田中老穣太

 『傘』

 その男子のいる五年生の教室は、小学校の一番南側に建つ校舎の一階にあった。そして窓の方からすぐ先に運動場が見えるという位置になっていた。
 曇っていて薄暗い放課後、明かりの点いていないそこの窓際で、男子が今にも崩れてしまいそうな空をぼんやりと眺めていると、とうとう雨が降り出し始めた。その日、彼は何も雨具を持って来ていなかった。だが二人っきりで最後まで教室に残っていた日直当番の女子の方は、ちゃんと折り畳み傘の柄をランドセルの横から覗かせていた。それを予め見て知っていた彼は、既に学級日誌を書き終えて帰り支度を始めた彼女に向かって、
 「一緒に入れて帰って」
と気安い感じで頼んでみた。すると普段とても人に親切な筈の彼女が何故か、
 「何で?あんたと家の方向全然違うじゃない!」
といきなり突っ慳貪に、少し怒った様な口調で撥ね付けた。そして教室の鍵を教卓の上にガチャッと乱暴に置くと、そのまま引き戸を開けてさっさと出て行ってしまった。

 そうして薄闇の中に一人取り残された男子は、暫く待っていればもしかすると小降りになるかもしれない、等と気楽に考えて、相変わらず窓の外を眺め続けていた。しかし雨脚の方は益々強く、夕闇も又暗くなる一方だった。 それで流石に彼も途方に暮れたが、その時、ついさっき教室から出て行った筈の女子が、いつの間にか窓から中を覗いているのと目が合った。
 屋根の無い所を通って来たのか、何個かの雨粒を頭の上に乗っけている彼女は、
「…あんたん家、学校からすごく遠かったの思い出したから…」
と言って窓越しに、まだ開いていない儘の自分の傘を、柄の側が前向きになる様にして差し出して来た。
 無論、男子は遠慮して断ろうと、咄嗟に掌で押し留めようとした。するとその気配を察した彼女の方が、先にそれを窓際の床の上に無理矢理投げ落としてしまった。そして立っていた軒下から外側へ、急にパッと飛び出したかと思うと、降り頻る雨に向かって一目散に駆け出し始めた。
 水色掛かった薄闇の中を全速力で走って行くその影は、既に大きな水溜まりが幾つも出来ている運動場の真ん中を真っ直ぐに突っ切って、そこから先の彼方へ 瞬く間に消えていった。
 
 去って行く女子の後ろ姿を最後まで見送った男子は、彼女が投げ落としていった傘を足元から拾い上げた。彼が留め金を外して開いてみると、如何にも少女らしいピンク色の縁飾りの付いた八角形の中の可愛いキャラクター模様が、目の前一杯に広がった。
 もしかすると女子は自分でも子供っぽいと分かっている自分の傘で、相合い傘をしてクラスの男子児童と一緒に帰るのがとても恥ずかしかったのかも知れない、だから最初機嫌が悪かったのか、と彼は思った。そして、それでもすぐに思い直して引き返し、一本しかない物を貸してくれたその律儀な優しさを考えると、今、正に薄闇の中をずぶ濡れになりながら走って帰っている最中の彼女に対し、何気なく声を掛けただけの自分が、一人濡れずに帰れるというのが何か申し訳無い様な気がした。 

 しかしその後、実際に女子の傘を差して外を歩き始めると、彼女にこれを返しに行く時も含めてこれから先、こちらの方も相当恥ずかしい思いをしなければならないという事に気付いたので、男子は少し複雑な気分にもなっていた。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-05-20

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