「空蝉」「ペットボトル」「二人乗り」

神岡志帆

「空蝉」「ペットボトル」「二人乗り」

お題箱( https://odaibako.net/u/KamiokaShiho )から頂いた三題掌編小説です。

透明な炭酸のペットボトルをあけると、小気味いい音が一人暮らしの部屋に小さく響いた。
マイナス5度という売り文句のその炭酸ジュースは、本当にマイナス5度に冷やされているのかは知らないけれど、外の暑さですっかりぬるくなっていた。
今日も真夏日だ。汗を拭きながら、私はエアコンのリモコンを拾い上げる。
スイッチを押すと、前の住人が置いて行った年代物のエアコンがゆっくり起動し始める。エアコンから冷風が出ているのを実感できるまでは、このぬるい炭酸ジュースで涼を感じるしかない。
私はこの炭酸ジュースを、絶対に外では飲まない。
わざわざスーパー前の自販機で買って家に持って帰るくらい好きなのに。
炭酸の甘い匂い。なにで構成されているのか分からない、甘ったるい匂い……。


「なあ、うつせみって知ってる?」
「うつせみぃ?」

私は2人乗りの前で自転車を漕いでいる彼の背中に向かって問い返した。
私は頭がいい方ではない。確か今日の古典の授業で聞いたような。確か、漢字は……そう、空蝉。

「空っぽのセミ?」
「バーカ」

彼は肩を揺らして笑った。
彼は前を向いたまま、私を乗せた自転車を走らせる。

「空蝉って言ったら、源氏物語だろ」

ふーん、という私の返事は、風にかき消される。
届いたのか届かないのか、彼は話を続ける。

「光源氏が俺たちくらいの歳の夏、好きな女がいたんだ。それで会いに行ったら、女は薄衣一枚を脱ぎ捨てて逃げていた、って話」
「なんで逃げたの?」
「身分が釣り合わないって思ったんだ。聡明な女性だから」
「身分ねー」

胸の奥がチリ、とする。
高校時代最後の夏。
賢い彼は、どこの大学に行くのだろう。
彼にはなんでも話せるつもりだったが、それだけは聞けないでいた。

「なあ、喉乾かね?」

彼は自販機の前で自転車を止めた。
赤い自販機に並んだペットボトルの中から、透明な炭酸ジュースを選ぶ。
私も自転車を降りて財布を出しかけたが、先に彼が私の分まで小銭を入れてしまった。

「ほれ」
「ごちそうさま」

彼が自販機から取り出してくれた炭酸ジュースを、ありがたくいただく。
甘い匂いの炭酸が、鼻先で弾けた。

「俺、大学でそういう研究したいんだよね」

唐突に……否、話の流れ上に乗っていたのかもしれないが、彼はそう言った。

「俺は東京の大学に行くよ。なあ、お前は?」

甘ったるい匂いが、急に強まったような感じがした。
クラクラする。私の成績では、地元の女子大がせいぜいだ。東京なんて、絶対行かせてもらえない。

「そか……頑張ってね」
「ん、どした?」
「なんでもない」

私はゴクゴクとジュースを飲み下した。
喉とお腹が張って気持ち悪い。
ゲップでもしなきゃおさまりそうにない。でも彼の前じゃ絶対そんなことできない。

「じゃあね!」

私は自分の家の方へ走った。
もう絶対、あの炭酸ジュースは外では飲めない……。


私は、エアコンが効いてきた部屋の中で、ペットボトルを資源ゴミのゴミ箱に入れた。
カラン、という軽い音は、私にとって空蝉の音だった。

「空蝉」「ペットボトル」「二人乗り」

お読み頂きありがとうございました。
既読くらいの気持ちでツイート・シェアして下さると嬉しいです。

また、お題も募集しています。お題箱( https://odaibako.net/u/KamiokaShiho )よりどうぞ。

「空蝉」「ペットボトル」「二人乗り」

私はもう、あの透明な炭酸ジュースを外で飲むことはない。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-05-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted