反逆者の娘

留布 待子

  1. 祭りの夜
  2. 祭りの夜 (2)
  3. 嫉妬
  4. 憂い
  5. 不穏
  6. 変転

マーティオンの貴族の娘ユリカ・ヴェスティナは、幼馴染みで従兄でもある王子ルーク・パトリウスと婚約したばかり。だが、祭りの夜にルークの異母兄レウール・パヴェルからも求婚される。ルークを愛するユリカはレウールの求婚を拒むが、自分よりも弟を選んだことに嫉妬したレウールは態度を豹変させてーーー

祭りの夜

 「お嬢様! ユリカお嬢様!」

 リアは必死の形相で女主人の背中を追いかけた。祭りの最中とあって、大変な人混みなのだが、当のお嬢様ときたら、全く尻込みすることなく颯爽と歩いていく。本来ならば、バルコニーの上から祭りを見物できる身分なのに、何を好き好んでか市井の人々に混じって祭りを見たいと言い出した。

 「だって、あんなに楽しそうなのに。お行儀よく座って、ただ見ているだけなんてつまらないじゃない」

 ユリカ・ヴェスティナは例の人を魅了するような愛嬌ある笑顔で、こう言うのだった。

 「今日はお祭りよ。少しくらい羽目を外したって、誰も文句言わないわよ。ねぇ、リア。お前もそんなしかめっ面していないで、もっとお祭りを楽しみましょうよ」

 「そう言われましても・・・」

 しかし、この笑顔に誰よりも弱いのがリアだった。結局、こうしてはらはらしながら後を追いかける羽目になった。我ながら情けないと思うが。

 「ユリカ様、そろそろお戻りになっては? お姿が見当たらないと、皆様が騒ぎ出される前に。そういたしましょうよ」

 と、こう提案しても、ユリカはどこ吹く風といった調子なのだ。もう婚約者だっているのに。ルーク・パトリウス様のお耳に入ったら、どんなに呆れられることだろう。

 「大丈夫よ。ルークがこんな所にいるはずがないでしょう。それに私は仮装しているのよ。この私がフェント公カーゴ・レントの娘だなんて、誰が気付くものですか」

 そう自信満々に言い張るが、どれほど完璧なな仮装していようとも、彼女の愛らしい姿を完全に隠してしまうことは出来ない。波打つ淡い色の金髪に輝く青灰色の瞳、乳白色の肌に際立つ薔薇色の頬。そして、可憐な薔薇の蕾のような小さな口元。女神の仮装がこんなに似合う人はそうそういまい。そうリアが惚れ惚れするほど、ユリカ・ヴェスティナは美しかった。

 「もう十分に見て回ったではありませんか」

 口うるさくリアが繰り返す。
 
 「満足なさいましたでしょう? お願いですから、ユリカ様。そろそろお屋敷に帰りましょう。私、先程から足が痛くて痛くてーーー」

 「リア、リア! あれを見て!」

 リアの言葉など耳に入っていないユリカが、不意に大声を出した。

 「まぁ、何て大きな山車なんでしょう! あの見事な金細工を見てよ。ねぇ、リア。もっと近くに寄って見てみましょうよ」

 「いけませんよ、はぐれてしまったらどうなさいます?」

 しかし、ユリカはぎゅっとリアの手を握りしめて歩き出したところであった。

 「ユリカ様! 絶対に私の手を放してはなりませんよ!」

 「えぇ、リア。分かってるーーー」

 だが、案の定と言うべきか、人の波に押されて繋いだ手が離れてしまった。リアは叫び声を上げたが、為す術はない。みるみる内に大切なお嬢様は人波の向こうに流されていく。リアの悲痛な叫びももはや届かぬようだ。

 「ユリカ様! お嬢様!」

 必死に振り返ろうとするユリカの姿が見えた。だが、それも一瞬のことで、あっという間にその姿はリアの視界から消えてしまったのだった。

 

 忠実な乳母とはぐれて、たいぶ経つ。一人になっても、ユリカはめげることなく祭りを楽しんだ。心細いと感じる暇もかった。彼女にとっては何もかもが新鮮で、刺激的だった。いくつも連なる山車を間近で見たり、噴水から湧き出るワインを飲んだり、見知らぬ人達の躍りの輪の中に飛び込んでみたりーーー

 毎年見ていた祭りとは全然違うとユリカは思った。その為、リアのことを完全に忘れていたのだが、さすがに夜も更けて混雑が一段落つくと、自分の置かれている状況に嫌でも気付かされた。もにろん祭りは夜通し続くし、どこもかしこも賑わっているのだが、若い娘が一人で出歩くには物騒な頃合いだった。しかも、彼女には今、自分がどこにいるのかすら分からない。これまで何度も出かけたことのある街であるにもかかわらず。

 『リアはどこにいるのかしら?』

 ユリカは必死にはぐれた場所を思い出そうとした。確か教会の高い尖塔が見えた所だったと思う。しかし、いくら辺りを見回してみても、暗い空のどこにもそれらしき光景はない。それでもきょろきょろと視線を巡らせていると、

 どしん。と、何かにぶつかった。どうやら、人らしい。しかも、どうやら運の悪いことに、酒に酔ったがらの悪い連中の中に飛び込んでしまったようだった。

 「まぁ、待ちなって。そんなに慌てて行くことはねぇだろう」

 「仮面の下の顔を見せとくれよ。さぞかし美人なんだろうな」

 「わ・・・私、急いでいるの」

 ユリカはどうにかしてこの場から立ち去ろうとするのだが、男たちがなかなか解放しようとしない。

 「聖レアンナの祭りに女神エレか。こいつは縁起かいい」

 「女神様に祝福のキスを頂こうじゃないか!」

 不躾な手に腕を掴まれ、別の手がユリカから仮面を剥ぎ取ろうとした。悲鳴を上げても、誰も助けてくれそうにない。と、その時ーーー

 「私の連れに、何か用か?」

 力強い腕が、ユリカを乱暴な男たちの輪から引き離してくれた。背後にいるので、顔は見えないが、右手にぎらりと光る短剣だけは目に入った。

 「祭りの夜に血を流したくなければ、さっさと立ち去れ」

 言い方は静かだが、何となく凄みを滲ませた声だった。たちまち男たちの顔から血の気が引いていくのが分かった。

 「そんなに大事な連れなら、一人にさせとくんじゃねえよ、旦那」

 男たちはそう言い捨てると、よろよろとどこかへ行ってしまった。ほっとしたのも束の間、今度は怒り心頭の若者を相手にしなければならないことに、はたと思い当たる。

 「ここで何をしているんだ、ユリカ?」

 顔を見なくても声で分かる。ユリカの幼馴染みで許婚の異母兄、マーティオンの第一王子レウール・パヴェルだ。

 「あぁ、レウール! 私ーーー」

 ほっとした瞬間、体から力が抜けそうになる。レウール・パヴェルは、亡くなった前の王妃の生んだ王子であった。濃い金髪に緑がかったブルーの目をした端正は顔立ちの若者だが、年の割りには大人びていて、どこか冷めた雰囲気を漂わせている。敵対するラーラントから嫁いできた母を持つせいで、宮廷では煙たがられていたが、ユリカにとっては優しい兄のような存在だ。

 しかし、今夜のレウールは少しも優しそうなかった。彼はひどく怖い顔をして、ユリカの前に立ちはだかり、

 「昼間から姿がないと思ったら、案の定だ。こんな所で一人ふらふらしていたら、どんな目に遭うか分からない年でもないだろうに。リアはどこだ? 何故、君をほったらかしにいている?」

 「リアとははぐれてしまったの。私が悪いのよ。私がどうしても街でお祭りを見たいと言い張ったこら。リアは何度も帰ろうと言っていたのに」

 すっかり忘れていたリアのことを思い出し、ユリカは泣きそうになった。今頃、どんなに心配しているだろう。そう言えば、足が痛いとか言っていなかったか? 私みたいに悪い連中に絡まれていたらどうしよう?

