤も、この上は坂本は何とかせねばならないようなことは、口にはしていたのだ。それが今、その坂本が本当に暗殺されたことで幕府側は動揺している。
―――近藤さん、あんたもそれに引きずられてやがるんだよ。
近藤勇も新撰組の代表者として、今や京都政界では一目置かれる立場だ。政治と言う化け物を腹に買うようになると、本来なら当たらぬ食い物でも当たるようになるらしい。

「そら疑われても、せん無いことでしょうな」
昼過ぎに、薬売りに化けて探索に出た山崎蒸が帰ってきて報告した。市中での噂では、新撰組がついにやったと言う話で持ちきりだと言う山崎は、坂本の不意の死で何が起ころうといつもの仕事をこなしているだけと言うだけで淡々としたものだった。
「坂本を嗅ぎ回った覚えはねえんだがな」
「恐らく、キの字の一件から来とるんでしょうよ」
「なんだよ」
その一言で大方の事情を察した歳三は不満をあらわにした。前髪をかき上げて額に手を当てたまま、物憂げにため息をつく。
「あの野郎のせいか」
「監視の目をつけたのが、裏目に出たようですわ」
江戸北辰一刀流の道場主から新加入した伊藤甲子太郎率いる一派と、近藤勇を頂点とする現主流派が局内で対立を深めていた。伊藤甲子太郎はそもそもが尊攘派の論士で、佐幕派の急先鋒である新撰組とは、方向性が異なっていたのだ。
歳三は反対だったが、近藤や伊東の同門の藤堂平助などの古馴染みの隊士の手前もあり、加入までは意見を差し控えていた。
しかし、このところ御陵衛士と名乗り隊内で同士を募ると黙認は出来なかった。彼らは、薩長はじめ尊攘藩との接触を強め、つい二ヶ月ほど前には老中板倉伊賀守に建白書を提出し白川陸援隊として独立を果たそうとしていた。内部分裂から、さらに存続の危機に、新撰組は直面しようとしていたのだ。
「伊東がどうも、坂本と接触しておるみたいでしたから」
「判ったよ―――じゃ、詳しく話を聞かせてみろよ」
歳三はあごをしゃくった。
「密偵の話では、伊東は坂本を訪れた形跡があるようです」
「それがここ数日ってことなら、伊東は坂本が潜伏していた近江屋にも出入りした可能性があるってことか?」
「恐らくは」
山崎は肯いた。人の口から口へ、話はどう伝わるか、これは誰に分かるものではない。竜馬の宿所を、新撰組関係者がうろついていたとなれば、真偽はどうあれ、疑いを受けることは覚悟せねばなるまい。
「もしかすると、伊東が故意に噂を流したと言う線では?」
「まさか、そりゃねえよ」
坂本に接触していたのは、伊東だ。そこに今回の暗殺事件が出来したとなれば、渡りをつけている相手先に対して立場を失うのは、むしろ伊東自身のはずである。
「やつこそ今は大慌てのはずさ。疑いの目は当然こっちに向くからな。・・・・・今度のことは、おれたちにとっちゃ、その意味では好都合なんだよ」
「ですが、この噂は危険でしょう。どないしますか」
「放っとけよ」
歳三は近藤に言うときと同じ、うるさそうに言った。
「噂をどうにかできるか? それで土佐のぼんくらどもが俺たちをどうにかしようって? なら上等だ、やってやりゃいいのさ。それよりおれたちの問題は、伊東のことだ」
事実、歳三にとってはどうでもいい話だった。大政奉還があって、坂本竜馬が死んで、それで新撰組がどうなるのか。今、そのことだけが彼にとっては問題だった。

(江戸を出て五年――――)
このごろ、歳三はそうやって考えることが多くなった。
(俺たち、一体なにをやってきたんだろう)
先月の末まで、歳三は江戸に戻っていた。新隊士の勧誘に奔走していたのだ。江戸中の道場を回り、池田七三郎、井上泰助と言った新規の加入者を数名、確保してきた。
全盛期は選考試験まで実施していたほどの志願者が出たが、今では遠路はるばる江戸まで、しかもこちらから勧誘に出向かねば集まりにくいのだ。現・隊士も任務が任務だけに、徐々にその数を減らしてきている。そこへきて十月二十日、歳三は江戸で、大政奉還の報を聞いた。幕府御用預の看板は正式に効力を失った。誰にも話したくはないし話したところでせん無いことだが、歳三にとっても、これは紛れもなく青天の霹靂であった。
「土方さん、どうかしましたか、浮かん顔をしてますな」
廊下に、斎藤一が立っていた。三番隊組長―――斎藤は御陵衛士の建白書の中に名前を連ねているが、伊東一派を内偵し、その動静を報告する任務を歳三から仰せつかり、数日前からひそかに屯所に戻ってきていた。
「聞きましたか、例の一件」
「君もその話か」
「今日の朝から、土佐のやつらが躍起になって下手人を探しておるそうですよ。屯所にもカチコミがあるかも知れませんぜ」
「来るなら来いだ。それより、伊東たち、どうしてる」
「朝から、落ち着きなく動いてますよ。どこかで弁解に奔走してるんでしょう」
「なにか下らんことを喋ってねえだろうな」
「さて、おれもその辺のことまでは。ただ、聞いた話じゃ、土佐のやつは紀伊藩の三浦休太郎の差し金じゃねえか、って息巻いてるようです。うちにも護衛の依頼が来ますよ」
三浦休太郎とは紀州藩の大立者の名前だ。三浦の船が坂本の船『いろは丸』を衝突させて沈めた事件があり、その海難事故をめぐったトラブルがあった。一介の浪人に過ぎない坂本は、この一件で幕府御三家のひとつ、紀州家から賠償金をせしめたのだ。動機からいけば、新撰組より私怨は深い。
「来たら、守ってやりゃいい。手が空いているようだったら、君が行ってくれ。頼めるかな?」
「いいですよ。どうせ、ここにはしばらく出入りしないほうがいいだろうし」
斎藤は白い歯をみせて、豪快に笑う。若いのに、場慣れした男だ。剣は強いが、どんなことにも物おじせずそつなくこなせるような、部下としては頼もしい強靭さを持っていることを歳三は知っていた。
昔、江戸へ流れてきたのは国元の播州で罪を犯したからだと聞いていた。付き合いは古いが、歳三も以前はよく知らないのだ。ただ十代から刃傷沙汰で人を斬っていることは確かだ。この斎藤には、歳三も人に話すことをはばかるような仕事も頼んでしまい、その心安さに、つい頼りにしてしまう。
「・・・・・土方さん、また抗争になるんですか」
すれ違いざま、斎藤はぽつりと言った。
「抗争じゃない。粛清だ」
「粛清ね」
おうむ返しに、斎藤はつぶやいた。入局以来、ひたむきに職務に忠実なこの男が、引っかかるような口調で歳三の言葉を繰り返したことはあまりないことだった。斎藤は口には出せない新撰組の仲間内での暗殺のほぼすべてに、積極的に加担しているのだ。
―――で? おれはまた、誰かを殺す気になるわけだ。
(こいつですら嫌になってる)
さっきの一言に、歳三は斎藤の心の声を聞いた気がする。
「不満か?」
斎藤は応えなかった。ただ、左右不対照に唇を歪めて首を振っただけだった。
「おれ、政治向きのことは分かりませんけど、今回、伊東さんの脱退で隊を割って出るのは、たぶん一人じゃありませんよ」
「分かってるよ」
歳三は苦々しい顔をした後、苦笑で流した。
「大事になるよ。それだけは言っとく。君に粛清を頼んだ奴らのときよりはな」
「へえ」
斎藤は唇を綻ばせたが、その表情ほど声はそれほど軽いものではなかった。
「まあ、いいでしょう。とにかく、修羅場になるわけだ」
「そうだな」
斎藤は肩をすくめた。
「今度もやるときには、俺も仲間に入れてくださいよ。間諜を引き受けたからと言って、仲間外れはご免ですからね」
さっさと去って行った仕事人の後ろ姿を見送って彼には思うところがあった。
(こいつも、いつまでこんなこと続ける気だと言いてえんだろ)
―――分かってるさ。
(だがよ、そいつは俺の台詞なんだよ)
歳三はひとり、乾いた笑い声で寂寥感を打ち消した。

午後を待って、歳三は外出する。
足取りは島原だ。人目をはばかって、例の萌黄に段だら染めの隊の羽織は避け、紺の羽二重に仙台平の袴を履いた。艶やかな黒髪をまとめ総髪にした歳三の姿は、目元も涼しげで雑踏の中でも、ひどく目立っていた。
一軒の置屋に、歳三は足をとめた。同伴はいない。奥で示し合わせた人が待っていた。
「どうも、旦那」
そこに待ち合わせた、灰色の髪をした男がいる。胡麻塩の白髪頭にしては、歳は見た目より若い。普段は家々を回って灰買いの仕事をしている。当時、各家庭や屋敷で排出される灰は、洗濯洗剤や陶器や藍染の艶出しなどに再利用されていた。商売柄、副業で密偵を務め、業界では若白髪の芳蔵で名前が通っている。
「旦那方の噂で市中、大変な騒ぎや」
「おれたちのじゃねえって」
今日はどこへ行こうと、同じ話を切り出される。歳三はわざと不快げな顔をして言った。
「芳蔵、軽口叩くなら、相手を選べよ」
芳蔵は意味ありげに肩をそびやかすと、懐から署名に【謙】とある、一通の書簡を取り出して歳三に手渡した。
「一件で仲間同士でも吟味の目が厳しく、謙吉様は、戻りたがっておいででしたよ」
「こう言うときこそ、腹を据えて知らぬふりをしてるもんだがな」
歳三はこともなげに言うと、そのまま書状に目を通した。
村山謙吉は、密偵として歳三が土佐方に潜りこませた男だ。伊東と海援隊の中岡慎太郎がたびたび接触を持っているために、動向を逐一報告させていた。
竜馬の一件がなくとも、池田屋事件以来、不穏になっていた土佐藩士たちと新撰組の関係はこの頃、ただでさえ一触即発の危機を孕んでいた。
つい昨年の九月にも、制札事件が起こっている。これは、三条大橋橋詰の京都町奉行所制札場の大高札が、何者かによって墨でめちゃくちゃに塗られ、加茂川に投げ込まれていたと言う事件が発端だった。会津藩の要請を受けて出動した新撰組が、張り込みの結果、八人の土佐藩士を捕獲、一部を斬殺したのだ。
主犯の宮川助五郎は、土佐勤皇党発足当時のメンバーで、激越な挙動で知られる武闘派だ。京都に来ていたのも、上洛している土佐藩公を護衛するための五十人組の総組頭として出国してきたもので、それも藩の出国許可を得ずに勝手に飛び出してきたため、一時、集団脱藩の扱いにされていた。宮川の率いた五十人組にしても、正式な藩命を受けたものではなく、私費での行動であり、もともと藩でも問題児で通っていた男だ。
重傷を負って、捕縛されたときも、直々に取り調べに当たった近藤勇に対して、
「武士として生け捕りの憂き目を受けるは、おいが恥じゃき。とっとと、この首刎ねんかい」
と、毒づいたほどで、そのしぶとさに歳三もうんざりしたのを覚えている。
実際問題としては宮川の処遇を巡って、紛糾した。身柄を預かる会津藩と土佐藩の間で引渡しの合意が内々になってはいたが、結局、幕府老中板倉勝静の反対で京都町奉行所に拘束されることになった。世が世なら即死罪のところだが、この時勢では、ここが、幕府がとれる強硬姿勢の限界だったのだ。
―――つまりおれらが芋を引いたわけだ。
近藤からその決定を聞いた歳三は、愚痴をこぼすしか手がなかった。
坂本のいろは丸号事件と言い、徳川家はここまで軽んじられているとは。
つい先日の十四日に、幕府から土佐藩に対して宮川の引渡し通告があり、在京の身元引受人が身柄を預かることになった。その引受人と言うのが、坂本と死んだあの、中岡慎太郎だった。中岡が戻ってきた宮川を、伊東甲子太郎が率いる新設の陸援隊で預ける予定であったことを、村山の報告で歳三はすでに把握していた。
(だから、昨夜の坂本と中岡の近江屋での会談は、その宮川のことだったんだろうな)
ふと、歳三は思った。
ちなみに坂本の居場所を、村山は事件当時、報告していない。自分の居所をなるべく多くの人間に知らせないようにしていたのが、坂本の常態だったようだ。歳三の命令で坂本の居場所を詮索せずに、伊東甲子太郎の動向を監視していたことが、今のところ、村山の命綱になっているのかもしれなかった。
(ただ、伊東は坂本の居場所を知ってやがった)
中岡とともに十四日、伊東は坂本に会っている。坂本は風邪を惹いていて、近江屋の二階家に急に宿を変えたため、ごく一部の人間しか、坂本の居場所を知るものはいなかったらしい。その伊東を追った村山は、すっかり容疑圏内にいる。
「土方副長、土佐は、新撰組の内偵を疑っております」
そこに村山の危機感の切迫具合が訴えられている。書状には坂本暗殺の経緯と様子が、事細かに書かれていた。現場を検証した土佐藩士たちは、現場に残された蝋色の鞘と下駄の焼印から、新撰組の犯行を疑っていると言う。特に下駄の焼印は、瓢亭のもので、ここは新撰組の行き着けの料亭のひとつ―――土佐藩士たちは、下手人は新撰組と信じて疑わないだろう。制札事件にしても、御陵衛士の一件にしても、ことが起こるのに重要な伏線になりえた。
「村山には、しばらく付文はいいと伝えておけ。それと、出来る範囲で、てめえの身くらいは守れともな」
書状を畳み、懐に仕舞い終えると、歳三は言った。
「伝えおきます」
歳三はそれから、上目遣いに声を潜めてから、
「・・・・・・それと、次は例の一件のことだ」

「総司、薬だ」
歳三は、それを沖田総司の枕元に置いた。労咳を患う沖田は終日、微熱が出て身体がだるい日が続いていた。呼吸が浅く、この陽気でも、浅黒い額にねっとりと汗を掻いている。
―――こいつが一番隊、新撰組組長だったとはな。
歳三は今でも、そのことはおくびにも出さない。責任があるからだ。実際、そんなはずはないとも思っている。幼い頃から知っている沖田が、病み衰えていく姿を認めたくはないからだ。それでもこの頃は、沖田と話していて衰弱がひどいということを誤魔化し切れなくなる局面があった。
「この一日、どこへ行ってたんですか」
「医者。それから、女遊び」
「女遊びねえ。それにしちゃ、ずいぶん、早いなあ。ちょんの間(当時の一番安い女郎宿)にしても早すぎやしませんか?」
沖田はそう言って、笑った。空咳をしているように思えた。沖田は胸に持病のある家系で、親も心臓をこじらせて亡くなっていた。保護者代わりの沖田の姉が、いつも京都の沖田の身を案じて手紙をくれていた。池田屋事件の前後から調子を崩し、今、労咳と診断されていなければ、歳三も取り越し苦労だと、一笑に付していたはずだった。
「女遊びったら、女遊びだ。それよりお前、立てるのか」
沖田は身を起こした。寝間着は寝汗でいぎたなく、乱れていた。
「大丈夫ですよ。実は土方さんがいない間、少し外歩いたんです」
「それほど元気がありゃ、水口藩邸の半井先生のところへ行けよ。見ての通り今の新撰組は、病人を置いとくような場所じゃねえぞ」
沖田は顔を曇らせて答えなかった。
「ま、さっきまでの軽口叩けるならまだ平気かも知れねえが」
医者へ行きたがらない総司の気持ちに、歳三はなんとなく察しはついていた。少し前の時分、沖田は紹介された水口藩邸の医師のもとに、足しげく通っていた。あまり様子がおかしいので詮索してみると、その医者の娘と懇意になっていたのだ。
そこで近藤は腹を割って、沖田のためにその医家に嫁とり話を持って行った。先方は、新撰組局長の手前はっきりとは言わなかったが、それでもさりげなく断ってきた。事実、二人の仲もそこまでではなかったらしく、関係は一気にきまずくなった。以来、沖田はその医者に通うのをやめるようになった。
今でも、そこの娘は時折沖田の話をする。薬をとりにきた歳三との間を持たすための話題づくりには違いなかったが、とにもかくにも、いつも、沖田の身を案じてはくれていた―――京女らしい細身で首の長い、白鷺のような面立ちの、優しげな娘だった。
「朝から、大騒ぎですね」
沖田は突然、話題を変えた。聞いたか、と歳三は応えた。
「知っていますよ。坂本竜馬が死んだ」
「下手人は、新撰組だと触れ回ってるやつがいるらしい。お前は心配ないだろうが、外出るときは、後ろに気をつけろよ」
「土方さんもね。勝手に動いちゃ危ないですよ」
二人は苦笑しあった。沖田の病は行く末、悪化して長い患いになる。時勢のことも考えれば、沖田はほどなく、ここにはいられなくなるだろう。最近はお互いにそんなことばかり考えている。武士になるために上洛して四年、思えば、短い夢だった。
「・・・・・で、お小夜さんは見つかったんですか」
出がけにふと、沖田が言った。
「くだらんことを言うな」
「言やしませんよ。近藤さんにもほかの誰にも」
沖田は天井を向いていた。
「ただ、一日こうしていると、どうにも人恋しくって」
空にいる誰かに話しかけるようだった。
「私にくらい、話したっていいじゃありませんか」
「さあな」
歳三は首を振った。別に答えてもよかったが、せん無いことは話す気がなかった。
「よく寝ろ。養生にはとにかく寝とけって、医者も言ってたぞ」
「夜には、私も巡回に出ますってば」
強がりを聞く気はなかった。歳三は振り返らずに戸障子を閉めた。しばらく、中から息が詰まるような空咳の息遣いが聞こえてきた。

実は夕暮れごろ、祇園から本能寺方面へ歩いていた。灰買いの芳蔵から聞いた、もう一つの話を噛み締めながら、歩いていた。それは、出来れば、歳三が誰にも話したくないうちわの内容についてのことだった。
―――深町小夜。
この名前だけを覚えている。名前の他はよく考えてみればほとんど知らない。今なら、二十歳を少し過ぎたほどの女だ。それ以外に役に立ちそうな情報はない。西日を浴びて、きらめく鬢のほつれ毛も、桔梗を染め抜いた淡い色の小袖の衣擦れの感触も、いくら鮮烈でも、捜索のためにはなんの客観的材料にもなりはしない。
「京都勤番の旗本衆の奥方で、どうも、そんな女はおりまへんな」
屯所でなく、わざわざ島原辺りまで呼び出した理由を勝手に悟ったのか、芳蔵は、口元に笑みを浮かべて言った。
「そもそも、武家の女はなんか理由があっても、めったに夜中表に出えしまへんやろ」
女は歯を黒く染めず、清げに整えた眉もそのままだった。もともと、武家の女房などとは思ってはいない。知っていて、歳三は関係を持っていた。少しく、期待を持ってもいた。
だが、ここ数日のうちに女は、歳三に別れの付文だけを残して消えた。夫は役目を終え、妻とともに江戸に引き上げたとそこにはあった。はなから信用してはいなかったが、別にそこまで詮索する気も、そのときは起きなかったはずだった。
(疑り深いのは性分だが、諦めが悪いってのはな・・・・・)
歳三の足は、自然と、最初に彼女と出会った場所に向いていく。

文久三年。歳三は日付まで、覚えている。そう、六月の四日のことだった。歳三は、話に聞く京の祇園祭を見物に出ていた。
そこから話はそれほど難しくない。山鉾を背に、見世棚を冷やかしていると、辻で不穏な目つきをした不逞浪人三人組に出くわしたまでのことだ。粗末な風体をした浪人たちが、女郎宿を冷やかす金もなく、盛り場に留まって何事か相談しあっているとしたら、金を持っていそうなひょうろく玉を強請るか、手ごろな女を攫うか以外に思案はない。
男たちの視線の先には、古風な桃割れ髪の若い娘がひとりで飴を吟味していた。大輪の朝顔を腰のあたりにあしらった浴衣から、伸びる手足が細長く、しなやかで色香が匂った。桜色の爪にほんのりと血の通った長い手指が、鼈甲色の飴をひとつかみ、ちょんとその唇につけた。
無作法に気づいたのか、娘は口元を押さえると、自分のはしたなさにはにかむようにして、こっそりと忍び笑いを漏らした。まだ小娘らしいうぶな仕草が、野卑な男たちの破壊願望を誘ったのに、彼女はもちろん気づいてはいない。
飴を買うと、娘は大通りの人ごみの中を北へ向かった。やはり、ひとりだった。供がいないことを確認しながら、男たちは目でうなずき合った。
歳三はその彼らの背後から、さらに様子をうかがっている。
この年の冬に、歳三は近藤たち江戸試衛館の仲間と上洛していた。人を斬るのに、もはやそれほどの恐怖心を持っていなかった。つい、この間も大阪で力士と乱闘になり、常人の倍以上も身幅の厚い関取を一撃で斬り捨てた。人を斬るのに、抵抗感すら薄れてきていた。その矢先だった。先走りする気持ちも起こらず、眠るような目で冷静に男たちの挙動を監視している。
盛り場を過ぎ、暗い十字路、男たちは散会した。ひとりは小路を先回りして逃げ道を塞ぎ、ひとりが反対側から追い込め、待っていたもうひとりが小路へ女を引きずり込む魂胆らしい。
闇にまぎれて、歳三も行動を開始した。三人が分かれたのを確認した後、歳三は回り道をした一人に続いた。娘はまだ、背後から迫ってくる足音が少し歩を早めたのに気づかず、小足に歩いていた。歳三は月明かりで、前を歩く男の姿を確かめた。
「おい」
歳三は声をかけた。自分が追跡者でもあり、獲物でもあると言う重大な事実を彼は失念していた。呑気そうな声に、反射的に振り返った。その瞬間、大またに足を踏み入れ、腰を沈めて、歳三は斬り下げた。狙いは肩口。湿って籠もった打撲音がした。刃は、目を見開いた男の鎖骨の辺りから腹の中に入って一瞬で見えなくなった。
刃は臍の下まで入っていた。歳三は、それを静かに引き抜いた。男はぶるっと痙攣したが、酔いつぶれて歩けなくなったと言うように、膝をついてゆっくりと前のめりに倒れた。男の顔は見なかった。その素性も、もちろん知らない。京都は恐ろしい街だと、歳三は苦笑した。懐紙で刃を拭い、次に備える。
待ち伏せ役の男から引き継ぎ、歳三は小路を追いかけた。娘の叫ぶ声がした。
足を速めると、恐怖に顔を引きつらせて、娘が走ってくるところだった。
「おい、待たんか」
子兎を追い詰めて、狐はことさら高声を上げる。弱者に攻め込むとき、強者は、より具体的な征服感をそこで確認したがるものだ。お陰で目鼻もよく分からない闇でも居場所はすぐに分かった。
十字路を過ぎた辺り、娘が通り過ぎる。そこでもうひとりが抱きすくめるか、反対側に追い込める手筈だった。合図をするため、男は視線をやった。
そこを、横殴りに斬りつけた。刃は頭蓋骨を強打した。丸くて硬いなにかを力任せに殴りつけたような、びいんとした反撥が、歳三の手に伝わってきた。男は両足だけが先走るような格好で、頭から背後に転倒した。
「大丈夫だ」
歳三は娘を抱きとめた。暴れる女を根気よく落ち着かせてやる。幸い、抵抗は少しで止んだ。ことさら、強いパニックを起こしてはいないようだった。
「京都守護職会津中将様御預新撰組」
歳三はつい一ヶ月ほど前に出来た肩書きを名乗って言った。
「不逞により、素性の分からぬ浪人者を斬り捨てた。娘さん、悪いがあんたが、証人になってくれ」
彼女は歳三の胸の中で小さく、肯いた。
「おい、命拾いしたな」
歳三はそこの暗がりに向かって言った。
「これで勘弁してやる。馬鹿なことをしでかした仲間たちの遺骸を片付けてやんな」

築地塀が、夕暮れの影を孕んで長く伸びている。あのとき男たちの血と脳漿を吸いこんだ足元は、無垢の砂地になっていた。もちろん、彼らがその後どうなったのかは、歳三の知るところではない。
歳三はあの後、女を明るいところまで送って行ってやることにした。この時点で、歳三は彼女に特別な興味を持ってはいなかった。ただ、礼を言った娘の言葉の響きが懐かしい江戸のもので妙に話が弾んだことを憶えているまでだ。
名は深町小夜。年は十九。京都浪人の娘らしい。貧乏御家人だった父が急逝した後、事情あって兄が致仕し、ともどもに京都に流れてきた。祇園祭の今夜は、普段窮屈な家を離れていたかったらしい。そこでぶらぶらと一人歩きし、浪人に狙われた。
「にしたって、娘の一人歩きは感心しねえ話だな。見栄えだって、決していいもんじゃねえぜ」
「ご配慮・・・・・案ずるには及びません」
と、彼女は小さな唇を綻ばせて、答えた。
「嫁入りしますので。ほどなくですが」
父の生前から決まっていた縁談があって、諸事情によって先延ばしにされていたが、間もなく嫁に行くらしい。相手は父親の同輩の御家人の息で、ちょうど将軍護衛の任務について京都に詰めていると言う。
「それに今日は、本当は一人のはずではありませんでしたし」
恐らく、その許嫁とやらにすっぽかされたのだろう。災難は、ふとした偶然に乗りかかってくるものだ。
「後日、改めてお礼にうかがいます」
小夜は厚く、礼をのべた。歳三は特に名前を名乗らず、その場はそこで別れたのだ。
塀を伝って歩き、歳三は、追憶を深めた。懐から、先ほど芳蔵から受け取った書状を取り出した。そこには、木屋町にある深町家について調べた結果が報告されていた。木屋町に、深町と言う江戸流れの浪人者の家族はもともと住んでいないと言う話だった。あのときから僅か四年で、女がひとり、煙のように消えた。その女が幻ではない証拠に、歳三は今はっきりと小夜と言う女に執着している自分を自覚していた。
無言のまま、小路を出る。足音を消して歩くつもりはなかった。だが出て行くと、手前の二人組みの武士がこれに気づかず、衝突しそうになり、危ういところではっとして身体を避けた。
(おっと)
幸いと、鞘当にはならなかった。もしそうなれば、抜かねばならない。必要を感じれば別だが、今はすすんで人を斬る気にはなれなかった。歳三は黙って、男たちの間を通り抜けた。
「待てい」
とは、言われなかった。
ただ二人は緊張した面持ちで、歳三のたたずまいを見守っていた。通り過ぎる一瞬、歳三はそのひとりと目を合わせた。
男は、黒い布で口元を隠していた。まだ若い、と歳三は思った。歳三の目をみた瞬間、思わず目を反らしたが、反射的にそうした自分を許せなく思ったのか、視線を険しくしてこちらをもう一度見返した。
今ひとりは知らないふりをしていたが、足をくつろげていつでも斬りあいに応じる姿勢をとっていた。こちらも自然な反応だろう。緊張で腰から下が強張っている覆面の男より、この男のほうが相手としてはよほど厄介そうにみえた。
知らぬ間に、歳三も鍔元に手をやっていた。経験しつくしたいくつかの場数が頭をよぎる。この二人が襲ってくるなら、振り向きざま使えそうな片方の抜き打ちを外しつつ、袈裟掛けに斬り下げ、あとの一人は焦らずに、駆け引きで圧倒できそうだった。
歳三の物腰からそれを感じたのか、彼らはやがて、通行人に溶けこむ努力をするために、視線をそれぞれ散らすことに腐心し始めた。
冬の日は短く、建物はすでに輪郭だけを残して影に沈んでいた。歳三は振り向かずに道を抜けていく。
辻で煮売りの屋台が出ていて、蛸か烏賊でも煮ているのか、磯臭い甘い香りが、寒気を溶かしてぷうんと流れてきていた。

十八日の夜、近藤は酒宴を設けた。主賓は伊東甲子太郎当人だ。三月、禁裏御陵衛士として活動を始めた伊東らは、東山高台寺月真院を借りて新撰組と正式な別居に踏み切ったからだ。
表向きは、孝明天皇護衛のためと称して新撰組の別部門を担っているようにしているが、その実態は勤皇雄藩と密なつながりを持つ討幕派武装集団である。土佐藩とのつながりもさることながら、彼らが薩摩藩特に大久保一蔵と早くから交流を持ち、新撰組の内部情報と引き換えに、活動費用の大半を出資してもらっていることも、早くから、局長近藤の知るところとなっていた。例えばこの年の三月の九州遊説も、費用は薩摩藩が負担していることが判明していた。
「いや、まさか、近藤先生のお招きに預かるとはねえ」
伊東は、護衛に斎藤一を連れてやってきた。黒縮緬の羽織を折り目正しく着込んでいる。色の白い目元の涼やかな男である。酒がすすむと、その肌が桜色にほんのりと赤らみ、項まで真っ赤になる。
「なんの。今は袂を分かったとは言え、伊東先生は皇国の志同じくする、我らが同志ではありませんか」
近藤は、からっと響く大声でしきりと笑い声を立てて、伊東に杯を注いでいる。伊東がまだ恐縮しつつ、杯を重ねているその躊躇を、じっくりと眺めているのだ。
「高台寺ではみんなびくびくしてますぜ、土方さん」
中座した斎藤は茶飲み話をするように、歳三に報告した。
「あすこじゃいつも、その議論だ。寝ている間に近藤さんかあんたが、隊士連中を率いて乗りこんできたときに、どうそいつを防ぐか、ってね」
「で、君はそれにどう答えた、斎藤君」
「俺が起きてる。心配するな、って一言言っただけですよ」
ぐいっと手酌でそそいだ杯を飲み干し、斎藤は言った。
「あんまりいじめないで下さいよ。あの人は近藤さんやあんたみたいに、肝の太い人じゃない」
二人の視線は、すでに酔いが回り始めている伊東を横目で見ている。近藤は、しきりに酒をそそいで自分も同じだけ呑んでいるようにみえるが、呑むほどに目が冴えて相手の様子をじっとうかがっている。
「さて、そろそろ出来上がってきたころじゃないですか」
斎藤が言った。酒を飲ませる。泥酔させて、その帰り道、路地裏に引きこんで斬る。これに似た手段をいくつ使ったか。
「どう思います」
この男も人殺しの目だ。斎藤はあごをしゃくった。
「この後、どうです」
斎藤は薄ら笑みを浮かべつつ―――二次会に行くような口調で、
「俺にも役を下さいよ、副長。伊東を殺すなら俺がやりますから」
「馬鹿言え。お前の役目はとうに終わりだ。仲間に怪しまれねえうちに、それとなく戻ってこいよ」
宵も過ぎたころ、伊東は小唄を歌いながら帰っていった。歳三は手はずを整え、帰っていく得物の姿を見送る。ふらふらと揺れる提灯の明かりが辻に消えたころ、近藤は眠気覚ましの渋茶を入れさせ、蝋燭明かりの中で、しきりに顔をしかめていた。

淡い月明かりが、軒下にまだ残っていた雪山の残骸を映し出している。泥と靴跡で変形したそれは、ねずみ色に縮こまって、霙になりかけていた。それを詰まらなそうに眺めていた青年がひとり、ため息をついて天を仰いでいた。
背後の土蔵から、音はほとんど漏れてこなくなった。この半刻というもの、咳払いひとつ、聞こえてはこない。彼は軽い舌打ちを漏らした。せっかく捕縛しても、みすみす殺してしまっては、元も子もなくなる。剄烈勇猛は、土佐人の美徳には違いないが、時と場合によるものだ。場に染まれないため息はそれをぼやいていた。
「陸奥、ここにいたのか」
背後から声がして、彼は顔を上げた。そこに同志の長岡謙吉が立っている。血の気が引いたのと月明かりで顔が死人のように青黒く見えた。
「中岡さんが死んだぞ」
長岡は、静かな声で言った。
「・・・・・お前らはこんなとき一体、なにをしとったんじゃ」
「坂本さんを殺した下手人を追ってた」
陸奥は、小さな声で応えた。
「おれには確証がある。下手人は新撰組のやつらだ」
「なんじゃ」
そのとき、背後の土蔵が開いて、関雄之助が顔を出した。
「誰か来よったんか」
「関、中岡さんが死んだぞ」
「・・・・・・・・・・・」
関は、火が消えたように無言になってうつむいた。小さな声で何事かつぶやいていた。嘘じゃ―――閉じた唇が震えていた。陸奥がその横で口を開いた。
「長岡さん、裏切り者をひとり、捕まえた。後はあの女だけだ」
「・・・・・・まだ、そんな話を信じてるのか」
長岡は呆れた様子で、ため息をつくと後は、とりあわない姿勢を見せ、
「陸奥、坂本さんだけじゃない、中岡さんも一緒にいた藤吉だって、みんな殺されたんだぞ。探索は、貸本屋の峰吉が情報を集めてくれている。今、おれたちがすべきなのは出来る限り早く、仲間たちに連絡をとることだ。京・大坂でも声をかけているが、まだ訃報が伝わらないままいる同志も多い。そいつらのことを、少しでもお前ら、考えたことがあるのか」
「・・・・・・・・・」
十歳年上の長岡の言葉に陸奥は言葉もなく、黙りこんだ。もちろん、彼に理があることが、分からなかったわけではない。密かに納得すらしていた。しかし、仇は理屈では討てない。元来、理屈屋の自分ですら、そのことは分かっているのだ。それなのになぜ。陸奥の沈黙には、無言の反抗が含まれていた。
「関、誰を捕まえたのか知らんが、殺したら元も子もないぞ。密偵は土佐藩邸で神山様が吟味を行うことになっているからな」
「そんなことは分かってますき」
「だったら、その密偵を介抱しておけ。いずれ、藩邸から捕吏が来る」
戸惑い顔のまま、関は暗い土蔵の中に引き返していった。
「なあ、陸奥。おれもここに来る間、新撰組の密偵に追われたよ」
長岡は二人になると、陸奥に言った。
「祇園の松本楼だ。藩政の福岡様と会ってきたんだが、やつらに付け狙われて裏道からここまで逃げてきた」
「・・・・・・・・・・」
「おれの見るところ、下手人は新撰組じゃあるまい。やつら、焦って慌ててるんだよ。おれたちがどんな報復に出るか、待ち構えていると言うよりは、恐れてる。もし仕掛けたのが奴らだとするなら、そんな間抜けな話はないだろう」
「長岡さんには、もう話したはずですが」
陸奥は紀州訛りで、静かに言った。
「おれは坂本さんが殺された晩、あの女を見たんだ」
「それも、君には言ったはずだ。海援隊にいたかったら、その女の話は、禁句にしておけ」
そのとき、中でどよめきが立った。
息を呑んだ長岡は、土蔵の戸を掴み開いた。
「いったいなにをやってる」
「・・・・・ああ、一足違いでしたわ」
「殺したのか」
「天誅じゃあ」
出てきた誰かが、嘲笑まじりに言った。戸口の溝まで血が流れこんできていた。長岡は目頭をてのひらで押さえて、憤りを隠せないように、大きな息をついた。
「遺骸でもいい。菰に包んで、とにかく藩邸まで運べ」
「・・・・・死んだんですか」
陸奥は聞いた。無言の長岡は腹立たしいと言うように、入り込もうとする陸奥を手で押しのけて去っていった。
首が落ちているのが、陸奥の位置からでは確認出来ない。土下座するような格好でうつぶせに膝をついた、着物の背中が見えた気がしただけだった。殺人を共有した同志たちは、瞳ばかりをぎらぎらさせていたずらに、うなずきあっている。懐紙に包んだ血刀を始末しに、奥から男が出てきた。
「洗い流して砂ァ、巻いといちくれ。そこ、滑るき」
その瞬間、血と死肉の匂いが陸奥の全身を包んだ。それは、直接死骸の体液を浴びせかけられたように、着物を通して肌全体に染みこんでいくような生暖かい臭いだった。陸奥の身体は生理的に拒否反応を示した。両腕が縮こまって、肩が強張った。身体が反応して、動きそうになかった。人斬りに立ち会うのは初めてだった。もちろん、人を殺したことなどあるはずもない。
「陽之助、ちょっとどけ」
まず血を流そうと井戸で水を汲んできた関が、脇を通ろうとしていた。冬だと言うのに、汗ばんだ関の瞳はぎらぎらとした興奮の余韻が宿って濡れ光っていた。突然、陸奥の中をどこか子供っぽい憤りが走りぬけた。
―――おれにも、人くらい斬れる。
女を知らない坊やのように扱われるのは、心外だった。
(そもそも仇は、おれがとろうと決めたんじゃねえか)
「陽之助、いずれおまんと世界の話がしたいき」
四条通室町の沢屋の陸奥の宿所に、十日ほど前の十一月七日、わざわざ竜馬が寄越してくれた手紙を、彼はこの二日間ずっと、懐の奥に深く仕舞い込んでいる。竜馬は同郷でもない紀州藩出身の陸奥に目をかけ、そこまで見込んだ上でこの手紙をくれたと、陸奥は自負している。その竜馬が死んだ。そして、陸奥はその下手人を知っている。ここまで突き止めている。後一歩だ。それなのに、仇を討たない理由がないはずがない。誰にも、陸奥のこの気持ちを挫くことは出来るはずがなかった。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
陸奥は、無言でその袂を押さえた。どこか底暗い、他の誰とも違う、身を焼くような憤りが、陸奥の心を去っては行かず、誰でもいい、それを今すぐぶつけたい想いを、彼はしばらく持て余していた。

(あの晩)
誰も信じてはくれないし、誰も気に留めはしなかった。
(おれだけが気づいた)
陸奥は思っている。
五つ半の鐘を、陸奥は確かに聞いた。急報を聞いて、陸奥は海援隊の同志の白峰駿馬と現場に向かっていた。この夜は、第一発見者のひとり菊屋峰吉が、各方面に夜通し連絡してまわっていた。在京していた陸奥たちは、比較的早く連絡を受けた。犯行から一刻もしないうちに二人は駆けつけた。
月が薄墨をつけた筆でなぞったように、夜空に滲んでいた。刺すような風吹く中を陸奥たちは我を忘れて走っていた。白い息が耳の横を流れ、幻のように、消えていく。
烏丸通を南下して、姉小路通りに差し掛かったときだった。ふいに履物の鼻緒が切れて、陸奥は立ち止まった。白峰はかなり先へ行ってから、立ち止まった。
「間に合わない、早くっ」
逸る気持ちを抑えながら、陸奥は鼻緒を直した。だが、手がかじかんで紐が結べない。
いらだちを隠せず、陸奥はため息をついてふと余所見をした。
犬の遠吠えひとつ聞こえない、深夜だ。なにもかも闇に溶けて、月明かりだけが頼りになる。そこを白いなにかが横切ったのが見えて、陸奥は思わず目を凝らした。
はじめは、物の怪かと思った。どこか足取り怪しく、ときによろめいて体勢を崩した。鼻緒を結び終えた陸奥は、立ち上がって歩み寄っていた。この闇で一間半―――足元もおぼつかない。その距離まで近づいて分かった。それは髪を振り乱した、裸足の女だったのだ。
年はまだ、若いように思えた。陸奥と同じ―――いや、それよりまだ若いかもしれない。
背はすらりとして、色は白く、裾からはみ出した太腿が闇に浮き上がってみえる。時折その太腿が、身体を支える重みに耐えかねて、がくりと曲がった。動きが不自由なのは、どうやら足に怪我を負っているためのようだ。不慮の暴行を受けて命からがら逃げ出してきたものか、帯もはだけ、女はその袂も右手で掻き合わせている。
陸奥の気配に気づいたのか、女は、はっとして顔を上げた。猫のように、闇夜に目が光った感じがした。女は明らかに警戒し、身体を緊張させたのだ。陸奥は反射的に腰のものに手をやった。
「陽之助さん、なにをやってるんですかっ!」
それを駆け寄ってきた白峰が、羽交い絞めにして抑えた。陸奥はその瞬間、はっとして己を省みた。
「行けっ、死にたくなきゃ、行けえっ、この、売女」
白峰は大声で女を追い払うと、陸奥を落ち着かせた。
「陽之助さん、こんなことしてる場合じゃないでしょうっ!」
「あ、ああ・・・・・・・」
自分でも理由が分からなく、夢から覚めた人間のように、陸奥はうなずいた。
「行きましょう。ともかく早く行かないと、間に合いません」
「・・・・・・・・・・」
陸奥は、茫然としながら、もう一度通りを振り返った。そこに、すでに女の姿はなかった。そのとき陸奥が漠然と感じた不吉な予感は、まもなく当たった。
竜馬は二人が駆けつけてきたときには、すでに息絶えていた。陸奥は切り傷だらけの竜馬の遺体をみた。六尺近いその身体は満身創痍だったが、こめかみから血を流した竜馬はなぜか、ちょっとひと寝入りしているとでも言うように、暢気に目を閉じていた。

新撰組の密偵の遺体の始末に参加せず、陸奥は沢屋の下宿にひとり、戻った。
押入れの布団の中に隠した、布の包みを取り出した。
今にして思えば、陸奥があのとき感じた違和感のような不吉な感覚は、坂本の死に目に会えなかったことを予期していたのではなかったのだ。陸奥はあの女の顔を知っていた。腰の刀に手をかけたのも、理由は説明できないが、陸奥の記憶の中のなにかを、あの女の顔が、刺激したのだ。
あの晩、女は本能寺方面を逃げていった。今日、陸奥はその道のりを虱潰しに探し、御池通りの藪の中から、あのとき感じた予感の、不吉なものの正体をついに発見した。
それは、一口の短刀である。鍔元まで血まみれだった。銘は無名、拵えは白木で出来ている。柄には強く押しつけたような、血まみれの指紋がこびりついていた。その指の形は明らかに、女性のもの。女は坂本を座らせ、腹に沿うようにして一気に突き上げたものと思われた。
(坂本さんはこめかみを撃たれた後、胸を下から突かれていた)
医術に多少心得のある陸奥の個人的な見解からすれば、致命傷は心臓を突き通した、駄目押しの一撃である。つまり、坂本殺害の本当の凶器は、陸奥が今手にしている短刀に違いないのだ。
女はなんらかの手段で近江屋を抜け出し、やり過ごして逃走のチャンスを待っていた。誰も知らない。信じるものもいない。陸奥だけが、真の実行犯を目撃したのだ。
(なんにしてもこの女の居所を突き止めなければ、坂本さんは、死んでも死に切れないはずだ)
女は新撰組と、なんらかの形で関わっている。これも徐々に、見えてきた。ほとんど話をしないうちに新撰組の密偵が、死んでしまったことは確かに残念なことだった。だが、土佐藩邸にみすみす引き渡すよりは、よかったのかもしれない。これは当然、土佐人ばかりの事件ではないのだ。
(それにあいつが死んだところで、まだ打つ手はある)
陸奥は暗がりの中でその短刀を改めた後、またそれを丁重に包み、元の場所に戻した。これが坂本の無念が陸奥だけに託された、唯一の証のように、彼には思えてならなかった。

その日の夜から、昼過ぎまで歳三は休むことが出来なかった。正午ごろ古漬け沢庵を齧りながら、湯漬けを食い、少しまどろんだ。
このごろは夢を見ることが多いのだ―――大抵は少年時代か、江戸へ薬の行商をしていたころの夢を、特によく見る。
その頃は、今ほどつき詰まった生き方をしていなかった。薬売りで馴染みになった女たちと適当に付き合い、売り上げた代金に手をつけたりして、ときに花魁を買って遊んだりした。近藤の経営する試衛館に顔を出せば、馴染みの仲間が集ってきて馬鹿ばかりしていた。みんな、無邪気な連中ばかりだった。
思えばこの時代の仲間はすでに、二人が命を落としている。勝手なことを言えば、二人が二人とも、殺す気はなかった。ただ、新撰組のためには死んでもらわざるを得なかった。ただ、それだけに過ぎない。
その日みた夢は、しかし、それほど昔の夢ではなかった。
小夜の夢だ。
あの小路の事件の後、小夜は屯所に顔を出すようになった。思えば、彼女は最後まで、ひとりで来た。最初に礼に現れたとき、小夜は自分で煮しめた関東風の昆布の巻物を持ってきていた。
沖田が知っているのは、主にその頃の小夜なのだろう。小夜は美しい娘だった。一見、控え目でひどく引っ込み思案に思えるが、比較的頻繁に屯所には顔を出していた。やむをえない事情で江戸を捨てて二年、関東の人間たちのたたずまいや空気が懐かしかったのだろうと、最初、歳三は思っていた。
それが男と女の関係になってしまったのは、どう言うきっかけからだったか。
憶えているのは、その頃折に触れて小夜の相談にぽつぽつと乗ってやっていたことだ。夢を見たのは、その時のことだった。兄夫婦と上手くいっていなかったり、許嫁との話が進まなかったり、彼女には誰にも話すことの出来ない悩みで心を暗くしていた。小夜はその悩みを具体的に上手く語れず歳三が察して、吐きださせてやるような関係だった。
ただ、同じ昆布の煮しめを作ってきてくれた日でも、西瓜や水蜜桃を井戸で冷やしたもので一日しのいでいた日でも、違う空気のたたずまいの日が、彼女には確かにあった。そんな日は、誰か気を患わせなくても済むような相手と、無為な日を送りたいものだ。歳三にもそれが分かったし、そういう日にどうしたらいいのかと言うことについては、まだ人生経験の浅い小夜より歳三の方が、よほどよく分かっていたのだ。
秋晴れが一転して日暮れ前のにわか雨に崩れたある日、三年坂の茶屋の座敷で、二人は自然とそういう関係になった。涼しげな夏椿の小袖を着た小夜が、雲が集まってきた桜の青葉の向こう側の空をみてふいに、
「雨」
つぶやいた。口元にあてた人差し指から手首にひと巻き、包帯が巻かれていた。歳三はその傷が、例えば日々の台所仕事でのちょっとした粗相の結果だと言う風に軽く考えていた。そのまま雨をしのいで座敷に入り、床を並べたとき、ようやく、その正体に気づいた。
十八の小夜は、生娘ではなかった。女に熟れた歳三は、すぐにそのことに気づいた。はっとした顔ひとつしなかったはずだった。小夜は、泣いていた。薄く開いた瞳に大粒の涙が溢れていた。すすり泣きは、静かに、やがて嗚咽になった。
わたし。
小さな唇が、なにか言葉を形作ろうとしてわななき、震えた。こみあげてくる感情を振り切ろうと、両手で顔を覆い、首を振った。歳三は椿の鬢づけ油の匂いが香るその髪をそっと撫でて、彼女が落ち着くのを根気よく、待った。話してくれることを期待したわけでは決してなかったが、ことを急ぐほど、歳三も若くはなかった。
わたし。
彼女はようやく言った。
「・・・・・・穢れています」
かすれて、搾り出したその声に、歳三は嘆息した。彼女がどういう経緯で純潔を失ったのか、それは分からない。彼女がその苦しみをひとりで、何年胸のうちに封じ込めているのかも。ただ、彼女が抱えている問題の正体が、すでに、誰にも解決できる問題ではないことを知り、なんだか無性に哀しく思えた。
包帯をほどくと、小夜の右手首の付け根から、二寸ほどの大きさで、白い肌に無惨な生傷が走っていた。その傷にいとおしそうに口づけて、彼は、出来る限り丁寧にその続きを始めた。
最初は同情に過ぎなかった。それは、素直に認める。
だがそのことが、まったくそのまま同情であるなら、小夜がいなくなった今、関係はひそかに自然消滅してもよかったはずだ。言葉に出来る理屈は常に単純すぎる結論を人に強いる。そもそも人は、理屈で生きていくものだ。だが、それを毎日味わって生きていこうとするのは、砂を噛むように虚しいことだ。
「副長」
廊下に出ようとすると、声をかけられた。そこに、二番隊組長の永倉新八がいた。副長と声をかけられることに、歳三は少し戸惑いの間を見せた。彼を試衛館以来の仲間としてみたのは、久しぶりのことだったからだ。
「平助が、死んだよ」
「聞いてるよ」
歳三は言った。朝まで事後処理をしていたのだ。すべて、把握していることは永倉も分かっているだろうと思っていた。
あの酒宴の後、伊東甲子太郎を始末させ、遺体を取りに来た高台寺の八名を、新撰組は油小路で待ち伏せて急襲した。一部は取り逃がしたが、ほぼその場で斬り捨てた。高台寺の伊東一派はこの事件で、一気に壊滅したのだ。油小路で始末した彼らの中には結成以来の同志も、混じっていた。試衛館の仲間だ。例えば八番隊を預かる藤堂平助がその代表的存在だった。
「やつは、逃げなかった」
永倉は挑むような目つきをしていた。歳三はあえて、とりあわずにこう言った。
「ああ、平助は立派に戦ったな」
歳三は当然、あの夜この男が藤堂平助のために道を開いてやったことを別の人間からの報告で知っていた。永倉が開けた道を、藤堂は逃げようとした。しかしそこで、別の隊士に斬りつけられ、致命傷を負った。死を覚悟して切り返してきた藤堂を、やむなく、永倉は一刀のもとに斬り捨てたのだ。
それを問題にするのなら、してくれ、そう永倉は思っている。だからこそ、挑発するように歳三に声をかけたのだ。耐え切れずに、永倉は口を開いた。
「なあ、トシさん。おれが思っていることを言ってもいいか」
なんのために、いつまでこんなことを続ける気だ。仲間同士殺し合いをして。永倉の訴えは分かっている。みんなで同じだけ、手を汚してきた。憎むべき敵の血だけではなく、志相容れなくなった仲間たちの血でも。いやむしろ、そちらの方が多いかもしれない。
「だめだ」
歳三は、言った。おれも、お前と同じことを思ってる。永倉の耳に囁いてやりたかった。だが出来はしなかった。それは苦しむなら、歳三は歳三で、永倉は永倉で苦しむべきことだからだ。
「みんな、仲間が死んでいく」
「ああ、次はおれか、お前かもな」
冷たい声で、歳三は言った。そして通り過ぎた。
このままでは虚しい。それは、知っていた。生きるための理屈は無味乾燥なものだ。そして単純なものだけに、目標を忘れたとしても毎日実行して生きていかなくてはならなくなるものなのだ。

