ブタ

良いと負け

  龍は雲を従えて 兎 禅國
 一章 龍源 
 元和の末、沂州(ぎしゅう)張文敬は、長安の校書郎であった。その伝奇に富んだ半生は甚だ珍しく、語り伝える値打ちがあるものだから、河南の監察御史(かんさつぎょし)元毅之がここに物語を作る。
 碧天を透くう朝陽(ちょうゆう)は、鮮やかに漠野を輝かせている。馬は、男の荒い疾呼(しっこ)と叩きつける鞭に漠野を駆けた。馬蹄は戛戛(かつかつ)と地面を響かせている。後塵を拝した若者は、遅れじと駑馬(どば)に鞭を打ちかけた。
「父さん止まってくれ!危ない!」
 父と呼ばれた男は、いんうんを散らして嬉戯(きぎ)としている。上気する馬を片手で操り、腰から太刀を抜いた。
「お見事!」
 野犬の首は、断ち切れて草莱(そうらい)に飛び落ちた。
「見たか文敬!」
 馬上の武人は、吠えた。風貌は、壮観の風情を漂わせ、烱々(けいけい)として眼光鋭く、侠骨(きょうこつ)であろう性格がよくわかる。文敬は、父の勇侠な性格に心底惚れていた。もっとも、文敬と真逆の父は、良くも悪くも彼の模範にする所であった。
「この犬、頼むぞ」
 慶之は、犬を文敬の駄馬に担がせた。馬は樊して騒いだ。文敬は、噛まれ、投げ出され、蹴られと散々な道程だったため馬が機嫌を損ねないかと苦慮することとなった。
 白雲は、汴州(べんしゅう)の漠野に影を落とし、ゆっくりと流されている。彼方遠くには、小高い山稜が影の様に薄く見えている。
 陽光は目を射る様に強く、炎暑に汗を掻く。馬上からは、叢生(そうせい)涼風(りょうふう)を伝せて白んでいるのが見て取れた。文敬の顔を苦々しく苦痛に悶えていた。そもそも、駄馬の荷鞍(にぐら)を跨いでいる文敬の背骨は悲鳴を上げているのだ。文敬は、もとより馬は不得手であったし、何より海州までは舟で行くものと思っていた。
 六里程、歩かせていると馬は(くつは)を引いて、疲労を訴え始めた。主人よりも早く音を上げた馬には、根性が無いのだろう。
「ここからは降りて馬を引く、良いな」。
 嘶きに気づいたのか父が言う。
 春眠門を潜ったのは、一月も前の事である。蒲州船戸は大凡(おおよそ)(せい)が悪く、折り合いが付かなかった。時分悪しくも、草木生い茂り、(わだち)も残らず埋もれてしまった。
 馬の鼻先に紐をつけて、馬子がやる様に引っ張った。下草は、この季節に萌えて腰程が延々と広がっていた。その為馬が転ばないように石で積荷の均衡を調整しなくてはならなかった。草を掻き分け進むと、肌を切り、蟲蛇多く、害多く思はれた。時より草が低く生えた円状の淵叢に出た。禽獣の寝ぐらであったが、章章(しょうしょう)と差して神仙の住処の如くも感じられた。
 山巓まで来ると、眼前の漠野に白い溝が現れた。溝の幅は八杖だろうか、弱水蓬莱(じゃくすいほうらい)に注ぐが如く大地を切って延びている。
「見えるか、足で来るのもいいもだろ。なに砂まみれの長安もこれには勝てんさ。」
 憲之は、無骨に言う。眼を細くして、河原を眺めている。 岸に出るや河原は深く落ち込み崖の如く隔っていた。川淵に立つと、一層河原の雄大さがうかがえた。横目に、七、八羽の鳥が藪から音を立てて飛び立った。
 慶之は果敢にも馬に乗ったまま、もう一頭の手綱を引いて、見事に垂直に駆け降りて見せた。
 河原に着くと、水は(ほとん)ど流れていない事に気がついた。河の真ん中を八尺ばかりの水流があるだけである。そんなだだ広い河川には、所々に広い水たまりがあった。
 真上から日が赫赫(かくかく)と照りつけて、熱暑に拍車を駆けている。文敬は、川縁を背にして力を抜いて、熱い溜息を吐き出した。
「やっと、休めるよ」
 文敬の顔色は、疲労の色を見せていた。上都では、色白で容姿美しく、綺麗な絹の片で包むと(さなが)ら美女のようだと特に平康坊では専らの噂だった。屋敷には花檐に酒檐が後押して送られてきたものであった。然し、今となっては黒く焼けて少壮の美しさを携えているようである。憲之は、火種を持って飯の用意を始めた。用意と言っても、犬をそのまま火に()べるだけという簡素なものである。毛は焼き消えて、良い匂いがしてくる。
「まだ焼けぬ、水を汲んできてくれるか」
 文敬は、手直な流木と一斗もあろう瓢箪(ひょうたん)を担いで水流に歩いた。せせらぎは日に反射して輝いている。水流は緑色で明るく美しかった。魚が泳いでいるのが分かる。その速い魚を目で追う。その時だ、目端に対岸の草叢から何か黒い生き物が飛び出してきた。
「何だ!」
 対岸から飛び出した、生き物は次々と水溜まりに飛び込んでいく。水に落ち込む音は此方まで聞こえた。水溜りまでは、随分の距離がある。文敬は、急な事に竦竦(しょうしょう)として色を失った。見ると、素っ裸の小童達であった。
「四…五六七…八人だ。」
 彼らは、血色良く、盛んに笑いあっている。少年特有の笑い声が、こちらまで聴こえてくる。彼らは、此方を一向ににきずいていない様子であった。文敬は、少童達の盛んな様子に童心が帰ってきたようであった。文敬は、瓢箪に水を入れて父のもとに走った。
「向こうに人がいたよ。水溜りで少童達が戯れている。」
「近くに、村があるのやも知れるな。まあ良いは、ほれもう焼けるぞ」
 水の中で泳いでいた一人の少童がき気づいた。顔を、両手で(ぬぐ)って対岸の崖下を見る。
「おい、許溢(きょいつ)見ろよ」
 少童の一人が一番の年長者である溢に知らせる。溢は年の頃なら十三ぐらいで有ろう、浅黒く健剛な少年である。水溜りに遊んでいた、少童達は、何処の人か、胥吏(せんり)か、隠者かと一層騒がしくなるのである。 少童達は、まちまちであったが八から十一位の齢であろう。皆、痩せていたが堅固で溌剌としている。
「何しているんだ、行ってみないか。」
「何言ってるだよ、侠客だったらどうするんだよ」
 許溢以外の子供達は、皆んな怪しんで行きたがらなかったが溢のみその好奇心に抗えなかった。
「何か、焼いてるみたいだし有り付けるかもしれないだろ」
 溢は、からむしの着物を草叢から肩に打ちかけた。少童達も、溢に押されて駆け始めた。中には、着物を持たずに走り出すものさえいた。皆、水流を横切る頃には、貨物(かぶつ)でも見つけたが如く崖下に駆け寄って来る。
「文敬、小僧共が嗅ぎつけて来おったぞ。」
 父は、存外面白がっている様である。
「良い機会ですよ、良い考えがあります」文敬は、小さく耳打ちをした。
 溢は、駆け寄って文敬らの前まで来た。後からぞろぞろと少童達が集まってくる。
「おっちゃん、何しにきたの」
 幼い声で、溌剌としていた。後ろでは、興味深かそうに馬や碧玉(へきぎょく)などを珍しそうに見ている。
「小僧いいか、俺はな、果毅尉に補されて上都より海州に行くのよ。」
 