 「とにかく、君が無事でよかった。誘拐でもされたかと気が気でなかった。さあ、家まで送ろう。十分、羽を伸ばしたんだ。もう気が済んだだろう?」

 いつもは優しいレウールが、今夜はひどく冷たく感じられた。実際、彼は不機嫌だった。無理もない、ほぼ半日の間、彼女を探して歩き回ったのだ。どうしても今夜、彼女に話したいことがあった。ところが、ユリカはレウールのそんな切迫した思いなど知りもしないで、乳母と連れだって街へ出かけていたのだ。

 「どうした? また迷子にでもなるつもりか?」

 先に歩き出していたレウールは、なかなか追いついてこないユリカの方を振り返った。ユリカはリアのことが心配なのと、酔っ払いに絡まれた時の恐しさと、また思ってもみなかったレウールの刺々しい態度にすっかり参ってしまい、とうとう泣き出してしまった。

 「泣くことはないだろう、ユリカ」

 そうは言ったものの、レウールは明らかに後悔していた。泣かすつもりはなかったのだ。困ったように口を一文字にしていたが、とうとうユリカの手を取って歩き出した。

 しばらくは沈黙が続いた。しかし、段々とすすり泣きが収まると、レウールは幾分声を和らげて、

 「そんなに行きたかったのか、聖レアンナ祭りに?」

 と、尋ねた。

 「えぇ、そうよ。目の前で見てみたかったの。バルコニーの上から眺めるのじゃなくて」

 ユリカは答えた。

 「ほんの少しだけ見たら、すぐ帰るつもりだったのよ。だから、誰にも言わずに出かけたの。あぁ、きっと今頃、お母様がかんかんに怒っていらっしゃるんでしょうね」

 「そうだろうね。君の母上は躾に厳しい人だろうから」

 「あぁ、今回はどんな罰を受けるのかしら。朝から晩まで祈祷室に閉じ込められて、聖句を一万回も唱えなければならないなんてことにならなければいいけれど!」

 ユリカはそう言って身震いした。レウールはその光景を想像し、思わず頬を緩めた。

 「大丈夫、恐らくジェムールが止めてくれるだろう。君は兄上にとても可愛いがられているし、彼は君の母上のお気に入りだからね。何なら、私が君を誘い出したと言えばいい。そうすれば、君は何のお咎めを受けずに済む」

 「レウール、あなたって優しいのね」

 ユリカは感謝を込めた眼差しで、レウールの顔を見上げた。

 「気持ちは有り難いわ。だけど、いいのよ。お母様は簡単に誤魔化される人ではないもの。それに、リアがお母様に嘘をつけるとは思えないし」

 ようやくレウールがいつもの彼に戻ったのを感じて、ユリカは親しげに腕を組んだ。

 「ねぇ、レウール。覚えていて? 私が初めて王宮へ行った日のこと。あの時、私はまだ五歳だったわ」

 「もちろんだ。よく覚えている」

 十年前のことだ。ちょうどレウールの母が亡くなって一年経ち、父が愛妾だったエリノアを正式に後妻として迎えた。ユリカの母セシリアはエリノアの姉であったから、それが縁で一家は王宮をちょくちょく訪れるようになった。

 レウールは新しい王妃と異母弟に馴染めなかった。いつも独りで過ごすことが多かったのだが、ある日王宮内で迷子になったユリカと出くわし、それがきっかけで親しくなった。その関係は十年経った今も変わらない。ユリカはレウールにとってーーー母が生きている頃から仕えてくれているドネを除けばーーーこの世で唯一心を許せる人であった。

 「初めて会った時から、あなたは親切だったわ」

 ユリカもまた同じことを考えているようだった。

 「王宮で迷子になって泣いてた私を、色々な話をして慰めてくれたわね。それから、とっても美味しいお菓子を持ってきてくれたんだわ。あぁ、あのお菓子の美味しかったことと言ったら! 私、今でもよく思い出すのよ」

 ユリカはくすくすと笑った。そんな彼女を眩しいものでも見るような目で、レウールは盗み見る。この三歳年下の幼馴染みは、いつだって彼の心を落ち着かなくさせる。言動も何もかも深窓のお嬢様からはほど遠いが、誰もがこの少女を愛さずにはいられなかった。厳格なマーティオン王でさえ、この天真爛漫な姪をまるで我が娘のように可愛いがっている。

 欺瞞に満ちた宮廷で、彼女のような存在は他にない。いつしかレウールは彼女のことをただの幼馴染みとしては見なくなっていた。いずれマーティオンの王となる身である以上、結婚には慎重にならざる得ないが、それでも妻にしたいと望む人はユリカ以外に考えられなかった。

 「ねぇ、見て。花火よ」

 ユリカが腕を組んだまま、声を上げた。仮面のせいで顔は見えないが、それでも彼女が目を輝かせている様をはっきりと思い浮かべることができた。

 「ユリカ。君はーーー私のことをどう思っている?」

 「え?」

 ユリカは顔を夜空に向けたまま、振り返りもせずに返事した。

 「あなたがどうかして?」

 「君が私のことをどう思っているか、それが知りたい」

 「どうって・・・そうね」

 そうして、ようやくレウールの方を向いた。

 「私はあなたのことは大好きよ。小さい頃から私たち、仲良しだったじゃないの」

 「そういう意味ではない。私のことを夫として見れるかどうかということだ」

 ユリカははっと息を飲んだ。

 「まぁ、レウールーーー」

 「君ももう十五だ。縁談が持ち上がるのも、それほど遠い将来の話でもあるまい。あと一年もすれば、求婚者が君のことを前で列を為すだろう。そうなる前に」

 レウールはユリカを振り向かせて、その顔から祝祭用の仮面を外した。

 「私が最初の求婚者になろう。私の妻になってほしい、ユリカ。ずっと君だけを想い続けてきたのだ、子ども頃から」

 突然のレウールの告白に、どうしてよいやら分からずしとろもどろになるユリカだった。
 
 「あの・・・だけど、そういったことは大人たちが決めることなんでしょう? お父様とかお母様とか、それから陛下だとかがーーー」

 「君の両親の意見を聞いているのではない。君の気持ちが知りたいのだ。聞かせてくれ、君は妻として私を愛せるか?」

 レウールは右手を伸ばし、そっとユリカのほおに触れた。しかし、レウールがその口から返事を聞くことはなかった。何故なら、次の瞬間、

 「ユリカ!」

 と、彼女の名を呼ぶ声がすぐ間近で聞こえたからだ。

 ユリカはどこかほっとしたような心地で、声のした方を振り返った。

 「ルーク!」

 駆けつけてきたのは、レウールより少しだけ小柄な若者だった。柔らかな栗色の巻き毛に覆われた顔は、まだ少年と言ってよいほど初々しい。だが、実際はユリカより二歳年長で、線の細そうな見た目よりもずっと逞しい体つきをしている。色黒い瞳を悪戯っ子のように輝かせ、いつもと変わらぬ朗らかさで彼女の前に立ち、

 「こんな所で何していたんだ? 皆、大騒ぎで探していたんだよ。君を見失ったってリアが泣きながら帰ってきて、それでーーー」

 その時、初めて気付いたように、ルーク・パトリウスはレウールを見た。

 「あ・・・兄上? 兄上が一緒だったのですか?」

 ルークはたちまち困ったような顔をした。二人が微妙な関係であるのは、マーティオンの人間なら誰でも知っていることだ。王の愛妾の子に過ぎなかった異母弟のことをレウールがよく思っていないのは明らかで、ルークもそんな兄に遠慮してなるべく距離をとっていた。ユリカは困ったことになったと思ったが、この場が険悪にならずに済むようにとすぐさま口を挟み、

 「違うの。レウールは迷子になった私を見つけてくれたの。帰り道が分からないから、一緒に帰るところだったの。ごめんなさい、心配かけて悪かったわ。もう二度とこんなことはしない、絶対に。約束するわ

 「本当に?」

 そう言いつつも、ルークの視線はまっすぐレウールに向けられていた。未だ疑わしげな表情のまま、ルークはユリカに手を差しのべる。ユリカは何のこだわりもなくその手を取った。

 「帰ろう、ユリカ。皆が待っている」

 歩き出す前に、ユリカはレウールに声をかけた。

 「あなたは一緒に来ないの、レウール?」

 レウールの視線もまた、ユリカではなくルークに向けられている。

 「いや、私はその辺を歩いてから帰る」

 それだけ言って、彼は背を向けた。

 気まずい空気が流れた。だが、それを振り払うようにーーーあるいは、一瞬でも早くユリカをレウールから引き離したいと言わんばかりにーーールークはぎゅっとユリカの手を握りしめた。

 「さぁ、行こう、ユリカ」
 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 
 

 
 


 

祭りの夜 (2)

 いつも明るいルーク・パトリウスが、難しい顔つきで前を向いていた。彼のこんな顔も珍しい。子どもの頃からよく知る彼は、いつもユリカとふざけ合い、げらげら笑っているようなそんな人でだったから。

 「ルーク! ねぇ、ルークったら! そんなに早く歩かないでよ」

 歩くのに精一杯のユリカは、とうとう音をあげた。

 「待ってちょうだい。どうしたのよ、何をそんなに怒っているの?」

 「怒ってなんかいないよ」

 言葉とは裏腹に、ルークの声は不機嫌そのものだ。

 「捕まえておかないと、すぐまた君は妻として迷子になってしまうからね」

 「悪かったと思っているわ。私、これでも反省しているのよ」

 急にルークが立ち止まる。その為、ユリカは危うく彼の背中に鼻をぶつけそうになった。

 「だったら、約束してくれる?」金輪際、兄上と二人きりでは会わないって」

 ルークの驚くような言葉に、ユリカは目を丸くした。

 「何ですって?」

 「僕たちは婚約したんだよ。まだ公にはしてないけれど、二年後には結婚するんだ。なのに、他の人と親しくするなんて、どう考えたって変だろう?」

 「どうして?」

 ユリカはたちまち抗議の声を上げて、

 「あなたのお兄様じゃないの。つまり、いずれは私の義兄になる訳だわ。それだけじゃない、あなた同様、子どもの頃からの知り合いよ。それを今になって何なの? 何故、そんなことを言うのよ」