芳蔵からのつなぎが、すでに入っていた。内容は十八日の朝には、投函があったものらしい。その日は、伊東甲子太郎の件で忙しく、自室に届いていた二通の書状を、歳三は見逃していた。仮眠をとった後、すぐに内容を確認した。
そこには、密偵・村山謙吉が嫌疑を受け、すでに土佐藩士たちに捕縛された旨が書かれていた。
坂本暗殺後の土佐の藩士たちの動きは、他にも配置した密偵たちが報告を出しているので、ある程度把握は出来ていたが、村山の露見と捕縛は意外だった。歳三は芳蔵を通じて逃げろとの指示を出していた。まさか捕まるとは、思ってはいなかった。
歳三は、屯所を出て北上した。左手には興正寺を過ぎ、西本願寺に至る。壬生村から、この寺の境内、そしてこの年の春には今の不動堂付近と、京都にいる間、歳三の新撰組は三度拠点を変えた。いつでも、新撰組は内部の波乱で揺れていたような気がする。
壬生村では、筆頭局長だった芹沢鴨を暗殺し、西本願寺に拠点を移す直前には、試衛館時代からの同志だった山南敬助を切腹させた。そして昨晩は、藤堂平助を殺した。これ以外にも処断した隊士は山ほどいて、歳三自身も記憶にないし、もはや思い出す気もなくなっていた。
本圀寺境内で、芳蔵とは会う手はずになっている。いつも屋内を指定してくる芳蔵にしては、珍しいと、歳三は思った。
芳蔵の寄越した書状によると、村山は捕縛前、坂本竜馬暗殺犯の探索に首を突っ込んでいたようだ。自ら火中に飛び込むような危ない真似はよせと警告してあったのに、今となっては、嘆息するほか仕様がない。
歳三自身の考えとしては、依然として竜馬暗殺の下手人はいずれにしても幕府関係者に違いない。その上ではっきりとさせておきたいのは、新撰組はそれには関わりはないと言うことだ。関係があるとするならば、竜馬とともに殺された中岡慎太郎と繋がり、新撰組の瓦解工作を狙った伊藤甲子太郎がそれであり、昨夜をもって伊東の問題が解決した今、新撰組がこの一件に必要以上に首を突っ込むことになんの利益も必然性もない。
村山の動きは、土佐側の出方を知る上でひとつの予防線にはなりえるだろうが、歳三個人の考え方としては、真犯人探しなど積極的にする必要はないし、あえてそれをすることで、新撰組の嫌疑を晴らそうなどと言うことも特に考えてはいなかった。
ただ、現場で密偵を続けている村山としては、事件を追うことに何らかの必要性を感じていたのかもしれない。そうでなければ、捕縛の危険を冒してまで、灰買いの芳蔵に、歳三への付文を預けたりはしないはずではある。
この寒気で本圀寺領に入っても、人通りは少ない。
歳三は、習慣的に両手に呼気をかけて暖め、指をほぐした。
約束の檜の大木の前に歩いていくと、歳三は人目を憚り、まず身体を隠して周囲を改める。こうした動作がすでに無意識になっていた。襲う側にも、襲われる側にも、歳三はなってきたからだ。そうしたもの特有の勘が働き、場をしのいだことも幾度かはある。だが、いつでも命拾いするとは限らない、と常に思わされる。だから、こうした場合は無条件に身体が動くのだ。
案の定、参拝客に混じって、不審な浪人体の集団を歳三はまもなく発見することが出来た。男たちは二人組でさりげなく行動しているように見えるが、さしたる用向きもなく、いつまでもその場を去らずに時間をつぶしていることが一目瞭然だった。さらに配置をみれば、彼らが主にどこを注意して張り込んでいるかは、自ずと分かってくる。
(こいつは、罠か)
村山が捕縛されたと聞いた時点で、十分に予想はついていたことだ。ただ、敵方が頭を使ったのは、あえて本当の緊急事態を知らせて、その上で鯛を釣ろうと考えたことだ。その点では、この浪人者たちを仕切っている人間は、なかなか段取りのいい切れ者とみていいだろう。歳三は人目を忍びながら、なるべく穏便にその場を離れようとした。
だが、正面の門を出て醒井通に出ようとしたとき、二人連れの一組と目が合った。
確か、小夜を探して出た小路で出逢っていた。男のひとりは、黒頭巾で顔を隠していた。額のにきびが、まだ無くならないような、あどけないその面構えを、歳三は覚えていた。当然、向こうもに違いない。判断は一呼吸、察知していた歳三が早かった。
(奴だ)
黒頭巾が、あっ、と声を上げそうになった。だが、そいつの足が揃っていることに、歳三はつけこんだ。一足飛びに踏み込むと、黒頭巾の左肩を、どん、と押した。男は短い悲鳴をあげてよろめき、背後のもうひとりとぶつかった。もう一人は、よそみをしていた。突然、肩にぶつかってきた相棒に怪訝な顔をしたが、反対側を通り抜けていった男の顔をみて、あっけにとられたような顔をした。
もうひとりは、少しは使えるとみていた。後々、追ってこられては厄介だった。瞬時に鯉口を切り、一旦、腰を沈めると、右側に跳躍するようにして、走り抜けた。刃は、左切り上げで浴びせかけたはずである。一撃必殺の手ごたえを、歳三は覚えてはいなかった。別にどこに当たろうとも、それは構わなかったのだ。
抜き身を下げたまま、歳三はそこを走り抜けた。一呼吸後れて悲鳴が上がり、見返る暇はなかったが、それを聞いて、ようやく人の集まる気配がした。どよめきが上がる。もちろん、その頃には歳三の姿はそこにはなかった。

「土方はんやないですか」
その日の夕暮れになって、歳三はようやく芳蔵の宿所を捜し当てた。自宅にはおらず、下鴨村の掘っ立て小屋である。顔なじみの夜鷹に、芳蔵は匿われていた。
「ほんまに、えらい目に合いましたわ」
「事情を説明しろ」
歳三は苦りきった顔で言った。みたところ、芳蔵は手傷を負っている。
「村山はんが殺されはった話はご存知どしたか」
「捕縛されたって話は、お前から聞いたはずだ」
「わてからて? 土方はん、てんご言うたらあきまへんわ」
芳蔵が話すところによると、村山は早い段階で目をつけられていたと言う。歳三と会った晩を境にさっそく連絡が取れなくなり、今朝方、土佐藩邸で処刑されたとの噂を聞いたそうだ。
「恐らくその付文は、わての名前を騙ったもんの仕業でしょうな」
「それで、お前はどうしてこんな目にあったんだ」
「それが突然、わけのわからん浪士連中に、うちに踏み込まれまして―――」
芳蔵が襲われたのは、村山が捕縛された情報を聞いた、その朝方らしい。歳三に急報しようと、芳蔵は早目に起きて準備をしていた。それが、どうやら明暗を分けた。
「命からがら逃げ出せたのはええんですが、今はどこにも、そいつらの目が張って、本業にも出られずにここに逃げ込んだんどす」
「・・・・・そいつは、やけに手回しのいいこった」
密偵から、歳三までたどり着いているとなると、これは厄介なことになる。本圀寺に現れた連中は、村山を拷問して屯所への連絡方法を聞きだしたのだろう。ただ、ここまで思い切った手段に出てくるとは、歳三にも予想外だった。向こうは当然、村山が新撰組の誰へ繋がっているかまでは知らなかったことは救いだった。だからこそ、歳三はどうにか囲みを抜けて、脱出することが出来たのだ。
「村山様は生前、その、近江屋の事件を追う組員の中に入ってはったそうです」
「それはもう聞いた。問題はなにがやつらの目的かだ」
だが、そんなことは命じた覚えはない。歳三がそう言うと、芳蔵は真剣な気配で、
「やつらは、一人、女を捜してます」
と、後ろの手文庫を探り、中からひとつ、油紙に包まれたなにかを取り出して歳三に握らせた。
「・・・・・・これが、村山様が最期に、土方はんに渡そうとしていたもんどす」
歳三はその包みを開いた。中をみて、声を上げそうになった。そこに、蜻蛉を模した鼈甲細工の簪が入っていた。見覚えがないはずがなかった。歳三はそれを掴み上げ、思わず握り締めていた。それは、彼自身が、小夜にくれてやったものだった。
「小夜」
歳三があげた声の事情を察して、芳蔵は、眉をひそめて肯いた。
「どうも話では、これが、坂本はんを殺した下手人の手がかりのひとつのようらしんですわ」
「・・・・・・・まさか」
信じられない、と言うように歳三はかすかに首を振った。
「で、どないしますか」
芳蔵はため息をつくと、歳三に静かな声で言った。
「わてはどの道、ほとぼりが醒めるまで商売上がったりや。土方はんさえよければ、伝手を総動員して、出来る限りその女子はんのこと、調べさせてもらいますけど、それでええでっしゃろか」
歳三に握り締められた簪は、蜻蛉が空を掻いて逃げ出そうとしているようにも見えた。

しばらく、なにが起こったのか、陸奥自身にも掴めなかった。視界に映ったのは、紺の羽織を着た武士が、目が合った瞬間、こちらへ駆けてきたことだけだった。
(何者なんだよ)
腰の刀に手もかけず、陸奥は茫然としていた。その男が、つい先達て建仁寺近くの小路で偶然に出くわしたあの武士の顔だと気づいたのは、自分の足が石段を離れてわけも分からずよろめいた、しばらく後のことだった。
背後の関にぶつかり、そのまま尻餅を突いた。この時点でようやく陸奥は必死で男の姿を探したが、そこにはすでに影も形もなく、逃げた方向すら把握出来なかった。
「畜生、あの野郎、いきなり抜きよった」
みると、関が抜き身を下げて立っていた。反対側の手で、左目の辺りを押さえている。
「陽之助、この糞馬鹿、お前なにやっちょるんじゃっ!」
血まみれの顔面を握り締めるようにしながら、関は絶叫している。抜き身をさげて、その場をうろうろと回って、すでに逃走したあの男の姿を探していた。
「行かんと、関。・・・・・・ここは人が集まる」
陸奥はあわてて立ち上がると、興奮している関を促して逃走した。
「あんの和郎、前にも会ったき。そうじゃ、お前とこの前、件の女ぁ捜しちょるときやったぞ」
陸奥自身、そのときのことは、鮮明に覚えている。
「あんときゃ、お前が止めたき、わしは斬りつけられんかったが」
あんとき、問答無用で殺しておけばよかったんじゃ。
流血で我を失っている関は、陸奥が治療する間、幾度も憤慨の声を上げた。
(まさか)
と、陸奥も思った。出くわしたとき、どこかで見覚えがあるくらいにしか、注意が働かなかった。馬脚を現したのは向こうなのに。相手は一人だ。あの時点でいくらでも対応が利いたはずだった。
(追跡者としての自覚が足りなかったわけだ)
思えば村山を拷問し、新撰組への連絡方法を聞き出したまではよかったが、誰があの場に現れるかまで確証を持たずにことを急いだのが、失敗につながったのだ。
読みが甘かったと言うほかないが、陸奥は当然、連絡役の誰かが来ると踏んでおり、それが当然、新撰組の隊士ではなく、工作員のひとりだと考えていた。さらにあわよくば、あの女自身かもしれないとも。また、現れるのが、新撰組で最悪の場合、待ち伏せをされている気配があったら、陸奥はすぐに撤収する手はずまでつけていた。
(そこまで段取りをとっておいてこのざまか)
陸奥は自身にかける言葉もなかった。なにしろ、こうしたことにはもともと不慣れなので、とっさの対応に勘が働かないのだ。使い物にならないにもほどがある。
「ともかく、あいつは確かに新撰組のやつじゃき。誰だかは知らんが、わしには見覚えがある」
関は、浅く斬った額の傷を巻いた包帯の上を拳で叩きながらおらびあげた。
「もはや、我慢ならんぞ。すぐにでも同志を集めて、やつらの宿所に闇討ちをかけちゃろうやないか」
「落ち着けよ、関」
陸奥はあわてて、言った。
「いっつもお前はそればかりじゃあ、陽之助」
関は吐き捨てるように、言い返した。
「下手人は新撰組じゃ。お前は悠長なこと言うちょるが、それだけ分かれば十分じゃろうが」
「おれたちはまだ、坂本さんに直接手を下したあの女を見つけてはおらん」
「言うとくぞ。そんなもん、こだわっちょるのはお前だけじゃき」
関は、鼻で笑って言った。
「ともかく、おれはやつらとやりあわんと気がすまんぜよ。もし、本当に、お前にやる気がないち言うなら、そいはそいで構わん。おれはおれでやるき、お前はもうええ」
「・・・・・・分かった、関、ともかく話を聞け」
(不甲斐ない限りだ、おれは・・・・・・坂本さん)
関を説得しながら、陸奥は思った。
(この関に期待してるだけではいかん。自分でなんとかせんと)
男として、悔しくてたまらなかった。あらゆる弁を使って関をなだめすかしながら、陸奥はおのれの拳を血が出るほどに握り締めていた。
(おれだけの力がいる。ひとりでもどうにか出来る力が)

「山崎君。監察方で、手の空いているものを貸してくれないか」
「ええ、今なら身体が空いているものもおりますので、それも構いませんが」
歳三の突然の要請に、さすがの山崎も少し呆気にとられた顔をしていた。
「急にどないしはったんです」
「例の近江屋の一件だよ」
と、歳三は本圀寺からの経緯を話した。
「村山が殺された」
山崎は、細い目を丸くして驚いた。
「・・・・・・それを知らんとは、まったく、私の不覚でした」
「そんなこた、どうでもいいんだ」
歳三はうるさげに手を払って言った。
「ある人間を探してもらいたい。村山が最期に、おれに連絡してきた。そいつを確保すれば、土佐の連中の動きを抑えられるぞ」
「分かりました。その仕事、ぜひ私にお任せください。全力で動きます」
「頼んだ。山崎君、君には期待しているぞ」
歳三はすぐに人員の手配を指示した。
小夜は、坂本竜馬が殺された一件に関わっている。そしてもっとひどいことに、当夜現場にいた可能性がある。
「誰がそう言っているかは知りまへん」
芳蔵は言っていた。
「でもあの晩、近江屋の屋根伝いに降りて逃げていく女の姿を見たものがおるそうだす。なんでも、御池通からその女は本能寺方面に消えたとか」
その女が、あの小夜である可能性が高い。村山はその女の正体を探っていた。そして、そのために捕縛されて消されたのだ。
ここからは歳三の推測だ。
仮定として、小夜らしき女があの晩現場にいたと言うことは、彼女は竜馬と相当のつながりがある人間であると考えていいだろう。探している海援隊の連中がその素性を知らない、と言うなら、その女は、坂本関連で薩摩藩か長州藩とつながりがある可能性が高い。
(・・・・・・まずは、その女の足跡を追って、それが小夜かどうか突き止めることだ)
もしその女が小夜なら、真実はそのときに聞けば、済む話だ。
薩摩か、長州か。いずれにしても、これらの藩が関わっているのなら、もう市中にはいない可能性もあったが、歳三は出来る限り、やってみることにした。
「どないします」
「ともかく、その女の素性を突き止めることだ。洗うなら最初は、坂本自身の身辺からがいいだろう。手持ちの情報も含めて、掻き集めてくれ」
歳三は俄然、薩摩藩の動向に注目した。
死んだ坂本との関連でまず外せないのが、薩摩藩だ。文久二年の脱藩後、行き場のなかった坂本は長州下関の白石正一郎に薩摩入国の周旋を頼む。このときは入国かなわなかったが、勝海舟に弟子入りして海事に関わるようになって以降も、坂本は薩摩との結びつきを強くしており、かつて寺田屋で幕府の捕り方に襲撃を受け、重傷を負った事件後にも、坂本は妻・おりょうとともに鹿児島に脱し、新婚旅行をかねた療養生活を楽しんでいる。
前年の薩長同盟締結の折も、島津公の直命を受けて交渉に動いており、公私共に坂本は長州よりは薩摩との関係がもともと深かった。
(もし彼女が、今の坂本の居場所を知れるほどの重要人物なら、薩摩藩にその足跡が必ず残っているはずだ)
歳三は各藩邸に派遣している密偵にも、情報の収集を命じたが、一方で、藩を通して借り受けている借家も捜索の対象に入れた。
(なにしろ、相手は男じゃない。女だ)
歳三はこう、あたりをつけていた。
(藩邸に匿えば、口さがないものたちの格好の噂になる)
特に色事の話は、下働きの下女から、庭掃除の中間まで外部に漏れる口は封じきれまい。なにしろ新撰組では、坂本竜馬の動向に関しては、この事件が起こる前から大分情報を収集しているが、小夜らしき女が捜査線上に現れたためしがないのだ。
すぐに京都市中にある借家・長屋の情報が集められた。歳三は、市内の地図と照合しながら、各家各家の吟味を行っていく。
「おい、ここはなんだ」
やがて歳三は洛北蓮台寺村に位置する、一軒の屋敷に眼を留めた。
「どこです」
「この一軒屋だ」
山崎によると、そこは個人の持ち物になっているが、ある商家を通じて薩摩藩が隠れ家にしたものだと言う話だった。
「ここだけ位置が離れすぎている。しかも、ずっと人が住んでいる形跡がないそうだな」
さらに借受人の名義をみて、歳三は確信を強めた。
「才谷楳太郎」
言うまでもなく、これは坂本竜馬が使用した変名のひとつだった。
「ここだ」
歳三は言うと、地図を掴んで太刀を佩くと、もう立ち上がって、屯所をひとりで出て行ってしまった。

「陸奥君はいるか」
突然、自室の襖が開き、陸奥は身体をすくめた。戸口に童顔の中年男が立っていた。陸援隊副長格の田中顕助―――事件後、隊長代理として、在京の隊士たちを取りまとめていた。
「なにか」
「どこに、行くんだい」
視線を落として、田中は言った。陸奥は膝をついてしゃがんでおり手に長刀を持っていた。どう見ても、これから出かける支度をしている最中だった。
「少しその辺です」
陸奥は言ってから、早足で、
「関と息抜きに島原へ出ようと、約束が」
と、付け足した。そのまま田中の横をすり抜けようとした。
「・・・・・・いや、それほど時間はとらせんよ」
田中は言葉だけは鷹揚に言い、だがそれとは裏腹にどっかりとそこに座り込んでしまった。その点で、向こうのが上手なのは認めざるを得なかった。陸奥は内心の舌打ちをかみ殺した。下手な嘘をついて、その場をやり過ごそうと思ったのが、裏目に出たような形になったからだ。
「・・・・・さて、どうしたものかね」
田中はゆっくりした口調で言い、軽くのびをした。戸口に立ったまま、陸奥はいらだちを露わにして、訴えた。
「約束があるんです。用件なら手早く」
「用件ならあるよ。・・・・・・困ったもんだが」
「早く、話してください」
「質問したいことがある。それで、来た。・・・・・・今、君はなにを追ってる?」
「なにって」
陸奥は失笑して、言った。
「決まってるじゃないですか。皆と同じです。坂本さんを殺した下手人を追ってるんですよ」
「本圀寺の領内で君らは騒ぎを起こしたね」
「・・・・・・・・・」
陸奥は黙ったまま、肯定も否定もしないことにした。
「確かに、坂本さんを殺した下手人を、私たちは全力で追っている。今、岩崎君が海援隊本部に急報しに長崎へ発ったが、出来れば、彼らが到着する前に、一応の片はつけておきたい。それは、私も認めるよ」
「・・・・・だから、下手人は新撰組ですよ」
思ってもいないことを、陸奥はうそぶいた。
「本当にそう考えてくれているなら、いいんだけどね」
「どう言う意味です」
「・・・・・・・・・・」
田中は、暗い顔をして黙りこんだ。いつもは眠たそうな眼を開いて、呆れたように陸奥の顔を見上げた。
「・・・・・長岡さんから、なにか聞いたのだとしたら、それはただの噂です」
陸奥は努めて明るい声を出して言った。
白々しいのは、百も承知だった。
「おれだって、坂本さんの敵をとりたいから毎日動いている。田中さんが許可してくれれば、今夜にでも新撰組の屯所を焼き討ちしてやりますよ」
「文官あがりの君に、そんな度胸があるのかね」
田中は鼻白んで、言った。安い挑発だ。陸奥は鼻を鳴らした。これ程度の嘲りや揶揄なら、仲間内で幾度か受けてきた。自分にあるのは確かに、商才ばかりかもしれない。だが、そうした才能すら、坂本から認めてもらえなかった有象無象がなにを唸ったところで、今の陸奥には痛くも痒くもないと思うようになっていた。
(面目や立場を失いたくないなら、縄張りを主張する前に努力を重ねることだ)
おれは、努力している。陸奥は自負していた。しかも、才能がある上に努力をしているのだ。
「陸奥君」
背後で、田中が言った。
「警告しておく。君はまだ若い。痛い目に合わないうちに、今、していることを、やめることだ」
別に返す言葉もない。陸奥は振り返らずに外に出た。
どうせどの道、しばらくは、ここへは戻ってくる予定などなかったのだ。

 陸奥は、そのまま市外へ出た。行き先は鳥辺山山麓―――足を運ぶのは初めてだった。だが、物の本でその場所が例えば、古来、京都周辺で出た疫病や餓死者の遺体をとりまとめて焼いた悪所であることくらいはうすうす知ってはいた。
 (それにしても、さっき田中さんに見つからなくて、本当によかった)
 ある程度まで来ると、陸奥は腹に隠していた木箱の包みを解き、その中身を取り出した。
拳銃だ。ようやく一丁だけ、手に入った。もちろん、坂本竜馬が長州藩の桂小五郎から送られた六連発のものとは違い、雷管つきの元込めで弾丸は一発しか、出ない。堺の鍛冶屋が製造したもので、一撃必中だけに不安は大きいが、口径が大きいために押し出しが強そうには見えた。
銃を携えると、少しだけ不安が解消した。試射もしていない、そもそも、弾丸が出るかどうかすら信用しがたいが、この小道具をどれだけ有効利用出来るかは、自分の肚次第だと思うと、気がひきしまった。覚悟すると言うことは、腕に自信のあるものだけの特権では決してないのだ。
陸奥は弾丸と銃身を取り出すと、それぞれ袋に入れて仕舞った。そして、空になった箱を川原の葦藪の中に投げ込んだ。
(張るものが不足なら、この命も張ってやろうじゃないか)
なにしろ、これが出来るのはおれだけなのだ。陸奥は、大きく、ため息をついた。

場所も初めてなら、今から会いに行く人物にも陸奥は、面識はない。誰かの紹介で知遇を得たわけでもない。伝手を使って、噂を集めただけのことだ。
浜岡元五郎。元・直参旗本、関東取締出役。
関八州を股にかけた、優秀な捜査官だった。浜岡に狙われれば、関東どこに逃げたとしても、必ず捕まると言われた。
二つ名は、鬼ゴロ。
その名前が示すとおり、阿漕なしのぎをすることでも、有名だった。当時、賄賂を取引することは別に悪ではない。役所によって、ときに役人同士の「付け届け」は制度化すらされていた。ただ、それは過剰ではない範囲内に限ったところで、おめこぼしがあっただけのことに過ぎない。
その中で浜岡は必要以上にやりすぎていた。例えば、浜岡が入国すると言う噂が流れるだけで盛り場から人がいなくなると言うほどの騒ぎになり、各地所を仕切る親分衆は戦々恐々としなくてはならなかった程だったと言えば、どれほどひどいか想像がつく。
あるとき、耐え切れなくなった関東のいくつかの州の親分衆が結託して、浜岡を陥れることにした。さまざまな手を使い、浜岡を役から追い落とすことを彼らは考えたが、浜岡は巧みにこれをかわしてついにかからず、そのうち業を煮やしたある一家が先走って浜岡の身柄を攫って、直接の報復を決行した。
無論、賢いやり方とは言えなかった。だがその一家の親分は花のように育てた娘を食い物にされた挙げ句、世間に顔向けできないような汚名を着せられて殺されており、浜岡の失脚程度では、到底満足できないほどの恨みを抱いていた。
拉致は成功し、浜岡は一ヶ月間、行方不明になった。その間に彼は凄惨な拷問を加えられ、己のしてきた罪過を悔やむための、必要にして十分な時間を与えられたはずだった。世間の噂でも浜岡はとっくに昔に八つ裂きにされており、今頃畑の肥料にでもなっていて、そのことを誰もが望んだし、そうした結末を想像することで溜飲を下げるものも少なくなかった。
ただこうした想像は、常人の感性の範囲内に限ってのことを言うだけで、浜岡のそれは尋常のものとはかなり違っていた。
監禁一ヶ月にして、浜岡は逃走した。そしてその足で、近所の番屋に駆け込んで自力で保護を受けたのだ。
発見されたとき、浜岡は二度と人界に出入りできるような姿ではなかったと言われる。顔を焼かれ、煮えたぎった菜種油を口から流しこまれたせいで口もろくに利けず、手足の指の数は合計して半分ほどになり、立ち上がることすら困難だった。誰もが、浜岡が還ってきたことに驚嘆したが、廃人同様になって二度と娑婆に顔を出すことはないと安堵していた。だが、半年して彼は不屈の執念で身体を直し、役に復帰した。
それからの浜岡の暴挙は、鬼ゴロなどという生やさしいものではなかった。捜査によって、浜岡の拉致監禁事件に関わったものは、女子供でも容赦なく挙げられ、浜岡の権限でごみくずのように殺された。他に少しでも関係があるものは、適当な罪を着せられてしょっぴかれたり、捜査中の事故にみせかけて殺されたりした。
その凄まじさは、閻魔の異名を持つ主犯格の親分が、獄中で精神に異常を来たして自分の舌を噛み切って自殺したと言う噂からもうかがえた。
事件から一年で、浜岡は関係者全員に地獄の復讐を終えたのだ。
ただ、さすがにこの一件で、今回ばかりは浜岡の異常性に、彼の同僚たちも嫌気がさしたらしい。事件の終わりを見計らうように彼らは浜岡が廻った各地からあげられてきた無数の嘆願書を添えると、連名で書状を作成して、浜岡の御役御免を申し出たのだ。まもなく、訴えが取り上げられ、浜岡は役を降ろされると、甲府勤番を命じられることになった。
実際は、浜岡の非違を訴える声からすれば、もっと重い罪科が課せられてしかるべきだったが、誰もが浜岡を恐れて、この処置を妥当とした。公儀としても当時「山流し」と呼ばれたこの処置なら、身も心も鬼畜に堕した浜岡を衆目に晒さずに済む。
そう思った矢先、浜岡は甲府へ出立する直前失踪した。公儀は、鬼畜を檻に閉じ込めておくことが出来なかったのだ。すなわち、完全に自由になった鬼が野に放たれた――――次の三ヶ月で関係者全員が危惧していたすべての事態が起きた。浜岡を左遷した上役が絞殺され、嘆願書に署名した同僚数名が残らず殺害された。品川で殺された最初のひとりが肥溜めの中から見つかると、逃走経路に遺体だけを残して、浜岡は捕縛の手を巧みに逃れながら、関西へ足を向けた。
その浜岡が、文久二年からは、京都の鳥辺山の隠れ家にずっと潜伏していると言う情報を陸奥は握っていた。陸奥がそれを知っているのは、実は土佐藩が人斬り以蔵の捕縛のために、極秘裏に彼を雇ったことを聞いていたためだ。
土佐藩では藩政・吉田東洋の暗殺事件をはじめ、早くから国内外で暗躍していた土佐勤皇党の捕縛を進めていた。土佐勤皇党には、坂本竜馬も結成時名前を連ねており、陸奥も当時は詳しく情報を収集したものだ。勤皇党党首・武市半平太の犬で人斬りの異名をもつ岡田以蔵を確保することは、彼らが行っていたテロ活動の全容を解明する上で重要であり、土佐藩は京都でその行方を追っていた。
ところがやがて、
「無宿人鉄蔵」
を称して、潜伏していた岡田が、文久三年、京都番所に捕縛されたとき、土佐藩は公儀からの照会に応じることは出来なかった。勤皇党のためばかりではなく、金次第で誰でも斬った岡田の存在を、土佐藩としては公式に認めるわけにはいかなかったのだ。藩は保釈後、改めて藩内の政治犯として岡田を追捕するはずだった。
ここで、ひと悶着が起きた。
無宿人鉄蔵の名で保釈された岡田が、実は藩吏の一瞬の隙をついて逃走していたのである。暗殺稼業で慣れ親しんだ京都だけに土地勘もあり、名無しの岡田は完全にその姿を消した。藩としては、どのような手段を用いても、岡田を見つけねばならなくなった。
そこでただちに、非常手段が講じられた。
浜岡は依頼されてたった三日足らずで、岡田を捕まえたと言う。異常なほど職務に従事した越境捜査官の腕は、錆びついてはいなかった。岡田を移送後、藩は浜岡に内々に莫大な謝礼金を提示したと言われているが、真相は定かではない。仕官を希望して法外な禄を要求したとか、しかるべき身分の女性との婚姻を条件に出したとか、いくつかのもっともらしい噂が流れているが、いずれにしても陸奥にとって重要なことは、結果的に浜岡は土佐藩にも愛想をつかされたと言うことである。
実は坂本と、浜岡は接触を取りたがっていた。土佐藩へのとりなしか、それとも別の要求があったのか、それは分からない。ただ陸奥は、坂本から浜岡のことを詳しく聞いていた。
「あいつはどうも虫が好かんき、ともかく打っちゃっとけ」
無論、人を選り好みしない坂本が珍しく、顔をしかめてそれだけしか言わなかったことも、当然、知っていた。
浜岡が潜伏していると言う、山際の庵に来たとき、陸奥は、懐の方の武器を思わず確かめた。鉄で出来ているそれは、重く、まるで他人顔をしているかのように、まだ、肌に冷たかった。
浜岡が住み着いているのは、猟師小屋のような一軒家だった。下を沢が流れているのか、かさかさと風に揺れる篠藪の下の闇からは、厳しい冷気が上がってきている。
「御免」
茣蓙一枚が掛けられた入り口をくぐると、濃い味噌で煮込んだ獣肉の濁った臭気が蒸れて、陸奥の鼻を突いた。
土間からは板の間がひとつ、畳も敷いてはいない。反対側の木戸は半分だけ開いていた。その向こうは、栗林になっており、生ごみを埋めた跡か、塚山が築かれている。一目で、浜岡が留守なのは分かった。だが、遠くへは行っていないことも少し考えれば、推測できた。
囲炉裏に下ろされた鉄鍋の木蓋が、かたかたと振動している。そう遠くへは行っていないはずだ。陸奥は上がりこむと、鍋をとって傍へ引き上げた。そろそろ、火から引き上げないと、ふきこぼれてしまうのだ。
「おい、それ食うのか」
陸奥は鍋のつるを持ったまま、動きを停めた。
声は背後からしている。軋るような嗄れ声だった。肩越しに陸奥は振り返る。
「食うのかと聞いたんだ」
そこに袖のほつれた野良着をまとった男が立っていた。目線は五尺七寸の陸奥より少しだけ低く、陸奥ではなく、陸奥の持った鍋に目を落としていた。
「・・・・・・美味そうだろ、犬だよ。この辺は野良が多いんだよ。牡丹(猪)より安くってよ、ともかく腹に溜まるんだ」
「犬?」
陸奥は視線を落とした。
鍋は白煙を吐いて、ぐつぐつと蓋を押し上げている。
「喰うか?」
「いや、これは違う」
 男は怪訝そうに腕を組んだまま、陸奥を睨みあげた。陸奥は事情を説明した。別に鍋がふきこぼれるのを放っておけなかっただけなのだが、それを筋道立てて説明すると言うのは、我ながら滑稽なものだと、陸奥は思った。相手も同感だったらしく、腕を組んだまま、唇を歪めて、失笑して見せた。
「妙な野郎だな、おい―――おれの面が怖くねえのか」
無言で陸奥は肯いた。なんとか笑みを引き攣らすことだけは避けられそうだった。
男の顔はまさに苦痛と言う言葉をそのまま形にしたようだった。
引きつらせた唇は右にやや押し曲がって、その先は赤いミミズが張ったような火傷のひっつりに繋がっている。顔半分は火傷で溶けたようになっていた。なるほど、噂どおりの面相だ。四十年配と聞いていたが、鬢の縮れ毛が白く油気が抜け、年齢は不詳というのが、陸奥の正直なその印象だった。
「で? どこのどいつでなんの用事だ」
「海援隊の陸奥陽之助です。元・関東取締出役、浜岡元五郎とは、あなたのことですね」
「さあな」
「坂本さんから、あなたのことは聞いています」
「ほう」
浜岡は気のない声で言ったが、もちろん、興味がないはずはなかった。
「なんだよ。やつから、俺に遺言でも預かってきたのか?」
「残念ながら、違います。だが、あなたに仕事を持ってきました」
「なら、帰れ。坂本が死んだって言うなら、こっちはあんたらに別に用事はないんだ」
浜岡は、うるさそうに手を振った。陸奥は別にひるまなかった。ゆっくりと炉辺に鍋を置き、二刀を差しなおす仕草をした。
「それなら言うとおりにしましょう。だが、残念です。私でも、十分あなたの希望に添えるでしょうし、もともと坂本さんもあなたの処遇は私に一任するように生前申しておりましたから」
「若造、俺は、ただ働きはごめんだと言ったんだ」
案の定、駆け込むように、浜岡は言い返してきた。
「後のお前の言葉しだいってことじゃねえのか、これは」
「ご期待には添えると思います。恐らく、公儀よりは」
「掛けろよ」
しばらく考えた後、浜岡はあごをしゃくった。さすが、利に聡い人間は、話が早い。陸奥は悠々と、差料を抜いて板の間に座った。浜岡は毛脛を剥きだして、差し向かいに座り込んでいる。
「で、海援隊のやつがいったい何の用事だ」
欠け茶碗に焼酎をそそぎ、浜岡は視線を上げた。
「人を探してもらいたい。それも、出来る限り早くです」
「誰だ」
「先日、近江屋で坂本を殺した下手人です」
「それなら、公儀のうちの誰かだろう」
浜岡は茶碗酒を呷り、唇の端から滴を垂らしながら、だみ声を漏らした。
「新撰組じゃねえぜ。やつらは、出自も定かでねえ野良犬どもだからな。金か、飼い主に褒められるようなことでなかったら、やらねえはずだ。今度の坂本の一件ばかりは生憎そのどちらにもならねえから違えだろう。いずれにしても、答えは分かりきってる。それに公儀が相手じゃ、どの道おれの出る幕じゃねえな」
「相手は公儀かもしれないが、別に侍じゃない」
陸奥は懐から、例の品を取り出して浜岡に手渡した。
「なんだ、こりゃ」
浜岡はそれを指でつまみあげて、陸奥を睨みあげた。
「探してもらいたいのは、女です。これはそれについて、私が知る限りのことをしたためたもの」
「女ぁ?」
怪訝そうに眉を吊り上げて、浜岡は中身に目を通し始めた。陸奥はその間中、浜岡の様子をうかがっていた。浜岡はなにも言わず、ほぼ四半刻で読んだ内容を理解し、頭に入れたようだ。
「こいつは、何者だ?」
やがて浜岡は、顔を上げて聞いた。
「それを、これからあなたが調べるんです」
陸奥はつとめて感情を表に出さないようにしながら、答えた。
「無茶言うなよ」
浜岡は鼻で笑って、肩をすくめた。
「あまり、おれを買い被らねえこった」
「あんたの手際が必要だから、言ってるんだ」
陸奥は強く出てみた。思わず、懐の銃を意識した。
「あんたなら、探せる。だから頼むんだ。やらないのは、自由です。ただ、そうなると少なくとも、あんたは明日からここに住めなくなるかもしれませんよ」
「若造、おれが今までどうやって逃げてきたと思う」
浜岡は、失笑して言った。
「脅すなら、相手を見るこった」
後、一歩。陸奥は危機感を告げる胸を押さえながら、言った。
「脅しに来たんじゃない、交渉をしに来たんです。勘違いは心外だ。条件は提示した。こちらの要望も告げた。問題は、あんたがその話じゃ乗らないって言ってること、ただ一点です」
「おい・・・・・・誰がやらねえって言ったんだ」
浜岡は黄色く濁った目で、陸奥を下から上に睨みつけた。
「じゃあ、後はあんたの返事しだいだ、ってことじゃないですか、これは」
次こそ、最後の一手だ。陸奥はなるべく優雅に微笑んでみせた。あんたは、おれの手の中だと言う風に。
「・・・・・・・・・」
ややあって、浜岡は潮時を感じて、ついに降りた。たぶん、脅しが効けば、もう少し噛みついてきた要求を最大公約数にしたものを、負け惜しみのように吐き捨てただけだった。
「おれを逃がすって、約束だけは守ってもらうからな」
「坂本さんがそうであったように、私も約束は破りません」
「・・・・・・で?」
大仰なため息をついて、浜岡は視線を下げた。酒を煽りながら、もう一度顔を上げて、
「この女・・・・・・ソコワレだって? なんだ、ソコワレって?」
「・・・・・・・さあね」
陸奥は首を傾げてみせた。
「ともかく、それを調べるのが、あんたの仕事です」

「いや、ここ一年ほどは、誰もいてしまへん」
すすけた手ぬぐいを被った老婆は、にべもなく首を振った。眠っているような糸目がつんと斜めに突っ張って、京者に珍しく、一見偏屈で口さがない印象が薄かった。
才谷名義で、坂本が借りたと思われる蓮台寺村の邸宅を歳三は訪れた。それは、小さな川沿いの隠宅のようなたたずまいだった。人里を離れて沢に沿うと、雑木林の中、矢来の竹で組んである垣根に椿が植えられており、屋根は藁葺きで大きく、専用の古井戸まで掘られていた。
話によると、もともとは名の知れた町医者が隠遁していた。その医者が病死後、大坂で蘭方を学ぶ息が引き取る予定であったが、近年のコレラ蔓延の災禍に留学中の江戸で巻き込まれて妻子ともどもあえなく死に絶え、引き取り手がないところを遠縁の大坂商人を介して才谷が借り受けた。
ちなみに寂れ家に、本格的に人手が入ったのは、元治元年ころ―――
「えらい若い夫婦もんが入らはったな、と思ってみてましたけど、旦那さんはおらんで、なんや女子はんがひとり、寂しく住んではりましたなあ」
志士としての坂本の活動を探ってみると分かるが、彼は生涯を通じて半年以上、京都に滞在したことはなかった。坂本はここに女を隠すようにして、住まわせていたようだ。
歳三はこの世話人をしていたこの媼をはじめ、坂本の隠宅に関しての情報を断片的に、出来る限り集めてみた。判明した事実は、次の三点である。
一つ―――この隠宅に住んでいたのは、小夜と言う名前の女に間違いないこと。
「子どもが好きで、大人しい方でしたよ」
証言してくれたのは、実際に小夜と話した、近所の女房連。
「江戸から流れてきはった人みたいどしたけど、こっちへ来て大分ひどい生活もしてはったようなこと言うてはりましたなぁ。でもさすがにお武家はんの娘で、挨拶なんかも、しっかりしてはりましたよ。身の上聞いたら、縁のあるもんもみんなおらんようになってしまったて・・・・・・たぶん、コロリ(コレラ・俗名)のせいやろな、お家もなんもかんもだめになって、こっち来たて聞きましたけど」
連れ合い風に装っていた男は、風貌からしても坂本に間違いないが、彼女はその関係を夫婦と言うよりは、遠縁の世話人だと言う風に紹介していた。ちなみに坂本は大坂の廻船問屋の若旦那を称していたようだ。
二つ―――隠宅の小夜の様子。
「話によると、なんや胸のわずらいがあって、療養するためにこっちに来てるて、聞いてましたけどな」
これは、坂本の手配で隠宅に必要な物資を運ぶ手伝いをしていた、ある下男の証言。
「時折、中からうめき声とか叫び声とかがするんですわ」
「それはどんなだい」
「どんなて言われても、どうとも言えしまへん」
下男は怖気を震ったように背を丸めて、首を傾げた。
「でも、なんとも言えない、ほんまに気味の悪い声なんどすわ。うぅー・・・・うぅー・・・・て、病気の犬がうなるような。男はんが泊まりにきた晩は、どうにかこうにか静まらはって、なんとかなりようもあるんやけど、ひとりで寝てはるときはもう、一晩中、手に負えんくらい、こう身体掻きむしって転げまわって」
その隠宅は人里離れているために、近所に知られることはなかったのだが、下男はそのことを話すと、口止め料が支給され、後期にはそうした晩に小夜に気付け薬を飲ませる世話まで請け負ったことがあったと言う。
「あれは物憑きか、気狂いですわ、間違いなく」
人里離れた隠宅に若い女がひとり、最初はおいしい思いが出来ると思っていたが、とんでもない、と下男は、その場面を思い出すように目を剥いて、もう一度肩を震わせた。
これに関しては補足情報がある。小夜は毎週水曜から二日かけて、近くの古寺に通っていたらしい。
当時、心の病は、医家より近在の寺社がこれを取り扱っていた。話によると、村のさらに北の山中に、そうした病を患う人たちに知られた駆け込み寺があると言う。
三つ―――小夜を含めて関係者全員が消えた慶応二年の冬の様子。
隠宅生活はある寒い冬晴れの日に、突然、人足を手配して、中の荷物だけを運び出してしまい、その後なしのつぶてになった。
「うちら気づいたら、もうお小夜はんここにいてへんかったんどすわ」
もともと小夜は秋ごろから姿を見せなくなり、関わっていた人々が噂し始めた頃に、そうした運びになったらしい。最後に来たのは、薩摩訛りのある、明らかに武家風の男だったと言う。
「男はんの方は、その半年も前からもう、姿は見えへんどしたけどなぁ」
(今じゃ、遅すぎるな)
完全な空振りだった。
ただ、小夜は坂本竜馬の斡旋で元治元年から三年間、確かにこの家に住んではいたのだ。そして精神に疾患を持ち、郊外でその治療に努めていた。その点は歳三自身、今にして思えば、いくつか思い当たる節があった。坂本はわざわざ環境を整え、彼女を療養させていたのだ。
(だが、少なくとも文久三年の時点で小夜は京都にいたんだ)
と、なると、坂本との接点は、一体いつになるのだろうか。
歳三がみると隠宅の縁側の杉材の木戸は、中に入れないように堅く閉ざされて、一年近く開いた様子がなかった。

「土方副長」
「山崎君か」
「江戸へ照会した結果が分かりました」
「どうだった」
歳三は受け取った書状を広げた。
「江戸には、該当する家は見つからなかったようです」
「無役の御家人じゃなくてもいい。直参でもいないのか」
すでに実行したらしく、山崎は残念そうに首を振った。
「廃嫡した家や断絶した家もあたってみましたが、今のところは」
「・・・・・全部、でたらめかよ」
さすがに歳三も口の中で小さくぼやき、深くため息をついた。
(君はいったい、何者なんだ)
縁側に沖田が座り込んでいた。手に、例の簪がある。
「総司、お前なにやってるんだ」
「土方さんこそ、なにを?」
沖田は青黒くなった顔を上げた。
「近藤さん、近江屋の一件で若年寄の長井様に呼び出されて大目玉喰らったらしいですよ。下手人は新撰組だろう、なぜあんなことをしたんだ、って」
「んなこと知るか。大体、おれになんの関係があるんだ」
沖田のため息が聞こえてきた。隣に腰掛けた歳三の横顔あたりに、白い呼気が立ち上る。
「どうなるんですかね、新撰組は」
「病人がいらん心配をするな」
言いつつ、歳三は沖田から簪を取り返そうとした。沖田はすんでのところでそれを避けた。悔し紛れに歳三は言った。
「総司。そろそろ寝ろよ」
「そう、病人扱いしないでくださいよ。ここ数日は本当に、調子は悪くないんですから。・・・・・・で、まだ、いなくなったお小夜さんを追ってるんですか。相も変わらず」
「馬鹿。もう私情の外だ」
「嘘でしょ」
沖田は茶化して言った。歳三は唇を尖らせてむきになった。
「でなかったら、監察方を動かしてまで追うわけねえだろ」
「じゃあ、噂は本当なんですね。お小夜さん、やっぱり、あの晩近江屋にいたんだ」
「・・・・・・・知ってたんなら、茶化すんじゃねえよ」
「そう言えば不思議な人だったな、お小夜さん」
沖田は空に話すように言って、もう一度その簪を取り出して見つめた。
「覚えてますか。よく、屯所に遊びに来てくれて、こうやって話してましたね」
新撰組が八木邸に間借りしていた頃、小夜は屯所によく遊びに来ていた。関係が出来てからは、歳三は彼女と外で会いたがったが、それでもたまに理由をつくっては顔を出していた。
特に沖田とは、こうして縁側で茶飲み話をしているのを何度も見た。年代からしても、小夜は沖田に興味があるのではないか、と、皆は噂をしていたが、後から考えてみれば、それは本来、噂は楽しんでも成立してはならない関係を隠すためのいい隠れ蓑になっていたに過ぎないかもしれなかった。
確かに前向きな関係ではないと、歳三は思っていた。いつまでも続けられるものではない。嫁入り前とは言え、自他共に決めた相手がいるにもかかわらず、関係を続ける。小夜はその許嫁の男との関係を否定したりはしない。その癖、歳三との関係に対しても、拒むことはなかった。思い切ってどちらかの道を選ばず、それにもとることを、不倫と言わずして、なんと言おう。
穢れています。
小夜は言った。何度聞いても、理由は説明してはくれなかった。歳三自身もその中に入っているのかと思う瞬間もあったが、ついに、聞くことは出来なかった。娘にしては、こなれて柔らいその身体の感触を歳三は覚えている。また、ときに自棄を起こしているのではないかと言うほど、求めが激しいときは爪が喰いこむほど背に立てられたり、あちこちに歯を立てられたりして、戸惑わされることもあった。
苦界に堕ちた武家の女―――
想像は、現実の小夜にどれだけ近づいているのだろうか。
今となっては、小夜がどのような人生を送ってきたのか、歳三には皆目見当がつかない。しかし、例えば近在の女房連に話していたような身の上が、もしかしたら本当なのではないかと、感じるふしすらもある。
小夜は、よく夜うなされていた。発作のようなひきつけを起こすこともあった。歳三はそう言う時は、肺に直接空気を吹き込んでやり、気付けの薬を飲ませたりしてやるのだが、それがひどい晩は、小夜は朝まで眠ろうとはしなかった。
「・・・・・・眠らせないで」
小ぶりな唇が震えて、言う。
「眠らせないでください・・・・・お願いです」
そのかすれて悲痛な声を、歳三は覚えている。少なくとも、そのすべてが嘘ではない。なにかに溺れることを拒めない境遇に、小夜はいたことは確かなのかもしれない。
「土方さん、これまだ持ってますか」
簪を歳三に手渡すと沖田は、懐からなにか取り出した。
それは、小切れを縒った細い紐だった。一本のものが二本の残骸になったらしく、互いの先端が無残にほつれている。
「なんだ、これ」
歳三はそれを指でつまみあげた。
「お礼に、お小夜さんが私にくれたんです。土方さんにもくれたの、覚えていないんですか。池田屋事件の前です」
「ああ」
歳三は気のない声で言った。
元治元年の六月五日。
新撰組は、京都中の尊攘浪士が一堂に会し密会を計画していた池田屋を襲撃した。出立前、これと同じものをもらった覚えが、歳三にも確かあった。
「必ずお命のお守りになりますと、いただいて来たものですが、私の命を救ってくれましたよ。これのお陰で」
沖田は、局長近藤勇率いる十人の決死隊に参加、当初、数倍の人数の敵の中に飛び込み、ひとりの持ち場で斬り結んでいた。病んでいた結核で発作を起こして、喀血したのはその最中である。
「突然、これが音を立てて切れたんです。なにもしていないのに」
髪を結っていたこの紐がぷつん、と弾けて飛んだせいで、沖田は振り返り、背後から迫ってきていた長州浪人・吉田稔麿の斬撃をかわすことが出来た。
「でも、思えばこの紐が切れてからかな。私の胸の容態が、目だって悪くなったのも」
言ってから、沖田は、軽く咳き込んだ。
「馬鹿、んなのは、気のせいだ。それに大体、ずっと身体の調子が悪いと思ってたんなら、早く、おれか近藤さんに言っとけばよかったんだよ」
歳三は鼻を鳴らして、言った。
「出来たら、私も気のせいだと思いたかったんですよ。あのときだって本当は」
沖田は拳を握り締め、胸に当てた。
「でも、お小夜さんは知っていたようでした。彼女、本当に不思議な人ですよ。この紐が切れたこともよく知っていて、後で聞いてびっくりさせられましたよ。まるで先に行って、見てきたみたいだったんです」
冬晴れの朝空を薄い雲がたなびいている。青空を透かした、沖田の瞳が奇妙に薄く澄んで、歳三には見えた。