「上都士なの!」
 馬や碧玉に目を奪われていた少童達は、一瞬にして憲之に釘ずけになった。
「おうよ 上都は当に繁華だぞ、唯々繁華だ、其の程を言うなれば地上にある事を忘れるが如く。高楼は天を貫き、鳥は下を飛ぶ。六街の車馬は轔々(りんりん)として駆け回る。見事なものだぞ!」
 大唐の長安は、関中の地にある。昔時(せきじ)より王化を放ち、城闕(じょうけつ)は九重となる。城邑の威光は、天下の王者を知らしめる。憲之は、壮語を(ろう)した。少童達は、見たこともない上都をの城邑を空想した。彼らの、上都への空想は勇躍した。
「凄いや、凄いや、」
 少童達の感嘆は、数え切れぬ質問となってあれやこれやと憲之を説いたてた。
「待て待て、お主ら食うか。此方も質問があるのだ。」
 熾火(おきび)(あば)かれた、犬の痩躯(そうく)が顕になっいる。憲之は、大儀そうに積み上げた荷に座って少童達を相手取る。
「良いのかい、ありがとう。そんで質問ってのはなんだ。」
「小僧、何処から来た。近くに村落でもあるのか。」
 少童達は、犬を灰から引きずり出した。齧り付く姿は粗野極まりないものであった。食べながら溢は答える。
「何処って…遠く遠く向こうだよ。半日掛けて此処まで来たんだ。」
「半日か、と言うと二十里ほどだな。」
「俺たち、人気の無い辺りを訪ね、洞窟を探し、珍しい世界を探してるんだ。そしたら、この川を見つけたんだ。」
 年少の好奇心程、人を無謀にさせるものは無いであろう。文敬は、蟲蛇禽獣の害なる所を十分に知っていた。だから、彼らが怪我の一つも無しに叢生の中を駆け進んで来れたのが不思議でならなかった。 

 少童達は犬の足を在らぬ方向に曲げて、ねじ切ろうと必死である。
「良し、小僧。村まで案内(あない)せい。飯も食ったのだから荷も担げ。良いな!」
 憲之は、泰然(たいぜん)として半ば脅しのようであった。溢は、食ったばかりに嫌とは言えなかった。憲之に対する敬慕の情もあり、別段断る事もなかった。
「上手くいきましたでしょ。」
 微笑みながら、父にいった。
 