 「心配だからさ」

 と、ルークはいかにも彼らしく明快に答えた。

 「君がレウールと一緒にいるところを見てると、不安になるんだよ。何だか、兄上に君を取られそうな気がして。僕は知っているんだ、レウールは君のことが好きなんだよ」

 「まぁ、ルークったら!」

 ユリカは笑い飛ばそうしたが、出来なかった。つい今しがた、レウールに言われた言葉が頭に過る。

 『私の妻になってほしい』

 レウールは確かにそう言った。彼はまだ私がルークと婚約したことを知らないのだ。だが、仮に婚約してなかったとしても、私はレウールの求婚に何と答えただろう? レウールのことは嫌いではない。だけどーーー

 「やっぱり、僕なんかよりもレウールの方が君の夫に相応しいんじゃないかな。兄上はあの通り美男だし、いずれこのマーティオンの王となる人だ。君だって、僕みたいな頼りない男よりも、レウールの方がきっとーーー」

 「馬鹿なことを言わないで」

 ユリカは優しくルークの言葉を遮った。

 「あなたは少しも頼りなくなんかないわよ。それに、とても素敵な黒い目をしているし。私はね、私を見つめる時のあなたの目が好きなのよ。それから、笑った時の顔もね」

 ユリカは両腕を伸ばして、ルークの首に巻きつけた。

 「ねぇ、ルーク。あなたのことが嫌いだったら、いくらお父様に言われたからって、あなたと婚約なんかしかなかったわ」

 ルークは大きく目を見開いた。

 「本当かい?」

 「えぇ、本当よ。あなたとだったら、きっとうまくいくと思うのよ。だって、あなたは妻を自分の所有物であるかのように扱う夫にはならないでしょう? 私はね、自由でいたいのよ。お母様が聞いたら卒倒するかもしれないけど、私は家にとじ込もって刺繍ばかりしている女になりたくないのよ。分かるでしょう?」

 ルークは刺繍に悪戦苦闘しているユリカを想像し、くすりと笑う。

 「そうだろうね」

 「私、旅してみたいわ。色々な土地に行ってみたい、色々な人たちと会ってみたい。それから、珍しい食べ物も食べてみたい。あら、私ったら。こんなこと言ったら、随分な食いしん坊みたいじゃない!」

 と、ユリカはまるで鈴を振るったかのような笑い声をたてた。

 「とにかく、私が言いたいのは、あなたのことが好きだってこと。レウールではなくて、今目の前にいるあなたよ」

 そう言って、ユリカは背伸びをし、ルークの唇にいかにも子どもじみたキスをした。ルークも彼女の腰に手を回し、もっと大人びたキスで返した。ユリカは恥ずかしそうに顔を赤らめた。

 「僕も君が好きだよ、ユリカ」

 ルークはにっこりした。それこそがユリカが一番好きだと言っていた笑顔であった。彼はもう一度軽く彼女の額に口づけて、それから手を握り直した。

 「帰ろう、これ以上遅くならない内に。君の家では、皆が首を長くして君の帰りを待っているだろうから」



 丁度その頃、ユリカの家では彼女の母セシリアが、娘の行方について何か知らせがないかと気を揉んでいたところだった。昼過ぎからユリカの姿が見当たらず、しかも乳母のリアが泣きながら帰ってきてから大分経つ。娘の身に何かあったのではと、さすがのセシリアも青ざめた。事態を知って、夫のカーゴが王宮に残り、息子ジェムールに密かに捜索に当たらせていたが、その息子からも未だ何の連絡もない。

 その時だった。

 「奥様! ユリカ様がお戻りになられました!」

 ずっと窓際に張り付いて、外を見ていたリアの明るい声を聞いた途端、滅多にないことだがセシリアは涙がこぼれそうになった。ユリカにはこれまでにも散々はらはらさせられてきたが、今夜ほど不安ったことはなかった。

 「ルーク・パトリウス様とご一緒のようですわ。あぁ、神様! ユリカ様をお守り下さいまして、心から感謝いたします!」

 ユリカを見つけてくれたのが婚約者であってよかったと、セシリアはほっと胸を撫で下ろす。大急ぎで娘を出迎えに走ると、マント姿のルーク・パトリウスに付き添われたユリカが、ちょうど館の中へと足を踏み入れようとしたところだった。

 「お母様!」

 ユリカは母の顔を見るなり、真っ先に駆けつけてきた。

 「ごめんなさい、黙って出かけたりして。皆に心配させて、本当にごめんなさい!」

 「えぇ、えぇ。あなたの軽はずみな行動はいつものことだけれど」
 
 セシリアは出来るだけ厳しい声を出そうと努めたのだが、まるで成功しなかった。

 「いつになったら分別がつくのでしょうね。少しは自覚なさい。あなたはもう十五歳で、大人の仲間入りしてもよい年なのですよ」 

 と、背後で泣きじゃくっているリアをちらっと見て、

 「それに、いつまでもリアを困らせるのではありません。リアがどんな思いでここまで帰ってきたか、あなたにだって分かるでしょう」

 「えぇ、もちろんですわ。お母様、もう二度とこんなことはしません」

 ユリカは目を真っ赤にして、母親に抱きついた。

 「お願い、許して。これからはちゃんと考えて行動します。思い付きで出かけたりなんてしませんから」

 その時、不意にルークが口を開いた。

 「伯母上、僕からも頼みます。ユリカは深く反省しています。僕に免じて赦してやって下さい」

 セシリアは、びっくりしたようにルークを見た。妹が生んだこの王子を赤ん坊の時から見てきたが、こんな大人びた口をきかれたのは初めてだった。妹に似て、穏和で大人しい感じのする王子だったが、この一年で急に成長したように感じるのはセシリアだけでないかもしれない。

 「王子がそうおっしゃるのでしたらーーーえぇ、そうですね。ユリカが本気で反省して、二度としないと誓うならば、私からはこれ以上何も言うことはありません」

 セシリアがそう答えると、ルークはおどけたようにユリカに向けて目配せした。

 「王宮に残っている伯父上とジェムールには、ユリカが見つかったと僕から伝えておきましょう」

 「そうして下さると有り難いですわ、ルーク王子」 
 
 ルークはもう一度にっこりとユリカに笑いかけ、そのまま立ち去った。ユリカとセシリアは二人きりになったが、ルークとの約束通り、小言を二言三言言われただけで、それ以上叱責されることはなかった。

 「もういいわ。あなたも疲れたでしょう。もう部屋に戻って休みなさい」 

 セシリアが疲れきったように言った。

 「お母様、きっと私のこと呆れてらっしゃるわよね?」

 ユリカが心配そうに言った。セシリアは痛む目頭を押さえながら、

 「えぇ、そうね。昔からあなたには心配させられてばかりですからね。ですけど、それも今夜が最後だと私は信じていますよ」

 ユリカは愛情深い眼差しで母を見上げた。私はいつだってお母様の望むような人間になりたいのにと、その目は語っているようだ。セシリアには分かっていた。ユリカには悪気というものがまるで無い。ただ、好奇心を抑えきれる自制心が足りないだけなのだ。

 ユリカはぎゅっと母親に抱きつき、そして部屋から出ていった。結局、どんなに腹が立っても、いつまでも怒ったままでいられない。ユリカには他人にそうさせる何かがあった。

 『軽はずみなところがあるにしても、あの子は誰からも愛される娘だわ。幸い、陛下もエリノアもあの子のことを気に入っているようだし。ルーク王子もあの様子だと、ユリカの良き夫になってくれそうね』

 娘の後ろ姿を漠然と眺めながら、セシリアはそんなことを考えた。だが、その一方で、得体の知れない不安にかられてもいたのだが。それはユリカとルークの婚約が決まった日に、妹エリノアがふと口にした言葉のせいかもしれない。

 『ガレリオンは王位をルークに継がせたかたがっているの』

 セシリアはまさかと思った。王がレウールよりもルークを可愛がっているのは事実だが、このマーティオンでは王の長子が王位を継ぐことになっている。理由もなくレウールを世継ぎの座から追い落とすのは不可能だ。だが、エリノアはこう続けた。

 『ルークとユリカの結婚は、もちろんユリカのことが可愛いからでもあるのだけれど、カーゴの軍を味方にする理由も含んでいるのよ』

 エリノアは実の姉なら理解してくれると踏んだのだろう、そう正直に打ち明けた。セシリアの夫カーゴ・レントはマーティオンの北部を中心に大きな影響力を持っている。何か事を起こすならば、カーゴを取り込むのが得策なのはよく分かる。だが、しかしーーー

 『ーーーレウール王子』

 あの不幸な王子をこれ以上追い詰めてもよいのだろうか? レウールが時折ユリカに向ける熱っぽい視線に、セシリアはとっくに気付いていた。
皆に煙たがられている彼に、ユリカだけが臆せず親しくしている。そんな彼女に孤独な王子が想いを寄せるのも、決して分からぬ話ではない。最近聞いた話では、テヴァの王女との縁談が持ち上がっているらしいが、どうやらレウールはその縁談を渋っているのだという。

 愛する人を弟に奪われた上に、マーティオンの王座まで奪われたら、あの王子はどうなるのだろう? ただでさえ、自分の母親が死んだのは、エリノアとルーク親子のせいだと思い込んでいる。実際、彼の母の病状が悪化したのは、エリノアがルークを生んだ直後だった。これまでのようにじっと堪え忍ぶのか、それとも嵐を引き起こすのか。レウールを押し退けてルークがマーティオンの王位を継げば、レウールの母親の実家でもあるラーラント王が黙ってはいるまい。

 娘には幸せになって欲しい。ユリカとルークは相思相愛で、どのみちレウールに入り込む余地はない。だが、レウールの冷ややかなグリーンの瞳は、復讐を企む人のそれであった。彼が大人しく引き下がるとはどうしても思えなかった。

 

 部屋にもどったユリカもまた、レウールの言葉を繰り返し思い返していた。死ぬほど心配をかけたリアの頬をキスだらけにした後は、夜着に着替えて、リアの手で長い髪を櫛でとかしつけてもらっているところであった。

 『私の妻になって欲しい』

 返事をする前に別れてしまったけれど、近い内に打ち明けなければなるまい。それを聞けばレウールは落胆するだろうか。それとも、怒りを露にするだろうか?