「人のまなこの上に・・・・・なんや」
渋皮を張った禿頭に、年寄り斑の浮いた冬瓜頭。年齢や年月と言った言葉はその頭の上ですっかり風化してしまったように思える。干し固めたように小柄な老僧は、庭を掃きながら、ごくゆっくりと、歳三に話をした。
「まやかしのようなものが、見えるなんてゆうてはりましたな」
あの後、蓮台寺村からさらに北へ。破れ寺の僧侶は小夜のことをよく覚えていて、静かな声でその様子を語ってくれたのを、歳三は曇天の空を見ながら、思い出している。
沖田に言われて、歳三は昨夜、自分の手文庫を掻き回した。紐は句帳に紛れて、そこにあった。紺地に黄、赤と染め上げたその紐は、沖田のそれとは違い、まだ切れてはおらず、一本に繋がって輪になっていた。
(命のお守りか)
歳三は苦笑した。沖田に負けず、命の危険にあったことは数え切れない。それでもまだ、この紐が無事でいると言うことは、少なくとも沖田よりは望みがあるものかとふと、思った。
(馬鹿馬鹿しい)
下らないことを考えるようになった。だいたい、歳三は池田屋以来、この紐を身につけて出かけたことはない。沖田と違ってご利益を期待するのは、そもそもお門違いのところだ。
(おれの身の危険は、おれでなんとかするんだ)
悪夢に苦しめられてきたのが、小夜の日常だった。夜ばかりでなく、日の高いうちからもとは思わなかった。例の精神疾病者を扱う和尚によれば、こうした症状は、やはり他に類を見ないものだったらしい。
「ありもしないものを見たり、聞いたりするときは、そうやったら自分でどうしようもないくらい怖いゆうときでな」
妄想を訴えるものたちは、自らの身の危険を訴えて精神を失調していく。幻覚や幻聴、ありもしないものを感じると言うのは、ある意味では恐怖と言う刺激に対しての過剰反応なのだ。そのため自分に非難や危害を加えるものたちの声が聞こえ、それが他人を巻き込んだ大きな危険への妄想に拡大していく。だが小夜のは少し、それとは違ったようだ。
「時折、魂の抜けたような顔でわしのことをみておった」
歳三自身にも、憶えがあった。小夜は本当にごくたまにだが、自分自身が身体から抜けいでてしまったように呆けた顔で、なにかを見つめていることがあった。そして、気がついたときには、歳三に向かって出し抜けに、なにか突拍子もないことを予言するように話したりした。
「例えば・・・・・あすこに、二人若い姉弟がおるでしょう。大根を掘ってる」
その寺の裏手は作業農園になっていて、精神疾患者たちが作業をしている。中に黙々と大根の畑で土を掘っている二人の男女がいるのが見えた。
「事情は言えんが、さる大店の娘と息子でな。血縁ながら二人は好きあうようになっておりましてな。恋仲になったが、当然、親が許さず、こうした仕儀になってしもうたんですわ」
二人は日にちを決めて、日中に夫婦のように町を歩くのが唯一の楽しみだった。あるとき、秋祭りの日に二人が出かけようと、和尚に許可をとり、身支度をしているとたまたま療養にきた小夜に、
「今日はやめて、明日にしたほうがいい」
と言われた。当然、楽しみにしていただけに、すぐには承知出来ることではない。二人は首を振ったが、
「そのとき、小夜はんと連れ立ってきていたお方も、えらく反対されましてなあ」
悪いこと言わん。必ず、言うことを聞いたほうがええき。明日にしとけ。
と、必死に言い募るのでその日は取りやめた。
すると、次の日、二人がいつも通る小路で頭に大石を受けて、若い男女のひとりが即死したと言う事件の話がだしぬけに飛び込んできた。
「下手人と言うのがすぐ捕まったそうやが、週にいっぺん、ここを歩く二人をよう思わんでいたゆうやつでな」
その男は一人暮らしで、いつも長屋の横を通る男女の声の華やかさに苛立ちを募らせていたと言う。あるとき、噂で二人が夫婦ではなくて、実の姉弟であることを聞き、犯行を決意していた。
―――血の繋がった男と女がいい仲やなんて、そんな馬鹿な話があるかい。
「捕まったとき、その男は息巻いておったそうな」
次の週、二人が無事でいて礼を言うと、小夜は目に涙を浮かべて喜んだと言う。
「もしかしてこれは神がかりかもしれんと思いましたな。まあ、何や知らん不思議な女子はんやなあと、わしも思うてた」
そうかもしれない、と歳三も思った。本当に微妙だが、なにげない小夜の一言で、歳三が命を拾ったことが、思い返さなかったら気づいていなかったが、確かに、四、五回はあった。
「なんや、それにしてもあの小夜て女子はんには、人に言えんで苦しんでいることが、山ほどあったみたいやったけどな」
小夜が最後に来た日は、蓮台寺村の隠宅が引き払われる一週間ほど前だったらしい。実はその前の週、突然呼吸が出来なくなったと言って運び込まれてきた夜鷹のうちで、小夜の顔を知っているものがあり、一時気まずい雰囲気になったと言う。
女の顔と名前を、和尚はよく覚えていた。寺に住み込まないものは、居所と連絡できる方法をひと通り、聞いておくよう心がけているらしい。
たか
紙には、墨を被ったうなぎが暴れまわったようなおおぶりの字体で、その名前が書かれていた。大坂から逃げてきた女らしく五条橋付近で、夜な夜な客をとっている。
(今度は売女探しかよ・・・・・)
老いも若きも、男も女も。この京都にはとりあえず、一通りの種類がそろっている。女漁りは嫌いではないが、特に期待もしていない夜鷹を探すのは、これが初めてだった。
夕暮れを待って、外に出た。生憎と雨が降り始めている。この分では野外に茣蓙一枚を敷いて営業する夜鷹は、商売上がったりだろうと、歳三は思った。運良く茶屋の座敷にあげてくれる小金持ちが気まぐれを起こしてくれればいいが、風邪を惹く想いまでして、夜間営業に精を出す夜鷹はそれほど多くはあるまい。
行ってみると、数もすくなにひとり、ふたり―――みな、歳三の袖を引いてくる。その手に、歳三は一朱銀を握らせ、おたかは出ていないのか、聞いてみた。ほとんどの女が、火が消えたように作り笑いをやめて首を振り、中には歳は若いくせに阿漕な稼ぎをするおたかのことを、口を極めて罵る女もいた。
綜合すると、おたかは今夜も出ているらしい。自分はひとり軒下にいて、他人の客を猫なで声で掻っ攫っていくと言う。
「上々の客だったのに、あの女に盗られた」
そう、愚痴をこぼす女を見つけるのに、それほど苦労はしなかった。
「ほんま、ええ客やったのに」
顔を隠して、忍んでくるお客は、わりと気前がいいらしい。一分銀に座敷で一晩、厳しい京都の冬の夜を過ごすには、破格の待遇だと、もらい損ねた女は歯噛みしていた。
傘を持ったまま、歳三はおたかがしけこんだ茶屋を探した。馴染みの茶屋らしい。彼女はいい客がいると、そこに連れこんで一晩、稼ぐのが常だった。
「おたか? そないな女は来てしまへんけど」
「ここによく来てるはずだ」
「さあ、ここ何日かは顔はみてまへん」
商売柄、そう遠くまでは、おたかも行かないはずだ。鴨川に沿って、歳三は周囲を訪ね歩いた。三条小橋を通り、木屋町通りに差し掛かったとき、霧雨で煙る高瀬川の舟入に一艘の小舟が流れに洗われているのに、歳三はふと視線を落とした。
茣蓙が一枚、中に敷かれている。なにか荷物を積んであるのかと思ったが、それは違った。よく見ると、そこから夜目にも白く浮き立って、女の足らしきものがはみ出している。
はっとして、歳三はすぐに駆け寄った。舟の上の茣蓙を荒々しげに剥ぐ。その瞬間、着物をはだけた女の死骸が、ごとりと音を立てて、薄い舟板の上にうつぶせに倒れこんできた。

雨は夜半、本降りになり、冷え込みはさらにきつくなった。
浜岡は物憂げに空を見上げた。川面に放射線を描くように、霧雨が吹き付けている。せっかく、川原に夜空を楽しめる座敷をとったのにこれでは台無しだ。彼は大仰なあくびをした。
小鍋立ての湯豆腐が煮えて、湯気が立ち上り始めている。浜岡は眉をひそめながら、意外と神経質そうな手つきで箸を使い、そこから、器用に嫌いな長葱だけを取り分けていた。
鍋が煮える間、懐から取り出した犬の干し肉を、顔をしかめて噛んでいる。もしかすると、酒はそれを無理やり流し込むためのもののように思えた。
狭い階段を駆け上がる音がして、襖が大きく開いたが、浜岡は窓辺を見たまま、一顧だにしない。そこには陸奥が苦りきった顔をして立っていたからだ。
「なぜ、殺した」
浜岡は、一瞥しただけで鍋の豆腐に視線を戻した。
「そこまでは望んだ覚えはないぞ」
露骨に無視を決め込んだ浜岡は鍋の水面に浮かんだ気泡を数えている。
「なんとか言えよ」
「・・・・・・殺すな、って話も聞いてねえな」
箸でついて煮えてきた豆腐を軽く揺るがす。
「騒ぎを起こしたくない。だから、秘密裏にあんたに頼んだ」
「おれに頼んだってことは、騒ぎになることは知ってて、あんたは頼んだもんと、てっきり思っていたんだけどなあ」
陸奥は、浜岡の前に立ちはだかったままいる。怒りで、顔色を失っていた。浜岡はそこで始めて顔を上げると、
「冗談だよ。本気にするな。悪かったよ。次は殺さねえって。後で、騒ぎになるような場合だったらな」
「頼んだのはおれだ。おれの機嫌を損ねないように注意しろ」
「座れよ」
浜岡は座布団を引き出すと、陸奥に向かってあごをしゃくった。
「少しは、分かったこともある。あんたにここまで、ご足労願いながら、無駄手間とらせて返すのも、業腹だからよう」
陸奥は大きく息をつくと、浜岡を睨みつけながら座り込んだ。
「酒は?」
「いらない」
「そうかい」
「とにかく、話したらどうだ」
「そう急くなよ」
浜岡は、すくいで豆腐をとり、
「夜鷹ども漁って、問いただした。確かに、小夜って娘は、文久元年からこっち、都に流れてきていたらしい」
「素性は?」
「江戸の武家は間違いないが、確たる来歴は不詳、当主は医術かなにかを心得ていて、公儀から捨扶持をもらっていたとか、そこは、はっきりはしねえ。ただ、文久元年の春に流れてきたときは、天涯孤独、持ち物も着のみ着のままだったそうな」
周りのものはだから、相当なわけありと見たらしい。駆け落ちか心中のし損ねの片割れか、髪も着物も薄汚れていて、ともかくひどい有様だった。その頃は三条橋下に寝泊りをしており、夜は街頭に立って一夜の宿を乞うていたと言う。
「それが、その年の夏まで続く―――」
以降、小夜の姿はその界隈では見なくなった。親類の誰かが見つけて親元へ連れ戻されたのだとか、もっとひどい人攫いにでも引っかかって、遠国に売り飛ばされたのだとか、さまざまな噂が流れたが、真相は誰にも分からなかった。
「まあ、その間にも、それらしい人間を見たとか、髪も着物も綺麗にして、どこかのお武家の持ち物になっているのだとか、話は出てたらしいんだが、会って話をしたってわけじゃねえからな。ところが、あんたが教えてくれた蓮台寺村北の山寺に行くと、それらしい女が近くから療養に通っていたと言う話だ。言ってみると、直接その女に会ったって女郎を発見した」
「それで、その女から話を聞いて殺したってわけか」
「物のついで、ってやつだ。あんたも助かったはずだぜ。その女の話の通りじゃ、あんた方の大将の坂本に、得体の知れねえ売女の情婦がいた、ってことになるからな」
「二度言ってみろ」
陸奥は怒りで顔を真っ青にして、言った。
「次にふざけたことを言ったら、国外逃亡どころか、お前を江戸に引き渡してやる」
「・・・・・分かったよ」
浜岡はふてくされように、唇を尖らせ、
「だがその女郎、たかって言うんだが、あの近江屋の一件直後も、小夜に会ってるようなこともほのめかしてやがったんだよ。どこでだって聞いたら、銀一分くらいじゃ喋らねえと、ぬかしやがる」
「そいつは聞いたんだろうな」
「あの女のフカシだよ。痛めつけてやったら、あいつ、小夜って女からなにか預かってたことは確からしんだが、金に困ってそいつを売っ払っちまったんだと。おれは頭にきて、その一分銀握り締めたまま、そいつの顔をさんざ殴ってやったんだ」
「・・・・・・・・・・・・・」
「安心しろよ。そのたかって売女が流したらしい物の質札を確かめてきた。店の名前も押さえてある。品物をその女が回収してなきゃあ、先回りして待ち伏せ出来るだろうよ」
そのときの興奮を思い出したのか、浜岡はぬる燗を銚子ごと呷ると、ふーっと熱いため息をついて、
「・・・・・・坊やにゃ分からねえだろうが、おれは昔、女に関しちゃ、大分無茶してた。お前も知ってるかも知れねえが、ちょいと事情があって、この摩羅へし折られてんだ。こいつが使えなくなりゃ、少しは大人しくなるだろうと思ったがよ、その分、逆に女にはよけい狂暴になっちまうようになってよう」
その瞬間、がっ、と手首を掴まれた。
「やめろ」
陸奥は身を揉んで抵抗しようとしたが、浜岡の指は頑として、解けなかった。
「いいか、言っとくぞう」
浜岡の顔が、目の前にある。酒と獣肉の脂で汚れたその口が、開いた。前歯が二本とも、抜かれて根元から無いのが見えた。
「望みのもんが欲しけりゃ、頼むからおれを止めるな。好きにさせろよ。藩にも、海援隊にも、おめえが秘密で動いてることをばらされたくなけりゃあな」

銀色の雨粒が、陸奥の足元に吹きつけてくる。袴が濡れて肌に貼りつく。それが氷のように冷たい。
あの晩の女の残像を、陸奥は思い出している。
小夜のことについて、竜馬は何も、陸奥に告げてはくれなかった。その秘密は、竜馬の仲間内でも、ごく限られた人間だけが知っていた。これだけ近しくしていても、竜馬は陸奥には明かしてはくれなかった。深町小夜。この女がいったい、何者だったのかを。
「のう、陽之助、あの娘のことは放っておいちくれ。頼むき」
竜馬は言った。それは、陸奥が深町小夜というその女が、新撰組と関わりがあるのではないか、と竜馬に直接、問いただしたときだった。
「あの娘はほんに、哀れな娘じゃき」
竜馬が私費を投じてまで、彼女の隠宅を用意し、治療に手を尽くさせていたことまで、陸奥は知っている。竜馬は小夜と言うその女がそうなってしまったことに責任すら感じているような節があった。本当のことを教えてくれ。陸奥は竜馬にそう詰め寄った。結果的に竜馬は決して、真実を話そうとはしなかった。
やがて、竜馬は死んだ。はかったように、深町小夜も陽炎のようにその足跡を消した。
陸奥は白い息を手のひらに吐きつけ、袂を擦り合わせた。懐にはさっき抜けなかった拳銃に、竜馬たちが遺した謎の言葉が刻み込まれていた。
(ソコワレ)
深町小夜のことを、竜馬以外の人間はそう、称した。符牒のようにも聞こえた。どこか差別するように、聞こえるときもあった。
(ソコワレとはなんだ)
足の先まで痛いほど、びんと冷えてきた。
陸奥は傘の柄を首にかけ、両手を擦り合わせてもう一度暖めた。そのとき自由になっていた彼の両手が、命の明暗を分けた。
傘が柄ごと弾け飛んだ。
無意識に陸奥は、駆け出していた。誰に――――?相手の見当も頭になかった。自分が襲われた?――――実感が湧かないままだった。耳の奥が、きいん、と痛んだ。濡れて身体が自分のものでないように重く、雨粒が無数に吹きつけてくるのに、咽喉は、からからに渇いていた。
足音は三つ。ひとつが異常に近く、ふたつはまだ遠く感じた。すでに走る自分の背中にいるのではないかと思うくらいだった。追いつかれたら、殺される。陸奥はいつのまにか左手で袂を掴みながら走っていた。そこに、例の拳銃がある。一発でも撃てば、相手を怯ませることが出来たかもしれない。だが、立ち止まって振り返った瞬間、両断されるイメージが、陸奥の中にもう出来上がっていた。絶対的な恐怖感が命じている。それに心臓を噛みつかれたら、そうなったら、逃げるより手はなかった。
泥水を跳ね上げて、がむしゃらに、逃げた。この泥の中で足を滑らせたら終わりだし、どこかの軒で身体を引っ掛けたら、そこで追いつかれる、そう思った。角を曲がるとき襟首を掴まれ引き倒される瞬間を何度も想像した。何度か転び、身体もぶつけた。柱のささくれか、おれ釘に引っ掛けられて、着物もあちこち破った。
どこをどう逃げたのか、下宿の沢屋の明かりが見える頃、陸奥の後ろには刺客たちの気配はなくなっていた。何度も背後を確かめ、道を替えた後、ようやく陸奥は、沢屋の門前にたどり着くことが出来た。
――――良かった、どこにも傷は負っていない。
両手で抱きしめるように、自分の身体の無事を確かめて、陸奥は、ふーっ、と大きく、白いため息を吐いた。

雨が上がった早朝は霧が出た。番所から戻った歳三が、屯所の門をくぐろうとすると、戸口に沖田が立っているのが見えた。
「おい、なんて顔してんだよ」
歳三は、苦笑しながら、言った。
「どう伝わったのかは知らねえが、死んだのは小夜じゃねえ。別の女だった」
沖田はなにも言わなかった。ただ白い息を吐きながら、歳三の顔を見上げていた。なにか言いたいことがあるが、言葉にならないという顔つきを、沖田はしていた。やがて、それを言うのを諦めたのか、沖田は小さく咳払いをすると、かすれた声でこう言った。
「灰買いの芳蔵って言う人が、昨夜から土方さんを待ってます」
「・・・・・分かったよ。ちゃんと奥で待たしてあるな」
沖田は無言でうなずいた。歳三は、柱にもたれかかり大きな息をついている沖田の肩を労わってやり、門をくぐった。
「土方はん」
こちらもかすれた声だ。つい今駆けつけてきたらしく、芳蔵があがりかまちに肩で息をしながら、座っていた。
「今、高瀬川の舟入で、夜鷹が殺されたて聞きました」
「ああ、まあな」
今の歳三はそれだけ言うのが、精一杯だった。番所への連絡や事実確認で、だいたい一晩はかかってしまった。
「あがれよ」
「へえ」
芳蔵もこのところは一晩中動き回っているようで、傍目にも血色が良くなかった。歳三は湯にでも浸かろうと思っていたが、ともかく朝食の支度を台所に頼み、芳蔵を座敷へ上げた。
「小夜を知っていた女が死んだ」
歳三はいきなり言った。濃い目の蕪の味噌汁に冷や飯、香の物の膳だった。京風の甘い白味噌で崩れるまで煮込んだ蕪の芳香が、湯気と上がっている。
「へえ、その女のことはよう、存じてます。確か、たか、と言う名前ではおまへんか」
「ああ、そうだ。三条橋筋で客をひいてる」
歳三はあごだけを引いて、物憂げに肯いた。
「覆面をした、武家風の男だったらしいぜ。そいつに、どこぞへ連れこまれて殴り殺されたとさ」
撲殺体は人相が変わる。眼窩が落ち窪み、顔は萎む。わざわざ歳三は、三条橋まで戻り、たかの顔を知るもの三人に確認をさせた。結果、たかに間違いはない、と誰もが言った。
暴行は、惨を極めていた。物陰に引っ張り込まれたか、どこぞの連れ込み宿かに連れ込まれたか、それは分からないが、少なくとも、半刻以上の時間をかけて、下手人は彼女をいたぶった後、死骸をあそこに遺棄した、と考えて間違いはなかった。傷の位置や具合から考えても、拷問の末の惨死と考えるのが妥当だというのが、歳三の見方だった。
「下手人はやっぱり、本圀寺で、土方はんを待ち伏せしたやつでっしゃろか」
「どうかな」
目撃証言の風貌は、確かに一致している。男は覆面で顔を隠し、しかも長身だった。だがその物腰や話し方の雰囲気からは、どうやら四十年配であると言うのが、目撃者の共通した見方だ。
にしても、考えてみると、その女は、小夜に蓮台寺村で最後に会っただけだった。犯人はたかを拷問して殺してまで、なにを得ようとしたのだろうか。歳三は疑念を抱えて戻ってきていた。
「お前はここ何日かは、なにをしていたんだ」
「それが、問題は、そのたかと言う女のことなんどすわ」
歳三は黙々と飯を掻きこんでいる。気にしたのか、芳蔵は言葉を切った。歳三はじろりと目線だけ上げて箸を振ると、
「いいよ。話せって。・・・・・・それに、お前も食えよ。おればかり食ってたら、なんだかこっちの座りが悪いんだよ」
「こら、えらいすんまへん」
芳蔵はようやく、味噌汁に箸をつけながら、
「・・・・・実は、そのたか言う女、つい先日会うてたんです」
「どう言うことだ」
歳三は、はっとして顔を上げた。
芳蔵の話は以下の通り。
深町小夜の行方を追って、町中に聞きまわっていたら、夜鷹の仲間で、彼女を知る人間が何人かいた。情報収集を進めるうちに、小夜と親交があった夜鷹のうちで、彼女から何か用事を頼まれたと言う、たかの存在を発見したのだ。
「それが、あるものを預かっているよう頼まれたようで」
「いつだよ」
それは十一月十四日のことらしい。小夜が歳三に別れを告げて、姿を消したその日だった。そして次の日、近江屋で坂本竜馬が殺された。
「小夜はん、三条橋にいた、たかのところに夜中突然、現われたらしんどすわ。ともかく必要なものだから、三日か四日、預かってほしいものがあるて」
たかは報酬までもらってそのことを引き受けたのだが、品物を受け取ると同時に、それをある質屋に流してしまったのだと芳蔵は言った。
「で、小夜からはなにも連絡がねえのか」
「ええ、それきり十日経っても、なんの連絡もないっちゅうて、それをいいことに、たかの方はまあ、あっけらかんと開き直ってましたわ」
「それでは、その品物についてはなにか手がかりは」
「品の質札と店の名前は、そのときたかから聞いて、もう押さえてます。いや、でも実はそれが」
芳蔵は味噌汁飯をすすると、軽く咳払いをして、
「話はこれで終わりではありまへんのや」
実は芳蔵はその店を突き止めたとき、流される前にその質草を、取り戻そうと店主と交渉しようとした。しかし、
「あきまへん。申し訳ないが、これは元の持ち主はんから近々取りに来ると、話を受けたはりますのや」
と、断られた。そこで芳蔵はさらに詳しく話を聞いた。すると、その持ち主とやらが現われたのは、二日前のことだと答えた。
「それが武家風の若い女で、顔を紫色の布で隠してきたそうで」
「なぜ、その人間が元の持ち主かどうか証明できたんだ?」
「鍵ですわ」
その質草とは、オランダ製の西洋時計だと言う。文字盤の下が、小物入れになっていて、女性はその小さな鍵を持っていた。現物を取り出して合わせてみたところ、確かに、一致したらしい。
「請け出しのための金子をひとまず、実家にとりに行かねばなりませんので、半金だけここに起きます」
と、女は言った。どうしても外せない別の商用で金を大坂に取りに行くので、請け出すのは明後日にしてほしいと、女は約束した。
「そう言う事情なら今お持ちしてもよろしいとも申し出たのに、はあ、どうにも律儀な女子はんどすなあ」
変な話だ、と芳蔵もしきりに首をひねった。歳三は疑問を差し挟まずに聞いている。渋茶をすすり、最後の飯粒を掻きこんだ。
「約束はどうも、今日、昼ごろになるそうです」
芳蔵の話では、その女は顔を隠している上に、店先で話をする間も、周囲を気にして落ち着かない様子だったと言う。また返るときにも、手代の小僧に言いつけて通りを見てくるようにも頼んでいた。
「店の場所はどこだ」
歳三は聞いた。
「押小路下ルの、高砂屋だす」
蕪の葉の塩漬けをつまんで、芳蔵は答えた。
「飯を食ったら、すぐに行く。芳蔵、案内を頼む」
「へえ」
歳三は、二刀を差し直して立ち上がった。廊下に、近藤が立っていた。
「おい、トシ。どこへ行くんだ」
「近藤さん、悪いがまた、急用だ。少し出かけてくる」
「待て。今、お前に話があるんだ」
「後だ」
事情を言う暇もなく、歳三は、飛び出していった。

「陽之助さん」
その声に、陽之助は足だけを上げて応えた。視線をちらりと戸口にやる。そこには白峰駿馬が、心配げな顔をして立っていた。
「・・・・・・襲われたそうですね」
「誰から、聞いた」
「ひとりで、なにをやっているんですか」
陸奥の質問に白峰は答えなかった。そのまま、膝をすすめ、畳の上に寝転がっている陸奥の横に座り込んだ。
「関さんはじめ、土佐の人たちは、今、気が立っています。今のままだと、陽之助さん、あなたは同志の裏切り者だと思われてしまいますよ」
「どう言う意味だ」
陸奥は、半身を起こして聞いた。
「あの女のことにいつまで拘っている気ですか」
陸奥は視線を反らした。白峰のいらだったようなため息だけが、聞こえてきた。
「なあ」
と、陸奥は意を決したように言い直した。半分は、どこか諦めが勝っていたとしても、これは言わずにはいられなかった。
「白峰君、あの晩、君も見たはずだ。あの女の顔を、君もよく知っている。そいつが、坂本さんを殺したんだ。・・・・・それで」
「それがいったい、何になると言うんですか」
白峰は遮るように言った。もはや、これ以上は黙ってはいられないと言うように絞り出した。
「あの女のことは、確かに私もある程度のことは知っています。坂本さんの何かだったかも知れない。でも、その女に復讐したところで何になるんですか。あの晩見た女が、例えば新撰組の密偵だったとして」
「復讐じゃない」
今度は、陸奥が白峰の言葉を呑み込んで、言った。
「おれは、本当のことが知りたいだけだ」
「悔しくないんですか」
その言葉に、陸奥は、はっとして白峰の顔を見直した。
「あなたは卑怯者だ、裏切り者だと言われているんですよ。口だけは坂本さんの敵を討つ、討つと言っておいていつまで経っても、なにをする気配もない、と。他藩出身者で坂本さんから恩を受けるだけ受けておいて、やはり逃げるのかと、思われてもいいんですか」
陸奥は思わず、白峰の袂を掴んで、握りしめていた。ぶるぶると震える自分の拳の先にある、白峰の瞳に溢れた涙の意味を、陸奥は痛いほどに分かっていた。
白峰は長岡藩、陸奥は紀州藩から、勝海舟門下に入った。ともに文久三年入門、年は二つしか違わない。そして、二人とも武術以外の才を塾頭の竜馬に買われてここまでついてきた。竜馬が死んだことについては、彼と同郷の土佐藩士たち以上の、強い思いがあると自負できる。むしろ、ただ竜馬と生まれた土が同じだけの人間に負けるか、と言う思いすらある。
その思いを今、踏みにじられてもいいのか。白峰の目は、それを訴えている。もちろん、陸奥にも同じ気持ちがある。いや、そのことにかけては、自分以外にはないと言う自負を確固として自分の中に持っていた。堪える必要があった。自分が追究する真実を白日の下に晒すまで。だから、今これ以上、話すことはなかった。話したとしても、現時点では、誰も納得させられないと分かっていたからだ。自分の気持ちが相手に伝わらないことを悟ったとき、陸奥は白峰の胸元を掴んでから、次の句が継げない自分を知った。
「帰れよ」
ついに白峰の胸を突き放して、陸奥は言った。
「おれは自分の思ったやり方で、坂本さんが殺されたことの意味を追ってるんだ。それは誰にも止めることは出来ないし、その権利もないはずだ。なぜなら、これはおれが、坂本さんに託された。他の誰でもない。おれがそう、信じているからだ」
白峰はそれ以上言葉なく、膝に両手を突いて陸奥を睨みつけていた。赤く潤んだ両眼には、陸奥を責める気持ちは含まれてはいなかった。ただどうしようもなく遣る瀬無い、自分の中でも処理できない感情を、陸奥にぶつけに来たのだと言うことだけは、彼にも伝わってきていた。
「田中さん・・・・・あなたの行動を見張っていますよ」
帰り際に、白峰は辺りを憚ってから、静かに耳打ちをくれた。
「気をつけてください」
「白峰、お前に面倒かけた・・・・・悪かったな」
最後に漏らした陸奥の本音に、白峰は涙を拭った。
「陽之助さん」
「なんだ」
「あなたが追っている女は、あなたが思っている以上のものを抱えていると思います。みんな、あなたを見張ってます」
「分かってる」
陸奥は曖昧な返事しか出来なかった。だが、確かに、そんな気がもう、ずっと以前からしていた。つい数刻前にこの辺りで、自分が襲われて逃げ帰ってきた恐怖と記憶が白峰を送った朝焼けの辻で鮮明に戻ってくるのを感じていた。
浜岡が沢屋に姿を現したのは、それから一刻経たないうちである。陽の当たるうちにみると、浜岡の顔は荒淫で荒れ、古い蜜柑の皮のように鈍い色をしていた。
「今日の昼だ。準備はいいか」
浜岡は、楽しげに言った。浜岡の情報をあてにすれば、上手くいくと昼、小夜を確保出来る。小夜でもなくとも、浜岡はそいつを拷問して聞き出せば、彼女の居所が割れるだろうと、歪んだ笑みを浮かべながら、言った。小夜から、まずなにを聞くべきなのだろう。すぐ数刻後のことなのだ。陸奥はそれをふと思った。坂本竜馬の最期の様子か。それとも小夜を使って、竜馬を殺した者たちの正体を問い質すのか。それとも。
(ソコワレと言うのは、いったい何のことなのか)
時折、陸奥は不明瞭なことを追求せずにはいられないその性分が、はたして、竜馬を葬ったものたちへの復讐心の裏で、実はその欲求を満たすことを目的として、自分の胸の中で密かに稼動しているのではないか、と言うことに、かすかに戸惑いを覚える。
その点で朝来た白峰や、関は触れれば斬れるほど、切なく、純粋だ。彼らは、坂本竜馬と言う男を失ったその喪失感と遣る瀬無い理不尽さを、復讐と言う行為に純化して、遂行しようとしている。結果はどうあれ、その事実は間違いなく、行動に正義を与える。単純明快な行動原理こそ、美しく、強く映えるものだ。それが、本当に正しいものであるか、それは別として、だ。
陸奥はまだ、自分の迷いを確認したばかりだった。だから、反論の余地はあった。彼はそれを、仲間内での孤立がもたらした迷いに過ぎないと、とにかく片付けた。
準備を整え、現地へ向かう道中、ふと振り返った。冬の高い空が放つ陽射しを忌避するように、紫色の頭巾の下で目を細めている背後の浜岡が、自分の影の姿のように錯覚して、陸奥の自分の胸にどこか後味の悪いものが広がるのを感じていた。

高砂屋は、大店だけに客の出入りが多い。その点では、人手不足の二人がかりでは、十分に注意が必要だった。小夜の風体や顔を具体的には知らない浜岡のために、陸奥は似顔絵を用意していた。浜岡は手を振り、
「いや、問題はねえ。前にここへ来て、詳しいことは聞いてきた」
と、二日前に現われた女の人体から服装、さらには言葉訛りまで詳細に聞き出した書付を陸奥に見せつけた。
「やはり、その女ァ、江戸の女だな。それも元・武家ってのも間違いねえよ」
自分が江戸流れだけに、浜岡はそうした事情にはよく通じているようだった。
「だからあんたは女を見張りなよ。とにかくその風体らしい女だけ、目を凝らして出入りを見るんだ」
「あんたはどうするんだ」
陸奥が聞くと、
「おれか? おれはそれ以外の、怪しいやつさ」
浜岡は、覆面の目を細めて、
「・・・・・話の内容からすると、その女、どうも手管がまどるっこしい。俺たちじゃなくっても、誰かに追われているか、見張られているのを、警戒しているかもしれねえからな」
昼の九つ(正午)が鳴った。
間に五人前後の出入りがあったが、どれもそれらしい風体の女は現れなかった。位置や様子を変えながら、店先を見張っていた二人だが、やがて少し根が尽きて、浜岡などはあくびを殺しては、鼻毛を抜いていた。
(来るのか)
陸奥の予感としては、かなり薄いように感じていた。今、通りを眺めてみても、それらしい風体の人間が歩いてくる気配もない。屋台の鮨を食った浜岡は、涙を貯めた目をしょぼしょぼさせている。
ついにあくびを漏らした陸奥が、手毬で子どもを遊ばせている、若い親子に目をやっていたときだった。
「あっ」
陸奥は思わず声を上げそうになった。浜岡が身体を起こした。
「どうした」
「・・・・・・女じゃない。だが」
陸奥は、首を振った。浜岡は訝しげに視線を追った。
「あいつだ」
そこに、本圀寺に現れた新撰組の男の姿があった。紺色の羽織に、仙台平の袴、総髪の黒髪が豊かな、目元の涼しい役者顔―――
「・・・・・・新撰組副長、土方歳三だな」
調べをつけているのか、浜岡は一目で見破った。
「あいつが」
「間違いない。岡田を捕縛したときにみたことがあるからな」
浜岡はあごを掻きながら、静かに肯き、
「お前さんの話じゃ、今その小夜って女に一番関係あるのはあの男のはずだろう?・・・・・・まさか天下の新撰組の鬼副長様が、日銭に困っているわけでもあるめえ」
土方は辺りを見回しながら、店に入っていく。浜岡はそれを舐めるような視線でじっと見ていた。
「どうする」
陸奥は聞いた。あの男の喧嘩上手は、実際に目で見ていた。それが新撰組の副長ならば、やはり一筋縄ではいかないはずだった。
「攫うぞ」
決まってるだろう、と言うように浜岡は、即答した。
「二人でやりゃあ、大丈夫だ。おれが殴る。どんな達人でも、後ろに目はついちゃいねえさ」
土方は、しばらく出てこなかった。
「とりあえず客のふりして・・・・・女と会うためになにか手はずを踏んでるのかもな」
浜岡が、独り言をつぶやくようにこう言った。浜岡が入り口を見張る間も、陸奥は小夜が来着するのを待っている。女が現れた場合、まず土方にばれないように女を攫おうと、浜岡と打ち合わせてある。
陸奥の頭の中を、いくつものシミュレーションが駆け巡る。いずれにしても、対応を間違えるとすべてが終わることに留意しなくてはならない。痩せても枯れても新撰組だ。いざとなったら、不逞浪人として捕縛されるのは、こちらの方なのだ。
土方が店に入ってから、十分ほど過ぎた。
「・・・・・おい、どうなってやがる」
浜岡が、いらだったようにひとりごちた。
「ここまで来て、ガセじゃねえだろうな。・・・・・・身元も定かでねえ夜鷹風情とは言え、ネタとるためにこっちは人ひとり殺してんだぞ・・・・・・・」
四半刻に至ろうとしている。
高砂屋には土方が入って以来、誰の出入りも無い。
そして、当の土方も、一向に戻ってくる気配も無い。
突然、今まで、ひとりぶつぶつと漏らしていた浜岡が、あっ、と叫んで立ち上がった。左手に刀を引っ掴んで店に入っていこうとする。陸奥はそれをあわてて止めに入った。
「やめろっ、浜岡・・・・・・落ち着けっ。あいつに見つかったらどうなると思ってる」
「馬鹿野郎、なにを頓馬なこと言ってやがる、この唐変木が」
陸奥を殴りつけそうな勢いで、浜岡は袖を払った。陸奥は跳ね飛ばされ、歯噛みをして起き上がった。だが、なおも浜岡を取り押さえようとする陸奥の動きを、次の浜岡の言葉がぴたりと停めた。
「とっくに逃げられてるんだよっ、小夜って女も土方も! やつらにゃ、見透かされてたんだっ! はめられたのは、おれ達のほうじゃあねえかっ!」
二人が高砂屋に踏み込むと、土方の姿は、質草の時計と一緒に影も形もなく消えていた。
そして、肝心の深町小夜の姿は、ついに最初から最後まで誰の目にも、触れられることはなかったのだ。


 「えらい、すんまへん」
 芳蔵は、膝をついて謝った。
 「・・・・・旦那を、たばかっておりました」
 あのとき。
 高砂屋で、歳三は、彼の指示通りに質札の番号を言った。そこで新撰組の名前を出して、まず時計を押収しようと思っていたのだが、店主は意外にも、
 「話はうかごうとります」
 と、気前良く、その時計を取り出してきた。歳三は現物をみてさらに戸惑いを覚えた。店主が袱紗の包みに包まれた西洋時計を差し出したとき、そこに抽斗の小さな鍵も添えてあったからである。
 「どうぞ、これを」
 訝しげな手つきで、歳三はそれを受け取った。抽斗の鍵を開けてみると、小箱に、小さな紙が入っていた。中を広げて、歳三の顔色が変わった。
 「旦那」
 奥から声がした。顔を上げると、そこに芳蔵がいる。
 「どう言うことだ」
 「店には話を通しておます。とにかく、店の裏口から」
 歳三は店の裏口から、出た。同じ手段で脱出した浪士たちを追い詰めたことはあるが、自分がその裏口から出たのは、まったく、初めての経験だった。
 「どこに行く気だ」
 歳三は何度か聞いた。しかし、芳蔵は曖昧に肯くばかりだった。いくつかの小路と、裏庭を抜けた。やり口が狎れている。目的地の所在が分からないように道を選んでいるのが、歳三にもなんとなく分かった。いつもこうしてある時は菰を被って川下に潜み、土塀を這い伝い公儀の目を隠れながら、新撰組が追った尊攘浪士たちは、暗躍していたのだ。
 東寺の塔頭の位置から、恐らく、祇園辺りかと思われた。やがて歳三は裏木戸から、一軒の小料理屋に案内された。
 着くなり、芳蔵は叩頭した。そして、大分前から、ある人物と接触していたことを、歳三に初めて告げた。
 「わては、公儀の裏切り者どす」
 「説明しろ」
 ともかく歳三は、言った。目の前の男を斬り捨てることより、その男から話を聞くことが先決だった。なにより、事情が分からなければ、話にならない。
 「まず、これからだ」
 紙片に、見馴れた小夜の筆がある。署名もしてあった。そこには、芳蔵を信じて、とにかくその指示に従って行動してほしいとの旨しか書かれてはいなかったのだ。
 「芳蔵、お前、小夜と繋がっていたのか」
 「へえ」
 「いつからだ」
 芳蔵は硬く目をつむったまま、頭を上げない。
 「話せよ」
思わず歳三はそのもとどりを掴んで、無理に引き起こした。でも、芳蔵は、じっと身を硬くして堪えていた。
「・・・・・・・・お許しを」
 歳三は手を離した。
「聞けよ、芳蔵」
思わず興奮した自分を恥じた。
 「おれは別に怒ってるわけじゃねえさ。ただ―――」
 ただ、驚かされてしばし、気持ちの整理がつかなかっただけだ。動揺しないはずもない。予想すらしていなかった。ややあって、歳三はようやく自分の気持ちにある程度の整理をつけると、居住まいを正した。
 「小夜様は、いずれ、お着きになります」
 芳蔵は平伏して、あとほんの少々お待ちを、と言った。
「待つさ。その間、気直しに煙草くらい吸ってもいいだろ」
すぐに、芳蔵が煙管と煙草盆を持ってきた。歳三は膝つきのまま、ゆっくりと肺に煙を入れると、身体の力を抜き、目を細めて大息をついた。
確かに考えてみれば、意外な結果でもなんでもなかった。坂本と繋がっている時点で、小夜は元々こちらを探るために歳三のところに入り込んできたのだろう。そのことは、すぐに分かった。ただ、驚いたのは、完全に姿を消していたのが一転、歳三との接触を図ってきたことである。
(それも、こんな手の込んだ方法で、だ)
この後もぽつりぽつり、歳三は、芳蔵から話を聞いた。彼の緊張をほぐしながら、どうにか確度の高い情報を手に入れておく必要があると思っていた。
まず、驚いたのは芳蔵の地がもともとは江戸だったことだ。京都が在所ではないことは、歳三はうすうす感じてはいたが、関西方面の出身には間違いないだろうと漠然と思っていた。だから、小夜とのつながりは、彼女が京都に姿を現した文久元年時点より、もう少し古いようだった。
平伏した芳蔵は急に言葉を変えて話し出した。
「もともとあっしは江戸で、あるお屋敷の中間として仕えておりやしたんで」
芳蔵はその気になれば、きれいな江戸弁を話すことも出来たのだ。
「小夜は、そもそもそのころの主か」
「いえ」
芳蔵はそこでなぜか、顔を曇らせ、言いよどんでから、
「・・・・・ですが、似たようなもので」
そのことについてはなぜかそれ以上は話したがらなかったが、ともかく芳蔵が京都に住んだのは、小夜の実家が離散して、京都に逃げた彼女を追ってのことらしい。芳蔵は涙ぐみながら、その頃の話をした。
「文久元年の夏にやっと、京都で、お嬢さんを見つけたときは、もうひどい有様でした」
「坂本に出会わなければ、死んでいたか」
「へえ」
小夜が江戸に現れたときの様子と、その後夏までの有様は、歳三も蓮台寺村で情報を集めてよく知っていた。解せないのは、それ以前の経歴と以後のことである。
歳三の記憶では脱藩した坂本竜馬が、薩摩への入国かなわず、萩の白石正一郎邸から姿を消すのは、文久二年の四月。それから放浪して、江戸に現れるまでの間、彼の消息は不明となっている。小夜と坂本が出会ったのは、この時期と考えるのが妥当だろう。
落ち着く先も定かではない坂本が、どうして零落した武家の娘に過ぎない小夜を連れて行ったのか。そして、どのような役割を坂本は彼女に期待したのか。もちろん、理屈はどうあれ離れがたいが男女の仲といってしまえばそれまでだが、それでも疑問が残る。
「坂本と小夜は、どうして出会った」
「いや、そのお話は、あっしから申し上げることは出来やせん」
「坂本はなぜ、小夜を必要としたんだ」
「それは直接にお聞きを」
「なあ、小夜はいったい・・・・・」
どんな女なんだ。
言いかけて、歳三は思わず言葉を濁した。どんな女かは、歳三自身の記憶が知っている。そう言っていた。一瞬の躊躇があった。小夜自身と、仕事上の小夜の身の上とにまだ一定の境界線を引いている自分がいるのが、自分ながら、男の滑稽さではあった。
しかしそれを聞いた方は、別の意味から、ことを察したのだろう。
「・・・・・・深町が血族に伝わるは、曰く『ソコワレ』がこと」
芳蔵は、意を決めたのか突然、言葉遣いを武家風に正して答えた。
「ただそれのみにて、まずはお知り置きください。土方様、今の私に言えるのは、ようやっと、それのみにてござりまする」
「ソコワレ?」
歳三は思わず聞き直した。だが、目の前の男は真剣な顔をして、譲るところがなく、こちらを凝視している。本当にこれ以上は、話すことが出来ないのだろう。芳蔵の灰で薄汚れた髪の生え際に、じっとりと脂汗が浮かんでいるのを、歳三は見た。
(まずはてめえで考えろ、ってことだな)
たぶん、芳蔵が言うのは、新撰組が総力を挙げて調べても分からなかった、深町小夜の経歴のことを指しているのだ。
推測なら、果ては無い。
(小夜はなにか、ご公儀に対して特別の誼をもつ家柄の者かもしれねえな)
考えてみれば、土佐脱藩浪人坂本竜馬の人生はそれからほどなく、江戸に現れたときから、一変している。彼は、江戸で海軍奉行・勝海舟門下に入り、海軍伝習所で海事を学ぶようになる。
それまで、坂本は特に主義主張も活動経験もなく、言ってみればその時代の空気にほだされて一路脱藩してしまったなんの変哲もない尊攘浪士だったのだ。坂本が勝海舟を江戸での剣術の同門千葉重太郎と訪ねたのも、そもそもは、開国論者である勝の論調を批判し、なりゆき上とは言え、彼を暗殺することが目的だった。
ソコワレか。
歳三は、先ほど聞いた言葉を、口の中で反芻してみた。既視感なのか、それとも、本当は以前、耳にしたことがあるのか。どこか、口に慣れた語感のある言語なのが、歳三の気にかかった。
十分ほど、小座敷で待った。佩刀を引き寄せてはいるが、別に警戒はしていない。身体の力を抜き、肩を落として白い煙を細く吐く。
平伏していた芳蔵はこの場にいない。無用の気遣いをさせないためなのか、または歳三をこの部屋から逃がさないための手はずを打っているのか、それは確かめようがなかった。
歳三の五感はなぜだか、別に警戒感を働かす必要はないと、言っている。芳蔵の話を決して全面的に信用したわけではないのだが、不思議と、そう言う気持ちになったのだからとりあえず、当座は、それに従うしかない。
さらに五分待たされた後、衣擦れの音がした気がした。気配から、男の雑な足運びではない。そそとしたそのたたずまいの雰囲気に、歳三は思わず身体を起き上がらせていた。
「小夜」
歳三の声に、女はその小さな顔をこころもち上げて会釈した。