 陽光は時折、陰りを見せ始めた。対岸からは、冷涼な風が吹き始め、叢生全体が風に(うごめ)いている。
「涼しい…危ない」 
「そうだな、立つぞ。」
 文敬は、少童達に荷を背中に括り付けるよう命令した。文敬の物腰は胥吏らしく人を使うのは慣れている様子である。
「行くぞ、怪我するな。」 
 文敬達は、少童達に引かれて歩き始めた。水流は、光輝(こうき)を失って水嵩(みずかさ)が増していた。溢に馬を引かせて、川を渡った。川淵を駆け上がると。獣道(けものみち)の様な、道が叢生を(つらぬ)いていた。
「此処の道から来たんだ。」
 むやみに生い茂った草木に、力ずくで通した様な貧弱な道であった。しかも、進むと道は無く、それでも進むと道が出て来ると言う悪路であった。少童達は裸足だったが、私達の為に先に歩いて道を作ってくれた。彼らの豪脚さには憲之も驚くほどである。もう、案内が無ければ戻る事も出来ぬ所まで来ていたが、進んだ訳でななかった。たった十一里進むだけで夜が来てしまったのだ。悪路を外れて、山稜の頂上で一夜を明かす事にした。時しも、小雨が降り始めた。次第に小雨は土砂降りの雨になった。着物は大粒の雫を垂らしている。少童達は固まって、雨に耐えていた。漠野は水に浸かって行く。
 澄明(ちょうめい)な大空に、輝きは戻る。陽光は、水浸しになった漠野を照らした。息を呑む美しさである。昼頃に水が引いた、万緑地は事事物物(じじぶつぶつ)として(すさ)んでいた。立ち隔っていた草叢は倒れて漠漠としている。馬がなくとも良好な視野を確保できた。だが見えるのは流木、泥と気が滅入るものばかりであった。それに加えて、病む程の臭気には耐えかねるもので進み出したものの引き返したくなるほどである。
「あとどれ程の距離なのか?獣道とて何処にもない。」
「向こうの林の中にあります。」
 溢は、見えぬ程ではないが、遠く黒い林を指差した。
「まだまだ遠くか、着くのは明日になりそうですね。」
 二里ばかり進むと、泥濘みに迂回しなければならなかった。その様な場所は、決まって死骸が多かった。あの嵐を、どう生き抜いたか蟲は酷く(たか)っている。文敬は、(むご)いものだと決まって思うのであった。度々と、迂回を余儀なくされて時が経つ。憲之の背中は斜陽に赤く燃えている。小高い丘を見つけて、一夜を明かした。昨日よりは、地面は乾き歩きやすかった。もう、泥濘みに出会う事も無くなっている。
「この林だよ!やっと着いた。」
「本当にこのなかに村邑があるのか。」
 林には、入り口が無かった。森閑(しんかん)として人煙(じんえん)は立っていない。
「人家があるとは思えんな。」
 溢達は、喜々として入っていった。文敬達も後に続いた。林のなかは涼しく、木漏れ日に揺れている。苔を伝う水滴は、揺れる光に輝いている。林は、柱の如く垂直に伸び、枝先は(うつばり)の如く橋掛けている。さながら回廊の様である。
 回廊を抜け切ると瓦葺きの巨大な屋根が突然現れた。瓦は金属的か輝きを放って美術的である。崩れ落ちた塀は散乱している。
「こちらです。」
 道は三尺程の大きな石で敷き詰められている。道には、銅で創られた灯籠が等間隔に御堂まで続いている。雪文細工を施された灯篭一つとっても、過去の栄華が透けて見えるようである。
「ここはなんだ。」
 憲之の問いを答える事なく、溢達は散りながら基壇に這い上がって行った。
「あの小僧、揶揄(からか)っておるのか。しかし、この様な場所があるとは。」
 文敬達は、溢らを追いかけて廃堂に入って行く。天井は落ちて、金色の棟柱に屋根の(うつばり)が顕になっている。風が屋根に吹き付けると軋みながら砂が(こぼ)れ落ちてきた。
「何処におるのだ、何処だ。文敬も探してくれ」
 屋敷の荒廃(こうはい)甚だ凄まじかったが、装飾には引き込まれてるものがあった。麒麟、鳳凰、龍或いは象や猿、虎が、ふしぎな樹木や花に混じっている。窓辺からは、日差しと共に庭の草木が入り込んでいる。
 文敬は、ある部屋で足が止まった。人の歩いた痕跡がるのだ。
「父さん、来てくれ。」
 その部屋は、瓦礫にまみれている。しかし北の壁のみ綺麗に整頓されている。北の壁には、何処とも知れぬ山紫水明(さんしすいめい)の美しい画が描いてある。
「何と…」
 文敬達は言葉をうしなった。重畳(じゅうじょう)の山岳に雲は棚引き、流水が落ちて行く。見る程に、景色は変えて動いている。滝壺の飛沫(しぶき)は、霞を為して壁画を抜けだした。魅入る文敬達は、いつしか壁のなかに入り込んで行った。

 

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  • 小説
  • 短編
  • 冒険
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-05-18

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