 「長い一日でございましたね」

 いつなになく黙り込んでいるユリカに、リアが優しく声をかける。

 「ユリカ様がご無事で本当にようございました。あのままお戻りにならなければ、リアは死んで旦那様と奥様にお詫びをせねばなりませんでした」

 「実を言うとね。ルークが私を見付けてくれる前、私、レウールと一緒だったの」

 「まぁ」
  
 リアは動かしていた手を止めた。

 「勘違いしないでね。たまたまだったのよ。私が酔っぱらいに絡まれていたところをレウールが助けてくれたの」

 「ユリカ様! 酔っぱらいに絡まれたんですか?」

 リアが今にも卒倒しそうになったので、ユリカは急いで乳母の腕を掴んだ。

 「そんな顔をしないでよ。ほら、この通り何ともなかったんだから」

 リアは何度も深呼吸を繰り返した。

 「それはいいの。気になるのは、レウールに言われたことよ。私ね、レウールに求婚されたの」

 リアははっとした。

 「まぁ」

 「レウールは私がルークと婚約したことを知らないから、あんなことを言ったんだわ。だけど、本気かしら? レウールが私のことをそんな風に考えていたなんて、思ってもみなかった」

 「たとえ心が石で出来た男であっても、ユリカ様を目の前にしたら、恋せずにはいられませんわ」

 リアが言った。

 「ですが、困ったことになりましたね。ご兄弟二人から想いを寄せられるなんて」

 「私はレウールの気持ちには答えられない。だって、私はルークが好きなんだもの。ルーク以外の人なんて考えられないわ。いくらレウールだって」

 ユリカは深々とため息をついた。

 「だけど、レウールを傷つけるのとになるかと思うと胸が苦しくなるわ。可哀想な人だもの。いつも寂しそうでーーーだから、あの人のこと放っておけないんだわ。ルークと結婚しても、あの人への気持ちは少しも変わらないのに。私にとって、大事な人に変わりないもの」

 「仕方ありませんわ。ユリカ様はお一人ですから。どちらか一人を選ぶしかありません」

 と、リアは慰めるように、

 「ちらと聞いた話ですけれど、レウール様にも縁談のお話があるようですよ。お相手はテヴァの王女様だとか。お話が進めば、ユリカ様のことも諦められますでしょう」

 「そうなの? そのテヴァの王女様が優しい方だといいわね。レウールの孤独な心を理解してくれる方であれば。彼には幸せになって欲しいわ」

 ユリカ様は優しい方だから、レウール様を突き放すことが出来ない。それがかえって相手には残酷なことだということすら気付いていない。レウールがユリカを諦めてくれるかどうか、実のところリアにも分からなかった。ユリカにはああ言ったものの、セシリア同様、レウールのことを恐れていた。それでも、今回ばかりはユリカもレウールを拒絶するしかあるまい。ルークを選んだ以上、レウールの求婚を受け入れる訳にはいかないのだから。

 「近い内に、レウールに返事するわ。テヴァの王女との縁談話があるのだったら、断るにしても早いほうがいいわよね」

 何となくすっきりした様子で、ユリカは言った。

 「どのみち、私はレウールの奥様には向いていないのよ。ほら、私はこんな性格でしょう? レウールが未来のマーティオンの王になるなら、その妻は王妃ってことよ。いつも落ち着きがないって、お母様に叱られているこの私が王妃だなんて、あり得ないわ。レウールもよくよく考えてみたら、私には無理だって思うんじゃないかしら。テヴァの王女様の方がよっぽど相応しいってね」

 『そうでしょうか?』

 リアはそう胸の中で呟いた。だが、賢明にもその疑問を口にすることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 
 

 
 

 

嫉妬

 レウールは呆然として、弟の背中を見送った。今、あれは何と言った?

 『ユリカと婚約した、だと?』

 祭りの夜、ユリカがルークと共に立ち去った後も、レウールは長く街の中をさ迷い続けた。狂宴の名残はあちこちに残っていて、ざわつく胸の内を冷ますには都合がよかった。

 いきなりあんな風に打ち明けられて、さぞかしユリカが驚いただろうと思う。元々、こんなにも早く求婚するつもりはなかったのだが、情況が差し迫っていては仕方がなかった。と言うのも、父がレウールとテヴァの王女の縁談を進める気でいるからだ。

 求婚された時のユリカの表情はどんな風であったか。レウールは必死に思い出そうとしたが、不可能だった。受け入れてくれるのか、それともーーー 差し出されたルークの手を当たり前のように取ったユリカの姿が忘れられない。彼女もまた別の男を選び、私の前から去っていくのだろうか。周りにいる他の者たちと同様に。

 とっくに夜も更けて、レウールはようやく王宮に帰る気になった。今もまだ夜通しの宴が繰り広げられているだろうが、そこにユリカはいなし、まっすぐ自分の部屋へ行こうとそちらに足を向けた。自室へと続く廻廊をぼんやりと歩いていると、大理石の柱の後ろから何やら黒い影が現れて、レウールの前に立ちはだかった。

 「ーーールークか」

 特段、驚きもしなかった。ユリカと一緒にいるのが兄だと知った時のルークの様子を見る限り、遅かれ早かれこういう時が来るのは分かっていた。

 「珍しいな、お前の方から私の部屋に訪ねて来るとは。私に何か用でも?」

 兄弟間で会話することなど、ほとんど皆無なのだが。幼い頃のルークは、よくまとわりついてきたものだが、母親同士の事情を知る年頃になってくると、さすがに寄り付きもしなくなっていた。ユリカとレウールが話していても、ただ遠巻きに眺めているだけだ。そのルークがこうして来たのだから、余程のことだと思われる。

 「兄上」

 ルークがやや緊張した面持ちで話しかけた。

 「あなたに言っておきたいことがある。今後、ユリカには近付かないで頂きたい」

 レウールは片方の眉を持ち上げた。

 「どういう意味だ?」

 「ユリカは、僕の妻になる人です。僕たちは婚約したのです。父上が言い出した話ですが、どのみち僕もユリカに求婚するつもりでした。それに、もちろん彼女も承諾してくれた」

 レウールの緑色の目が、まっすぐルークの黒い目を射た。

 「それで?」

 「僕は知っていますよ。兄上もユリカのことが好きなんですよね? でも、あなただって本当は分かっているはずだ。ユリカがあなたに構わずにいられない理由ーーーそれは愛しているからではなく、同情だということ。ユリカは優しいから、独りぼっちでいるあなたのことが放っておけないのです」

 レウールは拳を握りしめたが、無表情を装った。以前から、この異母弟のことが憎らしくてならなかったが、今ほど弟の首を締めつけてやりたいと思ったことはなかった。

 「ですから、彼女とは義兄としての立場以外、関わらないで頂きたいのです。彼女にあなたの想いを伝えたりして、困らせないで下さい。優しいユリカが心を痛めるだろうから。あなたを傷つけまいとして」

 それだけ言い切ってしまうと、ルークは踵を返して立ち去っていった。後ろに呆然とするレウールを残して。ルークの姿が消えるのと同時に、やけに背の高い男がゆらりとレウールの背後に現れた。

 「気にすることはありませんよ、レウール様」

 マーティオン人らしからぬ容貌の男は、レウールが生まれる前から亡き王妃に仕えていたドネだ。レウールの母がラーラントから嫁いでくる時、一緒についてきたらしいのだが、ドネという名前以外、素性も何も分からない。父王にすら疎まれているレウールにとって、家族と呼べるのはこのラーラント人の男ただ一人であった。レウールは振り返りもせずに言った。

 「ルークの言っていることは本当か? ユリカはルークと婚約したのか? ドネ、お前は知っていたのか?」

 その問いに、ドネは抑揚のない声で答えた。

 「えぇ、知っていました。陛下と王妃がカーゴ夫妻を呼び寄せて、ユリカ様をルーク王子の妃にどうかと話しているのを聞いていましたから」

 「知っていたのなら、何故私に言わなかった?」

 不機嫌そうにレウールは文句を言った。ドネは微かに笑って、

 「あの者たちが何を企んでいようとも、構わぬでしょう。間もなく、ナイジェル王の時代は終わるのですから」

 「ーーー父上のご病気は良くないのか?」

 公には伏せられていたが、マーティオンの王ナイジェルは心臓の病を患っていた。いつ発作が起きるか分からない上、ことによると命取りにもなりかねない。王妃エリノアは、やがて訪れるであろうナイジェル王亡き世に備えて、様々に画策しているようだった。恐らく、ルークとユリカの婚姻も北部を束ねるカーゴ・レントの軍事力を当てにしてのことなのかもしれない。