「しばらくの無沙汰をしましてございます」
と、小夜は言った。かすかな声。だが、ここ何日も追い続けてきた、懐かしい声だった。小夜は梅割れに結い上げた古式ゆかしい髪に、薄い紫の花掛けを添えている。小袖は同色の地に、落ち着いた色合の杜若が染め抜かれている。
顔が小さく、首は長い。
背はもしかすると、歳三とそれほど変わらないくらいで、すらりとしていた。
鬢のほつれ、黒い髪の艶やかな色彩と、白蝋のように血の気を感じさせない白い肌。憂いをたたえた長い睫毛が囲つやや黒目がちの瞳の不可思議な輝きを、歳三はよく、覚えていた。
最後にあった日、あれは晩秋の午後だった。乾いた銀杏の落ち葉がふりそそぐ小径で、二人は別れた。千切れ雲を少しだけ残した寒空は、高く晴れて、ふと振り向いた小夜の瞳の色が黒く澄んで見えたのを、歳三は忘れていなかった。
「ああ、しばらくだな」
と、歳三は答えた。居住まいを正すと、新撰組副長に戻ろうと突っ張っている自分をぎこちなく感じた。
「芳蔵から、話は聞いた」
小夜は、小さく相槌を打ち、歳三の次の言葉を待った。
「まさか、君が坂本の密偵だとは、夢にも思わなかった」
そう言った瞬間、小夜は立ったまま、深々と頭を下げた。
「なあ」
小夜の真意を測りかねて、歳三は言った。
「ちょっと待て」
別にそういう気はなかったのだが、自然と少し、いらだったような口調になっていた。
「おれは、別に、君に謝ってもらおうとなんか思ってはいないさ。ただ、君は与えられた仕事を遂行した、それだけのことなんだろうし、それはおれたち新撰組にだって同じことが言える。つまり、これまでのことは仕方のないことだ。起こってしまえば、ただそれだけのことに過ぎない。だが、ことが露見した今、君は再びおれのもとに現れた。問題はそこなんだ。そうだろ?」
ややあって、こくり、と小夜は肯いた。歳三は煙草盆に灰を落とすと、口調を改めて、言った。
「なら、新撰組副長土方歳三として、聞かせてもらう。君は、いったい何者だ。そして、件の近江屋の一件について、君はなにを知っている?」
「最初の質問には、すぐにお答えできます」
歳三の目の前で膝を折ると、小夜は言った。
「お察しの通り、わたしは、坂本竜馬のために京都で情報収集活動に携わっておりました密偵のひとりでございました」
「・・・・・・そうか」
歳三は応えた。予想できていることでも、衝撃は同じだった。
「じゃあ新撰組の密偵の情報を持ち出したのも、君なのか?」
「はい」
小夜は答えた。
歳三は、吐くまいと思っていた、ため息をついた。
「坂本様に出会ったのは、文久二年の初夏です」
それからの小夜の話は、だいたい、歳三の推察した通りだった。坂本竜馬について、江戸から、主に京都で活動し、公儀の摘発情報を集めたこと。池田屋事件では情報の伝達が不徹底で、多くの土佐浪士が犠牲になってしまったこと。また、先の油小路の一件では、伊東甲子太郎に、新撰組に狙われていると言う情報をもたらしたことなどを小夜は話した。
「ただ伊東先生は、強がって相手になさいませんでした」
「だろうな」
最後の晩の、伊東の上機嫌な赤ら顔を歳三は思い出していた。
「伊東をおれたちが始末したのは、今月の十八日だ。その日まで、君はどこにいたんだ」
「蓮台寺村の、隠宅です。坂本様の才谷名義で借りている」
「君はずっとそこに住んでいたのかい」
小夜は、そっと首を振った。
「いえ。普段は主に、藩邸に。容態がひどいときは、薬をいただいて、ほとんどあそこで寝ておりました」
ここまでの話は確認に過ぎない――――歳三は、まずはひとつめの核心に触れることにする。
「竜馬が死んだときのことを、君は話せるか」
「・・・・・・・・・・・」
小夜はしばらく、返事をしなかった。しかし、視線を伏したまま、かすかに乱れた息遣いを整えると、意を決したのか、歳三に首肯してみせた。
「話してくれ」
「まず、お話しておくことが、あります」
小夜は、恐るべきことを言った。
「・・・・・・坂本様を殺したのは、わたしです」
呼吸が荒くなった。小夜は、床に手をついた。その発作には、歳三も少しは慣れてはいた。過呼吸になりそうになる。歳三は、背中を抱き、気持ちを鎮めてやると同時に、奥に控えていた芳蔵に、水と紙袋を持ってくるように指示した。
その歳三の手を、小夜は気丈に握って応えた。
「・・・・・・大丈夫です」
「本当か」
小夜の告白に歳三自身の声も少し、震えていた。体温の低いその手を、もう少し強く握ってやる。歳三の問いに、小夜は息を呑んで、ええ、と、答えた。歳三はもう一度聞いた。
「話せそうか」
「・・・・・話せます」
小夜は、やがてゆっくりと、話を始めた。
十一
「あの晩」
 と、小夜は言う。十一月十五日の晩のことだ。小夜は、蓮台寺村の例の隠宅にいた。夜半、唐突に屋敷を抜け出して、川原町の坂本のもとに行った。行きは駕籠を使った。近江屋の玄関にいたると、そこは静まり返っており、廊下に黒い血がまだ生乾きのまま渦巻き、さらに奥に顔見知りの手代の男が倒れているのを見た。
 「・・・・・藤吉はすでに気を失っておりました」
 襲撃直後である。犯行時刻から、発見時まで四半刻(三十分)ほどのブランクがある。つまり、小夜が来たのは、その間ということになる。
 「君は下手人の姿をみてはいないのか」
 「いいえ、直接は」
 小夜は首を横に振った。彼女が来たときには、刺客集団は、完全に引き上げた後だったのだろう。
 「それから、どうした?」
「わたしは、土蔵の二階に上がりました」
二階では、坂本と中岡が切り刻まれて息も絶え絶えのまま、放置されていた。坂本は床の間にもたれかかっていた。自分の佩刀を肩に架けて、それを抱えるような格好で座っていたと言う。鞘は犯人に撃ちこまれて、生々しく塗りが剥げ、ささくれ立っている。
額からの出血で朦朧とするのか、頭を上下に揺らしていたが、まだ意識はあった。小夜の衣擦れの音を聞き、ややおとがいを上げたからである。
まだ、目は見えたようだ。顔を上げて、小夜の姿を確認すると、かすかな声でその名前を呼んだ。
「やられたわ。ハチが割れちょる」
坂本は、自分の額を指すと乾いた笑い声を立てて、そう言った。坂本によれば、直接手を下したのは、公儀見廻り組のグループであったと言う。
「君はそれで、どうした」
小夜は思わず、助けを求めようと引き返そうとした。しかし坂本に袖を引かれて、はっと我に返った。
「監視を逃れて、隠宅を逃げてきたわたしが、どこから助けを呼べるのか、と坂本様は仰いました。・・・・・確かにそれは、もっともな話でした」
「やはり、君は監視されていたんだな」
小夜はこくり、と肯いて見せた。
「先刻の高砂屋で、質草を取りに来る君を見張っていたのも、その一味か」
「・・・・・・・いいえ」
小夜は意外なことを言われたというように、目を見開いた。
「二人組みだ。ひとりは黒い頭巾で顔を隠している。たぶん、土佐のものだと思うが」
「わたしを監禁していたのは、薩摩藩のものたちです」
「本当か」
ええ、と小夜は、軽く肯き、
「近江屋に坂本様が潜伏している、との情報を見廻り組に流したのも、薩摩藩の差し金だったのです」
「へえ」
歳三にとっても、これは衝撃的な事実には違いなかった。
実は坂本竜馬と薩摩・長州藩は、大政奉還後の旧幕府、徳川家の処遇について揉めていた、と言われている。
旗本八万騎、所領四七〇万石を領する徳川家は依然、強大な発言力を持っている。また、最後の将軍徳川慶喜は、大政奉還後の新政府構想として、大坂遷都を行い、アメリカ大統領制のような二院制政体を画策していた。将軍・慶喜は朝廷公認の新政府のもと、完全な合議制を実現した後は、大政奉還後も、結局主導権は徳川家に還ってくると言う腹積もりでいたのである。
それを脅威に考えた薩長藩は、あくまで武力倒幕による完全な徳川家の討伐を考えていたのだ。ただしその場合は、いまだ日本最大の動員兵力を持つ幕府軍との全面衝突を覚悟せねばならなかった。坂本は国力をいたずらに浪費し、日本各地を戦火にさらす倒幕戦争は、今後の日本のためにも、避けるべきだと考えていた。
内乱で荒れ、疲弊した国は、領土を割譲させられた隣の清国(中国)しかり、大量の奴隷を国外に流出することになったアフリカの諸国しかり、欧米列強の餌食になる可能性が高いことを危惧していたのである。
坂本は、長崎の武器商人グラバーなどと結び、薩摩・長州藩の必要とする西洋の最新式兵器の供給を一手に引き受けていた。そもそもの大政奉還への圧倒的な転機となった第二次長州征伐での、長州軍の勝利も、坂本が慶応二年(一八六六年)の薩長同盟において、長州軍に最新式の兵器を供給し、藩兵の近代化を図ったことが大きかったのである。その坂本が、話を下りると言い出したことは、一種の裏切り行為に近いと、薩長側にはとられても仕方が無い。
「・・・・・まあ、読めてはいたことじゃき」
坂本は意外だと言う風には、受け取っていなかった。ただ、来たるべきときが来た、と言うように、苦笑しただけだった。
さらに同じ公儀でも、新撰組に情報を流さなかったのは、別に私怨があったからだろう、とも、坂本は言った。
公儀は公には、坂本竜馬の暗殺に同意はしていない。げんに新撰組も、坂本の居所を探しはしたが、それは、京都守護職預としての面子があったからだ。見廻り組にも同じことが言えたが、それとは別の事情もあった。紀州藩の三浦休太郎のことである。そもそも、衝突した船の損害賠償金を払わせられたいろは丸の事件で、坂本に煮え湯を飲まされた三浦は、ひそかにその恨みを募らせていた。そこでこの機会に坂本の暗殺を、見廻り組に頼んでいた。三浦は京都政界の大立て物で、見廻り組の責任者、佐々木唯三郎と親交が深いと言われている。
佐々木は、元は講武所の責任者の一人である。新撰組に話が三浦から話が回ってこなかったのも、元来、出自定かではない新撰組より、直参旗本の子息で構成された見廻り組の方が、筋目としては正しく、三浦にとって信頼できるというのがあったのだろう。
それに動機は一言で言うと、私怨である。由緒正しい武士の自分の面子をつぶされたことから恨みが端を発している。事後の影響の重大さを考えて、実行犯の名前は出ないほうがいい。派手な事件を起こして名前を挙げてきた新撰組では恨みを感覚として共有できないために、どうしても利害関係になり、ことは明るみに出やすい。
こうした事情に付け入って、薩摩藩は暗殺のお膳立てを行ったのだと、小夜は言った。
「ただ、もちろん、見廻り組の方々は坂本様を暗殺しても、それを手柄にすることは出来ませんでしたし、逆に自分たちが手を下したのだと言うことが露見することを、大変恐れておられました。そこで、その容疑を、立場上、似て非なる職分の新撰組にそらすことにしたのです」
「どうやってそんなことを」
「座敷に落ちていた蝋色の鞘」
下手人を新撰組だとする証拠のひとつである。
「あの鞘を、新撰組のものだと鑑定なさったのは、実は伊東甲子太郎様なのです」
(あの野郎)
考えてみると、伊東は薩摩藩に接近し、その遊説費用もすべて負担してもらっていた。それだけの恩を受けていれば、計画に共謀して、土佐藩や海援隊など坂本恩顧の人間たちからの疑惑の目を向けるために、新撰組が実行犯だと言う証拠をでっちあげる可能性は非常に高い。
「あれは十番隊組長、原田左之助様のものと、鑑定されました」
これについては、都合の悪いことに十七日に死亡した中岡慎太郎の死ぬ間際の証言が裏付けたと、小夜は言った。中岡は刺客について、彼らが二人をなで斬りにする際に、興奮して、
「こなくそっ」
と叫んだと証言している。この言葉は特徴的な方言で、原田左之助の故郷、伊予松山の国言葉であった。それも後々の犯人の計算だとしたら、現場の証拠となった鞘は、巨大な陰謀を象徴するものと言える。
「お陰で、もうひとつの証拠、瓢亭の下駄も新撰組のものだと言うことになってしまったのです」
「どう言うことだ」
「あれは、坂本様自身がもともと、薩摩藩の犯行を示唆するために、置いたものなのです」
京都の老舗料亭・瓢亭の顧客は、新撰組だけではない。政治的立場をもった人間たちが、利用しておりその中には、当然、薩摩藩もいた。皮肉なことに、二つの証拠品のうち、一つが新撰組のものに間違いないと鑑定されたために、もう一つの証拠品もそれを裏付けるための傍証に扱われることになってしまったのだ、と、小夜は言った。
「坂本様はもしかしたら、とこうしたことに備えて、下駄をひとつ、隠して持っていたのです。せめて、下手人の黒幕に一矢は報いるために」
坂本の頼みで、その下駄は小夜自身の手で、現場に遺棄された。だが、それは逆に、新撰組への冤罪を後押しする形になってしまったことを、小夜は悔やむような口調で言った。
「・・・・・そして坂本様は、自分は頭をやられたのでもういかん、楽にしてほしい、と最期にわたしに頼みました」
「君が、彼の介添えを?」
小夜は、無言のまま、こくりと肯いた。
傍らの中岡慎太郎に坂本は別れの挨拶を告げると、静かに目を閉じた。当の中岡からは、すでに意識を失っていたのか、返事はなかった。
「頼む」
と、坂本は言った。小夜は、もっていた懐剣で座っている坂本の鳩尾辺りに刃を向けた――――柄を握る手が、さすがにぶるぶると震えた。すると、小夜の華奢な手のひらの上から坂本の大きな手が、そこにしっかりと添えられた。
二人は、最後の挨拶を目線で交わした。
そこからは、本当に一瞬のことだった。刃が意外と軽い手ごたえで突きこまれ、続いて、どすん、とそこに身体ごと預けられたような、重さが乗った気がした。
「これは持っていっちくれ」
うつぶせになった坂本の身体から、小夜はその懐剣を抜き去った。暖かい血潮が、小夜の手のひらにもこぼれかかったと言う。息も絶え絶えの坂本の声が続く。
「窓から出るとええき。・・・・・・そろそろ、使いに出た峰吉が帰ってくるきに」
そのとき、下で騒ぎが起こった気配がしていた。第一発見者、土佐藩下横目の島田庄作が、駆けつけたのである。
「はよう、行け」
裏の道具店井筒屋とは、屋根伝いになっている。小夜は血刀を懐に隠しながら、格子を開けて外に飛び出した。
それから、小夜は本能寺裏の長州藩邸で保護を受けた。以降は、長州藩の監視を受けて、その藩邸屋敷に軟禁されていたと言う。
「君が警戒していたのは、薩長の追っ手だな」
はい、と小夜は胸を押さえながら、肯いた。不安そうに、歳三の顔を見上げていた。
「信用するさ。確かに、いくつか疑問の余地はなくもねえけどな」
と、歳三はあくまで厳しい姿勢を見せながらも、小夜に言った。
「ただ、それは次の質問に譲る。たぶん、それは君が何者か、と言うことの答えにも関わってくるだろうからな」
「・・・・・・・・・はい」
小夜はどうにか呼吸を整えて、ふーっと、長く息をついた。そのとき、芳蔵が湯飲みに砂糖湯を持ってきた。歳三はそれを小夜に与えて、ひといき、吐かせてやった。恐らく、ことが起こってから、誰にも話さなかったし、話すことが出来なかった部分だ。坂本と小夜の関係が深ければ深いほど、今も傷は根深いだろう。
「坂本も、君のことを、最期まで気遣っていただろうな」
歳三は、言わなくてもいいことを口に出したと思った。顔をしかめて、小夜から視線を反らす。
「・・・・・いえ、わたしの問題は、本当は、もう解決がついていたことですから」
小夜がぽつりと言ったことの真意を、今の歳三がはかることは出来なかった。孤独であることを、今は使命感が補ってくれている。歳三はそのとき、彼女をそう言う風に一応理解をつけておいていた。
「次は君への質問だ」
歳三は、小夜の気持ちが落ち着いたのを見計らって、言った。
「まず、こう聞こう。・・・・・・君は、ここへなぜ、おれを呼び出した? もともと、坂本と君にとっては敵方にあたる新撰組のおれを」
「ひとつには、あるものをお渡しするためです」
「あるもの?」
「正確には、あなたからある方に、それをどうにかしてお渡し願いたいのです」
小夜の合図で芳蔵が持ってきたのは、雑記帳と思われる一冊の帳面だった。中には小夜のものと思われる丁寧な字体で、びっしりと何事かが書き込まれている。
「これは?」
「中身は、お読みになっても結構です。ただ、近いうちにあなたのもとを訪れるその人物に、必ずそれをお渡しください」
「それは誰のことを指しているんだ?」
「勝麟太郎先生です」
開国派の幕臣で、坂本竜馬の師だ。幕府の海事担当者にして、一貫した開国論者。一時は職を辞していたが、昨年の長州征伐の折には、呼び戻されて今、徳川家と薩長藩との折衝役を買って出ている。海舟の号の方が、名前が通っている。
「これを勝海舟にかい」
歳三はぱらぱらと中身をめくってみたが、読む気にはならなかった。たぶん、勝海舟に宛ててのものとするならば、恐らく、国家運営、または幕府上層部に関わる高度な政治的内容だろう。
「これは、君が書いたものだろ?」
竜馬の話した内容を筆記したものかとは、漠然と思った。その質問に小夜は肯いた。
「坂本様は最期に、勝先生にお読みいただくよう、わたしに頼んでおりました」
「しかし、新撰組のおれが、容易にこの男に会えるもんかねえ」
「ご心配には及びません。土方様、あなたは近日中に勝先生に、お会いすることになるでしょう。そのときにお渡しを」
「勝には、君から連絡がいってるのかい?」
「いえ」
と、小夜は言った。
「でもあなたなら、必ずお会いになれます」
「本当に?」
彼女は微笑んで肯いた。歳三は馬鹿馬鹿しい、と言う口調でなにか皮肉めいたことを言おうとした。
「君は」
そのとき。
はっ、と不思議な既視感に、歳三は捉えられたのを自覚した。
小夜―――目の前にいるこの女のことを思い返すときに、たびたび感じていた、時間を越えた不変な、どこか超然とした感覚。例えば今のように小夜は、歳三の顔をみて微笑んだことがある。そしてその後、たぶん、同じような感覚を経験し、以後に同じようなことが起こったことがある。歳三は気づいた。
この異様な感覚の印象が、ある言葉に繋がっているのを。それは、たぶん、歳三が初めて小夜に出会ったときも、どこかで経験していたものだ。
「ソコワレ」
その言葉に、小夜は、はっと目を瞠り、思わず目の前の男の顔をはじめてみたように見返した。歳三はその、目をみた。
「ソコワレ、とはなんだ?」
「・・・・・・・・・・・」
衝撃から醒めた小夜は、急速にいつもの小夜に戻っていった。凍った池に小石が開けたふいの一撃が、ゆるやかに、だが何事もなかったかのように、たちまち凍りついて瑕を塞ぐように。禁忌を知るものの顔は、再び氷結して動かなくなった。
「答えてくれないか」
歳三はなおも聞いた。
「・・・・・古より」
しばし逡巡を見せた後、小夜は言った。それは寝物語を語るような、細く、たゆたうような調子の声だった。
「そまびと、きじをなりおう人々のうちにて口伝えに伝承あり。里人に堅く秘して曰く、ソコワレは、ひとがまなうらより秘せしよろづごとを判ずる忌むべきものどもなりと」
「・・・・・・・・・」
それだけ。言うと、小夜は、手をすっと引き、後はなにも語ろうとはしなかった。

「お約束、堅くお願いいたします」
小夜は言った。外はすでに暗くなり始めている。
芳蔵が提灯に火をつけて、後から出てきた。薄暗がりの中で、少し遠ざかれば、人ふたり、溶けるように影は消えてなくなる。
「君はどこへ行く?」
歳三は聞いた。
「しばらくは、存知よりのところに身を寄せます」
「薩摩か長州藩かい」
「いえ」
もはや戻れはすまい、と言う風に、小夜は首を振った。
「でも、大丈夫。自分の身ひとつくらいは何とでも出来ます」
「どうぞ」
芳蔵は、彼にも提灯を渡してくれた。それを受け取る。
「そこまで、送ろう」
小夜は、躊躇するような気配を見せた。芯は限りなく強い癖に、不意打ちの、ちょっとした決断に迷う。妙な葛藤がある。こう言う女だ。その可憐さを、坂本はどう言う風に愛したのだろうか、などと、邪推したくもなる。
「遠慮は無用だ」
歳三は言い、苦笑した。ふと出た自分の未練に少し、自嘲気味なところもある。
「この期に及んで、君を尾行ようなんて思いはしねえさ」
「・・・・・いえ」
そんなつもりで躊躇した顔をしたのではない。小夜は、そう言う顔をする。歳三は思わず吹き出しそうになった。
「旦那。小路をみてきます」
芳蔵は言い、先に走って道の様子を見に行くことにした。提灯の明かりは、すぐに足音の気配だけになって遠ざかっていった。
その間、二人は無言だった――――話すべきことは、ほとんど話したかと言えば、そうではないが、もう話をする空気がここにはない。なにを聞くのも、今は下らないような気がした。
小夜は歳三から、半歩分ほど離れて、じっと自分の足元を見つめている。歳三は月を見ていた。小夜がなにを考えているかなどと言うことは、もう、考えないことにしている。
黒雲が澱んで流れた後は、滲むような紅い半月だ。こんな日は、夜目が利かないから、なるべく一人で行動しないほうがいい。京都に来てから、こんなことばかり考えている。日野の田舎で同じ月を見上げていた頃より、ずっとましな身分になったはずなのに、人生とはつくづく不思議なものだ。
二人はなぜか同じタイミングで、自分に疲れたように、白い息を吐いた。
「遅いな」
ふいに、歳三が言った。
小夜も不審そうに芳蔵の去った角を見た。たぶん、五分は経った。警戒して遠くまで見に行ったにしても、時間が掛かりすぎている。
「小夜、後から来てくれ」
歳三は提灯を小夜に預け、先に歩くことにした。
左手で、佩刀の鯉口を切っている。そちら側に身体を開き、後方からついてくる小夜を灯火の気配で確認した。利き腕は、攻守ともに自由になっている。どうやらそれが、このときの明暗を分けた。
水桶の積んである小路の角に差し掛かったときである。歳三の背後に、ふっと涼しい風が吹いた気がした。
「ウッ」
次の瞬間、殺気を感じ、自分の背中側に向けて身体を開いた歳三の耳のうちで、みしり、と骨が軋むような音がした後、右肩に焼けるような痛みが走った。とっさに気配を感じて反応出来たのが、この場合唯一救いだった。身を切りそこねた刺客は歳三に身をかわされて、勢い余って、その足元につんのめっていた。
―――追ってきやがったか。
黒覆面の男の体格に見覚えがあった。先ほどの高砂屋から、追ってきたに違いなかった。歳三は後ろの小夜に向かって、
「走れ」
さすがに小夜も場慣れしていた。歳三の声に、一言も動揺することはなく、提灯を捨てて芳蔵の出た反対方向から逃げ去った。
小夜の棄てた提灯が、足元を明るく照らしている。表紙を焼いて、燃え上がりそうに、中の炎がゆらめいていた。
「たびたび、会うな」
歳三は、呼吸を悟られないように、軽口を言った。全身にびっしょりと脂汗を掻いているような気がする。痛いが切れてはいないはずだ。経験で分かる。右肩は打撲傷だ。だが、右腕が痺れて、今しばらくは、剣は握れないだろう。まず時間を稼ぐ必要があった。
「切れてないぜ。なまくらだな」
壁を背にして移動する。
刺客は、起き上がり再び正眼に剣を構えたが、無言のままだった。
「どこの藩の人間かは知らねえが、腕は大したことねえな」
刺客の心得として、声は出さないのは基本だ。なにか言葉に出せばそれは、相手に隙を与えるのみならず、目的を達成する以外の感情の発露を許すことになる。
「名乗れよ、礼儀だぜ。それとも腕が恥ずかしくって、名前は言えねえか?」
剣を頭の上まで振り上げ、刺客はもう一度向かってきた。歳三はそれを右側へいなした。左手で手桶をとって、そこに投げつける。剣の重さと勢いで、膝を突きになりそうになるくらい前にのめった相手は一瞬の戸惑いを見せた。
(逃げられる)
歳三はすぐに悟った。見切りをつけるのも、生き残るには肝要なことだ。歳三は走ろうとした。
「馬鹿野郎っ、なにをしてやがるっ」
ふいに背後から走りよってくる足音に、歳三は動きを止めた。芳蔵の消えた方向から、もうひとりが駆けつけてきたのだ。
「追えっ、女ァ、逃げるぞ」
もうひとりは、同じく覆面をしているが、初めての顔だ―――声が年嵩だ。
歳三を斬ろうと、強がりの刃を向けていた刺客は、その声で我に返った。歳三が足音に振り返った瞬間、草鞋が脱げそうになりながら立ち上がり、小夜の消えた方角に向かって走っていった。
「ちっ」
最初に手傷を負ったことで、もうひとりの存在に気が回らなかった。みると裾をからげ股立ちをとりながら、抜き身を下げた男が走ってくる。
間合いが広い。男は身体ごと飛び込むようにして、歳三に片手殴りの一撃を浴びせかけてきた。片手で人を斬るには、相当の膂力を要するものだ。それを躊躇無く放ってくるこの男の腕は、確実にもう一人より数段上と思われた。
歳三は後ろに跳び下がり、その男をかわした。重い刀をあれほど思いっきり振り回しても、態勢が崩れていない。そのまま、両手に切り替えて、右に切り上げて来た。歳三はこれも十分に間合いをとってかわしている。
次の一撃は真っ向、両足を踏ん張って脳天をぶち割る唐竹。
雀蜂の羽音のような、重たい風切り音がすぐ耳元でした。渾身の一撃である。壁際に追い詰められていた歳三は、とっさに左に転がり込んで辛くも命を拾うことが出来た。
刃は、水桶を正面から斬りこんで停まっている。水飛沫が跳ね上がる。その隙に立ち上がった歳三は、間合いをとり、鯉口を切ると反射的に右手で柄を握るが、右手に力が入らず抜く自信が無い。
「女の足だ」
白い息を吐きながら、相手は言った。左右に移動しながら常に喉仏を狙うように、切っ先を突きつけてくる。
「・・・・・そろそろもう、捕まったかもな」
目線を後ろにやる。誘いだ。すぐに対応できるだけの自信があって、あえてしている。この男の腕なら、乗れば、即座に斬られる。
「おめえも、名乗りはなしか」
駆け引きは相手に呑まれたら、終わりだ。歳三はため息をつくと、悠長な口調で言い返した。
「無宿人、鉄蔵だよ」
男は伝法な江戸弁で返した。歳三も同じように返す。
「馬鹿言え、そいつはもう捕まって今頃国許で首になってら」
「詳しいな」
くっ、と、なぜか相手が失笑を漏らした気がした。そのまま、胴を狙って、諸手で突いてきた。突くほうが、斬りつけてくるより、数倍厄介だ。隙が無い上に、致命傷を狙われやすい。さらに暗闇で、刃先も見えにくい。
着物が破れた。首を突かれた気がした瞬間もあった。だんだん、かわすのも際どくなってくる。そろそろ、このこう着状態を打開する手を考えねばならない。右手の痺れはまだ、相手の力量についていけるほど十分に動くとは思えない。
左の袖を突かれた瞬間、歳三は付け入ってその腕ごと抱え込んで引き寄せると顔の中心めがけて、頭をひねってぶつけた。鼻骨の感触が額に残った。男はうめき声をあげて、のけぞった。刃が腹の横を滑り落ちる。
取り上げようと、歳三は手を伸ばした。だが一瞬、男の方が早かった。
切っ先が、歳三のあごを突き上げる。
「抜かせねえ」
刃を突きつけながら、男は立ち上がった。反対の手で曲がった鼻を押さえている。月明かりでみえたその容貌は、火傷で引き攣り、まるで、赤鬼のように醜悪なものだった。歳三は屈んだまま、それを真っ向から睨みつける。
びん、と弾かれるような殺気が伝わってくる。このまま首を打つか、刃先を喉につきこめば、勝負はつく。切っ先を弄ぶようにふらふら上下させ、男は乾いた笑い声を立てた。
「土方さんっ」
突然、声が立った。
聞きなれた声だ。
闇の向こうからもうひとり、駆けてきていた。提灯が揺れている。新撰組の定紋がついていた。注意がそれる。
その一瞬で、歳三は立ち上がった。抜く手を見せる。二対一になり、形勢が一気に逆転した。そう思わせるための威嚇。男は歯噛みした。抜き身を下げたまま、歳三が来た小路に向かって奔る。
頭のいい男だ。機をみて、危険を踏む喧嘩はしない。
逃げるとき、唾を吐き出した。
それが、その男の捨て台詞のようなものだった。
(次はな)
駆けつけたのは斎藤一だった。鯉口を切りながら、すぐにでも抜き打ちを浴びせられる態勢をとっていた。
「大丈夫ですか」
「なぜ、こんなところにいるんだ」
その質問に、男が逃げた小路を見ていた斎藤は意外そうに答えた。
「灰買いの芳蔵と言うやつに、呼ばれていたんです。急用があって、土方さんが呼んでいるからここに来いと」
「芳蔵がか?」
万全を期して、ぬかりなく手は打っていたようだ。
「ええ、ですが行ってみると、そいつはいないし、こっちで騒ぎはあるし。もしかしたらと思って、とりあえず、駆けつけてみたんですよ」
「助かったよ。まさかお前が来てくれるとは、思わなかった」
珍しい歳三の感謝に、斎藤は、照れくさそうに首を掻きながら応えた。
「沖田さんが自分の代わりに行ってくれ、ってうるさくって。でも、まさか、本当に、こんなことになってるとは、思いもしませんでしたぜ」
「女を追ってるんだ」
「ええ、それも沖田さんから聞いてます」
「さっき、もうひとりの奴に追われて、おれが逃がした」
「女の足だ。二人で探せば、どうにか捕まるでしょう」
年不相応の場数を踏んでいる斎藤の悠長さが、今の歳三には救いだった。
「行こう」
「ええ」
斎藤は肯くと、歳三の後について奔った。
十二
切れてないぜ。
陸奥の胸は、早鐘を打つように高鳴っていた。女を追って、さっきから十分以上も全力疾走しているからだけではない。こみあげてくる何かが焼けついて、胸のむかつきがとれなかった。信じられないほど気分が悪い。このままでは、道端に倒れこんで胃の中身を吐いてしまいそうになるくらいに。
なまくらだな。
斬ったと思った。初めて、刀で人を殺したと。無我夢中で斬りつけた。重たく丸い、なにかを思いっきりぶん殴ったような感触だった。手首を捻挫したか、腫れぼったく熱い。拳で殴ったのと、比較にならないほどの衝撃が手に残っている。
命の重さだ。
(おれでは御しきれないものか)
陸奥は抜き身を下げたまま走っている。前方に、小夜の姿を見失わないようにしながらだから、仕舞う暇もない。重さで腕がたまらなくだるくなってくる。こんなに厄介なものを、腰から下げていたのだ。武士として生まれ育ったのに――――今まで、まったく知らなかった。
女の白い影は路地から路地へ移動していく。着物の柄が浮き上がっているのが、夜目にもよく見える。なにしろ、女の足だ。このままへばらなければ、逃すことはない。
右腕が上がらなくなってきている。陸奥は舌打ちすると、刀を打ち捨てた。代わりに、懐の拳銃を抜く。右腕が跳ね上がるように、楽になった。よほど、こちらの方が自分にとっては頼りになる気がした。
角から、角へと。
女は夜の街を逃げていく。その逃げ方は、慣れているだけになかなか、巧みだ。
「その小夜って女は、坂本に言われて大分汚い仕事もしてたらしいな」
そうした言い草を好む浜岡が、いかにも嬉しそうに語った言葉が、脳裏をよぎる。
「土佐の地元で、勤皇党が壊滅してこの方、結成当時に名前を連ねていた坂本竜馬にも、国元から刺客を送られたらしいぜ。どうやったかは知らねえが、そいつらを煙のように始末しちまったのが、あの女らしい」
(裏仕事か)
陸奥の知る限り、竜馬は暗殺や仲間内の粛清などと言ったことには手を染めなかった。もちろん、それは陸奥と竜馬の関係から見ただけのことで、ある程度の危険な裏仕事なくしては、彼のビジネスが成り立たなかっただろうと言うことは、十分に分かっている。例えば、師事している勝海舟のために岡田星之助という男を竜馬が暗殺しようとして行動したと言う話も、陸奥は坂本自身の口から聞いたことがある。
(汚い女だ)
複雑な、嫉妬だった。竜馬が自分に見せなかった顔を、深町小夜という女は、知っている。知っているだけでなく、一部として担っていた。そしてその裏面は、陸奥にとっては、自分の中の在りし坂本竜馬の記憶の中に、容れたくない色彩のものでもあるかもしれないものなのだ。
あの女の手は竜馬のために汚された。思えば、もっとも哀れな女なのかもしれない。しかし、彼女が最後にその手を竜馬自身の血で贖ったことで、陸奥の中ではすべての罪は、そのまま生きているあの女自身にすべて転嫁されていく仕組みになっている。
(罰するべきだ、彼女を)
事実は違う。志あって、竜馬も手を汚したし、陸奥自身もその覚悟をもって常に自分の仕事をしていたつもりだ。
(彼女自身も贖罪を、望んでいるはずだ)
ただ、あの女は竜馬にその一部を分かたれしかも共有し、陸奥にはついに、その機会が巡らなかっただけのことだ。
(おれが罰する)
吐き気を振り切って、陸奥は全力で前に走った。
「停まれ」
声に思わず振り返った小夜は、自分を狙う銃口をみて、はたと足をとめた。前方の曲がり角に逃げれば助かったかもしれないが、まだ、一歩、遠かった。女の足より、陸奥が引き金をひくほうが、断然速い。
「停まるんだ」
意外と若い、女だった。近江屋の夜は、格好の乱れがまず特徴になって、その容貌にまで注意がいかなかった。
肌がわずかな光をも弾くように白く、首が長い。陸奥と同い年か、少し上かも知れない。陸奥は思わず見とれた自分を恥じた。
「深町小夜」
ふと、小夜が瞳を開いた。
闇の中でそれが猫のように妖しく輝く。
「・・・・・あなたは」
初めて聞く声は、まるで霞のようなかすかな声だった。
「海援隊の陸奥陽之助だ」
女は面を伏せた。神妙そうな、風情にみえた。
「坂本さんが殺された晩、おれは君に会った」
「・・・・・・・・・・・」
「君が坂本さんを殺した。すべて、知っている。証拠もある。おれが話してもいいが、君がみなに本当のことを話すべきだ。いずれにしても、君はおれたちの前に姿を現す義務がある。だから、大人しく、こっちに来るんだ」
銃口を突きつけながら、陸奥は迫ったが、小夜は身じろぎすら、しなかった。反対側の手を出して、陸奥は小夜を引き寄せようとした。
「・・・・・来るんだ」
女は大人しく従う気配をみせた。陸奥は一瞬、無意識ながら力を抜いた。だが、そこに付け入られる隙を与えた。
差し出した陸奥の腕を、小夜は両手で掴んでひねり上げた。不意を突くことに熟れた巧みな動きだった。陸奥は腕の痛みに膝をつき、地面に転がりそうになった。だが、小夜にも誤算はあった。ひねりあげた腕が、銃を持つ方の腕ではなかったのと、女の着物で動きがとりにくいことだった。
倒れそうになる刹那、陸奥は足を大きく開き、なんとか踏ん張った。右手の銃をぴたりと、小夜のあごに押しつける。鉄の無慈悲な冷たさを味合わせてから、もう一度警告する。
「大人しく、おれと来るんだ。いいか、これ以上はもう言わない」
「・・・・・・・・・・・」
銃を突きつけたまま背中を抱き、背後から包み込むように身体を入れ替えると、小夜はもう抵抗しなかった。もちろん、油断は出来ない。先ほどの身のこなしからみても、相手は数段、こうしたことに場慣れしていた。
足音がした。ばたばたとこちらへ駆けてくる。随分と無神経な足運びだ。小夜を連れて路地を出ようとした陸奥は思わず、陰に隠れた。
(・・・・・・浜岡か)
土方を斬ったのか。上手く巻いてきたのか。いずれにしても、抜かりはない。その点は認めざるを得なかった。小夜の肩越しにつと、陸奥は顔を覗かせた。
提灯が、がくがくと上下に揺れている。
出てきたのは、陸奥が見たことのない若い武士だった。
(別人か)
拍子抜けした。ため息をつきながら、路地を出ようとすると、ふいに後ろから、誰かに肩を叩かれた。
「陸奥陽之助」
自分の名前を呼ばれてのんきに、陸奥は振り返った。その瞬間、踏み込んできた土方が握った下駄の朴歯が、その左頬にめりこむようにして、激しく叩き込まれた。

「大丈夫か」
小夜はこくりと肯いた。歳三は彼女の足を気遣いながら、その手を引いて走った。さっき、海援隊の黒頭巾の男を殴った下駄を指から離して投げた。
「土方様こそ、肩は」
「気にすんな」
どうにか動かせるようにはなっている。たぶん、打ち身で骨には響いてはいまい。
「問題は君の方だ。海援隊のやつらも君を狙ってるぜ」
「はい」
歳三が言外に匂わせた意味を、小夜は追わない。
「覚悟はしております」
立場上、歳三もこれ以上は小夜をかばいえないことを、彼女は知っていたからだ。だから歳三自身も、はっきりと自分のもとに来いとは言わない。頼まれたら、全力で彼女を匿う努力をしただろう。二人は無言で後の道のりを走った。
「土方さん」
提灯を目印に、斎藤が待っている。刺客はもういないようだ。
「無事ですか」
「ああ、こっちもどうにか逃げ切れたようだ」
斎藤の視線に気づき、二人はあわてて手を離した。
「ありがとうございました」
ここで、と、小夜は言った。斎藤が驚いて聞いた。
「おい、大丈夫なのかい」
「万が一の場合も、芳蔵が手配を済ませてあります。もし運がよければ、本人ともそこで落ち合えると思います」
「斎藤、少し外してくれ」
言われる前に、斎藤は歩き出していた。
小夜は向き直ると、歳三に深々と頭を下げた。
「・・・・・頼みごと、厚かましき限りのことながら、よろしくお願いします」
「ああ、引き受けたからには、こっちも最善は尽くす。その点については、心配しないでくれ。それと」
言うと、歳三は、懐から二つ、三つほどの薬包みを出して、
「君の忘れ物だ。時計の抽斗の裏に隠してあった」
「それは・・・・・・」
小夜は、はっとした表情をした。思わず顔を上げた。歳三の手から、ぽろりと落ちた包みを双の手のひらで受け止める。
「坂本の子かい?」
視線を下げると、歳三は唐突に聞いた。
「・・・・・・はい」
小夜は逡巡するように、言葉を詰まらせると、かすかな声で言った。伏し目にした先の華奢なその手が、やはりいとおしそうにまだふくらみの目立たない、下腹部を撫でていた。その手をとってこちらへ引き寄せようとする誘惑を、歳三は、ため息で抑えた。
「そいつを使うのは、君の自由だから返しておく。でも、この薬は孕み子だけじゃなくて、君の腹も腐らすぜ」
小夜はなにも答えなかった。ただ、腹の中の子を慈しみながら、静かに涙を流していた。
「京へ上る前、薬の行商をしてた―――多摩から、江戸まで売りに行ったんだ。子どもを堕ろすんなら、江戸で、評判の薬を売ってるところを知ってる」
「知ってます」
わたしも。
小夜は涙声で応えた。もう一度、噛み締めるように同じことを言った。そちらはかすれて、言葉にはならなかった。小夜は、どちらについて知っていると答えたのか、そのとき歳三は分からなかったし、気にも留めはしなかった。ただ、余計な世話を言っただけかと、苦笑しただけだった。
十字路の反対方向に、小夜は別れていく。斎藤が護衛を提案したが、やはりここから、ひとりで行くことにした。どこへ行くのか、歳三はついに聞くことはなかった。もはや、彼女がどこに行こうと、自分には関係のないことには違いないと納得したせいもあると後で思った。
「明後日」
別れるときに、小夜は言った。
「花屋町の天満屋で、土佐海援隊の有志が坂本竜馬雪辱のための襲撃を決行します。肝腎の仇相手は、紀州藩士、三浦休太郎」
「明後日」
予想はしていたことだが、日時が割れたことはありがたかった。歳三は斎藤と顔を見合わせた。
「三浦は、痩せても枯れても紀州御三家の侍だ。新撰組も職務として、護衛の任務は全うするさ」
「・・・・・・では、その節には」
言って、小夜は歩き出した。もはや振り返ることはなかった。
では、その節には。
小夜の言葉が、歳三の心に少し引っかかった。
「土方さん、あの女はいったい何者なんですか」
小夜が去ってから、斎藤が訝しげに聞いた。
「密偵さ」
もちろん、歳三は本当のことを答える気はなかった。
「もちろん、おれの、な」
今夜も、冷え込みがきつくなってきている。
歳三はふと、戻ってからのことを考えた。
十三
早朝。
菰をかけられた遺骸に、歳三は小夜の分まで手を合わせた。
芳蔵の死体は、明け方になってから、ようやく発見された。
どぶ板を破って、頭ごと冷たい水の中に落ちたまま、一晩放置されていた。
太刀筋は、昨日のもうひとりの男に違いない。右袈裟から臍の下までを見事に切り下げている。振り向きざまに仕留められたに違いない。驚愕のまま見開かれた眼を、歳三は静かに閉じてやった。
「・・・・・仏のところは、江戸だ」
遺体の処遇を聞かれたとき、歳三はひとこと、番所に言い添えておいた。
「もしかしたら、まだ親元に連絡がつくかもしれねえ。引き取りに来るなら、新撰組の土方が路銀を出す、と伝えておいてくれ」
そう言えば、この男のことを、歳三はほとんど知らずじまいでいた。最期にみた芳蔵の印象は、公の主従のしがらみがなくなっても、どこまでも小夜に仕えた従者のようにも思えた。彼女も芳蔵を信頼していただろう。見つかったのが朝で、芳蔵の死を、あのとき、小夜に伝えてやることが出来なかったことが今さらだが、悔やまれた。
(いや、たぶん小夜はおれたちより早く)
芳蔵と落ち合えなかったことで、それを悟ったかもしれない。常にこうなることを覚悟して、芳蔵も動いていたはずだ。
歳三は帰ってから、小夜から受け取った冊子をそのまま夜通し、通読した。中身は、蓮台寺村時代の小夜の療養記。記録と言うよりは、日誌と言うべき内容のものだった。筆跡は小夜のものが七割。それ以外の残りは、男のものと思われる。もしかしたら、坂本竜馬がつけたものかもしれないと、歳三は直感した。
少ない記述からは、努めて客観的に小夜の病状が記録してある。
「小夜、終日目を覚まさず。夢にうなされて、うはごと妄言、ときにとりとめもなく」
記録者がみた小夜は、歳三が見なかった分までの彼女の苦痛の記憶を追っていた。歳三から見ても、小夜は明らかに心の傷を抱えて生きていた。だが、その傷がこれほどまでに根深いものとは思わなかった。
「白昼夢、のち言葉少なく」
「不眠、二日食事を採らず、甚だしく細る」
「深町俊治郎の一件、再び夢にみる。その晩も眠れず」
深町俊治郎の一件。その言葉に、歳三は注目した。記述の中に再びとあったが、みてみると、その夢の話は言葉を換えて、たびたびと出てくる。言葉そのものの使われ方や前後の文脈からしてもこれは恐らく、小夜の実家のことを指している。経緯はどうあれ、小夜は一家を離れたことは事実である。追われたのか、自ら出たのか、分からないにしても。この実家でのあることが原因で、小夜が江戸にいられなくなったことは確かだ。
そして、日誌の存在を手がかりとして指し示しているものは、歳三の耳にいつまでも残るその言葉に収束していく。
ソコワレ。
ソコワレとは、なにか。
忌むべきもの。
小夜はソコワレを、そう言う風に表現した。

ひとがまなうらより秘せしよろづごとを判ずる。

呪われた因縁深い血族。

ひとのまなこの上にまやかしのようなものが見える、と言うておりましたな。

蓮台寺村北の破れ寺の和尚の言葉が脳裏をよぎる。
小夜は悪夢にうなされながら、やはり、なにかを見ていた。そのなにかを、欲しがっているものたちがいる。でなければ、坂本竜馬が亡くなった今、心に病をもった工作員の女性を確保することが、それほど重要なこととも思えないからだ。だとすれば彼女に、いや、ソコワレと言われる血族の人間にどのような情報価値があると言うのか。
恐らくこの冊子の存在も、そのことに重要な関わりがあるのだろうと、読み進むにつれて、歳三の予感は確信に近くなった。この一人の心に深い傷を抱えた女性の療養日記は、見るべき人間が見れば、まったく違った情報価値を持つことになる代物なのだ。だから小夜は、薩長藩の監視の目を逃れて、さらに危険を冒しながら、歳三にこの冊子を託したのだろう。
勝麟太郎先生に。
小夜は、そう言っていた。問題は、その勝にどのようにして会うか、と言うことである。
あなたなら、必ずお会いになれます。
あの夜、彼女は確かに本当のことを言った。だが言っただけで、その実なにもかも、明かしてはくれてはいない。
「副長、ようやっと調べがつきました」
すると山崎が、突然、歳三の部屋に顔を出した。
「そうか。忙しい中、手数をかけたな」
歳三は冊子を手文庫の中に仕舞い、居住まいを正した。
「斎藤君から聞きましたよ。明後日、天満屋で土佐方の襲撃があるそうですな」
「ああ」
斎藤には、土佐藩及び海援隊・陸援隊残党の動きを探っていたと事情を説明してある。もちろん、これも嘘ではない。
「で、なにが判った」
「深町家のことです」
「本当か」
ええ、と山崎は帳面を手繰り、
「深町家は直参の旗本でも、御家人の家でもありませんでした。公儀に一代限りの召し抱え、捨扶持をいただく、当主は本草学の学者だったようです」
「本草学だと」
本草学とは、博物学のことである。野山に分け入り、鉱物や山野草を採取して、それらの薬効を分類、研究する。
「そんな家があるのか」
「どうも見つからんかったのは、公式な記録がなかったためのようですな。そもそも深町家は、池袋村で細々と医家を営んどったようですが、あるときから屋敷を大きうして、そこに公儀の役人らしき二本差しが出入りするようになったらしんですわ」
当時、池袋村では、有名な話だったと言う。
「それが、代限りで幕府から捨扶持をもらっていたと言うことになるのか?」
「士分を称していたそうで。当主の俊治郎という男が、ところで人に吹聴したんでしょう。長く浪人の身分に零落していたそうですが、深町家は、どうも、近江浅井家の直臣を系譜に持つ、由緒ある家柄のようでしてな」
俊治郎は屋敷を大きくすると医家を手仕舞いにして門を閉ざし、急に別の仕事に専念するようになったと言う。頻繁に全国各地に足を伸ばしたり、高価な舶来物の書物や薬石を仕入れたり、湯水のようにその仕事に金を使い出した。
「出入りの商人の話ではその金は、やはり公儀から出ててたんではないかと言うことでした」
「つまり、それほどの資金力だった、ってことだ」
「ええ。それに奇妙な噂はこれだけではないんです」
やがて俊治郎が屋敷を手広にした理由を、村人たちは知るようになる。全国を奔走した俊治郎は、大量のもらい子を、この屋敷に連れてくるようになったと言う。一時期、俊治郎の家は、四十人からのもらい子の泣き声が喧しく、俊治郎は近隣の林の中に寂れた剣術道場の廃墟があったのをさらに買い取って、そこに子どもたちを住まわせた。
「この頃の深町家の金の使い方は凄まじく、一面篠藪に覆われて寂れていた廃家屋が、たちまち高い土塀を巡らした大きな屋敷になったそうですわ」
幕府の御用金ばかりでなく、この頃には、深町家は医者の本分を生かして、薬物を商うようになり、こちらでも巨利を得ていた。
「どんなものを扱っていたんだ」
「瘡の薬と、また変わったところでは、中条流」
歳三は思わず声を上げた。
「中条流だと?」
中条流とは、堕胎専門の医家のことを指す。転じて、堕胎薬のことも、この名前で呼ぶ。いわゆる隠語である。
「どちらも人目を憚ってつける薬ですからな。おおっぴらには出来ないが、江戸界隈ではよく売れたそうです。いずれも、深龍の薬と称したそうで」
「知ってるよ、そいつは」
歳三は、ぶっきらぼうに言った。
「深龍の古血くだしと言えば、江戸じゃ有名だった。肌がきれいになるって瘡薬のほうもな。品川の宿場女郎から、花魁までひそかに手に入れて愛用してたよ。こんないい薬はねえって話だったが、あるときを境になぜか、ぱったりと出回らなくなったな」
歳三が薬商いの経験を語ると、山崎はわが意を得たように、
「さいですな。まあ、ただ、こう言う薬でぼろ儲けをすると、悪い噂は立つもので。深龍が出回ってきてこの方、ぼちぼち、黒い噂も立つようになった」
「どんなだ」
「俊治郎が、もらい子の肝で薬を作ってると言う噂です」
現在、豊島区池袋と言えば繁華街の中心だが、当時は湿地に欝蒼と茂る山林地帯である。その偏狭にある不釣合いな大屋敷。しかも当主は怪しげな研究に没頭しており、二つの屋敷の門は堅く閉ざされている。もらい子の話ともあいまって、噂は広がった。
「深町家の屋敷の裏手は一面、沼地になっておるそうですがそこに、子どもの遺骸が棄てられる穴があると言うんです」
また、俊治郎はその財力に物を言わせて複数人の女性を囲っており、生まれた子も実験に供した後その穴に棄てるので、夜間、その沼の周辺には、無数の嬰児の泣き声が立つと言う怪談話にまで発展した。
この噂の出鼻は、村人の訴えも実際あったのだが公儀は別して取り上げず、深町家への注意やお咎めもなかったのだが、怪談話にまで行き着くことになると、話は江戸中に形を変えてさまざまに広がり、そのせいで、深龍薬は、ほぼ一年ほどでぱったりと出回らなくなったと言う。
「この話で、深龍薬が売れなくなったのが、契機かどうかはわからんのですが、それからすっかり、深町屋敷は寂れましてね」
俊治郎は買い取った道場屋敷を処分し、もとあった家の維持も難しくなった。ことほど、のぼるのが早かったものは、落ちるのもあっという間なものだ。囲った女たちを次々に放逐しても借財は嵩み、みるみるうちに屋敷は零落していったと言う。
そして屋敷の塀も崩れ、人気もなくなった頃、極めつけの大事件が起きた。
「はじめは、山火事の煙に村人が気づいたのが発端のようです」
ある日、屋敷が、突然炎上した。
周囲の山を巻き込んでの大火である。
番所の役人と火消しの人手が駆けつけたとき、すでに辺り一帯は火の海だったらしい。山に入った村人数名が巻き添えで犠牲になった。運良く生き残ったひとりが、事件当時の事情を語った。
その男は、代価をもらって深町屋敷に米味噌を提供していた麓の村人だった。
「亭主が錯乱して、一家皆殺しにして火をつけただ」
俊治郎は叫び声をあげ、まず、最初の妻の胸を刀で突き通し、火をかけると、血まみれの抜き身をふりかざして、屋敷中の子どもを殺して自分も焼け死んだ、と言う。
けがれじゃ。血のけがれじゃ。
金切り声をあげる俊治郎の姿をみて、男は命からがら逃げ出した。
周囲の山を巻き込んで屋敷は全焼、その後には、成人の男女二体と、五体の子どもの焼死体が発見されたという。
屋敷にどれほどの人数が住んでいたのか、それはついに判らずじまいであった。
「この事件が起きたのが、文久元年の新春」
事件後、村人たちは裏の湿地帯で遺骸の捜索をやらされた。そこで出てきた子どもの遺骸や骨の数は、屋敷で発見された数の倍を下らないと言われている。
「おれは江戸だが、耳にしたことがねえな」
「池袋村の山奥ですからな。それに、事後幕府は深町家の話を一切禁じ、少しでも関係したものには、堅く口止めしたそうです」
ちなみに幕府は人心への影響を慮って、江戸市中にも徹底的な緘口令を敷き、事件を扱った読売(瓦版売り)などは、版元ともども重く処分されたらしい。
「江戸ではそんな調子ですが、噂だけは一足早く江戸を抜けて地方に散ったらしく、江戸から東海、関西方面に行くに従って、より詳しい話集められました。特に当時、池袋村をめぐった薬売りの間ではその話は知る人ぞ知る話らしいですわ」
「よく調べてくれたな」
「お役に立てて光栄です。ですが、俊治郎の屋敷にどれくらい子どもがおって、そこに小夜と言う娘がいたかどうか、その辺りまではどうも、判然とせんかったのですが」
「いや、その点は問題ない。非常に役に立った。ありがとう」
やはり。
深町俊治郎。小夜の父の記憶。
彼女が抱えていたのは、実父をめぐる忌まわしい家族の記憶だったのだ。
「山崎君、最後に聞き忘れた。いいかい」
歳三は部屋を出る山崎を呼び止めて聞いた。
「ええ、なんでも聞いてください」
「君は、ソコワレと言う言葉を聞いたことがあるか」
急に思いもしなかった言葉を浴びせられて、山崎は少し当惑したような表情をした。
「・・・・・・調査の過程で、ですか」
「で、なくてもいい。ただ、聞いたことがあるかだ」
「ソコワレを」
「ああ」
「分かりました」
山崎は少し考えた。そして、答えた。
「ありません。個人的にも、その深町家の調査に関しても」
「・・・・・・そうか。足労をかけた」
はい、と訝しげに山崎は顔を引っ込めた。
(秘密か。・・・・・・もしかしたら、緘口令はそのためかもしれねえな)
もちろん、人の噂に戸は立てられない。深町屋敷事件の後始末に駆り出された村人たちは、ぎりぎりの線で人には語るし、一度おおっぴらに出回った人気薬のいわくつきの話だ、さまざまに形を変えても、逸話は伝播するだろう。だが、この場合、江戸っ子の好きな怪談話が受け皿になって、真相は上手く隠されている。山崎はその中から確度の高い情報をとりまとめて報告してくれたはずだ。それでも、真相の核心には到れなかったのだ。
つまり現状をこう、言い換えてもいいだろう。
ソコワレは、もともと公儀の手の中にあった。
それを今、坂本竜馬の手を経て、少なくとも薩長土がこれを争っている。
(おれに手に負える事態だといいが)
と、思いかけて、歳三は考え直した。違う。その途方もない運命の渦中にいるのは、他ならない、昨夜、歳三があの細い手を引いて守った小夜自身なのだ。

