青いバケツ
ある日、王国に城下町で評判のドレス職人から献上物があった。
人々は献上されたものをみるやいなや、それを口々に褒めた。
「なんて綺麗なドレスでしょう」
「こんなに細やかな花模様を私は見たことがない。」
「まるで白鳥のようですね」
それらを聞いて、王は満面の笑みで満足そうに職人に声をかけた。
「大変素晴らしいドレスだ。それに皆がこれほど褒めるのを私は聞いたことがない。このドレスは世界一のドレスに違いない。」
王は王妃にドレスをプレゼントした。そしてある日、王妃が来ていた純白のドレスに泥が跳ね、一か所だけ黒いシミができてしまった。
「汚れたものをすぐに取り返なさい。」
王妃の指示ですぐにドレスの汚点は切り取られ、切れっぱしは掃除婦の手に渡り、雑巾にされた。
意外なことに世界一のドレスだった雑巾は優秀だった。
白鳥のような白さは黒い汚れを一つも残さずふき取り、細やかな花模様はどんな小さなほこりも逃さなかった。
だがドレスだった雑巾の気持ちは大変惨めなものだった。
「私はこの間まで世界一のドレスだったのよ。世界一の!みんなの注目を集めて、褒められて、羨ましがられて、愛されていたわ!それがど
うして雑巾なの?どうして私がこんなに汚れなくちゃいけないの……」
雑巾は叫びたかった。
しかしそれを言ってしまうともっと惨めになり、自分を嫌いになり、それこそ何もかもどうでも良くなってしまうと雑巾は思った。
だから雑巾はバケツの中で泣いた。
涙はバケツの水に溶けて消え、目に見えず誰に触られることも無く、また泣声が響くことも無かった。
雑巾は誰にも悲しみに気づかれていないと思っていた。
しかし気付いたものはいた。
掃除の時に雑巾を濡らす青いバケツだ。
バケツの中の水がいつもしょっぱかった。だから掃除の時に雑巾が声を出さずに泣いていることにすぐに気付いた。
バケツはこの涙をいじらしく、そしていとおしく思った。
何か雑巾にしてあげられる事はないか、真剣に考えた。
一日が過ぎ、二日が経ち、数日が流れた。
バケツは結局何も思いつかなかった。自分の不甲斐無さに涙すら出てきた。
「神様、どうか彼女を元の綺麗なドレスに戻してあげられないでしょうか?」
泣きながら神に願い、そして祈った。願いが届くことはなかった。
「それが駄目ならせめて僕を魔法のバケツにしてもらえないでしょうか。毎日少しずつ汚れていく彼女を見るのがつらいのです。せめて元の真っ白な姿にしてあげたいのです。」
彼は魔法のバケツにはならなかった。ただの青いバケツである以外には何物にもなれなかった。
さらに数日が過ぎ、数週間が経ち、数カ月が流れた。
ドレスだった雑巾は見るも無残に擦り切れ、花模様だった表面はあちこちほつれ、真っ白だった色は灰色になっていた。
「これはそろそろ換え時ね」
掃除婦は雑巾を見てつぶやいた。
「お別れみたいね」
雑巾はバケツに静かに話しかけた。
「……」
バケツは何も言わなかった。とても声を返せなかった。
「最後にあなたに話したいことがあるの、聞いてもらえるかしら。」
バケツは耳を澄ませた。
「突然みんなに注目されたり、褒められたり、羨ましがられたり、愛されたりしなくなったのはつらかった。」
雑巾はそこで少し声を明るくして続けた。
「けど掃除をして生きるのは悪くなかったの。ドレスだった時はただ愛されてばかりだったわ。だけど雑巾になってからはお皿を拭いたり、机を磨いたり、相手を愛することができたと思うの。」
バケツの水面が揺れて波紋が生まれた。そしてそれが消える程の時間が経った。彼女が言葉を選ぶのには十分な時間だった。
「こんな風に思えるのもあなたのおかげね。とても……とても感謝しているの。」
掃除婦が新しい雑巾を準備してあるいてくる音が響いた。
「もう時間がないみたい。ずっとありがとう、さようなら!」
最後はとびきり明るい声だった。
彼女が最後にまた声を出さずに泣いているのが、彼にはわかった。
出会った時と同じ涙の味を感じていたからだ。
残されたものは悔しさと寂しさを噛みしめていた。
バケツの水は独りでに溢れ出し、一筋、二筋と水がこぼれていた。
青いバケツ