 「ここ半年、何事もないふりをなさっていますが、実はあまりよろしくないようです。つい十日前にも、大きな発作を起こされたばかりです」

 「そうか」

 ならばエリノアが慌てているのも無理はない。私が王位を継げば、彼女と息子は王宮から追放されるかもしれないのだから。

 「ルークとユリカを結婚させておいて、カーゴの力で私を牽制する気か、あの泥棒女は」

 レウールは吐き捨てるように言った。

 「どうすればよい、ドネ? エリノアに余計な力を持たせたくないのも勿論あるが。何よりルークにユリカを渡したくない」

 「簡単なことです。王妃に準備する暇を与えなければよいのです」

 ドネは事も無げに言った。

 「給仕女を一人買収しています。彼女に薬を渡しておきます。毒だが、すぐには効果は現れない。早くて十日、場合によれば一月、もしくは三月かかるかもしれない。ですが、誰も毒で死んだとは思わない。給仕女もあれは病気に良い効果をもたらす薬だったと信じて疑わないはず」

 単純な下働きの女を手なづけるくらい、ドネにとっては訳ないことだろうとレウールは思う。謎めいたドネの容貌は、貴賤を問わずいつも女たちの熱い視線を集めていたからだ。

 「つまり、王の死期を少しばかり早めるのです。どのみち、あのお体では長くはもたない。ならば、王妃が予想しているより早くこちらが手を打てばよいのです。ユリカ様はーーー」

 と、ドネは少しだけ言葉を切って、

 「情に厚いお方ではあるが、没落した王子につくよりは権力者に従う方が得策だと知ることになるでしょう。仮に、あの方にそこまでの賢さがないにしても、王はあなたです。お好きなようになさればいい」

 後から思い返せば、予言めいた言葉だった。しかし、この頃のレウールは純粋にユリカを愛し、彼女と結婚して幸せな家庭を持ちたいと思っていた。自分には遂に縁のなかった家族というものをユリカが与えてくれるなら、それに勝る幸福はないと。レウールはユリカが彼に見せた言動の一つ一つを思い出す。腕を組んだ時に触れた肌の感触、笑みを含んだ優しい声、仮面を外した時に見せた大きな青灰色の目ーーーあれら全てを自分だけのものに出来るなら、マーティオンの王座などなげうってもよいとレウールは本気で思った。だが、

 『ユリカがあなたに構わずにいられない理由ーーーそれは愛ではなく、同情です』

 ルークの声が頭の中に響く。そうだろうか? ユリカは単なる同情しか私に対して抱いていないのか?そこに愛情は一欠片もないと? そう言えば、ルークが手を差し出した時、ユリカは何の躊躇もなくその手を取って行ってしまったではなかったか。

 父王の命を縮めるというドネの言葉に、全く動揺しない訳ではないが、レウールにとって父もまた母を死に追いやった一人であった。誇り高きラーラントの王女だった妃を蔑ろにした上に愛妾とその息子ばかりを溺愛し、病を得た後ですら顧みなかった。正直、父親への愛情などないも同然で、それに比べればユリカを自分のものにすることの方が今の彼には重大事と言えた。

 『ルークにだけは渡さない、絶対に』

 ルークはああ言っていたが、ユリカは単に親たちが決めた婚約を仕方なく受け入れたのかもしれなかった。結婚は大人たちが決めるものでしょうと、諦めたような口ぶりだった。ユリカが求婚を受け入れてくれれば、時期をーーー父王の死をーーー待っているだけでよい。しかし、もしも拒絶されたら、その時はーーー

 レウールは頭を振った。考えたくもなかった。ルークが信じるように、ユリカ自らルークとの結婚を望んでいるとしたら。弟の傍らで微笑む彼女の姿など見たくない。どんな手を使ってでも、阻止してやる。今でこそ王妃と敬われる立場にあるが、元は王の愛妾に過ぎない女と庶子の弟を、父王の死と共に地の果てまで追い払ってやるのだ。



 祭りの余韻も冷めた頃、レウールはカーゴ・レントの館を訪れた。ルークではなく、第一王子の訪問に館の全員が驚いた。中でも一番驚いたのは、ユリカだったかもしれない。彼女はレウールの求婚に対する返事を手紙に書こうとして、もう何日も頭を捻らせていたところだった。

 セシリアもまたレウールの突然の来訪に、不安を覚えている一人だった。とは言え、王子に対して失礼な真似は出来ず、彼の要望に応じてユリカを呼びにやらせた。レウールはセシリアの許しを得た上で、ユリカを外に誘い出した。ユリカは彼を庭に案内した。

 「回りくどい言い方はせずに、単刀直入に聞くことにする」

 レウールは開口一番にこう言った。

 「予想はついているだろうが、先日の求婚の返事を聞きにきた」

 ユリカは真っ赤になり、建物の方に視線を送った。礼儀に反しないよう、誰一人姿を見せていないが、全員がこちらの様子に注目しているのは確かであった。

 「君は何も答えないまま、去っていったね。聞かせてくれ、君は私のことをどう思っている?」

 逃げるのは止めにしようと決意していたユリカは重い口を開いた。

 「あなたのことは好きよ、レウール。でも、それは幼馴染みとして、それから良き友人としてなの」

 ユリカはレウールに分かってもらいたい一心で、必死に訴えた。

 「私はあなたの妻にはなれない。ごめんなさい、あなたの気持ちは嬉しいけれど、でも駄目なのよ」

 「君の父上にルークと結婚しろと命じられたから?」

 ユリカははっとした。それでは、ルークとの婚約のことがレウールの耳にも入ったのだ。

 「父に言われたせいでないわ。私自身で望んだことよ。私はルークが好きなの。あの人の妻になりたいと心から願っている」

 怖くてレウールの顔が見れなかったが、それでも彼の顔が憤怒で強ばるのだけは感じられた。

 「私がルークと結婚しても、あなたとの関係が変わることはない。私にとって、あなたはいつまでも大切な人よ。むしろ、私がルークと結婚することで兄妹になれる。私たち、これまで以上に近い存在になれるわ」

 『ーーー兄妹』

 妹が欲しいのではない。妻として欲しいのだ。レウールはそう叫びたいのを必死に堪えた。望んでいるのは共に生きる伴侶であり、友人ではない。ましてや、義理の妹などでもない。

 「いずれ、私はマーティオンの王になる。君は王妃にはなりたくないか?」

 「私がそうした立場に向いていないのは、あなただって知っているはずよ」

 ユリカが言った。

 「王に相応しい妃を迎えてちょうだい、レウール。それは私ではないけれど。きっと見付かるわ。あなたを幸せにしてくれる女性が」

 「君なしの人生など考えられない。君以外の女など欲しくもない」

 気が付くと、レウールはユリカの前に膝まづいていた。

 「お願いだ、私の求婚を受け入れてくれ。ルークの妻にはなるな。君まで失ってしまったら、私はどうすればいい?」

 「失うものなんて、何もないのに。私がルークと結婚したからって、私は私よ。何一つ変わることはないのよ」

 いや、それはない。いくらユリカがこれまでのやり方を通そうとしても、ルークとエリノアが許すまい。そして、彼女もまた私でなくルークを選ぶのだ、他の者たち同様に。むき出しの敵意しかない王宮の中で、また独り取り残されてしまう幻をレウールは見たような気がした。唯一の救いであった母がこの世を去り、為すすべもない少年にぶつけられたのは人々の冷笑まじりの声。王に棄てられた王妃の息子、敵対するラーラントの血を引く王子、誰からも忌み嫌われ必要ともされない虫けらめがーーー

 「お願い。立って、レウール、私の前で膝をついたりしないで」

 ユリカは両手を差し伸べ、レウールを立ち上がらせようとした。ところが、彼はユリカの腕を掴んで、間近に引き寄せた。

 「こんなに頼んでも、君の心には届かないのか?」

 目の前にある燃え立つ緑の炎のような視線から逃れるように、ユリカは顔を背ける。

 「えぇ、ごめんなさい。何度言われても、私はあなたの想いには応えられないの」

 突然、レウールはユリカを仰向かせて、その唇に口づけた。あまりに思いがけないことだったので、抗う暇さえなかった。ユリカはもがき、ようやくレウールを押し退けた。驚いたことに、彼は優雅に微笑んでいた。

 「君はきっと後悔するよ」

 レウールの声は、背筋が寒くなるほどに冷ややかであった。

 「私ではなく、弟を選んだことを。君がルークの妻になることはない。この私が許さない。いずれ今日の私のように膝まづき、泣いて情けを乞う日が来るかもしれない。が、その時、君は知るだろう。私が味わった絶望がどのようなものだったかということを」


 

 

 