「陽之助はん」
廊下で、沢屋の女将が呼ぶ声がする。階下に、海援隊の同志が二人、来ていると言う。陸奥は重たい身体を起こした。うなり声をあげて痛む頭を引っかき、足元の鏡台を引き寄せて、自分の顔を見る。ものの見事に腫れ上がっていた。逆に気持ちがいいくらいだ。口元を少しでも緩めると、肉が引き絞られるように痛い。まったく、ひどい顔だった。
「陽之助はん、お迎えが来とおりおす」
女将が顔を出して、絶句した。陸奥は、仕方がないのでなるべく顔を引き締めることにした。
「どないしはりやしたんどすか、そのお顔は」
「・・・・・・・・・・」
女を拉致ろうとして、振り向きざま下駄で殴られたとは言えまい。とっさに言葉に詰まったが、どうにか言い訳を考えて答えた。
「遊びが過ぎましてね。酔って、橋から落ちました」
「なにか、お薬でもお出ししまひょか」
「お願いします」
陸奥は頭を下げて頼んだ。誰だかは知らないが、客ならこの顔で会うことは出来ない。昨夜は応急で顔を冷やしてみたが、やはり無駄だった。女将が薬を持ってきてくれて助かった。
その間、陸奥は腫れた左頬を手で押さえて、しばらく無言でいる。
心の中で舌打ちを繰り返している。
まったく、一瞬の出来事だった。予測もしていないし、想像も及ばなかった。土方に斬りつけたときから、無我夢中で動転していたせいもある。なにしろ、初めて人を斬ろうとしたのだ。
肘掛においた右手。その手が細かく震えていた。おれは確かに昨日、人を斬ろうとした。準備も心構えもした。しかし、斬られる準備はしていなかった。
死んでいたかもしれない。土方に殴られ、陸奥は昏倒していたのだ。意識を失ったのが、たとえ一瞬でも、命のやりとりの場ではそれが、そのまま命の終わりになる。土方が深町小夜を連れて逃げる前に、少し戻って、陸奥の首を掻いていたら、そこで陸奥は今、朝を迎えることは出来なかったのだ。
昨夜の記憶をたどっていた陸奥は、はっと身体を上げた。震える右手を左手で押さえていた。懸命に抑えていた。数にかぞえられなかった自分に、今さら気づいた。
(おれは相手にされなかった)
―――切れてねえぜ。
土方は言った。その声。
―――なまくらだな。
今でも、鮮明に耳に残っている。
恥ずかしい腕だな・・・・・おれは。
(おれは、昨夜人を斬れなかったんだ)
女将が出してくれた薬は、打ち身の薬の癖に、燗酒に卵と溶いて飲み下す胡散臭い代物だった。なにしろそもそも江戸のもので、女将もよく知らないのだが、この界隈の道場でも仕入れているというので、とにもかくにも、常備薬として買っておいたのだと言う。
袋に書かれている文字。石田散薬と言うのか。
薬を溶いた酒は、痛めたあごにひどく沁みた。こんなもんが、本当に効くのか。まったくそうは思えない。八つ当たりに、空になった袋を丸めて屑籠に叩き込んだ。そうすると、薬を飲む前よりは、少しはせいせいした気がした。
「お通ししてもよろしおすか」
「ええ、お願いします」
応えて、陸奥は面倒くさそうに寝転がった。適当にあしらって帰すことをずっと考えていた。割れるような大声が響いた。
「陽之助」
「・・・・・・関か」
一瞥すると、陸奥は興味なさそうに視線を投げた。具合が悪い。用事が済んだらすぐに帰ってくれないか。そう言おうとした。
「陽之助、お前、ようやったのう!」
関雄之助は、頭に響くような大声で言った。陸奥は背を向けたまま、顔をしかめる。
「わしゃあ、すっかりお前のことを誤解しとったき」
なんのことだと聞きたかったが、そうする気力もなかった。
「まったくお前も、にくい男じゃあ、わしらになんの相談もせんと、ひとりで身体張ってからに」
「・・・・・・・・・・」
「わしらが右往左往しちょる間に、腕っこきの刺客まで見っけて、下手人を襲撃する手はずまで整えよるとはのう」
「・・・・・・どう言うことだ」
関の意外な言葉に、陸奥は思わず顔を起こしていた。
「どうもこうも・・・・・・って、お前、なんちゅう顔しちょるんじゃ、こりゃあ・・・・・・」
陸奥の顔の腫れ具合のひどさに驚いて、触れようとする関の手を払って、陸奥は不快げに顔を起こした。その表情からは、さっきの気だるさと自己嫌悪が消えている。まったくもって、それどころではなかった。
関の後ろに、白峰が来ていた。戸口に立ったまま、陸奥の顔を見ている。その瞳が、関と同じく、感動に潤んでいた。
「陽之助さん、私も聞きました」
「白峰・・・・・・いったい、なにがあった?」
白峰はきょとんとした顔をした。
関にいたっては、不思議そうに小首を傾げている。
「どうもこうも・・・・・・・」
「白峰」
陸奥は、立ち上がっていた。白峰は、陸奥の反応と顔の様子に心底戸惑った様子だった。
「どうかしたんですか、その顔も、まさか・・・・・・」
「ちょっと来い」
襟髪を掴むようにして、陸奥は隣の座敷に連れて行った。あっけにとられたような表情の関を残して。
「どうなってる」
「え・・・・・・」
「どうなってると聞いたんだ。みんなは今」
胸倉を掴み上げ、陸奥は聞いた。その必死の表情に、白峰は思考がついていっていない。
「言えっ、お前らはこれからなにをしようって言うんだ」
白峰はどうして陸奥がこんなことをするのか、困惑の目を向けながら、喘ぐように答えた。
「どうなってるって・・・・・・え・・・・陸奥さんは、一人で動いていたんでしょう? 坂本先生を殺した、紀州藩の三浦休太郎の動きを追って」
(どう言うことだ)
「誰がそんなことを言った」
突然。突然の不意打ちだった。落ち着け。陸奥は動揺する自分に言い聞かせて、どうにか心を鎮めた。分からない。いったい、どうしてこのようなことになったのか。誰がどのような意図で。おれじゃない。順序良く、考えろ。おれはそのつもりはない。この不意打ちをした人間の意図を考えろ。そうだ。これはいったい、つまりは、誰の差し金なのだ。
「言え、いったい誰がそんなことを言ったんだ」
「ついに花屋町の天満屋で、三浦を仕留める手はずを整えたんでしょう? ことをより確実なものにするために、後家鞘の彦六などと言う剣の達人まで見つけて、同志に引き込んでくれたと、田中さんが」
「田中が?」
陸奥は思わず、呼び捨てになっていた。
「嘘だ」
つぶやきが、我知らず洩れた。
「嘘って・・・・・・・」
白峰はこれ以上、なんと答えていいのか、と言う表情になった。
奥から、のんきな関のがなり声が響いてくる。
「おうい、襲撃は明後日の予定じゃき、今日は成功を祝って、おおいに飲もうぜよ! 酒代は、わしとここにいる白峰が持つきに」
「陸奥さん」
「貸せ」
白峰を突き飛ばして、陸奥は走り出していた。そのときに白峰の長刀を奪って、腰に無理やり自分の腰に挿しなおす。
「どこに、行くんですかっ」
白峰の声が、頭の上から降る。もちろん、すでに陸奥の耳には、まったく入ってこなかった。
(なにを考えてやがる)
わけが判らない。
だが、勝手なことをされれば反吐も吐きたくなる。
やり場のない怒りが全身を貫いている。
陸奥はそれを噛みしめ、足を速めた。
十四
「土方副長、護衛の増員、指図どおり手配しておきました」
「ご苦労、斎藤君」
言うと、歳三は茶碗の中身を飲み干した。盆の上に徳利と石田散薬の袋が立てかけてある。
「大丈夫ですかい、肩は」
「ああ、問題はねえ」
歳三は肩を回して、調子を確かめてみた。剣を振るのに、支障が出るほどの痛みはない。
「さすがに、家伝の薬は効く」
歳三の言い草に斎藤は石田散薬の袋を訝しげに取り上げて、
「効くのは効くんですが、いまだにそいつがどうして効くのか、おれには理解出来ないんですよ。打ち身の薬が、どうして飲み薬なんですか」
「知るか。ともかく、飲めば効くんだ」
「そう言うもんですかね」
「こう言うのは気組み(気合)なんだよ。信じて飲めば、どんな馬鹿にも効くもんだ」
「ところで・・・・・土方副長を襲ったあの二人組、土佐ですか」
「ああ、ひとりは、海援隊の陸奥・・・・・とか名乗っていたはずだ。山崎君に聞けば、詳しいことは判るだろうが、別にいいだろ」
「・・・・・あの背のひょろ長い方ですか」
問題はもう一人のことだ。昨晩の身のこなし、駆け引きの上手さ、百戦錬磨の風格があった。真剣で切り結ぶ修羅場をくぐってきた歳三には分かる。あれは、飽きるほど人を斬ってきた人間のはずだ。
(だが、土佐で人斬りと呼ばれた男なら、もうとっくのとうに処刑されて、この世にゃいねえはずだ)
「にしても、おれは後、もう一人の方が気になりますね。見たところ、腕はおれや土方副長にひけをとらないでしょうな」
駆けつけた斎藤も初見でそう感じたのだ。いったい何者なのか。そして、明後日の天満屋襲撃にも現れるのか。もし出るとするならば、隊士に被害が広がらないように、なにか手を打っておく必要があるだろう。
「あいつが出たら、おれが撃ってでますよ。なにせ、出入りはひさびさですからね」
「それはいいが、本分を見失うなよ。おれたちの任務は、護衛なんだからな」
「へい、重々承知しておりますよ」
腕は確かだが、若い斎藤には、たまに軽はずみな癖が出る。酒を飲むと人が斬りたくなるとふいて、近藤に怒られたのを、斎藤はすっかり忘れてしまったようだった。
「副長、それより近藤先生の件はよろしいんですかい」
「ああ」
すっかり、忘れていた。歳三は思わず舌打ちを漏らしていた。
「なにか言ってたか」
「ずっとお待ちのようです。副長を見かけたら、部屋に来るようにと、会う人会う人に声をかけてますぜ」
「まずいな」
近藤は今回の近江屋の一件で、世間の風当たりを一手に引き受けている。先月も公儀に呼び出されて、痛くもない腹を探られ、叱られる必要のないことで叱責と詰問を受けてきたばかりだ。恐らく、相当にストレスが溜まっているに違いない。
「ともかく、今日一日、屯所におられるなら顔を出した方がいいですぜ」
「分かってるよ」
居間で、近藤は待っている。最近、要人と会う機会が多くなり、その方面の勉強や書簡の往来に余念がないが、今日は、仏頂面で居座っていた。
「トシ」
「いきなり説教はやめてくれよ、近藤さん」
歳三は先手を打って、近藤に言った。
「坂本の一件に関しちゃ、おれはおれでここ数日動いてたんだ」
「それは、山崎君はじめ、隊士連中からも聞いている」
口をへの字にした近藤のその表情を、歳三は何度も見ているから、だいたいのことは分かる。どうもこれは、本当は言いたいことが百万言もあるが、それを腹に収めて、とにもかくにも表に出ないように消化しようとしている顔だった。
「・・・・・・・確かに外向きの仕事を全部、あんたに任せたのは悪かったよ」
「愚痴を言おうと思って呼んだんじゃない、よく聞け、トシ」
近藤はその顔のままため息をつくと、紙袋をひとつ、歳三の前に進めた。
「これは?」
「先日、おれは若年寄長井尚志様より、城中に呼び出され、近江屋で坂本竜馬が暗殺された件について、事情聴取を受けた」
「で?」
「問題はその後、奥の間に呼ばれ、ある方からも事情を聞かれたことだ。その方は江戸留守居役で、今は京都には、おられるはずの人物だった。誰だか分かるか」
「いや」
歳三は首を傾げて見せた。近藤は静かに答えた。
「勝麟太郎先生だ」
「・・・・・・本当か」
「嘘は言わん」
近藤が話すところによると、勝はある事情があって、秘密裏に船で大坂から入ってきたと言う。京都で近江屋の一件を探っていると、勝は近藤に明かした。
「少し前は役を降ろされ蟄居していたとはいえ、今は幕閣でも有数の人物だ。なぜ、そう言う詮議をおおっぴらにやらねえんだ」
事情は推し量れることながら、歳三は聞いた。
「無論、正式なお役目でないせいであろう。それにこれは、ごく私的なことで、飽くまで内々にことを進めていると、こう、仰っていた」
「で、あんたは勝からなにを聞かれたんだ」
「それがまず、いきなりこの袋を見せられたんだよ。そして見覚えがあるか、と、出し抜けに聞かれた」
歳三はそれを取り上げてみた。
『深龍 古血くだし』
「・・・・・・お前、見覚えがあるのか」
幼い頃から、長年の付き合いだ。歳三の顔色が変わったのを、近藤はすぐに読み取った。
「勝はこの袋に関して、なんて言ってた」
「おれが特に見覚えはないと答えると、そうか、と言っただけだ。いや、あと、その後で、こうつぶやいたな」
まあ、あんたじゃねえだろうってことは見りゃあわかるがな。
「何のことを申しておるのか、拙者には皆目見当がつかぬ、と、おれは答えたがな」
「・・・・・・・・・・・」
それには応えず、歳三は袋を改めてみた。空である。当然だが、中身はそこに入ってはいないようだ。古いものらしく、文字判は薄れ、汚れや黒ずみも目立っていた。また、底の方がなにかで黒い塊がこびりついているのを、歳三は見つけた。袋に手を入れて、それを指の先につけて、匂いを嗅いでみる。
近藤は熱心な歳三の様子を不思議そうにみながら咳払いをして、
「続きを話してもいいか」
近藤が勝にその袋を返そうとすると、勝は、まあ慌てることはねえ、それに出来たら持って帰って吟味してもらえぬか、としつこく頼んでくる。これが坂本竜馬の一件となんの関係があることなのだろうか、と近藤は解せなかったが、結局は勝の勢いにおされて、近藤は不承不承その袋を受け取って帰ってきたのだというのが、話の顛末だった。
「で、勝先生は、見覚えがなかったらこれはそのままこちらで始末をしてもらってかまわないと仰っていてな。とりあえず、まず、差し当たって、そこらのものどもに見せた」
「誰に見せたんだ?」
「永倉、斎藤、沖田、こんなところだろうな。みんな知らんと言ってたが、総司のやつがともかく、お前に見せろとうるさくてな」
「それで、これをおれに見せたら、勝の野郎はどうしろって言ったんだ?」
近藤は頭を掻きながら、
「ああ、そうだ。勝先生はもし、見覚えがあるものがいたなら」
「そう言うものがいたなら?」
歳三は、すぐに聞いた。近藤はその勢いに少したじろいだ。
「いや、見覚えのあるものがおったなら、四条通下ルの瀬川屋と言う宿所にいるので、それを持参して訪ねてほしいとのことだ」
「それはいったい、いつの話だった」
歳三の腰はもう、浮いていた。また始まったと思いながら、近藤も呆れ顔のまま答えた。
「数日前だ。だが、ともかく、十二月の頭までは、可能な限りは京都に滞在すると話していたぞ」

「田中さん、話がある」
その科白を吐くまでに、陸奥の理性は冷静を保とうとする努力で必死だった。これほど、自分をコントロールできなかったことなど、かつてなかった。
(三浦が下手人だと、誰が言った)
叫び散らしたい気持ちを道中、何度か抑えた。唇を噛み、憤然と地を踏みしめる。途中、水桶のふちに身体をぶつけたとき、それを足で蹴り返して、怒りに絶叫しそうになった。
(いったい、なにを考えている)
田中は、深町小夜を陸奥が捜索することに最初から反対していた。いくつかの横槍があることも予想はしていた。事実、襲撃されたときも、陸奥はその怒りを腹に呑みこんできた。しかし、だ。
いろは丸号事件で、坂本竜馬と沈んだ船の賠償問題をめぐって争った紀州藩の三浦休太郎を暗殺の犯人と仕立て上げることに一応の説得力はある。それは認める。坂本は、天下の御三家の船と海事問題を争って、万国法という新しい基準に則って勝利を収めた。国際基準はあの徳川家をも、凌駕した。一介の脱藩浪人にしてやられた三浦は腹に据えかねたはずだ。竜馬を殺した犯人を血眼になって捜している土佐者たちへの暴走防止の安全弁としては、確かに、一時の好餌にはなるだろう。
だが、問題はその情報操作工作に、陸奥を巻き込んだことだ。田中が三浦休太郎を血祭りにあげるべしとぶちあげたとき、それにまず疑問を呈するだろう陸奥を、先手を打って口封じにしたのだ。さらにこのミスリーディングで事態の収拾をはかると同時に、この件での陸奥の動きも、なし崩し的に有耶無耶にする。汚いが、うまいやり方と言う他はなかった。
(だからこそ、冷静にならなければならない)
いつもの自分に戻らなければ、田中とは太刀打ち出来ない。
田中顕助は、土佐尊皇派の古株である。叔父の那須信吾は土佐勤皇党で党首・武市半平太とともに参政・吉田東洋の暗殺に一枚噛んでいる。相手にするには格が違いすぎることも分かっていた。
(最悪の場合、斬る)
たぶん、陸奥が今まで接してきた志士たちであれば、そう考えたはずだ。今、その気持ちが陸奥には分かった。殺意に打算はない。ただ、動機がそこにあるだけだ。
「田中さんを呼んでくれ。話がある」
陸奥は白川陸援隊の本部に行き、田中を呼び出した。上手くその言葉が言えたのか、別に注意が行き過ぎていて、気づいたときには、取次ぎはいなかった。
手に震えはない。
今なら、勢いに任せて、誰でも殺せそうな気がした。
奥の座敷に、陸奥は通された。佩刀を取り上げられるかと思ったが、それはなかった。
田中は陸奥が部屋に入ったのを見計らったように、現れた。もうひとり、商家の手代のような小さな男が入ろうとする。
「待ってください」
陸奥は、言った。その男はとぼけたような顔で、こちらをみた。
「出来れば、二人で話をしたいことです。お人払いを願いたい」
田中はそうかね、とも、だめだ、とも言わなかった。ただ、無言で陸奥の意見を黙殺し、その小男を戸口あたりに控えさせた。それだけで陸奥は怒りで、我を失いそうになった。
「どう言う魂胆ですか」
陸奥は突然切り出した。田中は首を鳴らして、暢気そうな振る舞いを変えずに、
「どう言う魂胆、とは穏やかじゃないね」
「あんたが、海援隊隊長代理として、その立場でなにを決断しようと、おれは、文句は言わない。だが、あんたの企みでおれを巻き込むのは、やめてもらおう」
「・・・・・陸奥君。前に、私が言った言葉を憶えているよね」
「警告はした。あんたはそう言った。だが、まさか、同じ海援隊同志を暗殺しようなんて手段に出るとは、思いもしませんでしたよ」
ほう、と、田中はそのとき、目を丸くした。その反応に、冷静な陸奥ならば、なにかを感じ取ったはずだが、義憤に駆られている今の彼にはそんな余裕はなかった。
「あんたは坂本さん亡き後、みんなを維持しなくちゃいけない。だから、当面下手人をでっちあげる必要がある、それは認めますよ。だがそれは、おれの今の動きとは、まったく関係がないはずだ。おれの邪魔をするな。今日は、それだけ言いに来たんです」
「陸奥君、君は頭がいい。坂本さんも、君を相当買っていた。だから私は、君を守ることも、坂本さんから託されて隊長を代行しているんだ。そこは、汲んでもらいたいな」
陸奥は田中を出来うる限りの殺気をこめて睨みつけていたが、びくともしなかった。まるで手ごたえがない。水のように柔らかに受け流している。
「おれの命はおれのものです」
すると田中は余計眠そうな口調で、ゆっくりと、
「・・・・・だから、君の命の保障のために、これだけ気を遣っているんじゃないか」
カチリ、と鯉口を切る音が背後でした。陸奥は障子の隅に、あの小男を待機させたことがどんな意味を持つことなのか、今さら、気づいた。この位置なら確実に、陸奥が剣を使える人間だったとしても、抜く前に刃を突きつけられる。迂闊―――そして、未熟だった。周りが見えなくなった時点でとっくに、陸奥の敗北は決まったようなものなのだ。
一瞬感じた気配で、陸奥の背筋が凍った。
喉もとに直接刃を突きつけられているような冷酷な殺気だ。陸奥は振り向くことが出来ないまま、いたずらに田中を睨みつけているしかなかった。自分の心臓の音が重たく聞こえた。
「後家鞘の彦六と言う。脱藩して大坂心斎橋筋の高池屋で高利貸しの手代をやっていたらしいのだが、地元では、名の知れた居合いの達人だという話だよ」
田中は、自分の額を指で二回、突くような仕草をした。くしくも、そこは竜馬が暗殺者に最初の一撃をもらったのと同じ場所だった。
「・・・・・・脅す気ですか」
陸奥はうなされるような声で言った。
「脅しはしない」
田中は、別に勝ち誇ってはおらず、丁寧な口調で言った。
「ただ、理解してもらうだけさ。今、君はこちらの方針に従ってもらうより、手はないと言うことをね」
すっと、後家鞘の彦六は立ち上がった。陸奥はそこから目を離せなくなった。彦六は物音も立てずに、陸奥の背後に立つと、彼の目の前に、一抱えほどの木箱を置いてもとの位置に下がった。
「それに君にとっても、別段悪い話じゃないんだ」
開けろ、と言う仕草を田中はしてみせた。陸奥はその木箱の蓋を押し開けた。
「・・・・・・・これは」
そこにあったのは、イギリス式の六連発の回転銃だった。
「腕に自信のない君は心細かろうと思ってね。それに、坂本さんが持っていたものと同じものを用意させた」
真意をはかりかねた陸奥は、田中の顔を見返した―――そこには本当に読み取れるものは、何もないと知りつつも。
田中の声は、滔々と流れる清水のようにいささかの滞りもない。
「明後日、天満屋に深町小夜が現れる。君はこれで彼女を、殺せ」
「・・・・・・・・・・・・」
「不思議だろうね。彼女には手を出すなと、私は君に言った。だが、方針が変わったんだ。私が今君に言えることは、それだけだ」
陸奥は拳銃を手に取った。扱い方は、一度、竜馬に見せてもらったので、分かってはいた。弾倉を外してみる。冷たい金属だけの重さが心地よかった。
「弾丸は後で渡す。銃で人を殺すのも、存外難しい。よく、練習しておくことだ」
「・・・・・・あんたたちの真意が理解できない」
やっと、それだけ陸奥は言うことが出来た。
ただ、田中は自嘲するように苦笑してみせた。
「私の責務は、君たちを守ることだ。明後日、彼女をしとめられなかった場合、君の命はない。ごく、単純なことだよ」
「この後家鞘が、おれを仕留める、ってことですか」
「監視兼護衛と言ったところだな。ここも、誤解してほしくはないところなのだが」
なにかが違う。だが、なにが明確に違うかと言うことを陸奥は、自分でも理解できなかった。目を閉じ、理屈のない感情が命じるままに首を振った。ただ、呻くように言葉がこぼれでた。
「おれは囚人だ―――それ以外に今の自分を表現する言葉が見つかりそうにない」
「なにかに囚われていない人間がいるかね? あの坂本だって例外ではなかった」
田中は立ち上がった。もうこれで、話は終わりだと言うように、長く息をついた。
「もうひとつ警告しておこう。浜岡を利用するのはもう、やめたほうがいいぞ」
「・・・・・・やばいかどうかは、おれが決めますよ」
「危険さを知らないから、私は言っているんだ」
「それに、もう遅いかもしれない」
「それなら奴も殺せ。その方がいい。弾は六発ある」
田中は障子をあけて、ひとりで出て行った。それに目礼した後家鞘は、立ち上がる気配がない。どうもこれから、本格的に張り付かれるらしかった。
陸奥は冷たい銃を手にしたまま、しばらく沈黙していた。
十五
木枯らしが耳たぶを刺し貫くように、うなり声をあげて吹いている。瀬川屋に行っても、勝はいなかった。歳三は焦ったが、部屋に荷物は残っていると言う。聞けば、向かいの店に食事に出ただけのようだ。
向かいは『錦木』と言う煮売り屋で、昼間から酒を出す。豆を煮ているのか、軒先に煙が上がっていた。中では二、三の客がぬる燗で湯豆腐などをつついている。見たところ、身なりのいい歳三の姿を酒の邪魔が入ったと言う風に、訝しげに一瞥した。
「いらっしゃい」
「向かいの宿から通っている男が、ここに来ているだろう。二本差しで江戸からの客だ」
「その方なら、さっきから、そこの隅でお飲みどすえ」
冷酒と味噌こんにゃくを頼み、歳三はその席へ向かった。確かにそこに、粗末な紺の綿入れを着て、無精ひげの武士が猪口の酒を舐めている。
「勝麟太郎先生ですか」
歳三は一応、礼儀を弁えて聞いた。
男は目線だけをこちらに向けて、
「そう言う風に見えるのかい」
と、江戸弁で答えた。歳三は懐から例の袋を取り出し、
「こいつを受け取った。あんたは、小夜の使いかい」
と、聞いた。お、と男は声をあげ、
「そこまで知ってるなら、話は早えな―――あんた、名前を言えるかい」
「土方歳三、京都守護職会津中将御預新撰組副長だ」
注文した銚子と田楽が来た。歳三は銚子から、相手の空になった猪口に冷酒を注ぐ。
「あんたこそ名乗れるか」
相手は堂々と名乗った。
「勝麟太郎だよ。江戸留守居役、暦とした直参旗本さ」
歳三は男の顔を見直した。しかし、どうみてもくたびれかけた貧乏浪人の成れの果てにしかみえず、さっきの名乗りも酔っ払いがおだを上げているだけのように、傍からは見えたに違いない。
「江戸城の番人がどうしてここにいるんだ」
「疑うのかい? 正真正銘、本物だよ」
言うと、勝は返杯しようとした。歳三はその手を止め、
「おれは下戸で酒は飲まない。真剣な話をするときには特にな」
ふうん、と勝は鼻を鳴らした。仕方なく、自分の杯を満たす。
「・・・・・さすが、それなりの修羅場をくぐって来なさった人の目は違えや。鬼副長、噂は聞いてるぜ」
勝はそれを干した。その瞬間、曲がっていた背筋がしゃんと立ち、目つきが見違えるように変わった。勝は、大儀そうに凝った首を回したが、こうしてみるとその不遜な仕草にも、幕府最後の切り札と評判の凄みと風格が感じられた。
「なぜ、こんなところでこんな真似を?」
「念仏坊主の有り難味は、説法よりも袈裟で知る、ってな」
勝は歳三に出された味噌こんにゃくの串を勝手に取り上げると、一口で口に放り込み、
「それにおいらァ、二本差しっつっても日々の酒手もろくにでねえような貧乏御家人の出でな。紋付羽織でしゃっちょこばっているより、こっちのがよっぽど、性に合うのサ」
「回りくどい真似をするもんだ」
「あんたも、おいらの立場になりゃ分かるよ。さて、事情を聞こうか」
「それはあんたからおれが聞くことだ。こいつは小夜があんたに送って寄越したもんだろう」
「お互い、勘違いがあるようだから、確認しといたほうがいいな。そいつは違うよ。おれは、あの娘にはまだ会っちゃいねえ。坂本が死んでからな。むしろ、あんたが居所を知ってるなら、すぐに会わしてもらいてえもんだ」
「あんたは、小夜のなにを知っている?」
答えず、勝は頬杖を突きながら、探るように歳三を見つめている。
「その口調だと、あんたはよっぽどあの子と深いようだ。裏も表も、知り尽くしているような・・・・・・」
「おれは小夜からあんたに、頼まれたものを持ってきた」
勝の顔色が変わった。歳三はこれみよがしに懐を指し、
「だが、ただ渡すほどおれも甘い性分の人間じゃねえんでね。場合によっちゃ、無宿人として屯所に引っ張ってでもあんたに、彼女の知ってる限りの事情を、話してもらう。例えば、そう、池袋村の一件とかな」
「・・・・・・・・・・」
勝の表情の変化は、そこまで知っているのかという、驚愕の色だった。歳三はすぐに直感した。この男は、すべてを知っている。知っていて、だからこそ―――わざわざ危険を冒して京都まで来たのだ。
「その袋」
と、勝は深龍の薬袋を指差しながら、ようやく口を開いた。
「そいつは、池袋村深町家からお小夜が持ち出した遺品みたいなもんさ。知る人ぞ知る、幕府秘蔵、門外不出、ご禁制の代物だ。いや、徳川家が公儀じゃなくなった今は、もう少し違う目でみる必要がある代物かもしれねえな」
「込み入った話のようだな」
「そこまで理解してりゃあ、話は早えや。そんじゃあ、兄さん、少し歩こうか」
と言うと、勝は腰に刀を差して、立ち上がっていた。
「ここで話せないのかい」
「宿屋に取りに行くもんがあるんだよ――どうやら、あんたには、そいつをみる資格がありそうだな」
「なにを持ってくる気なんだ?」
懐をあちこち探りながら勝は、短気そうにあごをしゃくって唇を尖らせた。
「いいから四の五の言わず来いって。このまま逃げようなんて、思っちゃいねえさ」
勝はいつまでも落ち着きなく、身体をはたいている。
ついに、歳三は見かねて、聞いた。
「どうかしたのか」
ああ、と勝は頭の後ろを指で掻きながら、
「小銭持ってねえかな。宿屋に置いてきちまったんだ」
酒代は結局、別に飲んでもいない歳三がもった。

勝麟太郎。幕府で終始一貫した開国論を主張した男。咸臨丸でアメリカに行き、日本の海事近代化のために海軍伝習所を設立する。その塾頭に、勝は飛び入り弟子の坂本竜馬を選んだ。確たる目的もなく脱藩した坂本竜馬に、その運命を切り開いてみせた人物といっても、過言ではない。
「お小夜に会ったのは、文久二年の秋のことだったかな」
勝は懐かしむような口調で、言った。
「あの娘は、突然坂本たちとおれのところに来た。果たして坂本が連れてきたのか、お小夜が連れてきたもんか・・・・・・」
脱藩した最初の年、薩摩に入国かなわず、坂本は放浪の旅に出る。四月に萩を出て、六月に大坂に現れるまで、その間の足取りは不明である。しても歳三が調べたとおり、小夜はこの時期に京都で坂本に出会っていた。
「坂本の話じゃ、おれのところに必ず行けと言ったのは、どうもお小夜らしいんだ。あいつは女に言われたのが癪で、最初おれを斬るつもりだったようなことを言っていやがったがな」
「小夜が坂本をあんたに紹介したのか?」
「その言い方には、語弊があるな。なにせ、小夜もおれもそんときゃ、面識はねえんだから。遠縁でもねえし、そもそも彼女に、政治向きのことなんざ、分かるはずもない。おれのことを知るはずがねえんだ。面白い娘だと、おれは坂本に言った。そしたらあいつは、辺り憚るような調子でなんて言ったと思う?」
勝先生、実はこのお小夜には人の行く末が見えるんじゃ。
小夜が言うには、坂本の眼に勝の姿が映ったと言う。
「おれのことを詳しく言い当てられたとき、おれは震えたよ。妖怪変化ならまだしも、まさか、この世にそんな人間がいるとはな」
ひとがまなうらより秘せしよろづごとを判ずる。
小夜は言った。
確証を得た。
ソコワレとは、未来を読む能力をもつ血族だったのだ。
「・・・・・・・ソコワレ」
歳三の言葉を聞いて、勝は無言で肯き返した。
小夜は勝に同じ言葉を言った後、ソコワレについてこう説明したと言う。
まず、目の前に二つの茶碗を用意させた。
そして一方の底に印をつけ、伏せたもう一方に同じように被せる。
「やつらの伝承によると、どうも、この中はこう言う仕組みになってるらしいや」
勝は自分の頭を指差して言った。
「伏せた二つの茶碗のうち、下の茶碗は他の畜生と同じ、食うこと寝ること、そして子どもを作ること、底にゆくほどより根源的な本性を司っていると言っていた」
さらに上の茶碗は―――人の記憶。
「そいつの物の考え方、生きてきた道、これからの行く末・・・・・・まあとにかく、人が人であるための物事のいろいろなことが詰まってる」
上に被さっている茶碗の底は、その人の行き着く果てになる。二つの茶碗を被せて伏せたまま、小夜は勝に聞いた。では、茶碗をめくらずにこの底面の印を知るには、いかにすればよいと思いますか、と。
「おれは割っちまえばいいと言った。つまり、割るのは」
死を意味している。
通常、その人の人生の行く果ては、死ぬそのときになるまで、分かりはしない。だが、茶碗を割らずに底を改めることが出来るのが、まさにソコワレだと言う。
「つまり、坂本の目に浮かんだおれは、あいつの行く道だったわけさ。坂本の後の人生については、説明するまでもないだろう」
「・・・・・・・・・・・・」
黙っている歳三をみて勝は意外そうな顔をして、聞いた。
「どうやら、お前さんにも心当たりがあるようだな。さっきから、それは本当の話か、とは一言も聞かねえもんな」
「確かにあんたの言うとおりだが、話が途方もなさすぎて、まだついていけてねえのが本音だよ」
「まあな。傍で見ていたおれも信じられなかったくらいだ。だが、色々知っちまった今は、違う」
「どう言う意味だ」
「いろんな、経緯をだよ」
勝はなぜか遣り切れない調子でそう言うと、
「まず、知っておいてほしいのは、お小夜の力は神様みたいに万能じゃねえってことだ」
もともとソコワレの能力とは、種を宿すのに必要な異性を見つけるための能力なのだと言う。小夜の知る限りの話を勝は聞き、自分なりに調べていた。
「大きな声では言えねえが、お小夜の種族と言うものは、そもそもは大和の民とは違うらしくてな」
そまびと、きじやに伝承あり。
小夜が言ったことと同じことを、勝は言った。
「木地屋とは野山に分け入って木を伐り、それで椀や杓子、箱なんかの木地を作ることを生業とする職人集団のことさ。文徳天皇の第一子、喬高親王を祖神と仰ぎ、近江小椋庄を本所としながら、材料の栃の木を求めて、全国の深山幽谷に流布する」
彼らによればソコワレとは、かつて大和民族が追放した民族のひとつで、一説に同じ山野に追放された土蜘蛛(山人)の係累とも言われる。特徴としては大和の民より手足が長く上背もあり、運動能力に優れる。
「木地屋が山野にまぎれて暮らしをするのは、そのソコワレの人々を見張るためとの説もあってな」
「本当の話か」
さあな、と勝は首を振り、
「だが今の尊攘論の要諦の国学は、徳川家以前のこの国の支配権について論考したものだからな。天下唯一のご公儀とされた徳川将軍が、もとは都の朝廷、つまり天子(天皇)様から任じられた、と言うことになると、その序列は、本来は朝廷が第一で徳川家が一番えらいってわけじゃねえってのが、話の肝さ。徳川幕府以前があるならさらに、その朝廷以前の話と思えば、それほど違和感はねえんじゃねえのか」
朝廷の監視下で、山奥に追放されたソコワレは徐々に衰退し、血筋は絶える寸前となった。そこでとられたのが、他民族との交配による血統の保存と言う生き残り策であった。
「で、それで、ソコワレの女性とは、種を存続する男を見抜く不思議な力が出来たらしいや。以来、ソコワレの女は野山にまじって朝廷の目を逃れつつ、山野に迷う木地屋や杣人(林業)の男を誑かしたり、里のものと交わりを持ち、種を宿したと。つまり、そうやって全国に分布しつつ、今日までその血脈を受け継いできたんだな」
だから各地に現れる山の妖怪には、ソコワレのことを指すものが多いと言われているんだ、と勝は補足した。
「例えば、お前さん、サトリを知ってるかい」
「ああ。昔、絵草紙で読んだことがあるな」
サトリとは、杣人を惑わす物の怪のことである。杣人が山で木を伐り、夜更けに焚き火をして野宿していると、突然現われる。そしてことごとく、杣人の考えていることを読み取り、人間をおどかし、からかうと言う。
「どれも、山に入る男がソコワレの女に誑かされねえための教訓話から来ているらしい。山道に迷った人を泊めて、そいつを喰らおうとする山姥の話もそうだ。杣人や木地屋、いやそれだけでなく山に住まう多くのノ民にとって、ソコワレの女は里に隠すべき、忌むべき存在だったってわけだ」
忌むべきものたち。
小夜は言った。また、歳三の前でこうも。
穢れています。
「・・・・・・血の穢れ、か」
勝の遣る瀬無い感情が、歳三にもようやく分かった。
「小夜の父親は幕府の援助を受けて、そのソコワレを追っていたのか」
「その通り。お小夜の父親、深町俊治郎はその一生を賭けて、ソコワレの伝説を追う本草学者だったのさ」
 「・・・・・・・・・・・」
 「さてここからは、幕閣にあるまじき極秘の話を漏らすぜ」
 後戻りは出来ない、という風に、勝は歳三を見上げた。歳三は思わず言い返した。
 「・・・・あんた、気づいているのか知らねえが、今まででも十分危険な話をしてるぞ」
かしこくも朝廷以前の話など、禁句中の禁句だろう。ましてや、天子に敵対した民族の話である。勝は平然として高声で話を続けた。
「秘密ってのは、概してそんなもんさ。だが考えてもみろ、未来を知ることが出来るかもしれない能力だ。禁句だろうが、逆賊だろうが、黙ってれば分からねえ、となりゃあ誰だって喉から手が出るほどほしいだろう」
まして、嘉永三年(一八五三年)の黒船来航をその沸点として、幕府首脳部は、その数十年も前の天保年間から、海外からの危機のみならず、飢饉や内乱など、予測不可能の難局の数々に晒されてきた。先の見通しもつかないこの状態では、巫女の託宣でも、神頼みでもすがりたい気分でソコワレの話を聞いただろう、と、勝はうそぶく。
「そんな折もあって、深町俊治郎の売り込み話に、ついに若年寄以下、江戸城の中枢が動いた」
だが、飽くまでソコワレはその時点では伝説の域を出なかった――俊治郎は見せるべきソコワレのサンプルも持っていなかったのだ。ただ、各地の伝承を訪ね歩いて、ソコワレの血を引くと思われる、自分の妻とした女性を連れているだけだったと言う。
「それでよく、裁可が降りたもんだ」
「実は若年寄直属の書院番十組が動いて、あれこれと秘事故事を探ったらしい。すると、御開府前後に、ソコワレと思われる女性が実在したとの記録が発見されたんだと」
ソコワレの女性が居た、と辛うじて記録に残っていたのは、伊勢津藩の藤堂家であったと言う。藩祖・藤堂高虎は織田・豊臣・徳川と三政権を渡り歩き、最終的には、南光坊天海や金地院崇伝らとともに、徳川家康の懐刀として活躍した。戦国の風見鶏を地で行き、権力の中枢にいるくせに主君が変わり時代が激変していくその度に、自分の身代を太らせた戦国史上もっとも幸運な男―――高虎をソコワレが導き、それがひいては始祖家康を助け、現在の将軍家率いる徳川幕府の礎を創った、となれば、それで駄目押しには十分だった、と、勝は言う。
「で、池袋村にあの広大な屋敷の誕生か」
「その通り、ご公儀干渉の下、俊治郎はソコワレの研究に没頭した。目指すのは、徳川家の、いや、この国の行く末を占う、ソコワレの誕生だった。最終的にはその女性は、年頃になれば奥に上がり、将軍と対面しその行く末について告げることが、予定されていた」
そして言うまでもなく、実験は難航し、最終的には失敗の憂き目を見ることになる。当初、俊治郎は妻に四人の子を産ませ、その間に、二人の妻との間に十五人の子どもを設け、ソコワレの誕生を期待した。
「最初の妻の子どもの四人目の娘が、小夜だったそうだ」
ソコワレの血筋には欠陥があるのか、能力が発現する以外は、すべて精神に異常をもって生まれる。そのため、子どもがまともに育たず血筋が絶えてしまうケースも多かったと言う。小夜の三人の姉は、一番上が五歳まで生きられずに死に、真ん中は精神が遅滞したまま十九歳まで生き、一番下は正常だったが、十歳のときに病死した。
また、十九人の俊治郎の血を分けた子どものうち、十人は男児で生まれてまもなく死ぬか、死ななくても俊治郎によって始末されたらしい。
「ソコワレの異能は、なぜか男児では発現しないらしい。しかも、男児の場合その姿は必ず人ならぬ異形の形で生まれ、生後すぐか、ほっといても間もなく、死んだそうな」
俊治郎は、そのため、失敗したと悟ると子どもをすぐに堕ろさせ、次々に子どもを期待したと言う。その副産物が、深龍の古血くだしであり、瘡薬であった。
「待て。古血くだしは分かったが、瘡薬は分からねえ」
「・・・・・・あまり言いたくねえことだが、話してやるよ。瘡薬の原料は、その堕胎した子どもと、間引きした男児の遺骸から作ってたんだ。赤ん坊の脂は特に肌にいいんだとよ」
後期には、もらい子に預かってそのまま死んだ子もそのまま流用されたと、小夜は勝に話したと、顔をしかめて語った。そんな中、ソコワレとしての能力が発現していた小夜は、姉に混じり狂ったふりをしてずっとそれを黙っていたと言う。
「なぜだ」
「聞いてみれば成る程と思うさ――――お小夜には見えてたんだよ。自分たちと、父親の末路が。鬼畜の父親自身の目を通して、たっぷりとな」
小夜はいつも、父親の末路を夢に見ていたという。燃え盛る家、次々と妻子を斬殺する父親の姿。血まみれの抜き身をふりかざして、狂ったように叫ぶその声を。

穢れじゃ。血の穢れじゃ。

「計画の発足から、足掛け三十年、資金はいくらあっても足りず、ソコワレの誕生は、望むべくもなかった。そうこうしているうちに深龍の薬から悪評が立ち、池袋村の近隣住民からも噂が広がり、時局柄、露見を恐れた幕府は俊治郎を召し放ち、急遽、計画の中止を決定したんだ」
「それに絶望した俊治郎は屋敷に火を放ち、一家を皆殺しにして果てた」
「その通り。・・・・・・だが、その行く果てを事前に知っていた小夜だけが、どうにか難を逃れることが出来た。・・・・・これが、そもそもの発端ってわけさ」
語り終えると、勝は、自分の中にわだかまるものを吐き出しつくした顔で、ふーっと大きく息を吐いた。
「ちなみにこのことは、おれが小夜に会う前から知っていたわけじゃねえ。もちろん小夜にも聞いたし、そのあと、自分の立場を利用して集めた情報に基づいたものだ。現在、幕府でその事件に関わったもの、そうでないものに関わらず、ソコワレ、と言う言葉自体が禁句にされている。ともすれば、朝廷に逆心ありと、解釈されることにもなり兼ねないからな」
「・・・・・・・・・坂本はこのことを知って小夜を連れていたのか?」
「ああ、だが断っておくが、あいつは彼女を便利な道具として遣ったことは一度もない。やつは小夜の申し出に、不快そうな顔をしたことさえあったよ。むしろ逆に、あの一族の血の呪縛から、どうにかして、彼女を救ってやろうと努力していたからな」
坂本が勝の門下に弟子入りした後、咸臨丸で大坂まで戻っている。そのとき、小夜は進んで自分から、情報工作員を買って出たと言う。
「あの子は、いつも戸惑っていたよ。安心して眠ったことがなく、誰かに自分の存在を預けることも出来なかった。だからどうにかして、おれたちの力になりたかったんだろうな。不憫な娘さ。最初、自分は果たしてここにいてもいいのかと、しつこく、何度も聞かれたのを今でも憶えてるよ」
勝は言うと、懐から一枚の写真を取り出して、歳三に見せた。それは、坂本と勝、小夜の三人が立ち並んでいる肖像写真だった。
「おれにとっちゃ、これが門外不出の品さ。土方君、こいつだけは、誰にも口外しねえでくれよ」
いつしか二人は同じように苦笑し、同じように目を細めてその写真を眺めていた。十七歳の小夜は、今より大分痩せて幼かった。唇だけをどうにか緩めてした微笑が、どこか悲しげだった。
「納得したよ。あんたの話」
しばらくして、歳三は言った。懐から、小夜から預けられた日記帳を取り出して、勝に手渡す。
「あんたはこれを、小夜から託される資格があるな」
勝はそれを無言で受け取ると、ぱらぱらと、目を通した。京都での彼女の治療経過が克明に記されたこの日記を、勝は眺めていた。その手が最後のページ近くに差し掛かった頃、そこに挟まったなにかが、勝の手を滑り落ちた。
一片の白い、薬包みだった。そのたたずまいに、歳三は記憶があった。拾ってそれを訝しげに見つめる勝に、歳三は昨夜の事情をまじえて説明を加えた。
「・・・・・・・まさか」
すると、静かに聴いていた勝が突然、なにかにはっと気づき、あわてて一度は閉じた日記帳を手に取った。ページをめくる顔が、さっきと明らかに違った。その目は必死になにかを探していた。
「どうかしたのか」
歳三が聞いたが、勝は黙って答えなかった。あえて秘密にしているのではなく、集中する余り答える余裕がないという風情だった。
やがて、勝は顔を上げて、聞いた。
「土方さん、あんた、これを小夜は渡してくれと頼んだんだね?」
「ああ。必ず勝先生に渡してくれと」
「必ず? 必ずおれにと、そう言ったんだね?」
「ああ。必ずおれはあんたに会えるから、とそう言ってた」
歳三は答えた。勝は、それをほとんど聞いていないかのような顔で肯いた。
「そうか・・・・・・本当にありがとよ。恩に切るぜ」
つぶやいた勝は、まるで別のことを考えているように、歳三には見えた。
十六
これから、どうする。
気がつくと、陸奥は下宿に戻っていた。
午後からの貴重な時間を浪費している。
どうにかしなくては。だが、その言葉から、なかなか先に進まない自分がいる。
「・・・・・・・・・・」
まず、落ち着いて思考を整理しよう。
田中が、陸奥を監視していたのはずっと、分かりきっていたことだ。ソコワレと言う言葉、そして深町小夜の存在は、結果的に竜馬の隠れた部分を暴きだすことになる。海援隊の人間が快く思わないのは、当然のなりゆきではあるし、同じ海援隊の人間がそれを嗅ぎまわるのも、組織の統率上、問題であることは分かっている。刺客を差し向けて脅すような回りくどい真似をせず、突然正面から強硬手段に出られたことには面食らったが、それも予想しなかったわけではない。
要は、期待をしないことなのだ。深町小夜とソコワレの真実を暴くことで、陸奥は、海援隊を含む自分の仲間たちからの誤解も、すべて挽回できると心の中で思っていた。真実を追及すれば、田中はじめ、みなも分かってくれるはずだと。だが、現実はそうではない。むしろ逆だった。ただ、それだけの話なのだ。
ここからは己を取り戻して、行動しなくてはならない。でないと、もっと大きなものにただ呑み込まれてしまう羽目になる。それには、今、自分が一番したいことをどうにかする方法を考えるべきだ。
(おれは、真実を知りたいのだ)
土佐藩や海援隊のことなど、もはやどうでもいい。陸奥にしてみれば、坂本の繋がりだけなのだ。すべては、そこから発想してきた。比べれば、自分が今の仲間内で坂本の一件をだしにしてどれほどの手柄を上げられるか、誰を殺せば一番首を獲ることが出来るのかなどと言うことは、ほんの些事に過ぎない。闇雲な報復をしたいのなら、したい連中が勝手にすればいい。ともかく、まず目的は深町小夜を生きて確保することなのだ。
腹が決まった。
陸奥は、畳から起き上がると枕にしていた木箱を取り出した。そこに、坂本と同じイギリス製のリヴォルヴァーがある。黒く滑らかな、冷たい輝きを持つ銃身を取り上げ、陸奥は手順どおり、弾倉を押し開けた。六つの空穴が、逆に陸奥を睨み返すようにしてそこに、あった。
「・・・・・・・・・・・」
巾着袋には、火薬と丸い鉛が入っているのかと思ったが、先の尖った円筒形の見慣れない形の弾丸が、三十発入っていた。陸奥はそれを取り出すと、ひとつずつ、それを蜂の巣のような回転弾倉に詰め込んだ。どれほどの威力があるかは分からないが、元込め式は、手間がかからなくて便利だ。
階下には、あの後家鞘が張りついている。商家の手代らしく、田中に言われたことをわけもわからずに律儀に守っている様子が分かりやすいほどに所作に出ていて、急に笑えてきた。
情報は得た。武器も得た。そう。
考えてみれば、結果的に自分の計画には、なにも問題はない。
後はどうやって、やつらを出し抜くかだけだ。
「彦六さん」
そっと忍び寄ると陸奥は、背後からいきなり声を掛けた。後家鞘の彦六は、出がらしのお茶に大根の漬物を齧りながら、なにか別のことを考えていたような顔から一転、陸奥の声に驚いて立ち上がった。
「お出かけですか?」
「ちょっとね」
陸奥は噴出しそうになるのを堪えながら、迷惑そうに言った。
商人生活があったからか、それとも、もともと武士に向かなかったのか、彦六のたたずまいは、どうみてもちぐはぐに見える。撫で肩に背が低いことはいいとしても、やや猫背気味の癖とのんびりした態度は、商家の若旦那の風情を出ない。
「どこに行かはるんですか」
「聞くなんて野暮じゃないですか」
曖昧に言い捨てて、陸奥は先に出た。あわてて刀を差したせいで飛び出るこじりを押さえながら、彦六はちょこちょことついてきた。
「ついてこんでくださいよ」
陸奥はわざと、不快そうに言った。
「いや。そう言うわけにはいきまへん」
「女の家までついてくる気ですか」
はたと、彦六の言葉が停まった。振り向くと、陸奥はだめ押すように言った。
「明日は出入りです。それにみんなと違って、おれには田中さんから仰せつかった大事な任務がある。深町小夜が出てくる成り行き上、新撰組の鬼副長も当然出張ってくるでしょう。そしたら、もしものことも考えなくちゃならない」
「・・・・・・・・・・」
「行きますよ。色恋の沙汰まで干渉される謂れはありませんから」
「そんなら、おうちの近くで時間つぶして待ってます」
やむを得なく彦六は言い出した。彼にしてみれば、命令との兼ね合いの最良の妥協点だろう。陸奥は肩をすくめて、言い捨てた。
「・・・・・なら、好きにしたらいい」
それ以上は振り向かず、なるべく足も速める。長身の陸奥からすれば、彦六は少し大きな子ども程度の身長である。せかせかと小足を回転させて、彦六はついてきた。
人並みを掻き分け、陸奥は島原方面に足を向ける。冷やかしの人手にまぎれて、彦六を撒けるかと期待してもみたが、さすがに相手も必死なだけに、どうしてもその足を振り切ることは出来なかった。
女郎屋についた。
「おっと」
陸奥は入り口から中を覗くようにしてから、芝居けに少し躊躇を見せ、大息をついている彦六を振り返って、
「ここに馴染みの、若鶴と言う女がいるんですけど、忙しいようですから、やはり今度にしようと思います。残念ですがね。だが彦六さん、一応は顔を出した証拠に、こいつを、中の若鶴に渡してきちゃくれませんか」
と、用意してきた文を差し出した。
「私がですか?」
急に頼まれて、彦六は目を丸くした。
「あなたしかいないじゃないですか。私が顔を見せると、ほら、向こうだって別のお客がいる、対応に困るんです。ほら―――」
「しかし・・・・・・・」
「これが済んだら、私は大人しく沢屋に帰りますから。それによく考えてみたら、田中さんの言うとおりにしていた方が、今は安全なようだし」
陸奥は言うと、彦六にそれを押し付けた。
「私はここに立ってますから。これなら、中からでも見えるでしょう。すぐですから。頼みましたよ」
不承不承受け取ると、彦六は二、三度こちらを振り返りながら、その店に入っていった。
「・・・・・・・さて」
後は、馴染みの若鶴が、どうにか引き止めておいてくれるだろう。文には、時間稼ぎの方法まで細かく、指示しておいた。
みてみると、案の定、彦六は袖を引かれていた。これでたぶん、すぐにでも二階へ上げられて、朝まで戻ってはこないだろう。
心おきなく、陸奥は北に、足を向けた。

「監視つき、か」
「ああ」
浜岡とは、彼の塒で落ち合った。少し遠いが、山奥のために、新しい銃の試射にはまったく都合がよかった。
「で、お前だけ舶来物のお土産持ちかよ」
「まあね」
陸奥は白煙のぼる銃身を立て、得意そうに見せびらかした。
「ああ、おっかねえ玩具だな。うるせえから、飽きたら早く仕舞ってくれよ」
さすがにイギリス式の拳銃は威力も飛距離も、命中精度も抜群だった。なにより扱いやすい。弾詰まりも火薬の調合の心配もしなくてよいのだ。
人の肩幅ほどの樫の大木がある。それに向かって陸奥は両手で構え、引き金を絞る。深山の闇の中に、つんざくような銃声が響く。耳を聾する音。火薬のかすが、さっきから頬に散りかかって、びりびりと痛んだ。
「江戸からの噂集めた」
浜岡は、鍋を立てている。内臓を煮ているのか、生臭いにおいが、風に乗って流れてきていた。
「分かったよ。ソコワレってのがなにもんだか」
一呼吸、遅れた。もう一発、陸奥は撃った。
「で? なんだって、ソコワレってのは」
弾丸は、大木を大きくそれ、後方の栗林の中に飛び込んでいった。
「一種の予言者だな。手相でもなく、顔かたちでもなく、人の目をみて、その者の行く末そこに映るものを解くそうだ」
「馬鹿な」
冗談を言っているのか、と言う口調で陸奥は返した。
「託宣やご神託など、糞の役にも立つか」
「おれも同意見だ。だが、坂本竜馬が使っていたとなると、話は別だろ? 茶番だと笑えねえのは、坂本の傍にいたあんたがおれよりは分かるはずだ」
「・・・・・・・・・・・・・」
「それに深町小夜ってのは、池袋村であったある事件の関係者らしい」
浜岡は鍋の蓋を開けて中身を掻き回しながら、続けた。
「数年前、江戸に深龍って婦人用の薬があったんだが、どうも死んだ子どもが使われてる、って噂が立ってな。池袋村に大きな屋敷を構える深町俊治郎と言う浪人医者がその張本人だって話だったんだが、ほどなく、一家皆殺しにして、屋敷に火をかけて自殺しちまった」
「それとソコワレの話となんの関係がある?」
「その俊治郎ってのは、女房、妾の子、もらい子含めて五十人ほどの子どもがあって、薬はどうもそれを原材料にしていたらしいんだが、そこの子どもと言うのが、どうも不可思議で、何度か人の死を予言したりしていたらしくてな」
人の死。その言葉に竜馬を連想したのか、陸奥は引き金を絞る手を思わず、止めた。
「俊治郎と言うのも、元は近江の有数の家柄で、優秀な本草学者だったらしいんだが、池袋村にこうして大所帯を抱えたのには、薬を作る以外の理由があったらしいな。実はご公儀がこれを後押ししていた形跡があった」
「まさか」
「おれも野郎相手に、楽しくもねえ冗談を言う気はねえ」
陸奥は鼻で笑って見せたが、強がりのようにしか見えなかった。物事を調べ上げるときの浜岡の執念を、短い付き合いながら、十分に分かっていたからだ。
「おれは関東取締役で、管轄が違うが、噂は流れてきてたよ。ついに町方へ訴えが出て、勘定吟味方が動いたんだが、もっと上が出てきて、これ以上はお構いなしってことになったんだ。張本人が死んで、屋敷も焼けちまってるんで、まあ、この措置は無理からぬことだがな。異常なのは、そこからの話だ。幕府は、この事件に少しでも関わった人間全員に、容赦なく緘口令を出した」
「・・・・・・・・・・」
「当時、池袋村では死んだ子の捜索が始まってるらしいが、事情を知ってる何人かが、内々に処分されたそうだよ。ていのいい口封じさ。もしあの屋敷の生き残りがその小夜って娘なら、幕府は俊治郎にソコワレを産ませる実験を行わせていたことになるな。これが事実としたら、まったくあんたの坂本先生は、よほどの切り札を持っていたことになるな」
「なるほど。それで、内々に始末しろってことか」
「あん?」
「実は、この銃で深町小夜を内々に始末しろって話なんだ」
陸奥は浜岡に、明後日の天満屋の騒動に深町小夜が現れる、と言う話を告げた。
「話の真偽は別として、今の海援隊が抱えるには、重い荷物だろうからな。もしおれがソコワレの女を始末出来なければ、後家鞘の彦六って腕利きか、おれのことを始末する手はずになってる」
「おれもか?」
浜岡が聞いた。陸奥は笑いもせずに応えた。
「だろうな」
浜岡は、くっ、と唇を歪めて失笑するのが聞こえた。
「舐められたもんだ」
「今日はそいつを撒いてここに来た」
「お前に撒かれるようじゃ、その後家鞘ってのの腕も知れてるな」
「後家鞘と言うのは、鞘が元は別の刀のもののことを言うらしい。ただでさえ抜きづらいものが、あの小男にはどうかな」
土佐藩系の人間だと、どこから話が漏れるか分からないと言う配慮からだろうが、田中も、ひどい人選をしたものだ、と、陸奥は思った。
「・・・・・仲間内の話だと、おれがその腕利きを連れてきたことになってる」
「確かに、お前からみりゃ、どんな野郎も腕利きだろうよ」
浜岡は昨夜の失態を揶揄している。陸奥は、黙殺した。
「まあ、そのチビ助の話はどうでもいいが、明後日か」
「ああ」
陸奥は応えた。残弾を確認して、もう一度構える。
「女をさらう。もちろん、生かしたままだ」
「それで、それからはどうするんだ?」
「さあな」
陸奥は首を傾げた。ともかく、それが出来れば、今はどうでもいい気分だった。
「女をさらえば、お前も海援隊にゃ戻れねえだろうな」
「心配するな。あんたとの約束は守る。そのあてはある。ただ、これだけは言っておく」
樫の大木にはすでに、三発撃ちこんでいる。さっきまで煙が立っていた胸の辺りから少し上に狙いをつけた。
「別に今、あんたが降りても、おれは一人で必ずやる」
「おれは降りる気はねえ。ご公儀秘蔵の女となれば、ますます、頂かねえわけにはいかねえからな」
犬が煮えてきた。大蒜で煮込んだ獣肉の香気が湯気に乗って、辺りに満ちる。
「そうでなくても、あんないい女諦められるか」
確かにまだ、この男が必要だ。田中が何を言おうと。
陸奥は引き金を絞った。反動は、手に心地よいくらいに慣れていた。弾丸は幹のど真ん中に突き刺さった。ぽっかりと開いた黒い穴から白煙が立つ。ぴしりと痛んだ頬を、陸奥は思わず指で拭った。

夜五ツが鳴った。暗くなる前に、下宿に戻っておく。陸奥は、浜岡の隠れ家を辞した。篠を掻き分けて、里へ降りる道をゆく。Y字の分岐路に差し掛かったとき、陰から、声をかけられて陸奥は思わず背後を振り返った。
「困りますなあ、陸奥さん」
そこに、彦六がいる。小さな影が、そこからひょこりと出てきた。
「あまり勝手な行動をされては」
「・・・・・・・・・・・」
「こないな寂しいところに、陸奥さんの女いてはるんですか」
すべてを知っていて、この男は言っている。陸奥は答える言葉はなかった。ただ、足を開き、懐に手をやろうとした。殺すしかない。そう思った。
「やめましょう、お互いに。ここで死にたくはなし」
「おれは死ぬ気はない」
陸奥がそう言った瞬間だった。彦六の矮躯が蛇のようにぐん、と伸び上がったように見えた。一陣の風が、陸奥の目を眩ます。反射的に顔を腕で庇った陸奥が前を見直したとき、そこに彦六はいなかった。
「ここです」
背後。彦六の声がする。陸奥はあわてて振り返った。柄に収まりかけた刃が、不気味に光って見えた。
「わしも、出来れば人は殺めたくないんですわ」
後ろを顧みず、彦六は去っていった。陸奥は辺りを見回した。そこに道祖神の像がある。石で出来たその彫像が、まるで斧で木を切ったように鋭い切り口で五寸も斬りこまれているのを、陸奥はその指で確かめた。
十七
小夜は勝に、やはり何事かを託したのだろう。
それが何かは、ついに勝は教えてくれなかったが、なんとなくそれは歳三に伝わった。
「戦が始まるぜ、土方君」
勝は明日には江戸に帰ると、歳三に告げてから、言った。
「もう一年、いや二年で幕府は跡形もなくなるだろうな」
「それはあんたの意見か、それとも、小夜の」
「おれの意見だ」
勝はきっぱりと言い切った。
「四七〇万石、旗本八万騎を公称しているが、徳川家など、その内幕はひどいもんだ。そもそも江戸開府以来、徳川家は戦がなくなって無用の長物になっちまった武士たちの処遇に苦心し続けた。土方君、君は由緒正しい貧乏御家人や旗本の家に生まれなかったから分からねえだろうが、今の世の中ご公儀からの禄だけで生活を営んでいられる武士なんざ、ほんの一握りなんだよ」
勝は淡々とした口調で語った。
「例えば御役のある武士でも、週に三日しか奉公はなく、従って給与もそれなり、以外の日は手職でもやって生計を立てるしかないんだ。おれだってこうやって偉そうにやっちゃいるが、世が世なら、長屋の隅で好きな本も読めずに傘張りでもしてるのが、関の山さ。
なにしろ将軍御膳部役などと言う具にもつかん仕事を百石で三人の武士が分け合ってるのが現状だよ。いざ、戦になって必要な道具を買い揃えようにも日々の貯えすらなく、家中引っ掻き回して古道具の鎧刀をどうにか揃えたところで、その頃には、始祖以来の士魂とやらは萎えちまってら」
「・・・・・・・・・」
「だから二本差してるやつの時代は、もうとっくに終わってるよ。こいつは別にソコワレじゃなくたって分かることさ。今、水戸の一橋慶喜が徳川家の将軍してるが、今度戦争になったら、薩長官軍の後ろには朝廷が控えてる。水戸家は代々の家訓で、朝廷と徳川家が弓矢の事を構えたら、徳川宗家を裏切ってでも朝廷につけ、と言い習わされている家だ、賊軍になってまで今の将軍様が戦うことは、はなからその気はねえと思ったほうがいい。だから、そんときまでに、おれたち二本差してる奴らは、身の振り方を考えねえとな」
「それが、あんたの意見か」
「だな。幕府はなくなる。これがおれの結論さ」
それでいいのか、歳三は聞こうとしたが、勝は彼がなにを言いたいのかは顔色で分かったのだろう。静かな口調で続けた。
「でも、本当はこれでいいんだよ。例えばフランスさんに軍資金借りてまで、戦争を続ける理由はねえ。そんとき、徳川家は賊軍どころか、それこそ売国奴になっちまうからな」
「あんたはなんでも分かってるんだな」
やっと皮肉めいた語調で、歳三が言ったとき、勝は破顔して、首を振っただけだった。
「ただ、分かりきってることだけを一気にしゃべってるだけだよ。おれは神様じゃねえ。もちろん、ソコワレもな。小夜が言うには、あれだって、そうそう万能じゃねえ。そもそもあれは、優秀な種を捜すための能力なんだと」
その異能ゆえに、ソコワレはその血統を正しく継ぐ子どもをなかなか産むことが出来ない。が、ために、他族の優秀な雄を探すために、彼女たちは人の目から未来を見極める能力を身につけた。ソコワレが種を宿す異性は、一生で一人と言う。
「これはという種を宿すと、ソコワレは、徐々に能力が弱まっていくそうだ」
「・・・・・それなら、小夜はもう、宿すべき種を見つけたってことだな」
歳三は小夜が昨夜、懐妊していたことを勝に告げた。
「そうか」
やや間があった後、勝はそう漏らしてため息をついた。
「そいつはよかった」
「あんたの話しでは子を産めば、ソコワレの異能は薄れていくんだろう」
「ああ」
「そうなれば、あんたらにとって彼女は用済みになる」
歳三は聞いた。勝は少し考えた後、
「・・・・・ああ、そうだな」
と、うなるように言った。
「確かに、あんたの言うことは間違っちゃいないよ」
理屈はそうだが、実際はどうか、と言外にほのめかすようなそれは言い方だった。あんたは、小夜の無事が保障できるのか。歳三が勝に問いかけたかったことは、つまり、そう言うことだ。勝はたぶん、自分にとって最大限努力した結果のことを、最後に言った。
「おれは海路で、江戸に帰る。あんたのお陰で、予定通りにはなりそうだ。もし、また君がお小夜に会うことがあったら、伝えておいてくれ。江戸に来ることがあったら、迷わずおれを頼れと」
「彼女はもう、都にはいないだろう」
確証はなかった。だが、もう、なんとなくそんな気がした。
「会うことがあったら、だよ。目下のところ、君が、一番確率が高いだろうからな」
勝と別れてほどなく、曇天の空からはついに雪が降り出した。

その節には。
勝の言葉で、歳三は別れ際の小夜のことを思い出した。明日の天満屋での騒動を予言した後、彼女はそう言った。また、会えるようなことを。いつかは分からないが、自分に一番可能性があると言うのは、そう言うことなのか、と歳三は思ってみる。
「次の十年を、おれは坂本から聞いて知ってるんだ」
もはや能力を失いかけているかもしれない小夜に情報価値があるのか、と言う歳三の問いに対しての、勝の言葉だ。
「あいつはそれから先のことを、おれに告げずに逝ったがな」
能力を失ったかもしれなくても、それを小夜が知っていれば話は別だ。あったはずの坂本竜馬の目を通したこの国の未来。次の時代に野望を持つものたちは、依然、血眼で小夜を捜す。確かに、そのとき、勝に渡した小夜のあの日記帳は、ある意味では彼女の命綱にはなりうるだろう。
歳三はため息をついた。だが、おれにとっては、本当はそんなことはどうでもいい。今、この気分を振り払えることが出来たなら、後のことはどうでも。
穢れています。
小夜は、歳三との閨で確かにそう言った。それは、歳三に向けての言葉ではなかった。彼女はすでに宿すべき種を持つ、つがいを手に入れていたのだ。あの言葉は、自分の中を流れる血に対して背徳行為を犯す、その罪悪感から来るものだった。彼女は身体に歳三を受け入れながら、苛まれていたのだ。もっと言えば、心は歳三を受け入れることをしてはくれなかった。さらに言えば、この恋はただこちらの一方的な思い込みに過ぎなかったのだ。事実は、無情だ―――小夜の瞳の中には、いつも坂本がいた。
抽斗に、あのときの蜻蛉の簪がまだある。棄てる気力もすでに湧かずにいる。
妄想はとめどない。そして、したくもない後悔が溢れてくる。
雪が降るのをみるときは、なぜかいつもだ。
屯所に戻ると、病床で沖田は素麺を煮込んだものを啜っていた。珍しく今日は食欲があるらしい。熱いだし汁に半煮えの溶き卵の匂いが立ちのぼる。薬味に刻み葱と七味唐辛子を散らせば、身体を温めるには、申し分なかった。
「会えましたか、勝先生には」
歳三はその言葉で、経緯を察した。
「お前か。近藤さんや斎藤に、話をしたのは」
沖田は黙って首肯した。白い息を吐きかけながら、素麺をたぐる。
「肝腎なことは話しちゃいませんよ」
火箸をいじりながら、歳三は言った。
「別に話してもいいさ。賭けてもいい、誰も信じちゃくれない」
「この世の行く末を、読む、ですか」
火鉢の火が、消えかかっていた。畳の部屋は寒気が這い登ってくるように感じる。今夜はもっと冷え込んできそうだ。空の様子を見る限り、雪は一晩中、降りつのるだろう。
沖田は唐突に、言った。
「私も、会いましたよ。お小夜さんに」
「いつだ」
「何日か前です。芳蔵さんが連れてきてくれました」
「気づかなかったな」
たぶん、市中を探索に駆け回っていたせいだろう。
「夜中ですよ。二人で江戸に戻るので、挨拶に来てくれたんです」
芳蔵が殺されたのを、沖田は知っているのだろうか。歳三はあえて、聞かなかった。
「あとひとつ、用事を済ませてから京都を発つと言ってました」
「・・・・・・たぶん、そいつはもう終わったよ」
歳三は応えた。軽く、ことの経緯と顛末を沖田に話した。
「明日は、出入りだ。晩までに人数を揃えて、天満屋に配置しとかないとな」
「私、肝腎なときに役に立てないですね」
沖田は、ぽつりと言った。
「馬鹿。なにを言いやがる」
歳三は苦笑しながら言った。
「だいたい、まさかそこまで調子が悪いんじゃねえだろうな」
いっそ、沖田がここにいるのを諦めるくらいには病状が進んでいれば。歳三は期待して聞いている。沖田は無言で、首を振るだけだ。
やがて、戦争が起こる。薩長は、大政を奉還した程度では徳川家を許すはずがない。それはここ五年、この街にいたものなら、誰でも分かることだ。理屈でなく、五年間、歳三が信頼してきた、リアルな感覚としての話をしている。もう大分長い間、西国訛りの浪士たちは駆逐するべき敵だった。お互い、やるときは徹底的にやりあってきた仲のことだ。
始まるものは始まるし、始まれば、相手の息の根がとまるまでやる。歳三たちと彼らは暗黙のルールを共有してきた。ことは、ただその延長線上に起こることに過ぎない。それならば、近いうちに戦争は必ず起こりえることなのだ。
「お前、病状がひどいようなら一足先に江戸へ帰れよ。お前の姉上のお光さんには、状況が許すなら、いつでもと言われてるんだ」
「土方さんこそ、馬鹿なこと言わないでくださいよ。崖っぷちの新撰組の踏ん張りどころに、私だけ、仲間はずれですか」
沖田は言った。長かったような短かったようなこの五年間、沖田なくしては、新撰組はやっていけなかった。
「新撰組のためだったら、私は這ってでも出張ります」
「分かったよ。調子いいなら、ちゃんと栄養とっとけ」
沖田は二杯、椀の素麺を食べた。
それでも、痩せて褪色してきた病躯にはどれほどの援けになっただろうか。
「トシ、戻ってたのか」
障子が開いて、近藤が顔を出した。
「ああ、いろいろ悪かったな、近藤さん」
「隊の装備のことでいくつか聞きたいことがあるんだが、いいか」
「ああ」
戦争の足音。徐々にだが、確実に忍び寄っている。二百五十年、来なかった大乱がやがて来る。実感を伴わない不思議な感覚に、歳三ですら、一瞬、戸惑いを覚えている。
「いいぜ。大方、頭には入ってる。なにを知りたいんだ?」
「いずれ、守護職様に対してご説明申し上げねばならんからな」
後、一年、いや、二年で幕府は跡形もなくなるぜ。
どちらかと言えば、勝の物憂げな言葉が、歳三の頭をよぎった。
雪は歳三が目を離している間にも、しんしんと、なんの物音も立てずにそこに積もっていく。沖田は静かに雪を見ていた。その後姿を尻目に、歳三は立ち上がると、近藤と相談するためにそっと廊下に出た。

 「目標は、紀州藩用人三浦休太郎」
 白川村に集まった同志十六名の前に、天満屋の見取り図が置かれている。朱筆で描かれた配置図には、それぞれ表口からの切り込み隊、表路、裏口の後詰の班名と人数、代表者の名前が略字で表記してある。陸奥の名前は、その表口の切り込み隊の中にあった。
 「陽之助、この配置じゃあ、討ち漏らすことはないじゃろ」
 関は、上機嫌で言った。陸奥はいや、と静かに首を振り、
 「少ない人数での配置では、これが限界だと言うべきだな。藩邸での警備より手薄とは言え、偵察では向こうはこうした場合常に二十五、六名ほどの人数を動員してくるそうだ。そのうち、何人が新撰組かは知らないが、こっちが、人数が少ない分、目標を定めて、早期に決着をつけるしかないと言うことを覚悟しておいてくれ」
 「ああ、分かっちょるき」
 なあ、と、関は同志たちに向かって言った。
 「陽之助は心配性じゃが、その分、わしらに分からんことを手抜かりなくやってくれちょるわ。わしらは、必ず坂本さんを殺した奸賊、三浦休太郎を討ち取っちゃろうやないか」
 陸奥は小さく息をつくと、冷静な口調で言った。
 「諸君、気負うのはいいことだが、必ず三浦だけは討ち取らなくてはいけないと言うことを忘れないでくれ。三浦は近々、紀州藩兵を上洛させ、大垣藩との共同作戦で市中三軒の薩摩屋敷に焼き討ちをかける計画を企てていると言う話だ」
 「天子様の都で暴挙を企てるとは不届きもいいところじゃ。田中さんはおらんでも、わしらで必ず三浦の首を挙げようぜよ」
 (幸せなやつらだ)
 同志たちが気勢をあげて、景気づけの盃を煽る中、陸奥は静かに立ち上がって一人、廊下に出た。誰もいない場所に出ると思わず、遣る瀬無い仕草で、腹立たしげに首を振る。ふん、と鼻で笑ってもみるが、このむなしさは晴れない。
 そもそも、こいつらはなにも、分かっちゃいないのだ。
 「ところで陸奥君、まもなくこの企てから私は抜けるよ」
 田中は、陸奥を呼び出したときにすでにこの顛末を告げてある。
 「みんなには、君からよろしく言っておいてくれ」
 「これはあんたのお膳立てじゃないのか」
 田中は平然と、首を振った。
 「私は、君たちが納得いくようにことを計らっただけだ。もちろん、こっちの条件も飲んでもらわないと困る。この一件は決して、土佐藩や海援隊の総意とは違うと言うことにしてもらいたい」
 このまま仲間内での復仇論の憤激が放置しておけば、上層部への不満に切り替わっていく可能性があるだろうと言う危惧と、隠蔽したい真実に近づいた危険分子を一挙に葬ろうと言う上策なのだろうが、そこまで分かっていてさすがに陸奥も怒りでその顔が青ざめていくのが分かった。
 つまり、自分たちの手は、徹底的に汚さない気なのだ。
 「・・・・・おれは別に、三浦が下手人だとは思っていない」
 「だが、深町小夜に裁きを与えたいんだろう?」
 田中はあくまで、噛んで含めるように丁寧な口調で言った。
 「それに、三浦が今回の事件の黒幕だと言う話もあながち間違いではない。君の言うとおり、確かに坂本に最期の手を下したのはあの女だが、その前に近江屋に見廻り組の連中を送り込んだのは三浦の差し金だからね。私たちとしては、出来れば報復はぜひ成功させてもらいたいところだ」
 「・・・・・・・・・・・・・」
 「どうでもいいと言う顔をするなよ。この件は、君がちゃんと仕切ってくれないと困るんだ。せっかく君の気持ちも汲んだんだ、しっかりやってくれよ」
 (つまり、おれは生け贄か)
 飢えた土佐犬の群れに投げ込まれる血のしたたる生肉。
 陸奥は想像の巧みさに思わず自虐的な笑いを浮かべた。だが、本心ではもちろん、むざむざ捨石になる気はない。
 計画には乗る。だが、徹底的に利用するだけだ。
 田中からは、可能な限り三浦休太郎側の情報を受け取ってある。配置も段取りもすべて、陸奥がつけた。目的は別にしても、この計画は抜かりなく自分の指揮で進めることが必要だった。確かに腕に覚えはないが、適役の助っ人を探し、情報を集めた陸奥の功績の大きさに、同志たちは迷わず従うだろう。その意味で、田中は陸奥に、最高の役割を割り振ってくれた。
 陸奥は人目を憚り、裏口に出る。表路の板塀に、裾をからげ、手ぬぐいで顔を隠した中間者姿の浜岡が待っていた。
 「正面から入る」
 陸奥は、さっきまで同志に説明していた計画のあらましを、書き取ってきた見取り図を出して簡潔に説明した。
 「後詰の配置はみての通りだ。あの女がどこから現れるかは分からないが、天満屋を出ることはこれで出来ないだろう」
 「だが、それじゃあ、おれは中へ入ることは出来ねえ」
 浜岡は訝しげに言った。
 「お前ひとりじゃ、あの女は手に負えねえだろう」
 「後家鞘がいる。やつは一応、腕は確かだ。それに」
 と、陸奥は裏口の木戸を指して、
 「ここには三人しか配置していない。万が一のときにはここから外へ逃げようとするはずだ。あんたはここに待機して、見張っていてくれ」
 「いいのか。邪魔になりゃ、お前の同志だろうがなんだろうが、おれは斬るぜ」
 「かまわんさ」
 陸奥は言った。もう、ためらっている余裕なぞない。
 「だが、必ず女は生きたまま確保しろ。それが守れなかった場合、問答無用でお前を撃ち殺す」
 「馬鹿言え」
 そう言った浜岡は唇を歪めて、強がるように言った。
 「そっちこそ、へましたら承知しねえぞ」
 「おれは失敗しないさ。なにしろ本当に、もう後がないんだ」
 陸奥の苦笑に、浜岡も同調した。
 「・・・・・そうなりゃ、鴨川で乞食でもやんな」
 「考えとくよ。もし、生きていたらね」
 本当に詰まらない冗談だ。だが少し、気がほぐれた。
 浜岡は闇の中に走り去っていった。
 「なにしてたんですか、陸奥さん」
入れ違いに、白峰が顔を出した。
「付文だよ。女に」
陸奥は、振り返らずに嘘を言った。
「女?」
ああ、と陸奥は肯き、
「明日死んだら、もう会えなくなるかもしれない。君も、馴染みの女には、出しておいたほうがいいんじゃないか」
言い捨てておいて、陸奥は白峰の横を擦り抜けた。
十八
「襲撃は今夜だ」
朝方、歳三は計画を説明し、人員を手配した。
「三浦側からの警護の要請には、いつも通りに応じてくれ。担当者は斎藤君、大石君のもとに集まって、少なくとも夕刻には屯所を出て、警備に当たること。場所は下京油小路の旅館、天満屋だ」
本来、紀州藩邸は聖護院森ノ東にある。市街の中心部に足を運ぶには便が悪いために、三浦は天満屋を根城にしていた。今日も、その夕刻までには、祇園で遊んで天満屋に戻ってくる。そこから、朝まで酒宴が催される予定であった。
「例の白川村からは、まだ動きはないか」
歳三は山崎に聞いた。
「今のところは。・・・・・副長が注意の陸奥陽之助の所在を中心に、鋭意、探索を進めます」
「白川村から、下京の天満屋までは遠い」
恐らくは、近くに支度所を設けているだろう。時間をずらし、ときに変装をし、志士たちは、散り散りになってそこに集まってくる。事前に押さえることが出来れば、僥倖には違いないが、個別で彼らを探し出して確保するのは、困難と言わざるをえないだろう。
「首謀者は陸奥だ。ともかく、やつの所在を掴んだら、すぐに報告しろ」
「承知しました」
「他に質問はないか」
歳三は、準備の人員に向かって言い渡した。
「なければ各自、準備をしてくれ。中で警備に当たるものは、防刃具の装着を怠るな。着込み、鉢金、いざと言うときの動きを損なわない範囲で用意を頼む。それと、これは斬られたときの用意だ」
玉子酒に石田散薬を溶いたものを茶碗に用意させ、歳三は各自に回した。
「これを飲めば、斬られても治りが早くなる」
新撰組では恒例のようなものだった。おのおの、一杯ずつの薬酒を、顔をしかめて飲み干した。
「毎度思うんですが効くんですか、本当にこりゃ」
斎藤は粉が混じりきっていない酒の表面を訝しげに眺めて聞く。歳三は断言すると、率先して自ら一気で干した。
「効くよ。つべこべ言わずいいから飲め」
その飲み方には、一片の迷いもなかった。
「土方副長、後、もうひとつ宜しいでしょうか」
山崎が控えている。歳三はそこに歩いていった。
「どうかしたか」
「陸奥陽之助が使っている男の素性が割れました」
「あの男か」
あの晩。触れただけで、骨を断ち割るような殺気は尋常のものではなかった。
「江戸では手配書が出ておるそうです」
山崎は人相書きを渡した。そこに顔の半分が焼き崩れたあの男の正面像がある。
「浜岡元五郎。元・関東取締り出役です。三年前に上役一名、朋輩五名を殺害して逃走しています」
「武士か?」
「家柄は貧乏旗本ですが、あくどいやり口で関八州を股にかけて暗躍していました。その顔は博徒の一味にかどわかされたときに、報復されたもののようです。通称は、鬼ゴロ」
「鬼ゴロか。また、相応しい業深い二つ名をもらったもんだ」
「京都に流れてからは、土佐藩で岡田以蔵捕縛のための捕吏として内密に雇われていたことがあったと噂があります」
「あの晩の男ですか」
歳三が人相書きを見ていると、後ろから斎藤一が顔を出した。
「意外にいい男じゃないですか。こっち側は」
斎藤は人相書きを翳しながら、
「実物のほうが、もっと化け物じみてた」
「まあ、実際に見たと言っても夜目と昼間では印象違いますし、この人相書きが書かれてからの年月もありますから」
「だいぶ、遣うようだな」
「関東のすれっからしの博徒を相手にしていたくらいですから、腕っ節はすれなりでしょうが、剣は何流を遣うとは聞いてませんな。上役を殺したときも、遺骸はまるで狂犬が食い荒らした跡のようだったそうです」
「狂犬か」
浜岡の刃が切り裂いた空気の感触を、歳三は覚えている。確かにあの剣なら、片手撃ちで骨まで両断するだろう。
「やつも面相のわりには、姿を晦ますのが上手く、足取りを掴むのに、難儀しとります。鳥辺山の隠れ家にも人を張り付かせていますが」
「山崎君は特に、外の動きに警戒してくれ。そいつも襲撃に加わるとなれば、だいぶ厄介なことになるからな」

夕七ツの鐘が鳴った。
陸奥は行商に変装して、島原にいる。盛り場の夜の始まりの音に思わず顔を上げる。
色街ではすでに騒ぎが始まっている。商家の若旦那連中、藩の御用人とその接待連のざわめき、袖を引く女たちの嬌声、仕事帰りの職人の怒鳴り声に、煮売り屋台の賑わい声。短い日も暮れて、夜の顔を持つ人々が集まりだしてきている。
日が暮れれば、あるものたちは安くて臭い魚の油を灯すのを嫌って早寝するし、散財しようと言うものは、馴染みの女と唇に酒を含ませて、寝物語になにをしようかと思い悩んでいるだろう――――いずれにせよ、明日までなんの仕事もないのだ。
この時間帯に仕事のあるものは、みな、一様に暗い顔をしている。ちょうど自分がそうだろうと漠然と思っていた。陸奥は通る人と人の間に、そうした暗い顔をした連中の目線を探したが、ついに見つかることはなかった。
ただ一度―――島原の飾り窓の娘が、ふと伸ばした自分の足元あたりをみやって、ため息をついているのと目が合った。十五を出ないと思われたその娘は、陸奥と目があった後、不機嫌そうに顔を背けた。恐らく、田舎から、女衒に売り飛ばされてきたばかりなのだろう。いったい、いつまでこんな生活が続くのだろうか、などとまだ考えている。そんな顔だ。彼女は、答えを知っている。誰かに教えてもらうまで、知らないふりをしようと思っている。おれは君のことを知っている。陸奥は口の中で答えを囁く。
それは、死ぬまで続くものだ。
時間は容赦なく過ぎていく。
だが、それは別に救いを待つことの目安になりはしない。
西洞院御前料亭、河亀。島原を冷やかした後、陸奥は途中で扮装してから、この支度所に入り込んだ。
みたところ、まだ誰も来ていないようだった。
一応人目を憚りつつ、借り切った座敷に入る。
「お早いお着きですな」
そこに、彦六がいた。陸奥は驚いて責めるように言った。
「後家鞘」
「おっと、もうその呼び名で呼ばんでください」
と、彦六は呑気そうにそれを制し、
「二刀差しておりますさかい、苗字をもう一度名乗ろうかと思いまして。これからは宮地彦六言います。以後よろしゅう」
陸奥はそれを黙殺して、座敷に入った。自分の荷物を解き、無言で支度を始める。彦六は背後で端然として茶を啜っていた。
「あんた、国はどこなんだ?」
陸奥は聞いた。
別にこちらを見てはいないだろうが、背後に目線があると、やはり、気になるのだ。
「宇和島伊達家です。幼名は万之助言いました」
一拍遅れて、彦六は答えた。
「ああ、蒸気船の」
陸奥のイメージでは、それしかない。西南の雄藩で佐賀鍋島藩、薩摩藩と並んで賢公・伊達宗城が、国産の蒸気船の開発に着手してそれをほぼ最初期に成功させた。ただ佐賀と同じでワンマンの藩主以下、藩政がしっかりとしており、そのため若手の尊皇攘夷の爆発が起こらず、先進的でありながら、中央情勢には一歩出遅れた藩だと聞く。
「父は組屋敷の小士で、私は六男でした。転々と養子にやられて、まったく、何度名前が変わったことか」
「なぜ、脱藩を?」
「さあ」
心底困ったような苦笑いを、彦六は浮かべた。
「いったい、どうしてでしたやろか」
彦六が脱藩したのは、藩の公式記録では慶応元年の七月十八日。そのまま大坂で商家を営む伯父の家に転がり込んだが、あてもつてもない脱藩浪人の面倒はこれ以上見ないと言われて、結局、高池屋と言う高利貸しになし崩し的に就職させられたらしい。
「坂本さんとはどこで知り合ったんです」
「四年前です。坂本さんが剣術修行のために長州に出向いた帰りに、宇和島に逗留なされまして」
その頃、江戸の北辰一刀流千葉道場で塾頭を勤めていた坂本竜馬が城下に来ると言うことで、多くの若い剣術使いが彼を訪ねた。田宮流居合い術を修めていた彦六もそこで竜馬に知り合った。
「これみて坂本さんは、私を気に入ってくださいましてな」
と言って、彦六は、後家鞘から自分の佩刀を抜き払った。陸奥は銘を見た。土佐鍛冶の国吉で竜馬の佩刀とそれは同じものだった。
「思えばあのとき、坂本さんに藩を棄てろ、今に京都に新しい武権が出来る、と口説いていただけんかったら、私は今ここにおらんかったでしょうな」
どうも、脱藩は竜馬に勧められたらしい。
多くのものたちが、竜馬の何気ない一言で、人生を狂わされ、そして運命を切り拓かれた。その中で彦六は、不幸にもただ狂わされただけで終わった男だったのだろう。哀れを通り越して滑稽だと言う以外にない。
だが、彦六は昔を懐かしむようにそれを言う。
「まあ、それきりお会い出来ませんでしたが、不思議な魅力のある方やった。でなかったら、天下になんの志も、特別な思いもなかった私が脱藩なんぞしませんでしょう。よく分かりませんが、それは間違いでなかったと、今でも思てますよ」
不思議なのはこの男だ。そうなって、竜馬のことを恨んだりはしていないのだから。
喋りすぎた。次にそれを聞こうとして、陸奥は思いとどまった。
「だが、あんたは、坂本さんが死んだことの真実にはまるで興味がないようだな」
「はあ」
「おれが、深町小夜から坂本さんの死の真実を知ろうとすることを、あんたは阻止しようとしている」
「確かに。・・・・・結果的にはそうなると思いますけど、任務は任務ですんでなあ」
「・・・・・・あの女から、真実を聞きだすことが坂本さんへの供養だとは、あんたは思わないのか?」
彦六は苦笑いをして、その場をやり過ごそうとした。関西の商人あがりらしい、なんとも言えない小賢しい知恵のように、陸奥には思えた。
「まあ、ただ流されて志士をやってるだけの、あんたにこんなことを話したところで、無駄だったかもしれないけどな」
陸奥はここで初めて振り返ると、吐き棄てるように言い放った。
「せいぜい、田中さんの意に沿ういい仕事をするといい」
完全に日が暮れた。
陸奥が入った後、関雄之助をはじめとして仲間たちがぞくぞくと集結してきた。陸奥は全員の顔と名前を照らし合わせて、脱落者の確認を行った。襲撃人数、計十六名。事前逃亡したものはいなかった。彼らは着込みをつけ、行李や荷物に紛れ込ませて先に到着していた手槍や刀など、おのおのの手にあった武器を手にした。
陸奥の銃は弾丸を装填してある。予備は十発。夜、灯火があっても部屋は相当暗い。火花で居場所を知らせることになるので、乱射は避けたいところだ。
やがて密偵の菊屋峰吉が、駆け込んできて、不動堂の新撰組屯所に動きがあったことを急報した。三浦休太郎護衛のための新撰組隊士たちが、今、屯所を出たと言う。メンバーは三番隊組長斎藤一を筆頭にして、大石鍬次郎、蟻道勘吾、中条常八郎など以下十数名。これに三浦以下紀州藩の人間も加えると、やはり二十五、六名になることは、確定したと考えていいだろう。
「人斬り大石がいるのか」
事情を知る中井庄五郎という名前の十津川郷士が、声を上げて言った。
「やつは先達て油小路で、白川陸援隊の伊東さんを始末した男だ」
自分も人斬りの異名を持つ中井は、陸奥とそれほど変わらない年齢だが、新撰組との戦闘経験が豊富だった。表口からの、切り込み隊のメンバーに名を連ねている。
「副長の土方は出ていないのか」
陸奥は聞いた。峰吉は首を振った。おかしい。深町小夜が現れるとすれば、当然、土方も出ていなくては不自然だ。
(・・・・・もしかしたら、別働隊でおれたちを監視しているのかもしれない)
屯所からの出撃メンバーは囮の可能性が高い。もしかしたら、天満屋に踏み込んだ時点で包囲されて一網打尽にされることも、ありえないことではないかもしれない。
「行こう。新撰組のやつらも所詮は人だ。宴がたけなわになったころを見計らって踏み入れば、必ず不意を突ける」
中井が言い、隣にいた関も大声で同調した。
「中井の言う通りじゃき。新撰組が天満屋に入ったら、出るぜよ」
陸奥は、躊躇した自分を恥じた。この期に及んで、慎重論など、邪魔になるだけだった。言いかけた言葉を飲み込んで、陸奥は大きく息をついた。そして、同志たちの顔を見回すと、静かだが強い声で呼びかけた。
「行こう」
十九
一昨日の晩から降った雪が、路上を濡らしている。軒に積みあがった雪の塊が月の光に映えて、今夜は比較的、視界がいい。歳三は八人の別隊を配置して、天満屋の周囲を見張っていた。薬屋の山崎が顔を出す。
「土方さん、西洞院前の河亀から、人数が出たそうです」
十六名と言う。決して少ない数ではない。
「誰がいる」
「先頭は陸奥陽之助、関雄之助、中井庄五郎、本川安太郎、松島和助・・・・・・・」
「浜岡はいないか」
山崎は首を振った。別で動いているのかもしれない。と、なれば、すでにこの辺に潜んでいる可能性は高い。
「十津川郷士の中井には、何度か隊士をやられております」
「たぶん、そいつが切り込み隊長だろう」
新撰組と切り結んで無事でいた経験を持つ人間はそうはいない。
「中の斎藤に知らせてくる。お前たちは引き続き、見張ってくれ」
「もう、大分近づいてきてますよ」
山崎が心配そうに言った。
「中に誘い込むのさ。いいか、騒ぎが起こるまで、手出しは無用だ。それまで所定の配置で待機させておけ」
注意しておいて、歳三は裏口から中に入った。
会場は、二階である。薄暗い廊下を歩くと、暖かな人いきれと騒ぎの声が、降りかかるようにして響いてくる。この調子では夜通し騒ぐつもりだろう。歳三は物憂そうに頭の後ろを掻き、ため息をついた。
「斎藤を呼べ」
斎藤は奥にいた。酒を少し飲んでいるために、着込みが暑くなってきたらしく、着物の袂が乱れかかっていた。
「来るぞ」
歳三は言った。
「飲むのはいいが、油断して死ぬなよ」
「抜かりはありません」
斎藤の声は、ほとんど乱れていなかった。みると、顔色も元に戻って青白くなっていた。着物の乱れも、ふりのようだ。どうも新撰組にいると、飲んだふりが上手くなるらしい。
「人斬り中井がいるようだ」
「浜岡は?」
斎藤は聞いた。気にしてはいるのだろう。
「いない。だが、どこかに隠れているはずだ」
「こちらから、誘いをかけましょうか」
「任せる」
歳三は言った。頃を見計らって酔ったふりをして唄うと言う。
「もうじき来るはずだ」
そのとき、戸障子が開いて三浦が小便に立った。二人ほど、気の合う取り巻きを連れている。青白い顔を上機嫌に赤く染め、女の話などを大声で放言していた三浦は、廊下で辛気臭い相談をしている歳三たちと目が合うと、やや鬱陶しげに顔を背けた。
歳三は、三浦が中座した隙に中へ入り、窓から、外の様子をうかがった。すでに、軒下に襲撃犯たちが集まり始めている。
「しまった」
黒頭巾の長身は陸奥だろう。首魁の彼は、どうやら正面から入ってくるようだった。
「これじゃ、もう戻れんな」
「山崎さんが外では上手くやってくれます。大丈夫ですよ」
それよりどうします、と、斎藤が聞いた。
ちょうど、笑い声をあげながら三浦たちが戻ってきたところだ。
「斎藤君、余興を見せてやれ」
歳三は、親指を突き出して指示した。斎藤は酔って外れた作り声を上げながら、立ち上がった。
「されば、今宵の座興に一曲」
斎藤の唄に、拍手と歓声が上がる。酔って唄えば、どんな唄でも、盛り上がるものだ。歳三も手を叩いて、斎藤を囃した。

「唄が聞こえるな」
道中、言ったのは、中井だった。陸奥は、他五人の切り込み隊と顔を見合わせた。
「今が機だ」
天満屋の二階からは、薄暗い通りに煌々と明かりが落ちている。陸奥が耳を澄ませなくても、中の音が漏れてくる―――上機嫌な手拍子。酔っておだを上げる誰かの声、茶碗を箸で叩く音、さんざめくほどの笑い声。
「まず、おれが行く」
天満屋の正面に来た。中井は鯉口を切り、言った。
「他のものはすぐに後についてこい。三浦はおれが斬る」
おれの相手は三浦ではない。そう言いたい陸奥は、銃を用意しながら、中井の真剣さが滑稽に見えて仕方がなかった。もちろん、その理由を問われて明かすわけにはいかない。
「二番手はおれだ」
代わりに陸奥は、出遅れないように主張した。
「次は後家鞘。一の太刀はこの中井がつけるから、援護を頼む」
「へい」
と、彦六は軽く頭を下げた。この男の狙いも三浦ではない。
深町小夜はいつ現れるのか。そして、いったいなんのために。
この二つの肝腎な点を、陸奥はついに知ることが出来なかった。田中だけが自信に満ちた口調でそう言ったことだ。確証はないが、小夜を捕まえるには、否が応でも第一線にいなくてはならない。
「おい、準備はええか?」
肯いて、陸奥は少し腹を押さえた。冷えたらしい。ずっと陸奥の体温で温めていたのに銃が、いつまで経っても冷たいままだった。
中井は振り返ると、素早く格子戸を開けた。土間をかけあがり、そのまま二階の宴席の襖を開け放つ。その間、陸奥はどこか現実感のない心持で、中井の後ろ姿を見ていたのを、なぜか後まで鮮明に憶えていた。
あれだけ明かりが漏れていたように見えた二階の十八畳は、行灯の漏れる明かりで狭くて暗く、そこに段だら染めの新撰組隊士たちがひしめくように待ち構えている気がした。
これだけ大勢の男たちが一斉に、中井の姿を凝視して静まった。中井はその中を、能役者のように音もなく、悠々と進んでいく。
上座の床柱の前に座っているのが、三浦だろう。立てひざをついたまま、呆然と中井を見上げていた。
「そこもとが三浦か」
中井の声は、かすれて聞き取りにくかった。
「おう」
三浦は、あごを持ち上げて声を上げた。こちらの方は、酔って呂律が回らない。
「お前こそ」
と、誰何して腰を上げかけた。
そこに、呼吸を合わせる。
腰を落とした中井が振り下ろした刃が、三浦の顔面を捉えた。ぎゃあっ、と三浦が悲鳴を上げたのを、陸奥は聞いた気がした。顔を割った。まともに入れば即死だ。それで決まったものと、陸奥が錯覚したほどだった。
しかし、それは思い違いだった。
中井が振り下ろした瞬間を狙って、付け入った新撰組のひとりが、体を崩した中井の逆胴に身体ごと飛びつくように、斬り上げていた。悲鳴は中井のもの。鈍い、ぽん、と鞠を打つような音とともに、胴を割られた中井が倒れこんだ。
酒膳が吹き飛ぶ。瓶子が割れて、けたたましい物音が起こった。
「なにもんじゃあっ」
怒号が空気を裂いた。
びん、と張った修羅場独特の殺気がその場に満ちる。
全員が足元の太刀を抜き放つ。
血走った目が、一点、陸奥ひとりを見つめていた。
中井が死んだ。割れた胴から、白い肋骨が飛び出している。
陸奥はそれなのに、依然、傍観者として突っ立ったままだった。
「陸奥さんっ!」
叫び声にはっ、と、陸奥は顔を上げた。中井を斬った男が、そこまで迫っていた。男は、左利きだった。血と脂で刃先が濡れている。
一歩遅ければ、陸奥は喉を突き通されて即死していたかもしれない。死ぬ。陸奥は思わず目をつぶろうとした。刹那、左から付け入った一刀が、男の右腕を切り払った。鈍い、打撃音が響く。着込みのせいだ。刃は、びいん、と細動して跳ね返った。
「彦六」
相手は刀を取り落とした。彦六はそれをとっさに蹴り飛ばした。刀は襖の向こうに飛びこんで、誰かの悲鳴が上がった。
「てめえ」
「陸奥さん」
もう一度、彦六が叫んだ。それで、陸奥はようやく我に返った。
床の間を狙って、撃った。
目標もろくに確認もしなかった。出来るわけがなかった。けたたましい轟音が、室内に響き渡る。撃った陸奥自身も耳が遠くなるような衝撃だった。弾丸は床の間に突き刺さって弾けたが、飛び道具の威嚇は、その場にいる全員の動きを停めた。
「三浦」
陸奥は名前を呼んだ。床の間に男がいる。血で滑る畳を這いつくばりながら、逃げようとしていた。
もう一発、発砲した。弾丸は目の前の卓袱台を跳ね上げた。泣きそうな声で男の悲鳴が上がった。
それと同時に奇妙なことが起きた。
轟音を合図にしたかのように、ふっ、と部屋の明かりがすべて消えたのである。一瞬で視界は真っ暗闇になった。
ひとつの光もない。一気に目鼻も見えない闇になった。
「明かりをもってこい」
誰かが叫んだ。その間、陸奥は意味もなく左右を見回していた。
「後詰じゃっ」
襖が倒れた音がした。
「大事ないかいっ!」
関の声―――それだけは分かった。救援が来た。入り乱れて、乱闘になった。

斎藤がやられた。
上座にいた三浦に斬りかかった男の逆胴を払った直後、もうひとりにやられた。立てひざをつき、低い位置からの切り上げ。拍子抜けするような小兵だ。だがその腕が、大蛇のように伸び上がり斎藤の右腕を斬った――着込みをつけているが、衝撃は骨に響く。斎藤はうめき声をあげて、がしゃんと、佩刀を取り落とした。落ちた刀は拾う前に、男に蹴り飛ばされた。
うずくまったまま斎藤は、左手で脇差を抜き、その男の足を払った。飛びのいた相手はバランスを崩し、畳に手をつく。
「こんくそっ」
背後から、別の隊士の刃が迫る。
小男はあわてず、転がりながら、切り上げた。返り討ちだ。刃は臍の下から鳩尾までを切り上げた。血煙があがる。酔いで暑くなって、着込みを脱いでいたらしい。それが、命取りになった。
「明かり、消せ」
歳三は言った。目の前の蝋燭を吹き消す。
銃声が空気をつんざいた。
誰もが反射的に、身体を伏せる。雷鳴のような音だ。
(陸奥か)
入り口に、いた。床の間を狙って発砲した。三浦の悲鳴が聞こえた。どうやら、まだ無事なようだ。
次の銃声。まだ、弾が尽きていない。陶器が割れる耳障りな音が聞こえた。聴覚がおかしくなってくる。凄い轟音だ。
「野郎」
歳三が立ち上がろうとしたときである。ふっ、とそこですべての明かりが消えた。いきなり消えたのだ。
なにも見えなくなった。
襖を蹴倒した音がした。誰かが雪崩れ込んできている。乱闘になった。歳三は窓を開けるように指示しながら、叫んだ。
「明かりはないか」
月明かりが射す。そのとき、陸奥はもとの場所にいなかった。
舌打ちして、歳三は膳部を飛び越えた。誰かが身体ごとぶつかってくる。それをいなして、刀のこじりで力いっぱい殴りつけた。歳三は叫んだ。
「山崎、今だっ、一名たりとも逃がすなっ」
はったりだ。だが何もしないよりは、ましかも知れない。
賊が入ってきた襖から、外に出る。夜目にようやく慣れてきた。
陸奥の姿はどこにもなかった。
「陽之助、どこだ」
歳三は、聞こえよがしに怒鳴った。常の精神状態とは違う。反射的に、応じてくるのを期待した。
「陽之助、こっちだ」
ふと、階段の下から、中庭が見えた。
月明かりが、表の敷石を照らしている。誰かがその上に倒れこんでいるのが見えた。二階の手すりから落ちたのか、不自然な格好だ。よく見ると首になにかが刺さって、いびつにねじ曲がっている。傍にたたずむ人影の細さに、歳三は不審を覚えた。
影は、こちらを振り返って見上げている。歳三と視線が合った。
雲行きが変わり、光の加減が変わる。
その姿を歳三は見忘れるはずがなかった。
思わず、叫んでいた。
「小夜」
小夜はすぐにその姿を消した。月がまた、あわてて暗雲に隠れるように。歳三は身を乗り出した。彼女は恐らく、騒ぎに乗じて歳三の入ってきた裏口から逃走する。
その瞬間、歳三は手すりを飛び越えて、下に飛び降りていた。草むらに膝をつき、もう一度、彼女の名前を呼ぶ。しかしそこにはすでに誰もいなかった。いるはずがなかった。だが、幻のはずもない。
立ち上がり、歳三は奔った。
二十
その節には。
あの晩、最後に小夜が言った言葉が、ずっと胸の奥に引っかかっていた。明後日の天満屋で。だが、どうして。なんのために、彼女は現れたのだろう。歳三に、わざわざ、予告までして。
裏路の角を曲がり、小夜の白い着物は表通りに消えた。やはり、なにかの間違いではない。そして、歳三が追跡してくることを、たぶん、彼女は知っていたのだ。
中庭で死んでいた男―――歳三は、遺体のすぐ傍に着地した。上からみた印象しかない。男の首に、なにかが深々と突き刺さっていた。傷口、耳の下辺り。ちらちらと、螺鈿の細工が揺れていた。そうだ。
簪だ。
歳三は奔った。狭い路地の角を伝い、手桶を飛び越えた。容赦なく、吹きつける冷たい寒気が、目と口の中に沁みる。
「小夜」
白い息を吐いて、歳三は声を上げた。
狭い長屋の十字に交差するその真ん中に。
小夜の姿があった。右腕をとられ、しっかりと首を抱かれている。
拳銃を突きつけられていた。
「停まれ」
陸奥陽之助。黒頭巾が外れ、首に引っかかっている。幼い顔をしているのが意外だった。
「・・・・・・おいおい」
歳三はため息をついて、言った。そろりと柄に手をかける。
「いつまで、こんなことしてる気だ」
「動いたら、女の頭を吹っ飛ばす」
間合いに入る一歩手前で、陸奥は言った。さすがに油断はなかった。仕方なく、歳三は足を止める。
「来るんだ」
陸奥は、小夜に向かって言った。小夜は目線を合わさない。
「彼女を自由にしろ」
歳三は、静かに言った。
「聞け。これは、元々おれたちの問題なんかじゃない」
「おれと、この女の問題だ」
銃口を押しつけ、陸奥は小夜に言い放った。
「深町小夜、お前が坂本さんを殺した」
「確かに、結果的にはそうなった。・・・・・だが、それは坂本も同意したことだ」
「土方、この女と裏で繋がっている、あんたの言葉が信用できると思うか」
「別に信用しろとは言ってない。だが、なにを聞かれても、それ以外の事実は存在しないんだ」
陸奥は逡巡を振り払うように首を振った。
「もし・・・・・・仮にそうだとしてもこの女は、罪を受けなきゃならないはずだ」
「・・・・・・・陸奥様、あなたの申される通りです」
小夜は静かに肯き、顔を上げた。
「わたしを、ここで殺してください」
「ふざけるな」
歳三に向かってか、小夜に向かってか、陸奥は、吠えるように言った。
「あんたはまだ死なない。おれに、真実を語ってから死ぬんだ。なぜ、坂本さんを殺さねばならなかった? あれほどあんたを気遣っていた坂本さんを。そして・・・・・・ソコワレとはなんだ? あんたは、何をみたんだ?」
彼女がはっ、と息を呑んだ瞬間、陸奥は左手の袖を小夜の口の中に突っ込んだ。舌を噛もうとしたのだ。歳三は、剣を抜くのも忘れ、駆け寄ろうとした。その鼻先に陸奥は銃口を突きつけた。
「次に動いたら、殺す」
一足一刀の間合いに、少し遠い。ここは機を見るしかなかった。下がれ、と陸奥は銃口を誇示して歳三に命令した。仕方なく、彼は半歩下がった。
「陸奥、なにをしてやがる」
声が立った。浜岡が、陸奥の背面から駆けつけてきていた。
「浜岡、確保した。女を頼む」
首を回して、陸奥は言った。浜岡に小夜の身体を預ける。小夜は少し抵抗したが、浜岡の太い腕に身体を抱きとられた。
「油断するな。その女、舌を噛もうとした」
「見てたよ。せっかくのいい女が、世を儚んで馬鹿な真似しちゃあいけねえや。なあ、姉ちゃん」
言いながら、乱暴に浜岡は小夜の口に指を入れた。
「やめろ」
「それはこっちの科白だ」
銃を突きつけながら、陸奥は言った。
「これ以上、おれの邪魔をするな。本当ならあんたにも、しかるべき報いを与えたいところだが、直に手を下したこの女の身柄で、我慢してやる」
歳三になすすべはなかった。言葉もなく、陸奥と銃口を睨みつけている。
「行こう。やつは追ってこない」
後ずさりしながら、陸奥は浜岡に指示した。浜岡は小夜の細い身体を抱きかかえ、無理やり走ろうとした。正確には、前へつんのめりそうになった。その瞬間だった。
辻から出てきた何者かの刃が、浜岡の顔を側面から突いた。頸を狙っていた。それは、一瞬早く首をひねった浜岡の顔の横を潜り抜け、着物の襟を突き通した。浜岡はバランスを失って、後ろに仰け反る。
「てめえ」
刃が肉を抉り取った。血まみれの頸を押さえて、浜岡はその方向を睨み返した。刃はやや下がって、浜岡の咽頭を狙っている。
「総司」
浜岡の頸をえぐったのは、沖田の剣だった。音もなく、沖田が顔を出した。段だら染めを羽織っている。苦しそうに白い息を吐いているが、眼は死んでいない。局中随一の使い手が操る刃が、浜岡の命を狙っていた。
「土方さん、お小夜さんを逃がしてください」
小夜を後ろに庇い、沖田は言った。
「病人でも、あと二人くらいは斬れますから」
早く、と沖田は促した。
小夜のもとに、歳三が駆け寄ろうとした、そのときだった。
沖田を狙って振り向きざま、陸奥が発砲した。寒空に乾いた音が響いた。一間(二メートルほど)に満たない至近距離だ。だが片手で撃った。反動で手首が曲がり、弾は軒上に流れた。
「浜岡」
一瞬の隙をつき、浜岡が小夜の手をとった。そのまま、腰から抱き上げ肩に担いだ。裾をからげて、走り出す。
「ちっ」
小夜の手を取ろうとした動作で、反撃が遅れた。歳三の位置なら、銃口がそれた時点で、陸奥に抜き打ちを掛けられたのだ。
逃げる際に、もう一発、陸奥はけん制の一弾を撃った。今度のは舶来物らしい。弾丸と火薬を銃口から筒に入れなくても、あらかじめ弾が込めてあるので、連射が効く。
「追うぞ」
歳三は抜き身を下げたまま、走り出していた。沖田も後を追う。
なにしろ、女を連れている。まだ追いつくチャンスはある。
「待ってください」
沖田の声が後から掛かる。だが、歳三は足を止めなかった。
「お前が血を吐いて止まっても、おれは行くぞ」
「違います。・・・・だから・・・そう言うことじゃない」
沖田は喘ぎながら首を振った。
「なんなんだ」
いらだつように、歳三は返した。
二人は表通りに出た。凍りついた根雪が端に積み上げられている。そこに黒い木綿羽織を着た武士が二人、どす黒い血を撒いて、倒れていた。死んだばかりで、まだ遺体から湯気が出ている。いずれも、遺骸は頸を突き通されていた。
歳三は足を停めた。
「・・・・・どう言うことだ」
そこで、歳三はようやく冷静になって聞いた。沖田の言いたかったことは、たぶん、これだろう。彼はこの通りから来た。
「まだ追われてますよ、お小夜さんは」
沖田は、自分が殺した遺骸を見下ろすと、苦しげな声で言った。
「さっきの二人組じゃない、それも、もっと大人数に」