憂い

 ユリカはぼんやりと窓の方を向いていた。刺繍を手にして座っているものの、相変わらず少しも仕事は進んでいない。

 見かねたリアが、ユリカのやる気を引き出そうと涙ぐましい努力を重ねていたが、一向に成果はなく、刺繍の花はいつまで経っても色づく気配がない。

 「リア、私と代わってくれないかしら。この分では仕上がるまでに一年はかかりそうよ」

 ユリカはもうお手上げだと言わんばかりに、勢いよく椅子から立ち上がった。リアは隣の部屋のセシリアに聞こえやしないかとはらはらしながら、小声で囁いた。

 「まさか。そんなこと出来るはずがございませんわ。私がやったと奥様にすぐにばれてしまいます」

 確かにそうだとユリカは思った。彼女の酷い縫い目は簡単に真似できるものでもない。ため息をつきながら、ユリカは窓辺に近寄った。彼女の重たい気分とは裏腹に、晴れやかな景色が広がっている。

 「近頃、ルーク様はお見えになりませんのね」

 「そうね」

 リアにそう指摘されて思い当たったが、乳母の言う通り、ルークはここしばらく訪れていない。これまでは何かと理由をつけては顔を出し、来れない時にもまめに手紙を寄越す人なのに、その手紙すら受け取っていない。

 「忙しいのではないかしら。陛下の具合が、このところあまり良くないと前に言っていたし」

 ルークの熱意に比べて、ユリカの態度は随分と淡白だとリアは思った。実のところ、ルークとの結婚に乗り気でないのでは、と疑いたくなるほどだ。毎日毎日、不得手な刺繍を母親に強いられては、気が滅入るのも当然だが、どうやら原因はそれだけでもなさそうだった。レウールが訪ねてきた日以来、ユリカはずっとこんな調子だ。にもかかわらず、レウールと何があったのかと尋ねても、絶対に答えようとしない。

 「何かございましたの?」

 心配のあまり、リアはもう何十回も繰り返した同じ問いを口にする。

 「近頃のユリカ様のご様子は変ですわ。以前に比べると別人のようです。食が細くなったし、あまり笑われなくなりました。それに、前のように廊下を走られなくなりましたし」

 ユリカは不思議そうな顔をした。

 「それって、おかしなことなの? 私、お母様のおっしゃる通りに行動しているつもりよ。むしろ、お母様は誉めて下さるわ。近頃の私は随分と落ち着いてきたって」

 そうだろうか。だが、リアは以前の明るいユリカが好きだった。いくら淑やかに振る舞っても、それは本当のユリカではない気がする。肩をすくめたユリカは、また窓の彼方に目をやった。その横顔は深い憂いに満ちている。

 あの庭園の真ん中で、レウールは激しい憎悪を込めてこう言った。

 『君はルークの妻にはなれない。この私が許さない』

 不意に、あの時の口づけを思い出す。まるで火に炙られたように、今もひりひりとした感触が残っている。あれ以来、レウールとは顔を合わせてはいない。もっとも顔を合わせる勇気もないのだが。

 『私はどうすればよかったの?』

 ユリカは答えの出ない問いをひたすら繰り返した。レウールが怒りの原因が彼の求婚をはねつけたことなのか、それともルークと結婚することなのか。未だによく分からない。ただ分かっているのは、彼がユリカを完全に見限ったのだということ。周囲の人々を全て閉め出して、孤立する彼の姿を思い浮かべると、ひどくやるせない気持ちになる。

 「ユリカ様、ルーク・パトリウス王子がお見えになられています」

 久しぶりに訪れたルークは、少し疲れた様子だった。やはり、父王の具合が良くなかったらしい。大きな発作を起こしたが、ようやく落ち着いたと無理な笑顔と共にユリカに伝えた。

 「ごめん、君にも知らせようとしたのだけど、余裕がなくて」

 と、ユリカの左の頬に挨拶がわりのキスをしながら、

 「母上までがすっかり参ってしまってね。だが、もう大丈夫だ」

 「私のことは気にしないでいいのよ。ご両親のことを第一に考えて差し上げて」

 リアが退室し、部屋の中は二人だけになった。ルークはユリカを抱き締めた。

 「ユリカ、君に会いたかった」

 「私もよ、ルーク」

 それから、しばらくの間、ルークの抱擁に身を委ねていた。

 「疲れているのね。顔色がよくないわ」

 「うん。あまり、寝ていなかったんだ。でも、君の顔をどうしても見たくて、馬を跳ばして会いに来た。お陰で疲れが吹き飛んだよ」

 ルークが一息ついたのを見計らって、リアに飲み物を持ってくるよう言いつけた。

 「父上が僕らの結婚を急がせたがっている」

 ルークが言った。

 「父上はどうやらご自分に何かあった時のことを考えておられるようだ。何度も発作を繰り返しているから、少し気が弱くなられているのかもしれないね」

 「そうなの」

 出来れば早い方がいいと、ユリカも考えていたのだった。レウールの言葉がどうしても頭から離れないせいもある。

 『君はルークの妻にはなれない』

 けれども、ルークが続けた言葉にユリカは動揺を隠せなかった。

 「だけど、兄上の婚礼の方が先なんだろうな。ユリカ、レウールはね、テヴァから妃を迎えることになったんだ」

 「え?」

 ユリカはぎょっとした。レウールがーーーテヴァの王女と結婚する?

 「どういう訳だか、急に乗り気になったんだよ。前はあんなに渋っていたのにね。トントン拍子に事が運んでいる。来月にはもう花嫁が到着するらしいよ」

 ルークはユリカが大きく息を飲むのを見逃さなかった。

 「どうしたの? そんなにびっくりした? レウールが結婚するのがショックだったとか?」

 「そんなんじゃない。驚いただけよ」

 レウールに求婚されてから、まだそんなに日が経っていないのに。あまりに急過ぎるとユリカは思う。

 「兄上は君のことが好きだと思っていた。僕たちの邪魔をするのじゃないかって、心配だったんだ。僕の思い違いだったのかな」

 当然、ルークは求婚のことを何も知らない。

 「祭りの夜、レウールに冷たいことを言ってしまった。君に近付くなと。あの時は頭に血が上っていたんだ。君がレウールと一緒にいるのを見た後だったから、僕は妬いていたんだと思う」

 何故こんなにも動揺しているのか、ユリカ自身分からなかった。レウールは私に当てつける為に、テヴァの王女との結婚を決めたのかしら? いや、それだけではない気がした。別の理由が隠されているようなーーー何かもっと恐ろしいことが。

 「大丈夫?」

 ユリカがあまりにずっと黙り込んでいるので、ルークが半ば心配そうに半ば不審そうに彼女の顔をのぞきこんだ。

 「ユリカ、やっぱり君はレウールのことをーーー」

 「違うわよ。私が好きなのはあなたよ、ルーク。レウールではなくてね」

 ユリカはルークをなだめるように、軽くキスをした。

 「テヴァから輿入れされる王女が良い方だといいわね。レウールを支えてくれる優しい方であって欲しい。ねぇ、その王女様ってどういった方なの?」

 ルークの話によると、テヴァの王女はレウールの一歳年長の十九歳だそうだ。テヴァ王の二番目の娘で、肖像画を見る限りでは大変美しい人だという。

 「未来のマーティオンの国王夫妻は、後世にまで名の残る美男美女になるだろうな。だけど、僕は百人の美女よりも君一人の方がいい」

 「何よ、私はそれほど美人じゃないみたいな言い方ね」

 と、ユリカはわざと頬を膨らませて、ルークの腕をつねった。ルークは慌てて付け加える。

 「違うよ、君だって美人だよ。僕の義姉になる人とは別の種類のね。言ってみれば、そうーーー君はすごく可愛いんだ」

 「そう。私も同じよ。あなたはレウールみたいな美男じゃないけれど、やっぱり私はあなたの方がいいものね」



 最初のショックが過ぎてしまうと、少し気が楽になった気がした。当て付けであれ何であれ、結果レウールが幸せになってくれればそれでよい。そう思えるようになった。王の病状が安定し、起き上がれるまでに回復すると、ユリカは度々王宮に招かれるようになった。

 王はユリカの顔を見ると、いつも険しい顔をほころばす。そして、そなたのような娘が欲しかったのだと、毎度のように繰り返した。王妃やルークも加わり、食卓を囲む。だが、そこにレウールの姿はない。

 もう何回も王宮を訪ねたが、一度もレウールに会うことはなかった。食事の席で、度々彼の結婚に触れることはあっても、王と王妃はあまり関心がない様子だ。レウールに会うのは恐ろしい気もするが、会ってお祝いを言いたい気もあった。このまま、ずっとわだかまかりを抱えたままでい続けるのが嫌だったせいもある。

 ようやくレウールとまともに言葉を交わしたのは、それから更に時が経ってのことだった。テヴァの王女の一行が王都カテラに到着する間際であった。王女を歓迎する準備で王宮が慌ただしい中、ユリカもまた祝宴の手伝いにやって来ていたのだ。廻廊の真ん中で、彼らはすれ違った。ユリカはレウールを呼び止めた。