月が、隠れた。だがすでに夜目にはかなり慣れている。陸奥は路地の向こうを見回した。
「行こう。こっちは大丈夫そうだ」
「大分、神妙じゃねえか」
浜岡は、すでに小夜を担いでいない。一度、土方たちをやり過ごすために、路地裏に隠れてからは、手を引けば歩いて着いてくるようになった。
「どうするんだ、こっから」
「舟入まで行って、高瀬川から用意の小舟で移動する」
陸路を使わないことは、初めから考えていた。女づれだと言うだけで、逃走にはかなり不利だ。田中のことだ。後家鞘だけでなく、市中に人を放っている可能性も否定できない。
「まずはそこまで慎重に移動しよう」
後家鞘が早い段階で行動不能になったのは、幸運だった。たぶん、となれば、あの男はもう用済みだろう。思えば哀れだが、これも仕方がない。
「来い。立ち止まったら、撃つ」
わざわざ銃で脅さなくても、小夜はほとんど抵抗らしい抵抗を見せなかった。陸奥の指示に、黙々と従っている。その表情からは、なにを思っているのか、読むことは、依然、出来そうもない。
「おい、逃げないようにこいつ剥いとくか」
卑猥な笑みを浮かべて、浜岡があごをしゃくった。抵抗しない女が、この男には物足りなく感じたのだろう。
「必要ない」
舌打ちした浜岡は憮然とした顔の後、唇を歪めて言った。
「・・・・・・物覚えの悪い餓鬼だ」
これ以上、何か言う前に、陸奥は銃口を突きつけた。
「いいか。おれもお前も時間がない。新撰組に捕まろうが、土佐のやつらに捕まろうが、どっちにしてもな。尻に火がついてるおれたちが今やるべきことはなんだ? 早く、この女を連れて安全な場所へ行くことだ」
分があるのはこっちだ。これは別に、腕っ節は関係ない。
「・・・・・・分かったよ」
唾を吐くように言うと、浜岡は走り出した。
小夜の後を、陸奥も走る。
小夜はふと、振り返って心配そうな表情をした。
この女は逃げることに慣れている。追われれば、逃げずにはいられないのだ。理屈と言うより、裏仕事を重ねてきた人間の本能なのだろう。彼女の気弱い迷いを、陸奥はそのふいの表情からなんとなく感じ取った。
「まずいぞ」
先に舟入場の角についた、浜岡が言った。
「・・・・・誰かいやがる」
三人ほどいる。いずれも黒い羽織。もちろん、二刀差している。一人が松明を手に持ち、余念なく辺りを見回している。明らかに監視の人員だ。
「お前んとこのじゃねえか」
「違う」
顔に見覚えはない。風体にも。
「・・・・・しかもあれは、土佐者じゃない」
みれば、陸奥にはすぐ分かった。土佐者には風体に特徴がある。もしそうなら月代は狭く剃り上げ、反りがほとんどない真っ直ぐな刀を差しているはずだ。男たちの風体を見たとき、陸奥は直感した。いつか、夜道を襲われたことがある。そいつらかも知れない。
「どうする」
「あんたとおれで三人くらいなら、片付けられるだろう」
銃を取り出した陸奥を浜岡が制した。
「やめろ、そいつはまずい。馬鹿でかい音で居場所がばれる」
「何か、いい手があるのか」
「・・・・・ああ、ともかくおれに任せろ」
黒樫の木刀を陸奥に手渡して、浜岡は言った。
「もし」
暗がりから、女が現れたのをみて、男たちは思わず雑談を止めた。小夜は上手く、暗がりで顔が見えにくい位置に立っている。男は怪訝そうに彼女を睨み上げる。
「なんじゃ」
「お武家様方、よろしければ、種火を分けとおくれやす」
小夜は言った。綺麗な京言葉だった。
「ならん」
吠えるように、ひとりが言った。語勢の強い言葉つきだ。
「おはんに分ける火種はなか。とっとと失せんか」
(薩摩者)
怒鳴り声を聞き、陸奥は直感した。
「連れの年寄りが、夜道に提灯の火が消えて難儀しとおりやす。付け木に少し、火ぃだけ頂ければ助かりますのやけど」
「・・・・・・・・そん提灯は、どこにあるか」
小夜は、頭を下げた。しゃなり、と衣擦れの音が立った。それで不承不承、松明を持った武士は立ち上がった。
「大体、そん提灯をおはんがなぜ、こちらへ持ってこん」
「急なことで、もう気ぃが動転してしまって・・・・・」
消え入りそうな声で、小夜は言った。さりげなく袖で顔を隠す。ぶつくさ言う武士を、上手くこちらの路地に引き込んだ。
「そん提灯は、いったい、どこか」
男が首を出した瞬間を狙って、陸奥は木刀を振り下ろした。雨に濡れた布団を思いっきり殴ったような感触がして、男はあっけなく、昏倒して倒れた。
その手から落ちた松明を、陸奥は拾って川に投げ入れた。
「何じゃあっ、おはんらァっ!」
二人の武士が異常を察知したときには、暗闇に乗じて浜岡がその背後に忍び寄った後だった。手に、陸奥の脇差を持っている。
目の前の男の肩口辺りまで飛び上がった浜岡は、一撃でその首を叩き落した。吹っ飛んだ頭は目を見開いたまま、堀に落ちて血煙を上げた。
恐怖に慄いたもうひとりが、足を引きながらそれでも柄に手をかけたとき、腰だめにしっかり脇差を構えた浜岡がその巨体ごと体重をかけて倒れこみ、そのわき腹から腎臓に向かって、刃をねじり上げるようにして刺しこんでいた。
「行くぞ」
言うと、陸奥は小夜の手を引いた。しかし、彼女は足を停めたまま、これに従わない。
「ここで死にたいのか」
陸奥は、言った。小夜は小さく首を振った。
「・・・・・・・無駄です」
「来るんだ」
無理やり、小夜の手を引こうとした。
「畜生、こいつら」
そのとき、遺骸を堀に蹴り落とした浜岡が声を上げた。
「どうしたんだ」
浜岡は唾を吐いて、憎憎しげに肩をすくめた。
「やられてやがる」

丸木舟に大きく穴が開いている。船底に叩き込んだまま、斧の柄が、その穴から飛び出ていた。歳三はその柄を引き抜いた。濡れた斧の頭が飛沫をあげて、飛び出してきた。みるみる、舳先に水が溜まっていく。
「土方副長」
沖田は周辺を探している。山崎が、探索方を率いてようやくやってきた。
「天満屋の賊は、逃げ散ったそうです。・・・・・斎藤組長の機転で助かりました」
「そうか」
あの後、斎藤が、襲撃側のふりをして三浦を討ち取ったと、声を上げたのだ。賊は、潮が引くように三々五々していった。
「・・・・・・堀っぱたに、遺骸が二つ、そこの路地に一人、生きてたのがいた」
穴の開いた船から下りた歳三は、斧を投げ捨てて言った。
「舟はそいつらが壊したらしい。やつらは歩いて逃げた」
歳三があごをしゃくった先には、血まみれの武士が一人、四肢を投げ出すような格好で壁によりかかっている。手足が血まみれなので山崎が改めると、何本か爪や指がなかった。
「だめだ。そいつはもう、舌噛んで死んだ」
拷問は歳三が行ったらしい。すでに見向きもしない。
沖田が帰ってきた。
「いません。この周囲には」
「隠れてるのかもな。やつらも、計画が変わって焦ってるはずだ」
「そいつ、なにか喋りましたか」
「逃げた方角だけだ。こいつ、薩摩者だな」
「討ち入りは、陸奥と白川村の土佐の連中の仕業では」
山崎が驚いて聞いた。歳三は首を振った。
「近江屋の一件からこの方、裏で糸を引いてるのは薩長だよ。やつら、坂本竜馬を殺した事件に関わった人間全員を始末しようと動いてやがる」
「・・・・・・土方さん、お小夜さんは」
沖田が心配そうに聞いた。歳三は平静そうに答えた。
「まだ、無事だろう。あいつはそう簡単に殺しゃしねえよ」
「これからどうします?」
「陸奥陽之助はおれが追う。お前らは、それ以外に天満屋から逃げたやつすべて追ってくれ。白川村か、尊攘派の各藩邸に逃げ込もうとしているかもしれない。その前に確保しろ。誰か屯所に知らせて、出られるやつはすべて出張らせるんだ。今夜は薩摩も長州も街をうろついてやがるだろうからな」
二十一
「答えろ」
陸奥は、小夜の頬を平手で張った。殴ったのは二回。しかし、彼女は静かに陸奥の顔を見つめ続けるだけだった。
「なぜ、あんたは坂本さんを殺した。答えねば、殺す」
火薬の匂いがこびりついた銃口が、小夜の顔の前にある。それでも目の前の女には、さざ波ほどの感情の動きも見られない。ただ、当たり前の運命を受け入れているように、じっとしていた。
小さな唇が、必然をそのまま伝えるように動く。
「どうぞ・・・・・・そのまま、引き金を」
陸奥には、その資格がある。小夜はそう言っていた。
「しゃべらないで死ぬ気か」
死を覚悟したものに、これ以上の脅しはきかない。分かっていながら、こうなると余計に、気持ちが昂ぶるのを抑えきれない。
「そう興奮するなよ、陸奥」
戸口を見張っていた浜岡が声を上げた。
「そいつは、ソコワレ――人の行く末を目で読むことが出来る、異能の化け物女だ。恐らく、坂本はその女を利用していて、なにかやばいことを知っちまったに違いない。姉ちゃん、あんたを追ってたのは、薩摩だろう。恐らく、あんたに坂本を殺せと言ったのは、薩摩だ。違うかい?」
「どうなんだ?」
小夜は、無言のまま表を伏せた。
「どうする? 拷問するなら手伝うぜ。ここはめし屋だ。探しゃあ、包丁でも串でも、お誂え向きのもんがあるだろ」
奥の押入れが、がたがたとうるさい。浜岡はそこまで歩いていって、縛って中に閉じ込めた若夫婦のいる襖に乱暴に蹴りを入れて脅しを入れた。
「くたばりたくなきゃあ、黙ってろ。悲鳴が聞こえてもな」
浜岡はどこか、楽しげだ。陸奥は小夜を殺してもいいとは思ったが、ここで拷問をする気分ではなかった。
「・・・・・・いいか」
最後通告だ。陸奥は言い聞かせるように言った。
「おれは、あいつや他のやつらと違う。ソコワレなどと言う話は、はなから信じてない。お前が、人の目からこの世の行く末を読めるとしても、そんなことはどうでもいいんだ」
銃を捨てた陸奥は小夜の袂を掴んで引き寄せて、言った。
「問題はなぜ、あんたが坂本さんを助けずに殺したのか、それだけだ。三浦が手を回したやつらに襲撃されて、虫の息だった坂本さんにとどめを刺したのはなぜだ? 薩摩に頼まれたからか」
やや、間が合った。しかし、答えは、出た。
「・・・・・・・いいえ」
小夜は、今度は静かにそう言うと、首を振った。
「わたしの、意志です。坂本様を殺したのは。・・・・・あの方は本当は、今でも生きていられることの出来るお方でした」
「お前の力でそれが分かるなら、なぜ殺したんだっ!」
陸奥の血を吐くような叫びに小夜は、なにも応えることがなかった。人形のように陸奥にされるがまま、そこに座っているだけだ。彼女からはもう、何も帰ってはこない。
「なぜ、見殺しにした」
今までのすべてが、徒労だったとは言わない。ただ、虚しかった。これ以上目の前の女を追及することが、この世界に潜む、坂本を殺した巨大な何かに挑むことが。そのためのすべてが。
それを知ったところで、今さら、なにも変わりはしないと言うことを、彼はすでに知っており、否定し続けてきたから。否定することが出来なくなった今、坂本を殺したその張本人の女に気持ちをぶつけたところで、それは今まで自分が徒労を重ねてきたことを、ただ徒労であると認め、結論づける行為に過ぎないからだ。その虚しさを目の前の女はすでに知っていた。だからもう、弁解をすることもなく、抵抗もせず、陸奥にここまで従ってきたのだ。
女の目は、もう陸奥に選択を委ねていた。彼がずっと、それに気づくことが出来なかっただけだ。大きく息をつくと、陸奥は銃をもう一度、拾い上げた。小夜の細いおとがいを持ち上げ、銃口をその唇の中に差し込む。花弁のあわいを分けるように、死を送り込む冷たい銃口は、すんなりとその中に吸い込まれていった。
彼女を殺すことで、もはや、何かが変わることはない。
だが、自分も彼女も、それが自然だと言うことをするだけだ。
陸奥は静かに引き金に指をかけた。
「おい・・・・・・やめろ・・・・・・」
浜岡が異変に気づいて駆け寄ろうとした。
「なにやってやがるっ」
銃声が鳴った。

乾いた破裂音が夜空に鳴り響いた。
なにしろつい、さっきだ。あれが鼓膜に叩きつけた振動音の威力は、忘れようがない。
「近くにいやがる」
傍らの沖田に、歳三は言った。
「どこでしょうかね」
「夜も夜中に、いい、近所迷惑だ」
方角を改めて、歳三は言った。
「この辺りの建物のはずだ。これだけ商家が詰まってりゃ、必ず、近くで騒ぎになる。そこを探すんだ」

「なにしてやがる、馬鹿野郎」
浜岡は陸奥の襟を引き倒して、殴りつけた。
銃弾は囲炉裏端まで飛んで、白い煙を吐いている。
「こんなところでぶっ放したらどうなるか、いくらヒヨッコでも分かんだろうが」
「・・・・・・・・・・」
陸奥は、憮然とした表情で浜岡を睨みつけている。殺意がまだ、醒めえない。思いつめすぎていた。この女に乗せられて、不覚にもわれを失った自分を恥じた。ため息をついて自分を立て直す。
「そもそも言ったのはてめえだろうが。拷問するのはいいが音を立てずにやりやがれ」
「軽率だった・・・・・・許してくれ、おれが悪かった」
「分かりゃあ、いいんだ」
浜岡は陸奥の手を離して、唾を吐いて立ち上がった。
「新撰組どころか、今のは近所中に聞こえたぜ。ここらの連中がよっぽど臆病もんの集まりじゃねえ限り、ここに誰か必ず見に来る」
格子戸の隙間から様子をうかがって、浜岡は言った。
「姉さん、命拾いしたな」
小夜は面を伏せ、紅の剥げた口元を袖で押さえている。その瞳になんの感情の動きも見られなかった。浜岡の下卑た声が降る。
「お楽しみはまだ先だ。だいたい、本当はあんたも死ぬ気はねえんだろう? じゃなかったら、おれたちとここまで着いてくるはずはねえもんな」
「時間がないぞ。だが、この上、どこに逃げるんだ?」
「今、思い出したが、この辺で顔の人足の元締めを知ってる」
「本当か」
「川筋の人足の手配をしてる大親分だ。女づれで三人、都を落ちる手はずくらいは、なんとかつけては貰えるだろう」
「そこに行こう。どこだ」
「待てよ。落ち着け。見つかるから、裏から出るんだ」
と、裏口に向かいかけた陸奥の後頭部を、浜岡は隠し持っていたすりこ木で思い切り殴った。事態が把握できないまま陸奥は、あがりかまちにつまずいて、畳に乗り上げる。その背中から馬乗りになって、浜岡は二、三度、動かなくなるまで殴った。
「小夜、こっちへ来い」
陸奥の血と髪の毛のついたすりこ木を放り出して、浜岡は立ち上がった。歩み寄ってきて手を差し出す。浜岡の態度と物腰が一変していた。その手をとらず、小夜は不審そうに浜岡の顔を見上げる。
「分からねえのも、無理はねえや。この顔だもんな」
浜岡は、肩をすくめて言った。
「まったく、江戸者のふりをするのも楽じゃねえ。昔、いくらか棲んだことはあるんだがよ」
はっ、と小夜が息を呑む暇もなかった。浜岡は無理に小夜の腕を取り上げて、その身体を抱きすくめた。
「来いよ、お小夜。ここにも住めなくなっちまったが、いよいよとなりゃあ、どこでも構わない。・・・・・お前さえいればな」
「あなたは・・・・・・・」
無残な引き攣りが出来た顔の、薄く膜のかかったような浜岡の濁った目に、今はどこかピントの外れた狂気が宿って燃えている。
「分かるだろう。おれはお前に惚れてんだ。ずっと前からな。坂本なんかにゃあ、お前の価値は分かりゃあしねえよ。あの土方って、まぬけ野郎にも絶対にな」
背後で、陸奥が朦朧とした意識の中、顔を起こした。囲炉裏に落ちた拳銃に手を伸ばしている。
「お前は別に、おれが誰かなんてことは知る必要はねえ。ただ、おれが思ってるのと同じく、おれに惚れてくれりゃあそれでいい。化け物であろうとなんだろうとな」
浜岡は小夜の身体を離すと、陸奥のわき腹を蹴り上げた。
「・・・・・・・あんた、何者だ」
激痛に呻きながら、陸奥は言った。
「あん?」
「ずっと疑問に思ってた」
「・・・・・・浜岡だよ。お前が調べたんだろう」
「あんないい女、諦められるか」
いつも、疑念があった。
浜岡という男の執念。土佐藩や竜馬との関係。江戸から逃げてきた、ただのお尋ね者の浜岡に、竜馬はどうして、便宜を図るような約束をしたのだろう。
「お前は言った・・・・・まるで会ったことがあるような言い方で・・・・・・もしかして、会ったことがある・・・・・お前、どこかで会った。・・・・・・本当はもしかして」
「ああそうさ、おれは岡田だよ」
浜岡は唾を吐くと、言った。
「今頃気づきやがったのか」
憎悪が噴出する。岡田以蔵。人斬り以蔵。勝麟太郎の門下にいたときに、一度会ったことがあった。訥弁で冴えない、反っ歯の男だったことしか覚えがない。今、思い出した。
「信じられない・・・・・・まさか」
「浜岡の野郎は、おれの身代わりになったんだ。ただそれだけの話さ。顔潰して、首持っていったら、誰にも分からなかったよ。やつら、武市や勤皇党の連中を処分出来りゃあ、それで構わねえんだ。浜岡が調べたことにして、洗いざらい吐いちまったからな。浜岡の残りは犬の骨と一緒に、小屋で腐ってるよ。もう、二年も前の話だけどな」
顔を潰して生きていた男の独白が続く。
「この顔と江戸弁に慣れるのには苦労したぜ。昔、江戸の桃井道場に連れて行かれたことがあるんだが、国の訛りと訥弁ってのは、なかなか抜けやしねえ。だが前歯抜いて、顔を焼いたら、まともに面見るやつはいねえからな、そっちは難儀しなかったが、おれはもう、土佐の岡田以蔵じゃねえんだ、そう自分に言い聞かせるのには年月がいったよ。でも一番の問題は、おれはいつまで経っても、別に、浜岡元五郎でもねえってことだ」
「このこと、土佐に・・・・・・」
「土佐藩には、坂本が交渉済みだよ。おれの替え玉を仕立ててくれたのは、そもそも、あいつなんだ。もう二度と、やつの前に姿を現さないことを条件におれを助けてくれた。おれは約束を守ったろう? おれを探しあてたのは、陸奥、お前自身だ」
小夜の前に、岡田は立ち尽くした。その腕をとり、唇を歪めてこう言った。
「坂本は死んだ。これでおれも晴れて、自由の身ってわけだ。誰にももう、おれの邪魔はさせねえぞ。見ての通り、おれもお前も、人にいいように使われてきた化け物同士、考えてみりゃ、お似合いだと思わねえか?」
そのとき小夜は手を振り上げて、思い切り岡田の頬を張った。
「はは」
岡田は顔を避けもしなかった。もう一度殴ろうとする小夜の手首を捉えて、静かな声で言った。
「どんなにされても、おれはびくともしねえよ」
「うっ・・・・・」
その腕を振り解こうと、小夜はもがいた。だが、岡田はそれを無理に押さえようともせず、しっかりと抱きとめていた。
「あんたを死なせもしない。あんたがおれと同じ気持ちになるまで、おれはいつまでも待つよ。ずっと、あんたを連れてな」
囲炉裏に落ちた拳銃に、陸奥の手がようやく届いた。そのときには、岡田は身もだえする小夜の身体を抱いて、戸口から外に出ようとするところだった。
「待て」
陸奥は上体を起こし、銃を構えた。岡田は平然と振り向くと、ゆっくりとした声で言った。
「半端な真似はしないほうがいいぜ、陸奥君。さっきのやつらの姿を思い出せよ。死ぬのは痛いぞ。そっからおれの腕を吹っ飛ばしたところで、次に死ぬのは、確実にお前だ」
ぶるぶると、抑えられない震えが銃を持つ手に伝わって止まらない陸奥に対して、岡田の声はどこか眠たげで冷ややかだった。まるで分かりきっている結果に、すでに退屈すら覚えている者のそれは声だった。
「どうする。きっぱり決めろ」
勝負はとっくについていた。陸奥は銃を下ろした。
「行こうぜ、小夜。大丈夫、おれなら絶対に捕まらねえ」
そう、うそぶく、岡田の瞳を小夜はさっきから、じっ、と眺めていた。もちろん、岡田は気づかなかった。そこに映っているものを小夜がみていたことを。彼女は静かに、息を潜めていた。次に来る行動のチャンスをうかがっていた。
戸口に出る一瞬、小夜が身体を前に投げ出したとき、岡田はふいにバランスを失い、前へつんのめった。岡田にとって、それはむしろ、幸運ではあった。小夜の身体を追って、岡田がとっさに身を屈めなかったら、その刃は、精確に喉もとを突き通していただろう。
紙一重の差で。
和泉守兼定二尺八寸が、物打ち所の先まで岡田の左肩に突き刺さった。岡田が血を振り絞るような叫び声を上げた。刃は肉を喰い、左鎖骨の下辺りに入り込んでいる。鎖骨下と、脇の筋肉を支点に腕の筋肉は吊られている。神経線維にダメージがあれば、その腕は永久に上がらなくなる危険性もある。
それでも岡田は生物の本能に逆らって、身を退かなかった。右手でとっさに刃の峰を固定し、腰を捻り、柄の先ごと相手を引っ張り出した。諸手で突きを入れた相手はつられて態勢を崩した。足を踏ん張り、渾身の力を込めて、頭突きを喰らわす。鼻骨からあご辺りを狙えば、そこは急所しかない。鼻骨を折ったのか、鮮血が飛び散り、岡田の額をも紅く染めた。
「土方」
土方は、それでも柄から手を離さなかった。そのまま、二人、倒れこんでもつれ合う。
陸奥は銃を手に提げたまま、小夜の姿を探した。彼女は裏口に立っていた。そこから入ってきた男が、彼女を保護している。岡田を天満屋の路地裏で刺そうとした男だ。
「無駄です」
一手遅れている。陸奥が身構えようとしたとき、すでに相手は切っ先を向けていた。
「ここはすでに、新撰組が包囲している」
相手はかすれた声で、言った。なぜかひどく弱っているように、陸奥には聞こえた。しかし、さっきの突きの鋭さを見る限りでは、こちらに勝ち目が無いことは十分、分かっていた。
「もう、終わりにしましょう。あたら命を無駄に散らすことはないでしょう」
その言葉は恫喝でもはったりでもなく、ただ厳然たる事実だけを示していた。陸奥は引き金を絞る。だが、発砲するかしないかのうちに、この男が喉を突くだろう。理屈ではなく、空気でそれが分かった。
陸奥は、覚悟を決めて銃を捨てた。
二十二
「そいつを抜いたら血止めして、焼酎で傷口を消毒して手当てをしておけ。目が覚めたら、尋問する。死んだら死んだで、別にかまわねえ」
歳三は駆けつけてきた隊士たちに指示を出した。横向きに戸板に縛られて、浜岡に化けていた岡田が運ばれていく。左肩には歳三の刀が刺さったまま、完全に気を失っている。血の気を失ったその顔は、目鼻立ちも分からないほどにさらに腫れ上がっていた。
後は番所の役人が後片付けを引き継ぐことになっている。押入れで縛られた夫婦が泣き声を上げて、役人にしがみついていた。まだ若い二人にとっては、災難と言うほか無い夜だったろう。
「また、随分と派手にやられましたね」
斎藤が言った。痛めた右腕を包帯で吊っている。
「お互いにな。だが、命を落とさなかったのは石田散薬の御蔭だ」
歳三は言い返し、二人で苦笑した。
「うちは宮川がやられました」
「宮川信吾」
死んだ中井の後に入ってきたあの居合い使いの刺客にやられた。即死だった。その男は上手く逃走したらしい。
「後は船津が肩を、梅戸が左股を斬られて重傷です」
「三浦の容態は?」
「顔を切られて重傷ですが、命に別状はないそうです。家来衆は平野藤左衛門が重傷、中庭で鷲尾槙之助と言うものが首を刺されて死亡」
小夜が殺した男だ。
「分かった。そっちは事後処理を頼めるか」
ことに慣れている斎藤は、あっさりと引き受けた。
「問題ありません。ていうか、もうほぼ終わりですよ。そっちと違って、人斬り以蔵が居たわけじゃなし」
歳三は顔をしかめると、苦笑して答えた。
「・・・・・・悪かったな。出来たら次はお前にやってもらうよ」
岡田に頭突きを喰らったあごが、びりびりと痛む。顔の半分もひどく腫れ、肋骨にも響く。まったく鬼のような怪力だった。まだ生乾きの感じがする鼻血の跡を、歳三は袖で拭う。その頬に、濡れた冷たい布きんが、そっ、と当てられた。
「おい、無事か?」
歳三はそのまま、それを受け取ると顔を上げずに言った。腫れて熱をもった顔を押えて息をつく。小夜が声をかけることも出来ずに、ずっとそこに立っているのを、歳三は本当は、しばらく前から知っていた。
「土方さん、お小夜さんは無事です。見たところ、すぐに手当てが必要な傷はないようですよ」
陸奥から取り上げた銃を手に、沖田が戻ってくる。
「・・・・・そう言うお前はどうなんだ、総司。腫れぼったい顔して、無茶するんじゃねえよ」
「平気ですよ、私は」
片頬に笑窪を作って、沖田は強がって見せた。青黒い顔に尋常でないほどの汗を掻いている。たぶん、ずっと熱が出ていたのに、今まで動き回っていたのだ。
「今夜のこと、ずっと知ってたのか、お前は」
熱っぽいため息を重たげについてから、沖田は答えた。
「芳蔵さんから聞いて、まあ、大体のことは」
沖田は、それ以上は小夜に聞くべきだ、と言う風に、視線を返した。小夜はさっきから言葉もなく、うつむいている。
「小夜、今夜、君はおれになにをさせようとした?」
はっ、と彼女は顔を上げた。歳三はかまをかけたのだ。今夜の状況を見れば、なんとなく、察しはついてはいた。
「ゆっくり話してもらう。残念ながら、職務上、君をこのまま帰すわけにはいかない」
「・・・・・・はい」
小夜はつぶやくように言うと、首肯した。

もちろん、小夜に危害を加える気はなかった。ただただ、あの晩に言い残した言葉の真意が、彼女自身の口から聞きたかった。
その節には。
小夜は言った。どこか何かを諦めたような、または逆に来るべき何かを覚悟したような表情を、そのとき、彼女はした。話の流れではあるが、まさか歳三は、今夜、天満屋で小夜に会うとは思わなかった。だが考えてみれば、彼女が情報を流したのは、陸奥を捕縛するためではない。自分を捕縛させるために、彼女は歳三に来るべき事実を告げたのかもしれない。
小夜が殺した男。
鷲尾槙之助。月を見つめたまま死んだ、あの男の驚愕した表情が、歳三の脳裏にまだ、残っていた。
「気分はどうだ」
沖田が熱さましに飲んだ花梨湯が、まだ残っていた。
歳三は小夜にそれを飲ませた。
「これ以上冷えると腹の子に、悪い」
「お心遣い・・・・・かたじけなく」
それだけ、ようやく、小夜は言葉を発した。
現場からここまで引き上げてくる間、小夜は何も言葉にしなかった。涙を流しもせず、ただ黙秘を続けていた。歳三の見方では、たぶん、まだ言葉に出来るほど、気持ちが整理出来ていないのだ。時間さえ置けば、彼女は話すだろう。なんとなく、思っていた。だから、今とくに焦ってどうこうする気はない。
自分で調べられることに、ともかく時間を使う。
その間、死んだ鷲尾槙之助のもともとの素性を、歳三は紀州藩から聞いた。国許にその死を知らせるためと言ったら、藩はすぐに教えてくれた。槙之助は、つい三年ほど前に江戸は三千石、直参旗本の名家・蜂矢家の六男から婿養子に入ったと言う。父は六年前に死に、現在は長兄が家名と役職を引き継いでいる。
蜂谷家の当主は、代々、書院番頭を務める家柄である。
夜風が強くなってきた。戸障子が、がたがたと揺れた。窓の外がほの明るい。風で雲が吹き飛んで、月がまた顔を出したのだろう。通りの残雪が、淡く光っている。
「土方様」
小夜は決心したように、声を出した。
「落ち着いたか」
目顔で小夜は肯いた。
「・・・・・・勝に、会ったよ。君と別れて、すぐだ」
話がしやすいように歳三は自ら先に口を開くことにした。
「坂本の事件を聞いて、京都に来ていた。君のことを大分、案じていた。やつから、大抵のことは聞いたよ」
勝の名前が出たとき、小夜は軽く唇を噛むような表情をした。気にせず、歳三は続けた。
「君は、人の行く末を読み通すと言う異能を持つソコワレの末裔の一人だ。幕府の密命を受けて、池袋村で研究を行っていた深町俊治郎は、君の父親だね」
「・・・・・・・はい」
こくり、と、彼女は肯いた。ようやく歳三の顔を直視する。
「伊勢藤堂藩に生まれた父は、ソコワレの異能を隠し持つ乳母の手で幼少を育てられ、やがてその血をより色濃く引く乳母の娘を見初め、駆け落ち同然で藩を出られました。江戸へ来てのちに生まれた四人の娘のうちのひとりが・・・・・・・わたしでした」
在野で研究と放浪に年月を費やした後、深町俊治郎は遠い伝手を頼って当時の蜂谷家の当主で書院番頭の蜂谷清右衛門に顔をつなぎ、一代限り、非公式の召抱えで、捨扶持をもらいつつ、ソコワレの研究に没頭することが出来たと言う。
「勝先生からお聞きの通り、ソコワレの女はしかるべき相手の種を宿し、子を産むと、その異能は徐々に弱まっていきます。蜂谷清右衛門様にお目通りを願ったとき、母は四人目の娘、つまりわたしを身籠ったばかりで、すでにその力は簡単な予知能力にとどまっておりました」
蜂谷清右衛門は人柄も清廉な男で、内憂外患の難局での幕政のあり方を本気で憂い、俊治郎の研究に、資金の調達や貴重な中国、西洋からの文献、薬剤の調達など助力を惜しまなかったと言う。俊治郎もこれに応え、ある程度信頼できる実績を出せば、娘を奥に上らせると言う内意まで取り付けた。
しかし、この頃から結果へのハードルは高くなり、また得体の知れない娘を奥に上らせると言う内意まで取り付けたことが幕府内でも波紋を呼び、さまざまな妨害や迫害に悩まされるようになった。俊治郎の研究は、一気に暗礁に乗り上げたのだ。
「蜂谷様への城内での風当たりが強くなるにつれ、父も日に日に追い詰められていきました。沢山のもらい子やお妾にするために女性を引き取っても、思うように成果はあがらず・・・・・そこへ、コロリ(コレラ、幕末西洋人の上陸とともに江戸中に伝染病が広がった)で、母が倒れ、もともと心身の薄弱だった二人の姉が死に、家は一気に暗くなりました。そんな折にある事件が起こったのです」
「・・・・・・もしかしてそれに、あの男が関係しているのかい」
歳三の言葉に、小夜は、はい、と小さな声で肯き、
「・・・・・蜂谷家の六男、槙之助様がたびたび屋敷に顔を出すようになったのです」
六男で部屋住み身分の槙之助は、生まれつき性格に問題のある男で、手に職をつける技術を身につけるでもなく、二十歳を過ぎてもしかるべき養子口もなく、仲間を連れて放蕩の限りを尽くし、蜂谷家でも問題になっていた。暇に任せては、父親に金をせびっていた槙之助は、清右衛門が内密の計画を池袋村で進めているとの話を聞きつけるや、そこに乗り込んで秘密を暴露すると、俊治郎を脅迫するようになったと言う。
女と子どもばかりの家に、槍や刀で武装したゴロツキ同然の旗本のどら息子たちが押し寄せれば、やむをえなく俊治郎も金を出すしかなかった。やがて、ついに耐えかねた俊治郎が、清右衛門に訴えたため、槙之助は謹慎、脅迫はなくなったが、ことはそれでは終わりはしなかった。
槙之助は人と金を使い、今度は江戸市中に池袋村の噂を虚実取り混ぜて暴露し始めたのである。子どもをかどわかして瘡の薬を作っているとの悪評に幕府の秘事は公のものとなりかけ、これ以上の風聞の悪化を恐れた若年寄は計画中止の旨を清右衛門に告げ、市中の風聞と屋敷の整理を命じる運びになった。
かくして深町一家は、再び野に放逐された。
「それで、俊治郎は乱心を?」
いいえ、と、小夜は首を振り、
「計画の中止は、本当はわたしたち一家にとっては喜ばしいことでした。病床の母に、気のふれた娘たちを介護する傍らの研究で、父はほぼ限界まで追い詰められていましたし、わたしたちも、日ごとに常軌を逸していく父の姿にずっと危機感を覚えて暮らしておりましたので」
蜂谷様は小夜たちをまず、人目に立たぬ下総の田舎にでも移住させ、しかるのちに時機を待って出直しを図ろうと考えていたらしい。
「それが・・・・・向こうでの屋敷を手配するために父が留守にしたある日のことです」
まるでその留守を狙ったかのように謹慎中の槙之助が抜け出して、突然、主人のいない一家を急襲したのである。
「槙之助様は、生まれたばかりだったわたしの妹を目の前で殺し、そのあと・・・・・・その場にいたわたしを手篭めにしました」
計画の再起は、伝染病に唯一かからなかった四女の小夜と、誕生したばかりだった五女に賭けられていたと言う。予想もしない槙之助の狼藉に、小夜は懐妊し、まだ名も決まっていない五女は土間に叩きつけられて命を失った。再起への旅から帰還した俊治郎が、錯乱したのも無理はなかった。
「父の乱心を・・・・・・わたしはしばらく前から、夢に見ていました」
話をする小夜の唇が、そのときの記憶を如実に思い出しているのか、まだ細かく震えていた。
「とくに月のものが来る数日前は身体が燃えるように熱くなって、恐ろしい夢で眠れなくなる日が続いていました。燃え盛る屋敷、嬰児の遺体がくすぶる中で、父は白刃をあげて病床の母の胸を刺し、気のふれた姉たちの髪の毛を掴み寄せては首を掻き、血走らせた瞳で叫び声をあげて、わたしを探し回っておりました」
血じゃ。血の穢れじゃ。
その風景は驚くほどの正確さで、再現された。帰宅後、俊治郎は小夜の懐妊を知ったその晩に発狂し、以下の凶行に及んだと言う。俊治郎の様子が尋常でないことに気づいた下男の芳蔵が、すんでのところで小夜を逃がしてくれなかったら、命はなかっただろうと、小夜は喘ぐように、告白した。
「事件後、ことはどのように処理されたかは、土方様のお調べの通りです。父は汚名を着せられ、事件の処理に苦慮した後、蜂谷清右衛門様は、家督をご長男に譲り、ご自身は自ら決されました」
「件の蜂谷槙之助は」
「・・・・・・・それが」
事件後になってなぜか急に謹慎を解かれ、紀州藩きっての名家・鷲尾家への婿養子の口が決まったと言う。尋常一様の話ではなかった。ここまでを一気に話すと、小夜は辛そうに息をついた。無理もない。歳三は彼女の様子を気遣いながら話の続きを聞いた。
「裏で糸を引いてたのは、誰だ。やはり奥の人間か?」
「・・・・・あまり、大きな声では言えませんが、たぶん」
小夜は、事情は知っているがあえてそこまでは話したくはないのだろう、ただ曖昧に、肯いて見せた。勝なら、この辺りの事情は、より詳しく話すことが出来ただろう。小夜の話の背景には、以下の捕捉を要した。
黒船来航以来、将軍職を務めた十三代家定公は、精神薄弱者であり、生母の本寿院(お美津の方)か乳母としか、まともな会話が出来なかったと言われる。自然、幕府の権勢は、本寿院を中心とした奥の女たちに移っていた。
それに対して当時、幕政には水戸の徳川斉昭や、薩摩の島津斉彬、土佐の山内容堂、越前の松平春嶽など、各地の有力な藩公が中央政界でも意見力を強めていた。特に水戸斉昭は自分の息子の慶喜に一橋家を継がせ、次代の将軍擁立候補として鳴り物入りで盛り立てようと画策し、本寿院派と対立していた。
蜂谷清右衛門の途方もない計画は、どちらかと言えば、水戸や西南雄藩を中心とする一橋慶喜擁立派から支持を受けていたようだ。
特に長崎から輸入される海外の文献を読み漁り、早くから世界情勢にも幅広い関心を持ち、革新派で知られる水戸の徳川斉昭は、蜂谷を通じて深町俊治郎の研究に、多大な理解を示し、実際もっとも援助しやすい立場にあったであろうことは、想像するまでもない。
斉昭の考えでは、息子の慶喜が将軍職に就任した場合、ソコワレの女性を奥に上らせ、利用する気でいたのかもしれない。神君家康公以来の賢君と囃された慶喜の将来に斉昭は、ただでさえ多大な期待を寄せていた。
その本寿院派から斉昭の関与した計画を潰すために、槙之助は利用されたと考えると、陰謀の舞台裏は徐々に辻褄が合ってくる。
それから後、大老に彦根藩主井伊直弼を擁立し、斉昭を中心とする一橋派の大弾圧を行った本寿院派は、後に対立候補として、徳川慶福を擁立する。慶福は徳川御三家、紀州藩の出身である。
「人づてに聞いたお話では、蜂谷家が断絶のお沙汰を免れたのには、次の三つの条件を呑んだためと言われています」
小夜が事後の幕府上層部について知っているのは、このことだけだと話してくれた。
「まず、父・深町俊治郎及び、この計画に関わった者すべての処分と完全な事実隠蔽の徹底、さらにソコワレと言う言葉を含めて、研究によって判明したこと、次に確認しえた事実を記したすべての資料の破棄、これに責任者だった清右衛門様の切腹を条件に、蜂谷家は家督の存続を認められたと聞き及んでおります」
以降、幕府ではソコワレと言う言葉それ自体が禁句となり、口にしたものですら、内々に相当の罰を受けるほどになったと言う。この計画とソコワレの存在自体は、幕政関係者の間では、絶対に漏らしてはならない極秘事項として厳に伏されていたのである。
この後、幕府は十四代将軍家茂に朝廷から皇女・和宮を嫁に向かい、天皇家との融和を深める公武合体を推し進めている。その徳川家がかつて朝敵とされ、山奥深くに追い込められた異民族の末裔を探し出し、あまつさえ奥に迎えようと計画していたと言うことが露見すれば、もはや取り返しのつかない政治的問題になったであろうことは想像するまでもないだろう。
「勝はそこまで知っていながら、君をよく庇ったものだ」
「・・・・・・はい。勝先生にはいくら感謝しても足りません」
歳三は今さらながら、勝の度量の深さと見識の広さに感嘆した。
「深町俊治郎その人は別として、幕府に忌むべき存在になったソコワレとして、わたしたち家族のうち、顔を知られているものは、ほとんどいなかったことが幸いしました」
江戸を流れて、小夜は京都に向かったのは、当時の政治情勢として、西南雄藩のうちのどれかに身を寄せられるのではないか、と言う芳蔵の案に従ったものだったらしい。当時表立って幕藩体制と敵対していたのは、長州藩と土佐藩であり、国許から都に上ってきた志士たちが、京都の公家衆を口説きまわっていたが、もちろん、頼るあてはなかった。
「偶然、君が坂本を見つけた、と言うのは、君の中のソコワレの血がやつを呼び寄せたのかもしれねえな」
「・・・・・・・・かも、知れません」
こうして幕府の存在を脅かしたソコワレは、坂本竜馬の手を介して、討幕運動を推し進める薩長の手の中に渡った。
「君と、君の一家をこんな目に合わせた槙之助については、その後、君はどうやって探し出したんだ」
「・・・・・・最初は正直なところ、もはや諦めていました」
そう言う小夜の声には槙之助の怒りよりも、当時の自分の戸惑いと混乱のほうが、色濃く反映されていた。
「父と蜂谷清右衛門様、その背後にある巨大すぎるものの影を追うには、わたしは幼くて、なにも分かっていない小娘に過ぎませんでした。ただ、わたしたちの存在があるせいで・・・・・父は結果として不幸に合い、わたしたちの家族は忌まわしい終焉を迎えざるを得なかった、それは、自分の中に大きな罪悪感として残りました」
「・・・・・・じゃあ、槙之助を探し出して、復讐しようとは思わなかった。そう、君は言うのかい」
小夜は、静かに首を振った。
「それよりも、父をあそこまで追い詰めてしまった自分が生まれてきたことそれ自体が堪らなくいたたまれなく思い・・・・・それが振り切れず、ひどいときは毎夜、その夢にさいなまれていました」
「ではなぜ、今になって槙之助を殺そうと思った」
「・・・・・・・実は」
小夜は顔をあげて歳三の瞳を捉えると、意を決したように言った。
「土方様、あなたの瞳に槙之助様の姿が映りこんでいたのを見てしまったから」
歳三は次の言葉もなく、黙り込んでしまった。あまりのことに、しばらく声が出そうな感じがしなかった。
「君は」
ようやく、言えた。
「もしかしてあのとき、初めて会ったときから、君は・・・・・・?」
なぜか小夜は強く、首を振った。
「・・・・・・いいえ」
閉じた目蓋から、一粒、涙が滲んだ。
「それは・・・・・・・三年坂の茶屋で身体を重ねたときのことです」
「まさか」
歳三は、はっ、と息を呑んだ。
今でも鮮明な記憶。頬をくすぐる洗い髪の匂いと、かすかな衣擦れの音。雨模様の午後の光が淡く、戸障子の向こうで揺らぐ楓葉の影を落とした室内で、小夜の唇が動いたときのこと。
穢れています。
小夜は言った。耳朶に残っている。鼻先をくすぐった吐息の温さまで明瞭に。だが、歳三の身体の下で、彼女は思い出していた。恐ろしいほど鮮明な忌まわしい記憶を。
音もなく――――現在の小夜の細い指が、膝に置かれた歳三の手に重ねられた。冷たいその感触が微かに、そのときの記憶と今の歳三の体温とを探り確かめている。歳三は、身が切れるほど切ない宿業のこの可憐な女をその場で抱きしめてやりたい衝動に駆られた。
「君は」
二人の男を欺いた。運命の残酷さだけをその一身に受けるために、君を助けるべき二人の男を欺いて、勝手に背負った罪悪感の大きさに耐え切れなくなり、最後は歳三にその裁きを委ねようとした。
「それなら・・・・・今日の晩、もしかして、おれに斬られようとここに来た・・・・・・そう言いたいのか」
「・・・・・・はい」
「自分の宿業の清算を、おれに裁きを委ねようと」
その問いに、小夜は答えることが出来なかった。ただ、なにかを振り払うように、激しくかぶりを振り続けた。大粒の涙がその頬を滑り落ちた。その手を歳三は取り上げると、確かめるように言った。
「今日、それで君は、勝手に死のうとしたのか」
小夜は首を振り続けている。歳三は、構わず続けた。
「・・・・・・・それも、君の助けになろうと思っている人間のことを、少しも考えることもせずに、だ」
小夜の細い小さな手をずっと握り続けた。
「あの陸奥陽之助に身柄を委ねたのも、そのためだった。自分に罪があると認め、裁こうとするものなら、誰でもよかったんだ」
違う、違う、と言うように小夜は首を振り続けた。なにを否定しているのか分からないくらい。なにが違うのか分からないくらい。気持ちが錯綜し続けた。混乱は狂気になり、彼女の父のように悪戯に、自滅へ小夜を追い込んだ。
「穢れています・・・・・わたしは・・・・・ずっと」
小夜はなお、言い募った。
「・・・・・・・なあ」
「・・・・・・でも復讐を果たし、槙之助様を葬ったところで・・・・・なにが変わることも・・・・・・・・なかった」
「落ち着け、小夜」
「・・・・・・それでも、わたしは、あなたの瞳に映った・・・・・あの方を赦すことが出来ませんでした」
「聞くんだ」
彼女の手を握ると、
「確かに君の父上が君に背負わせたもの、それは罪深い宿業かもしれない」
小夜は肩を震わせ喘ぎながら、歳三の顔を見上げた。
「だが、君が生まれてきたことそれ自体が、それほど罪深いことなのか?」
噛んで含めるように、ゆっくりと、歳三は言った。
「少なくともおれは、そうは思わない」
小夜は返す言葉なく、まだ涙を流ししゃくりあげている。
「そして・・・・・・たぶん、坂本もそうだったはずだ」
ただ、もう、かぶりを振ることはなかった。それでも、涙は、とめどもなく溢れてくる。今、静かに、忌まわしい死の黒い影は、小夜の小さな肩を去っていった。
「君自身を必要としていた人間は確かにいたし、まだ、この世にいることも確かなことだ。それを知らずに君は、生きることを放棄するべきじゃない。・・・・・・それでも、おれは、間違ったことを言ってると、君は思うのかい?」
歳三の言葉に気づき、小夜は自分の身体に手をやった。その中に、新しい生命が息づいている。歳三はその手に、自分の手を重ね、小さいが力強い、その鼓動を確かめた。
「生きている」
その言葉に、小夜は顔をあげて小さく、肯いた。泣き腫らした瞳が可憐に濡れている。
「生きろよ」
歳三は言った。触れた小夜の頬を熱く、血の気が通ってきた。
言葉の余韻が、静かに去っていった。沈黙は次の行動を強いなかった。だが二人を留めていた、なにかを確実に溶かした。二人は唇を合わせ、ゆるやかに指を絡めた。お互いの存在を確認するように身体を寄せ合い、それを知った後は迷いなく、同時に二人は瞳を閉じた。
二十三
冬枯れの銀杏の木が、払暁の空を掃いて立っている。地上に降りた霜がさらに空気を冷やし、穴を掘っていた二人の新撰組隊士たちの身体を震わせた。
「・・・・だめだ、土が凍っていてこれ以上は無理だな」
かじかんだ手に息を吐きかけながら、ひとりが言った。
「ったく、くたばるなら、もっと早くにして欲しいもんだ」
もうひとりが吐き棄てるように、ぼやく。戸板の上の、かつて人斬りとして都を震撼させた男の変わり果てた姿のその並外れたグロテスクさに、さっきからずっと目を離せずにいる。
戸板に乗せられた岡田以蔵は、運ばれてきたときの姿勢を維持して褌姿の裸形で、四肢を強張らせている。瞳孔の開いた瞳は、なんとか閉じさせたが、憎悪に歪んだ唇からこぼれる、醜い歯茎の跡はついに隠すことが出来なかった。致命傷の肩の刺し傷は血が固まっていたが、不気味な紫色に変色してしまっている。人の死に慣れた新撰組の人間にも、これが人間の死骸とは、到底思えなかった。
「おい、そいつ、起こしてうずくまらせとけよ。こんな狭い穴じゃ、とても全身が入りきらんぞ」
鋤で凍った土を削っている男は、戸板の男のほうに向かって怒鳴った。
「おいおい、もっと掘れんのか」
「言ってるだろう、これ以上は無理だ。いいから早くしてくれ。寒いし眠いし、お前だって、早く引き上げたいだろう?」
「分かったよ。やりゃあいいんだろ・・・・・待ってろ」
ぶつくさ言いながら、男は岡田の腕を肩にかけて、その身体を抱き起こそうとした。寒さのせいもあってか、すでに筋の硬直が甚だしい。びんと張った腕は両手で動かしてどうにか曲がる程度で、腰から上体も、まるで生きているように抵抗して、なかなか持ち上がろうとしない。もうひと踏ん張り、力を込めようとした。
「よっ、と・・・・・・・」
その瞬間だった。
肩に伸ばしてあった岡田の右腕が、ぎゅっと締まり、男の首を引き寄せた。土気色になっていた皮膚に生気が戻り、筋肉が蠕動する。恐怖に引きつった声を上げそうになったその首を、今度は万力のような左手の圧力が捉え、両手で力任せに頚骨をへし折った。
「ひっ」
不幸にも、その事態を振り向いて目撃してしまったもうひとりの男が、痙攣する喉を震わせて力いっぱいの悲鳴を上げようとしたとき、死骸の脇差を抜いた岡田は、はちきれそうに見開いたその眼窩に向かって、その切っ先をねじ込んだ。
「ぐっ」
半刻後、段だら染めの隊服の男はひとりになり、悠々と必要な二刀を選んで腰に差し込んだ。穴掘り用の鋤を放って足で地を固める。
寒気で凍りついた土は、まだ温かい二人の死骸を跡形もなくそこに呑みこんでしまった。平らに均しきったその土に、翌朝何事もなかったかのように霜が降りるのを、最後の男は想像しながら、即席の頭巾を被った。

(・・・・・寒い)
暗闇の中で、陸奥は薄く目を開けた。薄暗い納戸の天井が見える。さっきは、目をつぶっているのとそう変わらない、黒が陸奥の視界を塞いでいた。人は、慣れる。時間の経過とは、恐ろしいものだ。ときにまったく無駄のように感じても、すべては確実に変容していく。
不思議なことに、こうなったことを無念だと思ってはいなかった。深町小夜の、あの不幸な女の命を奪えなかったことをそれほどには悔しいと言う気持ちも湧かない。なぜだかは、陸奥にも分からなかった。ただ、そこに茫漠とした脱力感だけが、ぽつんとある。
新撰組は、白川村に陸奥の身柄を照会することになるだろう。身柄の引渡しは、かつての宮川助五郎のそれほどには、簡単にはいくまい。今はこう着状態だが、徳川家とは必ず戦争になる。そのとき、陸奥の立場は微妙と言うほかはない。田中は、陸奥を最初から、見放すつもりでこの計画に彼を乗せた。深町小夜を仕留められなかった今、なおさらだろう。と、なれば、外から助命の来るあては絶望的な確率になる。
それにしても、と、陸奥は苦笑した。考えてみれば、同じではないか。田中も、自分も。深町小夜を、捕えたところで、殺す以外の結論は出なかったのだから。あの女の口に直接銃口を突っ込んだところで、それがやはり、陸奥の本心にとっては無駄だと言うことは、分かりきっていた。それでも、自分は竜馬のために他のものとは違う、なにかをやりたかったとしても、それはやはり、無駄だった。
茶番だ。
そして結局、薩長の差し金で坂本竜馬に刺客を差し向けた三浦を誅することも、叶わなかった。この上、計画の首謀者として捕縛されれば、同志にしてみれば、迷惑以外の何者でもない。結局、自分はなにをしたかったのか、もしかしたらそれを考えるだけで、陸奥の少ない残り時間は、終わってしまいそうに思えた。
もう、死ぬのか。
薩摩、長州、土佐。彼らは、坂本の死にまつわったものたちをまとめて片付けようとしているに過ぎない。坂本の死を追求した陸奥陽之助の始末には、恐らくもっとも手がかからなかったに違いない。邪魔者を合理的に始末するたったひとつの上手いやり方。深町小夜を消すことは出来なかったが、陸奥が死ねば、坂本竜馬とソコワレの女との関係を追及するような人間はもう、他には、いないのだ。
かたり。
表の納屋のたてつけの悪い戸からは、底冷えする京都の寒気が忍び寄ってくる。後ろ手に縛られた陸奥は、かじかんだ指を可能な限り動かして、この寒さに対して無駄なあがきをしてみたが、気持ちの昂ぶりもあって、これは朝まで眠れそうになかった。
一緒に捕縛された岡田は、さっき死亡したらしい。無惨な遺骸を朝まで転がしておくのにしのび難く、係りつけの二人が鋤鍬をもって、埋めるのに適当な場所を物色して往復しているのを、陸奥はずっと聞いていた。
自分も日ならずして、服を剥ぎ取られ、首のない遺体として無縁仏の穴に葬られるのかも知れない。それもやむをえないことだ。だが、まさかこんな形で自分の人生が終わるとは思ってもみなかった。
坂本も思ったかもしれない。世界の海を見る前に、死ぬのだと思った最期の気分はどんなものだったのだろう。考えると、自然に涙が出てきた。唇を噛んで陸奥はぎゅっと、目を閉じた。
ガチャン―――
突然、鉄の錠前が降りる音が耳朶を打った。陸奥は驚いて目を開けた。上体を起こし辺りを見回す。戸口は反対側。みると、引き戸がガタガタと揺らぎ、誰かが乱暴に動かそうとしている気配が感じられた。誰か来た。無理やり、そして、納戸を開けようとしている。
誰だ。もしかして。
やがて陸奥の目の前で、ドタン、とまるで投げ飛ばすような勢いで扉が引き開けられた。

空が白むまで。
歳三は、小夜とともにいた。少しまどろんだ明け方には、再びどちらからともなく、身体を寄せ合っていた。確かに身体を預けてきた小夜の壊れそうに儚い身体を、歳三はそっ、と抱き寄せて眠っていた。
思えば、この時間を手に入れる。
ただ、それまでがとても永かった気がした。
だがそれだけ切望していたとしても、今このときは、それは新たな日の出の訪れとともに、庇にあまった残雪のように、淡く儚く、消えていく。例えばちょうど、歳三が築き上げてきた新撰組がそうであったように。夢は儚いから、想うことが出来るのだ。
「江戸へ行くといい」
歳三は、小夜より先に起きて言うべき言葉を持って、彼女を待っていた。
「勝が待ってる」
小夜は無言で肯いた。最初から、そうするつもりだったと言うように。日の出ないうちから発つと言う小夜に歳三は旅支度を整えてやると、路銀と餞別を包んで別れ際、渡した。
「すまんな。道中、おれがついていければいいんだが」
「・・・・・いえ、もはや、薩摩や長州の方々はわたしを狙うことはないでしょう」
小夜は首を振って、
「もともと、薩長の本当の目的は、ソコワレの能力それ自体などではありません」
彼らが、小夜を確保しようとした真意は、そもそも徳川家が朝廷に逆心ありとの根拠のひとつとするためだったのだと、小夜は言った。
「そうか」
つまり、朝廷が認めぬ存在であったソコワレの呪われた血を徳川家が迎えいれようとしたというその証拠、すなわち、池袋村の生き残りである小夜を確保しておけば、いつでも朝廷から倒幕のための勅許を得られる切り札になる。そう考えていたのだ。
「王政復古の大号令が出され、薩長と徳川家が最後の意見の決裂をみた今となっては、彼らにとって、わたしはもはや用のない存在なのです」
歳三は、そのとき気づいて聞いてみた。
「もしかしたら坂本は、そのことで薩長指導者と対立を?」
「・・・・・・はい。だからもう、大丈夫です」
小夜は、歳三に向かって、そっと首肯して見せたが、それ以上はなにも言葉にしなかった。彼女にとって、それは、なにを掻き口説こうが、すでに過ぎ去ったことなのだろう。
「行きます。・・・・・・・ひとりで」
小夜とは銭取橋付近で別れた。
ここから―――武田街道を通って、京都を出られる。
「これからここは、恐らく戦場になる。おれは江戸には行けないかもしれないが、勝にはよろしく、伝えておいてくれ。それと」
と、歳三は、出掛けにあわてて探し出しておいたものを小夜に手渡した。
「君はもう、忘れているかもしれない、と思ってた」
蜻蛉の簪。あのとき、三年坂で買った。
「あ」
小夜は驚いて目を見開いた。
ふと、歳三がみると、それがひどくあどけない顔になっていた。
「・・・・・やっぱりな。もう、すっかり忘れてると思った」
そんな小夜が見れたのが、嬉しくてからかうように、歳三は言った。
「いいえ」
小夜は嬉しそうに首を振ると言った。
「・・・・・でも、ここに忘れてしまうところでした」
歳三は小夜の梅割れの後ろ髪にそれを差してやった。飴色の蜻蛉は朝陽に羽根を輝かせ、かすかに虹色を放射してそよぐ。小夜の髪をいとおしげに撫でると、歳三はその耳元に唇を当て、囁くように別れを、告げた。
「達者でな」
途中まで歩みだすと、小夜は振り返り、歳三に向かって深く頭を下げた。
「・・・・・・重ね重ねのご厚意」
朝靄を通してふりそそぐ朝陽が、つと振り向いた小夜の艶やかな前髪を煌めかせて、美しい。あの中に、次の新しい生命が宿っている。そう思うと、神々しくさえ思えた。
手を振る歳三は、朝陽のまぶしさに目を細めていた。小夜は何度か、振り返った。目覚めかけた街を照らしつくすほどに日が高くなり、その姿が見えなくなるまで、歳三は辻に佇んでいた。
出来る限り深く、今の記憶を刻みつけておこうと思っていた。
ここからは、誰にも、何がどうなるのか分からないのだ。
歳三も、小夜でさえも。
「総司」
屯所の前に、沖田が待っていた。
急いで起きてきたのか、寝間着のままだ。歳三の姿を見つけると、不満そうに、口を尖らせていた。
「・・・・・ずるいですよ」
「お前にもいろいろ世話になった、って言ってたよ」
「土方さんの口から聞いても、嬉しくないです」
「まあ、そう言うな」
また、前のように憎まれ口を叩けるようになった。もしかしたらまだあと少しは、一緒にいられるのかも知れない。
「早起きして損しましたよ」
「・・・・・・なら早起きついでに、近藤さん、呼んできてくれないか。昨日までばたばたしすぎて出来なかった話があった」
こんな朝っぱらから。
そう言いたげな顔を沖田はしたが、不承不承、中へ入っていった。
その次にした、ため息を、合図にした。
歳三は右足を滑らせて退き、左手で鯉口を切った。ろくに確かめず、腰をひねって身体を開くと、殺気を感じたその方向に向かって両手で斬り抜いた。
驚くほど、すんなりとした手ごたえが返ってきた。空振りをしたのか、とそれは思うほどだった。だが、剣は相手の右の出籠手を割って、乳の下から左わき腹にかけて、斬り割っていた。熱い血に濡れた内臓が、湯気を立ててその手に垂れこぼれてきた。
右手首が吹っ飛んだ。その手の凶器が、がしゃり、とその背後に落ちる。歳三が次に見たのは、自分の血まみれの手と段だら染めの羽織の裾だった。遺骸が、倒れた。拍子にはらりと、顔に巻いた布切れが解ける。
「以蔵か」
歳三は、ようやく立ち上がるとその顔を改めた。もはや誰とも見当がつかないような死に顔がそこに、あった。瞳はまだ動いていたが、見開いたその目に、棲んでいるものはもはや、ない―――しばし、うわ言を岡田はつぶやき続けていた。それは、寝言のような、ぼんやりとした言葉だった。見れば、誰かに何かを呼びかけているようにも思えた。天に向かって、なにかを尋ねているようにも思えた。だがいずれにしても、その意中はもう、誰にも理解することは出来ない。
息をつくと歳三は懐紙で、自分の刃と両手を拭った。剣を静かに鞘に納めると、中に向かって呼びかけた。
「いるか、誰か」
戸口をのぞく。
「戸口で賊を斬り捨てた。片付けておいてくれ。誰か」
歳三は立ち去っていった。もはや、後ろを振り返ることもなかった。

なぜ、助けてくれた。
ずっと、その一言が聞けずに陸奥は無言で、男の後をついていた。
「夜が明けてきましたな」
後家鞘の彦六が言った。二人は日の出を負って歩いてきた。二条城の甍を、朝陽が照らし始めている。空が雲ひとつなく晴れ、澄みわたったこの街の風景を、陸奥はしばらく忘れることが出来なかった。生きている。暗い闇を抜けて、人の世界に還ってきた。陸奥は思わず胸に手を当てている自分に気づいて顔を上げた。
「・・・・・・なあ」
陸奥はつと、足を止めた。彦六は彼方で不思議そうに、陸奥を振り返った。
「なにか?」
「どうして助けてくれたんだ?」
「どうしてって―――それが私の仕事ですから」
当たり前だという風に言って、彦六は爽やかな片笑窪を浮かべた。
「田中さんに最初から、頼まれてたのか」
「・・・・・・ええ。浜岡元五郎、いえ、岡田以蔵から陸奥さんを守るように、と」
「なぜ?」
彦六は、それを聞かれても困ると言う顔で首を振ると、
「・・・・・陸奥さん、どうやら昨夜は人を殺さんかったようですな。なんか、そんな顔しとる。せやさかい、私も、あんたを助ける気になったんと違うかな」
初めから、見透かされていたのかもしれない。田中が強行に深町小夜を殺せと命令したのも、三浦襲撃の計画に乗せて同志の疑いを晴らそうとしてくれたのも、すべて。田中は陸奥に人殺しなど出来ない、と言うことを知っていた。そして、それを望んでもいなかった。なぜならそれは、坂本自身が、陸奥にそんなことを期待してはいなかったからだ。
いったい、今まで自分の中でなにが違っていたのか。
陸奥はようやく、理解したような気がした。
「まあ、ともかく私が田中さんから仰せつかったのは、陸奥さんを安全に送り届けることです。途中、新撰組に捕まったのは驚いたけど、どうにか予定通りにはいけそうですわ」
「白川村に戻るのか?」
「いえ、そっちはもう、番所の手が伸びてるはずです。今いけば、捕まりましょう。その件については、田中さんが段取りをつけておいてくれてます」
丸田町通から、北上すると禁裏の西に出る。左手に中院、水戸徳川の藩邸、醍醐、東園、梅渓、山本と公家屋敷が続いていく。この先にある大きな藩邸屋敷を、陸奥はひとつだけ、知っていた。
「おい」
禁裏の北北西側、裏手は相国寺領。
薩摩藩邸屋敷がそこにあった。
「なにか」
「ここは・・・・・・」
昨日の記憶が、陸奥の脳裏に蘇る。薩摩藩士三人、岡田が殺した死骸。ソコワレのこと、竜馬の死、この事件は、すべてこの薩摩藩が仕切っていた。
瞬間、はめられた、と、陸奥は思った。
「どうかしましたか」
後家鞘は事情を知っているのか。もしかしたら、知らないかもしれない。田中に言われたまま、ここに来たのか。だがいずれにしても、陸奥にはもはや選択肢はなかった。この時間、これ以上、市中をあてもなくうろつけば、どこかでまだ張っている検問に引っかからないとも限らない。
「行きましょう。立ち止まっている暇はないですよ」
「・・・・・・・・・・・」
「陸奥さん」
「行こう」
陸奥は言った。そのとき、自分に足りないのは、人を殺すと言う事実に付属してくる安っぽい勇気なのではなく、死を賭しても志を押し通す勇気だと言うことを言い聞かせた。げんに、坂本はそうして、死んだ。坂本に出来て、自分が出来ない道理がない。陸奥は意を決して門前に立った。
 「開門ありたい」
 陸奥は低い声を張り上げて、堂々と名乗った。
「海援隊、陸奥陽之助でござる。昨晩、花屋町天満屋において、坂本竜馬暗殺の下手人、紀州三浦休太郎を討ち取り申した」



このあくる日。
王政復古の大号令発表。
薩長土、公地公民の政体を復活。続く御前会議において、徳川家四七〇万石の朝廷への奉還を求め、交渉は決裂する。
十五代徳川宗家慶喜、大阪城へ移動。旧幕兵軍、京都郊外の鳥羽にて、戦闘準備を開始。京都に駐屯する薩長新政府軍と対峙、戦局は伏見奉行所辺りを中心とした市街戦へ展開する見込み。
これに伴い、京都所司代及び、京都守護職は廃止。下部組織は幕兵として、戦線に投入されることとなった。


二十四
納豆売りの売り声が、朝靄を這うように聞こえてくる。江戸では、納豆売りの老爺が、もっとも早く売りに出る。暗いころから自分の持ち場を回って、人々が朝餉の支度を済ませる頃、家に帰ると言う。低い地声が尾を引いて長く、響いた。
あれから一ヶ月経ち、歳三は丸の内にいた。
つい二週間ほど前は、戦場にいた。慶応四年正月三日、歳三は伏見奉行所に立て籠もる幕軍の最前列を守り、土塁の陰から銃火器で攻撃してくる薩長連合軍を相手に、無謀な突撃を繰り返していた。
撤退命令を受け、負傷した新撰組隊士たちを連れて大阪城に入り、軍艦で紀州沖を渡って、品川に上陸したのが十五日。品川の宿・釜屋で骨を休め、二十日、鳥居丹後守役宅を借り受ける手はずが整ったので、残りの隊士たちとともに、そこに居を移した。
五年――役を得た京都を捨て、今、住み慣れた江戸に帰ってきた。江戸はとにかく、静かだった。道中、鳶が鳴き、今朝も納豆の売り声と椋鳥のさえずりの他は、なにも聞こえない。なにもかもが、ひどく落ち着いてしまう江戸の、変わらない風景の中にいるのに、歳三は次第に耐えがたくなる自分がいるのに苦慮していた。
「誰かいないか」
出かける準備を終えると、歳三は玄関で人を呼んだ。
「どうかしましたか」
出てきたのは、斎藤だった。
「お前しかいないのか」
「ええ」
と、斎藤は肯いた。
「おれは、出かけてくる。留守の間、なにかあったら頼むぜ」
「今日も、近藤さんのところですか」
「まあな」
歳三はズボンのベルトに、長刀を手挟んだ。
「それもある。今日あたり、沖田の実家から手紙が来ると思うから、もし使いが来たら、おれはすぐ戻ると伝えておいてくれ」
「ああ、いいですよ。伝えておきましょう」
ブーツの中に足を押し込む。
「しかしお前・・・・・よく、生き残ったもんだ」
「お互い様です」
斎藤はあっさりと答えた。
「喜んでる暇はありませんぜ。たぶん、これから、何度もこう言う機会がありますよ」
「そうだな。まったく」
「ちゃんと――生きて帰ってきてくださいよ。今日死なれたら、おれだって困りますからね」
どこまでも、飄げた男だ。もしかしたら、こう言う男が、最後まで生き残るのかもしれない、と歳三はふと思った。

なにしろこの一ヶ月で、歳三の周囲であらゆるものが変わったのだ。
京都で過ごした、五年間がすべて遠い昔の幻だったかのように。
近藤は今、局長職にいない。負傷して、神田和泉橋の養生所で療養を続けている。開戦の直前、二条城からの帰路に突然、狙撃されたのである。撃ったのは、歳三たちが始末した伊東甲子太郎の御陵衛士の残党たちだった。弾丸は、近藤の左肩甲骨を損傷し、命に別状はなかったが、前線に立っての指揮は不可能になった。歳三は近藤の代理を務めて、新撰組を戦場に駆り出す役目を負っていた。
歳三にとって初めての戦は、惨敗に終わった。
もともとが、最新式の銃火器を使用しての火力戦である。白兵戦闘に自信を持ってきた新撰組は場違いもいいところだった。歳三が後で聞いた話によると、旧幕兵の火力は、薩長軍に配備されている小銃と比べても、同等かそれ以上のものを装備していたと言う。総力戦になれば、こちらの方が有利は有利であったが、それは理屈上の話で、最新装備の部隊は主に後方に配備され、狭い市街地にあって、前線の味方部隊がことごとに邪魔になるので、その威力を十分に発揮できないまま、敗北していった。
歳三たち新撰組は、最前線にいた。結果的に正面からも背後からも、銃弾の絶好の的になった。歳三の目の前で二人、よく知っている人間が死んだ。一人は、昔からの道場仲間だった井上源三郎、もう一人は―――監察方・山崎蒸。
その山崎は江戸への護送中、息を引き取った。最期まで新撰組のことを口にしていた。遺骸は、艦上から水葬に伏した。山崎の実家は大坂の赤壁という薬屋であったらしい。なりゆきとは言え、遺体を持っていってやれなかったのが、悔やまれた。
沖田は開戦前に人をつけて、江戸に帰した。道中に吐血して、今は姉の光の実家に世話になっている。手紙のやりとりは、江戸に戻る前に少しは出来たが、まだ顔を見に行っていない。日によって、容態が変わると言う。
こうして、いつのころからか。歳三の周囲を構成していたほとんどのものが消えてしまっていた。京都守護職新撰組はすでに、無い。それがどれほどのことなのか、実感がないくらい。なにしろ、すべてがめまぐるしく、変わってしまっていた。

霧が晴れても、曇り空は明けない。ここ最近、雑務に追われてなにも思い出す機会もない。夜は眠っても、夢も見ずに熟睡するし、眠れないときも、これから先のことを考えるだけで過去を振り返る暇もなかった。それが今日は、色々なことを考える。
勝から書状が届いたのは、つい、昨夜のことだった。
江戸留守居役の勝は、歳三たちより一足早く江戸に上陸した徳川慶喜と、事後の対応に追われていた。話は拍子抜けするほど、勝の予想したとおりにことが運んだと言う。鳥羽・伏見での敗戦の報を告げた慶喜は、これから東上する官軍との全面対決の準備を放棄し、江戸城を去った。以後は、上野寛永寺に籠もり、討伐を許可した朝廷に対して、絶対恭順の構えを貫くこととした。
つまり、徳川家はひとり全面降伏し、旗本八万騎を一気に見捨てることにしたのである。これは旧幕軍という存在が、江戸幕府・徳川家の兵ではなくなった、と言う明確な宣言であった。勝の予言するとおり、幕府それ自体は一年を待たずに完全に消滅した。
江戸留守居役の勝は、現在、事後の処理を完全に慶喜から丸投げされた形になっている。今、江戸には西での敗戦から引き上げてきた兵と、まだ戦地に出ていない元・旗本や御家人たちの新兵が、ひしめき合っている状態だ。彼らは将軍家が完全降服をしたところで、それに服する気はまったくない。彼らの見解では戦はまだまだ始まったばかりなのだ。
そんな中で、勝は手紙で歳三を呼び出した。もちろん用向きは、今の江戸や新撰組のことではないと思う。だからこそ、ここ一ヶ月のうちで初めて、歳三は朝から、昔のことを思い出したのかもしれなかった。
待合は池袋村である。丸菱屋という旅館に歳三は呼び出された。今の歳三は髷を落とし、髪を掻き上げて黒羅紗のコートに、下は同色のズボンにブーツを履いている。それが土ぼこりを上げ、田舎道を馬で行くのは人目に立った。通じない場所で伊達を気取るのは、元来、洒落者の歳三には、それなりに気恥ずかしい。
「よう、土方君」
対して、勝は和装である。手には紙扇子、黒縮緬の羽織に短袴、腰に差した長刀には紫色の房のついた埃よけが掛けてある。
「よくぞまあ、生きていやがっておめでとう」
「あんたこそよく生きて、ここまで来れたな」
勝は苦笑した。立場としては今、表を歩けるような状況ではない。ひょいと肩をすくめて、
「あいにくと、それほど目立つなりしてないんでね。・・・・・・だが、君といると、この先は、心配だよ」
 「中か」
歳三の問いに勝は肯いた。
「だな。場合によっちゃ、外はそれからだ」

「近藤局長は、息災かい」
歳三たちの消息を誰かから知ったのだろう、勝は聞いた。
「ああ、順調だよ。今日も顔を出したが、この分だと、後一週間もすれば、心配はなくなるだろう」
見たところ、勝の顔色は悪くはなさそうだった。徳川幕府の収拾を任された貧乏御家人の彼は、いつもこうして難局を切り抜けてきたのか、淡々としていた。
「あのあと、小夜には会えたのか」
なにげない調子で、勝は答えた。
「来たよ。年の暮れ辺りだったかな。その頃には大分、身重になってたみてえで、道中は辛そうだったな」
「今はどうしてる?」
「遠くにやってるよ。そろそろ産み月だからな。江戸にはソコワレのことを下手に知ってるやつらが多いし、これからの状況を考えると、おれの身辺に置くわけにゃあいかねえだろう。ここへ連れてこれなくて、残念だがな」
「・・・・・別に、息災ならいいさ」
歳三は言った。残念とは思わなかった。ため息は安堵の色が混じっている。
「・・・・・だから、今日は、おれはその小夜の、まあ、言ってみりゃ代理みてえなもんだよ」
「なんのことだ?」
「まあ、話は、こいつを見てからだ」
勝は、首を掻きながら言うと、大きな風呂敷包みを歳三の目の前に置いた。ほぼ一抱えサイズの立方体形のそれは、少なくとも二十冊以上は積み上げられた本束である。歳三はそれを上から下まで眺めると、訝しげに首をひねった。顔を上げて、勝の言葉を待つ。
「せっかくだが今、本を読んでる時間はねえんだが」
「・・・・・正直、これを譲るのは、別におれの希望じゃねえ。だがまあ、こっちは、賛成も反対も出来た義理じゃねえんでね。その上で、お前さんに持ってきたまでだ」
勝は包みを解くと、積み上げられた和綴じの本の上にぽん、と手を置いた。
「・・・・・実は、こいつはあんたがおれに渡してくれた小夜の日記帳に書いてあって、おれが江戸に戻ってきてから手に入れたもんなんだ」
「そいつは、なんとなく察しがついたよ」
あのときの勝の顔色の変わりようを、歳三は思い出していた。
「あのとき、小夜はたぶん、あんたに重要な渡し物があって、あれを渡したんだとな」
恐らくあの雑記帳には、一部の人間にしか分からない符牒で、目の前の本束の隠し場所が書かれていたのだろう。これがもし、江戸で見つかったとするならば、小夜か、彼女の意志を汲んだ他の誰かが、勝に安全に手渡すために、確実な場所に保管しておいたのだ。
「これはいったいなんなんだ?」
「今、教えてやるよ。・・・・・・まあ、聞いて驚け」
勝は、低い声を潜めると、
「こいつには、小夜とその伴侶、子どもの代までの未来の日本の姿が描かれている。今からざっと見積もって、百年先までのことがこれに書かれている。日本のこれからの百年が、今、ここにあるんだ」
「・・・・・・・本当か」
ああ、と勝は肯き、
「奇しくも、幕府が目指していたソコワレの研究は、誰も知らないところで、完成していたんだよ。古の異能の民の能力を受け継ぐ女性と、その女性が次代に受け継ぐために探し出した伴侶と創り上げた一粒種、それらの条件をすべて満たしたとき、ソコワレの異能は最大の力を発揮した。その最大の成果が、今お前さんの目の前にある、まさしく、こいつなのさ」
「・・・・・・・・・・・」
目の前に、日本のこれからの百年がある。
歳三は言葉を失った。途方もなさ過ぎて、なんの実感もない。ただただ、混乱したように、勝とその本束を交互に眺めることしか出来なかった。
「話は分かった」
しばらく沈黙のうち、歳三は言った。
「そいつが、どれだけ凄いものなのかも、だ」
「ああ。分かってくれなくっちゃ、こっちも困る」
「だが、ひとつ言わせてくれ。おれにこれを渡して、どうこうさせようったって、そりゃあ詮無い話だぜ」
「同感だ。だが、それは百も承知の話さ」
勝は、長く大きなため息をついて歳三の意見に同意すると、
「・・・・・だがその上で、あえてお小夜はおれに、あんたにこれを渡してくれるよう、頼んだんだ。だから、おれが直接ここへ持ってきた。話は、ただ、それだけのことさ」
「・・・・・・・・・・・・・」
あまりのことに混乱が覚めやらない。それがすごいことなのかどうかも、見当もつきそうになかった。
「・・・・・しかし・・・・・・なぜこれをおれに?」
「お前さんにはこれを、受け取る権利があるからよ」
「分からない」
歳三は訝しげに聞いた。どうにも解せない。
「おれは別に、こんなもの想像したことも、欲しがったこともない。分かるだろう。おれにしてみれば、こいつはどう見てもまったく不要のものだ」
「・・・・・で、なくとも、お前さんは少なくとも、その存在を知っていなくちゃならねえんだよ。いいか、聞け。なぜならこれは、土方君、お前さんとお小夜の未来なんだ」
勝の言葉の衝撃に、歳三は、はっと胸を突かれたような気がした。目の前の一冊を掴み出して、中を開く。
「・・・・・竜馬のやつが、これを知ってたかどうかは、直接は聞いたことがねえ。だが、無論、知ってたんだろうな。それでも、黙って、お小夜のことを援助し続けてくれたそうだぜ」
「・・・・・・まさか」
そんなはずはない、と、歳三は首を振った。彼女は坂本の子だ、と言った。そして、歳三の前から突然、姿を消した。
「どうしてだ」
「察してくれ、とは言わねえよ」
勝は、静かな声で言った。
「・・・・・・だが、お前さんには分かるだろう。ずっとあの娘に寄り添ってきてくれてたんだろう?」
「だがなぜ、話してくれなかった」
「あんなことがあった後だ、小夜は、本当は男を受け入れることの出来ない身体になっていた」
「うそだ」
歳三は思わずつぶやいていた。小夜を論難する、意図があったわけではない。ただ、信じられなくてだ。げんに、小夜は自分を受け入れたではないか。
「お前さんに抱かれることが・・・・・・・小夜にとっては、自分の生きる糧みたいなもんだったんだよ」
勝はそれを察したのか、目を細めて切なげに言った。
「・・・・・・・だが、京都で、あんたを見つけたときには、そのままどこかへ消えてしまいたかったと、そう、言ってたよ」
「・・・・・・そうだったのか」
穢れています。
小夜が、その晩に言った言葉の本当の意味。
種族の血が求める本望と、心の傷との葛藤。
やっと、自分が見つけた伴侶に、その身体を素直に預けることも出来ず、それでも、相手に惹かれる心に歯止めが利かず。彼女はこう言ったのだ。
そして。
やっと見つけた相手の瞳の中に、自分を穢した男の姿を見つけたとき、小夜は歳三の胸の中で、なにを想っていたのだろうか。
「どうしてはじめから、話をしてくれなかったんだ」
詮無いことが分かっていながら、なおも歳三は言うしかなかった。
「あの娘には、色んなことが起こりすぎたよ。お前さんに本当の気持ちを話すのには、すでにあまりに時が経ちすぎていたんだ」
そうだ。
あまりにも時間が経ちすぎた。あまりに多くの物事が、伝えるべき気持ちを狂わせ、やがて、大きく歯車を狂わせた。どこでなにを間違ったのか、分からないくらいに。これから、なにをどうすればいいのか、分からないくらいに。
「坂本は恐らく、あんたが相手だと知りながら、こいつを書き写した。小夜もそれが分かっていたから、あえて自分が見たことを形として、残しておくことに賛成したんだろう」
「・・・・・・・・・・・・」
「これは君のだ。だからもし、君が彼女を赦すことが出来るのなら、こいつを受け取って、今すぐ、ここに書かれている通りにすることだ。君は今やっていることを降りて、彼女、小夜と君の子どもと暮らすことを考えてくれ。その場合の手はずは、おれがつけてやるよ。だが、もう遅いと思っているなら・・・・・・そのときも、こいつだけは君が、受け取らなくちゃならない。小夜にはおれが、話をしておく。君が決めることだ。・・・・・・・一日くらいやってもいいが、出来れば今すぐ、ここで決めてくれ」
歳三は目を閉じてしばらく、考えていた。思いに耽っていたのかもしれない。まるで、小夜本人がそこにいるかのように、そこに書かれた彼女の想いを歳三はしばらく胸に擁いて、そのままいた。
「・・・・・・・・分かった」
歳三は長く息をつくと、その冊子を一番上に置き、風呂敷を包み直した。
「行こう」
それを抱えると、歳三は立ち上がっていた。
「どこへ行く」
「外さ」
「なぜ」
「なぜって、あんたも言ってたろ」
勝の問いに、分かりきってる、と言うように歳三は答えた。
「いいから来いよ」

枯れ松葉が、パチパチと音を立てて爆ぜている。
枯れ枝を集めて、歳三は火種に加えた。燃え立った炎の上に、風呂敷包みから取り出した冊子の端から火を点けて、中にくべていく。
黒い山陰を縫って、その煙が徐々に大きく、激しくなって高い空へと上がっていくのを、勝は愉快そうに眺めていた。
「燃やす種なら、まだまだあるぜ」
勝は、どこからか障子紙のついた格子桟の残骸を持ってきて中に押し込んだ。
「なにしろ、ここは廃材の宝庫だからな」
小夜の生家。
かつての深町屋敷の跡地を、歳三は見上げた。
広大な敷地を囲っていた高い白塗り塀は、年月の荒廃もあって、もはやその面影をほとんど留めていなかった。全焼した屋敷の跡は土台が丸見えになり、主だった床柱が、役割を見失ったまま、そこにぽつりとそびえるだけだ。小夜はこの山奥の陰鬱な屋敷に生まれて、娘になるまで、ここで育った。
「おうい」
勝は唐突に聞いた。
「本当にこれでいいのか」
「たぶんな」
焔が舐めるように、薄い紙を溶かして黒くひしゃげさせる。
「どうせあんたも、こうしようと思っておれのところへ持ってきたんだろ」
「・・・・・・馬鹿言え」
勝は大仰にかぶりを振ってみせ、
「思ってるわけないだろ。これが、今、どれほど価値のあるもんだか、お前さんも分かってるだろうが」
「本音か?」
「嘘だよ」
勝はお見通しか、と言うように肩をすくめた。
「ああ、まったく、言う通りさ。だから、お前さんのところに、こいつを持ってきたんだよ。小夜がお前さんに、ってのもお前さんを試したまでさ。本当はもう、この世にこんなもんを望む人間は一人もいねえんだ。・・・・・・・ただの、一人もな」
天高く、煙は上っていく。勝は目を細めると、どこかいとおしげにその上っていく煙を眺めていた。
「なあ、土方君」
勝が、なにを想っているのか。歳三にはなんとなく分かった。
「・・・・・人間てのはどうも、本来、明日のおてんとうさんが昇るときまでのことしか考えられねえように出来てるらしい」
「かもしれねえな」
「なぜって、おれたちには今の生きてる足場ってものがある。どうにかこいつを確かめねえことには、安心しておちおち道を歩けやしねえんだ。たとえずっと向こうに自分の行き先が見えてるとは言え、そりゃあ、ずっと先の話で、自分の足元見てなかったら、それが分かったって、元も子もねえもんだ」
勝の顔に苦笑が、浮かんでいた。乾いた笑い声は、どこかそこはかとない湿り気を帯びているように、歳三には感じた。
「坂本のやつはどうも、そいつが見えてなかったよ。何からも自由だって言えば聞こえがいいが、行き先を知ってても、自分が今どこにいるか分からねえってんじゃ、世話ねえよ。まったくおれの弟子の中でも、本当にどうしようもねえ奴だったよ」
勝は鼻の下を指でさすりながら、
「だが、これからは、もしかしたら、そんな奴ばかりの時代になるかもしれねえな。・・・・・・土方君、日本人ってどっから来た人間か、分かるかい」
「いや」
歳三は苦笑して首を振った。
「おれにも分からねえ。今から作るもんだからな」
勝も同じ表情で言う。
「次の時代は、日本人の時代になるんだ。今、よその国の人間がそう見てるように、長州でも薩摩でも土佐でもねえ、おれたちは日本人だ、って言う時代になる。だがよ、日本人ってのはこの国にはもともと居なかったんだ。
例えば江戸っ子や長州人、土佐人はいても日本という国の人間はいなかった。なぜなら、それまで外国人と付き合わなかったからさ。おれたちは日本人ってのがなんだか分からないまま、これから、日本人になる。本当は、こいつは、恐ろしいことなんだよ」
「・・・・・おれには、どうもぴんと来ないがな」
ああそうだろうな、と勝は言い、
「今、おれたちは必要に迫られて、外国の言葉を学び、出来るだけやつらの知識や文化、技術を吸収しようとする道を選んだ。そうしないと、おれたちは外国の奴らに負けるからだ。だが、そいつが果たして正しいことだったのかどうかは、今、決して分かっていいことじゃねえし、分かるようなもんでもねえんだ。問題は、今、後悔しないでどう生きぬくと決めるか、ただそれだけのことなんだ」
立ち上る煙が、薄くなっていく。そのときには百年後の日本に記した冊子は、もはやそのほとんどが黒い灰になってしまっていた。
もはや誰に話をしているのか、勝の独白が静かに続いた。
「・・・・・・土地を離れ、身分を離れ、おれたちはどんどん、自由になっていくよ。今に、国だって関係なくなるかもしれない。もしかしたら、日本人かアメリカ人か、もっと言や、男か女ですらもな。だが何者でもなくなったとき、それでもおれたちの存在が消えるわけじゃない。そうなってもおれたちは、どうにか生きていかなくちゃならない。その選択が合ってるのか、間違っているのか、それすらもわからねえままにな。結局、百年後にも二百年後にも、その答えは出るはずがねえからよ」
話し終えると勝は草鞋を履いた足でそれを、幾度か踏み潰した。まだ在るべき姿を象っていたその黒い塊は、勝の足に追い散らされて、跡形もない、煤のかけらになって音もなく崩れていった。風で薄灰色に濁った白煙が残骸を巻き上げて流れていく。

新春の冷たい風が、頬をなぶった。
火の始末を終えた二人は歩いて、山道を降りていった。
「江戸城は、官軍が来たら明け渡すぜ。おれの手で、徳川幕府は綺麗さっぱり、これで無くならすよ」
「そう、腹を決めたんだな」
勝は静かに、肯いてみせた。
「だから君らも、早めに身の振り方を考えておいた方がいいぞ」
「ああ、生憎と、おれはもう自分の立場も行き先も、もう十分に分かっている人間さ。肝腎の腹は決めてあるよ」
「そうか」
「おれも、行くよ」
歳三は言った。
「小夜には会わずに行くのかい」
勝の問いに、歳三は微笑して、こう答えた。
「新撰組は、おれが最後のひとりだ。そうならなくちゃならないと思ってる。この五年間、多くの仲間をおれは犠牲にしすぎたよ」
夢を追って、現実をねじ伏せて。新撰組はここまでやってきた。
「おれはその責を負わなくちゃならない。・・・・・・・今さらそこから、降りることは出来ねえ。小夜は穢れていると言ったが、おれだって似たようなものさ。彼女が自分の過去に清算をつけたように、おれも清算はしなくちゃならない。悪いがそれが、おれの結論なんだ」
「・・・・・・・本当にそれで、いいのかい」
「ああ」
「後悔はしないな」
彼は後悔しなかった。ゆっくりと首を振ると、静かな声で言った。
「本当に、君を赦せなかったわけじゃない。これはおれの問題なんだ。くれぐれも小夜にはそう、伝えてくれないか」
「分かった。必ず、伝えておいてやるよ」
「会わずにいく。あとは元気でと、それだけ伝えておいてくれ」
 「分かったよ」
 勝は言った。それが歳三の決断だと言うなら、もう彼になにも言う権利はなかった。
「・・・・・余計なおせっかいだったか?」
「馬鹿言え」
最後に、本当の別れを告げることが出来てよかった。歳三に後悔はなかった。
「じゃあ、おせっかいついでにもう一つ、教えてやるよ」
「なんだ」
「お小夜がお前に出会ったのは、あのときの京都が初めてじゃなかったそうだ。ずっとせんから、お前を見つけていたってよ」
「そうかい」
「こっからすぐ西へ出ると、もう多摩だ。あながちありえない話じゃねえだろ」
街道の分かれ道に立ったとき、勝は言った。
「そんときからずっと、お前のことを想っていた、ってよ」
「そうかい」
歳三は、肩をすくめて首を振った。
「憶えがねえな。忘れたよ。そんな昔のことは」
多摩でくすぶっていた頃の話だ。
本当に遠い昔のことのようにしか、彼には思えなかった。
「まあな」
勝は下らないことを言った、と言うように微笑して首を振ると、
「・・・・そんなことは本当に、もうどうでもいい話なんだがな」

もはや、そんなことは。
本当にどうでもいい話だ。
だが、歳三は憶えていた。と、言うよりは今、思い出した。ある年の多摩の闇祭りでのことだ。篠藪のくぼ地で、男に組み敷かれている少女を助けてやったことがあった。闇祭りのルールは和合である。気に入った相手と一晩をともにしてよいと言っても、相手が拒否した場合、無理に誘うのは野暮になる。
その娘は年も若かった。それに、その祭りのことを知らずに来たのか、ひどく当惑した様子だった。歳三は娘を介抱して近くの寺に身柄を預けて、もう一度、女を漁りに出た。話はそれだけのことだった。
少女の印象はほとんどない。本当にまだ、二次性徴も始まったばかりの小娘だった。夜目にも透けるように色が白く、ひどく手足が長かったことだけを憶えている。
「いずれまた、お目にかかりたいです」
彼女は言った。後でお礼に来る、と言う意味だったのだろうが、歳三は少しからかい気味に、こう答えた。
「また・・・・・そうだな、まあ、せいぜい五年くらい経ったら礼に来てくれよ」
当時の小夜の年齢が、十二、三歳くらいだったように思える。それから、たぶん、ぴったり五年経っている。ずっと。彼女は律儀に約束を守ろうとしてくれていたのかもしれない。そう思うと歳三は、ただただ、可笑しかった。

歳三が言ったとおり、彼は最後の新撰組としてその一生を全うした。この年の四月二十五日、新撰組局長近藤勇は板橋の刑場で斬首、それから翌月の三十日、沖田総司も肺結核のために病没、以降、歳三は官軍と転戦を続けながら、北へ向かう。斎藤一とは、会津で別れた。その他にも、京都時代の隊士たちを歳三は続々と戦線から離脱させている。新撰組の鬼副長の異名とは異なり、その頃の歳三は優しく穏やかだったと、当時の隊士たちの旧懐談は、一致した印象を語る。
その最中に明治天皇が即位し、元号は明治になっている。
箱館五稜郭に立て籠もった旧幕軍は、最後の抵抗を続けていたが、結局、約一年で、責任者榎本武揚が投降、戊辰戦争は終結する。
だが、歳三の生涯はその前に片がついた。降伏前の明治二年五月十一日、歳三は箱館山山頂から奇襲してきた官軍との戦闘中に、一本木、異国橋間の戦闘中に被弾して、死亡したと言われている。三十五歳、弁天台場の新撰組隊士たちの救出に出撃した途上で、時間は午前九時頃であったと伝わる。ただ、その遺体は、なぜか、どこからも発見されず、隊士・市村鉄之助に命じて届けさせた佩刀の和泉守兼定二尺八寸と、所用の鉢金だけが、遅れて日野の実家に届けられた。
勝海舟は明治維新後、赤坂氷川町四丁目に退隠し、明治三十二年、七十五歳まで生きた。役を退いた後は、海軍卿、元老院議官、貴族院議員などに任ぜられるが、そのほとんどを辞退し、明治中央政界にその権力を奮うこともなく、傍観者に徹したことはよく知られている。
のちに江戸無血開城をはじめとする幕末の一連の処置について福沢諭吉の『瘠我慢の説』において一国の士風を損なった罪は重いと弾劾された勝は、福沢にこう返答を遣している。
「行蔵は我に存す、毀誉は我に関せず」
その意志は、死ぬまで貫かれた。
深町小夜の消息については、その後、不明である。一子を出産の後、勝の屋敷にしばらく逗留したと思われるが、真偽定かではない。出産後、まだ嬰児の娘を連れて、北へ向かったと言う話もあるが、彼女の足跡を裏付けるものは、すでになにも存在していない。
こうしてソコワレは再び、歴史の陰に姿を晦ました。




二十五
明治二十五年、横浜。
 ひとりの紳士が、ホームで列車を待っている。東京へ向かう。一等客車の切符の席を確かめている。日本人離れした長身に洋装が似合っていた。頬から顎にかけて覆う髭は、少し憂いある眼差しとあいまって、どこか気品を感じさせる。板についた雰囲気がある。
「もし」
声をかけられて、彼は振り向いた。そこに、桃割れ髪の若い娘が立っている。もしかしたら、彼の娘くらいの年かもしれない。
「あの、お伺いしたいことが」
彼は長い睫毛を伏せて、視線を下げた。少女は、両手に大事そうに切符を持っている。彼はそれを指差して、
「二等客車だね」
はい、二等客車を探しているんです、と少女は答えた。
「ここは、何等の客車の待合ですか」
「一等だよ」
娘は、深々とお辞儀をして立ち去っていった。
新橋行きの列車が入ってくる。彼は、ふと思いついて、さっきの娘を視線で追った。彼女が入った車両を確認した。
車内は混雑している。娘はひとりで、席に座っていた。手に旅行の荷物らしき包みを抱えているのが見える。彼は客車に入ると、ようやく、娘の姿を見つけた。
「失礼」
近づくと、声をかけた。
「しばらく、隣に座っていいかな」
突然声をかけられた彼女は、はっとして顔を上げた。その空気をどこか懐かしむように、紳士は思わず目を細めて言った。
「昔、あなたによく似た方を知っていたので、懐かしくなって声をかけてしまいました」
娘はどうしていいか分からない、と言う顔で男を眺めている。紳士はあえて説明せず、微笑しただけだった。娘は荷物を片付け席を譲った。紳士は静かにそこに座った。
「今日はどちらへ?」
「東京の小父さんに会いに」
娘の声韻に、男は目を閉じて聞き入っていた。
「・・・・・母が、年頃になったのであなたも挨拶にうかがいなさい、と申しますので」
「お母上は息災ですか」
「はい」
「それはよかった」
ずっと不審に思っていたのだろう、娘は控えめに聞いた。
「あの・・・・・失礼ですが、お名前をうかがえますでしょうか」
紳士は苦笑して答えた。
「陸奥、と言います。あなたは」
「かよ。香るに、夜、と書きます」
「香夜さん」
長い睫毛を伏せたあと、戸惑うように、
「・・・・あの母の方は」
「お名前は結構。たぶん、間違いないでしょう。あなたの顔をみれば、なんとなく分かる」
陸奥は、微笑して首を振った。
「よろしくお伝えください。ただ、あなたをみて思い当たったまでのことです。覚えがなければ、勘違いだったと思って忘れてください」
言うと、陸奥は立ち上がった。香夜は母にあったらこのことをどうやって話していいのか、と途方に暮れた様子で陸奥のほうをみた。戸口に立ったとき、陸奥は振り返って、
「失礼。それでしたら、加えてこうお伝え願えますか」
彼女は、ふと顔を上げた。その上目遣いの視線のたたずまいに、陸奥は苦笑した。
「お手紙、あなたから頂きました。読んで、今もずっと大切にさせて頂いております。忘れたらかまいません。ただ・・・・・・もし、あなたが憶えていたらそう、母上にお伝えください」

自分の席に戻った陸奥は、革包から一通の古びた手紙を取り出して、しばらく、それを眺めていた。日付は慶応三年冬になっていた。そこには、あの時代のひどく懐かしい筆跡で、陸奥のことが書かれていた。この手紙が届いたとき、陸奥は監獄にいた。土佐立志社の陰謀事件に関係して、五年の服役生活を送っていたのだ。その手紙はすでにもう出せない日付と宛先から、誰かの手を介して送られてきたものだった。
坂本竜馬の、本当に最期の心がそこにはあった。
陸奥は手紙に顔を近づけ、誰にも、聞こえないようにその名前を呼ぶ。すべては昨日のことのように思い出された。途方もないくらい、色々なことがあったのに、あの時代のことは常に一瞬であったように、陸奥には思えてならなかった。
「坂本さん」
(志は死んでない)
まだ、それをはっきりと、言うことは出来ない。だが、陸奥の中でまだ、それは確固とした光を放って、燃え続けている。それは、誰にも犯すことの出来ない、陸奥の矜持だった。
今でも目を閉じると、竜馬の声韻が、陸奥の耳に響いてくる。

陽之助、お前といつか、世界の話がしたいき。

その声に、陸奥は、そっとつぶやき返す。
「必ず、お話しましょう・・・・・・・いつか、また。必ず」

陽之助改め、陸奥宗光は、駐米大使などを歴任後、この年、伊藤博文内閣で外務大臣に就任している。二年後、幕府がイギリスと締結した不平等条約の改正を、日英通商航海条約によって実現、翌年、日清戦争講和のための全権大使を務めるなど、外交畑の敏腕として「カミソリ」の異名をとり、近代日本外交に重要な足跡を残した―――明治三十年八月二十四日、肺患で死亡。享年五十四歳だった。
彼は、生前の坂本竜馬からかけられたある言葉を、終生誇りにしていた。原敬が執筆した、彼の小伝中の一節に、その言葉がある。

我が隊中に、数十の壮士あり。然れども能く国体の外に独立して、自らその志を行うに得るものは、唯余(註・坂本)と陸奥あるのみ。
【了】

幕末ソコワレ考

さて、新撰組のお話でした。毎度のこと、やたら長い文章を最後までお読みいただいた方、本当にありがとうございます。幕末もの、特に新撰組をテーマにした作品は非常に多いですが、この作品も何とか違う要素を付け加えようと考え、いわゆる土方と陸奥のダブル主観で物語を進めていく感じでやらせていただきましたがいかがでしたでしょうか。個人的には時代小説にも、緊張感とスピードがある話があってもいいと考えているので、その目論見が成功していたらうれしいです。ちなみにタイトル、ソコワレは、骨董用語でして、ちょっとしょぼい意味合いがあります。なんとなく語感から適当につけたのですが、あまり景気のいい言葉じゃなかったのが、今では悔やまれるところです(汗)

幕末ソコワレ考

幕末最大の暗殺事件、坂本竜馬暗殺事件をテーマにしています。 この事件にまつわる謎を土方歳三と陸奥陽之助(のちの外務大臣陸奥宗光)の二人が、敵同士ながら追うお話です。陸奥は事件当夜、現場から逃げ去った不審な女性を目撃します。それはある夜の偶然の出会いから土方が思いをかけた、深町小夜(ふかまち・さよ)と言う女性でした。彼女には秘密があり、それは当時の幕府機構の根幹を揺るがす大きな陰謀につながっていくのですが・・・・・ところでタイトル中にある「ソコワレ」の謎は、作中で小夜の正体から明らかになっていきます。なのでここでは「なんか変なタイトルだなー・・・」って程度に思ってもらえれば幸いです。もしよろしければ、幕末事件史を彩る最大の事件、その舞台裏にお付き合いください。

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更新日
登録日
2012-11-07

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