 「レウール、待って」

 声をかけるのは勇気が必要だったが、それでもユリカは彼の前に駆け寄った。

 「ずっとあなたにお祝いを言いたかったの。テヴァの王女様とのご結婚、おめでとうございます」

 唐突に、レウールと交わした口づけを思い出し、ユリカは真っ赤になる。それに対して、レウールはほんのわずかに唇を歪めただけであった。

 「もしかして、私が他の女と結婚すると知ってほっとしているのか?」

 ユリカは目を丸くした。

 「勘違いするな、私は君を諦めた訳ではない」

 「でも、レウール。あなた、テヴァの王女をお妃に迎えるんでしょう?」

 レウールが物憂げに笑う。

 「王が持てる女は、何も妃一人じゃない。エリノアが王妃になる前、何をしていたと思っているんだ?」

 「まさか」

 ユリカの顔色が変わる。

 「私にーーーあなたの愛妾になれと言うんじゃないでしょうね?」

 「私が命じるのではない。君がそうしてくれと私に頼むんだ」

 ユリカは思わず後ずさった。

 「私、そんなこと頼まないわ! だって、私はルークと結婚するのよ!」 

 「前に言ったはずだ、君はルークの妻にはなれないと」

 と、レウールは素早く顔を寄せるなり、ユリカの耳元に囁きかける。

 「今に分かる。私はこの手の中に君が堕ちてくるのを待っている。それも、そう遠い話ではない」

 『どうかしているわ!』

 ユリカはそう叫びそうになるのを危うく堪えた。くるりと踵を返し、足早に立ち去る。間もなく妃を迎えるレウールともめ事を起こしたくはないが、彼が投げつけた言葉は、ユリカにとってあまりに屈辱的であった。

 私が自ら望んでレウールの愛妾になるはずがない。ルークの母親で、伯母でもあるエリノアの生き方を否定するつもりは全くないけれども。だが、少なくともルークの両親はお互いに愛し合っていた。私はレウールのことを友人以上に思えないし、今となってはもはや友人とも思わない。

 「ルーク!」

 ユリカはルークのいそうな場所を探して歩き回った。彼は母エリノア長いこと話し込んでおり、ようやく終わってちょうど廊下に出てきたところだった。

 「な、何? どうかした?」

 ユリカがまっしぐらに駆けてきて、首に飛びついてきたので、ルークは驚いた。

 「すぐに式を挙げましょうよ。何なら、今からでもいい。婚礼衣装も祝婚歌もお祝いの品も、何も要らないから。とにかく、私たち結婚しましょう」

 「待ってくれよ、ユリカ。さっぱり意味が分からないんだけど」

 ルークは困ったように、

 「今すぐなんて、どう考えたって無理だよ。レウールの婚礼の方が先に決まったんだから。どんなに急いでも、兄上たちのが終わってからでなくてはーーー」

 「じゃあ、レウールたちと一緒ってのはどう? それなら文句ないでしょう?」

 「ユリカ」

 と、ルークは両手でユリカの顔を挟み込んだ。

 「どうしたの? 何があった?」

 理由は言えない。第一、レウールが何か企んでかも確かでない。ただ単にユリカを脅して、面白がっているだけかもしれないのだ。だが、この言い知れぬ不安は何なのだろう? まるで呪縛のように、あの言葉がまとわりついて離れない。

 『君はルークの妻にはなれない』
 
 「ーーー何でもない」

 結局、こう呟くしかなかった。ルークが優しく抱き締めてくれたので、少しだけ気持ちを落ち着かせることが出来たが。

 「怖がることないよ」

 ルークがユリカの髪を撫でながら言う。

 「僕がいる。何があろうと僕はいつだって君の側にいる。だから、そんなに慌てなくてもいいんだよ。僕たちはすぐに一緒になれる、あとほんの少し待つだけだ」

 「ーーーそうね」

 心に忍び寄る不安をユリカは必死に振り払うおうとした。今、目の前にある幸せだけを見よう。そう決意して、ルークの肩に顔を埋める。しかし、その不安は現実のものとなるのだった。運命の歯車が回りだしたのは、レウールの婚礼のすぐ後のことであった。
 

 
 

 

 

不穏

 ルークの言った通りだ。テヴァの王女はとっても綺麗な方だわ、とユリカは本人を前にして思った。テヴァはマーティオンの南方にある王国である。小国ながら歴史あるテヴァの姫を妃に迎えるのは名誉なことであるが、それ以上に何代にも渡ってマーティオンを支配下に治めようと狙うラーラントを牽制する意味合いの方が強いかもしれない。いずれにしろ、テヴァからやって来た王女アルフィーネは浅黒い肌に真っ黒な髪、魅惑的な黒い瞳をした美女であった。

 『確かに・・・私にはこの色気は皆無よね』

 女のユリカから見ても惚れ惚れするような肉感的な体から、急いで視線を逸らす。

 『レウールもこんな奥様が隣にいたら、私のことなんてどうでもよくなってしまうんじゃないかしら?』

 到着したばかりのアルフィーネを歓迎する身内だけの宴に、ユリカも家族と共に招待されていた。ユリカはルークの婚約者として、彼女に紹介された。

 「可愛らしい方ね」

 南国の美女は艶然と微笑んだ。

 「もうすぐ私たち、義理の姉妹になる訳ね。どうぞよろしく。お友達になって下さいね」

 やや訛りはあるが、滑らかな話し方であった。ユリカはぼうっとしてしまった。ルークに肘でつつかれなければ、このままいつまでも見とれているところだ。

 「あなたのこと、怒ったりして悪かったわ、ルーク。あの人に比べれば、私なんかその辺の石ころも同然よね」

 少し離れた所から並び立つ花婿と花嫁を眺めながら、ユリカがため息まじりに呟いた。ルークはたちまち吹き出して、

 「何を言ってるんだい? 君は石ころなんかじゃないよ」

 「どう見たって、同じ人間だとは思えないわ」

 と、ユリカは思わず自分の体に目をやり、

 「あの人のを見たら、私なんかーーー干上がった池にしか見えない」

 ルークは声をたてて笑った。

 「気にすることないさ。人には好き好きがある。僕はああいうタイプは苦手だな。緊張して、何も言えなくなりそうだ。でも」

 と、レウールの方を指し示して、

 「兄上は苦手ではなさそうだね。結構、楽しそうに話している。意外な気もするけれど、あの二人は結構お似合いかもしれないよ」

 「そうーーーそうね」

 ルークに指摘されるまでもなく、レウールとアルフィーネはもう仲睦まじい様子を見せている。レウールが家族の前であんな顔を見せるのは初めてだ。ユリカは何だか妙な気分だった。いつも彼がああして話しかける相手は、私だけだったのに。別に妬いてる訳じゃないけど、とユリカは強く否定する。レウールの幸せを誰よりも願っていたのだ。これが政治的な要素を含む婚姻であっても、二人がお互いを気に入り、愛し合うようになるならそれに越したことはない。

 『この調子なら、私を愛妾にする理由なんてないわよね』

 まだ引っかかっている。レウールはどういうつもりであんなことを言ったのか? 王は既にルークとユリカの婚礼の日取りを九十日後と定めている。王が決めたことが覆ることは滅多にない、よほどのことがない限り。振られた腹いせに、嫌がらせめいたことを口にしただけなのだろうか。ユ私が狼狽するのを楽しんでいただけかもしれない。



 マーティオンの王太子の婚礼は華やかに、そしてつつがなく執り行われた。日頃、レウールに冷ややかな人々も、この時ばかりは王子と美貌の花嫁を祝福した。

 「次はあなた方の番ね」

 アルフィーネが夫婦の寝室へ向かうため祝宴の席を立った時、ユリカに向かってこうこっそり囁いた。ユリカは恥ずかしげに、頬を赤らめる。どう返してよいやら戸惑う彼女に、花嫁はからかうような笑みを投げ掛け、そして広間を後にした。



 誰もが王子夫妻が上手くいっているものと信じて疑いもしなかった。実際、二人が並んで庭園を歩く姿が何度も目撃されたし、アルフィーネが艶やかに笑いながらレウールと話し込んでいるのをユリカも一度ならず見かけたものだ。にもかかわらず、日が経つにつれてアルフィーネの顔に暗い影が宿るようになった。ある時、ユリカはアルフィーネに呼び止められた。

 「あなたとレウールはどんなご関係だったの?」

 異国の人らしく随分とまっすぐな質問だった。

 「どんな関係って・・・私とレウールは友人同士ですわ」

 ユリカはどきりとしながらも、辛うじて平静を保ち続ける。

 「何故、そんなことをお聞きになるの?」

 「ある者から聞きましたのよ。レウールはあなたに恋していたと。本当はあなたとの結婚を望んでいたのに、陛下は弟王子にあなたをお与えになられたのですって?」

 「それは単なる噂ですわ、アルフィーネ様」

 疑い深げな目でじっと見つめられ、ユリカはますます動揺してしまう。

 「宮廷には、根も葉もないことを面白おかしく言いふらす者が少なからずいるのです。どうか本気になさらないで。レウールは私のことを何とも思っていませんし、私だって友情以上のものはあの人に抱いていません」

 「そうかしら」

 アルフィーネの黒い目が鋭く光る。

 「レウールがあなたを見る時の目つき。あれは、きっとーーー」

 しかし、それ以上の言葉を聞くことはなかった。アルフィーネは歩み去ったが、ユリカには不気味な後味だけが残った。しかも不穏な出来事は更に続く。



 それは、ユリカとルークの婚礼まであと二十日ばかりに迫った時のこと。相変わらず苦手な刺繍と格闘していたユリカは、突然母に呼ばれた。

 「陛下がお倒れになったのよ」

 セシリアの難しい顔つきを見る限り、かなり厳しい状態のようだ。ガレリオン王は一時期小康状態を保っていたのだが、ここしばらく何度も小さな発作を繰り返していた。昨晩、とうとう大きな発作を引き起こし、今は意識がないという。

 「王宮に詰めているカーゴから報せが届いたわ。覚悟していた方がよいかもしれないと」

 「覚悟・・・って、まさか陛下がーーー」

 それ以上のことは言えなかった。ルークが今頃どんな思いでいるのかと思うと、胸が苦しくてならない。レウールもまた父の為に祈っているのだろうか? 不仲ではあったが、ただ一人の父親に違いないのだ。陛下がもう一人の王子にも愛情をかけていれば、レウールもあんなに苦しむことはなかっただろう。前の王妃との間に何があったとしても、それはレウールの責任ではないのだ。

 「陛下の為に祈りましょう、ユリカ」

 二人は館の祈祷室へ行き、病床のガレリオン王の為に一晩祈りを捧げた。しかし、その祈りが神に聞き入れられることはなかった。夜明けと共にカーゴ・レントが寄越した使者は、王が亡くなったとセシリア伝えた。

 その報せを聞いて、二人は抱き合って涙した。それから程なく、エリノアを手伝う為にセシリアは王宮へ向かい、ユリカは一人館に残った。伯父であり、ルークの父でもあるガレリオンの死は辛く悲しいものであった。が、同時に、あの忌まわしい言葉を目の前に突きつけられたような気がした。

 『君はルークの妻にはなれない』

 王の逝去により、当然のことながら婚礼は延期となる。その後一年の間、喪に服さねばならない。喪が明けた一年後、王となったレウールがすんなり二人を結婚させてくれるのどうか疑わしいが、今は何より世を去った王を悼む時だと、ユリカは祈祷室の中で頭を垂れた。

 

 王亡き後に初めて訪れた王宮で、ユリカが目にしたのは取り乱すエリノアと気丈に母を支えるルークの姿だった。ルークは憔悴しきっていたものの、ユリカを見つけるとエリノアを侍女に任せて近付いてきた。

 「こんなことになるなんて。何て言ってよいか分からないわ」

 ユリカはルークに腕を回し、引き寄せた彼の髪にキスをして慰めた。

 「うん。父上がこんなに早く逝ってしまうとは思わなかったよ」

 ルークがぽつりと言う。

 「陛下はお優しい方だったわ。私のことをそれはとても可愛がって下さって」

 「君のことを本当の娘のように思っていたんだよ。僕らの婚礼を本当に楽しみにしていた」

 王の葬儀に備えて、多くの人々が目まぐるしく立ち回っている。しかし、どこを見渡してみても、レウールの姿はどこにもなかった。

 「レウールはどうしているの?」

 「兄上は戴冠式の準備があるからね」

 ルークの口ぶりはひどく素っ気ない。

 「レウールは最後まで一言も父上に声をかけようとしなかった」

 王の死と共に、マーティオンの王冠はレウールに受け継がれる。王太子なのだから、当たり前のことなのに、奇妙に違和感を覚えるのは何故だろう? 二人はしばらく無言であった。が、何かを決意したようにルークが口を開いた。

 「ユリカ、話がある。こっちへ来て」

 誰も見ていないことを確認し、ルークは人気のない部屋にユリカの手を引いて忍び込んだ。

 「話って何なの?」

 ルークは警戒しているのか、すぐに話そうとはしなかった。

 「これはあくまでも推測でしかない。だけど、もし真実だとしたら」

 まだルークは躊躇っていた。ユリカはそっと彼を促して、

 「どうしたの? ルーク、言ってよ。何なの?」

 「レウールは、僕の兄でないかもしれない」

 「え?」

 ユリカはたちまち眉をひそめた。ルークの言っている意味がうまく飲み込めない。

 「つまり、そのうーーーレウールが父上の子でないかもしれないということだ」

 「そんなことってーーー」

 あるのだろうか。これまでそうした噂ひとつ聞かなかった。言われてみれば、亡き王とレウールにあまり似たところがないと思わないでもない。だが、それだけで断定するのはいくら何でも無理がある。

 「仮に父上の子ならば、一般の赤子よりもよほど長期間、母親の胎内にいたことになる。言い換えれば、前の王妃がレウールをお腹に宿した時、父上はカテラにいなかったんだ」

 「ーーーー」

 「父上はずっと疑っておられたよ。だけど、追及する以前に、王妃は病のせいで亡くなってしまった。疑惑は晴れないまま、長くうやむやになっていた。だからと言って、証拠もなしにレウールを王太子の座から下ろすことも出来なかった。王妃の実家ラーラントがレウールの背後に控えていたからね」

 ルークは声をひそめた。

 「ところが、最近になって、当時の事情を詳しく知る者が見つかったんだ。王妃の侍医だった男だ。その男は王妃から堕胎の相談を受けたていたと白状した。身の危険を感じて、国外に逃亡していたんだが、レウールが王妃の不義の子だと証言すると約束した。後はもうカテラに呼び寄せるばかりだったんだ。それなのに、父上がこのようなことになってしまった」

 レウールが王の子ではない? 王妃の不義の子? ユリカにはとても信じ難い話であった。

 「嘘でしょう? 何かの間違いではなくて?」

 「僕だって、嘘であって欲しいと思うよ」

 ルークは頭を抱えた。

 「だけど、もし事実だとしたら? マーティオンは偽りの王を戴くことになるんだよ」

 「それじゃあ、あなたが王位を継ぐの?」

 ユリカは急に恐ろしくなり、身を震わせた。

 「マーティオンの王冠を巡って、兄と弟が争うの? そんなの駄目よ。そんなことになったら、マーティオンは真っ二つに分かれてしまうわ、僕が王になるしかない」
 
 ルークの表情は、未だかつて見たことがないほどに険しかった。

 「レウールが剣を取るなら、僕も迷わず剣を取る」

 このマーティオンで戦が始まる。そんな恐ろしいことは想像もしていなかった。しかも、ユリカの父カーゴ・レントは、兄ジェムールを領地のあるフェントへ密かに送り出し、軍を動かす準備をさせているそうだ。

 「ジェムールが北部の軍を引き連れてくれば、レウールの戴冠を阻止できる。ラーラントが介入してくるかもしれないが、国境にいるフランディル公が何とか抑えてくれると思う」

 フランディル公とは、母セシリアと王妃エリノアの義兄に当たる人である。それでは、私とルークの結婚の話の裏ではそんな計画が進んでいたのだ。ユリカはがく然とする。

 「私はどうすればいいの? 何をしたらいいの?」

 「君が何かをする必要はないよ」

 ようやく、ルークは固い表情を崩し、ユリカの左の頬を撫でた。

 「僕らの計画が上手くいくよう、神に祈っていてくれたらそれでいい。だが、僕がマーティオンの王になったら、君は王妃になる訳だけど、それでも構わないよね?」

 上手くいけば。では、上手くいかなければどうなるのかしら。ユリカは思った。王妃エリノアとルークは処罰されることになる。関わった父カーゴ・レントも兄ジェムールも、それから母方の伯父フランディル公も。レウールは実はこの計画に勘づいているのかもしれない。私にあんなことを言ったのは、何もかも知った上でのことだったのではーーー

 「ルーク、気を付けた方がいい。レウールは気付いているかもしれない」

 「僕たちは慎重に事を運んでいるんだ。レウールに気付かれているとは思えないな」

 それでも、芽生えた疑いはユリカを恐怖に陥らせた。

 「いけない、今すぐ止めさせて。兵を動かしては駄目。あなた、殺されてしまうわ」

 「大丈夫だよ。君は何も心配することはないんだ。悪かったよ、ユリカ。こんな話を君に聞かせるんじゃなかった」

 「駄目よ、ルーク。駄目だってば!」

 なおもユリカは叫んだが、ルークには彼女がただ怖がっている程度にしか思われていないのは確かだった。ルークはそんな彼女をただ穏やかになだめ、再び王の葬儀の準備に取りかかりに行ってしまった。が、ユリカは長いことその場から動けなかった。

 『ルーク、お願い。兵を引き返させて。レウールを甘く見てはいけない。あの人は恐ろしい人よ』

 もはや、どうすることも出来ないのは分かっている。ユリカは自分の無力さを呪うしかなかった。 

 そしてーーー
 彼女の運命が大きく変わるのは、ガレリオン王の葬儀が終わってからのことだった。
 

 
 



 

 
 

 

変転

 亡きガレリオン王の葬儀は、王都カテラの中央に位置する大聖堂で行われた。

 しかし、王妃エリノアが夫の死の悲しみに浸る時間はそれほど与えられなかった。彼女と王子ルーク・パトリウスは突然、拘束されたーーー戴冠したばかりの王レウール・パヴェルへの反逆の罪の理由で。

 ユリカの不安は的中したのだった。エリノアらの動きは、全てレウールに読まれていた。北部フェントで兵の指揮していたユリカの兄ジェムールが捕らわれたという報せが届いた。続いて、父カーゴ・レントや伯父フランディル公らエリノアに与した者たち全てが、一網打尽にされた。

反逆者の娘

反逆者の娘

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更新日
登録日 2020-05-22

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